11 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:37:02.32
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://2chb.net/r/history/1524279954/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 21 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:38:02.54
◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
31 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:38:38.45
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
41 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:39:03.65
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
51 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:39:28.84
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
61 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:39:52.09
◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
71 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:40:13.89
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
81 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:41:00.55
◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
91 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:41:20.09
◆6−3
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
101 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:41:46.71
◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
111 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:42:07.96
◆7−2
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
121 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:42:31.73
◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
131 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:43:19.57
141 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:43:41.71
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、桜井茶臼山、黒塚、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山
151 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:44:02.67
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
161 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:44:22.64
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。
171 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:44:47.81
◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々は倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向は洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。東冶の「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことも、角を矯める愚を犯すに等しい。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
181 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:45:15.45
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
191 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:45:47.36
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
201 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:46:36.16
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
211 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:47:09.13
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。
221 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:47:36.26
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
231 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:48:00.25
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
241 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:48:28.29
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
25畿内説Q&A2018/04/25(水) 00:48:57.45
Q: 畿内邪馬台国は何処にあったか?
A: スレ主>>1の心に存在している。 261 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:48:57.67
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
271 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:49:34.94
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
281 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:49:58.08
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 295ch”管理”人2018/04/25(水) 00:50:21.53
スレ主>>1様
新スレはオカルト板に立てて下さい。。。 301 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:50:35.07
◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等
311 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:50:59.41
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。
321 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:51:32.69
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
33卑弥呼の末裔2018/04/25(水) 00:51:34.84
341 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:51:56.87
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。
351 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:52:31.58
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。
361 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:52:55.80
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
371 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:53:20.11
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
381 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:54:05.84
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
39スレ主の母です2018/04/25(水) 00:54:21.74
>>1
ハロワに行ってと何度も言ってるのに。
母は泣いてます。 401 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:54:30.11
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
411 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:54:58.37
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
42日本@名無史さん2018/04/25(水) 00:55:16.66
431 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:55:18.72
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
441 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:55:38.90
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
451 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:56:04.94
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
461 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:56:28.75
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。 471 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:57:00.03
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
48日本@名無史さん2018/04/25(水) 00:57:00.93
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://2chb.net/r/history/1524279954/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 491 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:57:24.24
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
501 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:57:44.95
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
51日本@名無史さん2018/04/25(水) 00:57:52.83
↓ここには邪馬台国はナイ
521 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:58:15.50
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
531 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:58:34.93
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
541 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:58:59.73
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
551 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:59:24.83
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
561 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 00:59:43.81
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
571 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 01:00:04.22
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
581 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 01:00:28.39
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
59日本@名無史さん2018/04/25(水) 01:00:49.42
終了
601 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 01:00:49.86
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
611 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 01:01:08.58
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
621 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 01:01:34.07
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定
631 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 01:01:55.68
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 641 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 01:02:15.83
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
651 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 01:02:42.94
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
661 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 01:03:09.26
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上)
671 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 01:03:29.36
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣がある。「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。
ここで交州〜交趾の約5,000里が現代の航路で900kmであるから(「靖尋循渚岸五千餘里」許靖伝 )往時航路の紆曲と心理的負担感及び苦難の誇張を加味した倍率として認識しつつ、この比率を上記に乗ずると、7,200里が得られる。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
681 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 01:04:20.10
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
691 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 01:05:03.11
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
701 ◆UiepmfCeDJqf 2018/04/25(水) 01:05:33.16
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】なし
71日本@名無史さん2018/04/25(水) 01:05:53.82
終了
72日本@名無史さん2018/04/25(水) 01:07:25.33
近畿は元々縄文系勢力も渡来人系勢力も仲良く暮らしていた。
温暖で河内湖の水資源も豊かで稲作も盛んになり、豊かな地域に発展したんだろう。日本書紀でいう食国、芦原中津國。
スサノオが豊かな田に嫉妬して度々荒らしにきたとあるだろう。近畿周辺の東海や山陰の勢力が嫉妬したんだな。
そして征伐に来る。
倭国大乱、近畿征伐、記紀でいう神武東征だよ。
結果できたのが、山陰と東海の勢力を中心とした大和朝廷だよ。
近畿は大和朝廷の最初の討伐ターゲットだったんだな。
大和朝廷は4世紀前後四道将軍で関東東北を征伐する。
大和朝廷に虐げられていた元々の近畿の勢力、関東の先住民が手を結び、神功皇后応神を旗頭にして大和朝廷の旧勢力に叛旗を翻すんだよ。
藤原氏の守り神が関東の人々であるように、近畿と関東は同盟関係だったんだな。
73日本@名無史さん2018/04/25(水) 01:07:26.31
つまり邪馬台国は畿内になかったということ?
74日本@名無史さん2018/04/25(水) 01:08:13.70
畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。
纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。
記紀にもヤマト征伐によって大和朝廷が始まる様子が記述されている。
次に考古学的に大きな変化があるのは4世紀後半。
神功皇后応神に該当する時代。
記紀や各地の伝承。
忍熊皇子、飛騨の顔が二つ頭が一つの怪物を討つエピソードがあったり、出雲の生馬の神がもう荒ぶらないと宣言したり。
神功皇后が三韓征伐の往路復路で、八雷神に似た頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話があったり。
纒向遺跡の外来系土器の中心、東海(飛騨の怪物)、山陰(出雲の生馬の神、牛荒神の木)、吉備(塵輪鬼)が討たれるエピソードばかり。
全て牛というキーワードが共通する。
同時代の若草山山頂古墳。かつては牛塚と呼ばれていた。牛頭天王と何か関係あるのかもしれない。
75日本@名無史さん2018/04/25(水) 01:09:13.36
魏志倭人伝
邪馬台国の官
官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。
伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。
邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。
出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。
出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。
ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。
邪馬台国の官の筆頭
伊支馬。これがどういう勢力か解明できれば、邪馬台国卑弥呼に近付ける気がする。
伊支馬、生駒、生馬、伊熊、猪熊、生目などの地名が、ヤマト、出雲、三河、遠賀川、宮崎に見られる。
何か関係あるのか?
76日本@名無史さん2018/04/25(水) 01:10:59.17
夜の食国を治めたのは月読なんだなぁ。
狗奴国の卑弥弓呼じゃないのかな。
77日本@名無史さん2018/04/25(水) 01:11:58.88
弥生時代、古代の難波はどういう場所だったのか?
下の長唄は、なにわの地が芦原中津國や食国と認識されていたのが分かる。
それを前提に記紀を読み直すと面白い。
聖武天皇の難波行幸に従駕した笠朝臣金村(かさのあそみかなむら)の詠んだ一首
押(お)し照(て)る 難波の国は 葦垣(あしかき)の
古(ふ)りにし郷(さと)と 人皆の
思(おも)ひ息(やす)みて つれも無く ありし間(あひだ)に積麻(うみを)なす
長柄(ながら)の宮に 真木柱(まきばしら) 太高(ふとたか)敷きて 食国(をすくに)を 治めたまへば 沖つ鳥
味経(あぢふ)の原に もののふの 八十伴(やそとも)の緒(を)は 廬(いほり)して 都(みやこ)なしたり 旅にはあれども
78日本@名無史さん2018/04/25(水) 01:14:40.56
月読はサルタヒコと同一かもね。
サルタヒコに初めて出会うのが天の八衢。
方違。
堺に方違神社がある。かなり古い神社。仁徳まで遡るか。
79日本@名無史さん2018/04/25(水) 01:16:30.54
猿田彦で注目すべきは最初に出会った場所。
天の八衢。
道が幾つにも別れる処、方違。
面白いことに上町台地と泉北丘陵の間に方違神社がある。なにわ、和泉、河内、淡の境。
その近傍にイシズ川。
猿田彦が溺れたとされるのが、阿邪訶の海。
方違神社のすぐ北がアサカ、浅香。
浅香の北がオサカ、大阪。
浅香の南、泉北丘陵にコサカ、小坂。
伊勢と同じものが揃っているんだな。
凄い偶然。
更にサルタヒコはヒラブカイに挟まれて亡くなるとある。
泉北丘陵、イシズ川を遡った地に平井と深井という弥生時代から立地が変わっていない集落がある。
平井と深井の間が弥生時代の鈴の宮遺跡。
サルタヒコは最後はこの辺りに逃れていて、殺されたんだろう。
80日本@名無史さん2018/04/25(水) 01:23:54.45
かつてなにわの大坂城の地にあった生國魂神社。
神武東征の際に生島神と足島神を鎮魂したという謂れが残っている。
畿内征伐の際に真っ先になにわは制圧されたんだろう。
魏志倭人伝当時は既に、邪馬台国卑弥呼、大和朝廷に支配されていたと思われる。
卑弥呼と対立する狗奴国卑弥弓呼。
魏志倭人伝当時の邪馬台国の南の狗奴国は、河内と和泉だろう。
狗奴国の官、狗古智卑狗は河内彦。
武埴安彦の祖父、河内青玉繋だろうな。
81日本@名無史さん2018/04/25(水) 01:59:38.10
六拾弐病
六拾弐病(ろくじゅうにびょう)とは、定年退職後の老年期に見られる、
周囲を見下した言動や、自惚れに満ちた妄想を連呼する様などをさす語。
自らを客観視することができず、盲目的に自身を絶対化する、というのがその典型的例。
現役時には社会に適合してゆくために相対化させざるを得なかった自己が、
定年によって自らをとりまく環境が急激に変化することで相対化のバランスを失い、
自分が特別な存在であって欲しいとする願望が顕在化することで発症する。
簡単に言えば、「俺様偉い病」である。
その思考の基礎となる知識は、遠い昔に聞きかじった程度の浅いものや、
定年で生じた余暇によって取得した程度の中途半端なものであるため、
罹患者の主張は往々にして突飛な妄想でしかなく、周囲に受け入れられることはない。
しかし、本人は自身の思考は特別に優れているものだと盲信しているため、
受け入れられない原因を周囲のせいであると主張し、攻撃性を高めつつ、負のスパイラルへと堕ちていく。
このため、「六拾弐病」は陰謀史観との相性が非常によい。
なお、「六拾弐病」の名は、定年後数年を経て症状が顕在化することから名付けられたものであり、
もちろん全ての罹患者が62歳で発症するものではない。
似た症状を呈するため、「六拾二病」は「老年性中二病」と称されることもあるが、
思春期に自身を特別な存在だと仮想する「中二病」が、
確立されていない自己とそれを取り巻く社会の拡大とに折り合いを付けられず、
自己を疑似的に絶対化することで周囲との相対化の波から逃避しようという、
いわば自己防衛的な理由によって発症し、
ほとんどの場合本人の成長とともに症状が改善されるのに対し、
「六拾弐病」は、罹患者が生来持つ傲慢さがその根底にあるため、
一度発症してしまうと、死ぬか、惚けて思考能力が失われるかしない限り、
症状が改善されることはないとされる点は対照的であるといえる。
82日本@名無史さん2018/04/25(水) 02:01:06.52
全1病
全1病(ぜんいちびょう)とは、邪馬台国畿内説スレに出没する九州説論者のみが発症する、心の病。
畿内説側の書き込み全てが>>1◆UiepmfCeDJqによる物であると信じ込む、一種の強迫観念である。
学問の世界ではすでに追い詰められている、という事実を認めたくない九州説論者が、
畿内説に多くの賛同者などいるわけがないのだ、と自分自身を騙そうとすることで発症する。
>>1◆UiepmfCeDJqが自演によって多数派を装っているのだ、と言う発想は、
実は、自身が自演を頻繁に行っているという事実の裏返しにほかならない。
現時点では治療法は発見されておらず、一度発症すると死ぬまで治ることはない。 83日本@名無史さん2018/04/25(水) 02:01:44.48
ザラコク
邪馬台国関連スレに出没する非常識異常行動者のひとり
呼称は、Yahoo掲示坂で使用していたハンネ「zarakoku」から
古田武彦と彼が提唱した九州王朝説を盲目的に信仰しており、その信心の深さは、
世間的には偽書として決着している『東日流外三郡誌』を未だに真書であると主張するほど
自らを「素人おじん」と称することもあり、一見、自身を客観視できているかのようであるが、
その書き込み内容は、自分の信奉する説以外はすべて間違いだと決めつけてかかる、六拾弐病患者特有のもの
素人が専門家をこき下ろすという行為に疑問を感じなくなっているほど思考が硬直化している
「全レスバカ」と呼ばれることがあるほど片っ端からレスを付けまくるが、
ほとんどが他人の会話への横レスかつ超遅レスであり、周囲と会話が成立することはまずない
レスを付けることが目的化している節があり、その内容は、
他人の発言を長々と全文引用したあげく、賛成!とか間違いだ!とか数文字書き足すという程度のもの、
自分の都合のいいように語句を入れ替えただけのオウム返しのものなど、無意味なものばかりである
投稿数だけは圧倒的で、コピペ連投並みにスレを荒らす結果となっているが、本人に自覚はない
社用のPCで勤務時間中に5ちゃん投稿に血道を上げる問題経営者である
自分に不都合な情報を自分に都合が良いように勝手に脳内変換していることが多いが、
ソースを提示されても、自身の記憶や理解の方が正しいと主張する、傲慢な思考の持ち主
常駐していたYahoo掲示板を倫理規定に触れて出禁になったらしく、最近5ちゃんに居付いてしまった
「生きる独善」との形容がぴったりな75歳
84日本@名無史さん2018/04/25(水) 02:02:29.40
キウス
邪馬台国関連スレに出没する真性の基地外であり、病的なウソつき。
「希薄」を読むことができず、「箕臼(キウス)」と誤変換し続けたことから「キウス」と呼ばれるように。
自演爺、四棟粘着爺、指さし厨とも。
ウソの書き込みや自演、成り済ましを平然と行い、畿内説スレの>>1を騙り偽スレを立てること数度。
>>1のトリと同じ英数字を名前欄に書き込んで成り済まそうとしたこともある、最低のクズである。
「全1病」罹患者にして典型的「62病」発症者。
「自論」、「私見」、「勉強してください」、「学がない」、「貴君」、「しかり」など特徴的な言い回しの多用、
5ちゃんでは一般的ではない「スレ主」頻発、名前欄への書き込み多用などの特徴ですぐに判別できる。
1◆UiepmfCeDJqfを奥村と呼ぶ、寺澤薫氏・同志社大学・纒向学研究センターをディスる、
草を生やす際に半角で1文字目大文字、?を連続させる、といった特徴もある。
キウスの書き込みを褒めたり、礼を言ったり、「ワロタ」と応じたりする書き込みは、すべて自演である。
他人を騙す行為も自分ならばすべて許されると信じている節のある、傲慢の塊である。
日本語の読み書きが満足にできないこと、日本史や日本の地理に関する基礎知識がないことなどから、
日本の義務教育を受けていないどころか日本国内に居住していないのではないかと推測されている。 85日本@名無史さん2018/04/25(水) 02:03:07.50
岡上
邪馬台国関連スレに出没する狂人のひとり
考古学界では全く賛同者がいない説を「考古学的に確定している」と主張し、ありもしない大規模調査をでっち上げ、
学界の多数派である邪馬台国畿内説を破綻したと主張する、ゴッドハンドも真っ青の捏造常習犯である
自分は正しく、これまでの研究者がみんな間違っていた、などと平気で主張する、典型的「六拾弐病」患者
コテ+トリと、コテの九州王、伊都国女王、卑弥呼、名無しを使い分け、自説を関連スレで書き込みまくる
糸クズ、八咫バカ、連続句読点キチともよばれる
「咫」の説明である「周尺」を「円周の尺」と読み、
伊都国を女王国であると漢文の用例を無視して誤読し、
平原遺跡出土鏡の文様には八咫烏があると現物を知らないで主張し、
魏志倭人伝中の「下戸」を「酒が飲めない人」と訳すなど、
お笑いエピソードには事欠かない
偽スレや妄想スレを立て続ける異常性に気がついていないのは本人だけ
未確定な事項であっても、自分に都合がよければ勝手に確定事項であると脳内変換し、
それを根拠として立論してしまうチェリーピッカー
日本史の方法論をまるで理解していない、自分偉い教の教祖である
86日本@名無史さん2018/04/25(水) 02:03:54.41
ザラコク
>…< 嘘吐き騙し 南≠東 大和説 !。 ?。 ×。
キウス
スレ主 奥村 しかり 大笑い Ww いい線ついてる 正論 ヤマト王政 論じろ
岡上
八咫の鏡 伊都 平原 内行花文鏡 三種の神器 神道 キナイコシ 、、、 。。。
ハナホジ
物部 葛城 鴨 大物主 ヒメタタライスズ ミミ 出雲族
サイキバ
鉄がない 奈良湖 倉庫
87日本@名無史さん2018/04/25(水) 02:04:35.41
2013年の大規模調査なんてない
日本経済新聞(2013/2/20)
卑弥呼の墓?初の立ち入り調査 奈良・箸墓古墳
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1905C_Q3A220C1CR0000/
研究進展に期待
日本考古学協会など考古学、歴史学の15の研究者団体は20日午前、
宮内庁が陵墓として管理している奈良県桜井市の箸墓古墳を立ち入り調査した。
宮内庁が研究者側からの要望に応じて立ち入りを認めるのは初めて。
同古墳は邪馬台国の女王・卑弥呼の墓とする説もあり、陵墓の公開や研究の進展につながると期待されている。
立ち入り調査をしたのは研究者16人。
約1時間半をかけて墳丘の最下段を一周し、地表に見える葺(ふ)き石や土器などの遺物の状態、墳丘の形などを観察した。
参加した日本考古学協会の森岡秀人理事によると墳丘表面で、築造以前の様子を示す弥生最末期の土器などが見えたという。
森岡理事は「古墳の詳しい状況を実感できた。今回得た知見や印象によって研究が加速するのでは」と話し、
今後の陵墓公開に向け「国民の文化遺産として大切に守るべきもの。宮内庁とさらなる協力体制を目指したい」と強調した。
研究者らは午後、宮内庁が管理する西殿塚古墳(同県天理市)も調査する。 88日本@名無史さん2018/04/25(水) 02:05:21.95
650日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:03:02.66
元ねた見つけたわ
国土地理院時報(2000 no.94)
「近畿地方の古地理に関する調査(国土地理院地理調査部)
http://www-im.dwc.doshisha.ac.jp/~nihei/nara/index.php?%C6%E0%CE%C9%CB%DF%C3%CF%A1%A7%C3%CF%B7%C1%A1%A6%C3%CF%BC%C1%A1%A6%BF%E5%B7%CF
657日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:12:52.10
>>650のリンク先にある「奈良盆地の地形学的研究」53ページに
>なぜなら、奈良盆地が更新世以降において湛水し湖沼化したという事実は認められない。
とあるな 89日本@名無史さん2018/04/25(水) 02:05:59.52
660日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:18:00.17
奈良県遺跡地図Web
http://www.pref.nara.jp/16771.htm
664日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:21:12.40
データベース名 遺跡
ID 11A-0104
市町村 川西
遺跡名 下永東方遺跡
所在地 磯城郡川西町下永東方
種類区分 集落・町屋,社寺
時代区分 縄文,弥生,古墳,奈良,平安,鎌倉,室町
時代詳細 縄文・晩〜古墳・後、奈良〜室町
遺跡概要 方形周溝墓、井戸、掘立柱建物、区画溝
遺物 縄文、弥生、土師、須恵、黒色土器、中世土器、木製品、石器、石製紡錘車、土馬
文献・備考 白米密寺伝承地、『下永東方遺跡』(文化財報86)2001、『奈良県遺跡調査概報2003年度第1分冊』2004、『奈良県遺跡調査概報2004年度第1分冊』2005
668日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:24:19.31
データベース名 遺跡
ID 11A-0123
市町村 川西
遺跡名 下永東城遺跡
所在地 磯城郡川西町下永東城
種類区分 集落・町屋,墓・墓地
時代区分 縄文,弥生,古墳,鎌倉,室町
時代詳細 縄文、弥生・中、古墳・前〜中世
遺跡概要 方形周溝墓、土坑、掘立柱建物、井戸
遺物 石器、弥生、土師、石釧、木器
文献・備考 『下永東城遺跡』(文化財報103)2003 90日本@名無史さん2018/04/25(水) 02:06:41.34
674日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:37:38.33
http://www.ksmt.com/panorama/130501nara/130501nara.htm
>2013.5.1 Kashihara 橿原
>飛鳥を自転車で回ろうと思い近鉄橿原神宮前駅へ。
>まず奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の「5世紀のヤマト〜まほろばの世界〜」を見学。
>5世紀の遺跡から出た資料が展示されており興味深いのですが、最も興味を引いたのが5世紀の地図。
>古奈良湖は既になく、奈良盆地全体が陸地をして描かれています。
(略)
>橿原考古学研究所の受付の方にお願いすると、水田の発掘担当者の方に直接話を聞けることになりました。
>運が良かったようです。
>担当者の方の話によると、
>
>1.縄文後期の遺跡が奈良盆地の一番低いところにも存在するので、縄文後期には既に古奈良湖は消滅していたと考えられる。
>法隆寺付近に古奈良湖が7世紀頃まであったという説は、どうやら間違いのようです。 91日本@名無史さん2018/04/25(水) 06:39:51.58
要は奈良には3世紀の高床式住居群が見つからないと言う事か
92日本@名無史さん2018/04/25(水) 07:08:28.33
93日本@名無史さん2018/04/25(水) 07:16:12.37
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。
また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。
ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。
つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。
というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。
アホの>>1
アホの>>1 94日本@名無史さん2018/04/25(水) 07:28:38.83
>>728
テンプレはそれほど、
大和説にとっはは無価値で無意味なんだね。
w 95日本@名無史さん2018/04/25(水) 07:36:19.99
>>740
魏略と魏志が同じ「魏使らの記録」を見て書かれた、という事は、
魏略にも記載されている鯨面文身も半島南岸〜九州付近の習俗ね。
「本州瀬戸内以東の女王国の風習」という誤魔化しは、「南≠東」に拠って×。 96日本@名無史さん2018/04/25(水) 07:46:28.86
>>769
>古墳時代にト骨習俗部族が対馬に渡来して来たのではない
弥生時代に九州を除く本州の関東までの全域で見られるト骨の風習は
古墳時代には宮城の多賀城市あたりにも拡大する <
毛人中心の習俗、って事ね。
>弥生銀座では全期を通して1ヶも出ていないから廃れたというのはちょろまかし<
姫氏の卑弥呼は、「鬼道的な政治」であったから、
倭人の都の弥生銀座では「 ト骨習俗」は、無くなってしまったんだろうね。 97日本@名無史さん2018/04/25(水) 08:08:52.30
つまり倭国の中心じゃないんだな
98日本@名無史さん2018/04/25(水) 08:18:48.31
魏志倭人伝に収録された習俗は、使いが通過した狗邪韓から不弥国までの間に見聞きしたもの。
魏にとっての倭とは、九州北部まで。
当然、彼らが会った女王卑弥呼も九州北部の女王。
本州は、あっちの方(東)にも同類がいるよ、と話を聞いた程度。
99日本@名無史さん2018/04/25(水) 08:23:48.41
100日本@名無史さん2018/04/25(水) 08:38:29.65
101日本@名無史さん2018/04/25(水) 08:40:56.72
>>774
魏志の説明では、
不彌國までの里数合計で万二千余里が「ほぼ消化」なので、
不彌國から「南至邪馬壹國女王之所都」は、「南に向かって直ぐに邪馬壹國女王之所都に至る」になる。
同じ構文の南至投馬國は、投馬國は「女王之所都ではない」から、不彌國からの側副傍線國説明になる。 102日本@名無史さん2018/04/25(水) 08:42:02.22
いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、
103日本@名無史さん2018/04/25(水) 08:43:14.90
どうして、畿内説は破綻してしまったのかな。。。。
104日本@名無史さん2018/04/25(水) 08:45:38.29
テンプレートに書いてあることの根拠が、本当は無いもないということが、優れた考古学者達によって、明らかになってしまったね。
105日本@名無史さん2018/04/25(水) 08:46:28.74
>>779
>土台人古田が反日思想教育者なのは、ザラコク自身が明確な証拠
お前が古田は反日先生だと言って回ってるのと同じこと <
極右の・・・・wwでは、
何を言われても、・・・・の分裂幻覚妄想にしか思えないなあ。
古田さんは、「自分は日本人だ」という立場で、書いておられた。 106日本@名無史さん2018/04/25(水) 08:52:10.55
>>781
>土台人古田の短里では奴國が飛び地の入口になってしまい <
ならない。伊都国と邪馬壹國女王之所都との間付近になる。
>「クシフル」など何時から誰に呼ばれてるかわからないものでちょろまかすしかない
福岡に行っただけじゃ地理はわからない <
そりゃ、2千年以上前の呼称は、残っている方が稀。
>福岡市民でも東区南区にしか住んでない人は日向峠なんか知らないから <
日向峠や日向川、という地名は残っている。 107日本@名無史さん2018/04/25(水) 08:55:41.17
>>783
>何が嘘だと?<
大和説者の説明は、99%ほどが嘘。
僅かに、大和は「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一つ、であったんだろう、
というだけ。 108日本@名無史さん2018/04/25(水) 09:01:23.92
伊都国が筑前東部(糸島市付近)
奴国が筑前中部、北部、東部(伊都国と不弥国を除く筑前)
不弥国が筑前南部(那珂川町、春日市、大野城市、筑紫野市付近)
伊都国から不弥国へ向かうには奴国の一部を通過しないと行けなかった。
109訂正2018/04/25(水) 09:02:04.54
伊都国が筑前西部(糸島市付近)
奴国が筑前中部、北部、東部(伊都国と不弥国を除く筑前)
不弥国が筑前南部(那珂川町、春日市、大野城市、筑紫野市付近)
伊都国から不弥国へ向かうには奴国の一部を通過しないと行けなかった。
110日本@名無史さん2018/04/25(水) 09:05:29.41
>>784
>八咫の鏡が王権の象徴じゃないと立証されちゃったのだもの
必死で流して誤魔化すしか無いさ w <
八咫の鏡は、天孫族内の(阿毎氏ら)諸王の王権を象徴するものであったらしい、
という事が判って来て、
大和も、その「天孫族内の諸王」の一つであったらしい、
という事で決着したようだったよ。 111日本@名無史さん2018/04/25(水) 09:11:09.00
112日本@名無史さん2018/04/25(水) 09:11:11.72
>>785
>「咫」は少ない、短いの字義
「八」は多いという意味
「多い」と「少ない」と同じように正反対の意味の組み合わせで
「咫尺万里」(『南史』「斉武帝諸子伝・昭賁伝」)がある
咫尺ほどの小さなものに、万里ほどの大きな世界を描くという意<
どっちにしても「南史」」時点では、
「咫」は、(実寸法というよりは)
「形容詞的な大きさを示す文言」になってなっていたんだろう。 113日本@名無史さん2018/04/25(水) 09:18:37.90
もっとずっと前からだよ
114日本@名無史さん2018/04/25(水) 09:23:24.69
実際に「何々の大きさがx咫」と言った具体的な記録が皆無なんだから
後漢代に「はるか古代に咫という単位があった」
という「説」があっただけなんじゃないのか?
