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●前提
※このスレは粘着荒し『時間の国のアリス』君を、隔離、指導、躾する意図を含んでいます
※『時間の国のアリス』君、通称アリス君は、他人に成りすましてアリス君自信を擁護する場合があります
※アリス君擁護の別キャラが忙しいときはアリス君キャラは出てきませんが設定です
●アリス君の主張
過去とは前の状態の現在であり、未来とは今後の状態の現在である。
現在、過去、未来は状態が違うだけで実は同じものである。
よって時間とは現在の持続であり、状態の変化は時刻である。
常に在る一定の変化を数える事は、時刻を数える事と同じ意味を持っ。
※この主張はあまり考えたものではありませんが、アリス君自信作です
●その他
※『時は存在なり』というアリス君の別キャラが居ますが、アリス君が忙しい
※または別キャラに扮して発狂しているときは出てきません
※それ以外は毎日欠かさず出てきますので、生暖かく見守りましょう
※アリス君は長文コンプレックスです
※アリス君は時折発狂します
前スレ
http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/philo/1461072404/ アリスの名言と逃亡 > 電気素量が重さであるはずがねーわな > 電気素量は電荷だ電荷 > > 電子一個の重さの話→ミリカンの実験 > > どう繋がるってんだよw > > 電気素量→電子の定立→ブラウン管→電子一個の重さ > だろ、せめて > > 出直してこい馬鹿 後の嘘と解り、アリス逃亡
アリスの迷言と逃亡 >ミリカンの実験で電子一個の重さが算出できるわけねーだろ、ぶわーかw 後に玉砕し、アリスだんまり
☆ アリスのご自慢作文 ☆ 馬鹿だけど一生懸命書きました ☆ 下手だけど許してね > どうして現在は持続するのか > > 実際のところ、現在が持続している科学的根拠は、一切ありません > なぜなら、現在が何であるのかについて、科学は触れないからです > それは宗教の役目ぐらいに思っているのかもしれない > それでも、持続している感覚は事実としてたしかにある > だれにとって持続しているのか > 結局それというのは、“意識にとっては”、あるいは“意識に於いては” > 持続している、ということになります > > ではその「意識」とは、物理的には何であるのか > これがほとんど分からない > 「どうすれば分かるのか」すら見通しが立たない > > 自然と現在と意識、この結合が説明されないかぎり > 時間もまた、いつまでも「無の存在」としてあるばかりです この作文はアリス曰く、卒論レベルだそうです
アリスが書いたほかの文章も載せておきましょう > ラッセルが観念論を上手に批判しているので紹介しましょう > > ・「木がただ観念のみから成る」と言われるとき、彼に言う権利があるのは実は > 「木についての“思考”が心の中になければならない」ということだけだ。 > > 時間についても似たような混乱があると思います > 物体が即座に原始的感覚によって成立するのに対して、「時間」は > それを認識するのに知性を必要としましたが、だからといって > 人間が居なければ時間は存在しないことにはならないはずです 時間をかけて下書きから一生懸命書いたようです ツイート(つぶやき)ではありません 起承転結をきちんと考えてがんばったようです
テンプレ終了だと思います 間違いがあったらすみません
アリスさんのスレおめでとうございます✨💚 物理板から戻っておいで。👰
おまとめサポート (平成29年7月よりスタート) 他社のおまとめローンの審査が通らなかった方、ご相談下さい。 ・勤続年数2年以上の方 ・金融事故のない方 ・来店可能な方 保証人、担保は不要です。 まずは、お電話でお問い合わせ下さい。 特定非営利活動法人 STA
> 人間が居なければ時間は存在しないことにはならないはずです ?人間が居ても自然には存在しない
>>9 人間がいなくても時間はある、ということを言ってるんじゃない?
鼎梯人先生も呼びましょう❗ 戻って来てもいいよお😃
「時間」とは人間の持つ「概念」であって、 人間がいなければ「時間」という人間の持つ「概念」は存在しない。 非人間による哲学が必要だが、われわれは人間であることを逃れられない。 これが、人間による「哲学」の「限界」である。 この「限界」に挑むのが、機械による機械のための機械の「哲学」だろうw 犬猫に哲学させるより、人間にとっては機械のほうが扱いやすい。
人間の持つ「概念」は存在しないけど、私達が時間とよんでいるもの、こと、は存在するでしょ。 人間が扱うなら機械の哲学も「機械による」ものではないね。
「点から線が作られるのではなく、むしろ線から点が作られる。」(無限論の教室 ) 31P 自然から三次元が作られる。 運動から四次元が作られる。 時間は運動を量で捉えることから必要なだけ 次元にしても運動を静止で理解するから必要なだけで、現に科学はその自然存在を否定している それは頭の中にしか存在しないということ 運動を人間は静止で捉えるから量で理解するしかない ここからここまで、と静止を設定する その運動量を時間で捉える その時間という尺度は太陽とか光とかの定期的な運動量の抽象 つまり自然のある特定の何かの運動量を運動量で捉えている 今、現に在るはずなのに幅が無い 在るものを無で理解する 運動は直接に捉えられないから、量にして理解するしかない 時間は他次元同様に目の前の自然から作り出された、自然を理解するための観念的な存在でしかない 科学革命が示すように、次元など無いということになる
いずれにしても、今が永遠であり、そのことは運動が永遠ということを意味する 自然がなぜ存在するのかなどは問えない 何故は自然には無いから
理解するのが人間の頭の中だからないことにはならない。 私はあると思うなー。 そもそも概念を超える想いをめぐらしてもいいのが学問じゃないかな。哲学に限らず。
自然という対象は自然に存在しないもので理解されると言っているだけ 対象は対象の否定で理解される
ここでいう「機械」を、人間の作ったものだけに限定するか、自然によるものを含むか、それも問題だ。 最初に(人間が)「機械」を作成するかどうかは先送りする。どっちでもいいしw 観測者としての「人間」は、「観測」する以上、なんらかの干渉をしてしまう。 「干渉」とは不思議な言葉であって、影響を与えるという意味ではなく、影響を与えないという意味でも用いられる。 いや、「影響を与えない」と考えているのはわたしだけかもしれないがw ゼロ知識証明ができるのだから、影響を与えない観測も可能だろう。(トリックは必要だが、不正ではない)
個人的には自然法則の意識的な適用という人間の技術の定義を支持している 自然による生成は意識的な技術の適用はない 観測というか理解するには必ず媒介がある その媒介を通して理解するしかない 運動する自然を静止という媒介で理解する これは差異を否定で理解することでもある
過程ちんは人間大好きだよな。 俺は人間なんて単に出力値が傲慢な数値としか思ってないから、そういうところに違いが出るん だろうな。
理解というのは人間の行為だしなあ だから常につきまとうものだし
分類しがたいものは分類の本質に基づき、対象は分類とは関係が無い 理解しがたいものも理解の本質に基づき、これも対象の問題ではない
鳥もちと鳥の関係でしょう 鳥は自然 鳥もちを外すと鳥は逃げる
けっきょく土俵が違うことがわかっていないから明後日の論議して、また理解しているだけなんだよなあ 話ができる人は滅多に居ない 理系サイトも二割いかない印象がある アリス?その二号?問題外
自分の土俵すら理解していないということに尽きる その意識が皆無ということか
あれだけ低脳をさらしたアリスが逃亡しないのは偉い 俺にはとても真似できない スレ主も賛嘆しているんだろう 素晴らしい
あちこちでアリスが匿名で憂さ晴らししている それしかできないからなあ
魔女スレの俺への批判者はすべて自演だと思いたいなあ 何人も居るとしたらバカのスクツ、いや巣窟ということになる そうだとしたらどうにもならん 元の巣に帰ることにする
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
理解する気が無い人に何言っても無駄だけど、少しわかってくれる人もいるみたいだから、その人向け
カルメン 面白かった カルメンが時々公美子にみえる 歌は上手いんじゃないかと ホセはドミンゴなんだな 別人だと思えた この辺りから歌手がわからなくなってきた感じだ ディースカウ、シュライアーまでだからなあ 歌劇なんて絶対に観ないだろうなと思っていたら意外と面白いのは名演というこが大きいんだろう ということは他分野もそうなんだろうな
題名のない音楽会みていたら、天才バイオリニストが大安売りしていた カラスのライバルテバルディだったかな、いつのまにか消えたとどこかにあったな ガウディのライバルとかいたけど 俺たち凡才は同時代の天才はわからないだろうな 歴史に残る条件とはなんなんだろう 関係は無いけど、わかりたくはある
黒澤明と原節子の映画観たけど後悔した ノンちゃん雲に乗るの方が面白い 「それから」は藤谷美和子、松田、いいとも青年隊のお騒がせ男、森田監督とかてんこ盛 ヴィスコンティ、キューブリックかな、あとは もう良いかなとも思えるけど 東京物語はつまらんと思ったが、どういうわけか印象に残る 戸田家の兄妹はいろいろ難ありなので、再挑戦したのが東京物語とか
それからの松田優作は何か違う感があるのは俺だけかな 小林薫は○、草笛さんは良い女優だけど△ 草笛さん、存在感有り過ぎ どういうわけか三輪明広さん思い出した 三輪さんの主張とか、それは違うと思うことがあるけど、その人と一体になった主張なんで他人にはあてはまらないのかも知れない 裏を返せば三輪さんには真実なんだろうなと思ったりした 草笛さんは以前主役の若い子食ってしまったドラマがあった その作品が中古屋で売っていて思案している 主役の若い子のその前のがいろいろバランスがとれていて面白かった 草笛さんは貫禄ありすぎて、周りの俳優さんが力が無いとバランス崩す気がする
死も生もなく、時間も重力も次元もなく 不思議な不思議な自然ということになるのか そこに深遠を感じるのか、恐怖を感じるのか 生存本能というか感情というか、西洋的な歴史背景で育った人間には進化論のように本能に近いところで拒否するのかも知れない 日本の場合は鴎外が一杯ということでしかないように思える そりゃ西洋の教科書には書いていないとか言って否定する口
ホッジャーか、CD借りてきたな ロザリオのソナタ 面白い しかしいろいろと掘り返すと面白い楽曲が出てくるもんだな 大滝詠一さんのアメリカンポップス紹介のラジオ番組でも面白い曲がたくさんあって また聞きたいと思ったらその年に亡くなられた クラシックは独墺偏重で、もう少しいろいろと思う
管楽器主体の曲流していたなFM 以前は管楽器は性に合わなかったが、最近はOKというか良くなってきている
朗読版星の王子様 あと半分か そういやこの本が絡む黒柳徹子さんのドラマ今週末すべて放送
古事記が交換コーナーにあったんで朗読版のを借りてきてコピー 九枚組みか さて、その前に聴きたいのがたくさんあるのでいつになるやら この本はすでに中国の影響が在るとテレビで解説者が言っていた 本居宣長の主張思い出したが、無駄な抵抗という気がする どんなに自然を素で捉えたいと思っても、認識の在り方はつきまとうのと同じくらいに 日本と外国の文化は気っても切り離せない そういや古代ギリシャ文化も以前の文化との混交だしなあ トリレンマ・・・
内藤さんの星の王子様は最後まで読んでいなかったような気がする 星の王子様は原題小さな王子様だけど、その合理性を池澤さんは日本語として支持していた 本のあとがきにも記してあって、なるほどと思わせた
朗読版だと文学はけっこう読める気がする 黙読だと描写はけっこうすっとばすのかな 今年お花見の時に短編集をもっていって読んだけど、一篇一篇じっくりと読んで面白かった 長編だとやはり飛ばして読む感じになる 朗読の欠点は二時間かかったりすることがあること まあ読まないよりはと思って朗読に頼ったりする 「模倣犯」は文庫本でかなりになるけど、朗読になったら何時間になるかな 面白くて一気呵成という感じだった 間取りでいろいろ推理する元刑事が、捜査している刑事の相談役として出てくる小説と違って ドラマでは省かれているし、家族を殺された高校生が親しくしている女の子も同じ扱いだった あの時間で詰め込むんだからしょうがないかな そういや「小石川の家」も原作との違いがあるのかな 原作者は子役を褒めていたような記憶がある 星の王子様はたぶん二時間かかならないでよめる本だろうけど この本はやはり古典だろうなと思わせる面白さで、魅入られるのはわかる内容だった
星の王子様の理屈は子供の理屈だけど、戻らなければいけない理屈でもあるのかな マイクロソフトの創業者が慈善事業に傾倒しているらしい 金持ちの間でも、俺たちは間違っているんじゃないのかと言いはじめている人も出てきているという報道があった 現状がおかしいという感触は上から下まで出てきているのかな 新たな経済体制考えなきゃいけない気がする 社会主義は社会には向いていないことが証明された現在だが、それでも純然たる資本主義でもないことは社会が示している
カンタータの詩を追うのはつらいなあ 歌声も楽器として聴くことにした 農民カンタータ、コーヒーカンタータは追えるかな、とくにコーヒーは 歌曲は時々良いなと思わせるのがある この間森麻季だったかが歌ったのは良かったけど、作曲作詞全然知らなかった 他にもいそう そういや高橋マリが歌ったんで、ジャリタレが歌っていて聴く気がしなかった曲が悪くないということを発見したんだけど いい曲はせめてそこそこの歌手に歌わせろとその時に思ったことが甦ったりした 森さんは中堅ではあるけど、名がつくような水準ではないとこの頃わかった ジャニスはピアフには及ばないけど良い歌手だし、クルチも良い歌手で好きだが違うかもと思ったりする グルヴェローバも良い歌手だけど大ではない気がしたりする ・・・まあ俺にはわからないことは確かかな ホロヴィッツとミケランジェリだったらミケランジェリ選ぶけど、プロが選ぶとなると違うかもと思ったりする ラフマニノフが代表であとはその他だとホロが言ったと書いていたのを読んだけどCDだとわからないのは 好みの曲をラフマニノフが弾いていないこともあるのかなと思ったりする ピアノの専門的なことはわからんし
黒澤監督の「わが青春に悔いなし」という映画は戦後直後のある層の開放感の体現のような気がする 今から観るとなんだかなあとしか思えないけど、やはりそれは晴れ晴れとした思いでもあるのかな ただ何か違うぞと思ったりしたのはその結末を知っているからに過ぎないからだろうけど 将来を見通すのは難しいなあ あれだけ苦労していろいろ見通せた父もいろいろ間違えた気がする 母みたいに基本なるようにしかならず、行き抜くだけだというのが姿勢としては正しいのかなとも 理知に優った父は動物としての母の姿勢に欠けていたということかもしれない バブルの時は引退していたので、兄の浮かれぶりにやれやれと言っていたと母は伝えている 母もまた良い時も悪い時も在るからねといつもの姿勢を崩さなかった こういうのは伝わらないのは歴史が示している 渦中にいればそんなもんなんだろうな ウォール街の魔女に成れなかった人たちの轍を踏むだろうなとリーマンショック前のアメリカ株式市場の 浮かれっぷりの報道でそう思ったけど、外部がだからわかったことなんだろうな
理知的だった父はけっこう経済は見通していた気がする 母もまた良い時もあれば悪い時もあるからねと準備は怠らなかった 成るようにしか成らないし、生き抜くだけだという動物としての姿勢があった母と違って父にはそれが少し欠けていた気がする 霊を自分の体験で信じた母とはまたそれは別だし 学ぶに足る人間が目の前にいたことを居なくなった今わかったりする そんなものかな多くの人間はと思ったりする
けっきょく日本の歌手が大にも名にも成れない現状は文化土壌の差なのか 良く耕された果樹園なんだろうな、欧州は 科学とか学問になるとそういう要素も在るが、逆にそれが足枷になったりする それはビッグバン仮説でも明らかだ 彼らは創世神話が身に染み付いている
わたしのは素人というか子供の直感のような気がする しかしプロの解説は不備があるすぎて素人も子供も納得させる段階とはとても言えない段階であることは確か ニュートンの重力説明でわかったつもりになった過去の多くの人たちと同じ人たちが現代にもたくさんいるという話
経済と同様に学問もまた過去から学ぶ人は少ないということか
今の自然事象の科学者の説明も天動説的説明が多い気がする
ラーナー、アルヴェーンは方程式の性格について理解している 「ビッグバンはなかった」で数学についての理解を展開していたけど、もう少し掘り下げるべきだろう
物理的には地動説のほうが合理的である。 しかしながら、われわれの「生活」は天動説で行われている。 太陽は東の方からのぼり、西の方にしずむのだ。 哲学が合理的である必要はなく、「生活的」「日常言語的」な「真理」「本質」に「生きる」べきなのかもしれない。 「生きる哲学」は天動説的である。「理解」のためではなく「生きる」ためにはより「合理的なのだ」ともいえる。 日本における最高の哲学書は「天才バカボン」であろう。なのだ。
北朝鮮かあ 厄介な国だ 北朝鮮貧民共和国だから、金くれ金くれ 自国の政策失敗の尻を他国に持ってくるなよ
先週迷子になって家に来た老女はどうなったかな 警察に引き取ってもらったんだが、報告が無い そのまま老人ホームで名無しで暮らすこともあるそうだ
塀に寄りかかっていたと連れてきた老人が言っていたんで、母を思い出した 気になる
それが本当の母であり、ボケているのは自分だ、という可能性もある。 10年に一度ぐらいの間隔でP・K・ディックの特集本がでるが、ブレードラーナー(ランナー)などもボケとして読み解けたりするのかもしれない。 ふっ(ロウソク消す音)
昨日の落語の映像化、死神のは読んだ覚えがある けっこう落語は読んだことがあるんだなあ 骨董屋と売る人ちかの駆け引きの話が面白かった 皿屋敷のは知らなかった 落語は半可通批判が面白い わたしも含めて人のことは言えないのだが
ミンツ演奏の奇想曲が出てきた ミニコンポを面貌にDVD清浄液浸してレンズらしきところをグリグリやったら回復した 冒頭の数曲は違う曲に聞えてきた フィッシャーの平均律もリヒテルとはかなりテンポが違っていて、違う局に聞えるときがある こっちがいろいろ理解していないだけかな
曲ってやはり良い演奏家でないとというところがあるかな 高橋マリ子が歌ったら真価がわかることもある どうにもならないのが歌って埋もれることもあるかも
認識しなかったCDが演奏されるようになった やはり乾式とかはダメなのかな そんなに汚れていたということかな ミニコンポの方がやはり良い音出す
再生装置付きラジオ買わなきゃいけないかなと悩んでいたんで、直ってホッとしている
鈴木優人という人のバッハのチェンパロ曲テレビで聴いていたら クラシックを聴き始めた時のときめきみたいのを思い出した たまにこういうことがあるんだけど、至福でもあったりする
ああ、根本的に違うことが理解できていないから話が通じない w
生物分類は生物学のプロと議論したことがあるし けっこう面白い指摘をされていたが、基本は合意している 説明しても、どの土俵でやっているかがわからない場合はどうにもならない けっこういるんだよなあ しょうがない
思い出したけど、やはり勘違いして話が噛み合わなくて行司が俺の基本を解説してくれたことがあった ここにはそういう人がいないからダメだな
プロの科学者の理解力は尊敬したなあ 研究員の方も優れていて、いろいろ解説してくれた このお二方の問題意識と理解力は透徹していたなあ 遠い目 w もう一方もコンピューターの研究者で新幹線通勤の方がいて、励ましてくださったなあ もう1人の方も理解力が半端なかった お医者さんもいたな 理数系はガン無視の方と井目付き合ってくれる方と極端なのが同数くらいだったな たしかにホーガンが語るように三流の思考ということになるのか 残念
違う土俵で相撲を取ろうとする間抜けとか あら、土俵が違うし、勝手に相手作り出して倒しているよ、あの頓馬 主客問題にしても、分類にしても、自然を理解しようとするからこそなのだということ
けっきょく理解するからこその問題でしかない それだけだ 単純そのもの
こんなに身近なことが問題解決の鍵とは けっこう間抜けな話だったんだなあ 笑える ここでのも深めることが出来たんである意味感謝しているよ アリス、その二号、三号たちには感謝している 割合と真面目に www 三浦さんがポーの小説での認識論紹介していて、それがずっと気になっていた ポーはあんまり目の前にあるとわからないものだと書いている 地図の地名は細かいのではなく、地図に幅ひろく広がっていると意外とわからない けっきょく理解することそのものの問題 睫毛みたいなものか 奥義を求めて山に入るが、人里に出るということか
モーツァルト、ベートーヴェンも感じないわけではないが バッハの方がクラシックを聴いたときのときめき感じることが多い 小フーガでクラシックに魅入られたからかな チェンバロ曲は久しぶりにその気分を思い出させてくれた 朝なんでモーツァルト聴いているけど、ポリーニじゃなくてハスキルの方が良かったかな ハスキルは全集が出ていたそうで 欲しかったな
主客問題も収穫だったが、「今」の問題が対象とその否定に収斂するというのが一番の収穫だった すっきりしていなかったんで 宿便が出た感じだ w
桜井章一という方は哲学者だなあ 色々な嘘を見破っているし、考え抜いている これは彼の体験から出ているし、鍛え抜かれている 母もまた似た認識をもっていたことは行動と言動で明らかだった やはり俺たち本に偏り勝ちな人はダメな場合が多いんだな
久しぶりのミニコンで音楽は、パソコンで聴いてきたから快く響く DVDもパソコンだけど、やはり音がナニだな 映像はともかく
十九世紀の大思想家の本の一節を思い出した いや、まったくその通り
理解するから主客問題が出てくる それはなんら自然の問題では無い 今には幅が無い 対象をその否定で理解しているということ しかし視点を一貫させる難しさを思う 自分1人で考えていたら気がつかず、もっと長い間堂々巡りしていただろう
けっきょく理解することそのものの問題だったんだなあ、わたしが長年考えてきた問題の鍵は
わたしの土俵を理解していない人たちも役に立つことはあるんだよな 理系会議室の人の明後日の方向の批判なんてのは、意外と深い問題だった その意味ではとても有意義 これもまたある意味逆説的ではある w
宮部みゆきは優れたストーリーテラーだな くりから御殿の朗読で三島屋百物語追ったが面白かった 人が生きることの切なさがあますところなく描かれている 生きることに意味など無い それゆえに生は
ヒトもまた自然の過程としてただ在るだけ その上に築かれた幻想は美しくあり醜くも在る それゆえに哀しい ただただ哀しい
「けっきょく理解することそのものの問題だった」 なんだ、答えにたどりついてしまったのか、そこが出発点。 入り口がみえただけで、そこから始まるのだ、というのが一般的な仏教的教えだな。
歴史上の人物は時代によって作られる要素がけっこうあるんだな 坂本竜馬像は司馬遼太郎がかなり作ったという話があるが 信長は戦後日本社会がその像を作ったという現在の歴史学の趨勢のようだ 士農工商とかは明治政府が江戸時代を暗黒時代にするための一つらしい 歴史学では江戸時代の農民はけっこう米を食っていたと証明している 歴史は扱う時代によって彩られるということか わたしたちはその渦中に在るという当たり前のことか これも自己言及による視点だな
>>92 そう、ここから始まる
>>91 >>93 宮台ー小林論争で宮台が言ったことを思い出してにやにやしている
以前博識芸人が徳川家康がよせばいいのに当時最強の武田信玄と戦って 予想通りの惨敗を喫してうんこもらして逃げ帰った話を、止せばいいのにと面白おかしく話していた それをニュー速である人が取り上げて、その行動がなかったら家康は添加を取れなかったのだと 鮮やかに論証したことを思い出す この行動を取らなかったら徳川は衰退の一途を辿ったであろうと、他の大名の例を取って論じていた 歴史は扱い方で実学にもなりうるんだなあと痛感した 歴女とかいうけど、個人的にはどうでも良いことに思えてきたのを覚えている これも基本的には人間とはということなんだろう
>>92 かなり前に聖書は歴史的事実ではないのかという指摘があった
ただ、この場合の世界はやはりユダヤ人が住んでいた周りの話でしかない
第九の「友、兄弟」は欧州であり今の世界ではない
魔笛では黒人が、わたしたちは天国に行けないと語る
やはり黒人はそういう扱いだった
仏教と量子力学云々というのは言葉が曖昧ということもあるという指摘を読んだことがある
いや、ふと思い出しただけ
一休さんのミニアニメ面白いなあ なんだろう、教えに囚われず、根本から捉えているような NHKの今の時間帯のお天気お姉さん、美貌だが朝ではなく昼以降の雰囲気 しかしドラマに面白いのが無くなったなあ とっとちゃん一気放映、どうか潰れませんように 刑事ドラマはワンパターンだし 絵画番組と百分で名著くらいかな 名著のは扱いが偏っているけど、高慢と偏見の回はそこそこ面白かった 今月の野火も悪くない
