あんな悲惨で可哀そうな事件をネタにするなんてドン引き
沖縄の米軍基地で、
ジャップ掲示板対策やってる、
沖縄アメリカハーフの米軍兵士ども
みてるか〜w
糞な書き込みばかりしてると、
メンタルやられて、お前らも糞人間になるぞw
また純粋白人どもは、
イエローの血の入ったお前らなんて
同じ米兵でも人間扱いしてないぞ。
お前らが、死のうが狂おうがどうでもいいんだぞw
分かってるのか、お前ら
明治維新でジャップに新政府誕生
↓
ジャップ、李朝に外交文書を送る
↓
ジャップ、江戸時代まで李朝とは「対等な」外交関係だったが、
維新後、突然、ジャップ天皇を清朝皇帝と同等扱いしろ、
すなわち「朝鮮はジャップの植民地!」といいだす。
↓
当然ながら、李朝は困惑。文書の受け取りを拒否。
↓
ジャップ、いうことをきけ!と
軍艦3隻を朝鮮の釜山に派遣する。
ペリーの黒船がジャップにやったみたいに、
大砲をぶっぱなして威嚇。
↓
李朝に江華島条約といういう不平等条約を押し付ける。
これも黒船ペリーと同じ手口。
ジャップの朝鮮植民地化の開始。
1876年。維新からわずか8年後よ。
明治政府そのものが帝国主義のキチガイといわざるえない。
ジャップの朝鮮での蛮行(その一部)
840万人の青壮年を拉致誘拐し戦場や苦役に送り込む。
20万人の女性を性奴隷にする(日本軍による誘拐で)。
数百万の人々を残酷に虐殺。
なおホロコーストの犠牲者は600万人
その他
日本的な名前への改名の強制、
史跡・書物の破壊による歴史の消去、
土地の略奪、など余罪多数。
もちろん謝罪も賠償もせず。
朝鮮占領期間、日帝は帝国主義植民地支配史上かつてない
最も野蛮で反人倫的な蛮行を働き、我が人民にありとあらゆる不幸と苦痛を強いた。
朝鮮人100余万人を虐殺し、1938年以後だけも840万余人を拉致、連行した。
朝鮮の言葉と文字、さらには朝鮮人の名字までなくすために卑劣に策動し、
5千年の長い歴史を誇る民族の貴重な文化財を手当たり次第に破壊し、略奪した。
朝鮮民族抹殺を狙った大虐殺蛮行
日帝が、我が国に対する軍事的占領時代に犯した最も大きな罪は、
朝鮮人を残忍非道に虐殺したことである。
日帝は、極悪な武断統治、「文化統治」、ファッショ的テロ統治を実施して
数多くの朝鮮人を殺す永遠に許せない反人倫的犯罪を働いた。
「朝鮮人は日本の法律に服従するか、死か、そのいずれかを選ばねばならぬ」
「朝鮮人は、北海道のアイヌ族のように滅族させるに足る」というのが、
朝鮮人に対する日帝の植民地殺人支配の基本方式であった。
日帝は、これに基づいて民族自主精神、反日意識をもつ朝鮮の愛国者と人々を
大々的に弾圧、虐殺した。
日帝は、国の独立のために立ち上がった朝鮮人民の反日義兵闘争を圧殺するために、
膨大な侵略武力を投入し、「討伐」作戦を行った。
日帝が少なめに発表した資料によっても、
1906年夏から1911年まで約2800回にわたって義兵「討伐」を行い、
その過程に15万人以上の朝鮮の愛国者を虐殺した。
「討伐」地域を焦土化し、一般の住民を無差別に虐殺する
野獣じみた蛮行をためらわなかった。
義兵の根拠地と目された村落に対する焦土化作戦と
義兵参加者の親族・家族を残らず殺すための滅種滅族政策によって、
数え知れないほどの多くの罪のない朝鮮人が命を失った。
1919年の3.1人民蜂起の際には、全国的に10余万人を惨殺した。
蜂起鎮圧のために「朝鮮総督」と朝鮮占領軍司令官は、
竜山と羅南の2個師団武力と憲兵、警察を総動員し、それでも足りず、
本土から6個大隊兵力と憲兵400人をさらに動員した。
デモ参加者に銃・砲射撃を加えて市民を殺害した。
そして、各地で「朝鮮人狩り」に狂奔した。
日帝は1920年に、朝鮮占領軍、咸鏡南・北道警察、満鉄守備隊などを動員して間島
(中国吉林省延吉一帯の旧称)にいた朝鮮人に対する大虐殺を行った。
