11 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:13:52.01
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://2chb.net/r/history/1530589490/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 21 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:17:59.76
◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
31 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:18:34.75
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
41 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:19:02.24
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
51 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:20:09.23
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
61 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:20:32.05
◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
71 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:20:59.49
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
81 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:21:21.11
◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
91 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:21:43.45
◆6−3
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
101 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:22:15.93
◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
111 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:22:44.57
◆7−2
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
121 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:23:11.03
◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
131 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:23:35.80
141 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:23:59.81
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、桜井茶臼山、黒塚、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山
151 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:24:23.04
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
161 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:24:44.77
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。
171 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:25:12.56
◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
181 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:25:50.85
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
191 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:26:16.00
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
201 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:26:40.21
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
211 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:27:15.26
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。
221 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:27:46.66
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原型とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
231 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:28:11.53
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
241 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:28:40.30
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東近くに所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
251 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:29:06.98
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
261 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:29:35.48
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
271 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:30:04.60
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 281 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:30:48.08
◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部に盛土がないこと等
291 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:31:55.33
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。
301 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:32:43.96
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
311 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:33:26.77
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。
321 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:33:51.91
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。
331 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:35:54.40
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
341 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:36:14.44
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
351 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:36:48.32
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
361 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:37:16.87
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
371 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:37:45.11
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
381 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:38:09.78
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
391 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:38:30.57
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
401 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:38:58.75
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
411 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:39:27.02
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 421 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:40:09.12
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
431 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:40:39.91
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
441 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:41:03.78
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
451 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:41:29.95
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
461 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:41:54.96
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
471 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:42:17.30
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
481 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:43:11.42
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
491 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:43:34.40
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
501 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:44:03.24
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
511 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:44:32.69
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
521 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:44:58.76
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
531 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:45:24.95
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
541 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:45:53.97
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定
551 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:46:21.61
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 561 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:46:46.72
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
571 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:47:10.34
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
581 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:47:55.04
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上)
591 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:48:21.88
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
601 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:48:58.14
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
611 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:49:19.79
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
621 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:49:53.80
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
631 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:50:48.39
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百x四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
641 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:51:15.14
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 651 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:51:39.53
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で3世紀末か4世紀だろう! 奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。黒塚も3世紀とされる。黒塚築造年代の根拠は近刊の報告書入手後に詳説したい。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て築造年代を纏向3類中葉とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と比べて劣後しない。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
661 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/06(金) 09:52:05.27
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 なし
67日本@名無史さん2018/07/06(金) 10:03:28.80
いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、
68日本@名無史さん2018/07/06(金) 10:03:58.20
>>67
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 69日本@名無史さん2018/07/06(金) 10:04:29.13
>>68
あれでしょ、、、あれ、あそこに埋もれてたあれ、
先頭のお役所の方は気づかなかったようだけど、、、 70日本@名無史さん2018/07/06(金) 10:04:53.45
>>69
そうそう。あれを最初に目にしたあの人が、機転を利かせて足元の枯葉を蹴り掃いて覆ったけど、、、 71日本@名無史さん2018/07/06(金) 10:05:20.56
72日本@名無史さん2018/07/06(金) 10:05:42.10
>>71
でも、結構な数の研究者の目に留まっちゃったんだよね。。。 73日本@名無史さん2018/07/06(金) 10:06:07.74
将来を嘱望されている、有能な若手学者がフェードアウトしていく、きっかけになった2013年の調査からこのかた、急に畿内説の素人や学芸員レベルの爺さんのネットでのつぶやきが危地外じみてきたね
有能な若手考古学者を繋ぎとめるために、ポストをちらつかせるのが常套手段だが、大和王権を扱う若手の学者たちは、邪馬台国問題からは距離を置きたがっている
74日本@名無史さん2018/07/06(金) 10:06:22.20
大和王権を扱う優秀な若手の学者達にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。
75日本@名無史さん2018/07/06(金) 10:06:42.06
2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、しかし、一部の良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、
76日本@名無史さん2018/07/06(金) 10:06:52.61
近畿は元々縄文系勢力も渡来人系勢力も仲良く暮らしていた。
温暖で河内湖の水資源も豊かで稲作も盛んになり、豊かな地域に発展したんだろう。日本書紀でいう食国、芦原中津國。
スサノオが豊かな田に嫉妬して度々荒らしにきたとあるだろう。近畿周辺の東海や山陰の勢力が嫉妬したんだな。
そして征伐に来る。
倭国大乱、近畿征伐、記紀でいう神武東征だよ。
結果できたのが、山陰と東海の勢力を中心とした大和朝廷だよ。
近畿は大和朝廷の最初の討伐ターゲットだったんだな。
大和朝廷は4世紀前後四道将軍で関東東北を征伐する。
大和朝廷に虐げられていた元々の近畿の勢力、関東の先住民が手を結び、神功皇后応神を旗頭にして大和朝廷の旧勢力に叛旗を翻すんだよ。
藤原氏の守り神が関東の人々であるように、近畿と関東は同盟関係だったんだな。
77日本@名無史さん2018/07/06(金) 10:07:01.46
不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。
78日本@名無史さん2018/07/06(金) 10:07:23.34
畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。
79日本@名無史さん2018/07/06(金) 10:07:43.45
畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。
纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。
記紀にもヤマト征伐によって大和朝廷が始まる様子が記述されている。
畿内征伐によって誕生した大和朝廷の主体は、尾張、出雲、吉備。
次に考古学的に大きな変化があるのは4世紀後半。 大きな政権交代があったんだろう。
神功皇后応神に該当する時代。
記紀や各地の伝承。
忍熊皇子の討伐、飛騨の顔が二つ頭が一つの怪物を討つエピソードがあったり、出雲の生馬の神がもう荒ぶらないと宣言したり。
神功皇后が三韓征伐の往路復路で、八雷神に似た頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話があったり。
纒向遺跡の外来系土器の中心、東海(飛騨の怪物)、山陰(出雲の生馬の神、牛荒神の木)、吉備(塵輪鬼)が討たれるエピソードばかり。
全て牛というキーワードが共通する。
同時代の若草山山頂古墳。かつては牛塚と呼ばれていた。牛頭天王と何か関係あるのかもしれない。
80日本@名無史さん2018/07/06(金) 10:08:22.30
>>78
信仰すること自体に喜びを見出した、畿内説が破綻していることを認めたくない、頑固な老人信者たちにも、畿内説以外の信仰対象がたくさんあることを、教えてあげられるっていうメリットもありそう。 81日本@名無史さん2018/07/06(金) 10:08:46.47
かつてなにわの大坂城の地にあった生國魂神社。
神武東征の際に生島神と足島神を鎮魂したという謂れが残っている。
畿内征伐の際に真っ先になにわは制圧されたんだろう。
魏志倭人伝当時は既に、邪馬台国卑弥呼、大和朝廷に支配されていたと思われる。
卑弥呼と対立する狗奴国卑弥弓呼。
魏志倭人伝当時の邪馬台国の南の狗奴国は、河内と和泉だろう。
狗奴国の官、狗古智卑狗は河内彦。
武埴安彦の祖父、河内青玉繋だろうな。
神功皇后、応神のエピソードは、
尾張出雲吉備を中心とした邪馬台国体制(初期の大和朝廷)に対するクーデターだな。
大和朝廷に虐げられていた九州北部、畿内、関東の先住民が手を結び立ち上がったんだろう。
かつてのクナ国体制側の反撃とも言える。
82日本@名無史さん2018/07/06(金) 10:08:52.94
>>80
なるほど、畿内説信者さんたちに、次の信仰の対象を選んでもらうわけね。
でも、選ばれた説の論者には、負け組や、疫病神に取りつかれたようで、かえって不気味、、、 83日本@名無史さん2018/07/06(金) 10:09:43.77
魏志倭人伝
邪馬台国の官
官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。
伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。
邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。
出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。
出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。
ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。
邪馬台国の官の筆頭
伊支馬。これがどういう勢力か解明できれば、邪馬台国卑弥呼に近付ける気がする。
伊支馬、生駒、生馬、伊熊、猪熊、生目などの地名が、ヤマト、出雲、三河、遠賀川、宮崎に見られる。
何か関係あるのか?
84日本@名無史さん2018/07/06(金) 10:10:56.00
鳥取県の上石見に伝わる伝承。
牛鬼伝説の中でも、一番古いものじゃないかな。
孝霊天皇が牛鬼を討つ話。
上の岩を見よと言って牛鬼を倒す。
ここでは、牛鬼は石に倒されるんだな。
次に神功皇后。
瀬戸内海で神功皇后が住吉明神と、頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話。敗れた牛鬼に似た塵輪鬼はバラバラになり、島々になるとある。八雷神と似ている。
その後は西日本各地で様々な時代の牛鬼伝説。
共通しているのは、
◎牛鬼は海や水辺に現れる。
◎牛鬼は磯女と一緒に現れる。
◎牛鬼の子供は石である。
同じようなこととして、牛鬼に「石は流れる、葉は沈む」などあべこべなことを言うと助かる。
◎また火に関するものもある。
牛鬼は老いた椿という言い伝え。古い海神ということか。
見えてくるストーリー。
牛鬼(古い海神)は孝霊天皇の時代に石にやられた。
海神の姫達は、石の子を産むようになった。
神功皇后の時代に、瀬戸内海の牛鬼に似た塵輪鬼が倒され海賊になった。
85日本@名無史さん2018/07/06(金) 10:12:04.64
やっぱりシラ、白が重要なキーワードな気がする
しら、おしらさま、白日、天白、しらぬひ、
おしらさま伝承は伊勢以東、東海を中心に東北まで分布
白澤、人面の牛、牛妻
白も牛と繋がってくる
新羅も本来はシラ
白根か、島根、鳥取→新羅、神奈川、埼玉
86日本@名無史さん2018/07/06(金) 10:13:04.96
歴史を凝縮した歌かな
真十鏡 可照月乎 白妙乃 雲香隠流 天津霧鴨
87日本@名無史さん2018/07/06(金) 10:14:17.28
杵築大社の天井図。八雲が一つ欠け七つしかないだろ。 あれは、紀元前後出雲地方の内乱の結果、神庭にいた出雲の王族が追放されたから。
出雲地方で元々信仰されていたのは、姫神の幸神、東!から来て文物をもたらしたクナトの神。そしてその子のサルタヒコ。 サルタヒコ一族は、オオナムチに破れるんだな。 そして、畿内など各地に逃げ延びる。
加茂岩倉遺跡との同笵銅鐸が各地で出ている。
猿田彦で注目すべきは最初に出会った場所。
天の八衢。
道が幾つにも別れる処、方違。
面白いことに上町台地と泉北丘陵の間に方違神社がある。なにわ、和泉、河内、淡の境。
その近傍にイシズ川。サルタヒコが消えたのはイスズ川の川上。
猿田彦が溺れたとされるのが、阿邪訶の海。
方違神社のすぐ北がアサカ、浅香。
浅香の北がオサカ、大阪。
浅香の南、泉北丘陵にコサカ、小坂。
伊勢と同じものが揃っているんだな。
凄い偶然。
更にサルタヒコはヒラブカイに挟まれて亡くなるとある。
泉北丘陵、イシズ川を遡った地に平井と深井という弥生時代から立地が変わっていない集落がある。
平井と深井の間が弥生時代の鈴の宮遺跡。
サルタヒコは最後はこの辺りに逃れていて、殺されたんだろう。
サルタヒコ。
出雲族の姫神幸神と、倭人の彦神クナトの神の子。
倭人と出雲族の同盟の証。
月夜見にして大国主、狗奴国の卑弥弓呼。日見彦。
津ツはノという意味かな。
国津神はクナの神々のことかな。
スクナヒコナ、素クナ彦名も関係あるのかな、倭人の王かもね。
88日本@名無史さん2018/07/06(金) 11:00:10.68
キナイコシが発表した200年の時間差とは、どういうことだろうか。。。
89日本@名無史さん2018/07/06(金) 11:01:13.55
>>88
中国の正式な歴史書に書かれた倭人と中国人の交流の間隔時間のことではないのかな。。。 90日本@名無史さん2018/07/06(金) 11:01:45.55
>>89
キナイコシはその期間の間にある帥升のことを知らなかったのではないのかな。。。 91日本@名無史さん2018/07/06(金) 11:02:07.32
92日本@名無史さん2018/07/06(金) 11:02:31.63
>>91
中国の正式な歴史書に書かれた九州を都にしていた倭王だな。。。 93日本@名無史さん2018/07/06(金) 11:02:53.39
九州の帥升等は、鉄の武器が無い奈良盆地を攻めて、生口を捕獲して、中国に連れて行った可能性があるな。。。
94日本@名無史さん2018/07/06(金) 11:03:20.27
九州を都にしていた倭王帥升と倭王卑弥呼の都が違うなら、遷都したということになるな。。。
95日本@名無史さん2018/07/06(金) 11:03:44.20
>>94
確かに。。。キナイコシは、倭王帥升の都が畿内にあったと主張することを、最初から諦めているからな。。。 96日本@名無史さん2018/07/06(金) 11:04:09.29
なるほど、、、畿内説が生き残るには、九州から、東の畿内に遷都したということにしなければいけないのだな。。。
97日本@名無史さん2018/07/06(金) 11:04:46.79
倭王帥升の都は九州にあったということがはっきりした今、つまり、倭王卑弥呼の都が畿内にあったという主張する、邪馬台国畿内説は、東遷説を基に作成されたということにしかならないということがはっきりしたな。。。
98日本@名無史さん2018/07/06(金) 11:10:36.51
しかし、既に、倭国と日本国が別の国で、魏志倭人伝の時代に、同時にも存在していたことが、優れた考古学者によって証明された今、畿内説も東遷説も、成立しないな。。。
99日本@名無史さん2018/07/06(金) 11:11:30.50
倭国と日本国が別の国で、同時にも存在していたことが、はっきりした今、邪馬台国は何処にあったのか自ずと判明するのではないだろうか、
100日本@名無史さん2018/07/06(金) 11:11:50.02
倭国と日本国が同時に存在した時代、両国に住む人種は同じだったのかな。。。
101日本@名無史さん2018/07/06(金) 11:12:06.32
同じじゃないのかな。。。
倭国である女王国から、東に海を渡った土地にも倭種が住んでいたと魏志倭人伝に紹介されているからね。。。
102日本@名無史さん2018/07/06(金) 11:12:23.70
それで?
103日本@名無史さん2018/07/06(金) 11:14:59.12
104日本@名無史さん2018/07/06(金) 11:39:26.92
また邪馬台国論争に敗れた東遷説の狂人が荒らしてるのか
どこまで恥を晒すんだか
105日本@名無史さん2018/07/06(金) 11:53:22.58
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。
また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。
ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。
つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。
というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。
アホの>>1
アホの>>1 106日本@名無史さん2018/07/06(金) 11:54:04.72
畿内説は実は東遷説だな。
【畿内説の主張のまとめ】
(奥○氏>>1の発言をまとめたもの)
「伊都国の太陽祭祀を継いだ卑弥呼が、瀬戸内海勢力の実力を背景として、総花的に纏向で共立された」
「首長のいない広域政治集団が発生したが、圧力が高まって、急激な首長権が確立した」
「弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、蝋燭の最後の輝きをはなって音もなく衰退した」 107日本@名無史さん2018/07/06(金) 13:18:08.97
キナイコシはテンプレートが論破された時は、黙りこくってしまうな。。。
108日本@名無史さん2018/07/06(金) 13:18:28.07
返す言葉を発見出来ないのではないのかな。。。
109日本@名無史さん2018/07/06(金) 13:18:42.14
もうそろそろ、次のスレッドを作成したほうが良いのではないのかな。。。
110日本@名無史さん2018/07/06(金) 13:18:58.95
キナイコシはテンプレートが論破された時は、なかなか次のスレッドを作成しないな。。。
111日本@名無史さん2018/07/06(金) 13:19:16.71
僕たちが、論破されてしまったテンプレートを撤去して、次のスレッドを作成してあげれば良いのではないのかな。。。
112日本@名無史さん2018/07/06(金) 13:29:52.88
キナイコシは
このスレが繁盛すれば良いと考えてるだけで
論破されても、平気^_^^_^^_^
113日本@名無史さん2018/07/06(金) 13:32:32.60
東遷厨は今日も発狂してるな
114日本@名無史さん2018/07/06(金) 14:28:03.51
改めてあのテンプレートを読んでみると、訳が分からなくなってくる。。。
奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることの言い訳ばかりで、、、
かえって、奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることが強調されているのではないのかな。。。
115日本@名無史さん2018/07/06(金) 14:28:50.67
キナイコシは東遷厨
116日本@名無史さん2018/07/06(金) 14:57:10.18
キナイコシが発表した200年の時間差とは、どういうことだろうか。。。
117日本@名無史さん2018/07/06(金) 14:57:25.95
中国の正式な歴史書に書かれた倭人と中国人の交流の間隔時間のことではないのかな。。。
118日本@名無史さん2018/07/06(金) 14:57:39.99
キナイコシはその期間の間にある帥升のことを知らなかったのではないのかな。。。
119日本@名無史さん2018/07/06(金) 14:58:30.99
帥升とは何者だろうか。。。
120日本@名無史さん2018/07/06(金) 14:58:45.72
中国の正式な歴史書に書かれた九州を都にしていた倭王だな。。。
121日本@名無史さん2018/07/06(金) 14:59:00.05
九州の帥升等は、鉄の武器が無い奈良盆地を攻めて、生口を捕獲して、中国に連れて行った可能性があるな。。。
122日本@名無史さん2018/07/06(金) 14:59:15.27
九州を都にしていた倭王帥升と倭王卑弥呼の都が違うなら、遷都したということになるな。。。
123日本@名無史さん2018/07/06(金) 14:59:30.08
確かに。。。キナイコシは、倭王帥升の都が畿内にあったと主張することを、最初から諦めているからな。。。
124日本@名無史さん2018/07/06(金) 14:59:42.82
なるほど、、、畿内説が生き残るには、九州から、東の畿内に遷都したということにしなければいけないのだな。。。
125日本@名無史さん2018/07/06(金) 15:01:08.79
倭王帥升の都は九州にあったということがはっきりした今、つまり、倭王卑弥呼の都が畿内にあったという主張する、邪馬台国畿内説は、東遷説を基に作成されたということにしかならないということがはっきりしたな。。。
126日本@名無史さん2018/07/06(金) 15:01:30.32
しかし、既に、倭国と日本国が別の国で、魏志倭人伝の時代に、同時にも存在していたことが、優れた考古学者によって証明された今、畿内説も東遷説も、成立しないな。。。
127日本@名無史さん2018/07/06(金) 15:10:30.40
キナイコシはテンプレートが論破された時は、黙りこくってしまうな。。。
128日本@名無史さん2018/07/06(金) 15:10:45.08
返す言葉を発見出来ないのではないのかな。。。
129日本@名無史さん2018/07/06(金) 15:35:43.50
キナイコシは東遷厨
130日本@名無史さん2018/07/06(金) 15:44:47.09
キナイコシ連呼男は東遷厨
131日本@名無史さん2018/07/06(金) 15:50:37.76
キナイコシがオウム返しをして、無能をさらけ出したな。。。
132日本@名無史さん2018/07/06(金) 15:58:04.69
しかし、不思議だな、、、、倭国はいつ亡くなったのだろうか。。。
133日本@名無史さん2018/07/06(金) 16:46:12.44
鉄板にも、サビが目立つようになったわ
134日本@名無史さん2018/07/06(金) 18:22:09.34
135日本@名無史さん2018/07/06(金) 18:24:53.19
136日本@名無史さん2018/07/06(金) 18:27:10.75
137日本@名無史さん2018/07/06(金) 18:28:55.61
138日本@名無史さん2018/07/06(金) 18:30:27.24
139日本@名無史さん2018/07/06(金) 18:45:22.17
>>106
>「伊都国の太陽祭祀を継いだ卑弥呼が、瀬戸内海勢力の実力を背景として、総花的に纏向で共立された」<
「南≠東」などに拠って、×。
>「首長のいない広域政治集団が発生したが、圧力が高まって、急激な首長権が確立した」
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」が起きたのであるから、×。
>「弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、蝋燭の最後の輝きをはなって音もなく衰退した」<
伊都国の天孫族の阿毎氏は、仲哀の頃にも尚も存続し、磐井や葛子の出身地であったようで、
天子のタリシホコの倭國王家になったようで、
白村江の大敗までは、衰退しなかったから、×。
いt 140日本@名無史さん2018/07/06(金) 18:45:28.37
>>106
>「伊都国の太陽祭祀を継いだ卑弥呼が、瀬戸内海勢力の実力を背景として、総花的に纏向で共立された」<
「南≠東」などに拠って、×。
>「首長のいない広域政治集団が発生したが、圧力が高まって、急激な首長権が確立した」
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」が起きたのであるから、×。
>「弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、蝋燭の最後の輝きをはなって音もなく衰退した」<
伊都国の天孫族の阿毎氏は、仲哀の頃にも尚も存続し、磐井や葛子の出身地であったようで、
天子のタリシホコの倭國王家になったようで、
白村江の大敗までは、衰退しなかったから、×。
いt 141日本@名無史さん2018/07/06(金) 18:47:46.92
ザラコク
理由なき断定男
142日本@名無史さん2018/07/06(金) 19:04:47.07
>>991
>畿内説が想定する範囲に、「別の国名」は付けられていないんだ
はあ?
邪馬台国が複数の国邑を含むのは当然だろ?
その中の国邑を示せないのは、根本的に畿内説が間違っているからだよ。
弥生時代の先進地域である福岡奴国だけが異常に大きいが、その数倍の巨大集落が畿内に見出せない以上、邪馬台国は広域名称にしかならない。
>古くは早良国があったと想定される領域も含むある程度の広域を
早良国などという名前を勝手にでっち上げるなよ。
そこは倭の王都だよ。 143日本@名無史さん2018/07/06(金) 19:07:06.53
以上、みんな荒らし
w
144日本@名無史さん2018/07/06(金) 19:18:01.83
>>142
>弥生時代の先進地域である福岡奴国だけが異常に大>きいが、その数倍の巨大集落が畿内に見出せない以上、
奴国って、集落なのか?
その集落って、どこにあるんだ? 145日本@名無史さん2018/07/06(金) 19:19:20.63
ひさかたの天行く月を網に刺し我が大君は蓋にせり
大空をわたる月を、鳥でも刺すように網でからめとり、大君はその月を蓋になさっている。
天武朝では、月は嫌われていたのかな
桜井市のホームページにも載っている
桜井市にこの歌の碑もあるな
146日本@名無史さん2018/07/06(金) 19:31:52.89
>>144
>奴国って、集落なのか?
>その集落って、どこにあるんだ?
奴国は福岡県田川市辺り。
「上本町遺跡」・「下伊田遺跡」 九州説では示せないよ。 @阿波 147日本@名無史さん2018/07/06(金) 19:36:56.62
148日本@名無史さん2018/07/06(金) 19:38:14.03
149日本@名無史さん2018/07/06(金) 19:39:02.42
150日本@名無史さん2018/07/06(金) 19:40:07.95
>>147
福岡平野のなんという弥生終末期集落? @阿波 151日本@名無史さん2018/07/06(金) 19:41:15.08
152日本@名無史さん2018/07/06(金) 19:46:36.79
キナイコシは、論破されると、意味のない空白の改行を多用するので、論破されたことが分かり易いな、、、
153日本@名無史さん2018/07/06(金) 19:46:53.90
卑弥呼、台与の治世には、神功皇后の治世がおっかぶせられている
数百年下った記紀の時代といえど、
卑弥呼・台与は皇后並みの大人物であったと認識されていたことを物語っているわけだ
154日本@名無史さん2018/07/06(金) 19:49:59.96
弥生時代に皇后なんていう称号はないよ。
後世の付会だね。
后と女王では全然格が違う。
155日本@名無史さん2018/07/06(金) 19:51:59.04
156日本@名無史さん2018/07/06(金) 20:00:35.85
畿内説を宣伝するキナイコシが東遷厨だと判明した今、キナイコシが狂っていることがはっきりしたな。。。
157日本@名無史さん2018/07/06(金) 20:03:02.49
158日本@名無史さん2018/07/06(金) 20:14:24.19
>>154
いいことを云うではないか
「后と女王では全然格が違う」のであれば、記紀は(皇后ではない)だれを念頭に置いていたのかであろうな、、、 159日本@名無史さん2018/07/06(金) 20:21:45.29
>>158
大日孁女命(おおひるめむちのみこと)こと天照大神 @阿波 160日本@名無史さん2018/07/06(金) 20:28:06.32
キナイコシが、また意味の分からないことを呟いたな、、
161キウス ◆PyuQX798ps 2018/07/06(金) 20:28:38.02
162日本@名無史さん2018/07/06(金) 20:33:15.43
>>160
キナイコシは、東遷厨であると共に呟き厨房でもあったのだね。。。 163日本@名無史さん2018/07/06(金) 20:33:28.47
ヒルコ、蛭子は何なんだろう
詳しい人いないかな
164日本@名無史さん2018/07/06(金) 20:34:51.23
>>161
>奥村氏は東遷は否定の立場
「自然発生説」だとさ。
自然発生説は、非科学的として否定された妄想なんだけど。 165日本@名無史さん2018/07/06(金) 20:48:26.60
東遷でないと「自然発生説」だと決めつけるのは知的生害だね
166日本@名無史さん2018/07/06(金) 20:52:10.98
倭国とは、全く別の日本国の首都が自然発生したと、奥山氏であるキナイコシは考えたのではないのかな、、、、
167日本@名無史さん2018/07/06(金) 20:55:37.08
168日本@名無史さん2018/07/06(金) 20:56:03.96
169日本@名無史さん2018/07/06(金) 20:57:22.96
>>166
なぜ、キナイコシは、分かったうえで、それを倭国の首都と嘘の宣伝をするのだろうか、、、 170日本@名無史さん2018/07/06(金) 20:58:07.95
171日本@名無史さん2018/07/06(金) 20:59:49.19
>>169
観光業界にお金を貰っているのではないのかな、、、、 172日本@名無史さん2018/07/06(金) 21:02:51.00
宣伝が失敗したキナイコシが、悪口を言い始めたな。。。。
173日本@名無史さん2018/07/06(金) 21:03:51.91
>>159
ふむ、
そのお人以外には、なかなか案が及ばぬからなあ
おそらく、大和朝廷のしかるべき人々も、内心ではそのように思っていたのであろうな 174日本@名無史さん2018/07/06(金) 21:08:36.69
日本国は、倭国の生口の捕獲に備える為に自然発生した可能性があるな。。
175キウス ◆PyuQX798ps 2018/07/06(金) 21:30:14.18
>>163
いろいろ考察するのもいいです
私が邪馬台国との関連性がある出典を見逃していたかもしれません
私見ですが
記紀の「蛭子」については3世紀まで遡らないと思いますが・・いかがでしょうか 176キウス ◇PyuQX798ps2018/07/06(金) 21:53:52.92
ザラコクさん
✖畿内説はわかりましたが
貴君の邪馬台国の論を書き込んでくれませんか
畿内説のスレだから他説の強要はしません
177日本@名無史さん2018/07/06(金) 22:13:31.70
アマテラスは本来は男神と言われているからな
イザナギの子は男ばかりだし
日は東から西に、日が西に移った後は夜
西の伊都国にアマテラス、東の大阪に月読
日本書紀によると、ヒルコが生まれた時には既に日神、月神がいたとある
日向の伊都国を治めたアマテラス、
日本の夜の食国を治めた月読、
それらに遅れて生まれる不完全な存在ヒルコ、
卑弥呼はヒルコかもしれないな
178日本@名無史さん2018/07/06(金) 22:26:03.94
179日本@名無史さん2018/07/06(金) 22:28:03.23
伊都国は日没する国
180日本@名無史さん2018/07/06(金) 23:09:00.39
東(ひむかし)の 野に炎(かぎろひ)の 立つ見えて かへりみすれば 月傾きぬ(万48)
平城(なら)の京師(みやこ)は 炎(かぎろひ)の 春にしなれば 春日山
181日本@名無史さん2018/07/06(金) 23:20:44.99
アマテラス、月読、蛭子
必ずしも個人とはかぎらぬ
神話であるから、当時の民族種族大移動を単純化して物語風に編集されているのであろう
大陸から難を逃れて渡ってきた、アマテラス一族(王族)、月読一族(士族)、蛭子族(異種族下人難民)・・・、などのように理解するのがよいのではないか
182日本@名無史さん2018/07/06(金) 23:23:52.80
>>177
>西の伊都国にアマテラス、東の大阪に月読
ツクヨミは長崎方面だろ。
関西に行ったのはアマテラスの孫のニギハヤヒだよ。 183日本@名無史さん2018/07/06(金) 23:25:18.72
ヒルコは、単に障害児が生まれたことがあったという記録だよ。
深読みするまでもない。
184日本@名無史さん2018/07/06(金) 23:55:29.79
しかし、不思議だな、、、、倭国はいつ亡くなったのだろうか。。。
185日本@名無史さん2018/07/07(土) 00:05:43.94
征服民が土着を貶める為に作ったものだろう
186日本@名無史さん2018/07/07(土) 00:09:18.82
日本国は、倭国の生口の捕獲に備える為に自然発生した可能性があるな。。
187日本@名無史さん2018/07/07(土) 01:33:52.03
歴史オタに聞く!
