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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1550785248/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※検証)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,57も参照)
(本項 続く)
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。
上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中国では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代)
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
(承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上)
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
(承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半と考えられる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
福岡県
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高気温( °C) 9.9 11.1 14.4 19.5 23.7 26.9 30.9 32.1 28.3 23.4 17.8 12.6
平均気温( °C) 6.6 7.4 10.4 15.1 19.4 23.0 27.2 28.1 24.4 19.2 13.8 8.9
最低気温( °C) 3.5 4.1 6.7 11.2 15.6 19.9 24.3 25.0 21.3 15.4 10.2 5.6
奈良県
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高気温( °C) 8.7 9.6 13.4 19.8 24.1 27.2 30.8 32.6 28.2 22.2 16.5 11.4
平均気温( °C) 3.9 4.4 7.6 13.4 18.0 21.9 25.8 26.9 22.9 16.6 11.1 6.2
最低気温( °C)-0.2 -0.1 2.3 7.4 12.5 17.5 21.8 22.6 18.8 12.1 6.4 1.9
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀)
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。 ◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。 ◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰) ◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周囲代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
また八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比にするための捏造であった可能性が高いといえよう。
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以上テンプレ
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注意*書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 なし
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf 3世紀中葉から後半にかけて日本列島各地で出現した前方後円墳は,弥生時代後期後葉の様々な地 域の交流の所産という考えが日本考古学界で広く受け入れられている。
しかし古墳の出現は首長間交流の所産であるのに対し,集落から出土する土器は一般庶民の生活を 反映している。したがって,両者の関係をそう単純には結びつけることはできない。
纒向遺跡での搬入土器の主体は東海系であるのに対し,河内平野では吉備系土器が主体である。纒向遺跡では北陸系や近江系といった河内には 流入しない土器群がみられる。
前方後円墳で象 徴されるネットワークは恐らく大和が中心で,そしてそれは祭祀,あるいは政治的な意味合いも含めたネットワークであろう。
それに対して,畿内型(系)土器の拡散で象徴されるネットワークは大和や河内が必ずしも中心ではなく,場合によっては交易の所産である可能性も高い。
特に重要なのは, 福岡平野の比恵・那珂遺跡群で,一度畿内型土器が搬入され,模倣製作されたのち,在地の土器製作者がそれらを我流の技術で生産し,豊前,豊後の一部地域はもちろん,壱岐や遠く朝鮮半島南部に搬出するという現象である。
これは福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたことを示すものであろう。
中央(最高首長)の意思決定行為は内的に細分化・専門化されておらず(官僚機構の不在),支配能力が高くなく,したがって地方首長は自分の支配地域の維持運営にさまざまな責任を負っているため,地方は中央の意思とは別に,独自の行動をとることが可能である。
古墳出現期の福岡平野がまさに,独自の行動をとっている地方の実例である。古墳時代を国家段階と捉えた時期もかつてあったが,この研究の成果が示すように,少なくとも古墳時代初頭は国家段階にまったく達していないことが推測できるのである。
九州説は論破されてスレの維持が出来なくなっちったもんな
石野博信「墓から出てくる三角縁神獣鏡について土器で年代がわかる例を見ると、四世紀の「布留式土器」と近畿で呼んでいる土器と出てくる例はありますが、その前の、三世紀の土器といっしょに出てくる例は一つもない。
それは埋葬年代を示すのであって、製作年代は示さないということはあるんでしょうが、それにしても、ひとつもないのはおかしい。新しいんだろう。」
森浩一「神獣模様や三角縁を持った鏡は長江下流の江南地方に多く発見され、明らかに呉があった地方と関連している。」
白石太一郎「三角縁神獣鏡の変遷過程は極めて連続性が高く、各段階によって製作地が異なるという前提はとても考えることができない。第四段階が日本で作成されたものなら、第一段階も日本で作成したと言わざるをえないだろう。」
菅谷文則「それでは日本への輸出、厳密には卑弥呼への下賜品として特別に鋳造(特鋳)されたものであろうか。これはまず成り立たない仮説といえよう。
魏より前代ならびに魏と同時代の呉、魏に続く晋代においても日本にのみ出土し、中国に出土しない中国鏡はない。三角縁神獣鏡のみがそうであるとする特別の根拠もない。」
原口正三氏「あくまであれは魏でつくったのだと言い張っているのは、もう信仰にも近い考えだろうと思っています」
鎮魂歌
卑弥呼→台与の頃を歌ったものだろうか?
邪馬台国、初期のヤマト政権は、石器作りや狩猟を生業にしていた勢力が主体だったことが窺える
また、「フル」、「アチメ」という言葉は大和言葉では意味が分からないが、朝鮮語では「流れる」「朝日」という意味になる
初期のヤマト政権は、朝鮮半島と日本列島を行き来していた日本海側の勢力も関係していたのかもしれない
纒向遺跡の外来系土器から推測すると、これらの勢力は東海山陰吉備が主体だったと考えられる
石上神宮の布留の謂れは、刀が【流れてきて】布で受け止めたら留まったというもの。
【アチメ】 オオオオ オオオオ オオオオ
天地ニキ揺ラカスハ サ揺ユラカス 神ワカモ 神コソハ キネキコウ キ揺ラナラハ
アチメ オオオオ オオオオ オオオオ
【石ノ上】 【布瑠】社ノ 【太刀】モガト 願フ其ノ児ニ 其ノ奉ル
アチメ オオオ オオオ オオオ
【猟夫】ラガ 持タ木ノ【真弓】 奥山ニ 御狩スラシモ 弓ノ弭見ユ
アチメ オオオ オオオ オオオ
上リマス【豊日霎】カ 御魂欲ス 本ハ金【矛】 末ハ木矛
アチメ オオオ オオオ オオオ
【三輪山】ニ アリタテルチカサヲ 今栄エデハ 何時カ栄へム
アチメ オオオ オオオ オオオ
吾妹子ガ、【穴師】ノ山ノ山ノ山モト 人も見ルカニ 深山カ縵為ヨ
アチメ オオオ オオオ オオオ
魂筥ニ 【木綿】取リシデワ 魂チトラセヨ 御魂上リ 魂上リマシシ神ハ 今ゾ来マセル
アチメ オオオ オオオ オオオ
御魂ミニ 去マシシ神ハ 今ゾ来マセル 魂筥持チテ 去リクルシ御魂 魂返シスナヤ
六拾弐病
六拾弐病(ろくじゅうにびょう)とは、定年退職後の老年期に見られる、
周囲を見下した言動や、自惚れに満ちた妄想を連呼する様などをさす語。
自らを客観視することができず、盲目的に自身を絶対化する、というのがその典型的例。
現役時には社会に適合してゆくために相対化させざるを得なかった自己が、
定年によって自らをとりまく環境が急激に変化することで相対化のバランスを失い、
自分が特別な存在であって欲しいとする願望が顕在化することで発症する。
簡単に言えば、「俺様偉い病」である。
その思考の基礎となる知識は、遠い昔に聞きかじった程度の浅いものや、
定年で生じた余暇によって取得した程度の中途半端なものであるため、
罹患者の主張は往々にして突飛な妄想でしかなく、周囲に受け入れられることはない。
しかし、本人は自身の思考は特別に優れているものだと盲信しているため、
受け入れられない原因を周囲のせいであると主張し、攻撃性を高めつつ、負のスパイラルへと堕ちていく。
このため、「六拾弐病」は陰謀史観との相性が非常によい。
なお、「六拾弐病」の名は、定年後数年を経て症状が顕在化することから名付けられたものであり、
もちろん全ての罹患者が62歳で発症するものではない。
似た症状を呈するため、「六拾二病」は「老年性中二病」と称されることもあるが、
思春期に自身を特別な存在だと仮想する「中二病」が、
確立されていない自己とそれを取り巻く社会の拡大とに折り合いを付けられず、
自己を疑似的に絶対化することで周囲との相対化の波から逃避しようという、
いわば自己防衛的な理由によって発症し、
ほとんどの場合本人の成長とともに症状が改善されるのに対し、
「六拾弐病」は、罹患者が生来持つ傲慢さがその根底にあるため、
一度発症してしまうと、死ぬか、惚けて思考能力が失われるかしない限り、
症状が改善されることはないとされる点は対照的であるといえる。
全1病
全1病(ぜんいちびょう)とは、邪馬台国畿内説スレに出没する九州説論者のみが発症する、心の病。
畿内説側の書き込み全てが
>>1◆UiepmfCeDJqによる物であると信じ込む、一種の強迫観念である。
学問の世界ではすでに追い詰められている、という事実を認めたくない九州説論者が、
畿内説に多くの賛同者などいるわけがないのだ、と自分自身を騙そうとすることで発症する。
>>1◆UiepmfCeDJqが自演によって多数派を装っているのだ、と言う発想は、
実は、自身が自演を頻繁に行っているという事実の裏返しにほかならない。
現時点では治療法は発見されておらず、一度発症すると死ぬまで治ることはない。
ザラコク
邪馬台国関連スレに出没する非常識異常行動者のひとり
