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邪馬台国畿内説 Part304 ->画像>3枚


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1◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:08:48.10
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
 もう確定なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://2chb.net/r/history/1511645403/

◆0【 要 旨 】
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。それは畿内に中国文化が急速に浸透する時期でもある。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者は倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。

2◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:09:37.71
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある 
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。

3◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:09:57.43
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。

4◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:10:24.24
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。

5◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:11:16.87
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。

6◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:11:40.89
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

7◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:12:07.91
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。

 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

8◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:13:12.34
◆6−2
 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 
 

9◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:13:22.80
◆6−3
 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。

10◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:13:52.92
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器UB(布留0新相〜布留T古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪W期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪X期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はUA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生X期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

11◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:14:19.68
◆7−2
 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器TB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。

12◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:14:47.02
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。

13◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:15:07.21
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf


◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収

●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」

●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」

14◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:15:29.79
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 TA期ー 大和庄内0〜1    ー 河内庄内T〜U
 TB期ー 大和庄内2〜3    ー 河内庄内U〜V ●纒向矢塚、矢藤治山                  
 UA期ー 布留0古相      ー 河内庄内V   ●箸墓、権現山51号
 UB期ー 布留0新相〜布留1古ー 河内庄内W〜X  ●西殿、桜井茶臼山、黒塚、
                            浦間茶臼山、西求女塚
 UC期ー 布留1中相〜布留1新ー 河内庄内X〜布留T●椿井大塚山、神原神社、
                            メスリ、行灯山、祇園山

15◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:15:48.86
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。

 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

16◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:16:12.73
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
 逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
  「泝流」が6回
  「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。

17◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:16:31.94
◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
よって、倭人伝の里程にも「南」という方位にも、致命的な誤りが含まれていることに疑問の余地がない。(※)
 具体的には、三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて「南至邪馬壹國」の「南」にも錯誤を認めない限り、倭地は会稽はおろか許都ほどの南としか認識出来ないことから、倭の中心地が「會稽東冶之東」と記述されることは有り得ない。
 或いは、東冶の「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことも、角を矯める愚を犯すに等しい。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)

※ 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里
 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里
 南海郡:雒陽南七千一百里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪起点として、会稽より稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。

18◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:16:55.86
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。


◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。

19◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:17:22.08
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第X様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
 

20◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:17:41.68
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。

21◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:18:21.78
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
  
 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。

22◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:18:45.92
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
 畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
 逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
 

23◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:19:12.13
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
 遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。


◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
 

24◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:19:35.07
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
 万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。

25◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:20:05.43
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
 
 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
 
 

26◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:20:28.89
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。


◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!


A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
 

27◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:20:51.63
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
  これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
邪馬台国畿内説 Part304 	->画像>3枚
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。

 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
 

28◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:21:21.03
◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
 
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
  この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
 箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。

・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等
 

29◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:21:43.02
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。


◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。

30◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:22:11.33
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。

 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
 

31◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:22:32.86
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。

32◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:22:51.38
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
  弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。

 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
 九州説にとって不利な条件と言える

33◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:23:12.82
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。

34◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:23:43.04
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
 
 

35◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:24:13.46
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?

A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
 

36◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:24:47.11
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪W期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
 
 

37◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:25:07.39
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。

38◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:25:29.24
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。

39◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:25:47.18
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。

40◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:26:07.93
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。

41◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:26:33.10
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠紹煕本)へと敗走している。行き先が東冶の候官(福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝に明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。

42◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:27:08.13
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。

※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
 

43◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:27:53.12
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓X期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓X期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓U類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
 
 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶T期は久住UB期に併行するが、申が同じT期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓X期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓T類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内U〜V(久住TB〜UA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓X期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
 
 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
 
 

44◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:28:15.36
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1BU型式→ 1BV型式→ 1BW型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BV〜W型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1BU型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BV−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BW型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1BU型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BV型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BW型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1BU型式新段階が楽浪木槨墓X期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓X期は下大隈式に後続する西新(T式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

45◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:28:34.78
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。

46◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:28:59.30
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
 

47◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:30:31.52
◆FAQ 46−1
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。
 
 

48◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:30:44.51
◆FAQ 46−2
 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(XA)と既に消失したもの(XB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがT型、無いものがU型と呼称される。
 
 この前半タイプT型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
 

49◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:31:04.92
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。

50◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:31:26.19
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。

51◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:31:46.67
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「婼羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。

52◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:32:07.17
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
 

53◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:32:24.19
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。

54◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:32:43.86
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓X期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。

55◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:33:03.71
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定

56◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:33:24.09
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである.
が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。

居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。

57◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:33:43.55
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
 

58◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:34:04.02
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。

59◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:34:26.36
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。


(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絕二千里。
(精絕國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通扜彌四百六十里。
(罽賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏秅國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與罽賓、北與撲挑、西與犂靬・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與罽賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。

                (以上、漢書西域上)
 

60◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:36:28.85
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣がある。「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。
ここで交州〜交趾の約5,000里が現代の航路で900kmであるから(「靖尋循渚岸五千餘里」許靖伝 )往時航路の紆曲と心理的負担感及び苦難の誇張を加味した倍率として認識しつつ、この比率を上記に乗ずると、7,200里が得られる。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。

61◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:37:41.58
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏蝉県が温泉郡城峴里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
 
 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

62◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:38:32.41
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】なし

63日本@名無史さん2017/11/29(水) 23:16:56.24

64日本@名無史さん2017/11/29(水) 23:39:44.36
しかし、今時の九州論者って史料ろくに読んでないんだな
考古学の知識もないし

65日本@名無史さん2017/11/29(水) 23:45:04.42
九州説のお爺さんは明日の朝になったら今日の会話の記憶も完全に消失している
過去の記憶と一緒に

66日本@名無史さん2017/11/30(木) 00:00:17.99
Part303 >>996
>豊後水道や筑紫海岸からも噴煙が見えた話があるから、

どこに?

67日本@名無史さん2017/11/30(木) 00:13:37.70
記紀には、ヤマトの地が外部勢力に征圧され、ヤマトに政権が始まると書かれている。

纒向の発掘に携わった考古学者も外部勢力の浸入を考えざるを得ないと言っている。

文献と考古学が一致する。

この事実を無視したらダメだよ。

68日本@名無史さん2017/11/30(木) 00:17:35.03
312年 春三月に、倭国の国王が使臣をつかわす、
王は阿?の急利の娘を倭国に送った。

69日本@名無史さん2017/11/30(木) 00:18:59.50
>>67
誰が言っている?

70日本@名無史さん2017/11/30(木) 01:04:46.11
六拾弐病

六拾弐病(ろくじゅうにびょう)とは、定年退職後の老年期に見られる、
周囲を見下した言動や、自惚れに満ちた妄想を連呼する様などをさす語。
自らを客観視することができず、盲目的に自身を絶対化する、というのがその典型的例。
現役時には社会に適合してゆくために相対化させざるを得なかった自己が、
定年によって自らをとりまく環境が急激に変化することで相対化のバランスを失い、
自分が特別な存在であって欲しいとする願望が顕在化することで発症する。

その思考の基礎となる知識は、遠い昔に聞きかじった程度の浅いものや、
定年で生じた余暇によって取得した程度の中途半端なものであるため、
罹患者の主張は往々にして突飛な妄想でしかなく、周囲に受け入れられることはない。
しかし、本人は自身の思考は特別に優れているものだと盲信しているため、
受け入れられない原因を周囲のせいであると主張し、攻撃性を高めつつ、負のスパイラルへと堕ちていく。
このため、「六拾弐病」は陰謀史観との相性が非常によい。
なお、「六拾弐病」の名は、定年後数年を経て症状が顕在化することから名付けられたものであり、
もちろん全ての罹患者が62歳で発症するものではない。

似た症状を呈するため、「六拾二病」は「老年性中二病」と称されることもあるが、
思春期に自身を特別な存在だと仮想する「中二病」が、
確立されていない自己とそれを取り巻く社会の拡大とに折り合いを付けられず、
自己を疑似的に絶対化することで周囲との相対化の波から逃避しようという、
いわば自己防衛的な理由によって発症し、
ほとんどの場合本人の成長とともに症状が改善されるのに対し、
「六拾弐病」は、罹患者が生来持つ傲慢さがその根底にあるため、
一度発症してしまうと、死ぬか、惚けて思考能力が失われるかしない限り、
症状が改善されることはないとされる点は対照的であるといえる。

71日本@名無史さん2017/11/30(木) 01:06:31.92
全1病

全1病(ぜんいちびょう)とは、邪馬台国畿内説スレに出没する九州説論者のみが発症する、心の病。
畿内説側の書き込み全てが>>1◆q8leUXpswによる物であると信じ込む、一種の脅迫観念である。
学問の世界ではすでに追い詰められている、という事実を認めたくない九州説論者が、
畿内説に多くの賛同者などいるわけがないのだ、と自分自身を騙そうとすることで発症する。
>>1◆q8leUXpswが自演奄ノより多数派b浮チているのbセ、と言う発想bヘ、
実は=A自身が自演を封p繁に行っていb驍ニいう事実の覧返しにほかなb轤ネい。
血サ時点では治療末@は発見されてbィらず、一度発緒ヌすると死ぬまbナ治ることはなb「。

72日本@末シ無史さん2017/11/30(木) 01:09:26.79
ザラコク

邪馬台国関連スレに出没する非常識異常行動者のひとり
呼称は、Yahoo掲示坂で使用していたハンネ「zarakoku」から

古田武彦と彼が提唱した九州王朝説を盲目的に信仰しており、その信心の深さは、
世間的には偽書として決着している『東日流外三郡誌』を未だに真書であると主張するほど

自らを「素人おじん」と称することもあり、一見、自身を客観視できているかのようであるが、
その書き込み内容は、自分の信奉する説以外はすべて間違いだと決めつけてかかる、六拾弐病患者特有のもの
素人が専門家をこき下ろすという行為に疑問を感じなくなっているほど思考が硬直化している

「全レスバカ」と呼ばれることがあるほど片っ端からレスを付けまくるが、
ほとんどが他人の会話への横レスかつ超遅レスであり、周囲と会話が成立することはまずない
レスを付けることが目的化している節があり、その内容は、
他人の発言を長々と全文引用したあげく、賛成!とか間違いだ!とか数文字書き足すという程度のもの、
自分の都合のいいように語句を入れ替えただけのオウム返しのものなど、無意味なものばかりである
投稿数だけは圧倒的で、コピペ連投並みにスレを荒らす結果となっているが、本人に自覚はない
社用のPCで勤務時間中に5ちゃん投稿に血道を上げる問題経営者である

自分に不都合な情報を自分に都合が良いように勝手に脳内変換していることが多いが、
ソースを提示されても、自身の記憶や理解の方が正しいと主張する、傲慢な思考の持ち主

常駐していたYahoo掲示板を倫理規定に触れて出禁になったらしく、最近5ちゃんに居付いてしまった
「生きる独善」との形容がぴったりな75歳

73日本@名無史さん2017/11/30(木) 01:16:04.94
キウス

邪馬台国関連スレに出没する真性の基地外であり、病的なウソつき。
「希薄」を読むことができず、「箕臼(キウス)」と誤変換し続けたことから「キウス」と呼ばれるように。
自演爺、四棟粘着爺、指さし厨とも。

ウソの書き込みや自演、成り済ましを平然と行い、畿内説スレの>>1を騙り偽スレを立てること数度。
>>1のトリと同じ英数字を名前欄に書き込んで成り済まそうとしたこともある、最低のクズである。

「全1病」罹患者にして典型的「62病」発症者。

環境依存の絵文字や、「自論」、「私見」、「勉強してください」、「学がない」、「貴君」、など特徴的な言い回しの多用、
5ちゃんでは一般的ではない「スレ主」頻発、名前欄への書き込み多用などの特徴ですぐに判別できる。
「本日のMVP」として自身を認定するなど、能力もないのにやたらと仕切りたがる、
実生活では決して身近にいて欲しくないタイプ。
「畿内説への助け船」は全く助け船になっていないばかりか、意味不明な泥船であることが多い。

トリとハンネの区別がついていないことも特徴のひとつ。
これまでに使用が確認されているトリは以下の通り。
◆TJ9qoWuqvA ◆zDcsAEpKdA ◆TbjlUtTwCg ◆DTCBtArI/s ◆cmsiBNFbAs◆.jMGTy6iYI ◆PyuQX798ps
◆CXD1.68m1w ◆10cK4OrL3E ◆P5DBe7oqOQ ◆prq8Tl5byw ◆CSZ6G0yP9Q

キウスの書き込みを褒めたり、礼を言ったり、「ワロタ」と応じたりする書き込みは、すべて自演である。
「キウス扱いされた」などと、自演がバレたときに他人を装う書き込みをすることもある。
自らキウスを名乗り>>1にトリを要求することもあるが、自分はすぐに名無しに戻る卑怯者。
他人を騙す行為も自分ならばすべて許されると信じている節のある、傲慢の塊である。

日本語の読み書きが満足にできないこと、日本史や日本の地理に関する基礎知識がないこと、
マスメディアで散々取り上げられる「土用の丑の日」を間違ったことなどから、
日本の義務教育を受けていないどころか日本国内に居住していないのではないかと推測されている。

74日本@名無史さん2017/11/30(木) 01:17:17.95
>>68 訖解尼今紀 (AD370 - AD377)

75日本@名無史さん2017/11/30(木) 01:17:36.49
岡上

邪馬台国関連スレに出没する狂人のひとり
考古学界では全く賛同者がいない説を「考古学的に確定している」と主張したり、
ありもしない大規模調査をでっち上げたり、学界の多数派である邪馬台国畿内説を破綻したと主張したりする、
ゴッドハンドも真っ青の捏造常習犯である
自分は正しく、これまでの研究者がみんな間違っていた、などと平気で主張する、典型的「六拾弐病」患者

コテ+トリと、別コテ、名無しを使い分け、自説を関連スレで書き込みまくるがバレバレ
糸クズ、八咫バカ、連続句読点キチともよばれる

「咫」の説明である「周尺」を「円周の尺」と読んだり、
伊都国を女王国であると漢文の用例を無視して誤読したり、
平原遺跡出土鏡の文様には八咫烏があると現物を知らないで主張したり、
お笑いエピソードには事欠かない

未確定な事項であっても、自分に都合がよければ勝手に確定事項であると脳内変換し、
それを根拠として立論してしまうチェリーピッカー
日本史の方法論をまるで理解していない、自分偉い教の教祖である

76日本@名無史さん2017/11/30(木) 01:19:14.51
全1病

全1病(ぜんいちびょう)とは、邪馬台国畿内説スレに出没する九州説論者のみが発症する、心の病。
畿内説側の書き込み全てが>>1◆q8leUXpswによる物であると信じ込む、一種の脅迫観念である。
学問の世界ではすでに追い詰められている、という事実を認めたくない九州説論者が、
畿内説に多くの賛同者などいるわけがないのだ、と自分自身を騙そうとすることで発症する。
>>1◆q8leUXpswが自演により多数派を装っているのだ、と言う発想は、
実は、自身が自演を頻繁に行っているという事実の裏返しにほかならない。
現時点では治療法は発見されておらず、一度発症すると死ぬまで治ることはない。

77日本@名無史さん2017/11/30(木) 03:38:42.20
>>67
>この事実を無視したらダメだよ。

一致する、という事実じゃなくて
一致する、という意見じゃないの?

78日本@名無史さん2017/11/30(木) 06:19:21.59
303の>>949
>「新羅・百済、皆以倭為大国、多珍物、並敬仰之、恒通使往来。」
で締めくくられる一文だから韓人からの伝聞情報だね <

その一文は新羅・百済情報であったとしても、
「其俗・・・」全体が新羅・百済情報であったことにはならないよ。

79日本@名無史さん2017/11/30(木) 06:27:15.68
303の>>954
「南→東」などの史料事実を否定曲解の嘘つき騙しの大和説には、
珍解釈ゴリ押し読みしか生きる道が無いから、仕方がないとはいいながら・・・、
これじゃ全く日本の恥だな。

80日本@名無史さん2017/11/30(木) 06:50:32.84
303の>>963
>何1つ資料事実から帰納的に説明されてない こいつは知恵遅れに違いない
>一つの情報の確率が60%位であれば、三個あれば、90%位の確率になる。
これもお笑いw<

単純計算してあげよう。
一つの情報の正しさが60%であれば、不可知部分は40%。
それに、また別の正しさ60%の情報が出てくれば、
不可知部分であった40%の60%が正しい、という事になるから、
24%が正しい事に加わって、「正しい確率は合計で84%」で、
不可知部分は残り16%。
そして3番目の情報が出てくれば、
残り16%の不可知部分の6割の9.6%が埋められる事になるから、
正しい確率は93.6%。

これは、魏志倭人伝での「短里が正しい」という事の確率計算でも使用した、
確率の推論計算。

81日本@名無史さん2017/11/30(木) 06:55:54.89
303の>>967
>九州? 誰の目で見て「日の昇る国」に見える?<

中国と倭地で比べて、「倭国や俀國」の方が「日が昇るところに近い」事になる。

82日本@名無史さん2017/11/30(木) 07:07:52.12
>>80
>単純計算してあげよう。

その情報の正しさと言ってる確率自体がでたらめなわけでw
おつむ大丈夫か?

83日本@名無史さん2017/11/30(木) 07:08:02.71
303の>>969
>以前、真偽不明の事柄を積み上げれば積み上げるほど、
それを基にした主張が真である確率はどんどん下がるよ、って指摘してあげたら、
「確率のことを分かってない」と言い返してたきたキチガイを思い出した <

真偽不明で、例えば真の確率が1%であっても、それが「10個存在が確認」出来れば、
全体では真の確率は10%近くまで増えるの。

84日本@名無史さん2017/11/30(木) 07:10:16.24
303の>>969
>以前、真偽不明の事柄を積み上げれば積み上げるほど、
それを基にした主張が真である確率はどんどん下がるよ、って指摘してあげたら、
「確率のことを分かってない」と言い返してたきたキチガイを思い出した <

真偽不明で、例えば真の確率が1%であっても、それが「10個存在が確認」出来れば、
全体では真の確率は10%近くまで増えるの。

85日本@名無史さん2017/11/30(木) 07:19:59.95
303の>>970
>そんなに倭の都までの行程を事細かに書いてられない <

海岸の向こうに俀の都がある、って言うんなら、
その海岸を特定してくれなければ、永久に俀の都に着けないし、見つけられもしない。
だから、その「海岸の向こうに俀の都がある」説は、×。

>南の行程など何も書いてない<

阿蘇山のある方向。
そして、秦王国で「俀王遣小徳阿輩臺、従數百人、設儀仗、鳴鼓角來迎」があり、
後十日して、「又遣大禮哥多毘、従二百余騎郊勞、既至彼都」した、と書いてある。

86日本@名無史さん2017/11/30(木) 07:23:50.23
303の>>974
>陸地が終わる場所に太鼓や角笛を鳴らして迎えに来るわけが無い <

秦王国付近で、「俀王遣小徳阿輩臺、従數百人、設儀仗、鳴鼓角來迎」があった事になる。

87日本@名無史さん2017/11/30(木) 07:33:40.69
303の>>988
>三国史記の 文武王十年十二月「倭國更號日本 自言近日所出以爲名」 と一致<

大和の天智が勝手に宣言宣伝した事であるから、実質的な根拠はなく、
唐からも「其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉」と酷評批判された事であるから、
根拠にはならず。

88日本@名無史さん2017/11/30(木) 07:35:31.81
303の>>989
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
毎度お経唱えて、もう宗教だな 。

89日本@名無史さん2017/11/30(木) 07:41:14.67
303の>>993
>陸行なら特定できるの? <

北は海で、東は海岸で行き止まりだから、
(阿蘇の噴煙を目印にしながら?)残る南へ行けば、
後十日で、都に着くの。

90日本@名無史さん2017/11/30(木) 07:43:37.11
303の>>995
>「俀王遣小徳阿輩臺従數百人設儀仗鳴皷角來迎 後十日又遣大禮哥多毗従二百餘騎郊勞 既至彼都」
海辺が目的地ではない <

海岸の特定が出来なければ、海岸そのものが見つけられない。

91日本@名無史さん2017/11/30(木) 07:46:33.23
303の>>998
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
レスで引用されたところだけ読んで、
隋書読んでないんじゃないのか?。

92日本@名無史さん2017/11/30(木) 08:32:49.92
>>86
九州内陸に向かったとすれば秦王国付近で出迎えられたんでしょうね
「有阿蘇山其石無故火起接天者」の記事もありますから否定はできませんね。

93日本@名無史さん2017/11/30(木) 08:34:22.26
「又經十餘國達於海岸」は東に向かったのではなく南に向かった?

94日本@名無史さん2017/11/30(木) 08:36:19.26
この海岸は有明海に出たんですね。

95日本@名無史さん2017/11/30(木) 08:39:01.20
303の>>999
>>阿蘇山と書いてある。<

>裴世清の旅路の中に書いてないよ 彼は見てない<

勿論、都に着いて、タリシホコと面談した後で、見に行った。

96日本@名無史さん2017/11/30(木) 08:40:54.36
303の>>1000
また、「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説の負け、だったな。

97日本@名無史さん2017/11/30(木) 08:46:00.81
他の倭に付いての文献を読んでいれば都斯麻國や一支國は島国であることが分かるが
竹斯國は何処に在るか知られていない、しかし一支國の次に在るので倭本土であることは推測がつく
竹斯國から秦王國、その先の十餘國は倭本土で陸行であろう。

98日本@名無史さん2017/11/30(木) 08:46:07.71
>>64
しかし、今時の、「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説論者って、
史料ろくに読んでないんだな。
しかも、考古でも曲解造作のオンパレードだし。

99日本@名無史さん2017/11/30(木) 08:50:19.19
>>65
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの、
精神的な病気の大和説の・・・・アホガキは、
明日の朝になったら、今日の会話の記憶も完全に消失していて、また同じ事を言い出す。
過去の記憶も一緒に忘れて・・・。

100日本@名無史さん2017/11/30(木) 08:59:24.08
>>66
>>豊後水道や筑紫海岸からも噴煙が見えた話があるから、<

>どこに?<

確かYahoo掲示板に書いてあった。
私も御嶽山の噴煙を100km以上離れたところから見た事がある。
阿蘇の噴火口は標高1300m位だから、
それから3000mも上がれば、4300mだから、富士山よりも高く、
かなり遠距離でも見える事がある。

101日本@名無史さん2017/11/30(木) 09:03:37.23
>>67
>記紀には、ヤマトの地が外部勢力に征圧され、ヤマトに政権が始まると書かれている。
纒向の発掘に携わった考古学者も外部勢力の浸入を考えざるを得ないと言っている。
文献と考古学が一致する。
この事実を無視したらダメだよ。<

そんな、いくらでも可能性が考えられる程度の話で、
「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘吐きダマシの説を、
流してはダメだよ。

102日本@名無史さん2017/11/30(木) 09:26:47.18
>>68
>年 春三月に、倭国の国王が使臣をつかわす、 王は阿?の急利の娘を倭国に送った。<

これも当然筑紫倭国の外交の話だね。

何せ、倭國の別種の附庸国の旧小国の大和が、
海外と独立的な国交をしようとしたのは、
「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」の、
小野妹子が「日本国」を名乗った時から後なんだからね。

103日本@名無史さん2017/11/30(木) 09:29:42.33
渡来人
295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、
百姓が安じて生活することができない。」新羅本紀

104日本@名無史さん2017/11/30(木) 09:57:18.00
>>93
>「又經十餘國達於海岸」は東に向かったのではなく南に向かった? <

「又經十餘國達於海岸」は、
「秦王國の先は、經十餘國して、海岸しかありませんよ」という「地理的説明」であり。
東に向かっていない。

105日本@名無史さん2017/11/30(木) 10:05:49.13
>>104
理由もなく言い張ってもダメでしょ

106日本@名無史さん2017/11/30(木) 10:06:41.72
>>103
>渡来人
295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、
百姓が安じて生活することができない。」新羅本紀<

この「倭人」も、当然筑紫や半島南岸の倭人の事ね。

107日本@名無史さん2017/11/30(木) 11:04:23.73
>>100
ただの噂話か・・・

九州説の「根拠」は、そんなもんばっかりだな

108日本@名無史さん2017/11/30(木) 11:30:04.04
>>107
>ただの噂話か・・・ 九州説の「根拠」は、そんなもんばっかりだな <

富士山から200km余り離れた茨城県から、富士山の中腹から上がはっきり見えるから、
4000m以上の噴煙なら、筑紫海岸や豊後水道から十分見える事がある。

109日本@名無史さん2017/11/30(木) 11:45:15.10
テレ東の池の水ぜんぶ抜くの正月特番で
箸墓古墳の池をやるらしくて思いっきり卑弥呼の墓と宣伝しとるな

110日本@名無史さん2017/11/30(木) 11:45:27.15
>>108
それは「豊後水道や筑紫海岸からも噴煙が見えた話」ではない

111日本@名無史さん2017/11/30(木) 11:48:53.22
九州説・・・時代に取り残された老人たちの愚行

112日本@名無史さん2017/11/30(木) 12:17:42.93
>>108
阿蘇の煙は筑紫海岸や豊後水道からは見えないなw

113日本@名無史さん2017/11/30(木) 12:18:53.63
>>105
理由は「有阿蘇山其石無故火起接天者」の記事。

114日本@名無史さん2017/11/30(木) 12:31:02.81
>>113
それが何の理由になる

115日本@名無史さん2017/11/30(木) 12:54:42.06
>>114
これが全て海路なら阿蘇山は出てこない「都斯麻國逈在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸」

116日本@名無史さん2017/11/30(木) 12:57:59.45
>>108
筑紫海岸や豊後水道から阿蘇山は全く見えないので
仮に煙が高く上がっても見えていても雲か噴煙か区別がつかないので
筑紫海岸や豊後水道から十分見える事があるなんて嘘。

117日本@名無史さん2017/11/30(木) 13:00:42.54
>>115
つまり阿蘇山が出てこないから
全て海路でよし

決着

118日本@名無史さん2017/11/30(木) 13:04:34.77
>>87
初めて中国に日本國と改名したと伝えたのは、

<清朝通典>
「日本古倭奴国唐咸亨初更号日本」とあり、

<三国史記>
文武王十年十二月「倭國更號日本自言近日所出以爲名」

唐咸亨元年=文武王十年=670年と中国と朝鮮の史書の記事が一致しているんだよ

119日本@名無史さん2017/11/30(木) 13:48:27.48
唐との関係改善には新体制をアピールするのが効果的だったんだろうな

120日本@名無史さん2017/11/30(木) 14:15:26.36
>>118
新唐書にあるね
「咸亨元年(670年)、遣使賀平高麗。後稍習夏音、惡倭名、更號日本」

121subo2017/11/30(木) 15:03:27.75
確率というのは確からしさであって確実ではない

よって正しい確率というのは確率の基本がわかってない者が使う言葉である

(ザラコクはからむでない

122subo2017/11/30(木) 15:06:54.72
箸墓古墳の池の水ぬいたら大物主さまの祟りがあるぞ

123日本@名無史さん2017/11/30(木) 15:10:25.35
筑紫倭國はもともと唐とお友達だったんだ、新羅派だしな

124日本@名無史さん2017/11/30(木) 15:58:05.88
もいうわかったから
テンプレで60も使うな
それも一つずつ長すぎる

125日本@名無史さん2017/11/30(木) 16:30:59.21
筑紫倭国は百済の友好国だよ。
同盟を組んで唐と戦ったろ?

126日本@名無史さん2017/11/30(木) 16:36:43.47
白村江の戦いの後、唐と新羅は戦争する

127日本@名無史さん2017/11/30(木) 16:43:49.87
>>111
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説・・・時代に取り残された老人たちの愚行。

128日本@名無史さん2017/11/30(木) 16:46:54.28
感情の原因はそれを感じる者自身の固定観念・価値観・判断基準
「言葉 風紀 世相の乱れ」はそう感じる人の心の乱れの自己投影
問題解決力の低い者ほど自己防衛の為に礼儀作法やマナーを要求する
憤怒は無知 無能の自己証明。中途半端な知識主ほど辛辣に批判する
全ては必然。偶然 奇跡 理不尽 不条理は思考停止 視野狭窄の産物
真実・事実・現実・史実はその主張者の主観。人の数だけある
「真実は一つ」に執着する者だけがその矛盾を体験(煩悩 争い)する
宗教民族差別貧困は戦争の「原因」ではなく「口実動機理由言訳切欠」
全ての社会問題の根本原因は低水準教育
情報分析力の低い者ほど宗教デマ似非科学オカルトに感化傾倒自己陶酔
史上最も売れているトンデモ本は聖書。神概念は人間の創造物
犯罪加害者に必要なのは懲罰ではなく治療。被害者のみ支援は偽善
虐めの原因は唯一「虐める者の適応障害」。真に救済すべきは加害者
体罰・怒号は指導力・統率力の乏しい教育素人の怠慢甘え責任転嫁
死刑は民度の低い国家による合法集団リンチ殺人
死刑(死ねば許され償え解決する)を是認する社会では自他殺は止まない
核武装論は人間不信と劣等感に苛まれた臆病な外交素人の精神安定剤
投票率低下は社会成熟の徴候。奇人変人当選は議員定数過多の徴候

感情自己責任論 〜学校では教えない合理主義哲学〜 m9`・ω・)

129日本@名無史さん2017/11/30(木) 16:48:44.30
九州も出雲も伊勢も他の地域の歴史を盗んだらダメだ。

130日本@名無史さん2017/11/30(木) 16:49:48.45
>>86
(元祖やまと)の(やまぐち)の秦王国付近で、

(やま系・日の)俀王・大徳・邪馬臺

(あま系・天の)俀王・小徳・阿輩臺、従數百人、設儀仗、鳴鼓角來迎

131日本@名無史さん2017/11/30(木) 16:55:34.51
>>117
つまり阿蘇山の実見記録があるから隋使らは陸行しており、
全て海路は✖。

決着 。

132日本@名無史さん2017/11/30(木) 17:18:33.48
畿内も阿波も他の地域の歴史を盗んだらダメだ。

133日本@名無史さん2017/11/30(木) 17:39:43.59
>>118
>初めて中国に日本國と改名したと伝えたのは、
<清朝通典> 「日本古倭奴国唐咸亨初更号日本」とあり、
<三国史記> 文武王十年十二月「倭國更號日本自言近日所出以爲名」<

倭國の存在や歴史を抹殺した記紀が信頼性がない、のと同じように、
唐政府が存続中の史書や、遥か後代の史書は、
唐政府の決定や意向通りの事しか書かないから、半分✖史書である事になり、
信頼性が高いのは、唐が滅亡した少し後に書かれた旧唐書や唐会要や新唐書。

そして、旧唐書や唐会要は、
日本という国名は、倭國と大和が、それぞれ別箇に名乗った事を書き、
釈日本紀が、倭國使節が晋の惠帝に日本という国名も名乗った事を伝え、
それとは別個に、大和も、隋の文帝に「日本国」を名乗って受け付けて貰えなかった事を証言している。

>唐咸亨元年=文武王十年=670年と中国と朝鮮の史書の記事が一致しているんだよ<

白村江の後、大和が倭国を日本国領にした、という事の記録。

134日本@名無史さん2017/11/30(木) 17:44:06.82
>>119
>唐との関係改善には新体制をアピールするのが効果的だったんだろうな<

大和の、唐への説明が巧く行かず、
「其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉」とまで書かれた。

135日本@名無史さん2017/11/30(木) 17:59:29.38
【白村江の戦いと倭国滅亡】

663年に白村江において行われた倭・百済と唐・新羅の決戦で倭国軍は大敗した。
自ら前線に赴いていた筑紫君薩夜麻が捕虜となり8年にわたり唐に抑留された。
筑紫には唐から郭務悰ら2000人の使節団が駐留したが、畿内大和ではなく筑紫を占領したのは、そこが倭国の首都だったからである。

668年、筑紫の使節団は帰国し、中大兄皇子は天智天皇として即位したが、その翌年には筑紫都督府が置かれ、同じ敗戦国の百済に置かれた熊津都督府と同様に唐の統治制度として機能し、倭国は独立国としての権限を喪失した。
旧唐書には倭国と日本国が分けて記載され、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。
三国史記の新羅本紀には「670年、倭国が国号を日本と改めた」、新唐書にも670年に「日本と號す」とあるが、国内にはその記録がない。