46 日本@名無史さん[sage] 2018/07/06(金) 13:32:49.85 ID:
江戸時代中期の古書にうちの苗字の公家がいたことが判明したんだが
だからって俺の中に公家の遺伝子が流れてることにはならんよな?
188日本@名無史さん2018/07/07(土) 01:36:23.84
>>187
47 日本@名無史さん[sage] 2018/07/07(土) 01:36:07.67 ID:
>>46
あまり見ない苗字なら血統の可能性が高い
よく見る苗字なら血統でない場合のが多い 189日本@名無史さん2018/07/07(土) 01:58:21.34
倉本一宏が最近調子に乗ってて立て続けに本を出すみたい
ツイッター見てたらこんなのがあった
『日本史の論点 邪馬台国から象徴天皇制まで』中公新書編集部(2018/8/17)
執筆分担:古代・倉本一宏(国際日本文化研究センター教授)
倉本は九州説だけどちょっと調べてみたら凄い説を唱えてるわ
@「水行十日、陸行一月」は帯方郡から邪馬台国までの行程
A当時、畿内勢は呉と交流があった
B九州王朝があって磐井の乱が畿内勢との最終決戦
@について
帯方郡から10日で九州上陸するってどんな高速船だよ
「倭人在帯方東南大海之中」の記述とも方角が矛盾してるし
Aについて
呉との交流ルートはまさか東シナ海横断?
しかも九州を経由せずに畿内と直接交流?
Bについて
九州王朝なんてものが存在した証拠はあるんだろうか?
九州の前方後円墳や三角縁神獣鏡、畿内系土器はどう説明するつもりなのか?
倭の五王も九州王朝だと言うつもりなのか?
いくら文献史学の学者とはいえここまで物証を無視したトンデモ説はありえないと思うんだが
190subo2018/07/07(土) 06:20:16.08
>>189
1万2千里=水行10日陸行1月
水行は一日航海千里の規定を適用 191subo2018/07/07(土) 06:22:22.88
三国志時代の呉は滅亡(280年)の際2万の水軍は九州から畿内に移動した
192キウス ◇PyuQX798ps2018/07/07(土) 07:07:51.38
ザラコクさん
✖畿内説はわかりましたが
貴君の邪馬台国の論を書き込んでくれませんか
畿内説のスレだから他説の強要はしません
193日本@名無史さん2018/07/07(土) 07:08:27.12
水行すると里で書かれた行程に出てこなかった投馬国に着くんだよ
1万2千里=水行10日陸行1月は違うかも知れないなあ
194日本@名無史さん2018/07/07(土) 07:41:03.05
そもそも九州北部の端の不彌国までの里を合計すると1万700里
邪馬台国まで1万2000里と書いてあるなら邪馬台国は
九州北部にはない事になるんじゃ
195日本@名無史さん2018/07/07(土) 08:10:40.19
途中で「余り」があるよ。
196日本@名無史さん2018/07/07(土) 08:38:03.69
それなら邪馬台国まで1万2000余里と書いてなきゃね
余はあんまわからないという事だから
つまり邪馬台国まで1万2000里と書いてあるのは正確な数値じゃないという事
197日本@名無史さん2018/07/07(土) 08:39:13.48
>>189
まあ邪馬台国九州説は置いといても、九州王朝はびっくりだよなー
専門に近いところだろうに 198日本@名無史さん2018/07/07(土) 08:41:01.41
よく知らない人を洗脳する目的でのみやってるからな九州説は
199日本@名無史さん2018/07/07(土) 08:51:32.25
女王国まで12000里なんだがな
邪馬台国までとは書いていない
200日本@名無史さん2018/07/07(土) 09:06:16.07
>>196
途中に端数があるから、それらを足すと伊都国や奴国まででおよそ一万二千里。 201日本@名無史さん2018/07/07(土) 09:06:43.59
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日
邪馬台国時代の遺物の出土状況
202日本@名無史さん2018/07/07(土) 09:06:54.24
それがどうかしたのか
1万2000里と書いてあるのは正確なものではないとはっきりした以上
女王国でもどこでも指しているものじゃないという事だ
203日本@名無史さん2018/07/07(土) 09:08:35.25
>>200
書いてない端数を都合よく操作してはいけない 204日本@名無史さん2018/07/07(土) 09:10:19.02
「余」とは、
現代日本語でいうところの「およそ」、あるいは「約」のことだ
205日本@名無史さん2018/07/07(土) 09:12:49.95
>>202
>1万2000里と書いてあるのは正確なものではないとはっきりした以上
また勝手解釈で文献無視? 206日本@名無史さん2018/07/07(土) 09:16:29.16
足し算ができるなら
魏志倭人伝の里程を足してみたらいい
九州の端と考えられている不彌国までで1万700(余)里となる事がわかるだろう
九州説が邪馬台国は九州北部と主張するが
もしそうなら魏志倭人伝に邪馬台国までは1万2000里、ではなくて
邪馬台国までは1万700余里と記されていなければ辻褄が合わないのである
207日本@名無史さん2018/07/07(土) 09:19:07.07
>>205
なら帯方郡から1万2000里はどこを指すのか説明してもらおうか 208日本@名無史さん2018/07/07(土) 09:23:50.58
千余里とあれば実は千数百里なんだろ。
合計したら奴国までで一万二千里。
後漢書もそのような解釈となっている。
209日本@名無史さん2018/07/07(土) 09:27:36.48
勝手な解釈では証拠にならんぞ
210日本@名無史さん2018/07/07(土) 09:29:24.39
後漢書も読まない、魏志倭人伝も読まない、それでよく邪馬台国の位置を論じるよね。
畿内説は妄想だらけだ。
211日本@名無史さん2018/07/07(土) 09:30:29.09
ならば、
自郡至奴国一万二千余里と書かれたであろう
書かれたことと後漢書の解釈ごととは別次元である
212日本@名無史さん2018/07/07(土) 09:30:38.78
悔し紛れに人格攻撃か?それも的外れの
それでよく邪馬台国の位置を論じるよね
213日本@名無史さん2018/07/07(土) 09:33:25.81
214日本@名無史さん2018/07/07(土) 09:33:47.57
千余里とあれば実は千数百里、じゃないだろ
根拠を挙げると魏志倭人伝の最小単位は百里からだ
となると千余里は千数十里程度では
215日本@名無史さん2018/07/07(土) 09:34:56.62
216日本@名無史さん2018/07/07(土) 09:36:01.37
>>211
途中の余を足すと、ちょうど一万二千里になるんだろ。 217日本@名無史さん2018/07/07(土) 09:37:01.76
>>214
海上でそんな細かい測定はできないだろ。
常識で考えろよ。
有効桁数が一桁なんだよ。 218日本@名無史さん2018/07/07(土) 09:37:19.92
219日本@名無史さん2018/07/07(土) 09:37:37.72
余は数十里程度だろう
最小単位が百里だから
220日本@名無史さん2018/07/07(土) 09:38:06.89
221日本@名無史さん2018/07/07(土) 09:38:17.62
222日本@名無史さん2018/07/07(土) 09:39:22.09
>>208
倭人伝の里数は、百里単位で書かれ、
百里以下の過不足は正確ではない・・・という意味で余をつけて行程積算されている
つまり百里以上の整数部分は、つじつまを合わせている。見事なものだ。 223日本@名無史さん2018/07/07(土) 09:40:24.86
>>217
ほー
ならますます1万2000里は正確ではない数値になるな
九州北部を指す数字じゃないんじゃない 224日本@名無史さん2018/07/07(土) 09:41:38.92
>>221
それでは対馬海峡が三千里にならないから、間違いだとわかる。 225日本@名無史さん2018/07/07(土) 09:42:52.48
>>223
残りの余りでは福岡県を出るかどうかも微妙だけど? 226日本@名無史さん2018/07/07(土) 09:43:32.94
>>220
最小単位が百里からだから百里単位は記されるという事だろ
つまり余は百里以下の数値という事が理論的に導き出される
反論するなら世は百里以上である事を理論的に述べるように 227日本@名無史さん2018/07/07(土) 09:45:40.21
>>224
つまり対馬海峡が三千里は計測を間違った記述なんだな 228日本@名無史さん2018/07/07(土) 09:46:26.91
九州上陸までで一万里余りだから、残り二千里未満。
一里が80mなら160キロ未満。
229日本@名無史さん2018/07/07(土) 09:47:14.35
>>225
残り約1300里なら九州北部出るのに十分だろう 230日本@名無史さん2018/07/07(土) 09:49:00.38
千里以上の距離なら千里単位、千里未満の距離なら百里単位。
つまり有効桁数一桁。
千里余りを千と数十里だなんて読み方は非論理的な方便。
これだから畿内説は詐欺とか非難されるのだね。
231日本@名無史さん2018/07/07(土) 09:50:55.95
九州説はいつも九州上陸までで1万里って言い回しをするよな
正確に言うと里程が書かれている九州の端(と思われる)
不彌国までで1万700(余)里なのに
都合が悪いんだろうか
232日本@名無史さん2018/07/07(土) 09:52:15.98
>>229
それだと残り100キロ程度だよ。
壱岐までの距離と変わらないしね。
せいぜい久留米?
筑後山門や朝倉ならまだあり得なくはないか。 233日本@名無史さん2018/07/07(土) 09:52:55.07
>>230
書いてない余の部分を九州北部に当てはめるように創作する九州説の方が
詐欺的であり循環論法的 234日本@名無史さん2018/07/07(土) 09:53:22.80
>>231
対馬海峡までは百里単位が省略されていると思われるので、その数字は正確ではないよ。 235日本@名無史さん2018/07/07(土) 09:55:56.52
>>232
言っとくけど短里なんて存在してないからな
1里430mで換算すれば残り1300里は500km
畿内に届くけど畿内説はそんな主張はしない
なぜなら魏志倭人伝に書いてある距離は正確ではない事が明らかだから 236日本@名無史さん2018/07/07(土) 09:58:41.35
>>234
なら1万2千里は正確なものと言えない
どこを指すものでもない里数というわけだ 237日本@名無史さん2018/07/07(土) 10:01:08.88
>>230
おま、
有効桁数をうえからかぞえて、桁の違う数字を合計してはイカンよ
この場合、有効桁数とは、下からかぞえて百里で足切りし、それ以上の数字を有効として合計するのよ 238日本@名無史さん2018/07/07(土) 10:04:49.62
>>235
上陸前が短里なのに、上陸後だけ長里にするのはおかしいだろ。 239日本@名無史さん2018/07/07(土) 10:06:23.25
>>237
桁の違う数字を足しているのは畿内説だよ。
桁が同じ範囲で論じるなら、九州上陸までで一万里余りがわかりやすい。 240日本@名無史さん2018/07/07(土) 10:06:26.16
>>230
そもそも有効桁数の加減算の意味が分かっとらんな
笑止千万里!! 241日本@名無史さん2018/07/07(土) 10:06:43.87
242日本@名無史さん2018/07/07(土) 10:08:04.92
>>241
じゃあ朝鮮半島の長さも対馬海峡の幅もおかしいと言えよ。 243日本@名無史さん2018/07/07(土) 10:11:42.36
>>238
それに上陸後じゃなくて
正確に言うなら残り1300余里は水行20日〜の部分に相当するんだけど
不彌国までで1万700余里なんだから
まあ魏志倭人伝の距離行程を畿内説は参考にしないから
どうでもいい話なんだが 244日本@名無史さん2018/07/07(土) 10:12:25.28
245日本@名無史さん2018/07/07(土) 10:15:06.70
>>243
>正確に言うなら残り1300余里は水行20日〜の部分に相当するんだけど
根拠なし。 246日本@名無史さん2018/07/07(土) 10:16:52.36
>>244
畿内説の説明は都合よくツギハギされていて恣意的だよ。
九州上陸までの里程が全く説明できていない。
魏志倭人伝の里程が信頼できないからといって、好きなところに邪馬台国を移動していいことになどならない。 247日本@名無史さん2018/07/07(土) 10:17:26.08
248日本@名無史さん2018/07/07(土) 10:20:51.62
>>246
何を言っているのか
別に説明できるが?
帯方郡→狗邪韓国→対馬国→壱岐国→九州上陸(末羅国)
何で説明出来ないと思ったの? 249日本@名無史さん2018/07/07(土) 10:26:07.50
>>248
そこまでの里程と、それぞれで一里の大きさは? 250日本@名無史さん2018/07/07(土) 10:30:34.42
>>249
現代で換算すると1里が100mになったり30mになったりして参考にならんよ
魏の1里は430mだったから正確な計測ができなかったんだね 251日本@名無史さん2018/07/07(土) 10:31:45.89
短里ってwww
252日本@名無史さん2018/07/07(土) 10:33:26.73
253日本@名無史さん2018/07/07(土) 10:34:20.69
>>250
少なくとも魏が統一した里ではないだろ? 254日本@名無史さん2018/07/07(土) 10:34:56.52
>>250
逃げないでちゃんと計算結果を示したら? 255日本@名無史さん2018/07/07(土) 10:35:33.79
>>252
魏志倭人伝にも書いてあるし
現代の地名とも一致するからこれで争ってるのは見たことないんだが
九州説は違う解釈なんか? 256日本@名無史さん2018/07/07(土) 10:37:41.04
>>253
魏では文帝が単位統一の指示を出したそうだ
それと違う単位を使えば命令違反だ 257日本@名無史さん2018/07/07(土) 10:38:01.91
>>255
そこまでの里程が示されているので、一里がいくらか計算してみてよ。 258日本@名無史さん2018/07/07(土) 10:38:29.72
>>254
何回も出したから面倒
どうしてもやりたければそちらがどーぞ 259日本@名無史さん2018/07/07(土) 10:39:57.87
>>257
だいたい1里100mから30mぐらいになったけど 260日本@名無史さん2018/07/07(土) 10:40:44.75
では、1里が30mから100mの範囲でいいね?
261日本@名無史さん2018/07/07(土) 10:41:25.97
どうやって計算した?
262日本@名無史さん2018/07/07(土) 10:41:35.79
何がいいのかわからんがいいんじゃね
263日本@名無史さん2018/07/07(土) 10:43:42.14
どこからどこまで測るかの基準点が確定してないのに
1里が何mか計算して結果が出るわけないよな
264日本@名無史さん2018/07/07(土) 10:46:52.97
対馬海峡間なら島を基点にすれば
そう大きなな誤差なく測れはする
あんま意味ないとは思うけど
265日本@名無史さん2018/07/07(土) 10:48:42.59
>>264
どう基点にするんだ?
精神論じゃなくて具体的なことを言ってね 266日本@名無史さん2018/07/07(土) 10:50:28.23
>>265
島を点として捉えればいい
海上だから他に基点になるものがないから測りやすい 267日本@名無史さん2018/07/07(土) 10:51:20.76
>>266
どうやって島を点として捉えるんだ?
精神論じゃなくて具体的なことを言ってね 268日本@名無史さん2018/07/07(土) 10:51:29.59
弥生時代の青銅器の分布図
九州・瀬戸内に武力が展開されている。
いわゆる防人(さきもり)である。
これは 7 世紀の白村江敗戦後と同じ様相である。
畿内にあった都を九州・瀬戸内の防人が守っているのである。
こういう状況で邪馬台国九州説はあり得ない。 269日本@名無史さん2018/07/07(土) 10:52:54.12
>>267
どう説明すれば精神論じゃない事になるんだ?
具体的に教えてくれ 270日本@名無史さん2018/07/07(土) 10:55:30.11
>>269
どの場所からどの場所まで何キロあって
その距離の計算根拠はなんで
その場所を選んだ理由は何か
をきちんと説明すれば良い 271日本@名無史さん2018/07/07(土) 10:58:00.80
>>270
プサン→対馬→壱岐島→松浦で計測
結果だいたい1里100m〜30m 272日本@名無史さん2018/07/07(土) 11:01:25.27
>>271
対馬のどこ?
壱岐ののどこ?
松浦のどこ?
釜山はその当時あったの?
距離を出した方法は? 273日本@名無史さん2018/07/07(土) 11:02:11.49
まだアクセスすら出来ないような状態
274日本@名無史さん2018/07/07(土) 11:03:39.04
>>272
そんなに詳しく知りたいならむしろ自分で調べて計測するべきでは 275日本@名無史さん2018/07/07(土) 11:03:49.40
276日本@名無史さん2018/07/07(土) 11:05:51.70
自分で計測してみてどれもピッタリ1里77mとやらの短里になるといいね
277日本@名無史さん2018/07/07(土) 11:05:52.79
>>274
言わないなら
「だいたい1里100m〜30m」とか
信用できるわけがない 278日本@名無史さん2018/07/07(土) 11:06:27.79
また投稿拒否された
279日本@名無史さん2018/07/07(土) 11:07:51.27
ザラコクとうとう荒らし認定されて締め出されたか
280日本@名無史さん2018/07/07(土) 11:08:39.17
>>276
ピッタリだなんて誰も主張していないけど?
畿内説は何と戦っているの? 281日本@名無史さん2018/07/07(土) 11:09:02.30
282日本@名無史さん2018/07/07(土) 11:09:13.22
283日本@名無史さん2018/07/07(土) 11:09:21.36
>>277
なら自分で計測するんだな
どの場所からどの場所まで何キロあって
その距離の計算根拠はなんで
その場所を選んだ理由は何か
をきちんと説明するように 284日本@名無史さん2018/07/07(土) 11:09:35.21
弥生時代の青銅器の分布です。
https://goo.gl/m2KfqU
対馬・北部九州や瀬戸内に「武力」が展開されてます。
大乱を経験して戦時体制を取り続けた筑紫を中心とする倭国の領域がわかります。
魏の使いが滞在した外交の舞台である伊都を含む北部九州と、瀬戸内や関西は別の領域であり、奈良盆地は邪馬台国とは関係ない地方であることがわかります。 285日本@名無史さん2018/07/07(土) 11:10:51.25
畿内説は自分で計算もせずに逃げてばかり。
その挙句に信用できないと言い出し、自分勝手なところに邪馬台国を持って行こうとする。
286日本@名無史さん2018/07/07(土) 11:11:58.37
>>280
帯方郡から1万2000里が九州北部にピッタリとの主張を繰り返す九州説と 287日本@名無史さん2018/07/07(土) 11:13:32.15
>>285
そりゃひどいな
畿内説はまるで九州説じゃないか 288日本@名無史さん2018/07/07(土) 11:14:43.38
>>283
関係ないね
お前が説明できないなら
お前の言うことは信用できない
出所不明の数字ということだからな 289日本@名無史さん2018/07/07(土) 11:16:08.34
>>132
>しかし、不思議だな、、、、倭国はいつ亡くなったのだろうか。。。<
九州倭国は白村江で負けて、別種の旧小国の大和に、
併合吸収継承されて、無くなった。 290日本@名無史さん2018/07/07(土) 11:17:06.34
291日本@名無史さん2018/07/07(土) 11:17:28.57
>>288
俺がもし出鱈目いう気なら1里430mになりましたと言うと思わん? 292日本@名無史さん2018/07/07(土) 11:17:43.19
>>285
説明できないで逃げ回ってるのは九州説の貴方では? 293日本@名無史さん2018/07/07(土) 11:17:44.33
>>287
九州説の人のついたウソだから、そうなるのも道理 294日本@名無史さん2018/07/07(土) 11:18:38.05
295日本@名無史さん2018/07/07(土) 11:19:47.97
>>294
あれ俺1里100mから30mになったと言ってた気がするんだけど 296日本@名無史さん2018/07/07(土) 11:20:16.01
>>141
>ザラコク 理由なき断定男<
大和説者 「南→東」の理由なき断定男。 297日本@名無史さん2018/07/07(土) 11:21:51.84
>>290
またウソをついてるな
倭人伝から
「だいたい1里100m〜30m」
なんて数字は出ない 298日本@名無史さん2018/07/07(土) 11:21:53.55
299日本@名無史さん2018/07/07(土) 11:24:00.25
300日本@名無史さん2018/07/07(土) 11:24:50.92
301日本@名無史さん2018/07/07(土) 11:26:40.75
そういうことになるね。
302日本@名無史さん2018/07/07(土) 11:27:14.36
あれ?、143に反論したら、掲載拒否された
303日本@名無史さん2018/07/07(土) 11:28:06.22
304日本@名無史さん2018/07/07(土) 11:30:32.93
NGワードが厳しくなっているかも。
畿内説はやり方が汚いな。
305日本@名無史さん2018/07/07(土) 11:30:37.13
>>299
ということは
短里は出所不明の怪情報
結論出たね 306日本@名無史さん2018/07/07(土) 11:34:03.34
いいのか?もし1里100mまで認めたら帯方から1万2000里は畿内まで到達するぞ?
307日本@名無史さん2018/07/07(土) 11:34:11.68
308日本@名無史さん2018/07/07(土) 11:41:00.27
>>306
じゃあそう主張しなよ。
信用できないと喚き続けるよりは理性的だよ。
ただし九州上陸までで一万里に到達していることをお忘れなく。 309日本@名無史さん2018/07/07(土) 11:42:52.88
掲載拒否とか言ってるのは単に連投規制に引っかかっただけだろうしばらく待っとけ
310日本@名無史さん2018/07/07(土) 11:43:07.91
ザラコク短期間に南→東ばっか書き込んでたから荒らし認定されたんだろ
同じ文言連投するのはは荒らし扱い
311日本@名無史さん2018/07/07(土) 11:44:35.42
そこから1500里もあれば十分畿内に着くな
問題なし
312日本@名無史さん2018/07/07(土) 11:47:46.26
>>308
畿内説は史料にない距離単位を計測間違いかそれ以外の理由で
正確なものでないと判断するからそういう主張はしない
あと九州北部の端までで1万700里次に水行して投馬国に行くと
魏志倭人伝に書かれている事もお忘れなく 313日本@名無史さん2018/07/07(土) 12:13:24.32
314日本@名無史さん2018/07/07(土) 12:28:35.55
315日本@名無史さん2018/07/07(土) 12:29:28.52
なんだか長音記号の「ー」と「ト」が連続であると、NGワードみたいだよ
経路の「ルー・ト」も長さの「メー・トル」も引っかかる
316日本@名無史さん2018/07/07(土) 12:29:55.95
木に竹を接ぎ、
短里には、長里を継ぐ・・・、奈良廚ことわざ集
317日本@名無史さん2018/07/07(土) 12:30:19.12
短里であったことを共有できたので、有意義なスレだった。
318日本@名無史さん2018/07/07(土) 12:32:05.83
旁國の列記以外は「次」は書いてないけどな
319日本@名無史さん2018/07/07(土) 12:36:15.99
>>317
短里とやらは出所不明怪情報という結論じゃなかったの? 320日本@名無史さん2018/07/07(土) 12:38:14.93
るー・と
321日本@名無史さん2018/07/07(土) 12:39:45.25
>>313
不彌刻の次に、水行10日で投馬国と書いてあるぞ 322日本@名無史さん2018/07/07(土) 12:40:57.34
323日本@名無史さん2018/07/07(土) 12:44:40.01
狂有してるのさ
324日本@名無史さん2018/07/07(土) 12:51:02.89
>>316
畿内説・・・というか普通の歴史学は短里とか認めてないので
もちろん短里に長里を継いだりしない
というか、長里なんてものもない
普通の400mくらいの里があるだけ 325日本@名無史さん2018/07/07(土) 12:52:06.14
もし魏志倭人伝書いた陳寿に九州説の行程論聞かせたら
人は約1700年後にはここまでバカになったのかと嘆くだろう
326日本@名無史さん2018/07/07(土) 13:03:44.71
>>977
>魏志倭人伝をまともに考えてると泥沼にはまる。
三面記事の類いでしょ。真面目に考えるとあほみたいだよ。<
いや、明帝の命令での、詔書や金印や大量の下賜品を届ける事や、
記録する事が仕事の魏使らが、
「三面記事の類い」のような事を書けば、
部下らや、後で来た張政らに直ぐにバレてしまって、
首が飛ぶ可能性があるよ。 327日本@名無史さん2018/07/07(土) 13:04:51.44
いつの世にも馬鹿はいる
いま九州説に集まってるだけ
328日本@名無史さん2018/07/07(土) 13:18:39.69
馬鹿は頭のいい人を馬鹿よわばりする。遠吠えというやつ。負け惜しみなんだな。
329日本@名無史さん2018/07/07(土) 13:19:23.07
330日本@名無史さん2018/07/07(土) 13:26:43.20
帯方郡(ソウル)ー狗邪韓国(プサン)660km/7000里=94m/1里
狗邪韓国(プサン)ー対馬国 100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐) 70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津) 50km/1000里=50m/1里
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島) 25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市) 20km/100里=200m/1里
奴国(福岡市)ー不弥国(宇美) 10km/100里=100m/1里
統計では、違う立場の数字を一緒にしてはいけないので、海路のデータ3つ(100,70,50)倭国に上陸したあとの陸路のデータ3つ(50,200,100)のn=3の二つのデータセットで、有意水準95%の区間推定を行うと、
海路 平均73m 分散633m
陸路 平均117m 分散5833m で
自由度2のt-値の5%点が4.303なので、
海路は 73.3(10.8〜135.8)ただし( )内は95%信頼区間
陸路は 116.7(-73.1〜306.4)ただし( )内は95%信頼区間
となります。単位はmです。
この範囲に、あなたの言う短里の値が入る確率が95%という意味です。
11から136mとか、-73〜306mとか、「意味のある数値」だと思いますか?