呼称は、Yahoo掲示坂で使用していたハンネ「zarakoku」から
古田武彦と彼が提唱した九州王朝説を盲目的に信仰しており、その信心の深さは、
世間的には偽書として決着している『東日流外三郡誌』を未だに真書であると主張するほど
自らを「素人おじん」と称することもあり、一見、自身を客観視できているかのようであるが、
その書き込み内容は、自分の信奉する説以外はすべて間違いだと決めつけてかかる、六拾弐病患者特有のもの
素人が専門家をこき下ろすという行為に疑問を感じなくなっているほど思考が硬直化している
「全レスバカ」と呼ばれることがあるほど片っ端からレスを付けまくるが、
ほとんどが他人の会話への横レスかつ超遅レスであり、周囲と会話が成立することはまずない
レスを付けることが目的化している節があり、その内容は、
他人の発言を長々と全文引用したあげく、賛成!とか間違いだ!とか数文字書き足すという程度のもの、
自分の都合のいいように語句を入れ替えただけのオウム返しのものなど、無意味なものばかりである
投稿数だけは圧倒的で、コピペ連投並みにスレを荒らす結果となっているが、本人に自覚はない
社用のPCで勤務時間中に5ちゃん投稿に血道を上げる問題経営者である
自分に不都合な情報を自分に都合が良いように勝手に脳内変換していることが多いが、
ソースを提示されても、自身の記憶や理解の方が正しいと主張する、傲慢な思考の持ち主
常駐していたYahoo掲示板を倫理規定に触れて出禁になったらしく、最近5ちゃんに居付いてしまった
「生きる独善」との形容がぴったりな75歳
岡上
邪馬台国関連スレに出没する狂人のひとり
考古学界では全く賛同者がいない説を「考古学的に確定している」と主張し、ありもしない大規模調査をでっち上げ、
学界の多数派である邪馬台国畿内説を破綻したと主張する、ゴッドハンドも真っ青の捏造常習犯である
自分は正しく、これまでの研究者がみんな間違っていた、などと平気で主張する、典型的「六拾弐病」患者
コテ+トリと、コテの九州王、伊都国女王、卑弥呼、名無しを使い分け、自説を関連スレで書き込みまくる
糸クズ、八咫バカ、連続句読点キチともよばれる
「咫」の説明である「周尺」を「円周の尺」と読み、
伊都国を女王国であると漢文の用例を無視して誤読し、
平原遺跡出土鏡の文様には八咫烏があると現物を知らないで主張し、
魏志倭人伝中の「下戸」を「酒が飲めない人」と訳すなど、
お笑いエピソードには事欠かない
偽スレや妄想スレを立て続ける異常性に気がついていないのは本人だけ
未確定な事項であっても、自分に都合がよければ勝手に確定事項であると脳内変換し、
それを根拠として立論してしまうチェリーピッカー
日本史の方法論をまるで理解していない、自分偉い教の教祖である
キウス
邪馬台国関連スレに出没する真性の基地外であり、病的なウソつき。
「希薄」を読むことができず、「箕臼(キウス)」と誤変換し続けたことから「キウス」と呼ばれるように。
自演爺、四棟粘着爺、指さし厨とも。
ウソの書き込みや自演、成り済ましを平然と行い、畿内説スレの
>>1を騙り偽スレを立てること数度。
>>1のトリと同じ英数字を名前欄に書き込んで成り済まそうとしたこともある、最低のクズである。
「全1病」罹患者にして典型的「62病」発症者。
「自論」、「私見」、「勉強してください」、「学がない」、「貴君」、「しかり」など特徴的な言い回しの多用、
5ちゃんでは一般的ではない「スレ主」頻発、名前欄への書き込み多用などの特徴ですぐに判別できる。
1◆UiepmfCeDJqfを奥村と呼ぶ、寺澤薫氏・同志社大学・纒向学研究センターをディスる、
草を生やす際に半角で1文字目大文字、?を連続させる、といった特徴もある。
キウスの書き込みを褒めたり、礼を言ったり、「ワロタ」と応じたりする書き込みは、すべて自演である。
他人を騙す行為も自分ならばすべて許されると信じている節のある、傲慢の塊である。
日本語の読み書きが満足にできないこと、日本史や日本の地理に関する基礎知識がないことなどから、
日本の義務教育を受けていないどころか日本国内に居住していないのではないかと推測されている。
ザラコク
>…< 嘘吐き騙し 南≠東 大和説 !。 ?。 ×。
キウス
スレ主 奥村 しかり 大笑い Ww いい線ついてる 正論 ヤマト王政 論じろ
ーーーーー 畿内説助け船 ?????
岡上
八咫の鏡 伊都 平原 内行花文鏡 三種の神器 神道 キナイコシ 、、、 。。。
ハナホジ
物部 葛城 鴨 大物主 ヒメタタライスズ ミミ 出雲族
サイキバ
鉄がない 奈良湖 倉庫
「魏志倭人伝に記載されている物」(西暦300年以前弥生時代)
10種の魏晋鏡 福岡県398 奈良県4
鉄刀 福岡県17 奈良県0
素環頭大刀素環頭鉄剣 福岡県16 奈良県0
鉄剣 福岡県46 奈良県1
鉄矛 福岡県7 奈良県0
ほぼ福岡県だけで奈良県を完封、奈良県を口にする方がおかしい状況
奈良県から多く出土している物もあるにはある
(西暦300年以後古墳時代)
三角縁神獣鏡 福岡県49 奈良県100
前方後円墳80m以上福岡県23 奈良県88
前方後円墳100m以上福岡県6 奈良県72
古墳時代以降、文明が東に伝わり発展した地域の一つとして奈良県もあった模様
ただ時代が違うから
絹織物出土に関しては九州たくさん、奈良0
>>81は当然ながら
考古学を知らない素人のアホカキコ
>>82 で、奈良は
絹織物あるの?
冬は裸足で生野菜食べるの?
鉄の鏃があるの?
入れ墨は階級で分けてるの?
>>83 学者がやってるのと素人じいさんがやってるのの
違いがあるね
>>83 学者がやってるのと素人じいさんがやってるのの
違いがあるね
>>84 で、福岡は
絹織物あるの?
冬は裸足で生野菜食べるの?
入れ墨は階級で分けてるの?
>>87 つまりな
その記述にも創作が含まれてると判断しなさいと言ってるんだよ
絹織物はあるなぁ
生野菜もあるなぁ
裸足になると宮崎かな?
やっぱり宮崎じゃないか?
>>84書いたやつの
頭の悪さがそりゃもう
ハンパねぇ件について
>>91 奈良ではありえない事ばかりで畿内説発狂
という事ですね
>>81 何このデタラメのデータwww
どうせド素人のホームページからコピペしたんだろうけど
>>88 郡使が創作をする必要なんてない。
いっそのこと、卑弥呼の存在も創作にするか?
いつも簡単に論破される九州説が虚勢張りすぎで草
ヤケクソかな
>>93 じゃあかわりに違うデータを出してよ。
反論は具体的にお願いします。
追求されると「その記事は信用できない」と言い逃ればかりする畿内説
>>95 創作が含まれてるのだからチェリーピッキングしたらダメだよという事だ
方向や距離は会稽陶冶の東という前提に合わせるために改編し
その位置にあるから温暖だろうという事で習俗も改編している
そうなると
卑弥呼墓の大きさの記述は真実だとする根拠が無いわけだよ
記述の多くに創作が含まれてると分かってるのに、墓の大きさだけは正しいとチェリーピッキングしてるのが畿内説なんだよ
それを自覚しなさい
魏志倭人伝の記述が全て正しいという九州説の論法では1つ破られればすべて破綻しちゃう
>>101 チェリーピッキングの畿内説なら何でもありだしなwww
倭国の風俗なのだから大陸に近い地域の特色が記述されるのは普通じゃね
邪馬台国の主な記事は明帝の外交記事の部分でしょ
纒向遺跡への搬入土器の出身地割合
伊勢・東海系 : 49%
北陸・山陰系 : 17%
河内系 : 10%
吉備系 : 7%
近江系 : 5%
関東系 : 5%
播磨系 : 3%
西部瀬戸内海系 : 3%
纒向には魏の使いが滞在していた筑紫からの搬入物がない。
邪馬台国が交流していたはずの楽浪郡からの土器も出ない。
目と鼻の先の河内との交流も乏しく、畿内の他の地域のような瀬戸内海や淀川の水運の利益を受けられない、尾張の支配下の後進地域であった。
畿内説が言うように東海地方が狗奴国なら、纒向への土器の流入を説明できない。
>>100 >方向や距離は会稽陶冶の東という前提に合わせるために改編し
>その位置にあるから温暖だろうという事で習俗も改編している
九州の遥か南方の太平洋上に大きな陸地はないから、その記述が間違いと考えるのは当然
>卑弥呼墓の大きさの記述は真実だとする根拠が無いわけだよ
倭人伝の記述に近い大きさの墓が現実に存在する
記述を誤りとみなす根拠がない
>>90 で、宮崎は
絹織物あるの?
冬は裸足で生野菜食べるの?
鉄の鏃があるの?
入れ墨は階級で分けてるの?
>>94 畿内説が困ってるのは
九州説ジイさんの頭と品行が悪すぎる点
のほか何もない
>>108 絹はあるんじゃないか?
生野菜はあるだろう
黒潮が通ってるから冬も暖かいんじゃないか?
鉄の鏃はあるなぁ
入れ墨はどうなんだろう?
>>106 >畿内説が言うように東海地方が狗奴国なら、纒向への土器の流入を説明できない。
なんで説明できないの?
現実に、こっちは説明してるのに
>>110 アホ
倭人伝の記述を公平に予断を持たずに個々に検証した結果だろが
>>110 指摘したければ具体的のどうぞ
出ないとヤジでしかない
九州説がヤジとかウソとか迷惑行為以外なにかできるとも思ってないけどね
一番信用できるのは魏との外交記事ってのが畿内説の立場
>>111 と、ないものをあると言い張るだけでした
そういえば、昔は九州説スレがあったなあ
論破されて、やがて誰も書き込まなくなり、スレ建てもしなくなった
で、憂さ晴らしに畿内説スレ荒らしをやってるわけだ
畿内説が滅びの前のイタチの屁をかまそうとしている
もう死ぬ間際と言えよう
九州から大和に移った神武の部下の大久米命の顔の刺青に、当時の大和にいた姫が驚いた歌があたっよね。
【邪馬台国はどんな国?】
「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。
「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。
「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
鉄は圧倒的に九州にある。
「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。
三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。
その山に丹あり
弥生時代の奈良では、朱丹は二箇所で しか使用されていない。
福岡県では41箇所の遺跡で使用されている。
>>117 九州説は隙がなく安定しているから、論議する必要がない。
>>118 あのね
反論したり反証をあげたりしないと
滅びようにも滅びないんだよ
なんたって通説なんだからね
黙ってれば九州説が自然死するだけ
>>119 >九州から大和に移った神武の部下の大久米命の顔の刺青に、
>当時の大和にいた姫が驚いた歌があたっよね。
と、文身が九州にあったと主張する根拠すら、畿内王朝の文献に依存する九州説ww
そして黥面土器という考古学的な実物証拠で考えると、かすりもしないのが九州
九州で文身の習慣があったとする直接証拠はない
>>121 × 九州説は隙がなく安定しているから、論議する必要がない。
○ 九州説は根拠がなく多くが同意する比定地すらないから、議論を始めることすらできない
428
>>227 >だって邪馬台国は会稽東治(冶)の東<
魏志には、邪馬台国も会稽東冶も存在しない捏造文言だから、この大和説男は、×。
>沖縄や台湾と書いているだろ<
「沖縄や台湾」とも書いていないから、この類スレ主?も×詐欺師。
>>110 >はいチェリーピッキング出ましたwww
こいつ、バカだろww
まずは前スレのこれに反論できるならしてみそ?