671年に天智天皇が死亡、翌年にはその王子である大友皇子を殺した大海人皇子(天武天皇)が実権を握った(壬申の乱)。
天武天皇は対外的な国史としての日本書紀(漢文)を編纂させ、歴史上の天皇への漢風諡号の制定などを行った。
日本書紀の最大のトリックは、神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することであった。
日本書紀の編纂と並行して禁書令が出され、8世紀初頭に記紀以外の多くの古代の記録が失われた。
倭国の政治および文化を継承するために、筑紫から多くの文物、人物、建物、地名が平城京に移動された。

筑紫が679年に水縄断層系によるM7.1の筑紫大地震、畿内が684年に南海トラフ地震と推定されているM8.4の白鳳大地震により被災している。
筑紫は震災からの復興もままならなず没落したと考えられる。

701年の大宝律令で行政単位が評から国・郡に改称され、九州から関東までの中央集権国家としての畿内政権が誕生する。
この大倭の表記が大和とあらためられ、以前から筑紫倭国に対して近畿を示すために用いていた日本国が列島全体の統一王朝の国号となり、ヤマトは畿内の地名に変化した。
こうして筑紫倭国は滅亡し、その権益は唐に朝貢(遣唐使)を再開する畿内大和政権が継承した。

136日本@名無史さん2017/11/30(木) 18:11:34.80
>>133
陰謀論や妄想してもしょうがない

倭人伝でも

集合は

倭人居住地 > 倭国 > 邪馬台国連合と支配地域

古代記紀でも四道将軍、東国、蝦夷、熊襲隼人は大和の外から大和の併合へ

古墳の分布拡大と一致

137日本@名無史さん2017/11/30(木) 18:13:20.01
>>136
>古代記紀でも四道将軍、東国、蝦夷、熊襲隼人は大和の外から大和の併合へ

卑弥呼より後の時代の話をしてもしょうがないだろ。
卑弥呼が即位した2世紀末には畿内なんて何にもないだろ。

138日本@名無史さん2017/11/30(木) 18:14:14.18
>>120
>新唐書にあるね
「咸亨元年(670年)、遣使賀平高麗。後稍習夏音、惡倭名、更號日本」<

これは、✖。新唐書の勇み足。
唐会要は、倭國伝と日本国伝とを、はっきり違う場所に、違う国だとした記載をしており。4
倭國遣使の言上内容は、きちんと倭國伝に記載し、
日本國遣使の言上内容は、きちんと日本国伝の方に記載していて、
「咸亨元年(670年)、遣使賀平高麗。後稍習夏音、惡倭名、更號日本」は、倭國伝に書いており、
新唐書は、倭國伝を立てていないから、日本国伝に書いたから。

139日本@名無史さん2017/11/30(木) 18:26:49.45
>>138
>>137

中卒には集合の概念はわからんか

たくさん文章書いてもゴミレスばかりなのは学の無さよ

140日本@名無史さん2017/11/30(木) 18:43:06.70
>>138
お前の言う新唐書の信頼性を自ら否定かw

141日本@名無史さん2017/11/30(木) 18:43:49.67
>>138
いいかげんなやつだなw

142日本@名無史さん2017/11/30(木) 19:23:33.40
>>131
実見記録なんてどこにある
ありはしない

143日本@名無史さん2017/11/30(木) 19:31:55.18
「有阿蘇山其石無故火起接天者」(石は理由も無く火が起こり天に届く)

阿蘇から噴煙が上がる程度は倭国も筑紫の人にとってもあんまり影響がないが
5、6世紀は東国の牧において馬の育成が盛んになった頃で、

4世紀後半から山梨県域や長野県域でウマの出土例が認められるようになり(村石1998、2004)、
5世紀前半には伊那谷(長野県飯田市域)でウマの歯や骨がまとまって出土する(澁谷編2007)。
古墳に伴う馬の埋葬例が数多く見つかっており、多量の馬を犠牲にできるほど馬の生産規模が大きく、
安定していたものと評価することができる。
5世紀後半になると上野地域(群馬県域)でもウマの歯や骨、馬具が出現する。
剣崎長瀞西遺跡では幼齢馬が確認されており、馬の飼育が示唆される(黒田2000、高崎市教育委員会編2001)。
また、6世紀初頭に降下した榛名二ツ岳渋川テフラ(Hr-FA)や
6世紀中頃に降下した榛名二ツ岳伊香保テフラ(Hr-FP)の直下で馬の蹄跡が検出されている。
とくに白井遺跡群からは、6世紀中頃のHr-FP 直下から約4万個におよぶ馬の蹄跡が検出され(井上・坂口2004)
仔馬の蹄跡も確認されている(宮崎1996、井上・宮崎1997) 「藤原宮跡から出土した馬の産地推定と飼育形態について」

6世紀の榛名二ッ岳の2回の噴火は当時の日本にとって非常に大きな出来事だったわけです
https://gbank.gsj.jp/volcano/Act_Vol/haruna/page4_2_12.html

144このスレを正常に戻す会2017/11/30(木) 20:05:15.69
以下は必用ない

◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。

145このスレを正常に戻す会2017/11/30(木) 20:09:10.33
これも必要ない
誰も纏向=邪馬台国と思っていない

◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。

146日本@名無史さん2017/11/30(木) 20:10:07.19
>>144
理由は俺が論破されてるから
w
w

147日本@名無史さん2017/11/30(木) 20:10:59.55
>>145
理由は俺が論破されたから
w

148subo2017/11/30(木) 20:13:16.33
>>125
筑紫君磐井は新羅派であり北部九州は新羅派なんですね

乙巳の変で九州の豪族である蘇我氏が討たれ畿内ヤマトが九州を支配した(大化の改新

ところが半島で新羅が百済に勝ったことで唐は九州から畿内ヤマトを追い出す

百済の畿内ヤマトは近江大津へ、壬申の乱で再び筑紫倭國が支配する(異論はないでしょう

149日本@名無史さん2017/11/30(木) 20:14:16.93
ある

150subo2017/11/30(木) 20:16:50.44
>>144
最後は鴨厨ネタやね

151日本@名無史さん2017/11/30(木) 20:20:47.59
法則

 馬鹿は理由を思い付かない

152subo2017/11/30(木) 20:21:12.43
>>145
纏向=邪馬台国

えらいちいさい邪馬台国だな、でも畿内厨は纏向は邪馬台国の一部だと思ってるんだろ

153subo2017/11/30(木) 20:26:00.92
>>139
最近の中学校では集合習わんのか

2進数、2進法とか一部の学校でしか教えないらしい

ところで畿内厨は学校で2進数習ったか?

154日本@名無史さん2017/11/30(木) 20:39:58.18
渡来人
73年 倭人が木出島を侵して来たので、
王は角干羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。新羅本紀

155日本@名無史さん2017/11/30(木) 20:45:46.03
纒向遺跡に七万戸も住めるかキナイセツありえねー
とか
アワビは奈良で獲れないだろキナイセツありえねー
とか

叫び続けるバカは実在する

156日本@名無史さん2017/11/30(木) 21:22:21.88
>>601
>短里・・・・・・周髀とは関係なく単に1/5だったりしてw
公孫氏が国土や勢力圏が狭いから1/5里を独自に使用してただけだったたりして。<

ダメだな。
三国志は、
魏志では、漢代記録や上表文などの引用以外はほぼ全て短里で書かれており、
蜀志や呉志では、短里ではない例があるらしい。

157日本@名無史さん2017/11/30(木) 21:26:12.43
>>156
という妄想書き散らしても
史料事実は示せない醜態

158日本@名無史さん2017/11/30(木) 21:38:40.75
>>634
>現実の方位としては東と南は明白に異なるが、
記録文書に誤記や誤情報が乗っていないことの根拠としては薄弱すぎて×<

周髀算経の、「日の入りと日の出の8尺棒の影端同士を結んで東西を決め、
それと直行する方向で南北を決める」方法や、
礼記の、「円を書いておいて、
中心に立てた棒の影端が午前と午後にその円周を横切る2点を結んで東西を決める」
というストーンサークルのような簡単な方法が知られているから、
殆ど間違えない。

159日本@名無史さん2017/11/30(木) 21:41:31.80
>>156
有名な司馬懿の4000里討伐は長里だろ

160日本@名無史さん2017/11/30(木) 22:05:41.67
ヤマトは纒向だけじゃないからな。幾つも当時の大集落がある。

纒向は唐古・鍵遺跡の10倍の規模。
伊勢尾張や吉備から兵を集めていたんだろう。

奴国の3倍位人口がいてもおかしくはない。税も集めていたようだし。

161日本@名無史さん2017/11/30(木) 22:17:52.41
環濠で囲ってるからミリw

162日本@名無史さん2017/11/30(木) 22:20:55.57
申し訳ない。
156と158は、古田史学スレでの返事投稿を、
誤って、こちらのスレに記載してしまったものです。

163日本@名無史さん2017/11/30(木) 23:01:39.23
唐古鍵の環濠は弥生末に埋められ、古墳前期に再び一部の環濠が掘削される

164日本@名無史さん2017/12/01(金) 02:07:15.11
>>162
あたなの知識が間違いだらけの聞きかじりだとわかる投稿だから、歓迎

165日本@名無史さん2017/12/01(金) 02:45:28.39
>>159
>有名な司馬懿の4000里討伐は長里だろ

短里で4000の範囲を征伐するんだ
という古田の抗弁は
かなりミットモナイ

166日本@名無史さん2017/12/01(金) 06:36:16.36
>>160
根拠なし
どうして畿内説は妄想キチが多いのか

167日本@名無史さん2017/12/01(金) 07:05:33.49
>>166
それ、畿内説側の発言じゃないぞ

168日本@名無史さん2017/12/01(金) 07:09:32.42
>>167
ヤマト=纏向+αと言ってるように見えるけどな

169日本@名無史さん2017/12/01(金) 07:17:04.88
ただのナリスマシでしょ

170日本@名無史さん2017/12/01(金) 07:28:45.03
>>164
何を上から目線で言ってるん
テメーが底辺だから下は居ないのにな

171日本@名無史さん2017/12/01(金) 08:17:23.27
>>170
罵っても反論になりません

172日本@名無史さん2017/12/01(金) 08:47:56.86
>>168
それ、畿内説じゃないし

173日本@名無史さん2017/12/01(金) 09:25:27.56
>>154
>渡来人
73年 倭人が木出島を侵して来たので、
王は角干羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。新羅本紀<

73年が正しい、となると、まだ「倭國の成立」が不明であり、
その「倭人」とは、
半島倭地の事か?、海峡天孫族の事か?、筑紫や出雲の倭人の事か?、は不明。

174日本@名無史さん2017/12/01(金) 09:28:14.05
>>152
>纏向=邪馬台国  えらいちいさい邪馬台国だな、
でも畿内厨は纏向は邪馬台国の一部だと思ってるんだろ<

どっちにしても、「南→東」だから、✖。

175日本@名無史さん2017/12/01(金) 09:31:22.09
>>155
>纒向遺跡に七万戸も住めるかキナイセツありえねー とか
アワビは奈良で獲れないだろキナイセツありえねー とか
叫び続けるバカは実在する<

今だに、「南→東」などの嘘吐きダマシを叫び続ける大和説の、
・・・・アホが実在する。

176日本@名無史さん2017/12/01(金) 09:46:04.44
>>159
>有名な司馬懿の4000里討伐は長里だろ <

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku13/yamaic24.html
参照。
また、韓を方四千里とした魏の役人たちが、
それよりも6倍位離れた洛陽〜遼東の道のりを、「4000里」と記録する事など、
有り得ないから、
「討伐」は、遼東での公孫氏討伐戦の距離。

177日本@名無史さん2017/12/01(金) 09:48:25.51
>>160
>ヤマトは纒向だけじゃないからな。幾つも当時の大集落がある。
纒向は唐古・鍵遺跡の10倍の規模。 伊勢尾張や吉備から兵を集めていたんだろう。
奴国の3倍位人口がいてもおかしくはない。税も集めていたようだし。<

「南≠東」であるから、始めから全く×。

178日本@名無史さん2017/12/01(金) 09:54:23.13
>>165
>>有名な司馬懿の4000里討伐は長里だろ 短里で4000の範囲を征伐するんだ
という古田の抗弁は かなりミットモナイ<

有名な司馬懿の4000里討伐は、当然遼東での討伐距離だろ。
短里で韓国の幅位の4000里の範囲を征伐するんだから、ピッタリだ。
という事は、山尾や大和説者の抗弁は、かなりミットモナイ。

179日本@名無史さん2017/12/01(金) 09:58:37.97
>>167
>それ、畿内説側の発言じゃないぞ<

大和説者は、全員、
「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘吐きダマシの・・・・ケダモノサギシばかりだから、
この発言も、ウソダマシである可能性が高く、
信頼性が全くない。

180日本@名無史さん2017/12/01(金) 09:59:15.38
>>178
古田が笑い者

181日本@名無史さん2017/12/01(金) 10:03:53.07
>>168
>ヤマト=纏向+αと言ってるように見えるけどな <

この男も、「大和をヤマトと言い換える摩り替え」をして、
「邪馬台」や「邪馬壹國」を匂わせる嘘吐きダマシをしている、
・・・・のケダモノサギシであり、人間ではない。

182日本@名無史さん2017/12/01(金) 10:07:41.29
>>176
続漢書地理志に、遼東郡は雒陽東北三千六百里。
これが四千里征伐。

183日本@名無史さん2017/12/01(金) 10:14:52.23
>>180
山尾だけではなく、
大和説学者らや、大和説者や、
キョクウや安部自民文部省や右翼マスコミや学会や教科書執筆者らが、
国民の過半数からの「笑い物」。

184日本@名無史さん2017/12/01(金) 10:43:10.59
>>183
ザラコクの言うことは、だいたい逆をとれば正しい

185日本@名無史さん2017/12/01(金) 11:03:20.88
>>182
>続漢書地理志に、遼東郡は雒陽東北三千六百里。 これが四千里征伐。<

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku13/yamaic24.html
から一部引用。

八 ここで山尾氏の使用された“ものさし”ともいうべき「後漢書志」の劉昭註の性格について分析しよう。
今、この史料の各部分の成立段階を表示しよう。
三世紀 ーー (a)司馬彪の後漢書志  四世紀
五世紀 ーー (b)范曄の後漢書
六世紀 ーー (a’)劉昭註
六世紀梁代の劉昭は、漢代の諸書(『呂氏春秋』『漢書』等)を引用し、これと自記の文を(a)に付加した。
その(a+ a’)を(b)の末尾に添付したのである。
この場合注意すべきは、この(a)(b)(a’)とも、対象は、一〜二世紀の後漢である点だ。
したがって(a’)中にあらわれる里数記事が「執筆対象」たる“後漢の里単位”にもとづくか、
それとも「執筆時点」たる“梁の里単位”にもとづくか、
それがこの輻輳した史料に対してまず分析すべき問題でなければならぬ。
(1) この点、『漢書』西域伝中の里数値記事と比べよう。
 ([女若]羌) 去陽関千八百里、去長安六千三百里。
すなわち「陽関ーー長安」間は四五〇〇里であるが、
これは、劉昭註に「洛陽ーー長安」間を「九百五十里」とするものと、ほぼ対応する実距離である。
(2) 梁の沈約の『宋書』(州郡志一)に次の記事がある。
 (a) 会稽郡(去京都〈建康〉)一三五五里。(b) 呉郡(同右)五二〇里。
すなわち、「呉郡ーー会稽郡」間は八三五里となる。
ところが劉昭註では、(a’) 会稽郡(維*陽東)三八〇〇里。(b’) 呉郡(同右)三二〇〇里。
「呉郡ーー会稽郡」間は六〇〇里となっている。
すなわち、『宋書』のものとは(長里に類するものの)同一単位ではないことが判明する。

以上によると、“劉昭註は「執筆対象」たる後漢代の里単位によって記されている”という帰結がえられる。
また『宋書』と劉昭註の比較によって、“各時代によって、それぞれ里単位に相異がある”という公理が明白に知られるであろう。

186日本@名無史さん2017/12/01(金) 11:04:22.00
>>181
大和はヤマトだろうに

187日本@名無史さん2017/12/01(金) 11:10:08.96
>>176
洛陽→遼東を征討4000里というのは、
「遼東郡、秦置く。洛陽の東北三千六百里。(『後漢書』地理誌下)」と整合している。

188日本@名無史さん2017/12/01(金) 11:16:39.45
>>185
>すなわち、『宋書』のものとは(長里に類するものの)同一単位ではないことが判明する。
短里と関係ないし

189日本@名無史さん2017/12/01(金) 11:30:35.39
>>171
何、賢ぶってんの、
この件の
反論なんて、随分前にしてる
逃げ回ってるだけじゃん

190日本@名無史さん2017/12/01(金) 11:36:30.80
>>185
>>185
>すなわち「陽関ーー長安」間は四五〇〇里であるが、
>これは、劉昭註に「洛陽ーー長安」間を「九百五十里」とするものと、ほぼ対応する実距離である。

ちがう場所間の距離が
なんで対応する?

191日本@名無史さん2017/12/01(金) 12:05:42.67
>>189
した証拠は?

九州説さん、なに逃げ回ってるの?

192日本@名無史さん2017/12/01(金) 12:34:41.03
>>185
>以上によると、“劉昭註は「執筆対象」たる後漢代の里単位によって記されている”という帰結がえられる。

>>185
その劉昭註の3,600里が4千里征伐とピッタリだ
魏晋の短里なんて、現代日本人の作ったフィクションだね

193日本@名無史さん2017/12/01(金) 13:13:34.73
>>185
>すなわち、『宋書』のものとは(長里に類するものの)同一単位ではないことが判明する。

520里と600里なんて誤差の範囲だろう。
どう見ても同一単位。

194日本@名無史さん2017/12/01(金) 13:34:48.85
>>186
>大和はヤマトだろうに <

「ヤマト」という書き換え表記をわざわざ使った、という事は、
この男が、「邪馬壹國→邪馬台国→大和」という嘘つき騙しで、
世間の人々を騙そう、としている犯意が見え見え。

195日本@名無史さん2017/12/01(金) 13:38:10.03
ヤマトってヘブライ語で神の民という意味
エルサレムは平安京
カタカナはヘブライ語が由来

196日本@名無史さん2017/12/01(金) 14:11:31.54
>>194
なんで嘘つきなの?

197日本@名無史さん2017/12/01(金) 14:32:07.92
>>185
成程。明晰な説明だ。出典も全て確認し、納得した。有り難う。

198日本@名無史さん2017/12/01(金) 15:01:35.89
>>185
中国の王朝により里単位に変動があるのは既知の事実であって誰も否定してない。
あなたは「短里」を証明したいんじゃないの?

199日本@名無史さん2017/12/01(金) 15:02:52.86
連続投稿の自演は見苦しい 去れ

200subo2017/12/01(金) 15:09:37.50
渡来人
14年 倭人が兵船百余隻で海辺に侵入。新羅本紀

201subo2017/12/01(金) 15:14:15.48
>>184
山尾は国民の味方ということか、それはいえるな

202subo2017/12/01(金) 15:15:22.71
>>195
日ユ同祖論きたな

203subo2017/12/01(金) 15:16:47.90
>>200
たたくけんね、よかね

204日本@名無史さん2017/12/01(金) 15:17:11.67
>>197
やらせが
やらしい

205subo2017/12/01(金) 15:18:07.24
なんだ山尾違いだったのか

206日本@名無史さん2017/12/01(金) 15:19:23.40
>>185
なんで
「陽関ーー長安」間四五〇〇里と
「洛陽ーー長安」間九百五十里」が

対応するんだ?

207subo2017/12/01(金) 15:19:33.47
ザラコクの成りすましがいるんじゃないかな

208日本@名無史さん2017/12/01(金) 15:30:56.72
ザラコクは頭は変だしウソつきだが、ナリスマシとかするタイプじゃない

209日本@名無史さん2017/12/01(金) 15:32:24.92
尻馬幇間だろう

210日本@名無史さん2017/12/01(金) 15:32:47.45
>>160
>奴国の3倍位人口がいてもおかしくはない。税も集めていたようだし。

痛々しいほど事実とかけ離れた妄想。

211日本@名無史さん2017/12/01(金) 15:39:06.97
>>210
という理由は?

212日本@名無史さん2017/12/01(金) 15:40:11.35
>>210
自演ぽいです

213日本@名無史さん2017/12/01(金) 15:43:00.86
まあ俺たち畿内説であって奈良説じゃないから
>>160が何言われても対岸の火事だけどな

214日本@名無史さん2017/12/01(金) 16:19:52.46
スレ主のヤラセじゃないか

215日本@名無史さん2017/12/01(金) 16:25:10.90
>>214
なんでそんなことを?

216日本@名無史さん2017/12/01(金) 16:26:37.11
少し前 5時間で500レスぐらい一、二行カキコいった事あるな

217日本@名無史さん2017/12/01(金) 16:28:50.93
>>214
いつものこの爺さんは
自分の悪事が露見すると必ず
「犯人は1だー」と叫ぶ

まるで、テロをやった直後の北の某国のよう

218日本@名無史さん2017/12/01(金) 16:29:35.79
>>216
誰が?

219日本@名無史さん2017/12/01(金) 16:41:17.42
>>216
それ、あんたの全1病だから

220日本@名無史さん2017/12/01(金) 16:42:07.69
>>186
>大和はヤマトだろうに<

それなら、「大和」と書けばよい筈。
それを敢えて「ヤマト」と音だけの書き方に摩り替えるのは、
読者に、「大和→ヤマト→邪馬台→邪馬壹國」の連想をさせて、
[女王之所都=大和」という、
「南→東」の史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの宣伝をしたいから。

犯意が見え見え。

221日本@名無史さん2017/12/01(金) 16:51:20.88
>>215=>>1
だから

222日本@名無史さん2017/12/01(金) 16:51:31.83
ヤマトは、大和、倭、大倭が当てられるが、

本来の意味は、
大阪湾から見て、
川の内側にある土地→カワチ、河内
大阪湾から見て山の外(向こう側)にある土地→ヤマト、山外
だろう。

記紀でもヤマトの地の名付けのエピソードがいくつか書かれているが、本来の意味を隠そうとしか考えられない。

ヤマトの名付けの主体は、大阪湾など大阪側にいたんだろうね。

223日本@名無史さん2017/12/01(金) 16:54:04.92
>>222=>>1 必死

224日本@名無史さん2017/12/01(金) 16:55:46.97
 邪馬台国論の敗者、畿内説のスレです。
 もう敗者なのでロマンはありませんが
 敗者の意地を見せつつ更なる嘘つきダマシを探求しましょう。

225日本@名無史さん2017/12/01(金) 17:10:53.21
>>222
お前が本当の意味を隠してるだけだろうwww
馬鹿なやつwww

226日本@名無史さん2017/12/01(金) 17:18:23.91
>>187
>洛陽→遼東を征討4000里というのは、<

ウソを付くな。
その4000里は、遼東内での討伐距離であり、洛陽→遼東の距離ではない。

>「遼東郡、秦置く。洛陽の東北三千六百里。(『後漢書』地理誌下)」と整合している。<

関係なし。
後漢代や後漢書記載時代は長里時代であり、魏西晋朝の短里時代ではない。
4000里は、魏志での韓国の「方四千里」で書かれた距離。

227日本@名無史さん2017/12/01(金) 17:30:56.17
>>188
>>すなわち、『宋書』のものとは(長里に類するものの)同一単位ではないことが判明する。<

>短里と関係ないし<

元々、長里時代であっても、里の計測はバラバラであって、明確な論拠にはならない、という意味。
これは、Yahoo時代の魏志の里記載でも、出発点や到着点などの問題もあって、
どちらとも付かない例が、相当沢山あった事。

228日本@名無史さん2017/12/01(金) 18:08:06.99
>>190
>>すなわち「陽関ーー長安」間は四五〇〇里であるが、
これは、劉昭註に「洛陽ーー長安」間を「九百五十里」とするものと、ほぼ対応する実距離である。<

>ちがう場所間の距離が なんで対応する?<

それぞれの「1里がどれ位であるのか?」の計算をすると、
大体同じ位の比率になっている、という意味。

229日本@名無史さん2017/12/01(金) 18:09:41.67
>>226
>その4000里は、遼東内での討伐距離であり、洛陽→遼東の距離ではない。

根拠のないウソを付くな
後漢時代の距離とほぼ同じのが事実である
ゴタクを言い張っても誰も説得できんよ

230日本@名無史さん2017/12/01(金) 18:18:22.19
>>192
>>以上によると、“劉昭註は「執筆対象」たる後漢代の里単位によって記されている”という帰結がえられる。<

>その劉昭註の3,600里が4千里征伐とピッタリだ<

いや、「4千里征伐」は、(魏代の)遼東内の征伐距離であり、
「3,600里」は、(後漢代での)「洛陽→遼東」の遠征路の距離だ。

>魏晋の短里なんて、現代日本人の作ったフィクションだね <

「4千里征伐」が「洛陽→遼東の遠征路の距離だ」なんていうのは、
現代日本の、「南→東」などの嘘吐きダマシの、
国粋皇国史観大和説にクルった・・・・アホ学者が作ったフィクションだね。

231日本@名無史さん2017/12/01(金) 18:22:27.26
>>193
>>すなわち、『宋書』のものとは(長里に類するものの)同一単位ではないことが判明する。<

>520里と600里なんて誤差の範囲だろう。 どう見ても同一単位。<

長里だ、と言っても、
時代や使用者の出発点や到着点の決め方に拠ってバラバラであり、
それをよく吟味しないと、長里根拠にはならない、という事。

232日本@名無史さん2017/12/01(金) 18:25:33.64
普通の1里は演繹で求められているから、そっちに根拠があるので問題なし

233日本@名無史さん2017/12/01(金) 18:27:23.96
>>230
遼東内の征伐距離なんて、どうやって算出した?

234日本@名無史さん2017/12/01(金) 18:27:48.86
>>198
>中国の王朝により里単位に変動があるのは既知の事実であって誰も否定してない。
あなたは「短里」を証明したいんじゃないの?<

いや、中国の歴史では、
短里的時代と、長里的時代と、両者の混合使用状態の時代が、あった、
という事を説明したいの。

235日本@名無史さん2017/12/01(金) 18:30:10.52
>>228
>それぞれの「1里がどれ位であるのか?」の計算をすると、
>大体同じ位の比率になっている、という意味。

いつ、どこの誰が、そんな計算をしたの?

236日本@名無史さん2017/12/01(金) 18:32:01.44
>>234
したいのは結構だが
説明しなければ意味がない

237日本@名無史さん2017/12/01(金) 18:32:14.12
>>200
>渡来人 14年 倭人が兵船百余隻で海辺に侵入。新羅本紀 <

この「倭人」も、「倭國」とは書かれていないから、
半島南岸の倭人であったか?、
海峡や出雲の倭人であったか?、
九州の倭人であったのか?、は不明。
大和の倭人であった可能性は殆どない。

238日本@名無史さん2017/12/01(金) 18:36:43.61
>>201
山尾は、
「南→東」や「韓の方四千里が、洛陽→遼東の距離と同じだ」という嘘吐きダマシの宣伝をしたから、
国民の敵であった、ということか。
それはいえるな。

239日本@名無史さん2017/12/01(金) 18:43:34.09
>>238
嘘だって証拠は?

240日本@名無史さん2017/12/01(金) 18:43:41.27
>>206
>なんで
「陽関ーー長安」間四五〇〇里と
「洛陽ーー長安」間九百五十里」が
対応するんだ?<

それぞれを、実距離を里数で割り算すれば、おそらく(長里で)対応する。

241日本@名無史さん2017/12/01(金) 18:48:31.96
>>222
>ヤマトは、大和、倭、大倭が当てられるが、・・・<

それなら、始めから「大和」とはっきり書けばよい。

242日本@名無史さん2017/12/01(金) 18:54:53.48
『日本書紀』武烈天皇の四年(502年)

是歳、百濟末多王無道、暴虐百姓。
是歳(ことし),百済の末多王,無道して,百姓に暴虐す。
國人遂除、而立嶋王。是爲武寧王。
国人,遂に除いて,嶋王を立つ。是(これ)を武寧王とす。

東城王(末多王)が暴虐によって廃位され,「武寧王」が即位する。
「武寧王」も佐賀県生れの日本人。

韓国にある武寧王陵の木棺を調べると,
日本にしか自生しない高野槇という最高級の木棺材で,
大和政権の豪族や王族だけにしか使用されなかった。

武寧王は,単なる朝鮮王ではなく,大和政権の豪族・王族=日本人として葬られた。
したがって朝鮮半島南部は日本領。

243日本@名無史さん2017/12/01(金) 18:56:02.32
>>229
>>その4000里は、遼東内での討伐距離であり、洛陽→遼東の距離ではない。<

>根拠のないウソを付くな
後漢時代の距離とほぼ同じのが事実である
ゴタクを言い張っても誰も説得できんよ <

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku13/yamaic24.html
の「三」の(一) 」を読むんだな。
今回は一回では転写出来ない分量であったから、省いたが、
文句があるんなら、(5chが邪魔しなければ)5〜6回位に分けて転写して上げるよ。

244日本@名無史さん2017/12/01(金) 18:59:13.51
>>232
>普通の1里は演繹で求められているから、そっちに根拠があるので問題なし><

その演繹計算の、地域特定や、出発点や到着点の決め方に問題あり。

245日本@名無史さん2017/12/01(金) 19:04:08.87
>>234
何短里的時代ってw
棒の影で距離測るなら1里はかわらないだろ
「呉郡ーー会稽郡」間が、『宋書』八三五里と「劉昭註」六〇〇里の違いは
公里1里約415mと古田偽書店里76.5mのような差じゃない

246日本@名無史さん2017/12/01(金) 19:10:10.98
 
http://douganeet.adclubny.com/archives/19648

エ口ボディお姉さんwwwwwwvvwwvvwvvwwwwwww

247日本@名無史さん2017/12/01(金) 19:15:06.10
もういい
自称本スレが乱れてるから、こうなる
自称本スレのスレ主がすべてエセスレとカキコム気持ちは分かる
だが、自称本スレをまず立ち直せ

自称本スレで得る事何もない、ただ荒れ放題・・・・スレ主の技量を問う(マスターベーション?) 
自称本スレをいい加減な気持ちで立てたなら、キチガイ爺と言われる
何も下記議論は本スレで進んでいない スレを〆るか立て直すかだ キチガイに言っても無だが

自称本スレと叫ぶなら議論皆無 九州にやられっぱなし
    ☟
1 名前:1 ◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:08:48.10
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
 もう確定なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。

248日本@名無史さん2017/12/01(金) 19:20:57.56
根拠は?だけで1年ほどもたせただけでも喜べw

一生けん命に戦ってくれてたコテが全員いなくなったぞ

249日本@名無史さん2017/12/01(金) 19:35:58.85
>>234
だったら短里的時代をちゃんと説明しなさい

250日本@名無史さん2017/12/01(金) 19:38:41.64
>>243
自分の言葉では説明できないのか?
後漢書地理誌の3600里と魏志の4000里がどうして異なるのか説明してもらおうか

251このスレを正常に戻す会2017/12/01(金) 19:58:52.32
>>239
言うに事欠くとき、「証拠は」「根拠は」と反復するのは止めた方が良い
書き込んだ方に失礼です・・・・喧嘩の元です

例えば
「証拠(根拠)が有るのですか、教えてください」とか・・・・・
しかし、テンプレの勝者と言いたいのもわかりますが
他説に喧嘩を売っているような気がします。
そして畿内説の探求が皆無となり他説に圧倒される構図になっているような気がします。

252日本@名無史さん2017/12/01(金) 20:00:42.27
>>251
あんた優しいな

253日本@名無史さん2017/12/01(金) 20:06:50.69
根拠は?と聞いてるのは、根拠無しと言ってるのと同じなんだよw

254日本@名無史さん2017/12/01(金) 20:16:24.46
>>252
優しいんじゃなくて、ばか

255日本@名無史さん2017/12/01(金) 20:18:57.78
>>253
教えるなよw

スレ主の裸踊りが見れなくなっちまうだろw

256日本@名無史さん2017/12/01(金) 20:20:29.18
>>255の頭が異常に悪いことだけは難なく理解できた

257日本@名無史さん2017/12/01(金) 20:21:38.46
>>256
うはwスレ主のご降臨www

258日本@名無史さん2017/12/01(金) 20:22:07.07
根拠は?と聞いてるのは、根拠無しと言ってるのと同じなんだよw

259日本@名無史さん2017/12/01(金) 20:24:14.00
根拠は?と聞かれても答えないのは根拠がないと認めてることになるんだよ

260日本@名無史さん2017/12/01(金) 20:25:17.46
>>240
>それぞれを、実距離を里数で割り算すれば、おそらく(長里で)対応する。

つまり
古田が理由なく断定し
ザラコクが内容を知らぬまま全面肯定する
という

異常な構図

261日本@名無史さん2017/12/01(金) 20:25:46.49
止め‐‐‐止め‐‐止めーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
長里、短里の議論は過去スレ読んでからにしろよ
素人が来るなら礼儀もわきまえろよ

262日本@名無史さん2017/12/01(金) 20:26:49.41
>>257
いや、すべての理性ある人間が同じこと言うだろう

263日本@名無史さん2017/12/01(金) 20:29:30.33
蓋し名言

 根拠は?と聞いてるのは、根拠無しと言ってるのと同じなんだよw
 根拠は?と聞かれても答えないのは根拠がないと認めてることになるんだよ

264日本@名無史さん2017/12/01(金) 20:30:23.27
お!おじーちゃんら性懲りもなくののしりおーてますな^^
あかかてしろかて
おうにんのどっちも負けてむだなののしり(nhkさんこーにいっくけんじょー

265日本@名無史さん2017/12/01(金) 20:32:49.66
自演は礼儀知らずの行為

266日本@名無史さん2017/12/01(金) 20:32:56.97
ぷげらっちょ

はげらっきょ

267日本@名無史さん2017/12/01(金) 20:35:52.37
こういう荒らしは知性への拒絶

268日本@名無史さん2017/12/01(金) 20:36:19.33
>>265
ははーん(さてはわえが >>263 以前のだれかやとおもてますな^^
どーしょーもないおじーちゃんどすなー(まいこふー

269日本@名無史さん2017/12/01(金) 20:37:43.41
え?

