11 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:30:03.79
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://2chb.net/r/history/1511403742/
◆0【 要 旨 】
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。それは畿内に中国文化が急速に浸透する時期でもある。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者は倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 21 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:30:50.52
◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
31 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:31:08.05
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
41 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:31:39.17
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
51 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:32:02.52
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
61 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:32:20.20
◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
71 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:32:40.15
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
81 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:33:48.07
◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
91 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:33:57.87
◆6−2
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
101 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:34:21.89
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器UB(布留0新相〜布留T古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪W期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪X期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はUA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生X期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
111 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:34:46.18
◆7−2
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器TB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
121 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:35:08.50
◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
131 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:35:31.89
141 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:35:51.07
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
TA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内T〜U
TB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内U〜V ●纒向矢塚、矢藤治山
UA期ー 布留0古相 ー 河内庄内V ●箸墓、権現山51号
UB期ー 布留0新相〜布留1古ー 河内庄内W〜X ●西殿、桜井茶臼山、黒塚、
浦間茶臼山、西求女塚
UC期ー 布留1中相〜布留1新ー 河内庄内X〜布留T●椿井大塚山、神原神社、
メスリ、行灯山、祇園山
151 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:36:11.64
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
161 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:36:32.51
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。
171 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:36:51.93
◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
よって、倭人伝の里程にも「南」という方位にも、致命的な誤りが含まれていることに疑問の余地がない。(※)
具体的には、三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて「南至邪馬壹國」の「南」にも錯誤を認めない限り、倭地は会稽はおろか許都ほどの南としか認識出来ないことから、倭の中心地が「會稽東冶之東」と記述されることは有り得ない。
或いは、東冶の「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことも、角を矯める愚を犯すに等しい。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
※ 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里
楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里
南海郡:雒陽南七千一百里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪起点として、会稽より稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
181 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:37:12.23
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
191 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:37:32.63
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第X様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
201 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:37:52.60
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
211 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:38:25.99
◆FAQ 12−1
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
221 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:38:34.75
◆FAQ 12−2
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。
231 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:38:53.90
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
241 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:39:13.44
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
251 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:39:33.22
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
261 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:39:51.00
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
271 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:40:10.54
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
281 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:40:28.71
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 291 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:40:56.93
◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等
301 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:41:18.65
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。
311 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:42:08.81
◆FAQ 26-1
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
321 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:42:22.11
◆FAQ 26-2
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
331 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:42:58.65
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
341 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:43:06.98
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。
351 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:43:25.25
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。
361 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:43:45.45
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
371 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:44:08.21
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
381 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:44:29.43
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
391 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:44:50.80
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪W期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
401 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:45:10.69
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
411 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:45:29.17
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
421 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:45:48.42
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
431 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:46:09.24
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
441 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:46:30.90
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠紹煕本)へと敗走している。行き先が東冶の候官(福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝に明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。
451 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:46:58.11
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
461 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:47:18.09
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓X期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓X期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓U類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶T期は久住UB期に併行するが、申が同じT期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓X期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓T類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内U〜V(久住TB〜UA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓X期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
471 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:48:24.18
◆FAQ 43−1
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1BU型式→ 1BV型式→ 1BW型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BV〜W型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1BU型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BV−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BW型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
481 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:48:34.34
◆FAQ 43−2
以上から
1BU型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BV型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BW型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1BU型式新段階が楽浪木槨墓X期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓X期は下大隈式に後続する西新(T式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
491 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:48:53.42
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
501 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:49:11.31
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
511 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:49:27.31
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(XA)と既に消失したもの(XB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがT型、無いものがU型と呼称される。
この前半タイプT型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
521 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:49:44.59
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
531 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:50:02.78
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
541 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:50:20.64
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「婼羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
551 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:50:36.59
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
561 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:50:54.93
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
571 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:51:13.11
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓X期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
581 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:51:29.90
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定
591 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:52:09.69
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである.
が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
601 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:52:49.16
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
611 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:54:05.56
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
621 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:54:37.07
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絕二千里。
(精絕國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通扜彌四百六十里。
(罽賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏秅國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與罽賓、北與撲挑、西與犂靬・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與罽賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上)
631 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:56:40.55
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣がある。「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。
ここで交州〜交趾の約5,000里が現代の航路で900kmであるから(「靖尋循渚岸五千餘里」許靖伝 )往時航路の紆曲と心理的負担感及び苦難の誇張を加味した倍率として認識しつつ、この比率を上記に乗ずると、7,200里が得られる。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
641 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 06:59:43.88
◆FAQ 62−1
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏蝉県が温泉郡城峴里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
651 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 07:00:26.99
◆FAQ 62−2
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
661 ◆q8leUXpsw. 2017/11/26(日) 07:01:11.64
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】なし
67日本@名無史さん2017/11/26(日) 10:12:32.06
埋め
68日本@名無史さん2017/11/26(日) 10:42:59.69
もう荒らしが来てるのか
69日本@名無史さん2017/11/26(日) 10:44:54.01
本スレはここ
上げとこう
70日本@名無史さん2017/11/26(日) 10:50:47.84
本州が島だと知らない、というのは流石にトンデモ
わかりやすい
71日本@名無史さん2017/11/26(日) 10:52:43.43
キナイセツではあの偽書を採用するつもりか。
72日本@名無史さん2017/11/26(日) 11:03:10.91
>>71
また東遷厨が意味不明なイチャモン付けを始めた 73日本@名無史さん2017/11/26(日) 11:07:10.38
日本書紀・斉明天皇・伊吉博徳の書に、
「(蝦夷には)、三種あり。遠いところのものを都加留(つがる)と名付け、次のものを、あら蝦夷と名付け、
一番近いものを熟蝦夷(にきえみし)と名付けている。今ここにいるのは熟蝦夷だ。毎年日本の
朝廷に朝貢してくる。」
とあるから、北海道ではなく東北だね。
74日本@名無史さん2017/11/26(日) 11:14:09.72
どっちにせよ、上古の日本人が
自分たちの地を島と考えていたことに
変わりはない
75日本@名無史さん2017/11/26(日) 11:26:46.00
76日本@名無史さん2017/11/26(日) 11:32:32.16
>>174
それは現代人も変わらんだろう。
古代人との違いは時速160km以上の猛スピードで地上が動いてる(地動説)事の認識くらいでw 77日本@名無史さん2017/11/26(日) 11:38:16.65
>>75
意味不明
なんで蝦夷と国境を接していると
島である根拠が無くなるの? 78日本@名無史さん2017/11/26(日) 11:47:56.51
>>75
国境は中央集権化を始めた大化以降
縄文時代晩期の橿原遺跡は日本固有のハプログループDの縄文文化の西端で
東北地方系統の土器が多量に出る他関東、東海地方、瀬戸内、山陰、九州地方の相互影響も
確認されてるから人の移動や情報交換などは古くから広範囲に行われていた 79日本@名無史さん2017/11/26(日) 12:06:24.56
もともと畿内文化のルーツは渡来と在来の融合にある
80日本@名無史さん2017/11/26(日) 12:57:11.53
畿内文化のルーツは騎馬民族
81日本@名無史さん2017/11/26(日) 13:05:21.49
騎馬民族は長弓は使わない
82日本@名無史さん2017/11/26(日) 13:37:48.37
梅
83日本@名無史さん2017/11/26(日) 13:48:40.43
兜も蒙古鉢型じゃない
騎馬民族説は空欄だ
84日本@名無史さん2017/11/26(日) 13:51:26.50
騎馬民族の文化を取り入れたのは、高句麗と対戦するためだね
幕末の洋式軍隊みたいなもん
85日本@名無史さん2017/11/26(日) 14:09:03.60
邪馬台国は農耕文化だろ
86日本@名無史さん2017/11/26(日) 14:12:38.10
クズスレ
87日本@名無史さん2017/11/26(日) 14:37:07.28
88日本@名無史さん2017/11/26(日) 14:37:32.41
文化だけじゃなく騎馬民族がいっぱいきたんだよ
前にキルギス共和国の話をしただろ
89日本@名無史さん2017/11/26(日) 14:38:47.11
90日本@名無史さん2017/11/26(日) 14:41:05.02
蒙古班は騎馬民族のDNAなんですね
91日本@名無史さん2017/11/26(日) 14:46:20.66
92日本@名無史さん2017/11/26(日) 14:52:29.76
モンゴロイド全般でしょ
騎馬民族説と結び付けるのは無理
93日本@名無史さん2017/11/26(日) 14:56:49.40
邪馬台国に関係がない
94日本@名無史さん2017/11/26(日) 15:02:28.79
弥生の段階でもう入って来ちゃってる民族的形質だね
95日本@名無史さん2017/11/26(日) 15:20:24.81
クズスレ
96日本@名無史さん2017/11/26(日) 15:21:03.59
騎馬民族説はこんなに引っ張る話じゃないだろう。
単に、不勉強な九州説の人が、畿内文化は外来ダーと的外れなイチャモンを付けたかっただけさ、
97日本@名無史さん2017/11/26(日) 15:25:39.88
騎馬民族説には反対だけど、それだって文献史学無視の歴史学会の風潮がもたらした弊害だろう。
具体的にどの氏族がどの民族が渡来したものなのか確認しながら論じていたら、そんな仮説はあっという間に棄却されるはず。
98日本@名無史さん2017/11/26(日) 15:30:53.89
>>97
実際、騎馬民族説はあっという間に棄却されたろ? 99日本@名無史さん2017/11/26(日) 15:50:46.60
騎馬文化が入ってきたのは 4世紀の3韓征伐の頃らしいぞ
100日本@名無史さん2017/11/26(日) 16:03:04.58
畿内説的には国史上では卑弥呼は神功皇后
101日本@名無史さん2017/11/26(日) 16:03:18.86
>>97
騎馬民族説は、むしろ、安直な文献史学の援用とマスコミ露出が、歴史学会の詳細な考証を押し切って、わかりやすさで悪しき風潮として広まった、弊害そのものだろう。 102日本@名無史さん2017/11/26(日) 16:03:58.10
>>80
同意。騎馬民族に征服されて出来たのが畿内部落 103日本@名無史さん2017/11/26(日) 16:04:12.89
104日本@名無史さん2017/11/26(日) 16:05:45.18
>>1から>>66までテンプレ書いて畿内に邪馬台国が無かったことを主張するスレ主 105日本@名無史さん2017/11/26(日) 16:06:40.09
106日本@名無史さん2017/11/26(日) 16:07:01.41
金印の出てこない畿内説
107日本@名無史さん2017/11/26(日) 16:07:52.93
108日本@名無史さん2017/11/26(日) 16:08:01.78
>>104
そのイミフな妄想は
どこから湧いてくるの? 109日本@名無史さん2017/11/26(日) 16:09:15.14
110日本@名無史さん2017/11/26(日) 16:10:01.37
金属製の武具もない畿内
111日本@名無史さん2017/11/26(日) 16:13:55.38
>>1 乙(根底が崩れた長いテンプレ恥ずかしげもなくよーコピペした(素直に感心 112日本@名無史さん2017/11/26(日) 16:14:16.64
113日本@名無史さん2017/11/26(日) 16:16:43.12
114日本@名無史さん2017/11/26(日) 16:22:07.65
実際は騎兵は鎌倉武士から
日本刀の起源は蝦夷の蕨手刀を改良した毛抜形刀
115日本@名無史さん2017/11/26(日) 16:24:33.92
すみずみまでロムする前にお尋ねしますが新しい切り口ありましたかのー
(24日の夕方分までは読んだがそれ以降で(それともループ&罵り合戦?
116日本@名無史さん2017/11/26(日) 16:28:06.94
まーえーわ
ここはときたまではあるが面白いレスもみかけるよってざっと目をとーすわ^^
気にせずご歓談くだせー(
117日本@名無史さん2017/11/26(日) 16:32:41.18
アンチの発言には具体的内容が無い
見事なくらいに、無い
118日本@名無史さん2017/11/26(日) 16:35:18.51
119日本@名無史さん2017/11/26(日) 16:39:39.44
騎馬民族が来ても
湿地と山林ばかりで
役にたたないな
120日本@名無史さん2017/11/26(日) 16:45:59.57
つまらんかったわ(つぶやきせんせーの電波は相変わらずえーかんじじゃが
121日本@名無史さん2017/11/26(日) 17:02:22.93
122日本@名無史さん2017/11/26(日) 17:06:07.03
123日本@名無史さん2017/11/26(日) 17:06:36.51
124subo2017/11/26(日) 17:07:04.09
つぶやきとザラコクの絡みは最高やな
125日本@名無史さん2017/11/26(日) 17:37:41.77
126日本@名無史さん2017/11/26(日) 17:44:13.09
>>838
>北部九州はいつの時代も大陸への窓口なんだから
中国産の文物が出るのは当たり前 出ない方が異常
畿内説側が挙げている纒向と中国との交流の証拠に、何も反論せずに黙ったまま
証拠がないないないと言い張っても 子供の駄々だね<
幾ら誤魔化しても、
大和は、倭国の筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の附庸国の旧小国、であった、
という事は曲げられないのであり、
大陸の文物がある、っていうんなら、それは、
前方後円墳のように、
大陸から一旦筑紫倭國に齎されそれから大和に運ばれたり伝搬したとか?、
「槨」や「画文帯」や「古韓尺」などのように、
扶余などや楽浪流民が大和に直達的に渡来して来たとか、
を考えなければならない事になる。 127日本@名無史さん2017/11/26(日) 17:53:17.31
阿毎氏万世一系の皇国史観だな
一元史観
128日本@名無史さん2017/11/26(日) 18:01:00.90
302の>>839
>>九州北部には畿内を含めて全国の土器が大量に集積していた。<
>畿内の土器を模倣生産して在地の土器が消失してる状況
糸島はその動きから遅れている <
これダメね。
庄内に関しては、
三雲が那珂八幡よりも古いんだから、三雲が列島での発生になり、
その後で那珂八幡で庄内が造られ、その庄内が(米田説に拠って)播磨や河内に伝えられて播磨や河内で生産が始まり、
それが筑紫へ逆輸出した、という事になる筈であり、
大和は、筑紫の土器がないだけなく、筑紫への搬入も殆どなかった、
という事であった筈。
また、布留に関しても、米田によって、南加賀の発生説があるが、
筑紫と南加賀の先後問題は、、まだ不明であった筈。 129日本@名無史さん2017/11/26(日) 18:02:19.72
130日本@名無史さん2017/11/26(日) 18:05:14.77
>>128
>三雲が那珂八幡よりも古いんだから、三雲が列島での発生になり、
那珂八幡より古いというだけで、三雲が列島での発生
なんて話になるわけ
な し
まったく支離滅裂だ 131日本@名無史さん2017/11/26(日) 18:11:47.03
302の>>840
>(箸墓の前の初期の前方後円墳群)被葬者を誰か見做さんと、いかんの? <
九州説側にとっては、初期前方後円墳群が大和の誰の墓なのか?という事は、
記紀でも探して「ご自由に比定してください」というだけであるが、
大和説側の「箸墓=卑弥呼の墓」説であれば、「倭國乱」の時期になるので、
誰の墓になるのか?、の問題が発生する。 132日本@名無史さん2017/11/26(日) 18:20:39.71
>>131
何を言っているのか意味がわからない
どんな問題が発生するのか? 133日本@名無史さん2017/11/26(日) 18:21:28.45
差別主義者の畿内説
万世一系を信じる権威者で天皇制にすがるクズ
エスノセントリズムの日本主義者でネトウヨの同類
134日本@名無史さん2017/11/26(日) 18:29:01.60
>>133
日本の天皇が嫌いということだけはわかる
エスノセントリズムが弥生朝鮮系遺物を根拠にする筑紫説 135日本@名無史さん2017/11/26(日) 18:33:24.35
畿内説の問題点は倭人伝を全く無視して
畿内に邪馬台国が在ったことを前提にして理論を組み立てていること
前方後円墳や三角縁神獣鏡の邪馬台国との関わりが証明されていないのに
これらのものを証拠としている。
136日本@名無史さん2017/11/26(日) 18:33:39.56
>>133
畿内説が、そんなものである
という証拠は?
ないなら、ただの中傷だ 137subo2017/11/26(日) 18:41:43.43
エスノセントリズムとか凄い言葉知ってるんだな
ネトウヨは教育の失敗作だから日本の恥ではあるが(畿内厨もか
138日本@名無史さん2017/11/26(日) 18:43:19.37
>>135
>畿内説の問題点は倭人伝を全く無視して
全く無視している、という証拠は? 139日本@名無史さん2017/11/26(日) 18:44:53.03
140日本@名無史さん2017/11/26(日) 18:45:09.35
141日本@名無史さん2017/11/26(日) 18:47:51.94
>>135
問題点が無いほうの九州説を該当スレで論証したらいい
時間の無駄だろ 142日本@名無史さん2017/11/26(日) 18:53:58.38
>>139
それは、どういう意味?
きちんとした日本語を話してもらえませんか? 143日本@名無史さん2017/11/26(日) 18:55:36.92
>>140
でも、証拠は挙げないと?
なんで九州説は、証拠を出すことを
そんなに嫌がるのですか? 144日本@名無史さん2017/11/26(日) 18:56:49.75
>>141
九州に問題がない、という証拠は?
そろそろ笑って、いいですか? 145日本@名無史さん2017/11/26(日) 18:57:28.30
畿内から何か出る度に「邪馬台国は畿内!」って言って来る。
中国の正史をもっと読めよ!
出土品をよく見ろよ!
畿内は関係ないだろうに。
マジでウザイわ。
146日本@名無史さん2017/11/26(日) 19:01:03.14
畿内は誰かの心の中に存在してます
147日本@名無史さん2017/11/26(日) 19:03:52.12
畿内説が気になって気になって何も手につかないんだな
148日本@名無史さん2017/11/26(日) 19:05:27.63
302の>>876
大和説さん、
「南→東」などのような、史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの思いつきだけで、
その場その場の回答をしてると、
今みたいなみっともないハメに必ずなるんだよ。 149日本@名無史さん2017/11/26(日) 19:08:38.02
302の>>882
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの指摘に、
反論せずに問題なし宣言する大和説。
思考停止しましたか?。 150日本@名無史さん2017/11/26(日) 19:14:37.30
九州説のひとは、感情的に怒鳴っているだけ
のようですね
冷静に意見交換する意思は無いのでしょうか?
151日本@名無史さん2017/11/26(日) 19:16:38.63
倭国以外の東夷で矛を武器にする国
夫餘伝 「以弓矢刀矛為兵」
濊伝 「作矛長三丈或數人共持之能歩戦」
東沃沮伝 「更持矛歩戦」
『呉子』
「短者は矛戟を持ち、長者は弓弩を持ち、強者は金鼓を持ち、弱者は厮養に給し、智者は謀主となす。」
矛はおチビちゃんに持たせるのがいいと言う
152日本@名無史さん2017/11/26(日) 19:20:31.13
302の>>901
「南→東」などのような史料事実を否定曲解の嘘吐きダマシで、
世間に鼻で笑われるトンデモ説を出しても平気なのが、
大和説w。 153日本@名無史さん2017/11/26(日) 19:23:41.45
302の>>903
ほら、このように、
「南→東」などの嘘吐きダマシなどの、
理由の言えない大和説は、滅びる以外にない 。 154日本@名無史さん2017/11/26(日) 19:26:22.70
302の>>907
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの大和説が、
言い張り連呼の思考停止モードに入りました。 155日本@名無史さん2017/11/26(日) 19:29:07.72
302の>>913
ほら、また、「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説は、
口先言葉尻での誹謗で、逃げた 。 156日本@名無史さん2017/11/26(日) 19:34:28.15
302の>>919
大和説者のテンプレの価値は、何より、
こういう「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシをしている、
という事を、自分から世間の人々に白状してしまって、手間が省けて、
馬鹿な質問に一々対応せんでイイことだな。 157日本@名無史さん2017/11/26(日) 19:42:15.47
302の>>925
>信者と呼ばれる理由がないな <
理由を聞かれたら「テンプレに書いてある」と言って逃げるんだから、
そりゃ信者だな。
>八割がた畿内論者の共通見解が書いてあるんだから
細かいとこに異同があっても利用しない手はない それだけ <
テンプレは、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの指摘に、
返事をしないで逃げたんだから、
テンプレも八割がた大和説論者も、嘘吐きダマシの詐欺師だ、という事だな。
それだけ。 158日本@名無史さん2017/11/26(日) 19:49:24.55
302の>>942
このスレは、
倭人伝に「大和とか畿内とか書いてある」とか、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシとかを言い張って、
証拠を出し渋るような、
恥知らずのキョクウの国粋皇国史観殺人戦争狂の・・・・詐欺師の大和説者が、
やってきて居座るスレだよ。
困ったもんだ 。 159日本@名無史さん2017/11/26(日) 19:56:23.20
302の>>943
「テンプレに書かれている」と叫ぶだけでは証拠なし。
「畿内説こそ、自説の中身を説明できない」を否定する根拠として、
南→東などの嘘吐きダマシの指摘に返事をしないテンプレを使って、
「テンプレにある」と言っただけでは、根拠説明にならない。
大和説の阿呆が簡単に論破された。
簡単な議論だ 。 160日本@名無史さん2017/11/26(日) 19:58:40.94
302の>>946
そして「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの大和説者は、
また逃げる。 161日本@名無史さん2017/11/26(日) 20:01:09.12
302の>>951
ほら、また質問返しで逃げる、「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説者。
恥と倭人伝を知りません 。 162日本@名無史さん2017/11/26(日) 20:08:18.91
302の>>952
他の誰が 「テンプレに出て来ているという根拠」 を挙げようが、あげまいが、
テンプレは、
「南→東」などの嘘吐きダマシの指摘に反論出来ずに逃げたんだから、
「魏志倭人伝に大和の話が出てこない」に対する大和説の反論の根拠にはならない。 163日本@名無史さん2017/11/26(日) 20:22:22.55
400年 倭が、新羅城のうちに満ちる。【広開土王碑】
164日本@名無史さん2017/11/26(日) 20:42:59.16
302の>>979
>>>倭人在帯方東南大海之中依山島為國邑 本州が津軽海峡までの島だとわかったのっていつ頃なんだろ <
>>中国が津軽海峡を知ったのは、おそらく、唐会要に書かれた、
「蝦夷國 蝦夷海島中小國也。 其使至鬚長四尺。
尤善弓箭、插於首、令人戴瓢而立、數十歩射之無不中者。
顯慶四年十月隨倭國使至入朝」 の時。<
>通典のパクリ<
通典の倭伝は、
大和日本国使節の「倭国=日本国」という嘘ダマシの主張を承認した「則天の決定」を踏襲した、
半分✖書であるから、採用証拠には使い難いもの。
そして、問題になるのは、唐会要では、
蝦夷國の「使」として蝦夷國の正式使節であるとされ、
また「顯慶四年十月隨倭國使至入朝」の「倭國使」と書かれているから、
(大和日本国使説ではなく)、筑紫の倭國の使節と同行して来た事になり、
しかし、「日本国の書紀」の孝徳紀にも同じような記載があるが、
孝徳紀では「蝦夷國使」という正式使節ではなく、
「見世物のような扱い」の記載でもある事。
だから、「倭=日本の通典」の紹介をすれば、「倭=日本」という嘘を紹介してしまう事と、
蝦夷使節と主体的に同行したのは、筑紫倭國であった、という事が隠蔽されてしまうから、
通典を紹介しなかった。 165日本@名無史さん2017/11/26(日) 20:55:34.82
>>164
自分らに都合の悪いことことが書いてある史料を
わけもなくみだりにウソ扱いするなんて
歴史研究する者にあるまじき
暴挙ですなあ 166日本@名無史さん2017/11/26(日) 20:57:43.23
302の>>980
>659年に倭と蝦夷(北海道)と一緒に遣唐使を出してるということは、
その頃には倭はほぼ全国支配してたということだね 九州王朝はなかったと<
ならんよ。
まず、「蝦夷(北海道)」はダメだよ。
孝徳紀では、蝦夷の三種類の部族を同行している記載だから。
また、唐会要は、「倭国伝」と「日本国」伝をはっきり分けて、
違うものだ、という記載であり、
その上で「蝦夷國使節は倭國使節と同行して来た」という記載であるから、
その「倭國使」は、筑紫の倭國(=九州王朝)の使節であった、
という事になるんだよ。
そうすると、書紀の「孝徳」も、九州倭國王であった可能性も出て来るし、
書紀が九州倭國王の治績を盗用した可能性も出て来るし、
大和日本国の使節も、筑紫倭國の使節に同行していた、
という可能性まで出て来るんだよ。 167日本@名無史さん2017/11/26(日) 20:57:45.40
168日本@名無史さん2017/11/26(日) 20:59:30.45
>>162
でも
テンプレは、「南→東」などの嘘吐きダマシの指摘に反論出来ずに逃げた
というのがウソなら
あなたが言うことは話にならないよね 169日本@名無史さん2017/11/26(日) 21:03:23.64
302の>>989
むしろ九州倭国が本州島全体を支配してないことが明らかになり、
旧唐書と新唐書の記述も正しい事が明らかになった。
だから、大和説は間違いなんだよね。 170日本@名無史さん2017/11/26(日) 21:10:34.45
171日本@名無史さん2017/11/26(日) 21:12:08.11
172日本@名無史さん2017/11/26(日) 21:18:31.68
>>166
>また、唐会要は、「倭国伝」と「日本国」伝をはっきり分けて、
>違うものだ、という記載であり、
唐会う要 173日本@名無史さん2017/11/26(日) 21:23:29.37
405年 百済の王が死んだとき、倭国は王子を百済に帰して王位に即けた。(『日本書紀』、『三国史記』)
174日本@名無史さん2017/11/26(日) 21:24:33.70
>>1から>>66まで読んだけど、説得力はゼロだね。
「ヤマタイコクゴッコ」って感じ。 175日本@名無史さん2017/11/26(日) 21:27:21.29
302の>>991
>そもそも倭国の東の境界は曖昧なんだよな。<
倭国の東の境界は、倭王武の頃で「東征55国」の範囲であり、
常陸まで倭武天皇の支配域になっていた事と、
梁書になって、出雲の文身國や越の大漢國や女國や侏儒國を書き分け、
継体の反乱後の大和も扶桑國として独立国的に書いている事と、
大和日本国が倭國を併合吸収継承した後の日本国は、
「其國界東酉南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山爲限、山外即毛人之國」
とされているから、
倭國の最大支配域は、九州と、瀬戸内〜近畿〜東海〜関東南岸〜常陸、という事になる。
中部山岳以東以北は、毛人蝦夷。
>稲作していたところまでは影響力を持っていたと考えていいのだろうか。
登呂遺跡は太平洋側では最大級の稲作遺跡だっけ?<
亀ヶ岡などの青森の米作地は、毛人蝦夷地であった。
また、神武東征に負けて追われた安日彦長脛彦兄弟は、
稲を携えて津軽に逃れて稲作を伝えた、という伝承が東日流外三郡誌にあるらしい。 176日本@名無史さん2017/11/26(日) 21:31:48.05
302の>>1000
>弥生終末から古墳初期の社会変動をしっかり説明してるテンプレは役に立つ<
「南→東」などの嘘吐きダマシの指摘から逃げたテンプレは、詐欺師である事になるから、
テンプレは信用出来ず、役に立たない。 177日本@名無史さん2017/11/26(日) 21:37:29.27
追記。
302の>>1000まで見たが、
「循海岸水行」や「歴韓國乍南乍東」などの議論をした相手からの、
反論返信があるのではないか?と思って見て来たが、なかった。
という事は、その議論相手は、議論に負けて逃げたらしい。 178日本@名無史さん2017/11/26(日) 21:46:18.05
179日本@名無史さん2017/11/26(日) 22:00:30.18
もうトンデモ爺死んだからな
180日本@名無史さん2017/11/26(日) 22:09:51.10
>>127
>阿毎氏万世一系の皇国史観だな 一元史観<
天孫族の阿毎氏と、呉王夫差の後裔の姫氏の分家は、
委奴の地で合同したようだったが、
姫氏の一部が分かれて「大野」に移って、そこから出た卑弥呼が「共立女王」になり、
また、阿毎氏系の壹與が共立されて糸島に都し、
楽浪滅亡後の317年頃にまた姫氏に王位が移って、久留米付近の「こうやの宮」に遷宮し、
「東海姫氏國」として、倭王武の次の倭国王哲まで続き、
また阿毎氏系の磐井に変わって、その磐井が同じ大和の阿毎氏系のオホドに倒されたが、
阿毎氏系の葛子は、大和の阿毎氏を倭國の王家に参画する事で妥協して阿毎氏王朝を再建し、
タリシホコやサチヤマに繋がって行った。
つまり、一元史観になっていない。 181日本@名無史さん2017/11/26(日) 22:22:14.14
卑弥呼より前の神武天皇から、ずーっと歴代大王の御陵って奈良盆地にあるよね。
楽浪郡使から常に情報が入っている魏使がその奈良盆地にある大王国の事を
知らない訳がないじゃないの。
邪馬台国が九州なら、魏使はその奈良盆地にある大王国について別個に何らかの
報告をするはずだよね。
魏志倭人伝にはその奈良盆地にある大王国について一切書かれてないじゃないの。
そこから考えても、邪馬台国は奈良盆地、そのまんま大和国の事ですよ。
182日本@名無史さん2017/11/26(日) 22:22:57.56
392年 百済は王を殺して倭王の遣使に謝罪し、遣使が立てた阿花王を即位させた。(『日本書紀』)
183日本@名無史さん2017/11/26(日) 22:23:01.84
184日本@名無史さん2017/11/26(日) 22:34:29.84
>>181
>卑弥呼より前の神武天皇から、ずーっと歴代大王の御陵って奈良盆地にあるよね。
頭おかしい? 185日本@名無史さん2017/11/26(日) 22:35:25.85
魏志倭人伝にはその奈良盆地にある王国について一切書かれてないじゃないの。
そこから考えても、邪馬台国は九州の事ですよ。
186日本@名無史さん2017/11/26(日) 22:37:47.06
九州のは偽姫氏の邪馬壱国らしいよ
187日本@名無史さん2017/11/26(日) 22:50:44.34
188日本@名無史さん2017/11/26(日) 23:01:32.30
>>177
返信がなかった理由、それはね
もうお前が論破されてるからさ 189日本@名無史さん2017/11/26(日) 23:02:10.36
>>130
>>三雲が那珂八幡よりも古いんだから、三雲が列島での発生になり、<
>那珂八幡より古いというだけで、三雲が列島での発生 なんて話になるわけ なし
まったく支離滅裂だ <
根本的には、
三雲だけではなく、
卑弥呼の墓の(248年頃の)祇園山からも(布留ではなく)庄内が出ており、
前方後円墳や伽耶の陶質土器の那珂八幡の庄内は、その後であり、
また、河内の加美で庄内と伽耶の陶質土器が共存しているんだから、
河内や大和の庄内は、3世紀末になってしまって、三雲や祇園山の庄内よりも50年位後になる、という事だ。 190日本@名無史さん2017/11/26(日) 23:02:45.68
狗奴国についての報告はあるのに、奈良盆地の大王国についての報告がない。
おかしすぎるでしょ。
そこから考えても、邪馬台国は奈良盆地、そのまんま大和国の事ですよ。
191日本@名無史さん2017/11/26(日) 23:06:13.38
ヤマトは後漢書の「拘邪国」じゃないのかな
192日本@名無史さん2017/11/26(日) 23:07:40.76
>>143
でも、証拠は挙げないと?。
なんで大和説は、「南→東」などの証拠を出すことを、
そんなに嫌がるのですか? 。 193日本@名無史さん2017/11/26(日) 23:09:10.34
194日本@名無史さん2017/11/26(日) 23:10:38.47
>>144
九州に問題がある、という証拠は?。
ついでに、大和に問題がない、という証拠は?。
そろそろ笑って、いいですか?。 195日本@名無史さん2017/11/26(日) 23:11:14.65
>>189
>卑弥呼の墓の(248年頃の)祇園山からも(布留ではなく)庄内が出ており、
出てるって証拠は?