これが正しい統計のやり方です。nが小さくて、ばらつきが大きいデータでは、いかに統計処理をしても信頼性のある数値は出ないんですよ。
331日本@名無史さん2018/07/07(土) 13:28:48.09
332日本@名無史さん2018/07/07(土) 13:29:20.84
>>328
>馬鹿は頭のいい人を馬鹿よわばりする。遠吠えというやつ。負け惜しみなんだな。
そういうのはいいから、反論があるなら
1.論点を明確にして
2.具体的に項目を挙げて
その上で書き込んでくれ 333日本@名無史さん2018/07/07(土) 13:34:16.22
思ったより信頼区間が広いみたい。
でもまあ、無視する理由にはならない。
334日本@名無史さん2018/07/07(土) 13:35:48.82
95%信頼区間に430mが含まれていないから、魏の里が使われていなかったことは明白になった。
335日本@名無史さん2018/07/07(土) 13:35:52.73
>>329
>馬鹿正直が九州説
ウソついてる証拠があるから
「正直」は外しといて。 336日本@名無史さん2018/07/07(土) 13:37:18.58
>>334
魏の里を使わないで、どうやって魏に報告するんだ? 337日本@名無史さん2018/07/07(土) 13:39:10.50
>>982
>いや、戦前の「萬世一系皇国史観」での近隣諸国民への人種差別的ヘイトスピーチをしているから、
wwは、明らかに憲法違反の犯罪者だ。<
>戦前のことと現代の五チャンネルの書き込みとの間には「何の関係もない」<
wwの書き込みは、
戦前の「萬世一系皇国史観」での近隣諸国民への人種差別的ヘイトスピーチそのもの。
>憲法違反というなら、憲法のどの条文に反するのか具体的に書いてみなww<
憲法前文「諸国民との平和的協調」の規定と、
「基本的人権の享有と性質「の条項においての、
「全て国民」あるいは「国民」と、「何人も」の書き分けの「何人も」は、
国民に限定せず、諸国民も含めた全人類的な規定である事。
>だが、それ以前に、そもそも憲法というものは、国を縛るためのもので、
国民が守るものではないんだよ <
国民を縛るものでもあり、国民を守るものだ。 338日本@名無史さん2018/07/07(土) 13:39:28.67
>>330
帯方郡がソウルじゃないので、もっと大きくなる 339日本@名無史さん2018/07/07(土) 13:44:41.11
340日本@名無史さん2018/07/07(土) 13:44:53.68
テンプレがそもそも的外れのいいとこ取りだからなぁ
341日本@名無史さん2018/07/07(土) 13:45:21.26
>>983
>>当然、どなたか?の、 「平原の巨大内行花文鏡では、花文の位置が鏡縁から遠くなっている」
というような情報を教えられたから、だよ。<
>それ、「どなたか?の」じゃなくて、私の書き込みだよww<
誰の書き込みか?、は書いてないんだし、関心もない。
要は、新しい情報が出てくれば、その情報と、それまで知り得た情報とを足して、
改めて、それら全体からの帰納的確率的な推論をするだけだ。 342日本@名無史さん2018/07/07(土) 13:47:47.52
つまり魏志倭人伝の里は1里430mの普通の里でも1里80mの短里でもない
1里40m〜200mのフレキシブルな里
フレキシブル里で書いてあったと
343日本@名無史さん2018/07/07(土) 13:53:13.08
>>984
>>西晋の武帝期の「天円地方」思想と、<
>また大嘘を書いてるww 天円地方の思想はかなり古いぞ
例えば、ザラコクさんの大好きな周髀算経の蓋天説は、
天円地方という前提で書かれているんだぞ?<
当たり前だ。
そんな事は、もう以前にも議論になっていた事だから、知っていたし、
西晋の武帝が、周髀算経の「天円地方」思想を、
壹與の朝貢の頃に重要視した説明をしていた、
という事が、列島の前方後円墳の発生に影響を与えた、という事が大事なのだ。 344日本@名無史さん2018/07/07(土) 13:55:30.99
>>342
当事者たちは真面目に測ろうと思ったけれど、当時の測量はその程度だったということ。
でも魏の里に合わせる気はさらさらなかった。
魏の里が95%信頼区間に含まれないからね。 345日本@名無史さん2018/07/07(土) 13:56:56.10
>>987
>いまどき九州説は異常者しかいないようだ <
いまどき「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
異常者としかいないようだ。 346日本@名無史さん2018/07/07(土) 13:57:42.14
>>330
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島)の区間が25km/500里だと
1里=20mになるのでは 347日本@名無史さん2018/07/07(土) 14:00:19.49
348日本@名無史さん2018/07/07(土) 14:03:38.65
349日本@名無史さん2018/07/07(土) 14:05:19.92
>>344
まあ色々理由は考えられるけど
直線距離でなく当時での道のり表記だからとも
政治的理由で過大に表記したとも言われているけどね 350日本@名無史さん2018/07/07(土) 14:05:20.51
351日本@名無史さん2018/07/07(土) 14:08:12.73
なので結局1里200mまであるなら
1万2000里は畿内も示すには十分な距離だと
352日本@名無史さん2018/07/07(土) 14:11:40.19
>>351
ならばそのように主張しろよ。
信用できないと喚くよりマシ。
ただし対馬海峡を渡ったところまでで一万里を使っているけどな。 353日本@名無史さん2018/07/07(土) 14:14:21.59
>>988
>卑弥呼は公孫氏の滅亡の翌年に遣使している。<
卑弥呼の遣使の帯方郡到着は景初二年六月。
公孫氏の滅亡は、三国志公孫度伝に拠って、
「二年春、遣太尉司馬宣王征淵。六月、軍至遼東」であり、
「八月丙寅夜、大流星長數十丈、從首山東北墜襄平城東南。壬午、淵衆潰」
であるから、景初二年八月。 354日本@名無史さん2018/07/07(土) 14:17:01.77
>>352
畿内説は九州説と違ってそんな無意味な主張はしない
どこにでも設定できてしまうから根拠として弱い
さらに畿内には考古学的証拠も充実しているし
それに九州北部の端まで行っても1万700余里
次の記述では水行10日で投馬国とある 355日本@名無史さん2018/07/07(土) 14:20:37.43
356日本@名無史さん2018/07/07(土) 14:20:55.55
結論ありきの循環論法が得意だね。
357日本@名無史さん2018/07/07(土) 14:21:53.14
九州説が?
358日本@名無史さん2018/07/07(土) 14:22:00.29
>>354
>さらに畿内には考古学的証拠も充実しているし
どんな証拠? 359日本@名無史さん2018/07/07(土) 14:23:18.69
三角縁神獣鏡とか前方後円墳
360日本@名無史さん2018/07/07(土) 14:23:26.24
九州のお爺さんにとって本州は地の果てのように遠い
361日本@名無史さん2018/07/07(土) 14:23:43.80
>>991
>畿内説が想定する範囲に、「別の国名」は付けられていないんだ<
畿内なんて存在していなかったんだから、×。
>伊都国、奴国が、邪馬台国とは別の国名で独立して記載されている以上、
邪馬台国を重ねる読み方は、「異常」としか言いようがない<
大和説者が使う「邪馬台国」と言う文言も、存在していなかったから、×。 362日本@名無史さん2018/07/07(土) 14:25:19.00
363日本@名無史さん2018/07/07(土) 14:29:27.23
>>992
>要するに二重帳簿サギだよ
合わない帳尻が合うマジック<
要するに大和説者が使う「南→東」や「は、「邪馬壹國→邪馬台国」説は、
二重の帳簿サギだよ。
合わない帳尻が合うマジック?。 364日本@名無史さん2018/07/07(土) 14:31:00.53
ネタじゃなくてガチで九州説を信じてるっぽいな
今ごろは珍しいタイプなのかも知れない
365日本@名無史さん2018/07/07(土) 14:33:51.58
>>996
>九州説はインチキしないと何も説明できないからなあ<
「南→東」や「邪馬壹國→邪馬台国」などの嘘吐き騙しのインチキをしないと、
大和説は、何も説明できないからなあ。 366日本@名無史さん2018/07/07(土) 14:40:05.44
367日本@名無史さん2018/07/07(土) 14:40:33.92
ザラコクや中傷するのみの九州説は明らかにエセ九州説
議論になれば負けるから中傷だけして逃げる
ある意味畿内説をよく理解してると言える
368日本@名無史さん2018/07/07(土) 14:42:20.09
>>143
> 以上、みんな荒らし w<
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
ほぼみんな荒らし。w。 369日本@名無史さん2018/07/07(土) 15:01:29.46
>>366
じゃあ、アナタは出所不明情報をどうして信用できるの? 370日本@名無史さん2018/07/07(土) 15:09:11.80
371日本@名無史さん2018/07/07(土) 15:45:06.92
陳寿が倭を長江よりずっと南だと思ってる以上、短里なんて無いのは確定だろ
372日本@名無史さん2018/07/07(土) 15:56:12.99
>>334
「魏の里が使われていなかった」のではなく、
「魏の里で書かれた距離が正しくなく、規則性もなかった」 373日本@名無史さん2018/07/07(土) 16:07:59.74
ハワイと同じ緯度の海南島と有無する所が同じで
「倭地温暖 冬夏食生菜 皆徒跣」の記述や
「人長三四尺 去女王四千餘里」の南方の里数表記からして
誤情報が混ざってるよ
374日本@名無史さん2018/07/07(土) 16:12:22.99
>>330
こういうのは短里があると主張する側がやらなきゃいかんのに
あいつら短里があると言い張るだけだもんな
あと、帯方郡は沙里院だから帯方郡ー狗邪韓国の距離は少なくとも1000kmはあるだろうな
どの程度海岸線に沿って航行したか不明だが海岸線べったりだと1500kmにもなる 375日本@名無史さん2018/07/07(土) 16:42:11.65
脳ミソがタンリないんだよ
376日本@名無史さん2018/07/07(土) 16:44:54.55
東夷伝でだけ統一的に短い里程なんだから
東夷伝以外の地域との里程と比較しないと無意味。
377日本@名無史さん2018/07/07(土) 16:52:23.62
荒域之外が不統一に広大だな
378日本@名無史さん2018/07/07(土) 17:04:58.66
1里50m〜200mはそんなに統一的か?
379日本@名無史さん2018/07/07(土) 17:08:00.41
すくなくとも魏の里ではない。
380日本@名無史さん2018/07/07(土) 17:08:55.18
サンプル数が少ないから精度は低いが、魏の里でないなら、今あるデータを平均して用いるしかない。
381日本@名無史さん2018/07/07(土) 17:10:54.42
半島の海岸線1500キロを7000里としているので、里は200メートルほど。
やはり短里だ。
382日本@名無史さん2018/07/07(土) 17:12:51.73
そうさ、現場合わせでよかろうもん
383日本@名無史さん2018/07/07(土) 17:48:35.94
答辞にありがちな不正確な数値を何でも短里短里と要ってるんじゃねーぞ
384日本@名無史さん2018/07/07(土) 17:52:44.00
200m@里だとプサンから真南に千里で五島に行けるな
385日本@名無史さん2018/07/07(土) 18:10:57.54
386日本@名無史さん2018/07/07(土) 18:16:14.84
規則性がないという根拠は?
387日本@名無史さん2018/07/07(土) 18:16:49.77
>>161
>倭人伝の記述は畿内説で一致してると思いますが<
畿内なんて存在しなかったし、「南≠東」だけで既に×ね。
>岡上氏は東遷は肯定の立場
奥村氏は東遷は否定の立場 でいいですよね
と理解してます<
あったのは、「自昔・・・東征毛人五十五國」だし、
「東遷」という事があったんなら、そりゃ、
(卑弥呼や彼女以後ではなく)紀元前91年頃の神武の話だし、
その旧小国の大和が、母国の九州倭国を併合吸収継承したのは、白村江の後。 388日本@名無史さん2018/07/07(土) 18:19:10.52
>>341
>要は、新しい情報が出てくれば、その情報と、それまで知り得た情報とを足して、
これ、新しい情報でもなんでもなくて、何十年も前から分かっていたことだぞ?
そんなことも知らず、確認せずに、不正確が思い込みを正しいとして、大嘘の書き込みを
何十年も続けてきたことに対する、反省と謝罪はないのか? 389日本@名無史さん2018/07/07(土) 18:25:25.07
>>169
>なぜ、キナイコシは、分かったうえで、それを倭国の首都と嘘の宣伝をするのだろうか、、、<
大和説者は、ほぼ全運が、
戦前の「万世一系の皇国史観」を信仰する・・・・人種だから。 390日本@名無史さん2018/07/07(土) 18:25:30.10
>>380
>サンプル数が少ないから精度は低いが、魏の里でないなら、今あるデータを平均して用いるしかない
たとえば、3センチの消しゴムと2メートルの物干し竿と15センチの鉛筆があったとして、
この3,200,15という何の関係のない数字であっても、平均を計算することはできるんですよ
72.7センチになりますが、この数字にどんな意味があると思いますか?
末慮国ー伊都国間と、伊都国ー奴国間で4倍異なる数字を平均すればよいという
あなたの主張は、これと同じです 391日本@名無史さん2018/07/07(土) 18:41:43.21
>>389
>大和説者は、ほぼ全運が、
戦前の「万世一系の皇国史観」を信仰する・・・・人種だから。
万世一系の天皇家が、古代に中国に朝貢してた史実は非常にまずいだろ。
右翼的には辛くて耐えられないよね。
だから江戸時代の国学者が九州説という虚構を創ったんだよ。
まだ分からないお前はハゲ? 392日本@名無史さん2018/07/07(土) 18:43:59.78
>>381
>半島の海岸線1500キロを7000里としている
リアス式海岸を、海岸線に沿って航行していたわけではないので、
そんなに長くはならないよ
乍南乍東とあるが、半島とその周辺の島の外側を接線でつなぐように航行すれば
いいから、大体730キロくらいで着く
>>330の計算で問題ない 393日本@名無史さん2018/07/07(土) 18:45:35.79
>>176
>(キウス?)ザラコクさん
✖畿内説はわかりましたが<
ありがとうございます。
>貴君の邪馬台国の論を書き込んでくれませんか
畿内説のスレだから他説の強要はしません<
私は別に古代史が専門でもないし、古代史は趣味程度であり、
古代史の本を論文も書いた事がありません。
そして、ほぼ、
古田説や古賀さんや正木さんや内倉さんらの、九州王朝説が一番正しい、
思っており、
和田家文書偽書説は間違っている、と思います。
しかし、私は、古田論以外に、
宝賀さんらの祇園山説や、松野氏姫氏系図も、信頼性が非常に高い、
と思っています。
自然や歴史の学問や科学では、
観察実験計測事実からの「何故そのような事が起きたのか?」という事の、
帰納的確率的な推論をする事が非常に大切だ、と思っています。 394日本@名無史さん2018/07/07(土) 18:48:26.99
ザラコクさんが
・大和朝廷もなかったから、×。
・畿内もなかったから、×。
・「南≠東」だから、×。
・天皇もいなかったから、×。
って言い続けているのって、単に根拠を挙げた討論ができないから
逃げのごまかしで書いてるだけなんだよね
九州説は惨めだww
395日本@名無史さん2018/07/07(土) 18:50:25.01
>>392
そういう航路をとれるのは正確な地図がありGPSで位置を認識できることが前提になる
海上から陸地を目視できる範囲でしか航行できない
お前の言い分は机上の空論 396日本@名無史さん2018/07/07(土) 18:50:44.59
>>177
>アマテラスは本来は男神と言われているからな イザナギの子は男ばかりだし
日は東から西に、日が西に移った後は夜
西の伊都国にアマテラス、東の大阪に月読 <
「東と西」の方向決定が判っていたんなら、「大和説の否定」になりますね。
≫日本書紀によると、ヒルコが生まれた時には既に日神、月神がいたとある
日向の伊都国を治めたアマテラス、 日本の夜の食国を治めた月読、
それらに遅れて生まれる不完全な存在ヒルコ、
卑弥呼はヒルコかもしれないな<
年代が合わないですね。 397日本@名無史さん2018/07/07(土) 18:58:30.59
事代主
┣━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
┣━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
ヒミコ、トヨをはじめ鴨(神)族の墓は奈良盆地最上座の高天原(御所市高天)にある。
日本最古の神社の境内に径百余歩の塚があり、魏志の記述通り奴婢が埋葬されている。
埋葬された奴婢とは土蜘蛛だ。
ヒミコの時代から1700年後、土蜘蛛の末裔たちが高天原の麓で声を上げる。
「人の世に熱あれ 人間(じんかん)に光あれ」
この地が水平社運動の原点となる。
ヒミコ=ヒメ(踏鞴五十鈴)媛の時代、土蜘蛛=奴婢を束ねた男がいた。
日向から来た神武である。
だから今でも水平社博物館と神武社が並んでいるのだ。
398日本@名無史さん2018/07/07(土) 18:59:13.79
>>184
>しかし、不思議だな、、、、倭国はいつ亡くなったのだろうか。。。<
盟主の座を失ったのは、白村江の後の大宝元年からだが、
倭国の残映は平安中期頃までは筑紫や太宰府に残っており、
戦国の頃までは、尚も山口以西に、倭国時代の役職を名乗った武将がいたようだね。 399日本@名無史さん2018/07/07(土) 19:04:01.67
>>186
>日本国は、倭国の生口の捕獲に備える為に自然発生した可能性があるな。。<
やはり、九州倭国の、
「自昔・・・東征毛人五十五國」の東征将軍や、
「地方の市を監督する大倭職」が、
大和日本国の発生原因なんでしょうね。 400日本@名無史さん2018/07/07(土) 19:18:15.17
「地方の市を監督する大倭職」が、畿内にあるなら
倭国の範囲が畿内に及ぶ広域説
401日本@名無史さん2018/07/07(土) 19:22:08.57
>>189
>『日本史の論点 邪馬台国から象徴天皇制まで』中公新書編集部(2018/8/17)
執筆分担:古代・倉本一宏(国際日本文化研究センター教授)
倉本は九州説だけどちょっと調べてみたら凄い説を唱えてるわ
@「水行十日、陸行一月」は帯方郡から邪馬台国までの行程
A当時、畿内勢は呉と交流があった
B九州王朝があって磐井の乱が畿内勢との最終決戦 <
@とBは、古田さんや私とほぼ同じだが、
「邪馬台国」なんて書いている事や、Aは、
古田論とは違うね。
大和は、九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一国の旧小国、
であったんだから。 402日本@名無史さん2018/07/07(土) 19:24:58.97
古田さんって誰?
元ヤクルトのキャッチャー?
403日本@名無史さん2018/07/07(土) 19:26:40.95
倉本一宏って平安時代の日記読んでる人だろ
404日本@名無史さん2018/07/07(土) 19:27:38.24
>>190
>1万2千里=水行10日陸行1月
水行は一日航海千里の規定を適用<
水行10日陸行1月 は、所要実日数だと思うし、
1万2千里の「里数」記載は、
一寸千里や簡易三角測量や記里車や歩測などの実測だろう、と思うよ。 405日本@名無史さん2018/07/07(土) 19:29:41.79
>>392
こいつがバカなのは人間は飲まず食わずで生きてられる前提で航路を考えてるところ
だが飯を食うため夜間は陸に上がる
1日の航行で半島の先から先に都合よく行けるはずがない
航行距離を短く見せかけようと、沖合を通る前提にすればするほど陸地との往復で距離が増える
陸地から10km沖合を航行するとしたら毎日余分に10kmを往復しなければならない
距離を短くしたいがために非現実的な航路を想定したが、墓穴を掘ってるだけ 406日本@名無史さん2018/07/07(土) 19:30:17.47
>>395
>そういう航路をとれるのは正確な地図がありGPSで位置を認識できることが前提になる
>海上から陸地を目視できる範囲でしか航行できない
海上から陸地を目視できる範囲って、案外広いぞ
それに、>>392の数値は、Yahoo!Mapで、かなり細かく折れ線で実測した値だよ
リアス式海岸をいちいち出入りしなければ、そんなに長い距離にはならない
>お前の言い分は机上の空論
こういうことを書いてる暇があったら、自分でも測ってみてごらんよ
それで具体的な数値を出して批判してごらんww
九州説は、いつでも感情的な言葉を並べるだけで、具体的な根拠、数値が出せないww 407日本@名無史さん2018/07/07(土) 19:31:19.41
北部九州は「西服衆夷六十六國」の中の諸国
毛人は「東界、北界有大山爲限、山外即毛人之國」
408日本@名無史さん2018/07/07(土) 19:33:28.92
邪馬台国畿内説の人の主張を聞いているとオウムのようだ。
409日本@名無史さん2018/07/07(土) 19:33:57.01
>>405
>こいつがバカなのは人間は飲まず食わずで生きてられる前提で航路を考えてるところ
>>395と同じ人だね
誰もそんなこと(飲まず食わず無寄港航海)は言ってないだろうがw
リアス式海岸を出入りせずに、見えてる島の外接線をつなぐように
航海するだけだってば!
半島沿いは「水行」って書いてあるから、いつでも陸に逃げられる安全な航海だよ
自分で測って数値を出してごらんww
話はそれからだw 410日本@名無史さん2018/07/07(土) 19:34:44.43
邪馬台国はヤマト国
他の畿内は関係ない
411日本@名無史さん2018/07/07(土) 19:36:42.20
>>191
>三国志時代の呉は滅亡(280年)の際2万の水軍は九州から畿内に移動した <
水軍の話なら、
松浦水軍や、伊予の村上水軍や、熊野水軍や、坂東水軍?、
の名前はちらほら見るが、
「畿内の水軍」の名前は聞かんなあ。 412subo2018/07/07(土) 19:36:45.71
1万2千里=水行10日陸行1月
畿内厨はいつまで寝ぼけたこといってんだ!(ぼけ!
413日本@名無史さん2018/07/07(土) 19:37:23.46
死刑執行されたオウム真理教の松本智津夫は九州熊本人
裏のトップと言われた早川紀代秀は兵庫人
414日本@名無史さん2018/07/07(土) 19:38:07.67
>>408
>邪馬台国畿内説の人の主張を聞いているとオウムのようだ。
オウム返しはザラコクさんの持ち芸だよw
そして、ザラコクさんは畿内説ではない
ちゃんと尊重してあげないとww 415subo2018/07/07(土) 19:38:27.15
>>411
畿内ヤマトは呉の復興であった。
呉藍とか見つかっただろ 416subo2018/07/07(土) 19:39:46.10
陸行の里程については末蘆国から伊都国の5百里から推測するといい
417subo2018/07/07(土) 19:40:39.52
418日本@名無史さん2018/07/07(土) 19:40:45.96
>>412
>1万2千里=水行10日陸行1月
はい、これがウソw
その伝でいくと、投馬国までは2万里くらいになるのかな?ww
玄界灘のあたりまで来て、そこから水行20日で投馬国
投馬国から水行10日陸行1月って書いてあるのを、
恣意的に無理読みするから、そんな変なことを言い出すんだよww 419subo2018/07/07(土) 19:42:07.55
420日本@名無史さん2018/07/07(土) 19:42:28.28
>>192
>ザラコクさん ✖畿内説はわかりましたが 貴君の邪馬台国の論を書き込んでくれませんか
畿内説のスレだから他説の強要はしません<
私は、本は書いておりません。
邪馬壹國や倭國の歴史なら、掲示板に書いて来た事がほぼ全てであり、
祇園山と松野氏姫氏系図以外は、大体古田説と同じです。 421subo2018/07/07(土) 19:45:00.68
>>404
一日航海千里の規定は伊作さんの意見を採用 422日本@名無史さん2018/07/07(土) 19:46:03.40
やはり、畿内説を宣伝するキナイコシが、無残に論破されたか、、、
423日本@名無史さん2018/07/07(土) 19:46:07.33
>>419
ここは科学板なんだから、九州説を主張したいなら、
根拠と論拠を示して、自説の正しさ、蓋然性の高さを論証して見せればいいんだよ
説得力のある、蓋然性の高い説をきちんと論理的に示せば、
きちんと相手をしてくれる人がいるから
それをせずに、誹謗中傷に走るっていうのは、科学的批判に耐えられる説を
持っていないという告白に他ならないww
ザラコクさんやキウスや伊都クズの同類と思われなくないだろ?
と書きながら、>>419がキウスだってのは分かってるけどさww 424subo2018/07/07(土) 19:47:24.85
>>418
帯方郡から水行20日で投馬国、一日航海千里の規定により水行20日は2万里。 425日本@名無史さん2018/07/07(土) 19:48:12.78
426subo2018/07/07(土) 19:49:29.77
427日本@名無史さん2018/07/07(土) 19:49:56.07
若草山山頂古墳、牛塚
何で毎年炎に包まれるんだろ?
地獄の業火に焼かれ続けるようなことしたのか?
428日本@名無史さん2018/07/07(土) 19:50:44.03
>>423
>ここは科学板なんだから
いつから科学板になったんだよ、ここは日本史板。
勘違いするな。
考古学専門でやりたいなら考古学板があるのでそっちでやれ。 429subo2018/07/07(土) 19:51:17.42
オウム真理教はCIAの工作機関であった。
アメリカと畿内厨は怖いね
430日本@名無史さん2018/07/07(土) 19:52:58.56
様々に、言い訳をしても、やはり畿内説を宣伝するキナイコシが追い詰められてしまったことが明らかだね、、、、
431日本@名無史さん2018/07/07(土) 19:54:36.58
>>194
>そもそも九州北部の端の不彌国までの里を合計すると1万700里
邪馬台国まで1万2000里と書いてあるなら邪馬台国は
九州北部にはない事になるんじゃ<
陳寿は、方四百余里の對海國と、方三百里の一大國の、
それぞれの「国内見聞移動」をした事の記載を書いているから、
それを足して置かなければならないし、
奴國への投馬國へは、起点説明と到着説明との間に、
「途中移動を実際にした事が書かれていない」から、
魏使らは、その二国へは移動しておらず、
だから、不彌國で、萬二千余里が殆ど終わっている事になり、
だから不彌國から「南邪馬台国」も、途中移動が殆ど無しに到着する事になり、
だから、北部九州(ほぼ福岡平野中央部〜筑紫平野及びその周辺丘陵地)だろう、
という事になるの。 432日本@名無史さん2018/07/07(土) 19:54:48.47
suboとかいうコテは新手の基地なの?
かんべんして欲しいなぁ
ザラコクとキウスと連続句読点と畿内説連呼厨ってのが、既に荒らしまくってるのに
433日本@名無史さん2018/07/07(土) 19:57:13.77
>>196
>それなら邪馬台国まで1万2000余里と書いてなきゃね
余はあんまわからないという事だから
つまり邪馬台国まで1万2000里と書いてあるのは正確な数値じゃないという事<
「自郡至女王國萬二千餘里」とはっきり書いてあるの。 434日本@名無史さん2018/07/07(土) 19:57:30.42
>>430
やはり、畿内説が本当は、東遷説だとばれたことが、致命的だったのだね、、、 435日本@名無史さん2018/07/07(土) 19:59:01.42
南へは行かないどろぼう偽書古田説
436日本@名無史さん2018/07/07(土) 19:59:49.01
>>428
>いつから科学板になったんだよ、ここは日本史板。
>勘違いするな。
>考古学専門でやりたいなら考古学板があるのでそっちでやれ。
つ【学問・文系】心理学 /言語学 /方言 /教育学 /社会学 /経済学 /文学 /詩文学 /「日本史」 /日本近代史 /世界史 /「考古学」 /
日本史板も、考古学板も【学問・文系】カテゴリーだよ
【学問・文系】と【学問・理系】にある板の俗称が、科学板
勘違いしているのは、そっち
文系も「科学」だからな!
