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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://2chb.net/r/history/1548676547/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号、ホケノ山
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※検証)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,57も参照)
(本項 続く)
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。
上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中国では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代)
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
(承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上)
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
421の
>>226 >渡海して到る北部九州に女王國があると考えるからおかしな解釈になる
會稽東冶と同じ風習があるのは女王國で、
北部九州には名が書かれていない別の王が居て、女王國に従属している<
会稽東冶ではなく、会稽東治之東だから、×。
>北部九州の先(東)からが女王國 東の狗奴國も同じ倭種だから女王國と風習は同じ
黥面土器が多く出るのは瀬戸内から東海にかけて<
「南≠東」だから、×。
(承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半と考えられる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀)
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。 421の
>>227 >前提が違う 陳寿は、「東冶」(現・福州市)の東と推定していた<
陳寿は、「会稽東治之東」と推定していたのだから、この男は×。
>前段に会稽郡の話は一切ない以上、郡名を足すのは当然だ
だから「會稽東冶之東」でいいのさ<
陳寿の「会稽」は「夏后少康之子封於會稽」の「会稽」の事を言っており、
「郡」名でも「東冶」でのないのだから、この男は×人間。
>>「東治」の地域は、会稽郡内ではない、といういう事だ<
>会稽郡内ではない、ならもっと南でも構わないってこと
長江河口にする限定する理由は何もない <
いや、ダメだ。「会稽東治」は、会稽の東方であって、南方ではない。
だから、この男は×人間だ。
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。 ◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
421の
>>229 >景初二年六月は、このような時間経過の中にある。
まず、尋常ではない。<
別に、戦中遣使であったとしても、
難升米らが「詣郡、求詣天子朝獻」し、太守劉夏が「遣吏將送詣京都」をした、
という事が史料事実であり、
公孫氏の妨害など問題なかった、という事
>他の史料では、景初三年六月とするものがあるそうなので、
やはり卑弥呼の使節が帯方郡に行ったのは、景初三年だろう。<
この大和説男も、未だに、後代史家や学者の、
「前史の同時代的な記載」に対して「自己解釈に拠る高慢な書き換え」をした、
という事になる案件は、史料事実にはならない、
という事が判らないらしいから、おそらく、
思想宗教にクルって「結論先にありき」になってしまった・・・・。
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。
421の
>>230 >その設定は、日本書紀の神功紀そのもの。
沖縄あたりにある邪馬台国から卑弥呼の使節が唐津を経て魏へ朝貢し、それを神功皇后が奈良で見ていた。
日本書紀神功皇后紀そのものだ。
それでいいのら。 大和は、邪馬台国とは別の国。 <
邪馬台国なんて存在しないし、沖縄なんても関係がないから、
「それでよくない」のであり、×。
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。 ◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰) ◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周囲代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
また八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比にするための捏造であった可能性が高いといえよう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 なし
>>235 深夜にも延々と、平気で、
「南→東」などの史料事実を否定曲解のウソ付き騙しを書く、大和説偏執者。
ガンダムエヴァで宇宙の移民史日本版とか、地球の危機日本版とかの方が
学生には面白いだろうな。歴史は宇宙史を考えないと弱体だ。そういうことが可能的現実になっていくように送り出したいものだ。
>>999 この文章は大陸や朝鮮半島側から見た内容であり、朝鮮半島に最も近い大和王権の領域が百済と新羅に向っていると地理的認識を示しているもの。
大和王権の都がどうこういう地理的認識でないことは、明らか。
>>264 >>版本は、底本写本の複写コピーであるし<
>陰影を見ないで妄想するなよ
時代によって1ページの文字数×行数が違うことすら知らないのか?<
当然版木のサイズに合わなければ、
底本写本の方を切り分けて貼り付けて版刻する事もあるが、
それで文字に差異が発生する事にはならない。
>避諱の代替字も違う<
そりゃ写本間での問題。
>版元で異体字が違う<
それも、底本写本で差異が発生していた事になる。
>誰が見ても複写コピーではないだろ<
印鑑を掘るのと同じことであり、
底本写本を貼り付けて、文字を残して、版を作る、という作業には何の関係もない事。
>>後代史家の「自己解釈に拠る高慢な書き換え」など、全く根拠にならない。<
>後代版本の誤字など全く根拠にならない <
版本化に拠る誤字なら、後代写本にも発生している事であり、何のイチャモンにもならない。
>>270 >循環論法だな
九州での殉葬の様子など分からないのに
勝手にストーリーを付けて論証した気になってる<
祇園山の殉葬は、複数埋葬も含めて、
きちんと甕棺や石棺や槨や土壙などを作って安置されている形であるから、
殉死して亡くなった後の埋葬であり、
大和のように生き埋めにされていない。
>>280 >>そのとおり、 「夏后少康之子封於會稽」の故事を受けて、
「計其道里、當在會稽東治之東」と書いているのだから、会稽山付近の東でセイカイ。<
>それじゃあ会稽郡の中でいいんだな?<
いや、×だよ。
会稽「郡」なんて書いていないし、
まして「会稽の東治」の「東治」が会稽郡の中だ、とは全くならないし、
そして陳寿は、西晋代に魏志を書いているんだから、
魏末の分郡が一段落して、会稽の東方地域が呉の支配下の揚州地域になっていたので、
会稽東治の「東治」とは、呉の揚州の治域になっていた地域だろう、
といっているんだよ。
>屋久島以南だから九州説は終了しました<
呉の揚州の支配地域には、揚子江河口付近から江蘇省海岸地域になり、
その「之東」は、ほぼ九州島付近になり、
はい、赤道付近になってしまっては困るから「屋久島付近以南」として、
誤魔化そうとした大和説は、終了しました。
>>76 殉葬は奴婢を生き埋めにするものと日本書紀に書いてるよ
棺に納まってるなら埋葬だな
>>286 >全然違うな。
邪馬臺は、中国中古音でヤマドイ。
邪馬臺はヤマトとは読まない。 <
この男は、何を言いたいのか?、がよく分からんが、
私は、「邪馬臺國」は5世紀の大倭王の居地の国名説であり、
魏志に書かれた「7万戸の邪馬壹國の中に含まれる小地域國の呼称」説だし、
始めから「ヤマダイ」國と読んでおり、
それに対して「山門」は、「ヤマの入り口や戸口」の「ヤマの門戸」意味だろう、
という説だよ。
>>280 >奈良のヤマトは昔ヤマドと発音したんだよ
邪馬臺ぴったりだな <
後漢書の「邪馬臺」の位置も、
後漢書の位置説明が、魏志とほぼ同じ距離(萬二千里)や、方向(南)を踏襲しているから、
九州説であり、
大和説は、「南≠東」などに拠って、×。
>>292 >魏志倭人伝の原本が失われて民間で写されたもの等を元に編集したのが
12世紀以降の魏志倭人伝の版元
邪馬壹國という表記はそこから倭人伝に初めて現れる <
に底本写本群が全て「邪馬壹國」であった事になるから、
写本群にも全部「邪馬壹國」であった事になる。
>魏志の原本のあった11世紀以前にそれを引き写した史書の倭人伝には
邪馬台国はほぼ邪馬臺國と表記され邪馬壹國は1度も出てこない
つまりその当時に存在していた魏志倭人伝には
邪馬臺國と表記されていたという事 <
後代の文献の、
「前代の同時代的な文書の、自己解釈に拠る書き換え」になっている記載は、
証拠にならない、という事。
>>294 >邪馬台国が九州にあったとする証拠は何もなくて
むしろ魏志倭人伝の記述はそれに否定的な内容<
邪馬台国なんて、存在もしない嘘つき騙しの造作文言であり、
邪馬壹國は、「南≠東」などに拠って、大和にあったとする証拠は何もなくて、
勿論、魏志倭人伝の記述は、それを否定する内容。
>>298 >祇園山に使われていた甕棺は伊都系のものだそうだ。
この系統の甕が弥生終末頃まで山門や久留米辺りで使われたそうだ。
最後の甕棺族だ。<
成程。
祇園山の墳裾の1号甕棺の「鏡片や剣」などを与えられた成人女性は、
奴婢の地位にまで落ちていたが、
卑弥呼に信頼され可愛がられたのに、卑弥呼の死を止められず、
悲しみの余り最初に殉死して、卑弥呼よりも先に殉葬埋葬されたんだろうねえ。
甕棺部族の中でも、卑弥呼に信頼される位の能力のある立派な女性であったんでしょう。
畿内から環濠が消えていく1世紀後半〜2世紀中頃の、守山の伊勢遺跡
政治の中枢の誕生を示す遺跡だろう
国作りが進み平和で豊かな時代が到来したんだろう
中国の建築様式やレンガ、出雲や北陸の建築様式の建物など各地の特徴を持った建物跡が出土している。
おそらく30もの首長たちが集い、祭祀を行い政治が行われていたと推測できる。
面白いことに伊勢遺跡の全盛期に同時代の墓が周辺に認められないんだよね。政治の中枢であるが墓がない、国会のような年に1回首長たちが集う祭祀の場であった可能性がある。
神無月に出雲に神々が集う言い伝えがあるが、伊勢遺跡の伝承だった可能性もある。
伊勢遺跡の祭祀は夜に行われていたと言われている。
夜の食国を治めたのは月夜見
農作業に使う暦を作って、首長たちに伝えていたのかもしれない
魏志倭人伝の魏略からの引用に女王国には暦がないという記述は興味深い
万葉集の奈良時代後半の歌を読むと、月やホトトギス時鳥の来訪の期待感が、次第に高まっていくのが感じられる
桓武朝で神代の王統が復活したのだろうか?
信長秀吉家康の例え話
ホトトギスは何を指すのだろうか?
杵築大社の天井図、八雲が一つ欠けて七つしかないだろ?
出雲地方で【オオナムチ】以前に信仰されていたのは【幸神】、【東!】から来て文物をもたらした【クナトの神】、そして二神の子【サルタヒコ】
追放されたんだろうな。八雲が欠けた理由
八雲を出た一族、出雲。
逃れたサルタヒコが見つかったのは、天の【八衢】
道が幾つにも分かれるところ、【方違】
堺に方違神社があって、方違【幸】大神が祀られている
畿内に逃れてきた幸神一族、出雲族と元々畿内にいたクナト族が一緒に国作りをしたんだろう
1世紀半ば〜2世紀後半の出来事
倭国大乱前に畿内にあったクニは、この二つの勢力が中心となってできたんだろうな
【八衢】と延喜式祝詞にある道饗祭の神々との関係が興味深い
【八衢】彦、【八衢】姫、クナト
上記の神々は、高天原で事を始めた皇御孫之命で、根の国底の国の侵略に抗ったと書かれている。
倭国大乱前に存在した畿内の国は滅ぼされたのだろうか?
畿内にあった銅鐸とヒスイの勾玉の集落
弥生時代末期に営みが終焉
貴重な勾玉が放置されている
池上曽根遺跡は、日本最大の井戸や弥生最大の大神殿、鉄工房もあった弥生時代にかなり栄えた集落。6cm大の巨大勾玉が出土
大阪は他にも高槻市成合遺跡、東大阪市鬼虎川遺跡、四条畷市城遺跡、高宮八丁遺跡
など、きりがないほどヒスイ勾玉が見つかっている。
奈良の唐古・鍵遺跡、鉄鉱に納められた巨大勾玉が見つかっている。貴重な勾玉が放置されていた。
これらの集落の人々はどうなってしまったのだろうか?
仁徳天皇の治世、再び勾玉が大ブームになる。
弥生時代の勾玉勢力と何か関係があるのだろうか?
ホツマツタエという真偽不明な言い伝えがある
スズ(銅鐸?)は暦の源
とか物の化成の話とか色々書かれていて、結構面白い
ウツホ(空)とカゼ(風)、ホ(火)、ミズ(水)の四気が化成して生じたのが鳥類(四化)で、
その中でもウツホ(空)が勝っている鳥は良く空を飛び(飛鳥か)、
カゼ(風)の勝る鳥は美声で囀(さえず)り(鶯?)、
ホ(火)の勝る鳥は良く水に泳ぎ(鴨?)、
特にミズ(水)に勝る鳥の羽は柔らかで上等な羽二重(はぶたえ)の原料となります。
スズという音で思い出すのは、サザキ
スズは古語で小さいという意味らしい。
小、少、スクナい
仁徳天皇 大雀命
オオ【サザ】キのミコト
鳥の王様はミソ【サザ】イ
日本書紀によれば、応神が生まれて喜んだのは、神産巣日の子スクナヒコナとある
スクナヒコナは鳥の服を着ていたという日本書紀の記述もあるな
神産巣日、サザキで思い出すのは、
布都主、武甕槌の件で、櫛八玉神が料理をする話
この、私のつくる【火】は、大空高く【神産巣霊】(かみむすひ)の御祖尊の、命の富み栄える【新しい宮居】の煤の長く垂れ下がるように【焼き上げ】、
地の下は底岩に堅く焼き固まらせて、
緒の長い綱を延ばして釣りをする海人の釣り上げた大きな鱸(【すず】き)をさらさらと引き寄せあげて、
割り竹でたわむほど打って捕らえた、立派な魚料理を献上します
倭国大乱前に存在した畿内の国は滅ぼされたのだろうか?
>>303 >1里76.5mで計算したら、千里で周防の光市あたり。
そのあたりは銅矛圏なので、そこの住人の素性はすべて北部九州では把握できている。<
倭人伝では、
卑弥呼共立の29国?と、女王東渡海千里の倭種とは、完全に書き分けており、
魏使らも陳寿も「素性を全て把握も出来ていた」なんて事は、全く言えない。
>光市あたりなら、倭人伝が書くように、同じ倭種であるものの、
情報が少なくてよく分からん国ということはまったくない。
倭人伝の(千余里倭種の国1里76.5m説)は、ありえん。<
その論理が全く繋がらないから、この男も、おそらく、
「大和説という結論先にありき」の・・・・詐欺師。
>>303 >祇園山の水銀朱は、阿波が上納したものだろう。<
阿波からも、卑弥呼や壹與の「親愛なる部下への下賜の鏡片」が出ているから、
阿波も、卑弥呼らの部下の東征将軍が征服支配していた事になり、
市などを介して、筑紫に搬入される事は、十分に有り得る。
賀は牙
旗印を掲げた拠点
国境の防衛拠点、関
敦賀〜多賀〜甲賀〜伊賀〜雑賀〜那賀(阿波)〜香賀(讃岐)〜英賀 (播磨)
倭国大乱前、賀で囲まれた国が作られていた可能性がある
古代において、巫女は兵団とセット
軍隊に随行する巫女の一軍の埴輪も見つかっている
また櫛を頭に刺した巫女の埴輪も見つかっている
◎興味深いのは、【賀】と【櫛】の関係性
伊勢津彦、又の名は【櫛】玉命
伊勢津彦は伊賀に【石の城】を作っていたという伝承もある
伊賀以外の賀も【櫛玉】と関係があるかもしれない
櫛八玉神と何か関係があるのだろうか?
水戸神、速秋津彦、速秋津姫
祓戸四神
これらの神々との関係も気になる
前スレ
>>916 沖縄の古代の遺跡からの遺物から国外との交流も確認できるし
隋書「卷八十一 列傳第四十六 東夷傳 流求國」にみられるように
沖縄と中國とは古代より交流があり、
倭国とは明確に分けていたのではないのかな
⇧
その通りです。陳寿も知っていたはずです。
「会稽東治の東」は九州もしくは「日の昇る方向」ぐらいの解釈でよいでしょう
>>80 壹は、臺の誤りというのが通説。
3世紀の倭國の都のある国は、邪馬臺国。
この臺の発音は、ドイ、あるいはダイ。
5世紀に奈良が邪馬臺国と呼ばれたというのは、後漢書の著者の解釈ミス。
さらに、ヤマダイと音写された奈良の元々の呼称が不明。
九州の山門は、谷の外域に形成される扇状地の先端あたりの地形を現す語彙。
九州では現在、普通に山門の地名があり、その立地から山の入り口、門の意味であることを推定することができる。
一方、奈良にはそのような扇状地の地形はなく、邪馬臺(ヤマダイ)と音写された元々の国名の存在を示すことができない。
この点からも、後漢書の邪馬臺国が奈良にあったと根拠づける証拠がない。
邪馬台国畿内説を宣伝するために、韓国政府が雇用した、邪馬台国畿内説の宣伝係員の韓国人が、論破されてしまった。。。
>>86 何度も言うが、伊勢遺跡は畿内説の根拠じゃ無く「邪馬台国近江説」
そこんとこヨロシク
邪馬台国近江説・・・九州説には及ばないがマイナーだが畿内説より納得できるよ
https://shigamap.com/archives/4170 >>306 >不彌国の次は南に水行20日の投馬国 <
不彌國の次ではない。
投馬國は、「至」の前に移動した文言がないから、魏使らは移動しておらず、
「南」と「水行二十日」は位置説明。
>邪馬台国はそこからさらに南に水行10日陸行一月 <
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であり、
邪馬壹國は、不彌國の南にあり、
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている事と、至の前に移動の説明がないから、
邪馬壹國は不彌國と殆ど接している事になり、
不彌國のすぐ南に邪馬壹國の入り口があった事になり、
水行十日陸行一月は、目的地の女王之所都のの説明文言になるから、
郡から女王之所都への所要日数説明になる。
場所は会稽東治(冶)の東で沖縄や台湾辺りと記されている
>一方大和は邪馬台国と通じるし
径百歩の墓そして邪馬台国が魏と交流のあった頃の魏の年号が入った
百枚の下賜鏡を思わせるというか各資料を統合すれば魏の下賜鏡が確実の
三角縁神獣鏡が多数見つかる<
全て否定済みであり、大和は「南≠東」などに拠って、始めから、×。
>>93 流求国の初見は636年の隋書。
それでも地理的位置は不明確。
そのさらに約400年前に、その海域に邪馬台国とは異なる国が所在するとの認識があったかどうかは、まったく不明。
>>83 後漢書始め魏志倭人伝の原本の失われる12世紀までは
魏志倭人伝を引用した各史書の倭人伝には邪馬臺國
邪馬壹國は12世紀になって倭人伝に初めて現れるから
その頃に生じた誤表記である事は明白
>>93
>その通りです。陳寿も知っていたはずです。
「会稽東治の東」は九州もしくは「日の昇る方向」ぐらいの解釈でよいでしょう <
九州に限定する必要性は無いよーーだ
「日の昇る方向」なら「会稽東治の東」は畿内も含まれるしーー
残念 >>307 >梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧それに旧唐書の記述<
後代史書の「景初3年」記載は、「後代の自己解釈に拠る書き換え」文言であるから、
根拠にならないし、旧唐書にはなかった筈。
>それに 洛陽と日本でしか見つかってない事<
洛陽は0〜1枚であり、列島の500枚以上の説明に全くならず、
△は、呉付近での盛行模様であるから、敵国の魏帝がメンツにかけても採用する筈がない鏡。
>科学分析結果を統合すれば<
材料銅に産地に徐州銅などの共通する材料が多かった、というだけであり、
△が、魏鏡だ、という事には全くならない。
>魏から倭に鏡の下賜があったのは景初三年で<
明帝の詔書は景初二年だから、それ以前に既に出来ていて梱包されていた。
>それは三角縁神獣鏡である事は確実 <
この大和説男も、・・・・詐欺師である事が確実。
>>84 台は臺の新字体というだけ
距離表記が南になっているのは
陳寿が東にある邪馬台国を漢からの伝承に合わせるために南と書いたから
>>94 奈良辺りは大和と昔から呼ばれて来た事は
まともな人間なら誰も疑わない
>>97 南至投馬國 水行二十日とあるんだけど
さらに邪馬台国へは
南至邪馬臺國 女王之所都 水行十日陸行一月とある
至の移動文言がどうたらで投馬國へ行ってないとするなら
邪馬台国へも行ってない事になってしまうのである
>>97 大和は邪馬台国と通じるし
径百歩の墓そして邪馬台国が魏と交流のあった頃の魏の年号が入った
百枚の下賜鏡を思わせるというか各資料を統合すれば魏の下賜鏡が確実の
三角縁神獣鏡が多数見つかるというのは
各種史料、科学的測定結果により
誰の目にも明らかな形で証明されている
倭人伝の全体里数(帯方郡〜女王国): 1万2000余里(この数字は漢代に書かれた淮南子を援用)
(実際の内訳)
帯方郡〜狗邪韓国(7000余里)
狗邪韓国〜(渡海)〜末盧国(3000余里)
末盧国〜女王国(2000余里)
末盧国の港(唐津)は、河口から約4q遡上した現在の唐津競艇場正門前の中原ノ津。
ここから東南陸行500里で到る伊都国は、佐賀川上大願寺のイ寺(伊寺)遺構。
さらに東行100里で至る不彌国は、佐賀三根郡の吉野ケ里一帯。
この吉野ヶ里の南方に、投馬国(西都市都万)と、邪馬台国女王之所都(1400里・肥後熊本)があった。
ま、畿内大和説も北部九州安物説も、
肝心の、出だし東南500里でケッつまずいたトンデモ大間違いの方向オンチだったのさ。
>>104 その“昔”が、いつからなのかが分からない。
洗脳されやすい人は、疑いを抱かないからネ。
しかし、そんな人ばかりではないから〜。
>>103 あんた偉い
臺灣の「臺」と倭人伝の「壹」は明らかに違うね
>>107
>大和は邪馬台国と通じるし
大和は倭国(阿波)と通じる。 @阿波 >>109
>末盧国の港(唐津)は、
対馬海流に流されて、「末盧国の港(唐津)」は、有り得ない と、何度言えばw @阿波 邪馬台国の語呂合わせはいいんでねーの
倭が中国人が「ヤマト」と読んでたわけでもネーシ
大和でも山門でもなんでもいいんでねーの
語呂合わせなら山田でもいいし
邪を含む地名なんていっぱいあるし
>>102 旧唐書じゃなくて全唐文だった
昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文
昔、魏ハ倭国二酬(はなむけ)スルニ、銅鏡ノ鉗文ヲ止メ
魏は下賜用に新たな形式の鏡を作ったと解釈される
中国で三角縁神獣鏡の発見は洛陽以外の地域では0枚
1枚と0枚では天と地ほどの差があり
魏の鏡だった事はもはや決定的
三角縁神獣鏡の素材も魏晋鏡と同一という事は
魏鏡説を肯定こそすれ否定材料には全くならない
当時の魏志倭人伝をそのまま引き写している
梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧には
鏡の下賜があったのは景初三年と書いてある
>>110 少なくとも三世紀にはそう呼ばれてたんじゃね
魏志倭人伝に邪馬台国と書いてあるから
九州説とその根元儒教思想の洗脳が早く解けるといいね
>>107 ヤマトの音写が、ヤマドイ、ヤマダイにはならん。
ヤマトではなく、奈良がヤマドと呼ばれていたというのなら、その証拠をまず出しなさい。
>>312 >後世に作った記念品なら景初三年に 魏から畿内に鏡の下賜があった<
明帝の詔書は景初二年だから詐欺であり、
畿内なんて存在もしない嘘つき騙しの詐欺文言。
>のを記念しての事であり
その鏡とはすなわち三角縁神獣鏡<
△は、魏が下賜する筈がない鏡であり、
呉系楽浪鏡師らが渡来して来て、列島で造ったもの。
>>58 >陳寿は、「会稽東治之東」と推定していたのだから、この男は×。
根拠なしの誹謗中傷だね。
>陳寿の「会稽」は「夏后少康之子封於會稽」の「会稽」の事を言っており、
陳寿は《史記》から引用しただけなので理由にならない。
「文身断髪」により倭と夏をつなげるのがミソだ。
曹操は実質「夏侯氏」だからね。
>「郡」名でも「東冶」でのないのだから、この男は×人間。
根拠なしの誹謗中傷だね。
>いや、ダメだ。「会稽東治」は、会稽の東方であって、南方ではない。 だから、この男は×人間だ。
根拠なしの誹謗中傷だね。
正方位図法の地図を見ればわかるが、長江河口から東へ行っても屋久島南方だ。
>>114 三世紀卑弥呼の時代のでっかい古墳があって
三角縁神獣鏡が沢山見つかる大和が邪馬台国でいいんでねーの
>>313 >魏志倭人伝に全部そう書かれてるんだけど<
魏志には、沖縄なんて全く書かれていないんだけど。
>>75 >当然版木のサイズに合わなければ、
>底本写本の方を切り分けて貼り付けて版刻する事もあるが、
>それで文字に差異が発生する事にはならない。
「貼り付けて版刻」とか妄想だから反論にならないね。
>避諱の代替字も違う<
>そりゃ写本間での問題。
違うね。避諱が何か知らないのだね。
>版元で異体字が違う<
>それも、底本写本で差異が発生していた事になる。
版元が使う異体字と底本との関係は証明出来ないね。
「発生していた事になる。」なんて言えるわけがないね。
>印鑑を掘るのと同じことであり、
>底本写本を貼り付けて、文字を残して、版を作る、という作業には何の関係もない事。
「底本写本を貼り付けて、文字を残して、版を作る、」は妄想だから反論にならないね。
>版本化に拠る誤字なら、後代写本にも発生している事であり、何のイチャモンにもならない。
版本化以降の後代写本など存在しないので反論にならないね。
>>315 「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説こそが、
自己解釈による高慢な書き換えをする後世史家、
いや後世バカ詐欺師そのもの
>>117 そもそも、3世紀の奈良は、なんと呼ばれていたの?
ヤマダイと古代中国語で音写されたのだから、その音写元の言葉あったのだよね。
その國名は、なんと呼ばれていたの?
>>118 ヤマトは山の入り口の意味で漢字を当てると山戸
戸はドとも読むから古い時代はヤマドだった事もありえるんじゃないの
>>125 ヤマト国かヤマド国だろ
畿内説的にはこう答えるのみだが
>>957(前スレ)
唐會要と同様に併存情報は存在しない
「或曰:倭國自惡其名不雅,改爲日本。」が正しいってことだよ。
舊唐書 卷一百九十九上
倭國
貞觀五年(631年)
至二十二年(648年)
日本
長安三年(703年)
開元(713年〜)初
天寶十二年(753年)
上元(760〜761年)中
貞元二十年(804年)
元和元年(806年)
開成四年(839年)
>>125 その元の国名が、ヤマド?
だとすると、そのヤマドの国名の意味は?
倭国の王が中国に朝貢をするのはタブーだから
記紀から邪馬台国や卑弥呼を抹消したとかダミーで九州説がうまれたとかいうバカ
論破できちゃうよ
「ヤマト」王政か「大和朝廷」も歴史から抹消されてるじゃん
邪馬台国の語呂合わせのヤマトなんて消えちゃうじゃん
>>129 127を見落とした。
ヤマト、ヤマドの意味は?
>>320 >ホケノ山古墳は3世紀中葉である事が科学年代測定及び
副葬品の年代観によって明らか<
3世紀中葉は、卑弥呼の死亡頃であり、
卑弥呼の墓は「冢」であり有棺無槨であり、
ホケノは、有棺有槨で前方後円墳なんだから、
ホケノが3世紀中葉である筈がない。
「科学年代測定及び副葬品の年代観」という方が、
嘘吐き騙しであり、インチキだったんだよ。
ヤマト王政はね
倭人と百済人が創ったのだ
邪馬台国(倭人の圀)と関係無いのだ
>>133 有棺有槨で前方後円墳なんだから
ホケノが3世紀中葉である筈がないというのはまるで意味不明
そんな年代観聞いたこともないし
ホケノ山古墳は炭素14c測定法等によって三世紀中葉以前は確実
それからすると逆に有棺有槨で前方後円墳は
三世紀中葉以前の形式と言っても差し支えない事になる
>>127 その奈良のヤマト、ヤマドが倭人伝の邪馬臺国だというのであれば、倭人伝には邪馬台国の南に狗奴国があるということなので、奈良の南の吉野あたりにそのような強力な国があったということになるが、あったの?
重視されるべきは魏志倭人伝より魏略逸文だろう。
基本的に魏志倭人伝の位置表記は3つの文書から編集されたと考えられる。
文書A) 帯方郡から伊都国までの行程を記した魏略逸文に引用された文書。伊都国駐在魏人作成の報告書。距離は里程表記。
文書B) 伊都国周辺の地誌。奴国、不弥国までの里程が書かれた文書。伊都国駐在魏人作成の報告書。距離は里程表記。
文書C) 倭人の発言を記録した文書。距離は日数表記。
問題になってるのは文書Cの部分だが、どう見ても日本列島内に治まるスケールではない。
しかし、水行10日陸行1月を倭国から洛陽までの行程だと考えると筋が通る。
洛陽に来た倭人が伊都国から都までの距離を聞かれた時に、伊都国から洛陽までの距離と勘違いして答えた発言が元なんじゃないかね。
恐らく、元発言には方角についての記述は無かったのだろうが、魏志編纂の際の考証で「倭国のあるべき場所」と繋ぐ際に付加されたのだろう。
魏略逸文のみを考えると帯方郡から伊都国まで約1万500里。
帯方郡から女王国まで1万2000余里。
女王国は伊都国から約1500里の所にある。
>>136 狗奴国に想定できる国が奈良の南に見当たらないということになれば、国名はヤマト、ヤマドであっても倭人伝の邪馬臺国とは違うということになるよね。
違うというのが正解じゃないの。
ごく簡単な話なのだけど。
>>141 別に関係ないんじゃない
何せ魏志倭人伝には邪馬台国の場所は会稽東治(冶)の東
沖縄や台湾辺りと書いてるから
狗奴国はそれより南だとするとフィリピン?
>>140 日数表記は倭人から聞いたかどうかは怪しいね
邪馬台国を会稽東治(冶)の東
沖縄や台湾辺りに持って行くための辻褄合わせじゃないだろうか
>>77 >>会稽山付近の東でセイカイ。<
グダグダ言っているが、ザラコクの書いた「会稽山付近の東」は、
魏晋南北朝のいつの時代をとっても「会稽郡の中」だ
会稽の東を治めると読んだところで、江蘇省にはどうやってもならないし
会稽の東を治めると読むのも最初から間違い
>>128 だが、唐会要倭国伝には
開成四年正月。遣使薛原朝常嗣等來朝貢。があり、
839年藤原朝臣常嗣の遣唐使まで倭国に入れてる
まあ、倭国も大和朝廷を指してるってだけだけれど
>>141 というわけだから、奈良=邪馬臺(ヤマト、ヤマド)説は無理。
>>132 ヤマト(ヤマド)は国のまほらま…と詠われるヤマト(ヤマド)てどんな意味?
魏志倭人伝の邪馬台国の位置は不正確だから
狗奴国熊本が畿内の南になくとも畿内大和が邪馬台国である事の否定にはならない
>>148 山戸つまり山の入り口
山は神聖な場所だった
>>107 え、大和の字と邪馬台国の字が通じる?