またデマだよね 196日本@名無史さん2017/11/26(日) 23:12:40.07
>>189
>前方後円墳や伽耶の陶質土器の那珂八幡の庄内は、その後であり、
そんなものが出てるって証拠は?
デマだよね 197日本@名無史さん2017/11/26(日) 23:13:20.44
>>189
>また、河内の加美で庄内と伽耶の陶質土器が共存しているんだから、
そんなものが出てるって証拠は?
デマだよね 198日本@名無史さん2017/11/26(日) 23:13:38.02
>>150
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説のひとは、感情的に怒鳴っているだけ
のようですね。
冷静に意見交換する意思は無いのでしょうか? 。 199日本@名無史さん2017/11/26(日) 23:35:49.01
>>181
>卑弥呼より前の神武天皇から、ずーっと歴代大王の御陵って奈良盆地にあるよね。<
大和は、倭国の別種の附庸國の「大倭」職の旧小国であったんだから、
「歴代大王の御陵」なんて、嘘騙しだねえ。
>楽浪郡使から常に情報が入っている魏使がその奈良盆地にある大王国の事を
知らない訳がないじゃないの。<
倭国の別種の、田舎の市を監督する大倭職の旧小国の王など、
楽浪郡使も魏氏らも、関心もないだろうし、倭人も言いもしなかっただろうねえ。
>邪馬台国が九州なら、<
「邪馬台国」なんて、存在しないよ。
>魏使はその奈良盆地にある大王国について別個に何らかの 報告をするはずだよね。<
奈良盆地に大王國なんてないよ。
>魏志倭人伝にはその奈良盆地にある大王国について一切書かれてないじゃないの。<
大王国ではないし、田舎の市の旧小国の事など、記載する必要もない。
>そこから考えても、邪馬台国は奈良盆地、そのまんま大和国の事ですよ。<
「南≠東」だから×。 200日本@名無史さん2017/11/26(日) 23:36:44.86
391年 倭が海を渡り、百残(百済)、□□新羅を破り、これを臣民とする【広開土王碑】
201日本@名無史さん2017/11/26(日) 23:43:19.40
テレビ東京の番組で箸墓古墳の池の水を全部抜くそうです。楽しみです。
202日本@名無史さん2017/11/26(日) 23:47:18.79
北部九州の庄内式土器は模倣だから
筑後産の庄内は器壁がやや厚いんだよな
柳田が古いと言ってる三雲の庄内は
福岡平野産でも南部のものじゃないかな
203日本@名無史さん2017/11/27(月) 00:54:26.87
>>199
>「南≠東」だから×。
結局、彼に限らず
九州説は最後はにコレしか無いんだよね
『史料批判の放棄』
これって、歴史学的には死亡だから
九州説の諸君、戯画化された自分の恥ずかしい姿をよく見ておくといい 204日本@名無史さん2017/11/27(月) 00:59:36.70
205日本@名無史さん2017/11/27(月) 01:25:24.04
ほー、誰かが箸墓のお堀には被葬者の名前の石碑が沈んでるとか言ってたなあ
206日本@名無史さん2017/11/27(月) 01:38:03.20
箸墓のお堀はため池だから季節によっては水がないときあるけど
今さら水を抜くってどういうことだ?
207日本@名無史さん2017/11/27(月) 02:28:55.08
完全に水を抜いたのは、堤を造り直した時まで遡るんじゃねーの?
『箸墓古墳周辺の調査』で報告された工事だけど、20年くらい前だったけな?
208日本@名無史さん2017/11/27(月) 02:50:38.97
なぜ『ボーボボ』なのか?という事にもなってくる。
「演技」と言っていない?
『ボーボボ 田ボ』
この曲の動画、昨日書いたQueenの曲でしょ
209日本@名無史さん2017/11/27(月) 03:09:10.51
水がないときの箸墓のため池
池の底もデコボコがあるからここからさらに水を全部抜くのは大変だと思うわ 210日本@名無史さん2017/11/27(月) 07:04:33.94
>>182
>392年 百済は王を殺して倭王の遣使に謝罪し、
遣使が立てた阿花王を即位させた。(『日本書紀』)<
記紀は、
人々にある程度衆知されて抹殺し難い「倭国の存在や歴史」を改竄して、
大和王の事績であったかのように盗用し造作した半分偽書であるんだから、
ここでいう392年の「倭王」とは、
東海姫氏國時代なので、
当然「筑紫の倭国王」の事だろうねえ。 211日本@名無史さん2017/11/27(月) 07:35:53.73
>>183
>合同? <
天孫族の阿毎氏の(筑紫城→大和の)天皇家と、呉王夫差の後裔を称する姫氏の松野連家とは、
新撰姓氏録でも書き分けられて、当然別部族である筈であるのに、
大和は、唐に、倭奴國王が先祖であったように説明(王年代紀)し、
松野氏姫氏系図側も、第1系図に倭奴国王の名前まで書いているんだから、
こりゃ、両家は委奴の地で一緒(婚姻合同?)になっていた、という事を示すんだろうねえ。
そして、委奴→大野に別れて移った第2系図側から、卑弥呼が出て、共立女王に選ばれたんだから、
合同していた倭奴國の第1系図委奴の地の側で、分裂戦乱騒ぎがあって、
倭奴國→伊都國と奴國、の分裂が起きていたんだろうねえ。
>偽姫氏万世一系の一元史観<
筑紫倭国は、阿毎氏や、姫氏や、その他の諸部族の、多元的国家であったんだよ。
神武以後の大和も、半島渡来勢力や出雲や越や毛人蝦夷などの多元的国家。 212日本@名無史さん2017/11/27(月) 08:28:50.99
>>211
阿毎氏と偽姫氏が婚姻合同して始まる偽姫氏万世一系の一元史観
邪馬壱国が出雲や越や毛人蝦夷を東征していった皇国史観 213日本@名無史さん2017/11/27(月) 08:37:53.26
>>190
>狗奴国についての報告はあるのに、奈良盆地の大王国についての報告がない。<
奈良盆地に「大王國」なんてない。
>おかしすぎるでしょ。<
「南≠東」だから、おかしくない。
>そこから考えても、邪馬台国は奈良盆地、そのまんま大和国の事ですよ<
「邪馬台国」なんてないから、この男の脳がおかしい。 214日本@名無史さん2017/11/27(月) 08:41:00.68
>>211
漢民族の天子の姫氏の傍流姫氏による万世一系の皇国史観
漢民族優越主義の李氏朝鮮の小中華思想と同じ思想 215日本@名無史さん2017/11/27(月) 08:41:27.47
箸墓のため池の水抜いても何も出ないな
テレ東「池の水ぜんぶ抜く」では適当なコメントでお茶を濁すしかない
事前に神の手で池に何か放り込んどくかw
216日本@名無史さん2017/11/27(月) 08:44:09.44
>>191
>ヤマトは後漢書の「拘邪国」じゃないのかな <
基本的に後漢書は、
魏志などよりも後代史書で、
前代史書記載に対しての「誇大な書き変えや、自己解釈説明」の多いから、
半分✖記載であり、
絶対的な論拠にはなり難く、参考記載程度にしかならない。 217日本@名無史さん2017/11/27(月) 08:44:11.89
本読んだら奈良時代の前を博多時代と命名してる人がいたな。
218日本@名無史さん2017/11/27(月) 08:50:07.72
>>193
>挙げてるだろ テンプレ読め<
遥か後代の朝鮮の通信使の方向記載の不正確さが、
周髀算経などの方向計測方法を知っている魏使らの方向記載を、
否定する根拠にはならないよ。 219日本@名無史さん2017/11/27(月) 08:56:21.58
>>218
朝鮮通信使は古代中国人(魏使)に劣りますね。 220日本@名無史さん2017/11/27(月) 09:03:31.29
朝鮮は地理的に北方の騎馬民族に圧迫され小中華思想をもつしかなかった
日本に来た古田は「小華」のまた外の小小中華思想でお金を稼ぐしかなかった
221日本@名無史さん2017/11/27(月) 09:32:48.29
222日本@名無史さん2017/11/27(月) 09:36:17.35
>>221
ほら、庄内が出ているというのはデマだった
w 223日本@名無史さん2017/11/27(月) 09:46:26.88
>>196
>>前方後円墳や伽耶の陶質土器の那珂八幡の庄内は、その(三雲の)後であり、<
>そんなものが出てるって証拠は? デマだよね<
明治大の紀要での佐々木氏の論考のUB期と、邪馬台国の会での柳田氏の証言。 224日本@名無史さん2017/11/27(月) 09:49:46.80
>>197
>>また、河内の加美で庄内と伽耶の陶質土器が共存しているんだから、<
>そんなものが出てるって証拠は? デマだよね <
大和説者の話では、「米田の証言」だったと思うよ。 225日本@名無史さん2017/11/27(月) 09:51:08.15
>>223
佐々木氏の論考にも、邪馬台国の会での柳田氏の発言にも
「前方後円墳や伽耶の陶質土器の那珂八幡の庄内」
なんて発言はないな
捏造だよね、またも 226日本@名無史さん2017/11/27(月) 09:55:05.65
>>223
成程。確かに、邪馬台国の会での記憶がある。 227日本@名無史さん2017/11/27(月) 09:59:03.33
>>200
>391年 倭が海を渡り、百残(百済)、□□新羅を破り、これを臣民とする【広開土王碑】<
この倭は、当然当時は東海姫氏國の筑紫倭國の事。
また、「百残(百済)、□□新羅を破り、これを臣民とする」に関しては、
「臣民」と書けるのは高句麗側の表現だから、当然高句麗の好太王側であり、
だから、この男らの曲解捏造。 228日本@名無史さん2017/11/27(月) 10:02:50.25
229日本@名無史さん2017/11/27(月) 10:07:18.95
>>224
>そんなものが出てるって証拠は? デマだよね <
>大和説者の話では、「米田の証言」だったと思うよ。
うわさ話を間違って記憶したわlけだ
いい加減な ことばかり言ってるね 230日本@名無史さん2017/11/27(月) 10:12:48.02
結局>>189は全部デマだったわけだが
w
w
w 231日本@名無史さん2017/11/27(月) 10:17:15.43
>>202
>北部九州の庄内式土器は模倣だから<
土師器には、高温焼成の技法が必要であり、
半島などからのガラスや瓦式楽浪土器や青銅器や鉄器のような、
高温溶融技法を習得していた筑紫のハイテク工業地域で発生するものであり、
だから、庄内は、筑紫が先行して、播磨や河内や大和などはそれが伝来し、
模倣して大量生産をし、都の弥生銀座に搬入上納した。
>筑後産の庄内は器壁がやや厚いんだよな<
同じ筑紫内でも、後から造る方は、先発の技能を厚くしたり薄くしたりと、
高温焼成技法をいろいろ工夫するもの。
>柳田が古いと言ってる三雲の庄内は 福岡平野産でも南部のものじゃないかな <
三雲は、福岡平野南部ではないな。 232日本@名無史さん2017/11/27(月) 10:20:50.33
【庄内式土器】
1,「庄内式土器研究会」の全国的(釜山〜関東)調査によれば、庄内式土器の中心出土地は纒向ではなく、中河内(八尾市・大阪市・東大阪市・柏原市)であり、その規模は纒向を「都市」とすれば、中河内は「大都会」である。
2.中河内の遺跡群には各地(特に多いのは吉備・播磨・四国地方などの西からの搬入)からもたらされた土器がかなりの頻度で出土している。大和の遺跡が東海や近江・北陸といった東の地域からの土器搬入が目立つのとは対照的。
3.河内の庄内式土器は西日本各地への移動が確認されているが、大和の庄内式土器はほとんど移動していない。
4.今まで日本各地から出土する大和の庄内式土器とされていたものは、ほとんど播磨の庄内式土器であって、大和の庄内式土器が移動している例は数えるほどしかない。
5.播磨で作られた庄内甕と畿内の遺跡の庄内甕は瓜二つで、近年の胎土の研究の進展により区別できるようになった。
6.大和盆地で庄内甕が出土するのは東南部だけである。すると庄内式が大和から全国に広がっていったとする従来の考え方を改めなければならなくなった。
7.胎土の研究を進めていくと、庄内式土器の次の段階の布留式土器が大和で発生し、初期大和政権の発展とともに全国に広がったとする現在の定説も否定しなければならない。
8.なぜかというと、胎土観察の結果、布留甕の原型になるものは畿内のものではなく、北陸地方(加賀南部)で作られたものがほとんどであることがわかった。
9.しかも北陸の土器の移動は畿内だけでなく関東から九州に至る広い範囲で行われており、その結果として全国各地で布留式と類似する土器が出現する。
10.したがって、日本各地に散見する布留式土器は畿内の布留式が拡散したのではなく、初期大和政権の拡張と布留式土器の広がりとは無縁であることが胎土観察の結果、はっきりしてきた。
233日本@名無史さん2017/11/27(月) 10:22:13.24
ぜんぜん支持者のいない説だね
234日本@名無史さん2017/11/27(月) 10:26:10.38
>>203
>>「南≠東」だから×。
結局、この男らに限らず、
大和説者は最後にはコレ(=南の『史料批判の放棄』)しか無いんだよね。
魏使らは最低、東西南北の方向計測法を知っていた!。
この大和説者の「南≠東」の無視って、
魏使らの方向計測可能であった、という史料批判の欠如であり、
歴史学的には死亡だから 、
大和説の・・・・アホ諸君、戯画化された自分の恥ずかしい姿をよく見ておくといい。 235日本@名無史さん2017/11/27(月) 10:28:32.63
九州説はみんな「南≠東」しか言うことが無くなる
衰亡の末
236日本@名無史さん2017/11/27(月) 10:34:01.46
>>234
>この大和説者の「南≠東」の無視って、
>魏使らの方向計測可能であった、という史料批判の欠如であり、
いや、無視してないから
史料批判して棄却してるから 237日本@名無史さん2017/11/27(月) 10:36:38.91
>>231
ど素人が妄想しても無駄
筑紫の庄内は久住が編年している 238日本@名無史さん2017/11/27(月) 10:36:54.39
>>234
>魏使らは最低、東西南北の方向計測法を知っていた!。
知っていたって証拠は? 239日本@名無史さん2017/11/27(月) 10:43:08.86
九州の研究者は畿内説
福岡に行ったことすらない、筑紫の庄内なんて見たこともないど素人編年が
皇国史観九州王朝説
240日本@名無史さん2017/11/27(月) 10:47:25.80
東西南北って漢字があるんだから東西南北の方向計測法ぐらいは知ってるよな。
241日本@名無史さん2017/11/27(月) 10:59:27.32
242日本@名無史さん2017/11/27(月) 11:00:34.23
>>239
畿内説って、弥生の昔から畿内にヤマト王権のもとがあったと夢想する皇国史観でしょ? 243日本@名無史さん2017/11/27(月) 11:10:33.19
あー考古学つまらんのー
土器とか鏡とか考古学板でやってくれんかなー
244日本@名無史さん2017/11/27(月) 11:10:51.28
畿内説は弥生時代末期がヤマト王権の黎明期
首長連合の段階
九州王朝説は小小中華思想による一元史観の偽姫氏万世一系皇国史観
245日本@名無史さん2017/11/27(月) 11:11:23.32
246日本@名無史さん2017/11/27(月) 11:13:00.10
>>244
少なくとも、一系じゃないよね。
古田氏は多元王朝説で知られているわけだから、むしろ正反対だ。 247日本@名無史さん2017/11/27(月) 11:15:08.06
偽姫氏邪馬壱国が東征したなら多元王朝でもなんでもない
一元史観
248日本@名無史さん2017/11/27(月) 11:27:13.90
多元史観だの九州王朝だの看板だけ掲げて中南部九州から本を買ってもらおうとしているが
要するに韓国起源説の亜流の、偽漢民族の筑紫限定邪馬壱国の一元史観
249日本@名無史さん2017/11/27(月) 11:31:19.64
韓国なんてだれも持ち出していないし、畿内ヤマト王権と並行して存在していたと言っているから、まさに万世一系説の正反対だ。
的を得ていない批判は痛くもかゆくもないんじゃないかな。
250日本@名無史さん2017/11/27(月) 11:32:46.85
姫氏王家は呉の末裔だったかな?
朝鮮半島とは関係ないな。
畿内説はいろいろ捏造とか印象操作が好きだね。
でも畿内説の印象を悪くするだけだよ。
251日本@名無史さん2017/11/27(月) 11:34:50.01
252日本@名無史さん2017/11/27(月) 11:36:20.36
>>249
見ればバレます韓国俗流史観からのパクリが 253日本@名無史さん2017/11/27(月) 11:39:53.94
委奴の地で一緒(婚姻合同?)になった後、傍流の王統が毛人55国を東征して
白村江まで筑紫が王都でヤマトは大市なら委奴から始まる一元史観
254日本@名無史さん2017/11/27(月) 11:40:22.80
255日本@名無史さん2017/11/27(月) 11:44:51.49
古田は、皇国史観が崇拝対象をフィクション王朝にすげ替えた変り種の亜流に過ぎないね
256日本@名無史さん2017/11/27(月) 11:45:28.55
呉の末裔の姫氏は朝鮮半島とは関係ないとかいいながら
根拠にしてるのは朝鮮由来の金属器や技術
呉の漢民族の文化なんかまったく根拠にしていない
257日本@名無史さん2017/11/27(月) 11:48:14.46
古田はフィクション本を売るためのキャッチコピー屋としてなら
それなりの実績をあげた
学問ではない
258日本@名無史さん2017/11/27(月) 11:48:52.59
>>204
>テレ東「池の水ぜんぶ抜く」正月特番で古墳のお堀へ!
放送日時は「2018年正月」とし、注目は卑弥呼が眠るといわれる箸墓古墳(奈良県桜井市)のお堀。
歴史的な大発見はあるのか?<
親魏倭王印は、当然池なんぞにある訳がないから、出ないね。
100枚の下賜鏡も、池なんぞに入れる訳がないから、ある訳がない。
せいぜい、墳丘表面から流れ落ちた土器や、魚釣り道具などの落とし物か?。 259日本@名無史さん2017/11/27(月) 11:53:26.74
テレ東のお笑い娯楽番組と学術調査を同列に扱う九州説
260日本@名無史さん2017/11/27(月) 12:01:32.03
>>212
>阿毎氏と偽姫氏が婚姻合同して始まる偽姫氏万世一系の一元史観<
阿毎氏と姫氏が婚姻合同して始まった、両家の交代があったの多元史観。
>邪馬壱国が出雲や越や毛人蝦夷を東征していった皇国史観 <
梁書によれば、邪馬壱国の倭國は、
出雲や越や侏儒國は、征服しておらず、
大和扶桑國には磐井が殺され、
毛人蝦夷も、東海関東南岸から常陸までの征服までであり、
白人の碧眼紅毛の美しい?女國や毛人蝦夷は、
中部山岳部以東以北に残っていたらしい。 261日本@名無史さん2017/11/27(月) 12:06:45.44
>>260
合同したなら一元化したんだろ
皇統一元史観そのもの 262日本@名無史さん2017/11/27(月) 12:07:44.11
263日本@名無史さん2017/11/27(月) 12:09:01.54
ツイッターで箸墓を検索してみると、大発見があるのではとワクテカしてる人多いな
264日本@名無史さん2017/11/27(月) 12:11:57.53
>>260
阿毎氏はどこからやってきた何系の出自にしてるんだ?
婚姻合同して始まったなら万世一系の一元史観
常陸以東の毛人などは漢民族の姫氏がその後蝦夷征討で征服するんだろ?
大和扶桑國は委奴の王統の傍流なんだろ? 265日本@名無史さん2017/11/27(月) 12:27:15.93
一元史観そのものだな
266日本@名無史さん2017/11/27(月) 12:34:14.58
九州説そのものが皇国史観の落とし子だからね
267日本@名無史さん2017/11/27(月) 12:36:23.70
>>266
東遷説のほうが万世一系主義を強く残してる 268日本@名無史さん2017/11/27(月) 12:40:50.15
つまり、畿内説のほかは、皆ふるくさい説なんだね
269日本@名無史さん2017/11/27(月) 12:42:46.06
270日本@名無史さん2017/11/27(月) 12:43:38.40
>>265
多元王朝説だろ?
畿内説が一元、万世一系説。 271日本@名無史さん2017/11/27(月) 12:43:43.68
272日本@名無史さん2017/11/27(月) 12:44:08.51
273日本@名無史さん2017/11/27(月) 12:44:17.24
奈良で甕は出ないだろ。
274日本@名無史さん2017/11/27(月) 12:46:38.63
>>270
畿内説って
普通に、ごく普通に
王朝交代説が圧倒的な主流ですが? 275日本@名無史さん2017/11/27(月) 12:47:02.28
276日本@名無史さん2017/11/27(月) 12:48:48.72
薩摩に弱卒なく
九州説に理由なし
277日本@名無史さん2017/11/27(月) 12:52:06.67
>>273
畿内説は奈良説じゃーありません
ってか、奈良で甕は出ないだろって、どうして? 278日本@名無史さん2017/11/27(月) 12:53:47.56
279日本@名無史さん2017/11/27(月) 12:54:34.23
古田氏は、万世一系説に反対して多元王朝説を唱えたから学会からはじき出されたんだろ?
280日本@名無史さん2017/11/27(月) 12:55:11.67
お笑い番組で周溝の底掻き回してだいじょぶなのか
281日本@名無史さん2017/11/27(月) 12:55:15.54
282日本@名無史さん2017/11/27(月) 12:56:12.47
>>277
奈良だけだと調査範囲が狭すぎてボロが出るからだろ?