115日本@名無史さん2018/04/25(水) 09:29:45.77
>>788
>九州じいさん死に絶えるまで<
憲法違反の「排他的人種差別や国粋皇国史観殺人戦争狂」の・・・・大和説者や
極右の政府やマスコミの・・・・人種が、死に絶えるまで。 116日本@名無史さん2018/04/25(水) 09:34:42.15
排中律の意味がわかってないアホ。
117日本@名無史さん2018/04/25(水) 09:36:44.09
118日本@名無史さん2018/04/25(水) 09:37:37.42
119日本@名無史さん2018/04/25(水) 09:41:52.62
>>792
>柳田のは伊都国東遷というか、
伊都国王の娘を畿内の邪馬台国連合が畿内で女王に擁立して
北部九州を吸収したみたいな感じの説だったろ<
へー?。
柳田も、知能の低いアホの一人であったみたいだな。 120日本@名無史さん2018/04/25(水) 09:46:29.60
>>795
>お鏡さんは、ただの八咫厨だよ だからハンネもお鏡さん
ここまで来ていまだに、平原1号墓出土鏡は円周が八咫だから八咫の鏡だって
言い続けている
でも、円形のものの大きさを、円周長を測って示した例は見つけられないし
「咫」が実際のものの長さを測る単位に使われている実例も出せないw<
説文解字では「女性の手の大きさ」を示す形容詞的文言。 121日本@名無史さん2018/04/25(水) 09:51:13.85
>>798
>既に、殉葬墓は否定されている
これで八咫鏡が否定されれば、伊都国説は終わりだよ
で、既に否定しつくされているのに、認めないって言い張ってるだけ<
伊都国は、女王国(≒倭國)の一大率がいた国だよ。 122日本@名無史さん2018/04/25(水) 09:55:46.63
>>801
大和説学者や大和説者は、オウム信者らと全く同じように、
国粋皇国史観の戦争宗教に狂った、
無学で・・・・アホガキの典型だよ。 123日本@名無史さん2018/04/25(水) 10:09:00.44
>>121
一大率がいたのは自女王国以北の諸国ですよ
伊都国に一大率がいたのではありませんよ。 124日本@名無史さん2018/04/25(水) 10:14:34.84
125日本@名無史さん2018/04/25(水) 10:28:35.82
>>104
そうだね、、、
そして、僕たちは最近新しい情報を手に入れたね。。。 126日本@名無史さん2018/04/25(水) 10:31:08.38
127日本@名無史さん2018/04/25(水) 10:35:01.73
>>120
つまり二世紀になって
四、五百年前はこうだった(らしい)
という論説が書かれたに過ぎないわけだ 128日本@名無史さん2018/04/25(水) 10:35:48.20
>>102
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 129日本@名無史さん2018/04/25(水) 10:36:33.97
こっちのスレだった?
まだ『ここに いたこと』『死んだ遺作』の話をしてるの?
しんだ いさく→しん だいさく→かみ だいさく→
それと、これ、関係あるか無いのか?詳しいことは、わからないんだけど
『平家物語 死』
『平家の落人 池田氏』
あのオズボーンの曲など
130日本@名無史さん2018/04/25(水) 10:39:51.33
>>128
あれでしょ、、、あれ、あそこに埋もれてたあれ、
先頭のお役所の方は気づかなかったようだけど、、、 131日本@名無史さん2018/04/25(水) 10:40:21.17
どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったと考えているのかな、、、
132日本@名無史さん2018/04/25(水) 10:40:49.36
不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。
133日本@名無史さん2018/04/25(水) 10:41:08.99
>>804
>魏志倭人伝(末慮国から) 東南陸行五百里、到伊都國 現実 千々賀遺跡 北東30キロ三雲遺跡群
1里=60メートル <
千々賀遺跡という比定が間違いだし、東南は「出発方向」説明であり、間違い。
>魏志倭人伝 (伊都国から) 東南百里 至奴國 ちょっと語順入れ替え
現実 三雲遺跡群 東北東18キロ 比恵・那珂遺跡群
1里=180メートル<
比恵・那珂遺跡群は弥生銀座であり、邪馬壹國の都地であり、
奴國ではないから間違いだし、伊都国から東だから方向でも間違い。
>方角も、距離もメタメタじゃないか? 現実に合っていないよ?<
自分で勝手に間違った方向や位置を否定しておいて、
魏志の方がメタメタだといってるんだから、
この男(ww)の頭の中が、
人種差別的殺戮戦争の国粋皇国史観の大和説にクルって、メタメタ。 134日本@名無史さん2018/04/25(水) 10:43:19.31
>>128
九州説はこんなウソばかり垂れ流してるから
学説でいられなくなった
自業自得だが 135日本@名無史さん2018/04/25(水) 10:43:53.73
>>806
そうやってまた、まったくまともな証拠を出さずに、
史料を改竄して結論だけ断言してヘイトスピーチする。
ゴミ大和説の典型だな。
「ww」は。 136日本@名無史さん2018/04/25(水) 10:50:12.05
畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。
137日本@名無史さん2018/04/25(水) 10:50:51.46
>>130
そうそう。あれを最初に目にしたあの人が、機転を利かせて足元の枯葉を蹴り掃いて覆ったけど、、、 138日本@名無史さん2018/04/25(水) 11:08:56.71
>>135
ザラコクがまた真っ赤なウソを書いているな
異常でしょ 139日本@名無史さん2018/04/25(水) 11:35:35.76
>>130
そうそう。あれを最初に目にしたあの人が、機転を利かせて足元の枯葉を蹴り掃いて覆ったけど、、、 140日本@名無史さん2018/04/25(水) 11:36:40.76
141日本@名無史さん2018/04/25(水) 11:51:55.15
>>812
>畿内説は「間違いだ」と言ってるんだからね
それより精度が高いから正しいんだって? 比較の対象がおかしいだろ
お前の主張は、「『貴女は身持ちが悪すぎるから結婚できない』と皆から言われてる女」よりマシだから、私は結婚しますぅ〜みたいな話
どんだけ基準が低いんだよ<
自然や歴史においては、不可知部分が殆どであるんだから、元々「100%絶対断定」なんて有り得ない。
数学や論理学や法学においても、全ての不可知部分を網羅する論が不可能であるから、欠陥論。
要は、我々は、知り得た観察観測計測事実や実験事実からの「帰納的確率的推論」をする事までしか出来ない。
そして、その確率の高さが「正否の判定」基準になるもの。 142日本@名無史さん2018/04/25(水) 11:55:32.76
>>815
>お前はニセ情報しか持ってない<
大和説者は、
都合の悪い史料事実を否定曲解する嘘つき騙しのニセ情報で、
世間の人々を騙そうとする、・・・・詐欺師。 143日本@名無史さん2018/04/25(水) 11:58:40.68
144日本@名無史さん2018/04/25(水) 12:00:21.73
>>141
帰納しない九州説は学問やめて帰農するといいよ 145日本@名無史さん2018/04/25(水) 12:05:26.23
>>824
>>韓や壱岐対馬の大きさを見てみろ。<
>どれも、方○○里となっているだけだが、現実は正方形ではないんだから
実測値ではないことは明らかだろ? 対馬と壱岐の大きさの差が百里しかないし<
そもそも、對海國=南北対馬全体、だとか、一大國=壱岐島だけだ、とかと、
断定している事自体が問題あり、なんだろ?。
>倭国を、万二千里の彼方にするために数字を盛ってるんだよ
盛られた数字がどうとかいってもしょうがないだろ?<
大和説者は、
史料事実に対して、自分で勝手に、自説に都合よくなるような分裂幻覚妄想をして、
それを勝手に「100%絶対断定」して、それを基準にして、
史料や九州説者を否定抹殺しようとしている。 146日本@名無史さん2018/04/25(水) 12:14:43.54
147日本@名無史さん2018/04/25(水) 12:25:04.55
>>133
成程。貴方の言うとおりだ。弥生銀座なら邪馬壹國の都だ。 148日本@名無史さん2018/04/25(水) 12:27:25.24
ひどい自演をみた
149日本@名無史さん2018/04/25(水) 12:33:56.26
>>145
成程。里数は郡使による國邑の実測値だな。島の大きさは関係ないな。目から鱗が落ちた。有難う。 150日本@名無史さん2018/04/25(水) 12:43:12.09
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼だと読み手には分かるようになっている。
それ以外の主語の場合は「諸國畏憚之」のように主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王國以北の諸国を)常に治めていた」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。
治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。
では「自女王國以北」とはどこか。
以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
つまり、女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率で支配したのである。
要するに女王国と伊都国は念を押して言い換えただけであり、一大率は伊都国にあり、伊都国が女王国、女王の都するところ、邪馬台国であるということである。
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官
「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い女王国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。
女王国が伊都より東にあったら、文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や丹波になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国であることを示している。
151日本@名無史さん2018/04/25(水) 12:44:01.36
>>826
すぐバレる阿呆なウソを書くことしか、
九州説に抵抗するすべのない大和説。
みじめすぎ。 152日本@名無史さん2018/04/25(水) 12:48:28.71
153日本@名無史さん2018/04/25(水) 12:50:34.00
>>835
>倭人伝をふつうによんで琉球のあたりを記述している、で良いんじゃないのか<
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、
「琉球のあたりを記述」していない。 154日本@名無史さん2018/04/25(水) 12:53:34.47
155日本@名無史さん2018/04/25(水) 12:55:41.50
キナイコシは、テンプレートが論破された時、あまり意味のないことを喚く癖があるな。。。
156日本@名無史さん2018/04/25(水) 12:56:23.10
改めて狂人のキナイコシが貼り付けているテンプレートを読んでみると、訳が分からなくなってくる。。。
奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることの言い訳ばかりで、、、
かえって、奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることが強調されているのではないのかな。。。
157日本@名無史さん2018/04/25(水) 12:57:37.52
>>836
>対馬が縦横四百里(南側だけ)? <
對海國は、おそらく浅茅湾の周囲付近の方四百余里地域。
>それじゃ、渡海の千余里はどこから何処までの距離なの? 支離滅裂だよ<
狗邪韓国から、對海國の北端付近の距離。 158日本@名無史さん2018/04/25(水) 13:00:08.52
>>838
つまり
「南→東」だとか、長里だとか、こねくり回しても、
邪馬壹國には辿り着けないってことさ。 159日本@名無史さん2018/04/25(水) 13:03:52.45
>>153
「ワシの説が正しいからオマエの説が間違いだぁ」
というロジックは
本質的に成功しない 160日本@名無史さん2018/04/25(水) 13:04:38.85
>>96
>毛人中心の習俗、って事ね。
ト骨は中国由来で日本では弥生時代から
大阪兵庫の朝鮮部落民が日本のどの地域を毛人と呼んでいるのかがわからん
>倭人の都の弥生銀座では「 ト骨習俗」は、無くなってしまったんだろうね。
朝鮮工人が銅戈や多鈕粗紋鏡を作っていた弥生銀座と呼ばれる春日では
1ヶも出ていないから最初から無い 161日本@名無史さん2018/04/25(水) 13:06:16.15
>>840
>唐津平野に千々賀遺跡や宇木汲田遺跡があるのだから、唐津湾に入って松浦川河口付近に上陸するのが
自然だと思わないかい?<
思わない。
目的の女王之所都でもないのだし、到着海岸から遠すぎる。
>魏志倭人伝の記述に現実を合わせるのは、意味がないよ
魏志倭人伝原理主義はばかばかしい <
魏志倭人伝の記述に現実を合わせないのは、意味がないよ。
大和説原理主義はばかばかしい。 162日本@名無史さん2018/04/25(水) 13:07:51.87
>>842
大和説は、現実の地理や倭人伝をまったく無視してますねー。 163日本@名無史さん2018/04/25(水) 13:10:54.84
>>843
「東南」は出発方向だよ。
無理な解釈だと、自分で気づきなよ。
自分の想定が正しいと言い張るのが目的ではないんだから。 164日本@名無史さん2018/04/25(水) 13:11:33.30
>>105
>古田さんは、「自分は日本人だ」という立場で、書いておられた。
古田が書いたのが反日の教科書だから、
お前や娘のように鸚鵡返ししかできない程度の土台人候補が読んだら
日本のあらゆる公的組織を嘘吐き騙しと罵っている 165日本@名無史さん2018/04/25(水) 13:17:04.93
>>847
>倭人伝にはみなチビで<
「皆チビ」とは書いてないな。
>入墨をいれているとあるな。<
「男子無大小皆黥面文身」だな。
きみがおもってる人々は、 大和コクの人々では無いと思われる。 166日本@名無史さん2018/04/25(水) 13:17:19.13
>>106
対日有害活動に協力させる教科書の古田の短里では
奴國の入口を三雲にしてるから飛び地 167日本@名無史さん2018/04/25(水) 13:20:45.68
>>851
>そして鎌倉時代同様、東の自治政府が西の中心地を武力的に圧倒していた、
ということで なんら齟齬はないように思われる<
「東征毛人五十五國」であったんだから、× 168日本@名無史さん2018/04/25(水) 13:33:48.02
>>163
なんで九州説じいさんは
何も理由を言わずに100%断定ばかりするんだろう
九州説が学説でなく宗教だからだろうか 169日本@名無史さん2018/04/25(水) 13:38:59.95
国民は餓えて自分だけブタのように丸々と太った独裁者の母親が生まれ育ったのが
筑紫一元パクリ皇国史観運動の中心地である大阪の生野区
170日本@名無史さん2018/04/25(水) 13:46:45.46
いや
それはキナイコシの脳認知がおかしくて理由を理解できないだけ。
キナイコシ以外の人はみんな理解できてる。
詐欺師は自分の脳を含めて騙すというよい実例。
171日本@名無史さん2018/04/25(水) 13:54:51.06
>>170
どうして君が言ってないことを他人が理解できるの? 172日本@名無史さん2018/04/25(水) 13:58:07.18
>>170
自分が理解されている?
肥大化した自己承認欲求が生み出した幻影に酔っているな 173日本@名無史さん2018/04/25(水) 14:07:09.34
174日本@名無史さん2018/04/25(水) 14:49:30.72
>>167
「東征毛人五十五國」であったら何なんだ?
イミフ 175日本@名無史さん2018/04/25(水) 15:02:43.38
畿内説の研究者は互助会を形成し
金とポストで動く集団
研究者とは言い難い
176日本@名無史さん2018/04/25(水) 15:23:12.94
177日本@名無史さん2018/04/25(水) 15:23:32.59
>>854
>そう考えるなら、
北部九州の中心が、奴国
中国(山陽・山陰)の中心が、投馬国
畿内の中心が、邪馬台国
で、>>850の想定と齟齬はないと思うが、いかが?<
「南≠東」などに拠って、この男も嘘つき騙しの・・・・詐欺師だな、
と思える。 178日本@名無史さん2018/04/25(水) 15:29:00.44
古事記と日本書紀を読み進めていくと、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。
179日本@名無史さん2018/04/25(水) 15:30:54.41
>>856
>むしろヤマトコクは素直に読めば九州の南部か奄美琉球なのだけれども<
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、九州南部か奄美琉球にはならない。
だから、この男も、嘘つき騙しの・・・・詐欺師。 180日本@名無史さん2018/04/25(水) 15:31:13.13
>>125
そうそう、僕たちは、とうとう、優れた考古学者が紹介してくれた大物主の倉庫が、古墳のことではなく、巻向駅から歩いていける、あのちっぽけな空き地にあったものだということを調べ上げてしまったものだものね。。。 181日本@名無史さん2018/04/25(水) 15:34:35.62
2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、
182日本@名無史さん2018/04/25(水) 15:35:50.75
>>861
>それには卑弥呼も含まれるというのが歪曲だな
訪問販売のおっさんがよく使う手
後漢書では大倭王居邪馬臺國は倭國之極南界の倭奴国とは別の国<
歴代中国史書群の倭国の認識は、
唐会要が倭国伝と日本国伝とを書き分けて、
倭奴國や卑弥呼らの倭国の位置を「正北抵新羅になる位置だ」として、
同じ九州に特定しているんだから、
この男も、嘘つき騙しの・・・・詐欺師。 183日本@名無史さん2018/04/25(水) 15:44:57.78
>>863
>倭在韓東南大海中で倭國之極南界の倭奴国とは別に大倭王居邪馬臺國があるわけだから
倭奴国が北部九州なら関門海峡では切れないんだな<
歴代中国史書群は、倭奴國や卑弥呼の倭国が継続して「世與中國通」した事を記し、
最後に倭国伝を書いた唐会要が、日本国伝の位置とは区別して、
「正北抵新羅」と書いているんだから、
倭国を(関門海峡付近以西の)九州付近に特定している事になる。 184日本@名無史さん2018/04/25(水) 15:48:41.87
あのね
九州説って
やってるとね
ウソをつくのが
平気になるらしいよ
185日本@名無史さん2018/04/25(水) 15:50:28.59
>>864
>場所によって1里60mだったり120mだったり 倍くらい違うんだよ<
その「場所」の選定が、恣意的でインチキだ、と言っているんであり、
精々55mから90m位の間であり、
長里説のような434m位には全くならず、
長里説が×だ、と言っているんだよ。 186日本@名無史さん2018/04/25(水) 15:55:10.07
>>867
>土台人反日民族運動集団は連呼だけだから議論にならないからな
日本の歴史を探求してるわけじゃないから<
排他殺戮的人種差別のキョクウの国粋皇国史観大和説の、
・・・・詐欺師のwwのヘイトスピーチは、
・・・・を相手にしても無駄で無意味であるから、
放置しておこうね。 187日本@名無史さん2018/04/25(水) 15:57:27.36
キナイコシは、テンプレートが論破された時、あまり意味のない空白の改行を行う癖があるな。。。
188日本@名無史さん2018/04/25(水) 15:58:08.79
>>180
あのちっぽけな空き地の大規模発掘調査では、その柱の穴は、粗末な倉庫のものだということと、大物主時代の化石だらけだったことと、そして、そこが、魏志倭人伝時代の直前に湖の底だったことが判明したのだものね。 189日本@名無史さん2018/04/25(水) 15:58:55.48
キナイコシが論破されてしまっている話題が、一里の長さのことのようだね。。。
190日本@名無史さん2018/04/25(水) 15:59:25.93
>>189
あまり、レベルの高い話題ではないのではないのかな。。。 191日本@名無史さん2018/04/25(水) 16:00:44.98
>>868
>最後のこの『墓が大きいだけの地方豪族だけである』という結論がおかしいのであって
魏に派遣した邪馬台国じたいは日本列島の大部を支配する国でもなんでもなく、大陸との交流が
あった一部のグループに過ぎないというふうに見做すべきなのでは?ギリシャみたいにアテネが
ペルシャと条約むすんだからアテネがギリシャの覇者だ、みたいなこと言い出してもしょうがないでしょう<
「正北抵新羅」の九州の位置のあった倭国が「自昔・・・東征毛人五十五國」をしたんだから、
征服支配された毛人らの反抗を抑えるために、墓守り人などにして、
巨大墓を造らせる、という「必要」があったの。 192日本@名無史さん2018/04/25(水) 16:04:33.11
>>870
・・・・人間は、話が通じる筈もなく、説得出来る筈もなく、
wwが殺人事件を起こして警察の収容されるまで、放置して、
待っておこうね。 193日本@名無史さん2018/04/25(水) 16:10:11.12
>>182
>倭国の位置を「正北抵新羅になる位置だ」として、
>同じ九州に特定しているんだから、
「北限大海。西北接百濟。正北抵新羅。南與越州相接。」
越州(浙江省)は九州と接していない
倭国の凡その位置を書いている
新羅と抵しているのは倭国の対馬、倭国の北は大海の日本海 194日本@名無史さん2018/04/25(水) 16:10:40.28
>>871
>むしろ邪馬台国が魏に使者を派遣したというのは、日本列島において「邪馬台国」といわれるグループの
勢力が衰退期にあって、その権威を確保するために西方の大国である魏に使者を派遣し承認を得ることで
旧来の権威を保持しようとしたのではないのかね。そしてその時期には東方(奈良・浪速)に勃興していた
新興の植民者勢力が無視できないものになっていた。このようにわたくしなどは思うのだが。<
史料事実は、倭王武の頃まで倭国は、
「自昔・・・東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」
で精一杯。
東方が新興植民地勢力になったのは、大和を握った継体の頃。 195日本@名無史さん2018/04/25(水) 16:14:45.07
>>875
>そう。邪馬台国が日本列島を代表する権威だと暗黙において歴史上の仮説をつくるから説明できないことが
やまほど出てきてしまうのだな。おそらくは大陸から渡来した繊維加工(織物)の技術と、稲作という最新の
技術によって急速に勃興した九州北部の豪族が、やがてその技術の陳腐化によって東方の植民者社会に
圧迫されるようなことになっていたのが西暦100年から200年代のころの日本の情勢ではないかと思われる。
そして東方の植民者たちが正当性を主張するために創作したのが「技術と通商路の開拓」の物語りとしての
神武東征譚だとわたくしなどは愚考するものであります <
愚考です。
倭王武までは、倭国は、
「自昔・・・東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」
していた。 196日本@名無史さん2018/04/25(水) 16:19:24.17
>>876
>鉄器はたしかに物証として残りやすいモノであり、また軍事を象徴するものなので
歴史の中核におきやすいのだけれども、そして決して鉄製品の技術の伝播は軽くみるべきとは
思わないけれども、わたくしは、やはりそれよりも繊維加工、織物加工の製造技術と織物製品の
商圏拡大という、遺物として残らないもの、あたりまえになりすぎて無視されてしまうものの
伝播というものが、この日本という国の古代史にとって重要であったのではないかと考える者で
あります<
鉄武器の有無は、古代においては殆ど絶対的なもの。
「繊維加工、織物加工の製造技術と織物製品の商圏」は、
倭国の「地方の市を監督する大倭職」によって、いくらでも流通する。 197日本@名無史さん2018/04/25(水) 16:23:53.36
>>877
>北部九州には楽浪郡以前から半島経由の鉄は流入している
漢代に郡と交流があったのは半島に接している北部九州だから
むしろ魏に使者を派遣し承認得る効果が大きいのは畿内のほうだね
卑弥呼の遣使を挟んで舶載品が増えるのは畿内<
「畿内」なんて存在していなかった。
「自昔…東征毛人五十五國」に拠って出来た大和は、
倭国の筑紫城の阿毎氏から別れた別種の旧小国であり、
地方の市を監督する大倭職の国であった。 198日本@名無史さん2018/04/25(水) 16:27:28.72
>>879
>日本の大部が縄文式土器をつかい、狩猟採集生活をおくっていた上古においても
麻の衣服を用いていたこと、このことを軽くみるか無視しすぎなのではないか。
そのような高度な技術文明はどこから来て、あるいはその製品はどのようにして
入手されたのか。<
縄文の西日本の盟主であった出雲は、
「国引き神話」で、沿海州方面から国を引いており、
隠岐の黒曜石も沿海州から沢山出土している。 199日本@名無史さん2018/04/25(水) 16:31:04.16
>>880
>どこがだ!?
場所によって実際と倍も違う数値をアテにしたらいかんだろ
よって九州説の魏志倭人伝の距離記述は正確という主張は間違い <
どこがだ!? 。
全ての場所で、実際と5〜6倍も違う「長里の数値」をアテにしたらいかんだろ 。
よって大和説者の「魏志倭人伝の距離記述は不正確」という主張は間違い。 200日本@名無史さん2018/04/25(水) 16:40:08.45
古代にしては、2倍程度の誤差で収まっているのは割と優秀。
地図を見ても、対馬海峡を島で三等分するのは感覚的におよそ正しいよ。
一渡海が1日の行程なんだろうね。
壱岐と対馬でそれぞれ一泊。
201日本@名無史さん2018/04/25(水) 16:47:43.67
>>199
アテに? しとらんけど?
実際と5〜6倍も違うのだから
「魏志倭人伝の距離記述は不正確」という結論は
あたりまえ 202日本@名無史さん2018/04/25(水) 16:49:47.61
「魏志倭人伝に記録された方角は信用できません(でないと困ります)」
「魏志倭人伝に記録された里程は誇張表現で信用できません(でないと困ります)」
「平原の大鏡の円周は八咫ではない(でないと困ります)」
「咫は、文飾的文言で、数詞ではない(でないと困ります)」
「平原の内向花文鏡は、欲しがる人がいなかったんだよ(でないと困ります)」
「周りに対する影響が皆無なのが、3世紀の北部九州 (でないと困ります)」
「倣製鏡は、いくらでも作れるんだから、威信材として格落ちで(ないと困ります)」
「平原の大鏡は、当然「王権の象徴」としては不適当(でないと困ります)」
203日本@名無史さん2018/04/25(水) 16:56:28.86
>>200
こんなふうに
理由も言わずに言い張るのが
九州説 204日本@名無史さん2018/04/25(水) 16:57:40.83
キナイコシも、本当は畿内説を信じていないのではないのかな、、、
205日本@名無史さん2018/04/25(水) 16:59:03.85
キナイコシが、畿内説を宣伝するのは、畿内説を信じているわけではなくて、別の理由があるのではないのかな。。。
206日本@名無史さん2018/04/25(水) 16:59:07.52
>>200
短里などという存在しない度量衡で測量した里数ではないということだよね
九州到着後にさらに60数泊すると女王の都がある邪馬臺國 207日本@名無史さん2018/04/25(水) 17:00:50.93
>>205
畿内説はお金を生み出すのではないのかな。。。 208日本@名無史さん2018/04/25(水) 17:02:40.75
マツラ国上陸後、約30弱の宿屋を巡って、熊本城にたどり着くのだったな。。。
209日本@名無史さん2018/04/25(水) 17:04:02.05
>>208
そうだね、当時は電車も車もなかったから、ちょうどそれくらいで良いのではないのかな。。。 210日本@名無史さん2018/04/25(水) 17:11:58.44
211日本@名無史さん2018/04/25(水) 17:17:54.88
キナイコシはモニターの前で生活してるから世間知らずなのではないかな、、、
212日本@名無史さん2018/04/25(水) 17:20:43.59
>>886
>北部九州までは、後漢の光武帝への遣使等の記録によるもので、
その先の投馬国と邪馬台国へは、建忠校尉梯儁や塞曹掾史張政の記録のみで
漢時の記録に、大国=倭国の中心的な国を付加しただけなのだと思う<
思わない。
後漢時では、漢使節が来ていないが、魏では遣使が来て実見しており、
魏志の信頼性が全く違う。
>北部九州内の、末慮国から伊都国へのルートなど、現実の地理からは考えがたく
別の地点への旅程が混入していると判断した方が整合性が取れる<
伊都国は、風土記と書紀に拠って、「怡土郡」にある事が確定しており、
「東南」は末盧國(おそらく唐津)の出発方向記載であり、
「陸行五百里」は、途中の説明である、という事で何の矛盾もない。
>例えば、筑紫平野の吉野ヶ里の方へ向かうのであれば、末慮に上陸して
松浦川沿いに内陸に向かい、目的地は南東で問題ない<
吉野ケ里方面には「怡土」の地がないから、×。
>伊都国、奴国へ向かうのであれば、末慮国に寄らずに、直接船で伊都国
あるいは奴国(西新町遺跡や博多遺跡は港湾遺跡)に向かう方が、
理解しやすい 末慮国から伊都国間を陸行するのは、きわめて不合理といえる<
大事な詔書や金印や大量の下賜品を運ぶ魏使らは、「安全最短の行程選択」が原則。 213日本@名無史さん2018/04/25(水) 17:36:03.05
>>890
>卑弥呼の前の遣使が、倭国王帥升等の朝貢で、それが西暦107年
卑弥呼の朝貢まで130年間が空く
その間に、倭国乱と呼ばれる状況になり、高地性集落の存在で、
その倭国乱がかなり広い範囲にわたるものだったと考えることができる<
倭国乱は、九州付近内での乱。
高地性集落は、九州倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」が原因。
>高地性集落の観察される範囲が、倭国であり、その範囲のどこかに
邪馬台国がある、というのが基本的な枠組みとしてよいだろう<
根本的に、倭國伝を最後に書いた唐会要に拠って、
倭國は「正北抵新羅」の位置だ、とされ、九州が特定されている。
>そして、この時点で既に、倭国は九州のみと言い張る人たちと話が合わなくなる訳だ<
そして、「南≠東」によっても、
大和説や広域倭国を唱える大和説者人種が、嘘つき騙しの・・・・詐欺師であった、
という事が確定している。 214日本@名無史さん2018/04/25(水) 17:51:03.95
>>891
>九州説は閉鎖的に必ず征服か否かで考えるが 畿内説は首長連合を想定している<
畿内なんて存在しなかったし、
瀬戸内以東は、「自昔・・・東征毛人五十五國」や、
「筑紫倭国の地方の市を監督する大倭職の国」という事で、説明が付いてしまう。
>その根拠はほぼ全ての考古学者が考えているように
庄内期から北部九州沿岸の那珂を中心として畿内土器の模倣製作や<
これ×ね。
列島の庄内の発祥は三雲付近であり、祇園山がそれに続いた。
大和などはそれの伝播模倣と、筑紫の弥生銀座への「市」を介しての搬入上納。
>今津湾沿岸での山陰系玉製作、<
出雲は、梁書に文身國の存在が記録され、「東征毛人五十五國」にも拘わらず独立的であり、
筑紫倭国とは、直接的な対立はなかった模様。
>瀬戸内系製塩土器で本州の畿内、日本海沿岸の緊密な技術交流に現れている<
布留が南加賀が最初であった可能性があるのと同じく、
倭國の東征毛人五十五國の中には、
色々な新規の工夫をして市を介して儲けた国があってもおかしくない。 215日本@名無史さん2018/04/25(水) 17:53:36.05
216日本@名無史さん2018/04/25(水) 17:58:30.30
という理由は?