間島大「討伐」として世に知れたこの惨劇事件で日帝は、
最も過酷であくどい方法で3万余人の朝鮮人を殺し、間島全体を血の海に染めた。
このような殺人蛮行を働きながらも日帝は、
これを「討伐」作戦の「勝利」と言いはやし、羅南19師団を「表彰」する醜態を演じた。
1926年の6.10万歳運動と元山埠頭労働者ゼネスト、光州学生事件など、
我が人民の反日闘争を無慈悲に弾圧し、
労働者、農民、学生を手当たり次第に逮捕、投獄した。
世界のいかなる戦争史においても、
兵士の性欲を充足させるために
他国の女性を組織的に強制連行、誘拐、拉致して戦場に引き込み、
集団的な性奴隷生活を強要した例はない。
日本軍の「慰安婦」犯罪は、
ただ極悪な人食い人種の群れである日帝野獣のみが行いうる、
類例なき残忍かつ悪辣な罪悪であった。
20世紀初めからおよそ半世紀に渡った日帝の朝鮮植民地統治が
我が人民にもたらした不幸と苦痛は数え切れない。
その中でも、
20万名
の朝鮮女性に性奴隷生活を強要した日本軍の「慰安婦」犯罪は、
今日もその被害者をはじめとする全朝鮮人民の
沸き上がる対日憎悪心と怒りを醸し出している。
「ある日、日本軍将校8人が真っ裸になって現れ、私に同時に襲いかかった。
奴らは私に、正視できないいろいろなことをした。
耐え切れず、奴らを歯で噛みちぎった。すると奴らは私を外に引きずり出し、
水で拷問をした後、裸にして鉄棒台に逆さにぶら下げた。
そして、立案に鉄棒を嫉妬心に入れて振り回し、歯を全部折った。
それでも飽き足らず、奴らは私の唇をひっくり返し、針だらけの印で唇の中に入れ墨をし、
続けて胸部と背中、手足と腹部、さらには陰部にまで凶漢の絵を入れ墨し、
私が気を失うとずるずる引き、汚物場に沈め込んだ」
「平壌が故郷だという、“ハナコ”と呼ばれた女子が妊娠したが、
田中という者は酒をひどく飲んで入ってきて、彼女を倒して容赦なく腹を蹴り飛ばし、
次に彼女の腹から胎児を取り出して投げ飛ばした。
そして、朝鮮女性をみな集めてからそのはらわたを刃先で引き出して「慰安婦」の首にかけ、
部屋の床の血をなめろと言った。この時、多くの女子は気絶し、心臓が破裂して死んだ女子もいた。
ある日、田中という者は大きい犬一匹を引いて入ってきて、
犬に「俺もしたから、お前もやれ」とそそのかし、私に噛みつかせた。
私が気を失って倒れると、冷水を浴びせて狂ったように襲いかかり、獣欲を満たした。
さらに奴らは麻薬を吸わせた後、タバコにガソリンをつけて口や鼻、
子宮に突っ込み、火をつけて火傷させた」
日帝野獣は、ある「慰安婦」少女が必死に反抗したため、
5匹の馬に彼女の腕と脚と首をくくり、引きちぎって殺したという。
かと思えば、ある女性が自分たちの要求に応じないため、
「乞食」に「しつけ」をしてやるといい、彼女を木に逆さにぶら下げ、
無理矢理襲いかかって銃卓で殴打した後、乳房をえぐり取って残忍に虐殺したという。
日帝の野獣的気質は、日本軍「慰安婦」に対する集団虐殺蛮行にもはっきり表れている。
日帝は「慰安婦」が伝染病にかかれば、彼女らがいる「慰安所」に火を放ち、
死体を川や山中に捨て、戦闘に敗れて追われる時には
「慰安婦」を一列に並び立たせ、順に首を切り落とした。
1992年1月10日、過去の日本軍「慰安婦」犯罪と関連した一部資料が
日本防衛庁の文書庫から発見されたことによって、
この犯罪の主犯が旧日本政府と軍部であるという事実が世の中に露となった。
日本軍「慰安婦」強制連行責任者の一人であった吉田清治は、
日本軍「慰安婦」犯罪行為が当時の日本当局の指示に従ったものであることを明らかにし、
「明確に言えることは、日本軍『慰安婦』は募集したのではなく、強制的に拉致したという点である。
当時、『挺身隊』募集に自発的に応じた者は一人もなかった」と証言した。
諸般の事実が示すように、日本軍の「慰安婦」犯罪は組織的、
強制的性格を帯びた罪悪として、全面的に日本政府にその責任がある。