まさかそれだけ?

@阿波って名前の荒らしが荒らしまくってる根拠が

まさかまさかまさか

たったのそれだけ?

270日本@名無史さん2017/12/01(金) 20:39:56.04
三好君の根拠はなんやろか(そーいやきーたことないのー

271日本@名無史さん2017/12/01(金) 21:54:01.75
あちこちで相手を言い負かしすぎてだれもあそんでくれんくなったよーじゃ
ぷらずませんせーだけやな(南≠東だけはよーいーまかせん^^

272日本@名無史さん2017/12/01(金) 22:15:52.86
くるくるパーマ

273日本@名無史さん2017/12/01(金) 22:18:28.87
>>263
あんたはそのつもりならいいけど
ほとんどの奴は違う
反論も出来ない捨て台詞

274日本@名無史さん2017/12/01(金) 22:24:04.77
>>273
根拠がないと指摘するのは
反論だよ

275日本@名無史さん2017/12/01(金) 22:25:12.10
>>274
根拠が無いねぇ

276日本@名無史さん2017/12/01(金) 22:28:37.82
おい おい おい おい おい おい おい おい おい

どうでもいいけどさ
すれたいやてんぷれむしはやめようぜ
きないせつにかんけいねーやつはここにくるべきでねーよ
きないせつをふかぼりするすれなのだ ヨロシク

277日本@名無史さん2017/12/01(金) 22:35:41.75
>>275
それは指摘ではない

278日本@名無史さん2017/12/01(金) 22:36:26.22
>>277
根拠が無いねぇ

279日本@名無史さん2017/12/01(金) 22:39:12.17
>>233
>遼東内の征伐距離なんて、どうやって算出した? <

おそらく公孫氏の支配地の長径と、四郡時代の郡の距離などから。

280日本@名無史さん2017/12/01(金) 22:39:13.07
ないと言う証拠は?

281日本@名無史さん2017/12/01(金) 22:44:48.79
>>235
>>それぞれの「1里がどれ位であるのか?」の計算をすると、
大体同じ位の比率になっている、という意味。<

>いつ、どこの誰が、そんな計算をしたの?<

そりゃ、古田さん以前にも、中国でも日本でも計算した学者はいたんだろうが、
古田さんは、まだこの頃は中国へ行っておられなかった筈だから、
おそらく、現代地図で、距離を計測し、計算された。

282日本@名無史さん2017/12/01(金) 22:45:37.34
>>279
公孫氏の支配地の長径なんて
誰がいつ、どうやって求めた?

283日本@名無史さん2017/12/01(金) 22:47:26.27
>>281
>古田さんは、まだこの頃は中国へ行っておられなかった筈だから、
>おそらく、現代地図で、距離を計測し、計算された。

古田が、いつ何処でそんな計算をした?

284日本@名無史さん2017/12/01(金) 22:57:03.04
>>242
>『日本書紀』武烈天皇の四年(502年) 是歳、百濟末多王無道、暴虐百姓。
國人遂除、而立嶋王。是爲武寧王。
東城王(末多王)が暴虐によって廃位され,「武寧王」が即位する。
「武寧王」も佐賀県生れの日本人。<

成程。九州王朝人ね。

>韓国にある武寧王陵の木棺を調べると, 日本にしか自生しない高野槇という最高級の木棺材で,
大和政権の豪族や王族だけにしか使用されなかった。<

佐賀県生まれの人に、「大和政権だけにしか使用されなかった」、
なんて言っても信用しないね。

>武寧王は,単なる朝鮮王ではなく,大和政権の豪族・王族=日本人として葬られた。
したがって朝鮮半島南部は日本領。<

502年なんて、倭王武の末頃?ではないか。
その頃の大和は、「東征55国」の一国だよ。

285日本@名無史さん2017/12/01(金) 23:00:34.06
それで結局
なんで
「陽関ーー長安」間四五〇〇里と
「洛陽ーー長安」間九百五十里」が
対応するんだ?

286日本@名無史さん2017/12/01(金) 23:03:11.27
>>245
>何短里的時代ってw 棒の影で距離測るなら1里はかわらないだろ
「呉郡ーー会稽郡」間が、『宋書』八三五里と「劉昭註」六〇〇里の違いは
公里1里約415mと古田偽書店里76.5mのような差じゃない <

何をトンチンカンをしゃべってんだい?。
古田さんは、
長里で測ったらしい計測値記載の中にも、かなり大きな差異がある、
という事の証拠として挙げられたんだよ。

287日本@名無史さん2017/12/01(金) 23:13:00.42
>>286
トンチンカンなのはお前
お前が>>234で↓を書いてるの
>いや、中国の歴史では、
>短里的時代と、長里的時代と、両者の混合使用状態の時代が、あった、
>という事を説明したいの。

>>185の引用の
「呉郡ーー会稽郡」間が、『宋書』八三五里と「劉昭註」六〇〇里の違いは
公里約1里415mと古田里76.5mのような差ではない

288日本@名無史さん2017/12/01(金) 23:27:32.25
>>249
>だったら短里的時代をちゃんと説明しなさい<

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku13/yamaic24.htm
の、
「九 つぎに論証の厳密を期するため、「魏晋朝短里」の空間的および時間的「限界」について考えよう。」
以後にも、当初の古田さんの「魏西晋朝の短里」の論証が書かれているが、

その後、周髀算経や礼記などの一寸千里などの短里例が見つかって、周朝は短里であったようだが、
秦朝が長里であったから、
始皇帝が「1歩=6尺」の里歩系と尺寸系の換算法を命令し、
漢代は、一部で短里が使われたが殆どは長里であり、
魏西晋朝の公的文書は短里で、蜀呉や学者らは長里を使ったものもおり、
東晋以後から唐代まででは、
魏西晋文献の引用などでは短里も残ったが、殆どは長里になった。

289日本@名無史さん2017/12/01(金) 23:32:51.39
日本 = 日本書紀に「391年に神宮皇后が百済と新羅を征服したと書いてある。」
韓国 = 捏造だ。
中国 = 満州にある碑文にも倭国が海を渡って百済と新羅を臣下にしたと書いてある。
韓国 = 捏造だ。
中国 = 中国の歴史書の宋書にも倭国が朝鮮半島南部を支配した記録がある。
韓国 = 捏造だ。
中国 = 中国の歴史書の魏志倭人伝には既に3世紀から倭国では鉄の鏃を使ったと書いてある。
韓国 = 捏造だ。
中国 = 中国の歴史書の随書にも倭国は産物も豊かで鉄の鏃で武装した軍隊を持つ。
       百済と新羅は倭国を大国として敬ったと書いてある。
韓国 = 捏造だ。
日本 = 日本や中国の歴史書や発掘品は全て捏造なのか?
韓国 = そうだ!韓国に都合の悪い歴史書は全て捏造だ。

290日本@名無史さん2017/12/01(金) 23:33:38.19
>>250
>自分の言葉では説明できないのか?
後漢書地理誌の3600里と魏志の4000里がどうして異なるのか説明してもらおうか <

直ぐは、邪魔くさいから嫌だ。
前の「三」の「(1)」の引用でも、長くなり過ぎたのか?、5chが気に入らなかったのか?、
また5chのクレームが入って、いろいろ削除して、なんとか通して貰ったものだ。
早く知りたければ、自分で読め。

291日本@名無史さん2017/12/01(金) 23:36:38.59
>>284 中国 = 中国の歴史書まで捏造か? 韓国 = そうだ。歴史書が本物だとしても,日本という名前は7世紀まで無かった。倭と日本は違う。
日本 = 韓国最古の歴史書、三国史記に「670年の十二月に、倭国が国号を日本と改名した。
       日の出る所に近いから、これをもって「日本国」としたとの事である。」とあるが?
韓国 = 捏造だ!
日本 = その三国史記「新羅本記」にも慶州を倭兵に包囲されたとか、王子于老を殺されたと言う
       記録がある。新羅は何回も王子を人質に差し出している。百済の武寧王は人質の子として
       日本で生まれた。 韓国 = 捏造だ!
中国 = 中国政府も外交部のホームページ(www.fmprc.gov.cn)で「5世紀はじめ、大和国が隆盛
       した時期に、日本の支配が朝鮮半島の南部にまで拡大した。」と公式に認めている。
韓国 = 中国人の捏造だ!!
日本 = イギリスのオックスフォード大学の出版社(www.oup.com/ca)の教科書が、「5世紀の日本の
       勢力は朝鮮半島南部まで支配した。」 書いている。それを世界50か国の学校に発行している。
韓国 = オックスフォード大学の捏造だ!!
日本 = アメリカのコロンビア大学やアメリカ議会図書館が「5世紀の朝鮮半島南部は日本の大和
       政権の支配下にあった。」と記載している。
韓国 = 世界中が朝鮮半島を捏造している!!

292日本@名無史さん2017/12/01(金) 23:58:34.94
>>288
九の「魏西晋朝の短里」の論証に出してる例の
「三都賦」って文学作品だろ

293日本@名無史さん2017/12/02(土) 00:03:28.08
>>290
説明できないんだねw
古タヌキの話は大体ガセだから読むに値しないんだよ

294日本@名無史さん2017/12/02(土) 00:17:02.69
結局のところ漢書地理志も後漢書劉昭註も正常な古代中国の1里=約400mで書かれていることが確認された
短里なんていう奇妙なものは検出されなかったわけだ

295日本@名無史さん2017/12/02(土) 00:21:20.26
結局のところ漢書地理志も後漢書劉昭註も郡から倭国=一万二千里で書かれていることが確認された
短里が何度も追認されていることが検出されたわけだ

296日本@名無史さん2017/12/02(土) 00:41:30.33
>>295
誰がどうやって確認したの、嘘つきさん

297日本@名無史さん2017/12/02(土) 00:46:51.41
>>296
確認て・・・お前の口・・・

くさっ!!?

お前の口

くさっ!!!

なんで

うわっ

臭い

臭っっっ

298日本@名無史さん2017/12/02(土) 00:48:16.35
劉昭註は山尾が古田里の否定に出してるんだろ

299日本@名無史さん2017/12/02(土) 00:49:38.32
早く水抜け

抜け・・・

え?

くさっ!!?

お前の口

くさっ!!!

なんで

うわっ

臭い

臭っっっ

300日本@名無史さん2017/12/02(土) 01:01:13.47
九州説・・・相当追いつめられているようだね。

301日本@名無史さん2017/12/02(土) 01:03:00.32
九州説伊都説で確定

久留米説や宮崎説は相当追いつめられているようだね

302日本@名無史さん2017/12/02(土) 01:03:45.71
大物主の倉庫がどうかした?

303日本@名無史さん2017/12/02(土) 01:05:12.95
池の水て・・・お前の口・・・

くさっ!!?

お前の口

くさっ!!!

なんで

うわっ

臭い

臭っっっ

304日本@名無史さん2017/12/02(土) 01:37:00.18
【速報/サッカー】W杯組分け抽選発表、H組 日本・ポーランド・コロンビア・セネガル…F組 前回王者ドイツ・メキシコ・スウェーデン・韓国(爆笑)…B組 ポルトガル・スペイン・モロッコ(笑)イラン(大爆笑)★5
http:// 2chb.net/r/mnewsplus/1512145699/

305日本@名無史さん2017/12/02(土) 02:27:30.04
箸墓古墳隣接の「池の水抜く」放送中止 地元が協力断る
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171201-00000094-asahi-soci


1700年ぶりに古墳のお堀の水を抜くような誇張して視聴者騙そうとしてた番組中止になったか

306日本@名無史さん2017/12/02(土) 05:17:30.71
神武実在としていつ頃だと思うのか、それによっても話は変わりますが、
安本さんが言われた3世紀後半というのは考古学的にも実質上無理ですので、
神武は2世紀末から3世紀初頭、またはそれ以前、古くても2世紀前半まででしょう。

2世紀前半の帥升あたりに神武を設定したとすれば、
4代懿徳あたりの時代にヒミコを探さなければいけませんが、該当者はいません。

やはり2世紀末から3世紀初頭、これが一番大きな画期です。
畿内では弥生環濠集落が終わり、土師器、高塚古墳の時代が始まります。
北部九州では畿内系土器の流入が始まり那珂八幡古墳が造営されます。

神武は2世紀末から3世紀初頭である。

それ以前、プレ神武の時代ですが、大和には事代主神が住んでいました。
そして神武が住んだ葛城には高天山(金剛山)が存在し、
今も御所市高天という地名が残り、明神大社が6社集中、
考古学的にも弥生中期には彼ら出雲族が高天山(金剛山)麓に移住してた事が分かります
(名柄遺跡、大阪・神於銅鐸)

九州にこれほど明確な高天原の比定地はありません。

やはり高天原は葛城にありました。

307日本@名無史さん2017/12/02(土) 06:23:23.65
>>260
>>それぞれを、実距離を里数で割り算すれば、おそらく(長里で)対応する。<

>つまり 古田が理由なく断定し ザラコクが内容を知らぬまま全面肯定する という
異常な構図 <


つまり、山尾が、理由なく古田説批判をし
キョクウ国粋戦争皇国史観の・・・・アホの大和説者が、
内容をよく判らぬまま全面肯定する という、
異常な構図。

308日本@名無史さん2017/12/02(土) 06:36:11.57
>>282
>公孫氏の支配地の長径なんて
誰がいつ、どうやって求めた? <

そりゃ、公孫氏の役人や郡の役人らは、
支配地の大きさや徴税などの推定をすることが仕事だから、
一寸千里や三角測量や記里車や歩測やメジャーなどを使って、
計測している。

309日本@名無史さん2017/12/02(土) 06:38:16.40
>>283
>>古田さんは、まだこの頃は中国へ行っておられなかった筈だから、
おそらく、現代地図で、距離を計測し、計算された。<

>古田が、いつ何処でそんな計算をした?<

おそらく「邪馬壹國の論理」を書かれる前。

310日本@名無史さん2017/12/02(土) 06:38:35.76
公孫〜日本の天孫は親戚か何かの?

311日本@名無史さん2017/12/02(土) 06:44:21.38
>>285
>それで結局 なんで
「陽関ーー長安」間四五〇〇里と
「洛陽ーー長安」間九百五十里」が
対応するんだ?<

地図で大体の距離を測って、それぞれを記載里数で割り算して、それぞれの1里の距離を出して比べたら、
全く違う距離になったが、
短里の距離と比べれば、どちらも長里の方に近い、という事が判った。

312日本@名無史さん2017/12/02(土) 06:52:46.70
>>287
>トンチンカンなのはお前 お前が>>234で↓を書いてるの
>>いや、中国の歴史では、 短里的時代と、長里的時代と、両者の混合使用状態の時代が、あった、
という事を説明したいの。<

そりゃ、古田さんらのずっと後にになってからや、私の、現在の考え。

>>185の引用の
「呉郡ーー会稽郡」間が、『宋書』八三五里と「劉昭註」六〇〇里の違いは
公里約1里415mと古田里76.5mのような差ではない<

はるか後の古田さんや、現在の私は、
漢代や東晋以後は「長里がメインで使われていたが、短里記載も残っていた」という考え。
何もおかしくない。

おかしいのは、この大和説男の脳の中。

313日本@名無史さん2017/12/02(土) 07:08:05.57
>>289
こりゃまた、酷い捏造だね。
日本や中国の話だ、と書いてある方が、
文献や考古の「全くの曲解や捏造ばかり」の嘘になっていて、
その捏造で、人種差別的国粋皇国史観での「嫌韓ヘイトスピーチ」の殺戮戦争を煽る、
・・・・キョクウ投稿になっている。

怖い怖い。
日本の戦前からのキョクウやナチスやISイスラムや白人至上主義のトランプらと全く同じで、
こりゃ、核による双方全滅殺し合い戦争になるしかない。

314日本@名無史さん2017/12/02(土) 07:15:09.68
観てないから、わからないんだけど、
数年前にやっていた大河ドラマ?

「イチ 公」
という人物が出てこなかった?
仮名、本名不明のような人物なのかな

原作ありの作品だとしても、
読んだことがない

どこかの公子 王子?

315日本@名無史さん2017/12/02(土) 07:19:04.08
>>311
>漢代や東晋以後は「長里がメインで使われていたが、短里記載も残っていた」という考え。
>何もおかしくない。

おかしい
たかだか1.4倍未満の差だったら計測精度か、辿ったコースの違いでしょ
長里と古田短里の差なんかではない

316日本@名無史さん2017/12/02(土) 07:24:55.50
>>291
何やら変な「倭人や倭国が新羅などを攻撃した」話などを書いていると思っていたら、
ここでもこの、
・・・・人種差別のキョクウの「核での全滅戦争」を鼓舞扇動するヘイトスピーチ男が、
「大和日本国は、倭国の筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であった」
という事を隠して、
「倭国の話を大和日本国の話であった」かのように、史料事実の否定曲解をして、
嫌韓宣伝をやっている。

317日本@名無史さん2017/12/02(土) 07:31:58.25
>>292
>九の「魏西晋朝の短里」の論証に出してる例の 「三都賦」って文学作品だろ <

文学作品であろう詩歌であろうと、何等かの史料事実に関係する証言が含まれていて、
(半分×的であっても)その中の「真実の証言」的部分が確認出来れば、
十分史料になり得る。

318日本@名無史さん2017/12/02(土) 07:37:53.77
>>312
馬鹿ですか?
杭州湾を迂回するルート次第でそのくらいの差はすぐ出る

319日本@名無史さん2017/12/02(土) 07:37:59.65
日本 = 日本書紀に「391年に神宮皇后が百済と新羅を征服したと書いてある。」

320日本@名無史さん2017/12/02(土) 07:40:25.22
>>317
>確認出来れば、十分史料になり得る。

確認出来なければば、ぜんぜん史料になり得ない。


確認できたの?

321日本@名無史さん2017/12/02(土) 07:56:05.55
>>317
文学作品は半分×資料だから根拠にならないよ

322日本@名無史さん2017/12/02(土) 07:59:48.78
筑紫基地は中卒だから

基本的な資料の扱い方を知らない

基本的な国語力の欠如

トンデモ

陰謀

オカルト

宣言

の無限ループ

323日本@名無史さん2017/12/02(土) 08:20:09.81
>>319
頭の病院に行ったほうが良いぞ

324日本@名無史さん2017/12/02(土) 08:35:29.68
>>322
敗北宣言かい

325日本@名無史さん2017/12/02(土) 08:38:52.72
>>293
>説明できないんだねw 古タヌキの話は大体ガセだから読むに値しないんだよ<

じゃ、転写して上げよう。読者の皆さま、少し長いから、何回か?に分けて転写しますね。
 三 (一)
(1) 帝曰「四千里征伐、雖云用奇、亦当任力、不当稍計役費。」(魏志第三、明帝紀)
この「四千里」に対し、山尾氏は、「洛陽ーー遼東郡治(襄平) 」間とされる。
そして次の二文を照合された。
(2) 今懿、奉辞誅罪、歩騎数万、道路廻阻、四千余里。(魏名臣奏、何曾表、魏志第三、裴松之註)
(3) 往百日、攻百日、還百日、以六十日為休息、如此、一年足矣。(干宝『晋紀』魏志第三、裴松之註)
この二文を根拠に、氏は主張される。
「前記史料では、洛陽から燕王公孫淵の治する遼東の襄平城までの、四千里の遠征のことが問題にされているのだ。
四万人の兵卒が往路のみで百日もかかる、四千里に要する役費が問題にされているのだ」と。
これを吟味しよう。
まず、(1)の魏志本文の「四千里」と、(2)の史料の「四千余里」とが同一の範囲を指していることは、確かだ
(この点、わたしの前著一五八〜九ページにも指摘)。
しかし、遺憾ながら、それが氏の言われるように「洛陽ーー襄平」間を指すという規定性は存在しない。
この点、(3)も同じだ。
氏は「往百日」「還百日」がそれぞれ「四千余里」に当たる、とされる。
だが、それはいわば氏の“主観的な解釈”にすぎず、逆に「攻百日」の領域をさす、という可能性も存する。
しかし、これについて氏の論証はない。
ところが、(1)〜(3)の各文の前後を詳しく検証すると、氏の理解と相反する帰結がえられる。
(1’) 初、帝議遣宣王討淵、発卒四万人。議臣皆以為 “四万人兵多、役費難供。
帝曰(ここに(1)の文、挿入)。
遂以四万人行。及宜王至遼東、霖雨不得時攻、
羣臣或以為“淵未可卒破、宜詔宜王還。
”帝曰「司馬懿臨危制変、擒淵可計日待也。」
卒皆如所策。(魏志第三、明帝紀、景初二年十一月項)

326日本@名無史さん2017/12/02(土) 08:38:56.74
>>324
そんな妄想を抱く原因は何だろう?

327日本@名無史さん2017/12/02(土) 08:40:42.98
>>325
こうして古田は万座の失笑を買った

328日本@名無史さん2017/12/02(土) 08:45:01.81
>>325
「道路廻阻、四千余里」って聞いたら
脳が3g以上ある人間の98%は派兵で歩く「洛陽〜襄平」間を指すと言うよ

329日本@名無史さん2017/12/02(土) 08:52:29.26
>>293の続き
これは、群臣たちが四万人の大遠征について危懼したのに対し、
明帝は司馬懿(宣王)の智略を信じて疑わず、決行し成功した、という話だ。
この中に明帝の言葉は、二回現れている。
その第一回(決行前)が(1)の内容だ。
ここで「雖云用奇」の表現は、“宣王が奇策を用いるとしても”の意だ。
それにしてもやはり「任力」(彼の力量に任せる)ベきであり、
他の者(群臣)がとかく経費などを計算すべきではない、といっているのである。
ところが、司馬懿が遼東郡に到着した後、
はじめ霖雨にさまたげられていたため、群臣の中から“宣王召還”の議が出た。
これに対し、明帝は再び宜王ヘの全面信頼の言をのべてこの議を斥けたのである。
この第二回の明帝の言葉の中に「臨危制変」の語がある。
これは第一回の明帝の言葉(1)の中の「用奇」に当たるものだ。
“司馬懿が臨機応変の奇策に長じている”ことを言っているのである。
さて、この「臨危制変」は明らかに遼東郡到着後の問題だ。
それゆえ当然、先の「用奇」も、これと同一時期のことと見なすほかない。
これが文脈の道理である。(さらに注に詳記) (7)

上の帰結は(2)(3)の前後の文面によっても裏づけられる。
(2’) ((2)に接続する文)雖仮天威、有征無戦、寇或潜遁、消散日月、命無常期、人非金石、遠慮詳備、誠宜有副。(魏名臣奏、何曾上表)
(3’) 帝問宜王「度公孫淵、将何計以待君。」
宣王対曰「淵棄城預走、上計也。拠遼水拒大軍、其次也。坐守襄平、此為成禽耳。」
帝曰「然則三者何出。」
対曰「唯明智審量彼我、乃預有所割棄、此既非淵所及。」
又謂「今往県遠、不能持久。必先拒遼水、後守也。」
帝曰「往還幾日。」対曰「(3)の文」。(干宝『晋紀』)
上の(2’)は、遠征中の非常事態にそなえて宣王に副官をおくべきことを何曾が上表したものである。(母丘倹任命)。
この何曾上表中の「遠慮詳備」すべき非常事態とは、「有征無戦、寇或潜遁、消散日月」であった。
すなわち、遼東郡到着後、公孫淵が魏軍との直接対決を避け、
“遠征軍の消耗を待つ”持久戦に出たときのことを憂慮しているのである。
その憂慮をのべるさいに「道路廻阻、四千余里」といっているのであるから、
当然この「四千余里」は戦闘領域(遼東郡域)を指していることとなる。

330日本@名無史さん2017/12/02(土) 08:54:08.51
読む気が千

331日本@名無史さん2017/12/02(土) 08:58:57.90
>>293の続き
この点は、(3’)からも裏づけられる。
明帝が公孫淵側の作戦について宣王に問いたところ
“襄平城を棄てて走り、遠征軍の消耗を待つのが「上計」、
遼水の線で遠征軍を拒ぐのが「次計」、
襄平城籠城が最下策だ”とし、
公孫淵ははじめ「次計」、のち最下策をとるだろう、と予言した。
すなわち、魏側にとってもっとも恐るべき「持久戦」を公孫淵はとるまい、
だから「攻百日」で足りる、と断言したのである。
(「往百日」「還百日」は客観的に算定しうる「定距離」の問題であり、
宣王の言をまつまでもなく、明らかである。) 
ここでも明白に遼東郡域内の戦闘状況ヘの予測(「持久戦」にはならぬという見通し)が焦点であり、
(2’)の何曾上表の憂慮。(「寇或潜遁」の場合の「消散日月」)と
キッチリ対応した答えをしめしているのである。
 
以上、三史料を通じて次の帰結が導かれる。
「四千(余)里」は遼東郡の戦闘領域内を指し、宜王の「攻百日」の予測部分に当たる、と。
すなわち、それは「魏晋朝短里による四千里」に相当するのである。(前著一五二ページ図参照)
 
さらに一個の簡明な理路を付記しよう。
山尾氏が示されたように、『後漢書』劉昭註(後述)によると、
「洛陽 ーー 遼東郡治(襄平)」間は「三千六百里」である。
ところが先の何曾上表では「四千余里」だ。魏志明帝の場合は、
「余」字がないから“切り上げ”として処理できるとしよう。
しかし何曾上表の場合は、「余」字から見て、“切り上げ”視は不可能だ。
厳密なるべき「上表文」という文書性格から見ても、この些少の一字は看過することができない。
 
山尾氏の解釈は、以上の史料事実に反する。

332日本@名無史さん2017/12/02(土) 09:01:16.18
>>329
2%がこんな変なことを言う

333日本@名無史さん2017/12/02(土) 09:02:53.31
神殺し

もののけ姫・・・?とか、
漫画やアニメ、ゲームばかり観ていたので、こうなった
と言っている人がいたよ

数年前の陰謀スレ

334日本@名無史さん2017/12/02(土) 09:03:44.46
読む気が千

335日本@名無史さん2017/12/02(土) 09:04:57.48
なぜ大震災おめでとう^^^^^
と言っている人々がいるんだと思う

336日本@名無史さん2017/12/02(土) 09:10:42.54
謎のチェーンソーのゲームでも、
渡来人どもめ〜と言っているし

敵の台詞だよ

337日本@名無史さん2017/12/02(土) 09:12:03.96
>>331
>すなわち、魏側にとってもっとも恐るべき「持久戦」を公孫淵はとるまい、

これがウソね
仲達が公孫淵にとって最も「上策」、つまり魏にとって一番厄介だと惧れたのは、奥地に逃げ込み持久戦に持ち込まれること
つまり遠征の移動距離4千里をもっと伸ばされた上に時間を稼がれること
古田の抗弁は最初からウソに基づいているので
論破は簡単

338日本@名無史さん2017/12/02(土) 09:12:40.55
>>293の続き、注、
(7) 
(イ)「用奇」すべきは、往路や還路でなく、遼東郡の戦闘領域内の問題である。
(ロ)「役費」問題が群臣の論議をまねいたのは、必ずしも往・還路の問題だけではない。
それは「一定の距離」であり、ほぼ明確に「算定」しうるものであった。
これに対し、計算上“不確定の困難さ”を与えたのは
現地(公孫淵の直轄領たる遼東郡内)における滞在日数である。
それが長びけば長びくだけ、
“四万人への補給”のための費用は、増大し、計算しがたいのである。
ここに群臣の憂慮があった。
(ハ)これに対し、明帝は、あらかじめ予測しがたい戦闘地内の戦闘状況の推移に対し、
まず司馬懿の「用奇」すなわち臨機応変の対応力に信頼しつつも、
(それだけでは群議とどめがたいから)結局のところ“司馬懿の力量に任せよう”
という、彼への信頼に依拠する決断を下した。
そしてこの明帝の根本姿勢は、
遼東郡到着後の初期の渋滞の際、再び明示されることとなったのである。
(ニ)こうしてみると、第一回の明帝の言葉の中で「征伐ーー用奇ーー任力」といっているのは
一貫して現地(戦闘領域)内の問題であることがわかる。
すなわち「四千里征伐」の「四千里」は「戦闘領域」の指摘である。

(8) 「三千六百里」は概数では「三千数百里」である

339日本@名無史さん2017/12/02(土) 09:21:30.27
読む気が千

340日本@名無史さん2017/12/02(土) 09:23:12.91
百済勢力を倒せと言っている人もいたよ

その後、
東日本大震災おめでとう^^^^^^^^?

341日本@名無史さん2017/12/02(土) 09:24:50.37
>>294
>結局のところ漢書地理志も後漢書劉昭註も正常な古代中国の1里=約400mで書かれていることが確認された
短里なんていう奇妙なものは検出されなかったわけだ <

そりゃ当然だ。
古田さんは、「魏西晋朝は短里だった」という説であり、
漢書や後漢書や、それらの「魏西晋朝以外の注」は、短里が殆どなくて当然だ。

何をアホな事を言ってんだ?。

342日本@名無史さん2017/12/02(土) 09:26:16.72
唐津の一件でもそうだったけど、古田のダメなところは土地勘が利かないこと
公孫淵が本拠の襄平は今の遼陽、つまり遼河のほとりにあるの
公孫淵が遼河を防衛線にして持久戦をしたって「古田式4千里」が「戦闘領域」になったりしない

343日本@名無史さん2017/12/02(土) 09:32:05.07
>>341
また狂ったことを言ってる

漢書地理志の書かれた後漢代でも、後漢書地理志が書かれた三世紀でも、後漢書に劉昭註のついた南朝梁でも「古田式短里」なんて誰も記録しなかった
そりゃ当然だ
昭和になって現代人が発明したんだもの

344日本@名無史さん2017/12/02(土) 09:53:43.73
>>300
山尾や大和説・・・相当追いつめられていたようだね。

345日本@名無史さん2017/12/02(土) 10:06:24.36
>>338
で、漢書、後漢書の3600里と魏志の4000里で整合しているわけだが、何も否定されてないね
古田は降参しちゃったのかな

346日本@名無史さん2017/12/02(土) 10:17:24.15
現実認識能力の狂ってる>>344さんいつも乙です

347日本@名無史さん2017/12/02(土) 10:29:26.73
>>306
>2世紀前半の帥升あたりに神武を設定したとすれば、
4代懿徳あたりの時代にヒミコを探さなければいけませんが、該当者はいません<

卑弥呼と言った瞬間に、
「南≠東」だから✖ね。

348日本@名無史さん2017/12/02(土) 10:30:45.73
>卑弥呼と言った瞬間に、

瞬間w

349日本@名無史さん2017/12/02(土) 10:42:32.91
>>315
>>漢代や東晋以後は「長里がメインで使われていたが、短里記載も残っていた」という考え。
何もおかしくない。<

>おかしい たかだか1.4倍未満の差だったら計測精度か、辿ったコースの違いでしょ<

本来は、距離が衆知されているような既知の距離であったんだから、
殆ど合っていなくては、何か変な失敗をしているのであり、やはりおかしい。

>長里と古田短里の差なんかではない <

また何か変な事をしゃべっているね?。
それが、古田さんの意見だったんだよ。

350日本@名無史さん2017/12/02(土) 10:47:18.77
>>318
>馬鹿ですか? 杭州湾を迂回するルート次第でそのくらいの差はすぐ出る<

それなら、
どこからどこの?ルートだったからだ、?とか、何故迂回が必要であったのか?などの、
などとはっきり論証したら?。

351日本@名無史さん2017/12/02(土) 10:47:32.72
>>349
あのなあ・・・

洛陽から会稽に行く距離から、洛陽から呉に行く距離を引いたら呉〜会稽の距離だぁ
!!
って、おかしいと思わない?