「今日は春の祭典」か 音楽番組はお世話になったかな 衛星放送に良いのが多かったけど、趣味の範囲だから必要かというと微妙 当時の録画は今でも愉しんでいるけど まあそんなに楽しいことは無いのが生きることだから、この辺は自ら求めよということだろう
筒井康隆推奨の片腕は77分か 聞きたい順だとかなり後になるが 個人的には黒後家蜘蛛の会は朗読というより以前の形式で放送して欲しい そういやこの小説はまだ翻訳していないのがあるんだよな 創元社なにやっているのかな
岩波新書に短編集の名作案内があった 人なんて何歳で死ぬかわからないからなあ 母は百歳超えた 初産で亡くなった仲の良かった友だちのことはその交友とともに良く話してくれた 五歳くらいで母親亡くした親戚もいたりする 誰にしたっていつ死ぬかわからないから、必要なことして自分の好きなことしないとなと思う そういや外人が日本人の陽気さに驚いていたらしい 江戸末期のことだったかな 日記を読み返していた姉が、お母さんは陽気だったんだねと先日手紙に書いてきた メールを保存してあるのだそうだが、読んでいて思い出したことがけっこうあって 面白い母だったんだなと改めて思った
ブックオフは値段統一していないんだな 秋葉で百円、こっちで四百円 売れ筋が違うのか、はたまた手違いなのか 秋葉のは値札が三重で一番下はやはり四百円台だった
遺留品捜査だったかな、そこそこ面白いけど、筋は平凡 俳優のよさでもっているようなものかな 相棒もそれほどではないし バベルの塔とピエロかな、好きなのは 他にもあったかも 労多くして報われることが少ないからなあ 中村梅雀はあの花神の子供だったんだな この人のもついつい観てしまうが、話はそれほどでもないんだよな 役者と話、両方とも良いというのはそうそう無い 来年中頃で返すかな、カード ラジオで十分だ
テレビはモニターに使うかな ブルーレイは円盤認識できなかったりする これは手入れ次第とあったな 東芝で二万円台だったからしょうがない
同一店舗内でも同じ本が違う値段です。同じ本なら安くてキレイな方を探して買ってます。 秋葉店は夜までやってるので昔は(近くに住んでいたので)よく行ってました。 そこでみつからない古書は神保町でハンティング。
秋葉から御茶ノ水に行く途中にちょっとした坂道があって、たまたまテレビ朝日深夜ミニ番組で 芸能界の新人だろうと思われる女の子が坂道を駆けていくというだけのがあって、久しぶりに観ることができました 何回あの坂道を上り下りしたことでしょう 先年神保町に行きましたら小奇麗になっていました 六十年代後半の三省堂は五輪後でもまだ和服姿の文豪が居てもおかしくない雰囲気でした 店の前には都電の停留所があり、架線がたくさんありました。 六本木の最後の都電運行の切符はかなりの間もっていたりしました そういや御茶ノ水から浅草橋まで都電に沿って歩いたこともありました 神保町のカレーの南海とか、七十年代でも古びて貫禄のある喫茶店はまだやっているのかな その店ではないのですが、編集者らしい女性がもう1人の女性に著明な女流漫画家を罵り続けていたのを聞いたことがあります 南海は七十年代初頭に岩波信山社近くにできたと覚えています そういや信山社、経営危機があったと聞いていますが、まだやっているのかな そのうち久しぶりに行きますか
そういやヘーゲル全集のドイツ語版が信山社の通りを隔てた前の古本屋にありました。 ドイツ語版でしたので、眺めるだけでした w 二十万位しましたかな、持っているだけじゃしょうがありませんし 御茶ノ水UNIONなんてありました真っ赤な地に黒でUNIONと書かれていて、外国盤のレコード買いました 安くて独特の雰囲気がありましたので好きでした カセットデッキも当時売っていて、何か買った記憶があります やはり古本屋廻りかな 著明な社会科学専門の古本屋がある日突然巨大なビニ本屋に変身してメッカになったのは驚きました 雑誌で土曜早朝?かなにかに入るのがかなり過激で好事家がたくさん来たと書いてありました ああ、今のコミケみたいなのかもしれません 秋葉で同人誌店の大きなところに入ったら、なんじゃこりゃという小冊子ばかりで驚きましたが 今思うとビニ本文化の流れなのかなと 思い出した芳賀書店でした 数回入ったんですが、素人には無縁の決してベストセラーにならないような本がならんでいました もしかすると名著もあったりしたかもしれません
そういや滝村さんが何年か前に古書が暴落して買い込んだと書いていましたな 阿部謹也さんが一発屋だったなんて書いていて、ハーメルンの笛吹きの水準を何本も書いている学者が何人もいるのにと書いていてショックでした やはりマスコミで有名な人しか知らないんだなあと どうも知的ミーハーの水準を越えていないということでしょう w
そういやヘーゲルの差異についての本があったけど シェリングについての言及かな 八百円くらいだったかな あれはキリスト教のついての本だったかな その背景がわからないから難しく思うのかな めくった事は覚えているけど 中島みゆきのライブ聴いているけど、やはり衰えた気がする 作曲は衰えませんように
カントってけっきょくニュートン力学の衝撃から生まれた哲学のような気がする 精神の現象学の序文なんてもろにそうだし それを哲学はどう処理というか対応したらいいのかというのが彼らの問題意識であったような キリスト教やプラトン哲学などとの折り合いをつけるのが彼らの使命感であったのかなと
自然は不可知である そしてこのことは可知である ここにもクレタ人がいるということか
ビートルズ借りてきたけど、どこか肌に合わないのだが悪くないという感じ クラシックでもそういう作曲家がいた気がする ファンにとっては一番たまらないところに違和感があるというところかな 好きな音楽はわかるが、音楽自体はわからないということかも
六本木から麻布十番へ行く急坂はさすがに駆け抜けることはできないだろうなあと思っていたが とりあえず録画したりしたが、やはりそれだけのアスリートは芸能界にはいないようで途中で録画を止めた 坂道途中で運動靴の紐の結び方を教えてくれた靴屋さんはもう無いだろうなあ
テロはある意味文化蹂躙への抗議なんだろうなあ ある科学者が、中東やあちこちでさんざん殺しておいて、非難するのは筋違いと言う人が居るが、一理あるのかな まあそんなもんなのかも知れないなと思う自分が居る ビートルズ、けっこう素朴なんだな
ワーグナーはあまり好きではないけど、悪くはないんだろうな 他にもチャイコフスキーがいたか 東欧が多いかな、肌に合わないのが 南米、北米もそうだけど、やはり生まれた環境だと思える エジプトだったかな、演歌が売れるのは
ビートルズ、けっこうテンポ遅いなあ マイケル・ジャクソンが自分はビートルズ超えたと言ったとか言わないとか なんというか作曲技法の進化はあるけど、音楽として超えた感じはしないのは世代間の違いかな そういや有名指揮者がシューベルトよりずっと良いと言ったという話があるが、個人的には ビートルズはビートルズという気がする バーンスタインだったな、たしか
ロングアンドワインディングロードは佳曲だなあ レットイットビーより好きかも
あの辺はやはり感覚の襞にまで沁みこんでいる曲が多い いしいひさいちの漫画で、石垣が何百年も持っていることに驚嘆する人に それはそういうのしか残らないだけで、つまりそういうことを考えていないという指摘をしていた 過去の作品の称揚もまた現代の曲もそのような経緯を経て残るだろうことを考慮すべきなんだろう ・・・レコード大賞の審査委員長が、これが邦楽の現状だというのは商売の在り方の問題なのかなと思ったりする 七十年代はフォークの佳曲をまったく無視した結果がこの賞の権威の凋落につながっているという指摘を読んだことがある いわば自業自得でもあるわけだが
日本のものづくりが揺らいでいるのかなあ 品質で勝負していたのに
ナイアガラ・トライアングル2を借りてきた けっこう知っているんで吃驚 しかし大滝さん亡くしたのは・・・ AKBとか演技もできないタレントをテレビにごり押しするからよけいダメになって行くんだよなあ 卵とニワトリのような気もするが、いずれにしてもテレビも芸能界も衰えていくぱ゛かり
キース・ジャレットのバッハ バイオリン・ソナタ集 うむ、やはり違いはわからんな、俺は w 録っておいてもしゃあないかな シェリング・ヴァルヒャ版で聴いたけど、あまり合わせる気が無い演奏だと評されていたが そうなのかと思う程度 内田善美さんのコミックが欲しいけど神田で高くて、欲しいのは無かったな
さて、そろそろ纏めなきゃなと思ってやっているが、なかなか捗らない クレタ人の逆説の処理の仕方がイマイチという感じなんだよなあ
紙風船 落ちて来たら、今度はもっと高く打ち上げようね 高く高く 赤い鳥の歌の中でもかなり好きな曲です。 最後は落ちるんですよね。 ふと麻雀の名人が、人間は必ず負けるが、その負け方が問題なのだというようなことを述べていたことを、赤い鳥のこの曲を聴きながら思い出しました。 赤い鳥の曲は高度成長期の若者たちの希望と挫折もまたバネであり、そこには諦念の予感もあるが、全体として光が優っているのではないでしょうか。 赤い鳥は当時の若い歌手たちでも抜きん出ていたようで、後年当時を振り返って様々な歌手、八神、稲垣と言った人たちが証言していました。 ある時期の日本の若者の気持ちを代弁したともいえるフォークグループだった気がします。 やはり赤い鳥はわたしたち年代の中でもひときわ輝いていた存在です。 翼をください、もまたわたしなどには切実な歌ではありました。
翼をください 「笑っていいとも」で山本潤子さんが登場して歌ったときに、南野陽子さんがこの歌を聴いて涙流していました。 この人はあまり知らないのですが、このことでとても親近感を覚えたことを覚えています。 挫折した経験は誰にもあるのでしょうが、そんな心情に訴えるからでしょうか。 この曲はコンクール前の数時間であわただしく作った曲だそうです。 それが半世紀近くも愛されている曲になるとは当人たちもわからかったことでしょう。 半年くらい前の「コンドルは飛んでいく」の影響下にあるというのがわたしの思うところですが、また時代の雰囲気でもあったような気がしますが。 「河よ」もまた好きな曲ですが、今の人たちにはどう映るのでしょうか。 (これはふと「明日に架ける橋」の中の逆巻く波に架る橋から想起したのかな、なんて思ったこともありますが、これは強引かなとも。) わたしにしても、今の曲はそう共感できるのは無いのと同様なのですから、そんなことは気にすることは無いのですが、それでも、翼をくださいのような曲もあるにはありますから、少しは気になるというところでしょうか。
高群逸枝の招請婚の研究 橋川文三の日本浪漫派研究 みんな百円で売っていた なんか複雑な気持ちだった
カズオ・イシグロ 夕餉 世界文学全集の短編集に入っていました 傑作かどうかもわかりませんが、読ませる作品でもあったような ・・・いや、わかりませんが 日暮れの村も同じ感想しかなかったりする カフカの短編はわけのわからなさの面白さがあります また読んでみたくなるようなものでした どんなのが潮流なのかは疎いんでわかりません そういや村上春樹さんのもこんな感じだったような わからないけど、必然性みたいのはあるような気もしました
自分が生きられる場所に行けば良いとある人は語ります それが難しかったりするわけですが 同時に如何に負けるのかが問題なのだとも 人は勝ち続けることができないそうです
現代小説もバルトークの弦楽四重奏曲の発表当時みたいにわかる人しかわからないということなのかな 著明な文芸評論家が評価した高橋某の作品はわからなかったとしか言えない バルトークとかシェーンベルク、ウェーベルンとか二十世紀の古典となると、年つきが経っているので その表現は楽しめるし、そういうのが出てくる必然性みたいもの感受できる。 文芸作品となると、一般読者も表現の趨勢を熟知していないと評価できないということかな カズオ・イシグロの短編が入っているほかの作家の解説を読んでいたら、ふと音楽のことを思い出した カフカだと、なんとなくわかるのは、やはり時代が経ったということもあるのかな
複数の自殺願望の人間を殺した男は何故出現したのか やはり社会が背景になっているんだろうけど わたしたち一般人には、生活していくうえでの必要な知でけだ十分なんだけど こういう突出した人間に対応する知は持ち合わせていないし ただただ不気味なのは理解できないからだが、彼が怪物かというとそうではない気がする 表現みたいに最先端だと、その必然が理解されないとわからない 同じようにこれも現在の社会の表現の一つかも知れないと思ったりする 大阪の池田小学校、バスジャック、秋葉原の事件 秋葉原の事件は、土日いずれかの日に当時毎週のように行っていて 時間帯も同じであの場所は必ず通ったので他人事ではなかったりした 殺されたバイト店員がいわゆるリア充だったので、ざまあとか、犯人を英雄視する投稿を読むと 書いた人の境遇が透けてみえた気がした これもまた現代社会の側面ということでもあるということか
自然はただ在る その存在形態は運動として、無矛盾に在る 様々な物理的環境に様々な生成過程として在る わたしたちの存在理由はある前提に基づくだけで、実は自然にも社会にも人間にも無い 社会の歴史的展開の中でわたしたちは生きていき、その前提の中で過ごすしかない ヒトは生存本能とそれに基づく感情で生きていくだけだろう 先日微生物が、その集団を守るために自ら死ぬ行動をするということを示して衝撃を受けた 戦中の日本人の行動でもあるが、それが失政の結果でもある また庶民を盾にした、犠牲にした結果の敗戦でもある わたしたちは為政者を選ぶが、それもまた困難な課題でもある
選んでいるのか、選ばされているのかわからないが 平和運動にしても、一国で世界があるわけではない 他国にも働きかけないとその存在意義は無いのではと思う 残念ながら紛争は絶えたことが無いし、これからもそうあり続けるだろう 先年、ネトウヨの投稿で国益云々というのを読んで、その国益がどういうものかを問われなければいけないのに 漠然とした表象としてしか捉えていて、標語みたいに振り回しているように思えた 彼らにとって国益とは何かを問いたいが、それもまた通じない気がした ウヨサヨにしても、やはり同質であり似たような水準でしかないということかな まあわたしにしても、これではいけないとしかわからないのだが、このままじゃいけないんだろうと漠然と思ったりする w
南沢奈央が「サイエンス・ゼロ」出演以来、出演番組はチェックしてる 「相棒」で昨日出演 第5話「手巾(ハンケチ)」の中で芥川龍之介の短編に触れていたんで、読んでみようかなと思った 今年ラジオの朗読で随筆と短編放送していて、当時の東京の様子が窺えて面白かった 母が京橋生まれだったので、にたような雰囲気だったのかなと思ったりした 芥川は秀才作家という感じかな そういや「坊ちゃん」は今年二回放送していた 最後の一文は、あまり文学は読んでは居ないが、その中では一番好きだったりする ネットでも、この作品の最後がとても好きだという人に出会えた わたしもきよのような母が墓で待っているので、死はある意味で怖くないかもしれない
心がざわつくことがあり、眠れなかった 母が待っている墓に早く入りたくなったりする
一番互いに辛辣にやりあってきた理数系たちも、さすがに座標のことでは意見が一致していたけど うーん、なんかやはりホーガンが言うように哲学は三流の思考なのかもしれない というか、理数系も哲学も三流の思考の人が居るというたけか なんかアホらしくなってきた
以前、哲学スレで静止は在る、ボールを投げれば頂点で静止すると語っていたコテがいて、地球は動いているんだぞと書いたら沈黙してしまった その時に、えっ、何、デューリングはまだ生きているのかよと仰天した 今は見かけないけど、恥じ入って消えたのか、それとも俺が遭遇しないだけなのか しかし今でもデューリングはたくさんいるんだなあと確認させられた ああ、ビッグバン仮説論者もその本質はデューリングでもある
数学の不完全性定理が、ヘーゲルの運動定義を裏付けたとわたしは理解しています。 つまり矛盾とは、決定不能ということなのだということです。 三浦つとむさんはどう思われるのか、ふとおもいました。
ここまでとは思わなかったなあ、哲板の水準 あいうえお知らない人と議論はできないよ
互いに吐いた言葉は覚えておこうな 吐いた唾を元に戻すような真似はやめような
アインシュタインは亡き前妻の死に際しての手紙で、過去も現在も存在するこの奇妙な世界と記している それはアインシュタインの世界観の破綻を示している 次元で自然を理解しているが、次元が実在しているわけではない そのことは、何よりも彼が展開した相対性理論が依拠している光速度一定の原理が示している 運動しない三次元など実在していない 規則的な運動をしている、ここでは太陽の運動としよう ここからここまで太陽が運動するのを一時間とする つまり時間とは運動量でしかない この一時間、いや一秒でもプランク時間でも実在するとしたら、それに対応する運動しない三次元は無限に実在することになる 今とは運動であり、自然が運動しているのを理解するために四次元が必要なだけで、次元など実在しないのだ アインシュタインがいうように時間が実在するとしたら、食べている、食べた食物は在った無かったり、ということになり、赤ん坊の自分も成人の自分も、言葉を知らなかった、字を読めなかった自分が・・・ アインシュタインが生まれてなかったり、相対性理論発表していたり そんなことがあるはずがない 2 飛ぶ矢の逆説は、飛ぶ矢は空間の一点に存在するが、静止とは空間の一点に存在するから、飛ぶ矢は飛んでいないとする。 これは点存在説に対する駁論であると同時に、存在という理解そのものが静止であることを示している わたし、という言葉は赤ん坊から現在に至るまで物理として大きく変化しているのにもかかわらず、同一、静止として表現する 非同一である物理存在としてのわたしを同一で表現する しかし自然は運動変化する過程として在り、同一であることなどない 運動をその否定で理解するからこそ次元が必要であり、次元は実在しない 四次元である時間もまた実在しない
分類するから分類しがたい対象が生ずる 理解しようとするから理解しがたい問題が出てくる それだけですか あの夏の 数限りなく そしてまた たった一つの 表情をせよ こういうことかもしれません、生きていくということは これだけで良いのだと
科学認識 根源を忘れていました。 三浦つとむさんは、言語を表現の一分野だという立場で、絵画的表現と言語表現の共通点と差異をとりあげています。 風景画は、対象である風景であると同時に、作者がどこから絵を書いているのかを示すとします。 三浦氏流に言えば、客体的表現、ここでは風景ですが、自分が何処から描いているかは主体的表現ということになります。 印象派という絵画の表現は、表現する対象をわたしはこう描きました、という主体的表現が、強くなるわけです。 これとは逆に、対象をあるがままに表現しようとする立場もあるわけです。 写真のように描いても、主体、つまりわたしが描く対象、たとえば森を、人間をここから描きましたということは絵の中に示されているわけです。 抽象画となると、客体的表現は自分となったりすることもありますが、それでも主体的表現自体はつきまとうわけです。 表現一般は、対象ー認識ー表現という構造が存在します。 言語にしても、わたしの目の前に、本、机が目の前にありますが、本とわたしが書いたり、語りますが、 の場合にも本という対象が目の前に在り、それをわたしが認識し表現するわけですが、本という表現には、わたしは直接示されませんが、含まれているわけです。 また感嘆詞では、あっ、という自分が驚いた表現を考えますと、たとえば、ガラス食器が落ちたり、目の前に美しい風景が広がっていて、そのことをわたしが驚いて発した言葉が「あっ」であるのですが この言葉には驚いた対象は直接には示されませんが、言葉にはその認識が含まれているわけです。 三浦氏は動詞、形容詞など、各表現にこの観点から示していています。 表現には、この主体と客体という相反した立場が含まれているわけです。 科学もまた、この自然、つまり客体を人間、つまり主体が理解し、自然はこうなのだと示すのですから、科学もまたこの意味では表現となります。 この表現は自然を限りなく在りのままに理解しようとするのですが、このことは同時に認識の在り方そのものに制限されるわけです。 科学革命は、じつは、自然認識の革命であると同時に、人間がどう自然を認識しているかを示しているとわたしは主張します。
昨日のフリーマンの番組、哲学史のアホの画廊を思い出した 科学史もそういう一面があるんだな 天動説の周転円考え出した昔の科学者と同じだが、あんな動画残しちゃったらもう 派手にやらかしているよなあとしか思えない
保存用 科学革命は認識主体が認識する対象の一部であることを示す 三浦つとむさんは、表現分野である絵画を例にとって表現の特徴を論じている。 風景画は描く対象とともに、描く主体である画家がどこから描いているかを示している。 印象派絵画は、画家であるわたしは対象である風景、人物をこのように感じたという、主体が前面に出てきて、写実とは離れていく。 ついには描く画家自体の感覚、意識そのものを描くことになるし、抽象画もその展開となる。 音楽も文芸も、表現対象が自己自身になっていくのは同じです。 言語では、本、鉛筆と表現しますが、それらを認識し表現する主体は示されないが、表現には含まれています。 これとは逆に、間投詞である「あっ!」と驚いた場合、火事であれ、対象は表現には直接含まれませんが、表現には含まれます。 美しいという形容詞は対象に対して表現主体が感じたことを示したものです。 つまり表現には常に対象と認識主体がつきまといます。 自然認識の場合も認識主体はつきまといます。 わたしたちは天体観測をする場合に、地球が静止すると仮定します。 天動説はこの静止、座標原点が実在するという理解で展開しました。 地動説は、この座標原点の実在を否定しますが、それは天体観測には必要なことは否定しません。 進化論もまた生物の生成変化の過程を認識しますが、その主体である人間もまた人間の一部であることを示します。 つまり認識対象である動物なのだということを示します。 地動説もまた地球も認識対象である天体の一部であり、主体は進化論同様に対象に解消されます。 光速度一定の原理は、この自然のどこにも座標原点はが実在しないことを示しますが、対象である自然の運動を理解するために座標原点が必要であることは否定しません。 科学革命は、認識する側が認識する対象に解消されることを示しています。 つまり自然は無矛盾で理解可能だと科学革命は示したわけです。
四次元は無限の三次元、というのは当然の帰結でしょう 静止した三次元が無限に実在する、なんてことは無いわけで
■ パノラマ島奇談 日曜日から今朝にかけてに朗読二十五回全部聴きました。 財産を使って自分の夢を実現する主人公と自分が重なりました。 わたしの夢もまた実現しましたが、小説の主人公もまた 思わぬ運からでした。 人生色々ですが、夢が実現したので良しとしなければいけないでしょう。 時あたかも母の一周忌です。
底辺はどんな人なんだろう 自らの可能性に挑戦する気ないのかな お節介か
とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法 役に立つかもしれません グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』 NLPDD
現代科学は未だ天動説だ。 すでに最終理論は手に入っている。
まだ科学は還元主義を上手く始末できていない。〜成り、〜に成る、ということです。
方程式は自然の直接の反映ではない。 認識が媒介している。
アリスはともちゃんのこと忘れようとしても忘れられないのじゃよ
何故、忘れられないか、おまえらもよく考えた方がいい。
何か金のことで迷惑かけるつもりは毛頭ねえし、女と金の貸し借りも絶対しない。
>>180 そんなあ。
とぼけないでくださいよぉ。
間違いだらけじゃないですか。
アリス=間違い。
あっ、これはアリスでした、失礼しました。
わたしの周りはこんな感じです。
時間は次元だと科学者たちは語る。 それが答えだよ。
始まり在るすべてのものには終わりがある🎵✨👰 時間。✨
わたしが死ぬ→物理状態変化 生まれる→上と同じ 死は実在しなそこそこは
二律背反は物理として終始は実在しないが、認識が終始を必要とすることを示す。
運動は静止で理解する だから量、つまり四次元が必要。
保存則は生死が実在しないと 物理として生死が実在しない
/ ̄ ̄ヽ ▲)人)人)) /▲^ヮ^从 〈さしこタ〜イム♪ ((/ヽy∧)) / |二二]< L)‖ 。|L) L_‖‰_|」 (_Y)_)
わたしもあなたも物理としては差異。 生成過程として実在。 その点はかわらない。 物理としては何も生滅しない つまり終始は認識が必要とするだけ。
>>163 アリスのなりましか
アリスさん、カッコ悪い
確かに、ああ言えばこう言うだな。 ありすの自演砲炸裂かな。 過程も相手にするな。
過程も中身が無いことしか言えない馬鹿に付き合うなよ。
クレタは四十年、実質15年。 ラッセルは何年かかるかな。 正直わからない。
ラッセル、分析中ですが逆説はやはり否定です。 否定が否定される集合は無矛盾です。 うーん。
否定の連鎖による否定の体系 最初の否定、の取りこぼし、 を延々と引きずるのではないか?