範囲が広けれぱ広いほど良い(先送りするのが吉)。 283日本@名無史さん2017/11/27(月) 12:56:56.33
284日本@名無史さん2017/11/27(月) 12:57:35.08
もともと大和説と呼ばれていたものが、奈良盆地で何もろくに出土しなかったので畿内説と範囲を広げていた。
纒向で少しいろいろ出て来たので、またゾンビのように畿内説の中心に大和が置かれるようになった。
でもそれ以上はたいしたものが見つからず、また多くの人は畿内説から離れて言った。
スレ主は取り残された周回遅れのみそっかす。
285日本@名無史さん2017/11/27(月) 12:58:34.07
>>282
反論はひとつも出来ないが
邪推はいくらでも出来る
それが東遷厨 286日本@名無史さん2017/11/27(月) 12:59:07.51
287日本@名無史さん2017/11/27(月) 13:00:00.03
288日本@名無史さん2017/11/27(月) 13:03:33.42
>>279
戦後史学では皇国史観のほうが影を潜めた 289日本@名無史さん2017/11/27(月) 13:05:01.85
>>284
大和説というのもの多くは、邪馬台という漢字表記がヤマトという倭人語に由来する、と述べているのである
邪馬台国の範囲が奈良県だ、という説はあまり聞かない 290日本@名無史さん2017/11/27(月) 13:05:40.67
291日本@名無史さん2017/11/27(月) 13:07:07.60
>>284
脳内お花畑で「俺のキナイセツ」を作ってる典型だなw
w
w
w 292日本@名無史さん2017/11/27(月) 13:09:53.03
別のスレで、卑弥呼は神武の初代皇后だと叫んでいる畿内説がいるんですが、それはどうなのさ。
293日本@名無史さん2017/11/27(月) 13:10:48.34
>>291
俺の脳内古田説を作り上げて他人を叩いているよりマシじゃない? 294日本@名無史さん2017/11/27(月) 13:10:48.65
異端が
いたんか
295日本@名無史さん2017/11/27(月) 13:11:29.04
296日本@名無史さん2017/11/27(月) 13:13:09.52
297日本@名無史さん2017/11/27(月) 13:13:35.97
>>293
古田説の一系主義は上のほうで証明されてますが、何か? 298日本@名無史さん2017/11/27(月) 13:14:07.69
教会はガリレオを異端と呼んだが、実際にはガリレオの理論が正しかった。
299日本@名無史さん2017/11/27(月) 13:15:03.34
>>297
ネトウヨが集まっているスレはここですか? 300日本@名無史さん2017/11/27(月) 13:15:12.78
>>296
畿内説主流が万世一系を主張してないことを知っている 301日本@名無史さん2017/11/27(月) 13:17:38.60
畿内説が纒向にこだわる理由が他にない。
302日本@名無史さん2017/11/27(月) 13:18:08.89
>>298
トンデモ爺は
たいてい自分をガリレオに見立てるが、正しくない
たいてい自分をシュリーマンに喩えるが、掘らない 303日本@名無史さん2017/11/27(月) 13:18:49.83
304日本@名無史さん2017/11/27(月) 13:28:27.76
>>302
葛城スレの畿内説スレ主に教えてあげるといいと思うよ。 305日本@名無史さん2017/11/27(月) 13:29:14.18
>>299
やたら畿内説を右翼にしたがるプロパガンダがいるな 306日本@名無史さん2017/11/27(月) 13:30:16.05
307日本@名無史さん2017/11/27(月) 13:34:42.98
うん違うな
308日本@名無史さん2017/11/27(月) 13:46:57.48
ひとを排泄物よばわりは良くない
309日本@名無史さん2017/11/27(月) 13:48:48.13
364年 倭兵大いに至る。 王はこれを聞き、とても敵わないと恐れる。【三国史記・新羅本紀】
310日本@名無史さん2017/11/27(月) 13:52:10.29
なんだか奈良県内での微妙な序列や格差を感じるな。
311日本@名無史さん2017/11/27(月) 14:11:49.48
312日本@名無史さん2017/11/27(月) 14:19:51.90
畿内説に文句を付けてくる人間が
畿内説をなにも知らないという
この喜劇的な状況
313日本@名無史さん2017/11/27(月) 14:24:53.91
本当なら奈良から橿原市とかドンドン調査対象地域が狭まって来るハズなのに逆に拡げてドーすんだよw
314日本@名無史さん2017/11/27(月) 14:27:21.69
315日本@名無史さん2017/11/27(月) 14:37:00.64
アンチに、なんか強烈に思い込みの強い人がいるね
わけの解らない断定ばかりしてきては
いくら理由を聞かれても答えられない人が
316日本@名無史さん2017/11/27(月) 14:41:29.71
>>214
>漢民族の天子の姫氏の傍流姫氏による万世一系の皇国史観
漢民族優越主義の李氏朝鮮の小中華思想と同じ思想<
はいはい、この男も、
国粋皇国史観の人種差別的殺人戦争のヘイトスピーチのキョクウの、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説人種であったんだね。
誰がこんな・・・・人種を造ったんだろうかねえ?。
そりゃ、
安部自民公明政府やキョクウマスコミの、
繰り返しの執拗な「蔑視敵対」宣伝や報道で、
高慢なタカ派思考の国民らが、騙された。 317日本@名無史さん2017/11/27(月) 14:43:14.19
>>316
ザラコクは政治絡みのヘイトスピーチばかりで
内容が無いし 318日本@名無史さん2017/11/27(月) 14:46:16.67
理由もなく変なレッテルを貼りまくるのは
学園紛争世代のオチコボレ老人にありがち
319日本@名無史さん2017/11/27(月) 14:47:15.86
>>220
この男も、変な脳。
列島も中国や半島と同じく、元々、
南洋や大陸からの食いはぐれの流民の、混合共存的地域。 320日本@名無史さん2017/11/27(月) 14:57:47.95
>>222
>>http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/himikotyou/himiko3horon.htm
「土師器は全て墳丘裾部外周から出土している、弥生式土器片はまず採取されていないとして良い、
と報告書に記述される」
「都出比呂志氏の表でも、赤塚古墳を箸墓古墳とほぼ同時期において、
それに先立つ時期(纏向2式=庄内1式)に祇園山古墳と妙法寺古墳を置き、
なかでも祇園山のほうを最古としている」<
>ほら、庄内が出ているというのはデマだった w <
祇園山は、庄内1だよ。
しかし、このような「南→東」などの嘘つき騙しの大和説の、
人種差別的な国粋皇国史観のカルトにどっぷりはまった国民の3割位の・・・・には、
何を言ってあげても、無理だね。
ただ、残りの普通の国民が、彼らの宣伝に乗せられて、
戦争させられる事を、防がなければならない、と思うだけだな。 321日本@名無史さん2017/11/27(月) 15:00:43.34
>>319
で、南洋から渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる南洋系石器と南洋系土器は?
で、中国大陸から渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる中国系石器と中国系土器は? 322日本@名無史さん2017/11/27(月) 15:04:43.43
>>235
大和説は、みんな「南≠東」の根本的な論理から逃げて、隠ることが無くなる。
衰亡の末。 323日本@名無史さん2017/11/27(月) 15:09:05.64
>>236
>この大和説者の「南≠東」の無視って、
魏使らの方向計測可能であった、という史料批判の欠如であり、<
>いや、無視してないから<
大和説者は、誰も反論出来なかった。
>史料批判して棄却してるから <
大和説者が史料批判をしたことも、見た事が全くない。 324日本@名無史さん2017/11/27(月) 15:09:15.40
>>320
>祇園山は、庄内1だよ。
なーんて言う根拠は? 325日本@名無史さん2017/11/27(月) 15:12:19.94
>>237
>ど素人が妄想しても無駄
筑紫の庄内は久住が編年している <
何?、久住の編年?。
知らんなあ。三雲の庄内の話を書いているのか?も知らんなあ。
ねえ?、何て書いているの?。 326日本@名無史さん2017/11/27(月) 15:19:39.90
>>238
>>魏使らは最低、東西南北の方向計測法を知っていた!。<
>知っていたって証拠は?<
周髀算経や礼記の方向や里の計測を読んでいなければ、
魏使の記録官には選ばれないし、
魏志の方向記載も殆ど間違っていないし、
7000余里や方四千里や千余里や方四百余里や三百里や五百里のの計測も出来ない。 327日本@名無史さん2017/11/27(月) 15:21:20.79
>>238
>>魏使らは最低、東西南北の方向計測法を知っていた!。<
>知っていたって証拠は?<
周髀算経や礼記の方向や里の計測を読んでいなければ、
魏使の記録官には選ばれないし、
魏志の方向記載も殆ど間違っていないし、
7000余里や方四千里や千余里や方四百余里や三百里や五百里のの計測も出来ない。 328日本@名無史さん2017/11/27(月) 15:36:13.01
>>325
>知らんなあ。
お前、掲示板のレスか情報源の安本のサイトの記事を曲解妄想してるだけで
自分で調べた正確な知識がほとんど無いだろ 329日本@名無史さん2017/11/27(月) 15:39:29.16
>>323
>大和説者は、誰も反論出来なかった。
出来なかった、って証拠は?
あなた、テキトーなこと言い過ぎ 330日本@名無史さん2017/11/27(月) 15:41:40.65
>>327
>周髀算経や礼記の方向や里の計測を読んでいなければ、
>魏使の記録官には選ばれないし、
選ばれないって根拠は? 331日本@名無史さん2017/11/27(月) 15:52:23.01
>>320
>祇園山は、庄内1だよ。
祇園山古墳墳頂は土器が無い
墳丘裾部の集団墓群中の甕棺はUC期(久住) 332日本@名無史さん2017/11/27(月) 15:57:01.11
なんで、いつも荒れるんだ冷静に書き込め
子供の喧嘩のスレじゃない
333日本@名無史さん2017/11/27(月) 15:57:23.38
畿内論者の話をウロ覚えで脳内変換したり、古田エピゴーネンの妄想話を盲信したりするのが、ザラコク情報のほとんど全てだな
334日本@名無史さん2017/11/27(月) 15:59:42.26
>>318
キナイセツのことですね。
わかります。 335日本@名無史さん2017/11/27(月) 16:00:56.78
>>332
スレ主が率先して冒頭で喧嘩を売っているから。 336日本@名無史さん2017/11/27(月) 16:02:29.03
>>333
>畿内論者の話をウロ覚えで脳内変換したり、
これ、お互い様だな。
よりによって多元王朝説の教祖を万世一系説と呼ぶなんて。 337日本@名無史さん2017/11/27(月) 16:03:23.49
>>332
理由は簡単
サギシだ人殺しだとわめく暴言爺がいるから 338日本@名無史さん2017/11/27(月) 16:05:17.54
339日本@名無史さん2017/11/27(月) 16:08:25.71
>>335
畿内説で鉄板と言われただけでキレる九州爺さんの耄碌 340日本@名無史さん2017/11/27(月) 16:08:35.80
>>338
並行して畿内に政権があるから、一元とは呼ばないよ。 341日本@名無史さん2017/11/27(月) 16:08:57.21
バーベキューしたいな。
342日本@名無史さん2017/11/27(月) 16:10:13.27
>>340
ウソウソ
市の管理人とか分家とか言ってるくせ 343日本@名無史さん2017/11/27(月) 16:12:11.70
>>341
外は寒いからコリアンバーベキューで我慢しなさい 344日本@名無史さん2017/11/27(月) 16:15:33.73
牡蠣小屋
345日本@名無史さん2017/11/27(月) 16:24:02.05
古田は彼岸、安本いま河原、奥野渡河中
346日本@名無史さん2017/11/27(月) 16:41:09.93
まもなくオール故人
347日本@名無史さん2017/11/27(月) 16:56:56.53
おれたち、同じ所に行けないから、よろしくな
348日本@名無史さん2017/11/27(月) 16:59:09.55
>>239
九州の学芸員や研究者も、殆ど皆大和説者であるから、
「南→東」などの嘘吐きダマシ人種。
まともに文献を読んだ事もいない素人編年であり、
国粋皇国史観という「結論先にありき」の思想宗教にクルった結果。 349日本@名無史さん2017/11/27(月) 17:01:52.00
安本さんがなぜ用明天皇から20人の平均在位しか採っていないのかが謎です。
平均を採るのに20代は少ない。
私は30代で採ってみた。
30代平均 31代用明天皇元年585年〜60代元正天皇没930年
930−585=345年
345÷30は11.5年
用明から30代の平均在位は11.5年。
では用明天皇から神武まで遡ります。
ただし神功皇后は確実な一代と見なし、31代遡ります。
11.5×31=356.5
用明元年587年−356年=231年
用明から30代として計算した神武元年は231年、つまり卑弥呼の時代です。
卑弥呼とはヒメ踏鞴五十鈴媛しかいなくなりました。
したがって邪馬台国の王都は葛城です。
というわけで纏向説も九州説も仲良く氏んでください、さようなら。
350日本@名無史さん2017/11/27(月) 17:05:35.37
>>239
九州の学芸員や研究者も、殆ど皆大和説者であるから、
「南→東」などの嘘吐きダマシ人種。
まともに文献を読んだ事もいない素人編年であり、
国粋皇国史観という「結論先にありき」の思想宗教にクルった結果。 351日本@名無史さん2017/11/27(月) 17:11:06.36
>>241
>クズ編年<
人類の文明は、学習と工夫の積み重ねで出来た、という人類の知恵が判らず、
何のきっかけもない大和から、庄内が発明される事は殆どない、という事も判らない、
「南→東」などの史料事実を否定曲解する大和説のアホ人種。 352日本@名無史さん2017/11/27(月) 17:13:06.36
, - ―‐ - 、
/ \
/ ∧ ∧ , ヽ
./ l\:/- ∨ -∨、! , ', さあみんな集まってー!
/ ハ.|/ ∨|,、ヘ なんでも大和の適当な作り話が始まるよー!!
|ヽ' ヽ ● ● ノ! l
. 〈「!ヽハ._ __ _.lノ |
く´ \.) ヽ. ノ (.ノ  ̄
\ `'ー-、 ___,_ - '´
` - 、 ||V V|| \
| || || l\ ヽ
353日本@名無史さん2017/11/27(月) 17:26:43.15
>>244
大和説は、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシに拠って、
卑弥呼は大和の女王であった、とする犯罪者的詐欺師の説。
九州王朝説は、史料事実に拠って、
白村江の大敗までは、西日本の盟主は筑紫の倭國であった、という説。 354日本@名無史さん2017/11/27(月) 17:27:38.27
>>348
文献記録がほとんどない時代の土器編年に文献などほとんど関係ない
古田のような商売目的の亜流皇国史観文献解釈なら読まないほうがいい
結局日本人学者の研究成果を全否定するだけのトンデモ本 355日本@名無史さん2017/11/27(月) 17:33:55.72
>>351
土師器が高温焼成技法をいろいろ工夫するとか言ってる時点で根本的に間違ってる
庄内式がどういう技法で薄く作られているのかがわかっていない 356日本@名無史さん2017/11/27(月) 17:34:17.39
まともに畿内説語れる奴皆無
だから
畿内説の奴は、行き場所が無いから他説に感心を持ちつつあるな
このスレテンプレ命以外何もない
357日本@名無史さん2017/11/27(月) 17:36:17.78
>>356
行き場が無いから畿内説スレに寄生してるのが九州説だろ 358日本@名無史さん2017/11/27(月) 17:36:28.34
359日本@名無史さん2017/11/27(月) 17:39:54.01
>>247
白村江の大敗の、以前も以後も、大和天皇家だけが列島の盟主であった、
という主張が、大和天皇家一元説。
九州王朝説は、白村江までは、西日本の盟主は九州で、
江戸〜明治頃までは、列島のあちこちに独立的な国が存在した、という説。 360日本@名無史さん2017/11/27(月) 17:41:20.65
つまり、トンデモ説
361日本@名無史さん2017/11/27(月) 17:45:28.28
>>356
畿内説って何だか知らん奴に言われてもな 362日本@名無史さん2017/11/27(月) 17:48:52.69
>>248
><多元史観だの九州王朝だの看板だけ掲げて中南部九州から本を買ってもらおうとしているが
要するに韓国起源説の亜流の、偽漢民族の筑紫限定邪馬壱国の一元史観<
こりゃまた、酷い、排他的人種差別の国粋皇国史観のケダモノのような、
ヘイトスピーチ人種だねえ。
反古田の大和説者は、こんな・・・・ばっかり。 363日本@名無史さん2017/11/27(月) 17:51:41.99
364日本@名無史さん2017/11/27(月) 17:52:33.55
>>252
見ただけでも、
排他的人種差別の国粋皇国史観の殺人戦争狂の大和説者である事がバレています。 365日本@名無史さん2017/11/27(月) 17:53:28.21
366日本@名無史さん2017/11/27(月) 17:55:38.99
367日本@名無史さん2017/11/27(月) 17:55:59.71
346年 倭の軍隊が突然に風島を襲い、さらに進軍して金城(新羅首都)を包囲して激しく攻めた。【三国史記・新羅本紀】
368日本@名無史さん2017/11/27(月) 18:21:53.72
>>359
>白村江の大敗の、以前も以後も、大和天皇家だけが列島の盟主であった、
>という主張が、大和天皇家一元説。
そのような間違った歴史解釈で数万人の日本兵を殺したのが
肥人佐賀県民 牟田口廉也
NHKスペシャル「戦慄の記録 インパール」
ダウンロード&関連動画>>
369subo2017/11/27(月) 18:23:17.35
>>359
飛鳥時代は九州蘇我氏、乙巳の変で畿内ヤマト、白村江でヤマトの百済敗北
壬申の乱で九州天武、平安の最初は百済、畿内ヤマト、、、何回も交代してるよ 370subo2017/11/27(月) 18:24:16.07
筑紫倭國=新羅、畿内ヤマト=百済
371subo2017/11/27(月) 18:25:49.63
372日本@名無史さん2017/11/27(月) 18:26:27.53
subo=新羅人
373日本@名無史さん2017/11/27(月) 18:28:47.51
>>371
まったく関係ない「国粋皇国史観の殺人戦争狂」を連呼しているのが
九州王朝説 374日本@名無史さん2017/11/27(月) 18:30:05.97
>>255
大和説は、「南→東」の嘘吐きダマシや、
「大和は、筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の、倭國の附庸国の旧小国」
という史料実態の否定抹殺をして、
皇国史観を崇拝対象にして、
「白村江までの倭国も大和の支配下だ」というフィクションにすげ替えた、
変り種の・・・・の亜流に過ぎないね。 375日本@名無史さん2017/11/27(月) 18:34:42.40
>>374
>「白村江までの倭国も大和の支配下だ」
中央集権国家が成立するのは大宝律令の701年、
東北の蝦夷征討が本格化するのは白村江の100年以上後から
>「大和は、筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の、倭國の附庸国の旧小国」
それが筑紫邪馬壱国一元史観の皇国史観 376日本@名無史さん2017/11/27(月) 18:49:30.33
377日本@名無史さん2017/11/27(月) 18:51:36.11
>>256
>呉の末裔の姫氏は朝鮮半島とは関係ないとかいいながら
根拠にしてるのは朝鮮由来の金属器や技術
呉の漢民族の文化なんかまったく根拠にしていない <
卑弥呼の家臣らは、周の身分制度の「大夫」を名乗ったり、
国家支配層は、ある程度、(通訳無しで)中国語を話したり、漢字の読み書きが出来たり、
江南の墓制や鯨面文身習俗を持っていたり、している。 378subo2017/11/27(月) 18:53:41.00
>>372
wwwww
福耳だからたぶん徐福だと思う 379日本@名無史さん2017/11/27(月) 18:55:03.05
>>257
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの大和説学者らは、
フィクション本を売るためのキャッチコピー屋としてなら それなりの実績をあげた。
しかし、学問ではない。
思想宗教的な・・・・。 380日本@名無史さん2017/11/27(月) 18:57:15.64
>>259
テレ東のお笑い娯楽番組を学術調査を同列に扱って、
掲示板で宣伝した大和説者。 381日本@名無史さん2017/11/27(月) 19:00:19.07
397年 百済、倭国と国交を結び王子の腆支(テンシ)を人質に送る。【三国史記・百済本紀】
382日本@名無史さん2017/11/27(月) 19:05:34.05
>>261
>合同したなら一元化したんだろ 皇統一元史観そのもの<
阿毎氏と姫氏が委奴の地で合同した後、
姫氏の第2系図派が分離して別れて大野に移って、
その大野で卑弥呼が共立されたんだから、
卑弥呼は、阿毎氏の皇統一元史観にはなっていない。 383日本@名無史さん2017/11/27(月) 19:07:03.95
384日本@名無史さん2017/11/27(月) 19:07:07.99
>>262
大和説は、ムーの世界以下の、嘘つきダマシの・・・・の世界だね。 385日本@名無史さん2017/11/27(月) 19:09:13.06
学術的な文章の書き方がわからない中卒はつらいよ
386日本@名無史さん2017/11/27(月) 19:10:22.93
>>378
福耳は寒冷地適応が進んでいない民族特有だから
新羅系じゃなくて済州島、全羅南道の方だろう 387日本@名無史さん2017/11/27(月) 19:20:49.48
>>382
委奴国王統の分家が別姓を名乗っただけで
筑紫邪馬壱国の王家が続いてる間は大和のほうは市で
隋書の筑紫以東には王都はないというフィクションなんだから
中国の史書に登場してる王朝は1ヶしかない一元史観 388日本@名無史さん2017/11/27(月) 19:20:53.88
>>264
>阿毎氏はどこからやってきた何系の出自にしてるんだ?<
倭人自体は、燕の南にいたらしいから 、黄海や山東半島周辺にいた。
>婚姻合同して始まったなら万世一系の一元史観<
卑弥呼ら東海姫氏國時代は、伊都国系の阿毎氏とは別国として別れていた。
>常陸以東の毛人などは漢民族の姫氏がその後蝦夷征討で征服するんだろ?<
いや、征服していないお。
東海姫氏國時代は、単発的には東北遠征もあったらしいが、
征服出来たのは、瀬戸内→近畿→東海関東南岸→常陸位まで。
>大和扶桑國は委奴の王統の傍流なんだろ?<
大和は、神武以来、原則として阿毎氏だよ。 389日本@名無史さん2017/11/27(月) 19:23:44.41
>>265
大和説は、姫氏の卑弥呼まで阿毎氏の大和王にしてしまうんだから、
インチキ一元皇国史観そのものだよ。 390日本@名無史さん2017/11/27(月) 19:26:59.35
391日本@名無史さん2017/11/27(月) 19:27:10.52
>>266
大和説そのものが、卑劣な騙し討ちの神武以来の天皇家一元列島支配の国粋皇国史観の、
人種差別的殺人戦争の落とし子だからね。 392日本@名無史さん2017/11/27(月) 19:29:30.34
>>268
つまり、国粋皇国史観の天皇家一元列島支配の大和説のほかは、
皆まともな説なんだね。 393日本@名無史さん2017/11/27(月) 19:31:41.33
399年 倭が新羅の国境に満ち城池を潰破し民を奴客とす【広開土王碑】
394日本@名無史さん2017/11/27(月) 19:32:22.06
>>274
大和説って、 普通に、ごく普通に、
「王朝交代しなかった皇国史観」説が圧倒的な主流ですが? 。 395日本@名無史さん2017/11/27(月) 19:33:36.17
396日本@名無史さん2017/11/27(月) 19:35:08.25
397日本@名無史さん2017/11/27(月) 19:36:05.20
>>277
>畿内説は奈良説じゃーありません <
「畿内説」は、奈良盆地には7万戸が入らないから、
こっそり「大和説→畿内説」に摩り替えた嘘吐きダマシ説です。 398日本@名無史さん2017/11/27(月) 19:42:28.24
>>279
>古田氏は、万世一系説に反対して多元王朝説を唱えたから
学会からはじき出されたんだろ?<
よくご存じですねえ。
古田さんは、よく知らず関心もなかったようでしたが、
安倍自民政府も、文部省も、マスコミも、学会も、人種差別殺人戦争狂のキョクウらも、
皆、万世一系の国粋皇国史観の・・・・だったんですよ。 399日本@名無史さん2017/11/27(月) 19:46:03.53
>>388
阿毎氏はどこの出自かわからない渡来人と言ってるだけだから
実質万世偽姫氏一系の一元皇国史観フィクション小説 400日本@名無史さん2017/11/27(月) 19:49:45.28
401日本@名無史さん2017/11/27(月) 20:05:06.88
あーあーあーただいまいろいろてすとちゅー(きにせずご歓談あれ
402日本@名無史さん2017/11/27(月) 20:07:09.27
>>399
姫氏は途中で滅ぶんだよ。
その他の王家も興亡を繰り返す。
万世一系とは程遠い。 403日本@名無史さん2017/11/27(月) 20:15:13.04
>>288
>戦後史学では皇国史観のほうが影を潜めた<
戦後史学では、戦前の皇国史観での敗戦の反省で、皇国史観が一旦影を潜めたが、
しかし、戦争でも戦犯にならずに生き延びた国粋右翼思想の自由党が政権を握り、
アメリカも、共産圏との冷戦や朝鮮戦争で日本を(憲法違反の)再軍備させるために、
自由党を応援して、
レッドパージなどのマスコミや教育界の思想統制を開始し、
安保や小選挙区制や警職法など、少しずつ戦前の体制に戻して行ったところで、
古田さんの九州王朝説が出たので、
古代史学会も一気に国粋皇国史観大和説に偏向して行った。 404日本@名無史さん2017/11/27(月) 20:22:17.42
ヤマト王権の基礎を前倒ししようとする計略が畿内説だな。
そのために箸墓も纒向も年代比定を歪曲している。
数多い前方後円墳のうち、箸墓のような大型の古墳が他の大多数の中小の前方後円墳より前に築造されたと言い張る始末。
それもこれも考古学の皮を被った皇国史観という亡霊のため。
405日本@名無史さん2017/11/27(月) 20:25:00.23
>>289
>大和説というのもの多くは、邪馬台という漢字表記がヤマトという倭人語に由来する、と述べているのである<
ウソを付くな。
大和説は、始めから「南→東」の嘘吐きダマシの「大和説の結論先にありき」であったのであり、
「邪馬台」なんて史料事実は存在しない嘘吐きダマシだったのであり、
後から、「邪馬壹國→邪馬臺國→邪馬台国」の曲解捏造を造作したもの。
>邪馬台国の範囲が奈良県だ、という説はあまり聞かない<
私が中高校の頃は、「畿内説」なんて文言は、殆どなかった。 406日本@名無史さん2017/11/27(月) 20:25:04.24
陰謀論
オカルト
トンデモ
407日本@名無史さん2017/11/27(月) 20:30:30.21
>>297
>古田説の一系主義は上のほうで証明されてますが、何か?<
古田説は、「多元的古代」説であり、
大和説は、「大和天皇家一元的列島支配」説である事は、
もうこれまでに何度も証明されてますが、何か?。 408日本@名無史さん2017/11/27(月) 20:38:19.49
>>300
>畿内説主流が万世一系を主張してないことを知っている <
東大京大を渡り歩いて、
「古代史学会や学者を全て支配している」と豪語した天誅が、
その名の通りに「天皇制維持のためには戦争もすべし」の、
万世一系の天皇家支配主義者であった、という事を知っている。 409日本@名無史さん2017/11/27(月) 20:44:25.13
>>305
>やたら畿内説を右翼にしたがるプロパガンダがいるな <
「・・・・キョクウの右翼」でなく、まともな人間であれば、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシを主張し続ける、
という変な事は、起こし得ないから。 410日本@名無史さん2017/11/27(月) 20:46:04.13
いろいろてstしたけっかジャマイカはきゅーしゅにもならにもなかった
いぎあるひとはきょしゅのうえはつげんせよ
411subo2017/11/27(月) 20:47:14.59
考古学者は天皇についてはあまり触れないだろ
何でも半島由来という考古学者は多いけど
412日本@名無史さん2017/11/27(月) 20:47:22.59
>>405
>私が中高校の頃は、
>>408
>豪語した天誅が、
知らん、どうでもいいそんな話は家族とでも話せ 413日本@名無史さん2017/11/27(月) 20:48:32.07
>>308
>ひとを排泄物よばわりは良くない <
「南→東」などのような史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシを反省撤回しない人種は、
国民のためにならず、むしろ害になる・・・・ケダモノ人種であり、
警察か病院に収容すべきである。 414日本@名無史さん2017/11/27(月) 20:48:36.23
偉人たちの健康診断「女王・卑弥呼のカミカミ健康法」
NHKBSプレミアム
2017年11月29日(水) 20時00分〜21時00分
415subo2017/11/27(月) 20:52:05.22
幸福の科学の大川総裁は卑弥呼の幸福論という本だしてるぞ
416日本@名無史さん2017/11/27(月) 20:52:55.06
異議なしと認めます
邪馬壹は中国四国あるいは兵庫京都北部にあった(けってー
417日本@名無史さん2017/11/27(月) 20:54:24.87
>>312
>畿内説に文句を付けてくる人間が 畿内説をなにも知らないという この喜劇的な状況 <
大和説に賛成する人間が、
大和説が「南→東」などの嘘吐きダマシをしている事実を知らず、
或いは、知らん振りしている、という、
この喜劇的な状況。 418日本@名無史さん2017/11/27(月) 20:57:02.14
>>315
アンチ九州説に、
なんか強烈に思い込みの強い「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説者がいるね 。
わけの解らない断定ばかりしてきては、
いくら理由を聞かれても答えられない人が 。 419日本@名無史さん2017/11/27(月) 20:59:31.78
いぬがみせんせーのきりくちはなかなかのでんぱじゃがちんじゅくんは電波派ちゃうなー(わえはせーこーほーで解析した(きゅーしゅー女子もならじょしもイヨさんにあらず(
420日本@名無史さん2017/11/27(月) 21:02:16.79
>>318
理由もなく変なレッテルを貼りまくるのは,
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説の、政府文部省や、
マスコミや、教育界や、右翼の宣伝に騙されたオチコボレ男に、
ありがち。 421subo2017/11/27(月) 21:03:48.73
NHKは幸福の科学の影響うけてるな
大川総裁はイタコ芸で卑弥呼を降臨させたとき九州だといってたような
イタコがイタコを呼び
422日本@名無史さん2017/11/27(月) 21:04:28.91
追記
卑弥呼はんがきゅーしゅー女子のかのーせーあるよ(ちゅーごくのひともひてーしないあるよ
423subo2017/11/27(月) 21:06:21.43
ケダモノ人種には吹いたわw
424日本@名無史さん2017/11/27(月) 21:12:52.14
>>321
>で、南洋から渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる南洋系石器と南洋系土器は? <
Yahooでmutouha氏が、遺伝子の流れや南洋の生活痕の根拠を沢山挙げておられたが、
私は、ネグルトなどの小人の侏儒國人や縄文式土器位しか覚えていないよ。 425日本@名無史さん2017/11/27(月) 21:20:10.48
>>321
>で、中国大陸から渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる中国系石器と中国系土器は? <
ありゃ?、この言い方は、
前からよく見かけた「キョクウの人種差別の国粋主義」の・・・・と同じだな。
以前にもたまに「大夫」や「墓制」や「鯨面文身」などの返事をした事があった筈だが、
返事もなかった・・・・のようであったので放置していたやつだ。 426日本@名無史さん2017/11/27(月) 21:21:49.40
>>322の訂正
大和説は、みんな「南≠東」の根本的な指摘から逃げて、隠ることしか無くなる。
衰亡の末。 427日本@名無史さん2017/11/27(月) 21:26:02.08
>>424-425
レス内容の正誤はともかくプラズマせんせーに勝てる人いないわ(さいきょー 428日本@名無史さん2017/11/27(月) 21:28:00.42
>>330
>>周髀算経や礼記の方向や里の計測を読んでいなければ、
魏使の記録官には選ばれないし、<
>選ばれないって根拠は?<
仕事である記録が出来ないから。 429日本@名無史さん2017/11/27(月) 21:29:29.51
だれもしつもんないあるならねるあるよちんじゅはねるあるよ^^
430日本@名無史さん2017/11/27(月) 21:37:16.10
>>331
>>祇園山は、庄内1だよ。<
>祇園山古墳墳頂は土器が無い <
当たり前。
宝賀氏も、そう書いている。
>墳丘裾部の集団墓群中の甕棺はUC期(久住)<
何言ってんだい?。
宝賀氏は、墳裾の「土師器」の話をしておられるんであり、
甕棺の編年に関しては別に書いておられるんだよ。
それに祇園山の甕棺の年代比定の説明は、
始めから博多湾岸の甕棺とは、時期が離れ過ぎであり、
久住編年は、発掘報告を盲信しただけだな。 431日本@名無史さん2017/11/27(月) 21:41:30.91
>>333
九州説論者や古田説の話を、ウロ覚えで脳内変換したり、
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説学者らの、エピゴーネンの妄想話を盲信したりするのが、
大和説者の弟子や信者の情報のほとんど全てだな 。 432subo2017/11/27(月) 21:44:22.50
>>321
久しぶりに沿海州豚が来たか
最近はカエル、デテクは言わなくなったな 433日本@名無史さん2017/11/27(月) 21:47:15.30
>>337
理由は簡単だ。
大和説学者や信者には、「南→東」などの嘘吐きダマシや、
「人種差別的国粋皇国史観での近隣諸国民への蔑視ヘイトスピーチ」
をわめく暴言男がいるから。 434日本@名無史さん2017/11/27(月) 21:52:23.72
>>338
>筑紫倭国一元論だろ<
九州王朝説は、大和も毛人蝦夷國などの存在も認める多元論だよ。 435subo2017/11/27(月) 21:52:52.27
しかしエビゴーネンとかどこから引っ張り出してきたんだ
テンプレなんかもそうだけ部落臭がするんだよな
436日本@名無史さん2017/11/27(月) 21:54:44.83
かなり前から書いているんだけど、グーグルで検索してみて
『ムー帝国 太陽の紋章』→【THE MOMOTAROH 7巻】
ウラシマン(浦島太郎)「テレビなんて見ないじゃん」と書いてない?