位置情報と墓の大きさの情報の、信頼度を同一視して0、1、
all or nothingの論法にしてしまうのはただの思考放棄だろ
土地の位置情報は測量法もないし、古い伝承から来る思い込みが下敷きにある
実際の地理と合わないのは現代の地図情報と照らし合わせて間違っているのは確定
それに対し、墓の大きさは実見情報だし、百歩というのは身体尺で近似計測できるから
見積もりも容易だし、現実に径百歩と見なせる巨大墳丘墓が存在している
この二つを同列に論じようという時点で、チェリーピッキングだよww
428
>>231 「南→東」などの嘘つき詐欺師の大和説者の投稿に意味があるとか、
何がしかの有益なことがあればいいのですが、
実際には何もない。
しかし、大和説者に騙される国民は、現在3割位ですが、
これ以上増えてはいけないので、
大和説批判は継続した方がいいと思います。
冬野菜の大根、カブは生で食べられるよな
諸葛亮が行軍の先々でカブをつくらせて兵糧の一助とした逸話にちなみ、
カブのことを「諸葛菜」と呼称することがある
428
>>232 ダメダメ。
その道里を計れば、不彌國で萬二千余里がほぼ終わってしまっているから、
いくら誤魔化そうとしても、女王國は九州から出ないの。
428
>>234 相変わらず「南→東」などの嘘つき詐欺師の大和説は、目茶苦茶なロジックだな
魏志倭人伝の陳寿の推測は現実と照らしても、十分に合っているので
陳寿が信頼した位置情報の「計其道里、當在會稽東治之東」も、
また間違っていなかったというのが素直な解釈
>>131 >その道里を計れば、不彌國で萬二千余里がほぼ終わってしまっているから、
会稽東治の東にならなくなって九州説即死
428
>>238 >会稽東治(冶)の東現在の地図で見れば沖縄や台湾だけど<
魏志は、「会稽東冶」「ではなく「会稽東治」だし、
「会稽東治であれば、「沖縄や台湾にはならないから、類スレ主らは、×。
>けど魏志倭人伝はそこに邪馬台国があると書いてある<
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき詐欺文言であるから、×。
>言うなれば指してる場所は適当 <
この男や大和説者は類スレ主らが指している場所は、×。
そうなると魏志倭人伝の距離方位は邪馬台国の場所を示していないから
それで考古物で見れば邪馬台国は畿内となるわけさ
428
>>241]
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
詐欺師の集まりなのか
チンピラ畿内説をいなすのにはたいしたことはない
理路整然と反論すればいいだけである
しかし、テンプレ教畿内説は度し難い
骨の髄までテンプレを盲信していて人の話を効かないからである
>>137 あなたにとって
畿内説に理路整然と反論することは
敷居が高すぎるね
428
>>243 >けれどそこは邪馬台国じゃない事は明らかだよな?
つまり魏志倭人伝の距離方位はアテにならない<
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
倭人伝の距離方位はアテになるし、
不彌國で、満二千余里がほぼ終わっている。
>考古物で見れば邪馬台国は畿内 このやり取りそろそろ飽きたんだけれども <
考古でも、邪馬壹國女王之所都は、筑紫。
>>137 話の前後が繋がってないぞ
理路整然じゃなくて支離滅裂じゃないか
中傷をくりかえすチンピラ畿内説にたいしたことはできない
彼らの本業は粘着と煽りである
本来なら九州説が来る場じゃない畿内説スレに粘着しまくる九州説が言ってもな
支離滅裂な九州説が
理路整然とするのは不可能なようだな
どうやら九州説は自分がやってる事を相手がやってると言う癖があるようだ
>>137 >チンピラ畿内説をいなすのにはたいしたことはない
>理路整然と反論すればいいだけである
理路整然とした論理構成にできる人は「チンピラ」などという情緒的な俗語は使わないww
まずは、「理路整然と反論」とかいうものを見せてくれよww
僕ちんは認めないにだー、と
根拠はないけどこうなっているんだー、しか九州説は書いてないぞww
>>144 >どうやら九州説は自分がやってる事を相手がやってると言う癖があるようだ
ミラーリングって言うんだよww
知恵がなくてもできて、反論してる気になれるらしいww
九州説の正しさが徐々に広まってゆく
畿内説は真綿で首をしめつけられるように滅びてゆくだけだ
私がさしでがましくチンピラを相手にする必要はないようだ
そもそも九州説というのがないからな
一人一説だから
428
>>244 バカの見本を見つけたよ あんただが
>会稽東治(冶)の東だと三国時代の人が書いている <
誤魔化すな。陳寿が書いたのは「会稽東治之東」だ。
>会稽東治(冶)の東は沖縄か台湾だと現代人の我々は知っている<
「沖縄か台湾」というウソつき詐欺をしているのは、
この男(おそらく類スレ主)や、大和説者らだ。
>だから 会稽東治(冶)の東、つまり沖縄か台湾のあたりだと
現代人の我々は同じ現代人に解説する <
この現代人男らは、嘘つき詐欺をした。
>弥生時代は関係ない この説明法に、なんの不備もないな<
弥生時代と古墳時代という時代区分もインチキをやっているし、
古墳時代の前方後円墳は、卑弥呼の冢ではない。
九州説の人はなんで九州説スレ建てないの?
百人百様なんだから議論することいっぱいあるだろ?
まあ、優勝が決まった後の下位チーム同士の消化試合みたいなもんだから
九州説同士で議論しても虚しいのはわかるけどさ
428
>>247 「南→東」などの嘘つき詐欺師の大和説さんの言う「詐欺だ詐欺だ」には、
証拠がないんだよ
カジノで負けた文無しが腹いせの悔し紛れに
「イカサマだぁぁ」と叫ぶのと同じだ
死刑囚の絶叫そのものなんだよ
実は、わかってるんだろ?
あれ?邪馬台国って沖縄じゃないの?記述に誠実によみとったら沖縄でしょ?
@近畿や九州にも有力な集落はあったのは考古学の実証により明らかだが、
それは魏志倭人伝のいう「邪馬台国」ではない。
A日本の文明は麻や絹の縫製により拡大しており、弥生文化を形成したのは
稲作や鉄器などではない。日本の本州や朝鮮は、冬には麻ではとても越冬できる
緯度ではなく、文明が日本列島に拡大したのは絹織物の拡大があって後である
Bそれ以前の原日本社会は沖縄および南九州に限定されており、畿内は獣皮を
まとった原始狩猟部族がわずかに居たのみである。
C繊維産業は北九州を中心に発展した。これを東方と通商するなかで弥生文化が
東に伝播した(「神武東征」)
D日本の皇室は沖縄から来ており、沖縄の祭祀、南九州に数多見られる天孫降臨の
史跡はすべて南方からの渡来を示唆している。
E日本の古代は「古日本人」による広範な社会が先行して存在しており、その大きな
ものは北九州であり、畿内には古くは狩猟不足しかなかった。一方で祭祀社会は
沖縄が先行して発展しており、その信仰が南九州および北九州に伝播し、信仰と
しての「天孫思想」が定着した。宗教が北九州の社会を「乗っ取った」わけである。
さらに絹の交易により東方に通商路が開拓され、追って軍事力により東方が一気に
啓蒙された。さらに遷都され、沖縄から南九州、そして奈良が都となった。これが
紀元3世紀までにおこったことである。
428
>>248 >行程とは多少関係あるよ
不彌国の次に南に計30日水行とか陸行1月とか書かれてるから <
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、
不彌國のすぐ南に邪馬壹國女王之所都がある事になり、
魏使らは不彌國の次に「南に計30日水行とか陸行1月」は行かない。
>つまり陳寿は邪馬台国を倭国の極南界 現在で見たら沖縄や台湾辺りになる
会稽東治(冶)の東と記しているわけだ<
陳寿は、邪馬台国なんて書いていないし、
会稽東治と書いたのであって、会稽東冶とも書いていないし、
だから、沖縄や台湾辺りにもならない。
>そこが邪馬台国ではないのは明らかで そうなると考古物で見ると三世紀に
国内最大の前方後円墳を作れるほど大きな勢力があって
魏の三世紀の年号の入った魏鏡が見つかり交流も見出せる
畿内が邪馬台国だろうという事だ<
畿内なんて存在もしないし、大和は、「南≠東」に拠って始めから×だ。
大和説者という人種は、考古物だけではなく、文献も曲解してして、
無視するのかな。
>>147 九州説は全ての論拠がなくなった
これが実態だけれどな
そしてザラコクは壊れて自分の殻に閉じこもり
とっくに論破された古臭いカビの生えた説を
ひたすら前スレに向かって繰り返すだけになった
428
>>249 ダメダメ。
「現在の地図で見ても、沖縄や台湾の辺りと書かれていない」ということ。
勝手に、現在の地図上でみれば、と但し書きして、
その但し書きがあったことにして、捏造するのは、
「南→東」などの通説大和説の、謀略宣伝の常套手段。
ダメダメよ。
邪馬台国は沖縄。文書は誠実に読みましょう。
仮に3世紀時代に卑弥呼が北九州にいようが奈良に居ようが、邪馬台国の首都は
沖縄であり、首都から北魏の都までの道程を述べたのは正使としては当然のこと
ではないか。なにしろタカマガハラこそが首都であり神の所在される場所、北九州や
畿内などしょせんは中つ国にすぎないのだから。
428
>>251 >弥生時代に知ることができたなら、
会稽東冶之東には琉球ありと書かれたに決まってるだろ?<
陳寿は「会稽東治之東」と書いたのであり、
「会稽東冶の東」と書いたのではないから、「琉球あり」は×。
>>147は誰?
いずれ名のある九州説の人でしょ?
