生きて帰れたなんてなんて美しい国なんだ
もしこれが共産主義国家ならまず間違いなく生きては帰れなかっただろうし
こんなことがあったなんてことも闇から闇だろう
生きて帰れただけマシと思えるのが恐ろしいな
こうやって何の罪もない人間にこんなことしたらますます反権力勢力が勢いづくだけなのにな
自分の首自分で締めて国が崩壊したんだから世話ないね
恐ろしいことにまた同じ道を歩んでるのが
自分は被害にあわないと確信したときにそいつの本性が出るよね
俺も1日のうち12時間ぐらいはネトウヨのこと考えてるわw
なんで公明党が共謀罪に賛成したか本当に分からないんだよね
初代会長がどうなったか知らないわけじゃないだろうに
あいつら本当にバカなんじゃないの?
チョンモウ怒りの作文集wwwwwwチョオオオオオオンwwwwww
//burke-conservatism.blog.so-net.ne.jp/2009-11-05
日本国民として、最低限知っておくべき正統の政治哲学。
保守主義の哲学シリーズV−3‐‐‐「保守主義の父」エドマンド・バーク(その3:第2章−@)
(バーク保守主義:その3−@)
第2章 バーク「偏見(=古きものへの尊敬の念)」の哲学
「理性の完成(完全)主義」の否
定・「人間の意思(知力)=神託」主義の排撃
第一節 「共観妄想」の「設計主義的合理主義」
長くても80年程度しか生きられぬ、ある世代の、ある人間の知力(意志)など、たかが知れており、数百年の歴史をかけて祖先が蓄積した叡智に比すれば、塵ほどにもならない。
しかし、その程度の「人間の知力」が“神にも匹敵する”と傲岸にも思い上がった思想が17世紀に発生した。
この思い上がりの先駆者はデカルト(※1)であり、その著書『方法序説』(1637年)こそは、近代における人間の理性万能主義の幕開けであった。
フランスでは、このデカルトの思惟が主流となり、ルソーとフランス革命を経てサン=シモンやフーリエの社会主義となって世界に伝播していった。
一方の英国においては、ホッブスが誕生したがエドワード・コークらの「コモン・ロー」法曹家たちの「法の支配」が力強く伝統となっていたこともあって、18世紀末までは、
ホッブスの封じ込めにもフランス啓蒙哲学の流入阻止にも、完全に成功していた。
英国ではデカルト/ホッブス的な思惟は19世紀に入ってベンサム/J・S・ミル/オースティンらの活躍以前まで、傍流の中の傍流であり、世間の片隅でうごめく奇説珍説にすぎなかった。
20世紀にハイエク(ノーベル経済学賞受賞・政治哲学者)は、このデカルト的思惟がマルクスらの「計画経済」の下敷きになっていたことから、それを批判すべくそれを表象する専門用語として「設計主義的合理主義」を考案した。
なお、計画経済とは、一国の経済、特にその需要と供給が官僚の知力のみで計算された方が“市場”の智恵よりもはるかに無駄がないと考える、現実を無視した宗教的妄念の一つである。
このため、ハイエクは人間の知力を無限だと過信するこのようなパラノイア的信条を「共観妄想」だと糾弾したのである。
ちなみに、1925年から1945年の日本は、「計画経済」まで行かないが「統制経済」という「共観妄想」にどっぷり浸かった時代であった。以下、少し脱線するが重要なことなので、この話をしたい。
昭和前期(1925〜45年)とは、内政・外交の主要国策が社会主義・共産主義に呪縛された時代であった。
つまり、「社会主義思想の全盛期」であったのだが、戦後になって、「社会主義思想は弾圧されて逼塞させられた」との転倒した嘘の方が定説となった。
治安維持法は、コミンテルン(ソ連共産党国際部=共産主義の対外輸出部)の命令に従った、天皇制廃止などの革命運動をする“団体”(コミンテルン日本支部=日本共産党)を取り締まったが、
社会主義思想・共産主義思想の“思想”は全面的に放置した。治安維持法は、(思想規制ではなく)団体規制/運動規制に絞る、立法上の一大欠陥を持っていた。つまり、“思想自体”は野放し状態であった。
一方、1920〜1930年代の日本は、米国とは百八十度逆の方向―― スターリン型共産国家 ――に国づくりを目指した。それを証明する、ほんの一例を以下に挙げる。
@マルクスの『資本論』を読まなかった帝国大学生はいなかった
戦前日本では、政府も軍部も学会も、殺意がほとばしる人間憎悪に生きたマルクスを、経済を破壊するその反経済学を、転倒して経済的な利益を大いに日本にもたらす“世紀の賢者”だと見做していた。
実際にも、マルクスの本はどれでもバカ売れするので、複数の出版社が競争するかのようにこぞって出版した。