歴史は人文科学の一分野
だから、きちんと根拠や原典を示して論じてくれ! 437日本@名無史さん2018/07/07(土) 20:00:44.31
>>198
>よく知らない人を洗脳する目的でのみやってるからな九州説は<
よく知らない学生生徒や国民を、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説に、
洗脳する目的、
でのみやってるからな、大和説者は 。 438subo2018/07/07(土) 20:02:07.41
>>423
久しぶりにきたら忘れ去られていた、、、、、
孝霊厨や鼻ホジはたまにはきてるのか? 439日本@名無史さん2018/07/07(土) 20:03:00.65
>>434
倭国と日本国が、別の国家であることがはっきりし、東遷などあり得ないから、畿内説は破綻したのだったのだね。。。。 440日本@名無史さん2018/07/07(土) 20:06:55.94
>>202
>それがどうかしたのか
1万2000里と書いてあるのは正確なものではないとはっきりした以上
女王国でもどこでも指しているものじゃないという事だ <
それがどうかしたのか?。
1万2000余里と書いてあるのは、ほぼ正確なものである、とはっきりした以上
邪馬壹國女王之所都は、大和説者らが言うような、
「6倍位も違う大和」を指しているものじゃないという事だ。
勿論、「南≠東」などによっても、大和ではない、っという事だ。 441subo2018/07/07(土) 20:11:38.45
徐福の平原広沢とは邪馬台国(筑紫平野)のことである(ふむふむ
442subo2018/07/07(土) 20:13:29.42
畿内ヤマトは狗奴国(熊本平野)の東征であった。
443日本@名無史さん2018/07/07(土) 20:15:00.09
キナイコシが、また論破された、、、、
444日本@名無史さん2018/07/07(土) 20:18:26.60
熊本城のすぐ南側は狗奴国だったのだね。。。。
445日本@名無史さん2018/07/07(土) 20:18:35.42
>>206
>足し算ができるなら 魏志倭人伝の里程を足してみたらいい
九州の端と考えられている不彌国までで1万700(余)里となる事がわかるだろう<
足し算ができるなら、魏志倭人伝の里程を、
方四百余里の對海國のの国内移動や、方三百里の一大國の国内移動も、
足してみたらいい 。
不彌國で、萬二千余里がほぼ終わっている事が判るから。
>九州の端と考えられている不彌国までで1万700(余)里となる事がわかるだろう<
嘘つき騙しの・・・・大和説者では判らんだろう。
>九州説が邪馬台国は九州北部と主張するが
もしそうなら魏志倭人伝に邪馬台国までは1万2000里、ではなくて
邪馬台国までは1万700余里と記されていなければ辻褄が合わないのである<
史料事実は、「自郡至女王國萬二千餘里」と書かれている、という事であり、
陳寿の里数の合計が「1万700余里」だとしか読めなかったこの男は、
魏志が読めなかったアホであったか?、
「自郡至女王國萬二千餘里」を否定曲解した・・・・アホな詐欺師であった、
という事だ。 446日本@名無史さん2018/07/07(土) 20:22:06.02
>>211
>ならば、 自郡至奴国一万二千余里と書かれたであろう
書かれたことと後漢書の解釈ごととは別次元である<
魏志は、きちんと「自郡至女王國萬二千餘里」と書いてくれているんだから、
そう読めない大和説者は、・・・・アホだった、という事だ。 447日本@名無史さん2018/07/07(土) 20:26:52.25
>>212
>悔し紛れに人格攻撃か?それも的外れの
それでよく邪馬台国の位置を論じるよね<
悔し紛れに人格攻撃か?。
それも的外れや、
「邪馬台国」なんて存在もしないウソを書き、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説でも主張しているのか?。
それでよく「邪馬壹國、女王之所都」の位置を論じるよね?。 448日本@名無史さん2018/07/07(土) 20:29:13.57
>>392
>乍南乍東とあるが、半島とその周辺の島の外側を接線でつなぐように航行すれば
>いいから、大体730キロくらいで着く
730キロを7000里としているので、1里は100メートルほど。
ふむ。 449日本@名無史さん2018/07/07(土) 20:29:37.76
>>213
>畿内に決まってるでしょ W <
「畿内」なんて存在していなかったんだし、
大和説なら、始めから「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・詐欺師である、
という事に決まっているでしょ?。 450日本@名無史さん2018/07/07(土) 20:30:21.35
福岡は会稽の東にはならいから行程を根拠にするなら
さらに南に進まなければならない
451日本@名無史さん2018/07/07(土) 20:31:37.02
福岡は会稽の東にはならない ○
452日本@名無史さん2018/07/07(土) 20:41:46.28
>>221
>魏の1里=430m <
魏の1里が430mなら、
「自郡至女王國萬二千餘里」の女王國は、赤道付近にまで行ってしまう、
という事になるぞ。
という事は、「魏の1里=430m」ではなかった、という事であり、
この男や長里説大和説者らは、
「南→東」などの嘘つき騙しであったのと同じように、
嘘つき騙しの・・・・詐欺師であった、という事だ。 453日本@名無史さん2018/07/07(土) 20:44:46.19
>>431
>>445
方400里、方300里は島の周囲を記したもので移動した距離ではないよ
何故なら行、水行、陸行などの途中移動の動詞がないからな 454日本@名無史さん2018/07/07(土) 20:47:16.50
>>452
だから邪馬台国まで1万2千里というのは間違った数値なんだろ 455日本@名無史さん2018/07/07(土) 20:49:44.71
456日本@名無史さん2018/07/07(土) 20:51:57.37
>>223
>ほー ならますます1万2000里は正確ではない数値になるな <
始めから有効数字1桁程度の概数記載であるから、
「100%正確」な数字ではなく、近似値であったのであり、
(大和説者らが言うような)6倍位も違う長里ではなかった、という事だな。
>九州北部を指す数字じゃないんじゃない <
ほぼ筑紫付近を指し示しているが、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者らの言うような「1里=430m」では、
赤道付近にまで行ってしまっており、
大和説が間違いであった、という事も根拠になる。 457日本@名無史さん2018/07/07(土) 20:59:33.48
>>224
>それでは対馬海峡が三千里にならないから、間違いだとわかる。<
この男も、やっぱりまた、「南→東」などに嘘つき騙しの大和説者だな?。
「対馬海峡」というものが、
どの海峡部分を指しているのか?を、はっきり言わずに隠している。
三千里というのは、当然半島から九州の海上距離の筈だが、
対馬海峡という言葉は、対馬海流という表現があるように、
対馬と壱岐の間の海を意味する。 458日本@名無史さん2018/07/07(土) 21:02:54.40
九服の制の1里が度量衡ではなく観念的な距離だから
459日本@名無史さん2018/07/07(土) 21:06:49.49
>>227
>つまり対馬海峡が三千里は計測を間違った記述なんだな <」
釜山〜唐津なら直線距離は230km位の筈。
それが三千里なら、1里は76.6〜76.7mになり、
(長里の1里=430mは6倍位も違っており)、
短里で正しかった、
という事になる。 460日本@名無史さん2018/07/07(土) 21:14:46.91
>>229
>残り約1300里なら九州北部出るのに十分だろう<
残りが1300里にならず、
不彌國でほぼ「萬二千余里がほぼ終わっている」んだから、
北部九州から出られないし、
「残りが1300里」であったとしても、それは海峡幅の半分以下であるから、
北部九州内の内にしかならず、北部九州から出られない。 461日本@名無史さん2018/07/07(土) 21:21:10.19
>>459
じゃあ古田島巡り説は、ウソなんだな?
w 462日本@名無史さん2018/07/07(土) 21:23:53.39
>>456
あたま悪すぎるな
だから邪馬台国まで1万2千里というのは間違った数値だと言ってるだろ
陳寿も倭が台湾くらい南だと思ってる 463日本@名無史さん2018/07/07(土) 21:24:15.92
>>231
>九州説はいつも九州上陸までで1万里って言い回しをするよな<
有効数字1桁近似値と、海峡渡海部分を足した概数だな。
漢書注の如淳が使った。
>正確に言うと里程が書かれている九州の端(と思われる) 不彌国までで1万700(余)里なのに
都合が悪いんだろうか<
それ「正確」にはなっていない。
對海國と一大國の国内見聞移動の記載がある事を加えていないから、
インチキ騙し。 464日本@名無史さん2018/07/07(土) 21:28:55.22
>>233
>書いてない余の部分を九州北部に当てはめるように創作する九州説の方が
詐欺的であり循環論法的<
書いてある余の部分を、全くなかったかのように解釈して、
九州北部には当てはまらないように創作する大和説者の方が、
詐欺的であり循環論法的。 465日本@名無史さん2018/07/07(土) 21:31:40.75
>>443
論破されたあとも、畿内説の宣伝を続ける図太さは、キナイコシの特徴の一つだな、、、 466日本@名無史さん2018/07/07(土) 21:35:45.26
>>234
>対馬海峡までは百里単位が省略されていると思われるので、
その数字は正確ではないよ。<
元々、有効数字1桁近似値であった上に、
「余」という余りがある記載とない記載が混在しているのだから、
始めから、それ位の近似値だ、というつもりで、
陳寿は記載している。
それに「正確」である事を要求しているこの者は、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和者と同じ・・・・詐欺師。 467日本@名無史さん2018/07/07(土) 21:36:14.75
キナイコシが論破されたことは、悪口を言い始めたことで、明らかだな。。。。
468日本@名無史さん2018/07/07(土) 21:47:33.42
キナイコシが論破された内容は、有効数字1桁近似値のことではないのかな。。
469日本@名無史さん2018/07/07(土) 21:47:37.61
「余」で勝負するというのか、
古代人にも及ばぬ情けない奴らだ。。。。
470日本@名無史さん2018/07/07(土) 21:49:33.64
>>235
>言っとくけど短里なんて存在してないからな
1里430mで換算すれば残り1300里は500km
畿内に届くけど畿内説はそんな主張はしない
なぜなら魏志倭人伝に書いてある距離は正確ではない事が明らかだから<
言っとくけど長里なんて存在してないからな。
長里1里430mで換算すれば、
「自郡至女王國萬二千餘里」では、始めから赤道付近にいってしまうし、
残り1300里ではないし、
「畿内」なんて、存在もしない嘘つき騙しの広域にすり替えているし、、
大和説者はいるし、わざわざ存在もしない畿内説と主張しているし、
この大和説男は、
魏志倭人伝に書いてある近似的距離を、100%正確である事を要求して、
差異がある、と言って世間の人々を騙そうとしている、
嘘つき騙しの・・・・詐欺師である、という事が明らかだから。 471日本@名無史さん2018/07/07(土) 21:52:37.99
キナイコシが論破されたあとは、九州説同士の戦いになるな、、
472日本@名無史さん2018/07/07(土) 21:53:48.79
キナイコシ
もう少し頑張れよ
からかいが無くなる
473日本@名無史さん2018/07/07(土) 21:55:15.04
>>236
>なら1万2千里は正確なものと言えない
どこを指すものでもない里数というわけだ<
だから、この大和説男は、
「自郡至女王國萬二千餘里」がほぼ正確な数字であり、筑紫を指している、
という事をヘイトスピーチ的な否定抹殺をする・・・・詐欺師であった、
というわけだ。 474subo2018/07/07(土) 21:55:45.75
475日本@名無史さん2018/07/07(土) 21:56:49.51
>>463
見聞移動?
じゃあ島内陸行なの?
言ってることが不統一だな
インチキ騙しなの? 476日本@名無史さん2018/07/07(土) 21:57:16.91
>>238
>上陸前が短里なのに、上陸後だけ長里にするのはおかしいだろ<
賛成。 477日本@名無史さん2018/07/07(土) 22:03:34.59
短里なんて出所不明怪情報を使った時点で、九州説はトンデモなんだよ
478日本@名無史さん2018/07/07(土) 22:04:58.99
>>476
だから、短里とか妄言を吐いてるのは九州説だけ 479日本@名無史さん2018/07/07(土) 22:07:16.72
「自郡至女王國 萬二千餘里」
女王國の境界までが12000里だから1里の距離はほとんど関係ない
行程なら
北部九州の女王國の境界から南に水行二十日(旁國を通らない)で投馬國
さらに會稽〜東冶のあたりまで南に水行十日陸行一月で邪馬臺國の女王之都
漢人には帯方郡からどのくらいの距離南下すれば會稽〜東冶のあたりか
という距離感のほうが正確だから
それが九州最南部〜沖縄か、畿内かという話
480日本@名無史さん2018/07/07(土) 22:13:40.12
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日
邪馬台国時代の遺物の出土状況
481日本@名無史さん2018/07/07(土) 22:20:03.18
萬二千餘里は旁國を列記した後に書いてるから
女王國は旁國を含めた全体
女王國以北は一大率が檢察する伊都國王を含む諸國
女王國と従属国を合わせて倭国
482日本@名無史さん2018/07/07(土) 22:23:38.60
>>481
あなた、道里が不明と書いてある国々までの距離がわかってると言い張るのは、もちろんウソつき騙しだよね? 483日本@名無史さん2018/07/07(土) 22:25:30.29
帶方郡即ち臨津江口より狗邪韓國即ち金海に至る海上の距離は、大約二百餘里なるを、『魏志』には七千餘里となす。
故に此間の三十五里は我が一里に當る。
又狗邪韓國より九州の末盧國即ち松浦郡に至る海上の里程は、大約六十餘里に過ぎざるを、『魏志』には之を三千餘里となす。
故に此間の五十里は我が一里に當る。
又末盧國より不彌國即ち太宰府の附近に至る陸上の距離は大約三十里を出でざるに、『魏志』には之を七百里となす。
故に此間の二十三、四里は我が一里に當る。
此の如く『魏志』倭人傳に見えたる里程の標準は區々にして一定せざる上に以下略
ダメじゃん九州説
484日本@名無史さん2018/07/07(土) 22:25:38.22
言ったことがないから距離がわからないだけ。
485日本@名無史さん2018/07/07(土) 22:25:44.26
>>482
道里が不明と書いてある国々までの距離がわかってるとは言い張ってない 486日本@名無史さん2018/07/07(土) 22:34:37.24
>>481
>萬二千餘里は旁國を列記した後に書いてるから
>女王國は旁國を含めた全体
>女王國以北は一大率が檢察する伊都國王を含む諸國
>女王國と従属国を合わせて倭国
わかりやすい。 487subo2018/07/07(土) 22:39:16.96
周旋5千里とは福岡西部、佐賀県、長崎県(島原半島を除く)の外周である。
488日本@名無史さん2018/07/07(土) 22:39:19.34
>>484
それなのに、そこが会稽より南だとか言うのは、ザラコク並みのウソつき騙し人間だけだよな 489subo2018/07/07(土) 22:40:35.83
末蘆国から伊都国経由で2千里、長崎周りで3千里、合計5千里である。
490日本@名無史さん2018/07/07(土) 22:41:34.70
491日本@名無史さん2018/07/07(土) 22:43:56.43
>>487
九州説は結論を言い張るばかりで理由を言ったことかないな
トンデモだから 492日本@名無史さん2018/07/07(土) 22:44:30.81
493日本@名無史さん2018/07/07(土) 22:45:12.61
>>240
>そもそも有効桁数の加減算の意味が分かっとらんな 笑止千万里!!<
そもそも、この男も、
魏使らの記録が、有効数字1桁程度の近似計測値で、あったのであって、
それを、魏使らや陳寿らは単純合算した概数を記載した、
という事が判っていないな?。
笑止千万な、長里説の大和説者の脳。 494subo2018/07/07(土) 22:45:40.82
>>491
周旋5千里の内容をコンパクトに説明してますよ。 495subo2018/07/07(土) 22:46:36.48
里程に行程を加えてはならない(基本である
496日本@名無史さん2018/07/07(土) 22:47:52.51
>>241
>そもそも短里がおかしいだろ <
そもそも、長里では「自郡至女王國萬二千餘里」が赤道付近にまで行ってしまい、
始めからおかしい、という事が自明だろ?。 497日本@名無史さん2018/07/07(土) 22:49:31.08
>>496
たから南水行は東の間違いなんですが、なにか? 498日本@名無史さん2018/07/07(土) 22:51:11.26
□全行程12,000里のうち日本上陸後は2,000里以下であることには論争がない。
帯方郡
↓
↓←7,000里
↓
狗邪韓国(釜山あたり)
↓
↓←1,000里
↓
◇対馬・・・・・・・・・・・・累計8,000里
↓
↓←1,000里
↓
◇壱岐・・・・・・・・・・・・累計9,000里
↓
↓←1,000里
↓
佐賀県松浦半島?・・・・・・・■累計10,000里=残り2,000里(※)
↓
↓
↓
邪馬一国・・・・・・・・・・帯方郡より12,000里
■ここで短里に反論できないと、残りは154キロメートル(=2000×77)ほどしかないこととなる。
佐賀県松浦半島?から154Kmで何処に到達するのであろう
九州か中四国 畿内には到達できない
499日本@名無史さん2018/07/07(土) 22:54:36.37
一里を500Mとした場合
12,000里とある。普通の里なら6,000Kmだから赤道直下になろう。
500日本@名無史さん2018/07/07(土) 22:54:41.13
帯方郡より12000里で邪馬臺國とは書いてない
「自郡至女王國 萬二千餘里」
501日本@名無史さん2018/07/07(土) 22:55:24.08
>>496
当時の人はベトナム北部くらいで洛陽の南1万里だと思ってるから赤道とか行かない 502日本@名無史さん2018/07/07(土) 22:57:10.01
あのさあ、
「東京から北海道まで900キロくらい」っていうのと
「自郡至女王國萬二千餘里」ってのが、同等の表現なんだよ
この北海道が、函館とか札幌を意味してる訳じゃないのは、
日本人なら分かるよな?
ちなみに東京から
函館までが680キロ
札幌までだと830キロくらいだけれど、
北海道までといった場合、900キロくらいが正しい
503日本@名無史さん2018/07/07(土) 22:57:31.75
>>498
各区間で1里あたりの距離に規則性がないからそういうパズルは無意味
つーかそういう小学生のお遊びは九州説スレでやれや 504日本@名無史さん2018/07/07(土) 22:58:12.20
>>498
もちろん短里に反論されてて、学界でも短里なんて相手にされてないわけだか
それが、どうしたの? 505日本@名無史さん2018/07/07(土) 22:59:09.29
同等の表現なわけがない
出す例がアホらしい
506subo2018/07/07(土) 22:59:35.74
1里を500mとしたら末蘆国〜伊都国の距離が250キロになるw
507日本@名無史さん2018/07/07(土) 22:59:57.92
508日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:01:54.33
くそじじいども、へきがんのすえーでんおーえんせー
じょうもんいぜんのまたぎそせんマンモスハンターやそんけんのしんせきじゃ^^
509日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:02:39.24
510日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:03:08.90
つうかじじいどもにはハプロちしきなしか(なげかわしい
511日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:03:52.20
>>243
>それに上陸後じゃなくて
正確に言うなら残り1300余里は水行20日〜の部分に相当するんだけど
不彌国までで1万700余里なんだから <
この大和説男の脳のおかしい。
「上陸後」というのは、当然、
「不彌國は末盧國上陸後である」というだけの文言であり、
末盧國→不彌國は、殆ど「陸行」している、というだけの意味。
そして、「残り1300余里は水行20日〜の部分に相当する」っていうのも、
大和説者の意見としてはおかしい。
大和説者は、「残り1300余里」は、
「水行20日と水行十日陸行一月の部分に相当」させていた筈。
>まあ魏志倭人伝の距離行程を畿内説は参考にしないから
どうでもいい話なんだが<
まあ、長里説では「自郡至女王國萬二千餘里」は、赤道付近にまで行ってしまっていて、
大和説は始めから矛盾を抱えて、破綻してしまっていたから、
どうでもいい話なんだが。 512日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:04:24.79
すえーでん!すえーでん!そんけん!そんけん!またぎ!またぎ!
513日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:05:13.22
514日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:05:36.94
>>244
>おかしいのは九州説だろう <
おかしいのは、脳がアホで顔が醜い大和説者の方だろう 。 515日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:06:00.72
すえーでんじょしめがまっさおやな
516日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:06:17.03
まあ珍寿は倭人の国が台湾くらい南だと思ってんだから、短里なんて現代日本人の妄想なのは明らかだけどな
517日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:08:02.75
>>514
ほらな
悪口だけになるのは論破された証拠 518日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:08:58.57
>>247
>読解力ないな<
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は、
脳だけではなく、
顔や神経もおかしい・・・・アホだろうなあ。 519日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:09:40.98
>>511
相手の反論を無かったことにする記憶閉鎖も論破された人の特徴 520日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:09:55.98
>>513
ん?
いつのはなし?(もーなつやん?
さっかーみてると野球や柔道のがおもろいのがわかるな?(ついでになぜか倭人とはなんぞや?(えいえんのてーまやな?
ちなみにはせべはぺるーじんらしい(5ch 521日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:13:28.48
長谷部な?
522日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:13:56.63
ペルー人
523日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:14:08.05
>>487
>周旋5千里とは福岡西部、佐賀県、長崎県(島原半島を除く)の外周である。
だから、周旋は「一周」したり「元の場所に戻っ」たりしないんだってば!
いろいろ寄りながら進むこと! 524日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:14:37.60
すえーでん!
525日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:17:04.85
あれれ?ここもニセスレ?(はんのーよわいの?
526日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:17:09.88
アタマのビョーインに行ったほうが良いんじゃないのか
527日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:17:20.03
>>487はsuboがちゃんぽん屋を廻ったコースだから気にしなくていい 528日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:18:38.24
>>487
>周旋5千里とは福岡西部、佐賀県、長崎県(島原半島を除く)の外周である。
豪雨被害お見舞い申し上げます(まじめに 529日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:19:32.31
そもそも陳寿が邪馬台国までの距離を記述する際、里数を引き算せずに日数で書いたのは
引き算をすべきでない理由があったからだと解釈すべきと思うけどな
ソースが違うのはもちろんだが、信憑性の問題かもしれないし
陳寿が書いてないことを勝手に断定して、引き算は正しいと言い張る九州説のやつらの思考回路は理解不能
書かれていることはあくまで南に水行十日陸行一月だ
530日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:19:34.24
>>250
>現代で換算すると1里が100mになったり30mになったりして参考にならんよ<
魏使らの記録は、有効数字1桁概数であるだけではなく、
時には「余」を付けたりした近似値であり、
だから、「50m〜90m」位以内の、平均76.5m位の数字になっていて、
参考に十分なる。
>魏の1里は430mだったから正確な計測ができなかったんだね<
「魏の1里は430mだった」というインチキだったから、
計算したら、赤道位まで行ってしまって全く不正確な記載だ、
という事になったんだね。 531日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:19:50.22
わが祖先の地吉備もたいへんじゃ
532日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:21:36.76
ここには、歴史学、考古学、地理学などの、学者あるいは学者もどきが多いな
学者ぶって、有効桁だの、余り里数だなどと精密そうな解釈をしても解読の役には立たぬ
倭人伝は、学者・学術風に書かれてはいない
宮廷につかえる官・役人独特の文章で、今の官庁役人の文章にも通じる。
すなわち、万里といえば一万里。千里といえば一千里。百里といえば一百里だ。
そしてそれを合計すれば一万一千一百里ちょっきりなのだ。
なお、それにくっつく余里は、いくら足しても、いくら引いても余里に過ぎない。役人の文章のただのお飾りなのである。
533日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:22:10.87
>>505、>>507
そもそも、萬二千里は「女王国」までであって、「邪馬台国まで」じゃない
ここでの女王国は「女王国連合=倭人のうち、卑弥呼の共立に参加した範囲」くらいだ
「道庁所在地(≒道都)の札幌・邪馬台国」ではなく、
「北海道・女王国」までが「900キロくらい・萬二千餘里」という対応関係 534日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:22:11.88
アタマのビョーインは酔いをさましてくれるかのー?
535日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:22:24.69
>>252
>短里ってwww
>信頼できない <
赤道付近にまで行ってしまう長里説なんて、全くの・・・・なのであり、
信頼出来ない。 536日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:22:52.87
「何々のが」とか使う奴は・・・(不明)・・・という話、
ネットなどでも有名な話みたいだよ、調べてみて
実際は?「何々のほうが」だぞと言っていたり、
方言なのかもしれないけど
537日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:24:23.72
れれれ?1里は東夷伝里と教えてやったろじじいども?(100m未満でなかったか?
ベイズ統計しらんのか?
538日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:24:48.60
信オンというゲームをやっていたとき、
そういう知人がいた
「何々のが」
ゲーム内の知人
539日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:25:08.94
ここには、歴史学、考古学、地理学などの、学者あるいは学者もどきが多いな
学者ぶって、有効桁だの、余り里数だなどと精密そうな解釈をしても解読の役には立たぬ
倭人伝は、学者・学術風に書かれてはいない
宮廷につかえる官・役人独特の文章で、今の官庁役人の文章にも通じる。
すなわち、万里といえば一万里。千里といえば一千里。百里といえば一百里だ。
そしてそれを合計すれば一万一千一百里ちょっきりなのだ。
なお、それにくっつく余里は、いくら足しても、いくら引いても余里に過ぎない。役人の文章のただのお飾りなのである。
540日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:25:11.38
ここには、歴史学、考古学、地理学などの、学者あるいは学者もどきが多いな
学者ぶって、有効桁だの、余り里数だなどと精密そうな解釈をしても解読の役には立たぬ
倭人伝は、学者・学術風に書かれてはいない
宮廷につかえる官・役人独特の文章で、今の官庁役人の文章にも通じる。
すなわち、万里といえば一万里。千里といえば一千里。百里といえば一百里だ。
そしてそれを合計すれば一万一千一百里ちょっきりなのだ。
なお、それにくっつく余里は、いくら足しても、いくら引いても余里に過ぎない。役人の文章のただのお飾りなのである。
541日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:25:49.42
すえーでんじんはそんけんの目の色といっしょやな?
542日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:26:04.17
もれ(仮)は実際(現実の世界)は「〜じゃん」とか使用している
543日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:30:13.11
ありゃ?
544日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:30:21.29
>>255
>魏志倭人伝にも書いてあるし
現代の地名とも一致するからこれで争ってるのは見たことないんだが
九州説は違う解釈なんか?<
魏志倭人伝には「南」って書いてあるから「東」ではないし、
里数も不彌國の前後で6倍位「長い里」を書いてある事になるし。
現代の地名との類似なんて、類似地名ならどこでも幾らでも有り得るんだから、
全く根拠にならないんだんだし、
こんな事で争ってるのは見たことないんだが。
大和説は、違う宗教世界か、、思想に狂った解釈なんかい。 545日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:30:46.65
>>535
んで?
赤道付近にまで行ってしまう長里説なるものは、とこにあるんだ?