大和は2字、邪馬台国は4字。
ぢぇんぢぇん違うけど〜。
>>94 >谷の外域に形成される扇状地の先端あたりの地形を現す語彙。
>九州では現在、普通に山門の地名があり、その立地から山の入り口、
>門の意味であることを推定することができる。
>一方、奈良にはそのような扇状地の地形はなく、
>邪馬臺(ヤマダイ)と音写された元々の国名の存在を示すことができない。
ありゃま、纒向遺跡が三輪山と穴師山の間から奈良盆地に流れ出る纒向川の
扇状地の上の遺跡だってご存じないんだ?ww
それが狭義のヤマトと呼ばれる地域そのものだよ
>>94のヤマトの定義が正しいとも思わないが、その定義でも畿内大和は
そのままの地勢になってるよ
ヤマト(大和)には西日本の縄文晩期の代表的な遺跡があるから
縄文時代からの地名だろうね
生駒山塊と金剛山塊の間、三室山と明神山の間を大和川が流れてくる様は、
そのまま山戸と見てよいだろ?
そしてその川が流れていく平野が河内
>>25 黥面土偶らは邪馬台国で今の仏像の様に拝まれてたから
新支配者の刺青しない渡来人に偶像崇拝として
纏めて邪馬台国領土=近畿地方の外に捨てられた、と思う
>>150 山戸つまり山の入り口…。
奈良には、山の入り口の意味で(山口)があり、延喜式では大和山口6社が挙げられている。
飛鳥、石村、忍坂、長谷、畝火、耳無。
畝火は畝火山口神社。
畝傍山の西麓にある。
大和では、山の入り口を意味する言葉は(山口)。
山戸の表記は、ない。
大和の神聖な山の入り口は、(山口)。
山戸の対義語が水戸(ミナト)
こっちは港として現代日本語にも残ってるな
>>157 奈良市都祁小山戸があるが、この小山戸は和歌山県日高川町の旧川辺町小山戸の由来とされるので、奈良発祥の語彙ではないようだ。
山戸の地名は、ざんね〜んながら、みあたらん。
奈良の山の入り口の語彙は、山口だよん。
>>152 三輪山の前は扇状地というほどの広がりはない。
ちっこい谷口。
別のところで主張されているように山口が似合う。
九州のような大きな扇状地は、奈良にはない。
山口がちょうど似合い。
臺の中古音のdɒi(ドイ)は王力系統の隋唐音
前期中古音(六朝)はdəї(ダイ)、上古音はdəg(ダ)
>>165 筑後ヤマカド人の生態はまったく知られていない
弥生時代から現代まで地名発音が変化しなかったということであるから
日本人とは接触しなかったと考えられる
>>163 魏晋時代は中古音への直前過渡期。
この時期を、上古音ではなく中古音の始まりの時期とする意見もみられる。
>>167 郭錫良は王力系統だからdɒi(ドイ)は隋唐音
>>163 和名類聚抄の國郡部を見ると、山田郷はあちこちにあるから、ヤマダ説の場合、地名から位置を突き止めるという試み自体がほぼ無意味になるな
隋書で「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」としているから
臺はダイ、後にタイが近いだろう
>>168 ウィクショナリー日本語版
臺=doj(中古音)
つまり奈良大和のトは古くは濁音的で後世に清音化した
>>171 中古音は全部同じではない
隋唐時代に変化している
>>172 筑後の濁音地名ヤマドを、(都=みやこ)の意味で奈良人が使い、やがて奈良弁ヤマトに変化した。
もう、地名発音ぐらいにしか頼らざるを得ない畿内・九州説。 哀れなり。 @阿波
>>342 >>陳寿の三国志執筆時点の地の文の「計其道里、當在會稽東治之東」では、
当然、陳寿執筆時点での認識での記載をするのであり、<
>魏代を書いた文献において、西晋代の認識で地理を書いたとしたら、撰者失格だろ
他の箇所でそんな事を陳寿がしている例はあるのか?<
自然や歴史を説明しようとするや人は、現代大和説者らも含めて、皆、
「地の文」ではそのような、説明をしているのであり、陳寿もの、
「倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者、今使譯所通三十國」
の「今」は、執筆時点での状態を記している。
>>その時の会稽は「夏后少康之子封於會稽」の会稽であるから、
杭州付近や会稽山付近の「会稽」であり、<
>禹の墓が会稽山にあると言われているのだから当然だね
3世紀の陳寿の会稽と、紀元前18世紀あたりの人物の会稽が同じだから何だというのかね? <
陳寿の「会稽東治之東の会稽は、「夏后少康之子封於會稽」の会稽であるんだろう、という事。
>>だから「東治」は、その会稽の東方の治所だ、という意味である。<
>「〇〇+方角+治」は、「その〇〇の方角の治所」という例があるのか?
例があるのなら考慮するが、なければお前の妄想だよ <
当然、「夏后少康之子」が封じられて治したとされる地の中の、
陳寿の頃にも「東治」とされている地。
都合が悪い記述があると同一名称の別のものがあったとしてしまうのは九州説の定番だ
さすがに使い古しの感がある
>>179 「東治」とされている地なんて存在しないよ
「東冶」の誤字だ
>>181 憶測でしょ
そんなんばっかりだよ畿内説は
後漢書もいいが、倭人伝を大事にしないと
>>183
もう、地名発音ぐらいにしか頼らざるを得ない畿内・九州説。 哀れなり。 @阿波 「会稽東治之東」で陳寿が沖縄あたりだと思っていたのなら
方位は正しいのであろう 南は南でOK
問題は距離
これは各説どうしようもない
>>186
>問題は距離
>これは各説どうしようもない
方位も距離も問題ないのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>186 沖縄が邪馬臺國なら方位は正しい
沖縄じゃないなら地理観は正しくない
>>146 コピペミスしてたよ。さんきゅ。
それでも併存は無いね。
倭人伝の全体里数(帯方郡〜女王国): 1万2000余里(この数字は漢代に書かれた淮南子をパクリ援用)
(実際の内訳)
帯方郡〜(水行)〜狗邪韓国(7000余里)
狗邪韓国〜(渡海水行)〜末盧国(3000余里)
末盧国〜(陸行)〜女王国(2000余里)
末盧国の港(唐津)は、河口から約4q遡上した中原ノ津。
ここから東南陸行500里で到る伊都国は、佐賀川上大願寺のゐ寺(伊寺)遺構。
さらに東行100里で至る不彌国は、佐賀三根郡の吉野ケ里一帯。
この吉野ヶ里の南方に投馬国(西都市都万)あり、すなわち水行の20日なり。
同様南方に邪馬台国女王之所都(1400里・肥後熊本)あり、すなわち水行の10日と陸行の1月なり。
>>182 憶測じゃないから通説になっている
東治と書かれた場所が東冶じゃなかった史料は存在しない
>>178 そりゃあ魏志倭人伝に邪馬台国と書いてあるから
阿波には哀れなことにやまとという地名はないようだが
A.夏后少康之子 封於会稽、、、
B.今倭水人 好沈没捕魚蛤、、、、
C.諸国文身各異、或左或右、、、、
D.計其道里、当在会稽東治之東。
A文の会稽を受けて、D文の会稽東治之東があるのであるから、「会稽≒会稽東治」でよい。
またさらに、B文の今倭水人と C文の諸国文身を受けての会稽東治之東であるから、
東にあったの主旨は、「倭地」であること明白。
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
>>191 の改訂
倭人伝の全体里数(帯方郡〜女王国): 1万2000余里(漢代の淮南子を援用)
(実際の内訳)
帯方郡〜(水行)〜狗邪韓国(7000余里)
狗邪韓国〜(渡海水行)〜末盧国(3000余里)
末盧国〜(陸行)〜女王国(2000余里)
末盧国の港(唐津)は、河口から約4q遡上した中原ノ津。
ここから東南陸行500里で到る伊都国は、佐賀川上大願寺のゐ寺(伊寺)遺構。
さらに東行100里で至る不彌国は、佐賀三根郡の吉野ケ里一帯。
この吉野ヶ里の南方に投馬国(西都市都万)あり、則ち(ここまでの行程説明を要約して言い換えれば)水行20日なり。
同様南方に邪馬台国女王之所都(1400里・肥後熊本)あり、則ち(ここまでの行程説明を要約して言い換えれば)水行10日と陸行1月なり。
>>179 >の「今」は、執筆時点での状態を記している。
例は無いのか?妄想でいいんだな。
魏代の書いた文献である以上「今」とは魏代。
晋からみれば、分郡は孫休が勝手にやった事。太康三年(282年)に晋安郡が置かれる。
>陳寿の「会稽東治之東の会稽は、「夏后少康之子封於會稽」の会稽であるんだろう、という事。
陳寿は《史記》から「夏后少康之子封於會稽」を引用しただけ。
「あるんだろう」程度では理由にならない。
>>「〇〇+方角+治」は、「その〇〇の方角の治所」という例があるのか?
例があるのなら考慮するが、なければお前の妄想だよ <
>当然、「夏后少康之子」が封じられて治したとされる地の中の、
>陳寿の頃にも「東治」とされている地。
例は無いのか?妄想でいいんだな。
『「東治」とされている地。』を文献上示さなければ、根拠にならない。
>>194
>そりゃあ魏志倭人伝に邪馬台国と書いてあるから
「倭」とも書いてあるね。
>阿波には哀れなことにやまとという地名はないようだが
「倭」が「やまと」。 「倭」を冠する物証が有るのは倭国(阿波)のみ。 くだらん説哀れなり。 @阿波 >>199 もう、倭の地名発音ぐらいにしか頼らざるを得ない阿波説アワれなり@畿内
>>200
>もう、倭の地名発音ぐらいにしか頼らざるを得ない阿波説アワれなり@畿内
倭の地名発音じゃないよ。 「倭」を冠する物証が有るのは倭国(阿波)のみ。 くだらん説哀れなり。 @阿波
>>201 魏志倭人伝での倭はあくまで「わ」
やまとは邪馬台
もう、倭の地名発音ぐらいにしか頼らざるを得ない阿波説アワれなり@畿内
>>202
もう、地名発音ぐらいの「一発芸」にしか頼らざるを得ない畿内・九州説。 哀れなり。 @阿波
鉄器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鯨面でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
行程でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅矛でも、四国の阿波
銅戈でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
風土記でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波
何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。 D音(濁音)なんだから
山津、八女津、山門、山道、山東、岩水とか
だぢづでど…。
八百舌鳥だったりしてw
てか、邪と馬は?
YMDなの?SMDなの?
>>195 >A文の会稽を受けて、D文の会稽東治之東があるのであるから、「会稽≒会稽東治」でよい。
では、なんで「会稽」之東と書かずに「会稽東治之東」と書いたのだ
区別する必要があるから違う表記にしたんではないのか?
不合理な意見だ
>>210 だからといって「→会稽東冶之東」が正しいということにはならない
現に、会稽東治之東になっているのだから、それには当時それなりの理由があったのだろうが、
夏氏は中華の始祖であり、秦の始皇帝もその末裔を名乗ったくらいの大閨閥大人物だ。
夏公の名前を出しているからには、「会稽≒会稽東治」でよい。
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
>>212 夏后少康之子は倭人じゃないから
黥面文身する民族の地域だから
中国で12世紀の民間版本を訂正してるように、後漢書と同じ会稽東冶でよい
>>214 論旨文章ハチャメチャで、
何を言ってるのか言いたいのか、さっぱりわからんな。
>>215 サリン製造人種が連呼しても
ヤマカドはヤマタイ(隋代)には変化しない
>>182 >憶測でしょ
>そんなんばっかりだよ畿内説は
>後漢書もいいが、倭人伝を大事にしないと
後漢書ではなく、三國志卷六十/吳書十五/賀全呂周鍾離傳第十五に
會稽東冶五縣とか、會稽東冶賊という記述があるんだよ
三国志典拠でも会稽東冶が正しいと考えるべきだし、実際それが通説になっている
>>185 >後漢書に東冶県は出てこない
後漢書に東冶県という文字列はなくても、東冶というのは何度となく出てくるし、注釈で
東侯官に改められ、泉州閩縣になってる、と書いてあるね
前後所陳有補益王政者皆著之南宫以為故事出為平原相徵拜侍中建初八年代鄭衆為大司農舊交阯七郡貢獻運轉皆從東冶〈東冶縣屬㑹稽郡太康地理志云漢武帝名為東冶後改為東侯官今泉州閩縣是〉汎海而至風波艱阻沉溺相係
詭弁としても弱いなww
>>210 >では、なんで「会稽」之東と書かずに「会稽東治之東」と書いたのだ
>区別する必要があるから違う表記にしたんではないのか?
>不合理な意見だ
その他に「所有無、與儋耳朱崖同」とあって、この海南島に近いのが東冶の方だから
会稽東冶って書いてるんだよ
>>90 (遠くてどんな者たちが集まっているのか分からん、同じ倭種の者であるのは確かだが)、という表現が、つい隣の素性の割れた者たちに対してなされているとは、とうてい考えられん。
(光市あたりなら銅矛圏内の一地方だ、情報が乏しいなどということはありえん)、というまっとうな主張に反論できんと「論理がまったく繋がらない…」とブツブツ言うだけの投稿て、サイテーだな。
>>212 論理がすごく飛躍してません?
夏公がえらくてその名前を出してると、どうして「会稽≒会稽東治」なの?
説明不足すごくね?
>>99 明刀銭は、九州からもたらされた可能性がい。
沖縄へは、九州側からはすでに縄文前期には曽畑式土器がもたらされているなど、その存在は早くから知られている。
それに比べると、大陸側の沖縄に対する知見はぐんと遅れる。
>>107 三角縁神獣鏡は、3世紀末頃の墓以降に出る。
卑弥呼が健在の3世紀前半の鏡ではないだろう。
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
>>224 九州のどこで明刀銭が出てる?
曽畑式土器は鬼界カルデラ大噴火で九州が終った後
朝鮮半島から西部九州人の先祖が来たんだな
>>209 中古音にも前期、後期があるのなら、
邪 前期=zia、後期=sie
馬 前期=mba、後期=ma
邪馬 前期=zia mba
>>228 燕の明刀銭が出ているのは沖縄。
済州島には1万年前、金海や蔚山では7600年前から縄文系とみられる土器などが出ている。
曽畑式が沖縄までもたらされた時代は6000年前頃だから、その時期にはY-O、C系の者たちはまだ半島南部には来ていない。
曽畑式土器をもたらしたのは半島にいた九州系縄文人だらうな。
>>192 王子町役場近くには、舟戸があるが、山戸はネーよ。
>>228 朝鮮半島で明刀銭はいっぱい出てるから、それが九州へももたらされ、九州の商売人が沖縄での取引きに用いたのだらう。
>>348 >淮南子と後漢書の1万2千里は余がついてないので
魏略と魏志倭人伝が付け足したで終い
元は架空の数値だから余がついても実測値にはならない <
淮南子は、周代の数的思想の「形容詞的な引用」であるから、
(近似値表現などせずに)切りの良いはっきりした数値を使って記載するものであり、
後漢書も、(実測したのではなく)漢代や魏代や晋代の記録を、
分かりやすい切りの良い数値表現で紹介しているのだから、
普通は、「近似値的表現ではなく)切りのよい数値表記を選択するもの。
>>232 琉球諸島において発見されている銭貨のなかで、
もっとも古い時期のものとしては明刀銭がよく知られている。
これまでは、琉球諸島の五銖銭も含めて、
いったん北部九州などを経由してもたらされたとする見方が多かった。
しかしながら近年、琉球諸島においては五銖銭の出土遺跡数や出土数が増加しており、
また久米島では一島で複数の遺跡から相当数の五銖銭が出土していることから、
南島出土の五銖銭に対しては、従来のように北部九州を経由してもたらされたとみるよりは、
中国大陸ないしはその媒介者との直接の交渉によってもたらされた
蓋然性が示唆されるにいたっている。(門田誠一)
>>143 フィリピンではなく、宮古島あたりじゃね。
どちらにしても、邪馬台国の南に狗奴国はあった。
吉野=狗奴国は、無理。
>>230 >半島にいた九州系縄文人
朝鮮半島の非支配先住民が九州人?
>>237 朝鮮半島にY-O、C系の種族が北から入ってくるのは4500年前頃から。
それまで朝鮮半島にいた人間は、九州系縄文人だけ。
6000年前に、はじめて今のソウルがある地に遺跡がみつかる。
この遺跡で見つかったのが櫛目文土器。
この櫛目文土器の系統が曽畑式土器とされる。
櫛目文土器は、8000年前頃に満州でY-Nの種族が造ったものとされている。
半島縄文人が、その頃に満州まで北上した可能性がある。
>>238 朝鮮半島にいた被支配先住民九州人の遺伝子は何なの?
>>370 >三国志の呉書に「會稽東冶五縣賊呂合」ってあるんだから、
陳寿の時代に會稽東冶という認識があったのは確認できるだろ?
魏志倭人伝も同じ會稽東冶だよ
五県は建安、侯官、漢興、南平、建平 このうち侯官県が以前の東冶県(の西側)<
「會稽東冶五縣賊呂合」などの「会稽東冶」の記載は、
260年の「会稽郡から建安郡の分郡の前」の記載に書かれており、
260年の分郡で「東冶」は建安郡に含まれる事になり、
だから、260年以後から陳寿執筆時には「会稽東冶」という表記は起こり得ず、
陳寿も記載しておらず、従って、晋代になってからの、
建安郡分郡以後の「陳寿の地の文」の「計其道里當在會稽東治之東」の「会稽東治」が、
「会稽東冶」である事は有り得ない。
>>235 宮古島あたりのタカラガイが大陸にもたらされた可能性が高いとされているので、古くから大陸沿岸の越との関係はあったと考えられる。
沖縄で出る前漢五銖銭は隋代まで用いられたので、沖縄で出る五銖銭がいつもたらされたものであるかは、注目点。
>>372 >卑弥呼の『親魏倭王』は、大月氏国(クシャーナ朝)の『親魏大月氏王』と同格ですよ。<
だから、大和の片田舎の「九州倭国の別種分家の旧小国」の王に、
そんなものが与えられる訳がない。
>>236 魏志倭人伝の邪馬台国の位置は明らかに変なので
邪馬台国の南に狗奴国はなかった
>>374]
>こんなにも膨大な下賜品を携えた魏使が、末盧国(松浦市)に着いた後に不可思議にも船を降り、
東南→東南→東に向けてゾロゾロと山地を内陸行するなど、あり得ない。<
いや、魏使らは、人類の常識の「安全最短の原則」で拠って、止むを得ない場合を除いて、
水行よりも「陸行」を選択すりもの。
水行の方が、陸行よりも、はるかに事故の起こる確率が高い。
>北九州最大の大人口地帯である博多湾は表敬しないのか?<
不彌國の後でしている。
>魏使たちは極力、船と一緒に海岸を水行し、
どうしてもやむを得ない時に限って陸行した(行程記事最後の陸行1月)。
こう考えるのが自然<
安全最短の原則に拠って、×。
>>219日本@名無史さん2019/02/03(日) 14:15:32.54
>その他に「所有無、與儋耳朱崖同」とあって、この海南島に近いのが東冶の方だから
会稽東冶って書いてるんだよ
夏后少康之子が会稽に封ぜられた逸話から、其道里を計れば会稽東治之東と推論したまでのことであり、
その後は別の話題に移り、
・其風俗不淫、
・男子皆露紒、以木棉招頭。其衣横幅、但結束相連、略無縫。
・婦人被髮屈紒、作衣如単被、穿其中央貫頭衣之。
・種禾稲、紵麻、蚕桑緝績。出細紵、縑緜。
・其地無牛馬虎豹羊鵲。
・兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鉄鏃或骨鏃、
などなど、
風俗・男女風習・農産物・動物・兵用武器 についてみれば、
その有無する所は、儋耳・朱崖と同じ、といっているのである。。
だから、「会稽東治之東」のくだりと、「儋耳・朱崖」のくだりは、全く関係ない。
あっちこっちの文章をつまみ食いして、ごちゃまぜにするな。
お行儀がよろしくない。
>>386 >どのスレだったかな?
それが事実なら、日本人の人口なんて数えるくらいしかいないよと言ってる人がいた。
数十万人くらい?<
ダメだ。
魏使らの行程途上の8国だけでも15万戸位あり、
1戸平均2人としても30万人であり、5人とすれば75万人であり、
その他にも、
「其餘旁國」の21国や、狗奴國や、東方倭種や、、侏儒國や出雲や越や毛人などもいたんだから、
当然100万院位にはなってしまう。
>>294 >夏后少康之子が会稽に封ぜられた逸話から、其道里を計れば会稽東治之東と推論したまでのことであり、
いつもウソついてる人だね?
道里を計って会稽東治之東という計算結果になったまでのこと
夏后少康之子の逸話や海南島のことを含めて筆者は計算の裏が取れたと考えているだけ
>>243 ワイ説が、醤油。
1万2000年前に南方から人民たちが海を渡ってきて南九州に上陸し、先住縄文人と混合した。
また、同じ1万2000年前に中国南部の百越地方からフィリピンなどへ海を渡った人民たちがいた。
南九州へ1万2000年前に南方から来て上陸した人民と、このフィリピンなどへ渡海した人民たちは同族だったと推定。
その後、フィリピンに百越地方からの渡海が継続してあり、今フィリピンの最大ハプログループはY-O1a。
中国百越地方もO1aが多数。
これらから、ワイ説の推定が、海洋系南九州人民はO1aだったとするもの。
このO1aは継続的に九州を北上し、1万年前には済州島へも渡った。
>>253 陳寿の計算結果は「会稽東治之東」だったのだな?
>>250 魏略に書いててもなかった
ついでに後漢書には狗奴国は東と書いている
>>251 ヤマトの字が読めないとはエセジャパニーズかな
>>256 名前:日本@名無史さん 2019/02/03(日) 18:14:30.00
>魏略に書いててもなかった
>ついでに後漢書には狗奴国は東と書いている
後漢書には、狗奴国でなくて「拘奴国」
>>257 同じ国だ
表音文字なんだから中国人が字ズラにこだわる理由はない
九州説は何々だから畿内は違うと通説に反する話を一言言うだけ言って
倫理を構築しようとする気配がまるで感じられんな
>>259 論理を知りたかったら九州説のテンプレでも読め。
>>260 つまり九州説には論理が存在しないと
ズバリそう言いたいのですね?
まず、邪馬台国=「成立期の大和王権に対する中華側の呼称」という前提が近年では有力視されていて
このことに加えて、記紀の神武東征が何らかの史実をふまえている可能性から、邪馬台国=九州説を唱える人がいるが、どうも疑わしい
というのも、弥生時代に栄えていた北九州の諸地域ならまだしも、そのスタート地点が日向国だからだ
ここで古事記・日本書紀が完成する直前期の日向国周辺の状勢に視点を当ててみると、当然と言えば当然だが、隼人の反乱に苦慮している
712年 古事記完成
713年 大隅国、日向国から分立、同年隼人の反乱
720年 隼人の大規模な反乱発生、同年日本書紀完成
721年 大伴旅人により反乱鎮圧完了
つまり、古事記・日本書紀において日向国を神武東征の出発点としたのは、当時の政府の悩みの種であった日向国(そこから分割された大隅国)の隼人に対する政府側の支配の正統性の根拠となるエピソードが欲しかったからではあるまいか
そう考えると、神武東征のエピソードを根拠とした邪馬台国=九州説は疑わしい
ま、実際は邪馬台国=大和王権の前身という前提も確実ではないし、邪馬台国九州派もそう一枚岩じゃないんだけどな☆
まあ、邪馬台国=大和王権と考えるにせよそうでないにせよ、神武東征のエピソードを根拠に政権の九州から畿内への移動があったというのは、疑わしいというお話
>>260 九州説のテンプレ的なのは頼まんでもお前らがここに毎日山ほど投下しおるやろ
全て論破済みだがなあ
筑紫の日向は福岡県西部。
倭国の始祖であるイザナギが禊をして住吉三神を産んだのが、筑紫の日向の小戸、現在の福岡市西区小戸だ。
宮崎県が日向国と呼ばれるようになったのは景行天皇の命名によるもの。
>>264
>宮崎県が日向国と呼ばれるようになったのは景行天皇の命名によるもの。
根拠は? @阿波 九州説はそのテンプレ貼った自スレで議論すればいいのにここでの主張だってバラバラ過ぎる
>>266 まあ九州説なんて実態は存在しないんだけどな
ミャンマー人もブータン人も区別できずにアジア人と呼ぶようなもんだ
>>420 >そんなものが畿内説の根底にあるなんて証拠があるのか?
九州説はいつもウソばかりつく<
この大和説男も、「畿内」なんて存在もしない嘘つき騙し文言を使っているから、
ウソを付いている事になる。
>>262 >ま、実際は邪馬台国=大和王権の前身という前提も確実ではないし、
いや、確実じゃないの?
邪馬台国=大和を中心として畿内地方に発生した初期王権
>>422 >日本人に対する妬みが九州説の基本にある<
唯我独尊の人種差別殺戮戦争肯定の万世一系皇国史観という極右宗教が、
大和説の安部自民文部省や 右翼マスコミやの学会教育界の基本にある。
>>258 表意文字の国の中国人が、字面に拘らないというのは、
アメリカ人がアルファベットに拘わらないというようなものだ。
ちなみに狗はイヌの意味、、拘はオマイみたいに自説に拘る倭種のことだ。
>>264 >宮崎県が日向国と呼ばれるようになったのは景行天皇の命名によるもの。
それはそう
確かに記紀だとそういうことになってたね
>筑紫の日向は福岡県西部
浅学にしてそれは知らなかったな
ま、仮にもその日向命名が景行天皇によるものというエピソードが史実だったとして、神武東征が「記述された」のは当然ながらずっと後の時代な訳で
古事記や日本書紀の神武東征のルートなら、間違いなく出発点は筑紫の日向ではなくて、当時(8世紀前半)で言うところの日向国だよ
神武東征のルートは古事記によれば
日向→宇沙(宇佐)→岡田宮(今の北九州)
これは日向国出発なら自然なルートだけど、その「筑紫の日向」とやらが出発点だと不自然な行軍になる
そもそも、筑紫の日向の近辺には、高千穂峰に相当する何かはあるのかい?
真っ当な日本的倫理観のある人々は
お前ら九州説を滅ぼす
つまんない
九州説の話題ばかりじゃん
畿内説は閉店したの
>>256 魏略にも南と書かれていて、倭人伝にも南と書かれているのだから、それを東というのはトンデモイスタンブールだろな。
この点、後漢書がイスタンブールなのは、間違いない。
>>274 畿内説にあんまりにも虐められて
閉店したのは九州説なんだよなあ
>>276 つまり邪馬台国が会稽東治(冶)の東
沖縄や台湾辺りにあるっていう魏志倭人伝後漢書の記述は
何らかの政治的理由が匂う現実とは違う表記って事よなあ
それからすると魏志倭人伝の距離方位は信頼すべきではなくて
魏と交流の証三角縁神獣鏡や
倭の3世紀の集権的権力の存在を伺わせる
前方後円墳が集中している
考古学的物象が占める畿内の大和が邪馬台国だったで
いいんじゃないかなあ
>>447 >いや、実際には詐欺してんのはアンタだから
畿内説が主張してないことを「東遷が前提」 とか作り話こしらえて誹謗中傷してるでしょ<
いや、実際には詐欺してんのはアンタだから。
「畿内」なんて存在もしていない嘘つき騙し文言だし、
「南→東」が前提とかの、
作り話こしらえて、九州説を誹謗中傷してるでしょ?。
大和はヤマト
邪馬台国とはヤマト国の事に他ならない
>>451 「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソ付き騙しをするとか、
そういう自分勝手なワケわかんない理屈で言葉狩りするのって、
思想の押し付けっていうか。
安部自民政権やオームらと同じように、
自分たちばかり空疎な美辞麗句で飾り立ててるし、
こんな人たちが憲法改正?をしたら、
戦前と全く同じように、
絶対に恐怖政治を始めるよな。
「畿内」が存在しないって何度も繰り返し言ってる人って何なんだろう
変な宗教?
>>269 まあ、3世紀前半に博多が大和の傘下にあったのなら、博多から大和へお上りさんが相当数いて、西新式の土器が大和で出土していてもおかしくない。
しかし、実際には、纏向で出るのは南九州の土器片一、二個にすぎんのだからなあ。
大和の手が、3世紀前半に博多まで伸びていたというのは、眉唾だろうな。
>>279
この人、畿内説初心者と見たがw @阿波 邪馬台国は謎だらけで色々不明だが
>>283が発狂してるのは確か
倭人伝の全体里数(帯方郡〜女王国): 1万2000余里(漢代の淮南子を援用)
(実際の内訳)
帯方郡〜(水行)〜狗邪韓国(7000余里)
狗邪韓国〜(渡海水行)〜末盧国(3000余里)
末盧国〜(陸行)〜女王国(2000余里)
末盧国の港(唐津)は、河口から約4q遡上した中原ノ津。
ここから東南陸行500里で到る伊都国は、佐賀川上大願寺のゐ寺(伊寺)遺構。
さらに東行100里で至る不彌国は、佐賀三根郡の吉野ケ里一帯。
この吉野ヶ里の南方に投馬国(西都市都万)あり、則ち(ここまでの行程説明を要約して言い換えれば)水行20日なり。
同様南方に邪馬台国女王之所都(1400里・肥後熊本)あり、則ち(ここまでの行程説明を要約して言い換えれば)水行10日と陸行1月なり。
>>454 >九州説って怖い政治思想ですね <
「南→東」などのような、史料事実の否定曲解の嘘つき騙しを、
敢えてする大和説って、何を仕出かすか判らなくて、
怖い政治思想ですね。
>>262 政府側支配の正当性のためて、いくらなんでもまさかなあ〜。
日本書紀などの記述の結果、スメラミコトの皇統は隼人と同じ血筋の同族だということになってんだから、大ごとだろうに。
単に隼人支配を正当化するために、スメラミコトと隼人が同じ血筋だとデッチ上げたというわけかあ〜。
脳味噌、腐っとるななあ〜。
日本書紀は、隼人とスメラミコトが同じ血筋だから、そうと書いただけだろが。
大和説者は、いろいろトンデモ説をデッチ上げるのが得意だなあ。
>>486 >>ようで、
>ようだから、
>ようで、
>ようであるから、
>ようであった。
こうすると 根拠が一つも無いことがよく分かるね<
帰納的確率的な推論であるから、「断定」などは、しないの。
>>488 >「大和朝廷」とか「畿内」とかの文言を使ったら皇国史観だというなら
文科省検定済の高校の教科書まで皇国史観<
当然の事。
どこまで狂うか?、皇国史観大和説の頭。
>>492 >古代では、普通、港は河口上流。<
必ずしも河口とは限らないし、河口であっても、「上流」とも限らない。
>松浦川の河口から少し遡ったところが、港だったじゃろ。<
幾分砂洲状態であった筈だから、無理だろう。
>>295 潮が上がってくるところでは、舟底に牡蠣が付いて水切りの抵抗が大きくなり、速度が減じる。
それに上流だと波がないので、舟着きが安定する。
だから、河口の上流の淀みに舟を着けた。
天皇家との繋がりを過剰に意識してるのは九州説でしょ
神武東征とか九州倭国が遷都とか
>>515 「南→東」などの史料事実を否定曲解のウソ付き騙しの大和説が、
焦ってるのお。
絶滅の時は近い。
>>295 また「筈」ってw
ザラコクには脳内空想しか無いんだな
>>519 >魏略に南でも関係ないね<
「南≠東」だから、大和説否定の根拠になる。
>陳寿が伝承に添う形でなくできるだけ真実に近い記述をしようとしたなら<
陳寿は、「伝承に添う形「」で記述しようとしていない。
>魏志倭人伝には邪馬台国の位置は帯方より南1万2千里<
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
帯方より「折れ線的道のり」で結果は、南南東〜南東方向。
>さらに南に四千里まで女王の勢力圏なんて現実と合わない数字は書かない<
陳寿は、倭種や侏儒國が女王國だ、とは書いていない。
邪馬台国畿内説を宣伝するために、韓国政府が雇用した、邪馬台国畿内説の宣伝係員の韓国人が、論破されてしまった。。。
>>523 >当時から畿内という言葉が使われていたなんて 畿内説の誰も主張してないのであり
畿内の文化的繋がりがあって邪馬台国を示すと見られる範囲を便宜上そう呼んでいるだけ<
存在しない「嘘つき騙し文言」であるんなら、使わなければよい。
>もし畿内説の名称に異議があるならラチの開かない文句をつけるばかりではなく
最もな代替案を提案する事 <
存在もしない文言は、始めから使わなければよい。
>それと九州地方も当時九州と呼ばれてなかったので
畿内が存在しなかったので嘘というなら九州も嘘という事になる<
倭人は、燕の南にいたから、自分らが「九州」の一つであった事を知っていた。
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
>>527 >畿内というのは現代では京都大阪奈良あたりを漠然と指す名称<
天子や皇帝や天皇の存在を示す嘘つき騙し文言。
「京都大阪奈良」あたりを漠然と示すんなら、
「大和付近」などのような表現にすれば済む。
>皇国史観も宗教もどちらも関係なし<
天子や皇帝や天皇の存在を示す嘘つき騙し文言。
韓国嫌いのキウスと北朝鮮支持者のザラコクってウマが合うんだね
でも最近雪解けしてるぞ
韓国政府が、宣伝したな、、、
306 名前:日本@名無史さん 2019/02/03(日) 21:30:22.88
韓国嫌いのキウスと北朝鮮支持者のザラコクってウマが合うんだね
でも最近雪解けしてるぞ
>>305 >天子や皇帝や天皇の存在を示す嘘つき騙し文言。
天子や皇帝や天皇って存在したよな?