対象、自然は矛盾しない。 規定は否定。 対象を理解することは否定で理解するから 本質として決定不能、つまり矛盾。 科学革命は否定を否定する。 展開していくうえで取りこぼしはありそう。
過程もいつまであんなのと付き合うつもりだ。 程度が疑われる。 いい加減にや・め・ろ。 ボケないうちにさっさとラッセル片付けろ。
対象とその否定←決定不能 そして、このことの理解 観念的自己分裂 その自己言及 つまり自己言及の自己言及 光が少し射してきたかな
分裂 より 編集や校正 出版者 による信仰ぶ、遺産の分与。 自伝、日記の自読、なども経験したら読みなおしてみる?
>>221 堂々巡りを楽しむために生まれた喜びを堪能されていらっしゃるようでなによりです。相変わらずお元気そうですね・・・
>>221 認識構造がフラクタル的なのか?
重層?
「無限論の教室」かな。
ラッセル論じたところを否定で読み替えているということだな。
時間スレは諦めろ。 アリスと程度は変わらんやつらだ。 ラッセルに専念してくれ。 初歩は飽きた。
対象ー存在で理解 存在ー逆説の原因 否定としての存在
用意は出来たかな。 わかないが手探りで行くしかない。
研究所に所属していない院卒が単独で遺伝子操作とかも恐いよな。
不確定性原理から物理的実在の否定結論するのか。 なんてこったい。
対象ー否定←このことの自己言及 これだな。 逆説の本質。 ラッセルもなんら変わらない。
クレタはかなりかかったが、ラッセルは二の舞踏みたくない。
対象に対し否定関係で理解する そして自己言及するとパラドックスになる ラッセルも構造は同じ この線だな。 これがアリアドネの糸だな
犬ではない集合は対象に対し否定関係ではない だからパラドックスにならない
概論、書き直します。 題名 学問の革命としての光速度一定の原理 自然過程説の展開
んー。犬ではない集合。 一般的には集合として構成できません。 なんらかの制限が必要になります。
「犬ではない集合」が構成できないという話。 たまたま図書館で「無限論の教室」という本を借りてきましたけど、 第九週の主題であるともいえます。 良書ですので一度は読んでみるとよいかもしれませんね。
ブルーバックスより分かりやすかったです 時間スレは行ってない
不完全性定理はまだ理解されてないでしょう。 おいおいって思うのが結構ある。
「無限論の教室」すらまともに読めていないということは悲しいことだ。
>>247 結局これが逆説の本質だな。
決定不能。
光速度一定は学問が成立する根拠 自然が無矛盾→論理は静止→ゼノン、二律背反、運動規定 規定は否定、クレタ人、次元否定、不完全性定理、微積分の根拠、観測問題 不確定性原理、量子力学の保存則の破れ、力一般の否定など これらの理解のアリアドネの糸
生物の鵺的存在→差違を否定で理解する根拠 きわめて単純、きわめて豊穣な原理が光速度。 否定で理解するから決定不能、矛盾と成るだけ 否定の否定は科学革命が根拠 これらを理解できる導きの糸
ラッセルも否定関係が根本だけど どう概論を書くかな。 思案の真っ最中。
【サティ】
729 :神も仏も名無しさん :2018/07/24(火) 22:17:34.86 ID:Q8eSm54r
さくらさん、これやって結果教えて!
面白いよw
自己顕示欲の強さを診断! 自分をアピールしすぎて嫌われてない? テストしてみよう
https://gakumado.mynavi.jp/gmd/diagnoses/47465 ちなみに俺の結果はこれ↓
https://gakumado.mynavi.jp/gmd/diagnoses/47465/result?total_point=0 【自己顕示欲:かなり弱い】逆に、絶対に目立ちたくないタイプ
逆に、絶対に目立ちたくないタイプ
あなたは自己顕示欲がかなり低いタイプのようです。「目立ちたい」「注目されたい」という気持ちはまったくなく、逆に「まわりに自分のことをあまり知られたくない」「放っておいてほしい」という気持ちを持っています。
そのため、本当はすごい実力を秘めているのに影に隠れてしまい、まわりから認識される機会を失っていることもありそうです。せっかくなので、得意なことだけでも自分からアピールしていくようにするようにしてみては?
http://2chb.net/r/psy/1523599761/729 課題が決まった ラッセルの理解と鳥もちの仕上げだな
ラッセルは同一に否定関係持ち込むから やはりその線だな
過程の展開している某掲示板の認識の仮構問題は面白い 鳥もちの話だな
方程式は認識の在り方 直接自然を反映していない ある意味天動説
決定不能と決定する 理解不能と理解する 自然には理解は実在しない 理解は人間の側にのみ在る 地動説、光速度一定の原理は 対象→否定→否定の否定ということ
自然は運動するエネルギーの濃淡の海で、現存する対象は認識主体を含めてその生成過程に在る。 理解するから数も次元も必要になる。
数学上ではそうかなあ ただ1も0も大きさは無い 1は無限の否定としてあり・・・ その否定としての0は・・・ 1も0も数学上であり いや今考えていることなんだが、物理との関係が錯綜して 糸がほぐせない ラッセルは数学内の話のような
無限論の教室で、可能無限、実無限の話がある。 実無限は何でも数にする数学の王道かな。 可能無限は数なら定まっているのだから不定数は数じゃない、みたいな正当さはあるが。 双方ピタゴラスの末裔。
389 :ひろか :2018/10/28(日) 14:19:38.50 ID:xKRtw2Ho お肉ばかり食べたらあかん 言われたから😭 モテないから😣 運命の人が現れないから😭
ありがとうは魔法の言葉は言いえて妙 無愛想な店員さん、司書さんの態度が変わってくるのがわかる 若い就職したてみたいな若い子は嬉しそうに、ありがとうございましたと大きな声で言ったりする 若い美人の司書さんが、転勤の際名残惜しそうにしてくれた 寂しいければ嬉しかった 試してください たとえ効果が無くても繰り返せば少しずつ関係が変わってきます お勧め
人間なんて単純だから言葉一つで上手くいくことがある 難しいことばかり考えるのも良いけど、実生活は単純なことが功を奏する気がします
ふむ、面白い ディープラーニングは端的に言えば「同じ物(似た物)を探してくる装置」であって、それ自体が何か新しい物を生み出したりする訳じゃない チェスとか将棋の類では過去に対局された棋譜を検索して次の手を探してくるだけだし、株価予測も顔認証も過去のデータや登録された顔データと比較してるだけ プログラムを書き換えるのは全く出来ないわけではない、端的に言っただけなので訂正しておく if a == b { print "A=B" } else { print "A!B" } print "Done!" print "Say again. Done!!!" これが、 if a == b { print "A=B" } else { print "A!B" print "Done!" print "Say again. Done!!!" になっただけで「閉じてねーよゴルァ」って怒られる(動作しない)そして、AIにはこれのどこに「}」を入れたらいいかを判断できない(正確にはエラーを起こさないようには出来るけどそれが正しいかを判断できない) さて、これをどうやって「人類の脅威になるような」プログラムに書き換えるんだい?って話、そもそもこのコードをAIがどっからひねり出すんだい?っていう 過去の人間が作ったソースコードからコピペする事は出来るが、ある目標を持ってAIがコードを作るのではなく、あくまで人間が意味を見いだすってだけ 2045年がどうとか言われてるけど、空振りだと思うよ 音声認識、顔認証なんかは生活に溶け込んでるとは思うし、昼過ぎて食ってない昼食をスマホが催促してきたりはするかもしれないけど、創造的な作業は機械には出来ないのは変わらない
雛型か、そういや雛形とかいうタレントいたな 目が苦手だったな
教室の窓がもう見えない 夢の行き場がどこにもない だったかな/
疲れるだけですよ、憎んでみたところで だからお早うございますの帽子屋さん
333 歌いだせ世界、わたしの周りで 天井桟敷の人々 面白い、お勧め 誰にも言わないで 逢いにきて、夜のブランコで待ってる
「朝の扉をひらく時」 朝の街角 つぶやいた白いサンダル ひとりの夢が はじまる時 朝の街角 ショーウィンドウにうつる私の顔 星くずの中から 生まれた 今 歌いだせ世界 私のまわりで かけめぐれ風 朝の窓 朝のこずえを ひろがれ 海の彼方へ ひろがれ雲の彼方へ ひろがれ 世界の果てへ 世界の世界の果てへ 朝の街角 しのび笑いの青い帽子 まほうつかいが 影ふみ帰る 朝の街角 口笛ひとつ生まれて 遠い空へと 消えて行く 今 歌いだせ世界 私のまわりで かけめぐれ風 朝の窓 朝のこずえを ひろがれ 海の彼方へ ひろがれ雲の彼方へ ひろがれ 世界の果てへ 世界の世界の果てへ
148 メカ名無しさん 2018/11/13(火) 23:16:57.40 ID:XN+lekZO 「AIが自身のプログラムを書き換える」 これ 「どのように」が抜けてて、それがあたかもAIがプログラムを「良いように」書き換えて人類あぼん みたいな妄想が良くあるパターン プログラムは自身のプログラムを書き換えることは出来ません。 ディープラーニングは動作を書き換えるだけでプログラム(アルゴリズム)は書き換えない 「ロボット三原則」とか文系の発想で妄想だけが先走る良くあるパターン 人類に危害を与えないとか、こんな事プログラムすることは出来ないからね
さてと。 ジ・エンドかな。 観念には終始がある。 もう良いかな、なんて。
この辺がベストのような。 母を見送って疲れました。 姉を、とは思っていましたが 無理みたいな気がします。 いや、精一杯とは思ってはいますが。 行く所まで行くべきかなとも。 さてどちらが良いのでしょう。 思案のしどころです。 姉は姉妹に任せたほうが良いかな。
甜菜 AI論争あったが、これはなかなか強力な否定論 148 メカ名無しさん 2018/11/13(火) 23:16:57.40 ID:XN+lekZO 「AIが自身のプログラムを書き換える」 これ 「どのように」が抜けてて、それがあたかもAIがプログラムを「良いように」書き換えて人類あぼん みたいな妄想が良くあるパターン プログラムは自身のプログラムを書き換えることは出来ません。 ディープラーニングは動作を書き換えるだけでプログラム(アルゴリズム)は書き換えない 「ロボット三原則」とか文系の発想で妄想だけが先走る良くあるパターン 人類に危害を与えないとか、こんな事プログラムすることは出来ないからね
ディープラーニングは端的に言えば「同じ物(似た物)を探してくる装置」であって、それ自体が何か新しい物を生み出したりする訳じゃない チェスとか将棋の類では過去に対局された棋譜を検索して次の手を探してくるだけだし、株価予測も顔認証も過去のデータや登録された顔データと比較してるだけ プログラムを書き換えるのは全く出来ないわけではない、端的に言っただけなので訂正しておく if a == b { print "A=B" } else { print "A!B" } print "Done!" print "Say again. Done!!!" これが、 if a == b { print "A=B" } else { print "A!B" print "Done!" print "Say again. Done!!!" になっただけで「閉じてねーよゴルァ」って怒られる(動作しない)そして、AIにはこれのどこに「}」を入れたらいいかを判断できない(正確にはエラーを起こさないようには出来るけどそれが正しいかを判断できない) さて、これをどうやって「人類の脅威になるような」プログラムに書き換えるんだい?って話、そもそもこのコードをAIがどっからひねり出すんだい?っていう 過去の人間が作ったソースコードからコピペする事は出来るが、ある目標を持ってAIがコードを作るのではなく、あくまで人間が意味を見いだすってだけ 2045年がどうとか言われてるけど、空振りだと思うよ 音声認識、顔認証なんかは生活に溶け込んでるとは思うし、昼過ぎて食ってない昼食をスマホが催促してきたりはするかもしれないけど、創造的な作業は機械には出来ないのは変わらない
ディープラーニングは端的に言えば「同じ物(似た物)を探してくる装置」であって、それ自体が何か新しい物を生み出したりする訳じゃない チェスとか将棋の類では過去に対局された棋譜を検索して次の手を探してくるだけだし、株価予測も顔認証も過去のデータや登録された顔データと比較してるだけ プログラムを書き換えるのは全く出来ないわけではない、端的に言っただけなので訂正しておく if a == b { print "A=B" } else { print "A!B" } print "Done!" print "Say again. Done!!!" これが、 if a == b { print "A=B" } else { print "A!B" print "Done!" print "Say again. Done!!!" になっただけで「閉じてねーよゴルァ」って怒られる(動作しない)そして、AIにはこれのどこに「}」を入れたらいいかを判断できない(正確にはエラーを起こさないようには出来るけどそれが正しいかを判断できない) さて、これをどうやって「人類の脅威になるような」プログラムに書き換えるんだい?って話、そもそもこのコードをAIがどっからひねり出すんだい?っていう 過去の人間が作ったソースコードからコピペする事は出来るが、ある目標を持ってAIがコードを作るのではなく、あくまで人間が意味を見いだすってだけ 2045年がどうとか言われてるけど、空振りだと思うよ 音声認識、顔認証なんかは生活に溶け込んでるとは思うし、昼過ぎて食ってない昼食をスマホが催促してきたりはするかもしれないけど、創造的な作業は機械には出来ないのは変わらない
物理学的に言えば、ハミルトニアンに対する推進演算子による 正準変換を考えるとき、そのテイラー展開表示に出てくる係数を 時間と解釈できる 正準変換と正準変換との合成は再び正準変換 になるということで、時々刻々と時は流れていくというわけだ
その前に、数とは、数学とは、方程式とは、物理学とは、科学とはを考えたほうが良い
わたしの理解では、自然は運動しながら、言い換えれば加速の中で諸物が生成される過程です。 神の方程式、いわゆる最終方程式は生成に必要なエネルギー量と加速に必要なエネルギー量と本質として異なる方程式の統一ですから、それは可能か?ということになります。 物理は自身として差異として存在しますが、生成は自然の濃淡の関係と自身の差異の関係です。 濃淡は加速と差異ですが、一体として展開されます。 もう少し緻密に言えば生成は自身という同一で理解された加速の産み出す差異と多の他という自然の差異との関係で成されます。 わたし自身は、最終方程式は自然は無矛盾であり、その理解の本質を示す光速度一定の原理を示した方程式だと主張します。 ただそれは出発点でしかない。 そして理解は静止であり、光速度一定の原理はその自己言及という性格を持つ。 これ以外の方程式は、出発点、原点と無限は捨象されて理解されなければならない。 つまり有効範囲があるということで、いわゆる神の方程式はそのことを否定、つまりひり速度一定の原理の否定であり、自然の無矛盾ということを否定したそれではないかと。
論理が天動説だと気がついたのは進展だった。 静止という理解から出られなかった。 頑固者の理解には鍛えられ、進展のきっかけになることが多いんだな いやまた良いきっかけをもらえた 時間不在説はまた一つ進展した
>>351 また改訂書いているが、いまいちなんで小休止中
先日自身の関係もまた差異なんだなってわかった
・・ヘーゲルの論理がまた少し理解できた気がする
三浦さんも理解していない所があるんだなあ
>>353 今朝の目覚めは良かった
朝の扉をひらく時の歌が爽やかだった
また道が拓けた思いが
旧弊な理解は止揚するために存在する
なんと言ってもヘーゲル!
自然は運動するエネルギーの濃淡の海でその過程に私たちが在る。 そのようなエネルギーの在り方を理解するために実在しない次元は観念として在る。 時間も重力も電磁力もそのような観点から理解し直す、つまり止揚する必要がある。
真夜中の太陽 1 泣きながら胸をはれ 静かに朝を待て 木枯らしの丘にひとり立つ 孤独な樹のように
何も生まれない、無くならない 偉大な物理学者は貧弱な哲学者に成りがちだ
分類も座標原点も科学の進展で消失した。 差異を否定で、運動を静止で理解する。 多は一と成る。
分類しがたい対象は分類することそのものに求められる。 理解できないこともまた理解そのものに。 証明できないことが証明される。 対象自体は無矛盾だがそれを理解するのは矛盾する。 つまり論理そのものがそれらを産み出すということか。
相対性理論も理解された自然 同時性もまた観測された自然
運動を静止、つまり有を無で理解する だから量で理解するしかない ヘーゲルの科学認識理解 次元は理解するのに必要であり、無であり実在しない モデル自体は実在するわけでない あくまでも認識に対象化された自然 一光年は自然に実在するのか? おかしいでしょう 過去も未来も実在しない 一億年も一秒も実在するはずが無い 今の正体は運動 運動は生まれない、無くならない 今、一瞬は永遠、永久 自然はただただ運動しているだけ
重力の正体は加速 差異が加速を産み、加速が差異を産み、つまり生成していく 重力と他の諸力は本質として違うと考えていましたがどうも間違いで、一体ですね 多で理解する必要が有るのですが、それも一元としての自然を「理解」するからこその多
自然は過程として在り、わたしの自然理解もまた過程として展開され、完成することは無い
第二の科学革命に寄与できたら、というのがわたしの望みです
基本理解された自然が科学であり、自然自体ではない 翻訳された自然
ビッグバン、重力、諸力、時間というか次元、最小単位学説は滅びる 第二次科学革命突入に と予想しておく
言葉遊びにしかなっていない。 過程よ、本スレは相手しても無駄
自然はかく在る そこに理由は無い だからわたしたちは在る そこに理由がある 重力考えていたら不思議で だからかく在る 光速度一定の原理も不思議だし だから理解できる ・・・ということか?