437日本@名無史さん2017/11/27(月) 21:55:30.15
>>339
「畿内説で鉄板」と言うだけで、
「南≠東」を否定する嘘吐きダマシの指摘でキレるスレ主さんの耄碌。 438日本@名無史さん2017/11/27(月) 21:56:32.40
たしか、
どこのかの国の王子(子孫 末裔)という話じゃなかった?
439日本@名無史さん2017/11/27(月) 22:02:30.24
>>354
>文献記録がほとんどない時代の土器編年に文献などほとんど関係ない<
ウソを付くな。魏志など、文献記録が一杯ある。
「南→東」などのような嘘吐きダマシの、
商売目的の亜流皇国史観文献解釈なら読まないほうがいい。
結局まともな日本人学者の研究成果を全否定するだけのトンデモ大和説本。 440日本@名無史さん2017/11/27(月) 22:11:19.34
『king』でしょ
『queen』あの曲の話
ウラシマン?『prince』『princess』
441日本@名無史さん2017/11/27(月) 22:13:47.86
>>430
元官僚の宝賀は、土器の研究もしたことない素人の話だからどうでもいい
久住のは実見でのUC期の最後の在来系甕棺
お前のど素人年代などは素人の茶話会で妄想して喜ぶ程度の話 442日本@名無史さん2017/11/27(月) 22:17:18.56
『長竿』
「王」
という名前(氏 姓)ではないと言っている人がいたり、
wiki(最近のネットを含む)などでは、そうなっているけど。
捏造。
443日本@名無史さん2017/11/27(月) 22:21:54.01
三貴神(子)?
なぎ なみ夫妻がいて・・・その子供
444日本@名無史さん2017/11/27(月) 22:23:29.87
>>433
人種差別的国粋皇国史観は、九州王朝説の筑紫以東に王都は無い
漢民族の邪馬壱国1ケだけ説 445日本@名無史さん2017/11/27(月) 22:28:29.45
ウラシマン:「王位に就いた」と書いてあるはず
わかりやすくいうと『王』という名字ではない
446日本@名無史さん2017/11/27(月) 22:32:56.72
『もののけ姫』という作品でいうと、神殺し
447日本@名無史さん2017/11/27(月) 22:38:01.57
サルタヒコというスレを読めばわかる、
このような書き込みがあるから
良いネタ見つけたな。
カネの元、金のなる木。
448日本@名無史さん2017/11/27(月) 22:40:20.06
>>355
>土師器が高温焼成技法をいろいろ工夫するとか言ってる時点で根本的に間違ってる
庄内式がどういう技法で薄く作られているのかがわかっていない <
判っていないんだなあ。
土や粘土をこねて乾かしただけでは、もろすぎて薄く出来ないし、
削りしたら簡単に割れてしまうんだよ。
だから、高温焼成をすれば、硬くて丈夫になり、薄くも出来るし削りも入れ易くなるんだよ。
勿論溶融までしたら、ガラスなどのように非常に丈夫になる。 449日本@名無史さん2017/11/27(月) 22:40:59.11
以前から書いているけど
『人権侵害』
読んでみたほうが良い
450日本@名無史さん2017/11/27(月) 22:47:45.04
数年前の、とあるスレ
・誰々さんの家は、なぜ収入がないのですか?
・なぜ家が大きくならないのですか?
このような事を言っている人がいたような
451日本@名無史さん2017/11/27(月) 22:48:07.27
>>373
>まったく関係ない「国粋皇国史観の殺人戦争狂」を連呼しているのが 九州王朝説<
周りを見てごらん。
排他的人種差別で近隣諸国民への・・・・誹謗ヘイトスピーチをしているのは、
大和説者ばかりだよ。 452日本@名無史さん2017/11/27(月) 22:49:29.64
『電気石 ポケモン』
ポケモンの主人公(作者??)に兄はいるの
453日本@名無史さん2017/11/27(月) 22:54:13.35
>>375
>>「大和は、筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の、倭國の附庸国の旧小国」<
>それが筑紫邪馬壱国一元史観の皇国史観<
いや、史料事実や史料実態。
そして大和が、倭奴國や卑弥呼の頃から701年までの倭国を支配していた、
というのが、大和一元列島支配論。 454日本@名無史さん2017/11/27(月) 22:56:38.51
「ふざけた事してんじゃねーぞ!!」
と言っている人がいたり、たしか、いたような気がするんだけど
東日本大震災後?前後?
455日本@名無史さん2017/11/27(月) 22:58:21.59
>>381
>397年 百済、倭国と国交を結び王子の腆支(テンシ)を人質に送る。【三国史記・百済本紀】<
この倭国も、大和の事ではなく、筑紫倭国(東海姫氏國)の事ね。 456日本@名無史さん2017/11/27(月) 22:58:54.66
457日本@名無史さん2017/11/27(月) 23:00:32.50
>>451
>誹謗ヘイトスピーチをしているのは
お前だろ 458日本@名無史さん2017/11/27(月) 23:06:43.57
>>387
>委奴国王統の分家が別姓を名乗っただけで <
姫氏や卑弥呼は、呉王夫差の後裔で、始めから、阿毎氏ではないよ。
筑紫邪馬壱国の王家が続いてる間は大和のほうは市で 、
隋書の筑紫以東には王都はないという事が史料事実なんだから、
中国の史書に登場してる701年までの王朝は、筑紫倭国であり、
大和は、「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」であった。 459日本@名無史さん2017/11/27(月) 23:10:05.53
>>393
>399年 倭が新羅の国境に満ち城池を潰破し民を奴客とす【広開土王碑】<
この「倭」も、(大和ではなく)、筑紫倭国の事。 460日本@名無史さん2017/11/27(月) 23:10:19.04
このスレの住人に話をしても、
わからないかもしれないけど
どこかに犯罪者がいるんじゃないの?
確実に死刑確定のような人物
461日本@名無史さん2017/11/27(月) 23:10:20.01
>>453
それは畿内説とは関係がなく
筑紫邪馬壱国一元史観の皇国史観論者の妄想 462日本@名無史さん2017/11/27(月) 23:14:26.71
463日本@名無史さん2017/11/27(月) 23:15:05.28
>>400
>婚姻して後裔が別種なわけがない <
同じ部族でも、判れて別の国を作ったら、別種だよ。 464日本@名無史さん2017/11/27(月) 23:18:48.09
兄 弟 妹:5月15日生まれ
家の話だと思うんだけど
465日本@名無史さん2017/11/27(月) 23:19:21.93
>>463
別の国でも別種にはならん
倭国内それぞれ全部別種になってしまう 466日本@名無史さん2017/11/27(月) 23:21:02.26
松の木(もみ??)のようなものが
立てられた写真でしょ
『松傾』
と同じ名字なんだけど
467日本@名無史さん2017/11/27(月) 23:22:18.77
468日本@名無史さん2017/11/27(月) 23:26:36.12
数年前の、とあるスレ参照
一度読んでみて
川崎に住んでいるんじゃないの?
という書き込み
家は川崎区だしな・・・
469日本@名無史さん2017/11/27(月) 23:28:32.63
>>441
>元官僚の宝賀は、土器の研究もしたことない素人の話だからどうでもいい
久住のは実見でのUC期の最後の在来系甕棺
お前のど素人年代などは素人の茶話会で妄想して喜ぶ程度の話<
だから、久住は、何故、
他の甕棺と比べて、祇園山の甕棺が50〜100も離れて出現したのか?の、
説明が付けられないんだろ?。 470日本@名無史さん2017/11/27(月) 23:30:06.29
>>467
別種は
「句麗別種依小水作國 因名之小水貃」(高句麗伝)
「東夷舊語以為夫餘別種」
のような場合 471日本@名無史さん2017/11/27(月) 23:31:51.68
>>469
50〜100年も離れて出現はしとらんよ 472日本@名無史さん2017/11/27(月) 23:32:52.24
伊達郡というところがあって・・・
川俣町の話もしているし
機織りをしていた家の話とか
473日本@名無史さん2017/11/27(月) 23:43:15.98
これは一週間くらい前の話
母親が言うには
オレオレ(わたし)詐欺のようなものが流行っているので注意してください
という連絡が来たよと言っていたり、
振り込め詐欺と言っていたのかな?
銀行のほうに、お金を入れてください(振込)とか
神奈川県警から電話が来たみたいなんだけど
474日本@名無史さん2017/11/27(月) 23:43:30.40
>>469
デンパとヘイトスピーチと鸚鵡返しだけ毎日大量に書く
体力があるなら基礎的な知識を身につけろよジジイ
古代史に興味があるならの話だが 475日本@名無史さん2017/11/27(月) 23:44:12.08
>>465
>別種
は別種族と言う意味ではない。
対外的には同じ「倭国」であり「倭人」だ。
別種の王権と言うべきか?
王権が二系統(以上に)分かれていた時期は間違いなくある。 476日本@名無史さん2017/11/27(月) 23:50:50.93
405年 腆支太子は倭国において訃報を聞き、哭泣しながら帰国する事を請うた。三国史記
477日本@名無史さん2017/11/27(月) 23:53:53.48
>>475
その王権が二系統(以上に)分かれていたというのは
婚姻してた王統が? 478日本@名無史さん2017/11/28(火) 00:06:36.87
『菅野力夫』
写真を調べてみるとわかる、
頭部を持つ、あの写真なんかは『死刑』という意味だと思う
479日本@名無史さん2017/11/28(火) 00:28:02.32
セイントセイヤ?
スコーピオンの技も同じような感じがする
480日本@名無史さん2017/11/28(火) 00:28:37.23
>>477
異母兄弟でさえ殺しあっていた時代だからね。 481日本@名無史さん2017/11/28(火) 00:32:28.65
482日本@名無史さん2017/11/28(火) 00:32:45.58
偶然なのかな
兄:10月生まれ
年齢は違うけど、まらd−なと同じ
それと、いまは付き合いはないけど、
むかーし、銀□?とかいう親戚もいたよ、
家に凄い刀(謎の刀)が飾ってあって・・・・・
483日本@名無史さん2017/11/28(火) 00:32:59.45
484日本@名無史さん2017/11/28(火) 00:34:44.14
485日本@名無史さん2017/11/28(火) 00:38:02.45
>>458
>隋書の筑紫以東には王都はないという事が史料事実なんだから、
そんな史料事実はありません
ザラコクのいう「史料事実」はこの程度 486日本@名無史さん2017/11/28(火) 00:41:24.42
秦王国とか日高見の国などがあったような気がする。
487日本@名無史さん2017/11/28(火) 00:48:46.71
>>475
理由のない「間違いなく」w
w
w
w 488日本@名無史さん2017/11/28(火) 00:51:37.08
489日本@名無史さん2017/11/28(火) 01:04:37.94
>>469
他の甕棺がほとんど無いのさ
終わりだから死亡時の脈拍みたいに飛び飛び 490日本@名無史さん2017/11/28(火) 01:20:40.82
数年前の話になるけど、
このような書き込みをしている人がいたり
「本人だよ」
「本物です」
あの写真のことなのかな、キュウリの葉・・・などの写っている写真
491日本@名無史さん2017/11/28(火) 01:26:49.83
キュウリのような葉?
どこに住んでいた頃の写真なんだろう、
寺院に通っていたんだよと言っていたり
492日本@名無史さん2017/11/28(火) 01:32:42.86
>>489
畿内説は話のレベルを引き下げるだけで、役立たずだな。
印象悪いぞ。 493日本@名無史さん2017/11/28(火) 01:38:41.50
>>492
そんな悪口だけ言ってても、レベルを引き下げるだけで、役立たずだな。
印象悪いぞ。 494日本@名無史さん2017/11/28(火) 02:07:08.55
その写真の後ろのほうに写っているのは
イモ類の葉?だと言っていた(老婆談)
植物の研究家じゃないから、
詳しいことは、わからないけど、
そのように見える
495日本@名無史さん2017/11/28(火) 04:58:46.80
>>458
>筑紫邪馬壱国の王家が続いてる間は大和のほうは市で 、
>隋書の筑紫以東には王都はないという事が史料事実なんだから、
そんな史料事実がどこにある? 496日本@名無史さん2017/11/28(火) 05:18:54.79
『猫神やおよろず』
画像を調べてみると、
イモ類?を持っている画像が出てきたりするけど、
その写真なのかな
家の先祖なんだけど松傾、長竿?ウラシマン?トトロ?
497日本@名無史さん2017/11/28(火) 05:22:13.61
被災地、
福島県のほうに犯罪者でもいたのかな?
家の親戚の話ではないよ
498日本@名無史さん2017/11/28(火) 05:24:15.13
むかーし泥棒のようなものに入られたと言っていたり、
家に飾ってあった刀なんかも盗まれたのかな〜とか
謎の刀
499日本@名無史さん2017/11/28(火) 05:34:16.59
予言スレを読んでいるとき
千葉県が何やらと言っている人がいたり
・〜千葉県ばかり狙ってくるんだろう
とか
500日本@名無史さん2017/11/28(火) 05:50:11.65
>>456
>そら須恵器だろが <
中国の黒陶灰陶以来の「陶器」の伝統であり、
筑紫では弥生頃からの遺跡から、陶器様の土器が弥生土器と混在出土しており、
須恵器はその発展形に過ぎないんだよ。 501日本@名無史さん2017/11/28(火) 05:50:26.84
このような事を言っている人もいたような
・創価じゃないのか?
・創価なのか
502日本@名無史さん2017/11/28(火) 05:58:05.05
>>457
>>誹謗ヘイトスピーチをしているのは <
>お前だろ <
ヘイトスピーチは、「多数派から少数派への、排他的で敵対的な人種差別のキョクウの街宣」行為だよ。 503日本@名無史さん2017/11/28(火) 05:58:38.37
>>500
土師器は須恵器ではない
ザラコク以外には言うまでもないことだが 504日本@名無史さん2017/11/28(火) 06:00:34.64
505日本@名無史さん2017/11/28(火) 06:01:21.12
創価というのは何という宗派なんだろう、
もしかして・・・・本当に千葉県?と関係があるとか
506日本@名無史さん2017/11/28(火) 06:09:58.78
他のスレにも書いたけど、
家は創価?ではないんだよな〜
と言っていた
老婆の親戚が創価で・・・
というような事を言っていた
その謎の写真も老婆が生まれるよりも
前のものだし
507日本@名無史さん2017/11/28(火) 06:10:43.82
>>476
>405年 腆支太子は倭国において訃報を聞き、哭泣しながら帰国する事を請うた。三国史記<
この「倭国」も、筑紫倭国の事ですね。 508日本@名無史さん2017/11/28(火) 06:13:49.19
>>502
また朝から、ザラコクがウソ情報を流してるのか 509日本@名無史さん2017/11/28(火) 06:15:51.70
>>477
>その王権が二系統(以上に)分かれていたというのは 婚姻してた王統が?<
同じ部族や氏族から別れて、別の地に移って、
そこで前とは独立的な部族国家地域を確保した場合に、
別種と呼んだのでしょうね。 510日本@名無史さん2017/11/28(火) 06:25:49.39
聞きたいことがあるんだけど
お前の言う、
一系とは何なんだ?
511日本@名無史さん2017/11/28(火) 06:28:24.21
日本は島国だけど、
その地(いまの日本)が出来たころから住んでいた、
一族というのが・・・一系の家?
512日本@名無史さん2017/11/28(火) 06:36:39.67
>>507
その三国史記には、文武王の十年(671)に倭国が日本と名を改めたと書かれているよ
九州王朝説死んだね 513日本@名無史さん2017/11/28(火) 06:39:20.05
wikiによると
>大黒寺 (羽曳野市) - 大阪府羽曳野市にある曹洞宗の寺院。
>日本最古の大黒天出現の寺とされる。
覚明氏の話なのかな、
老婆も浅野セメントが何やらと言っていたり
514日本@名無史さん2017/11/28(火) 06:40:10.54
515日本@名無史さん2017/11/28(火) 06:41:53.56
それにしても老婆だよ、
なぜ詳しいのか?
クガだったかなクガという・・・も、いたよ
と言っていた
516日本@名無史さん2017/11/28(火) 06:49:11.40
それにしても、おかしいんだよな、
老婆は小学校しか言ってないよ
と言っているし
家のほうは・・・不明
517日本@名無史さん2017/11/28(火) 06:49:27.96
518日本@名無史さん2017/11/28(火) 07:06:27.06
>>517
それ、九州説の根拠だから。
白村江で九州の倭国が力を削がれ、畿内の倭国が台頭して670年からしばらく並存していたということになる。
倭と日本は、唐の皇帝の前で言い争いを始めて、宮廷からつまみ出された記録がある。 519日本@名無史さん2017/11/28(火) 07:15:48.93
そんな記録ないし
520日本@名無史さん2017/11/28(火) 07:27:47.53
旧唐書じゃないかな?
521日本@名無史さん2017/11/28(火) 07:28:18.17
>>518
それがなんで九州説の根拠になるんだ?
意味不明 522日本@名無史さん2017/11/28(火) 07:30:41.88
九州の倭国とは別に日本国が存在したということだからね。
523日本@名無史さん2017/11/28(火) 07:30:55.19
524日本@名無史さん2017/11/28(火) 07:33:11.35
>>522
670年に倭国が日本と名を改めたら
どうして
九州の倭国とは別に日本国が存在したということ
になるんだ?
支離滅裂 525日本@名無史さん2017/11/28(火) 07:37:06.20
旧唐書
倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。
日本国は倭国の別種である。
その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した。」とも。
526日本@名無史さん2017/11/28(火) 07:39:12.66
倭奴国すなわち倭国は金印を漢から授かった博多湾沿岸の国のことだからね。
日本国というのは、畿内政権のことだよ。
527日本@名無史さん2017/11/28(火) 07:40:48.77
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。」
・・・の方が正解ってことだな
倭国=日本だ
528日本@名無史さん2017/11/28(火) 07:41:48.17
529日本@名無史さん2017/11/28(火) 07:42:19.24
朝起きたら、フルタ説が死んでいた
530日本@名無史さん2017/11/28(火) 07:42:32.69
>>528
倭国とは倭奴国のことである、と書いてある。 531日本@名無史さん2017/11/28(火) 07:46:15.98
670年から701年までは倭と日本が併存したんだよ。
532日本@名無史さん2017/11/28(火) 07:47:37.28
>>530
むかしの倭奴国の地は、今は倭国の領地だ、って書いてあるだけだよ 533日本@名無史さん2017/11/28(火) 07:48:37.64
>>531
矛盾してるじゃないか
670年には倭国は日本と名を変えちゃったんだろ? 534日本@名無史さん2017/11/28(火) 07:51:26.90
>>533
それは三国史記の記事の方。
旧唐書は別の国として章を立てている。 535日本@名無史さん2017/11/28(火) 07:53:27.91
日本国は倭国から見て日の出る方にあるので日本という。
536日本@名無史さん2017/11/28(火) 07:55:43.27
>>534
旧唐書にも
「あるいは倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。」
とあるが? 537日本@名無史さん2017/11/28(火) 07:56:12.30
538日本@名無史さん2017/11/28(火) 07:56:39.82
539日本@名無史さん2017/11/28(火) 07:58:22.09
>>534
>旧唐書は別の国として章を立てている。
旧唐書はあちこち混乱してて、同じ一人の人に別の伝を立てたりしてるってさ 540日本@名無史さん2017/11/28(火) 07:59:16.52
541日本@名無史さん2017/11/28(火) 08:01:00.41
542日本@名無史さん2017/11/28(火) 08:03:39.61
「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。」
↓
倭国=日本
543日本@名無史さん2017/11/28(火) 08:05:48.93
>>518
>倭と日本は、唐の皇帝の前で言い争いを始めて、宮廷からつまみ出された記録がある。
なんて記録? 544日本@名無史さん2017/11/28(火) 08:06:35.44
ないね
545日本@名無史さん2017/11/28(火) 08:08:43.86
>>539
都合の悪い史料は無視したいと。
畿内説の常套手段ですね。 546日本@名無史さん2017/11/28(火) 08:09:49.27
実際には政権交代だったけど、名前を変えただけと言い張ったんだろうね。
547日本@名無史さん2017/11/28(火) 08:09:58.10
548日本@名無史さん2017/11/28(火) 08:10:40.80
549日本@名無史さん2017/11/28(火) 08:12:35.78
□□家などを調べてみるとわかるはず
『新設』という家があったりしない?
明治頃に作った・・・とか
550日本@名無史さん2017/11/28(火) 08:12:40.20
「670年から701年までは倭と日本が併存したんだよ。」説が即死した
551日本@名無史さん2017/11/28(火) 08:13:31.09
九州トンデモ説が負けると呟きが来るw
w
w
w
552日本@名無史さん2017/11/28(火) 08:14:51.76
何が呟きなんだ?
頭のビョーインに行ったほうが良いぞ
553日本@名無史さん2017/11/28(火) 08:15:49.76
以前から書いているけど、
九州説なんて支持していないんだけど
畿内説でもない
554日本@名無史さん2017/11/28(火) 08:16:27.16
555日本@名無史さん2017/11/28(火) 08:17:36.00
・川崎に住んでいるんじゃないの?
・川崎に住んでいるんでしょ
という書き込み、見たことがあるでしょ
556日本@名無史さん2017/11/28(火) 08:18:15.89
>>553
指摘された呟きが、急に弁解を開始しました 557日本@名無史さん2017/11/28(火) 08:18:58.45
頭のビョーインに行けと言ってるんだよ
558日本@名無史さん2017/11/28(火) 08:19:49.59
1000年経っても、黒を白と言いくるめる体質は変わっていない。
そうして成立したのが万世一系説だもんな。
559日本@名無史さん2017/11/28(火) 08:23:46.55
新唐書
王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。
彦瀲の子の神武が立ち、あらためて「天皇」と呼ぶようになり、都を大和州に遷した。
560日本@名無史さん2017/11/28(火) 08:24:23.45
>>558
つまり皇国主義九州説はミットモないということ 561日本@名無史さん2017/11/28(火) 08:24:59.79
人の家の名前を騙ったりするのは、
犯罪じゃなかった?違った?