>>533 >どこが間違ってるのかな
改新の詔で示される
「東は名墾(名張)の横河より以来(こちら側)、南は紀伊の兄山より以来、
西は赤石(明石)の櫛淵[2]より以来、北は近江の狭狭波(さざなみ)の
合坂山(逢坂山)より以来を、畿内国とす」が元
現在ではだいたい京都大阪奈良を指す名称<
「畿内」とは、天子皇帝天皇の存在を前提とする文言。
大和王が天皇を称した最初は、天智。
北朝鮮が支配した、韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
>>309 >「畿内」とは、天子皇帝天皇の存在を前提とする文言。
それ、誰が決めたの?
ザラコクの一存?
>>534 >1万2千余里を実数ととらえるなよ。
遠いところ、という慣用的な表現だ。<
「余」を付ける事は、実数的表現だ。
「慣用的な表現」では、「萬二千里」として、
「余」のない解りやすい表現を使うものだ。
韓国政府は、北朝鮮と合体し、邪馬台国畿内説を、宣伝しているのではないのかな、、、、
>>312 それらしく見せるのに余を付けた。
陳寿も、そした修辞を用いたもの。
ぴったり1万2千里とすれば、かえって本当かよと疑われる。
韓国政府は、北朝鮮と合体し、邪馬台国畿内説を、宣伝していることが、判明したので、孫達のために、韓国政府が宣伝する、邪馬台国畿内説を、やっつければ良いな。。。
>>240 >だから、260年以後から陳寿執筆時には「会稽東冶」という表記は起こり得ず、
>陳寿も記載しておらず、従って、晋代になってからの、
『三国志の呉書』に「會稽東冶五縣賊呂合」ってあるんだから、
陳寿の時代に會稽東冶という認識があったのは確認できるだろ?
三国志の呉書の執筆者が陳寿じゃないとか、また突飛なトンデモを唱えるつもりかい?ww
北朝鮮が支配した、韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
韓国政府は、北朝鮮と合体し、邪馬台国畿内説を、宣伝していることが、判明したので、孫達のために、韓国政府が宣伝する、邪馬台国畿内説を、やっつければ良いな。。。
>>536 >だから架空の数値とこっちも言っておるだろ <
「余」という文言が付けられたら、実数であった事を示すから、
魏志や魏略の記載は「架空の数値」ではない。
>>321 それはザラコク思想
ほかの人は信じない
>>249 >だから、「会稽東治之東」のくだりと、「儋耳・朱崖」のくだりは、全く関係ない。
書き始める前に資料を集めて、それで書き始めているんだから関係ない訳ないだろ?w
儋耳・朱崖のくだりは陳寿の「倭国は南国」という認識を強固にしてるんだよ
だから陳寿は自信を持って、計其道里當在會稽東治之東って書いてるんだよ
>>272 >これは日向国出発なら自然なルートだけど、その「筑紫の日向」とやらが出発点だと不自然な行軍になる
いやいや、宮崎県から出発だと、関門海峡という難所を二回も通過することになり、不自然なんだよ。
>そもそも、筑紫の日向の近辺には、高千穂峰に相当する何かはあるのかい?
高祖山、またの名をクシフル山。
北側に日向の小戸、東に日向川、南に日向峠、そして西に弥生王墓群。
>>271 >アメリカ人がアルファベットに拘わらないというようなものだ。
こだわってないだろ?
Queen's Englishでcentreだったのをcenterって綴るようになってるしw
>ちなみに狗はイヌの意味、、拘はオマイみたいに自説に拘る倭種のことだ。
ああ、自分は倭種じゃないって言いたいんだね?
全産業滅び掛けの腐れ儒教の国へお帰りww
>>324 このように、まったく証拠を出さないのが
九州説
韓国政府は、北朝鮮と合体し、邪馬台国畿内説を、宣伝していることが、判明したので、孫達のために、韓国政府が宣伝する、邪馬台国畿内説を、やっつければ良いな。。。
北朝鮮が支配した、韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
>>284 >「畿内」が存在しないって何度も繰り返し言ってる人って何なんだろう
そういう字面のこと以外反論できないかわいそうな人なんだよ
あと、邪馬台国なんてないっていうのも繰り返してる
>変な宗教?
「邪馬台国はなかった」っていう本を根本経典にしているカルト宗教の信者だよww
韓国政府は、北朝鮮と合体し、邪馬台国畿内説を、宣伝していることが、判明したので、僕達日本人の孫達のために、韓国政府が宣伝する、邪馬台国畿内説を、やっつければ良いな。。。
北朝鮮が支配した、韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
>>324 >高祖山、またの名をクシフル山。
高祖山をクシフル山と呼んだことが確認できる資料が、明治より遡らない
その資料でも取って付けたような語呂合わせで、信憑性がない
日向峠を重視するが、早良平野側の地名で、伊都国とは関係ない
伊都国というより、博多湾沿岸の高地の名称なんだろう。
>>332 慶長年間までは遡るみたい。
「高祖村、椚 二十四戸。慶長の頃、黒田長政、村の南の、野地を開き、田地とすべしと、手塚水雪に命ぜられし書状、今も、農民、田中が家にあり。
其書に、五郎丸の内、日向山に、新村押立とあれば、椚村は、此時立しなるべし。
民家の後にあるを、くしふる山と云、故に、くしふると、云ひしを訛りて、[木毛]と云とぞ。
田中は、元亀天正の間は、原田家より与へし文書、三通を蔵す」
(福岡県地理全誌抜萃目録、恰土郡之部。大正二年五月発行、『怡土志摩郡地理全誌』東京糸島会発行所収)
「福岡県地理全誌」は明治5年、陸軍省の「全国地理図誌」編集の命を受け、
旧福岡県(筑前15郡)が明治5年から7年にかけて調査し、5年から13年にかけて
編集した郡村地誌である。
第六巻は早良・怡土・志摩の各郡を収めた。
>>543 >魏志倭人伝には邪馬台国の位置は会稽東治(冶)の東とあり
沖縄や台湾の辺りとしている <
「邪馬台国」なんて存在しない嘘つき騙しもんごんであるし、
「会稽東冶の東」なんて文言も存在しないから、
この男は、×人間。
>>548 >結局のところテキトーに南と東組み合わせてるだけ
黒歯国とか明らかに架空の国も出てくるし地理情報は想像でかなり潤色されてるよな<
黒歯国は、いくつかの文書での史料事実であるし
「お歯黒」風習もあったようだから、必ずしも否定出来ない。
>>549 >現在見るの魏志倭人伝は原典の無くなった12世紀のものぞ
それ以前の後漢書や隋書などの史書の方がよほど3世紀に近く
また12世紀以前の原典に近い魏志倭人伝を引き写している
現在見れる魏志倭人伝が同時代記録で正しいというのは錯誤であり欺瞞<
後代史書や現代大和説者らの「自己解釈に拠る高慢な書き換え」などは、
根拠にはならない。
>>555 >松本清張ほか多数の著名論者が、
1万2千余里を地理的実数として扱って、邪馬台国の所在地を割り出そうとしたが、
1万2千余里を地理的実数に当てはめようとすることは無駄骨だったということ。
それら膨大な労力は、徒労でしかなかったのだよ。
はやく、そのことに目覚めたまへ。<
「邪馬台国」は史料事実に存在しない嘘つき騙し文言であり、
「萬二千余里」は、史料事実。
宮崎県に王墓はないが、福岡県にはある。
そしてそれは筑紫の日向のクシフル山の東西に集中している。
三種の神器が副葬されているのが特徴で、弥生末期の女王墓である平原遺跡も含まれる。
自己解釈に拠る高慢な書き換えなんて根拠が無いどころか
魏志倭人伝の転記ミスであるというのが理性的な判断だな
>>557 》それなら九州説が考古調査でもして
三世紀邪馬台国があったと思わしき文化的繋がりのある地域が
いわゆる畿内とズレがあるので河内−三輪説と改めようではないかとでも論文でも書くべき
ただ畿内は間違いと言われても聞きまへん
逆に九州説こそ名称間違ってるんじゃないのと返すだけだ <
大和が天皇を称したのは、天智からだから、×。
>>334 確認できるのは「明治5年から7年にかけて調査」の時点までだよ
「枆」の字も「うつぎ」と読むのであって、どこが「クシフルの訛」なんだかw
>>563 >そして1万2千里は短里で実測されたものという九州説の主張が
崩壊してるのも十分わかっている<
そして1万2千里は長里だという大和説の主張が 、
赤道付近に行ってしまうので、崩壊してるのも十分わかっている
そして考古物象で見れば大、大和は3世紀の魏と交流が大、大和なかった事は明らか
ゆえに卑弥呼のいたなかった女王國は九州というのがシンプルな結論
ついでに書いておくと、椚はクヌギって読むんだよ
ウツギもクヌギも、クシフルにかすりもしないだろ?
明治の人が何を思ってこれを書いたのか不明
>>344 >そして1万2千里は長里だという大和説の主張が 、
>赤道付近に行ってしまうので、崩壊してるのも十分わかっている
長里なんて言葉を使うのは、九州カルトの人だけ
あるのは魏晋里
畿内説は、萬二千里は淮南子の観念的な値を書いているだけだから、
現実の地理とは関係ない数字って言ってるんだよ
本当に理解力がないな、ザラコクはww
萬二千里は、おそらく遠距離の意味の「千里」に、十二ヶ月や十二支の「12」を掛けたものだろう
畿内説の根拠のない言い訳というか屁理屈には呆れるよね。
>>348のいつも一行だけで意味のないことを書いてるのも結局は連続句読点の同類だろ?
畿内説はイカン
物証が少ないくせに大風呂敷を広げる
都合が悪いと愚論で逃げまくる
>>1が良い例だ
コテハン付けずに名無し意味のない罵声を書きまくる
だめだこりゃ
張り付け
::::::::::::::::::::::::::::::
「やまと」の語源は諸説ある。
山のふもと
山に囲まれた地域であるからと言う説
この地域(奈良)を拠点としたヤマト王権が元々「やまと」と言う地域に発祥したためとする説
「やまと」は元は「山門」であり山に神が宿ると見なす自然信仰の拠点であった地名が国名に転じたとする説
「やまと」は元は「山跡」とする説
三輪山から山東(やまとう)を中心に発展したためとする説
邪馬台国の「やまたい」が「やまと」に変化したとする説
「やまと」は元は温和・平和な所を意味する「やはと」、「やわと」であり、「しきしま(磯城島)のやはと」から転訛して「やまと」となり、後に「しきしま」がやまとの枕詞となったとする説
アイヌ語で、“ヤ”は接頭語、“マト”は讃称で、高貴を意味する“ムチ”や祥瑞を意味する“ミツ”等と同根の語とする説。
ヘブライ語で「ヤ・ウマト」=「神の民」とする説
狗邪韓国(金海)から末蘆国(唐津)までの距離200kmあまりを1500kmと主張する馬鹿畿内説。
>>565 >三世紀の前方後円墳は畿内にしかないよ <
畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
大和の前方後円墳は3世紀末の石塚頃が始めだし、
3世紀にも筑紫には、那珂八幡から一貴山銚子塚などの沢山のにも前方後円墳がある。
>そして畿内の名称を用いるべきではないとするなら九州説はどうなのか<
倭人は、燕の南時代から、中国の九州の中の部族であった、という事を知っている。
>九州説をウソの塊で言いがかりつけ説とそちらが改めるなら<
九州という文言は、燕の南時代からの自己呼称であるから、改めない。
>こちらもそれに従って
畿内説を考古物象と史料と科学的測定を統合して邪馬台国と確定説と改めよう <
畿内も邪馬台国も、存在もしない嘘つき騙し文言であるから、×。、
>>355 >九州という文言は、燕の南時代からの自己呼称であるから、改めない。
と言い張る九州説はウソの塊
>>566 >その“短里”を1万2千余里の距離に当てはめ、邪馬台国の地理的位置を求めようとするのだから、1万2千余里から離れていないのは変わらない。
実際の邪馬台国を探すのには、「1万2千余里」を無視しなければならん、ということだよ。<
淮南子は、10尺棒での「一寸千里の法」を使っているから、周代の周髀算経の一寸千里を知っており、
従って、淮南子は(長里論者ではなく)短里論者だよ。
また、倭人の一部が燕の南から九州付近に移住し、呉王夫差の遺民や徐福らが九州付近に移住した、
という情報も知っていた可能性も高いから、
淮南子自身が、「短里」論者であったんだよ。
九州説は論破されたから嘘ついて悪口書くしか無くなったのだろうな
>>567 >絶対に証拠を出さない九州説男がまたウソをついている <
「南→東」などの嘘吐き騙しの証拠を、絶対に出さない大和説者が、
また、変な日本語で、史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しのウソをついている。
>>355 古代中国の九州の定義
『尚書』禹貢による九州は、
冀州、?州、青州、徐州、揚州、荊州、豫州、梁州、雍州を指した。
『爾雅』釈地による九州は、
冀州、豫州、雍州、荊州、揚州、?州、徐州、幽州、営州を指した。
『周礼』職方氏による九州は、
揚州、荊州、豫州、青州、?州、雍州、幽州、冀州、并州を指した。
倭は入ってないね
また九州説の嘘がバレた
やっぱり嘘で固められた説に改名した方がいいんじゃないか
そうすれば少なくとも1つは本当の事を言ってる事になるから
>>568 >帯方より南1万2千里が邪馬台国は
別に畿内説に何も都合が悪くないけど<
「帯方より南」ではないし、邪馬台国も畿内も史料事実に存在しない文言であるから、
この大和説男?も、×人間。
>神仙思想で書かれた淮南子に由来する架空の世界の果てまでの数字で <
淮南子は「神仙思想」ではないし、「架空」でもなく、
周代の周髀算経の思考を近似的踏襲をしているだけだから、この大和説男?は、×。
>邪馬台国までの距離を指す数字ではない事は明らかだから 畿内を指すわけないよなあ<
賛成。
>九州北部を指しているならそこは逆に邪馬台国じゃない事の証明だなと思うだけだ<
九州は、淮南子の「萬二千里」にぴったしだ。
>>569 >それが何なんだ?
畿内説が畿内説と名乗っちゃいけないという理不尽な言いがかりの理由になるのか?
まるで関係ないことだ <
畿内なんて存在もしていなかったし、
大和は、「正北抵新羅」の倭国ではないし、
倭国から別れた別種の旧小国であるし、
九州倭国の「東征毛人五十五国」の中の一国であり、
白村江の後で、母国を併合吸収継承して701年頃に関東以西の盟主になっただけだから、
畿内説は×。
>>570
>弥生時代後期の畿内社会は,河川ごとに拠点集落が分布し,
それらが並立する中期までの弥生社会を大きく変化させ,
それまでにない広域の地域圏を生み出している。
こうした地域圏の形成は,畿内における独自の動きではない。
弥生時代後期には,北陸や東海までの西日本の諸地域で,
同じように広域地域圏の形成が進む。
畿内圏の形成も,こうした西日本で共通する変革であり,
弥生後期社会の本質は西日本における広域の地域圏形成にある。
「倭における国家形成と古墳時代開始のプロセス」(岸本直文)<
岸本も、九州倭国の「東征毛人五十五国」があった事を隠蔽しているから、
嘘吐き騙しの・・・・詐欺師学者である。 >>571 淮南子が周代の一寸千里を踏襲した短里論者であった事を知らず、
1万2千里が短里である事も知らず、
女王國は大和と主張しているのが、大和説だろ?。
九州説側は、ハナから、1万2千里は短理での実測の数値として、
鼻で笑ってたぞ。
>>573 そうやって、「南→東」の嘘吐き騙しや、
「萬二千里」が長里だ、とかのウソの数字を振り回すから、
教科書の大和説は、国民に信用されない。
>>577 ほらな 大和説は、
なにの証拠も出せないで、ヘイトスピーチばかりする・・・・詐欺師人種。
>>578 倭国の別種の旧小国の大和日本国がダメ、なのは始めから自明であり、
倭人は、燕の南時代から「中国の九州」に由来する九州の国だ、と認識していた、
と言うことに、とことん気が付かない大和説の脳。
>>580 大和説の思考は、やっぱり根本的に平和共存を目指す日本的思考と相容れんな
儒教的思考だと歴史を都合よく書き換えて当たり前なんだろうけど
世界の普遍的常識から隔離され非常識な社会で千年過ごすうち
病変した万世一系皇国観思考が常態化してしまった悲惨すぎる部族
早いとこ、心を入れ替え、、常識を身につけなければ周囲と衝突をくり返し
最終的に人類から排除されるのが定め
>>354 >狗邪韓国(金海)から末蘆国(唐津)までの距離200kmあまりを1500kmと主張する馬鹿畿内説。
畿内説は、渡海距離は測定方法がないから、遠い距離という意味で
一律に千里としていると言っているんだが?
現実の地理とは直接の対応がないし、そこに現実の距離単位を当てはめるのも無意味
存在しないレス番号に向かって意味不明の罵倒を繰り返すザラコク
>>582 「畿内」という701年頃以前には存在もしない文言を、
昔から教科書にも載ってるから、なんて嘘吐き騙しをして、
大和が、九州倭国の別種分家の旧小国であった事を否定するのに
ひとことも理由を言えない大和説者の、脳の異常さ
ERROR: We hate Continuous...
連投ですよ
問い合わせID:4a38717f9e2da59c
ホスト:219.115.235.241
名前: 日本@名無史さん
E-mail:
内容:
>>583 はい、また大和説者は、
「南→東」などの嘘吐き騙しについての、
何も証拠を出しませんでした
倭人伝の全体里数(帯方郡〜女王国): 1万2000余里(漢代の淮南子を援用)
(実際の内訳)
帯方郡〜(水行)〜狗邪韓国(7000余里)
狗邪韓国〜(渡海水行)〜末盧国(3000余里)
末盧国〜(陸行)〜女王国(2000余里)
末盧国の港(唐津)は、河口から約4q遡上した中原津。
東南陸行500里で到る伊都国は、佐賀川上大願寺のゐ寺(伊寺)遺構。
東行100里で至る不彌国は、佐賀三根郡の吉野ケ里一帯。
この吉野ヶ里の南方に、投馬国(西都市都万)あり、則ち水行20日なり。
同様南方に邪馬台国女王之所都(1400里・肥後熊本)あり、則ち水行10日と陸行1月なり。
(注:水行の前に「則ち、…ここまでの込み入った行程説明を要約して端的に言えば…」を補って読むと分かりやすい)
>>585 >臺は台の旧字体<
3世紀頃までは、意味も使用例も「別字」。
>邪馬臺國は後漢書隋書その他史書の出てくる<
後漢書の邪馬臺國は、魏志の邪馬壹國とは別対象の文言であり、
それを誤読した後代史書の隋書その他史書の、自己解釈に拠る「魏志記載の高慢な書き換え」は、
根拠にならず、×情報。
>三角縁神獣鏡には景初や正始など239〜240年の三世紀の魏の年号が記銘されている<
明帝の下賜は景初二年だから、景初三年以後の年号鏡は、明帝の下賜鏡ではない。
>会稽東治の東は台湾や沖縄辺り <
会稽東治は、上海付近から江蘇省の海岸付近になるから、ほぼ九州付近。
>邪馬台国の考古物象は畿内がはるかに有利なのは昔から定説<
邪馬台国も畿内なんても存在もせず、
考古物証においても、北部九州の方が大和よりもはるかに先進的であり、弥生銀座のように中心的・
>>586 果たして、
「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソ付き騙しである事がバレている大和説は、
どうしたらこのスレに粘着するのを諦めるのか?。
とっくに論破済みの嘘書く事しかできていないのに。
>>588 大和説とは、
万世一系八紘一宇の皇国史観儒教精神や、
唯我独尊タカ派のキョクウ殺人戦争狂の、
やくざ暴力団の自民党政府から発せられる怨念。
常識的な世の中で奴らは生きていけない 。
反常識的な存在だから。
>>590 ほらな
また「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
なにひとつ証拠を出さない
異常だな
>>595 >畿内説だと万世一系の可能性があるよね。<
畿内なんて、大和が九州倭国を併合吸収継承した701年したごろ以後の思想文言であり、
それまでは、九州倭国が西日本の盟主であったのであるから、
万世一系支配説は、×。
>前方後円墳を持つヤマト王権が邪馬台国だと主張しているわけだから。<
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であり、
前方後円墳も、九州倭国が晋や高句麗などを踏襲した墓であり、北部九州が先行し、
大和は、九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の将軍らが3世紀末に、
北部九州の墓習慣をに持ち込んで、薄葬令に関係なく巨大化したもの。
>>598 >九州説もあるよね 朝貢してたのは九州の女酋長 <
「正北抵新羅」などによって、倭国は北部九州。
>その頃からの畿内支配者大和朝廷とは関係なしと<
大和は、九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一国であり、
畿内も大和朝廷も関係なく、存在もしない。
>万世一系がどうとかと邪馬台国がどこかは特に関係なし<
大和天皇家の万世一系八紘一宇の皇国史観なんて、存在もしておらず、×。
三国志は儒教精神で書かれた史書である。
神獣鏡は道教の鏡であり、魏晋王朝はどちらかと言えば道教を嫌っている。
道教を鬼道と記しているからね。
その、王朝から、道教の鏡を朝遣してきた倭国に与えるわけがナイ。
中国の考古学者が言うには、洛陽で神獣鏡が作られるようになるのは、呉が滅んだ後、
呉の鏡職人が分散して楽浪や洛陽に行ってからだという。
魏晋の朝廷では道教は嫌われていたが、家臣にはひそかに道教を信仰していて、神獣鏡の需要は有ったらしい。
呉が滅んだのは280年の事だから、その後だね。
ホケノ山から画文帯神獣鏡が見つかっているから、ホケノ山古墳の築造時期は290年以降になるだろう。
ホケノ山の鏡は楽浪鏡と言う、楽浪郡で作られた鏡だから。
箸墓は4世紀以降の築造だよ。
>>383
箸墓は未発掘だからともかくとして、ホケノ山古墳は倭国(阿波)による造形物。 @阿波 >>383 鬼道と呼ばれた初期道教教団の五斗米道の第3代教主張魯を
曹操は鎮南将軍に任じ、閬中侯に封じて賓客として処遇した
また、張魯の5人の息子もそれぞれ侯に採り立てた
娘は曹操の第9子である曹宇に嫁いだ
曹操軍の中核の青州兵は
初期道教の一派の太平道の主力の軍団
>>383 >魏晋の朝廷では道教は嫌われていたが、家臣にはひそかに道教を信仰していて、神獣鏡の需要は有ったらしい。
まるきり真っ赤なウソ
曹操本人からして崑崙山で仙人に会う話を詠んだ詩を書いてる
九州説は
畿内説に反抗できるなら
どんなウソでも平気でつくなあ
>>600 >前方後円墳を持つヤマト王権が邪馬台国だと主張すると
なんで万世一系の可能性があるんだ?<
701年頃の、大和天皇家が母国の九州倭国を併合吸収継承して、
列島の「盟主支配者」になった事を隠蔽して、敢えて、
弥生末から古墳時代から大和が西日本全域の盟主であった、
という嘘つき騙しをする事は、そりゃ、
「大和天皇家が万世一系に列島支配者であった」という皇国史観そのものだ。
論理性のない大和説者の脳の思考は、全くの無能だなー
>>389 >弥生末から古墳時代から大和が西日本全域の盟主であった、
>という嘘つき騙しをする事は、そりゃ、
>「大和天皇家が万世一系に列島支配者であった」という皇国史観そのものだ。
つまり
「大和天皇家」とか「万世一系」とか相手がまったく言っていないことを
捏造して畿内説が皇国史観だということにする
というわけだね?
九州説の捏造体質はひどいものだ
>>384 畿内地域の古墳の石材調査が進むにつれて、倭国(阿波)の結晶片岩を石室や葺石に用いた前期古墳の事例が増加してきた。
大阪府の「闘鶏山古墳」、「将軍山古墳」、「鍋塚古墳」、「牧野車塚古墳」、神戸市の「西求女塚古墳」などが典型例だ。
そして、そうした結晶片岩を使う事例が、畿内北部の淀川流域から瀬戸内北岸にかけての一帯に多い傾向もより明瞭になってきた。 @阿波
http://www.let.osaka-u.ac.jp/kouko/061018awaitano.htm 『阿波の青石(緑色結晶片岩)の石槨石材搬出状況』
・西求女塚古墳(兵庫)・五色塚古墳(兵庫)・紫金山古墳(大阪)・茨木将軍山古墳(大阪)
・弁天山C1号墳(大阪)・櫛山古墳(河内)・燈籠山古墳(河内)・松岳山古墳(奈良)・茶臼塚古墳(奈良)
・ホケノ山古墳(奈良) ・玉手山7・9号墳(奈良)・貝吹山古墳(奈良)
北條芳隆「讃岐型前方後円墳の提唱」(1999大阪大学考古学研究所 記念論集)より @阿波
石切場だからな
結晶片岩は加工しやすいが脆い
庭石に利用され、伊予の青石が最最良とされる
畿内の古墳は、倭国(阿波)の有力支配者たちによって、倭国(阿波)の技術(積石工法)、
主要資材(青石・水銀朱等)、副葬品(鉄器類・勾玉・土器等)を使って築造されたものである。 @阿波
倭国(阿波)の技術(積石工法)、 主要資材(青石・水銀朱等)、副葬品(鉄器類・勾玉・土器等)
やはり、こういう技術・資源・環境が整わないと、邪馬台国足り得ないんだよ、トンデモ説のみなさん。 @阿波
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
>>632 >>底本諸写本の方にも、その3文字しか差異はなかった、という事であり、<
>本当に嘘吐きだね。 「百衲本」と「書陵部本」の比較が3文字だろ。<
いや、同じ紹煕本だから、「都支國と郡支國」と「黄幢と黄憧」の2文字だ。
>でもな、土が𡈽だったり、梳も微妙に違う。 同じ版元ですらこれだけ違う。<
校勘対象にならない程度であった差異だ。
>「紹興本」だと對馬國、杍、滅や鏡の欠筆、異体字を入れればさらにある。<
紹興本は、張元済にも否認される位のレベルの「自己改変の多い」版本だ。
>>678 >7世紀まで海外の史書に登場していた倭国が、唐の時代に日本国と併記されて、<
ウソを付くな。「併記」ではなくで、武徳中からはr並立」だ。
>九州倭国8世紀以降には登場しなくなる。<
九州倭国は、平安後期の宋代まで、独立自立國としてふるまおう、としていた。
>国内の史料も7世紀以前のものがほとんど皆無に近くなる。7世紀を境に、古文と上古文に文法さえも違っている。
文化的断絶があるんだよ。 <
大和日本国の「禁書」のために処分された事と、記紀のために九州倭国の史料の盗用造作が行われたから。
>その正体が、九州北部にあった倭国の滅亡。<
新羅や渤海との国交が継続し、宋にも遣使を派遣しようとしていた。
>>717 >>(冢の形状大きさ<と薄葬令)孔明の冢や、馬韓の「居處作草屋土室、形如冢」や、楽浪太守の墓程度の封土で、
jun葬者奴婢百餘人が出来る程度であれば、 薄葬令に十分適う。<
>ほら、理解していない。「程度」問題ではない。 提示された墓は何の根拠にもならない。<
皇帝が、家臣の墓の大きさや厚葬のレベルを絶対規定する事など、あり得ない。
要は「程度」の問題だ。
>諸葛亮は文帝の賛同者か?違うだろ。<
厚葬を否定する点では、同じ思考だ。
>馬韓?いつの墓だ?<
魏代の話だ。
>楽浪太守の墓?どの誰の墓だ?時代が違うんじゃないのか? <
魏代の頃の墓だ。
>司馬懿の遺言を知ってるか?
「先是,預作終制,於首陽山為土藏,不墳不樹;作顧命三篇,斂以時服,不設明器,後終者不得合葬。一如遺命。」
首陽山には文帝曹丕の首陽陵がある。曹丕に陪葬を許可されたのだ。臣下として最高の名誉だね。
「不墳不樹」これこそ薄葬である。<
墳を否定しているのであり、「冢」の否定になっていない。
>>723 >小野妹子が行ったときは文帝は死んでるだろ<
釈日本紀が紹介した延喜講記には、
小野妹子が隋の文帝に「日本国」を名乗って否認された記載があり、
その遣使があった事が、新唐書にも証言されており、
従って、書紀の小野妹子の記載が嘘吐き騙しであった、という事になった。
>>383 画文帯神獣鏡は後漢の2世紀から造られ、3世紀にも継続して造られた。
ホケノからもこの鏡が出るが、だからといってホケノが290年以降の墓にはならんだろう。
>>357 1万2千余里と実際の邪馬台国の位置とは、無関係。
無関係なのだから、1万2千余里をいくらひねくっても、邪馬台国の市とは関係ない。
後漢書でわざわざ楽浪から万二千里に訂正してるんだから
意味はあるんじゃないの?