217日本@名無史さん2018/04/25(水) 18:11:01.55
これまでのまとめ
・卑弥呼・台与の一族が後の王権に繋がる(日本の神話に登場)
・女王のシャーマニズムの名残が後の天皇家の宮中祭祀(後漢書:鬼神道能以妖惑衆)
・邪馬台はヤマトと読み中国人の当て字 (日本人がmachineをミシンと呼ぶように)
・邪馬台国はヤマト王権の前身(いきなりヤマト王権が登場するのは不可能、アメリカも13州からスタートした)
・邪馬台国の連合国政権は近畿、出雲〜北部九州の広域を版図とした(近畿〜九州北部かけて物証がある)
・ 218日本@名無史さん2018/04/25(水) 18:12:18.73
>>899
>九州説と言っても、荒らしてるのは九州の地理に疎い
連呼や火病といった民族病を持ってる人たちだからね<
これは、排他的人種差別殺戮戦争キョクウの・・・・wwの投稿のようだから、
放置ね。 219日本@名無史さん2018/04/25(水) 18:14:49.69
纒向遺跡の外来系土器で一番多いのは東海系。
次に山陰系。
邪馬台国、大和朝廷の主体は東海と山陰だな。
河内や和泉が魏志倭人伝当時邪馬台国、大和朝廷の版図に含まれていた根拠は何もない。
220日本@名無史さん2018/04/25(水) 18:14:57.63
>>904
大和説の・・・・ガキらは、なんかヤケクソだな。 221日本@名無史さん2018/04/25(水) 18:18:55.44
>>906
>九州説さん、このスレに来て何してるの? w <
大和説者の「南→東」などの嘘つき騙しや、キョクウ的な・・・・性に、
世間の人々が騙されないように、批判しておいてあげているの。 222日本@名無史さん2018/04/25(水) 18:25:25.08
東海と言えば、秋葉明神。
火の神様。
これの正体が分かれば面白いが。
223日本@名無史さん2018/04/25(水) 18:27:05.60
>>910
>考古学の世界では畿内説が常識でしょ。<
ダメだよ。考古でも、弥生銀座や糸島地域の繁栄や、その後の筑紫平野部の繁栄は、否定しようがない。
>むしろ史書との不整合を どう解釈するかに論点があるわけで。<
魏志や宋書や隋書や唐書群などの史書との不整合も全くない。 224日本@名無史さん2018/04/25(水) 18:35:44.69
>>219
>纒向遺跡の外来系土器で一番多いのは東海系。
>次に山陰系。
>河内や和泉が魏志倭人伝当時邪馬台国、大和朝廷の版図に含まれていた根拠は何もない。
魏の使いが滞在した筑紫と縁がないということは、魏とも縁がない。
纒向はただの倭地の一部であり、女王国とは関係ない。 225日本@名無史さん2018/04/25(水) 18:38:29.64
>>911
>この庄内期の九州の土器伝播は
神功皇后の熊襲征伐と地域がかぶってるんだよなぁ。<
庄内は、3世紀前半頃〜3世紀末頃まで。
神功は、書紀の年代に信頼性がなく、高良大社の伝承に拠って、4世紀半ば〜後半。
かぶっていないし、
神功自体が、筑紫内の王の一人であって、
大和伝承がそれを大和の人として取り込んだ、という可能性の方が高い。 226日本@名無史さん2018/04/25(水) 18:41:20.69
>>915
>土器の集中を政治中心とみなすなら
北部九州への集中は畿内が征服されたことを意味する。<
賛成。 227日本@名無史さん2018/04/25(水) 18:51:00.76
アマゾンで邪馬台国の全解決という本を買った。古代史のベストセラーだった。驚いたが、頭の整理がつかん、
どう思う?
228日本@名無史さん2018/04/25(水) 18:53:19.77
>>923
>畿内の庄内式は他地域の模倣製作じゃないから北部九州の土器相の変化とは違う
北部九州で畿内の庄内式を作り始めるのに
北部九州の従来の土器を持ってくるほうがおかしい
そして北部九州に搬入された庄内式は非常に少ない
同じことばかり書いてないで、論文を読んで正しい知識を持ちなさい<
庄内のような「高温焼成」の技法を、田舎の大和が発明出来た、
と考える方がおかしい。
当然、半島の鉄の溶融や、青銅器の製作や、楽浪土器などの技法を知っていた北部九州が、
庄内を考え付く事が出来るもの。 229日本@名無史さん2018/04/25(水) 19:00:35.28
>>214
>畿内なんて存在しなかったし、
畿内説の「畿内」は現在でも使われている地域概念の畿内
倭人伝の時代は邪馬臺國
>説明が付いてしまう。
反日民族で納得しても無意味、非日本史
>列島の庄内の発祥は三雲付近であり、
柳田は三雲発祥などとは言っていない、非学問
>「東征毛人五十五國」
毛人は日本では東日本、北部九州は西服衆夷六十六國に含まれる
渡平海北九十五國を見ても全体的に現実的な内容ではない 230日本@名無史さん2018/04/25(水) 19:04:00.05
>>218
>排他的人種差別
何か大きな勘違いをしている
正しくは排他的どろぼう擁護火病持ち団体差別 231日本@名無史さん2018/04/25(水) 19:05:47.18
>>938
>>(九州が大和などに)圧迫されるようなことになっていたのが
西暦100年から200年代のころの日本の情勢ではないかと思われる。<
>もうちょっと後だ。 2世紀ではまだ開拓と入植のフェイズ<
卑弥呼の頃も含めて、倭王武の頃までは、
「自昔・・・東征毛人五十五國」のフェイズだ。 232日本@名無史さん2018/04/25(水) 19:10:44.61
>>948
相変わらず 、「南≠東」などのように、
具体的な反論がまったく出来ないのは、
大和説支持者に特有の現象だなあ。 233日本@名無史さん2018/04/25(水) 19:13:28.09
>>223
>考古でも、弥生銀座や糸島地域の繁栄や、その後の筑紫平野部の繁栄
福岡平野の中心は弥生終末〜古墳初頭には弥生銀座と呼ばれている春日地域から
比恵那珂、西新町の博多湾沿岸に移る
那珂が北部九州における庄内甕の模倣製作中心地 234日本@名無史さん2018/04/25(水) 19:15:58.75
>>958
皇国史観大和説の自説が絶対で、
矛盾する文献考古や学者を全否定。
心の病院行った方がいいぞ。 235日本@名無史さん2018/04/25(水) 19:17:21.74
>>960
どうして大和説者はいつも、決して根拠を示さないのだろう。 236日本@名無史さん2018/04/25(水) 19:24:57.51
>>963
>魏志倭人伝 邪馬台国の官<
邪馬台国なんて存在しない。
>官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。
伊支馬は生駒。・・・<
「南≠東」に拠って、×。
>弥馬升は三見宿禰、出雲大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。
邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。 <
「瓜二つ」にもなっていないし、
大和は倭國の阿毎氏から別れた別種の旧小国の附庸國であるから、
筑紫の官と類似の呼称を持ったものなら、いくらでも見つかる可能性があるだけ。 237日本@名無史さん2018/04/25(水) 19:36:13.21
>>227
以死の解釈以外は、全部これで解決だと思った。
異論を挟むところなし。 238日本@名無史さん2018/04/25(水) 19:38:00.62
>>228
>庄内のような「高温焼成」の技法を、田舎の大和が発明出来た、
>と考える方がおかしい。
お前の土器焼成の知識がおかしい 239日本@名無史さん2018/04/25(水) 19:41:23.39
240日本@名無史さん2018/04/25(水) 19:44:19.97
>>972
>>九州北部は紀元前から列島の代表者だから、<
>楽浪人が住んでる窓口だよ<
大和には、楽浪人ですら住み着いておらず、
楽浪滅亡が近くなってから楽浪流民が到達した可能性がある位。
>九州北部は列島どころか九州の代表者でもない<
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏からの別れた別種の旧小国で、
「自昔・・・東征毛人五十五國」の一つであり、
倭國の地方の市を監督する大倭職の国であり、
列島どころか、倭國の代表者でもない。 241日本@名無史さん2018/04/25(水) 20:11:37.61
>>240
>大和には、楽浪人ですら住み着いておらず、
漢代は楽浪人にとって地理的に利便性が良いところを楽浪人が選んだ窓口
日本では毛人は東国 242日本@名無史さん2018/04/25(水) 20:26:52.08
短里なんてない
方角もおかしい
魏志倭人伝
(末慮国から) 東南陸行五百里、到伊都國
現実
千々賀遺跡 北東30キロ 三雲遺跡群
1里=60メートル
魏志倭人伝
(伊都国から) 東南百里 至奴國 ちょっと語順入れ替え
現実
三雲遺跡群 東北東18キロ 比恵・那珂遺跡群
1里=180メートル
3倍異なるものを、一つの単位だっていうのがおかしい
243日本@名無史さん2018/04/25(水) 20:30:41.41
今日もシャドウボクシングだね。
244日本@名無史さん2018/04/25(水) 20:31:03.78
>>202
>「魏志倭人伝に記録された方角は信用できません(でないと困ります)」
>>242を参照 現実の地理に合わないのは事実
>「魏志倭人伝に記録された里程は誇張表現で信用できません(でないと困ります)」
魏晋里で測った距離よりも長い里程が記されている、つまり誇張されているということだ
淮南子等に見られる大陸世界での世界観、「東方之極萬二千里」に合わせたと見るのが妥当
>「平原の大鏡の円周は八咫ではない(でないと困ります)」
「咫」は周尺の単位であり、漢尺の八寸で一致するといっても意味はない
ただの偶然
>「咫は、文飾的文言で、数詞ではない(でないと困ります)」
「咫」は単位であって、数詞ではない 日本語でも漢語でも同じ
史記が書かれた前漢の時代で既にほぼ「咫尺」という熟語にしか使われなくなっている 245日本@名無史さん2018/04/25(水) 20:31:43.14
>>202
>「平原の内向花文鏡は、欲しがる人がいなかったんだよ(でないと困ります)」
他で平原1号墓出土鏡と同汎鏡とされるものは出ていない(事実)
>「周りに対する影響が皆無なのが、3世紀の北部九州 (でないと困ります)」
3世紀になって、地域首長墓として小さな方形周溝墓を作っているところはない
要するに時代遅れ
土器様式も、他からの流入はあっても、周囲への影響は皆無
>「倣製鏡は、いくらでも作れるんだから、威信材として格落ちで(ないと困ります)」
仿製鏡くらい、正しい字で書けるといいね
平原1号墓出土の方格規矩鏡とか見れば明らかだろ?
舶載の方格規矩鏡と比べて、内区の配置が裏返っているし、鋳上がりも不鮮明なのが
32枚もあってもそれで王墓だということにはならないだろ?
>「平原の大鏡は、当然「王権の象徴」としては不適当(でないと困ります)」
平原1号墓出土の大鏡は、伊勢の本物の八咫鏡を入れる御樋代の大きさと近いから
「八咫鏡」という論理で、「八咫鏡」なら「王権の象徴」だろうという話だったんだよ
でも、御樋代の中にさらに黄金鑵があって、「八咫鏡」はさらにその中
平原1号墓出土鏡は、大きさが全然違う
まあ、もともと御樋代の大きさもぎりぎり過ぎて、平原1号墓出土鏡を入れるには
不適当な大きさなんだけどね
ということで、こちらは「困るから」ではなく、「事実ベースの根拠」を挙げて
九州説側の主張が成り立たないことを論証している
反論したかったら「困るから」とかいう主観的表現ではなく「根拠』を挙げてどうぞ 246日本@名無史さん2018/04/25(水) 20:34:18.25
>>985
>神功皇后の事績は少なくとも3人の寄せ集めのように思われる<
大和天皇家の神功伝承は、おそらく古事記の記載だけであったのであり、
書紀の神功紀の記載の中で「古事記にはない話」は、
書紀の「筑紫倭國の史書からの盗用」や、
他書との「造作」が混ざっている可能性が高い。
>庄内期は3世紀、
淤斯呂和気や神功皇后はどうあっても 4世紀にしかならないのはわかる。庄内期の九州での土器伝播を説明する人物は
でも他に該当者がいない、、、<
書紀の神功の熊襲征伐譚は、古事記には殆どなく、
筑紫倭国の史書からの盗用であった可能性も高いが、
書紀の景行の南九州遠征も、古事記には全くないから、
筑紫倭国の史書からの盗用であった可能性が高い。 247日本@名無史さん2018/04/25(水) 20:42:04.98
248日本@名無史さん2018/04/25(水) 20:53:26.25
>>72
>スサノオが豊かな田に嫉妬して度々荒らしにきたとあるだろう。
近畿周辺の東海や山陰の勢力が嫉妬したんだな。
そして征伐に来る。 倭国大乱、近畿征伐、記紀でいう神武東征だよ。
結果できたのが、山陰と東海の勢力を中心とした大和朝廷だよ。<
倭国大乱も、大和朝廷もなかったし、
神武は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種であり、
大和は、それまでの出雲系毛人の地であったのが、
倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」によって出来た国の中の一国であり、
倭國の地方の市を監督する大倭職の旧小国であり、
欠史八代の頃は、出雲系毛人と阿毎氏との混在地域であったんだよ。 249日本@名無史さん2018/04/25(水) 20:57:16.38
神武・・・当時、天皇ではなかったようなんだけど、
いつから天皇になったの?
天王〜天皇へと、アセンションした?
250日本@名無史さん2018/04/25(水) 20:57:24.50
>>74
>畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。
纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。
記紀にもヤマト征伐によって大和朝廷が始まる様子が記述されている。<
大和朝廷なんて存在していなかったから、×。 251日本@名無史さん2018/04/25(水) 20:59:15.37
真の紛いもの?
天皇から天王になったでも同じ、
もともと(そもそも)日本の話ではないでしょ
252日本@名無史さん2018/04/25(水) 20:59:45.25
神武ってのはどうみても3世紀以降
日本の歴史はそこから始まってる
253日本@名無史さん2018/04/25(水) 20:59:49.97
>>75
>魏志倭人伝 邪馬台国の官 官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。
次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。
伊支馬は生駒。・・・<
「邪馬台国」なんてなかったし、
「生駒」としたら、「南≠東」に拠って×。 254日本@名無史さん2018/04/25(水) 21:03:40.59
>>78
>月読はサルタヒコと同一かもね。<
そんな事は書かれていない筈だから、×だろうなあ。 255日本@名無史さん2018/04/25(水) 21:03:44.85
天武朝が神武系なだけかもね。
256日本@名無史さん2018/04/25(水) 21:05:49.04
>>252
神武はたしかにそのくらいの時代だが、倭の歴史はそれ以前からある。
漢との国交は紀元前に遡る。
記紀でも、神武の前に筑紫に何代も王がいて、その前は出雲が覇権を握っていた。
神武は神代の巻の最後に登場する。 257日本@名無史さん2018/04/25(水) 21:06:34.88
>>80
>卑弥呼と対立する狗奴国卑弥弓呼。
魏志倭人伝当時の邪馬台国の南の狗奴国は、河内と和泉だろう。<
「南≠東」だから、×。 258日本@名無史さん2018/04/25(水) 21:11:16.55
>>256
>出雲が覇権を握っていた
ダウト!
なぜ出雲の墓制が全国に広まってないのか? 259日本@名無史さん2018/04/25(水) 21:13:09.29
全国を支配していたわけではない。
倭国は日本海側だけ。
しかも筑紫の勢力に征服されてしまう。
260日本@名無史さん2018/04/25(水) 21:14:02.56
瀬戸内海は歴史に残らなかった傍系の倭地にすぎない。
261日本@名無史さん2018/04/25(水) 21:28:52.56
>>109
>伊都国が筑前西部(糸島市付近)
奴国が筑前中部、北部、東部(伊都国と不弥国を除く筑前)<
奴國は、伊都国から「東南至奴國百里」だから、
三雲や平原付近(が入り口)だ、と言っている事にしかならない。
>不弥国が筑前南部(那珂川町、春日市、大野城市、筑紫野市付近)<
奴國へは、途中移動の説明がないから、
伊都国からの側副傍線國説明にしかならないが、
不彌國へはは、「行」という途中移動の動詞が書かれて、
奴國とははっきり書き分けられているから、
不彌國は、伊都国からの「東行至不彌國百里」の場所になり、
姪浜の東の小戸や西新町付近になるので、×。 262日本@名無史さん2018/04/25(水) 21:42:27.35
大名に筑紫守がいないのはなんでだろう?
263日本@名無史さん2018/04/25(水) 21:44:03.22
>>117
>>排中律の意味がわかってないアホ<
>それが九州説の悲しさです<
それが、不可知部分が殆どである自然や歴史において、
正否の二者択一か考えられず、その間の中間的な状態が考えられない、
何でも絶対断定論の大和説者の、アホの悲しさです。 264日本@名無史さん2018/04/25(水) 21:50:43.47
>>144
史料事実などからの帰納的確率的な推論が出来ない大和説のアホは、
学問やめて帰農するといいよ 。 265日本@名無史さん2018/04/25(水) 22:01:50.32
>>168
なんでwwなどのような大和説者は、
何も理由を言わずに100%断定ばかりするんだろう。
大和説が、学説でなく、(オームと同じように)皇国史観宗教だからだろうか 。 266日本@名無史さん2018/04/25(水) 22:39:09.75
>>174
>>>そして鎌倉時代同様、東の自治政府が西の中心地を武力的に圧倒していた、
ということで なんら齟齬はないように思われる<
>>「東征毛人五十五國」であったんだから、×<
>「東征毛人五十五國」であったら何なんだ? イミフ <
倭王武の頃までは、反対に、
東の自治政府の大和を、西の中心地の倭国が武力的に圧倒していた、
という事なっていたんだから。 267日本@名無史さん2018/04/25(水) 22:41:44.71
>>176
このように、
大和説者やwwらは、ヘイトスピーチ的なデマ体質。 268日本@名無史さん2018/04/25(水) 22:45:30.19
>>184
あのね、
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説って、
やってるとね ウソをつくのが
平気になるらしいよ。 269日本@名無史さん2018/04/25(水) 23:01:21.15
>>193
>>倭国の位置を「正北抵新羅になる位置だ」として、
同じ九州に特定しているんだから<
>「北限大海。西北接百濟。正北抵新羅。南與越州相接。」
越州(浙江省)は九州と接していない <
唐会要の「接」の使用意味は、百済での記載でも判るように、
地理的に接している、というのではなく、
新羅との「抵」と反対の意味で、
「仲のよい友好的な関係」である、という意味での使用法。
また、越州は、浙江省ではなく、
南の南西諸島から琉球列島(や台湾)を介して、「越」の地方とも友好的である、
という意味。
>倭国の凡その位置を書いている 新羅と抵しているのは倭国の対馬、<
対馬が単独で、新羅と敵対や抵抗をする筈がない。
倭国伝の記載であるから、新羅と敵対したのが倭国。
>倭国の北は大海の日本海<
倭国の北で、敵対的であったのは新羅。 270日本@名無史さん2018/04/25(水) 23:07:38.00
これも、かなり前に書いた
誰なのか、わからないけど、
某徳永英明氏の曲が好きなのかな?
271日本@名無史さん2018/04/25(水) 23:10:27.12
某徳永英明氏・・・1990年頃の作品
もれ(仮)は、
むかーし、から?知っていたけど
272日本@名無史さん2018/04/25(水) 23:12:24.79
>>201
>アテに? しとらんけど?<
出発地や到着港の比定の問題もあり、
55m〜90m 位の差異しかなければ、大体合っている計測値であり、
十分根拠になり、(434m位の長里よりははるかに)アテにすべき。
>実際と5〜6倍も違うのだから
「魏志倭人伝の距離記述は不正確」という結論は あたりまえ<
実際とは、(5〜6倍ではなく)2割くらいしかではなく)違わないのだから、
アテにすべき。 273日本@名無史さん2018/04/25(水) 23:15:26.66
「生まれた国さえ失って」
このような曲もあるでしょ、
最近になり気づいた人がいるとか?
274日本@名無史さん2018/04/25(水) 23:16:10.51
>>203
こんなふうに、
「南→東」などのように、都合の悪い史料事実の否定曲解を、
理由も言わずに言い張るのが、
大和説信者。 275日本@名無史さん2018/04/25(水) 23:25:16.27
>>206
「5〜6倍も違う里距離」などという、普通では有り得ない度量衡で、
測量した里数ではないということだよね。
最大誤差で2割位なら、ほぼ間違える事なく、女王之所都に着ける。
>九州到着後にさらに60数泊すると女王の都がある邪馬臺國<
邪馬臺國なんて卑弥呼の頃には存在していなかったし、
不彌國で、萬二千余里がほぼ終わっているから、「さらに60数泊する」必要もないし、
勿論「南≠東」だから、大和なんて、始めから有り得ない。 276日本@名無史さん2018/04/25(水) 23:28:09.42
>>210
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は、
こんなふうに中傷専門だ。 277日本@名無史さん2018/04/25(水) 23:31:34.67
『壊れかけのradio』
『radio gaga』(女王)
『radio magic』(アースシェイカー)
老婆談なんだけど、電気(発電)の話をしていたことがあったり、
でも曲のことは知らない
278日本@名無史さん2018/04/25(水) 23:36:26.95
ポケモンの話なのかな?
徳永英明『CRESCENT GIRL』
これはドラゴンボール、セーラームーン?でしょ
279日本@名無史さん2018/04/25(水) 23:39:22.80
これで40代のおっさんなんだぜ…
280日本@名無史さん2018/04/25(水) 23:40:57.88
EARTHSHAKER『Radio Magic』〜『おれはこいつと旅に出る』
281日本@名無史さん2018/04/26(木) 00:05:32.10
マサラタウンというのは仏教関係の話なのかな、
それとも正良親王?という人物がいたでしょ
この周辺の話なのかな
282日本@名無史さん2018/04/26(木) 00:08:50.56
テンプレを貼ることだけを生きがいとする老人は、自分で呟いてスレを埋めていくのだな。
哀れなことだ。
283日本@名無史さん2018/04/26(木) 00:20:53.00
ネタか何かなのかな?
Radio Magicという曲
夜の貴須と言っていたり
284日本@名無史さん2018/04/26(木) 00:22:50.07
調べてみて『貴須』
夜の貴須(キス)
285日本@名無史さん2018/04/26(木) 00:33:06.70
『君に決めた!』〜『ヱヴァンゲリヲン』
槍のようなものに刺されているキャラクター、
遠い親戚、先祖か何かなのかな
三貴子?
286日本@名無史さん2018/04/26(木) 00:44:53.64
菅原?の話をしていたり、
発電、電気を起こしていた話とか
合致しているような
287日本@名無史さん2018/04/26(木) 00:49:02.79
『貴須』で調べると、
大津神社というサイトが出てくるはず、
いろいろと書いてあるけど、
老婆は、むかーしから知っているような?
そういう神社などに行ったこともないし
288日本@名無史さん2018/04/26(木) 00:52:19.91
>>269
隋が605年に浙江省紹興県地方を越州としている
唐會要では「在新羅東南、居大海之中」だから倭国の北限は大海の日本海、
正北の新羅と直接抵触しているのが倭国の対馬 289日本@名無史さん2018/04/26(木) 00:56:27.16
『何者にもなれない お前たち』
家の写真なんだけど、
キュウリの葉も写っていて、
あと葱の華
菅野力夫?・・・のような名前の家
290日本@名無史さん2018/04/26(木) 01:09:03.93
身長5尺8寸
291日本@名無史さん2018/04/26(木) 01:33:16.85
本当に、あの謎の写真だよ、
白い制服のようなものを着ている子供が写っていたでしょ
軍人でもない、
警官・・・でもないと言っていたり
お爺さんのほうの家(とは言っても家なんだけど)の・・・?
子供の頃の写真
292日本@名無史さん2018/04/26(木) 01:58:59.31
これで40代のおっさんなんだぜ…
293日本@名無史さん2018/04/26(木) 02:56:24.71
他のスレにも書いているんだけど、
お前の名前は?
家は菅野力夫?のような名前の家なんだけど、
本物だった?
294日本@名無史さん2018/04/26(木) 03:01:11.22
どのスレだったかな
それ宮様の写真じゃないの?と言ってる人がいたんだけど
何々宮だったのかな、カミ〜宮?