ああ、飛躍があるな この原理で自然が無矛盾であることが示される、つまり理解できる しかしこの原理自体は理解できない・・・ こういうことかな
>「点自然」も「波動」なのだから 波動をその否定、粒子、点で理解する そしてその点は実在しない
光速度一定の原理が不確定性原理を裏付けると理解するけどね 静止で運動、無で有を理解するから つまり近似でしかない認識をこの原理は裏付ける
ああ、もう一つの側面が不確定性にはある気がしているが
自分の論理の有効性は問題を解決することで裏付けられる ニュートン批判のバークレーは面白い指摘をしているが、だからニュートンは間違っているわけではない バークレー自身が自分の指摘を誤解しているのではないかと
理解するというのは面白いですね ニュートンの重力概念は納得できないとライプニッツは批判しました 重力自体は今でもあまりわからないようです ヘーゲルの矛盾は現代であまり問題にされません というか判らないと言うことでしょう カントはホーキングが簡単に片付けていますが、そうかなあ、なんて思います 「自由への○○」とか読んでもわからないので、みんな良くこんな本読めるなと劣等感抱きましたが、文献解読の専門家がこんな翻訳で理解できるかと呆れていたので、なんだよと安心しました。 佐村河内さんの時も、へー、名曲なのか、俺にはわからないないと目の無さを嘆きました マーラー、ブルックナーは少しわかりかけていまいが、うーん ヘーゲルの矛盾は決定不能だと気が付いたときに、まじで理解している人はどのくらいいるのかなと思いました まあ三浦さんもその辺は怪しいかな 否定の否定という法則とか、ビッグバン学説と否定の箇所は怪しい説明です わたしはいつも初歩で躓きますが、いちおうその問題はクリアできた気はします わかったつもりというのは多いですね 科学、哲学などなど わたしもあなたも w
809 名前:考える名無しさん[sage] 投稿日:2019/03/03(日) 01:42:09.18 0 {不可能性の表面に「自然」がある。この表面は、ちょっと特殊な形状で、2周すると元に戻る。 重力と電磁力は、この表面で間に合う。 弱い力と強い力はどこにあるんだろう。ちいさすぎて、イメージがよくつかめない。 そもそも「言葉」というひとつの「人工自然」上で、弱い力と強い力のようなものってなんだろう。」 力は時間と同じで存在しないだろう 生成に必要なエネルギー量というだけで エネルギーの海から成り、〜に成るということ 〜からなるという理解だから力が必要になるだけ 素粒子や紐から成るのではない、素粒子、紐に成るという理解
力とはML/T^2です。 エネルギーはこれにLを乗じたものです。 力や時間やエネルギーも(自己同一性という意味での)存在ではありません。「量」ですからね。 素粒子や紐も、もとから存在ではありません。 これらは仮想粒子として、(自己同一性という意味での存在とは異なる)存在します。 仮想的存在です。
もとから存在してないなんていうといいすぎだな。 存在が確認されている粒子もたくさんあります。 存在といっても、文脈あるいは場によって意味は異なりますけどね。
エネルギーが様々な物理条件下で様々な態様を展開する。 地球に成る、光に成る、銀河系に成る、素粒子に成る、生物に成る、などなど そしてそれらもまた態様を変える、つまり何かに生成されていく 自然はその過程として展開していく 最小単位は実在するはずも無し 時間もまた 一瞬、今とは運動の異称 運動は否定されたことが無い 一瞬が永遠
ビッグバン仮説では陽子崩壊を予言しているようだ 仮にその予言が有限宇宙の必須を意味するのなら、陽子は永遠なんだろう 永遠宇宙が前提だから、その否定となる現象は有り得ないことになる
背景放射はかなり怪しいことをいろいろな科学者が指摘している ある天文学者は違う理解も可能で、その方が正しいのでは?と指摘していて、スムート博士は否定できないとコメントしている ビッグバン仮説はそうでなくとも基本法則破りまくり 何も生まれないし、無くならない 宇宙はただ在る、理由も無く 無前提にただ在る宇宙を前提を仮定し理解する 存在とは静止、運動の否定であることを飛ぶ矢の逆説は指摘する 静止は実在しない、つまり有限は理解の媒介であり存在せず、宇宙は永遠であり次元を科学は否定する カントは次元は実在しないことを二律背反で指摘する 対象をその否定で理解するから決定不能になることを古代ギリシャ人は示した ヘーゲルは決定不能を矛盾として理解した 不完全性定理は有限を無限、つまり対象の否定で理解するから決定不能は必然でしかない また否定の否定の法則は認識、また科学理論はある意味天動説であることを理解したもの この法則は自然と理解の関係を指摘した卓説だろう
陽子崩壊はビッグバン仮説ではなく、大統一理論からの予言です。 スムート博士はCOBEチームの人で、「宇宙マイクロ波背景放射の異方性の発見」によりノーベル物理学賞を受賞しています。 ビッグバン理論の人ですね。 べつに、別の理論だって可能性があるよというリップサービスにすぎません。 うさんくさい書籍は読まないほうがよいですよ。
カントは「次元」が「実在」しないということを指摘などしていません。 アンチノミーですね。純粋理性の問題です。探求の問題なのです。
>>396 ああ、ビッグバン仮説しか読んでいないんですね
少しはその歴史と異論を読まれたほうが宜しいかと
ビッグバン仮説とは、宇宙が高温高密度の状態から進化したということであって、 無から発生したとか、そいう仮説ではないですしね。 観測結果から、いまのところ有力な仮説だ、ということです。 スケールを変えて見れば、定常宇宙論の一部である、なんてみかたもできますw ビッグバン仮説とは、簡単にいえば進化論のひとつですよ。
歴史を精査した方々は一様に???と語りますけどね 学生時代に疑問に思わなかった方が、ある切っ掛けから調べ上げたら、かなり否定的になったと語ります また引退した教授が現役時の主張を否定した本を出していると述べています この仮説はコロコロ変わり過ぎますが、主流信奉も傍流に行くのも変わらないのでしょう いずれにしても相当時間はかかることは確かでしょう また科学者たちに?と思う人たちがかなりいることも確かでもあります
ビッグバン仮設はいつまでも主流ですよ それを覆す証拠が無いので 基本法則は 「何も生まれないし、無くならない」ではなく 「何かが生まれた分、何かが無くなる」です
まあ、たぶん、Eric J. Lerner あたりを読んでいるんだろうけど、 The Big Bang Never Happened: A Startling Refutation of the Dominant Theory of the Origin of the Universe (1991) ですね。 まあ、学会からはrejectされてますしw COBE and BOOMERanG experiments などによってAnisotropiesも発見されてますし。 いまのところビッグバン仮説の系統のほうが有力であるということです。
大構造はまだ説明できない 陽子崩壊は観測できないので寿命を倍にする w インフレーションは仮説 ちなみにプラズマに有利な観測結果が先年発表されている また物理としては何もなくならない、生まれないのは明白 ただ状態の変化が常態 主流であることは真理であることを意味しないし 天動説 またリップサービスなんてのは、自分たちの成果否定になる論文にするかどうか というかその理解は恣意的だ アープはそれで追放されているし
ワインバークは宇宙の始まり解明まであとわずかと四半世紀前に語っている ホーキングは三十年前に最終方程式までもう少しだと語った なに、出来ないよ まあ水掛け論にしかならないし 俺は永遠宇宙論擁護だ 答えは今世紀末くらいかもしれない 見届けられないから、自分の自然観をもう少し練りたい
一秒前も一秒後も、一億年前も一億年後も存在しない 今があるのみ この一瞬が永遠に在る
インテリジェント・デザイン デザインした主体をデザインしたのは? ヒュームの駁論 白石のと同じだな ヒューム(David Hume、ユリウス暦1711年4月26日(グレゴリオ暦5月7日) - 1776年8月25日) 新井白石 (1657〜1725) ザビエルらが日本人庶民の質問に窮したらしいが、日本人、なかなか
理系の専門家で支持してくれる人が居るから哲学の徒に否定されても無視できるんだよなw まあ未来の人たちが裁断してくれる 何よりも遭遇した難問が矛盾無く解決するからかなり自信がある あれこれ言っても、その自然観で問題が解明されないのなら無視するだけ
尊敬する学者さんが、哲学は頭の中であれこれ捻くりまわしているだけで、諸学問の問題に向き合おうとしないから有効性も無い空論が幅を効かせると批判した 実際いろいろやってみると、過去の学者の著作が理解できていないことがわかった 矛盾、規定、否定の否定とか、今から思うと赤面してしまう理解だった やはり彼の言うとおりだったなあ
アリアドネの糸、本質論の必要性は痛感した かの学者にそのことを論じた小論があったな
かなり前にある言語学上の問題で尊敬する学者さんがそれを鮮やかに解いていたが アリアドネの糸の重要性を知らしめた解き方だった それを批判した方のをたまたま読んだが、言語の前提を理解していないそれだった またチョムスキー文法支持者が首をひねっている問題が、その学者さんの前提で理解するとわたしにすのらわかる問題だったんで、彼の学説を信奉するようになった 今でも無視されてはいるが、翻訳ソフトの分野である会社の開発チームがかなり有効性のあるる学説だと活用しているということがあるサイトにその主任が記していた わたしにすれば、カント、ヘーゲル、科学の諸問題が納得できる解決が示せればいいだけで、彼の学派の人たちの業績はかなり役に立った 相当先にはなるとは思うが、夕べに死すとも可なりの心境ではある
時間のためには変化がなければならない。 0から1への変化。1から0への変化。 このためには、対象が最初から時空間を持っていればよい。ただそれだけである。 変化しているのは対象ではない。対象は変化しない。 1bit世界で考察した結果ではそうなった。 変化しているのは対象ではなく関係である。 これが無秩序なのであって、無秩序中のなにかが主体となることで、 主体からみて秩序がうまれてしまうが、自然は無秩序のままである。 なにを実在とするのか、実在の意味やありかたが問われる。 そうなると、意味を得ようとする主体にとって、意味なく存在するものだけが実在である。 (主体にとって)意味を持つものは実在ではない。 主体とは自己同一性であり、それは実在しない。 それゆえに時間や空間は実在ではない。 (意味なき)「無」のみが「実在」である。 これを逆に考えるなら、「実在」には「意味」がない。
>>417 0は文字通り0
つまり無い
自然の存在形態は運動
何回目かな
1=0.99999・・・ これは良く話題になります 一方0に限りなく近いが0では無いというのもあります では、0.999・・・は1に限りなく近いが1では無いという理解も成立しても良いのでは?と思ってしまいます もともとは引くということは<差>があるから引けるわけです =は同じ、差が無いということです 差があるものを差が無いものにする 0では無いが0に無限に近い 実に面白いではないですか いや、数学というのはとにかく数にしようという学問ではないでしょうか 可能無限の実無限に対する批判は正当ではありますが、数学はそういうものなのだと ピタゴラス学派は無理数の存在を隠しました 彼らの世界は数で出来ているとする考えが否定されると思ったとのことです しかし数自体は自然に存在するわけではありません 数で理解する媒介です、 この操作はトリックですが、なにか数学の偏執というかピタゴラス学派の末裔の執念を感じます 同時に数学の理解の鍵になるような気がします ・・・まあ賢人というか大学者がこういうのだからそうなのだという思考停止なのかなと ふと西洋にはそういう学説は無いと海軍の実験結果を否定した鴎外を思い出させることではあります わたしたちは現在を固定、完成したものとして理解しがちな人間の過ちに陥っているのではないかと まだ上手くは言えないのですが、ここには数学そのものの考え方を理解する鍵があるような気がします
ここでいう0とは1ではないということであり、 ここでいう1とは0ではないということ。 対象としての0や1は、意味を持たない。
意味とは関係であり、対象自身は(自己同一性以外の)意味を持たない。 この、意味としての関係を抽象化したのが圏。
対象自身は自己同一性以外の意味を持たないが、 その自己同一性そのものは自己同一性を持たない/持てない。 自己同一性が自己同一性を持つとすることで自己同一性が自己言及的に成り立っている。 「無」そのものは「無」であるがゆえに存在しない。それが「無」の実在性である。 この、存在しないのに実在する「無」によって、「無でないもの」が存在させられる。 「無」から「有」を生み出す錬金術。 そこに、「意味」というものの根源をみつけられる。 「意味」の根源とは、「同じ」であるということと「違う」ということ。 「同じであるものは違いがあり」、そして「違うものは同じところがある」ということである。
>>417 >>
>>421 >>422
一つだけ引っかかるのは
そこで言う「自己同一性」がどこまでの内容を意味するのか
よく分からないのです
圏論でいうところのid射を持つということですね。 変換に対してなにも変わらない。そのような変換(函数)を持つということです。 ま、いろいろ考え中。
>>424 それだと自己同一性を説明するために「同一への変換」を前提することになる
論点先取ですよ
なかなか難しい問題ですね。 とりあえずは、「自己同一性」とは、外部から与えられるものであると考えます。 そしてそれは、変換に対する不変性を持つものだと。(すなわち対称性) 対象も射もすべて変換函数であるとして成り立つかどうかをずっと計算中w
圏論を無頓着に介入させることで生じる可能性とか、あるいは危険性とか
それを指摘するようなことは私にはできませんけど・・
>>417 とか
>>422 がすごく良い感じだったもので
いや、わたしの早とちりでした、ごめんなさい
計算頑張ってください
わたしは問題を解決する論理を追求しているだけで それが出来なかったらなんの価値もない
探究しなければ哲学ではない。 すべての原動力として「無秩序」を想定します。 この「無秩序世界」に、どうやって「何か」(と、われわれが想定してしまうなもの)が「生じて」しまうのか。 「無秩序」で必然的に生まれるものは「秩序」です。 最初に考えた「無秩序」を「無秩序0」とするならば、 「無秩序」から「秩序」が生まれ、「無秩序」ゆえに「無秩序」に戻るという世界を 「無秩序1」として、これを考察してみます。 でも「無秩序0」から。 これを状態ベクトルとして[0]と表記してみます。 [0]は無秩序だが他の状態はない、外部からみれば全体がひとつの秩序であり自己同一性すら持っているようにみえるが、内部は「無秩序」である。しかし変化しない/できない。
科学は肯定であり黙従するもので受動的であるが 哲学は否定である懐疑するもので能動的である
「無秩序1」を考える。 [0]が[1]に変化する。 変化とはなにかと考えると、状態の違いである。 縦ベクトルを[x, y]のようにあらわす、縦に書けていないが、実際は縦に並ぶ。 0=[[1],[0]], 1=[[0],[1]] とする。 この2つの状態しかない。[[0],[0]]や[[1],[1]]はない。 この状態では、0や1は、最初から、時空間ともいえる可能性の広がりを持っている。 これを、無秩序1の空間での位置であると考えてはいけない。 0からみれば1のパターンは逆であるが、外からみれば0か1かなんて区別がつかない。 それゆえに「無秩序」である。 しかし、「秩序」もある。 どちらかを0とすればもう一方は必ず1になる。これが「無秩序1」における「秩序」となる。 この0と1の関係には変換函数がある。 f=[[0,1],[1,0]] (= NOT) [[0,1],[1,0]][[1],[0]]=[[0],[1]] [[0,1],[1,0]][0,1]=[[1],[0]] この変換函数に変換函数を適用すると、 [[0,1],[1,0]][[0,1],[1,0]]=[[1,0],[0,1]] (=I) これが自己同一性の変換函数になる。 ちょっとめんどくさい表記だが、作成したプログラムでは内部の二次元配列をかんたんに表記しようとするとこうなったw (本当はjavaに任せたので'['ではなく'{'だが) どこからどこまでが「無秩序1」で、どうやって「無秩序0」から発展させるのか、 いろいろ考えられるので考え中。 それに、そもそも0*0=0,0*1=1*0=1*1ではバランスが取れない。 0と1は区別がついたとしても絶対的な意味を持つわけではない。 そうなると、xor,norだけの演算でマトリクス計算を再構築する必要がある。 ただし、「無秩序0」から発展して「無秩序1」になるのであれば、 「無秩序0」の痕跡が絶対的な「意味」を持つ可能性はある。 そういうところを探求中。 0に意味を与えた世界と、0に(特別な)意味を持たせない世界の2つを考えてみる必要がある。 前者がビッグバン宇宙であり、後者が定常宇宙、ということになるであろう。
試行錯誤した結果では、マトリクスの演算を*からxnorに、+からorにすることで一貫した無秩序1の世界が構築できそうだ。 対称性の演算として正しいかどうか検討中。 そこから非数学的な哲学演算をあみださねばw てか、通常の量子演算でやったほうがよさそうな気配も...後日考えてみよう。
今日のサイエンスZEROは宇宙開闢から今まで動かしてもズレが1秒無いという光格子時計ネタ。 前やったのの再放送かな?
>>433 光速度不変の原理からすれば当然そうなる
594 :おさかなくわえた名無しさん :2019/03/23(土) 04:21:21.20 ID:qCef0bOG 保健室のベットで寝てた時 保健医「○ちゃん、薬塗るからブラ外して」 女子「え?でも○君起きてきたらまずいですよ 」 保健医「寝息聞こえたから大丈夫!」 女子「きゃー先生、手冷たいですー」 保険医「変な声出さない。○君におっぱいみられちゃうよ(笑)」 女子「先生、酷いです(笑)」 ばっちり起きてました
1秒でも、0.00001秒でも前なら過去であるww。
江戸モアゼル。👸 花魁が平成の世にタイムスリップ。☆🎍
認識とはどういうことか。人間以外で考えてみる。 なんだかわからないものとして0があるとする。 0しかいなければ、自分で自分を認識しなければならない。 なにが必要となるのか。 まず、認識されるべき対象が対象であるためには「存在」しなければならない。 「存在」するためには「自己同一性」を持たねばならない。 この「自己同一性」は認識されるべき対象自身が持つものではなく、 認識する側から与えられる。ゾンビ的対象なのである。 そうすると、0しかいないのだから、ゾンビがゾンビを認識する。 ゾンビがくるりと輪を描くことで、自分の残像を認識するということだ。 回転(スピン)が必要であり、さらには残像となるようなものも必要だ。 そしてさらに、その残像を対称性として固定するようなものも必要だ。 スピンによってスピンのコピーが最初のスピンに絡みつく。 位相のズレ。定常波がゆらいでいたら... 記憶も波か。 その昔のコンピュータのメモリに水銀遅延線というのがあって... 水銀の中に超音波を流していた。 認識に必要なものは、すべて「波」でまかなうことができる。 自然という遅延装置。人間という遅延装置。 ビットというものも波であって...
波が波であることも認識する側から与えられて 認識する側に自己同一性は無いのだから なーんにも残りませんよ
バカ同士仲良くしましょうか ということにしましょう
1=0.999...について 97 名前:132人目の素数さん[sage] 投稿日:2019/03/21(木) 21:34:47.98 ID:cNIukBCN 差があるからこそ引けるのに等しいとは 騙された気がする ふーん、面白い
自己同一性を持たない対象が自分自身に自己同一性を与える。 自分的ゾンビ。ついにゾンビがくるりと輪を描いたのである。 この現象を物理世界にみいだせればよいのだが。 そして、必要とされるすべて性質を持つものは、「波」である。 そして、波の場がxxxであれば。xxxを探求中。
「波」を考える。波動としてしまうと「動」があるので、そこは先送りする。 「波」には、たとえば、振動数、周期、振幅、波長、波数などの物理量がある。 「波」そのものが「場」における現象であるならば、などと考えるなら、「波場」なる「場」が 必要かもしれない。 逆に考える。現象があるなら、場や物理量のOperatorがある。 現象は発現なのだからこれはなりたたない。 ひとつの抜け道として場かOperatorどちらかから他方をひきだせればよいと考える。 場はOperatorではないのだから、Operatorがあり、それの集まりが場であるとする。 集めるものもOperatorである。 と、ここまでの考えをまとめるなら、「波」は「Operator」である。 なので、ただひとつのOperatorしかない状態をOperator0として考えてみる。
Operator0はOperator0自身に自己同一性を与える。 これは「定常波」である。すなわち「存在」。 この「存在」が一般的な概念の「存在」と異なるのは「Operatorの存在」であるということ。 そして、それが一般的な概念での「波」であるということ。 「波」である以上、ちょっとしたゆらぎによって分解されることも可能である。 「自己同一性」の「ゆらぎ」。 今日の、この時間での結論:「時(空)間」は「自己同一性のゆらぎ」によってつくりだされる。 (「自己同一性」がプライマリな「時(空)間」あるいは、それの「核」であると想定される)
20 :名無しさん@ピンキー :2019/03/27(水) 20:49:21.40 ID:I6ozn9l1 妻とは職場恋愛の末結婚したんだが、その妻が以前同期の長身イケメンに片思いしていた時期があったことを知った それから少しして、その同期と飲む機会があったので、妻の話をしたら実は結構好きだったとカミングアウトされた 酒が入っていたこともあり、思い切って妻と一日デートしてみないかと持ちかけたのが寝取られの始まり
必要な性質すべては波が持っている。 0/1だけの世界を考えると、これも波だ。 対称性もしくは一筆書きで考えるならば、0と1の関係は2つしかない。 正/逆。 逆といっても人間はいろいろな概念をもってしまっているが、よけいな情報は捨て去る。 抽象的な概念として、それいがいに意味をもたない、正/逆。 そう、これは基本的で抽象的な「意味」(あるいは意味の根源のひとつ)である。 考えをすすめるならば、正/逆も正/正も違いは無い。 違いがあるようにみえるのは、基準を外側に持っているからだ。 そのためには3つ必要になる。 ただし、正/逆/正のように考えてしまうと、外延性公理からみて正/逆に縮退してしまう。 3つの異なるものがあれば、人工自然をつくりだすことができる。 この3つめは、現代科学や哲学でさえもみのがされている。 量子論でさえ、3つめはまだ未分化であり、「観測者」として登場してはいるものの、 エヴェレット解釈以上に進展したという話は聞かない。 この宇宙は2-3宇宙なのか、というと、2-3-5宇宙のような気もしないではない。 この文脈で語られている「宇宙」とは「チューリングマシン」であると考えていただければよい。 先に5を考えてしまったほうが、2-3宇宙のありかたがみえやすいのではないか。
MWIは非局所的効果を含むのか含まないのか。 1bitの情報があったとすると、3番目の「わたし」はどこにどのように「いる」のか。 とりあえず、えられたビットと得られなかったビットと「わたし」という3番目を交換して考えながら夢をみよう。 あ! 数日前にみた夢を思い出した。 「+」。うー、なにか加算されたのか思い出せない。 「ビット」といえども、それは「波」なのだから重ねあわされる。 ループしていれば、ノードとエッジを...入れ替えても同じだが、 3つ目は他と異なる。だが見方を変えるなら3パターンあり、その逆転もあるならば3*2で6パターンだ。 セルラオートマトンよりネットワークでオートマトンを作成したほうがよさそうだ。 そして、その秩序の投影が高次元をホログラフィックに構築する。 (準結晶の逆だ) 時間というものが投影されたものの中にみいだされるものであるとするならば... 時間は、より低い次元での秩序がより高い次元として投影されたときにあらわれる現象である。 空間も同じこと。 とすれば...時間をつくりだす方程式を考えることも可能だ。ほんとか?
継手を考える。 0/1の間には継手がある。 1本だけの継手である場合、その継手のどっち側にあるかということになるのだが、 絶対的な基準は「無い」。 第三者をつくらずに、「わたし」と「対象」だけを考えるならば、 「わたし」から発された「射」は「対象」へと向かう。 しかし、この「射」が返ってこないこないことにはなにも得られない。 この「射」を、とりあえずactiveと考える。 そうなると、passiveもある。 「対象」の側から「わたし」にやってくる「射」である。 passiveの問題点は「基準」であって、どのみち「基準」は「わたし」の側にしかない。 二者だけを考えても「基準」は「わたし」の中にあるなんらかの架空のものであるが、 それは「わたし」の中だけでは生成することができない。 「わたし」にはなんらかの内部構造が必要である。
「波」に内部構造はない。 なにかを「記憶」するのであれば外部構造にたよるしかない。 そうでないとしたら、「わたし」自身が変わるということ。 もともと「わたし」は「波」なのだから... ウェットウェアが必要なのだろう。それが「無秩序の海」か... ウェットウェアとしての「無秩序の海」。 無秩序の三原則。(3つぐらいにまとまればよいな)。とりあえず、図書館いってこよう。
濡れてるわけでもないのでウェットウェアはおかしい。 ウェーブウェアか、はたまたクァンタムウェアか。 てか、どのみち「量子」なんだから、必要なすべての性質を、最初から、持っている。
自然科学は自然認識の一つであり自然自体では無いこと つまり自然に科学があり、それを掘り出していることではない 近似値ということ、つまりそのままではないということ 論理は対象の否定である
科学とは、学問とは、自然とは、人間とは 単純な事実から出発して理解すべきではないかと 科学=自然ではない まして論理=自然などでは決して無い
ヒトの現在は進化途中だ これからもそうだが、わたしには科学という学問がこのまま展開するとは思えない 科学はまだ天動説から抜けきっていない
本来そうであることという意味で、科学も論理も 人為が加わっているから自然ではないと思ってきたけど 科学的な知識を含め、言語化された論理、認識の中には、 この世のあらゆる物の総称である自然、 その一部位としての人間が示してきた知識が自然を 現そうとしてきたのが歴史であり、現代はそれが明らかに なりつつある所にまでようやくたどり着いたという事だ 現実とは自然段階なのだから。
有限は無限で出来ていない 逆もまた 対象がその否定でできていることは無い
0に限りなく近いが0ではない 1に限りなく近いから1 差があるから、つまり違うから引けるわけだし、それが=だなんて 数学の詐術かな 必要に応じている?