>>406 ま、そうひねくらなくてもいいんじゃな〜い。
邪馬台国の市とは、無関係と思えないけどね。
倭人伝の全体里数(帯方郡〜女王国): 1万2000余里(漢代の淮南子を援用)
(実際の内訳)
帯方郡〜(水行)〜狗邪韓国(7000余里)
狗邪韓国〜(渡海水行)〜末盧国(3000余里)
末盧国〜(陸行)〜女王国(2000余里)・・・海峡幅の2/3くらいなんだから、そこいらに転がっていると思うよ。
>>727 ほら、この大和説者は、
「南→東」などの嘘つき騙しの証拠をまったく出せないし、
書紀が、小野妹子の派遣先や、裴世清の国を、(隋ではなく)「大唐」と記載した、
というインチキをした事も、隠している。
だから大和説は亡んだ。
>>735 このスレで大和説の実態は、
「戦前の万世一系八紘一宇の皇国史観」という宗教的結論先にありきの、
非学問的な説であって、
政治的な意図がある事がわかってきたな。
>>739 「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソ付き騙しの大和説は、
全く根拠を提示しないデタラメだ、
と指摘されてるじゃん
>>743 大和説は
末盧からの「東南」が出発方向で「陸行五百里」が途中移動である事実と、
大和が「会稽東治之東」になく赤道付近になる事実などを、
指摘されて、壊滅状態だ
>>746 「南→東」などの嘘つき騙しの理由が言えないどころか、
こういうふうに、ウソを平気でつくから、
大和説は、国民の信用を決定的に失った。
今日も捏造工作に勤しむ九州説の滑稽な様子を楽しんでますよ
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
曹操も呉蜀に勝つ為には道教を利用しようとしたかもしれないが、信仰していたわけではない。
曹操が魏の皇帝だったわけでもない。
洛陽で神獣鏡が作られた事はない。
それから、三角縁神獣鏡のような出来の悪い腐れ鏡を皇帝からの下賜品として卑弥呼にくれるわけもない。
当時の倭国で作る事のできない鏡を下賜品にしたはず。
良い物をやるといったのだから。
卑弥呼の貰った鏡はこんなもの
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E9%8A%80%E9%8C%AF%E5%B5%8C%E7%8F%A0%E9%BE%8D%E6%96%87%E9%89%84%E9%8F%A1 >>769 >>新唐書は、九州倭国の卑弥呼も倭の五王も多利思北孤も白村江も書いていない。
という事は、それらは、大和日本国の事ではない、とはっきり区別していた事になる<
>旧唐書倭国伝は卑弥呼も倭の五王も多利思北孤も白村江も書いていない。という事は、
それらは、九州倭国とやらの事ではない、とはっきり区別していた事になるんだな?<
旧唐書倭国伝は、
倭國者、古倭奴國也・・・
去京師一萬四千里、在新羅東南大海中。依山島而居、東西五月行、南北三月行。
世與中國・・・
として、後漢書から隋書の九州倭国(俀國)の地であった事を示して、
その国が「世與中國」であった事を記しているから、
卑弥呼も倭の五王も多利思北孤も白村江も書いている事になる。
>>770 大和説は、
3世紀の筑紫に、陶器があり生産していたという史料実態を認めないトンデモ説。
まともな国民が相手にしないのは当然だ。
>>419 3世紀の筑紫に陶器があり生産してたなんて史料実態があるわけないだろ
その史料名さえ出さない九州説を
世間の誰も認めねーよ
>>417 >良い物をやるといったのだから。
>卑弥呼の貰った鏡はこんなもの
卑弥呼がもらったのは銅鏡百枚
鉄鏡を下賜されたなんて史料のどこにも見えないよ
>>772 >この時期の有棺有槨としては異例。<
有槨墓は、筑紫にも少しあり、吉備にもあり、
半島部族にもあって、伽耶に有棺有槨墓?を造った?から、
半島から新たな流民が、筑紫か吉備に渡来して来て、
そこで九州倭国の東征軍に参加して、大和を征服した、という可能性が高い。
>博多制圧殊勲者の特別な例とすべき。<
大和は、九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一国であるから、×。
>ホケノの3世紀中頃は確定。<
ホケノは、前方後円墳で有棺有槨で庄内〜布留であるから、
3世紀中頃の卑弥呼の冢拠りもずっと後であり、3世紀末以後である事が確定。
>そもそも有棺有槨は、考古学で問題にされてない。 <
考古学者の怠慢。
>問題にされたのは、小型丸底壷の存在。 小型丸底壷は4世紀。
しかし、これは築造後の再供献だろうとされている。<
槨内のモノでは、「築造後の再供献」なんて事は有り得ない。
>>778 >>アメノタリシヒコ=用明天皇の情報は、日本の史書には記載されていない <
釈日本紀引用の延喜講記に記録されている。<
>証拠は? <
書紀には開皇末の遣使の記録がなく、延喜講記に記載されているから。
>>779 なにがあろうと、大和説に都合が悪い記録は、絶対に証拠に出さない
それが、「南→東」などの嘘つき騙しの詐欺師の大和説
>>782 >会稽=紹興市あたり
東治=東冶(福州市あたり)<
陳寿は、執筆時には、
分郡後に建安郡になった東冶を「会稽東冶」とは書かないから、×。
>紹興市あたりから福州市あたりまでの南北の範囲が、邪馬台国の南北の範囲に当たるだろう、というわけ。
陳寿の記述は、九州巨大島という想定。<
だから、「会稽東治」は、夏后少康之子封於會稽の「会稽」になり、
その「東治」は、杭州付近の東方の「上海付近〜江蘇省」の海岸付近だろう、
という事になる。
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
客観的に判断すると九州説がやや優勢
畿内説は反論のポイントがしぼりこめず四苦八苦している
>>424 そのくらい立派なものと言う意味。
三角縁神獣鏡などクズだろ。日本で作られたものだから、複製が幾つもある。
日本でまねする事など出来ないような立派な鏡だったはずと言うこと。
>>783 >いんや。
九州が南北に広大な巨大島だという古代中国人の固定観念を陳寿も書いただけ。
巨大島を想定すれば、すべて丸くおさまる。
無理な解釈をする必要がない。<
いんや。
魏使らは、当然きちんと計測した事を「余」を使って記録しただけであり、
陳寿や魏略も、その通りに書いただけ。
それをしないでさぼって、過去の情報などを忖度して、
いい加減な記録を書いて、後続の張政らや部下にバレて報告されたら、
(どこかの財務局の役人のように)、首が危なくなるもの。
嘘つき騙しの大和説者も、首の心配をしな。
>>788 これも、類スレ主の嘘つき騙しの「貼り付け」ね。
畿内説は鏡の年代も捏造している、
中国の学者が決めた年代を、畿内説に合わせて年代捏造するのが畿内説。
7期など中国の分類にない時期を捏造して、画文帯神獣鏡の年代を繰り上げ、ホケノ山の鏡の年代を古くした。
中国では後漢末頃には国が乱れ、鏡など作っている余裕はなくなったのだよ。
三国時代になっても戦争に明け暮れていたわけだから、鏡を作る余裕もない。
一方、日本では鏡を墓に副葬する習慣があって、鏡の需要は旺盛だった。
中国から鏡を輸入していた倭国では困って、模造鏡を作るようになった。
その事情を知っていたから中国の皇帝が「いいものをやろう」と言って銅鏡100枚をくれた。
それは画文帯神獣鏡ではない。
画文帯神獣鏡のような鏡が作られるようになったのは晋が中国を統一して、安定してからだ。
>>790 >会稽東治の東は、邪馬台国の位置推定。
倭國は、小倉から沖縄本島あたりの想定。<
上海と佐多岬が北緯31度の同緯度付近であるから、
「沖縄本島あたり」は、×。
邪馬台国畿内説を宣伝するために、韓国政府が雇用した、邪馬台国畿内説の宣伝係員の韓国人が、論破されてしまった。。。
>>797 >古代中国人は、そこに邪馬台国があると強固な観念を持っていたのよ。
だから、沖縄あたりまでの行程を堂々と大書したの。・・・<
まともな役人は、
計測もせずに、「固定観念」で大書なんて、首が危ない事を知っているから、
しないの。
>>438 皇帝も強固な固定観念もっていた。
皇帝がOKなら、みんなOK。
>>435 橋口達也のは洛陽焼溝漢墓6期の編年だろ
帯方郡ー倭国間と、洛陽ー会稽郡間は、だいたい似たような距離だ。
緯度もまあ似たり寄ったり。
(GPS級の正確さで言えば、帯方郡ー倭国のほうがやや北に依ってるかもだが・・)
陳寿は、地図上で倭国の位置を特定しようとしたのではない。
中国人に、倭国のおよその位置をイメージさせるため、両者の比較を以て「会稽東治の東」といったまでのこと。
>>803 >会稽から東冶までは女王国の推定<
260年に会稽郡からの建安郡の分郡があり、
陳寿の地の文は分郡の後だから、建安郡にある「東冶」を「会稽東冶」と書く筈がなく、
だから、「会稽東冶」は、後漢書の「自己解釈での書き換え」の失敗であった事になり、
「会稽東冶」を根拠にした論は、×。
>>436 会稽=紹興市→北緯30度15分9秒
屋久島→北緯30度15分12秒
佐多岬→北緯31度0分21秒
>>401 >校勘対象にならない程度であった差異だ。
差異や誤字は修刻する度に発生するんだよ。
>紹興本は、張元済にも否認される位のレベルの「自己改変の多い」版本だ。
「百衲本」の巻一〜巻三は「紹興本」を用いている。
「自己改変の多い」なんてでっちあげだね。
>>444 言うまでもないことだが、当時当然であったことは省略される。
倭国の位置を推定し、
中国本土との位置関係を記述するためには、基準原点が必要だ。
それには、三国志が保管され、読者・利用者も格別多かった当時都の洛陽を基準原点にして語るのが当然であったであろう。
>>403 >皇帝が、家臣の墓の大きさや厚葬のレベルを絶対規定する事など、あり得ない。
あり得ないねぇ。規定が無いなら、従う目標すら無いわけだねぇ。
「不封不樹」は文帝の意思。
>厚葬を否定する点では、同じ思考だ。
同じ思考ねぇ。諸葛亮が文帝の終制を知ったという文献でもあるの?
蜀には金が無かったし、清廉だっただけではないの?
>魏代の話だ。
馬韓で年代を確定出来ている墓があるの?
>楽浪太守の墓?どの誰の墓だ?時代が違うんじゃないのか? <
>魏代の頃の墓だ。
再度、楽浪太守の誰の墓でどの墓?言わないと確認が出来ない。
>墳を否定しているのであり、「冢」の否定になっていない。
屁理屈だねぇ。
司馬懿の終制は子孫が守った。
文帝(司馬昭)崇陽陵と武帝(司馬炎)峻陽陵は確認されている。
これらこそ薄葬だよ。
>>433 余をつけたのは、それらしくみせる修辞。
1万2千余里が「遠いところ」の慣用句なのは明らか。
この慣用句である1万2千余里を実測値としてあれこれこねくり回すのは、無駄。
>>806 >(テンプレは)行程記載を「元から間違いだらけ、誤認だらけ」と
証拠を挙げて示してある<
魏志倭人伝は、同時代の魏使らの実際の実地の見聞や近似的計測記録が元になっており、
現地の地理的状況と大体一致しており、
「元から間違いだらけ、誤認だらけ」だとは言えない。
それを「元から間違いだらけ、誤認だらけ」だとするテンプレスレ主や現代大和説学者らは、
やはり、(後漢書などの後代史書と同じように、
「自己解釈に拠る高慢な書き換え」をする半分×人間であった可能性が高い。
>>447 會稽までじゃなくて、會稽東冶のどのくらい東かわからない東だから
>>812 >このように なーんも証拠を出さないのが 九州説 <
このように、「南→東」や、
「都合の悪い記述を何でも間違いだ」として、
それの証拠を出さないのが、大和説。
>>815 >周旋五千余里は、魏晋1里434mでは、ちょうど沖縄本島往復の距離になる。
やけくそじや、こうはぴったりにはならん。 <
「1里434m」では、
韓の「方四千里」や、「七千余里」や「3海峡の渡海の千余里」などの、
距離が明確な区間では、
6倍位も違ってしまうから、×。
>>429 分割された建安郡は、晋の時代には建安、呉興、東平、建陽、将楽、邵武、延平の7県。
将楽以外はいずれも現在の福建省南平市付近。
この南平市は、現在の福州市の隣。
したがって、会稽を分郡した建安郡は福建省の1郡になる。
会稽東冶は紹興市〜福州市あたりが妥当。
>>820 これで、「南→東」などの嘘吐き騙しの言い訳のつもりなんだろうから、
ちゃんちゃらおかしいな
そろそろら大和説は滅亡
>>821 ほらな
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
まったく証拠が出せない
>>830 大和説の滅亡は確定だな
到底理屈に合わない不可解な考えを力でゴリ押し
そうする事自体が信念ですらある行動原理の集団なぞ
世界そして歴史から速やかに跡形もなく排除されるであろう
>>831 人類の理性や健全性に対する呪詛であり悪罵
その名も「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説
>>832 大和説は、
「南→東」などの嘘をつくから
否定されるね
>>834 「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
今さら後には引けねえ
50年も嘘を積み重ね、
ありとあらゆる所に反道理的思考と行動の証拠を残し続けた
破滅への道とわかっていても今さら引き返す事はできないのである
一番ダメージを少なくする方法は
今すぐ間違いでしたと説を引っ込める事のみだけれど
もうそれすらも出来ないんだろうな
哀れなものだ
>>838 「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
論理性のかけらも無いな
>>433 1里434mの魏晋里でもって、1万2千里であるパプアニューギニアあたりまで、どんなふうにして実測したとか。
1万2千余里は、「遠いところ」の慣用句だよ。
>>844 >3世紀の前方後円墳から鉄器はたくさん出てる <
鉄鏃が沢山出る大和の前方後円墳は、ホケノからであり、
3世紀末以後の墓。
>>453 だから、そんな七千里や三千里などを足した一万二千里を、実際の地理的距離に合うと考えるのがノータリンの証拠。
実測値であるわけがない。
>>432 そんな言いわけが通ると思っているのか
三角縁神獣鏡は魏晋鏡と同じ銅素材が使われている
卑弥呼が魏に使いを送った年と複数の史書に出てくる魏の年号
景初三年銘がある
もちろん国内コピー鏡もあるが
しかし倭国製としても魏の年号が入ってる事や
師出洛陽などの記銘などからこれは魏と繋がりがなければ作れない
>>449 都合が悪いことは全て無視するしかないんだ。
もう畿内説は成り立ちませんといっているようなもの。
都合悪くないわ
何回も説明してるし
1万2千里は淮南子に由来する架空の世界の果てまでの距離
それにちょっと余がついても実際の距離にはならない
子供がオレの小遣い1千億万円とか言ってるのに
1千億万100円と100円がついても本当の事にならないのと同じ
余をつけてあれば実際測った数値というところが
どろぼう偽書詐欺集団らしいな
「あれもこれも信用ならん」
それでは議論は進まない
結果、畿内説は根拠のない妄想を振り回すばかり
九州説はストーリーを語るけど根拠は出さないからな
この単語を使って文章を書きなさいって課題を延々と繰り返してるだけ
それ、まんま畿内説のことだね。
畿内説さんは自分語りするのがうざい。
>>466 当時、日本で銅なんか生産できず、みな輸入品だということをわかっていないアホの言説。
中国から輸入した銅で作れば成分が一致して当然。
畿内説の連中は脳みそが干からびているんじゃね?
魏の年号入りなんて、5世紀には中国の史書が日本にも伝わってきていて、卑弥呼の遣使も、返礼としての鏡100枚も日本で知られていた。
卑弥呼の鏡を偽装して有り難がった風潮もあったのだろう。
青龍三年鏡と言うのが有るが、龍の旁が犬になっている。
旁が犬になるのは北魏の時代。5世紀だ。
>>474 国内で製作された鏡は複数の銅素材の混合
中国から銅を輸入したのではなく、古い鏡などを複数溶かして作った
当然三角縁神獣鏡とは違った成分分析結果が出る
>>858 >卑弥呼の墓は径百歩、144mと書かれていて <
1里≒76.5mで、1里=300歩だから、径百歩≒25.5mになるので、×。
>これは3世紀では畿内の前方後円墳にしか当てはまるものがない <
前方後円墳は「冢」ではないので、卑弥呼の墓にはならず、×。
>>475 いわゆる犬龍鏡だが
他にも似た例もあり字のクセか略した書体というのが通説
北魏の時代というのは間違い
>>477 魏の1里は75mではなく約430m
1歩は約1.4mなので径百歩は約140m
>>862 >九州北部は通り過ぎて水行して邪馬台国に向かうと魏志倭人伝に書いてある<
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
不彌國で折れ線的道のり里数合計が萬二千余里にほぼ達しているので、
九州北部は通り過ぎて水行する、とも書かれていない。
>>451日本@名無史さん2019/02/04(月) 23:03:17.11
>會稽までじゃなくて、會稽東冶のどのくらい東かわからない東だから
ハハン、万事、畿内大和を起点に考えてるな
そして、會稽〜東冶のどのくらい東に倭国が有ると書いてないから、倭人伝の行程記事はでたらめだ。
だから・・、
行程記事を無視して畿内大和といっても何ら差し支えない、といいたいんだろうな。
>>474 錫の割合が製品毎に違うんだよ
合金の性質、冶金の技術はかなり高度で、弥生時代レベルの肉厚の銅鐸を
現代の鋳造技術では再現できないほど(削り出し加工なら作れる)
輸入銅製品を使って国内で鋳直したものは、いろんな材料をブレンドしてあるから
いろんな不純物のばらつきの範囲が広くなる
舶載鏡と仿世鏡は成分分析で区別できるんだよ
>>865 >一回の写本で発生する平均誤字が2文字だとすると、<
この大和説男は、始めからインチキしているから、×。
「1回の写本で発生する誤字が1文字」なのではなく、
校勘に供された全写本版本での合計差異数が2文字。
>その写本が一年回に何回か写本され、その複数ある第2次写本もさらに写本されていくので、写本回数は鼠算式に増え、800年間に発生する誤字率たるや驚異的になるはず。<
ならない。
>その中の版本直前の写本が抱えている誤字率たるや、藤堂シェンションの指摘どうりということになる。<
藤堂は、アホのインチキ詐欺師。
>このような鼠算式に増える写本回数を計算に入れていない主張は、信頼性に乏しいと言えるのではないかな〜。><
この大和説男もインチキアホ詐欺師なのではないかなー。
>>481
グダグダ言っても
末盧国 唐津千々賀遺跡など
伊都国 糸島三雲遺跡群
奴国 福岡比恵那珂遺跡群なのは動かない
この間が東南陸行五百里、東南・百里では、
方角、距離ともに合わないのは確定事項
魏志倭人伝の方角も距離もあてにならないのは
まともな思考力のある日本人には自明のことなんだよ
これをねじ曲げる珍解釈をでっち上げるのが九州説のスタート地点w
最初からでっち上げなんだから最後まで捏造説の域を出ない >>867 今時大和説唱えてる奴なんて、
中国に朝貢してると都合が悪いキョクウだけだろ
読売や産経や5chとかのキョクウマスコミばっかり読んで、
喜んでるんだろうな
クズも三角を舶載だというカスは、
さっさと証拠だせよ。
科学的な分析でわかるんだろ
笑
>>485 >あほか、そんなに判然と結論出るかよ
はいはい、反論したかったら具体的な反証を示してね!
ただの脊髄反射で書き込んでも意味ないよw
>>451 洛陽で倭人伝を書いた陳寿の立場で考えれば、
「帯方郡の東南1万2000里のところに倭の女王国があったという。
ならば、洛陽の東南1万2000里は、はたしてどこなのだろうか・・、
そうだ、それは夏帝の末裔が封ぜられたというあの有名な会稽郡に当るから、
其の東に女王国が有ったという理屈になる・・・。」
ま、ざっとこういうストーリーなんだけどな。
三角縁神獣鏡の後期バージョンは仿世鏡だよ?
それだけのことなのに、全量仿世鏡だと言い出すから頭が悪いww
>>869 >弥生中期後葉の鉄出土は、四国では高松が最も多い。 この鉄の移動は、出雲→岡山→高松の経路だろう。
一方、明石も多いが、これは丹後から南下する加古川ルートの経路だろう。
そして、阿波は、淡路と同じくらいに少ない。
その後、淡路と阿波に鉄器工房が造られるのは弥生中期末。 ぐんと遅れる。<
この男も、巧妙に?九州の鉄を省いているねえ。
弁辰の「國出鐵、韓、wai、倭皆從取之。諸市買皆用鐵、如中國用錢、又以供給二郡」であれば、
当然「倭」には九州経由がメインで運ばれるんだが。
>>871 >>写本群全体での合計「差異発生確率」が0.5%位以下。<
>根拠のない嘘だな 写本の「差異発生確率」なんて誰も調べていない<
版本での差異発生は、版刻の底本写本の差異発生とほぼ同じだから。
>>489 はいはい、判然と出てるなら示せるだろ。
罵倒に逃げて出来ないってことはお察しってことだよ
笑
>>486 >魏志倭人伝の方角も距離もあてにならないのは
重箱の隅をつついて、信用できないから自分たちで創作しちゃうのが畿内説。
>>903 >畿内には前方後円墳あって整備の行き届いた
建物郡もあるんだけど <
畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
前方後円墳も「墳」であっての、卑弥呼の墓の「冢」ではないから、×。
>>904 >後世歴史家は自己解釈による書き換えをするんだろ
魏略の方が成立は前だから
島の大きさの記載は陳寿の自己解釈による書き換え<
魏志と魏略は、ほぼ同時代史書であり、
陳寿は、魏略の記載を全くのように踏襲していないから、
陳寿は、魏使らの記録を見て書いた事になり、
ように「自己解釈に拠る書き換え」になっていない。
>>497 >陳寿は、魏略の記載を全くのように踏襲していないから、
証拠は?
>>477
>1里≒76.5mで、1里=300歩だから、径百歩≒25.5m
ちなみに、「天石門別八倉比売神社」裏手の円墳の径 約35mだよ。 @阿波 >>905 >距離が架空のものなのは九州説にとっても同じ
帯方から南1万2千里の位置に実際の邪馬台国はないんだから <
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙しだし、
不彌國で「折れ線的道のり里数記載」の合計がほぼ萬二千里に達しているから、
邪馬壹國女王之所都は、不彌國のすぐ南にある事になる。
だから、この男は、嘘つき騙しの・・・・詐欺師。
>>909 >1里76mの短里なんてなかったのは明らか <
魏志の韓や七千余里や海峡の里数記載から、長里では書かれておらず、
その6分の1位の短里で書かれていた事は明らか。
>魏志倭人伝は邪馬台国の位置を会稽東治(冶)の東<
違うな。
「東冶」は(会稽郡ではなく)建安郡に変わっていたにから、×だし、
邪馬台国なんても存在もしない嘘つき騙し文言であるだから×だし、
陳寿が書いたのは、女王國の位置推定。
>沖縄や台湾の辺りと記している 1万2千里を当てはめると1里140mだし
そこが邪馬台国じゃないのは一目瞭然 <
この大和説詐欺師は、1里140mで萬二千里が1680kmにして、
「南→東」の嘘つき騙しをして、大和説を唱えようとしているらしい。
>>911 >魏志倭人伝にそう書いてあるからだよ
邪馬台国は会稽東治(冶)の東 沖縄や台湾の辺りと <
陳寿の「地の文」だから、執筆時点での記載であり、
(建安郡の東冶になっていて)「会稽東冶」は存在せず、
「会稽東治」は上海付近から江蘇省海岸部になり、
だから、「沖縄台湾辺り」は、×。
>>912 >こんな地図だと 邪馬台国は会稽東治(冶)の東 でいいんじゃないの? <
後世の学者の「実地の確認のない、前史などへの自己解釈に拠る地図」は、
証拠にならず、「知的退化」をしている事を示しているだけ。
それは、この大和説男も同じ。
>>495
>重箱の隅をつついて、信用できないから自分たちで創作しちゃうのが畿内説。
この明確な事実が認められずにごまかしに走るのが九州説
末盧国 唐津千々賀遺跡など
伊都国 糸島三雲遺跡群
奴国 福岡比恵那珂遺跡群なのは動かない
この間が東南陸行五百里、東南・百里では、
方角、距離ともに合わないのは確定事項
魏志倭人伝の方角も距離もあてにならないのは
まともな思考力のある日本人には自明のことなんだよ >>477 >1里≒76.5mで、1里=300歩だから、径百歩≒25.5mになるので、×。
バカの極みww
「短歩」wwwwなんてないんだよw
「歩」は文字の成り立ちからいっても複歩
待機中
#1歩(あゆ)む。足をふみ出してゆく。
#2歩(ある)く。歩行する。
#3止は左足の足あと、𣥂は右足のあしあと。左右の足あとを連ねて歩行の意とする。武は半歩、歩は六尺、合わせて「歩武堂々」のようにいう。足を地に接して歩くことは、その地の地霊に接する方法で、重要な儀礼に赴くときには歩するのが常法であった。(字通)
#4右の足+左の足。左と右の足をふみ出すことを示す。(漢字源)
https://jigen.net/kanji/27497 説文解字
步,行也。从止𣥂相背。凡步之屬皆从步。
行くなり、止と𣥂の相背に従ふ、凡そ步の屬は皆な步に従ふ。
実際の大陸の度量衡でもすべて複歩の長さ
長さとしての歩は、古代中国の周代に制定された。
右足を踏み出し、次に左足を踏み出した時の、起点から踏み出した左足までの長さ
(現代日本語でいう「2歩」)を「1歩」とする身体尺
周歩=約 1.35 m
秦漢歩=約 1.38 m(始皇帝の度量衡の統一)
魏晋歩=約 1.45 m
隋歩=約 1.77 m
唐歩=約 1.56 m(1歩=6尺から1歩=5尺に変更)
>>499
>ちなみに、「天石門別八倉比売神社」裏手の円墳の径 約35mだよ。 @阿波
という時点で、卑弥呼の墓の候補からは完全に外れるなw >>915 >そう雑な地図だと会稽東治(冶)の東は畿内も示してるように見えるなあ
まあ帯方より南で会稽東治(冶)の東をその地図に正確に当てはめたら
何もない海上になるけど <
畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
大和は、
不彌國で萬二千余里がほぼ終わってしまっている事と、「南≠東」などに拠って、×。
>>494 >はいはい、判然と出てるなら示せるだろ。
ほいよ
舶載鏡とされるものが三国・西晋時代の領域で、古墳時代の国産鏡が
材料のブレンドの結果広い範囲に散らばってるのが判然と出てるだろ?
>>905 >距離が架空のものなのは九州説にとっても同じ
>帯方から南1万2千里の位置に実際の邪馬台国はないんだから <
こりゃ、明らかに逆だな。
先に、帯方郡と女王国間の距離を1万2千里と定め、
その後で、各区間に7千里・3千里・2千里と適当に割り振ったのだ。
女王国までの1万2千里はぜったい正しい。 なんせ簡単な手品なんだからなww
>>917 >国境「帯方」より南1万2千里は元々は
淮南子という神仙思想書に出てくる空想的な世界の果てまでの数字で
邪馬台国までの距離を示すものではない <
魏使らが、「空想的な世界の果てまでの数字」を記録する、なんてインチキをして、
部下や後続の張政らに拠って確認されて、皇帝らにバレれば、
そりゃ、魏使らの首が危ないから、
魏使らはそんなインチキはしない。
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
>>918 >そこを南1万2千里にある邪馬台国と魏志倭人伝は記しているので
魏志倭人伝の距離方位は事実と違うことがわかる <
邪馬台国なんて存在しない嘘つき騙し文言であるし、
魏志は「不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている」記載をしており、
女王國が沖縄台湾にあるような記載をしていないので、
この大和説男も、都合の悪い魏志記載を「否定曲解して抹殺しよう」としているから、
嘘つき騙しの・・・・詐欺師である、という事が判る。
>>923 >漢の時代に書かれた淮南子に準じたのなら
1万2千里は邪馬台国までの距離を計ったものではなくて
架空の世界の果てまでの数字を拝借したもの
指してる場所は当然邪馬台国とは違う場所になる <
魏使らは、「淮南子に準じる」というズボラなインチキをして、
部下や張政らに拠って、皇帝らにバレれば、首が危ない事を知っているから、
きちんと計測した里数を記録するもの。
勿論、大和説者や各省庁の役人たちのように、
学会や政府に忖度したインチキをしてバレれば、
勿論、首が危ない。
>>927 >魏志倭人伝は1万2千里にある邪馬台国を 会稽東治(冶)の東、沖縄や台湾辺りと記している
そこは当然邪馬台国ではないので 魏志倭人伝の距離方位記載は正確なものではないと理解できる<
これは、例の「沖縄台湾」論の大和説者の嘘つき騙しの貼り付けだから、放置。
しかしの大和説者って人種は、どうしてこう嘘ばかりついてられるのか、
そら恐ろしさすら感じる
大和説の病理的思考は人類への害悪
いずれは滅ぼし去られるだろう
>>929 大和説者へのアドバイス
「南→東」なdのような、
嘘をつくのは悪いこと
>>934 つまり大和説は、
唯我独尊の高慢な国家国粋の人種差別的殺戮戦争狂的な、
キョクウ宗教思想から古代を論じるって事だろ?。
キモいな。
>>927 >魏志倭人伝は1万2千里にある邪馬台国を 会稽東治(冶)の東、沖縄や台湾辺りと記している
>そこは当然邪馬台国ではないので 魏志倭人伝の距離方位記載は正確なものではないと理解できる<
陳寿は手品師だ。
先に、帯方郡−女王国間を1万2千里と決めて、それから内訳を割り振ったのだ。
答えが合うにきまってる。
それなのに、あの陳寿めは間違ってるに違いない、というさもしい前提で読んでも面白うないだろう。、
>>513 皇帝もちゃんと1万2千余里を「遠いところ」の慣用句だと承知していたから、問題なし。
>>493 >版本での差異発生は、版刻の底本写本の差異発生とほぼ同じだから。
調べて比較していないのだから、ただの希望だね。
>>502 会稽は会稽地方=紹興市付近。
東治は東冶の間違い。
東冶は福州市付近。
会稽東治(冶)の東=会稽から東冶までの南北範囲のその東方。
屋久島あたり〜沖縄本島あたり。
>>501 「魏志の韓や七千余里や海峡の里数記載から…」
古田は、巨済島〜対馬約70kmを千里で割って1里70mくらいと計算し、それを“短里”と称して1万2千余里の辻褄を合わせた、というだけの話。
捏造だわな。
それに乗って、おもしろおかしく騒いでいる“短里”論者は、お遊び。
「倭人在帶方東南大海之中」だから
屋久島〜沖縄本島の東だな
中国史は通して畿内の邪馬台国がそのまま平安時代の政権に繋がってると認識している
端から九州説も九州王朝説も存在しない
はい、さようなら
>>942 >後漢書における「其國萬二千里」は、北部九州を経由していない<
また変な事をいう男が現れたなあ。
まあ、また「南→東」などの史料事実の否定曲解をする、
嘘つき騙しの大和説者なんだろうなあ。
邪馬台国畿内説を宣伝するために、韓国政府が雇用した、邪馬台国畿内説の宣伝係員の韓国人が、論破されてしまった。。。
>>943 >>見事に倭国から日本国に切り替わっているよね。
中国は九州の倭国と畿内の日本国を別の国だと理解していた。<
>どうしてそうなる? 同じ国の名称が変わっただけだ<
唐会要を見てごらん。
倭国伝と日本国伝とを、全く離れた別の場所に書き分けおり、
しかも、同じ時期の頃の別の事件を、それぞれの国に書き分けて記録されていて、
全く別の国である、というような書き方になっている。
>>492 中期後葉頃には、山陰は朝鮮半島へ直接渡って鉄材を入手するようになっており、この頃には九州からの鉄材入手に頼らなくなっていた、との研究結果がある。
その結果、九州博多では鉄材がだぶつき、熊本方面へ販路を広げたとされる。
後期に入ってからの山陰の繁栄は、この独自ルートの成果。
当然、後期には岡山も明石も山陰の勢力圏に入る。その岡山や明石の鉄をわけてもらったのが淡路や阿波の鍛冶工房。
>>960 >南朝宋の後漢書では、倭人伝の「其南有狗奴國」を
「自女王國東度海千餘里至拘奴國雖皆倭種而不屬女王」と
東に修正している <
5世紀に書かれた後漢書は、本来は、魏の前の後漢代の歴史を著述する筈であるのに、
魏志に書かれた女王國の南の狗奴國を、魏志の文言を借用して、
後漢代に「自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種」であったかのように書いて、
拘奴國が後漢代に「自女王國東度海千餘里」にあったかのように記載しており、
後漢代に女王國なんて存在もせず、
また「拘奴國」を記録した文献があった可能性も全くなく、
この点からも、後漢書への信頼性が非常に失われる事になり、半分×書になる。
>>527
>その岡山や明石の鉄をわけてもらったのが淡路や阿波の鍛冶工房。
考古学を無視してまで(無知?かも)、妄想を書き散らかしてはイカンぜよ。 @阿波 >>529 九州説はよっぽど後漢書に書いてあることが都合悪いんだな
>>961 >なら史実に沿って邪馬台国は畿内と認めるんだな
3世紀の畿内人が畿内の邪馬台国に居ながら邪馬台国は九州だなんて言ってないから<
畿内も邪馬台国も3世紀の史料事実には存在しないの嘘吐き騙し文言だし、
大和は、「南≠東」などに拠って、始めから×だな。、
陳寿の倭人伝は5世紀の裴松之の時代には既に
詔書の内容ですら「絳地」に書写の誤記が指摘されてるので
その後評価が低い時代が続き、12世紀の民間版本時代には
中国史にとってはどうでもいい倭の記事は
東スポレベルの評価になっていた可能性がある
>>966 >記紀及び魏志倭人伝に書いてる史実と違うようだが
それらから読み取れるのは倭国大乱は2世紀末
さてはお主ニセ畿内人だな <
畿内も、倭国大乱なんても、存在しなかったし、
倭國亂なら、3世紀初め。
さては、この投稿者は、大和説の・・・・偽学者だな。
中国人って原本を大切にしないから困る
インドから持ち帰った経典も翻訳したらもう要らないので廃棄したそうだし
>>967 >肥後の土器は厚手で畿内の庄内式を模倣した博多湾岸の影響を受けてないから
交流があまりなく、おそらく言語が違っていたと考えられる<
「畿内」なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
「畿内の庄内式を模倣した博多湾岸の影響」というのも嘘吐き騙し。
実態は、肥後は「筑紫の庄内式を模倣した大和の影響」を受けていない、が正解。
>>980 >魏晋の1里は434mなんだがなあ〜。<
魏志や江表伝などに拠って、×。
>ちょうど沖縄本島往復の距離になる。
沖縄あたりは、会稽東治(冶)の東なので、倭人伝の記述通りだ。<
分郡後の晋代の陳寿の「地の文」での説明だから、
「会稽東冶」はあり得ないから、×。
>1里76.5mなんて有り得ん。<
6倍も狂って、赤道付近にまで行ってしまう、
「1里=434m」の長里など、有り得ん。
>>984 >>でも実際には旧唐書に別の国として書かれている。<
>本当にチェリーピッカーだよなww <
本当に、類スレ主はチェリーピッカーの・・・・詐欺師だよな。
>旧唐書の倭国伝読んだことあるのか?