九州説ボケ老人の脳内以外でだが 546日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:30:48.87
あんぐろさくそんさっかーうまいな?(ぼこく?
547日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:30:59.01
「何々のが」
質問スレ、そういう掲示板の話じゃなくて、
ネタにされている?
「何々のが」とか使うやつwwwwwwみたいな話
548日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:32:06.94
mlbもあんぐろさくそんかー
549日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:33:04.54
れれえ?ここなんのすれ?
550日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:34:20.64
「何々のが」、「ら」抜き言葉は大阪が多いんじゃないかな
551日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:35:39.30
あんぐろさくそんは単ににんきスポーツの作り方がうまいだけやね?
552日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:36:19.09
わえはおーさか
じゃんはとうきょう?
553日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:36:47.49
>>544
こんなふうに史料批判を認めない九州説が、学問の世界からドロップアウトしたのは必然である 554日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:36:51.65
方言なのかな、よくわからないんだけど、どこかで見たんだよ
「「俺のが」「こっちのが」とか使うやつwwwwwwwwwww」
もれ(仮)からすると、この「wwwwwwwwwwwwww」の奴も、何なんだよ
555日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:37:16.75
おーさかもだんじんりのあたりはことばがちゃう?(よーしらん
556subo2018/07/07(土) 23:38:33.47
鼻ホジがきてるな
557日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:38:33.49
つぶやきせんせーか?(まいりました^^(ふかすぎてよーついてかん
558subo2018/07/07(土) 23:39:43.75
559日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:39:56.76
方言の話じゃなくて、ネタにされているんだよ
「私のが」とか使うやつwwwwwwwwwwみたいな話
ゲーム(ネット関係)などをやっていたりした人?
560日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:40:03.09
ん?(いぬがみせんs−(おひさ?(つーことはほんすれ?(便宜じょー
561日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:40:21.50
論破され、荒らして逃げる九州説のみじめな日常
562日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:40:37.35
方言じゃなくて誤用だよ
563日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:41:30.19
>>558
ノアを信じなかった人らがしんぱいやね? 564日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:42:05.96
まんもすはんたーおされとるな?
565日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:42:44.41
ちょwおwまwえwらwwwwwwwwww
↑こういうネタ?
お前が何なんだよという話
566subo2018/07/07(土) 23:43:36.74
>>527
倭國周旋5千里には井手ちゃんぽん、長崎ちゃんぽん、平戸ちゃんぽんなどがあるよ。 567日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:45:07.71
長崎ちゃんぽんいったくやね?ほかはしらんし
568subo2018/07/07(土) 23:45:59.35
>>560
久しぶりにコメしたら新入りの基地といわれた(どーゆーこと 569日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:46:00.28
かろりーたかいのは長崎?(さらうどんもあますぎ?
570subo2018/07/07(土) 23:48:06.27
邪馬台国の井手ちゃんぽんもいいよ。
571日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:48:23.61
>>568
つうかここいつからあるん?359はすごくね? 572日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:49:58.76
おかしな人と知人になってしまったとか?
ゲーム内の知人なのか、実際の知人なのかな、
どっちなのかは知らないんだけど
573日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:50:44.38
井手が邪馬台国か?邪馬台国はあったんか?(なかったのかとおもてた
574subo2018/07/07(土) 23:54:45.57
>>571
奥山」さんが引き継いで畿内真理教の布教に熱心だから 575日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:56:05.72
ん?だれか身バレしてTんやった?(とりばれじけんやったか?
576日本@名無史さん2018/07/07(土) 23:57:25.04
しょーこーしょーこーおくやーまーしょーこー(こんなうたやったか?(おくやまスマン^^
577日本@名無史さん2018/07/08(日) 00:00:34.53
しゅぎょーするぞしゅぎょーするぞしゅぎょーするぞ(ぴょんぴょん
きつねつきは犬神せんせーくわしそーやな?
578subo2018/07/08(日) 00:04:14.01
>>575
春成ひで爺が身ばれして奥山さんが引き継いだ 579日本@名無史さん2018/07/08(日) 00:08:17.51
>>502
>ちなみに東京から
>函館までが680キロ
>札幌までだと830キロくらいだけれど、
>北海道までといった場合、900キロくらいが正しい
さすがにおかしいだろw 580日本@名無史さん2018/07/08(日) 00:09:43.29
短里で書かれた報告を、長里しか知らない人が読んで解釈したから、会稽の東くらいかなということになってしまった。
581日本@名無史さん2018/07/08(日) 00:12:38.51
『ちょwおwまwえwらw』
グーグルで検索するると暗号のようなモノが出て来る、
ほとんどモレ(仮)の書き込み?に関係している?
582日本@名無史さん2018/07/08(日) 00:14:58.44
>>580
苦し紛れの珍々説だな
魏の役人が魏で使われてない単位を使って報告を書くわけないだろ 583日本@名無史さん2018/07/08(日) 00:15:08.87
>>533
>ここでの女王国は「女王国連合=倭人のうち、卑弥呼の共立に参加した範囲」くらいだ
違うだろ〜!
女王国の範囲の端は、楽浪帯方から七千里の狗邪韓国だよ。
1万二千里は王都である女王国すなわち邪馬台国のまで。
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。 584日本@名無史さん2018/07/08(日) 00:16:43.66
>>582
倭人の船に乗って移動したから、彼らの言う数字を信じるしかなかったんだろう。
短里で測定したと言うのは、珍説どころか、九州説の根幹だろ? 585日本@名無史さん2018/07/08(日) 00:22:39.67
586日本@名無史さん2018/07/08(日) 00:24:47.13
>>584
だから九州説が珍説
なんで倭人が里数とか知ってるの? 587日本@名無史さん2018/07/08(日) 00:30:22.43
他の人には反映されていないのかな、ググってみた結果
「ファイナルファンタジー」
「もん」(牛バカ丸?)
「坂田」「じゃん」
『ボーボボ』オニオンナイト、タマネギ剣士?
588日本@名無史さん2018/07/08(日) 00:31:55.89
>>584
九州説の根幹?
アンタ、これに反論できるの?
帶方郡即ち臨津江口より狗邪韓國即ち金海に至る海上の距離は、大約二百餘里なるを、『魏志』には七千餘里となす。
故に此間の三十五里は我が一里に當る。
又狗邪韓國より九州の末盧國即ち松浦郡に至る海上の里程は、大約六十餘里に過ぎざるを、『魏志』には之を三千餘里となす。
故に此間の五十里は我が一里に當る。
又末盧國より不彌國即ち太宰府の附近に至る陸上の距離は大約三十里を出でざるに、『魏志』には之を七百里となす。
故に此間の二十三、四里は我が一里に當る。
此の如く『魏志』倭人傳に見えたる里程の標準は區々にして一定せざる上に以下略 589日本@名無史さん2018/07/08(日) 00:40:41.85
『ボーボボ 田ぼ』
この曲の動画を観てみないと
590日本@名無史さん2018/07/08(日) 00:42:54.23
キウス今夜はこのキャラか
591日本@名無史さん2018/07/08(日) 01:11:40.74
キナイコシ
出勤でーーーす
夜中にそっと隠れて
スレ進める
商売人やの・・・
キナイコシはアンチ畿内説を利用してるが
本当は九州説
592日本@名無史さん2018/07/08(日) 01:16:43.73
>>503
あんた誰???
倭人伝の奇術を無視してもいいが・・
無視するなら
邪馬台国のスレに来るなよ 593日本@名無史さん2018/07/08(日) 01:25:13.41
594日本@名無史さん2018/07/08(日) 01:35:36.25
>>592
奇術は無視しないとイカンわ
珍説まるだしになるからな
ww 595日本@名無史さん2018/07/08(日) 03:12:21.60
帯方郡から狗邪韓国への行程を検証
前提条件
・帯方郡を沙里院、狗邪韓国を金海に比定
・リアス式海岸の半島の先と先を結び最短ルートで航行する(注1)
・夜は半島の先に停泊(注2)
・距離をなるべく短くするために直線で航行するが、陸地から離れる距離は原則10km程度まで
(注1)航行中、次の目的地である半島の先は目視できないがどの方角へ進めばいいか熟知してると仮定する
(注2)すべて1日で航行できる距離にあると仮定する
↓
帯方郡から狗邪韓国までの距離は約1000km
倭人伝に記載されている里数は7000里なので、この区間では1里≒140mとなる
今回は1例だけしか検証してないが、これを短里の誤差と見るか、短里はないと判断するか各自にお任せします
596日本@名無史さん2018/07/08(日) 05:31:43.84
>>595
注意書きに吹いた
現代人が地図を見てこういうルートで進めば最短コースになるとか無意味な空論だな
黄海はまだいいけど朝鮮半島南岸は岸から離れると波が荒いから海岸線べったりに行ったと思う
短里なんてあるわけない 597日本@名無史さん2018/07/08(日) 06:48:08.70
行程論は、記紀に卑弥呼が登場しないという勘違いが前提。
記紀に卑弥呼は登場する。
カタカナでヒミコ、トヨと置き換えてみればいい。
598日本@名無史さん2018/07/08(日) 06:51:43.97
一里を500Mとした場合
12,000里とある。普通の里なら6,000Kmだから赤道直下になろう。
599日本@名無史さん2018/07/08(日) 06:52:21.76
まさか神武の時代が女王国であったなんて発想できないよね、天才のわし以外は。
でも本当なんだよ。
邪馬台国は九州でも纏向でもない、葛城だ。
600日本@名無史さん2018/07/08(日) 06:55:09.92
>>599
>邪馬台国は九州でも纏向でもない、葛城だ。 <
纏向よりマシだが✖ 601日本@名無史さん2018/07/08(日) 07:07:01.86
>>255
>だいたい1里100mから30mぐらいになったけど<
まあ計測地点の選択でそれ位の差異が発生する可能性はあるが、
平均で65m位である事が判り、
どう狂ったって、434m位という長里では、6倍位も違うから、長里ではない、
という事が判れば、それで十分。 602日本@名無史さん2018/07/08(日) 07:10:49.35
>>598
じゃあ邪馬台国が赤道直下にあったスレでも立ててくれ。 603日本@名無史さん2018/07/08(日) 07:11:43.97
>>266
>島を点として捉えればいい
海上だから他に基点になるものがないから測りやすい<
「島」ではない。
魏志倭人伝の記載は、「国」として捉えている。
だから、居住外縁部や国境としての捉え方が必要である。 604日本@名無史さん2018/07/08(日) 07:13:45.00
>>596
というか、夜の航海が出来ないから、船速から考えて一日あたり50km程度
もっと頻繁に停泊するだろう
干満の差が激しいので、停泊する場所は川を遡らねばならないので、内陸に入り込む
000kmで弁辰まで着くのは難しいだろう 605日本@名無史さん2018/07/08(日) 07:15:57.76
606日本@名無史さん2018/07/08(日) 07:21:09.50
>>603
ナンセンス
そんな「居住外縁部や国境としての捉え方」なんかすると
国内の移動距離が抜け落ちるからな
万二千里の意味がなくなるぞ 607日本@名無史さん2018/07/08(日) 07:21:58.75
>>268
>弥生時代の青銅器の分布図・・・九州・瀬戸内に武力が展開されている。
いわゆる防人(さきもり)である。これは 7 世紀の白村江敗戦後と同じ様相である。<
この時点で、この男は、「防人だ」という意図的な「後代の文言を使用する詐欺」をしている。
>畿内にあった都を九州・瀬戸内の防人が守っているのである。<
3世紀には「畿内」もなかったし、
倭國は「正北抵新羅」で九州にあったのだし、
近畿や大和は、その倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」の国々の中の一国。
>こういう状況で邪馬台国九州説はあり得ない。<
邪馬台国なんて存在しないし、
「南≠東」で近畿や大和は有り得ないし、
武器の存在は、倭国乱や東征毛人五十五國の結果。 608日本@名無史さん2018/07/08(日) 07:23:14.32
609日本@名無史さん2018/07/08(日) 07:26:43.42
>>269
>どう説明すれば精神論じゃない事になるんだ? 具体的に教えてくれ<
戦前の「萬世一系皇国史観」という「結論先にありきの循環論法」ではなく、
史料事実や「客観性や信頼性の史料批判をした史料実態」を論拠にすれば、
「精神論」から逃れられる、だろうな。 610日本@名無史さん2018/07/08(日) 07:26:59.79
韓国内と、海峡あたり、伊都国近辺
それぞれ別の里単位ってことになるんじゃないの?
611日本@名無史さん2018/07/08(日) 07:27:52.93
612日本@名無史さん2018/07/08(日) 07:31:11.48
>>607
>この時点で、この男は、「防人だ」という意図的な「後代の文言を使用する詐欺」をしている。
防人でもモノノフでもなんでもいい。
北部九州から瀬戸内にはほぼ武具しかでてこない。
王を護る軍属、それが筑紫の正体だ。
その王とは、
九州から中部にまたがる青銅器文明の大きな国の主、つまり大国主だ。 613日本@名無史さん2018/07/08(日) 07:32:35.55
>>275
>まだアクセスすら出来ないような状態 <
今回の「アクセス不可」も酷かったなあ。
使用したハスワードさえ認めず変更を要求し、
Yahooなどの画面さえアクセス不能であり、5ちゃんねるも勿論全く出て来なかった。 614日本@名無史さん2018/07/08(日) 07:35:06.57
>>276
>自分で計測してみてどれもピッタリ1里77mとやらの短里になるといいね<
当然、大体であり、平均が76.5m位であればよい。
どう騙そうとしたって、434m位には絶対にならない。 615日本@名無史さん2018/07/08(日) 07:37:18.05
>>277
>言わないなら 「だいたい1里100m〜30m」とか 信用できるわけがない <
1里が434m位になる、という記録が出ないんなら、
長里だった、という説など、信用できるわけがない。 616日本@名無史さん2018/07/08(日) 07:38:31.98
617日本@名無史さん2018/07/08(日) 07:43:02.64
九州説はこれに反論できるの?
帶方郡即ち臨津江口より狗邪韓國即ち金海に至る海上の距離は、大約二百餘里なるを、『魏志』には七千餘里となす。
故に此間の三十五里は我が一里に當る。
又狗邪韓國より九州の末盧國即ち松浦郡に至る海上の里程は、大約六十餘里に過ぎざるを、『魏志』には之を三千餘里となす。
故に此間の五十里は我が一里に當る。
又末盧國より不彌國即ち太宰府の附近に至る陸上の距離は大約三十里を出でざるに、『魏志』には之を七百里となす。
故に此間の二十三、四里は我が一里に當る。
此の如く『魏志』倭人傳に見えたる里程の標準は區々にして一定せざる上に以下略
618日本@名無史さん2018/07/08(日) 07:55:36.50
韓国内 リアス式海岸なので不正確
海峡あたり 測定不能でめちゃくちゃ
伊都国近辺 正しい
619日本@名無史さん2018/07/08(日) 07:59:25.36
>>617
それを書いた人の主観でしょ。
意味なし。 620日本@名無史さん2018/07/08(日) 08:00:46.27
>>612
>九州から中部にまたがる青銅器文明の大きな国の主、つまり大国主だ。
その大国主を倒して、天孫が筑紫で倭王に即位したんですよ。 621日本@名無史さん2018/07/08(日) 08:02:51.19
622日本@名無史さん2018/07/08(日) 08:04:23.25
>>619
九州説は反論できません
百年前に論破されてます 623日本@名無史さん2018/07/08(日) 08:32:58.50
>>511
内容がこんがらがり過ぎだぞ
まあとにかく1万2千里は魏で使われた里で換算すると赤道付近になるので
邪馬台国までの距離の示した数字じゃないという事 624日本@名無史さん2018/07/08(日) 08:35:45.68
>>518
おうヘイトスピーチだぞ
九州説はヘイトスピーチ野郎だな 625日本@名無史さん2018/07/08(日) 08:37:47.30
626日本@名無史さん2018/07/08(日) 08:43:16.40
627日本@名無史さん2018/07/08(日) 08:56:13.60
当時の中国人の常識では
洛陽から南に1万3千里を行っても
北回帰線を超える程度
とても赤道など届かない
628日本@名無史さん2018/07/08(日) 09:26:10.88
>>626
1里430mで帯方郡から1万2千里を換算すればそんくらいになるが 629日本@名無史さん2018/07/08(日) 09:26:47.88
630日本@名無史さん2018/07/08(日) 09:29:01.57
倭が会稽東治之東だという矛盾に
九州説は合理的解釈がまったく提示できていない
つまり短里説は破綻している
631日本@名無史さん2018/07/08(日) 10:19:18.37
632日本@名無史さん2018/07/08(日) 10:40:05.06
>>595
帯方郡から狗邪韓国までの距離は倭人伝にあるように循海岸水行だと1000km以内に収まるわけないってことだな
1500kmというのも全然大袈裟でないわ
この2地点間の行程では1里あたりの距離は200mくらいか 633日本@名無史さん2018/07/08(日) 11:10:55.33
>>630
短里で測定された報告書を魏の人間が長里だと思って読んだら、会稽のあたりだと思うんだろうね。 634日本@名無史さん2018/07/08(日) 11:25:15.45
>>633
魏の役人が短里で報告書くわけないけどな 635日本@名無史さん2018/07/08(日) 11:26:50.07
636日本@名無史さん2018/07/08(日) 11:52:28.13
もともと、大陸中華の地理観だと、倭国は呉とか越とかの沖合なんだよ
その表現が「計其道里、當在會稽、東冶之東」であり、後漢書の「與朱崖儋耳相近」なんだよ
そもそも短里なんて想定されてないし、想定さえされてないっていうことは、
短里なんてなかったってことなんだけどね
九州説は「短里なんてない」って認めた瞬間に瓦解するから、どんなに論理的に
解説されても頑なに認めないけどねw
逆に言えば、「短里なんてない」って分かってる人には、九州説は噴飯物でしかないw
637日本@名無史さん2018/07/08(日) 12:01:54.09
倭人伝の原典は、
帯方郡が設置されて間もなく実施された倭国情勢調査。
つまり郡役所勤めのお役人の手になる倭国調査報告書さ。
もちろん当時の東夷地方の距離単位で記述されたのさ・・・。当然だろ。
638日本@名無史さん2018/07/08(日) 12:06:10.26
魏への報告書では軍事情報10倍増しの例があるから
倭人伝の元になった報告書もその類なのかな
639日本@名無史さん2018/07/08(日) 12:07:00.46
アマタラシ系はどうなったんだろう
少なくとも聖徳太子の時代迄は存在したはずだが
息長タラシ系はどうなったんだろう
最後は大津皇子かな
ももづたふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
金烏臨西舎 鼓声催短命
泉路無賓主 此夕離家向
にほ鳥の息長川は絶えぬとも君に語らむ言尽きめやも
640日本@名無史さん2018/07/08(日) 12:26:58.29
>>637
ばかでスカ
本国にそんな報告するわけないだろ 641日本@名無史さん2018/07/08(日) 12:28:07.48
642学術2018/07/08(日) 12:34:06.53
皇族 皇賊 どちらが優れているかは言うまでもないでしょう。
643日本@名無史さん2018/07/08(日) 12:37:30.14
>>641
>倭人は賊じやないので不可
倭国の朝貢、東夷の平伏は、司馬懿の公孫氏討伐のおかげっていうのが、
晋朝の誇りだから、「戦果は十倍」の文脈で問題ない 644日本@名無史さん2018/07/08(日) 12:43:56.77
>>643
勝手な拡大解釈は不可
十倍する習慣があるのはのは「破賊文書」 645日本@名無史さん2018/07/08(日) 12:57:49.11
>>640
ばかでスカ
東夷倭国の風土風物の実情を調査し、ありのままを報告するのが役人の務めだ。
手前勝手に実情を改ざんして、
本国にそんな報告するわけないだろ 646日本@名無史さん2018/07/08(日) 13:00:47.16
十倍するのは賊の人数だけだろ
647日本@名無史さん2018/07/08(日) 13:19:08.11
改竄ではなく、現地人の申告をそのまま報告したんだよ。
648日本@名無史さん2018/07/08(日) 13:23:32.35
649日本@名無史さん2018/07/08(日) 13:25:56.45
>>647
じゃあ韓と倭が同じ単位とは限らないな
平均を取ったらダメだ 650日本@名無史さん2018/07/08(日) 13:26:01.68
そもそも「魏志倭人伝」という呼び方がよろしくない
ご承知の如く、三国志のうち、
魏王朝の事績をまとめた魏書のうちの東夷伝のそのまた片隅に書きとめられた倭人のくだりの2000字ほどにすぎない。
いってみれば、だだの参考文献か、注釈ていどのこと。
田舎丸出しの内容でおかしくないさ。
651日本@名無史さん2018/07/08(日) 13:39:05.98
652日本@名無史さん2018/07/08(日) 13:50:43.46
ワシは「魏志ワシ伝」と思っている
653日本@名無史さん2018/07/08(日) 15:10:08.33
タリン人ならタンリ説
654日本@名無史さん2018/07/08(日) 15:32:22.54
三国志?漫画、ゲーム・・・その他などがあるでしょ、
日本は人権侵害のようなことばかりしているけど、
どういうことなの?
収入などが税金として納められ、誰の手に渡るとか
655日本@名無史さん2018/07/08(日) 15:33:42.38
三国志ではなくても同じ
そういう、お金(不明)で、
暮らしているのがいるとか
656日本@名無史さん2018/07/08(日) 15:37:00.29
短い距離単位などというのは、小さな島国日本の中の小さな集落の発想
中国は国土も広いし人口も多い、平野や川もデカいし、考え方も大雑把
華夏族の地理的世界観は実数よりも広大な観念的な平面大地
はるか遠方の未開の国から天子の徳を慕って朝献にやって来る
それが禅譲の正当性になる
657日本@名無史さん2018/07/08(日) 15:37:10.73
区間ごとに1里が何メートルなのかバラバラなんだから倭人伝の里数は信用できないという結論にしかならんだろうに
それなのに短里厨は「魏の公式の里では合わないから短里が使われていた」と意味不明な論理を展開する
あるいは1里あたり50メートル〜200メートルとバラバラの中から1里が70メートルになる事例だけを選んできて
ほら見ろ短里が実際に使われているとドヤ顔で言い張る
短里厨がやってることは詐欺師の手口だな
658日本@名無史さん2018/07/08(日) 15:54:35.23
三国志などの話、
その収入(税)で中国の天子(いるのかな?)が生活しているのならまだ納得できる
関係のない家に渡っていたりするかもしれないし
659日本@名無史さん2018/07/08(日) 16:01:13.14
短里厨がまずやるべきことは>>330のように全行程をリストアップして
現代の地名でどこになるかを明示してその距離が何キロになるかを示すこと
その際どういうルートで移動したと想定しているか>>595のように示すこと
何も具体的に示さずひたすら短里はあったと喚き続けても無意味
そういう具体例で示すと嘘がバレるからやるわけないけど 660日本@名無史さん2018/07/08(日) 16:03:42.76
神話なども同じ
漫画やアニメ、ゲーム・・・その他(人権侵害?)
その後・・・・・・・・・・・・税などとして納められ
最終的に神話などに関係する家の人に分配されているのなら、
わかる
関係のない家の人に渡っていたり、
そういう、お金で生活していたり?しているかもしれないし
661日本@名無史さん2018/07/08(日) 16:27:47.06
結局、邪馬台国系(卑弥呼を共立した勢力)と狗奴国系(卑弥呼を共立した勢力に抗った勢力)対立が、奈良時代の終焉迄続いたのかもしれない
662日本@名無史さん2018/07/08(日) 16:33:48.22
つまり、畿内説は破綻したのだね。。。
663日本@名無史さん2018/07/08(日) 16:42:47.01
>>292
>説明できないで逃げ回ってるのは九州説の貴方では?<
1里≒430mの長里では、全く説明出来ず、
「南→東」なども全く説明出来ずに逃げ回っているのは、
大和説の貴方では?。 664日本@名無史さん2018/07/08(日) 16:44:17.03
>>293
>九州説の人のついたウソだから、そうなるのも道理<
大和説者が付いた嘘だから、そうなりのが道理。 665日本@名無史さん2018/07/08(日) 16:48:16.91
>>305
>ということは短里は出所不明の怪情報 結論出たね<
ということは、
魏志の里記載は、「長里」ではない。
結論出たね。 666日本@名無史さん2018/07/08(日) 16:50:51.10
>>306
>いいのか?もし1里100mまで認めたら帯方から1万2000里は畿内まで到達するぞ?<
どっち道、「南≠東」などに拠って、大和は×だよ。 667日本@名無史さん2018/07/08(日) 16:57:21.44
>>311
>そこから1500里もあれば十分畿内に着くな 問題なし <
どっち道、「南≠東」に拠って、大和は×。 668日本@名無史さん2018/07/08(日) 16:58:36.73
長い距離を測る方法として、古代より中国には「一寸千里の法」がある。これは、
夏至の日の南中時に垂直に立てた八尺の棒(髀)の影の長さから、南北間距離を
求める方法であり、影の長さが1寸長くなると北へ1000里離れたことになる。
計算してみると「一寸千里の法」は短里が用いられていることが分かる。
中国では古くから天文学が発達しており、この方法は周の時代から用いられていた。
当時の中国では地表は平面であるとされ、太陽が比較的近くにあって、
太陽の真下から離れるに従って影が長くなると考えられていた。これは、
太陽が遠くにあって、地球の緯度によって影の長さが変わることと同じような結果になる。
669日本@名無史さん2018/07/08(日) 17:04:19.64
陳寿が「会塊東治之東」といっているものを、范曄は「会稽東冶之東」 書いています。
中国では東治は東冶の誤りと言っています。日本でも東 冶が正しいと言っています。
これは、陳寿の言うことが信用できるか、 范曄が信用できるかの決定的な踏み絵となります。
東冶という土地が昔ありました。范曄は、東冶は土地の名前だと捉えて いた。
東冶というのは台湾の北の方に近い位置にある、現在の福州市だ と、中国では言われているし、
日本でもそう捉えられています。論点は、 それが果たして正しいかどうかの問題です
中国から見て太陽が昇る方向が東であり 季節にもより違うし、広範囲に東と記述したものと考えられる
670日本@名無史さん2018/07/08(日) 17:05:01.93
と、思って唐の時代に実際に実験してみたらならなかった
671日本@名無史さん2018/07/08(日) 17:08:44.36
ひさかたの天行く月を網に刺し我が大君は蓋にせり
大空をわたる月を、鳥でも刺すように網でからめとり、大君はその月を蓋になさっている。
天武朝では、月は嫌われていたのかな
桜井市のホームページにも載っている
桜井市にこの歌の碑もあるな
天武はよっぽど月や鳥が嫌いだったんだろうな
朱鳥なんて血塗れの鳥を連想するし
672日本@名無史さん2018/07/08(日) 17:16:03.40
龍田神社
天武天皇4年(675年)4月10日に勅使を遣わして風神を龍田立野に祀り、大忌神を広瀬河曲に祀ったと『日本書紀』の記述が初見である。
祭神
天御柱命は級長津彦命(男神)、国御柱命は級長戸辺命(女神)のこととされている。
天武は息長タラシ系を滅ぼしたんじゃないかな
そして鎮魂したと
673日本@名無史さん2018/07/08(日) 17:16:09.05
会稽東冶の東に見えるとか、東に行ったら在るというのではなくて
帯方郡から会稽東冶の東くらいまで南下する計算になるということだから
太陽が昇る方向は関係ない
筑紫と福州市の東では倍以上の距離に差がある
674日本@名無史さん2018/07/08(日) 17:18:11.88
675日本@名無史さん2018/07/08(日) 17:23:32.85
>>312
>畿内説は史料にない距離単位を計測間違いかそれ以外の理由で
正確なものでないと判断するからそういう主張はしない<
畿内なんて存在しない。
また、魏志の記載里は、魏の役人たちの実際の近似値的計測記録であり、
史料事実であり史料実態。
つまり、大和説者は、根拠もなく、史料事実を、
6倍もの計測間違いだとか、正確なものではないとか言って、
否定抹殺している。
>あと九州北部の端までで1万700里次に水行して投馬国に行くと
魏志倭人伝に書かれている事もお忘れなく<
投馬國へも、
魏使らが行っていれば里数を計測記録している筈であるのに、里数を記録しておらず、
倭人が知っている日数記録だけであり、
魏使らは「行っていない」。 676日本@名無史さん2018/07/08(日) 17:24:18.75
>>668
一寸千里は実測されたものではなくて
あてずっぽうの想像値 677日本@名無史さん2018/07/08(日) 17:25:47.91
>>314
>では、どこから投馬国に行くの?<
不彌國から。 678日本@名無史さん2018/07/08(日) 17:47:34.10
真十鏡 可照月乎 白妙乃 雲香隠流 天津霧鴨
白を纏った雲、香、
シラの姫を娶った香具山の勢力、蜘蛛、火明命を連想させるな
天津、霧、鴨
天津、アマタラシ、
霧は切り、
そんなことないと思うが、アマタラシ系を切ったのは鴨?