>>152 前方後円墳や三角縁神獣鏡などの考古物を見れば
邪馬台国は畿内だけどな
仮に3世紀に畿内に巨大な集落が存在し、しかも彼らが絹製品を着ていたとしても
そこは軍事上の拠点あるいは駐屯地にすぎず、首都すなわち「邪馬台国」ではない。
仮にそこに卑弥呼がいたとしても、邪馬台国とは高天原すなわち沖縄のことである。
諸君たちも、いかに東京住まいが長くとも、自分の故郷は長野だの沖縄だのと言う
だろう。おなじことだ。よって邪馬台国畿内説は論破されました。
428
>>253 >当たり前だ 会稽東治(冶)の東の正確性は 机上の理論計算だからね
記事と完全に整合する<
陳寿の机上の計算は、「会稽東治之東」であって、
「会稽東冶の東」ではないから、×。
>行程表の正確性は それが実地の観察結果なのか 政治的フィクションなのか
さえ判別できない<
魏使らが「政治的フィクション」をしてバレれば、首が危ないのであるから、
しない。
>相関どころか 無関係だ <
無関係どころか、相関している。
>>156 魏志倭人伝に書かれてる考古物があるのは畿内だけどね
>>152 >それは魏志倭人伝のいう「邪馬台国」ではない。
これに一切根拠がないし、根拠が言えないなら無意味だってのww
畿内様式土器と前方後円墳(纒向型を含む)の分布から
当時の「倭国の領域全体を覆う秩序」の中心が大和にあることが分かる
もちろん首長同士の連合だから、支配ー被支配の関係ではないし、
面として列島を埋めているわけではないが、北部九州や宮崎西都原も参画している秩序だ
その大和政権の外には、倭王が存在する余地がまったくない
つまり倭王は大和政権の範囲内に求めるしかなく、その中心であり盟主なのは大和の首長となる
そこが倭女王の都するところ=邪馬台国なのは、明白なんだよ
要するに、ただの大和政権なんだが、それが大陸中華の聞き書き音訳だと
「邪馬台国」という表記になることが魏志倭人伝によって分かる、というだけなんだよ
簡単だろ?ww
キウスが京都説を諦めて、沖縄説で嫌がらせをすることにしたってことでOK?
日本古代史においては繊維および織物の問題があまりにも軽視されすぎている。
とりわけ3世紀は寒冷期だと平然と述べているにも拘らず、そんな寒冷な気候において
麻製品のみで冬が越せると前提してるのが可笑しいのだ。なんならいまから麻製品を
着込んで夜空の下で出てきたまえ。いったい何分がまんができるのか。
畿内が啓蒙されたのはあきらかに大量の絹製品が北九州で製造されるようになって
のちのことであり、その北九州の庶民が信奉していたのは琉球祭祀すなわち
アマテラスである。
絹も畿内で見つかってるよ
九州のと違って上質なヤツらしい
428
>>256 >だいたいの東でも九州最南部にもかからないんだけどな<
会稽東治は「上海付近から江蘇省「」の海岸地域になるから、
その東はほぼ九州島付近になり、
かかっている。
鉄製品だ稲作だなどでは日本の古代社会は解明できない。
古代日本を解明するには絹の経路を追うにかぎるのだ。
古代日本は麻では越冬できないぞ。ましてや朝鮮半島は
なおさらだ。
>>168 会稽東治は存在してなくて会稽東冶
現在の福建省福州市あたりでその東は沖縄や台湾になる
>>167 おそらく庶民はクズまゆ(品質の低いもの)を利用し、品位の高い糸のみ
使用したのが高貴な者への献納用あるいは相互の贈答用だったのだろう。この
点についてはなんら不整合はない。なにしろ田畑を耕す庶民でさえ、あるいは一般の
兵士でさえ、日本のような冷涼な土地では冬には麻だけではとても過ごせないのだ。
428
>>257 おつむ弱いのか?
>三国時代の人が会稽東治(冶)の東だと書いた
現代人は会稽東治(冶)の東が沖縄か台湾だと知っている<
三国時代の陳寿は、会稽東治之東と書いた。
そして、陳寿も現代人も「会稽東治之東が沖縄でも台湾でもない」事を知っている。
>現代人が現代人に説明するのに 会稽東治(冶)の東が沖縄か台湾だと言って
なんの問題がある? 当然ない<
前項のように。当然問題がある。
>>170 そんな屁理屈にこだわっているから畿内説は見向きもされなくなる。
畿内は沖縄にあるのか?
>>172 晩唐に中国に木綿が入来し、それが日本に来ている。平安以降は
おそらく庶民はすべて木綿(つまりワタ)だろう。
存在しない会稽東治を古田が東治は魏が治めた洛陽の東側の意味とか
わけのわからない事を抜かして九州を指していると主張したのが
九州説が世間に頭の悪さを晒し続ける事態になった発端
>>159
>前方後円墳や三角縁神獣鏡などの考古物を見れば
>邪馬台国は畿内だけどな
前方後円墳や三角縁神獣鏡などの考古物は
倭国(阿波)の「忌部はん」 が造ったものだけどな。 @阿波 >>179 鏡には陳さんが作ったと名前が掘ってあるけれど?
>>162
>魏志倭人伝に書かれてる考古物があるのは畿内だけどね
碌な遺跡も無いのに? @阿波 古代史を考えるときに衣服・繊維の問題があまりにも軽視されあるいは無視されて
いるのは驚くばかりである。むろんこれは遺跡遺物から縫製具あるいは織機が
あまりにも発掘されないという理由もあるのだろう。しかしあきらかに織機というのは
きわめて高度な数学・工学的発明品であり、獣皮を割いて体にまといつけたり、ワラや
アシを乾燥させて編み込むような原初的な発明品ではない。麻を常用しているかぎり
日本で越冬できるのは北緯30度線以南だろう。北九州や朝鮮では麻製品で越冬する
のは現代でも至難である。
古田は本文批判を一切しないという有り得ない事を主張してるから一種の狂人だったな
阿波さんはもしかして今まで嘘をついていたのか
本当は居なかった忌部はんが色んなものを作ったと
>>169 旧石器時代から日本列島には人が住んでいた
彼らは越冬できなかったのか?
もう少し頭使え
>>180
>鏡には陳さんが作ったと名前が掘ってあるけれど?
だからなに? @阿波 ザラコクは史料批判史料批判うるさいけどな
しかし史料を比較して批判するなどをまったくしない
九州説のいつもの事
>>174 >そんな屁理屈にこだわっているから畿内説は見向きもされなくなる。
>畿内は沖縄にあるのか?
その返しが屁理屈だろ?
いや、屁理屈以下かww
魏志倭人伝の記述を正しいと言ってたら、どうにもならないという話
魏志倭人伝の地理観は現実に合わないのが確実というだけだよ
>>186 あれキミ三角縁神獣鏡は忌部はんが作ったとか言ってなかったっけ
けど鏡には陳さんが作ったと書いてある
もしかして嘘をついていたのかな
>>185 獣皮で越冬できるためにはすくなくとも半狩猟社会でなければならず
大規模な社会構造を形成するに至らない。放牧社会とは異なり、毛皮を安定的に
入手しなければ冬に死んでしまうのだから。(むろん季節により居住地を移動して
いた可能性はある)
>>184
>阿波さんはもしかして今まで嘘をついていたのか
>本当は居なかった忌部はんが色んなものを作ったと
まず間違いなく、君も「忌部はん」 の末裔だよ。 @阿波 >>184 >本当は居なかった忌部はんが色んなものを作ったと
違うよ
泡は、すべての倭人の行動を「忌部はん」のやったことと、
一切、何一つ根拠なく言い張るだけのアタマの弱い人ww
428
>>262 >3世紀の大陸の人にとって、会稽東冶之東の海上に何があるかは分からなくても、
「会稽東冶がどこにあるか」「会稽東冶がどれくらい南にあるのか」は分かってるんだよww<
3世紀の陳寿は、「会稽東治之東」と説明したのであり、
「会稽東冶之東」と書いたのではないから、お前の方が×だ。
>その東に倭国があるという認識は明確な錯誤であり、<
倭国ではなく、「女王國」の位置説明であり、錯誤になっていない。
>八尺棒で影の長さを計っていないという証明でもある<
魏使らは、一寸千里や簡易三角測量や記里車や歩測や日数測で「里数」を計測した。
「余」の有無での書き分けがある事が、その計測の存在の証明でもある。
>>182
今回の「加茂宮ノ前遺跡」では,
住宅跡から糸を紡ぐために使う土製紡錘車を備えていた。
一つの住居で辰砂の精製と鉄の加工、紡織、石器づくりをしていることから、さまざまな物を同時に作る工房としての性格があることが分かった。 @阿波 絹絹言ってる人は魏志倭人伝読んでる?
男子皆露紒 以木緜招頭 其衣横幅 但結束相連略無縫
婦人被髪屈紒 作衣如單被 穿其中央貫頭衣之
男子は皆、(何もかぶらず)結った髪を露出しており、木綿で頭を縛り付けている。
その着物は横幅が有り、ただ結び付けてつなげているだけで、ほとんど縫っていない。
婦人はおでこを髪で覆い(=おかっぱ風)、折り曲げて結っている。
上敷きのような衣をつくり、その中央に穴をあけ、そこに頭を入れて着ている。
種禾稻紵麻 蠶桑緝績 出細紵縑緜
稲やカラムシを栽培し、養蚕する。紡いで目の細かいカラムシの布やカトリ絹、絹綿を生産している。
>>198
>阿波はカレーが美味しかったりするんだなきっと
うん。 そして紡織も上手なんだよ。 すごいだろ。 ワハハは。 @阿波 一時期(数世代に渡り?)、
中国や朝鮮半島に住んでいた、
滞在していたインド人もいるだろう
その後、日本に来たんでしょ
どこそこで生まれた、住んでいたからと言って、
そこの国の人(民族)とは限らない
>>197 その綿はいまでいうワタではない。むしろ先に漢字があって
あとから繊維材料としてのワタ(木綿)がその文字を乗っ取ったものだ。
いわゆるコットンが中国に来たのは晩唐。それ以前の繊維は木綿か
キヌしかなかった。あるいは獣皮か、現代に知られていない(失われた)
衣服原料だろう。
×それ以前の繊維は木綿かキヌしかなかった
〇それ以前の繊維は麻(カラムシ)かキヌしかなかった
428
>>268 >結局九州説は魏志倭人伝に間違ってる部分があるという事にはしたくないのさ
魏志倭人伝の解釈だけで邪馬台国はここだって言えなくなるから<
結局「南→東」などの嘘つき詐欺師の大和説は、
魏志倭人伝に間違ってる部分がある、という事にはしたいのさ。
魏志倭人伝の解釈では、邪馬壹國女王之所都は大和だって言えなくなるから。
>>204 どう考えても現実に合わない部分があるからな
とくに距離方位
428
>>269 >まあ会稽東治(冶)のだいたい東なら
邪馬台国はだいたい九州と言いたいわけか<
邪馬台国もないし、会稽東冶は、魏志にはないから、×。
>けど考古学的には邪馬台国はほぼ畿内だからな<
考古でも邪馬壹國女王之所都は、ほぼ筑紫だからな。
まぁ、畿内や九州のトンデモさんは、考古学の後押しがないから辛いよね。
トンデモの口先主張は立派なんだがwww 所詮はトンデモ。 @阿波
古代日本において数千人あるいは数十万人の人民を越冬させるには
膨大な絹製品の生産能力が必要であり、これは自家生産などでこなせる
ようなものではなく、あきらかに「当初から」組織だった分業生産の知識が
日本に渡来して、のち一挙に兵員や労働力の大量動員が可能となった。
その拠点は北九州であり畿内ではない。絹製品は当初は交易品として
東方に販路を開拓し、のち武装商団としての神武東征が行われ、大量に
動員された者たちが畿内に駐屯し越冬をおこなっていた。これが古代の
風景である。そして彼らが崇拝するのはアマテラス信仰であって、それは
沖縄に起源をもつものである。なるほど3世紀には畿内にも北九州にも
大きな村落があったろう。もしかすると卑弥呼も居たかもしれない。しかし
そこは魏志倭人伝の言う邪馬台国ではない。あくまで邪馬台国は沖縄で
あって、北九州は製造拠点、畿内は駐屯地に過ぎない。
インド説?