又遣新州刺史「高表仁」持節往撫之。
日本書紀の舒明天皇紀に
四年秋八月、大唐遣「高表仁」送三田耜、共泊于對馬。是時、學問僧靈雲・僧旻・及勝鳥養・新羅送使等、從之。冬十月辛亥朔甲寅、唐国使人「高表仁」等泊于難波津、則遣大伴連馬養迎於江口、船卅二艘及鼓吹旗幟皆具整飾
とあるでしょ?
九州説お得意の旧唐書の倭国伝の倭国も大和朝廷なんだよ<
旧唐書は、
「貞觀五年、遣使獻方物。
大宗矜其道遠、勅所司無令歳貢、又遺新州刺史高表仁持節往撫之。
表仁無綏遠之才、與王子爭禮、不宣朝命而還」
というように、倭国では 「、與王子爭禮」と争って、不宣朝命而還としているが、
(武徳中に日本国の国号を認められた)大和の書紀の記録では、
全く「争わず」、書紀友好的に終わっているから、
別の国としての記載とし、書き分けられている。
>>986 >九州説に人はそれにすがりついてるけど、東渡海千里「皆」倭種なんだよ
渡海前も渡海後もみんな倭種 そもそも倭人は「倭種の人」のこと
周辺の島嶼部も含めて日本列島周辺は倭人の領域であることを示しているだけ<
違うね。
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」だから、
「女王國と倭種」とを、書き分けていて、違うものだ、としている。
「皆」とは、その直前の「復有國」を指す。
>>989 >魏志倭人伝のコピペと最近(唐代)の文化風習、それに高表仁の倭国訪問記事くらいしかない
高表仁の倭国訪問は日本書紀の舒明紀でも確認でき、この倭国が大和朝廷なのは明白 <
高表仁は、旧唐書倭国伝では、「與王子爭禮,不宣朝命而還」というように、王子と争っているが、
書紀では、全く「争いは発生しておらず、仲睦まじい」記載だから、
全く違う記載であり、
あり得た事は、高表仁は、九州倭国と大和日本国との、両方とも訪問したことになるだけ。
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
>>74 >(正北抵新羅)この文章は大陸や朝鮮半島側から見た内容であり、
朝鮮半島に最も近い大和王権の領域が百済と新羅に向っていると地理的認識を示しているもの。
大和王権の都がどうこういう地理的認識でないことは、明らか<
ダメだ。
この文は、始めから唐会要が「倭国伝と日本国伝」を区別し、
「違う国である」というように、全く離れた場所に並列して書かれたモノである内の、
「倭國伝」の方の記載であり、
従って、「正北抵新羅」は、(大和日本国の位置説明ではなく)、倭国に関する位置説明の文言であり、
だから、倭国が(大和ではなく)北部九州にあった、という事の根本的な証言になるのだよ。
>>542 >高表仁は、旧唐書倭国伝では、「與王子爭禮,不宣朝命而還」というように、王子と争っているが、
>書紀では、全く「争いは発生しておらず、仲睦まじい」記載だから、
>全く違う記載であり
問題をなかったことにしただけだ
唐側も問題をなかったことにして
高表仁に外交官の才能が無かったと記録した
前原は伊都国じゃない。
あそこは奴国の墓場さ。
纏向も邪馬台国の首都ではない。
あそこも墓場で、人が住んだ形跡がない。
どうして墓場を主都とかに比定したがるのかよく分からない。
>>78 >(祇園山)ただの共同墓地だよ <
いや、共同墓地なら、墳裾の62個の全墓は、
大体一定方向を向くように埋葬されるか?、自由自在な向きに埋葬されるか?、するものであり、
祇園山のように、墳頂の石棺に対してぐるりと一周、
側面が正対するような配置を採るものではなく、
また、共同墓地のように後から別の墓を掘れば、当然前墓との重複や損壊を伴うものであるが、
それも僅かに2例に僅かに見られただけであり、
共同墓地のような、家族氏族が違えば墓の大小などの差異がある訳でもなく、
大体、同じ位の墓であり、
また、1年に一人の被葬者というあり得ない場合があっても、
合計63個の複数埋葬を含めて百年位がかかるし、
1号甕棺のように、祇園山の冢を形成する前に、殉葬された墓があるから、
それは、全埋葬がほぼ同時期埋葬であった事を示し、
更に、100m位離れた場所に、別に「祇園山古墳群」という共同墓地が存在しているから、
だから、祇園山古墳自体は、共同墓地ではない。
>>79 >殉葬は奴婢を生き埋めにするものと日本書紀に書いてるよ
棺に納まってるなら埋葬だな<
祇園山は、当然(生き埋めではなく)「殉死後の埋葬=殉葬」だな。
中国は邪馬台国から平安時代に至るまで畿内の勢力の継続を認識している
最初から九州説も九州王朝説も存在しない
はい、さようなら
九州から畿内への渡来が正しいんではないか。出雲族が神武より速く国造りをしていたようだが。三重まで船で渡って、畿内入りした説まである。
なぜ九州説はまっっ・・・ったく理由を言わないのだろう
>>547 >1号甕棺のように、祇園山の冢を形成する前に、殉葬された墓があるから、 1号甕棺のように、祇園山の冢を形成する前に、殉葬された墓があるから、
殉葬だって証拠は?
1万2千里で女王国
1万2千里未満の九州は女王国でさえもない属国
>>544 最後の1行が、あらぬ方角へ飛躍。
ホップ、ジャンプ、ダメ。
>>93 >>沖縄の古代の遺跡からの遺物から国外との交流も確認できるし
隋書「卷八十一 列傳第四十六 東夷傳 流求國」にみられるように
沖縄と中國とは古代より交流があり、 倭国とは明確に分けていたのではないのかな<
>⇧ その通りです。陳寿も知っていたはずです。
「会稽東治の東」は九州もしくは「日の昇る方向」ぐらいの解釈でよいでしょう<
漢書後漢書には、会稽海外の東テイ人20国の記載があり、
それは、海賦に依れば、
後漢最末期に後漢に遣使して「序に就いた」とする最後の記録もあり、
しかし、魏志には書かれておらず、おそらく魏使らは存在確認が出来なかった、
という事になる。
ただ、魏志には、博多湾岸の不彌國から南水行二十日付近に、
(卑弥呼共立の一国として)投馬國の存在を記載しているから、
卑弥呼の即位頃に、東テイ人の南九州付近の国が、倭人に負けて投馬國が出来た、
という可能性ならある。
>>537 6倍も狂う…というのは、ありもせん“短里”を基準とした6倍か。
お遊びもほどほどに、というお笑い。
>>530 鉄器の原材料の鉄鉱石、阿波で掘り出していたの。
他所には求めない。
自給自足の阿波だから。
>>97の訂正邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であり、
邪馬壹國は、不彌國の南にあり、
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている事と、至の前に移動の説明がないから、
邪馬壹國は不彌國と殆ど接している事になり、
不彌國のすぐ南に邪馬壹國の入り口があった事になり、
水行十日陸行一月は、目的地の女王之所都のの説明文言になるから、
郡から女王之所都への所要日数説明になる。
以上はそのまま。
「場所は会稽東治(冶)の東で沖縄や台湾辺りと記されている」は、削除。
>>526 >唐会要を見てごらん。
>倭国伝と日本国伝とを、全く離れた別の場所に書き分けおり、
>しかも、同じ時期の頃の別の事件を、それぞれの国に書き分けて記録されていて、
>全く別の国である、というような書き方になっている。
唐会要を見てごらん。
倭国伝と日本国伝とを、全く離れた別の場所に書き分けているし
しかも、同じ時期の頃の別の事件を、それぞれの国に書き分けて記録されているけれど、
登場人物がすべて畿内大和朝廷の官人であり、続日本紀など畿内大和の記録で確認できる
つまり、同じ国の同じ政府が、国号を変えただけだと分かる
>>99 >沖縄は楽浪系の滑石混入系土器や燕の明刀銭が出てる<
ふーん。
>>531 >九州説はよっぽど後漢書に書いてあることが都合悪いんだな
いや、後漢書には水行、陸行がないから、北部九州までで完結って
都合よく読むところだけは重視してるよww
だからザラコクも「半分」×書っていう言い方をしている
チェリーピッキングをあからさまにやります宣言w
>>531 河内讃の使節団のすっとぼけを丸呑みしたハンヨウの邪馬台国位置誤認を、そのまま信じていなさい。
しかし、歴史の真実がそこにないことだけは、確か。
まあ、信じる者は救われるというから、救いを求めて後漢書を信じていなさい。
>>559
>鉄器の原材料の鉄鉱石、阿波で掘り出していたの。
さすがの倭国(阿波)でも、それは無理。
たびたび大陸・半島と倭国(阿波)は往来し、鉄素材や中国鏡や中国朱などを交易してるんだから、そんなこと、どうでもよろしいがな。 @阿波 >>100 >後漢書始め魏志倭人伝の原本の失われる12世紀までは
魏志倭人伝を引用した各史書の倭人伝には邪馬臺國
邪馬壹國は12世紀になって倭人伝に初めて現れるから
その頃に生じた誤表記である事は明白 <
史料実態は、同時代の実地の見聞計測記録が最も信頼性や確率が高く、
後代学者や史家や現代大和説者らの「自己解釈に拠る書き換え」記載の内容は、
信頼性が全くなく、半分×書。
また、写本版本での差異発生確率は0.5%位であり、
それは、魏志であろうと後代史書であろうと同じような差異発生確率が起こり得る事であるから、
版本化時点での史書間の差異発生頻度は、後代史書の方が内容書き換えが多いのだから、
始めから問題にならない。
>>546 相変わらず九州説は脳内変換しまくりだな
>前原は伊都国じゃない。
>あそこは奴国の墓場さ。
王墓級方形台状墓が有名だから、情弱だとそう思う人もいるだろうけど
三雲遺跡群はいろいろな工房跡も出ている集落遺跡だぞ
墓地はその周縁部にあるだけ
奴国が自然国境の高祖山塊をまたいで存在すると考えるのはバカだけ
>纏向も邪馬台国の首都ではない。
>あそこも墓場で、人が住んだ形跡がない。
纏向遺跡は国家祭祀を行った特別な遺跡
そして、卑弥呼が祭祀王なのだから、卑弥呼の宮処で何も問題ない
>>526 >唐会要を見てごらん。
>倭国伝と日本国伝とを、全く離れた別の場所に書き分けおり、
九州説のこういう全く理由を言わないやり方って
つまり彼らは史料見てないんだよね
邪馬台国本ウケウリってこと
唐会要でも隋のタリシヒコの遣使に触れて同一の物としているので、どの道、邪馬台国から畿内で継続している政権として認識してる
九州説も九州王朝説も存在しない
はい、さようなら
だいたい唐代の文献に、倭と日本が別の国だとか言ってるバカな代物は無い
九州説は自らが批判してやまない後世の人の「自己解釈」wとやらを
おのれのトンデモ説の拠り所にしてるという
この笑える皮肉
>>567
>纏向遺跡は国家祭祀を行った特別な遺跡
国家祭祀? 祭祀遺跡も倭国(阿波)。 @阿波 畿内説の根幹はネ
どうしても天皇家を倭人(日本人)にしたいから
天皇家の先祖が渡来人だと困るから
アホ九州説は倭と日本の改名についてやたらと言いたがるが「その前のタリシヒコ(用明天皇)と後の平安時代の天皇は同じ系譜」とハッキリ明記しているからな
これで別王朝とか脳みそ腐ってんだろうよ
読んだことも無いからそこに何が書いてあるか知らないだろ
アホサイトの珍文だけ見てるのがまるわかり
バカ丸出し過ぎて笑うわ
>>497 成立が前の魏略の記述に対馬壱岐島の大きさがないという事は
後の時代に入ってきた情報を陳寿が付け足した可能性を否定できない
そして両書とも邪馬台国までを1万2千余里としており
九州説の言うように魏志倭人伝は島をひと巡りする距離を含んで
1万2千余里が九州北部になると主張しているが
島の大きさの記載のない魏略でも同じく1万2千余里となっているので
邪馬台国に向かうには島を一巡りなどしないという事だ
>>500 不彌国までの里数の合計が1万700里
そして邪馬台国の場所は会稽東治(冶)の東
台湾や沖縄辺りと魏志倭人伝に記されている
>>501 九州説詐欺師はT里76mで1万2千里を800kmぐらいにして
九州説を唱えようとしているらしい
そもそも「1万2千里で女王国、そこから水行10日、陸行一月で女王の都の邪馬台国。1万2千里未満の九州は女王国の端ですらない属国」
ヒナモリと言うのがやたらと出てくるがこれは「鄙(田舎、へき地)の守り人」の意味
女王国の外の僻地の守備兵が置かれていると言う扱い
そして女王国から監視の役人を送り込まれて管理されてると記載されてる
「女王国でさえもない監視された僻地」
これが倭人伝に明記されている九州の現実
>>509 帯方から南1万2千里の差す先は会稽東治(冶)の東
沖縄や台湾辺りで明らかに邪馬台国jではなし
1万2千里は政治的には邪馬台国を正しく示しているけれど
>>510 邪馬台国が帯方より南1万2千里になければならない事は
魏の政治的決定
実際の距離じゃなくてもそう報告書を上げなければ逆にクビが飛ぶ
>>512 不彌国までの里数の合計は1万700里
邪馬台国は記述上そこからさらに南に水行陸行
>>513 淮南子に1万2千里と書いてある以上
邪馬台国まで1万2千余里と報告すれば淮南子からパクったとすぐわかる
けどそれが魏志倭人伝に載っているのは全て了承済みだったという事
>>514 >>515 オウム人間ザラコクがさえずってるだけなので放置
桓武天皇の聖母は百済のブネイ王の末裔・・・続日本書紀
明日香の常用語は百濟語・・・・・・・・・・松本清張
藤原氏は中国の朝廷からさずかった氏・・・・藤氏家伝?
宮内庁管轄の陵墓は調査制限がなぜあるのか・墓を荒すな?変な物が出てくる?
天皇渡来人説・・・・・・・・・・・・・・・ググってください
邪馬台国=初期ヤマト王権する畿内説の裏事情がわかるかも
>>517 陳寿は政治的には正しかった
魏志倭人伝は皇帝を奉る目的で書かれたもので
邪馬台国の正確な情報を記す目的では書かれていない
またまた九州説で賑わう畿内説のスレ
よほど九州説が目の上のタンコブ
>>548 殉死後の埋葬は埋葬だろ
記紀には殉葬は奴婢を古墳の周りに生きたまま生めると書いている
>>566 現在見る魏志倭人伝こそ12世紀に編集されたもの
写筆されるうちに誤字が多くなってきたと前書きにも書いてある
>>567
あんたはどう考える?
巻向で
以婢千人自侍 常有人持兵守衛 この人たちの居住場所は?
また 宮室樓觀城柵嚴設 をどう理解する? >>586 九州説はもうとっくに瓦解している
あとはいかに九州説を根絶するかだ
桓武天皇の聖母は百済のブネイ王の末裔・・・続日本書紀
明日香の常用語は百濟語・・・・・・・・・・松本清張
藤原氏は中国の朝廷からさずかった氏・・・・藤氏家伝?
宮内庁管轄の陵墓は調査制限がなぜあるのか・墓を荒すな?変な物が出てくる?
天皇渡来人説・・・・・・・・・・・・・・・ググってください
邪馬台国=初期ヤマト王権する畿内説の裏事情がわかるかも
>>584 天皇の先祖は倭人に疑いは無いと思
初期ヤマト王政を築いたのは渡来人+倭人の連合
邪馬台国は倭人の圀ゆえヤマト王政とは関係ない
倭人伝の全体里数(帯方郡〜女王国): 1万2000余里(漢代の淮南子援用)
(実際の内訳)
帯方郡〜(水行)〜狗邪韓国(7000余里)
狗邪韓国〜(渡海水行)〜末盧国(3000余里)
末盧国〜(陸行)〜女王国(2000余里)
末盧国の港(唐津)は、松浦川河口から約4q遡上した中原の津。
東南陸行500里で到る伊都国は、佐賀川上大願寺のゐ寺(伊寺)遺構。
東行100里で至る不彌国は、佐賀三根郡(彌根郡)の吉野ケ里一帯。
この吉野ヶ里の南方に、投馬国(西都市都万)あり、則ち水行20日なり。
同じく南方に邪馬台国女王之所都(1400里・肥後熊本)あり、則ち水行10日と陸行1月なり。
(注:各水行の前に「則ち(ここまでの込み入った行程説明を要約して端的に記せば)」を補って読むと分かりやすい)
帯方郡から邪馬台国までの距離は誰かが短里=1里72メートルで測量したんだよ
陳寿はその報告書をもとに12000里と書いた
初めに九州のどこかに目的地を置いて逆算で1里を求めたとか、下衆の勘ぐりが過ぎますね
魏志倭人伝の邪馬壹国とその他の史書の邪馬臺国は別の国なんだね?
それでいいんだよね?
>>526 >しかも、同じ時期の頃の別の事件を、それぞれの国に書き分けて記録されていて、
>全く別の国である、というような書き方になっている。
同じ時期の事は書かれていないねぇ。
名称を変えたで問題ないね。
倭國
貞觀十五年(641年)〜咸享元年(670年)。
則天時(690〜705年)。自言其國近日所出。故號日本國。蓋惡其名不雅而改之。
大歷十二年(777年)と開成四年(839年)
日本國
長安三年(703年) と開元(713年〜)初。
>>593 >(注:各水行の前に「則ち(ここまでの込み入った行程説明を要約して端的に記せば)」を補って読むと分かりやすい)
つまりこういうインチキを加えないとそんな読み方はできやしないという自白であり自爆
>>594 >帯方郡から邪馬台国までの距離は誰かが短里=1里72メートルで測量したんだよ
その「誰か」が3世紀にはどこにも存在しないんだって!
公孫氏は漢人だから漢尺を使うし、帯方郡の人は魏の役人だから魏尺を使う
度量衡の公定は皇帝の専権事項だから、公定尺以外の尺度を使うのは、皇帝への叛逆を意味する
もちろん、土着の人は里を知らない
測量技術を持つ土着の人もいないしな
「誰かが短里=1里72メートルで測量した」
これが成り立つ余地が微塵もないのだから短里説も九州説も成り立たない
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
水行10日を一万里と換算したんだよ。
結果、一里は72メートルくらいになった。
このように
九州説はどこから出てきたのか皆目不明な結論しか言わない
>>101 >>その通りです。陳寿も知っていたはずです。
「会稽東治の東」は九州もしくは「日の昇る方向」ぐらいの解釈でよいでしょう <
>九州に限定する必要性は無いよーーだ
「日の昇る方向」なら「会稽東治の東」は畿内も含まれるしーー 残念<
畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言だし、
方向が合っているんだから、「南≠東」に拠って、大和は×。
まず最初に、
帯方郡〜女王国の全体里数を1万2000余里と決めた(漢代の淮南子援用)
次に、具体的な内訳数字を配分した。
そしてこれで現代のqを割ったので、たまたま75mくらいになった。これが短里の正体さ。
帯方郡〜(水行)〜狗邪韓国(7000余里)
狗邪韓国〜(渡海水行)〜末盧国(3000余里)
末盧国〜(陸行)〜女王国(2000余里)
>>103 >台は臺の新字体というだけ <
3世紀頃は、「台」と「臺」とは、異字。
>距離表記が南になっているのは
陳寿が東にある邪馬台国を漢からの伝承に合わせるために南と書いたから<
魏使らも陳寿も、首や信頼性がかかっているから、
「伝承に合わせる」なんて嘘吐き騙しはしないもの。
そんな事をしようとするのは、現代大和説者や、安部政府の役人らばかり。
>>104 >奈良辺りは大和と昔から呼ばれて来た事は まともな人間なら誰も疑わない<
「ヤマト」という音韻呼称は、神武東征の頃にはあったかも知れないが、
「大和」という漢字表記は、
7世紀頃に、「倭」の文字を嫌って「大倭→大和」の文字変更があってから。
>>105 >南至投馬國 水行二十日とあるんだけど さらに邪馬台国へは
南至邪馬臺國 女王之所都 水行十日陸行一月とある
至の移動文言がどうたらで投馬國へ行ってないとするなら
邪馬台国へも行ってない事になってしまうのである <
ならない。
「至」の前に、「移動文言」がなければ、移動がなかった事を示すだけ。
そして、投馬國は、行程の目的地ではないから側副傍線行国説明になり、
邪馬壹國女王之所都は、目的地であるから主線行程であり、
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている事になるから、
南に移動距離約0里(ほぼくっついている)で邪馬壹國に至る事になる。
>>107 >大和は邪馬台国と通じるし
径百歩の墓そして邪馬台国が魏と交流のあった頃の魏の年号が入った
百枚の下賜鏡を思わせるというか各資料を統合すれば魏の下賜鏡が確実の
三角縁神獣鏡が多数見つかるというのは 各種史料、科学的測定結果により
誰の目にも明らかな形で証明されている <
これも、例の「沖縄台湾」大和説男の、同じ事の貼り付けのようだから、
変な共鳴投稿が出ないのなら、放置対象だな。
どう屁理屈をほざいても中国史は畿内の勢力がそのまま継続して桓武天皇の時代まで続いてると認識してる
九州説も九州王朝説も最初から存在しない
放置は儒教的には負けを認めた事になるんじゃないのか
用明天皇(アメノタリシヒコ)→桓武天皇まで同一系譜上にある
この認識は日本の資料など関係なく中国側の記録に依るもので、九州説がほざく日本側の隠蔽だの工作だのは全く関係ない
つまり、大和=魏志の邪馬台国
倭から日本への変化は壬申の乱
最初からどこにも九州王朝など入り込む余地などない
タンリとやらを捏造したところで何の意味もない
>>116 >旧唐書じゃなくて全唐文だった<
全唐文では、19世紀という後代本の「単なる解釈」に過ぎず、そんなものは根拠にならない。
>昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文 昔、魏ハ倭国二酬(はなむけ)スルニ、銅鏡ノ鉗文ヲ止メ
魏は下賜用に新たな形式の鏡を作ったと解釈される <
何だ?、どこから、「新しい形式の鏡を作った」という意味になるんだ?。
>中国で三角縁神獣鏡の発見は洛陽以外の地域では0枚
1枚と0枚では天と地ほどの差があり 魏の鏡だった事はもはや決定的 <
0〜1枚では、列島の500枚以上の△の説明に全くならないし、
△は、魏の敵国の呉系の鏡だから、明帝は、メンツにかけても下賜鏡に選択しない。
>三角縁神獣鏡の素材も魏晋鏡と同一という事は
魏鏡説を肯定こそすれ否定材料には全くならない <
列島の△は、海東鏡や徐州銅鏡の鏡師の手持ち材料銅であった可能性があるし、
銅鐸や漢代鏡の再溶融鏡であった可能性もあるから、
中国の鏡と「材料銅の類似」なら、いくらでもあり得るから、根拠にならない。
>当時の魏志倭人伝をそのまま引き写している 梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧には
鏡の下賜があったのは景初三年と書いてある <
ウソを付くな。
後代史書は、倭人伝を「そのまま引き写していない」から、×。
>>602 >水行10日を一万里と換算したんだよ。
>結果、一里は72メートルくらいになった。
帯方郡から北部九州まで何キロあると思ってるんだ?
軽く千キロくらいになるぞ
3世紀に1日に100キロも進める船なんてないww
>>117 >少なくとも三世紀にはそう呼ばれてたんじゃね
魏志倭人伝に邪馬台国と書いてあるから<
「邪馬台国」なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
魏志倭人伝には、当然「邪馬台国」なんて書いていないし。
大和説者らは、その根元の儒教の皇国史観思想の洗脳が、
早く解けるといいね
>>606 >3世紀頃は、「台」と「臺」とは、異字。
ザラコクや、それは昭和の常用漢字音訓表制定時に「臺」が入らなかったから「台」を代用字に
使うようになったってことだから、現代の議論において邪馬台国の表記を使うには当たり前
3世紀がどうのというのはまるっきり的外れだし、まともな論拠がないのを
ごまかしてるだけってのもバレバレ
無能なのはもう知れ渡ってるから何を言ってもムダだよww
>>613 止于銅鏡鉗文
鉗文とは決まりきった形式
止于とは止める事
止于銅鏡鉗文とは銅鏡を決まりきった形式にするのを止めてという意味になる
魏志曰くなどの魏志からの引用である事が記されている
年代の違う複数の史書が
鏡の下賜があったのは景初三年と書いている
現在の12世紀に再編された魏志倭人伝こそ
そのどれよりも新しい後代史書に当たる
>>120 >>陳寿は、「会稽東治之東」と推定していたのだから、この男は×。<
>根拠なしの誹謗中傷だね。<
何だ?、根拠や理由を言わずにヘイトスピーチか。
>>陳寿の「会稽」は「夏后少康之子封於會稽」の「会稽」の事を言っており、<
>陳寿は《史記》から引用しただけなので理由にならない。 「文身断髪」により倭と夏をつなげるのがミソだ。
曹操は実質「夏侯氏」だからね。<
「夏后少康之子封於會稽」の「会稽」の事を言っている、という事には、
何の反論にもなっていないアホ。
>>「郡」名でも「東冶」でのないのだから、この男は×人間。<
>根拠なしの誹謗中傷だね。<
何だ?、根拠や理由を言わずにヘイトスピーチか。
>>いや、ダメだ。「会稽東治」は、会稽の東方であって、南方ではない。
だから、この男は×人間だ。<
>正方位図法の地図を見ればわかるが、長江河口から東へ行っても屋久島南方だ。<
上海から東に向かって行けば佐多岬だし、
上海付近から江蘇省海岸付近から東方は、九州付近だ。
>>121 >三世紀卑弥呼の時代のでっかい古墳があって
三角縁神獣鏡が沢山見つかる大和が邪馬台国でいいんでねーの <
大和の前方後円墳は3世紀末以後で、卑弥呼の冢ではないし、
大和の△は4世紀以降なんだから、×でいいんでねーの。
タンリとやらを捏造しようが九州の主要なクニを全て通過した状態で既に1万2千里をほぼ消化している
ただの算数の問題
そこから水行10日、陸行一月を経て女王の都の邪馬台国
どう数字をごまかしたところで九州は女王国にさえ含まれない外部の属国
>>615 旧来の魏志倭人伝を引用した史書は
ほとんど邪馬台国の旧字体で邪馬臺國が記されている
邪馬台国があった事は史料上の事実だし
世間でも一般的な社会通念
>>620 ホケノ山は炭素14c測定
副葬品の年代から三世紀中葉以前
三角縁神獣鏡には景初三年(239年)の魏年号が記銘されている
中国は最初から邪馬台国から畿内の勢力が継続して平安時代にまで続いていると認識してる
そして考古学的にも九州は磐井も含めて畿内から押し付けられている古墳秩序の下位に甘んじ続けている
独立勢力など微塵も見いだせない
中国の史書通り、畿内の勢力の下にいるのが九州
九州説も九州王朝も端から存在しない
>>123 >「貼り付けて版刻」とか妄想だから反論にならないね。<
判子を彫る時の当然の作業だし、銅鏡の紀銘文の時にも、既に使われていた技法。
>違うね。避諱が何か知らないのだね。
>版元が使う異体字と底本との関係は証明出来ないね。
「発生していた事になる。」なんて言えるわけがないね。<
版刻は単に判を彫るだけの作業であり、写本の方が避諱や異体字を使う可能性が高い。
>版本化以降の後代写本など存在しないので反論にならないね。<
変な男。
例えば、後漢書の版本化までに、何度も写本を受けていて、
その時に僅かずつではあるが差異文字が発生していて、
その最後の写本が底本写本に使われるんだから、
魏志の底本写本に発生する差異の崇と余り違わない、という話。
>>58 >この男は×。この男は×。この男は×。
>>618 >何だ?、根拠や理由を言わずにヘイトスピーチか。
>何の反論にもなっていないアホ。
この人、根拠示さないで言い張るだけなのに、誹謗中傷ばかりするよ!