しかも、違う時代のデータを比較してる
洛陽からそれぞれに向かうコースが同じ遠言う保証ゼロ
そんな方法論で精度出せるわけないでしょ

352日本@名無史さん2017/12/02(土) 10:48:45.02
>>350
>何故迂回が必要であったのか?

現地の地理をぜんぜん知らないの?
それじゃ理解は無理だよ

353日本@名無史さん2017/12/02(土) 10:51:13.19
『菅野力夫』画像を検索してみると良い、
ロトの紋章のようなものが出てくるから

それと『山王宮 山王院』『牛頭天皇』『天神』とか出てこない?

神殺し・・・放射能?

354日本@名無史さん2017/12/02(土) 10:54:37.22
>>350
そんなの中国の地理を知ってりゃ分かる

355日本@名無史さん2017/12/02(土) 10:55:38.04
『LoveSong 探して』?

「交差点」を横切った。
「月明り」とか。

『ビートルズ』のような曲?いろいろと繋げたの?

356subo2017/12/02(土) 10:56:50.20
>>340

呟きの煽りネタか、東日本は高句麗とか新羅だろ

おめでとうは畿内の百済の連中の嫌味かな

357日本@名無史さん2017/12/02(土) 11:00:43.64
それにしても力夫氏のwiki

「モテモテ」
「ワシントンに上告するかに対して、それまですることはないと答え」

このような事が書いてあったり

358日本@名無史さん2017/12/02(土) 11:01:52.92
古田が極度にアホ、というか抜けてるのは
洛陽から会稽山陰に行くには途中に呉県を通過しないってことを知らないで
デタラメ書いちゃったこと

359日本@名無史さん2017/12/02(土) 11:12:36.68
中国 = 満州にある碑文にも倭国が海を渡って百済と新羅を臣下にしたと書いてある。

360日本@名無史さん2017/12/02(土) 11:12:37.37
ザ・モモタロウに登場する浦島太郎も
どこかの国の王子じゃなかった?長竿?

361日本@名無史さん2017/12/02(土) 11:13:17.09
『松傾』??

362日本@名無史さん2017/12/02(土) 11:23:25.61
>>319
>日本 = 日本書紀に「391年に神宮皇后が百済と新羅を征服したと書いてある。」<

書紀は、倭國の存在や歴史を抹殺しようとした半分偽書であり、
その記載は証拠に使えないんだよ。
それに、大和は、倭國の筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の附庸国の旧小国であったのであり、
白村江の後でようやく倭國を併合吸収継承出来ただけだから、
391年頃の時代は、大和が倭國の代表として半島攻撃が出来る筈もなく、

有り得る事は、神功が、倭國内の一武将として、
筑紫倭國の(高良玉垂命の)新羅遠征に同行し、
それを大和が書紀に「大和の話だ」、として書いた、
という程度の可能性しかないんだよ。

363日本@名無史さん2017/12/02(土) 11:33:53.89
>>320
>>>(三都賦の話)確認出来れば、十分史料になり得る。<

>確認出来なければば、ぜんぜん史料になり得ない。 確認できたの?<

三都賦の話なら、古田さんは、
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku13/yamaic41.html
で、分析確認しておられるよ。

また詩歌なら、(私は詩歌が不得手で殆ど判らないが)、
古田さんは、
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosak20/mokuji20.html
や、
www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosak21/mokuji21.html
などでも、史料批判をして、根拠になるものは根拠にしておられるよ。

364日本@名無史さん2017/12/02(土) 11:47:46.16
三貴子?

365日本@名無史さん2017/12/02(土) 11:50:30.35
『日本昔話 姥清水』

たしか

むかーし、この辺りに住んでいた事があるんだよ
と言っていたような

いまの福島県の山の上のほう?

366日本@名無史さん2017/12/02(土) 12:08:20.99
>>328
>「道路廻阻、四千余里」って聞いたら
脳が3g以上ある人間の98%は派兵で歩く「洛陽〜襄平」間を指すと言うよ <

また何を曲解してんだい?。
「道路廻阻、四千余里「」は明帝の発言ではなく、ではなく、
「魏名臣奏、何曾表、魏志第三、裴松之註」の文だし、
明帝の発言は、
「帝曰「四千里征伐、雖云用奇、亦当任力、不当稍計役費。」(魏志第三、明帝紀)」
なんだから、
「道路廻阻」の話ではなく、「征伐、雖云用奇、亦当任力」の直接的戦闘の話なんだから、
遼東内の征伐戦の距離でよいんだよ。

367日本@名無史さん2017/12/02(土) 12:18:34.98
>>363
他人にそんな賛美歌を聞かせても効果はない

368日本@名無史さん2017/12/02(土) 12:20:40.73
>>366
同じものを指しているよ。
道里だ。

369日本@名無史さん2017/12/02(土) 12:34:10.10
>>366
「道路廻阻、四千余里」の「四千余里」が遼東に赴く道里なんだ。
明帝のいう「四千里征伐」も当然その道里だ。

370日本@名無史さん2017/12/02(土) 12:38:30.12
古田は曲芸曲解ばかりだ

371日本@名無史さん2017/12/02(土) 12:57:32.44
それよりも『たまごっち!』という作品だよ

なぜ、もれ(仮)の妹と同じ名前の女の子が出て来たのか?
本物だったとか?

372日本@名無史さん2017/12/02(土) 13:01:59.10
砂漠に出かけたり、
図書館で調べものをしていたり

時計が止まったのか、逆回りしていたのか、
あまり覚えていないけど、
そのような話があったり

373subo2017/12/02(土) 13:11:09.72
畿内厨はニュー速+で読売新聞使ってクラウドファンデングとか

一般市民を騙すのはやめなさい

374日本@名無史さん2017/12/02(土) 13:24:01.70
また中傷か

375日本@名無史さん2017/12/02(土) 13:31:05.99
>>366
>「帝曰「四千里征伐、雖云用奇、亦当任力、不当稍計役費。」(魏志第三、明帝紀)
→明帝は、「四千里の彼方に征伐におもむくのだから、たとえ奇策を用うるとはいっても、
やはり軍事力に頼るべきであり、戦費を安く上げようと計ってはならない。」
(筑摩三国史:明帝紀、魏志第三)

明帝は直接的戦闘の話をしてはいない。したがって、遼東内の戦いの距離の話ではないね。

>「今懿、奉辞誅罪、歩騎数万、道路廻阻、四千余里」
→今、司馬懿はご命令を奉じて賊徒を誅滅せんとしておりますが、
歩兵・騎兵数万の行く手の道はまがりくねって険しく、四千里以上の行程であります。」
(筑摩三国史:裴松之註、『魏名臣奏、何曾上奏文』、魏志第三)

>それゆえ当然、先の「用奇」も、これと同一時期のことと見なすほかない。
これがいかさま、遠征前の話と遠征に行った先の話が同一時期のわけがない。

>その憂慮をのべるさいに「道路廻阻、四千余里」といっているのであるから、
>当然この「四千余里」は戦闘領域(遼東郡域)を指していることとなる。
これも大ウソ、副官を置くべきと上奏しているのは遠征前
憂慮しているのは遠征が四千里以上の行程に及ぶから

376日本@名無史さん2017/12/02(土) 13:37:24.17
スペースシャトル、宇宙船、UFOのようなものが出てきたり、
かぐや姫のような話じゃなかった?

ガンダム?

377日本@名無史さん2017/12/02(土) 13:42:06.77
たしか、このような話があったような

スペースシャトルのようなものに乗って、
たまごっちの国に、遊びに行き、戻ってきた?

378日本@名無史さん2017/12/02(土) 13:45:58.41
『ボーボボ』
ググってみると、
葱を持っているキャラがいたり


家の先祖の写真?キュウリのような葉や葱の華が写っていたり

379日本@名無史さん2017/12/02(土) 13:50:05.96
ググると「時よ止まれ」という台詞も出てくる、
ディエゴ・・・まらどーな

380日本@名無史さん2017/12/02(土) 17:10:21.65
古田派の「史料に書いてある」は
「古田新発明の超訳はこうだ」
って意味だね

中国人も含め、他の人は誰もそう読まない

381日本@名無史さん2017/12/02(土) 17:21:34.76
>>337
>>すなわち、魏側にとってもっとも恐るべき「持久戦」を公孫淵はとるまい、<

>これがウソね
仲達が公孫淵にとって最も「上策」、つまり魏にとって一番厄介だと惧れたのは、奥地に逃げ込み持久戦に持ち込まれること
つまり遠征の移動距離4千里をもっと伸ばされた上に時間を稼がれること
古田の抗弁は最初からウソに基づいているので 論破は簡単 <

これが嘘ね。論破は簡単。
遠征路は、魏の支配地であるから、何の移動の障害もないのであり、
「用奇」など全く必要がなく、「臨危制変」も始めから発生しないから、
「四千里征伐」も、遼東の公孫氏の支配地に達してからだ、という事になる。

また、何晏のいう「道路廻阻、四千余里」も、
遠征路であれば、魏の支配地であるから、既知の道であり、「阻害」する筈もない。
当然、支配していなかったから不明になっていた「公孫氏の領域内のなっていた道路」。

382日本@名無史さん2017/12/02(土) 17:26:07.74
>>381
あほ

大人数で長旅すれば大コストがかかるんだよ
それだけでも大事業なんだ
常識のないじいさんだな

383日本@名無史さん2017/12/02(土) 17:31:52.72
たれでも、古田の言ってることがインチキなのは、すぐわかる。
だって、戦闘領域とやらが四千里だって根拠を、誤魔化して言わないんだもの

384日本@名無史さん2017/12/02(土) 17:44:33.38
>>342
>唐津の一件でもそうだったけど、古田のダメなところは土地勘が利かないこと<

唐津の一件でもそうだったけど、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの詐欺師の、
山尾や大和説者のダメなところは、文章記載の意味のや意図が読めず、土地勘も利かないこと。

>公孫淵が本拠の襄平は今の遼陽、つまり遼河のほとりにあるの
公孫淵が遼河を防衛線にして持久戦をしたって「古田式4千里」が「戦闘領域」になったりしない<

実際には、遼河のはるか前の公孫氏の支配領域に入ってから戦闘が始まっていたの。
そして、ハイエナが提示したその戦闘の記載でも、短里が使われていたの。
また、公孫氏の支配地は、襄平よりもはるかに東まで(方四千里の韓國に匹敵する位)広がっており、
公孫氏の残党を全滅させるには、結局短里での四千里が必要であったの。

385日本@名無史さん2017/12/02(土) 17:50:15.42
あなたの日本語よくわからない

386日本@名無史さん2017/12/02(土) 17:52:24.78
>>384
ハイエナとか、なんの話してるんらや

387日本@名無史さん2017/12/02(土) 18:02:28.65
>>343
>また狂ったことを言ってる
漢書地理志の書かれた後漢代でも、後漢書地理志が書かれた三世紀でも、
後漢書に劉昭註のついた南朝梁でも「古田式短里」なんて誰も記録しなかった
そりゃ当然だ 昭和になって現代人が発明したんだもの <

また狂ったことを言ってる。

>漢書地理志の書かれた後漢代でも、後漢書地理志が書かれた三世紀でも、<

司馬彪は、司馬家の主流から疎外されて漢の学問に入ったんだから、
そりゃ、魏朝や西晋朝の短里を使わず、漢の長里を使って当たり前だ。

>後漢書に劉昭註のついた南朝梁でも「古田式短里」なんて誰も記録しなかった
そりゃ当然だ 昭和になって現代人が発明したんだもの <

そりゃ当然だ。
短里は、魏朝での、周制の周髀算経の一寸千里のへの復古の方針で採用され、
西晋朝も継承したんだもの。

388日本@名無史さん2017/12/02(土) 18:05:44.09
>>387
なんて証拠なし


妄想

389日本@名無史さん2017/12/02(土) 18:09:14.95
>>345
で、漢書、後漢書の3600里と魏志の4000里とは、
里数も対象区間も全く整合していないわけだが、
有効な反論も、何もされてないね。
「南→東」などの史料事実の否定抹殺の嘘吐きダマシの山尾や大和説の・・・・ケダモノは、
降参しちゃったのかな ?。

390日本@名無史さん2017/12/02(土) 18:12:12.89
3世紀に書かれたという後漢書地理志?
何それ?

391日本@名無史さん2017/12/02(土) 18:12:18.00
>>346
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの、
史料事実や史料実態の認識能力の狂ってる>>344さん、
いつもの・・・・ケダモノ乙です。

392日本@名無史さん2017/12/02(土) 18:23:50.81
>>351
>あのなあ・・・ 洛陽から会稽に行く距離から、洛陽から呉に行く距離を引いたら呉〜会稽の距離だぁ
!! って、おかしいと思わない?
しかも、違う時代のデータを比較してる 洛陽からそれぞれに向かうコースが同じ遠言う保証ゼロ
そんな方法論で精度出せるわけないでしょ<

あのなあ・・・。
だから前から、
会稽郡治は会稽山付近にあっただろう、と推定出来ても、
「呉」の中心地の比定地や範囲がはっきりしていないから、
「会稽東治」の「東治」の範囲もはっきりしないし、
出発点も到着点もはっきりしないから、
長里的情報だろう、という程度でしかない、って言って来たし、
古田さんもそういう意見であったでしょ?。

393日本@名無史さん2017/12/02(土) 18:31:42.75
>>352
>>何故迂回が必要であったのか?<

>現地の地理をぜんぜん知らないの? それじゃ理解は無理だよ <

何だ?、何を誤魔化してんだい?。
「迂回」という言葉を使ったのは、お前の方だよ。
私は、中国など行った事もないし知らないから、地図を眺めているだけだ、
とも言ってあるし、
大和説者は、未だに、「呉」地域の歴史的変遷を説明しないし、
会稽東治の「東治」の範囲も説明していないままだよ。

394日本@名無史さん2017/12/02(土) 18:35:12.59
>>354
>そんなの中国の地理を知ってりゃ分かる <

「分かる」んなら、
呉〜会稽の距離が何故1.4倍の違ったのか?の説明を、
中国の地理で、、やってみろ?。

395日本@名無史さん2017/12/02(土) 18:37:47.43
>>381

またまた、でたらめが始まりました。

>遠征路は、魏の支配地であるから、何の移動の障害もないのであり、
何曾は道路が険しく四千里の遠征が遠いと心配して上奏したのだ。

>「用奇」など全く必要がなく、「臨危制変」も始めから発生しないから、
「用奇」とは、司馬懿があらかじめ想定した3つの戦略のこと、
「臨危制変」とは、司馬懿は危機にのぞみ変化に応じて対処できる人物だと、明帝が感じていること、
意味も違うし、両者に何の関連もない。

>「四千里征伐」も、遼東の公孫氏の支配地に達してからだ、という事になる。
突然なぜ結論が出てくるのか意味不明

396日本@名無史さん2017/12/02(土) 18:41:26.33
>>358
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシをしたこの男や山尾?が、
極度にアホ、というか、抜けてるのは 、
洛陽から会稽に行く途中に書かれた呉?の場所がどこであるのか?を言えないで、
デタラメを書いちゃったこと。

397日本@名無史さん2017/12/02(土) 18:49:13.05
>>359
>中国 = 満州にある碑文にも倭国が海を渡って百済と新羅を臣下にしたと書いてある。<

書いていない。
好太王碑は、好太王の顕彰碑であるから、高句麗や好太王が記載の主人であり、
だから「破」の主語は好太王であり、「臣下」にしたのは好太王や高句麗であった、
と読まなければいけない、という事。

そしてこの「倭国」は、東海姫氏國の倭の五王のの直前だから、
当然「九州の倭国」本国。

398日本@名無史さん2017/12/02(土) 19:00:59.77
>>369
>「道路廻阻、四千余里」の「四千余里」が遼東に赴く道里なんだ。
明帝のいう「四千里征伐」も当然その道里だ。<

「道路廻阻、四千余里「」は明帝の発言ではなく、ではなく、
「魏名臣奏、何曾表、魏志第三、裴松之註」の文だし、
明帝の発言は、
「帝曰「四千里征伐、雖云用奇、亦当任力、不当稍計役費。」(魏志第三、明帝紀)」
なんだから、
「道路廻阻」の話ではなく、「征伐、雖云用奇、亦当任力」の直接的戦闘の話なんだから、
遼東内の征伐戦の距離でよいんだよ。

遠征路は、魏の支配地であるから、何の移動の障害もないのであり、
「用奇」など全く必要がなく、「臨危制変」も始めから発生しないから、
「四千里征伐」も、遼東の公孫氏の支配地に達してからだ、という事になる。

また、何晏のいう「道路廻阻、四千余里」も、
遠征路であれば、魏の支配地であるから、既知の道であり、「阻害」する筈もない。
当然、支配していなかったから不明になっていた「公孫氏の領域内のなっていた道路」の事。

399日本@名無史さん2017/12/02(土) 19:03:34.89
>>381
好古くんの支隊もやってましたな敵中突破4000里(4000里ちごたか(場所だいたい同じやろ

400日本@名無史さん2017/12/02(土) 19:03:51.41
>>370
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの山尾や、
・・・・ケダモノの大和説者は、
曲芸曲解ばかりだな。

401日本@名無史さん2017/12/02(土) 19:07:13.08
つうかなぜに三国志コーエーの話してますのん?(つぶやきせんせーも参加しなされ(しせるこーめーなんたらかんたらはぎゃくほーこーやぞ

402日本@名無史さん2017/12/02(土) 19:13:00.34
敵中横断三百里や!

403日本@名無史さん2017/12/02(土) 19:25:23.98
中国 = 中国の歴史書の宋書にも倭国が朝鮮半島南部を支配した記録がある。

404日本@名無史さん2017/12/02(土) 19:26:25.29
お!ふるたくんのたんりやね?
レッドクリフの川幅でしょうめーしてはったな
つか短里うんぬんはとういでんのくくりでざっと統計解析すれば1里200mの確率は1パーセント以下やし(すこしまじ

405日本@名無史さん2017/12/02(土) 19:26:34.19
>>375
>「帝曰「四千里征伐、雖云用奇、亦当任力、不当稍計役費。」(魏志第三、明帝紀)<
→明帝は、「四千里の彼方に征伐におもむくのだから、たとえ奇策を用うるとはいっても、
やはり軍事力に頼るべきであり、戦費を安く上げようと計ってはならない。」
(筑摩三国史:明帝紀、魏志第三)
明帝は直接的戦闘の話をしてはいない。したがって、遼東内の戦いの距離の話ではないね。<

遼東の公孫氏の支配地に着くまでは、魏の支配地であり、「用奇」も「任力」も全く不要。
だから、「四千里征伐」は公孫氏征伐距離であり、遠征路距離ではない。
これ、人類の常識。

>「今懿、奉辞誅罪、歩騎数万、道路廻阻、四千余里」<
→今、司馬懿はご命令を奉じて賊徒を誅滅せんとしておりますが、
歩兵・騎兵数万の行く手の道はまがりくねって険しく、四千里以上の行程であります。」
(筑摩三国史:裴松之註、『魏名臣奏、何曾上奏文』、魏志第三)<

当然「歩騎数万、道路廻阻、四千余里」は、「誅罪」戦の距離。
筑紫書房、お前も大和説詐欺師の仲間だったのか?。

>それゆえ当然、先の「用奇」も、これと同一時期のことと見なすほかない。<
これがいかさま、遠征前の話と遠征に行った先の話が同一時期のわけがない。、<

明帝は「 四千里征伐、雖云用奇」とはっきり言っているから、(遠征路ではなく)征伐戦の話。

>その憂慮をのべるさいに「道路廻阻、四千余里」といっているのであるから、
当然この「四千余里」は戦闘領域(遼東郡域)を指していることとなる。<
これも大ウソ、副官を置くべきと上奏しているのは遠征前
憂慮しているのは遠征が四千里以上の行程に及ぶから<

いや、公孫淵が、「城を捨てて逃亡する場合に備えて」の 話。
しかし、司馬懿は、公孫淵は(アホだから?)逃亡しない、と読んだ。

406日本@名無史さん2017/12/02(土) 19:27:24.13
まーだいたい100m弱やろ?

407日本@名無史さん2017/12/02(土) 19:28:49.43
ザラコク氏は南ー東だけ言ってないで
総合的に判断した結果、結論こうっていう言い方方法論でないとダメよ。重箱の隅をつついてることにしかならないからね。

1つ成り立たなくても
100個 邪馬台国の条件に合致してるなら説としてまともだからね。

408日本@名無史さん2017/12/02(土) 19:32:36.56
えーとイチリができるだけ長くなる範囲でとーいでんとーじょーのじゅーしょを比定してイチリのながさをそれぞれ計算してすべてのデータでかいせきしなはれ
確率分布でますよって
200mいじょーになる確率ほとんど0や

409日本@名無史さん2017/12/02(土) 19:33:15.11
>>407
さんせー

410日本@名無史さん2017/12/02(土) 19:36:35.63
つぶやき先生というのは誰の事なんだ?

411日本@名無史さん2017/12/02(土) 19:38:49.01
>>380
>古田派の「史料に書いてある」は 「古田新発明の超訳はこうだ」 って意味だね <

いや、古田派の人たちは、皆、
史料批判した史料の記載実態に拠っての確率の高い推論。
それに対して、大和説者は、国粋皇国史観という結論が先にあって、
それに合わない史料事実は全て否定曲解した解釈をする・・・・アホなケダモノ人種。

>中国人も含め、他の人は誰もそう読まない <

魏西晋朝の「短里」という史料事実を知らない中国人も、日本の大和説者らも、
「四千里征伐」と「韓国の方四千里」とが同じ魏の度量衡で語られたものだから、
同じ距離である、
という事が全く理解出来ないアホ人種であった訳で。

412日本@名無史さん2017/12/02(土) 19:40:47.86
以前、書いたことがあるんだけど

古田と言うのは、どこの学者なんだ

413subo2017/12/02(土) 19:42:55.75
箸墓の池の水を抜くのは反対で断念てか、年代捏造がばれるのが怖くなったんだな

既にバレバレなんだけど

414subo2017/12/02(土) 19:44:14.57
>>410
知ってるくせに

415日本@名無史さん2017/12/02(土) 19:45:10.41
そろそろ、
頭のビョーインに行ったほうが良いぞ

416日本@名無史さん2017/12/02(土) 19:45:49.87
>>382
>あほ 大人数で長旅すれば大コストがかかるんだよ それだけでも大事業なんだ
常識のないじいさんだな<

あほ。
自国の支配領域内の「大人数で長旅」なんて、
皇帝の命令で道や食料や宿営の準備をさせて置けば、コストもかからないし、
敵対する公孫氏の大領地内を征伐する時に、大コストがかかるんだよ。
それだけでも、征伐は大事業なんだは。
大和説者って、全く常識のない・・・人種だな。

417日本@名無史さん2017/12/02(土) 19:45:57.41
ザラコクは中卒だから
国語教育の文に何が書いてあるのか(ザラコクがどう思うかはどうでもよい)
読解力の欠如 (高卒レベル)
基本的な資料の扱い方
大卒レベルの客観性が担保された学術的な考え方はできない
荒らして人に迷惑かけるだけ
まあ一言クズだ

418日本@名無史さん2017/12/02(土) 19:47:13.34
建川斥候隊はよしふるくんの部下ちゃいましたなー(うろおぼえでした
だれか騎兵のてきちゅーとっぱした部隊ぐっぐてちょ(まいこ

419subo2017/12/02(土) 19:48:20.39
>>412
ジャマイカだよ

420日本@名無史さん2017/12/02(土) 19:49:24.93
それよりも、
あの当時(不明)の小学生は詳しいね

『阿児』とか

421日本@名無史さん2017/12/02(土) 19:51:04.59
つぶやきせんせーもいぬがみせんせーも出現タイミングぴったしやなー(^^

422日本@名無史さん2017/12/02(土) 19:52:00.76
「お前、若桜の阿児なのか?」

川崎市の幸区、
桜の木が植えられている公園周辺での出来事

偶然なのかな

423日本@名無史さん2017/12/02(土) 19:52:09.46
たばここーてきます(ごかんだんあれ

424日本@名無史さん2017/12/02(土) 19:54:07.98
もれ(仮)の兄も小学生?6年くらいだったと思うんだけど、
有名人なのかな

425日本@名無史さん2017/12/02(土) 19:55:17.86
>>383
たれでも、山尾や大和説者の言ってることがインチキなのは、すぐわかる。
だって、古田本が、
戦闘領域とやらが「用奇」や「臨危制変」が必要な公孫氏の領地内の四千里での話だ、
っての事を書いている事や、
戦闘は、遠征路では発生せず、公孫氏の支配地で発生する事や、
四千里が韓国の「方四千里」と同じ数字で同じ距離だ、
という事など書いている事を、
誤魔化して言わない・・・・サギシなんだもの 。

426日本@名無史さん2017/12/02(土) 19:56:34.40
『川崎市幸区』『多摩川沿い』『桜の木』

この辺りを調べてみて、どうなっているんだろう

427日本@名無史さん2017/12/02(土) 19:59:00.27
もれ(仮)の住んでいるところは、
川崎区の南部のほうだよ

サイバーパンク?

428日本@名無史さん2017/12/02(土) 20:01:23.83
>>390
>3世紀に書かれたという後漢書地理志? 何それ?><

何だ?、この男は、
「3世紀」という文言を何も判らずに使っていたのかな?。
3世紀の「長里の話」なら、司馬彪の「続漢書」の志の事になるんだ」から。

429日本@名無史さん2017/12/02(土) 20:16:17.26
>>395
>またまた、でたらめが始まりました。<

またまた「南→東」などの嘘吐きダマシの、大和説者の嘘吐きダマシのでたらめが始まりました。

>>遠征路は、魏の支配地であるから、何の移動の障害もないのであり、<

>何曾は道路が険しく四千里の遠征が遠いと心配して上奏したのだ。<

いや、「誅罪、歩騎数万、道路廻阻、四千余里」」と「誅罪」とはっきり書いているから、
公孫氏の罪を誅する戦闘地での困難さを心配したのだ。

>>「用奇」など全く必要がなく、「臨危制変」も始めから発生しないから、<

>「用奇」とは、司馬懿があらかじめ想定した3つの戦略のこと、<

いや、「四千里征伐、雖云用奇、」だから、征伐戦の話。

>「臨危制変」とは、司馬懿は危機にのぞみ変化に応じて対処できる人物だと、明帝が感じていること、
意味も違うし、両者に何の関連もない。<

安全で、前もって命令しておける遠征路では、全く使う必要がない。
実際の戦闘で必要な事。

>>「四千里征伐」も、遼東の公孫氏の支配地に達してからだ、という事になる。<

>突然なぜ結論が出てくるのか意味不明 <

「用奇」も「臨危制変」も、実際の戦闘で必要だから。

430日本@名無史さん2017/12/02(土) 20:21:05.25
家の先祖

キュウリのような葉・・・河童 河伯

邪馬台国、三國志以前の存在

431日本@名無史さん2017/12/02(土) 20:23:00.67
それとサカキバラ事件?

向こうに亀がいるよというのは
占い関係の話なのかな

432日本@名無史さん2017/12/02(土) 20:25:26.67
永沼挺進隊や!長谷川挺進隊や!

433日本@名無史さん2017/12/02(土) 20:25:42.20
『松傾』?