誰々〜ユダヤ説、某〜ペルシャ説というのと同じ、
デタラメではないんじゃないの?
>>168 >会稽東治は「上海付近から江蘇省「」の海岸地域になるから、
という真っ赤な嘘をつき続けないと
九州説は終わりなんだよね
ま、嘘ついてれば終わるけどね
>>212
>沖縄説を本気で主張し始めるヤツが現れたぞ
九州説や畿内説よりましかもよ。 ワハハh。 @阿波 沖縄から鏡とか出てたっけ
あと三世紀の規模の大きい古墳も
>>214 少なくとも魏志倭人伝にはその辺りと書かれてるから
通り過ぎる九州と何も書かれてない阿波よりは沖縄の方がマシ
>>215 おそらく現実の沖縄自体は関係ないと思われる。
日本人にとってのナザレやシナイ山に相当する信仰の
対象であって良い。
428
>>270 そして我々は知っているね。
魏志は会稽東治之東であり、ほぼ九州島付近であり、
この男や大和説者の主張する「会稽東冶」ではなく、
従って「沖縄や台湾」ではないことを。
つまり
「だいたい東、九州全部で問題ない」を否定する大和説者らは、
清白か詐欺師だ
インドから渡って来て・・・、
その後、日本人(中国、朝鮮、韓国?)と結婚したりするでしょ?
外見、容姿的な話、
現在では日本人と同じ・・・・・・というか、ほとんど日本人、
見わけもつかないとか
なんだか、もうグダグダ状態だね。 トンデモさんたち。 仕舞に沖縄まで参戦とはwww @阿波
>>214
>ワハハh。 @阿波
最近、泡が無意味に「ワハハ」とか付け始めたな
虚勢を張らないと精神が保てなくなってきたかな?
九州説は全滅、葛城も左側スロープで自滅したから、次はそろそろ泡が消える頃かな まあモーゼの墓とかキリストの墓とかあるからな
古墳時代前は日本人はユダヤ教徒やキリスト教徒だったのかも知れない
おれは仏教がいきなり日本で尊重されたのは木綿(コットン・インド原産)の伝来と
あながち無関係ではないと思ってる。そして獣の殺傷の禁忌の伝来もまた日本の
古代社会にとって革命的な社会変革をもたらしたと思われる。それはすなわち
工業製品としてのキヌあるいはコットンを着用しなければ禁忌に触れると宣言
するようなものだからだ。獣皮をまとい、半農半猟をおこなっていた古代日本人が
畿内から関東まで一気に消え去り、獣皮が無ければ越冬できないことを知り
つくしていた東北以北と社会が分断されてしまったのはそのためだろう。
>>223
>次はそろそろ泡が消える頃かな
さっさと消せばいいものを、よう消さない畿内説。 情けないもんだ。 ワハハは。 @阿波 428
>>274 >文献的にだいたい九州VS考古学的にほぼ畿内 畿内の勝ちだな <
文献的には、「南≠東」や「大和は九州倭国の別種の旧小国」や、
九州倭国の「正北抵新羅」や「東征毛人五十五國」などに拠って、九州の勝ちであり、
考古でも、「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や、
祇園山の百人位の殉葬や、平原の21枚の「尚方作」鏡や、弥生銀座の繁栄や、
庄内も△も前方後円墳も筑紫先行で、大和は3世紀末以後になる事で、
九州説の勝ちだな。
仏教が広がったのは国の統治のためだろう
鎮魂護国の法として入ってきたからな
呪力によって国を安定させるという
泡は存在してないからな
経路も比定地もとある個人の妄想でしかない
消す、消さないの前に、誰にも認知されていない
そんなトンデモだからな、所詮泡はさw
野獣を殺すのはかわいそうでしょう、そういう可哀想なことをするのではなく
交易商品を生産しなさい、ならわたくしたち(畿内の者)が木綿製品や絹製品と
交換してあげますよ、という論理。もっともこの時代はすでに魏志倭人伝の
ころよりかなり後(奈良平安以降)とおもわれる。
最初に生まれたの?
アワ=ドラクエで言うとスライムなんだろうという話、
そう考えている人がいたり
もれ(仮)と同じ考えなのかな
獣皮があれば越冬できる事を自ら認めて沖縄説はその短い生涯を終えたのです
そこまでナイーブだったかな
そもそも仏教は僧の殺生は禁じても生産者の殺生は禁止じゃなかった
そういうのは非合理的だからな
頭が良い人なのかな?
最初に生まれた・・・、
ヘドロのような、スライム状のようなものとか
どのスレだったのか覚えていないんだけど、
たしか同じような事を言っている人がいた・・・?
>>229
>消す、消さないの前に、誰にも認知されていない
ところが、考古学・遺跡に認知されてるがね。 ワハハは。 @阿波 もれ(仮)が書いたのかな、
数年前の・・・どこかのスレ
予言とか、そういうところ、
>>233 邪馬台国は沖縄です。絹織物によって北九州や畿内で大量の人民が
越冬できるようになったとしても、そこは信仰の中心である高天原ではない
>>163 >その大和政権の外には、倭王が存在する余地がまったくない
結論が先にありきの妄想
いくら中国から絹織物の技術が渡来しようが、あるいはのちにワタ生産の技術が
渡来しようが、我々の信仰は沖縄(邪馬台国)から来たのであって、奈良や北九州
みたいな場所に発祥したわけではない。こういうことです。
そしてそういう正当性はいちど北九州や畿内の人々に受け入れられたのちは
現実の沖縄の歴史(史実)とは関係なく、高天原の物語りとして継承された。
いまの日本で京都が日本の首都であるとかたくなに主張しそう信じる人々が
決してすくなくないのとおなじことが古代でも行われていたということであります。
(/・ω・)/
へどろ状の存在
>>229の書き込みに対するレス
>泡は存在してないからな
>経路も比定地もとある個人の妄想でしかない
>消す、消さないの前に、誰にも認知されていない
>そんなトンデモだからな、所詮泡はさw
もしかして・・・本当に頭の良い人がいるとか
『ヘドロ状』
画像を検索してみて、グーグル?
数年前の、とあるKPOPスレがあるんだけど、
知ってる?
これは掃除するときに使うゴムの手袋だろうw
みたいな事を言ってる人たちがいたり
グループのメンバーが、
ゴムの手袋のようなものを付けたの?
本当に、そのような話をしていたような・・・、
どのスレだったかな
どういう事なんだと思う?
>>239 >結論が先にありきの妄想
だから、根拠なしの一行レスは無意味だっての!
畿内様式土器と前方後円墳が3世紀には広く列島に分布している状態で、
畿内から独立して大陸に遣使できる存在がどこにあるのか、根拠を挙げて論証して、
それから初めて畿内説が誤りだと主張できるようになる
まあ、がんばれ
でもそれができないから、学究の世界では九州説は絶滅したんだがな
428
>>298 >畿内には前方後円墳やら三角縁神獣鏡がガッツリ存在してるんだが
俺が口先で宣言してるわけじゃなくて <
大和の前方後円墳も△も、3世紀末以後になってしまって、
3世紀中程以前の卑弥呼の国にならない。
とりあえずワシの「邪馬台国・沖縄説」は公表するまでのない幻想であって
はすかしい(現代社会的に) でありますが、それとはまったく関係なく、ワシの
著作「私家版・法窓夜話」宜しくお願い致しますデス(/・ω・)/
https://www.amazon.co.jp/dp/B07NQCZ7S7 魏志倭人伝要約
倭人の男はだいたいイレズミをしている
イレズミは模様も大きさも様々である。おそらく身分によって違いがあるのだろう
男はロン毛でポニーテールが多いようだ
1枚の広い布の真ん中に頭を通す穴を開けそこに頭を通したものを服として着ている
横は縛ってるだけで縫ってない
倭国は温暖だから倭人は冬でも夏でも生野菜を食べる
履物は無く全員裸足である
家にはちゃんと屋根がある
赤い顔料を全身に塗っている
器はあるようだが食べ物は手づかみで食べるらしい
北センチネル島の原住民(土人)
428
>>313 >陳寿は郡から邪馬台国は南にあることは理解していたようだが
距離については長里?を用いた。それが「会稽東治(冶)の東」の記述になったかと思う<
いや、長里を用いれば、当然赤道付近に行ってしまうから、用いていない。
大和説者の沖縄台湾説は、不彌國から南への日数と、後漢書の「会稽東冶」を使っているのであり、
だから、大和説者は、「長里説否定=自己否定=大和説否定」になっている。
畿内説は奈良県がしくんだ地域振興
学術界と県がぐるになって嘘八百を重ね
風説を流布するも賢い在野の研究者に
見事に虚構を見透かされ遅遅として支持が
広がらないお粗末な展開になっている
428
>>315 >会稽東冶は陳寿が実際の倭国よりかなり南を想定していたという事がわかる<
陳寿は「会稽東冶」なんて書いていないんだから、
「実際の倭国よりかなり南を想定していた」事にはならず、
この男が、嘘つき騙しであった事が判る。
>この想定に基づいて行程が記されたために倭国の位置については間違った記事になってしまった<
「想定に基づいて」記されていないから、この男は、また×。
428
>>317 >誇張されて書かれているので縮めてみましたというなら一つの解釈ではあるけど短里は無いな<
長里であれば、赤道付近にまで行ってしまうので、長里はないが、
「誇張されていない」から、短里はあるな。
>>252 奈良県の自治体は凄いな
教科書に載せたり文部科学省も動かす
ちょっとそれらしい遺跡のある所は真似すればいいのにね
>>252 >学術界と県がぐるになって嘘八百を重ね
そういう誹謗中傷の前に、誰もが確認できる客観的な根拠や証拠をもとに
論理的な論証をしなさい
支離滅裂な矛盾だらけの書き込みばかりで、論にすらなってないぞ、九州説は
基本的なところでは、魏志倭人伝の史料の限界を認識するところから始めないと
428
>>321 >>倭人伝は、不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、沖縄説は、×。
>そのヘンテコな読み方は会稽東治之東にならなくなって
辻褄の合わない九州説が崩壊するんだよ 残念だね<
「不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている」事実から、
女王共立國の女王國が九州北岸から南九州の投馬國の範囲になり、
陳寿の「計其道里、當在會稽東地之東」にほぼぴったりになり、
辻褄が合って九州説が成立し、
「南≠東」や、「萬二千余里が長里では赤道付近になってしまう」から、
大和説は、崩壊するんだよねえ。
お気の毒だが。
>>252 九州の学者も関東の学者も日本の学者は畿内説
九州説は便宜的に九州説と呼んでるだけで、
学問以外のお爺さんたちの一人一説
沖縄タイムスさん、県民投票の記事をなぜか中国語で配信してしまう ・
http://2chb.net/r/news/1551008358/ 428
>>324 >>帯方郡から狗邪韓国、対馬海峡などの距離の記述を見れば、
魏志東夷伝が短里で書かれていることは明白なんだが。<
>三海峡の距離が異なるのに一律で千里とされている時点で、
海峡部の測量をしていないのは明白
計ってもいない単位があると主張する時点で大マヌケ
短里を信じる時点で知的能力が劣るという告白にしかならないよw<
三海峡も「有効数字1桁近似値」記録であり、
他でも「余」の有無での書き分けも存在しているから、
測量があった事が事実であり、
「短里がなく、長里を信じる」時点で、
知的能力が劣化している、という告白にしかならないよ
九州説の人間は、九州説の論旨を書き込むことってないよね
ただ文句を言うだけw
>>265 >三海峡も「有効数字1桁近似値」記録であり、
なら、全体も有効数字一桁しか有効じゃないだろ?