>>625 >判子を彫る時の当然の作業だし、銅鏡の紀銘文の時にも、既に使われていた技法。
字体がそれぞれ違うし関係ないね。
>版刻は単に判を彫るだけの作業であり、
それは彫師の仕事であって、出版工程の一部に過ぎない。
>写本の方が避諱や異体字を使う可能性が高い。
前提が間違っているから結論も間違い。
>変な男。
「後代写本」って書いたのはお前だぞ?
>例えば、後漢書の版本化までに、何度も写本を受けていて、
写本ではなく書写な
>その時に僅かずつではあるが差異文字が発生していて、
>その最後の写本が底本写本に使われるんだから、
最後とは限らない。何系統か枝分かれがあるわけだから、その時点で書写世代の違いがあってもおかしくない。
>魏志の底本写本に発生する差異の崇と余り違わない、という話。
ゆえに書写回数が確定出来ない以上、差異の数があまり違わないとは言えない。
書写履歴が失われているなら、もうわからんってこと。
>>238 >櫛目文土器は、8000年前頃に満州でY-Nの種族が造ったものとされている。
>半島縄文人が、その頃に満州まで北上した可能性がある。
論理が飛躍してるぞw
櫛目文土器はY-Nの種族が造ったと書いておきながら、なんで縄文人が出てくるんだよ
距離はデタラメと決めつける畿内説より、
距離の謎を解こうとする九州説に好感が持てるのは俺だけだろうか?
三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏から下賜された鏡ではない
最近、既に多くの人がこう考えているようです。
それはそれでいいのですが、では何故大量に生産されたのでしょうか。
>>633
>それはそれでいいのですが、では何故大量に生産されたのでしょうか。
それは各地へ進出した「忌部はん」 に下賜するため。 @阿波 >>633
倭国(阿波)以外では説明できない話。 極、簡単明瞭な事。 @阿波 >>125 >そもそも、3世紀の奈良は、なんと呼ばれていたの?
ヤマダイと古代中国語で音写されたのだから、その音写元の言葉あったのだよね。
その國名は、なんと呼ばれていたの?<
「ヤマダイと古代中国語で音写」説は、「邪馬臺」は筑紫内の地名だから、×。
また縄文毛人から出雲系銅鐸部族時代の奈良盆地の呼称も、あったのか?も含めて不明。
そして九州では、渡来倭人の天孫族の阿毎氏は、海の民族であったようで、
「アマ、天、海(アマ)」のイ(伊、委、倭、五、壹、一、怡など)氏を誇ったようで、それに対して、
在地の毛人の猿田彦や呉王夫差の遺民の渡来民は、
その支配地や居住地を「ヤマ、山、邪馬」を名乗ったようで、
その支配地の入り口を「山門や山戸」としたようであった。
そして、阿毎氏の神武らは邪馬部族との競合に諦めて東征して、
奈良盆地の一角を占領し、
そして、邪馬族の国や(地方の交易の)の)市の入り口や門として、
山門や山戸、という呼称を付けた、のではないか?、という可能性がある。
九州説なるものは言い出されたのが江戸時代。
それまでは存在さえしなかった。
言い出した新井白石は本当に邪馬台国が九州にあったとは思っていない。
大和朝廷の前身が邪馬台国なら中国に朝貢したという屈辱的な史実を認めねばならない。
それを避けるために邪馬台国は九州にあったと言ったのだ。
それが証拠に高天原も常陸にあるなどと言い始めた。
高天原が大和葛城にあるのは常識だったにもかかわらずだ。
【焦点ぼかし】
それが九州説の本質。
>>100 >後漢書始め魏志倭人伝の原本の失われる12世紀までは
魏志倭人伝を引用した各史書の倭人伝には邪馬臺國
邪馬壹國は12世紀になって倭人伝に初めて現れるから
その頃に生じた誤表記である事は明白 <
史料実態は、同時代の実地の見聞計測記録が最も信頼性や確率が高く、
後代学者や史家や現代大和説者らの「自己解釈に拠る書き換え」記載の内容は、
信頼性が全くなく、半分×書。
また、写本版本での差異発生確率は0.5%位であり、
それは、魏志であろうと後代史書であろうと同じような差異発生確率が起こり得る事であるから、
版本化時点での史書間の差異発生頻度は、後代史書の方が内容書き換えが多いのだから、
始めから問題にならない。
>>100 >後漢書始め魏志倭人伝の原本の失われる12世紀までは
魏志倭人伝を引用した各史書の倭人伝には邪馬臺國
邪馬壹國は12世紀になって倭人伝に初めて現れるから
その頃に生じた誤表記である事は明白 <
史料実態は、同時代の実地の見聞計測記録が最も信頼性や確率が高く、
後代学者や史家や現代大和説者らの「自己解釈に拠る書き換え」記載の内容は、
信頼性が全くなく、半分×書。
また、写本版本での差異発生確率は0.5%位であり、
それは、魏志であろうと後代史書であろうと同じような差異発生確率が起こり得る事であるから、
版本化時点での史書間の差異発生頻度は、後代史書の方が内容書き換えが多いのだから、
始めから問題にならない。
>>637
>それが証拠に高天原も常陸にあるなどと言い始めた。
新井白石は江戸において、関東忌部を認識していたんだろうね。
>高天原が大和葛城にあるのは常識だったにもかかわらずだ。
そんなアホな。 一端の国学者なら、新井白石も阿波国風土記を見たはず。 @阿波 >>128 >唐會要と同様に併存情報は存在しない
「或曰:倭國自惡其名不雅,改爲日本。」が正しいってことだよ。
舊唐書 卷一百九十九上・・・<
嘘を付くな、類スレ主詐欺師。唐会要は、倭国伝と日本國伝とを、
(間に蝦夷国伝と哥羅舎分國伝を挟んで)別の場所の別の国として、として書き分けており、
長安3年以前に、
「日本、倭國之別種。以其國在日邊、故以日本國爲名。
或以倭國自惡其名不雅、改爲日本。或云日本舊小國、呑併倭國之地」
という「別種」関係の別国であった事を記し、
更に、長安三年以後にも、日本国使節の渡来だけではなく、
倭國が存続して倭國の遣使が来ていた事のまで書き分けている。
つまり、類スレ主は、史料事実や史料実態を否定曲解して、
世間の人々を騙そうとする・・・・詐欺師。
ザラコクがやってるのは
全くない証明するアテもする気もない我流の珍説を
理由も言わずに言い張り続けるという
無駄な行為ね
>>641 >・・・掻き分けてる。
なんの証拠もない
ザラコクがやってるのは
別のところに置き忘れただけのモノを
「分別されてる」と言い張ってるのと同じだ
実は史料事実なんて無い
恣意的解釈があるだけ
分かれてる事実だけでは
意図して分けたのか、不注意で別になっちゃったのか分からないのに
理由のない決めつけだけで「分けたのだ」と主張してるのさ
そういう、理性じゃなくて欲望で作られた説なんだよ九州説は
>>135 >有棺有槨で前方後円墳なんだから
ホケノが3世紀中葉である筈がないというのはまるで意味不明
そんな年代観聞いたこともないし<
そりゃ、大和説学者は全員、(南→東などの嘘つき騙しと同じように)、
都合に悪い史料事実を隠蔽抹殺する、という・・・・詐欺師だから。
>ホケノ山古墳は炭素14c測定法等によって三世紀中葉以前は確実<
AMS法は、プラズマ化の「放射性壊変の促進」によって、50〜100位古く出る、
という事が確実。
>それからすると逆に有棺有槨で前方後円墳は
三世紀中葉以前の形式と言っても差し支えない事になる <
有棺無槨よりも有棺有槨の方が、新たな工夫が加わった事になるから、新しいし、
冢よりも前方後円墳の方が、新たな工夫が加わった事になるから、新しい。
>>142 >狗奴国は後漢書で東と修正されている <
後漢書は、
同時期の実地の見聞計測が伴わず、
後代での「自己解釈に拠る高慢な書き換え」を実行した半分×文書であるから、
二次的な史料であり、
史料批判無しには、根拠にはならない代物。
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
>>641 >「日本、倭國之別種。以其國在日邊、故以日本國爲名。
>或以倭國自惡其名不雅、改爲日本。或云日本舊小國、呑併倭國之地」
>という「別種」関係の別国であった事を記し、
「或いは」以下は同じ国であったという別見解を記しているだろう
そうやって平気で史料を無視して偽史を作り
歴史学を踏みにじるのが九州説
>>143 >別に関係ないんじゃない
何せ魏志倭人伝には邪馬台国の場所は会稽東治(冶)の東
沖縄や台湾辺りと書いてるから
狗奴国はそれより南だとするとフィリピン? <
何だ?、沖縄台湾が、フィリピンと戦争になって、
帯方から張政が「詔書、黄幢」を持って来て、
卑弥呼の応援をしたと?。
お前は、やっぱり・・・・か?。
日本と自分を同化させてしまう現象は普通の日本人に多いと思います。その症状が
悪化すると日本の良い事だけを探すようになり歴史修正主義者からネトウヨ化に進
みます。
>>144 >日数表記は倭人から聞いたかどうかは怪しいね<
「水行二十日」や「船行一年」は、おそらく倭人からの伝聞であり、
「水行十日陸行一月」は、郡〜女王之所都の所要日数であるから、魏使らの記録。
>邪馬台国を会稽東治(冶)の東<
「会稽東冶」は、260年に(会稽郡から)建安郡の分郡の後だから、
陳寿の「地の文」では存在しない記載であり、
その事が判らなかった范曄の失敗解釈であるから、この男も、×。
>沖縄や台湾辺りに持って行くための辻褄合わせじゃないだろうか<
魏使らは「辻褄合わせ」の嘘つき騙しをしてバレたら、首が危ないんだから、
そんな変な論を宣伝するこの男は、×人間。
中国は用明天皇(アメノタリシヒコ)とその後の桓武天皇まで同一の系譜として示している
大和=魏志の邪馬台国
改名=壬申の乱
で最初から何の問題もなく確定している
九州説も九州王朝も端から中国は全く考えてもいない
史書を一つも見たこともないアホだから九州説とか九州王朝とかバカ丸出しの寝言を言うのがよく分かる
>>144 >グダグダ言っているが、ザラコクの書いた「会稽山付近の東」は、
魏晋南北朝のいつの時代をとっても「会稽郡の中」だ <
女王國が「会稽郡の東」だ、と言いたいのなら、
陳寿は、「会稽東治之東」などのような「東治」という文言を記載する必要がない。
という事は、東治は、会稽郡の中にあるんではなく、
「夏后少康之子封於會稽」の夏后少康之子の「会稽」の、以前の東治地域だ、という意味だ。
>会稽の東を治めると読んだところで、江蘇省にはどうやってもならないし
会稽の東を治めると読むのも最初から間違い <
「会稽の東を治める」だなんて読んでいないし、
分郡があった後だから、wikiが言うように、
呉や揚州の支配下になった地域だろう、と言っているのであり、
まあ、類スレ主は、・・・・詐欺師そのものだ。
>>146 >だが、唐会要倭国伝には
開成四年正月。遣使薛原朝常嗣等來朝貢。があり、
839年藤原朝臣常嗣の遣唐使まで倭国に入れてる
まあ、倭国も大和朝廷を指してるってだけだけれど<
唐会要は、倭國と日本國とを、別種の全く違う国だ、として、書き分けている。
>>149 >魏志倭人伝の邪馬台国の位置は不正確だから<
いや、邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
魏志倭人伝の位置記載は、ほぼ正確だ。
>狗奴国熊本が畿内の南になくとも畿内大和が邪馬台国である事の否定にはならない <
「畿内」も「邪馬台国」も存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている事と、「南≠東」などによって、
大和説は×だ。
畿内説の生き残りは、ついに2名ほどになったか。
包囲網は完璧だから、いずれ日干しになる日は近いな・・・。
>>156 >黥面土偶らは邪馬台国で今の仏像の様に拝まれてたから
新支配者の刺青しない渡来人に偶像崇拝として
纏めて邪馬台国領土=近畿地方の外に捨てられた、と思う<
「邪馬台国領土=近畿地方」という事が、「南≠東」などの嘘つき騙しになるから、
×。
>>180 都合が悪い記述があると、「否定曲解のウソ付き騙し」をしたり、
同一名称の別のものがあったとして誤魔化してしまうのは、
大和説者の定番だ
さすがに使い古しの感がある
>>655 九州説って状況が徹底的にわかってないんだね
延喜式祝詞には、
皇御孫之命は、天之御蔭 日之御蔭と隠坐てとある
同じく、坐摩神社の井戸の神々は、皇御孫之命にお仕えして、天之御蔭、日之御蔭と隠れていたとある
また道饗祭の祝詞には、クナトが高天原で事を始めた皇御孫之命で、根の国底の国の侵略に抗ったと書かれている。
これが平安時代の朝廷の認識
天アマでも日でもないということ
魏志倭人伝で言うなら、狗奴国の勢力が600年の内乱を経て倭国大乱前の有り様を取り返したと言えるだろう。
記紀なら神武東征による被害者である畿内の在地の勢力が、600年の内乱を経て平安を取り戻したと言える。
畿内説って箸墓を卑弥呼の墓にしたがるけれど、箸墓は5世紀の墓。
木製輪鐙出土が何よりの証拠。
>>181 >「東治」とされている地なんて存在しないよ 「東冶」の誤字だ <
魏志倭人伝の史料事実は「東治」だ。
後代の後漢書の「東冶」は、「自己解釈に拠る高慢な書き換え」であり、
根拠にならない。
>>633
>それはそれでいいのですが、では何故大量に生産されたのでしょうか。
それは各地へ進出した「忌部はん」 に下賜するため。
倭国(阿波)以外では説明できない話。 極、簡単明瞭な事。 @阿波 ・中国は用明(アメノタリシヒコ)から桓武天皇まで同一の系譜としてみていて畿内の勢力が邪馬台国からずっと中心として存在してると認識
・1万2千里で女王国でそこから水行10日、陸行一月を経て女王の都の邪馬台国。1万2千里未満の九州は女王国でさえない属国
・磐井も含めて九州の豪族は畿内から広められた古墳秩序の下位に甘んじ続けた程度の勢力
これが何の不思議もなく史書、考古学から得られる現実
九州説も九州説も九州王朝も端から存在しない
もの知らないバカか詐欺師しかこんなこと言わないのが分かる
>>661 >魏志倭人伝の史料事実は「東治」だ。
それがどうした
場所は福州だろ
九州説は死んだんだよ
>>641 >唐会要は、倭国伝と日本國伝とを、 (間に蝦夷国伝と哥羅舎分國伝を挟んで)
>別の場所の別の国として、として書き分けており、
構成は
>>598の通り。重複記事もないし、重複時期の記事もない。
「別の場所の別の国」まで言うのは曲解ではないか?
>長安3年以前に、 (略)
>という「別種」関係の別国であった事を記し、
その部分は「長安3年以前」の時期の記事ではない。
「或云〜」は、「ある資料には〜と書いてある。」という意味だ。過剰評価すべきでないだろ?
>更に、長安三年以後にも、日本国使節の渡来だけではなく、
>倭國が存続して倭國の遣使が来ていた事のまで書き分けている。
倭國の項には「則天時。自『言其國近日所出。故號日本國。』蓋惡其名不雅而改之。」とある。
こちらには「或云」は無いから撰者の本命ということ。
それ以降の大歷十二年(777年)と開成四年(839年)正月の記事は、日本國へ名称変更した後となる。
つまり、お前の言う「倭國が存続して倭國の遣使が来ていた事」は曲解。
>つまり、類スレ主は、史料事実や史料実態を否定曲解して、
>世間の人々を騙そうとする・・・・詐欺師。
汚い言葉ばかりでうんざりだよ。
>>186 >「会稽東治之東」で陳寿が沖縄あたりだと思っていたのなら<
思っていない。陳寿は、「女王國」は九州付近だ、という推定だ。
>方位は正しいのであろう 南は南でOK 問題は距離 これは各説どうしようもない <
距離でも、
不彌國のすぐ南に「七万戸の(女王之所都の)邪馬壹國」があるの)んだから、
古田説を含め、筑紫説は全てほぼ「可」であり、
大和説は、始めから×。
>>189 >沖縄が邪馬臺國なら方位は正しい
沖縄じゃないなら地理観は正しくない<
魏志には、そもそも邪馬臺國なんて国の記載が存在せず、
だから、この「沖縄」男の脳が正しくない。
>>190 >コピペミスしてたよ。さんきゅ。 それでも併存は無いね。<
倭国から別れた別種の旧小国であった大和日本国は、
ようやく「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」であって、
日本国を名乗って、唐の武徳中に独立を認められたんだから、
唐会要倭国伝の「開成四年正月。遣使薛原朝常嗣等來朝貢」までは、
最低「倭国と日本国は併存はしていた」、
という事になる。
>>649 君たちは朝鮮でも同化できなかったからね
こっぴどいめに合っていたのを日本が開放してあげた
おそらく何万年もそうやって生きてきて
歴史の記録を残すことができなかった
君たちがなぜ現生人類の中で社会性が著しく劣っているのか
それもまた人類史を考察する上で必要なことだ
箸墓は5世紀築造だから、畿内説のほうが死んでいる。
>>193 >憶測じゃないから通説になっている <
「南→東」などの史料事実の否定曲解する通説大和説者は、
始めから信頼性が全くない。
>東治と書かれた場所が東冶じゃなかった史料は存在しない<
陳寿の「地の文」での「東治」に関しては、
260年の「会稽郡から建安郡の分郡」の後であるから、
分郡前の「会稽東冶」の事であれば、分郡後は「建安東冶」と書かれる筈なのであり、
従って、「会稽東治」は「会稽東冶」ではない。
范曄や通説大和説者やこの男の曲解誤読。
分郡前の
>>670 いくらなんでも〜。
特殊器台、二重口縁壷の破片の存在はどうなるの〜。
>>198 >>「舊百餘國、漢時有朝見者、今使譯所通三十國」の「今」は、
執筆時点での状態を記している。<
>魏代の書いた文献である以上「今」とは魏代。<
魏志に「今」と書いた以上、「魏代から執筆時点」の間は同じ状態である、
という意味。
>晋からみれば、分郡は孫休が勝手にやった事。太康三年(282年)に晋安郡が置かれる。<
陳寿が書いた「今」とは関係がない話。
>>陳寿の「会稽東治之東の会稽は、「夏后少康之子封於會稽」の会稽であるんだろう、という事。<
>陳寿は《史記》から「夏后少康之子封於會稽」を引用しただけ。
「あるんだろう」程度では理由にならない。<
陳寿は、当然「必要がある」から引用した。
>>当然、「夏后少康之子」が封じられて治したとされる地の中の、
陳寿の頃にも「東治」とされている地。<
>例は無いのか?妄想でいいんだな。
『「東治」とされている地。』を文献上示さなければ、根拠にならない。<
陳寿の意見陳述であるんだから、孤立情報である事は幾らでもあり得る。
>>644 小型丸底壷が出土したことが4世紀築造の根拠らしいが、小型丸底壷は後代に追加供献されたもので、それが天蓋崩落で落ち込んだと考えられている。
その他のデータは、3世紀中頃の築造を支持しているようだ。
・中国は用明(アメノタリシヒコ)天皇から桓武天皇まで同一の系譜としてみていて畿内の勢力が邪馬台国からずっと中心として存在してると認識
・1万2千里で女王国でそこから水行10日、陸行一月を経て女王の都の邪馬台国。1万2千里未満の九州は女王国でさえない属国
(一大卒が派遣されて監視され、辺境の守備兵、夷守が配置されている状況からも明白)
・磐井も含めて九州の豪族は畿内から広められた古墳秩序の下位に甘んじ続けた程度の勢力
これが何の不思議もなく史書、考古学から得られる現実
九州説も九州王朝も端から存在しない
もの知らないバカか詐欺師しかこんなこと言わないのが分かる
>>214 >夏后少康之子は倭人じゃないから
黥面文身する民族の地域だから
中国で12世紀の民間版本を訂正してるように、後漢書と同じ会稽東冶でよい<
「中国で12世紀の民間版本を訂正してる」というのは、
天誅が、「現代の台湾の出版社」の記載を転写した
http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/menu01.html
の事なんだろうな?。
そんなものは、始めから「南→東」などの嘘吐き騙しをする詐欺師なんだから、
証拠にはならんよ。
>>674
>小型丸底壷が出土したことが4世紀築造の根拠らしいが
その小型丸底壷(東阿波型土器)は畿内第X様式だよ。 @阿波 >>217 >後漢書ではなく、三國志卷六十/吳書十五/賀全呂周鍾離傳第十五に
會稽東冶五縣とか、會稽東冶賊という記述があるんだよ <
そりゃ、古田さんが挙げておられた、
「260年の分郡前の東冶が会稽郡に属していた」時の記載であり、
陳寿執筆時には東冶は建安郡になっており、
だから、陳寿の地の文の「会稽東治」の論拠には全くならないもの。
>>641 >倭國が存続して倭國の遣使が来ていた事のまで書き分けている。
その、則天時、長安3年以降の倭国伝に書かれている倭国の使いが
開成四年正月遣使「薛原朝常嗣」等来朝貢大羊同國
で、畿内大和王朝藤原氏の、藤原朝臣常嗣なんだから、
唐代の「倭国が大和朝廷」であることの証明にしかならない
要するに「別種」というのは「同じものの別の呼び方」という意味なんだよ
倭国伝と日本国伝が別立てなのは、国号の改号があったからというだけ
>>678
>その小型丸底壷(東阿波型土器)は畿内第X様式だよ。 @阿波
畿内第X様式なら庄内期よりも前だから、ホケノ山古墳の編年はさらに遡ることになるな
纏向遺跡は3世紀初頭には倭国の中心だった訳だ >>218 >後漢書に東冶県という文字列はなくても、東冶というのは何度となく出てくるし、注釈で
東侯官に改められ、泉州閩縣になってる、と書いてあるね ・・・
詭弁としても弱いなww<
後漢書の范曄は、
会稽東冶が、陳寿の地の文の「会稽東治」を書いた時には
(会稽郡ではなく)「建安郡の東冶」になっていた事に気付かず、
後漢書で「会稽東冶」と書き換えた高慢なアホであるから、
証拠にならない。
>>679 >だから、陳寿の地の文の「会稽東治」の論拠には全くならないもの。
残念ながら、三國志卷六十/吳書十五/賀全呂周鍾離傳第十五の
會稽東冶五縣とか、會稽東冶賊という記述は、「陳寿の地の文」だよ
詭弁にもならない言い訳を書くのは、いい加減にやめたらどうだ?
>>681
>纏向遺跡は3世紀初頭には倭国の中心だった訳だ
小型丸底壷(東阿波型土器)が畿内第X様式だからといって、↑には決してならないからw @阿波 >>219 >その他に「所有無、與儋耳朱崖同」とあって、この海南島に近いのが東冶の方だから
会稽東冶って書いてるんだよ<
陳寿の地の文での「計其道里、當在會稽東治之東」は女王國の位置推定であり、
はるか南西方向の海南島では、
「「計其道里、當在會稽東治之東」の証拠になっていない。
倭地でもないのに、
東治・儋耳に縋りつく畿内説哀れ、、、
海南島の話は倭国が実際より南に存すると考えられてた傍証よね
・日本は会稽の東に無い
・実際の九州の記載も方向も距離も間違いだらけ
・距離も方向も伝説の頃の記載と変わらない
行程なんてものは何の信頼もないと言うのが分かるだけ
こんなものを持ち出して更に珍解釈をしてるだけが全ての九州説がどんだけバカだかわかる
行程とやらで重要なのは
「九州は1万2千里未満で女王国でさえない」と言う点
「女王国まで1万2千里」「そこから水行10日、陸行一月を経て女王の都の邪馬台国」と提示したうえで、
ワザワザ九州の小国を列記して「足して1万2千里未満のクニグニ」と明記してる
九州のクニグニは女王国の数にさえ入れてもらえない辺境の属領と描いている
これは誤解も何も生みようがない記載
九州説も九州王朝も最初から存在してない
倭地の風土・習俗と、、
儋耳朱崖の風土・習俗が似てなくもないなあ・・、といってるだけ
距離・方角・所在地のことは関係ないない。、、
倭人伝の行程が言いたいのは「九州は女王国の外の属国」と言う点
数字を具体的に明記してそれを誤解も何もできないレベルで示している
算数で足し算すればいいだけだからなw
1万2千里未満かどうかなんて小学生でもわかる
分からないのは脳みその足りない九州キチガイだけ
ついに畿内説が、女王さま女王さまと
うわ言を口走るようになったか、、、
そろそろ墓穴掘りの用意をさせておこう
>>677 >「現代の台湾の出版社」
中央研究院は1928年6月9日に南京に設立された
中華民国(台湾)の最高学術研究機関(国立アカデミー)
1949年歴史語言研究所の全機関と数学研究所の一部蔵書が台北に搬出された
古田は、どろぼう偽書販売広報員
>>692 おや・・・
九州説は何年も前からうわ言だけ口走ってるよな
墓はないのか?
>>694 よくぞ訊いてくれた。
卑弥呼の塚は、阿蘇・高千穂神社本殿の背後の小さなご神体山(塚)。末盧国からちょうど2000里な。
>国道218号を走ると五ヶ瀬の中心集落を抜け、しばらくで高千穂の中心街に到着します。
>高千穂神社の駐車場に駐車、境内へ進みます。
>お参りした後、本殿裏の小山を周回する小径を一回り。
>何処か小山の頂上に行く経路は無いか、周回してみましたが道無し。
>磐座的なにかがあるのかと思いながら、確認出来ず残念なのでした。
>おそらくこの小山の頂きが、ご神体に近い扱いなのでしょうね。
https://akiba9echo.exblog.jp/19202164/ またバカが一人で会話してる
バレてないと思ってるのが毎度笑える
まぁ中国がそもそも畿内の勢力が邪馬台国から平安時代まで継続してると考えてるわけだからな
九州説も九州王朝も頭の片隅にもないのがハッキリしてる
キチガイ九州説がどう珍解釈しようが何の意味もないわけだ
>>696 畿内説は人材払底で、自演しなくちゃメンツが足りないのかww
その点、九州には論客があふれてるからな。
自作自演は必要ありません。
>>695 訊かれたのは九州説の入る墓のことだと思うね
>>668 >日本国を名乗って、唐の武徳中に独立を認められたんだから、
「独立を認められた」とか書かれてないよ。
釈日本紀のその「至唐武徳中。初号日本之号」の続きがこれ。
「延喜公望私記曰。案隋書東夷伝。(略)都於耶摩堆。則魏志所謂耶摩臺者也。」
「武徳中」がいいなら「耶摩臺」もいいよね?
さて、則天中を補強する資料
《史記正義》唐 張守節 撰(開元24年(736年)成立 )
卷一 五帝本紀第一
「武后改倭國為日本國」
卷二 夏本紀第二
「倭國武皇后改曰日本國」
高千穂神社は式外社
天慶年間(938−47)に宇佐八幡宮大宮司の豊後大神氏(大和国の大神氏の傍流)が
養子に入って三田井氏を興し、十柱大明神を高千穂八十八社の総社として崇敬した
高千穂太郎政次は大神大太惟基の嫡男なので
豊後大神氏が高千穂一円を支配したものとみられる
>>246 >魏志倭人伝の邪馬台国の位置は明らかに変なので
邪馬台国の南に狗奴国はなかった<
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であり、
倭人伝の邪馬壹國の位置は、筑紫付近で確定的なので、
狗奴國は、筑紫の南の熊本にあった。
>>256 >魏略に書いててもなかった<
魏略には「女王之南、又有狗奴國」と書かれている。
>ついでに後漢書には狗奴国は東と書いている <
後漢書は、「後代の自己解釈に拠る書き換え」が多い半分×書であり、
狗奴國ではなく「拘奴國」と書いているので、証拠にならない。
>>697 その中国が、5世紀以来ずっと、古代九州の都と大和の都の位置をごっちゃに誤認し続けているんだから、話にならん。
>>258 >(狗奴国)と書かれて拘奴国)
同じ国だ 表音文字なんだから中国人が字ズラにこだわる理由はない<
いや、卑弥呼の頃の倭人は、漢字が使えていた。
>>259 大和説者は、
「南→東」などの「都合の悪い文言を否定曲解する嘘吐き騙し」をし、
何々は通説大和説とは違う、と通説に反する事を一言言うだけで、
倫理を構築しようとする気配がまるで感じられんな。
>>688 行程と実際の邪馬台国の位置は別。
屋久島から沖縄あたりにあるとする邪馬台国は、古代中国人の強固な固定観念。
実際の邪馬台国は、伊都に外交使節の逗留所を置くくらいだから、筑後山門。
その邪馬台国が盟主を務める倭國から東へ千余里の倭種の国と記されたのが大和。
大和は、倭國の東千余里の倭種の国。
ちゃんと、認めなさい。
>>262 >そう考えると、神武東征のエピソードを根拠とした邪馬台国=九州説は疑わしい <
同時代の使節らの実見見聞観察の、信頼性の高い歴代中国史書群の記録を無視して、
倭国の存在や歴史を抹殺盗用造作した、
半分×書の記紀を根拠にするこの大和説男の方が、疑わしい。
>>681 小型丸底壷が畿内第X様式なら、小型丸底壷は2世紀後半。
ホケノは石塚より古くなる。
しかし、小型丸底壷は、布留1式というのが通説。
布留1式は4世紀。
>>263 大和説のテンプレ的なのは、頼まんでもお前らが、
ここに毎日山ほど投下しおるやろ。
全て論破済みだがなあ。
>>706 ハンヨウは、倭王讃の使節団から聞き出した情報を信用しきれなかったので、倭人伝の狗奴国の字をそのまま用いずに、狗字を別の拘字として、狗奴国ではないかもとはぐらかした。
拘の字には、そういう意味あいが伺われる。
>>266 >九州説のテンプレ的なのは頼まんでもお前らがここに毎日山ほど投下しおるやろ
全て論破済みだがなあ <
大和説者は、毎日山ほど貼り付けるばかりで、
「南→東」などの「都合の悪い文言を否定曲解する嘘吐き騙し」をし、
何々は通説大和説とは違う、と通説に反する事を一言言うだけで、
倫理を構築しようとする気配がまるで感じられんな。
12世紀民間版本では、狗奴国は南方の倭人の南になっているが
ケモノ偏は北方の民族に使うので
後漢書の拘奴國のほうが正しかったのかもしれないな
狥葬や𤝔もケモノ偏になっている
「倭人伝の記載」
・女王国まで1万2千里、そこから水行10日、陸行一月で女王の都の邪馬台国
方向や距離に根本的な誤認があるが、それ以前に「1万2千里未満の九州は女王国でさえない属国」と言う認識が確定してるのが分かる
「中国史の認識」
・台与の後も男性王が立ち使節を継続し、畿内の勢力がそのまま用明天皇から桓武天皇に至るまで同じ系譜上にあると示す
九州説も九州王朝もそもそも頭の片隅にもないのが確定する
どこにも九州説など入り込む余地はない
>>267 まあ大和説なんて、実態は、
九州倭国から別れた別種の旧小国でしか存在しないんだけどな
倭人も東テイ人も毛人も蝦夷も出雲や越もアイネも区別できずに、
アジア人と呼ぶようなもんだ
遣隋使は双方の使節が都に往来しているので「場所の誤認など起こりようがない」
そしてこの使節を送ってきた王を中国は用明天皇であると独自の記録から断定して記載している
白村江で滅んだ九州王朝などと言うバカ丸出しの話など一切存在しないのが分かる
>>269 >邪馬台国=大和を中心として畿内地方に発生した初期王権<
邪馬台国も畿内も存在もしない嘘つき騙し文言であり、
大和は、九州倭国の筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国で、
九州倭国の「東征毛人五十五国」で毛人や出雲系銅鐸祭祀部族を駆逐支配した国。
九州説がどう喚き散らそうが九州説も九州王朝もどこにも存在していないのがよく分かる
中国が九州説のアホの言う日本の隠蔽工作とやらに加担してるとか言い出す気かね?