なお、マルクス/エンゲルスの『共産党宣言』の出版は、堺利彦と幸徳秋水との共訳で『平民新聞』(1904年11月13日付け)が掲載したのが最初であったが、直ちに発禁となった。
だが、堺利彦はそのあとすぐ、全訳を『社会主義研究』創刊号(1906年3月)に掲載した。なぜかこれはなんらの処分もなかった。治安維持法の規制対象の筆頭であるべき『共産党宣言』は、治安維持法があるのに堂々と地下出版が相次いだ。
・・・1932年には、河西書店が公然と出版した。1932年の五・一五事件という、海軍の赤い若手将校を中心とする軍部クーデターの檄文は、『共産党宣言』・レーニンの1917年ロシア革命を彷彿させる宣言であった。
この事実は、陸軍や海軍の士官学校では、「共産党は至高の善である」との左翼革命思想が蔓延していたことを示している。1932年には、軍部もしくは霞が関官僚による「上からの共産革命」の方向を日本は選択していた。
・・・『レーニン主義の諸問題』は、丸山真男(まさお)の生涯変わらぬ座右の書だった。丸山は、自分が熱烈なスターリン崇拝主義のコミュニストであるのを隠したことはなかった。
日本人のスターリン崇拝が退潮したのは1968年の「ソ連軍チェコ侵攻」からであった。1927年から1968年までの31年間、日本ではスターリンが信奉されていた。
上記のレーニン/スターリン/ブハーリンの著作に対して、1925年の治安維持法が施行されたあとも、政府は取り締まりを全くしなかった。
官憲(内務省と司法省のエリート官僚たち)も、天皇制廃止を除けば、「ソ連=人民の理想の国」だと信仰していたからである。
・・・“日本の共産化”が国是であると、学界と新聞・雑誌界と軍部と官界が合意していた時代、それが昭和前期であり、これが歴史の事実である。
Aバカ売れした「スターリン計画経済」礼賛本
●大嘘で「ソ連計画経済」を煽ったマルクス経済学者
1929年の世界恐慌に直面して、日本では「資本主義の終焉」が経済学者のコンセンサスとなった。九十九パーセントの学者が、「統制経済か計画経済への移行がなければ日本は破綻する」と念仏のように国家・国民の不安を煽った。
「統制経済」「計画経済」のタイトル本は、世界恐慌から日本を救う“聖書”だと信仰され次々に大量に出版された。市場経済を是とする経済学のテキストは一冊もなかった。
・・・そして、1930年代に入り、その思想汚染の影響が政治社会に現実の事件として次々と発生していくのである。もちろん、大東亜戦争もこの延長線上にある。
1931年3月17日の3月事件(未遂)(※3)
�i1931年9月18日の満州事変)
1931年10月17日の10月事件(未遂)(※4)
1932年3月1日の満州国建国(※5)
1932年5月15日の五・一五事件(※6)
1936年2月26日の二・二六事件(※7)
大戦期の歴史事実を考察する時、上記の、当時の日本社会における「事実」を無視することは、対米戦争の歴史事実を歪曲する行為であり、そのような歴史書・歴史教科書の類は、すべて真実を隠蔽した虚構の「対米戦争・歴史物語」にすぎない。
共謀罪セコウされたら、この板に書き込みしてたっていうだけで連行されるんじゃねえの?
歴史に学べない愚鈍な民族なのが、世界中にあからさまになりつつあるな。
ネトウヨも一部は引っ込みがつかなくなってるんじゃねえかなあ
特に高年齢層は安倍政治での一発逆転に掛けてるフシもある
平和ボケディストピアw
造語作って俺理論とか2chだけにしとけよ
特高の白鳥が殺されて本当に良かったと思う。
北海道で正義が行われたことは誇らしい。
二代前まで遡っただけでここまで馬鹿やってんだから現代でも同様の事案が発生するだろ
大日本帝国はクーデターでできた政府だから
いつか逆襲されるという恐怖心にかられていたのだろうな。
GHQが日本人を救ったのも事実かも。
いまだに逮捕者の名誉回復処置もしてないってのがすごいと思う
加えて、終戦や9月以降も治安維持法による拘束を継続して獄死者を出し、
廃止後も行政執行法を使ってバカバカ予防拘束したもんでこっちも問題になって廃止されたり、
戦後についてみても治安維持法関係は無茶苦茶
やはり拷問のノウハウは江戸幕府や諸藩の警察機構から受け継いだのかな。
町村金吾の子供や岸の孫が大臣や総理大臣になるんだからな
この国の中枢は全く反省してないしまた繰り返すよ
歴史の授業では戦争の過程よりもこういう身近な拷問を事細かに教えることに重きを置いたほうが平和教育人権教育にはプラスになると思うんだけどなあ