295日本@名無史さん2018/04/26(木) 03:26:20.00
海上部族である天津神が出雲を攻略して陸上の支配権をも奪ったのが出雲の国譲り。
かくして筑紫の日向に倭国統一政権が誕生したわけです。
ただしこの時点では倭国はまだ筑紫と出雲くらいで、しかも中国と交渉するのは筑紫だけ。
だから金印をもらうのも筑紫だけ。
中国からの使いが来ても駐在するのは筑紫だけ。
倭王がいるのも当然、筑紫。
倭王である高祖日向三代がいたのは筑紫の日向、伊都国と奴国を含む福岡県西部の博多湾沿岸、高祖山がある日向地区。
倭王である卑弥呼も例外ではない。
296日本@名無史さん2018/04/26(木) 03:33:50.65
素人が妄想するだけの九州説は
畿内説の歴史学と決定的に差がついてしまったな
297日本@名無史さん2018/04/26(木) 06:48:01.79
298日本@名無史さん2018/04/26(木) 06:49:21.52
正しい指摘される負け犬
299日本@名無史さん2018/04/26(木) 06:49:34.08
300日本@名無史さん2018/04/26(木) 06:50:04.23
>>217
>・卑弥呼・台与の一族が後の王権に繋がる(日本の神話に登場)<
「台与」なんて存在しない。
卑弥呼は呉王夫差の遺民の「姫氏」であり、倭の五王の東海姫氏國に繋がり、
倭王武の次の「倭国王哲」を最後に、天孫族系と思われる磐井が倭国王になった。
壹與は、天孫族系の阿毎氏系から卑弥呼の宗女になったようであった。
>・女王のシャーマニズムの名残が後の天皇家の宮中祭祀(後漢書:鬼神道能以妖惑衆)<
姫氏の卑弥呼の鬼道は、当然呉地域の道教的祭祀。
後の大和の天皇家は、天孫族の阿毎氏であり、天照の祭祀を継承した。
姫氏は、その分家が一旦天孫族と合同(婚姻?)しているから、一部に混合状態になっている。
>・邪馬台はヤマトと読み中国人の当て字 (日本人がmachineをミシンと呼ぶように)<
邪馬台国なんて存在しないから、×。
>・邪馬台国はヤマト王権の前身
(いきなりヤマト王権が登場するのは不可能、アメリカも13州からスタートした)<
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種であり、「東征毛人55国」をした一つ。
>・邪馬台国の連合国政権は近畿、出雲〜北部九州の広域を版図とした
(近畿〜九州北部かけて物証がある)<
×。前項と同じ。 301日本@名無史さん2018/04/26(木) 06:56:18.88
>>219
>纒向遺跡の外来系土器で一番多いのは東海系。 次に山陰系。<
いずれも、「東征毛人55国」以前の毛人系。
市を介して纏向への搬入があった。
>邪馬台国、大和朝廷の主体は東海と山陰だな。<
邪馬台国も大和朝廷もなかったから、×。
>河内や和泉が魏志倭人伝当時邪馬台国、大和朝廷の版図に含まれていた根拠は何もない。<
河内や和泉も、筑紫倭国の「東征毛人五十五國」の中の国の一つ。 302日本@名無史さん2018/04/26(木) 07:03:02.10
>>227
>アマゾンで邪馬台国の全解決という本を買った。古代史のベストセラーだった。
驚いたが、頭の整理がつかん、 どう思う?<
「邪馬台国」という存在もしない嘘つき騙しの表題を書いているようでは、
その筆者の信頼性が全くない、という事になり、
関心もない。 303日本@名無史さん2018/04/26(木) 07:17:07.61
>>229
>畿内説の「畿内」は現在でも使われている地域概念の畿内 <
倭国の別種の旧小国の大和にの、天皇がいた、という嘘つき騙しの文言であるから、×。
>倭人伝の時代は邪馬臺國<
邪馬臺國は、5世紀時点での倭王の居地名。
倭人伝の時代は、邪馬壹國。
>柳田は三雲発祥などとは言っていない、非学問<
西日本全域や半島からの土器が集積した弥生銀座の、那珂八幡地域に存在した庄内よりも、
三雲の庄内が古い、といっているんだから、
三雲が最も古い、という事になる。
>「倭国の東征毛人五十五國」 毛人は日本では東日本、北部九州は西服衆夷六十六國に含まれる
渡平海北九十五國を見ても全体的に現実的な内容ではない<
倭国の所在地は、唐会要倭国伝の「正北抵新羅」に拠って、九州である事が確定しているから、
西服衆夷六十六國も九州付近であった事になる。 304日本@名無史さん2018/04/26(木) 07:31:03.05
>>233
>福岡平野の中心は弥生終末〜古墳初頭には弥生銀座と呼ばれている春日地域から
比恵那珂、西新町の博多湾沿岸に移る <
弥生銀座は、始めから春日地域が中心で、那珂川御笠川流域全体。
>那珂が北部九州における庄内甕の模倣製作中心地<
模倣ではない。
在地胎土で造った自前のものと、
播磨や河内の胎土で造られた庄内の搬入上納との、混合。 305日本@名無史さん2018/04/26(木) 07:32:01.62
>>303
>西日本全域や半島からの土器が集積した弥生銀座の、那珂八幡地域に存在した庄内よりも、
>三雲の庄内が古い、といっているんだから、
>三雲が最も古い、という事になる。
無知まるだし
それより畿内の庄内式が古いのは常識だし、柳田もそう考えている 306日本@名無史さん2018/04/26(木) 07:36:55.97
>>303
>倭国の所在地は、唐会要倭国伝の「正北抵新羅」に拠って、九州である事が確定しているから、
唐会要倭国伝に遣唐使の藤原さんが載ってんだから、九州で確定とか大笑い 307日本@名無史さん2018/04/26(木) 07:39:34.59
>>241
>>大和には、楽浪人ですら住み着いておらず<
>漢代は楽浪人にとって地理的に利便性が良いところを楽浪人が選んだ窓口
日本では毛人は東国 <
毛人は、九州にもいた、と思うよ。
宗像が「ズーズー弁の毛人」と思われる出雲系であったし、
天孫族の阿毎氏の天孫降臨を案内先導した猿田彦は、見るからに毛人のような呼び方であるし、
確か、神武東征の頃にも佐賀付近に「エミシ」と呼ばれた部族がいたようだし。 308日本@名無史さん2018/04/26(木) 07:50:31.69
いい加減な知識の九州トンデモ説に騙されるのは
無学すぎる素人だけだろ
309日本@名無史さん2018/04/26(木) 08:15:01.75
>>307
>大和には、楽浪人ですら住み着いておらず
出島の商館長は江戸に住んでなくて当然だわな 310日本@名無史さん2018/04/26(木) 10:02:26.51
>>242
>魏志倭人伝 (末慮国から) 東南陸行五百里、到伊都國 現実 千々賀遺跡 北東30キロ 三雲遺跡群
1里=60メートル
魏志倭人伝 (伊都国から)東南百里至奴國 ちょっと語順入れ替え
現実 三雲遺跡群 東北東18キロ 比恵・那珂遺跡群
1里=180メートル
3倍異なるものを、一つの単位だっていうのがおかしい <
これ、反論でインチキの指摘済みね。
千々賀遺跡は、海岸から遠過ぎて、魏使らが行く筈もない場所だし、
末盧國からの「東南」は出発方向。
また、奴國の比定の比恵・那珂遺跡群、ていうのもおかしい。
伊都国の東南になっていないし、伊都国の東南百里なら三雲平原付近だし、
比恵・那珂遺跡群は、不彌國の南〜東南だから、邪馬壹國地域になってしまう。
要するに、このwwは、・・・・詐欺師。 311日本@名無史さん2018/04/26(木) 10:08:01.47
>>310
>千々賀遺跡は、海岸から遠過ぎて、魏使らが行く筈もない場所だし、
無知ゆえの妄想
昔の地形くらい調べるのが邪馬台国を論じる者の常識なのに、それをしない
九州説のレベルは低い 312日本@名無史さん2018/04/26(木) 10:17:19.87
>>244
>(里数記載)現実の地理に合わないのは事実
>魏晋里で測った距離よりも長い里程が記されている、つまり誇張されているということだ
淮南子等に見られる大陸世界での世界観、「東方之極萬二千里」に合わせたと見るのが妥当<
萬二千余里で、
陳寿も、きちんと「会稽東治之東」というほぼ正しい位置指定をしているから、
里数は、魏の役人たち全てが使って計測したもの。
それに、倭地は(アジア)大陸ではないし、更に遠くの侏儒國や、
「裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至」まで書かれていちゃ、
「東方之極萬二千里」の思想なんて、全く考えていない、という事。
要するに、wwは、・・・・インチキ詐欺師。
>「咫」は周尺の単位であり、漢尺の八寸で一致するといっても意味はない
ただの偶然
>「咫」は単位であって、数詞ではない 日本語でも漢語でも同じ
史記が書かれた前漢の時代で既にほぼ「咫尺」という熟語にしか使われなくなっている <
「咫」は、「女性の手の大きさ」を示す形容詞的な単位であり、
列島で沢山使われているのは、ドーナツ現象。 313日本@名無史さん2018/04/26(木) 10:18:12.01
いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、
314日本@名無史さん2018/04/26(木) 10:18:51.20
どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったと考えているのかな、、、
315日本@名無史さん2018/04/26(木) 10:20:03.07
どうして、畿内説は破綻してしまったのかな。。。。
316日本@名無史さん2018/04/26(木) 10:22:00.58
>>313
テンプレートの嘘が、一つづつ丁寧に、暴かれているね、、、 317日本@名無史さん2018/04/26(木) 10:22:49.15
>>314
あの、鍵穴型の墓のせいじゃないのかな、、、
魏志倭人伝に書かれているものとは帯方郡からの方角も距離も形も違うけどね。。。 318日本@名無史さん2018/04/26(木) 10:23:27.13
改めて狂人のキナイコシが貼り付けているテンプレートを読んでみると、訳が分からなくなってくる。。。
奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることの言い訳ばかりで、、、
かえって、奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることが強調されているのではないのかな。。。
319日本@名無史さん2018/04/26(木) 10:24:11.41
テンプレートに書いてあることの根拠が、本当は無いもないということが、優れた考古学者達によって、明らかになってしまったね。
320日本@名無史さん2018/04/26(木) 10:24:53.66
仲哀天皇の王宮は、なぜ畿内ではないのだろうか。。。
321日本@名無史さん2018/04/26(木) 10:25:05.71
古事記と日本書紀を読み進めていくと、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。
322日本@名無史さん2018/04/26(木) 10:25:59.04
魏志倭人伝の時代は西暦何年なのだろうか、、、
323日本@名無史さん2018/04/26(木) 10:27:03.91
計算すると、西暦200年頃からだな。。。
324日本@名無史さん2018/04/26(木) 10:27:27.87
では、邪馬台国時代の天皇は誰なのだろうか、、、
325日本@名無史さん2018/04/26(木) 10:28:07.65
計算すると、応神天皇の頃だな。。。
昔の天皇は長生きだな。。。
魏志倭人伝にも倭人が長生きで100年生きるとあったが、それが正しいことが証明されたな、、
326日本@名無史さん2018/04/26(木) 10:29:02.39
計算すると、神武天皇の方が800年以上古い時代のようだな。。。
327日本@名無史さん2018/04/26(木) 10:29:29.80
大物主は何年前の者だろうか、、、
328日本@名無史さん2018/04/26(木) 10:29:47.80
大物主も神武天皇の時代の人なのだね、、、
329日本@名無史さん2018/04/26(木) 10:30:40.63
あの掘立遺跡が大物主の倉庫で、神武天皇の時代のものだから、孝元天皇の妹の墓は随分と後の時代の物だね、、、
330日本@名無史さん2018/04/26(木) 10:31:04.03
古事記と日本書紀を読み進めていくと、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。
331日本@名無史さん2018/04/26(木) 10:31:23.64
しかし、大物主はその孝元天皇の妹の夫でもあるね。。。
どういうことだろうか、、、
332日本@名無史さん2018/04/26(木) 10:31:47.88
やはり、大物主というのは役職名なのではないのかな。。。
333日本@名無史さん2018/04/26(木) 10:32:43.75
>>316
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 334日本@名無史さん2018/04/26(木) 10:33:22.67
>>333
あれでしょ、、、あれ、あそこに埋もれてたあれ、
先頭のお役所の方は気づかなかったようだけど、、、 335日本@名無史さん2018/04/26(木) 10:33:47.37
>>334
そうそう。あれを最初に目にしたあの人が、機転を利かせて足元の枯葉を蹴り掃いて覆ったけど、、、 336日本@名無史さん2018/04/26(木) 10:34:44.78
九州説は異常者しかいないの?
337日本@名無史さん2018/04/26(木) 10:36:09.58
畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。
338日本@名無史さん2018/04/26(木) 10:36:40.96
不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。
339日本@名無史さん2018/04/26(木) 10:37:12.76
キナイコシは、なぜスレッドに張り付いているのだろうか。。。。
340日本@名無史さん2018/04/26(木) 10:37:58.02
>>332
九州の王族に仕えた霊園管理者の役職名なのだろうな。。。。 341日本@名無史さん2018/04/26(木) 10:38:38.60
>>340
それにしては、自分の妻の為に作った墓がやけに大きいな。。。 342日本@名無史さん2018/04/26(木) 10:39:27.84
古事記と日本書紀を読み進めていくと、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。
343日本@名無史さん2018/04/26(木) 10:41:02.35
畿内説を論破されたキナイコシが、反論を諦めて悪口だけになってきているな。。。
344日本@名無史さん2018/04/26(木) 10:45:14.94
畿 内 説 を 論 破
さ れ た キ ナ イ
コ シ は 、 追 い
詰 め ら れ る と
、 空 白 の 改 行
を 乱 発 す る 癖
が あ る な 。 。
345日本@名無史さん2018/04/26(木) 10:46:33.69
>>341
大物主の妻は天皇の妹でもあるから、良いのではないのかな。。。 346日本@名無史さん2018/04/26(木) 10:47:17.02
>>319
そうだね、、、
そして、僕たちは最近新しい情報を手に入れたね。。。 347日本@名無史さん2018/04/26(木) 10:47:40.62
畿内説に論破された東遷説爺さんが、反論を諦めて悪口だけになったんだよ
あんただがな
w
348日本@名無史さん2018/04/26(木) 10:48:38.43
349日本@名無史さん2018/04/26(木) 10:49:05.22
キナイコシがまた勘違いしているな。。。
350日本@名無史さん2018/04/26(木) 10:49:27.35
>>349
そうだね。。。僕たちは今、古事記と日本書紀に卑弥呼のことが書かれていないか研究しているだけなのにね。。。 351日本@名無史さん2018/04/26(木) 10:50:37.37
複製して何者かが貼り付けている投稿と、何度も何度も必死に戦っている、奈良の狂った老人がいるね、、、
なぜだろう、、、
352日本@名無史さん2018/04/26(木) 10:51:35.19
>>346
そうそう、僕たちは、とうとう、優れた考古学者が紹介してくれた大物主の倉庫が、古墳のことではなく、巻向駅から歩いていける、あのちっぽけな空き地にあったものだということを調べ上げてしまったものだものね。。。 353日本@名無史さん2018/04/26(木) 10:54:29.83
東遷説とは何だろうか、、、
354日本@名無史さん2018/04/26(木) 10:56:07.03
>>353
神武天皇のことを紹介した、古事記や日本書紀のことではないのかな。。。 355日本@名無史さん2018/04/26(木) 10:58:41.05
>>303
>天皇がいた、
天皇は中央集権になってから
>邪馬臺國は、5世紀時点
後漢書は倭人伝よりも古い漢代の資料で書かれているから5世紀時点ではない
>三雲が最も古い、
三雲からは僅かしか出てないから搬入品であって
那珂より三雲の庄内が古くても畿内の古い段階の搬入ということにしかならないが
現在は福岡の資料が増えて福岡産だとわかっている
>「正北抵新羅」に拠って
唐會要では「在新羅東南、居大海之中」 356日本@名無史さん2018/04/26(木) 11:00:39.51
>>353
調べてみると、邪馬台国が九州から畿内に遷都したという説のようだね。。。 357日本@名無史さん2018/04/26(木) 11:01:53.11
>>350
そうそう、このレベルの低いスレッドを、そのための備忘録代わりに使っているだけなのにねw 358日本@名無史さん2018/04/26(木) 11:02:13.70
>>246
>他で平原1号墓出土鏡と同汎鏡とされるものは出ていない(事実)<
おそらく、魏帝からの下賜鏡を元にして、副葬用に新たに造った鏡だから。
>3世紀になって、地域首長墓として小さな方形周溝墓を作っているところはない
要するに時代遅れ<
前方後円墳は、晋の武帝らからの教育の後だから、275年頃の那珂八幡などが最初。
それまでは、祇園山の高冢古墳があるが、方形周溝墓もメインであった。
>土器様式も、他からの流入はあっても、周囲への影響は皆無<
庄内は三雲が発祥。河内や播磨がそれを模倣した。
>平原1号墓出土の方格規矩鏡とか見れば明らかだろ?
舶載の方格規矩鏡と比べて、内区の配置が裏返っているし、鋳上がりも不鮮明なのが
32枚もあってもそれで王墓だということにはならないだろ?<
副葬用に、明帝下賜鏡を元にして造ったもの。
>平原1号墓出土の大鏡は、伊勢の本物の八咫鏡を入れる御樋代の大きさと近いから
「八咫鏡」という論理で、「八咫鏡」なら「王権の象徴」だろうという話だったんだよ
でも、御樋代の中にさらに黄金鑵があって、「八咫鏡」はさらにその中
平原1号墓出土鏡は、大きさが全然違う まあ、もともと御樋代の大きさもぎりぎり過ぎて、平原1号墓出土鏡を入れるには
不適当な大きさなんだけどね <
始めから、伊勢神功のが「八咫鏡」の大きさだ、なんて言ってこなかっただろ?。
ということで、wwは、相手が言ってもいない事を曲解でっちあげて、
それで相手を誹謗する・・・・詐欺師。 359日本@名無史さん2018/04/26(木) 11:03:08.94
>>318
仕方ないよ、、、、
奈良のあの古墳は、天皇の妹を祭ってあるものなのだもの。。。
魏志倭人伝の世界の古墳とは、時代も、距離も、方角も、形も何もかもちがうのだからね。。。。
テンプレートは嘘をちりばめて、その全てのことに言い訳しなきゃならないのだからね、、、 360日本@名無史さん2018/04/26(木) 11:03:57.80
>>304
>那珂川御笠川流域全体
弥生銀座と言われるのは、弥生各時期の遺物が出る春日周辺のこと
>模倣ではない。
見たことも無い素人がウソの歴史を作っても日本史ではない 361日本@名無史さん2018/04/26(木) 11:04:48.94
362日本@名無史さん2018/04/26(木) 11:05:21.85
2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、
363日本@名無史さん2018/04/26(木) 11:05:45.27
364日本@名無史さん2018/04/26(木) 11:09:27.22
>>307
毛人という語の最古は5世紀
天孫降臨という語は8世紀 365日本@名無史さん2018/04/26(木) 11:10:24.14
毛人とは何だろうか、、、
366日本@名無史さん2018/04/26(木) 11:11:14.37
367日本@名無史さん2018/04/26(木) 11:16:52.23
>>358
で、呉王夫差の後裔が山門に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と龍信仰と
亀卜は?
で、呉王夫差の後裔が山門に渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
いつ言うんだよおまえ! 368日本@名無史さん2018/04/26(木) 11:21:09.99
>>358
で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と龍信仰と
亀卜と日常食の蒸し餃子とワンタンは?
で、徐福集団が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
いつ言うんだよおまえ! 369日本@名無史さん2018/04/26(木) 11:22:20.56
>>247
>>筑紫倭国の史書<
>どこにある?<
筑紫倭國の公式史書は、8世紀始めの大和政権の「禁書」政策によって、殆ど消失した。
僅かに、書紀がついうっかり記載した「日本旧記」という史書名が残っており、
その他には、
書紀の「一書」群の一部には筑紫倭国の史書が含まれていた可能性がある事と、
大量の九州年号記録文献や二中歴などに、筑紫倭国の史書的記録が含まれているケースがある事と、
肥後や薩摩などの旧家や神社伝承記録に、九州倭国の歴史の記載が残っているケースがある。 370日本@名無史さん2018/04/26(木) 11:24:47.14
>>358
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらした事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰と亀卜は?
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらしたとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
いつ言うんだよおまえ! 371日本@名無史さん2018/04/26(木) 11:25:56.89
372日本@名無史さん2018/04/26(木) 11:43:17.95
>>249
>神武・・・当時、天皇ではなかったようなんだけど、
いつから天皇になったの? 天王〜天皇へと、アセンションした?<
大和王家が天皇を称したのは、天智から。
しかし、筑紫倭國では、倭王武が常陸風土記に「倭武天皇」と記録されている事や、
書紀引用の百済本記に「日本天皇及太子皇子倶崩薨」として、
書紀には記録されていない事件記録が引用され、
大和は、まだ誰も天皇を称した人はいない筈であるから、
この「日本天皇・・・」は、倭武天皇がいた筑紫倭國の天皇であった、という事になり、
筑紫倭國は、倭王武の頃から、(中国での天子をさけて)「天皇」を称していたらしい、
という事になる。 373日本@名無史さん2018/04/26(木) 11:50:15.78
要するに筑紫が別種の日本国だと主張しているのかな
374日本@名無史さん2018/04/26(木) 11:56:01.40
>>252
>神武ってのはどうみても3世紀以降 日本の歴史はそこから始まってる<
書紀の記載を認めれば、神武即位元年は紀元前660年頃。
しかし、平安期末頃の二中歴の、
「年始五百六十九年内丗九年無号不記支干其間結縄刻木以成政
継体五 元丁酉((517〜521)・・・」
において、
517−39−569×2=−660
が成立するから、
書紀は、神武即位元年から569年間は二倍年歴記載をしていた、という事になり、
ー660+569=−91であるから、
神武即位元年は、紀元前91年頃だった、という事になる。 375日本@名無史さん2018/04/26(木) 12:37:55.07
376日本@名無史さん2018/04/26(木) 12:40:11.24
『襲国偽僣考』で九州年号を創作した豊後の鶴峯戊申は江戸時代の国学者だから皇国史観
卑弥呼は兵庫大阪の筑紫一元説が毛人と呼んでる側の九州南部の熊襲の女酋長
377日本@名無史さん2018/04/26(木) 12:45:17.78
毛人のことを調べれば調べるほど、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。
378日本@名無史さん2018/04/26(木) 12:46:17.24
倭武天皇とは、誰だろうか、、、
379日本@名無史さん2018/04/26(木) 12:47:07.49
2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、
380日本@名無史さん2018/04/26(木) 12:54:42.90
わざわざウソまでついて
どうして邪馬台国を九州にしたいんだろう
理解できない
381日本@名無史さん2018/04/26(木) 12:57:07.29
>>361
でも、結構な数の研究者の目に留まっちゃったんだよね。。。 382日本@名無史さん2018/04/26(木) 12:59:24.33
キナイコシは、テンプレートが論破された時、あまり意味のない空白の改行を行う癖があるな。。。
383日本@名無史さん2018/04/26(木) 12:59:53.74
将来を嘱望されている、有能な若手学者がフェードアウトしていく、きっかけになった2013年の調査からこのかた、急に畿内説の素人や学芸員レベルの爺さんのネットでのつぶやきが危地外じみてきたね
有能な若手考古学者を繋ぎとめるために、ポストをちらつかせるのが常套手段だが、大和王権を扱う若手の学者たちは、邪馬台国問題からは距離を置きたがっている
384日本@名無史さん2018/04/26(木) 13:01:05.27
倭武天皇のことを調べれば調べるほど、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。
385日本@名無史さん2018/04/26(木) 13:02:36.44
三足や耳の付いた中国系生活土器とは、どんな物だろうか、、、
386日本@名無史さん2018/04/26(木) 13:03:00.34
>>352
あのちっぽけな空き地の大規模発掘調査では、その柱の穴は、粗末な倉庫のものだということと、大物主時代の化石だらけだったことと、そして、そこが、魏志倭人伝時代の直前に湖の底だったことが判明したのだものね。 387日本@名無史さん2018/04/26(木) 13:03:48.69
2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、
388日本@名無史さん2018/04/26(木) 13:04:55.34
>>382
こうか?