434日本@名無史さん2017/12/02(土) 20:27:15.36
ちゅーたつも敵ちゅー4000里したんやな(じつはソースなし

435日本@名無史さん2017/12/02(土) 20:29:06.12
>>403
>中国 = 中国の歴史書の宋書にも倭国が朝鮮半島南部を支配した記録がある。<

この「倭国」は、当然、
(別種旧小国の大和の事ではなく)筑紫倭国が主体となった話。

436日本@名無史さん2017/12/02(土) 20:36:56.45
それと秦氏、
秦氏も邪馬台国や三國志以前の話だよ

どういう事なんだろう

・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・
以上の存在がいると都合が悪いので、
消されたりした一族や王国なのかな

地位的には下に置かれたり、
おかしな扱いにしていたり・・・土木工事をしていた人々とか

437日本@名無史さん2017/12/02(土) 20:44:21.68
>>407
>ザラコク氏は南ー東だけ言ってないで
総合的に判断した結果、結論こうっていう言い方方法論でないとダメよ。
重箱の隅をつついてることにしかならないからね。
1つ成り立たなくても 100個 邪馬台国の条件に合致してるなら説としてまともだからね。<

根本的に、不可知部分が殆どである自然や歴史においては、
知り得た全て観察事実や実験事実や史料事実の「正確さの確率をよく批判」しておいて、
それら「全て」からの「最も確率の高い推論」をすべきであり、
だから、最も確率の高い史料事実「南」は最もゆるがせに出来ないものであり、
半分偽書である記紀の最も信頼性のない記載は、根拠には殆どならない、
というような、史料選択も必要なんだよ。

438日本@名無史さん2017/12/02(土) 20:48:03.45
>>398
論破済み

439日本@名無史さん2017/12/02(土) 20:54:04.07
>>438
>論破済み<

山尾も大和説者も、論破され済み。

440日本@名無史さん2017/12/03(日) 00:46:25.92
>>437
それはあなたの信仰の表明だから
学問的態度の真反対にある態度。

それがわからないならこんな掲示板に書かずに
出版社にでも自説を売り込んでちょうだい。

はっきり言ってあなた邪魔なんだよね。

441日本@名無史さん2017/12/03(日) 04:46:28.97
と言うか、観察事実や実験事実や史料事実は何もなくて
あなたは自分の思想がすべて

あとは「古田さんの言ったこと」を盲信してるだけでしょ

442日本@名無史さん2017/12/03(日) 05:09:59.78
>>437みたいな美辞麗句で飾り立てても
実態はねえ・・・

確率計算なんでまったくやってないし

自分の結論に都合のいい史料だけ盲信して言い張るるだけ
都合の悪いものは「皇国主義者のウソ」ってレッテルを貼るだけ

史料批判は何もしない
そんなありさまでしょ

443日本@名無史さん2017/12/03(日) 06:12:13.92
>>440
>それはあなたの信仰の表明だから <

自然や歴史における不可知部分の認識は、
信仰や100%断定行為とは正反対な事なんだよ。

>学問的態度の真反対にある態度。<

東大物理の先生も、同じような事を書いておられたなあ。
自然は99.9%以上は不可知なんだと。私も、そう思う。

簡単に言えば、自然は、3次元空間で、
基本的には、波動性の要素を持って、
相互に斥力(反発力)と引力(凝集力)の相互作用を持つ「幾つかの場の集合」なのであり、
その「場の相互作用によって凝集したもの」が粒子性なのであり、
その相互作用の積み重ねの順番が「時間」なんですよ。
先日の「重力波」の確認も、
「電磁場」が存在していたんだから、当然の事であったんです。

>それがわからないならこんな掲示板に書かずに
出版社にでも自説を売り込んでちょうだい。
はっきり言ってあなた邪魔なんだよね。<

嫌だ。
はっきり言って、
間違える確率が99.9%以上あり得ない「南」を、「東」の間違いだ、
とする スレ主や大和説者は、学問や人類の敵であり、
邪魔なんですよ。

444日本@名無史さん2017/12/03(日) 06:15:24.99
その「確率」が脳内幻想

445日本@名無史さん2017/12/03(日) 06:20:30.11
九州説のパターン

・不可知だから言いたい放題だぁ! と思って妄想しまくる
      ↓
・それが科学で解明されちゃう
      ↓
・九州説メッチャ困っちゃう
      ↓
・ジイさん疑似科学に走る  ←イマココ

446日本@名無史さん2017/12/03(日) 06:21:53.28
>>441
と言うか、観察事実や実験事実や史料事実は何もなくて、 あなたは、
「自分が世の中で一番強くて偉くて、支配者でなければならない」
という唯我独尊のタカ派の宗教がすべて 。

あとは「人種差別的殺戮戦争の国粋皇国史観のキョクウの指導者」の言ったことを、
盲信してるだけでしょ。

447日本@名無史さん2017/12/03(日) 06:30:09.82
>>442
幾ら自分を、高徳の説教師みたいな美辞麗句で飾り立てても、
実態はねえ・・・。
確率が高いか低いか?という簡単な確率的思考なんでまったくやってないし 。
自分の結論に都合のいい史料だけ盲信して、
「南→東」などのように都合の悪い史料の否定抹殺を言い張るるだけ。
都合の悪いものは「反日主義者のウソ」ってレッテルを貼るだけ。
史料批判は何もしない 。
そんなありさまでしょ

448日本@名無史さん2017/12/03(日) 06:34:00.15
>>443の一部訂正。
先日の「重力波」の確認も、
「電磁波」が存在していたんだから、当然の事であったんです。

449日本@名無史さん2017/12/03(日) 06:38:19.35
>>446
妄想してもしょうがない

450日本@名無史さん2017/12/03(日) 06:42:48.60
>>445
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説者のパターン。

・人種差別的殺戮の国粋皇国史観が絶対の真、だから言いたい放題だぁ!、 
と思って妄想しまくる 。
      ↓
・それが科学や学問で解明され、否定されちゃう。
      ↓
・大和説メッチャ困っちゃう 。
      ↓
・唯我独尊のタカ派殺人派が、疑似科学やヘイトスピーチに走る。  ←イマココ 。

451日本@名無史さん2017/12/03(日) 06:55:01.47
「人種差別的殺戮戦争の国粋皇国史観のキョクウの指導者」
なんて罵り声を毎日毎日あげてる時点で
異常者だって自己紹介だよ

452日本@名無史さん2017/12/03(日) 07:03:58.08
>>451
この投稿男も、
「人種差別的殺戮戦争の国粋皇国史観のキョクウの指導者」 なんて、
「学問や科学や人類やの敵」への信仰の吐露を毎日毎日あげてる時点で 、
大和説の異常者だ、って自己紹介だよ 。

453日本@名無史さん2017/12/03(日) 07:22:22.22
まあ、フルタ説の異常さが引き立って結構

454日本@名無史さん2017/12/03(日) 08:32:57.44
畿内説のパターン

・どうせ魏志倭人伝なんて解読出来ないから言いたい放題だぁ! と思って妄想しまくる
      ↓
・それが解読されちゃう
      ↓
・畿内説メッチャ困っちゃう
      ↓
・ジイさん疑似科学に走る  ←イマココ

455日本@名無史さん2017/12/03(日) 08:36:09.77
九州説は芸がないな

456日本@名無史さん2017/12/03(日) 08:37:06.85
ザラコクのジジイは部落理論の信奉者

457日本@名無史さん2017/12/03(日) 08:49:28.25
ブラックだろ

458日本@名無史さん2017/12/03(日) 08:55:11.71
>>454とか見ると
やっぱり九州説ってのは何年経っても
「ワシこそが世界で初めて倭人伝の謎を解明したのぢゃぁぁぁ〜」爺さんの世界だなぁ

永遠に進歩しない停滞世界の住人

459日本@名無史さん2017/12/03(日) 09:59:15.15
九州説に有利なものは南の1文字しか無いって結論か

460日本@名無史さん2017/12/03(日) 10:28:29.16
結論は出たな
景初二年現在の魏の宮廷で漢代と変わらない通常の里が使われていたことの確認は取れたので、短里説は死亡した

461日本@名無史さん2017/12/03(日) 10:35:01.14
短里使わないと、パプア・ニューギニアか
マリアナ諸島。
南を東にしてもハワイ
北に寄ればベーリング海

462日本@名無史さん2017/12/03(日) 10:44:30.28
短里は公孫氏が制定して使ってただけじゃないかな
だから公孫氏の勢力圏の東夷で使われていた。

463日本@名無史さん2017/12/03(日) 11:27:55.34
>>461
使う必要ない

464日本@名無史さん2017/12/03(日) 11:29:01.61
>>462
短里なんて存在しないだろ

465日本@名無史さん2017/12/03(日) 11:36:27.54
そもそも短里とか算出した人がいない件について

466日本@名無史さん2017/12/03(日) 12:30:12.10
東夷伝は明らかに短里で書かれてる
長里では理解不能。

467日本@名無史さん2017/12/03(日) 13:08:04.42
古田短里ではなくて、尚書禹貢篇の九服之制に基づく
方万里の地理的世界観で書いている

468日本@名無史さん2017/12/03(日) 13:13:54.71
>>466
そう言い張る理由は?

469日本@名無史さん2017/12/03(日) 13:45:32.05
結局このスレはテンプレが駄目。

470日本@名無史さん2017/12/03(日) 13:48:29.01
物部氏がニギハヤヒの子孫なら、渡来人だろ。

物部の民は、争いに負けた国の人々、兵にされたんだろうね。

物部氏の始祖とされるウマシマジは、ヤマト征伐の際寝返った元クナ国の臣だろう。
裏切り者だな。

471日本@名無史さん2017/12/03(日) 13:57:18.82
>>469
悪口言うほか手も足も出ない敗者イター

472日本@名無史さん2017/12/03(日) 14:04:38.22
古田ン里はフィクションだよな

473日本@名無史さん2017/12/03(日) 14:23:37.31
>>470
部落の先祖は物部だと言いたいんですね?
つまり誇りある光栄ある民は貶められたと主張したいんですよね

474日本@名無史さん2017/12/03(日) 14:50:15.81
>>473
支離滅裂だな

475日本@名無史さん2017/12/03(日) 14:58:58.91
>>473
6世紀の権力者がどうして差別されるんだ?

476subo2017/12/03(日) 15:00:11.39
末蘆国から伊都国の間の5百里は短里で問題ないんだよな

477subo2017/12/03(日) 15:01:48.07
負けたら部落になるんだよ

478日本@名無史さん2017/12/03(日) 15:12:09.84
姓を賜った物部氏と部民を一緒にしたらだめだよ

479日本@名無史さん2017/12/03(日) 15:23:29.74
>>476
ほかは全部問題アリって、気づいた?

480日本@名無史さん2017/12/03(日) 15:28:09.22
>>477
いつ負けた?

481卑弥呼2017/12/03(日) 15:47:50.30
>>1
ヒントをあげましょう。邪馬台国は北部九州にありました。

482日本@名無史さん2017/12/03(日) 15:54:48.06
>>475
物部戦争で蘇我氏に負けただろ

483日本@名無史さん2017/12/03(日) 15:55:32.15
>>481
つまり、九州説は所詮「ほのめかし」だと
理論ではないと

そういうことですね?

484日本@名無史さん2017/12/03(日) 16:01:23.14
>>482
それ、>>470と話が繋がってなくね?

485日本@名無史さん2017/12/03(日) 16:05:45.64
>>482
それで良民じゃなくなった
なんて話はついぞ聞かない

486subo2017/12/03(日) 16:12:50.48
>>479
残りの千五百里も短里で問題はないでしょう

487日本@名無史さん2017/12/03(日) 16:19:20.36
>>486
>残りの千五百里も短里で問題はないでしょう

ないという理由は?

488日本@名無史さん2017/12/03(日) 16:21:24.77
短里って、1里が何メートルなの?

489subo2017/12/03(日) 16:44:54.59
>>487
伊都国から急に長里になるのは変だしな(うんうん

490日本@名無史さん2017/12/03(日) 16:52:22.87
>>489
長里なんてものは無いよ
普通の里があるだけ
そして短里は存在しない

491日本@名無史さん2017/12/03(日) 16:55:13.25
>>489
伊都国からじゃなくて東夷伝全体が短里で書かれてる
例えば「韓在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里」

492日本@名無史さん2017/12/03(日) 17:06:14.91
>>491
書かれているって証拠は?

493日本@名無史さん2017/12/03(日) 17:08:12.54
>>492
三国志東夷伝
その後の史書も東夷世界については同じ

494日本@名無史さん2017/12/03(日) 17:09:52.77
>>493
同じって、何がなにと同じ?

495日本@名無史さん2017/12/03(日) 17:13:57.72
また、おかしな日本語を話すお爺さんが現れた

496卑弥呼2017/12/03(日) 17:14:58.63
>>483
もう一つヒントをあげましょう。九州より東側に邪馬台国は存在しません。

497日本@名無史さん2017/12/03(日) 17:42:21.91
まー公孫くん採用?の里単位と南≠東については畿内説のひとらはすっとぼけるしかないわ
追い詰めてもしょーがないなー(測量士いたわけちゃうがな?
それよか土器編年の話なんかどや?
布留0の絶対年代とその科学的根拠を各自のべよ?(しきり屋ふー

498ちんじゅ2017/12/03(日) 17:51:38.25
たいほーのとーなんのたいかいのなかでっせ

499日本@名無史さん2017/12/03(日) 17:55:26.80
たいほーぐんて日本海に面していなかったときっぱりいいきれたやろか?
だれかとういでん読み直して説明してたもれ?(いますごい行程思いつきました!(
能登半島けーゆ(北せんのふねながれついとるやろ?(水行10日
ちゃう?

500日本@名無史さん2017/12/03(日) 17:56:57.09
帯水てどの川や?
その源流域どこ?

501日本@名無史さん2017/12/03(日) 17:58:54.49
>>499
いっぱい木造船が漂着しとるやろが
自力で帰れんのとちゃう?

502日本@名無史さん2017/12/03(日) 18:04:10.37
ろくろうざきからなんせーに一月歩いたら出雲やん!(まー葛城かもやが

503日本@名無史さん2017/12/03(日) 18:06:19.69
>>501
生口が曳航しはるやろ?呼子まで?

504日本@名無史さん2017/12/03(日) 18:07:43.20
よぶこいくならのとはんとういらんやん

505日本@名無史さん2017/12/03(日) 18:09:03.48
わえのつたない記憶では楽浪郡は日本海に達してたな(出典思い出せん

506日本@名無史さん2017/12/03(日) 18:11:02.23
>>504
対馬海流アラガウはなかなか進まんやろ(偉いさんらにはあるいてもろたんや

507日本@名無史さん2017/12/03(日) 18:13:12.14
>>504
能登半島まで楽に流れつけるならええやんか(百済のあたりも対馬海峡わたるも面倒やろ?

508日本@名無史さん2017/12/03(日) 18:14:38.34
壱岐はよいよいかえりはこわい

509日本@名無史さん2017/12/03(日) 18:17:35.82
船こぐんは生口はんやろ?
偉いさんだけ能登でおろして出雲=ジャマイカでおくりもんおろして
歩いてきたえらいさんと呼子で待ち合わせて(かんもんでもええけど
ニマナけーゆでかえる

510日本@名無史さん2017/12/03(日) 18:19:43.29
邪馬壱陸行1つき解決したな?

511日本@名無史さん2017/12/03(日) 18:22:59.16
中国 = 中国の歴史書の魏志倭人伝には既に3世紀から倭国では鉄の鏃を使ったと書いてある。

512日本@名無史さん2017/12/03(日) 18:24:38.04
>>508
天神さんに挨拶してったの歌やな(作詞ちょうせいくんやったんや!

513日本@名無史さん2017/12/03(日) 18:25:05.66
書いてあると何?

日本語喋れば?

514日本@名無史さん2017/12/03(日) 18:26:26.31
>>496
理由は?

515日本@名無史さん2017/12/03(日) 19:19:38.62
>>455
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説者は、脳がまともではないな。

516日本@名無史さん2017/12/03(日) 19:25:21.19
>>458
やっぱり大和説者ってのは、何年経っても、
「ワシこそが世界で一番強くて偉いのぢゃぁぁぁ〜」の、
やくざ暴力団のアホ世界だなぁ。

永遠に進歩しない停滞世界の住人。

517日本@名無史さん2017/12/03(日) 19:27:26.96
>>459
大和説は、南の1文字だけでも、ノックアウト、
って結論か。

518日本@名無史さん2017/12/03(日) 19:47:27.95
>>460
結論は出たな。
景初二年現在の魏の宮廷で使われていた、
「四千里征伐、雖云用奇、亦当任力」や
「誅罪、歩騎数万、道路廻阻、四千余里」の「四千里」は、
公孫氏を遼東で征伐でしたり誅罪したりしたりする戦争範囲をしたりする示しており、
韓国の「方四千里」とほぼ同じ距離になり、
里は、漢代の長里が使われておらず、短里が使われていた事の確認は取れたので、
魏朝の長里説は死亡した。

519日本@名無史さん2017/12/03(日) 19:50:07.83
>>462
>短里は公孫氏が制定して使ってただけじゃないかな
だから公孫氏の勢力圏の東夷で使われていた。<

魏の都の洛陽で、明帝や何晏も使っていた。

520日本@名無史さん2017/12/03(日) 19:51:50.50
>>463
>使う必要ない><

明帝も何晏も、短里を使っていた。

521日本@名無史さん2017/12/03(日) 19:54:28.57
>>464
魏朝の明帝や何晏には、長里なんて存在しなかったんだろう。

522日本@名無史さん2017/12/03(日) 19:56:27.16
>>465
>そもそも短里とか算出した人がいない件について<

谷本氏が、一寸千里から算出した。

523日本@名無史さん2017/12/03(日) 20:04:34.76
>>467
>尚書禹貢篇の九服之制に基づく 方万里の地理的世界観で書いている <

その「万里」が長里なら、4350kmなり位になり、
赤道〜極が6400km位だから、シベリア北岸からインド位の距離になってしまう。
短里なら、中国の中心部付近であるから、ピッタシ。

524日本@名無史さん2017/12/03(日) 20:08:11.36
>>470
>物部氏の始祖とされるウマシマジは、ヤマト征伐の際寝返った元クナ国の臣だろう。
裏切り者だな。 <

これも、狗奴国を大和にした話をした瞬間に、「南≠東」に拠って、✖。

525日本@名無史さん2017/12/03(日) 20:10:22.34
>>471
悪口言う?ほか手も足も出ないテンプレ、
敗者イター。

526日本@名無史さん2017/12/03(日) 20:12:23.27
>>472
「魏朝では長里」説はフィクションだよな。

527日本@名無史さん2017/12/03(日) 20:16:09.75
>>483
つまり、大和説は所詮「南→東」の史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシだと。

理論ではないと。

そういうことですね?。

528日本@名無史さん2017/12/03(日) 20:18:35.83
>>487
>残りの千五百里も短里で問題はないでしょう <

>ないという理由は?<

魏朝も魏の役人たちも、使っていたから。

529日本@名無史さん2017/12/03(日) 20:20:30.79
>>488
>短里って、1里が何メートルなの?><

一寸千里の法では、1里≒76〜77m。

530日本@名無史さん2017/12/03(日) 20:24:32.49
>>490
魏朝に長里なんてなかったよ。
短里があって、長里は存在しない。

531日本@名無史さん2017/12/03(日) 20:28:53.11
>>518
司馬懿による公孫氏征伐は、遼隧の戦い(現、海城市)で始まり、国都の襄平(現、遼陽市)を包囲し、公孫氏は滅亡した。
この海城市は遼陽市の郊外にあり、70kmくらいしかない。
短里75mとして4000里なら300kmが戦闘範囲のはずだが、そのような事実はない。
古田のウソは簡単に露見する。

532日本@名無史さん2017/12/03(日) 20:29:08.48
>>495
また、日本語が判らないし、「南→東」などの嘘吐きダマシをする、
人種差別的殺人戦争を鼓舞扇動する暴力団のような、
国粋皇国史観の・・・・アホが現れた。

533日本@名無史さん2017/12/03(日) 21:06:42.97
>>5404
>司馬懿による公孫氏征伐は、遼隧の戦い(現、海城市)で始まり、国都の襄平(現、遼陽市)を包囲し、公孫氏は滅亡した。
この海城市は遼陽市の郊外にあり、70kmくらいしかない。
短里75mとして4000里なら300kmが戦闘範囲のはずだが、そのような事実はない。
古田のウソは簡単に露見する。<

「二年春正月、詔太尉司馬宣王帥衆討遼東」
「遂以四萬人行。及宣王至遼東、霖雨不得時攻、議臣或以為淵未可卒破、宜詔宣王還」
でも、どちらも「遼東」と書いているから、
遼東全体が討伐予定であったのであり、

「襄平まで」とは書いていないから、
大和説者の嘘吐きダマシが、また露見した。

534日本@名無史さん2017/12/03(日) 21:26:07.89
>>533
遼東全体だと700km×500kmくらいかな
これまた短里計算300kmと会わない

残念!!

535日本@名無史さん2017/12/03(日) 21:26:19.62
>>533
せんせー5chは1001までしかれすできまへん
わえは1001番をレスできたことある(あんときはおどろいた(2chの神になった気がした
包囲戦h予定外で4000里は根拠地の向こうの掃討もふくめてたんか(こじつけおそるべし(あくまで魏里にこだわる信念に素直に驚いた

536日本@名無史さん2017/12/03(日) 21:29:05.04
>>533
とーいでんの里単位は公孫くん採用のやで(たぶん

537日本@名無史さん2017/12/03(日) 21:29:38.99
支配範囲にも合わない、局地戦範囲にも合わない
簡単に露見する嘘吐きダマシだわw

538日本@名無史さん2017/12/03(日) 21:33:24.60
>>537
嘘つき騙しvs嘘つき騙しかー(えーかげんやめれ(ふもーじゃ^^

539日本@名無史さん2017/12/03(日) 21:33:43.15
>>534
>遼東全体だと700km×500kmくらいかな これまた短里計算300kmと会わない 残念!!<

そりゃ、明帝も何晏も、遼東の中の公孫氏の支配地の長径を、
四千里とか 四千余里とか表現したんだよ。

何もおかしくない!!。

540日本@名無史さん2017/12/03(日) 21:35:51.08
土器の絶対編年科学根拠対決のがおもろいんちゃう?

541subo2017/12/03(日) 21:40:29.68
いきはよいよい帰りは怖いというのは、昔はよそから来た旅人は神様あつかいでな

もてなされたんだ、しかし最後は生贄として捧げられる

幕末あたりまでは000祭りでは旅人を橋で待ち伏せして生贄にしてたんだぞ

000はひらがな3文字だよ

542subo2017/12/03(日) 21:48:22.72
通りゃんせというのはまれびと信仰なんですね

543日本@名無史さん2017/12/03(日) 21:50:20.59
誰か丹後半島の歴史に詳しい人いないかな?

544subo2017/12/03(日) 21:55:05.97
丹後半島、スサノオか、六茫星か

545日本@名無史さん2017/12/03(日) 21:57:27.99
いぬがみせんせーらしーのー^^
ながれついたひとらはなにされたあと祭られたんやな(まつらこくか(おそろしくもありそなはなしやなー(そりゃハプロdのこりますわな

546日本@名無史さん2017/12/03(日) 21:58:10.68
>>543
海路で解けるが詳しいよ。

547日本@名無史さん2017/12/03(日) 21:59:07.54
>>543
くがみみのみかさかー
逸文残欠あるやろ(弥生最後の決戦やなー

548subo2017/12/03(日) 22:01:54.73
>>545
尾張国の000祭りだよ

549subo2017/12/03(日) 22:07:57.12
真名井神社には六茫星の謎が隠されている

550日本@名無史さん2017/12/03(日) 22:10:17.41
きょうののど自慢の雰囲気はよかった(まれびとかんけーないか
000てなんやろ?

551日本@名無史さん2017/12/03(日) 22:10:46.57
>>539
具体的にどこが4000里になるんだ?

552日本@名無史さん2017/12/03(日) 22:12:43.45
いぬがみせんせーはお話ユダヤにひっぱるつもりやろ
わえはイスラエルがイスラム攻撃するのゆるせん

553subo2017/12/03(日) 22:14:40.41
>>550
国府宮の000祭りだよ

554日本@名無史さん2017/12/03(日) 22:14:50.18
難民さんの同僚いてた(しんだ(なみだ

555subo2017/12/03(日) 22:17:31.79
>>552
ばればれかい

556subo2017/12/03(日) 22:20:03.26
難民さんはおもてなしせんといかんよな

しかしネトウヨときたら武装難民だ、殺せとかいうからな(実にけしからん

557subo2017/12/03(日) 22:23:34.06
まじめな話、イスラエルというかアメリカがなあ

558日本@名無史さん2017/12/03(日) 22:27:38.20
>>556
北せんのひょーちゃくか(ふしぜんにふえたな(さっきの能登半島けーゆ出雲せつは呑みたりんでチュートハンパやった(南北ともに反日思想は北京主導やろな(つか政治思想どーでもえーなー

559日本@名無史さん2017/12/03(日) 22:30:15.61
>>557
あめりかいうかアングロサクソンやなーやつらはいけすかん(あべくんはおひとよしやろ?

560日本@名無史さん2017/12/03(日) 22:37:51.90
ニライカナイとかまれびととかて渡来系に対するじょーもんじんの基本的態度やったんやろけど今じゃただのめーわくあつかいやなー(鼻ほじ
つうか土器の話はじまらんのー
お題 世界最古はどこの土器?

561日本@名無史さん2017/12/03(日) 22:39:57.34
>>551
>具体的にどこが4000里になるんだ?<

そりゃ、お前が言った「700q〜500q」の中になるんだろ?。
それで、「700q〜500q」ってのは、どんな範囲なんだい?。
古田さんは、遼東の「四千里」を菱形のような形で書いておられた、
ような記憶があるが。

562subo2017/12/03(日) 22:46:30.50
>>559
俗にいうイルミナティ、ロックフェラー、ロスチャイルドやな(安倍ぴょんは忠実な僕だから

563日本@名無史さん2017/12/03(日) 23:04:31.53
>>561
4000里と明示してるんだから、具体的な範囲があるはずだ
言えなきゃ全部デタラメ認定だな

564日本@名無史さん2017/12/03(日) 23:07:48.64
4000里がどこを指してるのか分からなきゃ
短里75mの計算もできんなあ
やっぱりイカサマだった

565日本@名無史さん2017/12/03(日) 23:12:14.94
>>546
ありがとう。読んでみるかな。

566日本@名無史さん2017/12/03(日) 23:23:51.97
丹後半島なら
伴とし子(古代但馬歴史研究所所長)さんの著作じゃね

567日本@名無史さん2017/12/03(日) 23:24:30.95

あれ、古代丹波歴史研究所ね

568日本@名無史さん2017/12/04(月) 00:18:52.65
結局ザラコクって古田をコピペしてるだけの能無しっつーことだね

569日本@名無史さん2017/12/04(月) 00:28:19.42
というか劣化コピー

570日本@名無史さん2017/12/04(月) 00:46:55.44
短里というのが如何にインチキであるか判ったろう
先に短里ありきで、それに史料の方をを無理に当てはめようとしているが、何も算出根拠を出せない

571日本@名無史さん2017/12/04(月) 02:42:30.31
そんな事よりも『霊山竹生嶋流』だよ

とあるスレなども、この話ばかりしていたり

それとサカキバラ事件?
人の身長よりも長い棒を持っている(機動隊)
あと「龍馬のナイフ」とか

572日本@名無史さん2017/12/04(月) 02:45:36.89
家の老婆の話と同じ

『広瀬座』というのがあった、
「リューマ、リョーマ」?というのも、いたかな

山の上のほうに住んでいた事があって・・・とか

573日本@名無史さん2017/12/04(月) 03:01:56.05
これは確実に、
家の親戚なんだけど、銀?というのもいたよ
と言っていた

家に凄い刀が飾ってあったとか

574日本@名無史さん2017/12/04(月) 05:37:38.04
洛陽から遼陽は現代の道路で約1500km
1里=400m換算すると3770里
かなり正確に「四千里征伐」だ

575日本@名無史さん2017/12/04(月) 06:52:06.10
>>563
>4000里と明示してるんだから、具体的な範囲があるはずだ
言えなきゃ全部デタラメ認定だな<

自分から700km〜500kmという明示をしていたんだから、
具体的な範囲があったはずだ。
それを言わないで、相手には具体的な地域の明示を要求して、
相手が眠っている間に、
「返事がない」と叫んで、世間にヘイトスピーチ街宣するお前は、
全部でたらめな策略的な詐欺だな。

それに対して古田さんは、
自書で「菱形か平行四辺形」の推定範囲を書いておられた
という事は、
おそらく四千里を一辺とする四辺形か、その長径の領域を想定された筈だ。
そして、それは、当然、襄平を含む遼東内の居住可能地域であった筈だ。

576日本@名無史さん2017/12/04(月) 06:54:45.45
単里は結論出てるんですけど・・・・
・・・倭人伝の距離の比例計算から合理的に導き出された、倭人伝だけに通用する単位
話題がループしてないか 

577日本@名無史さん2017/12/04(月) 06:56:51.11
>>576
ウソをついてはダメ
比例計算なんてしてないでしょ

578日本@名無史さん2017/12/04(月) 07:00:33.00
>>575
「はずだ」「筈だ」って
ザラコクが空想してるだけだよな
意味ないね

デタラメだって指摘を否定できませんでした

579日本@名無史さん2017/12/04(月) 07:03:05.60
>>564
>4000里がどこを指してるのか分からなきゃ<

古田さんは、菱形のような形での、
遼東内の(襄平を含む地の)地域を推定しておられた。

>短里75mの計算もできんなあ <

長里では、中国中心部から韓國の方四千里も含んでしまうような矛盾のある、
広大な地域になってしまうなあ。

>やっぱりイカサマだった<

やっぱり大和説者は、「南→東」などの策略的犯罪者的街頭詐欺師であって、
その詐欺に国民の3割のアホらが騙されていて、
しかし、国民の過半数以上は、彼らの策略的犯罪者的街頭詐欺を見抜いていた。

580日本@名無史さん2017/12/04(月) 07:05:31.19
>古田さんは、菱形のような形での、
>遼東内の(襄平を含む地の)地域を推定しておられた。

その菱形のような形って、根拠あんの?

581日本@名無史さん2017/12/04(月) 07:10:12.97
>>568
結局大和説者って、
古田説の不可知部分への推定の「未確定部分」をあげつらってヘイトスピーチして、、
大和説の「南→東」などの嘘つき騙しには、目を瞑って隠して、
国民の3割の世間の人々を騙して来た、っつーことだね。

582日本@名無史さん2017/12/04(月) 07:12:04.14
>>579
>長里では、中国中心部から韓國の方四千里も含んでしまうような矛盾のある、
>広大な地域になってしまうなあ。


またウソついてる

四千里は洛陽から遼東に遠征する距離にピッタリ
魏では正しい里である約400mが使われていた、ってのが正解

583日本@名無史さん2017/12/04(月) 07:16:33.28
>>581
古田って不可知部分に妄想的推定ばっかりして、それを理由もなく断定しちゃってデタラメ書いてたんでしょ?

584日本@名無史さん2017/12/04(月) 07:19:14.24
>>569
というか、大和説は、
「日本は全てで、世界1で世界を支配しなければならねばならない」という、
唯我独尊の高慢なタカ派の、人種差別的殺人戦争主義の国粋皇国史観の・・・・の、
安部政府や、キョクウマスコミや、右翼学会教育界や、靖国などの宗教や、
キョクウヘイトスピーチやくざ病力団の詐欺集団の、
劣化コピー 、ってことだね。

585日本@名無史さん2017/12/04(月) 07:21:00.81
>>570
長里というのが如何にインチキであるか判ったろう。
先に長里ありきで、それに史料の方をを無理に当てはめようとしているが、
何も算出根拠を出せない 。

586日本@名無史さん2017/12/04(月) 07:29:11.25
>>585
算出根拠?
明示されてますけど?

1里=1800尺
1尺=23.8〜24cm

587日本@名無史さん2017/12/04(月) 07:36:02.57
>>574
>洛陽から遼陽は現代の道路で約1500km 1里=400m換算すると3770里
かなり正確に「四千里征伐」だ <

洛陽から遼東までの遠征路は、始めから安全な魏の支配下であり、
公孫氏への「征伐」や「用奇、亦当任力」や「誅罪」や「臨危制変」などの戦闘文言には、
全く関係がなく、
四千里は、韓国の方四千里とほぼ同じ距離の、遼東の公孫氏の支配居住地域内の征伐距離だ。

588日本@名無史さん2017/12/04(月) 07:45:45.63
>>587
いくら言い張ったって計算が合わないでしょ

589日本@名無史さん2017/12/04(月) 07:47:49.20
>>587
遼東の公孫氏の支配居住地域が方四千里だっていう理由は?

590日本@名無史さん2017/12/04(月) 07:50:08.01
>>587
行って、帰ってくるまでが遠征です。

591日本@名無史さん2017/12/04(月) 08:03:24.72
>>577
地図を開いて倭人伝の国々への里数と、実距離との計算してみたらいかがか

592日本@名無史さん2017/12/04(月) 08:12:47.98
>>591
ほらな

比例計算なてやってないと告白したw

w
w
w

593日本@名無史さん2017/12/04(月) 08:15:42.78
 
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。

また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。

ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。

つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。

というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。

アホの>>1
アホの>>1

594日本@名無史さん2017/12/04(月) 08:16:15.45
松浦までで、実距離は中国の里の1/5程度であることがわかっている。
これを前提として5倍誇張説を仮定する。一里あたり87mである。

5倍誇張説の場合の計算結果と推定場所

帯方郡の場所
邪馬台国畿内説 Part304 	->画像>3枚
帯方郡黄海北道鳳山郡説より、帯方郡側の海州を起点とする。

帯方郡から狗邪韓国まで、乍南乍東7000余里 7000里/5=1400里*435m=609km 海州―釜山広域市 700km
狗邪韓国から松浦まで3000里 3000里/5=600里*435m=261km 釜山広域市−唐津 210km
松浦から伊都国南東500里 500里/5=100里*435m=43.5km 唐津―小城 38.3km
東南100里の奴国まで 100里/5=20里*435m=8.7km 小城―佐賀 10.1km
東100里の不弥国までの道 100里/5=20里*435m=8.7km 佐賀―大川 9.5km
南水行20日の投馬国まで 20日/5=4日*30里=120里*435m=52.2km 大川―玉名 47q

水行10日、陸行1月の邪馬台国

水行10日 10日/5=2日*30里=60里*435m=26.1km 玉名―緑川 26q
陸行1月 30日/5=6日*30里=180里*435m=78.3km 緑川―人吉 86q

侏儒國 南4000里 4000里/5=800里*435m=348km 熊本緑川流域―屋久島 315km

裸国、K歯国 水行一年 365日/5=73日*30里=2190里*435m=952.65km
熊本緑川流域-奄美大島 580km
熊本緑川流域-沖縄本島 824km

おまけ
韓地、方4000里 (4000里/5)^2=800里^2=(800*435)^2 =121104km^2

wikipediaより、
韓国  面積 100,210km^2

595日本@名無史さん2017/12/04(月) 08:22:19.25
>>594
「わかっている」って、根拠は何よ?

596日本@名無史さん2017/12/04(月) 08:24:09.25
>>566
そうそう
丹後半島といえば伴さん

597日本@名無史さん2017/12/04(月) 08:25:30.07
>>594
>帯方郡黄海北道鳳山郡説より、帯方郡側の海州を起点とする。

帯方郡が黄海北道鳳山郡説なのに、海州を起点って
自己矛盾だろ

598日本@名無史さん2017/12/04(月) 08:27:08.80
>>596
素人だろ

599日本@名無史さん2017/12/04(月) 08:30:50.65
九州説は、自分の仮説を検証する意思がないのが特徴

600日本@名無史さん2017/12/04(月) 08:43:52.62
>>587
論破済み

601日本@名無史さん2017/12/04(月) 08:56:53.07
>>578
>「はずだ」「筈だ」って ザラコクが空想してるだけだよな 意味ないね
デタラメだって指摘を否定できませんでした><

私の記憶違いであった。
古田第1書の193頁の地図では、四千里の比定地は、
遼東半島の付け根の渤海の西端付近から東端までの距離だ、という推定だ。

602日本@名無史さん2017/12/04(月) 08:57:13.89
ザラコクの爺さんはおとなしく東日流外三郡誌でも読んでれば良いのでは?
ツボケ族ですよ!アソベ族ですよ!