>>471 理解のための便宜、方便
無限とは終わりを設定せずに繰り返すという動作を名詞化したもの
人間の理解には動詞の名詞化が含まれている
>>472 なんでも数にしようというのが数学で
無限さえも数にする
数は言語ということになるのかな?
あとゼノンの無限理解が気になる
数そのものが決定不能なんてこと考えています ヘーゲル的に言うのなら、全てが矛盾するので矛盾しない・・・ 矛盾は決定不能の謂い 上手く伝わるかどうか自信がないけど
物を対称にする具体性を数の抽象概念で決定を下す教育をし課した概念そのものが ヘーゲル然り既存の哲学では意識概念に齟齬が、矛盾が生じて間に合っていない これが哲学的現状かな
科学≠自然 規定された自然 規定=否定 運動する自然を静止、つまり否定で、ということ 数には大きさが無い 自然という有を無で理解する 運動を静止、有を無で理解する 0次元は実在しない 有を無で理解する 存在するという規定は有を無で理解するということ 存在する、しかし存在という規定は無 決定不能、存在すると同時に存在しないというのは矛盾だと理解するヘーゲル哲学 0に限りなく近いが0では無い、という決定不能の数学的表現 0は規定された有、つまり無、静止で規定された有 運動は無で規定されるから量で、つまり規定された有の集合で規定される 四次元が実在するのならば、静止した三次元の無限集合が実在しなければならない 0→1秒 0→0.0000000001秒 いずれも三次元の無限集合として実在しなければならない 三次元が実在し、その無限集合から運動が生まれて時間という四次元に成るということになる 3次元、つまり運動は伴わない自然、無、静止の無限集合が有となり四次元、時間が生まれる 無が有を生む? 自然という有を無で理解する つまり規定、否定であり≠自然 四次元もまた0次元同様に実在しない
無は実在しない 無とは有の規定であり、頭の中にのみ存在する 無はまた否定され有となる 規定は否定され対象自体になる 対象自体を規定すると決定不能になる 対象を否定で理解するということが自己言及される 存在という規定は有を無、否定で理解することになるから決定不能となる 対象自体が無矛盾、理解可能であることは無の存在の否定で導かれる 無は規定だから、無が否定される、つまり規定された自然、科学は実在しない 対象を静止、具体的には天動説などで理解される 最終的には静止自体が否定、つまり光速度一定の原理で否定される つまり静止は無、否定であり、無は実在しない
無は有ではない 有は無の無限集合ではない 無は無でしかない 無、静止の無限集合が、有、運動ではない 四次元、時間が実在するはずもない 有を規定するとは、有を否定、無で、ということになる 無は無、有ではない 天動説において、静止で対象を理解するが静止は実在しない 運動を静止で理解するのであり、静止、無は実在しない
同じことの言い回しを変えても結局自己満足に過ぎないんだけどね
>>481 > 同じことの言い回しを変えても結局自己満足に過ぎないんだけどね
ブーメランじゃんw
本質ー構造ー現象 対象ー否定 有限、静止 自己言及 決定不能 駒は揃った 何かが、うーん 先日神の方程式観てたら、加速は運動に収斂すると気がついた 加速は常態として普遍として自然に在るう 一元論にしたいわけで 運動するエネルギーの切り取り方で力と理解されるし、生成は加速の一面であり・・・ うーん、と
大企業の技術開発部のそこそこ有名な人が、新人にこういうのをやれと命令すると この人は物理の基本を知らないのだろうかという顔で、出来ませんよと言ってくる とにかくやれというと渋々やり、それで出来てしまうのでショックを受けると話していた これは、現在の学問はどこか違うのだということを示しているのではないかと気になった話です わたし自身は最終方程式がもう少しで手に入るというホーキングの言葉は信じられません ライプニッツはそれで科学がゴールだなんてことは信じませんでしょうし 錬金術師ニュートンでさえ拒否しそうな考えではないでしょうか ハイゼンベルクは怒り批判しました 武谷三男もまた批判しました そう言えば武谷さんは七十年代に新版として出した「科学入門」ではビッグバン仮説無視して 永遠宇宙論を説いていました 西洋主流科学は未だ創造神話から抜け出していません それは天動説が何を示しているのか未だ理解していないし、聖書の創造神話が彼らの自然理解を規定しているからでしょう 新井白石は、神が最初からいるのなら、自然が最初から在ったとしても良いと創造神話に反論しました 白石のほうが、何も生まれない無くならないという科学の大原則に沿った主張です 科学の現在はまだまだだし、それはある意味より発展する可能性を暗示しているのではないでしょうか
自然とは、学問とは、生きるとは 問題意識がある人が良いと思っている 宮部みゆきに゜「長い長い殺人」「模倣犯」というのがあって 二冊とも頭の良さを誇示することが目的の人間が出てくる 読んでいて、自己目的化する怖さと滑稽さを感受した と学会には現状を固定する鴎外的センスが匂う 彼らはいたって学問の発展を阻害する役割をしている気がしてならない そういや、量子力学研究しているらしい人が、最前線の現状は混乱状態だと述べていた 宇宙論もかなり前からそんな気がしている 大丈夫といって内心不安な学者はけっこういるようだし そういや、と学会批判本書いた学者が、今はどうにもならないところがあって新しい考え方が求められているのに 著者たちは科学の最前線に無知だとも書いていたな
生物は生成される 素粒子もまた それらは生成過程に存し、また違う何かに生成されていくだけ 最小単位など無い アナログはデジタルとして認識されるが、デジタルは認識様式でしかない
12時は12時しか無い 12時1分は12時に存在しない 今、この時だけが在る 今には幅が「無い」 つまり有を無として理解するということ 0次元は実在しない、つまり有を無で理解するということ 三次元は濃淡、つまり差異を否定で理解するということ 自然は濃淡の海であり次元は実在しない 四次元もまた実在しない 今の正体は運動であることを飛ぶ矢の逆説は示す 一点に存在するが、それは一点に静止している矢と区別がつかない つまり在るというのは静止が認識形式であることを示す 四次元もまた認識形式でしかなく実在はしない まだわかりにくいなあ
>>491 対案が無いから縋りつくしかないと語る科学者が居た
0.3333・・・ 虚数、ルート等々、そして無限 数学はデジタル、つまり認識形式に変換していく歴史でもある 認識形式は対象をその否定にしていくことでもあるから、決定不能はその本質である アナログをデジタルで規定して自己言及する であって、ではない・・・ 無矛盾であるが故の決定不能 自然という対象は無矛盾としてある デジタルである認識形式自身は、矛盾、つまり有らないものとしての有として矛盾だが全てがそのようなものとして在るから、この意味では無矛盾
対象という客体と認識主体 認識主体は認識客体の一部であり、主体の実在は否定されたのが科学革命 客体ー主体は言い換えれば有ー無の否定関係でもある いずれにしても、現在の学問の在り方を固定して捉えることなく考えていかなければならない 竹内薫、茂木氏が語るように、最前線は混沌としているし、新たな指標が求められている 座標原点は実在しないという事実を科学者は光速度一定の原理の摩訶不思議さに幻惑され理解を放棄し、この事実は自然の存在形式が運動であり、無矛盾である、つまり自然は理解できるのだということを見逃している またこの原理は認識形式もまた示しているのだということを示しているが、やはり見逃している 科学者は哲学を軽視するが、いたって最悪の哲学に囚われているとはある有名な思想家の言葉だ よき科学者はよき哲学者であることを意味しないのだ
この今こそが運動であり、運動は不滅である つまり一瞬は永遠ということになる ここに於いて始まりへの旅は終わりを告げる 始まりが無い自然探求という旅が新たに始まる
始まりへの旅は西洋文化の背骨である聖書に規定されているのではないかな 哲学、科学などの学問、芸術はそのようなものとして西洋文化は発展してきた 絶対という神の創造神話の探求として発展してきたのではないかと 始まりなどは無いと科学は結論するだろうし、また結論している ビッグバン仮説は西洋文化そのものでしょう 科学は相対こそが絶対だと結論する
生きることには何の意味は無い ただ生きよ、そして生きる目的、価値は創造せよということになる
わたしの理解はこんなものです 生きることに客観的、絶対的な価値は無い それは相対的価値として創造するしかない 虚無でもあり、また諦念でもあるのかな ある意味どんな生も等価であるのだと その時々の社会、人間との関係もあるが、ただただ生きよ、ということになるのかな
人は相対には耐えられないから宗教に走る 死もまた宗教を支える 国家も宗教も不滅なんでしょう 肉親を亡くすと、なるほどねと納得します 何かの切っ掛けで幻覚で肉親を観ることがありますが、姉たちに羨ましがられます 霊魂信じている人には見えなくて、信じない人に見えるのは皮肉な話ではあります
数学は自身では無矛盾であることは証明できず、対象との関係では証明できるんじゃないでしょうか まあ、矛盾であることが無矛盾だということなのですが 数はすべて矛盾としてあるという意味ですが 今のところ「決定不能」の考えではありますw
人は割り切って考えられることを快とし割り切れないことを不快とする 学のない人ほど感覚に基づいて1か0かの短絡的な結論を出すが 学がある人は知識に基づいて多枝多重な判断によって結論を出す、しかしそれも 結局はどこかで判断を停止した割り切りでしかない 人間の理解そのものが割り切りなのである 割り切れない自然や現実を割り切って理解する そのために矛盾も生じるし、いつまでも近似にしかなりえないし 真理がありえない以上近似にもならない 偶像崇拝を禁止する宗教も、それ自体が偶像である 科学についてもそれは同じで、正しいと自体が正しくないことを常に含んでいる 割り切らずに疑い続ける、ということが哲学に求められることであり 疑い続けるという不安定で不快な状態を保つことが哲学者に求められることである
対象は無矛盾でないと理解できない 理解するからこそ光速度一定の原理 理解は否定だし、有を無で理解するから無限には対応できない 無限は枠であり、無で理解するからこそ理解できない現象が出てくる だがそれはあくまでも対象が無矛盾だからこそ、ということ 無限は有限で出来てはいない、有限で理解しているからこその矛盾と近似なのだと
無限を数え切ったものはいない。 これは(数学/数理)哲学の前提である。 「数え切ることができない」のなら、どうするか。 最低でも3つの方法がある。 「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」 「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」 「鳴かぬなら鳴くまでまとうホトトギス」 この3つの方法の4つ目が「哲学」であるw
無限についてはゼノンが面白いことを言っていた ちと探してくる
無限とは理解不能な何かであり、したがっていかなる説明にも用いるべきではない
ゼノンは、単に負け組でしょう。 わたしは、実無限、可能無限のどちらでもなく、第三の無限をもってくればよい。
勝ち組だと思うけどねw 実無限はなんでも数にするという数学の論理なんだと 可能無限は正当性もあるけど 数とは何かがわかれば済む話のような気がする この辺は考え中
自然は無限であり理解可能だが、それゆえに理解不能なのだと 自然に、無限に何故は問えない ただ在るだけ
ち、書き直すとき「わたしは、」を削除し忘れた。 「削除し忘れる」というのはおもしろい。余剰次元が悪さしているとすれば、 階層性の問題を解決できるのではないか。ってことは...カラビ・ヤウ多様体だ。 図書館は明日以降だな。自発的に結び目ができて自発的に解ける「振り子」。 自発的にひっくりかえる砂時計の正しいイメージが少しみえてきた。
無限は「無い」、そして有限も「無い」。 これですべて解決。あるのは「不確定性」。
無限だけが在る 有限は無い そこからいろいろ解決できる 自分の考えを適用していってその考えの正しさを証明すれば良いんじゃないかな ここは議論は無用だろう 実践あるのみw
「物自体」としての「自然自体」は経験することができない。
自然はなぜ存在するかはわからない ある条件だとこうなるのかということはわからない
人体は物自体の経過を体験しているし、それ自体が自然だから経験しているんだよ
物自体の経過を体験している人体という意味内容の経緯に 理解が及ばなければ、体験と理解は違うのではないかと 疑問が生じるのは当然ですよ。
スピノザ 「規定は否定である。」という規定が論理の本質規定だとは思いませんでした。 規定の規定という自己言及の側面はまた置いておくことにします。 板倉さんの「新哲学入門」は論理は静的だと指摘しましたが、わたしは否定であり、静止はその一つと理解します。 有限も静止の一つではありますが、本質としては否定だということです。 三浦さんの、観念的な自己分裂という概念は自己言及と否定ということです。 対象ー認識ー理解という言語過程説もまた否定と自己言及です。 パルメニデスの世界は一であるいう理解もまた自己言及であり、数というか多は否定であり、論理であり自然自体ではありません。 パルメニデスの理解は、観念的な自己分裂、つまり自己言及が論理であることになります。 世界は一であり、対象という客体を主体、つまり一、自然の一部でありながら自然を他、客体として理解する立場が必要になります。 それが数であり,論理ということになります。 クレタ人の逆説は、対象を否定で理解しますが、自己言及すると決定不能になることを示します。 不完全性定理、ヘーゲルの運動規定、また三浦さんの観念的自己分裂もまた決定不能ということです。 カントの二律背反もまた対象を否定で理解するからこそです。 微分積分の、限りなく0に近いが0では無い、というのも運動という有を静止、無で理解するからこその規定です。 量子力学の観測問題は対象である波、アナログの自然を有限で理解するからです。 また不確定性原理もまた、運動を静止で理解するからです。
次元は濃淡の海である自然をデジタルで理解するから必要であるということで実在しません。 保存則は、何も生まれない、無くならないということですが、生成過程である自然を静止で理解することにより生まれる、無くなったというだけです。 対象自体は同一である事はありませんが同一で理解しなければならないからです。 であって、ではない、というのは決定不能ということです。 自然は無矛盾です。 論理は自然という有を無、否定ですから自然には存在しません。 十代に出遭って、理解できずに煩悶しましたが、自分なりの解決が出来たことに満足しています。 諸先達に感謝していいのか、はたまた囚われた自分を恨むべきか。 いや、性格上囚われないことは無理なんでしょう。 いずれにしても、ここで幕が下りても満足かな。 ああ、数学の世界も魅力がありますが、滝村さんの最後の大著である論理学の概観も面白そうです。 碩学の研鑽と苦闘の跡が伺え感慨深い。 まあ、さっさと逝きたくはあるのですが。w
自然には理由など無い 生きることもまた ただ生きよ その時々の社会との枠との関係で生きていかなければならない そしてその枠は良くも悪くも広がっていく それは学の力もあるわけです ここにいわゆる国家否定というか、枠の否定の根拠があるわけですが、しかし枠自体は無くなりません ただ国家とそのシンボルはフィクションではありますが必要なわけです だからと言ってフィクションを絶対化すると息苦しくなる 左翼右翼の根拠はありますが、今は戦後教育の反動から右翼が盛り返しています 個人的には右翼というか枠、背骨は必要だとは思いますが、それが強調される社会はもしかすると不幸なのかも知れません バッハ夫婦は古典的でバランスが取れて幸福そのものに映ります その世界は取り戻せないのでしょうか 信者は新約聖書学の結論を受け容れたくないでしょうが、数学者は悄然としていますが、学者らしく結論を受け容れました。 自然の学たる科学もまた二の舞三の舞を踏むでしょう いや、それは学者の世界でありわたしたち市井の人はフィクションたる観念の世界に浸っていれば良いのかもしれません 幸せを追求しているわたしたちにとって学問はとても役には立つのですが さてどうしましょうか
アトラクタフィールドの干渉を受けないプラトーを指向するということは リセットザワールド的なタブラ・ラーサへの回帰である アトラクタが内包する皮肉な欠陥、英知を持つ者こそ最も愚かであることと 特殊化の果てにある緩やかな絶滅 そして物語は回り出す、ジャイロ効果と共に リセットザワールドスイッチのチャタリングの軌跡、 結果(経験、既知の末端)と対の 主体というゲート 原因(体験、未知の先端)の地平、シーソー的砂時計の支点(円) 未知への境界「実と虚の両世界への先端」 産まれたての萌芽萌根の化身、主体の物語
久しぶりだなあ リヒテルとかで何回も聴いた思い出 エドウィン・フィッシャーでも聴いたけど、録音がなあ なんか天上の音楽って感じだな バッハはやはり神に捧げたんだろうなと思える曲
音楽聴いていると、露骨に感覚が時代と関係するものだとわかる 演奏とか全然違うし ある意味進化しているような気もするけど、強烈な個性は昔のほうがあったような 今の人は音色であまり区別がつかないから聴かなくなった ハイフェッツ、オイストラフが面白く聴けるようになってきたかな チャイコフスキー好きでなかったがオイストラフの演奏は始めて聴き入った 新しい傾向の無伴奏バイオリンのは面白かったなあ 思いもかけない暴れっぷりで聴き入った 音楽は好き嫌いだけかな、基準は ?と思った曲が大好きになったり、演奏家もちとそんな感じになってきた オイストラフは若い時に聴いたらピンと来なかったし
今は音楽でも技術化されているし技術は静止とも言えるね ある分野が発達するとは知識化や技術化が進むということで 後進はそれらを是としてその組み合わせに終始するわけだ
令和ですか。 なんか元旦みたいな気持ちになります。 元号はいろいろ論議はありますが、個人的には新たな気持ちになれますし。 昭和、平成、令和三代ですか。 父は明治、大正、昭和、平成、母は大正、昭和、平成。 85歳、102歳です。 わたしは適当なところで死ねたらなあと思いますが、どうなりますか。
科学革命は自然と認識の関係の自己言及です。 認識主体である人間は自然の一部であることを示すと同時に認識がどういうものかを示しているし、ひいては論理は自然という有に対して否定の無、具体的には運動ー静止という関係を示します。 地動説は、地球もまた天体の一部である、つまり観測する側とされる側と同じであるこを示し、また観測行為、つまり座標原点とは何かははっきりとはしません。 ここではまだ太陽が中心、つまり静止であり座標原点の自然存在は否定されません。 進化論もまた人間は生物の一部である、つまり認識する側とされる側が同じであるということを示します。 生物は遺伝子としての差異ですが、ウィルスの存在は生物と非生物もまた物理としての差異であり、生物分類は差異を否定で理解することを示します。 つまり認識の在り方の自己言及でもあるわけです。 光速度一定の原理は、自然において静止する何ものも無い、つま自然の存在形態が運動であり無矛盾であることを示します。 そして認識するには座標原点、静止が必要ではあるが実在しないことを示します。 ここでは運動という有が静止という無、つまり否定で理解することが示されます。 つまりここで認識理解することの本質が示されます。 科学革命とは科学とは運動する自然を静止という否定で理解する、つまり認識を媒介に対象化された自然であり、自然そのものを直接示していないことを示します。 科学革命とは自己を他者として認識するということという自己言及であり、また認識の性格を示すという二重の自己言及ということになります。
点という無、非在の存在という矛盾 観念の中の存在 論理という矛盾
有を無で理解する 有である←無で有であると規定する←自己言及←決定不能 これか
さて、論理自身の決定不能かな、次は まだ明確になっていないけど、ヒントは見つかった感じだ
決定可能とは、論理式の集合のメンバーシップの決定をする実効的方法が存在することであるから、 決定不能とは、論理式の集合のメンバーシップの決定をする実効的方法が存在しなければよい。 矛盾とはP∧¬P=TRUEであり、決定可能であるw というか、決定されているから矛盾するのである。 決定不能であれば矛盾しない。
1+1=2 すらも完全性のもとでは決定不能命題である。 決定可能とは「不完全」であることを示すw
決定不能であることが決定している、このこと自身もまた自己言及すれば決定不能に成らないか? 無限ー有限 科学 有限ー無限 論理
対象をその否定で理解する←自己言及、決定不能←決定・・・ 科学 論理
決定不能であることは決定できない。 不完全であれば決定不能であることを決定できる。
自然には静止が実在しないことで無矛盾であることが決定する 静止で理解することの自己言及によって決定不能が決定する 論理という対象は決定不能であり、そのこと自身は決定する 生物学者福岡氏は、生物は生きているとともに死んでいると語る 決定不能であること自身は決定している 対象である自然は決定していて、論理との関係は決定不能と決定、そのこと自身もまた決定不能であり、そしてまた、そのこと自身も決定している・・・
決定不能と決定できないなら決定不能にはならない 決定不能と決定できるから決定不能となる
実在という定義はさておいて、静止が実在しないのであれば決定不能であり、矛盾を容認できてしまう。 ただし、ここでいう静止は(静的に)記述可能だということ。 記述可能でなければ決定不能である。 それでも決定不能は記述可能である。「決定不能」と書けばよいw
自然は否定、つまり静止が否定されることによって無矛盾、決定可能となる 自然は論理ではない 有を無で理解することの自己言及によって決定不能となり、そのこと自身は決定する 理解することによって決定不能となる 理解すること自身が決定不能の原因なのだと 決定可能と決定不能の双子性、・・・うまく言えない とりあえず
決定不能とは、決定不能と決定できることではありません。 決定可能と決定できないことです。 決定不能であっても決定できてしまってもいいのですw 決定不能は決定可能性を持ちます。 決定可能性を持たないものは決定不能にはなり得ません。
自然は運動する 静止は実在しない 自然は無矛盾であることが決定する 有のみであり、無は実在しない 有をその否定で理解するから決定不能となる
自然には静止が実在しないと決定している それを静止で理解するから決定不能と決定する
運動は存在するが、存在とは運動の否定 つまり存在するのだが、存在が静止を意味するから、運動にはならない しかし運動は存在する つまり存在すると同時に存在しないという決定不能となることが決定する 決定能わずが決定する
>決定可能と決定できないことです。 このこと自身は決定している。 決定不能と決定しているからこそ、決定不能ということです。 決定不能であると。