荒らしが異常連投してるときは
誰でもやるぞ
やらないと
目立たないから
単なる自衛だ 389日本@名無史さん2018/04/26(木) 13:05:56.87
キナイコシが無駄なことをやっているな。。。
390日本@名無史さん2018/04/26(木) 13:06:46.71
改めて狂人のキナイコシが貼り付けているテンプレートを読んでみると、訳が分からなくなってくる。。。
奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることの言い訳ばかりで、、、
かえって、奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることが強調されているのではないのかな。。。
391日本@名無史さん2018/04/26(木) 13:07:15.29
いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、
392日本@名無史さん2018/04/26(木) 13:09:21.70
キナイコシは、僕たちの会話を一人芝居だと思っているふしがあるな。。。
393日本@名無史さん2018/04/26(木) 13:10:52.04
>>392
そうだね。。。台本はあるけれども、実際には数人でやっていることだと気づいていないな。。。 394日本@名無史さん2018/04/26(木) 13:11:17.06
九
州
説
は
やることが
異
常
395日本@名無史さん2018/04/26(木) 13:13:10.08
>>393
キナイコシの所属する工作機関は2、3人しか使えない弱小組織ではないのかな。。。 396日本@名無史さん2018/04/26(木) 13:13:58.59
>>390
仕方ないよ、、、、
奈良のあの古墳は、天皇の妹を祭ってあるものなのだもの。。。
魏志倭人伝の世界の古墳とは、時代も、距離も、方角も、形も何もかもちがうのだからね。。。。
テンプレートは嘘をちりばめて、その全てのことに言い訳しなきゃならないのだからね、、、 397日本@名無史さん2018/04/26(木) 13:17:41.49
398日本@名無史さん2018/04/26(木) 13:21:45.25
大和王権を扱う優秀な若手の学者達にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。
399日本@名無史さん2018/04/26(木) 13:23:30.40
キナイコシはテンプレートが論破されそうな時は、悪口しか言わなくなるな。。。
400日本@名無史さん2018/04/26(木) 13:24:50.87
三足や耳の付いた中国系生活土器のことを調べれば調べるほど、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。
401日本@名無史さん2018/04/26(木) 13:28:22.11
ときたま、僕たちの口調を真似て書き込む、謎の味方がいるな、、、
誰だろうか。。。
402日本@名無史さん2018/04/26(木) 13:29:00.56
>>399
九州説は
ウソばかり
ついてるね
そして
決して
証拠を
出さない 403日本@名無史さん2018/04/26(木) 13:29:37.42
404日本@名無史さん2018/04/26(木) 13:29:51.55
>>391
テンプレートの嘘が、一つづつ丁寧に、暴かれているね、、、 405日本@名無史さん2018/04/26(木) 13:30:46.77
これもウソ
406日本@名無史さん2018/04/26(木) 13:31:08.23
>>351
悔しくて、狂気がさらに増してくるのだろうね。。。。 407日本@名無史さん2018/04/26(木) 13:31:30.70
>>363
でも、インタ−ネット工作が、観光客の対応に、猫の手も借りたい筈の、去年の黄金週間もやまなかったね。 408日本@名無史さん2018/04/26(木) 13:32:13.68
>>315
2013年のあの大規模調査よりも、数年後のあれのせいでしょ。
勿論、2013年のあの調査が畿内説破綻の発端となったことには変わりないけど、、、
やっぱりとどめになったのはあれだね。。。 409日本@名無史さん2018/04/26(木) 13:33:36.79
410日本@名無史さん2018/04/26(木) 13:34:11.50
>>315
2013年のあの大規模調査よりも、数年後のあれのせいでしょ。
勿論、2013年のあの調査が畿内説破綻の発端となったことには変わりないけど、、、
やっぱりとどめになったのはあれだね。。。 411日本@名無史さん2018/04/26(木) 13:34:57.55
>>337
信仰すること自体に喜びを見出した、畿内説が破綻していることを認めたくない、頑固な老人信者たちにも、畿内説以外の信仰対象がたくさんあることを、教えてあげられるっていうメリットもありそう。 412日本@名無史さん2018/04/26(木) 13:37:12.76
平原一号で見つかった鏡が八咫鏡じゃないと判明したのが発狂のキッカケになった
413日本@名無史さん2018/04/26(木) 13:40:22.62
キナイコシが、また勘違いしているな。。。
僕たちの誰も、平原一号で見つかった鏡が八咫鏡だとは思っていないのだがな。。。
414日本@名無史さん2018/04/26(木) 13:41:56.10
>>413
もしかすると、それは岡上氏ではないのかな。。。 415日本@名無史さん2018/04/26(木) 13:42:43.56
そういえば、岡上氏の高度なレベルの投稿が懐かしいね。。。
このレベルの低い重複偽スレッドには、もったいなかったけれども、、、、
416日本@名無史さん2018/04/26(木) 13:43:21.90
>>415
仕方ないよ、、、、
囲碁でもよくいわれるけども、名局ができるには二人の天才が要ると、、、
畿内説者のレベルの低いこの重複偽スレッドでは、岡上氏の能力の全てを引き出せないからね。。。。
岡上氏が投稿しなくなったのも、そういうことなんじゃないのかな、 417日本@名無史さん2018/04/26(木) 13:43:26.48
身バレで必死
418日本@名無史さん2018/04/26(木) 13:45:13.36
僕たちは、なぜか岡上氏だと勘違いされているね。。。
僕たちにとっては、あの博識な岡上氏と間違えられるのは光栄なのだけれども、、、、、
思い込みの激しい、キナイコシと皆に呼ばれている、奈良の狂った老人に、いわれのない誹謗をされている本当の岡上氏に、申し訳ないね。。。
419日本@名無史さん2018/04/26(木) 13:45:51.90
岡上氏は、テンプレートを貼り付けているあの狂った奈良の老人には脅威のようだね。。。
420日本@名無史さん2018/04/26(木) 13:46:15.53
必死すぎ
421日本@名無史さん2018/04/26(木) 13:46:17.20
>>419
仕方ないよ。。。
端から見ていると学識とIQの差がありすぎるのだもの、、、 422日本@名無史さん2018/04/26(木) 13:46:48.03
岡上氏なら、このスレッドに投稿する人の中では、相当の知識を持ち、とても頭の良い人だよ。。。
張り付けているテンプレートを論破され続けている小汚い老人が、彼に理不尽な中傷をするのは、八つ当たりだけではなく、恐らく、知識の多さと、頭の良さに嫉妬しているのもあるのだろうね。。。。
423日本@名無史さん2018/04/26(木) 13:47:12.07
テンプレートを張り付けている小汚い老人は、なぜか、テンプレートの間違いを指摘する人間の多くを、その岡上氏だと勘違いしているふしがあるね。。。
論破され続け、発狂しているからかな。。。。
句読点連続はインターネットの世界ではよく使われることは教えてあげたし、岡上氏とは違って、僕たちは邪馬台国時代について、あまり知識がないから、間違われるわけはないのだがね、、、
424日本@名無史さん2018/04/26(木) 13:50:49.15
だが、なぜ平原一号で見つかった鏡が八咫鏡だと、キナイコシにとって、不都合なのだろうか、、、
邪馬台国問題と、どう関係するのだろうか、、、
425日本@名無史さん2018/04/26(木) 13:51:00.34
必死で藁
426日本@名無史さん2018/04/26(木) 13:52:41.11
>>424
咫の長さがはっきりすると、不都合なのではないのかな。。。 427日本@名無史さん2018/04/26(木) 13:56:11.91
僕たちの作成したスレッドを荒らすために、キナイコシが貼り付けていた複製の投稿にも、八咫鏡の大きさのことが触れられていたな。。。
428日本@名無史さん2018/04/26(木) 13:57:59.08
どういうことだろうか、、、
170日本@名無史さん2018/04/26(木) 13:12:01.54
1咫は周代の尺で、8寸
周代の1尺は、10寸
「咫」は秦漢代には「咫尺」という熟語にしか使わない文字となっており
計量単位としての実質を失っている
429日本@名無史さん2018/04/26(木) 14:00:14.29
僕たちの魏志倭人伝の翻訳では、大夫は周代の役職だったのだな、、、
430日本@名無史さん2018/04/26(木) 14:02:26.97
>>429
そうだね、倭人は周代の役職名だけではなく、周代の単位を使っていたのかもしれないな。。。 431日本@名無史さん2018/04/26(木) 14:03:28.29
尻尾だしすぎ
432日本@名無史さん2018/04/26(木) 14:09:06.56
>>428
>1咫は周代の尺で、8寸
>周代の1尺は、10寸
??? 433日本@名無史さん2018/04/26(木) 14:26:34.26
まあ>1が次あたりのテンプレにトンデモ説の思い違いぶりを書く気がするね
勘だが
434日本@名無史さん2018/04/26(木) 14:28:40.75
>>426
周代の単位を使っていることがはっきりし、100歩の長さもはっきりして、論破されてゾンビ状態の畿内説を、消滅させられるのではないのかな。。。 435日本@名無史さん2018/04/26(木) 14:28:51.16
>>432
>>1咫は周代の尺で、8寸
>>周代の1尺は、10寸
これは解説しておくよ
咫の、説文解字が
「咫、中婦人手長八寸謂之咫、周尺也」 となっていて、
「咫、ふつうの婦人の手の長さ八寸で、これを咫という 周尺である」という意味なんだけど
この最後の「周尺なり」をそのまま取ると
八寸=咫=周尺
のように読める
でも、説文解字にはそのあとに、清代の注釈「清代 段玉裁《說文解字注》」を載せていて
それを読むと周代でも1尺は十寸だったことが分かる
つまり「周尺也」は「咫=周尺」ではなく、
「咫が八寸というのは、周尺(=十寸)の長さでの八寸である」という意味になる
漢尺と周尺は長さが異なるからね 436日本@名無史さん2018/04/26(木) 14:30:08.78
周代の1歩は何センチなのだろうか、、、
437日本@名無史さん2018/04/26(木) 14:31:51.75
キナイコシが、意味の分からないことを喚いているな。。。
僕たちに今必要な情報は、周代の1歩が何センチかということなのにな。。。
438日本@名無史さん2018/04/26(木) 14:32:42.25
>>437
わからない理由は、頭が悪いから
かな? 439日本@名無史さん2018/04/26(木) 14:33:48.32
キナイコシが、意味の分からないことを喚いていたうえに、悪口しか言わないな。。。
440日本@名無史さん2018/04/26(木) 14:34:33.93
>>439
周代の1歩が何センチかということで、追い詰められたのではないのかな、、、 441日本@名無史さん2018/04/26(木) 14:35:04.60
平原1号墓出土鏡が、八咫の鏡ではないことを論証されたのが、よほど悔しいんだな
まあ、計れば八咫ってのは否定できないと思っていただろうからね
そもそも、魏志倭人伝の時代に「咫」という長さの単位は使われていないし、
大陸古代の「咫(シ)」と、日本書紀等で使われる「咫(アタ)」は同じ用字でも
別物だし
そして、その前に、
「円周が八咫だから」というのは
「伊勢の御樋代の大きさにぴったり」っていうのと
セットでしか意味がないことに気がついていなかったのが、
九州説の論理のなさの現われなんだがな
いまだに、伊勢の神鏡は火事で失われているとか妄言を繰り返しているし
442日本@名無史さん2018/04/26(木) 14:39:46.31
>>439
理解できないと悪口だと思ってしまう悲しさ 443日本@名無史さん2018/04/26(木) 14:40:13.04
キナイコシは勘違いを拡大しているな。。。
444日本@名無史さん2018/04/26(木) 14:41:55.13
>>436、−>>439
>周代の一歩
ちゃんと説文解字の「咫」の注のところに書いてあるだろ?
王制曰。古者以周尺八尺爲步。今以周尺六尺四寸爲步。
漢文が読めれば、まったく問題ないだろ?
周尺はウィキペディアさんによると20センチ程度らしいね
まあ、どこまで信用できるが分からんけど
でも、九州説というか伊都国説が平原1号墓出土鏡を八咫の鏡だと
勘違いしたきっかけが、ウィキペディアの「咫」の項の
咫、中婦人手長八寸謂之咫、周尺也
(咫、ふつうの婦人の手の長さ八寸で、これを咫という、「周を計る尺度」なり)
という誤訳だから、ウィキペディアの情報なら信じてくれるんじゃないかね 445日本@名無史さん2018/04/26(木) 14:42:48.51
トンデモじいさんは、記紀で周代の単位が使われていると信じてるのかな
446日本@名無史さん2018/04/26(木) 14:46:20.72
キナイコシは、岡上氏の影に怯えすぎて、勝手に八咫鏡のことを持ち出した上に、妙な言いがかりをつけてきたな。。。
しかし、倭人が周代の役職名を使っていたのだから、周代の単位を使っていたとしても不思議ではないな。。。
そして、キナイコシが周尺は20センチと紹介してくれたな。。。
これを、元に、新しい台本を作ればいいな。。。
447日本@名無史さん2018/04/26(木) 14:48:12.29
>>446
初めて、キナイコシが有益な情報を提供したのではないのかな。。。 448日本@名無史さん2018/04/26(木) 15:00:15.19
449日本@名無史さん2018/04/26(木) 15:01:43.48
>>446
>これを、元に、新しい台本を作ればいいな
とことん、科学じゃないんだよな、この頭のおかしい人のやっていることは
日本史(古代史)は、歴史学という人文科学の一分野なんだが、
科学とは程遠いことをやっている 450日本@名無史さん2018/04/26(木) 15:12:59.07
>>446
実際は・・・
八咫の鏡が否定された話が出たら
怯えた多重句点男が突然、聞かれもしないのに
自分は岡上じゃない、自分は岡上じゃない
とパニックを起こした
これが実態w
みじめだねえ 451日本@名無史さん2018/04/26(木) 15:19:23.63
倭人って、中国の古典に妙に詳しいところがある。
呉の太白の末裔を名のるくらいに。
周の単位系を使っていてもおかしくはない。
史上最大の鏡を作るときに、それを基準にしたのかもしれない。
倭人は中国の文化を独自に発展させることに長けていたのだろう。
経緯はともあれ、漢の八寸を咫とすることで、ちょうど八咫となる大きさの鏡を作ったのは事実だ。
452日本@名無史さん2018/04/26(木) 15:22:46.21
>>451
周尺なのに、漢の八寸を咫にしたら間違いでしょ 453日本@名無史さん2018/04/26(木) 15:26:34.37
454日本@名無史さん2018/04/26(木) 15:27:48.93
>>651
>倭人って、中国の古典に妙に詳しい
>呉の太白の末裔を名のるくらい
>周の単位系を使っていてもおかしくはない
だったら、周尺の「咫」を使えばいいじゃん?
>漢の八寸を咫とすることで、ちょうど八咫となる
この矛盾、無謀さ加減が、九州説の本質だよな 455日本@名無史さん2018/04/26(木) 15:28:30.83
倭人は周代の中国語を使っていたのだな、、、
456日本@名無史さん2018/04/26(木) 15:29:02.77
>>455
確かに、、、大夫という単語を使ったのだものね。。。 457日本@名無史さん2018/04/26(木) 15:30:33.20
>>456
そういえば、僕たちの翻訳では、卑弥呼の墓を作ったときに、道を100歩分作ったとしたが、100歩は墓の直径のことかもしれないな。。。 458日本@名無史さん2018/04/26(木) 15:31:08.08
>>457
なるほど、、、周代の中国語を使っていた倭人が卑弥呼の墓の大きさを、100歩と魏使に教えたとしたら、20mだね。。。 459日本@名無史さん2018/04/26(木) 15:31:35.40
>>458
そうだね、キナイコシが周代の一歩が20cmと教えてくれたのだものね、、、 460日本@名無史さん2018/04/26(木) 15:33:11.03
>>456みたいな、くだらんイメージ戦略で歴史を歪めようとするのが九州説 461日本@名無史さん2018/04/26(木) 15:33:20.52
>>459
つまり、キナイコシの唯一のよりどころの纏向の墓の大きさは、根拠が無かったのかw 462日本@名無史さん2018/04/26(木) 15:35:59.57
>>459
>そうだね、キナイコシが周代の一歩が20cmと教えてくれたのだものね、、、
捏造スゲー
w 463日本@名無史さん2018/04/26(木) 15:36:01.17
>>461
あまり追い詰めすぎるのは、良くないのではないのかな。。。 464日本@名無史さん2018/04/26(木) 15:40:06.92
>>461
なんで突然「纒向の墓」の話が出てくるんだ?
九州説の話は論理性がまるで無いな 465日本@名無史さん2018/04/26(木) 15:42:14.29
>>463
九州説爺さん、あんた追い詰められてるよ 466日本@名無史さん2018/04/26(木) 16:08:45.12
>>459
>そうだね、キナイコシが周代の一歩が20cmと教えてくれたのだものね、、、
>>446で「キナイコシが周尺は20センチと紹介してくれたな。。。 」と自分で書いているのに
「尺」と「歩」の区別もつかないらしいww
周代の「尺」と「歩」の関係は>>444に書いてあるとおり
「王制曰。古者以周尺八尺爲步。今以周尺六尺四寸爲步。」
だよ
漢文が読めなくても、これくらいなら分かるだろうに 467日本@名無史さん2018/04/26(木) 16:35:11.86
キナイコシが周代の一歩を20cmと言い切る理由が分からないが、それによると卑弥呼の墓の大きさは20mだな。。。
468日本@名無史さん2018/04/26(木) 16:36:00.66
>>352
あのちっぽけな空き地の大規模発掘調査では、その柱の穴は、粗末な倉庫のものだということと、大物主時代の化石だらけだったことと、そして、そこが、魏志倭人伝時代の直前に湖の底だったことが判明したのだものね。 469日本@名無史さん2018/04/26(木) 16:37:18.93
>>404
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 470日本@名無史さん2018/04/26(木) 16:39:41.75
荒らし爺さんは議論したら即論破されるから
こうやって真っ赤なウソつくしか
生きる道が無い
そういうことか
471日本@名無史さん2018/04/26(木) 16:40:25.04
>>467
>キナイコシが周代の一歩を20cmと言い切る理由が分からないが、
すぐ上の>>466を読んどけ
頭の病院、マジで必要だと思うぞ
お大事に 472日本@名無史さん2018/04/26(木) 16:43:01.07
キナイコシが、周代の一歩を20cmと断言した詳しい理由は不明だが、自爆したのではないのかな。。。
473日本@名無史さん2018/04/26(木) 16:44:01.35
>>467
おまえさん、気が狂ってる?
いつ、だれが周代の一歩を20cmと言った? 474日本@名無史さん2018/04/26(木) 16:45:53.31
キナイコシは、テンプレートが論破された時、あまり意味のないことを喚く癖があるな。。。
475日本@名無史さん2018/04/26(木) 16:52:08.34
>>474
意味のないとって、何?
いつ、誰に何と言って論破された? 476日本@名無史さん2018/04/26(木) 16:57:17.41
>>473
ニセスレ乱立させる奴が狂ってないわけ無し 477日本@名無史さん2018/04/26(木) 17:42:02.83
こんな嘘つき見たことない
478日本@名無史さん2018/04/26(木) 17:54:50.30
本当に八咫厨伊都国説にとって、「平原1号墓出土鏡の円周が八咫」の否定は、
痛恨なんだろうなww
479日本@名無史さん2018/04/26(木) 18:56:27.92
毎度毎度同じネタばかりだな。
岡山の歴史に詳しい人いないかな
480日本@名無史さん2018/04/26(木) 19:05:04.34
>>288
>隋が605年に浙江省紹興県地方を越州としている<
「北限大海、西北接百濟、正北抵新羅、南與越州相接」と書いたのは、唐会要なんだから、
(隋書ではなく)唐会要の筆者時代の呼称でなくっちゃダメだ。
>唐會要では「在新羅東南、居大海之中」だから倭国の北限は大海の日本海、<
北限の話など、書いていない。
倭国の大体の位置だ。
>正北の新羅と直接抵触しているのが倭国の対馬<
倭国伝の「倭國の回りの国との位置関係や友好性」を書くのに、
対馬との位置関係のようなものを書く筈がない。
新羅と抵抗反目し合うのは、当然倭国の中心部だ。 481日本@名無史さん2018/04/26(木) 19:08:19.92
>>296
素人のようなアホ学者が妄想するだけの大和説は、
九州説の歴史学と、決定的に差がついてしまったな. 482日本@名無史さん2018/04/26(木) 19:09:36.51
>>480
>新羅と抵抗反目し合うのは、当然倭国の中心部だ。
先入観を持って倭国の中心部を想定しているだろ。 483日本@名無史さん2018/04/26(木) 19:25:48.55
>>305
>それより畿内の庄内式が古いのは常識だし、柳田もそう考えている<
柳田は、近畿の偉い?学者らが認めてくれない、とこぼしていた。 484ずれ ズレ の 主と遊ぶもよし2018/04/26(木) 19:37:00.18
以上でいいかな
485日本@名無史さん2018/04/26(木) 19:38:50.25
>>480
>唐会要の筆者時代の呼称でなくっちゃダメだ。
唐會要の記事は「永徽五年十二月遣使獻琥珀瑪瑙」だから654年
「頗有絲緜、出瑪瑙。有黄白二色。其琥珀好者、云海中湧出。」
琥珀は宮城県久慈市、福島県いわき市、千葉県銚子市が日本の三大琥珀産地
瑪瑙は出雲の花仙山産、福井県若狭産が古代から加工されている
>北限の話など、書いていない。
倭国が新羅の東南にあるのに倭国の正北が新羅ではないことは日本人ならわかる
倭国の西端の対馬の真北が新羅と抵触していて、倭国全体の北は日本海が限界ということ
倭国の周囲の北限の大海と隣接している国を書いている 486日本@名無史さん2018/04/26(木) 19:40:51.37
>>306
>>倭国の所在地は、唐会要倭国伝の「正北抵新羅」に拠って、
九州である事が確定しているから、<
>唐会要倭国伝に遣唐使の藤原さんが載ってんだから、九州で確定とか大笑い <
唐会要は、列島からの遣使が、
「倭國使だ」と名乗った記録があれば、倭国伝に書き、
「日本国使」だと名乗った記録があれば、日本国伝に書いており、
「天誅」というキョクウ男の「漢籍の書棚」では、
唐会要は、倭國伝で「開成四年正月、遣使薜原朝常嗣等來朝貢」と記載しており、
旧唐書は、日本国伝で「開成四年、又遺使朝貢」だけだ。
だから、漢籍の書棚が正しければ、
お前の言うような「遣唐使の藤原さんが載って」などいない。 487日本@名無史さん2018/04/26(木) 19:43:45.86
>>471
関係なけど、も少し勉学積んだ方が良い
古代は簡単だよ
妄想の連続で済むから
物的証拠は畿内は少なすぎる
だから、纏向や箸墓を出さざるを得ないが
時代的に文明・文化は畿内説は阿波・九州・出雲よりはるかに劣っている 488日本@名無史さん2018/04/26(木) 19:44:53.64
>>483
柳田が古い段階の庄内式と思ってたものを、近畿の学者は新しい段階だと言うと
邪馬台国の会の講演で話しただけ
福岡の久住もTB期に模倣製作が始まった福岡製庄内式と判断している 489日本@名無史さん2018/04/26(木) 19:45:23.90
>>308
「南→東」などの嘘つき騙しの、いい加減な知識のトンデモ大和説に騙されるのは、
始めから「人種差別的戦争狂の極右の・・・・」だけだろ。 490日本@名無史さん2018/04/26(木) 19:45:37.49
491日本@名無史さん2018/04/26(木) 19:46:43.76
492日本@名無史さん2018/04/26(木) 19:49:09.65
無視
無視
無視
無視
無視
無視
493日本@名無史さん2018/04/26(木) 19:49:29.41
>>309
>>大和には、楽浪人ですら住み着いておらず<
>出島の商館長は江戸に住んでなくて当然だわな <
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国だ。 494日本@名無史さん2018/04/26(木) 19:54:06.08
>>311
>>千々賀遺跡は、海岸から遠過ぎて、魏使らが行く筈もない場所だし、<
>無知ゆえの妄想 昔の地形くらい調べるのが邪馬台国を論じる者の常識なのに、
それをしない 九州説のレベルは低い<
千々賀遺跡は、松浦川の(支流の?)中流位にあった筈。
そんな所まで、魏使らが回り道する筈がない。 495日本@名無史さん2018/04/26(木) 19:54:47.59
>>1 以下学会でオーソライズされてる?
義務教育でオーソライズされてる?