603日本@名無史さん2017/12/04(月) 09:17:07.79
>>580
>>古田さんは、菱形のような形での、
遼東内の(襄平を含む地の)地域を推定しておられた。<

>その菱形のような形って、根拠あんの?<

菱形ではなく、遼東平原地域の東西の長径的推定だった。

604日本@名無史さん2017/12/04(月) 09:25:21.36
>>582
>>長里では、中国中心部から韓國の方四千里も含んでしまうような矛盾のある、
広大な地域になってしまうなあ。<

>またウソついてる 四千里は洛陽から遼東に遠征する距離にピッタリ <

ほら、長里では洛陽〜遼東の間をはるかにオーバーしてしまう位の広大な距離だ。

>魏では正しい里である約400mが使われていた、ってのが正解 <

魏朝では、
魏使らや郡役人らだけではなく、
明帝も何晏も、短里を使っていた、っていうのが正解。

605日本@名無史さん2017/12/04(月) 09:32:41.83
>>583
「南→東」などの嘘吐きダマシの、
国粋皇国史観の殺人戦争暴力団の、
高慢でタカ派で「日本は世界1でなければならない」でなければならないとか、
「敵は何でも大量殺人」のキョクウ宗教狂の大和説者って、
不可知部分に完全立証を要求する妄想的話術ばっかりして、
それを理由もなく断定しちゃって、デタラメ書いてた・・・・なんでしょ?。

606日本@名無史さん2017/12/04(月) 09:37:05.48
>>586
>算出根拠? 明示されてますけど? 1里=1800尺 1尺=23.8〜24cm<

それは、秦朝が採用した「1歩=6尺」の話であり、
周朝や魏朝などが採用した「1寸千里の法」での「1歩≒1尺」の換算法ではない。

607日本@名無史さん2017/12/04(月) 09:56:59.20
>>588
>いくら言い張ったって計算が合わないでしょ<

いくら言い張ったって、
洛陽〜遼東と、韓国の方四千里、とが同じでは、
計算が合わないでしょ?。

地図を見てごらん。

608日本@名無史さん2017/12/04(月) 09:59:24.22
>>601
>遼東半島の付け根の渤海の西端付近から東端までの距離だ、という推定だ。

これは何の根拠、意味のある推定なのか説明しろ

609日本@名無史さん2017/12/04(月) 09:59:47.12
>>604
論破済み

610日本@名無史さん2017/12/04(月) 10:06:30.93
>>601
>遼東半島の付け根の渤海の西端付近から東端までの距離だ、という推定だ

これは何なんだ?
遼東半島は公孫氏の領地のほんの一部に過ぎないし、戦闘地域にしては広すぎる
先に短里ありきのウソデタラメだな
いいかげんにしろよ

611日本@名無史さん2017/12/04(月) 10:07:47.77
>>601
そもそも戦闘地域でもないし、意味不明

612日本@名無史さん2017/12/04(月) 10:10:19.53
明帝が征討前に戦闘範囲を4000里と断定したというのが、神のごとき予知脳力だわ

613日本@名無史さん2017/12/04(月) 10:24:03.35
>>589
>遼東の公孫氏の支配居住地域が方四千里だっていう理由は?<

遼東の公孫氏の支配居住地域が方四千里だ、なんて言わないよ。
方四千里は韓地だ。
そして、公孫氏の支配居住地域は、遼東の(山岳地域の内側の)平原地域であり、
四千里はその長径位だ。

614日本@名無史さん2017/12/04(月) 10:26:13.34
>>607
どのルートで?

615日本@名無史さん2017/12/04(月) 10:29:36.02
テメーらアラシか バカモン
距離は過去スレ読め
同じ繰り返しはみっともねー

616日本@名無史さん2017/12/04(月) 10:30:11.69
>>613
>そして、公孫氏の支配居住地域は、遼東の(山岳地域の内側の)平原地域であり、
>四千里はその長径位だ。
四千里(短里)よりはるかに広いぞ、でたらめ言うな

617日本@名無史さん2017/12/04(月) 10:38:12.59
>>615
読まなきゃいいんだよなボケ

618日本@名無史さん2017/12/04(月) 10:38:57.44
>>616
それも過去出てる

619日本@名無史さん2017/12/04(月) 10:47:34.28
>>590
>行って、帰ってくるまでが遠征です。<

使われている文言は、「遠征」ではなく「征伐」だ。
そして、「征伐」や「用奇、亦当任力」や「誅罪」や「臨危制変」などの文言は、
遼東での戦闘で発生するする事だ。

620日本@名無史さん2017/12/04(月) 10:49:15.29
>>613
遼東の(山岳地域の内側の)平原地域の
長径位が四千里だって証拠は?

621日本@名無史さん2017/12/04(月) 10:51:04.96
>>592
ほらな
七千余里や方四千里や渡海千里や方四百余里や方三百里や五百里などの里の、
比例計算なてやってないと告白したw 。

w
w
w

622日本@名無史さん2017/12/04(月) 10:51:24.62
>>619
「征伐」しに行くのが「遠征」だ。
そして、「征伐」や「用奇、亦当任力」や「誅罪」や「臨危制変」などの文言は、
遼東への遠征中に発生するする事だ。

623日本@名無史さん2017/12/04(月) 10:52:59.72
>>618
指摘されたのに、逃亡?

624日本@名無史さん2017/12/04(月) 10:55:00.88
>>593
>箸墓は260〜280年くらいでしょう。<

箸墓は、4世紀だから、✖。

>というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。 ここに卑弥呼はいないという事です。<

卑弥呼を大和に結び付ける話をしたから、
「南≠東」に拠って、✖。

625日本@名無史さん2017/12/04(月) 10:59:26.01
>>624
>箸墓は、4世紀だから、✖。

4世紀だという根拠なし

626日本@名無史さん2017/12/04(月) 11:02:11.62
>>599
「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘吐きダマシの大和説は、
自分の仮説を検証する意思がないのが特徴。

自分の仮説を検証すれば、「大和説は全く合わない』事が世間の人々にバレてしまうから。

627日本@名無史さん2017/12/04(月) 11:11:43.09
ここは畿内説のスレだよ
大和説なんていない

628日本@名無史さん2017/12/04(月) 11:13:20.49
>>618
ザラコクに言えよ
論破されても言い張ってるだけのカスだから、同じ事を言わざるを得ないんだろ

629日本@名無史さん2017/12/04(月) 11:16:49.48
>>619
征伐とは、
「征」は、討伐に向かうこと
「伐」は、敵を討つこと

したがって、ある場所から戦地に向かって行き、敵を討つことをいう。
遼東での局地戦で発生するものではない。

630日本@名無史さん2017/12/04(月) 11:17:20.47
>>619
「用奇、亦当任力」や「誅罪」や「臨危制変」

論破済み

631日本@名無史さん2017/12/04(月) 11:23:12.27
いくら誤魔化しても
洛陽から遼東まで概ね四千里
すべて普通の里

632日本@名無史さん2017/12/04(月) 11:26:06.23
ツボケ族とヒミコの関係について教えてください!

633日本@名無史さん2017/12/04(月) 11:30:50.17
>>632がつボケ族
卑弥呼と無関係

634日本@名無史さん2017/12/04(月) 11:33:32.49
>>629
それ、正解

【征伐】
go on a punitive expedition (en)
出兵攻打 (ch)

635日本@名無史さん2017/12/04(月) 11:37:53.46
>>600
大和説の「四千里征伐は洛陽→遼東」説は、
基本的には「洛陽→遼東間は魏の支配地であるから、征伐地ではない」という事で、
論破済み。

636日本@名無史さん2017/12/04(月) 11:42:43.27
勝手に宣言しただけでは論破にならないんだが

637日本@名無史さん2017/12/04(月) 11:43:31.42
>>635
征伐地って何?

また勝手に造語作ったの?

638日本@名無史さん2017/12/04(月) 11:44:25.33
>>608
>>遼東半島の付け根の渤海の西端付近から東端までの距離だ、という推定だ。<

>これは何の根拠、意味のある推定なのか説明しろ <

おそらく、周辺の山地帯ではなく、
遼東の平原地域の、公孫氏が居住する地域の長径的距離。

639日本@名無史さん2017/12/04(月) 11:48:42.56
>>638
「遼東の平原地域の、公孫氏が居住する地域の長径的距離」
って、具体的にどこのこと?
そこが四千里であるって証拠は?

640日本@名無史さん2017/12/04(月) 11:56:00.36
>>635
それって「征伐」という単語を常識に逆らって勝手に我流定義しただけじゃね?
論破とか、ウソウソ

641日本@名無史さん2017/12/04(月) 12:00:55.55
>>609
>論破済み<

また同じ言葉でのご託宣だな?。

しかし、>>635でも説明済みだし、
公孫氏への「征伐」や「用奇、亦当任力」や「誅罪」や「臨危制変」などの戦闘文言には、
全く関係がない、という事も説明済み。

このように、「ご託宣」という事を好む人種は、
オームやナチスやトランプや安倍自民やISイスラムや北朝鮮と同じであり、
ヘイトスピーチ的なアジテーションに拠って、簡単に騙されるアホ人種であり、
簡単に大量殺人や戦争などの犯罪を起こす・・・・人種であり、
おそらく、国民の3分の1の大和説支持者は、
日本のキョクウの学会やマスコミなどのご託宣に騙されて、
怖い醜い顔になった・・・・人種。

642日本@名無史さん2017/12/04(月) 12:12:16.29
>>610
>>(四千里は)遼東半島の付け根の渤海の西端付近から東端までの距離だ、という推定だ<

>これは何なんだ?。<

遼東半島の付け根の渤海の西端付近から、遼東半島の東端や撫順付近までの、
平原地域の距離だ、
という推定だ。

>遼東半島は公孫氏の領地のほんの一部に過ぎないし、戦闘地域にしては広すぎるの<

司馬懿自身は、東方の山間部まで追撃しなくても平野部で決着が付く、というつもりだ。

>先に短里ありきの<だな いいかげんにしろよ<

先に長里ありきでの<だらないイチャモンだな。
いいかげんにしろよ。

643日本@名無史さん2017/12/04(月) 12:31:01.98
>>642
>遼東半島の付け根の渤海の西端付近から、遼東半島の東端や撫順付近までの、
>平原地域の距離だ、
>という推定だ。

遼東半t方の付け根って
渤海の東端ですけど
なにデタラメ
言ってるの?

644日本@名無史さん2017/12/04(月) 12:43:28.18
>>642
全部でたらめと判明したな

645日本@名無史さん2017/12/04(月) 12:44:24.05
誰も説得できない幼稚な議論をして何が楽しいんだろう

646日本@名無史さん2017/12/04(月) 12:47:04.65
>>642
>司馬懿自身は、東方の山間部まで追撃しなくても平野部で決着が付く、というつもりだ。

最初に両軍が対峙した遼隧から
公孫淵が籠城した襄平まで
100kmにも満たないんだが

奇妙な古田説はぜんぜん計算が合わない

647日本@名無史さん2017/12/04(月) 12:53:33.53
世界でたったひとつ
古田説だけの「四千里征伐」珍解釈w

w
w
w

648日本@名無史さん2017/12/04(月) 13:09:57.43
それは反論ではない。

649subo2017/12/04(月) 14:00:39.34
畿内厨はニュー速+に出張したらだめだよ(いいかい

650日本@名無史さん2017/12/04(月) 14:00:44.96
>>611
>そもそも戦闘地域でもないし、意味不明<

「意味不明」なのは、お前が、既に魏の支配地であった洛陽〜遼東の間の遠征路でさえも、
殺戮戦闘をするような、
・・・・大和説人間であったから。

651日本@名無史さん2017/12/04(月) 14:05:42.32
>>613
>明帝が征討前に戦闘範囲を4000里と断定したというのが、神のごとき予知脳力だわ <

明帝や司馬懿らが征討前に、戦闘範囲などの公孫氏の領土の大きさを、
役人たちから報告を受けておかなかったとする方が、
神のごとき予知脳力だわ 。

652日本@名無史さん2017/12/04(月) 14:11:12.65
>>614
>(遠征路?)どのルートで? <

魏の既知の支配地の中の、原則として安全最短のルートで。

653日本@名無史さん2017/12/04(月) 14:14:13.65
>>651
戦闘範囲が戦争前に予測できるかカス!

654日本@名無史さん2017/12/04(月) 14:15:30.86
>>650
>「意味不明」なのは、お前が、既に魏の支配地であった洛陽〜遼東の間の遠征路でさえも、
>殺戮戦闘をするような、
勝手に話をつくるな

655日本@名無史さん2017/12/04(月) 14:17:01.44
>>651
いいかげんにウソばっかり付くの止めたらどうよ

656日本@名無史さん2017/12/04(月) 14:20:08.65
まあ、四千里征伐を認めたら、古田説即崩壊だからね

みっともなく言い張るのも当然ですわ

657日本@名無史さん2017/12/04(月) 14:25:43.79
>>616
>>そして、公孫氏の支配居住地域は、遼東の(山岳地域の内側の)平原地域であり、
四千里はその長径位だ。<

>四千里(短里)よりはるかに広いぞ、でたらめ言うな <

渤海の北岸の西端付近から撫順、位なら、韓の四千里とほぼ同じだよ。
でたらめ言うな。

658日本@名無史さん2017/12/04(月) 14:30:22.57
>>620
>遼東の(山岳地域の内側の)平原地域の 長径位が四千里だって証拠は?<

面倒だからYahoo地図で確認してみたら、
渤海の遼東湾の北岸の西端付近〜撫順、
位なら、韓の四千里とほぼ同じだよ。

659日本@名無史さん2017/12/04(月) 14:37:44.07
>>622
「遠征」は、途中の行軍と、現地での征伐戦と、帰国の合計だ。
そして、「征伐」や「用奇、亦当任力」や「誅罪」や「臨危制変」などの文言は、
現地遼東での征伐戦の戦闘で発生するする事だ。

660日本@名無史さん2017/12/04(月) 14:42:31.11
>>658-659
九州説はいつも証拠を出さす、インチキばかりだか

w

661日本@名無史さん2017/12/04(月) 14:43:20.12
>>659
あんたが勝手に我流定義を創作しても、ねえ

662日本@名無史さん2017/12/04(月) 14:46:55.52
>>625
>>箸墓は、4世紀だから、✖。<

>4世紀だという根拠なし <

久住編年に拠って、那珂八幡よりも新しいし、
加美の「伽耶と陶質土器と共存」の「庄内」すらが、出土せず、
それ以後の布留期になる事、
などから。

663日本@名無史さん2017/12/04(月) 14:47:41.59
>>658
>渤海の遼東湾の北岸の西端付近〜撫順、
>位なら、韓の四千里とほぼ同じだよ。

おやおや
楽浪帯方は公孫氏の勢力範囲じゃないの?

664日本@名無史さん2017/12/04(月) 14:48:15.63
>>657
適当な根拠のない範囲を四千里だと言いはっても意味はないだろw
遼東の東西で800〜900kmくらいあるよ

665日本@名無史さん2017/12/04(月) 14:49:06.10
>>662
>加美の「伽耶と陶質土器と共存」の「庄内」すらが、出土せず、

おやおや、また捏造ですか?

666日本@名無史さん2017/12/04(月) 14:50:44.59
>>657
渤海の北岸の西端付近って
地名は?

667日本@名無史さん2017/12/04(月) 15:00:26.74
>>629
>征伐とは、 「征」は、討伐に向かうこと 「伐」は、敵を討つこと
したがって、ある場所から戦地に向かって行き、敵を討つことをいう。
遼東での局地戦で発生するものではない。<

「征」は「正す行為」を意味する。
「伐」は「相手を切り殺す」事を意味する。
「熟語」においては、前の文字は形容詞的で付加的文字であり、
後の文字が中心的な意味を示す。
従って、「征伐」の中心的な意味は、「相手を切り殺す」戦闘の事。

魏の支配領内での行軍中には、
原則として、「相手を切り殺す」「伐」行為が発生しない。

668日本@名無史さん2017/12/04(月) 15:03:20.00
>>630
>「用奇、亦当任力」や「誅罪」や「臨危制変」<

>論破済み<

魏の支配領内での行軍中では、原則として発生しない、
という事で、論破済み。

669日本@名無史さん2017/12/04(月) 15:08:03.33
>>631
>いくら誤魔化しても 洛陽から遼東まで概ね四千里 すべて普通の里<

いくら誤魔化しても 、
洛陽から遼東までは、魏の支配領内であり、征伐そのものが発生せず、

四千里は、韓の方四千里と同じ距離であるから、
遼東の公孫氏の支配地域での 征伐戦の予想距離。
すべて普通の里

670日本@名無史さん2017/12/04(月) 15:15:04.74
>>634
>それ、正解 【征伐】 go on a punitive expedition (en) 出兵攻打 (ch) <

辞書説明は、近似的文言での言い換え説明であり、「完全イコール」ではない。

いずれにしても、
「征」は「正す行為」を意味する。
「伐」は「相手を切り殺す」事を意味する。
「熟語」においては、前の文字は形容詞的で付加的文字であり、
後の文字が中心的な意味を示す。

だから、「征伐」は、遠いところへの行軍がなくて、近辺での征伐であっても、
使っている。
従って、「征伐」の中心的な意味は、「相手を切り殺す」戦闘の事。

671日本@名無史さん2017/12/04(月) 15:17:23.23
>>637
>征伐地って何? また勝手に造語作ったの?<

相手の罪を正して、切り殺した場所。

672日本@名無史さん2017/12/04(月) 15:17:44.93
>>667
>「征」は「正す行為」を意味する。
またでたらめが始まったw

「征」(漢典)
 1. ?行:?〜。〜途。〜夫。〜人。〜衣。〜帆(?行的船)。
 2. 用武力制裁,?伐:〜服(用力制服)。〜?。〜伐。〜哉(出征作哉)。南〜北哉。
 3. 召集:〜兵。〜募(招募兵士)。〜集兵?。
 4. 收集:〜税。〜粮。
 5. 招?,?求:〜求。〜稿。〜婚。〜聘(招聘)。〜?(征求意?)。
 6. ?明,??:〜引(引用,引?)。信而有〜。
 7. 表露出来的迹象:特〜。〜候。

どこにそんな意味がある、嘘吐きヤロー

673日本@名無史さん2017/12/04(月) 15:17:57.73
>>667
>>668
これらに私的に一票かな

674日本@名無史さん2017/12/04(月) 15:18:51.31
>>670
>だから、「征伐」は、遠いところへの行軍がなくて、近辺での征伐であっても、
>使っている。
使用例を出してくれ
使っている、と言い切っているんだから当然出せるわな

675日本@名無史さん2017/12/04(月) 15:21:38.39
>>668
>魏の支配領内での行軍中では、原則として発生しない、
あたりまえ
明帝の行軍前の発言と遠征帰還後の発言だろ

676日本@名無史さん2017/12/04(月) 15:22:43.19
>>669
>遼東の公孫氏の支配地域での 征伐戦の予想距離。
征伐戦距離が予想できるはずもなし
実際の戦闘距離は70km

677日本@名無史さん2017/12/04(月) 15:24:05.44
>>639
>>>>(四千里征伐)遼東半島の付け根の渤海の西端付近から東端までの距離だ、という推定だ。<

>>>これは何の根拠、意味のある推定なのか説明しろ <

>おそらく、周辺の山地帯ではなく、
遼東の平原地域の、公孫氏が居住する地域の長径的距離。<

>「遼東の平原地域の、公孫氏が居住する地域の長径的距離」 って、具体的にどこのこと?<

おや?、また読んでなかったの?。或いは知らん振りしてんの?。
遼東湾の北西端付近〜 撫順付近までの距離。

>そこが四千里であるって証拠は?<

地図上で、韓の方四千里とほぼ一致すること。

678日本@名無史さん2017/12/04(月) 15:26:36.55
>>677
論破済み

679日本@名無史さん2017/12/04(月) 15:29:48.25
>>640
>それって「征伐」という単語を常識に逆らって勝手に我流定義しただけじゃね?
論破とか、ウソウソ <

文字の構造の、「偏」と「旁」の意味からの推定原義。

680日本@名無史さん2017/12/04(月) 15:35:55.73
>>643
>>遼東半島の付け根の渤海の西端付近から、遼東半島の東端や撫順付近までの、
平原地域の距離だ、 という推定だ。<

>遼東半t方の付け根って 渤海の東端ですけど なにデタラメ 言ってるの?<

判り難そうだから、また別に言い換えておいてあげた。

遼東半島の付け根の、渤海の中の遼東湾の西端付近から、
遼東半島の東端や、撫順付近までの距離。
平原地域の距離だ、 という推定だ。

681日本@名無史さん2017/12/04(月) 15:39:12.08
>>644
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説狂信者の抗弁は、
「全部でたらめだった」と判明したな 。

682日本@名無史さん2017/12/04(月) 15:42:09.52
>>679
>推定原義

いいかげんにしろ

嘘吐き野郎

683日本@名無史さん2017/12/04(月) 15:43:03.06
>680
論破済み
疲れるわ

684日本@名無史さん2017/12/04(月) 15:50:04.28
>>645
>誰も説得できない幼稚な議論をして何が楽しいんだろう <

「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘つき騙しの、
人種差別的殺人鬼の国粋皇国史観のキョクウの・・・・アホの大和説者との議論など、
楽しくなんか、何にもない。

ただ、安部政府や裁判所や、殺人戦争肯定鼓舞のマスコミや大和説の学会や教育界や、
靖国信仰のキョクウの嘘つき騙しの宣伝に、
国民の3割位の大和説信者が、これ以上増える事は、黙過し難いだけ。

685日本@名無史さん2017/12/04(月) 15:55:18.15
>>646
>>司馬懿自身は、東方の山間部まで追撃しなくても平野部で決着が付く、というつもりだ。<

>最初に両軍が対峙した遼隧から 公孫淵が籠城した襄平まで 100kmにも満たないんだが
奇妙な古田説はぜんぜん計算が合わない <

遼河の河口付近から撫順付近まで、もう一度測定してみろ。
韓の方四百里と大体同じだから。

686日本@名無史さん2017/12/04(月) 16:06:03.96
>>685
>遼河の河口付近から撫順付近

そんな地理に意味はない
戦闘地域は海城市から遼陽市の70km

687日本@名無史さん2017/12/04(月) 16:35:49.16
>>647
世界でたったひとつ 。
大和説だけの、
「四千里征伐」は、洛陽→遼東の、「魏の支配地内の行軍」の事、
という珍解釈w という。

w
w
w

688日本@名無史さん2017/12/04(月) 16:37:05.34
>>687
通説ですけど?

689日本@名無史さん2017/12/04(月) 16:37:11.61
>>687
くだらないことしか言えなくなったか

690日本@名無史さん2017/12/04(月) 16:38:56.70
>>685

史料にありもしない情報を捏造するのは、よくないね

691日本@名無史さん2017/12/04(月) 16:43:05.77
>>653
>戦闘範囲が戦争前に予測できるかカス! <

賛成。
明帝や司馬懿や何晏は、
遼東内の公孫氏の支配領域に入った頃に、戦争が始まるだろう、
予測する。

692日本@名無史さん2017/12/04(月) 16:46:37.00
>>654
>>「意味不明」なのは、お前が、
既に魏の支配地であった洛陽〜遼東の間の遠征路でさえも、 殺戮戦闘をするような、<

>勝手に話をつくるな<

勝手に話を作っているのは、
「南→東」などの史料事実を否定曲解している嘘吐きダマシの大和説者のの側。

693日本@名無史さん2017/12/04(月) 16:47:41.94
そして実際、遼河のほとりで戦争が始まり、やがて70kmほど先の襄平が包囲され、そして陥落して戦争は終わった

694日本@名無史さん2017/12/04(月) 16:50:49.64
>>692
それは史料批判だよ

695日本@名無史さん2017/12/04(月) 16:52:20.33
>>655
>>>明帝が征討前に戦闘範囲を4000里と断定したというのが、神のごとき予知脳力だわ <

>>明帝や司馬懿らが征討前に、戦闘範囲などの公孫氏の領土の大きさを、
役人たちから報告を受けておかなかったとする方が、
神のごとき予知脳力だわ 。<

>いいかげんにウソばっかり付くの止めたらどうよ<

「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘吐きダマシの大和説者は、
もういいかげんに、ウソばっかり付くの止めたらどうよ。

696日本@名無史さん2017/12/04(月) 17:02:07.10
>>656
まあ、四千里征伐が、
魏内の行軍中の事ではなく、公孫氏領内での征伐距離である事や、
公孫氏領が、方四百里の韓と大体同じだ、
などという事を認めたら、
「南≠東」問題からだけではなく、
大和説の長里説も即崩壊だからね から。

みっともなく言い張るのも当然ですわ 。

697日本@名無史さん2017/12/04(月) 17:03:33.10
みっともなくオウム返し



w

698日本@名無史さん2017/12/04(月) 17:05:51.77
>>660
まあ、大和説は、いつも証拠を出さず、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの、
インチキばかりだから。

w

699日本@名無史さん2017/12/04(月) 17:08:00.76
>>696
>まあ、四千里征伐が、
>魏内の行軍中の事ではなく、公孫氏領内での征伐距離である事や、

それ、なんの根拠も無いよね

700日本@名無史さん2017/12/04(月) 17:08:19.69
>>661
「南→東」などの史料事実を否定曲解の嘘吐きダマシの大和説のあんたが、
勝手に我流定義を創作しても、ねえの。

701日本@名無史さん2017/12/04(月) 17:09:44.28
>>700
我流定義だって証拠は?

702日本@名無史さん2017/12/04(月) 17:15:50.29
話題がなくなると
いつも、行程(方位7、距離、日数)の話ばかり飽きた
誰か誘導してんの
ええ加減にせーよ、聞き飽きた

703日本@名無史さん2017/12/04(月) 17:19:13.24
このスレは畿内説VS九州説のスレじゃん
皆 ドンコイへおいで

704日本@名無史さん2017/12/04(月) 17:26:04.90
あまり知られていないけど

『皆殺しのトミノ』と『富野天神宮』の関係

少し読み方が違うけど、ほとんど同じだよ

『富』の字も違うような気がするけど、
改変のような気がする、このようにして隠された(消された)・・・という話

705日本@名無史さん2017/12/04(月) 17:29:34.99
ザラコクだったっけ
こいつスレ占拠するなよ
スレは進むが畿内説の議論が進まない
葛城完全無視だもんな、テンプレも

706日本@名無史さん2017/12/04(月) 17:34:15.60
>>663
>>渤海の遼東湾の北岸の西端付近〜撫順、 位なら、韓の四千里とほぼ同じだよ。<

>おやおや 楽浪帯方は公孫氏の勢力範囲じゃないの?<

元々楽浪帯方は、魏の支配下でもあったんだし、
「景初中、明帝密遣帶方太守劉kin[偏日旁斤]、樂浪太守鮮于嗣越海定二郡」だから、
時期ははっきりしないが、
景初二年6月の難升米らの帯方到着時点では、帯方は既に魏の物になっていたから、
司馬懿の遠征開始の頃には、楽浪帯方は、魏の支配下になっていて、
公孫氏の支配は無くなっていた、と思うよ。

「二年春正月、詔太尉司馬宣王帥衆討遼東」をして、
「丙寅、司馬宣王圍公孫淵於襄平、大破之、傳淵首于京都、海東諸郡平。
冬十一月、録討淵功、太尉宣王以下増邑封爵各有差」
の「丙寅」が何時の事か?判らないだけ。

707日本@名無史さん2017/12/04(月) 17:35:36.30
>>705
ザラコクはむしろ九州トンデモ説の問題点を浮き彫りにしてくれてる気ガス

708日本@名無史さん2017/12/04(月) 17:39:01.98
>>707

じゃあ退治しろよ
畿内説が鉄板だろ

709日本@名無史さん2017/12/04(月) 17:40:44.35
その富野というのは、
ちゃんとしたモノなの?マトモな文献?

710日本@名無史さん2017/12/04(月) 17:43:08.66
調べてみて、このような事が書いてある

『拾遺都名所図会』

711日本@名無史さん2017/12/04(月) 17:47:11.48
>>664
>適当な根拠のない範囲を四千里だと言いはっても意味はないだろw
遼東の東西で800〜900kmくらいあるよ<

何を、無茶苦茶言を、ってんだよ?。
錦州付近からでも東800kmなら、
日本海はるか沖にまで行ってしまうではないか。

712日本@名無史さん2017/12/04(月) 17:47:18.40
『お前たちのしたことは すべて知っている』と言っている人がいたり、何なんだろう

713日本@名無史さん2017/12/04(月) 17:50:19.40
>>708
ザラコクはテンプレ読まないから✖
ザラコクが書き込んだら「テンプレ読みなさい」でおしまいなんだが
スレ主=ザラコク スレの大半カキコム

714日本@名無史さん2017/12/04(月) 17:53:37.16
>>665
>>加美の「伽耶と陶質土器と共存」の「庄内」すらが、出土せず、<

>おやおや、また捏造ですか?<

>加美の「伽耶と陶質土器と共存」の「庄内」すらが、出土せず、

おやおや?、「米田の報告の否定」での、仲間割れですか?。

715日本@名無史さん2017/12/04(月) 17:56:25.13
>>666
>渤海の北岸の西端付近って 地名は?<

おそらく、錦州や 盤山。

716日本@名無史さん2017/12/04(月) 17:59:01.32
『梵天』と書いてあったりするから
『ザンボット』?

人間爆弾のことなのかな

717日本@名無史さん2017/12/04(月) 18:05:26.35
梵天というと日本では伊達?
というイメージがあるんだけど。

ザンボット、ロボットとか、
被災地?嫌がらせのような事をしている存在がいるのかな。

718日本@名無史さん2017/12/04(月) 18:05:40.58
>>706
>の「丙寅」が何時の事か?判らないだけ。

知識も何もないくせにデタラメばかりレスするなよ
真面目に応えてやれば9月10日だ
アホがw

719日本@名無史さん2017/12/04(月) 18:07:33.90
>>711
>錦州付近からでも東800kmなら、
>日本海はるか沖にまで行ってしまうではないか。

地図の縮尺かなんか見間違えてるだけだな(わざとか)
錦州市から真東なら日本海まで1000km近いわ

720日本@名無史さん2017/12/04(月) 18:08:33.54
>>706
単なる想像

もう手が打ってあったなら
司馬仲達は公孫淵が奥地に逃げ込む懸念を持たない

721日本@名無史さん2017/12/04(月) 18:08:40.47
>>715
>おそらく、錦州や 盤山。

遼東の西端はもっと西

722日本@名無史さん2017/12/04(月) 18:09:43.59
>>708
退治されてて、もうザラコクは晒し者

723日本@名無史さん2017/12/04(月) 18:11:24.77
>>714
いや、ザラコクの作り話が否定されただけ

724日本@名無史さん2017/12/04(月) 18:11:45.68
>>672
>>「征」は「正す行為」を意味する。<

>またでたらめが始まったw <

その動詞の意味は「す」や「する」を付けて見れば判る。
「征」は「征する」。

>「征」(漢典)
 1. ?行:?〜。〜途。〜夫。〜人。〜衣。〜帆(?行的船)。
 2. 用武力制裁,?伐:〜服(用力制服)。〜?。〜伐。〜哉(出征作哉)。南〜北哉。
 3. 召集:〜兵。〜募(招募兵士)。〜集兵?。
 4. 收集:〜税。〜粮。
 5. 招?,?求:〜求。〜稿。〜婚。〜聘(招聘)。〜?(征求意?)。
 6. ?明,??:〜引(引用,引?)。信而有〜。
 7. 表露出来的迹象:特〜。〜候。
どこにそんな意味がある、嘘吐きヤロー<

辞書は、あくまで「類似文言を使っての説明」であり、「完全イコール」ではないから、
「絶対的な論拠」にはならず、
単なる参考資料に過ぎない。

725日本@名無史さん2017/12/04(月) 18:11:45.65
>>715
空想だよね

726日本@名無史さん2017/12/04(月) 18:15:57.55
>>674
>だから、「征伐」は、遠いところへの行軍がなくて、近辺での征伐であっても、
使っている。<

>使用例を出してくれ
使っている、と言い切っているんだから当然出せるわな<

我々も、身近な人の悪事や犯罪を見つけたら、
「征伐」する、という言葉を使う事がある。

727日本@名無史さん2017/12/04(月) 18:16:17.34
『ガイキング』?