562日本@名無史さん2017/11/28(火) 08:27:12.79
このようなコミックもそう、
なぜ川崎区の南部のほうの話なんだ?
『サイバーパンクspecial』
563日本@名無史さん2017/11/28(火) 08:28:46.58
ロト、ロス?
このようなキャラクターの住んでいるところ、
川崎区の南部
564日本@名無史さん2017/11/28(火) 08:32:30.27
ロトというのは、
このような家だと思うんだけど
『菅野力夫』
565日本@名無史さん2017/11/28(火) 08:33:50.91
九州説
負けて必死に
ログ流し
566日本@名無史さん2017/11/28(火) 08:34:48.03
『』内を調べても、
出てこない写真があるでしょ?
それが家の先祖の写真、
キュウリの葉、葱の華などの写っている写真
上のほうに貼り付けたもの
567日本@名無史さん2017/11/28(火) 08:38:24.49
古事記では倭という表記を多用しているが、日本書紀ではそのほとんどが日本と改められている。
例えばヤマトタケルは古事記では倭建命だが、日本書紀では日本武尊となる。
この変化が、倭国から日本国への政権交代と並行している。
568日本@名無史さん2017/11/28(火) 08:38:39.14
松の木(もみ??)の立てられた写真
これも以前から書いているけど
『松傾』と同じ家?
569日本@名無史さん2017/11/28(火) 08:39:15.31
畿内説は呟きでしか反論できなくなった。
570日本@名無史さん2017/11/28(火) 08:43:02.20
唐の時代に書かれた隋書では
倭国の朝貢は途絶えたとある。
唐の時代は何度も日本国から朝貢を受けており
倭国と日本国は別物の扱いである。
新唐書では、倭国の記述はなく
日本書紀の引き写しのような記述で
日本国が書かれている。
571日本@名無史さん2017/11/28(火) 08:46:51.59
本物なんだと言っているんだよ
震災後、
このような事を言っている人がいなかった?
「本人だよ」
「本物です」
572日本@名無史さん2017/11/28(火) 08:48:44.88
663年に白村江において行われた倭・百済と唐・新羅の決戦で倭国軍は大敗した。
自ら前線に赴いていた筑紫君薩夜麻が捕虜となり8年にわたり唐に抑留された。
筑紫には唐から郭務悰ら2000人の使節団が駐留したが、畿内大和ではなく筑紫を占領したのは、そこが倭国の首都だったからである。
668年、筑紫の使節団は帰国し、中大兄皇子は天智天皇として即位したが、その翌年には筑紫都督府が置かれ、同じ敗戦国の百済に置かれた熊津都督府と同様に唐の統治制度として機能し、倭国は独立国としての権限を喪失した。
旧唐書には倭国と日本国が分けて記載され、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。
三国史記の新羅本紀には「670年、倭国が国号を日本と改めた」、新唐書にも670年に「日本と號す」とあるが、国内にはその記録がない。
671年に天智天皇が死亡、翌年にはその王子である大友皇子を殺した大海人皇子(天武天皇)が実権を握った(壬申の乱)。
天武天皇は対外的な国史としての日本書紀(漢文)を編纂させ、歴史上の天皇への漢風諡号の制定などを行った。
日本書紀の最大のトリックは、神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することであった。
日本書紀の編纂と並行して禁書令が出され、8世紀初頭に記紀以外の多くの古代の記録が失われた。
倭国の政治および文化を継承するために、筑紫から多くの文物、人物、建物、地名が平城京に移動された。
筑紫が679年に水縄断層系によるM7.1の筑紫大地震、畿内が684年に南海トラフ地震と推定されているM8.4の白鳳大地震により被災している。
筑紫は震災からの復興もままならなず没落したと考えられる。
701年の大宝律令で行政単位が評から国・郡に改称され、九州から関東までの中央集権国家としての畿内政権が誕生する。
この大倭の表記が大和とあらためられ、以前から筑紫倭国に対して近畿を示すために用いていた日本国が列島全体の統一王朝の国号となり、ヤマトは畿内の地名に変化した。
こうして筑紫倭国は滅亡し、その権益は唐に朝貢(遣唐使)を再開する畿内大和政権が継承した。
573日本@名無史さん2017/11/28(火) 08:49:40.85
もしかして、筑紫の君の帰国と天武天皇の即位は同じ年?
574日本@名無史さん2017/11/28(火) 08:51:28.30
『猫稲荷』でしょ
あの川俣町の辺りの話とか、
誰か住んでいたのかな?
575日本@名無史さん2017/11/28(火) 08:52:00.68
どんどん堕ちてく九州説
576日本@名無史さん2017/11/28(火) 08:55:24.07
九州説が歴史学界から消えたのは
理の当然か
577日本@名無史さん2017/11/28(火) 08:58:21.82
白村江では倭国は48000を送り込んだが
その後の遣唐使では海を渡る技術が後退し
命がけの旅になり、1/4が遭難している。
578日本@名無史さん2017/11/28(火) 09:06:56.09
例えば、このように調べてみると
『牛頭天皇 山王宮 山王院』
>京都東山瓜生
このようなものが出てきたり、
家の先祖の写真?
それと上の名前も山王と同じだし、住んでいたところも
579日本@名無史さん2017/11/28(火) 09:08:07.76
580日本@名無史さん2017/11/28(火) 09:09:36.95
天王→天皇になったの?
581日本@名無史さん2017/11/28(火) 09:13:26.67
ジンムというのは?
初めは天王だったのかな、後に天皇になった?
582日本@名無史さん2017/11/28(火) 09:14:21.91
583日本@名無史さん2017/11/28(火) 09:18:05.02
本当におかしな話になってくる、
三貴神?
ヤマタイコクもなかった時代だしな〜
584日本@名無史さん2017/11/28(火) 09:23:29.21
日本に住んでいるのなら、
日本の法律を守れと言っている人もいたような
『円』
を使用していると言っている人もいた、お金の事だと思う
世界(地球)規模でいうと、
そんなモノは関係ないとなるのかもしれないけど
どうなんだろう
585日本@名無史さん2017/11/28(火) 09:29:27.57
嫌なら他の国へ行け・・・
他の国に住むんだな
とか
何の話だと思う、
チェーンソーのゲーム?
586日本@名無史さん2017/11/28(火) 09:31:37.04
何度、説明しても、わからない?
587日本@名無史さん2017/11/28(火) 09:39:36.25
まあ古墳時代マルっと無視して天智・天武の頃まで九州王朝があったとか笑止
そんなネタ説が世間に通用するはずもなく
九州説は無事無力化された
めでたしめでたし
588日本@名無史さん2017/11/28(火) 09:40:42.68
日本に戻って来るような事はするなよ
と書いている人もいたような、入国禁止?
589日本@名無史さん2017/11/28(火) 09:57:04.55
590日本@名無史さん2017/11/28(火) 10:07:46.28
591日本@名無史さん2017/11/28(火) 10:11:33.26
そうだよ、
昭和でいうと昭和53年頃でしょ?
592日本@名無史さん2017/11/28(火) 10:12:34.17
>>474
>デンパとヘイトスピーチと鸚鵡返しだけ毎日大量に書く
体力があるなら基礎的な知識を身につけろよジジイ <
だから、久住は、
「何故、 他の甕棺と比べて、祇園山の甕棺が50〜100も離れて突然出現したのか?」の、
説明が付けられていないんだろ?。
普通は、甕棺部族が甕棺埋葬をしていて、それを止めて別の埋葬形式に変えたんなら、
50年〜100年も後になって、突然甕棺を3個も殉葬に使う、
なんて事は起こり得ない事。
という事は、発掘報告者が、何か変な先入観を持っていたのだろう、という事になる。
>古代史に興味があるならの話だが<
古代史は、
通説大和説者が何やら非学問的なインチキをやっているらしい、
という事に関心があるだけだよ。 593日本@名無史さん2017/11/28(火) 10:12:37.00
1976、1978年、1980年とか
この辺りでしょ
594日本@名無史さん2017/11/28(火) 10:15:16.28
伊達郡川俣町という掲示板
読んでみた?
俺の友人の兄は、
□年生まれだよと言っている人がいたり
595日本@名無史さん2017/11/28(火) 10:17:00.31
1980年というと申歳だし
596日本@名無史さん2017/11/28(火) 10:21:01.09
山王で・・・申歳?
むかーし住んでいたというところも
伊達郡の
597日本@名無史さん2017/11/28(火) 10:25:40.52
>>592
簡単な話だよ
甕棺の時代はもう終わってて、生活用の大型甕を転用してるからだ
前の時代と繋がってないの
甕の設置の仕方も布留期の壺棺に近い 598日本@名無史さん2017/11/28(火) 10:26:23.77
「本人だよ」
「本物です」と言っている人がいたでしょ
本物だと言っているんだよw
なぜだと思う?
後から作ったような写真などがあるでしょ?ない?
599日本@名無史さん2017/11/28(火) 10:28:44.65
伊達郡と言う掲示板
・小生、川崎に住んでいるので詳しいですよ
と言っている人がいたり
神奈川県の川崎のことじゃないの?
600日本@名無史さん2017/11/28(火) 10:30:01.16
香野という家の話をしていたり、
家の話じゃないの?
601日本@名無史さん2017/11/28(火) 10:31:59.16
確か戸籍なんだけど、貼り付けなかった?
香野という家の名前が書いてあったり、
飯野という辺りの生まれ
602日本@名無史さん2017/11/28(火) 10:36:28.88
老婆も言っていたよ
子供の着ている白い服?
軍人の服ではないし、警官でもないと言っていた、
何の服なのか、知っている人いないのかな
603日本@名無史さん2017/11/28(火) 10:39:09.86
東だったか西福沢町というところがあって・・・・
調べてみると、確かに、あるし
604日本@名無史さん2017/11/28(火) 10:51:33.12
また負けて
九州説は
ログ流し
605日本@名無史さん2017/11/28(火) 11:01:29.37
>>590
古墳時代の実年代見直しが始まったばかりの頃だな 606日本@名無史さん2017/11/28(火) 11:03:32.48
>>485
>>隋書の筑紫以東には王都はないという事が史料事実なんだから、<
>そんな史料事実はありません ザラコクのいう「史料事実」はこの程度<
自竹斯國以東、皆附庸於俀。
何故このような変な文が挿入されたのか?、挿入する必要があったのか?、
を読み取らなければ、読んだ事にはならない、んだよ。 607日本@名無史さん2017/11/28(火) 11:06:23.29
608日本@名無史さん2017/11/28(火) 11:07:15.39
子供の帽子、
皿のようなカタチをしていない?
キュウリのような葉、
葱の華が写っていたり
609日本@名無史さん2017/11/28(火) 11:07:24.78
610日本@名無史さん2017/11/28(火) 11:08:08.36
>>606
史料事実が無かったと自ら証明するザラコク 611日本@名無史さん2017/11/28(火) 11:09:37.89
あの写真を貼り付けた後
本物だぞ
と言っている人がいたけど
何かの本家(直系など)の家なのかな
612subo2017/11/28(火) 11:20:32.48
613subo2017/11/28(火) 11:22:44.59
614日本@名無史さん2017/11/28(火) 11:24:49.38
>>606
「自竹斯國以東、皆附庸於俀。」
筑紫は倭の属国だそうです 615日本@名無史さん2017/11/28(火) 11:34:08.88
>>503
>土師器は須恵器ではない ザラコク以外には言うまでもないことだが <
Yahooの議論で、酸化焼成と還元焼成の違い位、知ってたよ。 616日本@名無史さん2017/11/28(火) 11:37:16.34
筑紫の東に倭の本体はなく、当然畿内でもなく、南にあったということ
そこは阿蘇を通って十余国を経て海岸に達したところにあった
617日本@名無史さん2017/11/28(火) 11:44:06.61
>>587
九州王朝説では年号の研究より700年までを九州王朝で、701年からがヤマト朝廷だと考えられていたが
別の研究で評から郡へ変わったのが同じ時期だと判明したんだよな
別々に研究さらたことが一致した珍しい例。 618日本@名無史さん2017/11/28(火) 11:47:02.88
>>616
太宰府にあったんじゃない?
筑紫って、もとは博多湾沿岸のことらしいし。 619日本@名無史さん2017/11/28(火) 11:48:30.20
620日本@名無史さん2017/11/28(火) 11:49:54.49
>>617
昔から知られていたことを
九州王朝説がパクっただけだよ 621日本@名無史さん2017/11/28(火) 11:55:56.68
>>616
史料に書かれてない方向に
勝手に行っちゃ駄目だろう 622日本@名無史さん2017/11/28(火) 12:02:30.74
>>621
熊本か宮崎か、
阿蘇、高千穂を通って宮崎に出るなら東と言えなくもない。
そもそも十余国のくだりは直接に方向は書いてないが 623日本@名無史さん2017/11/28(火) 12:03:42.67
結局九州に落ち着くのか。
624日本@名無史さん2017/11/28(火) 12:13:44.91
>>592
甕棺は周辺地域では最終X期には5基以下の規模で点在する
博多遺跡の方形周溝墓の周溝にも埋められている(在来系UC期)
筑後だけが最後まで小群をなしている
UB期からは山陰系大型壺と併行する
祇園山で突然再度出現するのではない 625日本@名無史さん2017/11/28(火) 12:23:25.31
626日本@名無史さん2017/11/28(火) 12:26:07.56
627日本@名無史さん2017/11/28(火) 12:29:32.99
>>622
>そもそも十余国のくだりは直接に方向は書いてないが
『又(「引き続き」の意)』とあるので
直前の「東」が生きている 628日本@名無史さん2017/11/28(火) 12:30:39.27
629日本@名無史さん2017/11/28(火) 12:31:26.72
属国
その東が倭の本国
630日本@名無史さん2017/11/28(火) 12:34:21.47
>>620
初めは気付かずに関連付けられてなかったんだよな。 631日本@名無史さん2017/11/28(火) 12:34:31.31
632日本@名無史さん2017/11/28(火) 12:38:02.14
633日本@名無史さん2017/11/28(火) 12:38:20.18
奈良時代の前後で日本語は古文と上古文で文法が大きく変わっている。
次に大きく変わるのは、戦国時代となる。
言語的には、それ以降は大きな変化はない。
つまり、日本語の変化は、九州から畿内、畿内から江戸に中心が移動した時に起きている。
その意味では、7世紀末に政変を想定するのは正しい。
634日本@名無史さん2017/11/28(火) 12:45:11.28
>>633
畿内から江戸に中心が移動したはわかるが
まず、7世紀末まで九州に中心があったことを証明しよう 635日本@名無史さん2017/11/28(火) 12:45:59.56
636日本@名無史さん2017/11/28(火) 12:47:37.06
>>633
道路一面が濡れている原因を、古田の失禁と想定するようなもの 637日本@名無史さん2017/11/28(火) 12:51:01.02
>>632
対馬から壱岐を東と捉えているなら、筑紫から宮崎を東と捉えることもまた可能。 638日本@名無史さん2017/11/28(火) 12:54:12.50
>>637
対馬から壱岐を東と捉えていないから、筑紫から宮崎を東と捉えることは不可能。 639日本@名無史さん2017/11/28(火) 12:57:19.70
7世紀に唐に負けて、外来文化を急速に導入したからじゃないの
701(大宝元)年の元日「文物の儀、是に備われり」
8世紀の木簡に、ペルシャ人役人とみられる名前もあるしな
640日本@名無史さん2017/11/28(火) 12:59:38.65
>>634
7世紀末まで九州に中心があったと考えた方が整合性があるということ。
直接の証拠ではないが、状況証拠。 641日本@名無史さん2017/11/28(火) 13:01:39.96
642日本@名無史さん2017/11/28(火) 13:01:43.00
643日本@名無史さん2017/11/28(火) 13:03:27.70
644日本@名無史さん2017/11/28(火) 13:05:29.26
竹取物語に登場するかぐや姫に求婚する五人の貴人のうち、石上朝臣麻呂、阿倍朝臣御主人、大伴宿禰御幸は実在の人物である。
残りの二人のうち、石作皇子は多治比嶋、車持皇子は藤原不比等であると言われる(不比等の母は車持氏であり、不比等は天智天皇の御落胤と言われるため)。
彼らの階位から、その年代設定は701年と特定され、それはまさに大宝律令が制定されて近畿大和が全国統一を実現した年である。
作品の成立はおそらく平城京遷都後であるが、設定としては都は藤原京であり、かぐや姫に求婚した帝は文武天皇になるのである。
車持皇子は最も卑劣な人物として描かれており、かぐや姫から車持皇子に与えられた課題は筑紫にいる龍の玉を持ち帰ることであった。
龍も玉も王権の象徴であり、それを筑紫から不当に奪うことを意味しており、筑紫から畿内への政権交代や政敵の粛清により台頭した藤原氏を批判していると解釈されている。
645日本@名無史さん2017/11/28(火) 13:07:37.68
万葉集の冒頭歌(巻1・1)は泊瀬朝倉宮の大泊瀬稚武天皇の歌である
「籠もよみ籠持ち(中略)山跡の国はおしなべて我こそ居れしきなべて我こそ座せ」である。
「そこを行くかわいいお嬢さん、どちらの家の方ですか。
私こそがヤマトの王であり、この国のすべては私のものなのです(だからあなたも私のものなのです)」
と解釈されている。
一般的には泊瀬朝倉宮を奈良県桜井市に、大泊瀬稚武天皇を雄略天皇(第21代)に比定するが、朝倉といえば筑後川流域の福岡県の地名でもあり、太宰府や高良宮にも近い筑紫倭国の中心地と想定される。
後の斉明天皇(第37代)の朝倉橘広庭宮はきちんと福岡県朝倉市に比定されている。
646日本@名無史さん2017/11/28(火) 13:11:23.46
竹取物語が書かれたのは平安時代じゃないの
647日本@名無史さん2017/11/28(火) 13:14:15.61
>>644
うそ八百
# 大伴大納言には、「龍たつの首に五色に光る玉あり。それをとりて給へ。」
筑紫にある、なんて言ってない 648日本@名無史さん2017/11/28(火) 13:15:39.69
649日本@名無史さん2017/11/28(火) 13:22:31.81
>>644
>車持皇子は最も卑劣な人物として描かれており、かぐや姫から車持皇子に与えられた課題は筑紫にいる龍の玉を持ち帰ることであった。
>龍も玉も王権の象徴であり、それを筑紫から不当に奪うことを意味しており、筑紫から畿内への政権交代や政敵の粛清により台頭した藤原氏を批判していると解釈されている。
車持皇子には、「東の海に蓬莱といふ山あンなり。それに白銀を根とし、黄金を莖とし、白玉を實としてたてる木あり。それ一枝折りて給はらん。」といふ。
あんた、嘘ばかり書いてるな。 650日本@名無史さん2017/11/28(火) 13:23:32.91
五色に光る玉と言ったら、伊勢神宮と籠神社だけにある五色の座玉のことか
651日本@名無史さん2017/11/28(火) 13:25:10.92
庫持の皇子は、策略を用いる人であり、朝廷には『筑紫の国に湯治に出かけます。』と言って休暇届を出しておいて、
かぐや姫の家には『玉の枝を取りに参ります。』と使いを出してから地方に下ろうとするので、
お仕えしている人々はみんなで難波までお送りした。
皇子は、『これは秘密で』と言って、お供の者も大勢は連れて行かず、身近に仕えている者だけを連れて出発した。
名目上、筑紫に行っていたように読める。
652日本@名無史さん2017/11/28(火) 13:27:34.70
653日本@名無史さん2017/11/28(火) 13:27:46.46
あれ?
大伴御行の大納言だっけ?
654日本@名無史さん2017/11/28(火) 13:29:26.46
古田説がどんだけデタラメか、よくわかる
655日本@名無史さん2017/11/28(火) 13:29:38.36
『筑紫の国に湯治に出かけます。』と偽りを言って出かけたんだろ
656日本@名無史さん2017/11/28(火) 13:30:26.18
うろ覚えは怖いね。
掲示板とは言え、気をつけなくては。
657日本@名無史さん2017/11/28(火) 13:30:29.07
九州王朝も偽りを言ってるな
658日本@名無史さん2017/11/28(火) 13:31:10.22
659日本@名無史さん2017/11/28(火) 13:33:16.85
九州王朝説の「史料事実」なんて、こんなもんさ
660日本@名無史さん2017/11/28(火) 13:34:11.01
「わが弓の力は、龍あらば、ふと射殺(いころ)して、頸の玉は取りてむ。遅く来る奴(やつ)ばらを待たじ」
とのたまひて、船に乗りて、海ごとに歩(あり)きたまふに、いと遠くて、筑紫(つくし)の方(かた)の海に漕(こ)げいでたまひぬ。
すまん、大伴の大納言だね。
661日本@名無史さん2017/11/28(火) 13:35:46.21
いつぞやの郡治を思い出す
トンデモ説の即負け
662日本@名無史さん2017/11/28(火) 13:38:35.84
397年 百済は人質として王子を倭国に出した(『日本書紀』、『三国史記』)
663日本@名無史さん2017/11/28(火) 13:39:04.22
「課題は筑紫にいる龍の玉を持ち帰ること」
大ウソ
664日本@名無史さん2017/11/28(火) 13:39:35.45
665日本@名無史さん2017/11/28(火) 13:40:30.25
>>662
この間から散発的に書き込んでいるそれは何の意味があるのさ? 666日本@名無史さん2017/11/28(火) 13:40:44.30
すぐにこっそり帰ってきてニセモノの玉を作らせるんじゃなかったか?
667日本@名無史さん2017/11/28(火) 13:41:26.82
668日本@名無史さん2017/11/28(火) 13:53:34.10
九州トンデモ説の最も悪い症状は
このように
ガセネタや珍解釈を
史料事実であるかのように
プロパガンダすること
だな
669日本@名無史さん2017/11/28(火) 14:06:08.99
斜め読みの弊害だ。
もっとじっくりと読むように心がけたい。
670日本@名無史さん2017/11/28(火) 14:26:23.36
>>669
人の取り違えはケアレスミスでも
「課題は筑紫にいる龍の玉を持ち帰ること」
は捏造だろう 671日本@名無史さん2017/11/28(火) 14:43:06.33
672日本@名無史さん2017/11/28(火) 14:47:31.31
「夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かず寝ねにけらしも」(巻8・1511、岡本天皇)
にある小倉山は普通なら京都市右京区の小倉山または奈良県桜井市今井谷の小椋山を思い浮かべるが、時代をよくよく考えればまだ平安京はおろか平城京もできていなくて近畿は過疎地だったので、九州小倉の小倉山であるべきである。
豊山八幡宮(北九州市八幡東区)の社伝には社のある山を古くは小倉山と読んだことが記されている。
北九州市周辺は九州を構成する四つの国(筑紫、豊国、肥国、熊襲国)の一つである豊国の中心地であり、穴門の豊浦宮や枝光の岡田宮など数多くの王宮が営まれてきた。
673日本@名無史さん2017/11/28(火) 14:49:57.76
もし本当に>>669の斜め読みの弊害なら、個人的なミスだよね
ということは
「龍も玉も王権の象徴であり、それを筑紫から不当に奪うことを意味しており、筑紫から畿内への政権交代や政敵の粛清により台頭した藤原氏を批判していると解釈されている。」の
「と解釈されている」が嘘だってことに、なるね? 674日本@名無史さん2017/11/28(火) 14:51:15.85
万葉集には高市岡本宮天皇が詠んだ国見の歌として
「山常(やまと)には 群山ありと とりよろふ 天乃香具山 登り立ち 國見をすれば 國原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし國ぞ あきつ島 八間跡(やまと)の國は」(巻1・2)
と紹介している。
奈良の香具山では海やカモメは見えない。
日本書紀によれば天岩戸事件の際に一書に曰く「天香山の金(かね)を採りて、日矛を作らしむ」とあり、天香山は鉱山でなければならない。
九州の中での比定地には諸説があり、香春岳一ノ岳や鶴見岳が比定されており、いずれも銅を産出する鉱山である。
675日本@名無史さん2017/11/28(火) 14:52:43.60
>>670
だから
「課題は筑紫にいる龍の玉を持ち帰ること」
は捏造だよな?
そんな課題は与えられていない 676日本@名無史さん2017/11/28(火) 14:53:16.70
まあ、直接は何の証明にもならないので、閑話休題ととらえてね。
677日本@名無史さん2017/11/28(火) 14:54:51.05
失礼、アンカミス
>>671
だから
「課題は筑紫にいる龍の玉を持ち帰ること」
は捏造だよな?
そんな課題は与えられていない 678日本@名無史さん2017/11/28(火) 14:56:06.94
679日本@名無史さん2017/11/28(火) 15:11:29.47
今回は簡単にバレたが、九州トンデモ説の言うことは裏を取らないと危ない
根拠を聞かれると逃げたり逆ギレしたりする奴は、まずクロ
680日本@名無史さん2017/11/28(火) 15:14:59.61
畿内説からも話題提供をどうぞ。
681日本@名無史さん2017/11/28(火) 15:18:48.12
682日本@名無史さん2017/11/28(火) 15:27:48.19
駅前商店街の方から来ました。
683日本@名無史さん2017/11/28(火) 17:36:35.03
>>512
>その三国史記には、文武王の十年(671)に倭国が日本と名を改めたと書かれているよ
九州王朝説死んだね<
ダメだよ。
何があったのか?を順番に書けば、
晋の惠帝への遣使の時に、倭國は「日本」とも名乗ったが、
その頃大和は倭國の別種の附庸国の旧小国であった。
そして大和は、「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」をして、
小野妹子が隋の文帝に「日本国」を名乗ったが、
文帝は俀國の附庸国が俀國の許しを得ていなかったから、文帝に叱られて?失敗し、
次の唐の武徳中に、唐に「日本国」の称号を認めた。
そして、白村江で戦ったのは倭国や倭衆や倭賊であり、
サチヤマが唐に捕らえられたので、倭国側は唐の官軍の渡来に対応出来ず
大和の天智が倭國側の代表として対応に当り、大和日本国が母国の処分は、
大和日本国が倭国を併合吸収後継をする事で、唐に了承して貰い、
それを671年に唐や新羅に「倭国が日本國と改称した」という曖昧な説明をしたから、
唐は「其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉」と怒ったが、
則天への遣唐使の説明で、則天が了承し、
だから通典が「倭一名日本」として、「倭国=日本国」と書いたが、
旧唐書や唐会要に「或云日本舊小國、併倭國之地」とバラされてしまった。
大和説がまた死んだ。 684日本@名無史さん2017/11/28(火) 17:50:49.49
>>517
>訂正
670年だった <
あっ、そうだったね。 685日本@名無史さん2017/11/28(火) 18:03:57.57
>>527
>あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。」
・・・の方が正解ってことだな 倭国=日本だ <
ダメだよ。
旧唐書と唐会要は、
倭國伝と日本国伝を、はっきり「違う国であった」、として書き分けている。 686日本@名無史さん2017/11/28(火) 18:05:41.76
>>529
>朝起きたら、フルタ説が死んでいた<
朝起きたら、大和説が、また死んでいた。 687日本@名無史さん2017/11/28(火) 18:15:56.66
>>683
>そして大和は、「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」をして、
>小野妹子が隋の文帝に「日本国」を名乗ったが、
>文帝は俀國の附庸国が俀國の許しを得ていなかったから、文帝に叱られて?失敗し、
ザラコクの作り話(藁 688日本@名無史さん2017/11/28(火) 18:16:46.33
渡来人
407年 春三月 倭人が東辺を侵し、夏六月にまた南辺を攻める。三国史記 (新羅本紀) より
689日本@名無史さん2017/11/28(火) 18:16:51.57
690日本@名無史さん2017/11/28(火) 18:18:22.87
>>542
>「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。」<
これが、釈日本紀記載の晋の惠帝の時の話で、
だからこの倭國は、筑紫の倭國。
>↓ 倭国=日本<
「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」以前の話。
そして以後は、倭國≠日本國。 691日本@名無史さん2017/11/28(火) 18:21:58.60
>>518
>倭と日本は、唐の皇帝の前で言い争いを始めて、宮廷からつまみ出された記録がある。<
これは、書紀の記録で、「白村江より前」の事件であったんでしょうね。 692日本@名無史さん2017/11/28(火) 18:22:28.64
>>690
>だからこの倭國は、筑紫の倭國。
日本になったんだろ?