そもそもが日本の記録に無い独自の記録から中国自身が断定してるのに
笑わせてくれる
>>702日本@名無史さん2019/02/06(水) 15:35:56.45
>高千穂神社は式外社
>天慶年間(938−47)に宇佐八幡宮大宮司の豊後大神氏(大和国の大神氏の傍流)が・・うんぬん。
なかなか詳しいではないか。
その大神氏の祖先であるが、
平家物語にもあるように、高千穂の北にそびえる祖母山の大蛇だったという所縁(言い伝え)があって、
宇佐から嗣子に入り、そこを三田井と名付けて高千穂神社を建て、一帯を再興したのだが、
大蛇というのは、実は邪馬台者なる国人(邪)の隠語であり、
また、三田井の名は、邪・馬台の(マタイ)が訛って三田井(ミタイ)となったものである。
ご承知であったかな。
この訳の分らんリンク入れるバカとか何故か異常者が湧いてくるな
>>710 そんな通説は存在しない
というか、そんな説は存在しない
無知な九州説がまた恥を曝す
>>272 >>筑紫の日向は福岡県西部
浅学にしてそれは知らなかったな
ま、仮にもその日向命名が景行天皇によるものというエピソードが史実だったとして、
神武東征が「記述された」のは当然ながらずっと後の時代な訳で<
記紀は、九州倭国の存在や歴史を抹殺盗用造作した主観的な半分×書であるから、
根拠になり難く、
平安期の王年代紀の証言や歴代中国史書群の証言の方が、
客観性や信頼性がずっと高く、
だから、新唐書の「神武の説明」の方がずっと信頼性が高い。
>古事記や日本書紀の神武東征のルートなら、
間違いなく出発点は筑紫の日向ではなくて、当時(8世紀前半)で言うところの日向国だよ<
王年代記の証言を加味した新唐書は、
大和日本国は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から神武が、大和州に移って出来たものだ、
と証言している。
>>273 >真っ当な日本的倫理観のある人々はお前ら九州説を滅ぼす<
人類の平和共存、という真っ当な日本人的倫理観のある国民は、
お前ら人種差別的殺戮戦争狂の大和説を、拒否する。
中国の歴史書と言うと神功皇后を太奈良姫大神と呼んでいると書いてるがちょっと面白いな
日本の方の記述には見られない呼び方をしてる
八幡神として認知されてる応神天皇はともかくとして、「大神」と記載される皇統の人物は興味深い
>>277 >畿内説にあんまりにも虐められて 閉店したのは九州説なんだよなあ<
「南→東」などの、余りにも明らかなウソを付いて、
国民の7割に否定されているのは、
大和説なんだけどなあ。
>>721 >その大神氏の祖先であるが、
大和大神氏の傍流の大神良臣が豊後に土着
>三田井の名は、邪・馬台の(マタイ)が訛って三田井(ミタイ)となったものである。
爺さんの作り話
>>279 大和説者は、つまり、
「南→東」や「邪馬台国が会稽東冶の東」などの余りにも明らかなウソを付き、
女王國が沖縄や台湾辺りにあるって言って、魏志倭人伝や後漢書の記述を否定曲解し、
何らかの政治的理由が匂う嘘つき騙しの主張をしている、って事よなあ
だから、魏志倭人伝の距離方位は信頼すべきであって、
三角縁神獣鏡は、魏との交流の証ではなくて、
大和の前方後円墳は、卑弥呼の冢ではあり得ず、
倭の3世紀の集権的権力の存在を伺わせず、
卑弥呼の頃の考古学的物象がの殆ど存在しない大和が女王國だなんて、
もうそろそろ撤回してっもいいんじゃないかなあ
古代史をキチガイの妄想の披露場所だと思ってるアホが絶えず湧いてくるな
お前らみたいなのはオカルト板とか行け
バカはお呼びじゃないんだよ
>>690 >儋耳朱崖の風土・習俗が似てなくもないなあ・・、といってるだけ
原文は
所有無、與儋耳朱崖同
有無するところ(習俗を有無で比べると)儋耳朱崖と同じ
「似てなくもないなぁ」ではなく、「ばっちり同じ」と書いてある
>距離・方角・所在地のことは関係ないない。、、
記載位置は
「計其道里、當在會稽東冶之東。」
其風俗、不淫。男子皆露紒、以木緜招頭。其衣幅、但結束相連、略無縫。
婦人被髮屈紒、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。
種禾稻、紵麻、蠶桑、緝績、出細紵、縑緜。其地無牛馬虎豹羊鵲。
兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃。
「所有無、與儋耳朱崖同。」
会稽東冶の東といって、そのあと習俗を並べて、その習俗が同じと言っているのだから、
倭国が「会稽東冶の東という南国」であることを強調してるんだよ
>>727 もう証拠もなく
「ウソだぁ〜」「ウソだぁ〜」
と叫び回るしかないほど
九州説は敗勢ということです
だって実際はねぇ
自分がウソをついてる証拠を突きつけられているんだもの
会稽の東海岸が江蘇省だとかさぁ
>>722 すぐ反論受けないように過去スレにレスしているザラコクという九州説の亡者
番号だけのレスは言われた事を少し変えてオウム返ししてるのを隠すため
通称オウム人間ザラコク
>>705 >その中国が、5世紀以来ずっと、古代九州の都と大和の都の位置をごっちゃに誤認し続けているんだから、話にならん。
いやいや、誤認し続けているのは九州説であって、
3世紀に「九州倭国があった」というのが誤認なんだよw
まあ、3世紀どころか7世紀まであったっていうトンデモなんだけどさw
>>692 今日は九州説はタンリタンリとうわ言のように言わないのか
そろそろ死期が近いのかもな
>>724 >王年代記の証言を加味した新唐書は、
>大和日本国は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から神武が、大和州に移って出来たものだ、
>と証言している。
はいはい
記紀の私製ダイジェスト本を信用しただけだよね
そういうのは証言とは言わない
つまり「よく知らないが、誰かが何処かで確かそう言った筈・・」
という九州説の他のソースと同レベルのものだ
>>716 >「倭人伝の記載」
>・女王国まで1万2千里、そこから水行10日、陸行一月で女王の都の邪馬台国
>方向や距離に根本的な誤認があるが、それ以前に「1万2千里未満の九州は女王国でさえない属国」と言う認識が確定してるのが分かる
畿内説だけれど、これは正しくないと思う
「女王国」が、基本的には「卑弥呼を王といだく範囲」=「女王国連合≒倭国」として使われていて、
「女王国以北」の2ヶ所のみ「邪馬台国」の意味で使われているため、やや記述に揺れがある
「自郡至女王國、萬二千餘里」では、女王国連合の意味なので、
萬二千里は倭国の中の特定の場所を指さない、というのが正解だと思う
タンリとか言う捏造単位を捻りだしたところで1万2千里未満の九州は、邪馬台国どころか女王国でさえないのは変わらんからな
まぁ最初から分かってる事だが史書なんて見たこともない九州説は今日初めて知ったんじゃねぇのかなw
唐書の話をしたいの?良いぜ?
用明天皇(アメノタリシヒコ)は桓武天皇と系譜が直結する人物であると断定してるな
中国側が独自の記録から
当然、大和=邪馬台国
倭から日本への変化は壬申の乱
であることが確定するわけだ
で?なに?唐書がなんだって?九州王朝?は?
唐書読んだことないんだ
しってた
>>725 >人類の平和共存、という真っ当な日本人的倫理観のある国民は、
間違った論説の否定と、人間の生命の抹殺を同列に論じようとする辺りからして、
ザラコク氏はまともな日本人とは価値観が異なることがよく分かる
まあ、ザラコク氏の価値観は、上下関係しかない半島の歪んだ儒教道徳が
基本なんだなとしか思わない
>>629 距離の謎なんてもう解けてる
淮南子に出てくる架空の世界の果てまでの数字1万2千里を
想定上の倭の極南界である会稽東治(冶)の東、台湾や沖縄辺りに当てはめたんだよ
世界の果てにある国という事を本当らしく見えるように書かれたもの
>>282 >大和はヤマト 邪馬台国とはヤマト国の事に他ならない<
大和では、普通では「ヤマト」とは読めない。
また、「邪馬台国」なんて存在もしない嘘つき騙し文言。
>>284 「畿内」なんて存在もしなかった文言を、
何度も繰り返し言ってる人って何なんだろう
変な宗教?
>>633 学者のほとんどは三角縁神獣鏡を文様や記銘文や
科学的な分析結果から魏鏡と考えているようです
>>742 世界の果てまで夢が広がって、きっとすばらしく楽しい日々でしょうねえ。
>>743 ヤマトは元々漢字が日本に存在しなかった頃からの名称
初めは後漢からつけて頂いた倭の字を当てヤマトと読んだ
それが後に大倭、音読みでダイワとなるがあんまりいい意味じゃないと知って
倭を和に変え大和=ヤマトとなった
>>746 九州説にとっては地獄のような日々だろうけどねえ
女王国の端にさえ含まれない属国
それが倭人伝が明確に示す九州
夷守と言う辺境の守備兵が配備され、一大卒と言う派遣された官僚に監視されて怯える土地
それが女王国の外部の属領である九州
>>738 女王国に関して、オレは、やや違う読み方をしているけどな。
それは、下の文章がでる前と、出た後で、女王国の意味あい(定義)が違うと思うからだ。
下の文章が出る前は、卑弥呼は邪馬台国だけの女王であった。
だから、この段階の「女王国」は、邪馬台国と同じである。
(なおこの時期には、「女王」という言い方もあるが、それは邪馬台国の女王ながら、
すでに倭国全体に影響力を及ぼしつつあったので、のちに共立女王入りする諸国群を指していったのであろう)
其国本亦以男子為王。住七八十年、倭国乱相攻伐歴年。乃共立一女子為王。名曰卑弥呼。事鬼道能惑衆。
この文章の後に登場する女王国は、当然ながら共立倭30国を指している。
つまり女王国=倭国であり、卑弥呼自身は倭女王と呼ばれている。
なお、親魏倭王の称号を得た後の卑弥呼は、これまた当然ながら「倭王」と呼ばれている。(ご参考まで)
>>287 女王國は謎だらけで色々不明だが
「邪馬台国」とかの存在しない嘘つき騙し文言を使い、
「南→東」などの嘘つき騙しをする大和説者が、
発狂してるのは確か
>>638 前書きに三世紀から数百年書き写される内に
誤字が多くなったと書かれている12世紀成立の現行魏志倭人伝は
同時代記録とは呼べない
『精神科』に行ったほうが良いぞ、検索すると出てくるから
>>644 AMS法で誤差を含んで
ホケノ山木棺のサンプル5つが120〜240年頃と測定されている
副葬品からもホケノ山が三世紀中葉以前なのは確実
ゆえに有棺有槨は三世紀中葉の葬儀形式
ホケノ山は有棺有槨だから三世紀中葉
>>752 九州説が毎日こんなに
狂ったように悪しざまに罵るのは
畿内説に負けた自覚があはからだな
倭人伝の九州に関する重要なキーワード
・1万2千里未満で女王国にさえも含まれない
・女王国に統属している
・一大卒が駐在している
・夷守があちこちに配備されている
これ以上ないくらい辺境の属国として扱われてるのがよく分かる
どこのバカがここに日本の中心があるとか言うのか理解に苦しむわw
漫画とかアニメの話をしているんだろう?
そこから影響を受け、発祥・起源を主張しているとか
本物なら・・・、このように言うだろう
日本(倭国?不明)起源の神はいません、
すべて渡来系です、その後に創作された神々・・・その他大勢
>>755 >ホケノ山は有棺有槨だから三世紀中葉
ホケノ山に槨があるって根拠は何もないぞ
>>296 >潮が上がってくるところでは、舟底に牡蠣が付いて水切りの抵抗が大きくなり、速度が減じる。
それに上流だと波がないので、舟着きが安定する。 だから、河口の上流の淀みに舟を着けた。<
唐津湾の松浦川の河口付近は、玄界灘の対馬海流の反回流が強くて、
松浦川との堆積砂丘が出来て、どこに浅瀬があるのか?が全く決まらず、
中型船では何時座礁転覆するやも知れず、危険。
しかし、唐津港付近の陸繋島付近であれば、非常に判りやすく、安全。
>>648 そういう風に書かれているから
魏志倭人伝の邪馬台国の位置は現実的なものではなし
>>297 天皇家とか万世一系との繋がりを、過剰に意識してるのは大和説でしょ
神武東征とか九州倭国が遷都とか
>>650 辻褄合わせて魏志倭人伝を書いたのは恐らく陳寿
>>761 じゃあ現実に河口に遺跡があるのは何故だ?
西唐津には何の痕跡も無いのは何故だ?
>>654 不彌国までは1万700里
そこからさらに南に水行陸行する
そして魏志倭人伝には邪馬台国の位置は会稽東治(冶)の東
沖縄や台湾の辺りと書いてある
>>655 考古資料や史書の記載や科学的な測定結果に包囲されているのは九州説
もはや風前の灯
>>721 つづき
高千穂を再興した三田井氏(≒馬台氏)の祖が、
高千穂の北にそびえる祖母山の大蛇であったと陰口されたのには、歴史的な理由があったと思う。
邪馬台国女王之所都は、ほかならぬ高千穂町の主邑の三田井であったと述べたが、
その女王卑弥呼が拝した親魏倭王の金印は、いったいどのような形状をしていたのであろうか・・・。
此処で参考になるのは、漢倭奴国王之印である。
そのつまみは「蛇紐」といわれるもので、大蛇が身をひねって振り返るものであったという。
これは南蛮の国々へ下賜されたという。
おそらく、というよりほぼ間違いなく、親魏倭王の金印も「蛇紐」だったであろう。
このことから、
親魏倭王卑弥呼を戴く邪馬台国は、「蛇・大蛇の国」と揶揄されることになったのではないか・・・。
>>767 もう風に吹かれて飛んじゃったから
老残アマチュアしか残ってないんだよ
>>669 元は匈奴とかそういった過酷な所に居たのかも知れない
そして李氏朝鮮時代に目に余る非人間的儒教社会で千年過ごしたため
非人類的な思考が遺伝的に固着されてしまったのかも知れない
>>763 >天皇家とか万世一系との繋がりを、過剰に意識してるのは大和説でしょ
>神武東征とか九州倭国が遷都とか
それ、明らかに畿内説じゃないよな
九州説はどうしてウソばかり毎日つくんだ?
>>318 >>だから、260年以後から陳寿執筆時には「会稽東冶」という表記は起こり得ず、
陳寿も記載しておらず、従って、晋代になってからの、<
>『三国志の呉書』に「會稽東冶五縣賊呂合」ってあるんだから、
陳寿の時代に會稽東冶という認識があったのは確認できるだろ?
三国志の呉書の執筆者が陳寿じゃないとか、また突飛なトンデモを唱えるつもりかい?ww<
「會稽東冶五縣賊呂合」の記載は、260年の分郡の前の記載であり、
陳寿執筆時には、分郡によって「東冶」は会稽郡から建安郡の変わっていたんだから、
若しも「東冶」の事を書こうとするんなら、建安東冶としなければならない筈なのであり、
だから、陳寿は地の文で「会稽東冶」なんて文言を書いていないのであり、
だから、陳寿が書いた「会稽東治」は「会稽東冶」ではないのであり、
だから、「会稽東冶」と解釈した范曄は、自己解釈での間違いをしていた事になる。
>>323 >>だから、「会稽東治之東」のくだりと、「儋耳・朱崖」のくだりは、全く関係ない。<
>書き始める前に資料を集めて、それで書き始めているんだから関係ない訳ないだろ?w
儋耳・朱崖のくだりは陳寿の「倭国は南国」という認識を強固にしてるんだよ
だから陳寿は自信を持って、計其道里當在會稽東治之東って書いてるんだよ <
「計其道里當在會稽東治之東」という文言は、儋耳・朱崖付近を全く指していないから、
この類スレ主の話は、全くの嘘つき騙しであり、×。
>>326 このように、まったく証拠を出さずに、
都合の悪い史料事実の否定曲解のウソ付き騙しをするのが、
大和説。
>>698 論客じゃなくて動物しかおらんようだが
サギとか馬とか鹿とかな
あとお前ん所のオウム早い所引き取ってくれんか
>>329 >古代に「畿内」が存在にする、なんて事を何度も繰り返し言ってる人って何なんだろう
そういう架空の文言を叫ぶしか反論できない、かわいそうな人なんだよ
あと、邪馬台国なんてないっていうのも繰り返してる
>変な宗教?
「万世一系の皇国史観」っていう宗教教義を根本経典にしている、
カルト宗教の信者だよ
また自分にレスしてる
本当にバレてないと思ってるのが笑える
>>760 そう言ってるザラコクに文句は言ってくれ
>>767 >考古資料や史書の記載や科学的な測定結果に包囲されているのは九州説
>もはや風前の灯
2行目が間違っている
九州説はとうの昔に、既に否定されてるんだよ
位置論争なんてものが存在してると思ってるアホが九州説
>>773 >「計其道里當在會稽東治之東」という文言は、儋耳・朱崖付近を全く指していないから、
>この類スレ主の話は、全くの嘘つき騙しであり、×。
残念でした無知ゆえの間違い
会稽東冶は会稽と儋耳・朱崖の中間地点
つまり、ぴったり
三世紀には虹ノ松原も無く松浦川が唐津湾に注いでいた所(河口)は今の競艇場あたり。
唐津市側では上陸してから川を渡らなければならなかった。
上陸地点は唐津市側ではなく、競艇場より南側が妥当だろう。
すると、前原のほうが伊都国ではおかしな話になる。
壱岐から前原までと、競艇場側が同じくらいの距離になる。
船で来たなら伊都国へ直接行ったはず。
マツロ国に立ち寄る理由が不明である。
草木が生い茂り前を行く人が見えないくらいの山道歩かなければならない、マツロ国への上陸の理由はないだろう。
伊都国は前原ではなく、佐賀市側にあったと考えて法がいい。
陸路で行くほうが距離的にも安全性から言っても便利だったからであろう。
伊都国が佐賀市のほうにあったら、邪馬台国が奈良県のほうにあったなんてありえない。
地政学から言っても、考古学から言っても、文献学から言っても畿内説は成り立たないクズ説。
>>775 ウソつくな
証拠はあがってるんだよ
誤魔化しても逃げられないぞ九州説
>>776 少なくとも、鹿は畿内大和の名物だろ
それに白いサギも五畿内の名所名物ではないか?
馬だけは喜んで引き取ろう。なんせ邪馬台国と投馬国は九州説の売りだからな。
>>772 >陳寿執筆時には、分郡によって「東冶」は会稽郡から建安郡の変わっていたんだから、
>若しも「東冶」の事を書こうとするんなら、建安東冶としなければならない筈なのであり、
歴史は事件当時の歴史的地名を使うのが常識
>>768 >高千穂を再興した三田井氏(≒馬台氏)の祖
いや、三田井氏=大神氏は真神田朝臣(まかみた)
>>786 鷺と鹿はそうかも知れないけど
詐欺と馬鹿は九州説の特徴だろ
>>332 >高祖山をクシフル山と呼んだことが確認できる資料が、明治より遡らない
その資料でも取って付けたような語呂合わせで、信憑性がない<
「クシフル」というように、
漢字も使わず「音韻」だけが残っている、という事が、
書き替え難い呼称であって、その古さや価値の高さを示す事。
>日向峠を重視するが、平良平野側の地名で、伊都国とは関係ない <
平良平野の海岸の姪浜が、天照とスサノオとツキヨミの生誕の聖地であり、
天孫降臨の地でもあり、吉武高木も飯森神社?などもある倭奴國の発端の地。
>>789 よしよし、九州には、詐欺も居れば、馬鹿もたくさんいる。
しかしだからといって、邪馬台国・倭国がなかったわけではない。
むしろ倭人伝の当時の九州はそういう野蛮極まる世相・土地柄であり、
だから奴婢100人を生き埋めにするなどという非人道がまかり通っていたのだろう。
それを嫌った神武は、
大和で新天地を開き、平和の都・奈良を築いたのだ。
畿内大和の人間たちには、そうした歴史的意義を発掘してもらわなくてはならぬと思っている。
>>341 >自己解釈に拠る高慢な書き換えなんて根拠が無いどころか
魏志倭人伝の転記ミスであるというのが理性的な判断だな<
陳寿が地の文で「東冶」と書こうとするんなら、分郡の後だから、
(会稽東冶ではなく)建安東冶と書く筈だったのであり、
だから、陳寿の「会稽東治」は間違いでもなんでもなく、正しく、
後漢書の「会稽東冶」の方が「自己判断に拠る間違えた書き換え」であった事になる。
>>343 >確認できるのは「明治5年から7年にかけて調査」の時点までだよ
「枆」の字も「うつぎ」と読むのであって、どこが「クシフルの訛」なんだかw<
呼称に、「意味不明な呼称と意味が解る呼称」の二つの情報があった場合、
「意味が解る呼称を意味不明な呼称に変更する」という事は通常には起こり得ないから、
意味不明な呼称の方が、意味が解る呼称よりも古い呼称であった、という事になるのが、
人類の常識。
こんな事は、對海國と對馬國の場合や、一大國と一支國の問題でもあった。
>>344の訂正
(PCの調子が悪く、訂正しようとすると、前に訂正した文字が混入するらしい)
そして「1万2千里は長里だ」という大和説の主張では、
赤道付近に行ってしまうので、崩壊してるのも十分わかっている。
そして考古物象で見れば、大和は3世紀の魏と交流がなかった事は明らか。
ゆえに卑弥呼のいた女王國は九州、というのがシンプルな結論。
>>346 >長里なんて言葉を使うのは、九州カルトの人だけ
あるのは魏晋里 <
魏志にあったのは、魏朝西晋朝の里であり、短里。
>畿内説は、萬二千里は淮南子の観念的な値を書いているだけだから、
現実の地理とは関係ない数字って言ってるんだよ <
「畿内」なんて、古代には存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
魏使らが「淮南子の観念的な値を書く」というインチキをして、
皇帝らにバレれば首が危ないから、魏使らはそんなインチキはしない。
それが、人類の常識。
帯方郡から一万二千里は王都の所在地。
卑弥呼が統べる倭国の国境は帯方郡から七千里の狗邪韓国だ。
邪馬台国は九州から出ない。
>>799 短里なんて語彙は、中国の歴史にはない。
>>798 長里などという語彙は、中国の歴史にはない。
魏志倭人伝の地理情報を現代の地理にプロットすれば、一里は100メートル以下だよ。
九州は1万2千里未満の女王国にさえ含まれない属国
女王の都はそこから更に水行10日、陸行一月の場所にある
九州は一大卒に監視され、各地に辺境守備兵が配置されている女王国に統属した属領
そして中国史ではは畿内の勢力が邪馬台国からそのまま平安時代の皇室にまで中心として存在していると示し、
さらには大和=魏志の邪馬台国であると【明記】している
九州説がどう珍説を喚き散らそうが九州説も九州王朝も微塵も存在してないのが分かる
>>772 東冶という地名は、後漢にはすでにあり、その地は福州市あたりになる。
会稽東治(冶)は、会稽と東治(冶)の南北範囲という意味。
>>803 その当時の公定単位は、1里=434m。
・日本は会稽の東に無い
・九州の中でさえも距離も方向も間違いだらけ
・伝説の頃の記載と変わらない地理感覚
こんなものは何の意味もないと言う証拠にしかならない
そして行程でむしろ大切なのは
・1万2千里未満と【明記】されている九州は女王国でさえもない属国であると言う中国の認識
更に中国は畿内の勢力がそのまま中心として平安時代にまで継続してると理解している
なんのことはなく、畿内に邪馬台国があってそのまま畿内が日本の中心地として機能してるとハッキリ書いてあるのが分かるだけ
九州説とか言うバカがどんな妄想を泣きさけぼうが九州説も九州王朝も最初から存在してないのが分かる
>>807 必死連呼の落選予定候補みたいだぞ。
おかわいそうに、、、
>>358 大和説は、論破されたから、
嘘ついて悪口書くしか無くなったのだろうな
>>761 「唐津平野の地形分類図」というのを見ると、久里遺跡があるあたりが港だろう。
自分の誤入力をPCの調子のせいにし
連投規制にひっかかったの投稿拒否という
すべて相手が悪く自分は絶対正しいという
傲慢の塊のような性格のじいさんがいるな
>>360 古代中国の九州の定義
『尚書』禹貢による九州は、
冀州、?州、青州、徐州、揚州、荊州、豫州、梁州、雍州を指した。
『爾雅』釈地による九州は、
冀州、豫州、雍州、荊州、揚州、?州、徐州、幽州、営州を指した。
『周礼』職方氏による九州は、
揚州、荊州、豫州、青州、?州、雍州、幽州、冀州、并州を指した。
倭は入ってないね ・・・<
当たり前。
倭人は「燕の南」にいた、と言っても、どこまで南か?は判らんが、
当然、冀州や青州は入るんだろうなあ。
揚州にも倭人がいた可能性もある。
>>747 「ヤマトは元々漢字が日本に存在しなかった頃からの名称…」
それが、何かで確認されればいいんだがなあ〜。
確認しようがない。
しかも、ヤマトという地名があったことも確認されない。
だから、ヤマトが奈良発祥の言葉だと確認できない。
ザンネ〜ン。
櫛田神社とかあるな
誰々を倒した神様が祀られているのかな
北陸の化け物を倒したとか
気多大社の伝承に出て来る化け鳥、オロチが倒された話と被るな
>>791 詐欺と馬鹿が主張する九州説を信じると思っているのか
>>362 「南→東」などの大和説は、嘘つきの始まり
>>368 「南→東」などの騙しの大和説は、嘘つきの始まり
>>371 >畿内説は、渡海距離は測定方法がないから、遠い距離という意味で
一律に千里としていると言っているんだが? <
畿内なんて列島の古代に存在しない嘘つき騙しの文言だし、
渡海の距離は一寸千里などの測定方法があるし、
「遠い距離だから一律千里とする」とかのインチキをして皇帝らにバレれば、
首が危ない、
と繰り返し教えてあげているんだが・・・。
ERROR: We hate Continuous...
連投ですよ
問い合わせID:4a4d9a989f6fae69
ホスト:p1650162-ipad020105kobeminato.hyogo.ocn.ne.jp
名前: 日本@名無史さん
E-mail:
内容:
>>374 「南→東」などの騙しの大和説は、
嘘つき人間の始まり。
>>818 日本国に日本県が無いのと同じだよね。
九州倭国=ヤマト国にヤマトという地名は無い。
>>816 >>819 陳寿が魏志倭人伝にそうやって書いたんだから諦めろ
九州についてはハッキリと「女王国の範囲外の属国」と書いてるから安心しろw
遠賀川の石と手を組んだ瀬戸内海の勢力が九州北部を支配下に置いていたんじゃないのかな
魏志の邪馬壹国は他の史書文献に載ってる邪馬臺国とは全く別の国だ
12000里は1里76メートルの単位を使って誰かが測量した結果で正確なんだよ
水行10日陸行1月は帯方郡から邪馬壹国の所用日数
水行20日は帯方郡から投馬国ね
旧唐書にも倭国と日本は別と書いてあるし7世紀まで九州は独立王朝で讃やら武やらが南朝に独自に朝貢してた
中国史は用明天皇(アメノタリシヒコ)とその後の桓武天皇が同一系譜の存在だと【明記】している
なので
大和=魏志の邪馬台国
倭から日本への改称=壬申の乱
これが【確定してる】
九州王朝も九州説も中国は一切考えてもいないのが分かる
唐書にこれが【明記】されている
九州キチガイがどんなにホラを叫ぼうが事実は変わらない
>>822 このように全ての事実に反した嘘を
延々とつき続けなければならない九州説を主張してると脳がやられ
ついにオウム返ししてばかりのオウム人間の出来上がり
畿内説は嘘は言っていない
>>827 >旧唐書にも倭国と日本は別と書いてあるし7世紀まで九州は独立王朝で讃やら武やらが南朝に独自に朝貢してた
ザラコクの大好きな
後世の人の「自己解釈」wに
ザラコクは全面依拠ww
意地になって九州説やってると多分
感情を司る前頭葉とか萎縮していくんだろうな
オウム人間ザラコクはすでにそういう病気かも知れぬ
ザラコクの死亡後
医者が解剖したらザラコクの脳みそがオウム並みに小さくて驚くかも知れない
北朝系の隋、唐は南朝への朝貢について詳しく記載しない
三国志も魏の外交は書くが蜀と呉の外交は書かない
正統の朝廷以外への朝貢など書く必要が無いから
ただそれだけ
別個の王朝があったとか言うバカ話ではない
そして詳述はしないが「晋、宋、斉、梁、隋」と使節が来てる事は示したうえで「用明天皇(アメノタリシヒコ)」の遣使に触れている
さらに大和=魏氏の邪馬台国と明記することで畿内の勢力が継続して使節を送ってる事を示している
バカの喚き散らす九州王朝など存在しない
そもそも九州は五王の時代には完全に畿内から押し付けられている古墳秩序の下位の地位に甘んじている状態
関東から九州に至る地域を支配する上位存在に従う属領であることが分かる
磐井も同様
日本を代表する政権など影も形も見いだせない
バカの妄想する九州王朝など史書にも考古学的な遺物からも全く見いだせない
>>192 奈良の大和は、(おおやまと)。
大和神社由来だろう。
ん?