牛のようなロボット

728日本@名無史さん2017/12/04(月) 18:20:14.03
>>675
>>「用奇、亦当任力」や「誅罪」や「臨危制変」
>>魏の支配領内での行軍中では、原則として発生しない、<

>あたりまえ 明帝の行軍前の発言と遠征帰還後の発言だろ<

いや、発言は行軍前であっても、
何れも「遼東内での征伐」の時の話。

729日本@名無史さん2017/12/04(月) 18:32:15.35
『ファースト・レンズマン・サムス』〜『メトロイド サムス』

730日本@名無史さん2017/12/04(月) 18:42:00.02
気づいている人は気づいている

『ボーボボ 田ボ』「女になった」と言っていたり

何度も書いているけど『ボーボボ』は、
かなりレベルの高い作品

731日本@名無史さん2017/12/04(月) 18:44:44.63
卑弥呼も台与も天皇系図のイの一番に出ている。
邪馬台国畿内説 Part304 	->画像>3枚

気付かないのはおまえらが馬鹿だから。

732日本@名無史さん2017/12/04(月) 18:46:14.02
メトロイド サムスのwiki

ポートマンが何やら〜という説明

港 船

733日本@名無史さん2017/12/04(月) 18:49:54.05
>>724
>辞書は、あくまで「類似文言を使っての説明」であり、「完全イコール」ではないから、
>「絶対的な論拠」にはならず、
>単なる参考資料に過ぎない。

おまえの戯れ言に比べれば信頼性は100対ゼロだ

734日本@名無史さん2017/12/04(月) 18:51:26.54
>>676
>>>(四千里征伐)遼東の公孫氏の支配地域での 征伐戦の予想距離。<

>征伐戦距離が予想できるはずもなし<

当たり前。
だから、明帝や司馬懿や何晏は、
公孫淵のいろんな対応の可能性も考えて、推定した。

>実際の戦闘距離は70km <

公孫淵は、結果としては余り賢くなく、籠城してしまった。

735日本@名無史さん2017/12/04(月) 18:51:41.11
>>726
そりゃ、成敗するの誤用だ、低脳だな

736日本@名無史さん2017/12/04(月) 18:54:32.39
>>728
>いや、発言は行軍前であっても、
>何れも「遼東内での征伐」の時の話。

論破済みで反論はなかったはずだが?
「用奇」は司馬懿の事前の3種の戦略の話
「臨危制変」は、要は司馬懿は臨機応変な動きができるはずと明帝が考えたこと

4000里とは何の関連もない

737日本@名無史さん2017/12/04(月) 18:55:58.02
>>734
>だから、明帝や司馬懿や何晏は、
>公孫淵のいろんな対応の可能性も考えて、推定した。

最初から言ってると思うが4000里推定の根拠を言ってみろ

738日本@名無史さん2017/12/04(月) 18:57:31.25
>>678
>論破済み<

「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説者の「論破済み」は、
反論不可能でした、と言っているのと同じだね。

739日本@名無史さん2017/12/04(月) 19:06:59.47
  気づいている子もいたと思う

『聖』(聖化)・・・という技を使用したり、なぜかネギを持っているキャラがいたり

740日本@名無史さん2017/12/04(月) 19:10:00.08
>>686
>>(四千里征伐)遼河の河口付近から撫順付近<

>そんな地理に意味はない 戦闘地域は海城市から遼陽市の70km<

実際の戦闘地域は関係がない。
遠征に出発する前の、洛陽での、
明帝や司馬遷や何晏らの「戦闘の予想地域」距離の話。

741日本@名無史さん2017/12/04(月) 19:13:23.41
ふなっしー=本当は『船氏』だという説があったり

742日本@名無史さん2017/12/04(月) 19:21:53.93
『お前たちのしたことは すべて知っている』

>より上位者を殺そうとしたことを知っている

『もののけ姫』も同じような話

743日本@名無史さん2017/12/04(月) 19:22:53.58
>>740
>明帝や司馬遷や何晏らの「戦闘の予想地域」距離の話。

だから、その予想地域の距離が4000里だったということを、きちんと根拠と範囲とともに説明しろ

744日本@名無史さん2017/12/04(月) 19:23:03.71
>>699
>>まあ、四千里征伐が、 魏の支配下内での行軍中の事ではなく、公孫氏領内での征伐距離である事や、での<

>それ、なんの根拠も無いよね <

明帝や司馬懿や何晏らは、「四千里征伐」に関しては、
魏の支配地内の行軍での話ではなく、
実際の征服戦闘での「征服」や、
「用奇、亦当任力」や、「誅罪」や、「臨危制変」のような事だけを、
問題にしていたの。

745日本@名無史さん2017/12/04(月) 19:27:25.27
>>744
論破済み

746日本@名無史さん2017/12/04(月) 19:27:29.00
>>707
ここの大和説者は、むしろトンデモ大和説の問題点を浮き彫りにしてくれてる気ガス。

747日本@名無史さん2017/12/04(月) 19:29:55.65
>日本古代に朝鮮半島から渡来したもっとも古い中国系の帰化氏族。
>後漢霊帝の子孫といい,
>秦始皇帝の裔という秦氏(はたうじ)とならび称せられる。

どちらも帝の子孫、裔となっているし・・・
ぽーとまんの演じたキャラなのかな?

748日本@名無史さん2017/12/04(月) 19:43:28.77
>>718
>>の「丙寅」が何時の事か?判らないだけ。<>

>知識も何もないくせにデタラメばかりレスするなよ <

古田さんらは、当然知っていて「戦中遣使」であった、と言っておられたんだろうが、
私は、昔の事で、もう覚えておれなかっただけ。

>真面目に応えてやれば9月10日だ アホがw <

おや?、有難う。
公孫氏滅亡はあっという間であったようだね。

という事は、この男の説明通りであれば、
難升米の帯方到着の景初二年6月は、司馬懿が洛陽出発頃になり、
魏の楽浪帯方の攻撃占拠は、司馬懿の洛陽出発の前であった、という事になる。

749日本@名無史さん2017/12/04(月) 19:48:32.67
四千里征伐つーフレーズ抜き出しただけでよーひっぱりますなー
前後の文脈よー読み解きー
兵站コストの話やろ敵中行軍の話ちゃうよ?(まーどっちにしろイチリ100以下やけど(タイホウ関連

750日本@名無史さん2017/12/04(月) 19:51:50.79
>>719
>>錦州付近からでも東800kmなら、 日本海はるか沖にまで行ってしまうではないか。<

>地図の縮尺かなんか見間違えてるだけだな(わざとか)
錦州市から真東なら日本海まで1000km近いわ<

錦州市から真東なら、700km位で日本海に入るな。

751日本@名無史さん2017/12/04(月) 19:52:29.31
ここがつまらんのはふもーなあらそいひっぱりすぎるからやろな(すまん^^

752日本@名無史さん2017/12/04(月) 19:53:49.17
>>750
真東じゃないんだろ

753日本@名無史さん2017/12/04(月) 19:56:00.60
短里うんぬんは半島〜列島だけ根拠にすりゃいいんだよ
中国本土はまともな里に決まってるんだから

754日本@名無史さん2017/12/04(月) 19:57:21.62
それにしても、おかしな話なんだよな

もれ(仮)の兄は「若桜のアゴなのか?」と言われたことがあったとか、
阿児?

小6年くらいか中学生のときの話

755日本@名無史さん2017/12/04(月) 20:02:50.15
同じくらいの年齢の人(数人いた)に言われたとか

友達でもないし、知らない人

たしか友達と幸区のほうに遊びに行ったときの話、
何なんだろう

756日本@名無史さん2017/12/04(月) 20:07:41.78
ジャイアンツの投手と同じような名前なんだけど、
名札?でもつけていたのかな

それとも名前を聞かれたのかな

757日本@名無史さん2017/12/04(月) 20:08:08.37
匿名 スレ主
駄目よダメダメ

758日本@名無史さん2017/12/04(月) 20:10:16.20
全九州防衛局

759日本@名無史さん2017/12/04(月) 20:12:55.27
ジャイアンツ(読売)に船氏→・・・のような名前の投手がいるでしょ、
同じような名前

760日本@名無史さん2017/12/04(月) 20:13:47.20
>>720
>単なる想像 もう手が打ってあったなら
司馬仲達は公孫淵が奥地に逃げ込む懸念を持たない<

「初、帝議遣宣王討淵、發卒四萬人。
議臣皆以為四萬兵多、役費難供。
帝曰:「四千里征伐、雖云用奇、亦當任力、不當稍計役費。」
遂以四萬人行。
及宣王至遼東、霖雨不得時攻、議臣或以為淵未可卒破、宜詔宣王還。
帝曰:「司馬懿臨危制變、擒淵可計日待也。」
卒皆如所策。」
だから、「手を打っていなかった」らしい。
母丘倹も、司馬懿の指揮下にあって、公孫淵の逃亡に関する手は打っていなかった、
という事になる。

761日本@名無史さん2017/12/04(月) 20:21:49.11
これは嘘ではないw

住んでいるところは、川崎区の南部のほう。

むかーし住んでいた事があるんだよ、
というところ・・・伊達郡の?

762日本@名無史さん2017/12/04(月) 20:33:43.12
阿智、そのような人物もいなかった?

763日本@名無史さん2017/12/04(月) 20:44:26.47
>>721
>>おそらく、錦州や 盤山<

>遼東の西端はもっと西<

明帝や司馬懿や何晏が「遼東」という文言を使ったからには、
常識的には、遼河付近から東方地域。

764日本@名無史さん2017/12/04(月) 20:47:29.64
親戚(一族)なのかな

『阿智 高句麗』『阿智 新羅』『阿智 百済』

当時の中華?

765日本@名無史さん2017/12/04(月) 20:48:41.83
>>722
>退治されてて、もうザラコクは晒し者<

退治されてて、もう、山尾や大和説者は晒し者。
ザラコクは、何の問題もなく、普通に大和説者を晒し者にしているだけ。

766日本@名無史さん2017/12/04(月) 21:02:55.75
阿智 百済なのかな?

調べてみると、
実際は中華だという話ばかりだし

767日本@名無史さん2017/12/04(月) 21:06:47.05
>>723
>いや、ザラコクの作り話が否定されただけ<

何だ?、
ずっと前から、大和説者は、
「久宝寺で、伽耶人が来て陶質土器と庄内との共存があった」、
という話であったから、それで推論していたが、
つい先日、5chで大和説者が、それを否定して、
実際は加美で「陶質土器と庄内の共存があった」と言ったので、
そういえば、加美の報告や説明も米田が書いていた、という記憶もあったから、
加美の話に変更しておいたが、
今度は、それも否定するんかい?。

768日本@名無史さん2017/12/04(月) 21:06:55.58
>>763
>常識的には、遼河付近から東方地域。

どこの常識か知らないが、普通は遼東全域だろう

769日本@名無史さん2017/12/04(月) 21:10:25.23
>>731
大和に卑弥呼がいた、と言った瞬間に、このssnは、
また「南→東」の嘘吐きダマシをした事になるから、✖。

770日本@名無史さん2017/12/04(月) 21:14:03.20
>>733
>>辞書は、あくまで「類似文言を使っての説明」であり、「完全イコール」ではないから、
「絶対的な論拠」にはならず、 単なる参考資料に過ぎない。<

>おまえの戯れ言に比べれば信頼性は100対ゼロだ <

「南→東」などの史料事実の否定抹殺の嘘吐きダマシの大和説者の戯れ言の信頼性は、ゼロだ。

771subo2017/12/04(月) 21:26:31.75
>>731
いの一番は調味料ですよ

772日本@名無史さん2017/12/04(月) 21:29:50.51
>>736
>>いや、発言は行軍前であっても、 何れも「遼東内での征伐」の時の話<

>論破済みで反論はなかったはずだが?<

論破などされた記憶がない。
そして、魏の支配下の洛陽〜遼東への途中では「征伐戦など起きない」
という論破をした記憶がある。

>「用奇」は司馬懿の事前の3種の戦略の話 <

これ、間違いね。
「用奇」は、実際の戦闘での話であり、事前の戦略や行路途中の話ではない。

>「臨危制変」は、要は司馬懿は臨機応変な動きができるはずと明帝が考えたこと <

これも、実際の戦闘で、司馬懿は臨機応変が出来る、という話であり、
行軍途中の話ではない。

>4000里とは何の関連もない<

いずれでも、4000里は戦闘が始まってからの話であり、関連がある。

773日本@名無史さん2017/12/04(月) 21:33:25.45
>>735
>そりゃ、成敗するの誤用だ、低脳だな<

桃太郎は、近所の鬼が城の温羅を征伐した。

774日本@名無史さん2017/12/04(月) 21:33:58.59
>>771
せんせーこんなとこより人気板で日本の歴史かたりませう(でんぱ受信しただいまあらしちゅーにゅーそく+

775日本@名無史さん2017/12/04(月) 21:39:17.29
>>767
>ずっと前から、大和説者は、
>「久宝寺で、伽耶人が来て陶質土器と庄内との共存があった」、
>という話であったから、それで推論していたが、

どこでそんな変な話を聞きかじったの?
ザラコクの脳内で劣化歪曲されたんじゃないの?


>つい先日、5chで大和説者が、それを否定して、
>実際は加美で「陶質土器と庄内の共存があった」と言ったので、

証拠は?

どこの誰から、そんな変な話を聞きかじったの?
ザラコクの脳内で劣化歪曲されたんじゃないの?

776日本@名無史さん2017/12/04(月) 21:39:18.17
>>737
>>だから、明帝や司馬懿や何晏は、 公孫淵のいろんな対応の可能性も考えて、推定した。<

>最初から言ってると思うが4000里推定の根拠を言ってみろ<

最初から言ってると思うが、
洛陽〜遼東は魏の支配地であって征伐や戦闘の場所ではないから、
「四千里征伐」にならない、という事。
征伐があったのは、遼東。」

777日本@名無史さん2017/12/04(月) 21:43:27.01
>>772
>そして、魏の支配下の洛陽〜遼東への途中では「征伐戦など起きない」
>という論破をした記憶がある。

おかしな反論しても、ひとは論破されないよ
史料にない「征伐戦」なんて言葉を捏造してはダメ

778日本@名無史さん2017/12/04(月) 21:43:30.67
ろっこーおろしにさっそーとーそーてんーのーにちりんかけるーなんたらかんたらー(つぶやきせんせーはマゴイチで巨人かー(びみょーにさかなでられる

779日本@名無史さん2017/12/04(月) 21:45:22.50
>>743
>>明帝や司馬遷や何晏らの「戦闘の予想地域」距離の話。<

>だから、その予想地域の距離が4000里だったということを、
きちんと根拠と範囲とともに説明しろ<

始めから、征伐目的地は「遼東」である、という事を二回以上繰り返して書いている事。
「遼東」以外の地名は書いていない。

780日本@名無史さん2017/12/04(月) 21:47:03.02
>>776
>洛陽〜遼東は魏の支配地であって征伐や戦闘の場所ではないから、
>「四千里征伐」にならない、という事。

なんで魏の支配地だと征伐にならないの?
勝手に言葉の意味を変えたらダメじゃない?

781日本@名無史さん2017/12/04(月) 21:47:53.05
>>745
大和説者は、論破され過ぎ。

782日本@名無史さん2017/12/04(月) 21:49:44.05
>>779
じゃあ、たった一つの郡を平定することを
大げさに「四千里征伐」とか言って
宮廷で大騒ぎしていたと?

アホですか?

783日本@名無史さん2017/12/04(月) 21:50:34.68
>>781
誰に?

w

784日本@名無史さん2017/12/04(月) 21:52:07.80
>>779
>始めから、征伐目的地は「遼東」である、という事を二回以上繰り返して書いている事

遼東全体なら4000里(短里300km)よりはるかに広い
4000里がが想定距離として出てくる根拠を言えと、最初から言ってるだろ

785日本@名無史さん2017/12/04(月) 21:53:56.46
>>752
>真東じゃないんだろ<

ウラジオストック方向でも、800km位で海に入ってしまう。

786日本@名無史さん2017/12/04(月) 21:58:49.14
そもそもこの四千里を遼東のことだなんて言ってる人が古田一派以外にいるか?

いや、いない

787日本@名無史さん2017/12/04(月) 22:01:05.29
>>768
>>(遼東)常識的には、遼河付近から東方地域。<

>どこの常識か知らないが、普通は遼東全域だろう<

東や東北に行けば、山地地域になるし、高句麗や扶余がいる。

788日本@名無史さん2017/12/04(月) 22:03:36.00
>>787
つまり、狭い地域でしか、ない
やはり通説どおり、四千里は洛陽から征伐に来る道のりだよ

789日本@名無史さん2017/12/04(月) 22:09:16.32
>>785
うちのと違う地図を見てるんだろうな

790日本@名無史さん2017/12/04(月) 22:10:39.22
>>787
>東や東北に行けば、山地地域になるし、高句麗や扶余がいる。

だから何?
遼東を支配している公孫氏征伐に行ったんだろ

791日本@名無史さん2017/12/04(月) 22:15:55.00
>>788
あたりまえなんだよな
googlemapで洛陽市→遼陽市の距離は、1443.5km
1443.5km÷400m=3600里で、
後漢書劉昭註 洛陽→遼東 3600里とピッタリ!!
魏志の4000里征伐ともほぼ整合している。

議論の余地なんてない
まずこの事実を否定してみろ

792日本@名無史さん2017/12/04(月) 22:16:12.70
出兵の会議で楽浪のことなんて何も言ってないよね
もう楽浪を陥してたのなら、背後は断っているのだから、奥地に逃げ込んで持久戦に持ち込まれる心配を会議でする必要ないよね

なら、これから制圧する地域は遼水を渡ってから帯方までになる
とても古田短里の4000里では無理だ

793日本@名無史さん2017/12/04(月) 22:32:22.41
>>775
>証拠は? どこの誰から、そんな変な話を聞きかじったの?
ザラコクの脳内で劣化歪曲されたんじゃないの?<

私は、大和説は軽蔑しているし、関心も殆どないから、
大和説者の本は殆ど読まない。
だから、掲示板で大和説がしゃべった情報や、
大和説者が紹介したサイトの情報しか知らず、
その中で、「ついうっかり」しゃべった、
「大和説にとっては不利になって、九州説の論拠になる事」は、よく覚えている。

794日本@名無史さん2017/12/04(月) 22:36:46.98
>>780
>おかしな反論しても、ひとは論破されないよ
史料にない「征伐戦」なんて言葉を捏造してはダメ <

明帝が「四千里征伐」と言った。
そして、洛陽〜遼東は魏の支配地であり、征伐なんて起きないから、
征伐は遼東での事。

795日本@名無史さん2017/12/04(月) 22:39:33.90
>>794
論破済み

796日本@名無史さん2017/12/04(月) 22:43:31.57
>>793
よく覚えてるって証拠は?

ザラコクがウソついてないって保証は?

797日本@名無史さん2017/12/04(月) 22:45:00.07
>>794
魏の支配地だと征伐なんて起きないって理由は?

オレ様がそう決めたから?

798日本@名無史さん2017/12/04(月) 22:45:53.09
>>782
>じゃあ、たった一つの郡を平定することを 大げさに「四千里征伐」とか言って
宮廷で大騒ぎしていたと? アホですか?<

じゃあ、大和説者は、結局、
明帝も司馬懿も何晏も、アホだった、
と世間の人にヘイトスピーチして、威張るんですか?。

799日本@名無史さん2017/12/04(月) 22:51:22.46
>>784
>>始めから、征伐目的地は「遼東」である、という事を二回以上繰り返して書いている事 <

>遼東全体なら4000里(短里300km)よりはるかに広い
4000里がが想定距離として出てくる根拠を言えと、最初から言ってるだろ<

「遼東全体なら4000里(短里300km)よりはるかに広い」と言って、
700km以上とか言ったこの男の話では、
遼東が日本海の中まで入ってしまうから、
この男の脳がおかしい。

800日本@名無史さん2017/12/04(月) 22:55:45.29
>>799
もう一度地図を見直せ
ていうかそんな細かい事はどーでもいいんだよ

>4000里がが想定距離として出てくる根拠を言えと、最初から言ってるだろ
これに答えろ、カス

801日本@名無史さん2017/12/04(月) 22:56:22.51
>>786
>そもそもこの四千里を遼東のことだなんて言ってる人が古田一派以外にいるか?
いや、いない <

そりゃ、それじゃ、古田一派以外の人は、
明帝や司馬懿や何晏を誹謗した事になるから、
皆悪い。

802日本@名無史さん2017/12/04(月) 22:57:09.50
>>799
>googlemapで洛陽市→遼陽市の距離は、1443.5km
>1443.5km÷400m=3600里で、
>後漢書劉昭註 洛陽→遼東 3600里とピッタリ!!
>魏志の4000里征伐ともほぼ整合している。

こっちもおかしいと思ってるんなら否定する根拠を示せ

803日本@名無史さん2017/12/04(月) 22:59:04.91
>>798
>明帝も司馬懿も何晏も、アホだった、
>と世間の人にヘイトスピーチして、威張るんですか?。

いいや

明帝も司馬懿も何曾もマトモな人で、洛陽から遼東まで四千里も長距離を遠征する困難さを語っている、と言っている

そして、古田の苦し紛れ珍説を盲信するザラコクがアホだ、と言っている

804日本@名無史さん2017/12/04(月) 22:59:49.24
>>788
>つまり、狭い地域でしか、ない
やはり通説どおり、四千里は洛陽から征伐に来る道のりだよ <

つまり、韓の方4千里位の広い地域であり、
やはり古田説どおり、四千里は遼東内の征伐の道のりだよ 。

805日本@名無史さん2017/12/04(月) 23:00:38.11
>>802
イミフ

806日本@名無史さん2017/12/04(月) 23:01:38.83
>>789
>うちのと違う地図を見てるんだろうな <

私は、最近は、Yahooの地図ばっかり見ているよ。

807日本@名無史さん2017/12/04(月) 23:02:13.86
>>804
遼東内は70kmしか動いてないけど?

808日本@名無史さん2017/12/04(月) 23:04:32.71
>>790
>>東や東北に行けば、山地地域になるし、高句麗や扶余がいる。<

>だから何? <

公孫氏の支配地は、遼東の平野部が中心。

>遼東を支配している公孫氏征伐に行ったんだろ<

そうだよ。

809日本@名無史さん2017/12/04(月) 23:05:57.62
>>804
論破済み

>>805
小学校にもう1回行ってこい

810日本@名無史さん2017/12/04(月) 23:07:14.48
>>808
>公孫氏の支配地は、遼東の平野部が中心。

だから何

811日本@名無史さん2017/12/04(月) 23:12:42.77
>>791
>あたりまえなんだよな
googlemapで洛陽市→遼陽市の距離は、1443.5km
1443.5km÷400m=3600里で、 後漢書劉昭註 洛陽→遼東 3600里とピッタリ!!
魏志の4000里征伐ともほぼ整合している。 議論の余地なんてない
まずこの事実を否定してみろ <

違う本の記載は、魏志と同じ度量衡だ、とは言えないし、
同じ区間の情報だともいえない。
また「4000余里」は「4000里以である」のに、
「3600里」は「4000里以下」であるから違う。

812日本@名無史さん2017/12/04(月) 23:14:33.45
古田四千里なんて
洛陽〜長安間より近いだろw

w
w
w

813日本@名無史さん2017/12/04(月) 23:15:44.39
>>811
まだダダこねてるの?

814日本@名無史さん2017/12/04(月) 23:18:00.23
ここで引いたら古田説が死亡だもの

815日本@名無史さん2017/12/04(月) 23:20:19.10
>>811
奥地に逃げ込んだ場合の話だろ

816日本@名無史さん2017/12/04(月) 23:22:51.56
>>792
>出兵の会議で楽浪のことなんて何も言ってないよね <

楽浪帯方の奪回は、景初2年6月よりも前であり、
司馬懿の遠征よりも前、という事になる。

>もう楽浪を陥してたのなら、背後は断っているのだから、
奥地に逃げ込んで持久戦に持ち込まれる心配を会議でする必要ないよね <

高句麗や扶余があるから、匿われたりしたら、逃げられる可能性は十分ある。

>なら、これから制圧する地域は遼水を渡ってから帯方までになる
とても古田短里の4000里では無理だ <

ならない。
洛陽出発時点では、「遼東」としか言っていない。

817日本@名無史さん2017/12/04(月) 23:24:21.75
>>811
>違う本の記載は、魏志と同じ度量衡だ、とは言えないし、
>同じ区間の情報だともいえない。
ほぼ洛陽から遼東の中心地までだよ
短里か長里かの別くらい判断できるだろ
300kmじゃなくて1443.5kmが3600里と表現されてるんだ

>「3600里」は「4000里以下」であるから違う。
どーでもいい

818日本@名無史さん2017/12/04(月) 23:26:05.20
>>816
>高句麗や扶余があるから、匿われたりしたら、逃げられる可能性は十分ある。

それ、敵だよ

819日本@名無史さん2017/12/04(月) 23:29:08.51
扶余は敵じゃないだろ。

820日本@名無史さん2017/12/04(月) 23:30:47.79
>>816
>楽浪帯方の奪回は、景初2年6月よりも前であり、
>司馬懿の遠征よりも前、という事になる。

四千里征伐発言のあった遠征会議は景初2年春正月だよ

821日本@名無史さん2017/12/04(月) 23:32:14.65
>>819
根拠は?

822日本@名無史さん2017/12/04(月) 23:32:43.56
>>816
もしかして
「遼水」と「遼河」と勘違いしてるのか?

公孫度の時代になって、遼東郡を遼東、遼中、遼西の3郡に分けてる。
「遼水」→遼西郡→遼中郡→「遼河」→遼東郡の並びだ
公孫氏の領地は「遼水」以東〜楽浪・帯方郡まで、最盛期には山東半島の一部も支配した。

渤海から黄海まで及ぶ広大な領域だよ

823日本@名無史さん2017/12/05(火) 03:36:06.75
テレビ番組の告知です

にっぽん!歴史鑑定『邪馬台国はどこにあった?』
BS-TBS
2017年12月11日(月)  22時00分〜22時54分 

824日本@名無史さん2017/12/05(火) 05:22:38.67
>>797
>魏の支配地だと征伐なんて起きないって理由は? オレ様がそう決めたから?<

人類の常識が決める。
「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘つき騙しの・・・・大和説信者が、
一番不得手な事。

825日本@名無史さん2017/12/05(火) 05:32:42.54
>>800
>もう一度地図を見直せ <

Yahooの地図でも、もう一度見直せ。

>ていうかそんな細かい事はどーでもいいんだよ <

どうでもよくない。
逃げないで、「遼東が東西800km位もある」と叫んだ失敗を謝れ。

>4000里がが想定距離として出てくる根拠を言えと、最初から言ってるだろ
これに答えろ、カス <

「想定距離」なんて、私は言っていないだろ?、カス。
漢代から四郡があったんだから、郡役人たちが計測してあった距離だ、と言っておいただろ?。

826日本@名無史さん2017/12/05(火) 05:43:13.04
>>824
それが常識だと、あなたはどうやって知ったの?

ほかの人は辞書を引いたりして、別のことが常識だと思っているのに

827日本@名無史さん2017/12/05(火) 05:50:56.10
>>811
は、以前に返事してある話だから、それを少し訂正して転写してあげよう。

>あたりまえなんだよな
googlemapで洛陽市→遼陽市の距離は、1443.5km
1443.5km÷400m=3600里で、 後漢書劉昭註 洛陽→遼東 3600里とピッタリ!!
魏志の4000里征伐ともほぼ整合している。 議論の余地なんてない
まずこの事実を否定してみろ <

まず、梁代の「里の概念が違う本」の記載は、魏志と「同じ度量衡だ」、とは言えないし、
勿論、「同じ区間の情報だ」、とも言えない。
また「4000余里」とは「4000里以上である」のに、
「3600里」は「4000里以下」であるから違う。

828日本@名無史さん2017/12/05(火) 05:57:19.32
>>825
失敗?
秦皇島から丹東まで570km
楽浪も支配下なんだから、遼東に王たる公孫氏の版図として大体okじゃないの?

829日本@名無史さん2017/12/05(火) 05:59:17.17
>>827
>まず、梁代の「里の概念が違う本」の記載は、魏志と「同じ度量衡だ」、とは言えないし、

それ、古田の単純ミスって証明されてたよな

830日本@名無史さん2017/12/05(火) 06:01:00.65
>>812
>古田四千里なんて 洛陽〜長安間より近いだろw w w w <

よく知ってるね。
洛陽〜長安間は、有名な「長里で千里」とか「950里」とか書かれるから、415〜435km位だ。
古田四千里は韓の(島々も含めた)東西幅位で、短里だから、300km位だ。

831日本@名無史さん2017/12/05(火) 06:04:10.87
>>814
まだダダこねてるの?
ここで引いたら、大和説も長里説も、死亡だもんな。

832日本@名無史さん2017/12/05(火) 06:08:01.59
>>827
>また「4000余里」とは「4000里以上である」のに、
>「3600里」は「4000里以下」であるから違う。

「3600里」は襄平までの距離にピッタリ
「4000余里」は奥地まで逃げ込んで徹底抗戦された場合にピッタリ
作戦会議で出る言葉としてなにも問題ない

833日本@名無史さん2017/12/05(火) 06:10:04.16
>>830
>古田四千里は韓の(島々も含めた)東西幅位で、短里だから、300km位だ。

計算根拠は?

834日本@名無史さん2017/12/05(火) 06:10:55.06
>>831
またオウム返しか
脳が鳥並みなんだな

835日本@名無史さん2017/12/05(火) 06:15:11.88
>>817
>>(度量衡も違う梁代の)違う本の記載は、魏志と同じ度量衡だ、とは言えないし、
同じ区間の情報だともいえない。<

>ほぼ洛陽から遼東の中心地までだよ <

魏志の区間は、ほぼ「遼東」。

>短里か長里かの別くらい判断できるだろ
300kmじゃなくて1443.5kmが3600里と表現されてるんだ <

後代の違う度量衡の梁代の注書きでは、論拠にもならない。

>>(何晏は「4000余里」だから「4000里以上」であり)
「3600里」は「4000里以下」であるから違う。<

>どーでもいい <

はいはい、また議論に負けて逃げるんだね?。

836日本@名無史さん2017/12/05(火) 06:15:12.14
>>817
>>(度量衡も違う梁代の)違う本の記載は、魏志と同じ度量衡だ、とは言えないし、
同じ区間の情報だともいえない。<

>ほぼ洛陽から遼東の中心地までだよ <

魏志の区間は、ほぼ「遼東」。

>短里か長里かの別くらい判断できるだろ
300kmじゃなくて1443.5kmが3600里と表現されてるんだ <

後代の違う度量衡の梁代の注書きでは、論拠にもならない。

>>(何晏は「4000余里」だから「4000里以上」であり)
「3600里」は「4000里以下」であるから違う。<

>どーでもいい <

はいはい、また議論に負けて逃げるんだね?。

837日本@名無史さん2017/12/05(火) 06:19:07.59
>>835
>魏志の区間は、ほぼ「遼東」。

証拠は?