いつ、また倭国に戻ったんだ?
支離滅裂だな 693日本@名無史さん2017/11/28(火) 18:26:15.04
>>546
>実際には政権交代だったけど、
(大和日本国は)名前を変えただけと言い張ったんだろうね。<
だから唐は、「其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉」と、
はっきり大和日本国の入朝者を非難した。 694日本@名無史さん2017/11/28(火) 18:26:26.96
>>683
隋書とぜんぜん違うじゃないか
すごい史料無視だ 695日本@名無史さん2017/11/28(火) 18:31:00.95
>>550
>「670年から701年までは倭と日本が併存したんだよ。」説が即死した <
いや、大和日本国が大宝元年を建元して正式に統治を始めたが、701年であるから、
670年から701年は、未だ併存状態。 696日本@名無史さん2017/11/28(火) 18:32:21.11
かぐやひめ男といい、ザラコクといい
九州説は、ウソばっかりついてるね。
697日本@名無史さん2017/11/28(火) 18:35:00.19
>>560
つまり国粋皇国史観大和説は、
「南→東」や「倭国=日本国」などの史料事実の否定曲解ばかりで、
ミットモないということ。 698日本@名無史さん2017/11/28(火) 18:36:12.77
699日本@名無史さん2017/11/28(火) 18:40:33.06
700日本@名無史さん2017/11/28(火) 18:41:52.39
>>690
>これが、釈日本紀記載の晋の惠帝の時の話で、
>だからこの倭國は、筑紫の倭國。
釈日本紀では坊主の戯れ言として否定してるはずだが 701日本@名無史さん2017/11/28(火) 18:42:21.37
>>576
大和説が、国民の3割しか支持がないのは、
理の当然か 。 702日本@名無史さん2017/11/28(火) 18:43:52.14
>>577
>白村江では倭国は48000を送り込んだが
その後の(大和日本国の)遣唐使では海を渡る技術が後退し
命がけの旅になり、1/4が遭難している。<
成程。 703日本@名無史さん2017/11/28(火) 18:46:34.98
>>581
>ジンムというのは?
初めは天王だったのかな、後に天皇になった?<
神武は、「大倭」職すら貰えなかった。
貰ったのは、欠史8代の内の4人。 704日本@名無史さん2017/11/28(火) 18:49:35.97
705日本@名無史さん2017/11/28(火) 18:52:38.81
>>587
670年の新羅の「倭國が日本と変わった」の情報の説明は、
しておいたよ。
また大和説が無力化された。
めでたしめでたし。 706日本@名無史さん2017/11/28(火) 18:56:49.42
, - ―‐ - 、
/ \
/ ∧ ∧ , ヽ
./ l\:/- ∨ -∨、! , ', さあみんな集まってー!
/ ハ.|/ ∨|,、ヘ なんでも大和の適当な作り話が始まるよー!!
|ヽ' ヽ ● ● ノ! l
. 〈「!ヽハ._ __ _.lノ |
く´ \.) ヽ. ノ (.ノ  ̄
\ `'ー-、 ___,_ - '´
` - 、 ||V V|| \
| || || l\ ヽ
707日本@名無史さん2017/11/28(火) 18:59:55.13
天津国(海の国)とまで言われた筑紫倭国は海運の技術に優れ、朝鮮半島にもしばしば侵攻していた。
その海軍が白村江で瓦解して、内陸の大和が主権を取ると、海軍力は著しく低下してしまった。
708日本@名無史さん2017/11/28(火) 19:02:12.64
>>597
>簡単な話だよ
甕棺の時代はもう終わってて、生活用の大型甕を転用してるからだ
前の時代と繋がってないの 甕の設置の仕方も布留期の壺棺に近い <
バカじゃねえかい?。
わざわざ50〜100前の甕を「棺に転用」するもんか。 709日本@名無史さん2017/11/28(火) 19:13:22.56
いいかげんだなことばかり
710日本@名無史さん2017/11/28(火) 19:14:57.52
>>708
>わざわざ50〜100前の甕を「棺に転用」するもんか。
誰も言っていないことを否定する脳弱 711日本@名無史さん2017/11/28(火) 19:17:56.32
九州説はオウム返しと作り話ばっかりだね
712日本@名無史さん2017/11/28(火) 19:23:01.15
自由に創作できるのうらやましいよねw
大学には入学できないけどw
資料の読み方や読解力など基本的な学力の欠如ねw
713日本@名無史さん2017/11/28(火) 19:25:39.62
714日本@名無史さん2017/11/28(火) 19:45:43.34
>>702
九州説信者は高校生程度の知識も無いのか 715日本@名無史さん2017/11/28(火) 20:01:13.25
完璧に通説vsトンデモの図式だね
716日本@名無史さん2017/11/28(火) 20:11:03.89
>>435
まえからおもてたが犬神せんせーのレスはきわどいなー
どーたく民族の悲劇とかんけーしてるんか? 717日本@名無史さん2017/11/28(火) 20:18:53.14
>>479
拳闘のひとやったか?
わえもけんぽーなろたで(やー 718日本@名無史さん2017/11/28(火) 20:24:54.46
>>546
物部なきあと色々ありましたやろなー(遠い目 719日本@名無史さん2017/11/28(火) 20:28:18.77
つぶやきせんせーのうったえたいことなんやねん??(はっきりいーなはれ
720日本@名無史さん2017/11/28(火) 20:35:29.53
>>644
すぺーすふぁんたじーか
うらしまの高速ロケット効果と並んで昔からりゃんぺんの科学技術が突っ走ってた証やね?(にっぽんにっぽん 721日本@名無史さん2017/11/28(火) 20:36:28.59
つうかここは無人スレ?
722日本@名無史さん2017/11/28(火) 20:38:00.92
わえしかレスしてへんやん?
おじーちゃんらもなんかいーなはれ(べつに喧嘩売らんし
723日本@名無史さん2017/11/28(火) 21:00:46.21
ありゃりゃほんま無人やん
ここニセスレやったか??
724日本@名無史さん2017/11/28(火) 21:19:57.63
ここは重複スレ。
725日本@名無史さん2017/11/28(火) 21:41:26.26
重複スレというのは2つあるんだよ。
726subo2017/11/28(火) 21:50:43.20
>>716
テンプレのアンフィクチュオニアなんかもろ部落用語だろ
歴史に興味もったのは部落からだから、東海アマブログや鳥取ループやら
銅鐸民族?もそうだよな 727日本@名無史さん2017/11/28(火) 21:56:10.46
王求禮伝
楊朝晟伝
處羅可汗伝
韋溫伝
旧唐書重複すれ
728subo2017/11/28(火) 21:58:03.68
>>720
海がめの上の新種の甲殻類の名はウラシマだそうな 729日本@名無史さん2017/11/28(火) 21:58:38.49
奈良県はそんな話題ばかりだな。
桜井市と天理市で仲違いしたり。
730日本@名無史さん2017/11/28(火) 21:59:27.93
731subo2017/11/28(火) 21:59:45.14
732subo2017/11/28(火) 22:01:51.41
>>722
最近ニュー速+の歴史スレに出入りしてるんや、ネトウヨが相手だけれど 733subo2017/11/28(火) 22:03:05.25
テンプレの節々に人権さんの臭いがするんだよ
734日本@名無史さん2017/11/28(火) 22:15:04.30
あんたには右翼さんの匂いがするんだよ
735日本@名無史さん2017/11/28(火) 22:17:08.84
九州説が乾杯したあと、暫く荒らしが酷くなるのは毎度のこと
736日本@名無史さん2017/11/28(火) 22:20:01.13
乾杯〜今、君は幸せの〜
737日本@名無史さん2017/11/28(火) 22:21:10.05
NHKの知恵の泉も酷かったな。
記紀には、ヤマトの地が外部勢力に征圧され、ヤマトに政権が始まると書かれている。
纒向の発掘に携わった考古学者も外部勢力の浸入を考えざるを得ないと言っている。
文献と考古学が一致する。
この事実を無視したらダメだよ。
738日本@名無史さん2017/11/28(火) 22:31:48.11
言ってる考古学者って、誰?
739日本@名無史さん2017/11/28(火) 23:09:36.61
suboはキウスか
740日本@名無史さん2017/11/28(火) 23:12:24.15
741日本@名無史さん2017/11/28(火) 23:21:53.30
>>614
>「自竹斯國以東、皆附庸於俀。」 筑紫は倭の属国だそうです <
その文は、(瀬戸内や大和だけではなく)竹斯國や秦王国も、俀の属国だ、と書いてあるんだよ。 742日本@名無史さん2017/11/28(火) 23:34:37.48
筑紫から達した海岸(難波)までは倭に附庸している
豪族に自治が認められている
阿輩臺が太鼓や角笛を鳴らして迎えに来た
743日本@名無史さん2017/11/28(火) 23:35:34.80
>>618
>太宰府にあったんじゃない?
筑紫って、もとは博多湾沿岸のことらしいし。 <
隋書の裴清が来た頃は、タリシホコのいた邪靡堆は、久留米であって、
「古宮」遺跡がそれであったらしい。
そして、618年に太宰府に遷都し、年号も「倭京」とした。 744日本@名無史さん2017/11/28(火) 23:38:00.78
筑紫の南に行くなど一言も書いてない
745日本@名無史さん2017/11/28(火) 23:52:28.97
太王碑(広開土王碑)より
391年(辛卯(耒卯)年)「百残新羅舊是属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡■破百残■■新羅以為臣民」
(そもそも新羅・百済は属民であり、朝貢していた。しかし倭が辛卯年(391年)に■を渡り百残・■■・新羅を破り、臣民となしてしまった。)
746日本@名無史さん2017/11/28(火) 23:55:58.10
>>624
>甕棺は周辺地域では最終X期には5基以下の規模で点在する
博多遺跡の方形周溝墓の周溝にも埋められている(在来系UC期)
筑後だけが最後まで小群をなしている
UB期からは山陰系大型壺と併行する
祇園山で突然再度出現するのではない <
何を講釈してんだい?。
問題は、祇園山の発掘報告が、墳裾の陪葬墓を300年以降にしている事。
何故祇園山の年代論を書かないんだい?。 747日本@名無史さん2017/11/29(水) 00:01:17.41
>>629
>属国 その東が倭の本国 <
「自竹斯國以東、皆附庸於俀」は、「皆」だから、それを否定している。
でなければ、「皆」なんて書く必要がない。 748日本@名無史さん2017/11/29(水) 00:01:40.19
>>746
書いてあるのにザラコクが知識不足で理解できていない 749日本@名無史さん2017/11/29(水) 00:03:07.35
>>747
なんで「皆」だと、それを否定していることになるのか
理由がまったく無い 750日本@名無史さん2017/11/29(水) 00:04:04.54
>>634
>畿内から江戸に中心が移動したはわかるが
まず、7世紀末まで九州に中心があったことを証明しよう <
「南≠東」で倭国は九州。 751日本@名無史さん2017/11/29(水) 00:06:25.54
>>746
祇園山の墳長からは土器が出てないから年代はわからない
裾部の集団墓群中の在来系甕棺はUC期 752日本@名無史さん2017/11/29(水) 00:07:45.32
>>636
道路一面が濡れている原因は、
大和説者らの尿入り一升瓶が割れたのと、
「南≠東」に負けた大和説者の涙だ、
と想定するようなもの 。 753日本@名無史さん2017/11/29(水) 00:08:07.30
「南≠東」は史料批判しないレベルの人
754日本@名無史さん2017/11/29(水) 00:13:43.53
>>654
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説が、どんだけデタラメか、よくわかる 。 755日本@名無史さん2017/11/29(水) 00:15:47.91
>>657
「南→東」などのように、
大和説者は、いつでも偽りを言ってるな。 756日本@名無史さん2017/11/29(水) 00:18:00.84
>>659
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説の「史料事実」なんて、こんなもんさ。 757日本@名無史さん2017/11/29(水) 00:20:59.80
>>661
いつぞやの「南→東」などの史料事実の否定曲解を思い出す 。
トンデモ大和説が、即負け 。 758日本@名無史さん2017/11/29(水) 00:23:09.26
>>662
>397年 百済は人質として王子を倭国に出した(『日本書紀』、『三国史記』) <
この倭国は、当然、(大和ではなく)筑紫の倭国。 759日本@名無史さん2017/11/29(水) 00:26:37.72
>>668
大和トンデモ説の最も悪い症状は、このように、
「南→東」などのような史料事実を否定曲解するガセネタや珍解釈を、
史料事実であるかのように プロパガンダすること だな 。 760日本@名無史さん2017/11/29(水) 00:31:02.15
>>679
今回も簡単にバレたが、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和トンデモ説の言うことは、
裏を取らないと危ない 。
根拠を聞かれると、こっそり逃げたり逆ギレしたりする奴は、
まずクロ。 761日本@名無史さん2017/11/29(水) 00:36:04.84
>>688
>渡来人
407年 春三月 倭人が東辺を侵し、夏六月にまた南辺を攻める。三国史記 (新羅本紀) より <
これの倭人も、(大和人ではなく)、当然「筑紫倭国人」になるね。 762日本@名無史さん2017/11/29(水) 00:41:05.85
>>692
>>だからこの倭國は、筑紫の倭國。<
>日本になったんだろ? いつ、また倭国に戻ったんだ? 支離滅裂だな <
倭国は景帝に、倭国が嫌で「日本国」を名乗ったが、
中国や半島は、意に介せず、「倭国」のままで、呼んでいた。 763日本@名無史さん2017/11/29(水) 00:45:03.67
>>696
「南→東」の嘘つき騙しといい 、「大和は(筑紫)倭国の別種の旧小国」の否定といい、
大和説は、ウソばっかりついてるね。 764日本@名無史さん2017/11/29(水) 00:50:07.55
>>700
>>これが、釈日本紀記載の晋の惠帝の時の話で、
>>だからこの倭國は、筑紫の倭國。<
>釈日本紀では坊主の戯れ言として否定してるはずだが<
釈日本紀は、倭国が「惠帝に日本国と名乗った」という、
大和説にとっては不利になる情報を、「ついうっかり」記載してしまったから、
逆に「信頼性が高くなる」の。 765日本@名無史さん2017/11/29(水) 00:52:14.44
>>708
また訂正。
バカじゃねえかい?。
わざわざ50〜100年も前の甕を「棺に転用」するもんか。 766日本@名無史さん2017/11/29(水) 00:58:06.18
>>764
ついうっかり記載したのでなく、これまでの戯れ言を紹介したうえで、きっぱり根拠なしと否定している。 767日本@名無史さん2017/11/29(水) 07:05:24.02
>>709
大和説者は、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しばかり。
九州説者は、知り得た情報の範囲内からの帰納的確率的推論だけ。 768日本@名無史さん2017/11/29(水) 07:12:53.90
>>710
>>わざわざ50〜100年前の甕を「棺に転用」するもんか。<
>誰も言っていないことを否定する脳弱 <
祇園山の発掘報告では、
本体の高冢墳丘や墳頂の埋葬を自体を300年位以後にし、
墳裾の陪葬墓群を50年位以上かかっての集団墓だ、
とい、う精神異常か?とも思えるような説明をしていたからだよ。 769日本@名無史さん2017/11/29(水) 07:15:49.41
>>711
「南→東」などの史料事実を否定曲解の嘘つき騙しをする大和説は、
簡単にオウム返しで批判されるような作り話ばっかりだね。 770日本@名無史さん2017/11/29(水) 07:23:26.48
>>712
「南→東」などのような史料事実の否定曲解の嘘つき騙しが、
自由に創作できる大和説者やは、うらやましいよねw。
踏み絵で大和説に賛成さえしておけば、
大学の研究員や、学芸員にはには採用して貰えるけどw。
資料の読み方や読解力など基本的な学力の欠如以下の、精神的な問題ねw 。 771日本@名無史さん2017/11/29(水) 07:26:05.18
>>714
「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘つき騙しの大和説信者は、
高校生程度の知識も良識も無い‥‥アホなのか ?。 772日本@名無史さん2017/11/29(水) 07:31:08.86
>>715
完璧に、
「史料事実からの帰納的確率的推論の九州説」vs「政府文部省や偏向学者やキョクウマスコミらのトンデモ大和説者」
の図式だね 。 773日本@名無史さん2017/11/29(水) 07:44:21.84
>>737
>NHKの知恵の泉も酷かったな。
記紀には、ヤマトの地が外部勢力に征圧され、ヤマトに政権が始まると書かれている。
纒向の発掘に携わった考古学者も外部勢力の浸入を考えざるを得ないと言っている。
文献と考古学が一致する。 この事実を無視したらダメだよ。<
大和は、大体、
出雲銅鐸系や毛人蝦夷系が平和に暮らしていたところに
九州から神武らが来て征服や荒らしまわりをし、
九州倭国からの神功応神の東征や、越のオホドらの政権奪取で、
ズタズタにされて生き延びたんだからね。 774日本@名無史さん2017/11/29(水) 07:53:51.66
775日本@名無史さん2017/11/29(水) 08:25:04.02
776日本@名無史さん2017/11/29(水) 08:47:10.47
奈良盆地なんて、筑紫、吉備、出雲、摂津などの草刈り場でしょ。
777日本@名無史さん2017/11/29(水) 08:50:55.90
>>742
>筑紫から達した海岸(難波)までは倭に附庸している<
竹斯國以東の、糟谷や那の津の秦王國から東の豊前〜国東海岸や、それ以遠の地域は、
「皆」俀に附庸している。
>豪族に自治が認められている 阿輩臺が太鼓や角笛を鳴らして迎えに来た<
書紀の記載は、筑紫倭國の存在や歴史を抹殺して、盗用造作した半分偽書であり、
殆ど信用出来ない。 778日本@名無史さん2017/11/29(水) 09:36:05.72
>>744
>筑紫の南に行くなど一言も書いてない <
中国にとっては、
倭國や俀國の都が九州北岸の竹斯國付近から南方の平野部の中にであった、
という事は既知であり自明。
だから、裴清らは、阿蘇へも行けて噴火の見聞も出来た。
そして裴清の最も重要な任務は、
中国や隋と対等な「天子」を称した夷人の「タリシホコや、その国の意図の確認と、
先代の文帝に、「日本国」を称して文帝に、
「これまで中国との国交を持って来た倭國の許可も得ないのはダメだ」
と叱られた小野妹子の國の大和日本国の位置や、俀國内の立場の確認であり、
前者は、「此後遂絶」として、断交状態で放置され、
後者は、大和日本国が、
九州北岸沿いの竹斯國や秦王國の一族であり、
(タリシホコの)阿毎氏の同族の分家の王族の一員として俀國の執政にも関与出来、
服装も中国と同じであった、
という事も確認出来た。
その事を示すのが、「自竹斯國以東、皆附庸於俀」という、一瞬奇妙に見える記載。 779日本@名無史さん2017/11/29(水) 09:51:53.78
>>745
>太王碑(広開土王碑)より
391年(辛卯(耒卯)年)
「百残新羅舊是属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡■破百残■■新羅以為臣民」
(そもそも新羅・百済は属民であり、朝貢していた。
しかし倭が辛卯年(391年)に■を渡り百残・■■・新羅を破り、臣民となしてしまった。)<
好太王の顕彰碑であるんだから、
高句麗や好太王の名誉を傷付けるような事を書く筈がないのであり、
「舊是属民由来朝貢」の「属民」は、(直接的な臣下ではなく)「従属していた国だった」、
という意味であり、
「破」も、高句麗側が倭國に「破られた」という不名誉な表現も書く訳がないから、
「高句麗側が倭國を破った」という意味であり、
だから「百残■■新羅以為臣民」というように、高句麗の直接的臣下にして、
その後の記載の「百済人や新羅人を守墓人にした」に繋がる事になる。 780日本@名無史さん2017/11/29(水) 10:18:45.25
>>749
>なんで「皆」だと、それを否定していることになるのか 理由がまったく無い<
若しも、大和に俀の都があったんなら、
九州上陸後の「竹斯國以東」は、「皆」大和の支配下であった、という事は当たり前の事で、
「皆」なんて強調断定文言を付ける必要が全くない。
だから、「皆」を付けたのは、「竹斯國以東の所属」という事が問題になっていたから。
つまり、「自竹斯國以東、皆附庸於俀」という、一瞬奇妙に見える注釈的説明文言が付けられたのは、
自竹斯國以東は、俀の直接的支配地ではなく、
(小野妹子が隋文帝に上申した)大和の日本國系の、(俀の間接的支配)地域であって、
その事を煬帝に報告しなければならなかったから。 781日本@名無史さん2017/11/29(水) 10:40:59.73
>>751
>祇園山の墳長からは土器が出てないから年代はわからない <
「土師器は全て墳丘裾部外周から出土している、弥生式土器片はまず採取されていないとして良い、
と報告書に記述される」だから、
その土師器から年代が推定できる。
>裾部の集団墓群中の在来系甕棺はUC期 <
その「在来系甕棺はUC期」とは、誰の何に関する(土師器なのか?甕棺なのか?)の、
どういう比定なのか?を書いてもらわなくっちゃ、
アホ男のダマシ宣伝にしか思えないよ。 782日本@名無史さん2017/11/29(水) 10:44:10.23
>>780
おかしなことばかり言ってるな
俀国の話なのに、竹斯國とか秦王国とか別の国の話が出てきてるんだから
それらと俀国の関係を書くのは当たり前だろう
発想がおかしい 783日本@名無史さん2017/11/29(水) 10:47:45.83
>>779
>「破」も、高句麗側が倭國に「破られた」という不名誉な表現も書く訳がないから、
無知だな
理不尽な襲撃を受けたから正当な反撃をしたんだ、決して侵略行為じゃない
という大義名分が書いてあるんあよ 784日本@名無史さん2017/11/29(水) 10:52:47.34
それよりも『松傾』は何者なの?
785日本@名無史さん2017/11/29(水) 10:57:19.17
>>758
>この倭国は、当然、(大和ではなく)筑紫の倭国。
理由も言わない連呼馬鹿
まるで右翼の街宣車 786日本@名無史さん2017/11/29(水) 10:59:31.51
>>766
>(倭國が晋の惠帝に日本国を名乗った事)
ついうっかり記載したのでなく、これまでの戯れ言を紹介したうえで、
きっぱり根拠なしと否定している。<
釈日本紀のような、平安期の「大和天皇家一元列島支配思想」に染まった半分✖書の、
「きっぱり否定」という判断説明記載など、何の根拠にもならない。
このような半分✖書に関しては、
「大和天皇家一元列島支配思想」を否定する事になる記録の「ついうっかり」の紹介の方が、
信頼性が高い事になる。
だから、釈日本紀の筆者は、「倭國が晋の惠帝に日本国を名乗った」記録を確かに見たから、
それをついうっかり紹介してしまった、
という事になる。 787日本@名無史さん2017/11/29(水) 11:03:47.00
>>774
朝から 「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘吐きダマシの大和説の応援をするな。
キリッ。 788日本@名無史さん2017/11/29(水) 11:05:03.76
>>781
>その土師器から年代が推定できる。
それがUC期だっつーの 789日本@名無史さん2017/11/29(水) 11:07:11.57
>>787
「南→東」などの史料事実を否定曲解=all畿内説
つまり正当な理由なく畿内説を全否定してるだけ 790日本@名無史さん2017/11/29(水) 11:09:20.39
>>786
日本語がムチャクチャ
無理して難しそうな言葉を使わず、等身大の言葉で話せばよい 791日本@名無史さん2017/11/29(水) 11:18:12.28
>>741
>>「自竹斯國以東、皆附庸於俀。」 筑紫は倭の属国だそうです
>その文は、(瀬戸内や大和だけではなく)竹斯國や秦王国も、俀の属国だ、と書いてあるんだよ。
別に大和が俀の属国だ、とは書いてないな。 792日本@名無史さん2017/11/29(水) 11:23:43.29
>>786
まちがった政治思想に染まってることと
言ってることが「ついうっかり」かどうかって
関係ないだろ 793日本@名無史さん2017/11/29(水) 11:27:29.25
>>762
九州王朝説の言い出すトンデモ説は
いつでもアヤフヤな出典からの想像だな 794日本@名無史さん2017/11/29(水) 11:33:19.51
>>778
>>筑紫の南に行くなど一言も書いてない
>中国にとっては、
>倭國や俀國の都が九州北岸の竹斯國付近から南方の平野部の中にであった、
>という事は既知であり自明。
はい、論破。
それ循環論法。 795日本@名無史さん2017/11/29(水) 11:35:47.28
隋書俀国伝の「經十餘國達於海岸」この文では十余国を経て海岸に達したってことは海に出たってことですよね、海路を経て陸地に着いたって意味には取れませんよね。
796日本@名無史さん2017/11/29(水) 11:39:53.66
>>777
>書紀の記載は、筑紫倭國の存在や歴史を抹殺して、盗用造作した半分偽書であり、
殆ど信用出来ない。
筑紫倭國の存在や歴史って、昭和の現代人が根拠もなく突然言い出したことであり、
全く信用出来ない。
殆ど信用出来ない。 797日本@名無史さん2017/11/29(水) 11:40:45.86
>>795
なんで「海に出たってこと」なの?
理由は? 798日本@名無史さん2017/11/29(水) 11:46:34.46
理由がないのはトンデモ説
799日本@名無史さん2017/11/29(水) 11:55:26.17
800日本@名無史さん2017/11/29(水) 11:56:16.27
>>782
>おかしなことばかり言ってるな
俀国の話なのに、竹斯國とか秦王国とか別の国の話が出てきてるんだから
それらと俀国の関係を書くのは当たり前だろう 発想がおか
しい <
おかしな事ばかり言ってるな?。
問題の原点は、
「自竹斯國以東、皆附庸於俀」というヘンテコな挿入文が、
都斯麻國と一支國の所属を書いていない、という奇妙さと。
「皆」なんて絶対断定文言を書く必要がなく、「自竹斯國以東、附庸於俀」で十分であった、
という事なんだよ。
その事が、この「大和説にクルった・・・・」には、おそらく永久に判らないんだろうね。 801日本@名無史さん2017/11/29(水) 12:00:16.10
>>785
>>「破」も、高句麗側が倭國に「破られた」、という不名誉な表現も書く訳がないから、<
>無知だな
理不尽な襲撃を受けたから正当な反撃をしたんだ、決して侵略行為じゃない
という大義名分が書いてあるんあよ<
「破」の主語が好太王であった、というんなら、別に構わんよ。 802日本@名無史さん2017/11/29(水) 12:02:55.94
803日本@名無史さん2017/11/29(水) 12:04:51.81
>>800
なんでヘンテコで、奇妙で、必要がないの?