自然自身は運動として、有としてであり、決定です それを無、静止で理解する。 運動を規定すれば決定不能と決定します。 決定不能と決定するからこその決定不能です。
対象である自然 有 規定である論理 無 双方決定していますが、否定関係であり、だからこその決定不能ということです。 であって、ではないという決定不能が決定している。
光速度一定の原理は、座標原点、つまり静止の実在を否定している。 実在したらこの原理は成立しない。 つまり運動が普遍、有であることを決定する 座標原点は静止であり、無として観念の中にのみある この意味では普遍であり、無であると決定する 有を無で理解するから決定不能が決定する
自然は論理の実在が否定されるから無矛盾 論理は実在を否定されるから無矛盾 双方論理の非在で無矛盾であると証明される 決定不能はこの無矛盾の否定関係で生じる
「静止」とはなにか。不確定性を考えなければ、「静止」の定義によっては「静止」が存在するということは自明である。 そもそも「静止」とは「運動」の一形態であって、静止を否定することは「運動」や「自然」を否定することになりかねない。 決定不能とは、決定可能性が前提となり、なんらかの制限がなければ(無限性は含んでいてもよい)決定不能であることを決定することはできない。 これと異なり、決定不可能とは決定可能性が無いということも含みうる。 素朴に考えるなら、決定不能であることを決定できないのは自明である。 決定不可能は決定可能性が無いということで決定できるが、 決定不可能であることが決定不能であるかどうかということは決定できない。 ええと、問題はなんだっけ? すっかりわけがわからなくなってきたw
現実の静止は言われる通りです 静止は実在しないと だから静止は頭の中の存在です
数学は無矛盾である このことは光速度一定の原理によって証明されます。 自然が無矛盾であることもまたこの原理によってです。 絶対座標の実在の否定で、宇宙に静止が実在しないことが証明されたからです。 このことは、数は部分を、つまり大きさを持たないという規定を裏付けます。 つまり0次元の実在の否定ですから、その無限集合である1〜4次元はもちろん何次元でも同じです。 無いものを無限に集めても在りません。 この原理は自然と数学が、自然という有が運動し、無、つまり静止は実在しないというとにより、無矛盾であることを証明しているわけです。 自然という有は数学という無、否定で理解されるということです。 科学は認識に対象化された自然、つまり自然ではないのです。 方程式はある基準を設定、つまり終始が必要ですが、終始は自然には実在しません。 論理も数も自然には実在しないのです。 一般相対性理論もまた光速度一定の原理が証明する出発点の否定から逃れられません。 ラーナーは無限大はその方程式の有効性の範囲外であることを示すと語りましたが、無もまたそうです。 この原理は有、運動の普遍と、無の実在の否定、つまり自然、数学が無矛盾であることを静止、つまり無の実在の否定を証明しています。 対象をその否定で理解しますが、クレタ人の逆説でわかるように、決定不能をその本質として抱えるわけです。 自然は無矛盾ですが、それを無で理解しますから決定不能になります。 つまり理解の媒介である数学も無矛盾ですが、その否定関係、運動ー静止、有ー無により決定不能となるわけです。
光速度一定の原理を認識論的に処理すれば、科学も数学もすでに基本は確立していると わたしはそう信じています
あとは歴史が裁断することのような気がします ビッグバンは天動説の足掻きです
まあいろいろ出てきます どの辺で見切り発車しようかなと
個人的には自然観というか科学が確立しない限り数学も確立しないと考えています。 森鴎外みたいにその時の科学の在り方が絶対だと考え、そこから全てを裁断すると かなり落ちこぼれる。 ラーナーは科学革命が必要な段階だと語っています。 それを日本人がやってのけてほしいのですが。 西洋人は創造神話が枷になっていますが、ドイツ人は学問の出す結果に従う傾向が強いからそれも時間の問題でしょうか。 そういや、新定常宇宙論のドイツ人科学者が時間が存在しない可能性を示唆している雑誌の記事を読んだことがあります。 新定常宇宙論支持でわかるように、保存則に対してはナニですが。 尊敬する学者さんが真理は単純であると語っていました。 あまりにも単純なため、わからないのだと。 「盗まれた手紙」では、地図の地名探しゲームで見つかりにくいのは、あまりにも大きい字で広がっていたりすることだったりするとポーは語ります。 目の前にはあるが、大き過ぎて目に入らないのだと。 そんなことも想起します。 科学者たちは「神の方程式」を探しているそうですが、そんなのはありません。 すでにわたしたちは自然の在り方を示す原理を手に入れています。 自然は無限であり、ある物理条件になるとある物理状態になるわけですが、それは無限に在るのだと。 そしてなぜそうなるのかはわかりませんが、とにかくそうなる。 それを表す方程式が模索されるだけです。 超ひも理論も、真実だとしても、この物理条件だとこういう物理状態になるだけだということです。 人間が、素粒子がそうであるように。 最小単位はありません。 回答は既に目の前に在る。
自然は無限です。 それを有限という否定で理解する。 そして有限は無限で。 理解は対象の否定で理解される。 とても単純なんです。 そして無いものは無い。 大きさの無い数はまさに<無い>のです。 無いものが在ったら無になりません。 それは頭の中にしかありませんが、無が在るという矛盾であり、矛盾であること自体は無矛盾です。 無で有を理解するから決定不能に成るわけです。 光速度一定の原理は、自然と数が無矛盾であることを示します。 自然は有として、数は無として、それぞれ無矛盾です。 ですから、自然自体は矛盾しませんが、数、論理、つまり理解する場合には決定不能を抱える。 であって、ではない、という矛盾が無矛盾であるわけです。 同一でないものを同一で理解する。 また生死というか、その瞬間は指示しえない。 しかし物理状態としては常態としてあり、無矛盾であるわけです。
誕生の瞬間とは、同一として実在することはないのですから、いわば鵺的といっていいわけです。 ウィルスと同じなわけです。 物理状態としては同一ではありますが、差異を否定で理解するからこそです。 物理状態は変化することは変化しない。 否定で理解するからこのような理解にならざるを得ない。 対象を否定で理解するからです。 この差異が普遍として在るのですが、差異自体もまた否定で理解された運動がもたらした状態であるわけです。
>>567 ああ、ちとナニな説明だなあ
撤回します
差異と否定 ふと、物理は、つまりわたし、パソコンという規定は差異を否定で捉えることではないかと考えました。 生物分類もそうですが。 男−女ー人間ー生物ー植物ーウィルスー物理 差異を否定で理解することの証左、自己言及としてのウィルス 自身と差異としてある物理を否定で理解するから、で在ってでは無い・・・ 自身は運動により差異として在る 自身という規定は差異を否定で捉えることです 今には、幅は無いが差異として在る いや差異として在る運動を幅が無い、無として捉える この今は差異として在る、有だが、無で捉え表現する 自然の存在形態としての運動ですが、わたしは自然の差異として在り、また自身も差異として在る 規定という理解の在り方
差異とは自身との差異ということで、否定で理解するからこその差異です 差異自身も否定であるわけです 差異であることが普遍である 生々流転、万物は流転する、つまり運動し、その生成過程に在る 一は差異としてあり、差異を否定で理解する、有限で理解するから多として理解する 自然は濃淡として在り、否定として濃淡の差異を理解し、また自身も差異として在る 濃淡もまた自身との関係で差異、濃淡として在る 濃自身もまた濃淡として在り、淡もまた濃淡として在る それは運動が齎す 淡の濃淡としてのディラックの海 わたしという規定は自然の濃淡の差異としてあり、また自身とも差異として在る それは運動として在るからです
科学革命は多様な側面を持つんだなあと改めて驚く 光速度一定の原理はまたとても豊穣なのだと 自然がエネルギーの濃淡の海として存在するということ 数は実在せず、科学は自然自体ではなく、認識された自然であり、数ひいては論理は実在しない 次元もまた、そしてこのことは時間の存在も否定する それで理解するがそれは実在しないことは地動説が萌芽として示している 認識主体は観念として存在し、実は対象の一部であるということ 地動説、進化論、そして光速度一定の原理 原理は論理は観念として存在し、自然には存在しないことを示す 生物分類は差異を否定で理解することを示す 生物もまた物理存在として差異として存在し、生物、非生物というのは物理の差異として存在するということ 結局、対象を否定で理解し、その理解の在り方を自然自体だという誤謬が天動説であり、ビッグバン仮説であり、最小単位説であるということ 全ては運動するエネルギーの生成過程として存在する そして自身との関係も差異ではあるが、自身というのは同一ということであり、つまり規定は否定だから、運動を静止で理解するからこその自身、または差異ということになる なんか忘れている気がするが、とりあえずです
他との関係としては差異を否定で理解するということ 自己自身も差異という関係であること この今も同一としてではなく自身もまた差異として存在する 規定は否定、自身という規定もまた そういうことか、面倒だな 単純なんだが、それ故にとても複雑 ああ・・・ 生物分類は複雑になっていくが、物理そのものという単純さに収斂していく 光速度一定の原理もまた
自然と数の関係の自己言及としての0に無限に近いが0では無い、という理解 今には幅がありません。 運動という有を静止という無で理解しているからです 運動を無で理解するからこそ、0に無限に近いが0では無いということになります 運動は在る、しかしこの「在る」は静止である、存在すると同時に存在しない という数学的表現が、0に無限に近いが0では無い、ということです。 決定不能ということの萌芽ではないかと。
自然と数の関係の自己言及としての0に無限に近いが0では無い、という理解 今には幅がありません。 運動という有を静止という無で理解しているからです 運動を無で理解するからこそ、0に無限に近いが0では無いということになります 運動は在る、しかしこの「在る」は静止である、存在すると同時に存在しない という数学的表現が、0に無限に近いが0では無い、ということです。 決定不能ということの萌芽ではないかと。
1=0.999・・・ これって有限を無限で理解しているってことなんですよね これは数学と自然の関係の表現でもありますよね 対象である自然は在る、それを無で理解する その無は有限として表現されます 有限を無限で理解するから、1に限りなく近いが1ではない、1では無いが限りなく近い なんと言いますか、やはり対象である自然との関係、有と無の場合、つまり微分積分ですね、この場合は0であって0ではないということになり 無と有の場合は1=0.999・・・にする 有と無 有 無と有 無としての有 1自体は有りませんが有、つまり自然という無限は有です 1は否定で捉えられた無限です やはり有を無、否定で理解することが、この根幹にあるのではないかと もう少しすっきりできるような
0に無限に近いが0ではない、という捉え方が決定不能なのだということにやっと気がつきました。 1=0.999・・・もそうです これはもう少し掘り下げなきゃいけないのかな この二つは逆方向ではあるんですが。 ですがそういうことですw
決定不能は対象をその否定で理解するからこそです 科学の場合は対象は自然ですが、理解との関係で無矛盾であることが証明されますが それは否定、この場合静止が実在しないことが証明されることによってです 否定の存在が否定されるということです 自然は無矛盾であるということです
0.999⋯ = 1 単に表現の違いであって、左辺と右辺は=です。 標準的な実数の体系では、そうなります。
わたし自身は人間の学問の現在はまだまだではないかと ある意味で、1=0.999・・・というのはわかるんです しかし、1は0.999・・・では無いというのも であって、ではない、のではないかというのがわたしの趣意なんです =と、≠であり≠の方を認識論的に考えたいわけです 1、0.999・・・ 定まっていない数が定まっている数と同じ =で留まるのは思考停止なんじゃないかと
1.000000000000000・・・ 0.999999999999999・・・ 差、つまり違うから引けるわけでして また位はすべて違うのに同じとか で、=とか まあ、わたしから言わせれば、有を無、運動を幅の無い静止で、ということなんです 静止は実態というか自然だと振るえるている・・・ そこに在るのか、たしかに在る、しかしこの在るは静止である 飛ぶ矢は静止している、ということはそういうことではないかと 運動を静止で理解するからこそです 限りなく0に近いが0ではない、無いものを無限に集めると1に成るというのは 有を無で理解している、運動を静止で理解する、静止は実態は運動、震えていますから自然ではやはり大きさがありということで、無限に1に近ければ1ということにする わたし、という物理にしても、であって、ではない、ということです。
わたしは現在の科学、数学の基礎というか思想をあまり信用していません なんというか、それで理解に有効だから、ということでそれで留まっている 問題はそこから先のような気がしてならないんです 科学がまだ天動説的認識論ですし、また数学もそれゆえに基礎は確立していない
ゼノンは三十年、クレタ人は四十年以上自分なりの解決が付きました この問題は数学が展開していく上での問題なんだと思っています いずれにしても、この問題には掘り下げるべき何かがあるのだというのがわたしの理解です
>>581 しかし、1は0.999・・・では無いというのも
>
> であって、ではない、のではないかというのがわたしの趣意なんです
> =と、≠であり≠の方を認識論的に考えたいわけです
訂正
=を認識論で考えたい
学問と勉強は違うんでしょう 勉強した知識が基にはなっていろいろ問いかける で、学問に付け加えていったり、訂正したりする 行き詰ったら、学問と自己の知識の再点検をする 学問はそうやって展開していく 既存の学問の理解を疑ってはいけない理由は無いわけです
野矢さんの「無限論の教室」は学問の精神としては健康だと思います 教条的な理解を拒否している 疑問をもち、納得できれば良いのですが、納得できなければ自分なりに考えていく 茂木さん、竹内さんは、この科学の現状で「と学会」みたいに硬直化した学問理解は問題にならないと批判しています わたしもまたそう思っています
飛んでいる矢も人間が認識する上ではある意味静止している 人間は状態で、モノで、名詞で理解する
0.999⋯ = 1 =の左辺と右辺が異なるのは一見してわかることです。 しかし数学(の中の標準的実数論)では「同じ」とみます。 どうしてそうなるのか、ということが数学の楽しさであって、 記憶型の勉強しかしてこなった人には数学の楽しさがわからないだと思いますね。 ある意味、認識論を排除することが数学の「思考/理性」です。 (ま、おれは塾などにはいったことないし、それでも国公立系の大学でたけどね) 「=」とは同じということである。 それにもかかわらず、左辺と右辺にわけてかかれているので(それだけでも必然的に、場所的に)異なる。 左辺と右辺の表記が違えばさらに異なる。 (「=」は)さらには「≡」(合同)とも異なる(数学的)概念である。 数学という概念はおもしろい。
数学的な「同じ」ということを「=」が表しているわけであって、 それを無残にもおかしな解釈をするということのほうがおかしい。 「…」というのは数学記号であって、数学としての意味があります。 そこに「認識論」を持ち込むのは一発で免停ですねw 「数学」とはどのようなものなのか、ということを探求するのは「哲学」です。 探求したうえで異議を唱えるのはかまいません。
有を無で理解することに端を発するわけで 有は無、無は有 そこから数学の論理を正当化したいんですけどね
違うところで正当化しているんじゃないかと 全てを、無限さえも数にする 野矢さんは批判していますが、当たってはいるんですが、数学とはそういうものだと まだ上手く行かないんですが
0に無限に近いが0では無い 1に無限に近いのが1 扱いが面白いわけで
0では無いが、0に限りなく近い その無限集合だと1になる 有であって有ではない 自然を数、否定で理解する この辺かな、落としどころは 簡潔に出来ない
0→1というか有限は観念なんです 0→0.1でも同じ 有限の中の無限 大きさの無い数、0ではないが限りなく0に近い やり直しかな 納得できないんです 一つ上手くいったんで挑戦したんですが
0に無限に近いが0では無い それ故に、1に無限に近いのが1 未練だw
数学の正当化は数学の内部から行われます。 つまり、哲学として数学の外部から数学を正当化できるのかどうかということですね。 数学の正当化は、その体系の内部で無矛盾であるということです。 外部からみても、その体系の内部で無矛盾であるということしか正当化できる正統wな方法はありません。 その体系の内部にないものを持ち込んで正当化しようとするのであれば、 その「ないもの」を含めた数学の体系を作るしかありません。 標準的な実数に非標準なものを持ち込んで超実数という体系を作る、というようなことになります。 それは、新しい数学をつくる、ということです。 数学は自由なのでどんな数学でも作れますw 要請されることは、その体系内で無矛盾であるということだけです。完全性は不要ですw
量子世界を人間が識別し認識するには数で帳尻合わせする以外ないんで数学は存在しているのだよ。
数学は観念です 無の存在 実在はしない 数には大きさが無い これが縛りです 自然は有、無矛盾であり 数学は無、無矛盾です
認識の在り方の問題です 認識に対象化された自然そのものは存在しません この意味で科学理論は全て意識された天動説です というのは、ある基準で展開されているわけで、その基準は実在しないからです 地球からはこう見える、と意識されれば真実ですし、太陽中心説もそうです 光速度一定の原理は、基準は実在しないが、理解には基準が必要であることを示します 対象である自然は無矛盾であり、理解の媒介である数は実在しない、存在しないということであり、無矛盾です 対象も数も、有、その否定としての無という否定関係で互いに無矛盾です 大きさの無い数はまさに無いのです 0は自然には存在しません
わたしという物理は他に対して差異として在る わたしは他者に対して自己という否定で規定されるが物理としては否定関係ではなく差異として在る そして物理としては自身に対しても差異として在る 差異は規定が否定だから差異と成る わたしという同一は存在しない この今に於いてもまた同一としては在らない 自己は在り、また自己は在らない 今しか在らないが、この今は有、運動を無で規定されている 今には幅が無いということは有を無で規定しているから つまり規定は否定であるは、貫徹される 今は在り、そして在らない 在るもまた規定で静止だから 運動は静止の無限集合として規定される 自然との関係で、有であると規定されるが、しかしこの有は規定された有、否定された有であり、また否定される 決定不能、矛盾である 0であるが、それは有の規定であり、無だから否定される 0に限りなく近いが0では無い、という規定はこの意味でのこと
いずれにしても時間は実在しません それは認識の在り方が要請する次元であり、観念です
>>603 >運動は静止の無限集合として規定される
時間は静止の、に訂正
今の正体は運動です
学の現状を固定して裁断する姿勢はその現状が絶対だと前提しているからじゃないでしょうか わたしはそうじゃないと思います 1=0.999・・・であることの論理はまだ説得力が無い だから、議論になるわけです 野矢さんも、それは違うだろうとタジマ先生に語らせます
自然が無矛盾であることは次元の非在、静止の非在によって証明されます つまり規定との関係によってです 科学とは認識に対象化された自然であり、自然自体では無い そしてそのことによって次元も、静止も非在、無矛盾であることが証明されます 運動を規定することは、無矛盾である自然を無矛盾であるが否定で、ということです そのことによって決定不能になるわけです
イギリスの哲学者バークレーが0に限りなく近いが0ではない、ってなんだよと噛み付いていますよね ここでは大きさが無いという規定が自然との関係で決定不能になっている いえね、この規定こそが1=0.999・・・の根拠であるのか、または通底するものなのかという感触が在るわけです いずれにしても掘り下げられるべきなのではないかと
「数」は「大きさ」を抽象化したものを持っています。 誤解を承知でいうならば、「数」は「大きさ」を持っています。 「大きさ」を持たない「数」はありません。 ここで逆転させると、「数」とは「大きさ」のことです。 これは数学における、もっとも基本的な保存量であるともいえます。
しかし、過程説氏の誤謬はおもしろく、哲学的にも探求すべき課題だと思います。 「カテゴリー錯誤」なのかな、とも思いますが、専門家ではないのでなんともいえません。 配達されない手紙、ではなく、誤配された手紙。 どちらも「自然」には必要なのです。それなくしては「自然」ではない。
数が実在したらこうなりますがというのがゼノンの逆説です
>>611 誤謬だとの神のごとき論証なき御託宣、ありがたきお言葉ですw
わたしの自然と数学の理解は、光速度一定の原理が座標原点の実在を否定していることから出発しています ですから、この一点だけを納得できるように否定してくれればお仕舞いです それだけです
自然は矛盾からなっています。 それでいて無矛盾であることが要請されます。 良い言葉がみつからなかったので「矛盾」と語ってきましたが、 これは「誤謬」としてよかったのかもしれない。 自然は、誤謬をかかえた無矛盾な存在である。 リーマン面上で論理体系を構築すればよいような気がします。 超空間上での自然を超自然といってしまうとオカルトと区別がつきにくくなってしまいますが、 超自然の射影が自然です。 そう考えると、いろいろなものの間での『自然』な対応がみえてくる。 とりあえず、「誤謬」からひとついただきました。 「自然とは準結晶構造である」
>自然は、誤謬をかかえた無矛盾な存在である 誤謬自体は理解するからではないでしょうか つまり自然自体には存在しない では、また
むつかしいですね。 まず「実在」の定義をはっきりさせなければならない。
>>609 数で大きさを表現できるが
数そのものは軸線上の点であり大きさを持っていない
ということかと
>>619 軸線上の点も粒子性(物)と波動性(質)を持つ量子エネルギーなのに?
君がわかっている人かどうかの問題も棚上げだからなぁ
>>614 光速度一定の原理と、座標原点の実在を原理で証明できない事実をもってして
自然と数学の理解は、出発可能なんですか?どうやって?
アタリマエのスタートラインに立てた観念で達観を目指してるとか?
観念から出発して解釈した達観に自己満足に到着してお仕舞とか?