838日本@名無史さん2017/12/05(火) 06:20:15.14
>>835
>後代の違う度量衡の梁代の注書きでは、論拠にもならない。

はい、循環論法。
ザラコクの負け。

839日本@名無史さん2017/12/05(火) 06:20:52.73
>>818
>>(公孫淵ら)高句麗や扶余があるから、
匿われたりしたら、逃げられる可能性は十分ある。<

>それ、敵だよ<

山岳地だし、敗戦流民であるなら、高句麗や扶余を通過して逃げれる事もある。

840日本@名無史さん2017/12/05(火) 06:24:08.19
>>839
子供の言い訳になってきたな

841日本@名無史さん2017/12/05(火) 06:33:19.99
>>839
襄平を捨てて公孫氏勢力のある奥地へ逃げ込まれるから厄介なんであって、公孫淵が敗戦流民になるなら征伐は完了

いずれどこかの国から、袁紹の息子みたいに、首級になって献上されてくるよ

842日本@名無史さん2017/12/05(火) 06:34:46.02
>>820
>>楽浪帯方の奪回は、景初2年6月よりも前であり、 司馬懿の遠征よりも前、という事になる。<

>四千里征伐発言のあった遠征会議は景初2年春正月だよ <

それは、「二年春正月、詔太尉司馬宣王帥衆討遼東」の詔書の話。
遠征御前会議ではない。

また、
君のいうように、
「丙寅、司馬宣王圍公孫淵於襄平、大破之、傳淵首于京都、海東諸郡平」
の「丙寅」が9月10日であったんなら、
司馬懿が遼東に入ったのは8月後半頃になり、
洛陽→遼東は100日なんだから、司馬懿の洛陽出発は、5月初め頃、という事になる。

843日本@名無史さん2017/12/05(火) 06:42:29.98
>>822
>もしかして 「遼水」と「遼河」と勘違いしてるのか? <

「遼水」と文言を言ったのは君であり、
私は、始めから「遼河」としか言っていないし、
「遼東は、遼河付近以東だ」としか言っていないんだよ。

>公孫度の時代になって、遼東郡を遼東、遼中、遼西の3郡に分けてる。
「遼水」→遼西郡→遼中郡→「遼河」→遼東郡の並びだ
公孫氏の領地は「遼水」以東〜楽浪・帯方郡まで、最盛期には山東半島の一部も支配した。<
渤海から黄海まで及ぶ広大な領域だよ <

しかし、半島二郡が征圧された時には、当然山東半島付近は、魏の支配地になっていただろう。

844日本@名無史さん2017/12/05(火) 06:49:53.86
>>842
>それは、「二年春正月、詔太尉司馬宣王帥衆討遼東」の詔書の話。
>遠征御前会議ではない。

往百日攻百日発言も、四千余里発言も
二年春条に付いた註だから、みんな遠征御前会議だね
討伐の証書が出た後に再審議があるわけない

845日本@名無史さん2017/12/05(火) 06:54:44.42
>>843
公孫淵が遼水を防衛線にする話をしたのは司馬懿

846日本@名無史さん2017/12/05(火) 06:57:25.89
>>842
>君のいうように、
>「丙寅、司馬宣王圍公孫淵於襄平、大破之、傳淵首于京都、海東諸郡平」
>の「丙寅」が9月10日であったんなら、
>司馬懿が遼東に入ったのは8月後半頃になり、

100日も遠路はるばる来てすぐ戦闘に入るなんてのは
古来愚かな作戦と言われる典型だよ

847日本@名無史さん2017/12/05(火) 07:07:21.22
>>842
仲達が遼東に着いたのは六月

848日本@名無史さん2017/12/05(火) 07:13:40.29
正月に討伐が決定したんだから
遅くとも三月に出発で妥当な線だね

849日本@名無史さん2017/12/05(火) 07:16:55.47
しばちゅー凄ぇ
スケジュール厳守男

850日本@名無史さん2017/12/05(火) 07:22:31.53
>>827
論破済み

851日本@名無史さん2017/12/05(火) 07:29:09.38
>>835
論破済み

852日本@名無史さん2017/12/05(火) 07:33:14.39
>>842
楽浪帯方戦闘軍は海船で行ってる
ちなみにいつ出発したか記事はないよ

853日本@名無史さん2017/12/05(火) 07:34:48.79
>>843
>「遼東は、遼河付近以東だ」としか言っていないんだよ。
公孫氏の領域は遼水以東

854日本@名無史さん2017/12/05(火) 08:12:21.76
>>853
遼水は遼河の意味でも使われるから、紛らわしいけどね

855日本@名無史さん2017/12/05(火) 08:19:24.85
つか、公孫氏の勢力範囲が遼河まで、であるわけがない
襄平が遼河沿いだもの

856日本@名無史さん2017/12/05(火) 08:43:58.21
>>823
>テレビ番組の告知です
にっぽん!歴史鑑定『邪馬台国はどこにあった?』 BS-TBS
2017年12月11日(月) 22時00分〜22時54分<

NHKや読売産経系の政府系べったりではなく、
TBSであっても、「邪馬台国」と書いているようじゃ、
始めから「嘘吐きダマシの通説」支持の「結論先にありき」が見え見えであり、
殆ど価値がない。

857日本@名無史さん2017/12/05(火) 08:53:13.40
>>856
お前が見なきゃいいだけだろ

858日本@名無史さん2017/12/05(火) 08:54:10.35
>>826
>>>魏の支配地だと征伐なんて起きないって理由は? オレ様がそう決めたから?<

>>人類の常識が決める。<

>それが常識だと、あなたはどうやって知ったの?<

これまで生きて来た経験と知見で知った。

>ほかの人は辞書を引いたりして、別のことが常識だと思っているのに<

そりゃおそらく、自分で考える事が出来ないようなアホなんだろうなあ。

859日本@名無史さん2017/12/05(火) 08:55:57.95
>>856
始めから「嘘吐きダマシの通説」だって「結論先にありき」のザラコク自体に
全く価値がない。

860日本@名無史さん2017/12/05(火) 08:58:28.77
>>858
>これまで生きて来た経験と知見で知った。

75年が虚しいな

861日本@名無史さん2017/12/05(火) 09:08:56.70
>>858
>これまで生きて来た経験と知見で知った。

素人おじんのどんな経験と知見が
辞書や学説を否定するんですか?

862日本@名無史さん2017/12/05(火) 09:19:30.87
「陛下今起軍征伐、軍有帯甲之労、民有轉輸之苦。」薛仁貴の上表文より

行軍も征伐のうち

863日本@名無史さん2017/12/05(火) 10:00:26.74
>>828
>失敗? 秦皇島から丹東まで570km
楽浪も支配下なんだから、遼東に王たる公孫氏の版図として大体okじゃないの?<

明帝も何晏もはっきり「遼東」と書いているんだから、
征伐目標地は遼東であり、公孫淵はその中にいるのだ、という認識であり、
秦皇島や丹東は、遼東ではないから、関係がない。

864日本@名無史さん2017/12/05(火) 10:05:14.28
>>858
>これまで生きて来た経験と知見で知った。

これまで生きてきた経験と知見で
中国語の意味がわかるの?
母国語?


>>ほかの人は辞書を引いたりして、別のことが常識だと思っているのに

>そりゃおそらく、自分で考える事が出来ないような>アホなんだろうなあ。

外国語の言葉の意味を
自分で考えちゃイカンだろうに

865日本@名無史さん2017/12/05(火) 10:07:36.30
>>863
ローマ帝国ってローマ市内だけだぁ

とか、言っちゃうタイプ?


w

866日本@名無史さん2017/12/05(火) 10:19:11.63
>>829
>>まず、梁代の「里の概念が違う本」の記載は、魏志と「同じ度量衡だ」、
とは言えないし、<

>それ、古田の単純ミスって証明されてたよな <

この頃の古田さんは、
「魏西晋朝の短里」説で明確であったんだから、古田さんの単純ミスなんて、なかったし、
こっの投稿も、
この男が、詐術的なヘイトスピーチをする・・・・サギシである、
という事も証拠なんだろうなあ。

867日本@名無史さん2017/12/05(火) 10:20:00.41
>>863
>明帝も何晏もはっきり「遼東」と書いているんだから、

公孫淵の本拠襄平は遼東にあるんだから当然そうだよ


>征伐目標地は遼東であり、公孫淵はその中にいるのだ、という認識であり、

征伐の起兵地点は洛陽で、当面の攻略目標は襄平
奥地に逃げ込まなければ、ね
それが、どうしたの?
出征してから討伐が終わるまで、正確に言えば公孫淵の首を洛陽で晒すまでが征伐だよ

そして、遼東がどこだかは、公孫淵の勢力範囲とは関係ない

868日本@名無史さん2017/12/05(火) 10:23:22.14
以前から書いているけど

『阿智 百済』〜『メトロイド サムス』合致しているでしょ?

調べてみると『オモイカネ』という言葉が出てきたり

869日本@名無史さん2017/12/05(火) 10:24:09.16
>>866
でも、梁代の「里の概念が違う本」とかいう話は
上の方で誰かが古田の単純ミスって指摘してて
誰も反論してないから
それで決まりなんでしょ?

870日本@名無史さん2017/12/05(火) 10:25:08.19
>>868
軽い金などない

871日本@名無史さん2017/12/05(火) 10:26:28.20
まいく・オーの某曲(MV)

イルカが出てきたり、海底に沈んだり、鳳凰・・・

872日本@名無史さん2017/12/05(火) 10:28:32.13
ドラゴンボールでいうと
『ドクター・ゲロ』とか、同じようなコンセプトじゃない?

873日本@名無史さん2017/12/05(火) 10:34:45.82
>>832
>>また「4000余里」とは「4000里以上である」のに、
「3600里」は「4000里以下」であるから違う。<

>「3600里」は襄平までの距離にピッタリ <

明帝は「四千里征伐」発言であるし、何晏は「四千余里」発言であるから、
「3600里」とは、始めから、違っており、
ピッタリでは全くない。

>「4000余里」は奥地まで逃げ込んで徹底抗戦された場合にピッタリ
作戦会議で出る言葉としてなにも問題ない <

「四千里」も「四千余里」も、
始めから「遼東での征伐距離」として述べられているんだから、
「洛陽〜遼東」間の距離とした解釈そのものが✖。

874日本@名無史さん2017/12/05(火) 10:34:48.01
ザラコクは自分で

>>601
>古田第1書の193頁の地図では、四千里の比定地は、
>遼東半島の付け根の渤海の西端付近から東端までの距離だ、という推定だ。

と書いている
矛盾

875日本@名無史さん2017/12/05(火) 10:36:01.64
サムス?

クチの、この辺りにホクロがあったり
『口.』

昔からそうだったのかな、
それとも最近わかったことなのかな

876日本@名無史さん2017/12/05(火) 10:36:43.99
>>873
「遼東での征伐距離」だなんて
史料のどこにも書いてないな
捏造はダメ

877日本@名無史さん2017/12/05(火) 10:40:44.97
これも本当の話

もれ(仮)は、むかーしから知っていたけど

これも同じ人物だと思う
『コーエー 女天狗』

878日本@名無史さん2017/12/05(火) 10:44:15.56
>>833
>>古田四千里は韓の(島々も含めた)東西幅位で、短里だから、300km位だ。<

>計算根拠は?<

魏志と現代地図。

879日本@名無史さん2017/12/05(火) 10:45:38.14
史料にはっきり
「遼東 、帶方、樂浪、玄菟悉平」
とあるんだから討伐を受けたのが
遼東だけじゃないことは確定してる

880日本@名無史さん2017/12/05(火) 10:46:49.94
>>878
それ、計算根拠じゃないけど

881日本@名無史さん2017/12/05(火) 10:49:56.07
『サイバーパンクspecial』

「七人のこども 七人のこども」
「みんなガラスの管のなか」と言っていたり

ロトちゃんというキャラクターが出てくる作品

882日本@名無史さん2017/12/05(火) 10:53:16.93
同じような話なのかな

>阿智王が来朝した時に七姓の人々(七つの氏族)をつれて来たとあり、
>その七姓とは朱・李・多・皀郭・皀・段・高の名が記されています。

883日本@名無史さん2017/12/05(火) 10:53:26.25
古田が「征伐」という言葉の意味を歪曲変造して
自らの珍説を守ろうと画策していたことは
理解した

884日本@名無史さん2017/12/05(火) 10:56:05.60
>>834
またオウム返しか
脳が鳥並みなんだな

885日本@名無史さん2017/12/05(火) 11:03:09.64
ロトちゃんというキャラクター、
なぜか川崎区の南部のほうに住んでいるし・・・・

886日本@名無史さん2017/12/05(火) 11:30:16.04
右眼の無い人物、
伊達政宗のようなキャラが出てきて

カメラアイ、ガラスの眼、瞳が何やら〜メモリーズ?

887日本@名無史さん2017/12/05(火) 11:32:20.19
>>837
>>魏志の(討伐)区間は、ほぼ「遼東」。<

>証拠は?><

二年春正月、詔太尉司馬宣王帥衆討遼東。

888日本@名無史さん2017/12/05(火) 11:37:23.78
>>887
遼東郡と言ってないからダメだな
根拠にならない

889日本@名無史さん2017/12/05(火) 11:41:06.21
調べてみるとわかる、老婆は詳しい

牛肉が何やらと言っていたり、
肉も食べなかったとか

キュウリのような葉、葱の華・・・・などの写っている人の写真の話、
家の写真なんだけど、何だったんだろう

890日本@名無史さん2017/12/05(火) 11:47:45.67
>>887
公孫度は平州牧を自称したし、公孫淵は燕王を自称したが、魏としては公孫淵を揚烈将軍遼東太守としてしか認めてないんだから、遼東を討つという表現になるさ
当然ながら、遼東しか討伐しないなんて話にはならない

891日本@名無史さん2017/12/05(火) 11:49:54.29
>>383
>>後代の違う度量衡の梁代の注書きでは、論拠にもならない。<

>はい、循環論法。 ザラコクの負け。<

はい、後代の違う度量衡の梁代の注書きを論拠にをした瞬間に、循環論法。
「南→東」などの史料事実の否定曲解の循環論法の大和説者の負け。

892日本@名無史さん2017/12/05(火) 12:00:17.24
>>841
>襄平を捨てて公孫氏勢力のある奥地へ逃げ込まれるから厄介なんであって、
公孫淵が敗戦流民になるなら征伐は完了
いずれどこかの国から、袁紹の息子みたいに、首級になって献上されてくるよ<

子供の言い訳みたいになって来たな。
「征伐」出来なければ、失敗。

893日本@名無史さん2017/12/05(火) 12:00:38.69
>>873
論破済み

894日本@名無史さん2017/12/05(火) 12:02:41.64
かなり昔の話の話になるんだけど、
zigyyというバンド?

蜘蛛助みたいだなと言っていた事があったり、
蚕、機織りの話をしていた事もあった

895日本@名無史さん2017/12/05(火) 12:05:44.30
老婆の旧姓:渡辺

蜘蛛との関係?何かあるのかな

896日本@名無史さん2017/12/05(火) 12:06:10.08
>>844
>>それは、「二年春正月、詔太尉司馬宣王帥衆討遼東」の詔書の話。
遠征御前会議ではない。<

>往百日攻百日発言も、四千余里発言も 二年春条に付いた註だから、みんな遠征御前会議だね
討伐の証書が出た後に再審議があるわけない><

詔書と御前会議は、当然(時系列的に)別のもの。
それをお前は、一緒にする、という嘘吐きダマシをした、
という事になる。

897日本@名無史さん2017/12/05(火) 12:15:28.66
その当時w
蜘蛛助とはどういう意味なのかと
聞いてみたんだけど


あのような髪をしていたり、
服を着ているのは蜘蛛助と、昔から言うんだよ


それだけ

898日本@名無史さん2017/12/05(火) 12:20:20.49
就業時間中に社用PCからネット書き込みに励む問題経営者

899日本@名無史さん2017/12/05(火) 12:26:35.93
公孫淵側は遼隧を20余里の環濠で補強するけど、古田でたった1キロ半?
ってことは直径500m?
そんなちっこい砦で、魏軍4万を食い止める気だったの?

公孫淵ってアホですか?


いえ、アホは古田信者です

900日本@名無史さん2017/12/05(火) 12:29:01.95
>>896
討伐命令だしたあとに、どうして御前会議するの
アホですか

901日本@名無史さん2017/12/05(火) 12:38:27.90
>>896
理由もなく別のものって言い張るのは、人としてどうよ?

902日本@名無史さん2017/12/05(火) 12:44:24.29
これも数年前の話になるんだけど、
探偵eyeというドラマがなかった?

903日本@名無史さん2017/12/05(火) 12:50:08.62
>>896
仲達に公孫淵を討伐させる詔を出した後に
仲達に公孫淵を討伐させるかどうか議するとか
発狂してないと思いつかないね

904日本@名無史さん2017/12/05(火) 14:09:58.57
この話なのかな、なんで詳しいんだろう

『秦氏 松尾 大山』

905日本@名無史さん2017/12/05(火) 14:20:46.32
松尾の大山咋神は何故に松尾と比叡山に祀られていたのだろうか?
日本書紀や古事記によると日吉山は大山咋神の住まう所となっており、延暦寺が創設される前から叡山の麓には大山咋神が鎮座していた事がわかる

謎の多い神様だな

906日本@名無史さん2017/12/05(火) 14:35:08.31
あらすなよ

907日本@名無史さん2017/12/05(火) 14:46:12.03
これは、どういう事なんだろう

『ボーボボ 田ボ』〜『聖化 日神 日霊 津』

ほとんど同じような話

908日本@名無史さん2017/12/05(火) 14:48:38.08
『ムー帝国 太陽の紋章』

ここを読んでみて「ザ・モモタロウ 7巻」

909日本@名無史さん2017/12/05(火) 14:53:14.17
玉葱?じゃないのかもしれないけど


あの写真を見ていて、
これは葱の華だと言っていたよ

老婆談

910日本@名無史さん2017/12/05(火) 15:07:43.90
『松傾』と同じ家(系統が違う?)だと言っているけど

昔、この辺りに住んでいた事があるんだよとか
『山王宮 山王院』

911日本@名無史さん2017/12/05(火) 15:33:20.66
とあるスレを読んでみて


「誰々は、川崎に住んでいるんじゃないの」
みたいな事を言っているから、おそらく川崎区の事を言っているんだと思う

912日本@名無史さん2017/12/05(火) 15:50:13.79
>>905
守山の伊勢遺跡に近いからね。

30もの首長が集っていた。
大山咋神もその一つかもしれない。

倭国大乱前の元々の山城〜琵琶湖南西部の勢力じゃないかな?

913日本@名無史さん2017/12/05(火) 17:33:03.36
>>859
>始めから「嘘吐きダマシの通説」だって「結論先にありき」のザラコク自体に
全く価値がない。<

「通説が嘘吐きダマシ」である事を宣伝してくれて、有難う。

914日本@名無史さん2017/12/05(火) 17:41:19.27
>>861
>>これまで生きて来た経験と知見で知った。<

>素人おじんのどんな経験と知見が 辞書や学説を否定するんですか<

辞書も学説も半分×書として参考書にして、
中高校から読んで来た本や、60歳を越えてから始めたPC情報の知見と、
人類の常識的な史料批判に拠って。

915日本@名無史さん2017/12/05(火) 17:45:15.90
>>862
>「陛下今起軍征伐、軍有帯甲之労、民有轉輸之苦。」薛仁貴の上表文より<

これの出典は?。

>行軍も征伐のうち<

「軍有帯甲之労、民有轉輸之苦」は、「征伐」行為ではない。

916日本@名無史さん2017/12/05(火) 17:49:37.53
こういう奴は無視した方がいいと思うよ

917日本@名無史さん2017/12/05(火) 18:07:44.82
>>865
>>これまで生きて来た経験と知見で知った。<

>これまで生きてきた経験と知見で 中国語の意味がわかるの?<

大学時代に、10か国語位の文献を、辞書片手に、
一語一語逐次式に前後の関係を考えながら読んで行ったら、
理解出来てレポートが書けた。
漢文は、中高で少し読んでいたから、楽であった。

>母国語?<

現代中国文字は、殆ど知らんよ。

918日本@名無史さん2017/12/05(火) 18:43:20.55
>>867
>出征してから討伐が終わるまで、正確に言えば公孫淵の首を洛陽で晒すまでが征伐だよ<

そういう、一見平等そうに見える屁理屈はダメだよ。
ウエートや確率が全く違う。
「征伐」という文言の示す内容は、
殆どが「対象を伐する」という事自体にあるんであり、
その場所へ行く行為は、補助的な事にしか過ぎないんだよ。

一見公平そうに客観的そうに見える解釈をして、
確率が非常に低い事を、確率が十分にあるかのように言いくるめて、
世間の人々を騙して来たのが、大和説。

919日本@名無史さん2017/12/05(火) 18:51:16.98
>>918
論破済み

920日本@名無史さん2017/12/05(火) 18:54:43.03
>>879
>史料にはっきり 「遼東 、帯方、樂浪、玄菟悉平」 とあるんだから
討伐を受けたのが 遼東だけじゃないことは確定してる<

全くのアホサギシだなあ。
まずその文の出典は何なんだい?。何故出さないんだい?。
そして、見ただけでも 「帯方、樂浪」は、司馬懿が征伐したのではない事が判るから、
その「平」の主語は、司馬懿ではない。
という事なら、玄菟も怪しくなる。

全く、大和説者って人種は、アホサギシばっかりだねえ。

921日本@名無史さん2017/12/05(火) 18:54:55.42
新スレ立てました。
http://2chb.net/r/history/1512464789/

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

★★★★<重要なお知らせ>★★★★
1 ◆q8leUXpsw. は今後、トリップを
1 ◆UiepmfCeDJqf に変更します。
★★★★★★★★★★★★★★★★★
識別かたよろしくお願いします。
 
 

922真スレ主は次スレ立ててない2017/12/05(火) 19:33:23.78
>>921は似非スレ主

923日本@名無史さん2017/12/05(火) 19:55:00.78
奥山のバカ 奥山のバカ 奥山のバカ 
奥山のバカ 奥山のバカ 奥山のバカ 
奥山のバカ 奥山のバカ 奥山のバカ 

奥山のバカ 奥山のバカ 奥山のバカ 
奥山のバカ 奥山のバカ 奥山のバカ 
奥山のバカ 奥山のバカ 奥山のバカ  👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f)

924日本@名無史さん2017/12/05(火) 19:56:49.32
奥山のバカ 奥山のバカ 奥山のバカ 
奥山のバカ 奥山のバカ 奥山のバカ 
奥山のバカ 奥山のバカ 奥山のバカ 

奥山のバカ 奥山のバカ 奥山のバカ 
奥山のバカ 奥山のバカ 奥山のバカ 
奥山のバカ 奥山のバカ 奥山のバカ  👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f)

925日本@名無史さん2017/12/05(火) 19:57:20.30
奥山のバカ 奥山のバカ 奥山のバカ 
奥山のバカ 奥山のバカ 奥山のバカ 
奥山のバカ 奥山のバカ 奥山のバカ 

奥山のバカ 奥山のバカ 奥山のバカ 
奥山のバカ 奥山のバカ 奥山のバカ 
奥山のバカ 奥山のバカ 奥山のバカ  👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f)

926日本@名無史さん2017/12/05(火) 20:01:45.48
新スレは
http://2chb.net/r/history/1512464789/
で間違いないようだ

927subo2017/12/05(火) 20:20:46.02
羽生永世7冠キターーーーーーー

928日本@名無史さん2017/12/05(火) 20:25:10.58
奥山先生ちーす

929日本@名無史さん2017/12/05(火) 20:37:44.17
もう埋めようか

930日本@名無史さん2017/12/05(火) 20:40:32.20
1の本名が奥山と判明

931日本@名無史さん2017/12/05(火) 20:55:03.51
32 1 ◆q8leUXpsw. 2017/12/05(火) 18:27:05.16

1#okuyama
↑これか?

932日本@名無史さん2017/12/05(火) 21:03:33.18
まさ

933日本@名無史さん2017/12/05(火) 21:05:50.76
よし、真スレたったか

934日本@名無史さん2017/12/05(火) 21:29:48.92
>>1
速く本スレ立ててくれよ
ハエがうるさい

ここは埋めとくから

935日本@名無史さん2017/12/05(火) 21:30:07.81
埋め

936日本@名無史さん2017/12/05(火) 21:30:24.98

937日本@名無史さん2017/12/05(火) 21:30:42.07

938日本@名無史さん2017/12/05(火) 21:30:57.39

939日本@名無史さん2017/12/05(火) 21:32:09.97
ちょっと待て
埋めすぎたら
次スレ立てる暇がない

940日本@名無史さん2017/12/05(火) 21:32:44.06
梅干し」

941日本@名無史さん2017/12/05(火) 21:33:24.95
連投規制無いね

942日本@名無史さん2017/12/05(火) 21:34:29.93
テンプレ嫁

943日本@名無史さん2017/12/05(火) 21:36:31.07
えんじょーしとる?
プチ祭り?
いぬがみせんせー今北三行(きんいんでもでたか

944subo2017/12/05(火) 21:39:39.58
奥山というのは奥山誠義のことか?

945日本@名無史さん2017/12/05(火) 21:40:35.34
>>899
いえやすくんもそれくらいの小山の砦で10まんむかえうっとるなー(こまきやま(こうそんくんのはそんなちゃちやったかどーかはしらんが
つうかこのすれどうかした?

946subo2017/12/05(火) 21:41:28.32
>>943
何か知らんけどテンプレが奥山に乗っ取られたとか、どうでもいいことだけど

947日本@名無史さん2017/12/05(火) 21:43:08.69
とりばれしたかー(つれも数年前にりゅーしゅつじけんでほんみょーばれとった^^(まーあんまりゆーたるな(こうこずきのなかまどーしやん

948日本@名無史さん2017/12/05(火) 21:45:26.96
>>944
なんじゃらけんきゅーしょのひとやな(ほっといたれ(やらされてたんやろ

949subo2017/12/05(火) 21:49:11.65
最近はニュー速+に出入りしてる、歴史ネタが時々立つし

950日本@名無史さん2017/12/05(火) 21:52:19.10
ニカワさんコテハンかえたんかの?
去年よーたてとったひと(あのころこの板みつけました

951日本@名無史さん2017/12/05(火) 22:08:01.75
奥山誠義
オクヤマ マサヨシ / okuyama, masayoshi

研究者情報

研究者番号
日本の研究.com 研究者ID 日本の研究.com : 188804

科研費研究者番号 :  90421916

所属
2017年度
(平成29年度) • 奈良県立橿原考古学研究所 その他部局等 指導研究員
• 奈良県立橿原考古学研究所 資料課 指導研究員
※日本の研究.com内の研究課題情報などから、最近の所属情報を取得しています。研究者の現在の所属とは異なる場合があります

952日本@名無史さん2017/12/05(火) 22:24:22.05

953日本@名無史さん2017/12/05(火) 22:28:56.28
>>952
あーs−いうのやばいよ?(てきとー
つーかうえのひとにやらされてたに1まんぺそ

954日本@名無史さん2017/12/05(火) 22:36:38.18
しゃーないな
三国志の話にでもからもーか(よんだの10ねんまえや
巻3のはなしや?

955日本@名無史さん2017/12/05(火) 22:42:44.80
二年春正月,宣王攻破新城,斩达,传其首

956日本@名無史さん2017/12/05(火) 22:43:43.47
ちゅーたつか

957日本@名無史さん2017/12/05(火) 22:45:13.23
正月からぶっそうやのー

958日本@名無史さん2017/12/05(火) 22:56:24.20
丙寅,司马宣王围公孙渊於襄平,大破之,传渊首于京都,海东诸郡平。

959日本@名無史さん2017/12/05(火) 22:56:58.98
ここらへん?

960日本@名無史さん2017/12/05(火) 23:01:07.48
あーやっぱり兵站コストのはなしや^^
らくよーからのきょりやね?(かいけつ
ちなみに小牧長久手そっくり?
結果は逆やが(おそるべきはほんだとあんどー

961日本@名無史さん2017/12/06(水) 02:08:50.36
奥山のバカ 奥山のバカ 奥山のバカ

962日本@名無史さん2017/12/06(水) 02:09:28.95
奥山のバカ 奥山のバカ 奥山のバカ

963日本@名無史さん2017/12/06(水) 02:11:18.32
奥山のバカ 奥山のバカ

964日本@名無史さん2017/12/06(水) 02:15:33.39
奥山先生ちーす

965日本@名無史さん2017/12/06(水) 02:17:43.08
特報
1の本名が奥山と判明

966日本@名無史さん2017/12/06(水) 02:18:47.47
奥山先生ちーす

967日本@名無史さん2017/12/06(水) 02:36:47.06
奥山先生ちーす

968日本@名無史さん2017/12/06(水) 02:37:30.80
奥山先生ちーす

969日本@名無史さん2017/12/06(水) 02:37:57.90
奥山先生ちーす

970日本@名無史さん2017/12/06(水) 02:38:52.35
奥山のバカ

971日本@名無史さん2017/12/06(水) 04:53:31.16
奥山先生ちーす

972日本@名無史さん2017/12/06(水) 04:54:09.11
奥山先生ちーす

973日本@名無史さん2017/12/06(水) 04:54:39.29
奥山先生ちーすちーす

974日本@名無史さん2017/12/06(水) 04:55:12.74
奥山のバカ

975日本@名無史さん2017/12/06(水) 05:20:43.97

976日本@名無史さん2017/12/06(水) 05:26:35.76

977日本@名無史さん2017/12/06(水) 06:03:15.83
奥山先生ちーすちーす

978日本@名無史さん2017/12/06(水) 06:04:07.98

979日本@名無史さん2017/12/06(水) 06:12:47.06
>>958
征伐対象は遼東じゃなくて海東だな
公孫淵の王国だから

980日本@名無史さん2017/12/06(水) 06:20:18.56
梅沢富美男

981日本@名無史さん2017/12/06(水) 07:09:12.05
>>960
>あーやっぱり兵站コストのはなしや^^
らくよーからのきょりやね?(かいけつ <

どさくさに紛れて、世間の人々を騙そうとするなよ、
「南→東」の嘘つき騙しの大和説の詐欺師男さん。
「征伐」という文言は、
対象を「切り倒す」事自体を中心的な表現目的とする文言であり、
「洛陽からの兵站コスト」は、殆ど問題にしていない、
という実態は、
否定したり誤魔化す事は出来ないんだよ。

982日本@名無史さん2017/12/06(水) 07:22:01.42
>>979
>征伐対象は遼東じゃなくて海東だな 公孫淵の王国だから<

また、嘘つき騙しの大和説の・・・・詐欺師が出て来た!。
世間の皆様、魏志には征伐対象をは「遼東」だと、はっきり書かれているんですよ。

それを、大和説詐欺師は「海東」とすり替えて、楽浪帯方付近までに広げて、
古田説の「遼東の東西≒4000里」説を、否定しよう、
と目論んでいる。

983日本@名無史さん2017/12/06(水) 07:25:29.32
議臣皆以為四萬兵多、役費難供。

兵站コストの議論をしている

984日本@名無史さん2017/12/06(水) 07:28:14.30
>>981
もともと「洛陽からの兵站コスト」の問題を議論している
という実態は、 否定したり誤魔化す事は出来ないんだよ。

985日本@名無史さん2017/12/06(水) 07:33:36.07
丙寅、司馬宣王囲公孫淵於襄平、大破之,
伝淵首于京都、海東諸郡平。
冬十一月、録討淵功、太尉宣王以下増邑封爵各有差。
初、帝議遣宣王討淵発卒四万人。
議臣皆以為四万兵多、役費難供。
帝曰「四千里征伐、雖云用奇,亦当任力。不当稍計役費」
遂以四万人行。

平定対象は海東諸郡
議論の議題は兵站コスト

986日本@名無史さん2017/12/06(水) 07:34:56.34

987日本@名無史さん2017/12/06(水) 07:47:03.06
丙寅、司馬宣王囲公孫淵於襄平、大破之,
伝淵首于京都、海東諸郡平。              ←海東の諸郡が平定された
冬十一月、録討淵功、太尉宣王以下増邑封爵各有差。
初、帝議遣宣王討淵発卒四万人。
議臣皆以為四万兵多、役費難供。            ←兵站コストの議論
帝曰「四千里征伐、雖云用奇、亦当任力。不当稍計役費」 ←採算度外視を決定
遂以四万人行。

988日本@名無史さん2017/12/06(水) 07:52:54.28
>>982
>古田説の「遼東の東西≒4000里」説を、否定しよう、

明らかにインチキな言い訳説だから、否定しよう

989日本@名無史さん2017/12/06(水) 08:00:19.01
>>982
>世間の皆様、魏志には征伐対象をは「遼東」だと、はっきり書かれているんですよ。

どこに?

990日本@名無史さん2017/12/06(水) 08:03:27.98
ここが崩れると、古田説は崩壊ですな

991日本@名無史さん2017/12/06(水) 08:05:45.67
魏志に征伐対象を「遼東」だと、はっきり書かれている
というのはデマ

992日本@名無史さん2017/12/06(水) 08:08:52.84
景初二年の宮廷で
1里=約400m前提の議論がされてたんだからな

993日本@名無史さん2017/12/06(水) 08:10:32.42
奥山埋め

994日本@名無史さん2017/12/06(水) 08:10:56.24
奥山埋め

995日本@名無史さん2017/12/06(水) 08:11:16.47
奥山埋め

996日本@名無史さん2017/12/06(水) 08:11:36.22
奥山埋め

997日本@名無史さん2017/12/06(水) 08:11:53.28
奥山埋め

998日本@名無史さん2017/12/06(水) 08:12:08.64
奥山埋め

999日本@名無史さん2017/12/06(水) 08:12:30.12
奥山のバカ 奥山のバカ 奥山のバカ

1000日本@名無史さん2017/12/06(水) 08:12:56.13
奥山説 崩壊

-curl
lud20200302095234ca
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