萬二千里と書いてあっても信頼できるのは、最上位桁の萬里だけだなww
このようにザラコクの書き込みは常に矛盾とお笑いに満ちているww
連続句読点が九州説としての意味のある書き込みをしたことってあるのか?
>>267 韓国政府が宣伝していた邪馬台国畿内説は、常に矛盾とお笑いに満ちていたから、仕方ないな。。。
428
>>328 >>九州説の短里は謎を解く一手法だろう・・賛同するかどうかは人それぞれだがね<
>いや、解けなくなって九州説を破綻させる躓きの石だよ
好き好んで余計な自己矛盾を抱え込むんだからね<
いや、長里説では、赤道付近にまで行ってしまう、という矛盾があり、
解けなくなって
「南→東」などの嘘つき騙しも相まって、
大和説を破綻させる躓きの石だよ。
好き好んで余計な自己矛盾を抱え込むんだからね。
>>245 >畿内様式土器と前方後円墳が3世紀には広く列島に分布している状態で、
多くの学者が、土器の分布と政治体制は連動しないと見ているようだね。
428
>>336 >それが会稽と合わないんだから自己矛盾で九州説死亡よ <
それが会稽東治之東と合ってしまっんだから、
大和説の嘘つき騙しの自己矛盾になって、
大和説死亡よ
>>266 >九州説の人間は、九州説の論旨を書き込むことってないよね
>ただ文句を言うだけw
畿内説のスレだから、畿内説の誤りを指摘するのは当然。
九州説の話をしてどうする。
比較のために持ち出すことはあるけれど。
>>268 >萬二千里と書いてあっても信頼できるのは、最上位桁の萬里だけだなww
お前、数学の素養がないだろww
>>263 奈良県の観光アピールにすら勝てない九州説は
そもそも学説でも何でもなかった
韓国政府が宣伝していた邪馬台国畿内説が、あっけなく、破綻してしまった、、、
何を言っても適切な反論で返されてしまい手も足も出なくなった九州説
あとは畿内説が踏みにじるのみ
いや九州説を踏みにじると在日朝鮮儒教道徳的に喜ぶな
そう扱われるのが本来的だから
ここはこの状況のまま放置してどうなるか観察してやろう
それがヤツらにとって1番キツイはず
>>273 >多くの学者が、土器の分布と政治体制は連動しないと見ているようだね。
飯炊き甕だけならね
精製器種3種は祭祀用土器だから、祭政一致の時代においては
政治的な協調・一体化をそのまま示しているんだよ
>>275 >畿内説のスレだから、畿内説の誤りを指摘するのは当然。
具体的な根拠付きなら意味があるんだが、それができてないだろ?ww
九州説の人間はバカしかいないというのがこのスレでの実態w
>>276 >お前、数学の素養がないだろww
計算の途中に有効数字一桁のものが入ったら、全体の有効数字も一桁だよ
これは、「数学」の領域の話ではないww
数学の素養とか言ってる時点で、
>>276の無恥がさらされてるw
帰化在日儒教九州説よ
お前らのものの考え方は普遍的な人類のそれと真っ向から衝突するものと知れ
>>283
>精製器種3種は祭祀用土器だから
あぁ、軽量薄型「東阿波型土器」ね。 @阿波 >>283 祭器の供給元だっただけで、何を偉そうにしているの?
ウィーンの宮廷で伊万里焼が重宝されたからといって、オーストリア帝国は佐賀県の属領だったか?
韓国政府が宣伝していた邪馬台国畿内説が、あっけなく、破綻してしまった、、、
韓国政府が宣伝していた邪馬台国畿内説が踏みにじられてしてしまったので、在日朝鮮人が、儒教道徳的に喜んでいるな。。。
韓国政府が宣伝していた邪馬台国畿内説が、降伏してしまった。。。
この世界を世界たらしめてる常識と朝鮮系人は全く別の世界観で動いている
九州説はゾンビやエイリアンと呼ぶのがふさわしい
つまり、韓国政府が宣伝していた邪馬台国畿内説が、あっけなく、破綻してしまったのだね、、、
>>288 >祭器の供給元だっただけで、何を偉そうにしているの?
畿内から供給された祭器を使って祭祀を行っている九州の立場ってのを
考えられないのが九州説の人間w
>>296
>畿内から供給された
ハハハ、碌な遺跡のない畿内が? @阿波 >>289 >ウィーンの宮廷で伊万里焼が重宝されたからといって、オーストリア帝国は佐賀県の属領だったか?
ウイーンの宮廷が伊万里焼での祭祀を行っていたのかい?ww
祭祀用土器だから、っていう意味が分からないふりをして、
異なるものを同一視することで誤魔化そうとしているだけ
もしくは、単に知的能力が足りなくて、論理的思考ができなくて
理解できてないだけかもしれないけどさ
今どき九州説をやっている時点で知的能力が足りないのはほぼ確定事項ww
九州説に聞いとこうか
説としてもう成り立ってない九州説をゴリ押して何の意味があるのか
ゴリ押してどんな風にしたいと想像してるのか
>>297 >碌な遺跡のない畿内が?
泡のいう、末盧国、伊都国、奴国の比定地はそれこそ何もないレベルなんだがなww
唐古鍵を越える内容の遺跡は、四国四県には一つもないしw
428>>346
>「那珂八幡古墳の存在」 最初期から前方後円墳祭祀連合に参加 <
石塚の撥型よりも那珂八幡の「非撥型」の方が古いから、
那珂八幡の方が古く、石塚は3世紀末。
>「畿内様式土器の流入」 畿内第V様式から継続的に入っている<
庄内が、大和の最も古い石塚よりも、筑紫の三雲や祇園山の方が圧倒的に古いから、
それの前段階の第X様式も、大和よりも筑紫の方が古かった。
>「九州様式土器の消滅」 最終的に九州も畿内様式土器を作るようになる <
いや、三雲の庄内以来筑紫が大和よりも先行し、筑紫→大和の伝来があり、
河内などから筑紫への搬入上納があったが、
大和から筑紫への搬入上納はあった位。、
>明確に、畿内勢力と奴国(比恵那珂遺跡群)は卑弥呼(弥生終末期)以前の
弥生時代後期から協調関係にあり、それをテンプレでは吉備も含めた同盟(アライアンス)と
表現している <
九州倭国の「東征毛人五十五国」による大和への伝来模倣があったから。 >>300 >泡のいう、末盧国、伊都国、奴国の比定地はそれこそ何もないレベルなんだがなww
ほれ、
大陸からの玄関口「末羅國」: 「田熊石畑遺跡」・「今川遺跡」・「徳重高田遺跡」・「鐘崎上八遺跡」・「手光於緑遺跡」・「朝町町ノ坪遺跡」・「朝町竹重遺跡」
伊都国:「感田上原遺跡」・「帯田遺跡」
奴国:「上本町遺跡」・「下伊田遺跡」・「五徳畑ケ田遺跡」・「真崎遺跡」
>唐古鍵を越える内容の遺跡は、四国四県には一つもないしw
ハハハ、開き直ったね。 「窮鼠猫を噛む」か。 @阿波
>>300
ついでに指摘が抜けてるので、
不弥国:「築城五反田遺跡」・「上別府沖代遺跡」・「安武・深田遺跡」・「安武・土井の内遺跡」・「赤幡森ヶ坪遺跡」
以上すべて、弥生後期集落遺跡でございます。 @阿波 >以上すべて、弥生後期集落遺跡でございます。
ウソ書くなカス
>>296 >畿内から供給された祭器を使って祭祀を行っている九州の立場ってのを
理屈をこじつけているだけ。
魏志倭人伝の記述と畿内の考古学的状況の乖離は埋まらない。
>>154
福岡県
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高気温( °C) 9.9 11.1 14.4 19.5 23.7 26.9 30.9 32.1 28.3 23.4 17.8 12.6
平均気温( °C) 6.6 7.4 10.4 15.1 19.4 23.0 27.2 28.1 24.4 19.2 13.8 8.9
最低気温( °C) 3.5 4.1 6.7 11.2 15.6 19.9 24.3 25.0 21.3 15.4 10.2 5.6
奈良県
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高気温( °C) 8.7 9.6 13.4 19.8 24.1 27.2 30.8 32.6 28.2 22.2 16.5 11.4
平均気温( °C) 3.9 4.4 7.6 13.4 18.0 21.9 25.8 26.9 22.9 16.6 11.1 6.2
最低気温( °C)-0.2 -0.1 2.3 7.4 12.5 17.5 21.8 22.6 18.8 12.1 6.4 1.9 >>302 >ハハハ、開き直ったね。
お、逃げたな?www
唐古鍵を越える遺跡を具体的に示せばいいのに!wwww
最近 思うのだが
>>1の自演が多すぎないかな
名無しだから、矛盾も平気だろうけど
テンプレ同様の行動なのだよ
一つだけ
>>1に感心するところは
ザラコクと対戦してるとかだな・・・ザラコク有利だからガンバレ
>>305 >理屈をこじつけているだけ。
祭祀用土器も含めて、畿内様式土器を使うようになって、
地場の土器を放棄しているのが北部九州、というのが考古学的な事実だよ
こじつけでもなんでもない
畿内の祭祀を受け入れていないなら、精製器種3種は九州から出土しないだろ?