679日本@名無史さん2018/07/08(日) 18:01:51.18
>>324
>畿内説・・・というか普通の歴史学は短里とか認めてないので
もちろん短里に長里を継いだりしない<
日本の「普通の歴史学」には、「南→東」などの嘘つき騙しの詐欺師がいるので、
「普通の歴史学が認めない」と言っても、根拠にならない。
勿論、畿内なんて存在もしないし、
普通の歴史学なら、不彌國まで短里で理解し、不彌國から先を長里で理解する、
という・・・・詐欺師のような読み方もしない。
>というか、長里なんてものもない 普通の400mくらいの里があるだけ<
「1里が400mくらい」の里とやらでは、
「自郡至女王國萬二千餘里」が赤道付近にまで行ってしまうので、とやらで、×。 680日本@名無史さん2018/07/08(日) 18:04:21.91
>>325
>もし魏志倭人伝書いた陳寿に九州説の行程論聞かせたら
人は約1700年後にはここまでバカになったのかと嘆くだろう<
もし魏志倭人伝書いた陳寿に、大和説者の行程論聞かせたら、
「人間は約1700年後にはここまでバカになったのか」と嘆くだろう。 681日本@名無史さん2018/07/08(日) 18:08:17.83
>>327
>いつの世にも馬鹿はいる いま九州説に集まってるだけ <
いつの世にも、思想宗教にクルって、観察実験計測事実や史料事実を否定曲解する馬鹿はいる。
いま、そのような馬鹿が、大和説に集まってるだけ。 682日本@名無史さん2018/07/08(日) 18:11:14.93
天皇家(倭人)↪ヤマト王権(混血人」)は✖
ここにカキコム畿内説は根幹が分っていない
倭人+渡来人がヤマト王権を築いたのは学会では常識
その国家(倭人+渡来人)が(倭人、混血、渡来人)の決着が南北朝
結果は混血で収束
683日本@名無史さん2018/07/08(日) 18:39:16.06
>>675
実際の資料事実は正始弩尺、律歴志より換算すると
魏の1里は約430m
邪馬台国への道のりは投馬国の次の記述に
水行10日陸行1月と出てくるので
里数記録がなければ魏使は行ってないとするなら
魏使は邪馬台国にも行ってない事になる 684日本@名無史さん2018/07/08(日) 18:40:01.18
>>330
>帯方郡(ソウル)ー狗邪韓国(プサン)660km/7000里=94m/1里
狗邪韓国(プサン)ー対馬国 100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐) 70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津) 50km/1000里=50m/1里
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島) 25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市) 20km/100里=200m/1里
奴国(福岡市)ー不弥国(宇美) 10km/100里=100m/1里<
これは、里記載の「出発地点や到着地点に関する史料批判」が出来ていないので、×です。
>統計では、違う立場の数字を一緒にしてはいけないので・・・<
これも×です。魏使らが、「違う立場」で計測した筈がありません。
>これが正しい統計のやり方です。<
史料批判無しに勝手な比定地を造作し、それを分割して少数のデータにして、
しかもその少数のデータの分散を計算すれば、そりゃ、巨大な分散が出来て当たり前です。
つまり、この男は、インチキをやっているのです。
>nが小さくて、ばらつきが大きいデータでは、いかに統計処理をしても信頼性のある数値は出ないんですよ。<
勝手にnを小さくして、恣意的な比定地をん使ってばらつきを大きくしたんだから、
この男も・・・・詐欺師です。 685日本@名無史さん2018/07/08(日) 18:42:18.86
>>331
>馬鹿が嘘八百並べてるのが九州説<
インチキ詐欺師が、情報を否定曲解して、口先で嘘八百を並べ立てているのが、
大和説。 686日本@名無史さん2018/07/08(日) 18:50:39.94
>>334
>95%信頼区間に430mが含まれていないから、430m里が使われていなかったことは明白になった。<
賛成。
元々、勝手でインチキなな「出発地点と到着地点」を設定して、その結果が、
94m、100m、70m、50m、50m、200m、100m
なんだから、
この数字から、430mが肯定来る筈がない。 687日本@名無史さん2018/07/08(日) 18:53:54.63
倭人伝の里程が魏の里の場合、
距離は5000km以上となり
南に進めばパプアニューギニアやマリアナ諸島。
北東に進めばベーリング海となる。
倭人伝の里程がすべて誤りである場合は
東アジア全域でどこかを確定するのは不可能。
倭人伝の里程が松浦までの里程から
推測される短里であれば
場所は九州内となる。
688日本@名無史さん2018/07/08(日) 18:54:05.14
>>335
>>馬鹿正直が九州説<
>ウソついてる証拠があるから 「正直」は外しといて。<
大和説者が、ウソ付いている事が判ったから、
「・・・・アホが大和説者」に変更しといて。 689日本@名無史さん2018/07/08(日) 19:00:49.67
大箸墓で一発勝負をかけたつもりが、
ありゃ、大鬼門だったな。。。。
690日本@名無史さん2018/07/08(日) 19:01:13.67
>>342
>つまり魏志倭人伝の里は1里430mの普通の里でも1里80mの短里でもない
1里40m〜200mのフレキシブルな里
フレキシブル里で書いてあったと <
いや、有効数字1桁位の里記録において、
430mはほぼ完全に否定され、
80m付近がほぼ「確率が高い」、という事が確認された。 691日本@名無史さん2018/07/08(日) 19:17:21.15
>>659
と思ってるのが勝手ルール
一人相撲の達人だね。 692日本@名無史さん2018/07/08(日) 19:19:17.20
じじいども、とーけーのプロエリートのわえに焼酎吹きだされんよーにご注意あれ
わえのつまみの魚介皿びしょびしょやん?(解答:::統計的にはベイズも含めて100m未満
693日本@名無史さん2018/07/08(日) 19:21:03.50
大谷の作戦は自身のバントせーこーりつ無視やったな(べーすぼーるもトーケー学
694日本@名無史さん2018/07/08(日) 19:22:06.93
>>346
>末廬国(唐津)ー伊都国(糸島)の区間が25km/500里だと
1里=20mになるのでは<
唐津港付近〜糸島水道の(直線距離ではなく)道のり距離は、
30〜35km位になり、1里=60〜70m位になるよ。 695日本@名無史さん2018/07/08(日) 19:22:39.64
春成?て数学あほやね?(すまんじじい
696日本@名無史さん2018/07/08(日) 19:28:03.34
97mくらいじゃね?(ふつーにとーいでんから?
697日本@名無史さん2018/07/08(日) 19:28:50.99
つうか1里100m未満だと、じゃまかどこなん?
698subo2018/07/08(日) 19:29:29.90
ひで爺に限らず畿内厨は数学大嫌いだろう。
ベイズの定理とかいったら発狂するw
699日本@名無史さん2018/07/08(日) 19:29:30.45
じゃまか ✕
じゃまいか まる
700日本@名無史さん2018/07/08(日) 19:29:37.33
>>349
>まあ色々理由は考えられるけど
直線距離でなく当時での道のり表記だからとも<
魏志の行程の説明は、「折れ線的」だよ。
>政治的理由で過大に表記したとも言われているけどね<
皇帝の命令の実行であり、「政治的理由で過大に表記」なんて事をしてバレれば、首が飛ぶ。 701日本@名無史さん2018/07/08(日) 19:30:38.24
702subo2018/07/08(日) 19:31:06.84
末蘆国〜伊都国が30キロ程度なら1里は60m程度でいいだろう。
703subo2018/07/08(日) 19:32:46.17
>>701
条件付確率については理解しがたいという面はあるかもしれん。 704日本@名無史さん2018/07/08(日) 19:34:23.52
じょーけんはとーいでん
705日本@名無史さん2018/07/08(日) 19:35:23.58
>>351
>なので結局1里200mまであるなら
1万2000里は畿内も示すには十分な距離だと <
「1里200m」は、伊都国や奴國の比定がおかしいのであり、
萬二千余里は、不彌國付近で殆ど終わっているから、
大和には、どっち道届かないよ。 706日本@名無史さん2018/07/08(日) 19:35:42.77
とーいでんりでいいんでね?(60mは大胆すぎね?
707subo2018/07/08(日) 19:37:15.23
さて問題です。
あなたは友人にAまたはBのアルファベットを紙にわからないように書いてもらいました
友人が紙にAを書く確率は?
708日本@名無史さん2018/07/08(日) 19:38:25.35
一転、ワイ族視点まん2sんりやとどこになるか(塾考あれ
岡山県民に愛の手を(わえはふりこむ
709日本@名無史さん2018/07/08(日) 19:39:39.74
紙は神じゃ(文字こそ神じゃ!
710日本@名無史さん2018/07/08(日) 19:41:42.49
ブックマークかんりょー(じじーどもちぇすと!
711日本@名無史さん2018/07/08(日) 19:43:45.73
>>705
何もおかしくない
地図上でそう導き出されたのなら1里200mの可能性も十分考えれる
つまり1万2千里は九州ではなく機内を指していた 712日本@名無史さん2018/07/08(日) 19:43:59.70
>>354
>畿内説は九州説と違ってそんな無意味な主張はしない<
大和説は、「南≠東」に拠って、始めから×。
>どこにでも設定できてしまうから根拠として弱い<
韓や對海國や一大國や伊都国は、歴史的地理的根拠でほぼ確定しており、
「どこにでも設定出来てしまう」事にはならない。
>さらに畿内には考古学的証拠も充実しているし<
筑紫の方が、大和よりもはるかに「考古学的証拠」も充実しているし、
大和は、倭国から別れた別種の旧小国、ともはっきりしている。
>それに九州北部の端まで行っても1万700余里<
いや、不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている。
>次の記述では水行10日で投馬国とある <
投馬國には「里数」が書かれていないから、魏使らは行っていない。 713日本@名無史さん2018/07/08(日) 19:46:50.99
>>356
>結論ありきの循環論法が得意だね。<
大和説者は、
戦前の「萬世一系の皇国史観」狂という「結論先にありき」での循環論法が得意だね。 714日本@名無史さん2018/07/08(日) 19:49:04.56
>>690
だから場所によっては1里50mや200mの
短里でも長里でもないフレキシブル里で書かれてるだろ
つまり距離はいいかげん
さらに帯方郡より1万2千里は吸収でも畿内でもどっちも指せる 715日本@名無史さん2018/07/08(日) 19:50:00.65
>>359
>三角縁神獣鏡とか前方後円墳<
大和の三角縁神獣鏡は、4世紀以後。
大和の前方後円墳は、那珂八幡などの模倣になるから、3世紀末以後。 716日本@名無史さん2018/07/08(日) 19:53:57.43
>>362
>信用できないというのが事実なんだがな<
大和説の 「1里≒430m」ってのが、魏志の里記載とは6倍位違っており、
全く信用出来ない、という事が事実なんだな。 717日本@名無史さん2018/07/08(日) 20:02:39.59
>>357
>ザラコクや中傷するのみの九州説は明らかにエセ九州説
議論になれば負けるから中傷だけして逃げる
ある意味畿内説をよく理解してると言える<
この掲示板の大和説者は、「南→東」などの嘘つき騙しであり、
明らかに異常な性格のエセ人間。
議論になれば負けるから中傷だけして逃げる。
ある意味「大和説が詐欺説である」事をよく理解してると言える。 718subo2018/07/08(日) 20:05:38.83
末蘆国〜伊都国は30キロ程度で異論はないんだろ。
719日本@名無史さん2018/07/08(日) 20:06:43.39
>>659
>現代の地名でどこになるかを明示してその距離が何キロになるかを示すこと
これは何度も行われていて、その結果として、里が短いという結論に達したんだよ。
それなのに畿内説は信じたくないと拒否しており、理性的な思考を拒否している。 720subo2018/07/08(日) 20:07:23.94
大和説者は異常な性格のエセ人間だったかw
721日本@名無史さん2018/07/08(日) 20:08:12.26
>>371
>陳寿が倭を長江よりずっと南だと思ってる以上、短里なんて無いのは確定だろ<
陳寿は、地の文で「計其道里、當在會稽東治之東」と書いているんだから、
倭が(赤道付近ではなく)長江付近の東方にある、と思っている以上、
長里ではなく、短里で書かれている、という事は確定だろ。 722日本@名無史さん2018/07/08(日) 20:09:51.17
>>683
>里数記録がなければ魏使は行ってないとするなら
>魏使は邪馬台国にも行ってない事になる
伊都までで邪馬台国に到着しているんだよ。 723日本@名無史さん2018/07/08(日) 20:13:29.21
>>372
>「魏の里が使われていなかった」のではなく、
「魏の里で書かれた距離が正しくなく、規則性もなかった」 <
当然「魏の里が使われていた」のであり、
「秦漢の長里で書かれたのではなく)
「魏の里で書かれた距離がほぼ正しく、規則性もあった」。 724subo2018/07/08(日) 20:14:11.28
邪馬台国は佐賀平野である。
725subo2018/07/08(日) 20:16:54.82
佐賀の有名人といったら卑弥呼、江頭2:50である。
726日本@名無史さん2018/07/08(日) 20:20:30.78
さよう
末蘆国東南陸行五百里到る伊都国
末蘆国をマツウラ(唐津)とみれば、その東南陸行で至るのは、どう見ても佐賀平野だな
727日本@名無史さん2018/07/08(日) 20:22:17.76
SAGA佐賀〜SAGA、SAGA佐賀〜
卑弥呼も佐賀〜〜〜
728日本@名無史さん2018/07/08(日) 20:23:25.58
>>373
>ハワイと同じ緯度の海南島と有無する所が同じで
「倭地温暖 冬夏食生菜 皆徒跣」の記述や <
習俗や風習が似ている、という推定記録であり、
位置に関しては「計其道里、當在會稽東治之東」とほぼ正確な位置を推定している。
>「人長三四尺 去女王四千餘里」の南方の里数表記からして
誤情報が混ざってるよ <
足摺岬の西方海上の沖の島には、江戸時代まで「低身長」の人々がいた、
という記録があり、
魏志の記載は、誤情報ではなく、事実情報のようであり、
この事は、やはりまた、
大和説を否定し、九州説が正しかった、という事の証拠になる。 729日本@名無史さん2018/07/08(日) 20:27:47.08
たいぎのためにhときにはひじょーにー
いとさー
730日本@名無史さん2018/07/08(日) 20:28:31.21
すれちにれす「ごめん
731subo2018/07/08(日) 20:30:05.17
邪馬台国の住人はたんぼだらけの邪馬台国よりもハイカラな奴国(博多)に憧れる気持ちは
わからなくもない、しかし邪馬台国に誇りを持て!
732日本@名無史さん2018/07/08(日) 20:33:32.70
邪馬台はなかった!(いそだうぜー?
733日本@名無史さん2018/07/08(日) 20:34:40.56
りょーま!りょーま!りょーま!
734日本@名無史さん2018/07/08(日) 20:35:53.43
こよいのたいがはひとあじちゃう
735日本@名無史さん2018/07/08(日) 20:36:16.60
ふつーにやれ
736日本@名無史さん2018/07/08(日) 20:37:40.65
またつまらぬものをきってもーた(もんきーぱんち風
737日本@名無史さん2018/07/08(日) 20:38:34.06
>>719
いや、短里厨は客観的で具体的なものは1度も出してきてない
ものすごくあいまいに、例えば対馬国から一大国は何キロだとか一方的に言い張ってきただけだ
遺跡ベースで特定するのが理想だがそこまでできない場合は候補となる地域を指定する必要がある
対馬国なんて南北70キロもあるんだから短里とかいう単位を当てはめたら1000里に相当し
一大国への距離にしても北の端を起点にした場合と南の端を起点にした場合で1000里も異なる
さらにどういうルートを想定したから何キロになるのかという>>595のような距離の計算根拠も一度も示したことがない
もちろんそんな具体的に示したら嘘八百がばれるからやるわけがない
ひたすら短里はあったと喚くのみ 738日本@名無史さん2018/07/08(日) 20:39:21.19
>>374
>あと、帯方郡は沙里院だから帯方郡ー狗邪韓国の距離は少なくとも1000kmはあるだろうな<
郡出発の「循海岸水行」の出発港は、
沙里院の南海岸部になる「海州」付近の北緯38度線位であり、
釜山が北緯35度位であって、緯度の一度は111kmであるから、
沙里院と釜山の南北距離は333kmであり、
仮に対角線に陸行したとすれば、470kmであった事になり、
更に倭王武の上表文で「自昔・・・道kei百濟、裝治船舫」と書いているから、
韓国は「道kei」路の陸行していた事も判り、
従って、この男の話は×。
>どの程度海岸線に沿って航行したか不明だが海岸線べったりだと1500kmにもなる<
「自昔・・・道kei百濟、裝治船舫」に拠って、×。 739subo2018/07/08(日) 20:41:19.04
大河でりょーまがでてきたのか
740日本@名無史さん2018/07/08(日) 20:41:21.00
佐賀ちっごは田んぼ、八女は茶畑、山門はみかん園
邪馬台国の候補地は、見渡すかぎり農業地帯
741日本@名無史さん2018/07/08(日) 20:42:21.41
あーこんな大河なら豪雨情報ながせ?磯田うぜー
742日本@名無史さん2018/07/08(日) 20:43:45.83
2かいめの無駄かいじゃ
743日本@名無史さん2018/07/08(日) 20:45:20.48
>>728
>足摺岬の西方海上の沖の島には、江戸時代まで「低身長」の人々がいた、
>という記録があり、
そんなゴミ情報など根拠にならん 744日本@名無史さん2018/07/08(日) 20:45:20.91
>>376
>東夷伝でだけ統一的に短い里程なんだから
東夷伝以外の地域との里程と比較しないと無意味。<
Yahooでの「三国志の里記載」の議論で、
「大和説者が提示した魏志の里記載は、
全て、長里では×で、
「居住外縁部間距離などでの短里」で説明が付く、という結末であったんだよ。 745日本@名無史さん2018/07/08(日) 20:46:27.10
>>595でも150m未満やん(ぱっとみでも(べんきょーせー自爆野郎 746subo2018/07/08(日) 20:46:33.63
磯田というのはへらへらした奴のことか
747日本@名無史さん2018/07/08(日) 20:48:18.52
いそだはあほ?(5かいめのはんてーじゃ
748日本@名無史さん2018/07/08(日) 20:48:51.75
おかやまじんのかざかみにおけんな
749日本@名無史さん2018/07/08(日) 20:51:25.88
>>378
>1里50m〜200mはそんなに統一的か?<
200里の数字がインチキであった、という説明をしておいたよ。
そして、大体「55〜90m」の間で、平均は75m位の短里であり、
長里説の430mは、全くダメだ、という事になっていたよ。 750日本@名無史さん2018/07/08(日) 20:53:04.23
>>379
>すくなくとも魏の里ではない。<
魏志は少なくとも、「魏の里=短里」だな。 751日本@名無史さん2018/07/08(日) 20:55:24.96
>>692
>(解答:::統計的にはベイズも含めて100m未満
すぐ嘘をつくw
ベイズ統計の出る幕はないぞw 752日本@名無史さん2018/07/08(日) 20:58:35.37
>>385
>規則性がないのだから平均は無意味<
「50〜90m」位という規則性があるから、平均も有意味であり、
大和説のような430mでは、6倍位も違っていて、全く×。 753日本@名無史さん2018/07/08(日) 21:00:20.78
>>751
あーそーなんか?
プロエリートのわえより偉いのは日本にふたりしかいなんやけど?あんたどっち? 7547532018/07/08(日) 21:01:32.21
どっちもジャマイカきょーみないはずなんやが?
755日本@名無史さん2018/07/08(日) 21:04:49.55
グルて?なんやろ?(らじにーしもグルやったな?(じじーどもとむかんけー?
756日本@名無史さん2018/07/08(日) 21:08:39.83
>>390
》たとえば、3センチの消しゴムと2メートルの物干し竿と15センチの鉛筆があったとして、
この3,200,15という何の関係のない数字であっても、平均を計算することはできるんですよ
72.7センチになりますが、この数字にどんな意味があると思いますか?<
「対象の物を全く違う種類にする」というインチキをしたお前は、・・・・詐欺師だ、と思う。
>末慮国ー伊都国間と、伊都国ー奴国間で4倍異なる数字を平均すればよいという
あなたの主張は、これと同じです<
最低、行程内の里数記載、という「同じ種類の数字」の話をしているから、
平均にも意味があり、
大和説者らのような「6倍位も違う」ものを主張するのは、インチキ詐欺師だと思う。 757日本@名無史さん2018/07/08(日) 21:08:48.70
西域の大月氏の朝貢に見合う功績だっていうために、
倭国も萬二千餘里じゃなきゃいけなかったんだよ
それだけのこと
そのための数字合わせだから、実測値じゃないし場所によってバラバラ
でも、倭国を遠くにするために数字を盛っているから、換算すれば
魏晋里より短くなるが、短里があるわけじゃないw
758日本@名無史さん2018/07/08(日) 21:10:06.92
さかもと一家と豪雨死者に菊
759日本@名無史さん2018/07/08(日) 21:11:57.01
>>752
>「50〜90m」位という規則性
はいウソつきw
換算に使えるのが事実上
末慮国−伊都国間
伊都国−奴国間
の2ヶ所しかなく、それが50mと200mで4倍も違う 760日本@名無史さん2018/07/08(日) 21:14:22.88
>>753
>あーそーなんか?
そうなんだよ!
勉強になったかい? 761日本@名無史さん2018/07/08(日) 21:14:36.80
>>391
>>大和説者は、ほぼ全員が、
戦前の「万世一系の皇国史観」を信仰する・・・・人種だから。<
>万世一系の天皇家が、古代に中国に朝貢してた史実は非常にまずいだろ。<
史料事実であるから、まずくない。
>右翼的には辛くて耐えられないよね。<
・・・・極右のssnには耐えられない、というだけ。
>だから江戸時代の国学者が九州説という虚構を創ったんだよ。
まだ分からないお前はハゲ?<
九州は、始めから史料事実だよ。
それがまだ分からないssnは、・・・・ハゲ?。 762subo2018/07/08(日) 21:15:20.98
>>759
伊都国〜奴国の1里が200mという根拠は???????????? 763日本@名無史さん2018/07/08(日) 21:19:03.45
>>394
>ザラコクさんが ・大和朝廷もなかったから、×。 ・畿内もなかったから、×。
・「南≠東」だから、×。 ・天皇もいなかったから、×。
って言い続けているのって、単に根拠を挙げた討論ができないから
逃げのごまかしで書いてるだけなんだよね<
wwが一番嫌いな「史料事実や史料実態」が根拠だ、と言ってある。 764日本@名無史さん2018/07/08(日) 21:19:10.97
>〇〇〇<
↑他人のレスをこうやって引用するやつはどういう名前で呼ばれてるコテ?
765日本@名無史さん2018/07/08(日) 21:20:53.89
どろぼう
766日本@名無史さん2018/07/08(日) 21:23:09.78
>>397
>ヒミコ、トヨをはじめ鴨(神)族の墓は奈良盆地最上座の高天原(御所市高天)にある。<
「南≠東」に拠って、ssnは×。 767日本@名無史さん2018/07/08(日) 21:26:11.03
>>400
>「地方の市を監督する大倭職」が、畿内にあるなら
倭国の範囲が畿内に及ぶ広域説 <
大和日本国は、九州倭国から別れた別種の旧小国。 768日本@名無史さん2018/07/08(日) 21:31:05.47
まーえーわ
べつに畿内説ぜんひていしとらんし(ワイ族視点の12000×97mけいさんせー(しとらんやろ?
769日本@名無史さん2018/07/08(日) 21:32:49.50
つうか?じじいどもNHKみろ?
あさはらやくの声優稚拙やのー?(こーいうのはぎゃくこーか
770日本@名無史さん2018/07/08(日) 21:34:31.86
>>406
>リアス式海岸をいちいち出入りしなければ、そんなに長い距離にはならない<
「歴韓國乍南乍東」は、
倭王武の上表文の「自昔・・・道kei百濟、裝治船舫」に拠って、陸行だから、
wwは、また×ね。 771日本@名無史さん2018/07/08(日) 21:38:31.09
らじにーし(落ちたグル(じじーどもしらんのか?
772日本@名無史さん2018/07/08(日) 21:39:33.26
>>410
>邪馬台国はヤマト国 他の畿内は関係ない <
邪馬台国なんて存在しないし、
大和説は「南≠東」に拠って、×。 773日本@名無史さん2018/07/08(日) 21:39:46.85
んhkうすっぺらいのー?
774日本@名無史さん2018/07/08(日) 21:40:25.75
いそだだしたじてんでおさっしや?
775日本@名無史さん2018/07/08(日) 21:42:49.86
ワイ族(とーいでんくらいしってるな?(わえがなぜにじじいどものグル役?