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた
👆
とすれば邪馬台国は畿内との関連付けが難しいのでは・・・・(倭国・倭人・朝廷・・・・) 496日本@名無史さん2018/04/26(木) 20:04:05.48
吉野ヶ里遺跡は邪馬台国以前ですね
But
奈良に吉野ケ里級の遺跡が無いのは何故だ
真実は物証だが奈良には吉野ケ里級の大規模な集落群が発見されることを望むが
もし、吉野ケ里級の遺跡があ発見だれれば畿内説も捨てがたい
田畑は発掘はむつかしいのは分かるが、「逃げ道か真相か」真相なら現段階では妄想tぴわれても仕方な
497日本@名無史さん2018/04/26(木) 20:06:30.30
>>336
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説には、
異常者しかいないの?。 498日本@名無史さん2018/04/26(木) 20:07:44.81
>>496でやんす急ぎで書きこんだので以下まとめ
・奈良に吉野ケ里級の遺跡が無いのは何故
・奈良の発掘の難しさは逃げではないか 499日本@名無史さん2018/04/26(木) 20:09:40.72
>>347
九州説に論破された大和説ガキらが、
反論を諦めて悪口だけになったんだよ。
あんたらだがな。
w 500日本@名無史さん2018/04/26(木) 20:10:49.96
>>497
賛同する
大和説は
皇国史観の
銭儲けの研究者の集いだよ
考古学とは無縁
飛鳥以降の研究は認めるが 501日本@名無史さん2018/04/26(木) 20:22:58.22
畿内説の半分は思い込み、半分は妄想でできています。
502日本@名無史さん2018/04/26(木) 20:25:17.37
>>355
>>(畿内とは)天皇が出来てから<
>天皇は中央集権になってから<
大和には、天智以前には天皇はいなかった。
>>邪馬臺國は、5世紀時点<
>後漢書は倭人伝よりも古い漢代の資料で書かれているから5世紀時点ではない <
「倭人伝よりも古い漢代の資料」とやらに、「邪馬臺國」という文言がない。
>>(庄内)三雲が最も古い、<
>三雲からは僅かしか出てないから搬入品であって
那珂より三雲の庄内が古くても畿内の古い段階の搬入ということにしかならないが <
大和の庄内の石塚も、那珂八幡の模倣だから、那珂八幡の後。
>現在は福岡の資料が増えて福岡産だとわかっている<
搬入が否定されたんなら、ますます三雲の庄内が最古になる。
>>「正北抵新羅」に拠って<
>唐會要では「在新羅東南、居大海之中」<
それを、敵対友好関係を含めて詳しい位置関係を、
「北限大海、西北接百濟、正北抵新羅、南與越州相接」と書いている。 503日本@名無史さん2018/04/26(木) 20:35:24.46
>>360
>>(弥生銀座)那珂川御笠川流域全体 <
>弥生銀座と言われるのは、弥生各時期の遺物が出る春日周辺のこと<
何本か存在する「大道」がある地域も都域になるから、春日よりもはるかに広域。
>>>那珂が北部九州における庄内甕の模倣製作中心地<
>>模倣ではない。
在地胎土で造った自前のものと、
播磨や河内の胎土で造られた庄内の搬入上納との、混合<
>見たことも無い素人がウソの歴史を作っても日本史ではない <
明治大の佐々木の紀要への投稿と、米田の投稿を見た。 504日本@名無史さん2018/04/26(木) 20:41:01.59
>>502
>大和には、天智以前には天皇はいなかった。
天皇がいたなど言っていない
>「倭人伝よりも古い漢代の資料」とやらに、「邪馬臺國」という文言がない。
漢代から5世紀編纂時点までの資料が元になっている
>大和の庄内の石塚も、那珂八幡の模倣だから、那珂八幡の後。
素人の恣意的な年代は学問には不必要
>ますます三雲の庄内が最古になる。
研究者は誰も言っていない
>詳しい位置関係
最初に「在新羅東南、居大海之中」と書いている
北は日本海、その沿岸の山陰、若狭で献上した瑪瑙を産する 505日本@名無史さん2018/04/26(木) 20:47:47.12
>>365
>毛人とは何だろうか、、、<
おそらく、
倭人は燕の南からの渡来系であり、姫氏が呉の遺民の渡来系であるから、
彼らから見て、列島在地の縄文系が、毛人であった。
だから、猿田彦たちや、蜘蛛人や、ズーズー弁の出雲や東北人や、蝦夷系の人々の事。
(但し、熊襲や、アイヌや、侏儒國人や、鮮卑系と思われる碧眼紅毛人は、不明。) 506日本@名無史さん2018/04/26(木) 20:48:42.35
>>503
>「大道」がある地域
博多ー那珂間の推定されている道路は那珂八幡の南にもまだ伸びていない
佐々木の論文に在地での模倣製作であることと搬入庄内式は非常に少ないと書いてある 507日本@名無史さん2018/04/26(木) 20:56:05.98
>>371
>(筑紫倭国の史書)つまり、無いんじゃねーか あほらし<
いや、歴代中国史書群の倭国伝が、筑紫倭国の史書の役割を果たしている。
また、三韓の史書群や、高良山の古系図や、松野氏姫氏系図も、
筑紫倭国にとっての史書の役割を果たしている。 508日本@名無史さん2018/04/26(木) 21:01:38.80
>>373
>要するに筑紫が別種の日本国だと主張しているのかな<
要するに、大和が倭國の別種の旧小国国だ、と主張している。 509日本@名無史さん2018/04/26(木) 21:02:15.90
>>507
>筑紫倭国の史書
というのはないんだな
>松野氏姫氏系図
それは爺さんの趣味レベルの資料だよw
心霊写真やUFO写真と同じ 510日本@名無史さん2018/04/26(木) 21:03:41.99
>>380
わざわざ「南→東」などのウソまでついて、
どうして邪馬壹國女王之所都を大和にしたいんだろう?。
理解できない。 511日本@名無史さん2018/04/26(木) 21:06:48.55
>>394
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
やることが異常。 512日本@名無史さん2018/04/26(木) 21:07:06.54
>>508
百済本記の「日本天皇」が筑紫倭國の天皇であったという主張だろ? 513日本@名無史さん2018/04/26(木) 21:08:29.19
>>397
「南→東」などの嘘つき騙しのオマエら、
ホントに異常だな。 514日本@名無史さん2018/04/26(木) 21:10:49.42
>>402
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
ウソばかりついてるね。
そして 決して 証拠を 出さない 。 515日本@名無史さん2018/04/26(木) 21:14:36.13
ザラコクの全ww病は、論証なしの「南≠東」が無意味だというのをとことん徹底的にやられたから
ザラコクは「南≠東」以外がほぼ書けない
まあ、その亜流で「天皇なんていない」「畿内なんてない」ってのもあるけどな
要するに、定型句を書いてごまかして、
人より上に立つオレ様エラいって思いたいだけのバカ
まあ、オレが相手しなくなったら、ほぼ誰からも相手されなくなって、
自分宛でないものに意味もなく否定コメントを書くだけのムダレスしかしなくなったけどな
ああ、元からそうか
516日本@名無史さん2018/04/26(木) 21:14:37.20
>>412
平原一号で見つかった鏡が八咫鏡だ、
と判明したのが、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者の、
発狂のキッカケになった。 517日本@名無史さん2018/04/26(木) 21:17:23.28
>>412
>平原一号で見つかった鏡が八咫鏡じゃないと判明した
では不十分で、完全に論証されたんだよ
まあ、もともと一部の人間以外は八咫鏡だなんて思ってなかったんだし、
「判明」だけならもともと分かりきってたんだからさ
長さを「八咫」と考えること自体が無意味だと、完全に示されちゃったからね
まあ、火病るわな、そりゃ 518日本@名無史さん2018/04/26(木) 21:32:47.83
>>454
>>倭人って、中国の古典に妙に詳しい
呉の太白の末裔を名のるくらい
周の単位系を使っていてもおかしくはない <
>だったら、周尺の「咫」を使えばいいじゃん?<
?。
だから、八咫鏡の咫は、周尺なんだろ?。 519日本@名無史さん2018/04/26(木) 21:36:01.84
>>460
「南→東」などの嘘つき騙しの、くだらんイメージ戦略で、
歴史を歪めようとするのが大和説。 520日本@名無史さん2018/04/26(木) 21:39:20.20
>>464
>なんで突然「纒向の墓」の話が出てくるんだ?<
纏向の墓は、「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」にならないから。
大和説の話は、論理性がまるで無いな。 521日本@名無史さん2018/04/26(木) 21:40:41.30
>>465
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説ガキさん、
あんた追い詰められてるよ。 522日本@名無史さん2018/04/26(木) 21:46:07.90
>>466
>「王制曰。古者以周尺八尺爲步。今以周尺六尺四寸爲步。」 だよ<
「王制」って何?。 523日本@名無史さん2018/04/26(木) 21:49:26.13
>>470
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説の荒らしのガキさんらは、
議論したら即論破されるから、
こうやって真っ赤なウソつくしか、
生きる道が無い。
そういうことか 524日本@名無史さん2018/04/26(木) 21:51:10.18
>>477
「南→東」などのような、
こんな嘘つき見たことない。 525日本@名無史さん2018/04/26(木) 21:53:40.13
>>478
本当に、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説にとって、
「平原1号墓出土鏡の円周が八咫」は、
痛恨なんだろうなww。 526日本@名無史さん2018/04/26(木) 22:17:10.25
>>685
>>(隋の越州情報)唐会要の筆者時代の呼称でなくっちゃダメだ。<
>唐會要の記事は「永徽五年十二月遣使獻琥珀瑪瑙」だから654年<
654年は、唐会要の筆者の生存時期ではない。
>「頗有絲緜、出瑪瑙。有黄白二色。其琥珀好者、云海中湧出。」
琥珀は宮城県久慈市、福島県いわき市、千葉県銚子市が日本の三大琥珀産地
瑪瑙は出雲の花仙山産、福井県若狭産が古代から加工されている <
何の関係があるの?。
九州付近には瑪瑙も琥珀が手に入らない、という事でも言わなくっちゃ、
何の根拠にもならないよ。
>>北限の話など、書いていない。<
>倭国が新羅の東南にあるのに倭国の正北が新羅ではないことは日本人ならわかる<
「北限大海、西北接百濟、正北抵新羅、南與越州相接」は、
「在新羅東南、居大海之中」の位置関係を詳述した、という事は、日本人でも判る。
>倭国の西端の対馬の真北が新羅と抵触していて、倭国全体の北は日本海が限界ということ<
倭国の本土や中心が、北限大海であり、正北抵新羅だ、と言っている事が判る。
>倭国の周囲の北限の大海と隣接している国を書いている<
越州は隣接していない。 527日本@名無史さん2018/04/26(木) 23:12:26.79
>>488
>柳田が古い段階の庄内式と思ってたものを、近畿の学者は新しい段階だと言うと
邪馬台国の会の講演で話しただけ<
要するに、柳田は、
三雲の庄内の方が那珂八幡地域の庄内よりも古い、と判断していた訳だ。
>福岡の久住もTB期に模倣製作が始まった福岡製庄内式と判断している<
久住が「模倣製作だ」と考えた理由はなんだ?。
単に、庄内が大和の発明だ、と教えられていただけだろ?。
だから、石塚の前方後円墳は、那珂八幡の模倣になる、と言って上げていたんだよ。 528日本@名無史さん2018/04/26(木) 23:13:23.10
>>526
>唐会要の筆者の生存時期ではない。
筆者の生存時期の10世紀に百済はない
>九州付近には瑪瑙も琥珀が手に入らない、という事でも言わなくっちゃ
「出」と書いてあるから倭国の産物
>「在新羅東南、居大海之中」の位置関係を詳述した、という事は、日本人でも判る。
北限が大海の日本海
>倭国の本土や中心が、北限大海であり、正北抵新羅
であれば「在新羅東南、居大海之中」とは書かない
>越州は隣接していない。
隣接してる国は百済と新羅
「有耶古,波耶,多尼三國、皆附庸於倭」が南限 529日本@名無史さん2018/04/26(木) 23:28:26.63
>>527
柳田が古い庄内と言っていたのはかなり前からだが
その後の那珂の調査で資料が増えている
お前が勘ぐっているより学者はもっと客観的
>言って上げていたんだよ。
無駄 530日本@名無史さん2018/04/26(木) 23:32:49.30
関関同立の落ちこぼれが畿内説
関関同立の優秀な奴は畿内説から距離を置く
これマジ
531日本@名無史さん2018/04/26(木) 23:34:49.89
>>504
>>大和には、天智以前には天皇はいなかった。<
>天皇がいたなど言っていない<
天皇がいないのに「畿内」なんて書いたら、そりゃ嘘つき騙しの詐欺。
>>「倭人伝よりも古い漢代の資料」とやらに、「邪馬臺國」という文言がない。<
>漢代から5世紀編纂時点までの資料が元になっている<
なっていない。卑弥呼が書かれた魏志には「邪馬壹國」と書かれている。
>>大和の庄内の石塚も、那珂八幡の模倣だから、那珂八幡の後。<
>素人の恣意的な年代は学問には不必要<
形状の類似と、晋の「天円地方」思想を教えられたのは、大和ではなく、筑紫。 532日本@名無史さん2018/04/26(木) 23:35:55.84
>>504
>>ますます三雲の庄内が最古になる。<
>研究者は誰も言っていない<
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説学者は、「ついうっかり」発言以外は信頼性が全くない。
>>(正北抵新羅などの記載は)詳しい位置関係説明<
>最初に「在新羅東南、居大海之中」と書いている<
その「詳しい位置関係」説明。
>北は日本海、その沿岸の山陰、若狭で献上した瑪瑙を産する<
唐代の永徽五年十二月の献上品。 533日本@名無史さん2018/04/26(木) 23:37:10.11
柳田國男は純粋だよ 説は別にして
534日本@名無史さん2018/04/26(木) 23:39:34.45
寺澤や和田は柳田から言えば
ひよっこつーーか似非研究者
535日本@名無史さん2018/04/26(木) 23:44:22.42
>>506
>>(弥生銀座は、春日付近と)「大道」がある地域<
>博多ー那珂間の推定されている道路は那珂八幡の南にもまだ伸びていない<
以前に、大道は春日の方に向かっている、という話を読んだ。
>佐々木の論文に在地での模倣製作であることと搬入庄内式は非常に少ない
と書いてある<
佐々木は、「三雲の庄内」の件を伏せて隠している詐欺師であり、
そんな人間の「模倣」説は、信用出来ない。 536日本@名無史さん2018/04/26(木) 23:50:37.13
>>509
>筑紫倭国の史書 というのはないんだな<
日本旧記がある、と言っている。
>松野氏姫氏系図 それは爺さんの趣味レベルの資料だよw
心霊写真やUFO写真と同じ<
それは、「南→東」などの都合の悪い史料を否定曲解する嘘つき騙しの詐欺と同じ。
詐欺師のレベルだよ。
史料批判をして、信頼性が高いと思われる部分は、根拠になるもの。 537日本@名無史さん2018/04/26(木) 23:53:26.21
>>515
・・・・詐欺師のwwに特有の、分裂幻覚の妄想だけのようだから、
放置ね。 538日本@名無史さん2018/04/26(木) 23:54:36.41
>>531
>天皇がいないのに「畿内」なんて書いたら、そりゃ嘘つき騙しの詐欺。
畿内は現在でも地域概念として使うから日本人にとっては問題ない
近畿や関西では畿内第X様式圏より広すぎる
>卑弥呼が書かれた魏志には「邪馬壹國」と書かれている。
12世紀の版本
>大和ではなく、筑紫。
学問は連呼ではなく研究成果 539日本@名無史さん2018/04/26(木) 23:55:52.37
>>538
>学問は連呼ではなく研究成果
このスレのテンプレのようなものは研究ではなく妄想 540日本@名無史さん2018/04/27(金) 00:00:15.07
>>522
>「王制」って何?。
古代史の討論に参加しようとするなら、少しは自分で調べなよ
ほいよ
《王制》 出自《礼记》是指古代君主治理天下的规章制度,
内容涉及封国、职官、爵禄、祭祀、葬丧、刑罚、建立成邑、选拨官吏以及学校教育等方面的制度。
本当に親切だよな、オレってww 541日本@名無史さん2018/04/27(金) 00:00:50.30
>>532
>「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説学者は、「ついうっかり」発言以外は信頼性が全くない。
日本人を信じないのは今始まったことでは無いからいいが
日本では説以前に誰もいない
>「詳しい位置関係」説明。
倭国の北は日本海、新羅は倭国の対馬の真北
>献上品。
倭国の産物 542日本@名無史さん2018/04/27(金) 00:03:36.66
>>535
>以前に、大道は春日の方に向かっている、という話を読んだ。
何で?
>佐々木は、「三雲の庄内」の件を伏せて隠している詐欺師であり、
隠す必要はない 543日本@名無史さん2018/04/27(金) 00:07:23.48
>>51
wwは隠しているが、以前に書いたように、
「1咫≒18cm」であれば、8咫≒144cmであり、
それが「直径」であれば、大き過ぎて製作困難であり、
円周であれば、十分製作出来るから、8咫は円周の数値。 544日本@名無史さん2018/04/27(金) 00:11:49.27
>>536
>日本旧記がある、と言っている。
筑紫倭国の史書と言張るだけならどこの史書にでもなる
>史料批判をして、信頼性が高いと思われ
たつもりだったのが、実はどろぼうが書いた偽書であったことは今は日本で定着している 545日本@名無史さん2018/04/27(金) 00:18:27.75
>>539
テンプレの根拠はだいたい学者の研究内容をまとめている 546日本@名無史さん2018/04/27(金) 00:37:08.25
バラバラの資料を妄想でつなぎ合わせただけ。
読むに耐えない文章が何十レスも並んでいる。
547日本@名無史さん2018/04/27(金) 00:46:34.43
548日本@名無史さん2018/04/27(金) 00:55:32.49
木曜日の夜もキウスが暴れるんだな
549日本@名無史さん2018/04/27(金) 01:35:56.08
550日本@名無史さん2018/04/27(金) 02:07:34.64
※個人の感想です。
551日本@名無史さん2018/04/27(金) 02:09:00.82
畿内説では古代史を全く説明できない。出発点が間違えているから、いくら研究しても泥縄にはまるばかり。
552日本@名無史さん2018/04/27(金) 02:12:32.12
説明できない・・・などと断定する根拠は?
553日本@名無史さん2018/04/27(金) 04:40:06.27
テンプレはいいとこ取りの妄想の典型。
554日本@名無史さん2018/04/27(金) 06:45:01.32
>>515
キョクウの排他的人種差別の殺人狂の大和説のの・・・・wwは、
「南→東」が嘘つき騙しだ、
という事で、とことん徹底的にやられたから、
wwは「南≠東」以外の事で、言葉尻イチャモンやヘイトスピーチ位しか書けない、
という訳だな。 555日本@名無史さん2018/04/27(金) 07:00:23.03
>>517
>>平原一号で見つかった鏡が八咫鏡じゃないと判明した<
>では不十分で、完全に論証されたんだよ<
ダメだよ。
咫は、女性の手の大きさ位の8寸(18p位)の長さを示す寸法文言であり、
八咫は、それの8倍位の大きさ(144cm位)を示し、
鏡に関しての大きさや寸法を表すのは、直径か?円周か?しかなく、
その内の直径では、
144cmでは大き過ぎて、持ち運びにも使用にも絶えず、だから×であり、
だから、八咫は鏡の円周の寸法である事になり、
だから、平原の巨大鏡は、八咫鏡であったんだよ。
だから、 556日本@名無史さん2018/04/27(金) 07:22:33.50
>>528
>>唐会要の筆者の生存時期ではない。<
>筆者の生存時期の10世紀に百済はない<
筆者が根拠にした記録では、百済は唐代途中まで存在していたし、
倭国の「永徽五年十二月、遣使獻琥珀瑪瑙。琥珀大如斗、瑪瑙大如五升器」の記録も存在していたから、
唐会要筆者は、倭国伝に記載出来た。
しかし、隋代の「越州」の記録は、存在していて採用したのか?は、不明だ。
>>九州付近には瑪瑙も琥珀が手に入らない、という事でも言わなくっちゃ<
>「出」と書いてあるから倭国の産物 <
日本国のものではない、という事で、OK。
>>「在新羅東南、居大海之中」の位置関係を詳述した、という事は、日本人でも判る。<
>北限が大海の日本海<
「西北接百濟、正北抵新羅」であるから、半島との間の大海、であると判る。 557日本@名無史さん2018/04/27(金) 07:23:36.67
>>528
>>倭国の本土や中心が、北限大海であり、正北抵新羅<
>であれば「在新羅東南、居大海之中」とは書かない<
「在新羅東南、居大海之中」の詳述。
>>越州は隣接していない。<
>隣接してる国は百済と新羅
「有耶古,波耶,多尼三國、皆附庸於倭」が南限<
だから、友好的か?、敵対的か?、での「接と抵」の書き分け。 558日本@名無史さん2018/04/27(金) 07:32:22.21
>>529
>>言って上げていたんだよ。<
>無駄
>柳田が古い庄内と言っていたのはかなり前からだが
その後の那珂の調査で資料が増えている お前が勘ぐっているより学者はもっと客観的 <
無駄。
柳田の発言は、
ついうっかり「通説の否定」になる内容の、正直発言であるから、信頼性が高く、
その後の通説考古学者らの発言は、
「南→東」などの嘘吐き騙し思想に凝り固まった不正直な学者らだから、
信頼性が全くない。 559日本@名無史さん2018/04/27(金) 07:48:47.85
>>538
>>天皇がいないのに「畿内」なんて書いたら、そりゃ嘘つき騙しの詐欺。<
>畿内は現在でも地域概念として使うから日本人にとっては問題ない<
天智から天皇になったのであり、
その周辺地域呼称を、天智以前にも天皇がいた、という意味になる文言を使えば、
そりゃ、嘘つき騙し。
>近畿や関西では畿内第X様式圏より広すぎる<
米田は、播磨や河内と、大和とは、別権力地域であった、と論証しているから、
播磨も河内も大和も、それぞれ、
倭国の「東征毛人五十五國」の一つずつ、
であった、という事にしかならない。
>>卑弥呼が書かれた魏志には「邪馬壹國」と書かれている。<
>12世紀の版本 <
考証校勘状況は、
写本版本では、「邪馬臺國」と書かれた写本は0であった、
という事を示している。
>>大和ではなく、筑紫。<
>学問は連呼ではなく研究成果<
賛成。
学問は、観察計測実験や史料事実を資料批判をして、
それらの実態からの「確率の高い帰納的推論」を追求するもの。 560日本@名無史さん2018/04/27(金) 07:49:29.63
>>556
>百済は唐代途中まで存在していたし、
筆者の生存時期って唐會要の元の資料の筆者のことを言ってるのか
なら唐代と言え
>隋代の「越州」の記録は、存在していて採用したのか?は、不明だ。
605年、呉州を越州へ改称
607年、会稽郡へ再変更
621年、越州へ再改名
742年、越州は会稽郡と改称
唐會要の「南與越州相接」の記事は永徽五年の記事
>日本国のものではない、という事で、OK。
「出」は倭国で産するということ
倭人伝の「出細紵縑緜」「出真珠青玉」と同じ
>半島との間の大海、であると判る。
半島との間は新羅の東南ではなくて南 561日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:00:49.82
>>557
>「在新羅東南、居大海之中」の詳述。
倭国は新羅の東南、倭国の北は大海の日本海
>友好的か?、敵対的か?、での「接と抵」の書き分け。
「南與越州相接」だから倭国の南限と越州が同じくらい南くらいの解釈でいいだろう
実際は相接してるような距離じゃない 562日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:03:18.35
いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、
563日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:04:27.83
>>558
反日集団が日本人学者に対する罵声を連呼しても日本の研究成果は変わらない
信頼しなくて結構 564日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:06:09.58
>>317
2013年以前から、桜井市のあの古墳は、卑弥呼の古墳ではなく、天皇の妹の古墳だと認定されているのにね、、、
しかも、天皇家直近の国家機関からの公式発表なのに。。。 565日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:06:55.28
>>407
ここで騙しの宣伝しているのは、
奈良の観光関係の組合員や、公務員じゃないのかもね。
ひょっとすると、専門の下請け業者なのかな、、 566日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:07:42.48
だが、なぜ平原一号で見つかった鏡が八咫鏡だと、キナイコシにとって、不都合なのだろうか、、、
567日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:09:54.81
>>352
あのちっぽけな空き地の大規模発掘調査では、その柱の穴は、粗末な倉庫のものだということと、大物主時代の化石だらけだったことと、そして、そこが、魏志倭人伝時代の直前に湖の底だったことが判明したのだものね。 568日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:10:44.81
改めて狂人のキナイコシが貼り付けているテンプレートを読んでみると、訳が分からなくなってくる。。。
奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることの言い訳ばかりで、、、
かえって、奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることが強調されているのではないのかな。。。
569日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:12:36.15
>>562
テンプレートの嘘が、一つづつ丁寧に、暴かれているね、、、 570日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:13:18.84
大和王権を扱う優秀な若手の学者達にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。
571日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:13:53.55
>>411
なるほど、畿内説信者さんたちに、次の信仰の対象を選んでもらうわけね。
でも、選ばれた説の論者には、負け組や、疫病神に取りつかれたようで、かえって不気味、、、 572日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:14:18.82
どうして、畿内説は破綻してしまったのかな。。。。
573日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:14:52.27
>>410
しっ。だめだよ、それだけは。。。
発狂者が増えてしまうもの。 574日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:15:46.26
キナイコシが周代の一歩を20cmと言い切る理由が分からないが、それによると卑弥呼の墓の大きさは20mだな。。。
575日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:17:11.69
>>559
畿内説は3世紀に天皇が存在したという説ではないから
反日反天皇集団がどう感じようと関係ない
>米田は、播磨や河内と、大和とは、別権力地域であった、と論証している
引用plz
>倭国の「東征毛人五十五國」の一つずつ、
には、庄内式が畿内から西に拡大してるからならない
>写本版本では、「邪馬臺國」と書かれた写本は0であった
12世紀以降の版本
>実態からの「確率の高い帰納的推論」を追求するもの。
反日集団は日本の学者を罵って完全否定してるから無理 576日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:17:21.09
しかし、なぜ南が東じゃないと畿内説は破綻するのだろうか、
僕たちも、もう一度、魏志倭人伝を最後まで読んでみるべきじゃないだろうか。。。
577日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:17:59.15
魏志倭人伝の時代は西暦何年なのだろうか、、、
578日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:18:15.88
計算すると、西暦200年頃からだな。。。
579日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:18:44.17
では、邪馬台国時代の天皇は誰なのだろうか、、、
580日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:19:19.89
>>579
計算すると、応神天皇の頃だな。。。
昔の天皇は長生きだな。。。
魏志倭人伝にも倭人が長生きで100年生きるとあったが、それが正しいことが証明されたな、、 581日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:19:42.53
計算すると、神武天皇の方が800年以上古い時代のようだな。。。
582日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:20:43.27
大物主は何年前の者だろうか、、、
583日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:21:05.15
大物主も神武天皇の時代の人なのだね、、、
584日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:21:33.13
あの掘立遺跡が大物主の倉庫で、神武天皇の時代のものだから、孝元天皇の妹の墓は随分と後の時代の物だね、、、
585日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:21:52.42
しかし、大物主はその孝元天皇の妹の夫でもあるね。。。
どういうことだろうか、、、
586日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:22:08.15
やはり、大物主というのは役職名なのではないのかな。。。
587日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:22:36.24
>>586
九州の王族に仕えた霊園管理者の役職名なのだろうな。。。。 588日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:23:07.65
>>587
それにしては、自分の妻の為に作った墓がやけに大きいな。。。 589日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:23:37.88
>>588
大物主の妻は天皇の妹でもあるから、良いのではないのかな。。。 590日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:24:11.98
>>589
なるほど、、、大物主は神武天皇の舅でもあったね。。。
大物主と天皇は長い時代に渡って、親戚だったのだな、、、 591日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:24:39.79
古事記と日本書紀を読み進めていくと、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。
592日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:25:09.17
キナイコシが周代の一歩を20cmと言い切る理由が分からないが、それによると卑弥呼の墓の大きさは20mだな。。。
593日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:25:58.50
>>576
最後まで読まなくても、魏志倭人伝に、邪馬台国が朝鮮半島の南にあったことが、明記されていたじゃないか、、 594日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:27:11.40
テンプレートに書いてあることの根拠が、本当は無いもないということが、優れた考古学者達によって、明らかになってしまったね。
595日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:27:40.54
>>567
そして、あの古墳は魏志倭人伝時代からずっと後の時代の物だったことも、2013年に実施された別の大規模調査で判明したねw 596日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:28:29.58
改めて狂人のキナイコシが貼り付けているテンプレートを読んでみると、訳が分からなくなってくる。。。
奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることの言い訳ばかりで、、、
かえって、奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることが強調されているのではないのかな。。。
597日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:29:06.61
>>569
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 598日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:29:44.79
どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったと考えているのかな、、、
599日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:30:20.83
2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、
600日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:30:45.58
600
601日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:37:36.80
>>565
そんな、組織だった工作ではないと思うよ。
書いている内容が、狂人のように錯乱しているからね、、、、 602日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:38:00.66
不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。
603日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:38:36.31
>>597
あれでしょ、、、あれ、あそこに埋もれてたあれ、
先頭のお役所の方は気づかなかったようだけど、、、 604日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:39:14.63
>>596
仕方ないよ、、、、
奈良のあの古墳は、天皇の妹を祭ってあるものなのだもの。。。
魏志倭人伝の世界の古墳とは、時代も、距離も、方角も、形も何もかもちがうのだからね。。。。
テンプレートは嘘をちりばめて、その全てのことに言い訳しなきゃならないのだからね、、、 605日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:40:53.08
>>593
そうだったね、熊本城のあたりだったね。。。 606日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:41:27.36
キナイコシが周代の一歩を20cmと言い切る理由が分からないが、それによると卑弥呼の墓の大きさは20mだな。。。
607日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:42:02.56
仲哀天皇の王宮は、なぜ畿内ではないのだろうか。。。
608日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:42:15.51
古事記と日本書紀を読み進めていくと、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。
609日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:42:43.32
>>566
倭人は周代の単位を使っていたことが、はっきりするからじゃないかな。。。 610日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:43:34.01
>>594
そうだね、、、
そして、僕たちは最近新しい情報を手に入れたね。。。 611日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:44:09.34
>>595
倉庫の遺蹟は、実はネアンデルタールのものだったのではないのかな。。。 612日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:45:11.05
キナイコシはテンプレートが論破されそうな時は、黙りこくってしまうな。。。
613日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:45:57.50
>>603
そうそう。あれを最初に目にしたあの人が、機転を利かせて足元の枯葉を蹴り掃いて覆ったけど、、、 614日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:46:24.14
大和王権を扱う優秀な若手の学者達にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。
615日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:47:17.28
キナイコシはテンプレートが論破されそうな時は、黙りこくってしまうな。。。
616日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:49:30.11
キナイコシが周代の一歩を20cmと言い切る理由が分からないが、それによると卑弥呼の墓の大きさは20mだな。。。
617日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:50:29.42
昔からその方、倭人の使者が中国に来るたびに皆が自らを周代の役職である大夫であると言った。
618日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:51:21.83
>>609
倭人は周代の中国語を使っていたのだな、、、 619日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:51:54.05
>>618
確かに、、、大夫という単語を使ったのだものね。。。 620日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:52:21.65
>>619
そういえば、僕たちの翻訳では、卑弥呼の墓を作ったときに、道を100歩分作ったとしたが、100歩は墓の直径のことかもしれないな。。。 621日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:52:49.91
>>620
なるほど、、、周代の中国語を使っていた倭人が卑弥呼の墓の大きさを、100歩と魏使に教えたとしたら、20mだね。。。 622日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:53:15.71
>>621
そうだね、キナイコシが周代の一歩が20cmと教えてくれたのだものね、、、 623日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:53:51.12
>>622
あまり追い詰めすぎるのは、良くないのではないのかな。。。 624日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:54:18.17
>>623
そうだね。。。。
発狂の度合いが高まってしまうものね、、、
ただでさえ閑散とした桜井市周辺に、ブツブツつぶやく発狂者が徘徊するさまはおぞましすぎるね。。。
二度と訪れる予定はないけど、、、 625日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:54:47.11
>>610
そうそう、僕たちは、とうとう、優れた考古学者が紹介してくれた大物主の倉庫が、古墳のことではなく、巻向駅から歩いていける、あのちっぽけな空き地にあったものだということを調べ上げてしまったものだものね。。。 626日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:55:35.92
626
627日本@名無史さん2018/04/27(金) 08:58:51.76
八咫バカキモ過ぎる
628日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:09:08.77
畿内説を論破されたキナイコシが、反論を諦めて悪口だけになってきているな。。。
629日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:12:15.57
>>486
>唐会要は、倭國伝で「開成四年正月、遣使薜原朝常嗣等來朝貢」と記載しており、
ほらね
唐会要倭国伝に遣唐使の藤原さんが載ってんだから
倭国が九州で確定とか、大笑い 630日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:14:25.92
>>573
そうだね。。。。
ただでさえ閑散とした桜井市周辺に、ブツブツつぶやく発狂者が徘徊するさまはおぞましすぎるね。。。
二度と訪れる予定はないけど、、、 631日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:14:56.60
畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。
632日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:15:23.73
633日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:15:58.16
2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、
634日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:16:17.16
>>598
あの、鍵穴型の墓のせいじゃないのかな、、、
魏志倭人伝に書かれているものとは帯方郡からの方角も距離も形も違うけどね。。。 635日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:17:23.86
>>495
>とすれば邪馬台国は畿内との関連付けが難しいのでは・・・・(倭国・倭人・朝廷・・・・)
そう思う理由は?