理解できない気持ちを記号で訴えるだけでなく、何がわからないかを文章にしてみましょう
>>623 このスレ読んでいただければ主意はわかると思います。
宇宙の端が観測されない限り有限宇宙論は証明されないし また無限宇宙論は否定できない 超ひも理論は実質証明できない理論だろうと語る科学者もいる ファインマンはそんな理論は、と否定的だった 最小単位は在るのかというと?だろう 人間も食べ物も、自然の生成過程から成り、また違う何かに生成されていく 素粒子というか自然は過程として在り、ある物理条件である物理状態が生成されていくだけ 仮に超ひも理論の主張する物理状態が確認されたとしても、それはその物理状態に生成されたというだけ この条件下ではこうなります、というのは人間もケーキも銀河系も地球も同じ 銀河系も年月が経てば違う何かに生成される 〜から成る、つまり最小単位から物理はできていない エネルギーで自然は成り、〜に生成され、また違う何かに生成されていく過程として在り最小単位は存在しない 量子力学の歴史展開は見方を変えれば、ある物理条件が設定可能なら、つまりセルンのような巨大実験装置があれば物質はこのような物理状態に成るという理解も可能だし 核力というのは実は無くて、ある物理状態を違う物理状態に生成するエネルギー量でしょう 科学はその基本的自然理解の修正を迫られているのだと思っている
ワインバークは宇宙の始まりの解明まであと僅かだと四半世紀ほど前に語った ホーキングは最終方程式がもう少しで手に入ると三十年前に語った そんなの在るのかなあ、というのが観客の一人であるわたしの野次 いずれにしても歴史が正否を判定するでしょう
>>631 このスレ読んでないので主意はあれなんですが
光速度一定の原理で等速運動によって実在する観測者の
座標原点を統制的原理で
>>614 が否定していることで生じた仮象から
自然と数学の理解を出発しているだけなので
光速度一定の原理が、座標原点の実在を否定していることによって
出発している理解とは関係ないように思います。
いえ、そう理解し、そう前提するとわたしが十代から気になっていた哲学、科学、数学の問題が 自分なりに納得できる解決ができたというだけです。 基本的なことはスコラ的になることがわかりましたし、正直あまり関心がありません。 同意できないし、わたしの解決案にも関心が無かったらそれはそれで致し方ありません。 お付き合いいただきありがとうございました。
光速度不変の原理ではなく、光の速度は一定である前提で納得できる解決案であると理解できるということかな。 納得できる問題解決の突破口になったんですね。
>>632 > 科学はその基本的自然理解の修正を迫られているのだと思っている
科学に基本的自然理解の修正をして欲しいとあなたが思うのは自由だけど
修正を迫られている科学問題は物理学的には実在していませんよね。
なにゆえに、数には大きさがないと考えるのか。 そこが不思議である。 おそらく、「点」と「数」を混同しているのではないかと思う。
ノーベル賞を日本人が受賞したときにNHKで立花隆さんが、量子力学分野は現在の問題をクリアしたらアインシュタイン、ボーアみたいに名前を残せると沸き立っていると語っていた あるところで、研究者らしい人がもう少しでゴールみたいに外野は考えているようだが 現場は大混乱と投稿していたな 竹内薫、茂木両氏はある著書で、今までの科学では行き詰っていて新たな考えが必要な段階だと語っている 三十年前にはアメリカの科学者が、第二の科学革命が必要な段階だという理解を述べている いずれも何かしらの転換が必要だという認識
あることを前提とすると、わたしが理解したかったことがすべて納得できる形で理解できるというだけだな 理系でも少数だが可能性を認めてくれるから満足している 認めないよというのは多数だから、そうですかとしか言いようがない ただし対案もわたしの解決案の納得できる欠陥指摘も今までは無い まあ到底わたしには解決できないと諦めていたし、何人かは納得してくれたんで満足 一人も居なかったら無念だけどさ その考えで解けるかどうかが問題なんで、違う考え方で納得できる解決をしてくれれば直ちに放棄します
意味不明なので対案もなにも... なにを力説しているのかわからないというのが最大の欠陥かも。
「光速度一定の原理が座標原点の実在を否定している」 なかなか意味不明でよろしい。
まず、「光速度一定の原理」。そんな原理は知らないw おそらく「Zur Elektrodynamik bewegter Körper」の「daß sich das Licht im leeren Raume stets mit einer bestimmten」の部分だと思われる。 一般的には「光速度不変の原理」と呼ばれ、「一定の原理」ではない。 このへんからなんのこっちゃ、ということになるw
「実在」をどのように定義しているのか不明だが、 「不変」ということは「それ」を「原点」とした座標に変換することが可能である。 つまり、「座標の原点」が「ある」w そもそも「原点の実在」という表現が意味不明である。 この「実在」がどういう意味なのかわからないのでわたしには意味不明なのだ。 「光速度不変の原理」を扱っておきながら、なぜ「実在」がでてくるのか。とんと見当がつかない。
時間非在説は古今東西珍しくは無いと博識の方が語っていたな 九十年代にドイツの科学者がその可能性について言及していた 今世紀に入ってからも何人かの科学者がもしかすると、と語っている 重力はさすがに少ないが、いることはいる それは違う理解が可能であるという趣旨だったかな 粒子渦説は昔からあるし、十九世紀英国科学者、現代でもブリゴジン学派とか ビッグバン否定の科学者たちはまだまだけっこういる 現状の科学のあり方を固定して捉えていると拙いんじゃないかなと 自分なりの視点を獲得できたことは望外
何人かの専門家が可能性を認めてくれているから満足なんだw 否定的な人と肯定的な人が議論して、わたしの論を自分たちの言葉に翻訳して遣り合っていた。 いや、その方々の支持で今日までやってこれた さて、いろいろありしばらく消えます
中には国立大学の准教授もいるけど、今は教授になっているのかな 実際に問題と取り組んでいる人たちの支持はとても心強い 哲学だけだと現実との突合せがないから空論になりがちで、自分の論もその危険はあるなと思っていた あるところで、あまりにも頭の中だけという論があり、「あしながおじさん」の主人の哲学揶揄を思い出した
「光速度一定の原理が座標原点の実在を否定している」 これだけでも問題点が4つある。 1.「光速度一定の原理」 2.「座標原点」 3.「実在」 4.「否定」 とりあえず、「物理世界」と「論理世界」で考える。
・「光速度一定の原理」 すくなくとも私は知らない。出典を明記すべきである。 独自の「原理」ならば、その正当性か、その原理の元での無矛盾な体系を提示すべきである。 ・「光速度不変の原理」 これは「相対性原理」とペアになって特殊相対性理論の指導原理となる。 アインシュタインの論文を参照してほしい。 ・「光速度一定の法則」 おそらく経験則ということになるのだろうが、人間のスケールからして経験とするのは難しい。 「マイケルソン・モーリーの実験などから推測される光速度が変化しないという確からしさ」とでもすべき。 一般的な「原理」とは、その体系の中で証明も反証もできないものである。 「原理」を理由として、その体系以外のものを語っても無意味である。
・「座標原点」 これは論理世界に属する。 ・「実在」 これは物理世界に属する。 よって、「座標原点」は「実在」しないw
・「否定」 最初、拒絶/拒否のような意味だと思っていたが、 「否定で理解」するということなので、 「否定される」ということは「肯定」のことなのかもしれない。 つまり、「光速度一定の原理が座標原点の実在を否定している」というのは、 「光速度が一定であるという実験結果は座標原点の実在性を肯定している」 と、読めてしまうのだ。 そもそも、「不変」であるということは、その「不変性」を原点とした座標を構築できる、 ということである。 論理世界にしかないはずの「原点」を物理世界に「実在」させられるのだw そう読んでしまうと、「おおー」と思う。それはそれで「哲学的には」それなりの業績であると思う。 (ええっと、酒のんで酔っていますw)
>>643 何かしらの転換とのことだけれど、実証可能解を要請される分野が科学だから
科学自体が転換することはないんじゃない、科学ではなく転換は意識の側に求めるしかない。
今の実証でしか認証不能な知性に偏重した観測結果の自然科学ではなく、感覚の認証を
> ノーベル賞を日本人が受賞したときにNHKで立花隆さんが、量子力学分野は現在の問題をクリアしたらアインシュタイン、ボーアみたいに名前を残せると沸き立っていると語っていた
> あるところで、研究者らしい人がもう少しでゴールみたいに外野は考えているようだが
> 現場は大混乱と投稿していたな
> 竹内薫、茂木両氏はある著書で、今までの科学では行き詰っていて新たな考えが必要な段階だと語っている
> 三十年前にはアメリカの科学者が、第二の科学革命が必要な段階だという理解を述べている
>
> いずれも何かしらの転換が必要だという認識
続き 感覚の認証を理性的に、それこそ万人が納得のいく統一理論ということになると思う。
「在る」という前提 自己言及すると決定不能になると指摘しているのが「飛ぶ矢の逆説」なのだとわたしは理解します。 つまり存在するのか、存在する、しかし存在は静止という規定である。 運動する対象をその否定としての「在る」で規定するのだということです。 科学は自然の存在形態が運動であることを示し、また静止で理解することを示します。 スピノザの規定は否定である、ゼノンの逆説が何を示すのかを理解可能にし 有限と無限の関係を語りカントの二律背反を解決し、観測問題、不確定性原理は自然と認識の関係の問題であり 不完全性定理は有限を無限で、つまり否定で理解するからこその決定不能であることを示します。 ある意味既に科学というか学問の基礎はわかっています。 自然は運動するエネルギーの運動変化であり、その運動が濃淡という過程を生じ諸物は生成し 素粒子もまたそのように生成されるということです。 わたしという人間はその過程で生成され、また違う何かに生成される過程に在り、それはなんら周りのものと代わらないのです。 ヒトもまた環境に適応できたら、様相が代わるでしょうが、それは遺伝子として差異を獲得し、発現するということです。 遺伝子の発現形態としては違ってきますが、遺伝子の発現という意味では変わらないわけです。 そしてそれは自然の過程として存在するわけです。 規定は否定である、このことは理解するということです。 決定不能は対象と規定という関係から生じます。 クレタ人の逆説はこのことを、意識せずに示しているのではないでしょうか。 対象をその否定で理解すると決定不能に成り、理解そのものが否定であるあるからです。
否定は規定であり理解 光速度不変の原理によって座標原点は規定される
否定は任意であり任意でそう理解したと規定してしまったということですね
ゼノンの「飛ぶ矢は飛ばない」って自己言及「すると」じゃなくて していないから非論理的帰結を起こし決定不能のパラドクスに陥る という話で、判断できる十分な見識で自己言及 できなければ、決定不能者になると言わしめてるんですけどね
生物分類は最終的に物理の差異という結論になります つまり否定で理解するが、最終的には差異であるということです 地動説は否定関係の実在の否定の萌芽です 地球という座標原点という否定で理解するが、座標原点は実在しない これも差異として自然はあるということの理解の萌芽です 光速度一定の原理は最終的に自然に於ける否定関係は実在せず、差異として在ることを示します 物理としては差異としてあり、否定で理解する この否定で理解することが理解困難な事象を生起しますが、対象自体にはなんら関係がありません
その生起された理解困難な事象は、自然には理由がないという一点から出発してしまったあなたが 最終的に物理学上の解釈と哲学を紐付けて昔からの疑問を納得するためだけに生じた 主産物による困難な事象でしかないんで、そもそも貴方以外対象にしていないんだよね
遺棄された諸問題 「神の方程式」観ていると、ハイゼンベルクや武谷三男さんが嘆くだろうなあという感想しかありません。 観測問題とかは理解を放棄している。 光速度一定の原理などは現在でも、その不可解さのために擬科学者をはじめ疑問が呈されている。 それに対して「正統派」科学からは、そういうものだから理解を放棄して受け容れろという理不尽な強制的態度、圧政的にしか回答、対応していない。 科学は自然を無矛盾に理解することが目的ではなかったのか。 わたしにはこの現代科学の傾向に納得できない、いや、学問で未だにもろ手を挙げて賛成できる分野がありません。 いずれにしても、せめて基本が納得できる学問を知りたいし、なかったら自分なりにそうできるように考えたい。 わたしたちの現在はまだまだですし、そこに希望もあると思いたい。 わたしの理解としては、基本として自然は無矛盾で理解可能だが、それゆえにその存在は理解不能だというのが答えです。 つまり理解できないことが理解できるのだということが答えです。
今には幅が無い 三次元は運動しない 二次元には厚みが無い 一次元は幅が無い 0次元は部分を持たない ないない尽くしの諸次元 どこから「実在」するのか なんかマジックでも使うのかな ・・・迷子の迷子の子猫さん いや、時間実在説主流の現代科学さん
カテゴリー錯誤か。 実在というものの定義が固定されていないのでは?
有限の認識から「文字を実在」させても 今の次元を意識すると目一杯な認識力の幅しか彼には無く 今、幅に意識を向けようとしても「今の幅」に知性は及ばない 次元での説明を試みても、認識次元には無論情報はない 幅も厚みも部分も運動もなにもない ないない尽くしの非実在諸次元理解 理解できないことが理解できるのだという彼の答えは 毎度おなじみの自然過程説流自己欺瞞ってだけだよ。
自己言及 他者としての自己 自己としての他者 一である自然を、自然である自己が他として理解する 物理としての自己は、他である自然の一部である 対象ー認識ー表現 理解の対象つまり、他である自然 理解する主体つまり自然としての自己 有ー非有、存在ー非存在、否定の関係 観念としての自己 主体は客体である自然の一部であることを科学革命は証明する 地球は諸天体の一部であり、否定関係ではない ヒトは諸動物の一部であり、否定関係ではない ここでは主体が客体に解消され、存在しない 次元は自然には存在せず、否定関係は解消される 静止は存在せず、運動を理解する時に、否定が必要、つまり客体ー主体の主体は客体の否定である そして科学は、主体は客体の一部であることを示す 科学は自然の自己言及であり、自己を他として認識する そして科学理論は否定で理解した自然であり、自然自体では無い ここにおいて決定不能が決定する 理解可能であるがゆえに
数学は自身では無矛盾であることは証明できない 自然との関係で無矛盾は証明できる それは自然との否定関係であるから、そのことによって自然は無矛盾であるのだが決定不能に成る つまり理解可能なのだからこそ決定不能ということになる
「数学は自身では無矛盾であることは証明できない」 なんかすごいですね。これほど何もわかっていないというのは特筆すべきかもしれません。 「不完全」と「矛盾」を混同してませんか? そもそも、「矛盾する体系」の中では「無矛盾」であるということを証明できてしまいますよw 長門曰く、「無矛盾な公理的集合論は自己そのものの無矛盾性を証明できないから」。 長門から笑われてしまいますよ。
>つまり理解可能なのだからこそ決定不能ということになる 僕には決定不能ということになると理解可能なのだwww つまり僕にはわからないことに理解を示すことが可能なのだwww
数学では、「矛盾」を「矛盾」なく「記述」可能である。 そうすると、そこに「大きさ」のようなものが生じる。 「それ」があるから「数学」が成り立っているのだと考えるなら、 「それ」こそが「数学」における「公理の公理」であり、究極奥義の...
量子世界の記述が数学になるのは究極奥義というか当たり前
観測問題って、自然の在り方を示しているだけじゃないかな ある条件では、こういう物理状態、違う条件ではああいう物理状態というだけ 自然の物理状態って、人間含めてすべてそうだし それは物理状態の差異であり、否定関係が存在するわけじゃ無い
「否定関係」というものが、いったいなんのことをいっているのかいまだにわからないw そんなことはさておいて、「数学」における「観測問題」のほうが重要だ。 (注意:「観測問題」と「観測者効果」には関係がない) 「観測問題」は、3つの条件のうちどれかを「否定」することで解決される。 この「否定」が、いわば「公理の公理」であるw 考え方を変えれば、「数学」そのものが「観測問題」によって成立しているといっても過言ではないだろう。 この(観測問題による)「接続」によって、やっと、「量子論」と「数学」を同じものにすることができる。 (あくまでも量子「論」の話。物理世界の話ではない)
ただし、「観測問題」としての3つの条件とは、渡部鉄兵によるものであり、 かならずしも標準な考えではない。 しかし、「数学」においても「観測問題」というパズルが存在するのは確定的であろう。 (その一端が不完全性定理としてあらわれている)
(A)固有値と固有状態のリンク (B)孤立系のシュレーディンガー方程式に従った波動関数の時間的発展 (C)測定により測定値が得られる事実 この3つの条件に相当するものを数学内から発見できればよい。
(A)については、基本的に線形代数学である。 線形代数学でない数学であってもメタ数学として線形代数学を使用することができる。 (B)については難しい。数学に「時間」という用語があることはあるのだが、同じではない。 しかし、「時間発展」に相当するものは「数学」にもある。「数学」に対する誤解もうみやすい。 ここはすっぱりと、(B)とは「函数」そのものである、といってしまえばよいだろうw (C)はさらに難問だ。数学における「測定」とはなにか、「測定値」とはなにか。 結局、(A)に戻されることとなり、(A),(B),(C)ともに、「同じこと」の表現が異なるだけにすぎない、 なんてことになりかねない。 そこで結論がでる。 「同じことだけ集めてもなんにもならない」。 「観測問題」とはそういうことである。
まさしく、ユヴァル・ノア・ハラリ的に、人類は数学の奴隷なのだw 「否定で理解する」ということ。 それが、人類が「自然の奴隷」だということの「証」なのである。 「自然」が崩壊しないようにつなぎとめるための「ネジ」。 それが「否定で理解」するという「人類」なのであるw 「自然」は「人類」を「ネジ」として奴隷化する。 メーテル「さ、行くわよネジ」
コンノケンイチさん、五年前に亡くなられていたんですね 現代科学迷走の象徴みたいな人でした 現代科学主流盲従の人たちには蛇蝎のごとく嫌われていましたが、コンノさんは彼らの裏返しだったのかなとも思えます と学会も業績の在る科学者から、なんだかなあという批判をされていました いずれにしても、「現代」科学はその基礎が危ういわけですから、もっと自由に議論されても良いのではなんて思います
物理としては同一ではあるが、差異として在る対象を否定で理解するわけです。 その否定で理解された対象、たとえば人間であるわたしは同一であることはない。 物理の存在形態は運動だから同一であることは無いが、物理としては同一である。 わたし自身は他に対しても、自己に対しても差異として、つまり運動変化する物理として存在しています。 差異という理解は、静止で理解されたそれです。 であって、ではない。 規定は否定である。 このことが付き纏う。
あなたがそのように理解しようと規定するから付き纏ってるだけのこと
客体である自然ー認識主体 地動説は諸天体の一部であり、静止という特別な天体は存在しない 人間は生物であり、生物もまた特別な存在は無い 光速度一定の原理は、静止、座標原点は存在しない つまり自然の存在形態は運動であり、無矛盾であるということ 同時に、対象を理解する場合には静止、座標原点という静止で理解する 運動する自然は静止という否定で理解する 運動しない何ものも無いから、自然は無限であるということ 目の前の個のものは、そう現象しているだけで、濃淡の海の淡と濃がもたらす。 境目は無い 無限は有限という否定関係で理解されるが、有限は無い 次元は無限をその否定で理解するための観念存在であり、自然には存在しない ポーは、無限だとすると重力で潰れると言うが、有限という無限の否定で自然はできてはいない 一点に飛ぶ矢は存在するから、飛ぶ矢は静止しているとゼノンは論証する 運動は静止という否定で理解するということ 存在という規定は静止、否定ということ 男は女ではないが人間、植物ではないが生物、生物、非生物と分類しがたい対象であるウィルスは物理のある状態 つまり差異を否定で理解している 他との関係で否定 他とは差異としての自然を否定で理解するということ 自身との関係も差異ではある 物理とてのわたしは、どんな場合も同一ではないがわたしという同一、静止で理解する 差異という理解もまた同一で理解するから 今在るわたしは同一としては存在しない、つまりわたしであり、わたしではない
動とは存在すると同時に存在しないことと定義される 飛ぶ矢の逆説が物語るように、静止で運動を理解するから 逆説は、規定が否定であることから生じる 自己言及! 認識主体という否定で理解する 認識主体は物理としては客体の一部 座標原点、論理もまた有らない 対象をその否定で理解している 運動ー静止 無限ー有限 一ー多 規定は否定である 自然、論理はその関係で無矛盾であることが証明される 静止、座標原点は無い→存在形態は運動 静止、座標原点は無い→論理は否定
>「矛盾する体系」 ? 数は矛盾であり、そのことは無矛盾
自然は座標原点、静止が存在しないことにより無矛盾が証明される 数は自然に存在しないことにより無矛盾が証明される 自身では無矛盾であることは証明できない 互いの否定で無矛盾であることが証明される 数は理解するために必要なだけ 無ということでは、矛盾しない 無の存在ということでは矛盾 無矛盾である自然を矛盾で理解する 否定で理解するということ 無限である自然を有限で理解する 有限自体は存在しない
わたし、という表現は、対象ー認識ー表現という関係から考察する 対象と認識主体は否定関係 わたしは対象であり、認識主体でもある わたしという物理は有限として理解された無限である自然 わたし自身も否定で規定された自然 否定自体は科学によって否定される 科学は論理として対象化された自然であり、自然自体では無い 科学もまた自然存在ではないと否定される 認識主体の否定によって
無矛盾であることは自身では証明できない 自然は認識主体の存在の否定によって無矛盾であることが証明される 客体ー主体として理解されるが、主体の自然存在は否定される 無、観念としての主体は否定されること自身により矛盾しないことを証明される 主体とは無の存在という矛盾であり、このことでは無矛盾 限りなく0に近いが0ではない、というのは無で自然という有を理解している、つまり矛盾することの苦肉の表現 飛ぶ矢は確かに存在する、だが存在はという規定は静止であり、静止は存在しない、しかし運動は存在する・・・ 対象をその否定で理解するから決定不能になる 決定不能自身は決定している わたしという規定も決定不能であり、そのこと自身は決定している 数もまたそのようなものとして在る 自然は無矛盾で理解可能だ しかし無矛盾であることを矛盾で理解するから決定不能となる そしてそのことは決定している・・・ 矛盾、決定不能は理解するからであり、理解自身は自然には存在しない 自然はなぜ理解できるのかは理解できない いろいろ端折って書いているところがあるな この辺は独立して考えたい
矛盾というのは自身では無矛盾ということ この無矛盾は自身が矛盾であることにより証明できない 自然は無矛盾だが、理解が矛盾だから、理解が自然には在らない、つまり否定により無矛盾は証明される 対象としての有ー有の否定としての有 否定関係であり、有の否定としての有は自然存在が否定される
対象ー理解 自然は自身では無矛盾であることは証明できない 理解は自然には無いから当然 理解は矛盾ということの無矛盾もまた自身では証明できない 存在しないことの存在、つまり無の存在という矛盾は、自然に存在しないことにより無矛盾なのだと そして自然は矛盾が存在しないことにより無矛盾 対象と理解の互いの否定により無矛盾は証明されるということ
とりあえずのまとめ 自然には数は存在しないから、部分は無いと定義される。 ゼノンの逆説の意味はわからないけど、とにかく数学は有効だから無関係に突き進んで、無制限に有効だと誤解する 微分積分では、限りなく0に近いが0ではないと定義して、なんじゃそりゃとバークレーに突っ込まれるが無視 これは対自然関係で理解できる、つまり有を無で理解するからこう定義するしかない 光速度一定の原理は、座標原点の否定で自然と数学が無矛盾であることを示した 自然も数学も互いの否定で無矛盾であることが証明される 数は観念の中での存在、自然との関係で言えば無の存在という矛盾 無矛盾は矛盾で理解される 数はすべて矛盾という意味では無矛盾であり、決定不能であることの決定 決定不能であることの決定もまた自身では証明できない 決定不能であることをその否定で証明しなければならないから 自然も数学も互いの否定で無矛盾であることが証明される
数学者は数自体は無矛盾だと理解している 違う、数そのものが矛盾なのだ
あらゆる科学理論は自身を天動説と理解していれば真理である 自然をそのまま模写できるわけではない 規定は否定だ 存在さえも 否定で理解された自然は自然自体ではありえない
「現代」科学の主流は未だ理論=自然だと理解している 理解自体を理解しようとしない だからビッグバン仮説のような天動説が未だに罷り通っている
理論を自然自体だと言っている「現代」科学者いたっけ?