祭祀以外には使い道はないんだから、流行に過ぎないとかいういい訳も通らない
>魏志倭人伝の記述と畿内の考古学的状況の乖離は埋まらない。
魏志倭人伝の記述の最重要部分、倭國の共立女王がヤマト国に都を置いている、という点で
畿内の考古学的状況が一致してるんだが?
どこが乖離しているのか、具体的に書いてね!ww
>>308 全1病が重いなww
1の書き込みはきちんと読んでれば大体分かるが最近ザラコクの相手は一切してないぞ
というか、私くらいしかザラコクの相手はしてないだろ
私も、AMS法でβ崩壊が速まるってのと、周髀算経の短里のめちゃくちゃ以外は放置してるけどさ
>>307 お前は何も論じていない
畿内説は阿波説は目の上のたん瘤
九州説も阿波説は目の上のたん瘤
大平洋ルートを畿内も九州も論破できない
畿内説も太平洋ルートと倭種の別国で利用するバカ
ここへ来て九州説は完全に失速してるな
ここしばらくニュー速で邪馬台国スレが乱立して、素人の九州説がだいぶ淘汰されたから
もう、ごく少数の確信犯的な頭の悪い人間しか九州説には残っていないんだろう
>>262 >九州の学者も関東の学者も日本の学者は畿内説
九州説は便宜的に九州説と呼んでるだけで、
学問以外のお爺さんたちの一人一説 <
それで、畿内説は
纒向が邪馬台国の王都、箸墓が卑弥呼の墓で決まりなのかいな
魏志は瀬戸内海ルートで決まりか
近江、東海の圀は統一されてんのか
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>>311と
>>313は同じ人で、かつ、まともな日本の教育課程での教育を受けていない人かな?
日本人なら、東海の「圀」とか書かないし、予測変換でも出て来ないよ
今「圀」って打ち込むの苦労したわw
>>311 >大平洋ルートを畿内も九州も論破できない
論破するもしないも、まともに取り合ってる人は皆無だろ?
>>310=
>>1だろ
このスレの大半は あんたとザラコクだろ
テンプレで南は東を半分以上を費やせばよかろう
1000投稿の50%以上は
>>1とザラコクだよ
>>1 連続句読点はネ
学者や研究者の論のネット貼り付けだよ
まだ気付いてないあんた馬鹿
連続句読点に文句言っても無駄
>>306
会稽東冶の東に位置する沖縄と比べたら、福岡と奈良の差なんて誤差レベルだな
沖縄県
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高気温( °C) 19.5 19.8 21.7 24.1 26.7 29.4 31.8 31.5 30.4 27.9 24.6 21.2
平均気温( °C) 17.0 17.1 18.9 21.4 24.0 26.8 28.9 28.7 27.6 25.2 22.1 18.7
最低気温( °C) 14.6 14.8 16.5 19.0 21.8 24.8 26.8 26.6 25.5 23.1 19.9 16.3
ちなみに、風習や風土などが同じと書かれている海南島と比べても、福岡と奈良の差は誤差レベル
1月の最高気温 20.1
1月の平均気温 18.0
1月の最低気温 15.2
(違うサイトなのでレイアウトが違うから、とりあえず1月の気温のみ転記) >>306 暮らしやすさは福岡だが、それが邪馬台国と関係ねーよ
古代の王はダミーの地に住み 人知れず隠れ家に住むのだよ
それが纒向なんだ
>>319 >圀の字は水戸黄門で有名だから光圀ですぐ出るぞ
それ以外で使う場面は皆無だろ?
東海の光圀って打ってから光の字を消すのかい?ww消すのかい
倭地が温暖というのも、ソウルや洛陽の冬の気温が低いから
なんとも言えんな
>>318 >学者や研究者の論のネット貼り付けだよ
お前、バカでかつ日本人じゃないだろww
連続句読点は、ネットの素人九州説レベルのことすら書き込んじゃいねぇよw
連続句読点の最近の書き込みは、韓国大好き、だけだぞww
>>324 ソウルに比べたら、奈良も福岡も温暖
沖縄に比べたら、奈良も福岡も寒冷
要するに、奈良と福岡は誤差レベルの差しかないということ
>>309 >地場の土器を放棄しているのが北部九州、というのが考古学的な事実だよ
>祭祀以外には使い道はないんだから、流行に過ぎないとかいういい訳も通らない
どうでもよくないか?
それより九州北部の三種の神器の祭祀が畿内の皇室に採用されたことの方が重要だと思うけどね。
【庄内式土器】
1,「庄内式土器研究会」の全国的(釜山〜関東)調査によれば、庄内式土器の中心出土地は纒向ではなく、中河内(八尾市・大阪市・東大阪市・柏原市)であり、その規模は纒向を「都市」とすれば、中河内は「大都会」である。
2.中河内の遺跡群には各地(特に多いのは吉備・播磨・四国地方などの西からの搬入)からもたらされた土器がかなりの頻度で出土している。大和の遺跡が東海や近江・北陸といった東の地域からの土器搬入が目立つのとは対照的。
3.河内の庄内式土器は西日本各地への移動が確認されているが、大和の庄内式土器はほとんど移動していない。
4.今まで日本各地から出土する大和の庄内式土器とされていたものは、ほとんど播磨の庄内式土器であって、大和の庄内式土器が移動している例は数えるほどしかない。
5.播磨で作られた庄内甕と畿内の遺跡の庄内甕は瓜二つで、近年の胎土の研究の進展により区別できるようになった。
6.大和盆地で庄内甕が出土するのは東南部だけである。すると庄内式が大和から全国に広がっていったとする従来の考え方を改めなければならなくなった。
7.胎土の研究を進めていくと、庄内式土器の次の段階の布留式土器が大和で発生し、初期大和政権の発展とともに全国に広がったとする現在の定説も否定しなければならない。
8.なぜかというと、胎土観察の結果、布留甕の原型になるものは畿内のものではなく、北陸地方(加賀南部)で作られたものがほとんどであることがわかった。
9.しかも北陸の土器の移動は畿内だけでなく関東から九州に至る広い範囲で行われており、その結果として全国各地で布留式と類似する土器が出現する。
10.したがって、日本各地に散見する布留式土器は畿内の布留式が拡散したのではなく、初期大和政権の拡張と布留式土器の広がりとは無縁であることが胎土観察の結果、はっきりしてきた。
428>>346
>「那珂八幡古墳の存在」 最初期から前方後円墳祭祀連合に参加 <
石塚の撥型よりも那珂八幡の「非撥型」の方が古いから、
那珂八幡の方が古く、石塚は3世紀末。
>「畿内様式土器の流入」 畿内第V様式から継続的に入っている<
庄内が、大和の最も古い石塚よりも、筑紫の三雲や祇園山の方が圧倒的に古いから、
それの前段階の第X様式も、大和よりも筑紫の方が古かった。
>「九州様式土器の消滅」 最終的に九州も畿内様式土器を作るようになる <
いや、三雲の庄内以来筑紫が大和よりも先行し、筑紫→大和の伝来があり、
河内などから筑紫への搬入上納があったが、
大和から筑紫への搬入上納はあった位。、
>明確に、畿内勢力と奴国(比恵那珂遺跡群)は卑弥呼(弥生終末期)以前の
弥生時代後期から協調関係にあり、それをテンプレでは吉備も含めた同盟(アライアンス)と
表現している <
九州倭国の「東征毛人五十五国」による大和への伝来模倣があったから。 428
>>348 >>では、帯方郡から一万二千里の邪馬台国はどこ?<
>その萬二千里が、伝説の世界観由来の、淮南子に記された世界の果てまでの
観念的な距離なんだから、現実の地理との対応はまったく考えられていない距離なんだよ
倭国は遠い世界の果てにある国です、という意味<
いや、「余」や「淮南子に存在しない国の里記録」があるから、
観念的な数字ではなく、実測値。
それに淮南子も、東方では短里を使っている。
>『倭国の中の「特定の地点」を指す数値ではない』<
類スレ主が、またインチキ説明で騙そうとしている。
「萬二千余里」は、それまで女王國の説明をしてきたのであるから、
当然女王國への距離。
>これが理解できない人が、九州説をやっている訳だww<
このようなインチキ騙しをしている人が、大和説をやっている訳だ。
428
>>351 「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者が、非常識な事を勝手に決めても、
世間や、国民の7割は、納得しないね
>>330 >畿内説自滅すんなよ楽しみが無くなる
纏向からおかしくなったなww
428
>>353 >水行も測れないんだよ<
一寸千里や簡易算三角測量や日数測で、測れる。
>測ってもいない距離に対して、仮においてある、または、設定に従って
書かれている数字に対して、「縮尺」を考えるのがデタラメであり捏造なんだよ<
史料記載事実のデータと現実の地理的距離からの、
帰納的推論計算から得られた縮尺。
間違っているのはいつも「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者やスレ主の仲間。
>>316
>論破するもしないも、まともに取り合ってる人は皆無だろ?