いつも全く理由を言わないのが九州説 636日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:19:22.92
>>358
>庄内は三雲が発祥。河内や播磨がそれを模倣した。
そんなこと言ってる学者は一人もいないでしょ
理由もなく捏造してはいけない 637日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:23:21.38
>>520
>纏向の墓は、「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」にならないから。
理由を何もいわず、ただ決めつけるだけの九州説信者って
異常だよね 638日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:23:42.76
キナイコシが八咫に過剰反応するのはなぜだろうか、、、
639日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:24:10.77
>>638
優れた考古学者に打ちのめされた話題なのではないのかな。。。 640日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:24:28.09
>>592
>キナイコシが周代の一歩を20cmと言い切る理由が分からないが、それによると卑弥呼の墓の大きさは20mだな。。。
九州説は捏造ばっかりだな 641日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:25:23.93
>>625
あのちっぽけな空き地の大規模発掘調査では、その柱の穴は、粗末な倉庫のものだということと、大物主時代の化石だらけだったことと、そして、そこが、魏志倭人伝時代の直前に湖の底だったことが判明したのだものね。 642日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:25:55.53
改めて狂人のキナイコシが貼り付けているテンプレートを読んでみると、訳が分からなくなってくる。。。
奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることの言い訳ばかりで、、、
かえって、奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることが強調されているのではないのかな。。。
643日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:26:27.20
644日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:26:59.60
>>634
2013年以前から、桜井市のあの古墳は、卑弥呼の古墳ではなく、天皇の妹の古墳だと認定されているのにね、、、
しかも、天皇家直近の国家機関からの公式発表なのに。。。 645日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:29:08.86
今、3年ぶりに覗いたけれど、3年前と同様に、テンプレートが論破されているね、、、、
646日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:29:50.55
・平原鏡の現物がどんなデザインか知らなかった
・平原が発掘された年を知らなかった
・散々依拠していた古文書の割註を知らなかった
・2013年の箸墓の調査が歩くだけの「立ち入り調査」だと知らなかった
・三角縁神獣鏡が大型鏡に分類されるのを知らなかった
・長さの単位「歩」が複歩を基にするものであることを知らなかった
・『説文解字』の続きに註があることを知らなかった
647日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:30:00.71
大和王権を扱う優秀な若手の学者達にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。
648日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:30:37.04
>>632
でも、インタ−ネット工作が、観光客の対応に、猫の手も借りたい筈の、去年の黄金週間もやまなかったね。 649日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:30:54.62
>>559
で、呉王夫差の後裔が山門に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と龍信仰と亀卜は?
で、呉王夫差の後裔が山門に渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
いつ言うんだおめえは! 650日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:32:13.79
仲哀天皇の王宮は、なぜ畿内ではないのだろうか。。。
651日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:32:33.75
古事記と日本書紀を読み進めていくと、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。
652日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:33:40.29
キナイコシは、テンプレートが論破された時、あまり意味のない空白の改行を行う癖があるな。。。
653日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:34:40.21
>>559
で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と龍信仰と
亀卜と日常食の蒸し餃子とワンタンは?
で、徐福集団が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
いつ言うんだおめえは! 654日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:37:31.60
>>652
真っ赤な嘘と嵐だけの九州説って
どう見ても、もう終わりだよね
w 655日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:37:55.52
>>559
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらした事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰と亀卜は?
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらしたとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
いつ言うんだおめえは! 656日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:38:16.93
>>642
仕方ないよ、、、、
奈良のあの古墳は、天皇の妹を祭ってあるものなのだもの。。。
魏志倭人伝の世界の古墳とは、時代も、距離も、方角も、形も何もかもちがうのだからね。。。。
テンプレートは嘘をちりばめて、その全てのことに言い訳しなきゃならないのだからね、、、 657日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:38:41.13
>>645
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 658日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:39:11.46
>>643
でも、結構な数の研究者の目に留まっちゃったんだよね。。。 659日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:39:48.31
>>648
ここで騙しの宣伝しているのは、
奈良の観光関係の組合員や、公務員じゃないのかもね。
ひょっとすると、専門の下請け業者なのかな、、 660日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:40:55.26
キナイコシが周代の一歩を20cmと言い切る理由が分からないが、それによると卑弥呼の墓の大きさは20mだな。。。
661日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:41:25.19
しかし、なぜ南が東じゃないと畿内説は破綻するのだろうか、
僕たちも、もう一度、魏志倭人伝を最後まで読んでみるべきじゃないだろうか。。。
662日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:41:57.02
畿内説を論破されたキナイコシが、反論を諦めて悪口だけになってきているな。。。
663日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:42:28.59
古事記と日本書紀を読み進めていくと、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。
664日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:43:34.57
邪馬台国時代の天皇は誰なのだろうか、、、
665日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:44:30.84
計算すると、応神天皇の頃だな。。。
昔の天皇は長生きだな。。。
魏志倭人伝にも倭人が長生きで100年生きるとあったが、それが正しいことが証明されたな、、
666日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:44:45.51
計算すると、神武天皇の方が800年以上古い時代のようだな。。。
667日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:45:03.64
大物主は何年前の者だろうか、、、
668日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:45:25.02
古事記と日本書紀を読み進めていくと、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。
669日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:45:52.02
2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、
670日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:48:15.86
>>625
あのちっぽけな空き地の大規模発掘調査では、その柱の穴は、粗末な倉庫のものだということと、大物主時代の化石だらけだったことと、そして、そこが、魏志倭人伝時代の直前に湖の底だったことが判明したのだものね。 671日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:50:04.30
キナイコシはテンプレートが論破された時は、黙りこくってしまうな。。。
672日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:50:46.03
古事記と日本書紀を読み進めていくと、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。
673日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:51:14.69
キナイコシはテンプレートが論破された時は、黙りこくってしまうな。。。
674日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:52:21.64
>>673
返す言葉を発見出来ないのではないのかな。。。 675日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:52:58.19
改めて狂人のキナイコシが貼り付けているテンプレートを読んでみると、訳が分からなくなってくる。。。
奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることの言い訳ばかりで、、、
かえって、奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることが強調されているのではないのかな。。。
676日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:53:30.53
>>658
将来を嘱望されている、有能な若手学者がフェードアウトしていく、きっかけになった2013年の調査からこのかた、急に畿内説の素人や学芸員レベルの爺さんのネットでのつぶやきが危地外じみてきたね
有能な若手考古学者を繋ぎとめるために、ポストをちらつかせるのが常套手段だが、大和王権を扱う若手の学者たちは、邪馬台国問題からは距離を置きたがっている 677日本@名無史さん2018/04/27(金) 09:59:38.78
678日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:02:50.96
どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったと考えているのかな、、、
679日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:03:19.61
>>659
そんな、組織だった工作ではないと思うよ。
書いている内容が、狂人のように錯乱しているからね、、、、 680日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:03:40.78
>>631
信仰すること自体に喜びを見出した、畿内説が破綻していることを認めたくない、頑固な老人信者たちにも、畿内説以外の信仰対象がたくさんあることを、教えてあげられるっていうメリットもありそう。 681日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:04:34.90
大和王権を扱う優秀な若手の学者達にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。
682日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:05:02.87
>>675
仕方ないよ、、、、
奈良のあの古墳は、天皇の妹を祭ってあるものなのだもの。。。
魏志倭人伝の世界の古墳とは、時代も、距離も、方角も、形も何もかもちがうのだからね。。。。
テンプレートは嘘をちりばめて、その全てのことに言い訳しなきゃならないのだからね、、、 683日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:05:39.29
>>670
そして、あの古墳は魏志倭人伝時代からずっと後の時代の物だったことも、2013年に実施された別の大規模調査で判明したねw 684日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:06:24.47
古事記と日本書紀を読み進めていくと、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。
685日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:08:08.23
>>661
最後まで読まなくても、魏志倭人伝に、邪馬台国が朝鮮半島の南にある九州を1月歩いた所にあったことが、明記されていたじゃないか、、 686日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:08:58.77
仲哀天皇の王宮は、なぜ畿内ではないのだろうか。。。
687日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:09:32.15
>>683
倉庫の遺蹟は、実はネアンデルタールのものだったのではないのかな。。。 688日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:10:18.72
キナイコシはテンプレートが論破された時は、黙りこくってしまうな。。。
689日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:10:50.39
返す言葉を発見出来ないのではないのかな。。。
690日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:13:30.92
691日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:20:20.19
1は畿内説の正当性を謳うよりも、九州説のここがおかしいと銘打って、
そのおかしい部分をまとめて貼って、この板に浮かしときゃイイのにw
692日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:20:35.89
畿内説を論破されてしまったキナイコシが弱弱しくなってきたな。。。
693日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:20:47.00
>>540
>>>「王制曰。古者以周尺八尺爲步。今以周尺六尺四寸爲步。」 だよ<
>>「王制」って何?。<
>ほいよ
《王制》 出自《礼记》是指古代君主治理天下的规章制度,
内容涉及封国、职官、爵禄、祭祀、葬丧、刑罚、建立成邑、选拨官吏以及学校教育等方面的制度。<
という事は、「王制曰・・・」は、
漢代頃成立の礼記の、はるか後代(唐代頃?)の引用説明的な情報であった、
という事だな。
そして、「古者以周尺八尺爲步。今以周尺六尺四寸爲步」では、
始皇帝の「1歩=6尺」命令にも触れておらず、
周代の断片的な情報にしかならないな。 694日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:23:20.75
>>692
優れた考古学者に打ちのめされたキナイコシが、やる気を失ったのではないのかな。。。 695日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:24:01.64
696日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:24:39.52
>>685
そうだったね、熊本城のあたりだったね。。。 697日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:24:42.94
698日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:25:55.94
咫が八寸だと八咫は何センチになるのだろうか。。。
699日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:26:27.34
古事記と日本書紀を読み進めていくと、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。
700日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:26:44.11
テンプレートに書いてあることの根拠が、本当は無いもないということが、優れた考古学者達によって、明らかになってしまったね。
701日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:27:27.34
改めて狂人のキナイコシが貼り付けているテンプレートを読んでみると、訳が分からなくなってくる。。。
奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることの言い訳ばかりで、、、
かえって、奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることが強調されているのではないのかな。。。
702日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:27:56.35
>>657
あれでしょ、、、あれ、あそこに埋もれてたあれ、
先頭のお役所の方は気づかなかったようだけど、、、 703日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:28:25.17
大和王権を扱う優秀な若手の学者達にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。
704日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:28:41.04
>>678
あの、鍵穴型の墓のせいじゃないのかな、、、
魏志倭人伝に書かれているものとは帯方郡からの方角も距離も形も違うけどね。。。 705日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:29:06.88
2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、
706日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:29:34.43
>>680
なるほど、畿内説信者さんたちに、次の信仰の対象を選んでもらうわけね。
でも、選ばれた説の論者には、負け組や、疫病神に取りつかれたようで、かえって不気味、、、 707日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:30:02.81
不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。
708日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:30:32.25
畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。
709日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:31:04.12
>>571
2013年のあの大規模調査よりも、数年後のあれのせいでしょ。
勿論、2013年のあの調査が畿内説破綻の発端となったことには変わりないけど、、、
やっぱりとどめになったのはあれだね。。。 710日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:32:34.56
だが、なぜ平原一号で見つかった鏡が八咫鏡だと、キナイコシにとって、不都合なのだろうか、、、
711日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:32:39.27
九州説はそんな嘘ばかりついてて
何が楽しいの?
みじめすぎない?
712日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:33:45.38
仲哀天皇の王宮は、なぜ畿内ではないのだろうか。。。
713日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:34:24.01
畿内説を論破されたキナイコシが、反論を諦めて悪口だけになってきているな。。。
714日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:35:15.20
大物主は何年前の者だろうか、、、
715日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:35:49.38
キナイコシは、テンプレートが論破された時、あまり意味のない空白の改行を行う癖があるな。。。
716日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:36:15.34
キナイコシは、テンプレートが論破された時、あまり意味のないことを喚く癖もあるな。。。
717日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:36:54.72
だが、なぜ平原一号で見つかった鏡が八咫鏡だと、キナイコシにとって、不都合なのだろうか、、、
718日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:37:22.27
>>715
お前、いつも論破されて
意味のないことを喚いてるよね 719日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:37:24.95
2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、
720日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:38:16.49
721日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:39:48.77
>>716
優れた考古学者に打ちのめされたキナイコシが、やる気を失ったのではないのかな。。。 722日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:40:12.75
キナイコシが周代の一歩を20cmと言い切る理由が分からないが、それによると卑弥呼の墓の大きさは20mだな。。。
723日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:40:30.21
しかし、なぜ南が東じゃないと畿内説は破綻するのだろうか、
僕たちも、もう一度、魏志倭人伝を最後まで読んでみるべきじゃないだろうか。。。
724日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:40:48.87
九州説に考古学者なんていないよ
725日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:40:57.31
魏志倭人伝の時代は西暦何年なのだろうか、、、
726日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:41:07.67
計算すると、西暦200年頃からだな。。。
727日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:42:00.20
では、邪馬台国時代の天皇は誰なのだろうか、、、
728日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:42:41.85
>>727
計算すると、応神天皇の頃だな。。。
昔の天皇は長生きだな。。。
魏志倭人伝にも倭人が長生きで100年生きるとあったが、それが正しいことが証明されたな、、 729日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:44:11.25
もうそろそろ、次のスレッドを作成したほうが良いのではないのかな。。。
730日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:44:37.94
>>701
仕方ないよ、、、、
奈良のあの古墳は、天皇の妹を祭ってあるものなのだもの。。。
魏志倭人伝の世界の古墳とは、時代も、距離も、方角も、形も何もかもちがうのだからね。。。。
テンプレートは嘘をちりばめて、その全てのことに言い訳しなきゃならないのだからね、、、 731日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:45:03.54
>>702
そうそう。あれを最初に目にしたあの人が、機転を利かせて足元の枯葉を蹴り掃いて覆ったけど、、、 732日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:45:25.39
>>541
>>(北限大海、西北接百濟、正北抵新羅、南與越州相接)詳しい位置関係」説明。<
>倭国の北は日本海、新羅は倭国の対馬の真北 <
新羅が倭國の北だ、と言っている。
だから、倭國は、九州。
>>献上品。<
>倭国の産物 <
献上したのも、九州の倭國。 733日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:45:40.89
>>704
2013年以前から、桜井市のあの古墳は、卑弥呼の古墳ではなく、天皇の妹の古墳だと認定されているのにね、、、
しかも、天皇家直近の国家機関からの公式発表なのに。。。 734日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:46:11.51
>>720
でも、インタ−ネット工作が、観光客の対応に、猫の手も借りたい筈の、去年の黄金週間もやまなかったね。 735日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:47:30.88
>>723
最後まで読まなくても、魏志倭人伝に、邪馬台国が朝鮮半島の南にある九州を1月歩いた所にあったことが、明記されていたじゃないか、、 736日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:48:21.35
古事記と日本書紀を読み進めていくと、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。
737日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:48:47.04
>>542
>>以前に、大道は春日の方に向かっている、という話を読んだ。<
>何で?<
おそらく、10年位以上前に、PCで。
>佐々木は、「三雲の庄内」の件を伏せて隠している詐欺師であり、
隠す必要はない 738日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:49:04.02
テンプレートに書いてあることの根拠が、本当は無いもないということが、優れた考古学者達によって、明らかになってしまったね。
739日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:49:38.65
キナイコシはテンプレートが論破された時は、黙りこくってしまうな。。。
740日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:50:08.11
>>729
キナイコシはテンプレートが論破されそうな時は、なかなか次のスレッドを作成しないな。。。 741日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:50:37.56
>>701
仕方ないよ、、、、
奈良のあの古墳は、天皇の妹を祭ってあるものなのだもの。。。
魏志倭人伝の世界の古墳とは、時代も、距離も、方角も、形も何もかもちがうのだからね。。。。
テンプレートは嘘をちりばめて、その全てのことに言い訳しなきゃならないのだからね、、、 742日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:51:04.28
743日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:51:16.84
畿内説の嘘
行程ーたどり着けない
通交ー漢字が使われた痕跡がない
軍事ー鉄鏃が普及した痕跡がない
服飾ー献上した絹の痕跡がない
食料ー素潜りするような海岸部がない
気候ー冬に野菜が取れない
建築ー楼の痕跡がない
何より
魏志は伊都までしか来ていない。
以上で畿内説は終了しました。
744日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:51:55.66
大和王権を扱う優秀な若手の学者達にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。
745日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:52:31.54
どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったと考えているのかな、、、
746日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:52:56.13
2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、
747日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:54:03.85
>>735
そうだったね、熊本城のあたりだったね。。。 748日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:55:13.03
大和王権を扱う優秀な若手の学者達にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。
749日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:57:39.19
GWは、卑弥呼のいた九州旅行がお勧めなのではないのかな。。。
750日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:06:37.53
>>559
そして九州説は帰納をまったくしない
だから学問ではない 751日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:08:36.68
752日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:15:13.09
753日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:16:00.34
754日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:22:32.18
>>542が、途中で投稿ボタンを押してしまったので、追加。
>>佐々木は、「三雲の庄内」の件を伏せて隠している詐欺師であり、<
>隠す必要はない <
佐々木の、明治大紀要での論考の変更でも、
柳田の「三雲の庄内」の話の記載はなかった。 755日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:23:09.25
キナイコシの嘘を謎の優れた考古学者がまとめてしまったのではないのかな。。。
743日本@名無史さん2018/04/27(金) 10:51:16.84
畿内説の嘘
行程ーたどり着けない
通交ー漢字が使われた痕跡がない
軍事ー鉄鏃が普及した痕跡がない
服飾ー献上した絹の痕跡がない
食料ー素潜りするような海岸部がない
気候ー冬に野菜が取れない
建築ー楼の痕跡がない
何より
魏志は伊都までしか来ていない。
以上で畿内説は終了しました。
756日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:24:03.63
757日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:25:01.06
758日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:25:28.19
キナイコシが、レベルの高い話題の知識が足りなくて、質問しているな。。。
759日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:27:27.45
テンプレートに書いてあることの根拠が、本当は無いもないということが、優れた考古学者達によって、明らかになってしまったね。
760日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:27:45.23
760
761日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:29:51.86
>>742
でも、結構な数の研究者の目に留まっちゃったんだよね。。。 762日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:30:50.72
大和王権を扱う優秀な若手の学者達にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。
763日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:31:07.60
>>745
あの、鍵穴型の墓のせいじゃないのかな、、、
魏志倭人伝に書かれているものとは帯方郡からの方角も距離も形も違うけどね。。。 764日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:31:41.79
2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、
765日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:32:02.02
>>734
ここで騙しの宣伝しているのは、
奈良の観光関係の組合員や、公務員じゃないのかもね。
ひょっとすると、専門の下請け業者なのかな、、 766日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:32:31.70
>>708
信仰すること自体に喜びを見出した、畿内説が破綻していることを認めたくない、頑固な老人信者たちにも、畿内説以外の信仰対象がたくさんあることを、教えてあげられるっていうメリットもありそう。 767日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:33:01.13
>>709
しっ。だめだよ、それだけは。。。
発狂者が増えてしまうもの。 768日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:33:02.72
>>758
悪口しか言えない九州説が
畿内説に反論できる日は
遠いようだ 769日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:33:28.65
キナイコシが八咫に過剰反応するのはなぜだろうか、、、
770日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:33:54.36
キナイコシが周代の一歩を20cmと言い切る理由が分からないが、それによると卑弥呼の墓の大きさは20mだな。。。
771日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:34:00.90
>>544
>>(松野氏姫氏系図など)史料批判をして、信頼性が高いと思われ<
>たつもりだったのが、
実はどろぼうが書いた偽書であったことは今は日本で定着している<
鈴木真年東大教授を泥棒扱いをし、
国立国会図書館や静嘉堂に置かれているものを、
大和説者は、偽書扱いか?。 772日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:34:16.12
しかし、なぜ南が東じゃないと畿内説は破綻するのだろうか、
僕たちも、もう一度、魏志倭人伝を最後まで読んでみるべきじゃないだろうか。。。
773日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:34:52.97
魏志倭人伝の時代は西暦何年なのだろうか、、、
774日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:35:41.17
仲哀天皇の王宮は、なぜ畿内ではないのだろうか。。。
775日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:35:57.99
古事記と日本書紀を読み進めていくと、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。
776日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:36:25.63
>>771
偽書でしょ
江戸時代以前に存在した形跡がない 777日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:36:36.67
松野氏姫氏系図を読み進めていくと、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。
778日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:36:54.42
だが、なぜ平原一号で見つかった鏡が八咫鏡だと、キナイコシにとって、不都合なのだろうか、、、
779日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:37:01.51
>>545
>テンプレの根拠はだいたい学者の研究内容をまとめている<
「大体学者」という人種が、「南→東」などの嘘つき騙しをしている・・・・詐欺師であるから、
何の価値もなく、根拠にもならない。 780日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:37:04.59
781日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:37:29.09
>>759
そうだね、、、
そして、僕たちは最近新しい情報を手に入れたね。。。 782日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:38:03.69
キナイコシは、テンプレートが論破された時、あまり意味のないことを喚く癖があるな。。。
783日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:39:18.32
キナイコシは、テンプレートが論破された時、理由も示さずに、嘘だ嘘だとしか言わないな。。。
784日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:39:41.48
>>740
僕たちが、テンプレートを撤去して、次のスレッドを作成してあげれば良いのではないのかな。。 785日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:40:00.16
改めて狂人のキナイコシが貼り付けているテンプレートを読んでみると、訳が分からなくなってくる。。。
奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることの言い訳ばかりで、、、
かえって、奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることが強調されているのではないのかな。。。
786日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:40:33.82
今、5年ぶりに覗いたけれど、5年前と同様に、テンプレートが論破されているね、、、、
787日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:41:05.92
>>761
将来を嘱望されている、有能な若手学者がフェードアウトしていく、きっかけになった2013年の調査からこのかた、急に畿内説の素人や学芸員レベルの爺さんのネットでのつぶやきが危地外じみてきたね
有能な若手考古学者を繋ぎとめるために、ポストをちらつかせるのが常套手段だが、大和王権を扱う若手の学者たちは、邪馬台国問題からは距離を置きたがっている 788日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:41:23.92
大和王権を扱う優秀な若手の学者達にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。
789日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:41:51.99
>>763
2013年以前から、桜井市のあの古墳は、卑弥呼の古墳ではなく、天皇の妹の古墳だと認定されているのにね、、、
しかも、天皇家直近の国家機関からの公式発表なのに。。。 790日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:42:08.56
2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、
791日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:42:29.03
>>765
そんな、組織だった工作ではないと思うよ。
書いている内容が、狂人のように錯乱しているからね、、、、 792日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:42:49.62
>>766
なるほど、畿内説信者さんたちに、次の信仰の対象を選んでもらうわけね。
でも、選ばれた説の論者には、負け組や、疫病神に取りつかれたようで、かえって不気味、、、 793日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:43:08.74
>>767
そうだね。。。。
ただでさえ閑散とした桜井市周辺に、ブツブツつぶやく発狂者が徘徊するさまはおぞましすぎるね。。。
二度と訪れる予定はないけど、、、 794日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:43:53.49
平安京。。。
795日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:44:30.31
795
796日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:47:27.83
>>769
優れた考古学者に打ちのめされた話題なのではないのかな。。。 797日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:47:51.64
>>772
最後まで読まなくても、魏志倭人伝に、邪馬台国が朝鮮半島の南にある九州を1月歩いた所にあったことが、明記されていたじゃないか、、 798日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:48:23.55
>>773
計算すると、西暦200年頃からだな。。。 799日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:48:36.47
では、邪馬台国時代の天皇は誰なのだろうか、、、
800日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:48:49.78
801日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:49:12.20
計算すると、応神天皇の頃だな。。。
昔の天皇は長生きだな。。。
魏志倭人伝にも倭人が長生きで100年生きるとあったが、それが正しいことが証明されたな、、
802日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:49:42.92
計算すると、神武天皇の方が800年以上古い時代のようだな。。。
803日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:50:01.16
804日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:50:09.89
大物主は何年前の者だろうか、、、
805日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:50:32.96
大物主も神武天皇の時代の人なのだね、、、
806日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:51:01.02
あの掘立遺跡が大物主の倉庫で、神武天皇の時代のものだから、孝元天皇の妹の墓は随分と後の時代の物だね、、、
807日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:51:17.84
しかし、大物主はその孝元天皇の妹の夫でもあるね。。。
どういうことだろうか、、、
808日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:51:34.37
やはり、大物主というのは役職名なのではないのかな。。。
809日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:51:48.92
九州の王族に仕えた霊園管理者の役職名なのだろうな。。。。
810日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:52:05.06
それにしては、自分の妻の為に作った墓がやけに大きいな。。。
811日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:52:21.84
大物主の妻は天皇の妹でもあるから、良いのではないのかな。。。
812日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:52:37.08
なるほど、、、大物主は神武天皇の舅でもあったね。。。
大物主と天皇は長い時代に渡って、親戚だったのだな、、、
813日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:52:50.99
仲哀天皇の王宮は、なぜ畿内ではないのだろうか。。。
814日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:53:44.94
古事記と日本書紀を読み進めていくと、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。
815日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:53:59.11
>>778
倭人は周代の単位を使っていたことが、はっきりするからじゃないかな。。。 816日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:55:06.87
>>781
そうそう、僕たちは、とうとう、優れた考古学者が紹介してくれた大物主の倉庫が、古墳のことではなく、巻向駅から歩いていける、あのちっぽけな空き地にあったものだということを調べ上げてしまったものだものね。。。 817日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:56:10.06
キナイコシはテンプレートが論破された時は、黙りこくってしまうな。。。
818日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:56:30.30
>>785
仕方ないよ、、、、
奈良のあの古墳は、天皇の妹を祭ってあるものなのだもの。。。
魏志倭人伝の世界の古墳とは、時代も、距離も、方角も、形も何もかもちがうのだからね。。。。
テンプレートは嘘をちりばめて、その全てのことに言い訳しなきゃならないのだからね、、、 819日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:56:52.20
>>786
テンプレートの嘘が、一つづつ丁寧に、暴かれているね、、、 820日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:57:16.62
大和王権を扱う優秀な若手の学者達にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。
821日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:57:30.30
どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったと考えているのかな、、、
822日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:57:50.24
2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、
823日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:58:06.50
複製して何者かが貼り付けている投稿と、何度も何度も必死に戦っている、奈良の狂った老人がいるね、、、
824日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:58:21.20
不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。
825日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:58:42.00
畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。
826日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:59:03.15
どうして、畿内説は破綻してしまったのかな。。。。
827日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:59:31.40
キナイコシが八咫に過剰反応するのはなぜだろうか、、、
828日本@名無史さん2018/04/27(金) 11:59:51.13
キナイコシが周代の一歩を20cmと言い切る理由が分からないが、それによると卑弥呼の墓の大きさは20mだな。。。
829日本@名無史さん2018/04/27(金) 12:00:09.06
>>797
そうだったね、熊本城のあたりだったね。。。 830日本@名無史さん2018/04/27(金) 12:00:38.16
>>815
倭人は周代の中国語を使っていたのだな、、、 831日本@名無史さん2018/04/27(金) 12:00:52.37
確かに、、、大夫という単語を使ったのだものね。。。
832日本@名無史さん2018/04/27(金) 12:01:20.60
そういえば、僕たちの翻訳では、卑弥呼の墓を作ったときに、道を100歩分作ったとしたが、100歩は墓の直径のことかもしれないな。。。
833日本@名無史さん2018/04/27(金) 12:01:37.43
なるほど、、、周代の中国語を使っていた倭人が卑弥呼の墓の大きさを、100歩と魏使に教えたとしたら、20mだね。。。
834日本@名無史さん2018/04/27(金) 12:02:14.38
>>833
そうだね、キナイコシが周代の一歩が20cmと教えてくれたのだものね、、、 835日本@名無史さん2018/04/27(金) 12:02:34.97
>>816
あのちっぽけな空き地の大規模発掘調査では、その柱の穴は、粗末な倉庫のものだということと、大物主時代の化石だらけだったことと、そして、そこが、魏志倭人伝時代の直前に湖の底だったことが判明したのだものね。 836日本@名無史さん2018/04/27(金) 12:03:10.81
キナイコシはテンプレートが論破された時は、黙りこくってしまうな。。。
837日本@名無史さん2018/04/27(金) 12:03:29.90
>>836
返す言葉を発見出来ないのではないのかな。。。 838日本@名無史さん2018/04/27(金) 12:03:58.05
もうそろそろ、次のスレッドを作成したほうが良いのではないのかな。。。
839日本@名無史さん2018/04/27(金) 12:04:19.81
改めて狂人のキナイコシが貼り付けているテンプレートを読んでみると、訳が分からなくなってくる。。。
奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることの言い訳ばかりで、、、
かえって、奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることが強調されているのではないのかな。。。
840日本@名無史さん2018/04/27(金) 12:04:42.96
>>819
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 841日本@名無史さん2018/04/27(金) 12:04:52.26
九州説は
ウソばかりついてる
異常者のスクツだな
842日本@名無史さん2018/04/27(金) 12:05:11.01
>>821
あの、鍵穴型の墓のせいじゃないのかな、、、
魏志倭人伝に書かれているものとは帯方郡からの方角も距離も形も違うけどね。。。 843日本@名無史さん2018/04/27(金) 12:05:36.57
2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、
844日本@名無史さん2018/04/27(金) 12:05:53.24
複製して何者かが貼り付けている投稿と、何度も何度も必死に戦っている、奈良の狂った老人がいるね、、、
845日本@名無史さん2018/04/27(金) 12:06:33.02
846日本@名無史さん2018/04/27(金) 12:06:44.40
847日本@名無史さん2018/04/27(金) 12:06:58.29
>>826
2013年のあの大規模調査よりも、数年後のあれのせいでしょ。
勿論、2013年のあの調査が畿内説破綻の発端となったことには変わりないけど、、、
やっぱりとどめになったのはあれだね。。。 848日本@名無史さん2018/04/27(金) 12:07:22.96
>>827
優れた考古学者に打ちのめされた話題なのではないのかな。。。 849日本@名無史さん2018/04/27(金) 12:07:42.04
しかし、なぜ南が東じゃないと畿内説は破綻するのだろうか、
僕たちも、もう一度、魏志倭人伝を最後まで読んでみるべきじゃないだろうか。。。
850日本@名無史さん2018/04/27(金) 12:08:05.20
畿内説を論破されたキナイコシが、反論を諦めて悪口だけになってきているな。。。
851日本@名無史さん2018/04/27(金) 12:08:12.42
>>560
>>百済は唐代途中まで存在していたし、<
>筆者の生存時期って唐會要の元の資料の筆者のことを言ってるのか なら唐代と言え<
wwが、唐会要の「越州」記載に対して、 「隋代の越州」なんて話をするから、根拠にならん、と言ったのだ。
>>隋代の「越州」の記録は、存在していて採用したのか?は、不明だ。<
>605年、呉州を越州へ改称 607年、会稽郡へ再変更 621年、越州へ再改名
742年、越州は会稽郡と改称<
何だ?、結局、唐代後半以後は、会稽郡になっていたんではないか。
それじゃ、唐会要の「越州」記載が会稽の事だ、という話は、×だよ。
>唐會要の「南與越州相接」の記事は永徽五年の記事<
だから、これも、始めから違う話であり、×。
>>日本国のものではない、という事で、OK<
>「出」は倭国で産するということ 倭人伝の「出細紵縑緜」「出真珠青玉」と同じ <
その倭國は、「正北抵新羅」の倭国であり、九州。
>>半島との間の大海、であると判る。<
>半島との間は新羅の東南ではなくて南<
「正北抵新羅」は詳論であり、倭国は九州。 852日本@名無史さん2018/04/27(金) 12:08:28.17
古事記と日本書紀を読み進めていくと、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。
853日本@名無史さん2018/04/27(金) 12:09:14.18
>>815
倭人は周代の中国語を使っていたのだな、、、 854日本@名無史さん2018/04/27(金) 12:09:42.35
>>835
そして、あの古墳は魏志倭人伝時代からずっと後の時代の物だったことも、2013年に実施された別の大規模調査で判明したねw 855日本@名無史さん2018/04/27(金) 12:10:15.64
キナイコシは、テンプレートが論破された時、理由も示さずに、嘘だ嘘だとしか言わないな。。。
856日本@名無史さん2018/04/27(金) 12:10:25.78
>>693
せっかく教えてもらったものを、どうしてそう捻じ曲げるかな
>という事は、「王制曰・・・」は、
>漢代頃成立の礼記の、はるか後代(唐代頃?)の引用説明的な情報であった、
>という事だな。
Wikipediaの礼記のページを読むだけでも
「王制‐『史記』封禅書を根拠として、前漢の文帝の時に博士に編纂させたもの。」
って書いてあるだろ?