理由は? 804日本@名無史さん2017/11/29(水) 12:15:11.03
>>785
>>この倭国は、当然、(大和ではなく)筑紫の倭国。<
>理由も言わない連呼馬鹿 まるで右翼の街宣車 <
もう何度も言って来た事であり、
白村江以後まで、列島盟主は筑紫倭国であり、
大和は、倭国の筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の、附庸国の旧小国であったから。
このように、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの大和説者は、
理由を言って上げても知らん振りして連呼する・・・・。
まるで右翼の街宣車。 805日本@名無史さん2017/11/29(水) 12:15:47.81
運転中急死5年で200人…巻き込み事故86件
脳や心臓の疾患が多くを占め
http://www.yomiuri.co.jp/national/20171117-OYT1T50031.html
2015 年 ノ ー ベ ル 文 学 賞
たくさんの人があっけなく死んでいく
ベンチに座ったまま バスを待ちながら
説明のつかない死が多かった
多くの人が脳卒中や心筋梗塞を起こした
駅やバスの中で(『チェルノブイリの祈り』)
吉田栄勝9(61)、運転中、突然死。 レ ス リ ン グ 吉 田 沙 保 里 の 父
鶴ひろみ(57)、運転中、突然死。 ド キ ン ち ゃ ん 、 ブ ル マ の 声 優
朝本浩文(53)、自転車で転倒。 U A , イ エ ロ ー モ ン キ ー 作 曲
小泉義仁(51) 、駅で脳梗塞。 ス ピ リ チ ュ ア ル T V テ デ ィ さ ん
小路啓之(46)、運転中、突然死。 リ カ ン ベ ン ト 運 転 の 漫 画 家
齊藤彰良(43)、がん。 グ ラ デ ィ ウ ス ・ ド ラ キ ュ ラ 伝 説
飯野賢治(42) 、心不全。 D の 食 卓 ・ エ ネ ミ ー ゼ ロ
松来未祐(38)、くも膜下出血。 「 ハ ヤ テ の ご と く ! 」
小林麻央(34)、乳がん。 フ リ ー ア ナ ウ ン サ ー
黒木奈々(32)、胃がん。 フ リ ー ア ナ ウ ン サ ー
今井洋介 (31) 、心筋梗塞。 テ ラ ス ハ ウ ス ・ 写 真 家
優(?)、急性心不全。 お お か み こ ど も の 雨 と 雪
ポムポムまゆゆ(23)、末期がん 渡 辺 麻 友 さ ん の 大 フ ァ ン
丸山夏鈴(22)、脳腫瘍、肺がん。 福 島 県 郡 山 市 出 身 ア イ ド ル
木村唯(18)、右足切断、筋肉腫。 花 や し き 少 女 歌 劇 団
松野莉奈(18)心筋梗塞。 私 立 恵 比 寿 中 学 り な な ん 806日本@名無史さん2017/11/29(水) 12:28:43.96
>>804
>もう何度も言って来た事であり、
だから、その結論オンリー連呼が街宣車だと 807日本@名無史さん2017/11/29(水) 12:39:26.10
>>786
釈日本紀が半分✖書はそのとおり
そんな個人レベルの記事に信頼性もクソもない
何も確認されてない、何も根拠もない坊主の話をおもしろかしく紹介して否定しただけ
こんなものが信頼性が高いとかいうお前の知性が全部#10006;だということを立証しているな 808日本@名無史さん2017/11/29(水) 12:40:17.06
>>800
「皆」って、なんで「皆」なんて絶対断定文言とやらなの? 809日本@名無史さん2017/11/29(水) 12:50:48.93
>>790
>日本語がムチャクチャ
>
>無理して難しそうな言葉を使わず、等身大の言葉で話せばよい
スレ主に言ってやれよ。 810日本@名無史さん2017/11/29(水) 12:52:01.75
テンプレはきちんとした日本語だろ
811日本@名無史さん2017/11/29(水) 12:57:40.84
>>804
>このように、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの大和説者は、
>理由を言って上げても知らん振りして連呼する・・・・。
いつ言ったし 812日本@名無史さん2017/11/29(水) 12:59:38.79
>>810
中二病的な背伸びした文章だよ。
そのくせ中身がない。 813日本@名無史さん2017/11/29(水) 13:02:00.40
と言う根拠は?
814日本@名無史さん2017/11/29(水) 13:03:27.54
815日本@名無史さん2017/11/29(水) 13:14:46.47
今日テレビ放映なので再度告知
偉人たちの健康診断「女王・卑弥呼のカミカミ健康法」
NHKBSプレミアム
2017年11月29日(水) 20時00分〜21時00分
816日本@名無史さん2017/11/29(水) 13:32:04.01
405年 倭兵が明活城を攻める 新羅本紀
817日本@名無史さん2017/11/29(水) 14:02:27.39
818日本@名無史さん2017/11/29(水) 14:52:37.02
これはひどい
痴呆と言われても仕方ない
819日本@名無史さん2017/11/29(水) 15:01:56.55
>>797
「經十餘國達於海岸」は「十余国を経て海岸に達した」ですから
国は陸に在るものですから陸上移動して海岸に達したですから
「海に出たってこと」でしょう。 820日本@名無史さん2017/11/29(水) 15:03:18.90
>>788
>>(祇園山)その土師器から年代が推定できる。<
>それがUC期だっつー<
じゃ、祇園山の発掘報告の「墳裾の主体群は4世紀初頭以後」説は、
「都出比呂志氏の表でも、赤塚古墳を箸墓古墳とほぼ同時期
(纏向3式=庄内2式。最近では布留0式とするのが多い模様)において、
それに先立つ時期(纏向2式=庄内1式)に祇園山古墳と妙法寺古墳を置き、
なかでも祇園山のほうを最古としている。」
に拠って、
完全に否定されていた、という事になる。
何せ、那珂八幡付近ですら、(大和ではなく)筑紫のUA〜UB期であり、
三雲の庄内は、筑紫のT期にまで遡るからね。 821日本@名無史さん2017/11/29(水) 15:04:29.41
>>819
「上遣文林郎裴C使於俀国 度百濟行至竹島 南望聃羅國經都斯麻國逈在大海中
又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏以為夷洲疑不能明也
又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀」
ずっと船 822日本@名無史さん2017/11/29(水) 15:10:30.71
>>789
>>「南→東」などの史料事実を否定曲解=all畿内説<
>つまり正当な理由なく畿内説を全否定してるだけ <
魏使らが方向を全く間違えない、という「正当な論拠」は、
もう、数え切れない位書いて来た。
このような、口先だけで世間の人々を騙そう、とするのは、安部らと同じであり、
皇国史観や国粋主義などの思想宗教にクルった・・・・人種であり、
まともな議論など、成立する筈がない。 823日本@名無史さん2017/11/29(水) 15:14:50.41
824日本@名無史さん2017/11/29(水) 15:17:06.65
>>790
>日本語がムチャクチャ <
普通の日本語。
>無理して難しそうな言葉を使わず、等身大の言葉で話せばよい <
要するに、客観的な史料事実の紹介はある程度信頼性もあるが、
その事実の解釈や説明は、筆者の人間性や思想宗教が含まれるから、
信頼性が落ちる、
という事。 825日本@名無史さん2017/11/29(水) 15:21:30.48
>>791
>>その文は、(瀬戸内や大和だけではなく)、
竹斯國や秦王国も、俀の属国だ、と書いてあるんだよ。<
>別に大和が俀の属国だ、とは書いてないな。<
自竹斯國以東「皆」、附庸於俀、
だから、大和も含まれる。 826日本@名無史さん2017/11/29(水) 15:22:38.66
>>823
經都斯麻國の後至一支國から經十餘國までずっと「又〜」
陸行したなど書いてない 827日本@名無史さん2017/11/29(水) 15:27:10.02
「南→東」基地は荒らし
相手にしちゃだめ
828日本@名無史さん2017/11/29(水) 15:29:44.68
>>825
「自竹斯國以東皆附庸於俀」は「達於海岸」後で
「俀王遣小徳阿輩臺従數百人設儀仗鳴皷角來迎 後十日又遣大禮哥多毗従二百餘騎郊勞 既至彼都」の前
だから、都の大和は含まれない 829日本@名無史さん2017/11/29(水) 15:30:37.10
>>792
まちがった政治宗教思想に染まっての史料事実の解釈説明には、信頼性がないが、
紹介した史料事実記録がその政治思想などを「ついうっかり否定する内容」であったら、
信頼性が高い。 830日本@名無史さん2017/11/29(水) 15:36:14.46
「ついうっかり」勘違いするのはザラコク
831日本@名無史さん2017/11/29(水) 15:37:17.25
>>793
記紀などの国粋皇国史観の大和説者の言い出すトンデモ解釈説明は、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しと同じように、
いつでも、普通の史料事実の出典紹介に対する否定曲解の嘘つき騙しの、
・・・・インチキだな。 832日本@名無史さん2017/11/29(水) 15:38:20.58
>>820
素人の書いたホームページの記事が
考古学者の書いた公式調査報告書を
完全に否定しても
あんまり意味がない 833日本@名無史さん2017/11/29(水) 15:44:26.41
>>794
>>>筑紫の南に行くなど一言も書いてない<
>>中国にとっては、
倭國や俀國の都が九州北岸の竹斯國付近から南方の平野部の中にであった、
という事は既知であり自明。<
>はい、論破。 それ循環論法。<
勿論「南≠東」が始めからの根拠であり、
魏使らが阿蘇山の見聞行をした事も述べておいた。
そして、この・・・・大和説者は、
「阿蘇山への見聞記録」の事を書いておいたのに、
それをこっそり隠した引用をした・・・・詐欺師である訳で。 834日本@名無史さん2017/11/29(水) 15:46:17.50
>>822
>魏使らが方向を全く間違えない、という「正当な論拠」は、
>もう、数え切れない位書いて来た。
書いたって証拠は? 835日本@名無史さん2017/11/29(水) 15:47:24.41
836日本@名無史さん2017/11/29(水) 15:51:19.96
>>829
>まちがった政治宗教思想に染まっての史料事実の解釈説明には、信頼性がないが、
>紹介した史料事実記録がその政治思想などを「ついうっかり否定する内容」であったら、
>信頼性が高い。
じゃあ「ついうっかり」するかどうかは
その人がどんな思想を信じてるかには
関係ないってことで、いいな? 837日本@名無史さん2017/11/29(水) 15:52:44.05
>>833
>魏使らが阿蘇山の見聞行をした事も述べておいた。
魏使らが阿蘇山の見聞行をした?
証拠は? 838日本@名無史さん2017/11/29(水) 15:55:53.87
>>396
>>書紀の記載は、筑紫倭國の存在や歴史を抹殺して、盗用造作した半分偽書であり、
殆ど信用出来ない。<
>筑紫倭國の存在や歴史って、昭和の現代人が根拠もなく突然言い出したことであり、
全く信用出来ない。<
歴代中国史書群での「南≠東」や、
唐会要の「西北接百濟、正北抵新羅」は筑紫しかない事であり、
翰苑でも「倭国は三韓の南」とはっきり記載している事などや、
考古での「金印」や「平原の21枚の尚方作鏡」の出土などの、
絶対的根拠がある。 839日本@名無史さん2017/11/29(水) 15:58:00.01
840日本@名無史さん2017/11/29(水) 15:58:21.07
祇園山と平原はどちらが古いんだ?
この一言で済むのに。
841日本@名無史さん2017/11/29(水) 16:04:42.57
>>833
>勿論「南≠東」が始めからの根拠であり、
そんなモンが、一体何の根拠になるんだ? 842日本@名無史さん2017/11/29(水) 16:05:41.53
正史の辺境の属国の記述だから、あの程度の記述(適当)になっているけど、、、
実際、派遣された役人の(風俗、移動)記録は膨大なものだったろうにね、残念だ。
843日本@名無史さん2017/11/29(水) 16:07:30.16
それでも食事や風俗など、短い語数でなるべく多く詰め込もうとした努力は見て取れる。
844日本@名無史さん2017/11/29(水) 16:08:02.22
6世紀の大規模噴火は榛名山だろう
火山爆発指数VEI5だから富士山の宝永大噴火と同じレベル
甲を着装した成人男性人骨が見つかっている
845日本@名無史さん2017/11/29(水) 16:08:42.00
岡上、妄想書くなよ
846日本@名無史さん2017/11/29(水) 16:09:44.05
>>797
>なんで「海に出たってこと」なの? 理由は?<
隋使らは、「海に達する」という地理的説明をしただけ。
倭は「山島」の国だから。
竹斯國に上陸して東して秦王国に来て、そのまま進めば十数か国を経して海岸になる、
という地理的説明を書いて、
改めてその先にも、「自竹斯國以東皆、附庸於俀」だとして、
秦王国から東へは行く必要がなかった、と言っているだけであり、
北は海であったんだから、「阿蘇山のある南の方へ向かった」事を説明している。 847日本@名無史さん2017/11/29(水) 16:10:22.49
>>824
>普通の日本語。
おかしい人は、自分がおかしいことが分からない 848日本@名無史さん2017/11/29(水) 16:11:45.34
>>846
>竹斯國に上陸して東して秦王国に来て、
上陸したなんて隋書のどこにも書いてない 849日本@名無史さん2017/11/29(水) 16:14:35.31
>>798
幾ら理由を説明してあげても、知らん振りして、
相手の言葉尻を切り取って、それを曲解否定して、
「理由がない」とほざくのは、
「南→東」などの史料事実の否定曲解お嘘つき騙しの、
トンデモ大和説の、思想宗教的な・・・・詐欺師。 850日本@名無史さん2017/11/29(水) 16:18:03.55
>>795
この投稿男って、いつも瞬間論破されてる大和説者の人?。 851日本@名無史さん2017/11/29(水) 16:20:33.67
>>802
>いわんよ 構う? <
それなら、へんてこな意味不明な文を書くなよ、・・・・アホ。 852日本@名無史さん2017/11/29(水) 16:22:11.86
>>849
>幾ら理由を説明してあげても、知らん振りして、
いつ、どこで説明したの?
あるある詐欺かな? 853日本@名無史さん2017/11/29(水) 16:22:54.11
854日本@名無史さん2017/11/29(水) 16:24:42.00
>>838
絶対的根拠があったら、どうして世間から信用されてないんだ? 855日本@名無史さん2017/11/29(水) 16:26:03.44
>>803
>なんでヘンテコで、奇妙で、必要がないの? 理由は?<
大和が俀で都があったんなら、
「自竹斯國以東皆、附庸於倭俀」とまでして、
都斯麻國と一支國の附庸関係を書かなかった不自然さと、
「皆」と絶対断定された事の不自然さがあるから。 856日本@名無史さん2017/11/29(水) 16:27:58.23
>>850
> >>795
> この投稿男って、いつも瞬間論破されてる大和説者の人?。
いや、その男は九州説だ 857日本@名無史さん2017/11/29(水) 16:29:35.49
>>855
「絶対断定」って何?
不自然だって理由は? 858日本@名無史さん2017/11/29(水) 16:31:20.23
859日本@名無史さん2017/11/29(水) 16:31:32.83
860日本@名無史さん2017/11/29(水) 16:34:13.04
861日本@名無史さん2017/11/29(水) 16:35:42.06
九州王朝説の狂った主張をしてるからね
862日本@名無史さん2017/11/29(水) 16:52:58.34
>>806
>>もう何度も言って来た事であり、<
>だから、その結論オンリー連呼が街宣車だと<
だから、
「結論オンリー連呼ではない」からこの大和説者は、
嘘吐きダマシの・・・・サギシであり、
怖いだけだから、放置すべきかと。 863日本@名無史さん2017/11/29(水) 16:53:43.21
>>822
>魏使らが方向を全く間違えない、という「正当な論拠」は、
方向を全く間違えない、ということに
「正当な論拠」があると思うこと自体
相当アブナイ人のような 864日本@名無史さん2017/11/29(水) 16:54:50.07
865日本@名無史さん2017/11/29(水) 17:13:20.92
>>807
>釈日本紀が半分✖書はそのとおり そんな個人レベルの記事に信頼性もクソもない <
いや、半分✖人間でも、「ついうっかり」史料事実を根拠にした主張をしてしまう事があるから、
その紹介された史料事実は、半分〇であった可能性が十分にある。
全否定は、✖。
>何も確認されてない、何も根拠もない坊主の話をおもしろかしく紹介して否定しただけ<
1000年位前の事とて、
不可知部分が殆どである自然や歴史においては、
「何も確認されてない、何も根拠もない」のという事の完全証明が不可能であるから、
紹介された史料事実や史料実態からの帰納的確率的推論をしておくべき。
>こんなものが信頼性が高いとかいうお前の知性が全部#10006;だということを立証しているな <
都合の悪い史料を完全否定しようとしているお前の、
知性は、完全にクルっている、という事の立証だな。 866日本@名無史さん2017/11/29(水) 17:16:50.43
>>808
>「皆」って、なんで「皆」なんて絶対断定文言とやらなの?<
「100%全部」を意味するから。 867日本@名無史さん2017/11/29(水) 17:18:49.56
>>811
>このように、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの大和説者は、
理由を言って上げても知らん振りして連呼する・・・・。<
>いつ言ったし<
2chに投稿を始めてからも、ずっと。 868日本@名無史さん2017/11/29(水) 17:21:58.02
>>814
>敗者の恨み言w <
これも、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの指摘に反論出来ず、
敗者になった大和説者やスレ主らの恨み言w。 869日本@名無史さん2017/11/29(水) 17:25:24.42
>>816
>405年 倭兵が明活城を攻める 新羅本紀<
この倭兵も、筑紫倭國系の兵の事ね。 870日本@名無史さん2017/11/29(水) 17:30:18.23
基本的に、倭とあれば筑紫のことなんだよ。
そうでないと言うなら、その根拠を示せと。
871日本@名無史さん2017/11/29(水) 17:33:02.05
, - ―‐ - 、
/ \
/ ∧ ∧ , ヽ
./ l\:/- ∨ -∨、! , ', さあみんな集まってー!
/ ハ.|/ ∨|,、ヘ なんでも大和の適当な作り話が始まるよー!!
|ヽ' ヽ ● ● ノ! l
. 〈「!ヽハ._ __ _.lノ |
く´ \.) ヽ. ノ (.ノ  ̄
\ `'ー-、 ___,_ - '´
` - 、 ||V V|| \
| || || l\ ヽ
872日本@名無史さん2017/11/29(水) 17:45:25.31
>>821
>「上遣文林郎裴C使於俀国 度百濟行至竹島 南望聃羅國經都斯麻國逈在大海中
又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏以為夷洲疑不能明也
又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀」
ずっと船<
竹斯國までは当然船。
そしてその後は「船」である事を示す文言がない。
そして、「自竹斯國以東皆、附庸於俀」というように、
都斯麻國と一支國 と、「竹斯國以東」とは、切り離された記載になっているから、
水行と陸行の違いであった可能性が高く、
また「又經十餘國、達於海岸」も「山島」内から達於海岸した、という可能性が高く、
また、全水行で難波に達した、というなら、
難波を示す地名が書かれていない、という事が全くの矛盾であり、欠陥説。 873日本@名無史さん2017/11/29(水) 18:01:13.92
>>826
>經都斯麻國の後至一支國から經十餘國までずっと「又〜」 陸行したなど書いてない<
「又」という文言が、
水行とか陸行とかの「同じ移動様態の反復」を示す、というものではない事は、
梁書の、
「又度一海千餘里、名未盧國、又東南陸行五百里、至伊都國。
又東南行百里、至奴國。又東行百里、至不彌國。
又南水行二十日、至投馬國。又南水行十日、陸行一月日、至祁馬臺國」
からも明らか。
(梁書は、魏志を誤読曲解しているけれども)。 874日本@名無史さん2017/11/29(水) 18:05:00.84
>>827
>「南→東」基地は荒らし 相手にしちゃだめ <
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの大和説者は、
「基地の荒らし」であり、
相手にしちゃだめ 。 875日本@名無史さん2017/11/29(水) 18:09:01.38
>>828
>「自竹斯國以東皆附庸於俀」は「達於海岸」後で
「俀王遣小徳阿輩臺従數百人設儀仗鳴皷角來迎 後十日又遣大禮哥多毗従二百餘騎郊勞 既至彼都」の前
だから、都の大和は含まれない <
「皆」は「100%全部」の意味だから、大和も当然含まれ、
大和は附庸地であり、俀の都ではない。 876日本@名無史さん2017/11/29(水) 18:10:24.00
>>873
梁書は陸行と書いているから上陸を明らかにしている
隋書には「又」という語だけで陸行を示すような語はない 877日本@名無史さん2017/11/29(水) 18:20:28.52
>>832
>素人の書いたホームページの記事が 考古学者の書いた公式調査報告書を 完全に否定しても
あんまり意味がない <
考古学者の書いた公式調査報告書を、
別の考古学者の都出比呂志氏が否定したんだから、
公式調査報告書の絶対信頼性が無くなった事になり、
二人で議論してはっきりしてくれればよい。 878日本@名無史さん2017/11/29(水) 18:23:00.06
>>834
>>魏使らが方向を全く間違えない、という「正当な論拠」は、
もう、数え切れない位書いて来た。<
>書いたって証拠は?<
2chや5chの投稿の中。 879日本@名無史さん2017/11/29(水) 18:35:22.38
>>835
>>>>その文は、(瀬戸内や大和だけではなく)、
竹斯國や秦王国も、俀の属国だ、と書いてあるんだよ。<
>>>別に大和が俀の属国だ、とは書いてないな。<
>>自竹斯國以東「皆」、附庸於俀、
だから、大和も含まれる。<
>含まれるって理由は?<
「皆」だから。 880日本@名無史さん2017/11/29(水) 18:42:03.27
>>836
>>まちがった政治宗教思想に染まっての史料事実の解釈説明には、信頼性がないが、
紹介した史料事実記録がその政治思想などを「ついうっかり否定する内容」であったら、
信頼性が高い。<
>じゃあ「ついうっかり」するかどうかは その人がどんな思想を信じてるかには
関係ないってことで、いいな?<
要は、史料事実そのものは確率が高いが、
その史料事実に関する後代史家の解釈や説明は、確率が下がる、という事。 881日本@名無史さん2017/11/29(水) 18:45:39.69
>>837
>>魏使らが阿蘇山の見聞行をした事も述べておいた。<
>魏使らが阿蘇山の見聞行をした? 証拠は? <
有阿蘇山。
其石無故火起接天者、俗以爲異、因行祷祭。
有如意寶珠、其色青、大[奚隹卵、夜則有光、云魚眼精也。 882日本@名無史さん2017/11/29(水) 18:49:08.68
>>878
ボケるのは速い
畿内説自体ボケてるが
テメーは立証できなことはわかった
ボケじゃん 883日本@名無史さん2017/11/29(水) 18:53:59.14
75だから早くない
884日本@名無史さん2017/11/29(水) 18:55:57.95
885日本@名無史さん2017/11/29(水) 18:57:50.31
>>881
>>魏使らが阿蘇山の見聞行をした? 証拠は?
>有阿蘇山。
>其石無故火起接天者、俗以爲異、因行祷祭。
>有如意寶珠、其色青、大[奚隹卵、夜則有光、云魚眼精也。
それのどこが
魏使らが阿蘇山の見聞行をした証拠? 886日本@名無史さん2017/11/29(水) 18:58:47.57
>>840
>祇園山と平原はどちらが古いんだ? この一言で済むのに。<
祇園山は、列島で現在知られた中で、
「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」を満たし得る唯一の墓だ。
平原は、列島で現在知られた中で、
「獻上・・・貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹」の「玉の女王」であった事を示し、
「明帝の下賜鏡が元になった21枚の尚方作鏡」のある、
列島唯一の墓だ。 887日本@名無史さん2017/11/29(水) 19:01:16.72
>>841
>>勿論「南≠東」が始めからの根拠であり、<
>そんなモンが、一体何の根拠になるんだ?<
九州の肯定と、大和の否定だ。 888日本@名無史さん2017/11/29(水) 19:01:31.91
>>880
>要は、史料事実そのものは確率が高いが、
>その史料事実に関する後代史家の解釈や説明は、確率が下がる、という事。
何の確率だ?