にもかかわらず、日本は世紀が変わった今日でも、
性奴隷の罪に対する国家的責任と被害補償を執拗に回避しようとしている。
1931年秋と1932年春に東満州「討伐」を行い、
朝鮮人殺りく蛮行を働いて数万人の命を奪った。
日帝はまた、各種の弾圧機構を設け、
悪法をつくって公表して朝鮮人民の初歩的な人権と自由の最後の痕跡まで踏みにじり、
罪のない人々に難癖を付けて逮捕、投獄し、拷問、虐殺する蛮行を働いた。
1911年から帝国主義侵略史でその類例を見ない極悪非道な悪法である
「犯罪即決令」を施行し、警察署長や憲兵分遣隊長に一定の法律的手続や
裁判もなく朝鮮人を意のままに処刑できる権限を与えた。
1912年3月には「朝鮮監獄令」を発布し、最も野蛮な監獄制度を朝鮮に定めた。
1925年に「治安維持法」、1928年に「新治安維持法」、
1936年に「思想犯保護観察令」を発布した日帝は、
1940年代に入ってからも「思想犯予防拘禁法」「国家保安法」
「朝鮮臨時保安法」など数々のファッショ殺人悪法をつくり出した。
日帝は、朝鮮民族大虐殺政策を実行するために植民地支配の直接的担当者であり、
現地執行者である「朝鮮総督」を日本でも最も悪名高いファシストを選んで派遣した。
日帝の侵略軍と憲兵、警察など弾圧機構、
そしてすべての悪法が例外なく朝鮮人を手当たり次第に
逮捕、投獄、拷問、虐殺するのに動員されたのは言うまでもない。
日帝は「治安維持法」を振り回して、
朝鮮人愛国者を手当たり次第に拘束する一大検挙旋風を起こした。
1922年の検挙件数が13万8539件であったが、
1925年にはそれが19万1203件に、1926年には26万1558件に急増した。
日帝が少なめに発表した資料によっても、
1924年から1929年までの検挙件数は87万5522件、
検挙された朝鮮人は数百万人に及んだ。
1934年には「思想犯」の容疑で6万655人、
1938年には16万5300人の朝鮮人を検挙、投獄した。
朝鮮民族に対する日帝の大虐殺蛮行は、1938年以降さらに露骨化した。
日帝はこの時期に、おおよそ840万人の朝鮮人を拉致、連行し、
そのなかで約41万7000人を戦争の弾除けに、約778万4800人を死の苦役場に、
20万人の女性を日本軍慰安婦にし、数多くの朝鮮人の命を奪った。
日帝は、「地下大本営」と秘密軍事基地の建設に動員された数万人の朝鮮人を
「秘密保持」を口実に集団虐殺したり、
細菌兵器の生体実験の対象にする極悪な殺人犯罪を働いた。
日帝によって拉致、連行された徴兵者と徴用者のうちの70余万人、
日本軍慰安婦のうちの14万3000余人が生命を失った。
朝鮮占領軍憲兵司令部が発行した図書「暴徒討伐誌」、
公安調査庁の秘密資料「在日朝鮮人の概況」、
「朝鮮総督府」警務局が発行した図書「朝鮮警察概要」などによると、
日帝は朝鮮に対する軍事的占領時に、合計100余万人の朝鮮人を虐殺した。
これは当時、我が国の人口20人当たり1人が日帝によって虐殺されたことを物語っている。
日帝は、朝鮮占領初期から朝鮮人民を徹底的に奴隷化し、
民族性を抹殺することを国家施策とし、支配機構を総動員した。
「古跡および遺物保存規則」と「朝鮮の宝物、古跡、名勝、天然記念物保存令」
などの看板を掲げ、各種の悪法と略奪機構をつくり上げた。
憲兵、警察などを動員して我が国の各地にある文化遺跡を手当たり次第に破壊、焼却し、
貴重な文化遺物を盗んでいく強盗行為をためらわずに働いた。
その結果、第24代高麗王である元宗の小陵と碑をはじめ、
高麗時代の古墳が全部、盗掘、略奪され、果ては朝鮮王宮にまで日帝の魔手が伸びた。
日本で発刊された「古跡調査報告」が、朝鮮の始祖陵である檀君陵、
そして、高麗太祖陵など高麗の歴代王陵が1910年代に至って、
日帝によってたった1基も残らずすべて盗掘されたと叙述したのは、