776日本@名無史さん2018/07/08(日) 21:45:17.68
あさはらはラジニーシのパクリ(さいはつぼーしのために拡散
777日本@名無史さん2018/07/08(日) 21:45:25.12
>>770
関係もない後世の文献を使って、しかもトンデモ訳するという
古田説の悪癖まるだしだな
だから、いつまでも学者から相手にされない少数派の珍説なの 778日本@名無史さん2018/07/08(日) 21:48:29.50
>>749
あんたの「説明」ってタダの結論連呼だから
世間では説明とは呼ばれないよ 779日本@名無史さん2018/07/08(日) 21:48:47.64
>>418
>>1万2千里=水行10日陸行1月<
>はい、これがウソw その伝でいくと、投馬国までは2万里くらいになるのかな?ww<
玄界灘のあたりまで来て、そこから水行20日で投馬国
投馬国から水行10日陸行1月って書いてあるのを、
恣意的に無理読みするから、そんな変なことを言い出すんだよww<
はい、これも、
投馬國へは「日数」しか書かれていないから魏使らは行っていないし、
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっており、
wwは、大和説だから、「南≠東」などに拠って、wwは、×。 780日本@名無史さん2018/07/08(日) 21:49:00.94
>>764
>>〇〇〇<
>↑他人のレスをこうやって引用するやつ
ザラコクさんだよ
ここではコテは使ってないけど、zarakoku名でいろんなところを荒らしてる人 781日本@名無史さん2018/07/08(日) 21:49:19.73
ザラコク
邪馬台国関連スレに出没する非常識異常行動者のひとり
呼称は、Yahoo掲示坂で使用していたハンネ「zarakoku」から
古田武彦と彼が提唱した九州王朝説を盲目的に信仰しており、その信心の深さは、
世間的には偽書として決着している『東日流外三郡誌』を未だに真書であると主張するほど
自らを「素人おじん」と称することもあり、一見、自身を客観視できているかのようであるが、
その書き込み内容は、自分の信奉する説以外はすべて間違いだと決めつけてかかる、六拾弐病患者特有のもの
素人が専門家をこき下ろすという行為に疑問を感じなくなっているほど思考が硬直化している
「全レスバカ」と呼ばれることがあるほど片っ端からレスを付けまくるが、
ほとんどが他人の会話への横レスかつ超遅レスであり、周囲と会話が成立することはまずない
レスを付けることが目的化している節があり、その内容は、
他人の発言を長々と全文引用したあげく、賛成!とか間違いだ!とか数文字書き足すという程度のもの、
自分の都合のいいように語句を入れ替えただけのオウム返しのものなど、無意味なものばかりである
投稿数だけは圧倒的で、コピペ連投並みにスレを荒らす結果となっているが、本人に自覚はない
社用のPCで勤務時間中に5ちゃん投稿に血道を上げる問題経営者である
自分に不都合な情報を自分に都合が良いように勝手に脳内変換していることが多いが、
ソースを提示されても、自身の記憶や理解の方が正しいと主張する、傲慢な思考の持ち主
常駐していたYahoo掲示板を倫理規定に触れて出禁になったらしく、最近5ちゃんに居付いてしまった
「生きる独善」との形容がぴったりな75歳
782日本@名無史さん2018/07/08(日) 21:51:13.34
783日本@名無史さん2018/07/08(日) 21:51:23.20
ひゃはー(タイのしょうねんにわえもサインいりのユニフォームおくったる?いらんやろけど?
784日本@名無史さん2018/07/08(日) 21:52:46.43
>>423
ここは学問科学板なんだから、大和説を主張したいなら、
根拠と論拠を示して、自説の正しさ、蓋然性の高さを論証して見せればいいんだよ。
説得力のある、蓋然性の高い説をきちんと論理的に示せば、
きちんと相手をしてくれる人がいるから、
それをせずに、誹謗中傷に走るっていうのは、
wwが、科学的批判に耐えられる説を持っていないという告白に他ならないww。 785日本@名無史さん2018/07/08(日) 21:53:38.16
あれれ?ここなんのすれ?(日本史?
786日本@名無史さん2018/07/08(日) 21:56:46.62
>>779
>投馬國へは「日数」しか書かれていないから魏使らは行っていないし、
なら、邪馬壹國へも「日数」で書かれているから魏使らは行ってないってことになるし、
「1万2千里=水行10日陸行1月」と考える根拠は一切ないってことだね!
いつも思いつきの脊髄反射で適当なことを書くことしかできないから、
いつも自分の書き込み同士で相互矛盾ばかり
ザラコクさんはそんな人ww 787日本@名無史さん2018/07/08(日) 21:57:19.46
>>738
>郡出発の「循海岸水行」の出発港は、
>沙里院の南海岸部になる「海州」付近の北緯38度線位であり、
それ、なんか根拠あるの?
無いでしょ
ただ、欲しい数字に合わせて場所を探しただけでしょ
それを世間ではインチキと言うんだよ 788日本@名無史さん2018/07/08(日) 21:59:30.79
>>779
>投馬國へは「日数」しか書かれていないから魏使らは行っていないし、
その決めつけに根拠なし 789日本@名無史さん2018/07/08(日) 22:03:27.56
>>784
大和説なんて誰も主張してませんが、それがこのスレと何か関係があるんですか?
関係ないことを叫ぶだけなら、オフトピですから何処かヨソに行ってくれませんか? 790日本@名無史さん2018/07/08(日) 22:10:57.38
>>789
ザラコクさんには話が通じないから、言うだけムダだよ 791日本@名無史さん2018/07/08(日) 22:10:59.56
>>780
サンクス
相手にしてはいかん人だね
もう1匹変なのがいるわ
カッコの前の方だけをつけて、ケチつけるだけの1行レスするやつ
>>775とか>>776とか
こういう荒らしも無視だな 792日本@名無史さん2018/07/08(日) 22:16:00.36
793日本@名無史さん2018/07/08(日) 22:25:38.45
>>450
>福岡は会稽の東にはならいから行程を根拠にするなら
さらに南に進まなければならない<
福岡は、折れ線的行程記載里数の邪馬壹國までの道のり里数合計の地であり、
「自郡至女王國萬二千餘里」と書かれた時の「女王國」は、投馬國も含むから、
福岡から南九州の九州島全体だ、という事の直線距離的な位置になる。 794日本@名無史さん2018/07/08(日) 22:29:22.59
>>451
>福岡は会稽の東にはならない<
九州は、「会稽東治」の「東〜東北東」にあるから、会稽のほぼ東になる。
福岡は、ほぼ邪馬壹國である。 795日本@名無史さん2018/07/08(日) 22:32:06.12
>>794
ウソのゴリ押ししても、無駄
会稽の真東は屋久島あたり 796日本@名無史さん2018/07/08(日) 22:32:46.69
>>453
>方400里、方300里は島の周囲を記したもので移動した距離ではないよ
何故なら行、水行、陸行などの途中移動の動詞がないからな<
それぞれの国内の見聞移動があった事が書かれているから、
国内を移動した距離を足さなけてはならない。 797日本@名無史さん2018/07/08(日) 22:35:29.81
>>757
>そのための数字合わせだから、実測値じゃないし場所によってバラバラ
それほどバラバラには思えない。 798日本@名無史さん2018/07/08(日) 22:35:32.74
まあ、ここまでデタラメを平気で言える人って
ザラコクくらいじゃないの?
事実ほかに居ないわ
799日本@名無史さん2018/07/08(日) 22:36:03.36
>>454]
>だから邪馬台国まで1万2千里というのは間違った数値なんだろ <
魏志らが、移動して計測した里数の合計だから、ほぼ正しい数値だ。 800日本@名無史さん2018/07/08(日) 22:36:36.14
>>757
>魏晋里より短くなるが、短里があるわけじゃないw
理屈が通っていない。 801日本@名無史さん2018/07/08(日) 22:37:22.80
>>781
ザラコクの意見は支持しないが、畿内説による個人攻撃も見苦しい。
内容に反論しろよ。 802日本@名無史さん2018/07/08(日) 22:38:18.06
>>789
>大和説なんて誰も主張してませんが、それがこのスレと何か関係があるんですか?
邪馬台国が大和にあったと主張しているよね? 803日本@名無史さん2018/07/08(日) 22:42:33.60
>>462
>あたま悪すぎるな
だから邪馬台国まで1万2千里というのは間違った数値だと言ってるだろ<
別に間違っておらず、大体合っている。
しかし、大和説者の長里では、赤道付近にまで行ってしまう事になるから、×。
>陳寿も倭が台湾くらい南だと思ってる<
思っていない。
はっきりと、「計其道里、當在會稽東治之東」と書いている。 804日本@名無史さん2018/07/08(日) 22:42:34.89
屋久島辺りからヤマトを目指すんだよ
805日本@名無史さん2018/07/08(日) 22:43:20.07
806日本@名無史さん2018/07/08(日) 22:44:23.96
内容がデタラメの大量連呼だと個人攻撃されるのが当たり前
807日本@名無史さん2018/07/08(日) 22:45:39.88
うわクズがいるぞ。
808日本@名無史さん2018/07/08(日) 22:47:31.59
>>475
>見聞移動? じゃあ島内陸行なの? 言ってることが不統一だな
インチキ騙しなの?<
私は、始めから、「国内見聞移動だ」と言って来たよ。
またインチキ騙しなの?。 809日本@名無史さん2018/07/08(日) 22:50:23.62
>>477
>短里なんて出所不明怪情報を使った時点で、九州説はトンデモなんだよ <
「赤道位まで行ってしまう長里」なんて」、
出所不明怪情報を使った時点で、大和説はトンデモなんだよ。 810日本@名無史さん2018/07/08(日) 22:50:49.20
811日本@名無史さん2018/07/08(日) 22:52:56.47
>>478
>だから、短里とか妄言を吐いてるのは九州説だけ<
だから、「赤道にまで行ってしまう」ような冢里とか、
妄言を吐いてるのは大和説だけ。 812日本@名無史さん2018/07/08(日) 22:53:11.23
>>803
はっきりと「計其道里、當在會稽東治之東」と書いている以上
陳寿は倭が台湾くらい南だと思ってる
思っていない。
はっきりと、「計其道里、當在會稽東治之東」と書いている。 813日本@名無史さん2018/07/08(日) 22:54:44.81
>>797
>それほどバラバラには思えない。
そうやって言い張るだけなのは不可
場所によって1里が50mになったり200mになったり
規則性がないって何度も書かれてるだろ 814日本@名無史さん2018/07/08(日) 22:55:31.29
會稽東冶が正しい
815日本@名無史さん2018/07/08(日) 22:55:43.19
>>809
出所はハッキリしてるけど?
漢魏の公式度量衡だから 816日本@名無史さん2018/07/08(日) 23:00:21.73
>>811
赤道あーたらこーたらは現代人の知識だから関係なし
古代中国人は広東よりは北だと思ってる 817日本@名無史さん2018/07/08(日) 23:53:30.68
むかし、むかしのその昔、
九州地方は倭地と呼ばれて、倭人が棲み、倭国という共立国家があったとさ、、、、
818日本@名無史さん2018/07/09(月) 01:38:08.18
《魏書》巻二十七王昶傳「今屯宛,去襄陽三百餘里」
宛城:河南省南陽市宛城区仲景北路318巷
襄陽城:湖北省襄陽市襄城区
およそ130km
130/300=0.43
三國志にちなむ遺構はあちこち観光地になってるね
819日本@名無史さん2018/07/09(月) 02:19:38.00
天皇家(倭人)↪ヤマト王権(混血人」)は✖
ここにカキコム畿内説は根幹が分っていない
倭人+渡来人がヤマト王権を築いたのは学会では常識
その国家(倭人+渡来人)が(倭人、混血、渡来人)の決着が南北朝
結果は混血で収束
820日本@名無史さん2018/07/09(月) 02:47:38.89
皇国史観
日本の歴史とは 天皇を中心に戴き、 天皇と国民が一体となって、
国体の精華を発揮し、あゆんできた歴史であるとする歴史観・
部落問題とは倭人差別
邪馬台国は倭人・・ヤマト王権は異人
天皇陛下万歳が日本史をダメにする
821日本@名無史さん2018/07/09(月) 02:55:18.38
822日本@名無史さん2018/07/09(月) 04:14:25.68
>>821
九州説=トンデモ の広告塔だからな
みんな感謝してるよ 823日本@名無史さん2018/07/09(月) 04:16:16.45
松浦までで、実距離は中国の里の1/5程度であることがわかっている。
これを前提として5倍誇張説を仮定する。一里あたり87mである。
5倍誇張説の場合の計算結果と推定場所
帯方郡の場所
帯方郡黄海北道鳳山郡説より、帯方郡側の海州を起点とする。
帯方郡から狗邪韓国まで、乍南乍東7000余里 7000里/5=1400里*435m=609km 海州―釜山広域市 700km
狗邪韓国から松浦まで3000里 3000里/5=600里*435m=261km 釜山広域市−唐津 210km
松浦から伊都国南東500里 500里/5=100里*435m=43.5km 唐津―小城 38.3km
東南100里の奴国まで 100里/5=20里*435m=8.7km 小城―佐賀 10.1km
東100里の不弥国までの道 100里/5=20里*435m=8.7km 佐賀―大川 9.5km
南水行20日の投馬国まで 20日/5=4日*30里=120里*435m=52.2km 大川―玉名 47q
水行10日、陸行1月の邪馬台国
水行10日 10日/5=2日*30里=60里*435m=26.1km 玉名―緑川 26q
陸行1月 30日/5=6日*30里=180里*435m=78.3km 緑川―人吉 86q
侏儒國 南4000里 4000里/5=800里*435m=348km 熊本緑川流域―屋久島 315km
裸国、K歯国 水行一年 365日/5=73日*30里=2190里*435m=952.65km
熊本緑川流域-奄美大島 580km
熊本緑川流域-沖縄本島 824km
おまけ
韓地、方4000里 (4000里/5)^2=800里^2=(800*435)^2 =121104km^2
wikipediaより、
韓国 面積 100,210km^2 824日本@名無史さん2018/07/09(月) 04:20:12.65
>>823
>帯方郡黄海北道鳳山郡説より、帯方郡側の海州を起点とする
最初からトンデモで破綻してるな 825日本@名無史さん2018/07/09(月) 06:50:51.71
むかし、むかしのその昔、
九州地方は倭地と呼ばれて、倭人が棲み、
倭国という、共立女王の国家があったとさ、、、、。
826日本@名無史さん2018/07/09(月) 07:23:35.03
ヤマト王権(天皇家)の統一支配が史実よりも古くから始まっていたとする思想だから、基本的に畿内説は万世一系説と同じ。
宗教だよ。
827日本@名無史さん2018/07/09(月) 07:37:23.81
>>479
>「自郡至女王國 萬二千餘里」
女王國の境界までが12000里だから1里の距離はほとんど関係ない<
1里の距離が約430mであるんなら、赤道付近にまでいってしまうという事になるんだから、
長里ではない事が確定。
>行程なら 北部九州の女王國の境界から南に水行二十日(旁國を通らない)で投馬國 <
里数が書かれていないし、起点と到着地の間に、移動があった事を示す文言がないから、
魏使らは、行っていない。
>さらに會稽〜東冶のあたりまで南に水行十日陸行一月で邪馬臺國の女王之都<
魏志は「計其道里、當在會稽東治之東 」であって、「東冶」ではないから、
この男は、×人間。
>漢人には帯方郡からどのくらいの距離南下すれば會稽〜東冶のあたりか
という距離感のほうが正確だから <
はるか後代の南宋にいて、使節に依る直接的な位置記録無しに、
魏志を自己解釈に拠る高慢な書き換えをした後漢書は、×。
>それが九州最南部〜沖縄か、畿内かという話<
畿内なんてなかったし、「南≠東」などに拠って、大和は×。 828日本@名無史さん2018/07/09(月) 07:44:01.69
829日本@名無史さん2018/07/09(月) 07:44:57.49
>482
>あなた、道里が不明と書いてある国々までの距離がわかってると言い張るのは、もちろんウソつき騙しだよね?><
彼は、そんな事お言っていないね。
要するに、邪馬壹國と、その中にある女王之所都と、女王國と、倭國と、倭地という概念を、
区別しようとしておられるだけ。
更に言えば、狗奴國は、女王國には含まれるのか?は不明であるが、倭国や倭地には含まれている。
830日本@名無史さん2018/07/09(月) 07:47:28.41
>>826
そういうウソついて何か楽しいの?
すぐバレるから自分が恥かくだけなのに 831日本@名無史さん2018/07/09(月) 07:54:53.81
>>827
>はるか後代の南宋にいて、使節に依る直接的な位置記録無しに、
>魏志を自己解釈に拠る高慢な書き換えをした後漢書は、×
さすがに、このザラコクって男・・・バカだろ
主に学力的な意味で 832日本@名無史さん2018/07/09(月) 08:06:59.82
>>483
>帶方郡即ち臨津江口より狗邪韓國即ち金海に至る海上の距離は、大約二百餘里なるを、『魏志』には七千餘里となす。<
臨津江口という地名特定に根拠がなく、
「海上距離」も、
魏使らは、韓国を歴訪して乍南乍東をしているし、
倭王武の上表のように「自昔」から韓國を「道kei」しているから、
「海上」が×。
>故に此間の三十五里は我が一里に當る。<
始めから「歴韓國乍南乍東」の解釈間違い。
>又狗邪韓國より九州の末盧國即ち松浦郡に至る海上の里程は、大約六十餘里に過ぎざるを、『魏志』には之を三千餘里となす。
故に此間の五十里は我が一里に當る。<
「我が一里」は約4kmであるから、「約六十餘里」は約240kmだ、と言っている事になり、3千里で割り算して、1里≒80mという短里がきちんと出ていた事になる、。
>又末盧國より不彌國即ち太宰府の附近に至る陸上の距離は大約三十里を出でざるに、『魏志』には之を七百里となす。
故に此間の二十三、四里は我が一里に當る。<
末盧國〜不彌國は、魏志に拠れば、600里位になり、この男がアホ詐欺師であった、という事になる。
>此の如く『魏志』倭人傳に見えたる里程の標準は區々にして一定せざる上に以下略
ダメじゃん九州説<
ダメじゃん、大和説。 833日本@名無史さん2018/07/09(月) 08:10:41.94
>>488
それなのに、そこが会稽より南だとか言うのは、
スレ主や大和説学者やssnやww並みの、ウソつき騙しの大和説人間だけだよな。 834日本@名無史さん2018/07/09(月) 08:14:49.11
>>490
>じゃ、なんで会稽東治の東とわかる?<
「自郡至女王國萬二千餘里」という魏使らの記録を、
陳寿が、魏朝の里(短里)で計算して、
中国の東海岸部での「対応する位置の計算」をしたから。 835日本@名無史さん2018/07/09(月) 08:16:11.21
>>491
大和説者らは、結論を言い張るばかりで理由を言ったことかないな。
トンデモだから。 836日本@名無史さん2018/07/09(月) 08:22:56.28
>>497
>たから南水行は東の間違いなんですが、なにか?<
だから、魏使らは、周髀算経や礼記は当然読んでいて、
太陽の午前と午後の位置から東西南北の決め方を知っており、
更に指南魚のような方位磁石も知っているから、
「南→東」などのような間違いは、起こさないんですよ、
なにか?。 837日本@名無史さん2018/07/09(月) 08:29:31.16
>>828日本@名無史さん2018/07/09(月) 07:44:01.69
>>826
>しかり
>朝廷の出自は倭人じゃないのだ
そういうことだ
それが、諸事万端を解くカギだ 838日本@名無史さん2018/07/09(月) 08:35:38.70
>>501
>当時の人はベトナム北部くらいで洛陽の南1万里だと思ってるから赤道とか行かない <
ベトナム北部は、大体北回帰線付近であり、夏至正午には太陽直下になる地域であり、
周髀算経では、洛陽付近では、夏至正午の8尺棒の影長が1尺6寸であり、
南へ千里行ったら影長が一寸短くなる、という一寸千里の法を知っているから、
南に萬六千里行けば、夏至正午に太陽直下の地に至る事も知っており、
だから、周髀算経を読んで理解している学者は、
洛陽〜ベトナム北部は、1万6千里位だ、という事を知っている。 839日本@名無史さん2018/07/09(月) 08:46:19.58
>>838
なら、帯方から1万2千里で赤道まで行くわけないでしょ
赤道付近まで行ってしまうと連呼してるザラコクって、あたま変なの? 840日本@名無史さん2018/07/09(月) 08:47:02.28
>>503
>各区間で1里あたりの距離に規則性がないからそういうパズルは無意味
つーかそういう小学生のお遊びは九州説スレでやれ<
元々、千差万別の自然地形に対しての、
「有効数字1桁」や「余」を使った近似的表現であり、
絶対的な規則性があるのだ、という人間の方がおかしい。
つーか、そういう小学生のお遊びは、
オームや「萬世一系皇国史観」の・・・・宗教スレでやれ。 841日本@名無史さん2018/07/09(月) 08:49:10.00
いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、
842日本@名無史さん2018/07/09(月) 08:49:31.39
キナイコシが発表した200年の時間差とは、どういうことだろうか。。。
843日本@名無史さん2018/07/09(月) 08:49:55.94
>>840
>絶対的な規則性があるのだ、という人間の方がおかしい。
つまり、短里とか言ってる人は、おかしいんだね?
正解だ 844日本@名無史さん2018/07/09(月) 08:51:14.72
845日本@名無史さん2018/07/09(月) 08:52:14.27
>>504
>もちろん短里に反論されてて、学界でも短里なんて相手にされてないわけだか
それが、どうしたの?<
その学会とやらが、オームや「萬世一系皇国史観」教のような、
「結論先にありき」の宗教集団に脳が犯されている、
って事なの。 846日本@名無史さん2018/07/09(月) 08:55:54.87
つまり、畿内説は完全に破綻してしまったのだね。。。
847日本@名無史さん2018/07/09(月) 08:56:13.40
畿内説が破綻したことがはっきりした今、纏向遺蹟とは何だったのか研究すれば良いのではないのかな。。。
848日本@名無史さん2018/07/09(月) 08:57:13.04
キナイコシが連句点に過剰反応するのはなぜだろうか、、
849日本@名無史さん2018/07/09(月) 08:58:50.34
魏志倭人伝の時代は西暦何年なのだろうか、、、
850日本@名無史さん2018/07/09(月) 08:59:21.42
>>849
計算すると、西暦200年頃からだな。。。 851日本@名無史さん2018/07/09(月) 08:59:40.24
では、邪馬台国時代の天皇は誰なのだろうか、、、
852日本@名無史さん2018/07/09(月) 08:59:55.53
計算すると、応神天皇の頃だな。。。
昔の天皇は長生きだな。。。
魏志倭人伝にも倭人が長生きで100年生きるとあったが、それが正しいことが証明されたな、、
853日本@名無史さん2018/07/09(月) 09:00:12.24
計算すると、神武天皇の方が800年以上古い時代のようだな。。。
854日本@名無史さん2018/07/09(月) 09:00:27.94
では、大物主は何年前の者だろうか、、、
855日本@名無史さん2018/07/09(月) 09:01:07.28
古事記と日本書紀について突き詰めていくと、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。
856日本@名無史さん2018/07/09(月) 09:02:03.61
テンプレートに書いてあることの根拠が、本当は何もないということが、優れた考古学者達によって、明らかになってしまったね。
857日本@名無史さん2018/07/09(月) 09:02:53.51
改めて狂人のキナイコシが貼り付けているテンプレートを読んでみると、訳が分からなくなってくる。。。
奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることの言い訳ばかりで、、、
かえって、奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることが強調されているのではないのかな。。。
858日本@名無史さん2018/07/09(月) 09:03:57.48
キナイコシに元気がなくなったな。。
859日本@名無史さん2018/07/09(月) 09:04:29.63
萬世一系皇国史観のことで、優れた考古学者達に打ちのめされ、恥を掻かされたキナイコシが、やる気を失ったのではないのかな。。。
860日本@名無史さん2018/07/09(月) 09:04:34.21
>>838
>だから、周髀算経を読んで理解している学者は、
>洛陽〜ベトナム北部は、1万6千里位だ、という事を知っている。
なら、どうして古代中国人は
洛陽〜ベトナム北部は、1万6千里位だ、と
誰も言わないの? 861日本@名無史さん2018/07/09(月) 09:06:42.65
キナイコシが論破されてしまっている話題の一つが、短里のことのようだね。。。
862日本@名無史さん2018/07/09(月) 09:07:12.09
>>861
あまり、レベルの高い話題ではないのではないのかな。。。 863日本@名無史さん2018/07/09(月) 09:07:55.92
>>862
僕たちの翻訳では、魏志倭人伝の作者は、まず倭人の住む土地を倭地と書いたのだよね、、、 864日本@名無史さん2018/07/09(月) 09:08:19.73
>>863
そうだね、、、
そしてその中に倭国があって、さらにその中に、女王国や伊都国やマツラ国等がある。。。 865日本@名無史さん2018/07/09(月) 09:15:15.35
キナイコシが「なら、どうして古代中国人は
洛陽〜ベトナム北部は、1万6千里位だ、と
誰も言わないの?」と発表したな、、、、
866日本@名無史さん2018/07/09(月) 09:16:33.42
>>865
普通の常識がある者ならば、どうしてキナイコシは古代中国人の誰一人として、「洛陽〜ベトナム北部は、1万6千里位だ、」と言わなかったと考えてしまう狂人なのか、と思うのではないのかな。。。 867日本@名無史さん2018/07/09(月) 09:17:15.67
>>842
中国の正式な歴史書に書かれた倭人と中国人の交流の間隔時間のことではないのかな。。。 868日本@名無史さん2018/07/09(月) 09:19:04.27
>>866
そうだね。。。
キナイコシは全ての古代中国人も生涯を、自分が把握したと夢想しているのではないのかな。。。 869日本@名無史さん2018/07/09(月) 09:19:51.60
>>847
そうだね。。。
僕たちは、もう、邪馬台国の議論からは卒業して、畿内説が破綻したことを踏まえた上で、纏向遺蹟とは何だったのかという一段、高いレベルの研究を始めたな。。。 870日本@名無史さん2018/07/09(月) 09:21:39.50
最近、僕たちは、銅鏡のことを研究しているのだが、キナイコシは、今日は銅鏡のことを話題にしないな。。。
871日本@名無史さん2018/07/09(月) 09:23:32.22
>>516
>まあ珍寿は倭人の国が台湾くらい南だと思ってんだから、<
台湾も北回帰線が通っており、という事は、
洛陽や山東半島南岸や釜山の北緯35度ラインの南「一万6千里」の距離である、
という事も当然知っており、
陳寿が、北緯38度線以北の帯方郡からの南〜東南の萬二千余里の倭國が、
台湾くらい南だ、と思っていた筈がない。
長里だけだ、なんて、現代日本の大和説学者の・・・・妄想なのは、
明らかだけどな。 872日本@名無史さん2018/07/09(月) 09:28:03.73
>>839
>赤道付近まで行ってしまうと連呼してるザラコクって、あたま変なの?