現代だろうと古代だろうと科学者ではないけど過程説氏以外でそんなこといっているひとは知らんが。
>>707 科学理論の理解自体を問う必要性が科学にあると信じているのは彼だけだからw
わたしは科学者の観測結果の理解をあまり信じていない。 それは天動説で体験ずみだし、また歴史的には普通にある。 数学の世界でも、野矢さんは実無限、可能無限という対立について語っている。 つまり証明されたことが何を意味しているのかの数学者の理解には疑問をもっても良い。 ある投稿で「無限論の教室」などすぐ読めるじゃないかとあったが、そりゃ問題意識持たないで 読むだけならそうだけど、その理解について検討しながら読むとなると時間はかかると思った。 個人的には、何でも数にするという実無限が数学の思想だと思う。 わたしたちは学ぶばかりで問うことのあまり無い教育制度下だったからなあ。 ある学者はそのような典型として「と学会」を挙げている。 わたしたちはそこからいつ脱することができるのか。
「此処」から「此処」までは存在しない。 物理としてもまた誕生も死も無い。 わたしたちも含めて物理としてはそうなのに、なぜ宇宙に誕生と死があるのか。 理解はその否定で為される。 無限は有限で理解されるが、有限は存在しないことを実験事実は語る。 「現代」科学はそのことを理解していない。
あらゆる科学理論は天動説だと理解していれば真理と書いた。 つまり理論に対象化された科学理論は自然じたいではないのだと。 科学者は=だと考えているからこそ、有限宇宙論を信奉しているし、また最小単位を探求している。 自然はその運動変化の過程として在り、濃淡の差異を否定で理解、つまり有限で理解している。 素粒子もまた濃淡の差異により生成され、違う何かに生成される過程に在る。 最小単位など無いが、それは此処から此処までという有限が存在する、有限で理解するから有限は存在するという 理解はそのまま自然なのだということから生じる誤謬でしかない。
でんでんむしむし 科学は有限、つまり数の存在の否定により無限であり運動が存在形態、無矛盾であることが証明される。 数学もまた有限が存在しないことで自身の自然存在が否定され、その無矛盾が証明される。 自然自体で無矛盾であることは証明できないのは、自然自体には論理がないことから明白。 論理は否定であり、静止なのだから。 無限は存在しない有限の無限集合ではない。 数は矛盾、存在しないものの存在であり、有限を無限という否定で自身を証明しようとしても決定不能となり無矛盾であることは証明できない。 数には大きさが無い。 有限は無限の大きさの無い数からできているのか? 有限の中の無限、無限の中の有限 ともに否定関係だが、対象の否定と対象の関係は? 対象はその否定でできている? じつにいろいろな疑問が出てくる。 基礎がわからない現在、科学の大家、数学の大家の解説をそのまま受け容れるのはどうか。 決定不能とはヘーゲルが語るように、自身をその否定で理解するからということ。 運動を静止で理解するから決定不能に成る。
科学者の観測結果、数学者の理解があまり信じられない 謎であるという問題意識を持っているだけでしょう 問うべきお題が意識できているわけじゃない。 疑問をもっても良いというより 詰まるところ疑念レベルなのだ。 疑念にヘーゲルや矢野や飛ぶ矢やクレタ人やら 名だたる語りを都合よく掻い摘み 疑念を払拭する解釈を根拠にした自然過程説の主張を 知らしめたい欲求はわかるのだが 理論の理解自体が問われる事で解決するべき事柄が 彼の納得以外皆無なのだ。 理解された自然が自然じたいではないのだという 認識は自然観は自然自体ではないというだけで 特筆すべき認識でもない。 理解された内容が自然自体だと証明するために 科学者、数学者、学者は研究しているわけではない。 自然過程説の観点にはそもそも科学や数学、学問に 値する内容がない事しか特筆するべき事実がない。
病気や怪我があっても養生すれば永遠とて怖くない。永遠に生きる方が なまじっか死ぬより無限の退屈を感じて恐怖だろう。
「わたし」は他に対して物理状態の差異として在る わたし自身に対しても差異として在る すべてはそのように在る 差異という理解も同一と理解するから生ずる
自然に於いてエネルギー以外の何かが存在すると仮定する すると存在という規定が無効になる 存在を前提に矛盾するなにかが在れば、存在という規定は無効だから しかし、存在という規定が無効ならエネルギー以外の何かが存在するということは出きない
静止の自然存在を証明すればわたしの論は否定できる それだけの問題 実に簡単な話です
君の自然存在は人間にとってなんら問題になる事がそもそもないよね なんら問題にならない論を、否定対象にする意味も価値も他人には もちろんないでしょうw何の内容もない、実に単純な事実です
静止は運動の一種じゃないか? 濃淡の海という存在の規定はなんの否定なのか
>>723 うん、その価値を認めてくれるプロの研究者がいるんだ
あなたは認めないにしても
>>724 むろん静止は運動の一形態
濃淡の海は自然
自然は差異としてあり、差異という理解もまた否定から
疑問にはほとんど答えているんだが、読まない、ないしは理解していないので繰り返しになっている
少し消えるかな
ちなみにディドロの岩波文庫を図書館で借りてきたが、教えられる自然観だった
自分の興味のある問題がある自然観と論理理解だと納得できる形で解決できたということだけ 批判は対案提示しないとね それ以外は何を言っても無効 それだけ
とても解決できないと思っていた問題が自分なりに解決されて 一部とはいえ、学者、その卵に支持、ないしは興味をもたれたりするのだから、これ以上のことは無い
理系からはいろいろ教えられたな 理系は反発も大きいが、問題抱えているような人からは好意的に迎えられたりすることがある 先年も居たんだが、匿名だったんで 理系の方々も生活に追われるとなかなか難しいみたい わたしに散々絡んできた方は最後のほうでは中立派になり、いろいろ教えてくれた みんなどうしているかなあ
>>727 君の自然観と論理理解の仕方について有効と認めなければならない価値が
ないのだから、君がそれ以外何を言っても無効なだけなのに、批判や対案を
想定してしまう自体が無効だと気づいてくれればいい。
600万円投資しましたが 帰ってきません 警察に言うても意味無いかも
>>725 君の理解過程の存在は認めているんだけども
そのなにかのプロ研究者もおそらく
そういう意味合いで認めているだけではないの?
研究発表に君の理論過程を用いたいという要請
があったとかそういう話なら
理論自体に付加価値があるんだろうけど
単に同意してくれただけなんでしょう?
>>721 エネルギー以外の何かが自然に存在すると事実仮定したのだから存在という規定を有効にしているのですよ、前提に自己欺瞞した存在があるから、存在という規定を無効にするしかない。存在という規定を無効にするとなると
エネルギー以外の何かが存在するということはできない。と誤認するに至ったということ。
>>734 時間非在説に賛同したのは何人かいるんでね
その時の満足感は忘れられない
規定は否定という意味がわかったのはそれから十年以上経つ
あるところで、少しずつ展開しているけど、遅すぎると自分でも思う
今わたしにはあまり余裕はないからなあ
とりあえずは遺したい
親類友人には前の稿を送ってある
改稿できたらとは思うが
でも結局価値を認めてくれたプロは 君の理論過程を用いてはくれなかったんだね。
否定はなに論理の否定なのかっていうのと、 外堀から埋めるように否定していって、残ったものを正しいとするのと、 肯定する範囲をどんどん広げていって、一点にしわ寄せが及んで盲点になるという 二者があるように思える 否定が規定で理解だというのは前者であって、唯一の理解の仕方ではないような、
濃淡の海と表する自然活動は静止しない(という否定で理解)なら エネルギー伝達量により運動する(という肯定で理解)自然を 単に否定だけで規定はできないのだが 彼は自分の考えを論理的な文章構成で表現できず 語られる解釈自体の運動過程に濃淡、差異、と付け加えながら だらだら同じ語りを蒸し返すしかないんだろう。
規定は否定という意味がわかったと言っているけど 恐らくそれも自身で納得して確認したという次元で 精確に明文化できる認知(わかった)ではないだろうね。
規定は否定? 簡単にいえば新たな天動説ですね。 なにいってるかわからないのでこちらでは勝手に作業を進めていますw 「観測問題」を「測定問題」と「真・観測問題」に分解する。 「数学」が持っているのは「真・観測問題」である。 「数学」は「測定問題」を持たない。 ある意味、純粋な観測問題(だけ)を「記述」しているのが「数学」である。 「数学」は、(過程説氏のいう「否定」と関係あるのかどうはわからないが)「否定」から成り立つ。 この場合の「否定」とは「対峙」ということでよいのかもしれない。 理論、すなわちtheoryとは「掟」であり、自然と対峙するためのものである。 いかに自然と(よりよく)「対峙」するかということ、それが「理論」である。
否定は規定、というのはとどのつまり、 否定というゲームがあれば、必然的にそのルール、規定が存在するということだろう これはリンゴではない。これはリンゴではない、ということはない、からリンゴである というのは、リンゴを識別するルール、規定の存在を背後に持つ 一般化すれば、多値論理になって、否定は差異、集合間の距離に対応する 差異、同一性の違いが距離となって現れるとき、距離xは0<x≦1の大きさを持つ否定という演算子で表せるだろう、 距離ではなく、時間差であっても問題ないはず、距離、時間差は因果可能性のことである ようするに、否定というゲームは、 因果可能性の高い順に粒子は並んでいる、という規定を背後に持つ また、否定できず最後に残るのは自分自身であるが、自身は自身と因果関係を持ち得るのか、ということになる 持ちえないなら、距離は0であって、肯定である 自身と因果関係を持たないすべての粒子と因果関係を持つ粒子は矛盾する、 では自身は自身から距離が遠いのか、ということになる 自身は最も近くにあるようで、最も遠い、最も遠いようで、最も近い 自身が自身の因果可能性が0→1になるように、全体の位置と時刻が決まるのだろう
_,、-―‐- 、 //`: ヽ――- ミマヽ __/:: /: : : : : : : : : : : : :  ̄ ̄`丶、 / / ̄: : : : : : : : : `丶、: : : : :\::\丶 /: :.//: : : : : : : : : : : :ヽ\: :\:ヽヽ: :ヽ ___{: :/: : : : : ',: ヽ: : :\\\、:::::.:ヽ: ヽ\ヽ |/:::〈:Y:/: : : : :.:!、!ヽ:::\ヽ: ヽ>_¨`丶:\:ヽ',|ヽ ____ . --===〈:.|:{:.:|: :|: : :| |,.-=\:ヽ\:Yfら`ヾ \|ヽ! ! !:::::::::::::| . //::::::::ハ|ハ :!: :!: : :l'| ,ィうヽ`ヽ\| ゝ┘ {ヽ: :{ .|________|ハ //::/:,':ヽ',:|ヽ|V::! -{、マ> 、 ;/: : ':, | UCC_! | . !;' | / :i: ::::::\;|-ヽ、 '_, 八: : : ヽ. (ヽ|coff. ゝ`V . l' !':.:.:i ::::::::::|:ヽ、ゝ. < / ハ::::',:::: : :ヽ .ヽ!---(二ヽ〉 |: :;:j ::: : : l::::::::`ーへ ,イ::::::::',:',::: : : ヽ !;';';';'ゝ、_ヽ〉 i : / ::/ : :j::::/::::::::;::::l 丶 、 _ ,.イ: i::::::::: ;::':,::: : : ヽ |___{ 〉 /:/ :,:' : : // :::::;:'::::リ__ i::::/:::/:::::::: :|',:::iヽ: : : :'. ヽ / /:// : :, '::::::::::::,:':/ ̄ `丶、 ト、::,:'::::::::::::リ }::} ヽ: ',: i ', { // : :/:::::::::::/∠-==-:.、 `丶ヽ`ーァ;;/./:/ }::::}: | i / : :./:::::::::::// ̄:. :. :. :. :. :.`¨ヽ--\/:. :. :.`丶 /:::/ / ! i . / : /:::::::::::/:::/:. :. :. :. :. :. :. ヽ:. :. :.\ヽ{{ミ}\:. :.',:. iヽ'"ヽ | i . /: ,. : ':::::::::::::,::'::::: //`丶、:. :. :. :. :. \:. :. ;.\!}}\}:. :.∨}ノ ヽ ! i
>>741 > 「数学」が持っているのは「真・観測問題」である。
が前提にあるから
> 「観測問題」を「測定問題」と「真・観測問題」に分解する。
ってことになったの?
> 「数学」は「測定問題」を持たない。
> ある意味、純粋な観測問題(だけ)を「記述」しているのが「数学」である。
数学が測定問題を持たない原理がないんだけど。
> 「数学」は、(過程説氏のいう「否定」と関係あるのかどうはわからないが)「否定」から成り立つ。
> この場合の「否定」とは「対峙」ということでよいのかもしれない。
測定で成り立たせないと数学は対峙しないのではないかな
物理における観測問題は測定問題を含む。 数学は、物理からみれば測定されたものを扱う。 よって数学は測定問題を含まない。 数として写し取られたものを扱う。 この写し取られたものを「純粋に」観測する。 そこに数学の観測問題がある。 先に述べた3つの条件のどれかを否定しなければならない。 (数学においてこの条件が3つで済むのか、数学の言葉に翻訳するとどのような条件になるのか、 などなど...問題は山積みなのだが、数学における純粋な観測問題を考察中)
数として写し取られる段階で物理の 篩いにかけられるから純粋に観測できる と数学の世界だけを峻別したいのかもしれんが 数学も推量から逃れられない十分 不純な代物だから諦めたまえw
逆なんですがね。 「推量」を「測定問題」として「数学」外部に持っていったとしても、 「数学」そのものが「観測問題」と同様なものをはらんでいる。 ということ。 (そして、その「観測問題」そのものが「数学」そのものであると) これを「公理系」の問題だとすれば、それをどうするかということが「科学哲学」の主題であろうと。
ピアノの鍵盤はシとドのあいだの音のキーはない ギターはチョーキングできる、トロンボーンもあいだの音が表現できる
(A)固有値と固有状態のリンク (B)孤立系のシュレーディンガー方程式に従った波動関数の時間的発展 (C)測定により測定値が得られる事実 (C)は経験的事実である。 とすれば、(A)は理論であり、(B)は理論と経験的事実を結ぶものである。 量子力学は(A)(B)(C)のどれかを否定しないと成り立たない。整合性がとれない。 この「否定」は「解釈」であり、それが「理解」である。 「数学」は(C)を否定する。(C)は分解され、(A)と(B)に吸収され、(C)に相当する部分に「公理」が残される。 「公理」が「数学」における「パンドラ構造体」である。 これが過程説氏における「否定は規定」の正體であろう。 参考文献 「おばけの正體」 井上円了 丙午出版社 「量子という謎」 白井 他 勁草書房
A数値の固有状態のリンク B波動関数の時間的発展 C観測により測定値が決定された結果 ABCの物理的観測によって量子力学が導かれる A解釈、B数理を展開させた理解、C展開の時系列上の結果。 ABCのどれを否定しても成り立たないのが量子力学。 数学は数理で求めた公理に限り成立可能な量子力学上の観点である。
BはLindenstraussのフィールズ賞研究見てみるといいかも
過程さんは自分が語っていることに 大きな矛盾があることに気づかないのかな。 <此処から此処まで>という指示は、 自然の中に見出すことはできないのは賛同するが <すべて過程に在る>と説くのは、そのことと矛盾している。 過程とは、物事が変化していき、 ある結果に行き着くまでの道筋のことだよ。
自然過程の論理仮説だから自然に任せるしかありませんw
(A)を(理論の)圏とすれば、(C)は(経験の)圏であり、 (B)はこの2つの圏の間の自然な対応あるいは自然変換あるいは単に関手ということでよいかもしれない。 ただし、経験の圏は圏論の内部にはない。 (A)(B)(C)を過去・現在・未来としてもよいだろうw 現実的はこの3つをまとめて現在である。 現在は過去と未来をつなぐが、方向性は片方向であり、それが(B)の否定であるw 未来を過去に変換するのが現在であるならば、その逆が「因果」である。 時間が流れているとすれば現在の未来の面から過去の面へ流れる。 現在という片方向の変換を双方向に戻すことで本来の時間がみえてくる。 現在という(B)の否定を元に戻す。 ともかく、これで保存則を維持できる。分岐ではなく組み換え。
@昼とは、夜でないものである、夜とは、昼でないものである、 と定義すれば、循環定義になる Aどんぐりとは、カシの実である、カシの木とは、どんぐりの木である と定義しても、循環定義になる 循環定義を避けるならば、定義にきりはなくなるだろう @には双対性、Aには因果律がある 結局定義に先立って、双対性と因果律があるのだと思われる 否定で理解というのは、@に関係していると思われる あってるのかな
>>758 その理屈で満足ならその辺で手を打っとけばいい
ま、時間の流れは通常考えられているものの逆方向であり、 時間の流れと通常考えられているものは因果の矢印である。 これを函数とみたとき、 因果とは、現在からみて過去の原因を現在の結果に変換する。 時間とは現在を過去に変換する。 変換の向きが逆である。 ミンコフスキー空間も時間だけ符号が逆転している。 因果函数と時間函数のどちらにも「未来」は登場しないw それでは困るのだがいたしかたない。 現在は時間函数という超対称性変換によって過去となり、 過去は因果函数という超対称性変換によって現在に引き戻される。 二度、超対称性変換が行われることで現在に「時間」という並進対称性が現れる。 これがマルコポーロ時間の正體なのだろう。 「過去」は超空間にあり、「現在」を変化させる。 このエネルギーは無秩序から供給される。それゆえにエントロピーは増大する。 時間とエネルギーの間に不確定性があるのも納得できる。 とすれば、位置と運動量の不確定性も同様に考えられる。
数学は形式論で理屈が合えば正解のイデアで済ませられるから楽だよね
>>765 お、反論の準備ですか?お待ちしてます。
仕事場も哲学ごっこの遊び場もパソコンの前。
しょっちゅう見てますよん。
1: こ こ 無 職 し か い な い ね (165) 2: 時間はアリまぁ〜ス 2 [無断転載禁止]©2ch.net (766) 3: 女性を「モノ」として扱う哲学 [無断転載禁止]©2ch.net (59) 4: ルドルフ・シュタイナーと人智学24 (808) 5: 東浩紀480 (191) 6: ブロックチェーンと哲学 その1 (39) 7: 引 き 篭 も り お じ さ ん 板 (108) お昼だよ。
運動は<永さ=時間>を有する。 観測される運動は、観測者の観測する<永さ=時間>に依存する。 宇宙・地球の存続と共に世の中は在り、他者と共にすることが無数にあり、 相対的な動きをする無数のモノが並行して存在するという視点が重要なことである。 誰にとっても等しく数えられてこそ<共有しうる客観的な永さ=時間>となる。 地球の周回運動に始点終点を見出して、運動を分割して<数えつつある>わけだから、 1年、1日は<始まって(来て)続いて(とどまった)終わる(過ぎる)>の繰り返しと なるだけなのであり、生まれて(一生の始まり)死ぬまで(一生の終わり)の永さは、 一生の内の地球の周回運動によって数値化、つまり年を重ねた(加算した)数で示される。 通常人々が語るところの時間の進み、経過、流れとは これだけ(年・日・秒で示される数の進み)のことである。 セシウムの固有振動から1秒を定義(再定義はありうる)しているが 客観的な時間は<波の形=山→谷>で1サイクルというように、 <人間が数えられる形を見出して>成り立っているわけである。 <永さ=時間>は、絶対基準が見出せない限り、 絶対の正確さをもって数値化することはできない。 いっぽう、それぞれの時計で計った相対的な<永さ=時間>でしかないのに 外在的な実在する時間の流れに連動して時計が進むかのように語る言説は可笑しい。 2つの時計の時刻をぴったり合わせても、重力等の影響で時計は相対的な進み方を するだけであって、<標準時に合った進み方をするように調整すればいいだけ>である。
古来より市民と共に歴史を歩んできた文芸活動であるが、これがなぜか 局地的にデカダンなニュアンスを纏っている場合がある。 おま環とは。 サーバー管理者用語で、他の管理者には再現できないという意味だ。 概してWebサーバ管理において生じた致命的な不具合が、問題の人物が組み 上げた、特殊なカスタマイズ環境でのみ生じているというような意味。
これはヒモ男が文芸方面での不調から女を上手く丸め込めなくなって、 言い訳に困り躍起になってアク禁に奔走している様相だよキミ。
<今の、この瞬間>というのは、 思い描くだけの観念的な囲み枠でしかない。 <今>は、<すでに始まり終わらぬ>ことを示し、 <この>は、直接の経験内容としての 何かしらの情景、状態、状況を指し示めしている。 瞬間のもともとの意味は<瞬く間>であり、 <あっという間>と同じように、 感覚的に把持しうる短い時間(永さ)を意味する。 目蓋を開けた状態が持続する内に見るというだけのことで、 カメラのシャッターが開いている<永さ=時間>の内に 光を受けて、被写体を写し込むのと同じことである。 <瞬間が在る>わけでも<瞬間を写し込む>わけでもない。 瞬き(閉→開→閉)が速ければ、写し撮る被写体の動きは短い。
<瞬間>を思い出すわけではなく、 出来事や情景を<場面>として思い出すだけだ。 <瞬間>を見ているわけではなく、脳内で場面化しているのだ。 語られる瞬間瞬間は、思い描かれる<場面場面>でしかなく、 行動しながら記述しようとすれば<今玄関のドアを開ける→ 今庭に出る→今車庫に向かう>というように分節的に捉える。 分節的に捉えるだけで、分割されているものが連続して現実化するわけではない。 <今>がどんどん後退して<過去化>するわけではなく、 <すでに始まり終わらぬありさま>だったのに すでに終わったこと、経験したこと、つまり過去のこととして、 順々に移り変わる場面として思い描かれるだけのことである。
我々の気質に様々な影響を及ぼすことがあるらしいな。こわいこわい。
>>769 >運動は<永さ=時間>を有する。
今には幅が無い
幅が無いのを無限に集めたら幅になるのか
現在に未来と過去はあるのか
在るとしたら現に在る現在だけではないのか
過去は過ぎ去った
未来は未だ来たらず
はて?
過去と未来は在るのだろうか
運動は時間、永さを有するという
なにがなんだかわかりません
ナイナイ尽くしの次元から四次元、時間がどういうわけか存在するという主張が不条理そのものに映る 無いものが在るという 素人には理解しがたい論理で困るアル
光速度一定の原理の理解を放棄したように、とにかく時間の存在を前提にするのだ、というのも在りかな 現代科学の展開らしくて、なかなかナウいwかも 自然は在るから在るのだ、とは思います どこまで理解できるのか、ということでもあるのでしょう ただ次元の存在を主張するのは、科学の示す結論に背いているのでは、なんて思ってしまいますが ・・・学びの雨か
read.cgi ver 07.7.23 2024/12/25 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる
lud20250316045410caこのスレへの固定リンク: http://5chb.net/r/philo/1500084481/ ヒント: 5chスレのurlに http ://xxxx.5chb .net/xxxx のようにb を入れるだけでここでスレ保存、閲覧できます。TOPへ TOPへ
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