決して理由のないことではない。
日帝は、占領後10年間に大同江流域と竜淵一帯で、
実に1400余基に達する古墳を盗掘して遺物を収奪した。
略奪した文化遺物は、東京国立博物館に陳列された4万余点をはじめ数十万点に及ぶ。
初代「統監」であった伊藤博文ら歴代「統監」と「総督」、
権力を後ろ盾にする団体とごろつきが略奪に奔走した。
寺内(正毅)は、朝鮮の古書を実に2万3000余冊も略奪、詐取し、
朝鮮王宮の建物まで崩して山口県に「朝鮮館」を設置した。
今まで、歴史遺跡・遺物に対する外来侵略者の破壊・略奪行為に関する
少なからぬ悲話が伝えられているが、朝鮮文化遺跡・遺物を破壊、略奪した
日帝の蛮行のような白昼強盗さながらの犯罪行為はかつてなかった。
日帝は、自国よりも3000年以上も進んだ朝鮮民族の悠久な歴史をなくすために
檀君朝鮮をはじめ、古朝鮮の歴史を削除した「朝鮮史」をつくり上げた。
朝鮮歴史関連の書籍を「不穏図書」であるとして20万部以上焼き払って
ヒトラーの焚書の騒動を超越した希代の蛮行を働いた。
我が国のすべての史庫を手中におさめて世界的な文化財宝である
五台山本「李朝実録」1800余巻と奎章閣に所蔵されていた数多くの貴重な図書を
日本に運び出し、江華島史庫を白昼におので壊して古書を大量に盗んだ。
占領期間に実に5回にわたって、我々の民族古典に対する捜索作戦を行い、
数百人の「学者」を各地に送り込んで大量の古書を略奪した。
日帝は朝鮮民族をこの世から永遠になくすため朝鮮語の使用を禁止し、
日本語の使用を強要した。
「内鮮一体は、国語常用から」のスローガンを掲げて
官庁、会社、学校、工場ではもちろん、家庭と教会、風呂場でも日本語を使わせた。
日本語を「国語」と策定し、日本語を話さなければ罰金を科したり、
肉体的制裁を加えた。
果ては、日本語を話さない人には、汽車の切符も売らなかった。
朝鮮の作家に日本語で作品を執筆することを強要し、
日本語による「国民文学」雑誌まで発刊した。
日帝は、1940年からは「創氏改名」の美名のもとに朝鮮人の姓と名を強制的に奪う、
永遠に許しがたい罪を犯した。
民族の魂と精神が反映され、悠久な歴史が宿る朝鮮の地名を
日本式に変える行為もためらわずに働いた。
日帝の民族同化政策によって、朝鮮民族は1940年代前半期に至り、
民族として存在するかどうか、蹂躙された民族性を復活させるかどうか
という運命の岐路に立たされるようになった。
「創氏改名」をしなければ生きられず、「神社参拝」をしなければ生きられず、
朝鮮語のかわりに日本語を使わなければ生きられないのが、
我が民族に強いられた運命であった。
これらすべては、日帝の朝鮮に対する軍事的占領が
朝鮮人の民族性と魂をことごとく踏みにじり、徹底的に「日本化」、
植民地奴隷化して朝鮮民族自体を抹殺するために働いた
永遠に許しがたい前代未聞の犯罪であることをはっきり示している。
日帝の朝鮮民族抹殺罪で許せないのは、
我が人民を窒息させるために無慈悲な物的資源略奪行為を働いたことである。
当時、我が国は人口の80%以上が農民で、
彼らの基本の生産手段と生存手段は土地であった。
日帝は、我が国に対する植民地支配初期から土地強奪に執着し、
「韓日合併」後、より露骨化した。
「土地所有権の調査確認」の名目で「土地調査令」を宣布し、
「手続違反」「証拠不明」などの口実を設けて
100余万ヘクタールに及ぶ莫大な土地を不法に強奪した。
一方、「産米増殖計画」「供出」などの看板で3900万トンの米を略奪した。
これについて、図書「日本人の海外活動に関する歴史的調査」は、
次のように指摘している。
「2600万人の朝鮮人に最も悪い感情を抱かせたのは、米の供出と人の供出である。
…1937年に支那事変を起こした時、官民は皆、米は問題ないと言っていた。
なぜなら…この日本内地の4島と朝鮮、台湾を合わせれば最も少ない時は800万石、