自分自身が何を言ってるのか
理解してないんじゃないか? 889日本@名無史さん2017/11/29(水) 19:04:37.93
>>886
つまり、あなたはデタラメを言っているわけですね? 890日本@名無史さん2017/11/29(水) 19:08:53.06
>>877
都出比呂志が裾部の在来系甕棺のUC期を否定してるのでもなんでもない 891日本@名無史さん2017/11/29(水) 19:09:14.44
892日本@名無史さん2017/11/29(水) 19:11:47.88
>>886
祇園山は学術調査では集団墓地
ド素人の茶話会レベルは問題外 893日本@名無史さん2017/11/29(水) 19:16:19.63
>>848
>>竹斯國に上陸して東して秦王国に来て、<
>上陸したなんて隋書のどこにも書いてない <
上陸していて、「又經十餘國、達於海岸」なら、
上陸して東行する先にある海岸だ、と大体の場所特定が出来るが、
上陸せずに水行のままで、「又經十餘國、達於海岸」であれば、
海岸場所特定が全く出来ず、勿論難波の特定も出来ず、
日本中のどこの海岸でも可能性がある事になってしまうような「アホな文」になってしまうから、
「水行」の「継続の否定」になる事になる。 894日本@名無史さん2017/11/29(水) 19:20:52.65
>>852
>>幾ら理由を説明してあげても、知らん振りして、<>
>いつ、どこで説明したの?<
2chから5chで。
>あるある詐欺かな?<
ないない詐欺かな?。 895日本@名無史さん2017/11/29(水) 19:23:29.10
>>893
「又至竹斯國 又東至秦王國」の後の「又經十餘國達於海岸」は
瀬戸内海ルートしかない
「自竹斯國以東皆附庸於俀」だから東端の難波になる
上陸して陸行したことなどは一言も書いてない 896日本@名無史さん2017/11/29(水) 19:27:11.85
>>853
>>>>「破」も、高句麗側が倭國に「破られた」、
という不名誉な表現も書く訳がないから、<
>>>無知だな 理不尽な襲撃を受けたから正当な反撃をしたんだ、決して侵略行為じゃない
という大義名分が書いてあるんあよ<
>>「破」の主語が好太王であった、というんなら、別に構わんよ。<
・・・
>意味不明だという理由は?<
「無知だな 理不尽な襲撃を受けたから正当な反撃をしたんだ、決して侵略行為じゃない
という大義名分が書いてあるんあよ」
という文が、意味不明。 897日本@名無史さん2017/11/29(水) 19:33:18.81
>>854
>絶対的根拠があったら、どうして世間から信用されてないんだ?<
いや、世間の国民の過半数は、九州説を信頼している。
信用しないのは、
安部政府や右翼マスコミや嘘吐きダマシの学会や教育界や、
思想宗教にクルッタキョクウらに騙された「国民の3割位」のアホ人種。 898日本@名無史さん2017/11/29(水) 19:39:36.21
>>857
>「絶対断定」って何?<
皆。
>不自然だって理由は?<
都斯麻國と一支國が、俀の附庸国でなくなってしまう事と、
国名を書かずに「海岸」では、日本中のどこの海岸でも可能性がある事になって、
「海岸」が不自然な記載になってしまう事など。 899日本@名無史さん2017/11/29(水) 19:44:54.54
>>865
半分✖書が引用しているゴミ坊主のザレ事について、
史料事実や史料実態からの帰納的確率的推論をしてみろ
それもできずにわめているだけなら、お前は自分が完全にクルっている、
という事を露呈したにすぎない 900日本@名無史さん2017/11/29(水) 19:45:03.79
>>897
>安部政府や右翼マスコミや嘘吐きダマシの学会や教育界や、
>思想宗教にクルッタキョクウらに騙された
など九州王朝説特有の罵声は「アンケートの九州説の1割」もおらんよ 901日本@名無史さん2017/11/29(水) 19:45:42.47
>>861
>九州王朝説の狂った主張をしてるからね <
大和説者は、
「南→東」や、
大和は、白村江の後まで、
「倭国の筑紫城の阿毎氏から別れた別種の附庸の旧小国であった」
という史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシのサギをしている・・・・だからね。 902日本@名無史さん2017/11/29(水) 19:51:28.59
>>863
>>魏使らが方向を全く間違えない、という「正当な論拠」は、<
>方向を全く間違えない、ということに 「正当な論拠」があると思うこと自体
相当アブナイ人のような <
魏使らの記録官は、当然周髀算経や礼記やストーンサークルの方向決定法を知っているから。
だから、
方向を間違える、ということに 「正当な論拠」があると思うこと自体
相当アブナイ・・・・のような 。 903日本@名無史さん2017/11/29(水) 19:59:08.12
>>876
>梁書は陸行と書いているから上陸を明らかにしている
隋書には「又」という語だけで陸行を示すような語はない <
だから「又」だけでは、水行の継続か?陸行の継続か?の、
根拠にならない。 904日本@名無史さん2017/11/29(水) 20:02:01.43
三国遺事より
390年 第十七代、那密王即位三十六年に、
王は三男の美海を送った。
倭王は彼らを抑留し、三十年も帰さなかった。
905日本@名無史さん2017/11/29(水) 20:02:49.40
>>884
>>「皆」だから。<
>「皆」だと何なの?<
原則は、「100%の断定」。 906日本@名無史さん2017/11/29(水) 20:07:46.73
「又」ダマシ
「陸行」ダマシ
「南→東」ダマシ
907日本@名無史さん2017/11/29(水) 20:22:23.75
NHKの番組完全に畿内説前提だな
908日本@名無史さん2017/11/29(水) 20:30:14.37
>>903
又東至一支國、又至竹斯國が水行であるのは明白なので
その後陸行が書いてなければ、又東至秦王國、又經十餘國も同じ水行 909日本@名無史さん2017/11/29(水) 20:30:58.15
910日本@名無史さん2017/11/29(水) 20:45:17.53
>>885
>>有阿蘇山。
其石無故火起接天者、俗以爲異、因行祷祭。
有如意寶珠、其色青、大奚隹卵、夜則有光、云魚眼精也。<
>それのどこが
隋使らが阿蘇山の見聞行をした証拠?<
明確な「伝聞」は「云魚眼精也」だけ。
そして、「有〜」文は原則として「俀人の案内に拠る実見」であり、
「其石無故火起接天者、俗以爲異、因行祷祭」は、
俀人が「行祷祭」をして説明するのを、隋使らが実見しないでは記録出来る筈がなく、
「有如意寶珠、其色青、大奚隹卵、夜則有光」も、
隋使らが直接実見記録しなければ、一々詳細を記録出来る筈がなく、
従って、隋使らの見聞行があった。 911日本@名無史さん2017/11/29(水) 20:51:33.93
>>886
>祇園山は、列島で現在知られた中で、
>「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」を満たし得る唯一の墓だ。
大きさ、殉葬など、互角だ。 912日本@名無史さん2017/11/29(水) 20:52:04.08
>>910
「有阿蘇山其石無故火起接天者 俗以為異因行禱祭 有如意寶珠其色大如雞卵 夜則有光云魚眼精也」が
後の「多珎物」の例で伝聞 913日本@名無史さん2017/11/29(水) 20:52:14.75
>>888
>>要は、史料事実そのものは確率が高いが、
その史料事実に関する後代史家の解釈や説明は、確率が下がる、という事。<
>何の確率だ? 自分自身が何を言ってるのか 理解してないんじゃないか?<
歴史的な事実であった確率だ。
自然科学的物理的な思考が出来ない、
「南→東」などの嘘吐きダマシの ・・・・アホの大和説者には、
理解出来ないかも知れんが・・・。 914日本@名無史さん2017/11/29(水) 20:58:38.30
>>890
>都出比呂志が裾部の在来系甕棺のUC期を否定してるのでもなんでもない <
何だ?、また甕棺編年と土師器編年とをごっちゃにして、誤魔化すんかい?。の
都出比呂志の「祇園山は庄内1であり、その中で古い方」というのは、
土師器編年の話だよ。 915日本@名無史さん2017/11/29(水) 21:03:34.51
>>892
>祇園山は学術調査では集団墓地 ド素人の茶話会レベルは問題外<
学術調査の「300年頃からの50年位に渡っての集団墓地」解釈を、
都出比呂志氏が、土師器編年で否定した、という事になっている。 916日本@名無史さん2017/11/29(水) 21:04:13.83
917日本@名無史さん2017/11/29(水) 21:04:20.18
918日本@名無史さん2017/11/29(水) 21:05:07.57
古田氏は筑紫の日向が福岡県西部であることまでは明らかにした。
だが、伊都が倭国の都であるというあるべき結論にあと一歩でたどり着かなかった。
それは、より後世の都や分都である太宰府や筑後に気を取られてしまったからだ。
919日本@名無史さん2017/11/29(水) 21:10:22.52
>>915
都出が集団墓地解釈を否定してる?
部分を引用してみろ 920日本@名無史さん2017/11/29(水) 21:11:16.72
>>895
>「又至竹斯國 又東至秦王國」の後の「又經十餘國達於海岸」は
瀬戸内海ルートしかない <
「水行」継続論なら、瀬戸内海に限る必要が全くなく、列島中どこにでも可能性がある事になり、駄文。
竹斯國から陸行論なら、海岸は秦王國から陸路で達する海岸だから、
九州東岸付近に限定される事になる。
>「自竹斯國以東皆附庸於俀」だから東端の難波になる
上陸して陸行したことなどは一言も書いてない <
「駄文」的なアホ解釈の結末。 921日本@名無史さん2017/11/29(水) 21:16:17.26
>>920
筑紫の東は豊前、その東は瀬戸内海
循海岸水行を陸行にするのと同じで
書いてないことを罵声と連呼で言張るだけの古田の手法 922日本@名無史さん2017/11/29(水) 21:26:14.63
>>899
>(釈日本紀)半分✖書が引用しているゴミ坊主のザレ事について、
史料事実や史料実態からの帰納的確率的推論をしてみろ<
「倭國遣使が晋の惠帝に日本国を名乗った」という情報は、
旧唐書や唐会要の「或曰、倭國自悪其名不雅、改爲日本」記載と一致しており、
晋書には、「東夷の幾つもの諸国が一緒に遣使した 」という記載であるから、
倭國がそれに参加していた確率が高く、
釈日本紀筆者は、晋書以外の記録を見ていた、という事にもなり、
3段階の一致情報であるから、一つの情報の確率が60%位であれば、三個あれば、90%位の確率になる。 923日本@名無史さん2017/11/29(水) 21:31:49.21
>>921
隋書俀国伝
隋書倭国伝
大和朝廷しかない
日の昇る 日の没する
陸行ごねてるアホは基礎知識が欠如してること確定 924日本@名無史さん2017/11/29(水) 21:33:39.14
925日本@名無史さん2017/11/29(水) 21:37:05.88
久しぶりに覗きに来た。
なにも進歩は無し。
撤収ー
926日本@名無史さん2017/11/29(水) 21:37:34.52
>>900
>>安部政府や右翼マスコミや嘘吐きダマシの学会や教育界や、
思想宗教にクルッタキョクウらに騙された <
>など九州王朝説特有の罵声は<
いや、「過半数以上」というのは、九州王朝説の話ではなく、九州説全体の話だ。
>「アンケートの九州説の1割」もおらんよ<
九州王朝説者であれば、現在でも関西の古田史学会だけでも会員は千人以上であった、と思うし、
北海道や東北や関東や中部や四国や九州の会などの支持者をいれれば、5000〜10000人位になるんだろうなあ。
それに、シンパの数を入れれば、どれだけになるのか?は想像も付かない。 927日本@名無史さん2017/11/29(水) 21:40:29.28
延々と水掛け論やってて楽しいんかいな?
9281 ◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:42:17.03
新スレ立てました。
http://2chb.net/r/history/1511957328/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 929日本@名無史さん2017/11/29(水) 21:42:26.14
>>904
>三国遺事より
390年 第十七代、那密王即位三十六年に、 王は三男の美海を送った。
倭王は彼らを抑留し、三十年も帰さなかった。<
この倭王も、好太王の頃だし、当然筑紫の倭國王の事だな。 930日本@名無史さん2017/11/29(水) 21:43:22.95
931日本@名無史さん2017/11/29(水) 21:45:26.52
>>920
「又至竹斯國 又東至秦王國」「又經十餘國達於海岸」
隋書俀国伝
隋書倭国伝
大和朝廷しかない
日の昇る 日の没する
陸行ごねてるアホは基礎知識が欠如してること確定 932日本@名無史さん2017/11/29(水) 21:45:47.00
>>926
古田史学会て素人老人が集まって茶話会や小旅行してるだけだろ 933日本@名無史さん2017/11/29(水) 21:47:05.57
>>907
>NHKの番組完全に畿内説前提だな <
トップもすげかえられて、
もう、国粋皇国史観戦争狂の安部自民の腰巾着の、
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説に成り下がってしまったもんな。 934日本@名無史さん2017/11/29(水) 21:47:06.51
>>726
くさいもんにはふたせー(ひさべつのゆらいなんやろなー
どーたくみんぞくにもりゃんめんすくねにもほこりあり(鎮守山のぼってきました(蓬莱は好い酒ぞ 935日本@名無史さん2017/11/29(水) 21:48:27.92
このスレもおわりにちかしきないせつ(いっくけんじょー
9361 ◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:49:35.94
>>922
『唐会要』倭国条に
「則天時、自言『其國近日所出、故號日本國。』蓋惡其名不雅而改之。」
とあり、旧唐書と同源です。
よって帰納が蹉跌しています。 937日本@名無史さん2017/11/29(水) 21:54:08.25
>>920
「又至竹斯國 又東至秦王國」「又經十餘國達於海岸」
隋書俀国伝
隋書倭国伝
大和朝廷しかない
日の昇る 日の没する
「筑紫国」云々でごちゃごちゃ言い
陸行ごねてるアホは基礎知識が欠如してること確定 938日本@名無史さん2017/11/29(水) 21:54:24.34
>>908
>又東至一支國、又至竹斯國が水行であるのは明白なので
その後陸行が書いてなければ、又東至秦王國、又經十餘國も同じ水行<
「又經十餘國、達於海岸」の「海岸」のような、水行続行では全く特定出来ない不完全は記載になる記録があるし、
阿蘇山への見聞行という「陸行」が書かれているので、
竹斯國の後は陸行。 9391 ◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:59:00.91
>>929
鉄鋌の分布や須恵器の成立過程から、広開土王・長寿王に対峙した倭国の王は畿内政権であることが確実視されます。 940日本@名無史さん2017/11/29(水) 22:00:29.42
>>938
「水行続行では全く特定出来ない」って
意味不明 941日本@名無史さん2017/11/29(水) 22:02:17.01
>>938
筑紫の後は東、九州の阿蘇は書いてない筑紫の南
阿蘇信仰は九州でも熊本しかやっていない
噴火の話はおそらく大和の都で聞いた6世紀に続いた榛名山のVEI5規模の大噴火と浅間信仰 942日本@名無史さん2017/11/29(水) 22:02:59.21
>>938
阿蘇山への見聞行という「陸行」
なんて書かれてないし 943日本@名無史さん2017/11/29(水) 22:04:03.65
>>870
越たには出雲つしまかいきょー(せとうちよーわからん
つくしは一部じゃね? 944日本@名無史さん2017/11/29(水) 22:04:26.53
>>912
>「有阿蘇山其石無故火起接天者 俗以為異因行禱祭 有如意寶珠其色大如雞卵 夜則有光云魚眼精也」が
後の「多珎物」の例で伝聞<
ダメだな。
「多珍物」は、当然「其俗〜」の内容全体であり、隋使らの実見聞記録そのもの。 945日本@名無史さん2017/11/29(水) 22:05:47.69
>>941
阿蘇山と榛名山を間違えるわけないだろ。
阿蘇山と明記されているわけだし。
畿内説は実にひどい誤魔化しをするな。 946日本@名無史さん2017/11/29(水) 22:09:33.33
947日本@名無史さん2017/11/29(水) 22:10:33.01
948日本@名無史さん2017/11/29(水) 22:12:17.33
>>945
阿蘇山と榛名山の混同じゃなくて、阿蘇と浅間
阿蘇山は6世紀に大規模噴火してないだろ
肥人は8世紀の初めでもまだ異人で
肥前から日向にかけてはアクセントが崩壊している地域 949日本@名無史さん2017/11/29(水) 22:14:34.59
>>944
「新羅・百済、皆以倭為大国、多珍物、並敬仰之、恒通使往来。」
で締めくくられる一文だから韓人からの伝聞情報だね 950日本@名無史さん2017/11/29(水) 22:15:54.00
>>941
ちんちんごしんたいのやま噴火してたんか(みょーな池あったの火口か
あそとまちがわんやろ(倭人もちゅおんくおれんもそれほどあほちゃうぞ 951日本@名無史さん2017/11/29(水) 22:19:26.95
阿蘇が火山を指す普通名詞だという説もある
952日本@名無史さん2017/11/29(水) 22:23:57.05
きょーはにゅーそく+で邪馬壹を滅ぼししクナの墓場が物部の巻向説披露したが反論なかったのー(わえは5chの王じゃな^^
953日本@名無史さん2017/11/29(水) 22:27:20.86
そりゃ相手にされんわ
954日本@名無史さん2017/11/29(水) 22:29:23.09
九州説には珍解釈ゴリ押し読みしか生きる道が無いから仕方がないとはいいながら
955日本@名無史さん2017/11/29(水) 22:31:24.01
あほかい
わえはにゅー+ではレスまっかじゃ(はやいところじゃ1れすに平均3れすくるぞな(あおりかたしっとるし
956日本@名無史さん2017/11/29(水) 22:34:30.34
>>921
>筑紫の東は豊前、その東は瀬戸内海 <
水行だけなら出雲方面の海岸にも行くし、関門海峡を通って四国のどこの海岸に行くし、
鳴門を通って南紀東海の海岸にも行けるし、
要するに、「海岸」は何の特定力もない、アホな駄文になる。
>循海岸水行を陸行にするのと同じで
書いてないことを罵声と連呼で言張るだけの古田の手法<
古田さんは、史料事実からの確率的推論。
それに対して、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
史料事実の否定曲解の罵声と連呼の嘘つき騙しばっかりの・・・・。 957日本@名無史さん2017/11/29(水) 22:42:08.85
ぎおんやまはしはかなみにひみこちゃう(いっくけんじょー
958日本@名無史さん2017/11/29(水) 22:43:05.26
>>923
隋書俀国伝 、
九州王朝しかない 。
日の昇る国は、晋の惠帝への「日本国の名乗り」以来の九州倭国の自称であり、
「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」の時から、大和が盗用した。
矛盾の一杯ある「水行」にごねてるアホ大和説者は、
基礎知識や人類の常識が欠如してる・・・・アホであることが確定 。 959日本@名無史さん2017/11/29(水) 22:43:55.32
ひらばるのみらーのはかがひみこかな(じしんなし
960日本@名無史さん2017/11/29(水) 22:45:23.12
>>930
>陸行の根拠なんか書いてない 願望 <
阿蘇山へ陸行。 961日本@名無史さん2017/11/29(水) 22:45:34.25
>>956
秦王國が抜けている
筑紫からではなくて、筑紫の東の豊前から出雲は北東
古田さんはキャッチコピーに辻褄を合わせるために史料曲解で書いてないことばかりをネタに商売していた
史料批判というとても大切なことを知ったときにはもう遅かった 962日本@名無史さん2017/11/29(水) 22:46:54.52
いよさんはくなのちかくじゃいずもかな(はなほじ
963日本@名無史さん2017/11/29(水) 22:47:30.82
>>922
何1つ資料事実から帰納的に説明されてない
こいつは知恵遅れに違いない
>一つの情報の確率が60%位であれば、三個あれば、90%位の確率になる。
これもお笑いw 964日本@名無史さん2017/11/29(水) 22:47:48.39
>>931
>「又至竹斯國 又東至秦王國」「又經十餘國達於海岸」<
海岸の地名か国名が書かれていない、という事が矛盾解釈。 965日本@名無史さん2017/11/29(水) 22:50:56.17
966日本@名無史さん2017/11/29(水) 22:51:26.65
967日本@名無史さん2017/11/29(水) 22:53:45.76
>>958
九州?
誰の目で見て「日の昇る国」に見える? 968日本@名無史さん2017/11/29(水) 22:54:11.19
>>964
達於海岸で文が終わってますから
何処かの場所に着いたんじゃなくて
陸地が終わる場所に着いたんですね。 969日本@名無史さん2017/11/29(水) 22:54:34.90
以前、真偽不明の事柄を積み上げれば積み上げるほど、それを基にした主張が真である確率はどんどん下がるよ、って指摘してあげたら、「確率のことを分かってない」と言い返してたきたキチガイを思い出した
970日本@名無史さん2017/11/29(水) 22:55:10.81
>>964
そんなに倭の都までの行程を事細かに書いてられない
南の行程など何も書いてない 971日本@名無史さん2017/11/29(水) 22:55:14.13
宮崎、大淀川流域、生目古墳群。
円形周溝墓、前方後円墳、三世紀後半〜。
魏志倭人伝と近い時代に、宮崎にかなりの労働力(人口集積)があったことが分かる。
畿内、ヤマトの旗を同じくする勢力。
女王国メンバーの投馬国だね。
972日本@名無史さん2017/11/29(水) 22:56:28.30
魏志倭人伝には、伊都国が千戸しか人がいないと書かれている。漢数字で千と万は間違えるはずはないので、実際千戸程度しかいなかったんだろうね。
もう一つ魏志倭人伝には、一大率が伊都国に置かれているとある。
3世紀半ばに大兵団が置かれていた場所の候補地は博多那珂地区しかない。
博多も区域としては伊都国に含まれるが、一大率が支配していたのだろう。
つまり伊都国は、平原周辺(王とその取り巻き)以外の大部分を一大率に召し取られたと考えると矛盾がない。
魏志倭人伝によると、
伊都国から奴国までは百里、奴国から不弥国まで百里とある。また不弥国からは南へ船で20日進むとある。
不弥国は周防灘に面した国と考えるのが妥当。
奴国は不弥国と伊都国の中間にある。地図を見ると遠賀川がその辺りにある。
遠賀川流域は、縄文時代〜弥生時代にかけての石器の一大製造拠点。その石器は九州全土に広がり、特に九州北部に強い影響力を持っていた。
また遠賀川流域の飯塚市から、行橋市には古くからルートがあり、関門海峡が通れなかった当時玄界灘と周防灘を結ぶ重要な迂回路であった。
奴国は2万戸の大国であり、遠賀川流域一帯の国であったと考えられる。
問題は不弥国である。
魏志倭人伝によると伊都国と同じように千戸しかないとある。壱岐ですら三千戸であることを考えるとかなり不自然。
行橋市の北は京都郡、苅田。
石塚山古墳など早期の前方後円墳がある。
巨大古墳のあるところは、労働力の集積地(非農業人口集積地)。つまり拠点地域。
不弥国も伊都国と同じように、大部分の領地を女王国に召し取られた可能性がある。
その地域支配の拠点が苅田辺りに作られていた可能性がある。
九州北部支配の拠点、博多那珂地区の一大率と苅田の駐屯兵団。少なくとも二ヶ所は魏志倭人伝の時代から存在。
973日本@名無史さん2017/11/29(水) 22:57:22.40
魏志倭人伝当時の九州状況
女王国とは、卑弥呼を共立した30ヶ国の総称。卑弥呼を王としているので、30ヶ国には王はいない。よって投馬国には、王の記述はない。
王がいる伊都国、狗奴国は女王国ではない。
狗奴国は邪馬台国と敵対する国、伊都国は服属する国属国である。
ちなみに邪馬台国も狗奴国も畿内の国ね。
奴国や不弥国、末盧国などにも王はいないが、同じ官が置かれている。これらの国々は、博多に置かれた一大率の管轄下にある国々である。
もちろんこれらの国々は女王国(卑弥呼を共立した30ヶ国)ではなく、女王国の管轄下にある属領である。
九州における女王国メンバーは、九州南部を中心とする五万戸を擁する投馬国で、九州一の大国である。投馬国は神武の本貫。 女王国まで12,000里、つまり不弥国と投馬国の境界まで12,000里である。
女王国の北、つまり投馬国より北は、一大率の管轄エリア。
一大率は、吉備と神武の本貫投馬国の兵団である。
974日本@名無史さん2017/11/29(水) 22:57:23.20
>>968
陸地が終わる場所に太鼓や角笛を鳴らして迎えに来るわけが無い 975subo2017/11/29(水) 22:58:10.33
確率というのは同質性、独立事象、確からしさが前提なんですね
976subo2017/11/29(水) 22:59:43.06
もう新スレ立てなくていいだろ
977subo2017/11/29(水) 23:07:19.54
ひで爺が新スレ立てているじゃないか
978日本@名無史さん2017/11/29(水) 23:10:27.14
>>936
>『唐会要』倭国条に 「則天時、自言『其國近日所出、故號日本國。』蓋惡其名不雅而改之。」
とあり、旧唐書と同源です。 よって帰納が蹉跌しています。<
唐会要は、列島遣使が、
倭国使を名乗った時の話は倭国伝に記載し、
日本国使を名乗った時の話は日本国伝に記載する、という事を徹底しており、
だから、則天の時に、
大和日本国側の「長安三年、遣其大臣朝臣眞人來朝、貢方物」とは別の、倭国を名乗った遣使がいて、
彼らが、則天の疑問に答えて、晋の惠帝に「日本国」を名乗った事を伝えて、則天の承認を受け、
それを旧唐書と唐会要が、日本国伝の「或〜」記録に記載した、
という事になり、
帰納は蹉跌していないんですよ、スレ主さん。 979日本@名無史さん2017/11/29(水) 23:10:42.84
980日本@名無史さん2017/11/29(水) 23:13:39.06
>>974
「明年 上遣文林郎裴C使於俀国 度百濟行至竹島 南望聃羅國經都斯麻國逈在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀」
この文は裴世清が見分してきた俀国の地理だ
陸地が終わる場所で太鼓や角笛を鳴らして迎えられたのではない
海辺に都があり、その先には進まなかったの? 981日本@名無史さん2017/11/29(水) 23:14:18.53
982日本@名無史さん2017/11/29(水) 23:16:15.47
>>978
>大和日本国側の「長安三年、遣其大臣朝臣眞人來朝、貢方物」とは別の、倭国を名乗った遣使がいて、
>彼らが、則天の疑問に答えて、晋の惠帝に「日本国」を名乗った事を伝えて、則天の承認を受け、
史料から離れて空想しすぎ 983日本@名無史さん2017/11/29(水) 23:18:06.61
984日本@名無史さん2017/11/29(水) 23:21:01.19
985日本@名無史さん2017/11/29(水) 23:23:32.55
986日本@名無史さん2017/11/29(水) 23:23:51.18
>>939
>鉄鋌の分布や須恵器の成立過程から、広開土王・長寿王に対峙した倭国の王は畿内政権であることが確実視されます。<
その情報の詳論を聞かなくっちゃ判断出来ないが、
まずは、大和は、
倭国の筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の附庸國の旧小国であるから、
広開土王・長寿王との直接的対戦相手ではないから、
×だ、という事になる。
また、敵国に武具や鉄鋌を贈る事なんてありえないし、
須恵器は、筑紫が断然早いかった事も十分に有り得るから、
スレ主の論理は一杯矛盾が有りそう。 987subo2017/11/29(水) 23:23:55.56
太鼓の歴史は古いんだな
988日本@名無史さん2017/11/29(水) 23:24:12.34
三国史記の
文武王十年十二月「倭國更號日本 自言近日所出以爲名」
と一致
989日本@名無史さん2017/11/29(水) 23:25:39.75
990日本@名無史さん2017/11/29(水) 23:28:33.59
>>985
>>974の考えでは海辺が目的地で名称は書かれていないが倭の都なんでしょ
何で目的地である都の名前が書かれてないの? 991日本@名無史さん2017/11/29(水) 23:29:57.28
>>940
>「水行続行では全く特定出来ない」って 意味不明 <
水行続行での海岸に達するでは、大和の特定には全くならない、という意味。
そして、そんな不完全は説明では、煬帝への位置説明には全くならず、
処罰される可能性もある。 992日本@名無史さん2017/11/29(水) 23:30:10.62
>>990
ただの外港で、都まではまだ距離があるからだろ 993日本@名無史さん2017/11/29(水) 23:31:40.57
994日本@名無史さん2017/11/29(水) 23:33:39.03
>>992
何で途中で書くの止めたんだ?
倭の都に行ったんなら書かなくちゃ報告書として不完全だろ。 995日本@名無史さん2017/11/29(水) 23:35:05.54
>>990
「俀王遣小徳阿輩臺従數百人設儀仗鳴皷角來迎 後十日又遣大禮哥多毗従二百餘騎郊勞 既至彼都」
海辺が目的地ではない 996日本@名無史さん2017/11/29(水) 23:35:51.27
>>941
>筑紫の後は東、九州の阿蘇は書いてない筑紫の南 <
阿蘇山と書いてある。
>阿蘇信仰は九州でも熊本しかやっていない<
豊後水道や筑紫海岸からも噴煙が見えた話があるから、
筑後付近からなら、噴煙が見える可能性が十分ある。
>噴火の話はおそらく大和の都で聞いた6世紀に続いた榛名山のVEI5規模の大噴火と浅間信仰 <
見えなくっちゃ書く事もない。 997日本@名無史さん2017/11/29(水) 23:36:23.55
998日本@名無史さん2017/11/29(水) 23:37:20.18
九州説はレスで引用されたところだけ読んで
隋書読んでないんじゃないのか
999日本@名無史さん2017/11/29(水) 23:37:24.91
>>996
>阿蘇山と書いてある。
裴世清の旅路の中に書いてないよ
彼は見てない 1000日本@名無史さん2017/11/29(水) 23:37:47.07
また九州説の負けか
lud20210323205958ca
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