長年、実子がいなかった秀吉は自分の甥っ子である豊臣秀次を養子に迎えて優遇し、
1590年に天下人となった後、関白の職と秀吉が京都に築いた豪華絢爛な居宅『聚楽第』を秀次に譲りました。
しかし、その3年後に秀吉の実子・豊臣秀頼が誕生…
やはり我が子がNo1。
秀吉は養子達そっちのけで、秀頼を溺愛するようになりました。
秀次の事を跡継ぎに決めていたとはいえ、やはり実子に自分の後を継いでもらいたい…というのが親心であります。
秀吉は秀頼が可愛いあまり、秀次の存在がちょいと疎ましくなってきてしまいました。
秀次が自分の立場を守る為に、秀頼によからぬことをするかもしれない…。といった被害妄想もあった事でしょう。
そんな状況なので自然と秀吉と秀次の関係も悪くなっていき、最終的に秀吉は秀次を悪者に仕立てあげて高野山へ追放してしまいました。
そしてその後、無実を主張する秀次に、切腹まで命じたのであります。
豊臣秀次は長い間、豊臣家の家臣として秀吉の天下取りを支えてきた人物であり、しかも血縁者であります。
一方的に切腹に追い込むだけでも酷い話ですが、さらに酷いのはこの後…
秀吉は何の罪もない秀次の一族三十数名をことごとく処刑したのです。
そのやり方もかなり冷酷なもので、三条河原にて妻子を秀次の首と対面させた後に処刑、その地に大穴を掘って秀次の首と一緒に妻子の遺体を放りこんだとか…。
あまりの悲惨な光景に、処刑の様子を見物に来ていた人々は皆後悔したそうです。
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