前にも言ったよな。
ヤマトの地名はない。
>>818 倭をヤマトと読んだ証拠は、ないだろうな。
>>835 おおやまとと自分で書いておるだろうが
それなら小やまとと普通のやまともあったに決まってるだろ
京都は山の背後ウシロの地で山背ヤマシロ
川で囲まれた、川の内側の地で河内カワチ
山の向こう側の地で山外ヤマト
地形に由来した単純な命名やろな
それが一番自然
山門をヤマド、ヤマドイと読むのはニューカマーだろう
大中小のやまと3つが揃ってる畿内こそ邪馬台国に決まっている
大和は存在しないと喚き散らし山門は古代からあると言い張る異常者
そもそも読みが違うがそんなことは気にもしないバカ
>>695 鉄が溶けると同じレベルなんだよなぁ、それ
小型丸底土器は主体部から出ちゃってる
試料として最適な主体部から出た小枝のC14の測定値も同じ理由だそうだ
都合の悪いものはすぐに省くよな
石野さんはこの事を事実として受け止めて考えていらっしゃったから、好感が持てたな
ノカツギも畿内では古墳時代に入ってからしか見られないし、
色々と鑑みれば3世紀末以降だろう
瀬戸内海の西の端が日向なら、日本はそれより東にあるということやな
瀬戸内海の東の端が日本かもな
>>837 国名としてのヤマトは、あった。
しかし、地名のヤマトは確認されない。
それに、「小やまとと普通のやまともあったに決まっているだろ」、と言ってもその証拠がない。
>>383 >三国志は儒教精神で書かれた史書である。
神獣鏡は道教の鏡であり、魏晋王朝はどちらかと言えば道教を嫌っている。
道教を鬼道と記しているからね。
その、王朝から、道教の鏡を朝遣してきた倭国に与えるわけがナイ。
中国の考古学者が言うには、洛陽で神獣鏡が作られるようになるのは、呉が滅んだ後、
呉の鏡職人が分散して楽浪や洛陽に行ってからだという。
魏晋の朝廷では道教は嫌われていたが、家臣にはひそかに道教を信仰していて、神獣鏡の需要は有ったらしい。
呉が滅んだのは280年の事だから、その後だね。
ホケノ山から画文帯神獣鏡が見つかっているから、ホケノ山古墳の築造時期は290年以降になるだろう。
ホケノ山の鏡は楽浪鏡と言う、楽浪郡で作られた鏡だから。
箸墓は4世紀以降の築造だよ。 <
成程。
邪馬台国はヤマトだよ
畿内の大部分、河内和泉摂津山背は邪馬台国ではない
それにしても、いかにもネタが貧しいねぇwww @阿波
>>827 九州説の人、これに付け足してテンプレお願いします
>>845 大やまとは何と比較して大と付いているのか?
中と小のやまとに対してと簡単に証明される
ゆえに畿内には中やまとと小やまともあった
>>847 邪馬臺=ヤマドイ。
邪馬台=ヤマトではない。
>>852 訂正
邪馬臺=ヤマドイ。
邪馬臺=ヤマトではない。
>>850 距離の比例計算だと短里で理解できる
短里が当時オーソライズされてたかは不明だか
倭人伝に限らず短里を用い中国の文献のベトナム?などとの距離も解明できるな
>>854 学があろうがなかろうが、ヤマドイと発音したのは古代中国人。
>>790 >「クシフル」というように、
>漢字も使わず「音韻」だけが残っている、という事が、
古事記
竺紫日向之高千穗之「久士布流」多氣
日本書紀本文
「槵日」二上天浮橋立
一書
筑紫日向高千穗「槵觸」之峯
日向「槵日」高千穗之峯
日向襲之高千穗「槵日」二上峯天浮橋
日向襲之高千穗添山峯
記紀の頃から漢字表記はある
それが伝わっていないのならばかなり適当な正統ではない伝承ってことだろう
>>388 「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は
九州説に反抗できる事なら、
九州説者の話の言葉や内容をこっそり少し改竄して、
間違いになるようにすり替えをして、
どんなウソでも平気でついて、する世間の人々を騙して、
九州説へのヘイトスピーチをするなあ
>>857 それ山門じゃないから
山門地名は福岡でもヤマト
ヤマカドは姓の読みが多い
>>828 用明天皇の諡号は多利思比孤(たらしひこ)ではない。
橘豊日命(たちばなのとよひのみこと)だ。
何度言ったらわかるんだ。
畿内説は嘘ばかりだ。
>>796 >呼称に、「意味不明な呼称と意味が解る呼称」の二つの情報があった場合、
いや意味が分かる分からないではなく、「枆うつぎ」が「クシフルの訛」と
音・読みのこととして書いてあるのが通らないっていってるんだよ
ザラコクは日本語で討論する能力がない
九州の倭(ヤマト)が勢力を拡大して出来上がったのが大和(オオヤマト)だよ。
それが漢文の用法だ。
三国志にはいくつか類例があったはず。
調べてみた?右翼?とか、そういう類がいるでしょ、
ほとんど朝鮮人(不明)だという話だしな
『天皇教』
というのとも大体、繋がるし・・・、
創価、部落?何なんだろう
>>858 >記紀の頃から漢字表記はある
>それが伝わっていないのならばかなり適当な正統ではない伝承ってことだろう
天孫降臨が記紀よりずっと古い話だからだよ。
畿内説はどうしてなん100年も後のことしか持ち出せないんだ?
おおやまとは美称さ
その証拠に大和は後に普通にやまとと呼びならわされている
渡津海乃 豊旗雲尓 伊理比紗之
わたつみの とよはたくもに いりひさし
今夜乃月夜 清明己曽
こよひのつくよ さやにてりこそ
豊日と言えばこの歌を思い出す
どういう意味があるのだろうか?
後漢書は倭の北限が狗邪韓国、倭の南限が倭奴国で、畿内など出てこない。
魏志倭人伝には後漢代までさかのぼった記事が書かれているのに、九州から畿内への遠大な東遷は書かれていない。
いつ倭は畿内に東遷したのかな?
>>390 つまり
「大和天皇家」とか「万世一系」とか「畿内」とか「大和朝廷」とか、
皇国史観そのものになる内容の投稿をしておいて、
捏造して皇国史観なんて言っていない事にして、
世間の人々をだまそうとする、
というわけだね?
九州説の捏造体質はひどいものだ
『松傾』
天皇、皇后〜とか・・・これも嘘、ねつ造でしょ、
本当は古代中華、神仙界の話?
>>867 日本語すらまともに読めなくなった哀れなキナイコシ
>>869 魏志倭人伝にある倭国大乱の桓霊間160〜180年だろ
神武東征が記紀にも書いてある
家(『松傾』)自身が知らないと言っているんだから、そうでしょ?
>>873 どういう事だ
もしかしてそちらさんは大和をやまとと読めないの
>>859 >>827で理解に間違い無いか添削をお願いします
>>846 画文帯は、2世紀から造られているそうだけど。
>>877 1里=76mと測ったのは、古田武彦という人物だそうな。
地図上で測っただけだけどな。
九州は1万2千里未満の女王国でさえもない属国だと【明記】されています
邪馬台国は畿内だと【明記】されています
九州キチガイどんなにホラを吹こうが現実は変わりません
>>405 >画文帯神獣鏡は後漢の2世紀から造られ、3世紀にも継続して造られた。
ホケノからもこの鏡が出るが、だからといってホケノが290年以降の墓にはならんだろう。 <
どなたか?が書いておられたように、
中国の考古学者が言うには、洛陽で神獣鏡が作られるようになるのは、呉が滅んだ後、
呉の鏡職人が分散して楽浪や洛陽に行ってからだという。
魏晋の朝廷では道教は嫌われていたが、家臣にはひそかに道教を信仰していて、神獣鏡の需要は有ったらしい。
呉が滅んだのは280年の事だから、その後だね。
ホケノ山から画文帯神獣鏡が見つかっているから、ホケノ山古墳の築造時期は290年以降になるだろう。
ホケノ山の鏡は楽浪鏡と言う、楽浪郡で作られた鏡だから。
だろ?。
>>873 大和をヤマトと読んだという証拠はない。
>>882 このように出所も明らかでない怪情報を使って主張し、受けた反論は無視して連呼するのが
九州説というものらしい
>>860 山門をヤマトと読んでいるのは、今の九州人。
3世紀の九州人は、筑後山門の地をヤマドと呼んでいた可能性は高い。
>>406 >1万2千余里と実際の邪馬台国の位置とは、無関係。
無関係なのだから、1万2千余里をいくらひねくっても、邪馬台国の市とは関係ない。<
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
女王國までの里数の「萬二千(余)里」は、
魏使らの記録も、魏志も、魏略も、後漢書までも使っているから、
いくらなんでも、四人全員が淮南子の「萬二千里」を踏襲したことには、
ならんだろ?。
大和は好字令で付いた文字
万葉仮名だと夜麻登
変遷を見れば大和、倭がヤマトと読んでいるのが分かる
能無し九州説は本なんて一つも読んだことも無くバカサイトを鵜呑みにしてるのがよく分かる
>>886 なるんだよ
1万2千里が出てくるのは今のところ淮南子が一番古いからな
もしかしたらもっと前からあった説なのかも知らんが
>>415 今日も、「南→東」などの史料事実の否定曲解の、
捏造工作に勤しむ大和説の滑稽な様子を楽しんでますよ
古事記での大倭の初出は大倭豐秋津嶋だが、これは後付けだろう
これを除くと初出は大倭日子鉏友命で、このあと欠史八代のうち
4人の大王の和風諡号に使われている
そして、大倭根子日子國玖琉命・孝元天皇の子が若倭根子日子大毘毘命・開化天皇となっており
大倭が親、若倭が子という関係になっている
これは大帶日子が親(景行天皇)、若帶日子が子(成務天皇)というのと同じ関係になっている
もともと倭でヤマトだったのが、大倭表記が生じたのは、こうした親子関係からかもしれない
ちなみに神皇正統記では「ヤマトは山のふもと」から転じた物としてる
なので日本中どこにでも存在しえる物で「ヤマトがある!ここがヤマタイ国だ!」とかものを知らないサルらしい解釈
ヒダカとか、カワチも同様
そしてこの土地が中心として成長した結果、日本全国の代名詞的呼称になったとしている
つまり元からハッキリしたクニ名などがある場所はむしろ除外される
伊都国、奴国などの名があるのなら普通はそれが「国号」になる
これが採用されずに「ヤマト」が国号になってる時点で九州のクニグニは該当しないのが分かる
調べなくてもわかるはず、
ほとんど同じ話(説)ばかりでしょ
どの時代からなのか知らないけど、
偽(不明)のようなのばかりだぞと言っていたり
>>866 >天孫降臨が記紀よりずっと古い話だからだよ。
>畿内説はどうしてなん100年も後のことしか持ち出せないんだ?
今問題にしているのは、明治の文献の話だぞ
記紀より1300年後の話だ
九州説は本当に時系列を理解しないよなw
>>867 大和をヤマトと読んだというその証拠は?
倭国王卑弥呼がいたところやから、後世に倭という字を当てただけやろ
ヤマト→倭→大倭→大和
ヤマト至上主義は日本の歴史を歪めている原因やな
本当に・・・・何か事件でも起きたのかな?
老婆談によると、泥棒のようなものに入られたと言っていたり
まず、倭人伝の全体里数(帯方郡〜女王国)を: 1万2000余里と置き、
実際の内訳は、
帯方郡〜(水行)〜狗邪韓国(7000余里)
狗邪韓国〜(渡海水行)〜末盧国(3000余里)
末盧国〜(陸行)〜女王国(2000余里)
と、概ね実地体験距離に比例するよう配分してあるのだから、
現代の知識を用いて、どこで計ろうとも、おおよそ75m前後になるのは当然、不思議でも何でもない。
>>885 あちこちから炭鉱夫が集まった炭鉱で
元の山門の読みヤマトを知らないからヤマド、ヤマドイと読んでるだけだろ
>>420 >3世紀の筑紫に陶器があり生産してたなんて史料実態があるわけないだろ
その史料名さえ出さない九州説を世間の誰も認めねーよ <
そう言えば、吉武高木から陶器が出た話があったし、
中国の黒陶灰陶や楽浪や伽耶の陶器が入って来ていた話もあったし、
筑紫の遺跡から「土器に交じって、白色の陶器片が混在して出土」していた写真を、
内倉さんが紹介しておられたなあ。
>>889 >1万2千里が出てくるのは今のところ淮南子が一番古いからな
>もしかしたらもっと前からあった説なのかも知らんが
確認した範囲では淮南子が一番古いと思う
その前になると山海経になるが、山海経の世界観では「夏王朝が治めた九州」が方三千里で、
その外側の蛮夷の住む四海を含めた世界全体が、東西二万八千里、南北二万六千里としている
漢土の外は、東西それぞれ万二千五百里(28,000-3,000/2)、
南北は万千五百里(26,000-3,000/2)となるので、
これが萬二千余里の基礎になっているように見える
また、漢土は秦・漢の統一を経て、方万里に拡大されている
ちなみに、この漢土方万里という観念が、万里の長城の「万里」の元
これに合わせて、倭国本土(本州、四国、九州)上陸までを漢代に万里としたようだ
この世界観に五行思想を入れて、中央も萬二千里として、東西南北+中央之極を
すべて萬二千里で揃えたのが淮南子の世界観
淮南子時則訓
五位,
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太?、句芒之所司者,萬二千里。(中略)
南方之極,自北戶孫之外,貫顓頊之國,南至委火炎風之野,赤帝、祝融之所司者,萬二千里。(中略)
中央之極,自昆侖東絕兩恒山,日月之所道,江漢之所出,眾民之野,五穀之所宜,龍門、河、濟相貫,以息壤堙洪水之州,東至碣石,
黃帝、後土之所司者,萬二千里。(中略)
西方之極,自昆侖絕流沙、沈羽,西至三危之國,石城金室,飲氣之民,不死之野,少?、蓐收之所司者,萬二千里。(中略)
北方之極,自九澤窮夏晦之極,北至令正之穀,有凍寒積冰、雪雹霜霰、漂潤群水之野,顓頊、玄冥之所司者,萬二千里。
文字記録が残っている時代から大和は様々な字が当たるが「ヤマト」と読んでいる
邪麻土、夜麻登、山迹、山止、耶麻堆
全て「ヤマト」
むしろ読まなかったと言い張るような要素はない
>>899 測ってみると1里40mになったり160mになったりするそうだが
>>899 >、概ね実地体験距離に比例するよう配分してあるのだから、
>現代の知識を用いて、どこで計ろうとも、おおよそ75m前後になるのは当然、不思議でも何でもない。
これが何度も九州説が繰り返し書く大ウソ
比例してないし、比定地がはっきりしている場所で計ると一ヶ所たりとも
75メートル前後にはならない
ホラ吹き九州説はどこにも根拠のない妄想を喚き続けるばかり
>>892 ヤマトの意味については、いろんな説がある。
神皇正統記の解釈は、そのうちの一つにすぎん。
「ヤマトは山のふもと」説が正しいかどうか、証拠がない。
やっぱ九州説の主張1里76.5mはそれっぽく見せる値でも何でもなくて
適当に思いついたとか何かの語呂合わせとかそういった数字の可能性があるな
無意味な嘘で人を引っ掛かけて喜ぶ腐れ儒教的幼稚さの表れかも知れない
ナムコのゲームが好きとかその程度だろw
バカ九州説のレベルからして
>>908 「川の内」側のカワチから見て、生駒山塊の三室山と金剛山塊の明神山と
いう「山の戸」の向こう側がヤマトっていうのでいいんじゃないかな
>>439 >景初3年の画文帯神獣鏡があるのに何言ってるのだか><
そりゃ、景初3年の紀年鏡の楽浪系の鏡だから、
明帝の下賜の鏡ではなく、
呉系楽浪鏡師らの渡来製作の鏡だったんだろう。
実は意外と繋がってたりするかもな
ナムコと76・5m
両方ともあちらさんの国関連だったりして
>>913 何も理由を言わず、ただ連呼する九州説は
もはや説ではないな
>>900 ヤマドイは、邪馬臺の中古音。
古代中国語の発音。
ヤマドは、その古代中国人が音写した元の言葉だと推測しているもの。
ヤマトの発音を音写しても、ヤマドイにはならん。
つまり、邪馬臺はヤマトから音写したのではないということ。
気づいているだろう、
他のネット掲示板(質問?)などで偉そうなことを語っているのがいるけど、
何様なんだ?
>>916 臺の中古音のdɒi(ドイ)は王力系統の隋唐音
山門ではヤマカドとも読んでるのだから他所から来た炭鉱夫
読んでいる側から言わせてもらうと大爆笑だと言っているんだよ、
あとテレビなども同じw
歴史ヒストリアでも二大勢力は畿内VS東海だったな
一般向けレベルでも浸透してきている
>>904 大和を夜麻登と読んだと、どこかにその夜麻登のふりがなをした文献があるのか、ということ。
そうした文献がない以上、大和をヤマトと読んだというのは推測にすぎん。
例えば、平安時代初期の和名抄では、筑後山門郷をヤマトの万葉仮名でフリ仮名している。
山門を確かに、ヤマトと読んだことが分かる。
一方、この和名抄では、大和の国の大和は於保夜萬止とフリ仮名している。
ヤマトではない。
>>924 追加
つまり、和をヤマトと読んでいるわけ。
この和の元は、倭。
万葉仮名解読の経緯も知らないバカが喚いてて大爆笑
「ぼくちゃんがバカで知らないからみんなも知らない」
とか思っていつもほら吹いてるんだろうな
>>924 は? 頭おかしい人?
おおヤマトと読んだ文献があるんだから憶測でもなんでもないだろ
現実だ
このバカの毎度の思考回路は分かりやすいよな
ぼくちゃんがバカで知らないんだからみんな知らないハズ
だから幾らホラ吹いても大丈夫だ!
とかそういう奴なんだろうなw
バカしかいない九州説の巣で何の根拠もないホラ話を言い合ってるとこういう恥ずかしい奴が出てくるんだな
まぁ要はこいつは古代史をやる上で必須の万葉集とか持ったこともないんだろうよw
笑わせてくれる
珍説サイトを流し読みしただけのサルが九州説だとよく分かる
>>924
古事記と日本書紀では、地名人名の対応関係がはっきりと分かる
例えば
古事記 大倭 日子鉏友命
日本書紀 大日本彥 耜友天皇
古事記では「倭」にふりがなや読みの指定は付いていないが
日本書紀では「日本」の初出時に、
廼生大日本(日本、此云「耶麻騰」。下皆效此)とあり
万葉仮名表記で「耶麻騰」ヤマトと読むことが明記されている
古事記で「倭」に読み指定が付されていないのは、ヤマトと読むのが自明だからだろう 『サイバーパンクspecial』
なぜ老婆談と同じような話なのかとなるでしょ?
四神、四聖獣?
蚕を飼い機織りをしていて、謎の刀を持っていたとか、
河伯(日本ではカッパ、キュウリのような葉)
『松傾』?
>>928 和名抄は、平安時代初期。
奈良時代には、そうした文献はない。
奈良時代に(倭、和)をヤマトと読んだというのは、推測に過ぎん。
>>919 ヤマカドの音写が、ヤマドイ、ヤマダアにはならんだろう潜り
>>936 暴露してますよ…、が正しいと思うなら、奈良時代の文献の(倭、和)にヤマトとフリ仮名してる例を出してみてチョ。
バカなのは、どちらやら。
日本はにほん
これをヤマトと読ますのは日本書紀の創作やろ
定着すらしていない
>>935 お前のは今の旧山門郡の住民がヤマド、ヤマカドと呼ぶというだけだろ
日本の記紀神話?
四神の話が出てきたり、なぜか最初のほう?
他の書からの引用?
>>938 >奈良時代の文献の(倭、和)にヤマトとフリ仮名してる例を出してみて
>>933でも書いたが
古事記で「倭」に読み指定が付されていないのは、「ヤマトと読むのが自明」だから
古事記の倭と対応する日本書紀の日本をヤマトと読むのはフリガナで確認できる
ロトちゃんというキャラの住んでいるところも、
川崎区の南部のほうだしな・・・、家(『松傾』?)も川崎区の南部のほう
>>939 >日本はにほん
>これをヤマトと読ますのは日本書紀の創作やろ
またウソを付いてるw
「日本」は「倭・ヤマト」の別表記として新たに作られた国号
読みは変わらずにヤマトだよ
>>933 日本書紀は、(日本)をヤマトと読むように指示しているもの。
(倭、和)じゃないよな。
「古事記で『倭』に読み指定が付されていないのは、ヤマトと読むのが自明だからだろう」ということであるが、それ推測な。
ワイも、実際には、倭や和はヤマトと読んだだろうと思うが、ワイのも、お主とおなじように推測に過ぎん。
倭、和をヤマトと読んだ証拠はない。
そういうわけで、奈良が元々からヤマトと呼ばれたというのも推測であって、証拠がない。
でも山門はヤマトなんだい!と
読み違うのに確実なんだい!と
流石はキチガイはレベルが違う
万葉集には多種多様なヤマトの読みを持つ漢字が用いられている
冒頭からな
バカは当然見たこともないと
『日本書紀』では「倭迹迹日百襲姫命」、『古事記』では「夜麻登登母母曽毘売」
海獣葡萄鏡・・・ワインのことだと言ってる人がいたりw
本当なのかな、ろと・・・ろーと?
>>940 お主が書いている文章の意味はよう分からんが、
ワイの考えは、3世紀の九州筑後山門の人らは、自分らが住んでいる所をヤマドと呼んでいただろうということ。
この考えは、中国史書にある(邪馬臺)の発音はヤマドイとされるので、音写元の卑弥呼の都の住民らは、自分らの土地をヤマドと発音していただろうという推測。
それだけやな。
>>951 つまりお前が邪馬臺=山門と思うということだけが根拠だな
小手子の像・・・?
地名の話も同じような気がするしな
>川俣町の地名は、小手子の郷里、
>大和国(やまとのくに・奈良県)高市郡川俣の里にちなむという説がある。
で、そのヤマトの文字の当たる言葉を倭や日本で置き換えてる
なので「ヤマト」と読んだと分かるわけだ
例えばヤマトトトヒモモソヒメ
漢字は複数あたるわけだが日本書紀だと倭迹迹日百襲姫命
で、古事記だと夜麻登登母母曽毘売
この古事記式の漢字は万葉集の歌のヤマトと同様
さらに、他の漢字でもこのヤマトを様々に書いてみんな「ヤマト」と読む
つまり、倭や日本は大和と読んでるのが分かる
むしろなぜ「読む証拠がない」とか言い張ってんのか理解に苦しむ
>>947 アホちゃう。
山門郷はヤマトと読むと和名抄に書いとるだろ。
山門をヤマトと読んだのだよ、平安時代の奈良人は。
これを否定するお主は、頭、フケとるなあ。
病棟へ行きたまへ。
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(の王都、邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界(国境)である狗邪韓國からは七千里である。
四神・・・その他なども確実に大陸〜渡来系、
説明しなくてもわかるはず・・・・・知っているはずないでしょ?
山跡、山常、山呼とかも書く
全てヤマト
これら同じ読みをする当て字を他の物に倭や日本と置き換えている
なのでヤマトと読んでいたのが分かっている
九州を中心とする国であったはずの倭(ヤマト)を、畿内を中心とする日本の読みにすり替えたことこそ、日本書紀の歴史歪曲詐欺だな。
>>948 万葉集の歌に、倭をヤマトと読むように指定した文章があるのなら、出してみてチョ。
アホにはできんだろうがな。
こんだけバカ晒して恥かいても恥と思わないんだから九州異常者の脳ミソは凄いな
まぁこのくらいのバカじゃないと九州説なんてほざけないわなw
>>949 その人物が同一人物だというのは、推測なんだろう?
同一人物だという証拠があるかい?
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
西北界(国境)である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
古事記の物も出してやるわ
用例が複数あるからな
このヤマトを上のトトヒモモソヒメなどで「倭」に置き換えてる
つまりヤマト=倭
伊射子等毛 多波和射奈世曽 天地能 加多米之久尓曽 夜麻登之麻祢波
夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母禮流 夜麻登志宇流波斯
都藝泥布夜 夜麻志呂賀波袁 美夜能煩理 和賀能煩禮婆 阿袁邇余志 那良袁須疑 袁陀弖 夜麻登袁須疑 和賀美賀本斯久邇波 迦豆良紀多迦美夜 和藝幣能阿多理
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(の王都)から一万二千里である。
その西北界(国境)である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
>>957 とにかく、その人物が同一人物だという証拠をだしてみなさい。
その証拠がないのなら、同一人物だというのは、推測にすぎないということだ。
あなたは、「その通り、私は推測しているだけです」といえば済む話。
漢字
倭国の使者が古より「大夫」という中国風「官職名」を自称しており、度々詔書を貰っていることなどが随所に記されています。
当然のこととして、詔書は漢字漢文で書かれており、倭国側もそれが読めたはずです。この他にも「伝送の文書」「金印」など漢字が記されている文物の記載もあります。
こうした史料事実から、倭国は漢字漢文を使用しており、漢字文明圏に属していたことを疑うことができないのです。
それでは弥生時代の大和盆地の遺跡遺物に漢字文明の痕跡はあるでしょうか。纏向遺跡から出土しているのでしょうか。
弥生時代の日本列島を代表するほどの出土事実はあるのでしょうか。答えは簡単です。「ノー」です。
考古学が科学であり、学問であるのならば、考古学者はこの倭人伝と纏向遺跡の「不一致」から目を背けてはなりません。
学問的良心があるのなら、この「不一致」から逃げてはなりません。
他方、目を転ずれば、北部九州の弥生遺跡にこそこの漢字文明の痕跡が集中出土していることは天下の公知事実です。
たとえば、「漢委奴国王」という漢字が彫られた志賀島の金印を始め、いわゆる漢鏡と呼ばれる弥生の鏡に記された多数の「銘文」などです。
これら漢字文明の痕跡が大量かつ集中出土している筑紫こそが倭国の中心であり、「邪馬台国」(正しくは邪馬壹国)がその地に存在していたことを、
倭人伝と考古学事実の「一致」が証言しているのです。
>>971 それも推測、あるいは推定でしょう。
また、系図のエラーかも知れないですよ。
>>972 こいつ、そのうち日本武尊と倭建命も同一人物の証拠がないと言い出すぞ
山門縣は日本書記にしか記述がないから
田油津媛を書くための創作かもしれない
wikiによると『ワイン』
>また、これらのワインとは全く異なるが、
>古代中国(※漢王朝 - 紀元前1000年初期)においても
>独自のワイン醸造技術が存在していたという[27]。
>ただし、この系統は完全に廃れてしまい、
>現代中国で生産されるワインは西洋由来のものである。
葡萄鏡に関係している?
>>969 いっぱい字を書いてくれてご苦労さんと言いますが、「倭に置き換えてる」というのは、あなたの推測でしょう。
どこかの文献に、(倭をヤマトと読む)という注記がないのですか。
(日本はヤマトと読む)という注記が日本書紀ではなされているのでしょう、だから、ほかに良く探してみなさいよ。
こうやって九州説はどんどん世間から相手にされなくなっていくのだった
倭をヤマトと読み、九州のことである。
これでいいじゃないか。
数年前の、とあるスレ
「デスラ〜」と言ってる人がいたり
>>945
>日本書紀は、(日本)をヤマトと読むように指示しているもの。
>(倭、和)じゃないよな。
こういう詭弁を平気で書けるような恥知らずじゃないと九州説なんてやってられないんだろうな
日本書紀の「日本・ヤマト」は、古事記の「倭・ヤマト」の書き換えであることが明確
古事記 大倭 日子鉏友命
日本書紀 大日本彥 耜友天皇
これで、「倭ヤマト」が「日本ヤマト」じゃないって言えちゃうのが九州説の嘘つきなんだよな 臺を3世紀にdɒi(ドイ)と発音した研究はない
山門を和名抄以前にヤマドと読んだ根拠はない
ということだな
>>961 >楽浪郡の国境は、その国(の王都、邪馬台国)から一万二千里である。
「(の王都、邪馬台国)」というインチキを止めれっていうのに何度も嘘っぱちを書き続ける
この「ウソも100回」の価値観が九州説の根底にある
>>976 日本書紀が書かれた時代には、律令の役所システムができていました。
日本書紀の編纂者は、その役所の台帳にある山門縣を見て確かめたのでしょう。
ですから、山門縣は創作された地域名ではないと思いますね。
>>985 山門縣と書かれた役所の台帳を提示しなさい
>>967
モモソヒメ以外でも
古事記 倭 建命
日本書紀 日本武尊
その他いくらでも倭と日本の対応は見て取れるだろ
倭をヤマトと読んだ証拠がないとかいうのは無理筋どころじゃないぞw 廼生大日本【日本。此云耶麻騰。下皆效此。】豐秋津洲。
:
「野磨等能矩爾嗚、婀岐豆斯麻登以符。」雄略紀
「三吉野の小牟婁岳に宍伏すと誰そ大前に白す
八隅知し 吾が大王の 宍待つと 胡坐に坐し
白妙の袖着装束ふ手脛に虻齧きつき
其の虻を蜻蛉早咋ひ
斯くの如何に負はむと
空見つやまとの国を 秋津洲と云ふ」
江戸時代の国学皇国史観による地名を根拠にした山門(ヤマト)説は
考古学的根拠がないから今はもういないだろ
夜麻登登母母曽毘売(倭迹迹日百襲姫命)は、孝霊天皇と意富夜麻登玖邇阿礼比売命・蝿伊呂泥(倭国香媛・?某姉)の娘で兄弟が比古伊佐勢理毘古命(彦五十狭芹彦命)
>>987 日本をヤマトと読むことは、先に日本書紀の記述で証明できたわけですから、日本武尊の日本はヤマトと読むのはOKでしょう。
しかし、古事記の倭建命の倭については、そうした証明がまだなされていません。
顔面認証機でしたら、はねられるでしょうね。
直接データを入力してくださいと応答がありますよ、きっと。
夜麻登登母母曽毘売の系譜からして記紀ともに同一人物だと分かる
夜麻登と倭の文字の置き換えが行われているのが見て取れる
>>983 あなたは、前に郭錫良は王力の系統だから…と言っていた人ではないですか。
郭錫良は、臺の中古音をドイとみなしていますよ。
平安時代初期の和名抄では、山門はヤマトとフリ仮名をつけています。
しかし、3世紀には、九州筑後の山門の土地を、現地の人はヤマドと呼んでいただろうと推測しているわけです。
その直接的な根拠は、郭錫良の臺の中古音ドイです。
その他には、山門は現在、ヤマト、ヤマド、ヤマカドの読み方があり、また、鹿児島県長島町に山門野(ヤマドノ)の地名があり、このことも重要な根拠としています。
九州説が喚き散らす妄想がこうしてまた潰えたと
次はどんなほらを吹いてバカを晒すのか楽しみだ
そもそも自分の持ち出すネタが平安初期だってんだから笑わせてくれる
太古の大昔、畿内よりも古いヤマトの呼称だ!
とか大騒ぎして蓋を開けてみれば平安初期
記紀や万葉集の方が古いじゃねぇかと言うバカ話
今日も能無し九州説に大爆笑させていただきました
ありがとうございました
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