漢代成立の礼記の中の一篇で「前漢文帝時に成立」している
王制には
「夏殷周の古代の君主が理想的に天下を治めていた頃の規章・制度」
が書かれている(ことになっている)んだよ
ザラコクのいう「はるか後代(唐代頃?)の引用説明的な情報」というのは
いつもどおり、大嘘の思い付きだ 857日本@名無史さん2018/04/27(金) 12:10:46.45
>>838
キナイコシはテンプレートが論破されそうな時は、なかなか次のスレッドを作成しないな。。。 858日本@名無史さん2018/04/27(金) 12:11:00.27
859日本@名無史さん2018/04/27(金) 12:11:37.65
>>839
仕方ないよ、、、、
奈良のあの古墳は、天皇の妹を祭ってあるものなのだもの。。。
魏志倭人伝の世界の古墳とは、時代も、距離も、方角も、形も何もかもちがうのだからね。。。。
テンプレートは嘘をちりばめて、その全てのことに言い訳しなきゃならないのだからね、、、 860日本@名無史さん2018/04/27(金) 12:11:58.19
>>840
あれでしょ、、、あれ、あそこに埋もれてたあれ、
先頭のお役所の方は気づかなかったようだけど、、、 861日本@名無史さん2018/04/27(金) 12:12:21.18
大和王権を扱う優秀な若手の学者達にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。
862日本@名無史さん2018/04/27(金) 12:12:49.16
>>842
2013年以前から、桜井市のあの古墳は、卑弥呼の古墳ではなく、天皇の妹の古墳だと認定されているのにね、、、
しかも、天皇家直近の国家機関からの公式発表なのに。。。 863日本@名無史さん2018/04/27(金) 12:13:05.93
2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、
864日本@名無史さん2018/04/27(金) 12:13:18.77
複製して何者かが貼り付けている投稿と、何度も何度も必死に戦っている、奈良の狂った老人がいるね、、、
865日本@名無史さん2018/04/27(金) 12:13:32.88
>>845
でも、インタ−ネット工作が、観光客の対応に、猫の手も借りたい筈の、去年の黄金週間もやまなかったね。 866日本@名無史さん2018/04/27(金) 12:13:57.19
>>825
信仰すること自体に喜びを見出した、畿内説が破綻していることを認めたくない、頑固な老人信者たちにも、畿内説以外の信仰対象がたくさんあることを、教えてあげられるっていうメリットもありそう。 867日本@名無史さん2018/04/27(金) 12:22:14.74
>>751
魏使が畿内まで来たと思ってるところが嘘 868日本@名無史さん2018/04/27(金) 12:41:49.32
869日本@名無史さん2018/04/27(金) 12:46:27.43
ゴミスレ
870日本@名無史さん2018/04/27(金) 12:48:00.84
>>561
>>(正北抵新羅)「在新羅東南、居大海之中」の詳述。<
>倭国は新羅の東南、倭国の北は大海の日本海 <
倭国は、「正北抵新羅」の位置。
>>友好的か?、敵対的か?、での「接と抵」の書き分け。<
>「南與越州相接」だから倭国の南限と越州が同じくらい南くらいの解釈でいいだろう<
越州→会稽、という解釈は、唐会要の記載時代は、越州ではなかったから、×。
>実際は相接してるような距離じゃない<
友好的関係。 871日本@名無史さん2018/04/27(金) 12:54:17.25
>>563
>反日集団が日本人学者に対する罵声を連呼しても日本の研究成果は変わらない <
「反日集団」という排他的戦闘的キョクウ発言をするwwも、
「南→東」の嘘吐き騙しをする大和説学者も、いずれも、・・・・であるだけで、
軽蔑するだけ。
>信頼しなくて結構<
世間の人々に、その醜悪な人間性を晒して置いて、放置しておくだけ。 872日本@名無史さん2018/04/27(金) 12:58:36.01
873日本@名無史さん2018/04/27(金) 13:01:19.22
>>575
>>倭国の「東征毛人五十五國」の一つずつ、<
>には、庄内式が畿内から西に拡大してるからならない<
倭国は、「正北抵新羅」に拠って、九州。
そして、庄内も、「東征毛人五十五國」に拠って、「東に拡大」した。 874日本@名無史さん2018/04/27(金) 13:10:49.18
875日本@名無史さん2018/04/27(金) 13:13:46.46
>>629
>>唐会要は、倭國伝で「>唐会要は、倭國伝で「開成四年正月、遣使薜原朝常嗣等來朝貢」と記載しており、
ほらね
唐会要倭国伝に遣唐使の藤原さんが載ってんだから
倭国が九州で確定とか、大笑い 薜原朝常嗣等來朝貢」と記載しており、<
>ほらね
唐会要倭国伝に遣唐使の藤原さんが載ってんだから
倭国が九州で確定とか、大笑い<
倭国伝では「正北抵新羅」だから、倭国は九州にあり、
「開成四年正月の遣使」は、倭國使を名乗った事になり、
その時の遣使は「薜原朝常嗣等」であった事になる。 876日本@名無史さん2018/04/27(金) 13:18:13.46
>>635
そう思う理由は?。
いつも、「南→東」などの嘘吐き騙しの理由を、全く言わないのが、
・・・・大和説詐欺師。 877日本@名無史さん2018/04/27(金) 13:20:53.48
>>636
>>庄内は三雲が発祥。河内や播磨がそれを模倣した。<
>そんなこと言ってる学者は一人もいないでしょ 理由もなく捏造してはいけない <
柳田と米田の意見を合わせると・・・。 878日本@名無史さん2018/04/27(金) 13:25:50.93
>>637
>>纏向の墓は、「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」にならないから。<
「南→東」などの理由を何もいわず、ただ決めつけるだけの」などの大和説信者って、
異常だよね。 879日本@名無史さん2018/04/27(金) 14:27:07.94
>>640
大和説は、「南→東」などのような、捏造ばっかりだな。 880日本@名無史さん2018/04/27(金) 14:29:21.56
いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、
881日本@名無史さん2018/04/27(金) 14:29:55.38
どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったと考えているのかな、、、
882日本@名無史さん2018/04/27(金) 14:30:13.72
どうして、畿内説は破綻してしまったのかな。。。。
883日本@名無史さん2018/04/27(金) 14:33:10.68
>> 880
テンプレートの嘘が、一つづつ丁寧に、暴かれているね、、、
884日本@名無史さん2018/04/27(金) 14:34:43.58
>>881
あの、鍵穴型の墓のせいじゃないのかな、、、
魏志倭人伝に書かれているものとは帯方郡からの方角も距離も形も違うけどね。。。 885日本@名無史さん2018/04/27(金) 14:35:59.73
>>654
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しをし、
都合の悪い事実には知らん振りし、
議論に負けると相手を「反日」とヘイトスピーチし、
相手の説明の言葉尻を切り取って曲解して誹謗罵倒し、
真っ赤な嘘と嵐だけの大和説者って、
どう見ても、もう終わりだよね。
w 886日本@名無史さん2018/04/27(金) 14:40:15.67
>>677
危地外じみてるのは、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説のアンタなんだが。
w 887日本@名無史さん2018/04/27(金) 14:43:17.46
>>690
「南→東」などの嘘吐き騙しのお前ら大和説者に、
論破とか ・・・無理だろ。 888日本@名無史さん2018/04/27(金) 14:47:56.53
>>697
大和説に、「南→東」などの嘘吐き騙しをしないまともな考古学者とか、
いないし。 889日本@名無史さん2018/04/27(金) 14:49:57.28
改めて狂人のキナイコシが貼り付けているテンプレートを読んでみると、訳が分からなくなってくる。。。
奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることの言い訳ばかりで、、、
かえって、奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることが強調されているのではないのかな。。。
890日本@名無史さん2018/04/27(金) 14:50:15.19
テンプレートに書いてあることの根拠が、本当は無いもないということが、優れた考古学者達によって、明らかになってしまったね。
891日本@名無史さん2018/04/27(金) 14:51:07.57
古事記と日本書紀を読み進めていくと、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。
892日本@名無史さん2018/04/27(金) 14:51:28.86
>>711
大和説は、「南→東」などの、そんな嘘ばかりにしがみついて
何が楽しいの?。
みじめすぎない?。 893日本@名無史さん2018/04/27(金) 14:53:14.68
>>718
お前ら大和説者らは、いつも論破されて、
意味のないことを喚いてるよね 。 894日本@名無史さん2018/04/27(金) 14:55:20.61
>>724
大和説に、
史料事実からの確率の高い帰納的推論をする、
まともな考古学者なんていないよ。 895日本@名無史さん2018/04/27(金) 15:02:13.22
>>750
そして大和説者は、「南→東」などの嘘吐き騙しばかりで、
史料事実からの確率の高い帰納的推論をまったくしない。
だから学問ではない。 896日本@名無史さん2018/04/27(金) 15:04:33.43
>>751
>で? どこが嘘なの?<
大和説の、「南→東」などの史料事実の否定曲解の騙しの、全部。 897日本@名無史さん2018/04/27(金) 15:07:32.97
魏志倭人伝の時代は西暦何年なのだろうか、、、
898日本@名無史さん2018/04/27(金) 15:08:30.50
計算すると、西暦200年頃からだな。。。
899日本@名無史さん2018/04/27(金) 15:09:16.44
>>768
悪口しか言えず、
史料批判や史料根拠やに拠る反論が出来ず、
「南→東」などの嘘吐き騙ししか出来ない大和説が、
九州説に反論できる日は、
遠いようだ 。 900日本@名無史さん2018/04/27(金) 15:09:28.73
>>883
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 901日本@名無史さん2018/04/27(金) 15:09:48.77
梅
902日本@名無史さん2018/04/27(金) 15:13:45.63
梅
903日本@名無史さん2018/04/27(金) 15:16:39.62
>>841
大和説は、
「南→東」などのウソばかりついてる異常者の巣窟だな。 904日本@名無史さん2018/04/27(金) 15:23:22.56
>>856
>Wikipediaの礼記のページを読むだけでも
「王制‐『史記』封禅書を根拠として、前漢の文帝の時に博士に編纂させたもの。」
って書いてあるだろ?
漢代成立の礼記の中の一篇で「前漢文帝時に成立」している王制には
「夏殷周の古代の君主が理想的に天下を治めていた頃の規章・制度」
が書かれている(ことになっている)んだよ
ザラコクのいう「はるか後代(唐代頃?)の引用説明的な情報」というのは
いつもどおり、大嘘の思い付きだ<
「王制曰・・・」と書かれただけで、
(はるか?)後代の礼記を引用した内容だ、
という事は、確定しているんだよ。 905日本@名無史さん2018/04/27(金) 15:24:43.02
>>858
大和説は、「南→東」などのようなウソばかりついてるね。 906日本@名無史さん2018/04/27(金) 15:34:23.74
907日本@名無史さん2018/04/27(金) 15:56:46.93
>>732
>新羅が倭國の北だ、と言っている。
倭国は新羅の東南と書いているから、新羅は倭国の北西
倭国の北は日本海、正北に新羅と抵触しているのは倭国の対馬
継体に滅ぼされた筑紫君磐井は新羅と通じていた
筑紫は白木原地名や白木神社が多い 908日本@名無史さん2018/04/27(金) 15:59:45.64
909日本@名無史さん2018/04/27(金) 16:05:33.37
>>754
>柳田の「三雲の庄内」の話の記載はなかった。
取り上げないのは柳田が説として論証しているわけではないから
邪馬台国の会の講演でも聞かれたから答えただけで、
「わからない」と言っている 910日本@名無史さん2018/04/27(金) 16:08:47.75
>>754
>佐々木の、明治大紀要での論考の変更でも、
変更じゃなくてお前の思い違いかPC操作ミス 911日本@名無史さん2018/04/27(金) 16:26:21.57
>>771
>鈴木真年東大教授を泥棒扱いをし、
反日教育者の古田が史料批判をして、信頼性が高いと思ったつもりだったのは
どろぼう喜八郎が書いた偽書だろ 912日本@名無史さん2018/04/27(金) 16:40:11.89
>>851
>何だ?、結局、唐代後半以後は、会稽郡になっていたんではないか。
758年(乾元元年)に再び越州と改編され、越州都が8州を統括
>その倭國は、「正北抵新羅」の倭国であり、九州。
倭国は新羅の東南、倭国の北は日本海
>「正北抵新羅」は詳論であり、倭国は九州。
対馬〜九州は新羅の南、倭国は新羅の東南 913日本@名無史さん2018/04/27(金) 18:16:05.94
>>912
半島の南海上から台湾起きあたりまで倭人の国が連なってるって誤り 認識なんでしよ?
なんの問題もない 914日本@名無史さん2018/04/27(金) 18:34:44.83
>>913
倭国は新羅の東南だから半島の南海上からではないよ 915日本@名無史さん2018/04/27(金) 18:43:52.79
>>907
>>(唐会要は)新羅が倭國の北だ、と言っている。<
>倭国は新羅の東南と書いているから、新羅は倭国の北西<
新羅の東南と書き、正北抵新羅とも書いた、という事は、
「新羅の東南と南の間であり、南の方がより正しい」という主張である事になり、
東南は関門海峡方向であり、
南は平戸〜五島列島方向であるから、
どちらにしても、九州付近を特定している事になり、
大和は×。
>倭国の北は日本海、正北に新羅と抵触しているのは倭国の対馬<
唐会要が、対馬を念頭に置くことなどあり得ない。
>継体に滅ぼされた筑紫君磐井は新羅と通じていた
筑紫は白木原地名や白木神社が多い <
これも、唐会要の筆者には預かり知らぬ、関係もない事。 916日本@名無史さん2018/04/27(金) 18:54:37.21
>>908
>説文解字より古いんだけど?<
礼記の引用の「王制曰・・・」は、説文解字とは直接関係がない。 917日本@名無史さん2018/04/27(金) 19:02:52.39
>>916
間接的に、あるでしょ
成立年代が新しいから信じない、というなら
1咫=8寸を信じたらインチキ 918日本@名無史さん2018/04/27(金) 19:22:01.01
>>915
>「新羅の東南と南の間であり、南の方がより正しい」という主張である事になり、
「北限大海」だからならない
「王國與新羅接近。新羅素爲高麗,百濟所侵。若有危急、王宜遣兵救之。」の後に書いてるから
倭国と百済、新羅が近接しているところを書いている
倭国の北は大海の日本海である遣兵できるような大国
>唐会要の筆者には預かり知らぬ、関係もない事。
唐会要の筆者に関係があるのではなくて
日本人が我々の歴史を考察するうえでの地域情報の一つ
反日運動には日本の歴史は関係ない 919日本@名無史さん2018/04/27(金) 19:31:06.99
920日本@名無史さん2018/04/27(金) 19:34:30.02
ゴミ
921日本@名無史さん2018/04/27(金) 19:36:59.68
はゴミ箱
922日本@名無史さん2018/04/27(金) 19:38:03.94
クソ
923日本@名無史さん2018/04/27(金) 19:39:09.83
スレは
924日本@名無史さん2018/04/27(金) 19:40:38.29
梅
925日本@名無史さん2018/04/27(金) 19:42:20.23
梅
926日本@名無史さん2018/04/27(金) 19:43:50.86
梅
927日本@名無史さん2018/04/27(金) 19:44:38.83
梅
928日本@名無史さん2018/04/27(金) 19:45:41.29
梅
929日本@名無史さん2018/04/27(金) 19:47:56.21
梅
930日本@名無史さん2018/04/27(金) 19:53:15.23
梅
931日本@名無史さん2018/04/27(金) 19:55:26.58
梅
932日本@名無史さん2018/04/27(金) 19:56:17.14
梅
933日本@名無史さん2018/04/27(金) 19:57:25.32
梅
934日本@名無史さん2018/04/27(金) 19:58:20.30
梅
935日本@名無史さん2018/04/27(金) 19:58:54.98
梅
936日本@名無史さん2018/04/27(金) 19:59:31.37
梅
937日本@名無史さん2018/04/27(金) 20:00:22.82
梅
938日本@名無史さん2018/04/27(金) 20:01:14.99
梅
939日本@名無史さん2018/04/27(金) 20:02:14.99
梅
940日本@名無史さん2018/04/27(金) 20:43:40.57
>>904
>「王制曰・・・」と書かれただけで、
>(はるか?)後代の礼記を引用した内容だ、
>という事は、確定しているんだよ。
礼記の成立は「前漢文帝」の頃
どの時代から見て、はるか後代っていってるのか
最初は(唐代?)とか書いてたよな?
唐代は618年 - 907年、7世紀から10世紀はじめだ
前漢文帝の在位は、前180 - 前157年、紀元前2世紀
今問題にしている邪馬台国の頃は、3世紀
どこがどう、はるか後代なんだ?
言い逃れにしても、あんまりいい加減なこと書くなよ 941日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:06:44.53
梅
942日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:07:57.91
梅
943日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:08:34.85
梅
944日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:09:43.92
梅
945日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:10:23.18
梅
946日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:11:10.18
梅
947日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:12:15.98
梅
948日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:12:55.90
梅
949日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:13:43.73
梅
950日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:14:23.22
梅
951日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:18:13.27
今一生懸命埋めてるやつって、邪馬台国スレ乱立荒らしやってるやつだろ?
そして、
「畿内説者のレベルの低いこの重複偽スレッドでは、岡上氏の能力の全てを引き出せないからね。。。。
岡上氏が投稿しなくなったのも、そういうことなんじゃないのかな、」
とか
「岡上氏の高度なレベルの投稿が懐かしいね。。。 」
とか
「僕たちは、なぜか岡上氏だと勘違いされているね。。。
僕たちにとっては、あの博識な岡上氏と間違えられるのは光栄なのだけれども、、、、、
思い込みの激しい、キナイコシと皆に呼ばれている、奈良の狂った老人に、いわれのない誹謗をされている本当の岡上氏に、申し訳ないね。。。」
とかいうのは、自演ってことでOK?
九州説のやつが他人を誉めることってないしww
952日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:20:31.02
梅
953日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:21:12.83
梅
954日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:21:54.44
梅
955日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:22:48.14
梅
956日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:23:38.30
梅
957日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:24:13.41
梅
958日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:24:43.62
梅
959日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:25:20.05
議論したいのなら、「畿内説スレ」でどうぞ
畿内説を名乗るスレ立て自体が荒らし目的の背乗りスレなど不要で無用
荒らし目的のスレ立てをする人間は、有象無象がいる匿名掲示板でも最低レベル
岡上は議論に参加せず、自分が迷惑目的で乱立させたニセスレを巡回して意味のないつぶやきを置いてまわることしかしない
「大物主の倉庫」とかね
九州説がもう意味がないことは理解できているんだろうか
これは誰の書き込みなんだ?
奥山か?
960日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:25:30.16
梅
961日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:26:24.04
梅
962日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:27:40.43
梅
963日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:28:32.84
梅
964日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:29:18.61
梅
965日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:29:53.73
梅
966日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:30:30.11
梅
967日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:31:56.55
梅
968日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:33:06.48
梅
969日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:33:48.98
梅
970日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:34:41.58
梅
971日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:35:11.43
梅
972日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:35:59.91
梅
973日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:36:48.77
梅
974日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:37:53.54
梅
975日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:38:43.32
梅
976日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:40:54.24
梅
977日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:41:38.61
梅
978日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:42:08.46
梅
979日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:42:40.85
梅
980日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:43:12.05
梅
981日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:43:50.32
梅
982日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:44:30.58
梅
983日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:45:02.67
梅
984日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:45:34.66
梅
985日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:46:02.50
梅
986日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:50:06.08
梅
987日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:50:35.24
梅
988日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:51:07.76
梅
989日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:51:33.54
梅
990日本@名無史さん2018/04/27(金) 21:53:10.60
梅
991日本@名無史さん2018/04/27(金) 22:23:12.51
1000なら八咫バカ狂い死に
992日本@名無史さん2018/04/27(金) 23:00:54.70
>>909
>>(明治大の佐々木は)柳田の「三雲の庄内」の話の記載はなかった。<
>取り上げないのは柳田が説として論証しているわけではないから
邪馬台国の会の講演でも聞かれたから答えただけで、「わからない」と言っている<
そりゃ、柳田は、
「三雲に那珂八幡地域よりも古い庄内がある」と言い出したら、
大和説側の教授らの論を否定する可能性がある事を知っているから、
発表しなかったんだろうが、
「ついうっかり」本音が口から出てしまった。 993日本@名無史さん2018/04/27(金) 23:03:04.74
>>998
大和説者のwwは、
鈴木真年東大教授も泥棒扱いした。 994日本@名無史さん2018/04/27(金) 23:08:02.14
>>912
>>何だ?、結局、唐代後半以後は、会稽郡になっていたんではないか。<
>758年(乾元元年)に再び越州と改編され、越州都が8州を統括<
何故、唐会要が書かれた時の呉地や会稽付近の郡名や、越州であったのか?、
という事を書かないんだい?。
また、越の中心は、呉よりも南方にあった、という事も、常識的だよ。 995日本@名無史さん2018/04/27(金) 23:11:33.88
>>992
>「ついうっかり」本音が口から出てしまった。
ずいぶん前から言ってたのを安本も知ってたから聞いた 996日本@名無史さん2018/04/27(金) 23:15:15.18
>>917
>成立年代が新しいから信じない、というなら
1咫=8寸を信じたらインチキ<
「咫は女性の手の大きさ」という事に、何か(後代での)変更があったのかい?。 997日本@名無史さん2018/04/27(金) 23:18:20.13
>>916
>「王國與新羅接近。新羅素爲高麗,百濟所侵。若有危急、王宜遣兵救之。」の後に書いてるから
倭国と百済、新羅が近接しているところを書いている
倭国の北は大海の日本海である遣兵できるような大国 <
大和では、若有危急の時に間に合わない。 998日本@名無史さん2018/04/27(金) 23:22:33.27
>>940
>礼記の成立は「前漢文帝」の頃
どの時代から見て、はるか後代っていってるのか<
この男が・・・・アホだね。
礼記自体が「王制曰・・・」なんて、書く筈がないし、必要もない。 999日本@名無史さん2018/04/27(金) 23:24:28.58
999
1000日本@名無史さん2018/04/27(金) 23:25:21.52
>>959
この男(ww)は、大和説がもう、
「南≠東」などに拠って、意味がないことは理解できているんだろうか?。 lud20220913204533ca
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