昭和27年3月10日に、田島長官が宮内庁幹部の間での推敲の結果を報告しました。この中で、田島長官は「主な二三の反対を強く致しましたがその第一は『事志(ことこころざし)と違ひ』といふのを削除するといふ事でありました。何か感じがよくないとの事であります」と述べ、戦争が本意ではなかったことを伝える文言を削ったことを告げました。
田島長官や宮内庁の幹部らは、昭和天皇が戦争は自らの本意ではなかったと語ることが責任逃れのように国民に受け止められるのではないかと危惧していました。
これに対し、昭和天皇は「どうして感じがよくないだらう?、私は『豈(あに)朕(ちん)が志ならんや』といふことを特ニ入れて貰つたのだし、/それをいつてどこがわるいのだらう」とか、「実際私ハそうなのだから 私ハあつた方がよいと思ふ」と不満を述べたことが記されています。
お言葉の文言をめぐるやりとりは翌日の拝謁(昭和27年3月11日)でも続き、昭和天皇が「私ハあの時東條にハツキリ英米両国と袂を分つといふ事ハ実に忍びないといつたのだから」と述べたところ、田島長官が「陛下が『豈朕が志ならんや』と仰せニなりましても、結局 詔書ニ書いてある理由で 宣戦を陛下の御名御璽(ぎょめいぎょじ)の詔書で仰せ出しになりましたこと故 表面的ニハ陛下ニよつて戦(いくさ)が宣せられたのでありますから、志でなければ戦を宣されなければよいではないかといふ理屈ニなります」と述べたと記されています。
田島長官は、結局、「事志と違い」を削除し、「勢いの赴くところ」という表現に修正しました。
https://www3.nhk.or.jp/news/special/emperor-showa/articles/diary-repentance-03.html