これって、畿内説が連呼しているよね。 873日本@名無史さん2018/07/09(月) 09:33:04.73
>>529
>そもそも陳寿が邪馬台国までの距離を記述する際、里数を引き算せずに日数で書いたのは
引き算をすべきでない理由があったからだと解釈すべきと思うけどな
ソースが違うのはもちろんだが、信憑性の問題かもしれないし
陳寿が書いてないことを勝手に断定して、引き算は正しいと言い張る九州説のやつらの思考回路は理解不能
書かれていることはあくまで南に水行十日陸行一月だ <
まあ、不彌國まできちんと里数を記録記載して来て、
その先をズボラして日数だけにして書いたら、
皇帝に「お前はズボラしとったんか?、わしをなめとんのか?」と怒られて、
そりゃ首が危ないな。 874日本@名無史さん2018/07/09(月) 09:33:12.00
875日本@名無史さん2018/07/09(月) 09:34:57.39
キナイコシは、「いつ、どこで?」と書きたかったのではないのかな。。。
876日本@名無史さん2018/07/09(月) 09:35:22.57
>>873
>まあ、不彌國まできちんと里数を記録記載して来て、
>その先をズボラして日数だけにして書いたら
そんな人がいたという証拠もない
主張する意味がない 877日本@名無史さん2018/07/09(月) 09:36:39.34
論破されたせいで、心が動揺し、正確な、タイピングができなくなってきているのではないのかな。。。
878日本@名無史さん2018/07/09(月) 09:38:05.32
>>871
そんなこと無いでしょ
当時の、ナントカ算経なんてトンデモ本は信用されてないから 879日本@名無史さん2018/07/09(月) 09:39:00.12
880日本@名無史さん2018/07/09(月) 09:39:21.27
>>848
連句点は、畿内説を妄信するキナイコシを、完膚なきまで叩きのめしている、優れた考古学者が、インターネット上の投稿で、多用する癖なのではないのかな。。。 881日本@名無史さん2018/07/09(月) 09:40:16.06
畿内説を論破されたキナイコシが、反論を諦めて悪口だけになってきているな。。。
882日本@名無史さん2018/07/09(月) 09:40:50.69
>>854
大物主も神武天皇の時代の人なのだね、、、 883日本@名無史さん2018/07/09(月) 09:41:08.54
あのお粗末な掘立遺跡が大物主の倉庫で、神武天皇の時代のものだから、孝元天皇の妹の墓は随分と後の時代の物だね、、、
884日本@名無史さん2018/07/09(月) 09:41:24.20
しかし、大物主はその孝元天皇の妹の夫でもあるね。。。
どういうことだろうか、、、
885日本@名無史さん2018/07/09(月) 09:41:45.67
やはり、大物主というのは役職名なのではないのかな。。。
886日本@名無史さん2018/07/09(月) 09:42:12.36
>>885
九州の王族に仕えた霊園管理者の役職名なのだろうな。。。。 887日本@名無史さん2018/07/09(月) 09:48:44.62
>>545
>んで? 赤道付近にまで行ってしまう長里説なるものは、とこにあるんだ?
九州説ボケ老人の脳内以外でだが<
「自郡至女王國萬二千餘里」」の里が長里なら、
女王國は、赤道付近にまで行ってしまう事になる。 888日本@名無史さん2018/07/09(月) 09:54:57.08
>>553
>こんなふうに史料批判を認めない九州説が、学問の世界からドロップアウトしたのは必然である<
こんなふうに、史料事実や、史料批判された史料実態を認めない大和説が、
国民の7割に否認され、
安部自民や右翼マスコミや「萬世一系皇国史観」の学会教育界という、
非学問の世界にドロップアウトしたのは、必然である。 889日本@名無史さん2018/07/09(月) 09:57:24.99
>>561
論破され、荒らして逃げる、
大和説者のみじめな日常 。 890日本@名無史さん2018/07/09(月) 10:10:54.76
>>580
短里で書かれた報告を、長里しか知らない人が読んで解釈すれば、
赤道付近くらいかな、
ということになってしまう。 891日本@名無史さん2018/07/09(月) 10:12:27.81
>>887
ほらな
>「自郡至女王國萬二千餘里」」の里が長里なら、
女王國は、赤道付近にまで行ってしまう事になる。
と言い張っているのはザラコク
畿内説の者ではない 892日本@名無史さん2018/07/09(月) 10:14:01.16
>>890
なる、という理由は?
九州説はいつも理由なしに言い張るばかりだな 893日本@名無史さん2018/07/09(月) 10:15:26.89
>>888
>非学問の世界にドロップアウトしたのは、必然である。
でも、現役の研究者で九州説を支持している人の名前は一人も上げられないんだよね?
現役の研究者というのは
学術雑誌に継続的に原著論文を投稿、掲載されている人だよ
学術雑誌というのは、ピアレビューによる査読システムを持つ専門誌のこと
邪馬台国研究は、一出版社が出している一般向けの雑誌で
古田史学会報は、ある種の同人誌だね、有志による発行
どちらも学術雑誌ではないから、そこでしか発表していないのは研究者ではなく
趣味の研究家
お料理の研究家っていう場合の研究家と、同じ意味合い 894日本@名無史さん2018/07/09(月) 10:16:17.84
>>867
キナイコシはその期間の間にある帥升のことを知らなかったのではないのかな。。。 895日本@名無史さん2018/07/09(月) 10:18:37.85
>>870
キナイコシが優れた考古学者に打ちのめされた話題なのではないのかな。。。 896日本@名無史さん2018/07/09(月) 10:19:46.79
>>585
>後漢書なら「其地大較在會稽東冶之東<
使節を派遣していない南宋の范曄は、
使節を派遣した記録に拠って書かれた魏志の記載を、
自己解釈して高慢に「東治→東冶」と書き換えて、
後漢書を書くしか、出来なかった。 897日本@名無史さん2018/07/09(月) 10:20:12.26
>>841
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 898日本@名無史さん2018/07/09(月) 10:20:34.61
>>889
>論破され、荒らして逃げる、
>大和説者のみじめな日常 。
こういう、畿内説と九州説を入れ替えたミラーイメージの書き込みばかりしていて
惨めにならないんだろうか?
まあ、そんな殊勝な感性を持ってたら、今どき九州説なんてやってないかw 899日本@名無史さん2018/07/09(月) 10:21:50.71
>>896
>使節を派遣していない南宋の范曄は、
ザラコクはマジで馬鹿 900日本@名無史さん2018/07/09(月) 10:22:15.19
キナイコシは、テンプレートが論破された時、あまり意味のないことを喚く癖があるな。。。
901日本@名無史さん2018/07/09(月) 10:23:50.13
もうそろそろ、次のスレッドを作成したほうが良いのではないのかな。。。
902日本@名無史さん2018/07/09(月) 10:24:06.44
キナイコシはテンプレートが論破された時は、なかなか次のスレッドを作成しないな。。。
903日本@名無史さん2018/07/09(月) 10:24:23.08
僕たちが、論破されてしまったテンプレートを撤去して、次のスレッドを作成してあげれば良いのではないのかな。。。
904日本@名無史さん2018/07/09(月) 10:25:13.08
将来を嘱望されている、有能な若手学者がフェードアウトしていく、きっかけになった2013年の調査からこのかた、急に畿内説の素人や学芸員レベルの爺さんのネットでのつぶやきが危地外じみてきたね
有能な若手考古学者を繋ぎとめるために、ポストをちらつかせるのが常套手段だが、大和王権を扱う若手の学者たちは、邪馬台国問題からは距離を置きたがっている
905日本@名無史さん2018/07/09(月) 10:25:44.94
大和王権を扱う優秀な若手の学者達にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。
906日本@名無史さん2018/07/09(月) 10:26:04.13
2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、しかし、一部の良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、
907日本@名無史さん2018/07/09(月) 10:26:22.18
九州説はどんだけ畿内説のテンプレが怖いのよ
ww
908日本@名無史さん2018/07/09(月) 10:26:22.34
不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。
909日本@名無史さん2018/07/09(月) 10:26:47.61
畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。
910日本@名無史さん2018/07/09(月) 10:28:10.95
キナイコシは、テンプレートが論破された時、あまり意味のない空白の改行を行う癖があるな。。。
911日本@名無史さん2018/07/09(月) 10:37:38.82
>>586
>だから九州説が珍説 なんで倭人が里数とか知ってるの?<
「夷人不知里數、但計以日」だから、
(倭人の支配者層はどうか?は知らないが)、
一般住民の倭人は、「里」を知らないの。
だから、水行二十日を魏使らの行程記録だ、と解釈した大和説は、珍説。 912日本@名無史さん2018/07/09(月) 10:38:53.22
913日本@名無史さん2018/07/09(月) 10:47:01.23
914日本@名無史さん2018/07/09(月) 10:47:31.93
915日本@名無史さん2018/07/09(月) 10:54:46.18
奈良の記者クラブにも隠れ頭目がいるようだな
事あるごとに、ヒメコヒメコと騒ぎ立てる記者
916日本@名無史さん2018/07/09(月) 10:55:22.39
奈良の記者クラブにも隠れ頭目がいるようだな
事あるごとに、ヒメコヒメコと騒ぎ立てる記者
917日本@名無史さん2018/07/09(月) 11:35:47.69
>>911
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
今言えサギジジイ! 918日本@名無史さん2018/07/09(月) 12:02:27.76
>>595
>帯方郡から狗邪韓国への行程を検証 前提条件
・帯方郡を沙里院、狗邪韓国を金海に比定
・リアス式海岸の半島の先と先を結び最短ルートで航行する(注1)
・夜は半島の先に停泊(注2)
・距離をなるべく短くするために直線で航行するが、陸地から離れる距離は原則10km程度まで
(注1)航行中、次の目的地である半島の先は目視できないがどの方角へ進めばいいか熟知してると仮定する
(注2)すべて1日で航行できる距離にあると仮定する<
この前提条件そのものが、史料無視の矛盾だらけ。
沙里院からは循海岸水行が出来ない。
半島西岸南岸沖の水行では、方四百里の韓だけで8千里を越えてしまい、
倭王武の「自昔・・・道kei百濟、裝治船舫」にも合わず、
歴韓國乍南乍東も全く出来ず、
南岸の倭地では歴韓國にもなっていない、など。
>↓ 帯方郡から狗邪韓国までの距離は約1000km<
これが×。
>倭人伝に記載されている里数は7000里なので、この区間では1里≒140mとなる
今回は1例だけしか検証してないが、
これを短里の誤差と見るか、短里はないと判断するか各自にお任せします<
この筆者も、嘘つき騙しのアホに見える。 919日本@名無史さん2018/07/09(月) 12:11:43.94
920日本@名無史さん2018/07/09(月) 12:21:14.98
>>919
>権威主義では論理的に納得しかねる
権威主義って言葉に「逃げてる」けどさ、
チェリーピッキングで駄説を捏ね上げて喚いているだけの素人数人の見解と
多くの情報を精査してピアレビューを経て論文を発表している多数の研究者の見解の
どちらが妥当性が高いかは、火を見るよりも明らかだろ?
どうして、プロの研究者に九州説支持者が一人もいないのか、説明できるかい?
一人も現役の九州説を採る研究者がいないんだよ?
どうしてなの? 921日本@名無史さん2018/07/09(月) 12:26:43.36
922日本@名無史さん2018/07/09(月) 12:27:24.10
大和王権を扱う優秀な若手の学者達にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。
923日本@名無史さん2018/07/09(月) 12:27:54.35
2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、しかし、一部の良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、
924日本@名無史さん2018/07/09(月) 12:28:18.59
帥升とは何者だろうか。。。
925日本@名無史さん2018/07/09(月) 12:29:56.02
>>924
中国の正式な歴史書に書かれた九州を都にしていた倭王だな。。。 926日本@名無史さん2018/07/09(月) 12:30:31.93
九州の帥升等は、鉄の武器が無い奈良盆地を攻めて、生口を捕獲して、中国に連れて行った可能性があるな。。。
927日本@名無史さん2018/07/09(月) 12:30:52.82
九州を都にしていた倭王帥升と倭王卑弥呼の都が違うなら、遷都したということになるな。。。
928日本@名無史さん2018/07/09(月) 12:31:07.72
確かに。。。キナイコシは、倭王帥升の都が畿内にあったと主張することを、最初から諦めているからな。。。
929日本@名無史さん2018/07/09(月) 12:31:24.18
なるほど、、、畿内説が生き残るには、九州から、東の畿内に遷都したということにしなければいけないのだな。。。
930日本@名無史さん2018/07/09(月) 12:31:47.52
倭王帥升の都は九州にあったということがはっきりした今、つまり、倭王卑弥呼の都が畿内にあったという主張する、邪馬台国畿内説は、東遷説を基に作成されたということにしかならないということがはっきりしたな。。。
931日本@名無史さん2018/07/09(月) 12:32:07.88
しかし、既に、倭国と日本国が別の国で、魏志倭人伝の時代に、同時にも存在していたことが、優れた考古学者によって証明された今、畿内説も東遷説も、成立しないな。。。
932日本@名無史さん2018/07/09(月) 12:34:00.49
>>919
>論理的に納得しかねる
きちんとした論文も読まずに、論理的に納得しかねるとか言っててもだめだよ
プロの研究者の論文にはちゃんとした論理論理構成での論述がなされているから、
それを読んでから、文句をつけな
古い情報から一歩も出ずに、納得いかないって言葉だけ振り回しても無益だよ 933日本@名無史さん2018/07/09(月) 12:34:08.17
そろそろキナイコシが、次回のスレッドを作成するのではないのかな。。。
934日本@名無史さん2018/07/09(月) 12:36:22.25
2013年以降、纏向遺蹟を邪馬台国と断定するとする論文が書かれなくなってしまったな。。。
935日本@名無史さん2018/07/09(月) 12:38:01.61
>>934
そうだね、、、
何しろ僕たちは、全ての論文に目を通して確認しているのだものね。。。 936日本@名無史さん2018/07/09(月) 12:39:17.92
>>932
>プロの研究者の論文にはちゃんとした論理論理構成での論述がなされているから、
嘘つきが屁理屈を並べているだけ 937日本@名無史さん2018/07/09(月) 12:40:09.86
キナイコシが「なら、どうして古代中国人は
洛陽〜ベトナム北部は、1万6千里位だ、と
誰も言わないの?」と発表したな、、、、
938日本@名無史さん2018/07/09(月) 12:40:36.86
939日本@名無史さん2018/07/09(月) 12:40:40.68
>>937
普通の常識がある者ならば、どうしてキナイコシは古代中国人の誰一人として、「洛陽〜ベトナム北部は、1万6千里位だ、」と言わなかったと考えてしまう狂人なのか、と思うのではないのかな。。。 940日本@名無史さん2018/07/09(月) 12:41:29.33
>>939
そうだね。。。
キナイコシは全ての古代中国人も生涯を、自分が把握したと夢想しているのではないのかな。。。 941日本@名無史さん2018/07/09(月) 12:41:47.29
それにしても、魏志倭人伝の一里とは、本当は何メートルなのだろうか。。。
942日本@名無史さん2018/07/09(月) 12:46:44.21
帥升
倭国内にあって、邪馬台国勢と相対する派閥を率いていた旧都・那の国王
(倭人伝では遠絶不詳の傍国の奴国として、ちらりと登場している)
943日本@名無史さん2018/07/09(月) 12:50:22.16
>>864
倭人のいる地域は、倭国の範囲を超えて広がっているのだったね。。。 944日本@名無史さん2018/07/09(月) 12:52:03.23
>>943
そうそう、12000里は、女王国の境界までの距離だ。。。
計算すると、伊都国と奴国の間だね。。。
だから、1里の長さは考える必要は無いのだよね。。。 945日本@名無史さん2018/07/09(月) 12:52:35.34
>>944
その通り、、、奴国からが女王国だったね。。。
卑弥呼の都の邪馬台国は、そこから南にある熊本城だ。。。 946日本@名無史さん2018/07/09(月) 12:53:08.64
それにしても、魏志倭人伝の一里とは、本当は何メートルなのだろうか。。。
947日本@名無史さん2018/07/09(月) 12:54:04.99
そろそろキナイコシが、次回のスレッドを作成するのではないのかな。。。
948日本@名無史さん2018/07/09(月) 12:55:35.85
キナイコシはテンプレートが論破された時は、黙りこくってしまうな。。。
949日本@名無史さん2018/07/09(月) 12:55:59.79
>>948
返す言葉を発見出来ないのではないのかな。。。 950日本@名無史さん2018/07/09(月) 12:58:58.42
帯方郡(ソウル)ー狗邪韓国(プサン)660km/7000里=94m/1里
狗邪韓国(プサン)ー対馬国 100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐) 70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津) 50km/1000里=50m/1里
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島) 25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市) 20km/100里=200m/1里
奴国(福岡市)ー不弥国(宇美) 10km/100里=100m/1里
統計では、違う立場の数字を一緒にしてはいけないので、海路のデータ3つ(100,70,50)倭国に上陸したあとの陸路のデータ3つ(50,200,100)のn=3の二つのデータセットで、有意水準95%の区間推定を行うと、
海路 平均73m 分散633m
陸路 平均117m 分散5833m で
自由度2のt-値の5%点が4.303なので、
海路は 73.3(10.8〜135.8)ただし( )内は95%信頼区間
陸路は 116.7(-73.1〜306.4)ただし( )内は95%信頼区間
となります。単位はmです。
95%信頼区間に430mが含まれていないから、東夷では魏の里が使われていなかったことは明白。
951日本@名無史さん2018/07/09(月) 13:00:20.61
>>936
>嘘つきが屁理屈を並べているだけ
これ、名誉毀損級の発言だよ
根拠なく、人を嘘つきと言ってはいけない
嘘つきというなら、それだけの責任を持って、嘘つきであることを示しなさい
ザラコクさんが嘘つきといわれるのは、理由があるんだよ 952日本@名無史さん2018/07/09(月) 13:03:00.43
>>950
>95%信頼区間に430mが含まれていないから、東夷では魏の里が使われていなかったことは明白。
自分の努力でない計算に、間違った結論を付けるなよww
信頼区間が、マイナスまで入るめちゃ広い範囲になる時点で、
統計的には意味がないってことにしかならない
そんな、「意味のないデータセット」から、「短里があるんだー」っていう人は
統計も論理も分かっていない人ww 953日本@名無史さん2018/07/09(月) 13:06:44.61
>>950
その統計、使えないよ
帯方の比定地ヘンだし、最小単位が100里だから伊都以降もダメ 954日本@名無史さん2018/07/09(月) 13:08:41.25
>>952
>統計的には意味がないってことにしかならない
意味がないということはない。
精度が低いというだけ。
魏の里が使われていなかったことは明白。 955日本@名無史さん2018/07/09(月) 13:12:07.10
>>954
ぜんぜん明白じゃない
だって精度が低いんだろ、そのデータ? 956日本@名無史さん2018/07/09(月) 13:13:29.31
どれくらいの精度があればいいのか議論したら?
すくなくとも、魏の里ではないという結論を出すには十分な精度があるよ。
957日本@名無史さん2018/07/09(月) 13:15:14.91
つか、統計の使用に足るデータ数、なくね?
958日本@名無史さん2018/07/09(月) 13:19:07.65
959日本@名無史さん2018/07/09(月) 13:21:28.69
>>956
まさか
測定対象区間も確定しないのに? 960日本@名無史さん2018/07/09(月) 13:24:25.96
畿内説のテンプレを読む限り、畿内説は根拠の薄い推定を重ねているだけで、何一つ確定的なことはない。
むしろ魏志倭人伝との乖離ばかりが印象に残る。
961日本@名無史さん2018/07/09(月) 13:25:20.80
>>957
でも魏の里が使われていなかったことを示すには十分なサンプル数であるようだよ。 962日本@名無史さん2018/07/09(月) 13:27:31.52
>>959
ならば他の比定地で計算をやり直して示しなよ。
末盧国の位置とかに個人的には疑問もあるが、結論は大きくは変わらないだろう。
伊都を佐賀に持っていく意見もあるが、ざっとデータを見たら、より里の大きさの精度は高くなり、ますます魏の里が使われていなかったことが強調されるようだった。 963日本@名無史さん2018/07/09(月) 13:48:31.51
つまり、畿内説は完全に破綻してしまったのだね。。。
964日本@名無史さん2018/07/09(月) 13:49:58.53
>>596
>注意書きに吹いた
現代人が地図を見てこういうルートで進めば最短コースになるとか無意味な空論だな
黄海はまだいいけど朝鮮半島南岸は岸から離れると波が荒いから
海岸線べったりに行ったと思う<
「海岸線べったりに行った」なんて、世界に名だたるのリアス式海岸では、全くの空論だな。
>短里なんてあるわけない<
魏志の里記載は、短里はなく、長里だけだなんて、あるわけない。 965日本@名無史さん2018/07/09(月) 13:51:10.49
有意水準95%の区間推定とは、邪馬台国畿内説の何を計算するのだろうか、、、
966日本@名無史さん2018/07/09(月) 13:52:29.63
>>965
検索してみると、猫のことを計算するための方程式のようだね。。。 967日本@名無史さん2018/07/09(月) 13:52:50.74
卑弥呼が猫を飼っていたのではないのかな、、、
968日本@名無史さん2018/07/09(月) 13:53:45.69
>>597
>行程論は、記紀に卑弥呼が登場しないという勘違いが前提。
記紀に卑弥呼は登場する。<
古事記には、卑弥呼も壹與も登場せず、
書紀が、神功紀に、卑弥呼や壹與の名前を伏せてその治績の一旦を挿入する、
というインチキ騙しをして入る半分×史書である。 969日本@名無史さん2018/07/09(月) 13:54:29.07
有意水準95%の区間推定で、計算した結果、邪馬台国畿内説が破綻してしまったな。。。
970日本@名無史さん2018/07/09(月) 13:56:11.86
>>599
>まさか神武の時代が女王国であったなんて発想できないよね、天才のわし以外は。
でも本当なんだよ。
邪馬台国は九州でも纏向でもない、葛城だ<
「南≠東」に拠って、ssnの妄想は×だ。 971日本@名無史さん2018/07/09(月) 13:57:16.85
ssnとは何者だろうか。。。
972日本@名無史さん2018/07/09(月) 13:58:25.18
>>600
>>>(ssn)邪馬台国は九州でも纏向でもない、葛城だ。 <
>纏向よりマシだが✖<
纏向も、「南≠東」などに拠って、×だ。 973日本@名無史さん2018/07/09(月) 14:01:10.07
テンプレートに書いてあることの根拠が、本当は何もないということが、優れた考古学者達によって、明らかになってしまったね。
974日本@名無史さん2018/07/09(月) 14:03:34.42
何度もいろんな計算がされて、その結果として魏の里が使われていなかったという結果が昔から示されているのに、「信用できない」という感情論で非論理的な反発から暴走してきたのが今の畿内説だよ。
もちろん、畿内説そのものは全く論理的な根拠など示せていないしね。
そらで学会がどうのとか論文がどうのとか、権威に頼る発言ばかり。
でも、決定的な根拠となる論文など一つも示されたことはない。
975日本@名無史さん2018/07/09(月) 14:04:59.61
>>606
>ナンセンス
そんな「居住外縁部や国境としての捉え方」なんかすると
国内の移動距離が抜け落ちるからな 万二千里の意味がなくなるぞ <
魏志の行程記載の里数は、最小単位が百里であるから、
「国内の移動距離」が書かれていない国は、
四捨五入的な近似を想定して、国内移動距離が50里位以下であった、
という事だ。 976日本@名無史さん2018/07/09(月) 14:05:35.08
>>972
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
つっつと言えよテメエは! 977日本@名無史さん2018/07/09(月) 14:06:37.86
仲哀天皇の王宮は、なぜ畿内ではないのだろうか。。。
978日本@名無史さん2018/07/09(月) 14:07:02.61
979日本@名無史さん2018/07/09(月) 14:08:59.73
周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとは、どういうことだろうか。。。
980日本@名無史さん2018/07/09(月) 14:09:34.23
>>610
>韓国内と、海峡あたり、伊都国近辺
それぞれ別の里単位ってことになるんじゃないの?<
魏使らが、そんな区別をする、という事の理由がないから、
これも、この大和説男の、分裂幻覚の妄想の病気。 981日本@名無史さん2018/07/09(月) 14:14:09.16
>>616
>ほら、九州説は結論ありき ww <
ほら、大和説のwwは、「長里だけありき」のな、
「思想宗教的な結論先にありき」の分裂幻覚妄想の・・・・。 982日本@名無史さん2018/07/09(月) 14:14:11.11
キナイコシも、本当は、魏志倭人伝に使われている里単位が430mを示そうとしたものだとは信じていないのではないのかな。。。
983日本@名無史さん2018/07/09(月) 14:14:45.72
>>982
観光業界の宣伝のために、言い張っているのだけではないのかな。。。 984日本@名無史さん2018/07/09(月) 14:15:04.78
そうだね、畿内説で有名な某学者も退官したら倭人伝の記述は九州だと認めたらしいしね、、、
985日本@名無史さん2018/07/09(月) 14:16:24.18
>>885
九州の王族に仕えた霊園管理者の役職名なのだろうな。。。。 986日本@名無史さん2018/07/09(月) 14:16:38.17
それにしては、自分の妻の為に作った墓がやけに大きいな。。。
987日本@名無史さん2018/07/09(月) 14:17:06.37
大物主の妻は天皇の妹でもあるから、良いのではないのかな。。。
988日本@名無史さん2018/07/09(月) 14:17:23.14
なるほど、、、大物主は神武天皇の舅でもあったね。。。
大物主と天皇は長い時代に渡って、親戚だったのだな、、、
989日本@名無史さん2018/07/09(月) 14:18:24.50
周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとは、どういうことだろうか。。。
990日本@名無史さん2018/07/09(月) 14:18:33.27
>>622
>九州説は反論できません 百年前に論破されてます <
大和説は、史料事実に反論出来ません。
1850年位前から論破されてます。 991日本@名無史さん2018/07/09(月) 14:21:12.09
キナイコシはテンプレートが論破された時は、なかなか次のスレッドを作成しないな。。。
992日本@名無史さん2018/07/09(月) 14:21:31.98
僕たちが、論破されてしまったテンプレートを撤去して、次のスレッドを作成してあげれば良いのではないのかな。。。
993日本@名無史さん2018/07/09(月) 14:22:13.40
将来を嘱望されている、有能な若手学者がフェードアウトしていく、きっかけになった2013年の調査からこのかた、急に畿内説の素人や学芸員レベルの爺さんのネットでのつぶやきが危地外じみてきたね
有能な若手考古学者を繋ぎとめるために、ポストをちらつかせるのが常套手段だが、大和王権を扱う若手の学者たちは、邪馬台国問題からは距離を置きたがっている
994日本@名無史さん2018/07/09(月) 14:22:32.76
大和王権を扱う優秀な若手の学者達にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。
995日本@名無史さん2018/07/09(月) 14:22:56.51
>>623
>内容がこんがらがり過ぎだぞ
まあとにかく1万2千里は魏で使われた里で換算すると赤道付近になるので
邪馬台国までの距離の示した数字じゃないという事<
内容がこんがらがり過ぎだぞ。
まあとにかく1万2千里は、秦漢で使われた里で換算すると赤道付近になるので、
女王國までの距離を示すのに、
秦漢朝で使われた数字じゃないという事。 996日本@名無史さん2018/07/09(月) 14:22:57.08
2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、しかし、一部の良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、
997日本@名無史さん2018/07/09(月) 14:24:22.84
それにしても、魏志倭人伝の一里とは、本当は何メートルなのだろうか。。。
998日本@名無史さん2018/07/09(月) 14:25:24.82
>>624
おうまた大和説者がヘイトスピーチだぞが。
戦前の「萬世一系皇国史観」のキョクウの大和説者は、
殆ど皆ヘイトスピーチ野郎だな。 999日本@名無史さん2018/07/09(月) 14:28:43.50
>>627
>当時の中国人の常識では 洛陽から南に1万3千里を行っても 北回帰線を超える程度
とても赤道など届かない<
ウソを付くな。
周髀算経の一寸千里では、洛陽付近から南へ萬6千里の所が、北回帰線だ。 1000日本@名無史さん2018/07/09(月) 14:28:52.79
今回のスレッドでも、邪馬台国畿内説が、蠅が叩き潰されるようにして、優れた考古学者達によって叩き潰されてしまった。。。
mmp2
lud20180717154328ca
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