多い時は1500万石を持ってきた。これを朝鮮銀行券、台湾銀行券という紙で買った。
特に、金は必要なかった。」
日本の収奪者が支払い保証のない管理貨幣である「朝鮮銀行券」で
米を買ったということは、彼ら自身が言ったように
朝鮮の米をただで奪ったことを示している。
米収奪の強盗さながらの性格は、
米「供出」制度を実施していた時期にさらに集中的にあらわれた。
当時、日本の収奪者は、朝鮮の農民から生産費の9%にもならない安値で
米を奪い取った。その管理貨幣さえも「戦時貯金」「愛国公債」の名目で取り込んだ。
朝鮮の農民が自分の家族のように大事にしていた牛を
194万3000余頭も連れて行って食肉処理してしまった。
日帝の農村略奪行為によって、朝鮮の農村は慢性的な飢餓地帯になったし、
春の端境期は「定例行事」のように訪れた。
こうして、我が国で「ポリコゲ」(端境期)という言葉が生まれ、
朝鮮の人々は飢えと病魔にさいなまれたあげく、
懐かしい故郷を捨てて生きる術を求めて異国への流浪の道に立たなければならなかった。
日帝は、1918年5月1日に「林野調査令」をつくり上げて公布し、
我が国の林野面積1600万ヘクタールのうち1300万ヘクタールを
「国有林」の名目で奪い、残りは日本人地主と親日手先の所有に回した。
1902年から1945年7月までの期間に、
7億6940万2347立方メートルに及ぶ莫大な量の木材を略奪した。
「朝鮮総督府」直属の4営林廠と26の伐採事業所、
100余の伐採作業場を通じて鴨緑江と豆満江沿岸に
うっそうとしていた200余万ヘクタールの大原始林を破壊し、
13道庁の傘下に組織された営林署と三井物産、住友財閥など
日本の大財閥と企業体を押し立てて朝鮮の津々浦々から山林資源を略奪した。
「朝鮮鉱業令」「漁業令」をはじめ、植民地略奪法をつくり上げ、
公布して我が国の豊富な地下資源と水産資源を最もあくどい方法で奪い取った。
日帝が我が国で強奪した物的資源は、額面で見れば天文学的数字である。
金、銀、銅、亜鉛、鉄鉱石など略奪した58種に及ぶ各種の鉱物の金額は、
1945年8月の我が国での各種の鉱物相場で20億円にのぼる。
1910年から1942年の間に奪い取った水産物1432万トン(養殖は除外)の金額も、
当時の額面で11億260余万円であった。
財政および金融を通じた収奪額も莫大である。
そのなかの一部の指標別額面だけでも、税金153億1152万5000円、
軍事費(1937−45年)16億1090万9896円、
事業公債(1911−44年)139億610万円、
戦時強制貯金(1938−44年)54億9616万8000円、
国債、貯蓄債券、報国債券、特別報国債券2億6023万円、
朝鮮内の金融機関の有価証券を通じた総額72億3362万1000円である。
これだけを見ても、日帝が働いた各種の資源の略奪規模が
どれほど膨大なものであったのかを推して十分に余りある。
このように想像を絶する極悪非道の限りを尽くした
糞ジャップだが、敗戦後、
中国にも北朝鮮にも韓国にも、その他東南アジア諸国にも
全く、謝罪してないし、賠償金も払っていないのだ。
屑にもほどがある。
あげくのはてに、何回謝れば気が済むんだとかほざきやがる。
死ね、百万回死ね、糞ジャップ
<l|l;`Д´>≒( 'ん`)=なんとか国民の目をそらしたいネトウヨ
反日やっておいて日本人に同情乞うな。
中国人か朝鮮人に助けてもらえ。
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中国人か朝鮮人に助けてもらえ。
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中国人か朝鮮人に助けてもらえ。
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