寺山3号墳は弥生の墳丘墓 邪馬台国期の特徴備える/徳島
投稿日:2015年10月04日
4世紀後半〜5世紀(古墳時代)の前方後方墳とされていた海陽町野江の寺山3号墳が3世紀初頭(弥生時代終末期)の墳丘墓とみられることが、
県埋蔵文化財センターの菅原康夫専務理事の調査で分かった。邪馬台国の時代に、県南部に大きな墓を築ける勢力があったとみられる。
寺山3号墳を含む寺山古墳群は、1977年にほ場整備計画が持ち上がり、79年の発掘調査後に水田の客土として削り取られて消滅した。
菅原専務理事は当時の写真や図面、出土品を基に、鳴門市大麻町の萩原墳丘墓に代表される弥生時代後期〜終末期の県内墳丘墓と比較した。
その結果、寺山3号墳(直径約12メートル)は規模は小さいものの、萩原墳丘墓(約20メートル)と同じ円丘で▽頂上に石を並べて四方を囲んだ埋葬場所がある▽墳丘の表面を積石で覆っている
▽徳島市の鮎喰川流域の集落で造られた「供献土器」が出土した−など七つの共通点を確認。「弥生墳丘墓と理解すべきであろう」と結論付けた。
破片が出土した中国鏡「内行花文鏡」の流入経路についても考察。「内行花文鏡」は萩原墳丘墓からも出土しており、「阿波枢要地域からもたらされた可能性が高い」とし、
県北部の勢力とのつながりが深かったとみている。
兵庫県立考古博物館(同県播磨町)の石野博信名誉館長(81)=奈良県橿原市=は「邪馬台国の時代に、墳丘墓を造れるだけの勢力が徳島県南部にあったとは驚きだ。
近畿と四国を結ぶ海路の拠点としての役割を担っていたのかもしれない」と話している。 @阿波 428
>>361 >(国民の7割が大和説否定)
その理屈でいくと 古田説は国民の10割から疎外されてることになるな <
「南→東」などの嘘吐き詐欺師の大和説の、
安部文部省や、NHKやYahooや5chや読売産経などのマスコミや、
右翼学会教育界や、キョクウ文化人が、
大和説を守るために、一番の邪魔者であった古田説を徹底的に潰そうと、
していたからなあ。
428
>>363 >結局のところ他動詞は目的語を伴うので目的語があれば他動詞なのかと<
そうでしょうね。
漢文は、動詞は、
自動詞的な意味の動詞であっても、
自動詞にも他動詞にも使える「非常に柔軟な使用が出来る」言語だ、
という事なんでしょうね。
428
>>365 >縮める前の距離が「分かっている」なら、縮尺という概念も通じるけれど、
実際には「縮める前の距離」などなく、
・倭国上陸まで1万里
・渡海一回で千里(×3)
・女王国(倭国)までざっくりで萬二千里<
いや、魏志らは「余」を付けた数字を書き分けたりしているから、
実測しているし、
「ざっくり」数字のインチキをした事が部下や後続の使節らに拠って確認されて、
皇帝らにバレれば、首が危ないから、いい加減な報告はしないもの。
428.>366
>征服された九州に大王なし<
「正北抵新羅」の九州倭国の「東征毛人五十五国」で、征服された九州以東に、
大倭王なし。
428
>>369 >邪馬台国は畿内で確定済だろ。<
邪馬台国も畿内も、存在もしない嘘つき騙しの詐欺文言であり、
邪馬壹國女王之所都は、筑紫で確定済みだろ。
>>339 >目的語があれば他動詞なのかと<
>そうでしょうね。
>自動詞にも他動詞にも使える
つまり、西服衆夷六十六國は自ら服したんじゃなくて、征服されたんだよ
要するに、九州は征服された側
やっと正しく読めたなww
>>331 ただの土から焼いた土器と、神器と、どちらが重要かな?
>>344
>要するに、九州は征服された側
ずばり、四国(阿波)を中心とした東・西・北への「忌部はん」進出展開記述
東征毛人五十五國 =近畿以東(北関東含む)
西服衆夷六十六國 =西瀬戸内・九州
渡平海北九十五國 =東瀬戸内・山陰・北陸
これ全部、倭国(阿波)から進出した忌部一族の開拓地域である。 @阿波 428
>>372 里程が正しくない、というドグマを立て、
文献にも考古にも根拠のない大和に比定地を立てて、
あまつさえ「南→東」などの嘘吐き詐欺をしてまでして、
そんな大和説が学問で居られる訳もなく、
国民の7割に否認される、という境遇に堕落したのは、
ものの道理、というものだ。
>>328、
>>330 河内と大和は一体の地域だって何度も教えてるだろ?
畿内第V様式土器を共通に使う範囲が邪馬台国七万戸の範囲だよ
河内様式だから大和王権じゃないってのは、詭弁としても出来が悪い
この時期、専門職の分業化が進み、土器生産も各地のセンターに集約されているから
広い範囲で共通様式の土器が出土するのだけれど、七万戸の範囲に1ヶ所から配送するのが
大変だから、河内と大和にそれぞれ土器生産拠点があるんだよ
でも一体の勢力だから、第V様式、庄内式、布留式と足並みを揃えて作る様式が変わっていく
きちんと見る目があれば、
>>328のような寝言は言わずに済むんだけどなww
畿内は鉄が不足していたから、九州から鉄を恵んでもらう為。上納品を盛ってきたんだろうな。
畿内の土器が九州にあるのはそのため。
>>345 三種の神器はもとは二種
鏡は後から追加されたもの
八咫鏡は神社伝承などを見る限り、唐古鍵遺跡近くの鏡作神社(複数)の氏族の手によって
作られた可能性が高い
>>348
>でも一体の勢力だから、第V様式、庄内式、布留式と足並みを揃えて作る様式が変わっていく
それは、「忌部はん」だから。 @阿波 >>349 >畿内は鉄が不足していたから、九州から鉄を恵んでもらう為。上納品を盛ってきたんだろうな。
>畿内の土器が九州にあるのはそのため。
相変わらず、鉄がー、に頼っているけれど、結局これは発掘バイアスなんだよ
纒向遺跡第174次調査
「60uの小さな調査範囲からコンテナケース20箱分の多量の遺物が出土しました。
そのほとんどは纒向遺跡の最盛期である3世紀代のものです。
それらの遺物の中には、近辺で鉄器生産がおこなわれていたことを
示す鞴(炉に空気を送り込む道具)の羽口や鉄滓、鉄片など特筆すべきものがありました。」
http://www.makimukugaku.jp/info/hakkutsu.html 纒向の3世紀で鉄生産してたことが考古学的にはっきりしたよ
要するに鉄は見つかってなかっただけ
>>352
>纒向の3世紀で鉄生産してたことが考古学的にはっきりしたよ
纒向の3世紀で「忌部はん」 が鉄生産してたことが考古学的にはっきりしたね。 ワハハは @阿波 >>337 >投稿日:2015年10月04日
結局、地元新聞社の記事だけが泡の根拠なんだなw
寺山3号墳(直径約12メートル)ww
纒向古墳群では最初期の纒向石塚古墳で墳丘長96メートル
泡には大した遺跡はないってのはこういうことだ
>>354
>纒向古墳群では最初期の纒向石塚古墳で墳丘長96メートル
それ、バリバリの倭国(阿波)「忌部はん」 作。 残念だったね。 @阿波 >>352 >相変わらず、鉄がー、に頼っているけれど、結局これは発掘バイアスなんだよ
畿内はバンバン掘っているだろ?
それでも出ないんだよ。
バイアスのせいではない。
山陰ならバイアスの影響もあるだろうけど。
纒向は掘れてないな
私有の田地なので好き勝手に発掘調査できない
これまで纒向で出て来た鉄滓や羽口は3世紀でも後半のものではなかったかな
九州から技術導入されたと仮定するならばこの時期は九州と対立関係には無かったと考えられてるとかなんとか
428
>>372 >>(淮南子の情報の)設定に合わせて作った数字とは、百里、五百里のことかい?<
>違うよ 韓の方可四千里や、循海岸水行(中略)七千餘里、のこと<
この類スレ主男が、またインチキを始めたな。
韓の「方四千里」は、韓伝冒頭の記載であるから、
(倭人伝の魏使らの里記載とは関係なく)、郡役人らの計測記録であり、
郡役人までもが、淮南子情報なんかに影響されて、韓の大きさを捏造する事など、
全くない。
類スレ主は、・・・・詐欺師。
428
>>375 >伊都国は実在するが、末盧国から東南陸行五百里の場所にはない
末盧国から東南陸行五百里で行く場所は伊都国ではない <
東南に出発して、案内人に従って、陸行五百里行けば、伊都国に着いた。
「末盧国から東南陸行五百里で行く場所は伊都国ではない 」と叫ぶ類スレ主は、
・・・・詐欺師。
428
>>379 >韓の方四千里は、実際には方四千里ではないけれど、沿岸航行七千里に合わせて、
南北四千里、東西は東の端まで行かないから三千里として、方四千里としている
最初に設定ありきで、それに合わせて机上の計算で作った数字なんだよ <
韓伝の「方四千里」は、郡役人らの計測記録であり、
魏使らの関与した里数ではないから、
類スレ主は、×。」
428
>>388 >倭国内の地理情報は、基本的に独立
さらに、水行10日陸行1月は、萬二千里の中の数字ではない<
不彌國で萬二千余里が、ほぼ終わっており、
「水行十日陸行一月」は、その前の(行程の目的地の)「女王之所都」の数量説明になるから、
郡から女王之所都までの所要日数説明。
428
>>389 >いいえ、投馬国は戸数道里が略載されているので、女王国(邪馬台国)以北の国
自女王國以北、其戶數道里可得略載
邪馬台国より南とした時点で、魏志倭人伝の記述には従いません宣言だよ<
いいえ、「南至投馬國」の「至」の前に移動があった事を示す文言がないから、
投馬國説明は、(邪馬壹國女王之所都の直ぐ北の)不彌國から行く側副傍線行程説明であり、
「自女王國以北、其戸數道里可得略載」の国になり、
「自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之」の国にもなる。
>>358 布留遺跡の高温鍛冶炉は5世紀後半。
3世紀後半の羽口などは、試験的に九州から導入されたものだろう。
一部高温鍛冶も行われたらしいが、だいたいは切断加工だったとみられている。
纏向の政権が博多などを傘下に加えた3世紀中頃以降のことだろう。
428
>>396 >地名は、そこに人が住み続ける限りは存続する
実際、對馬=対馬、一大(一支)=壱岐、末盧=松浦、奴=那の津、那珂、投馬=出雲、邪馬臺=ヤマトと、
全て現存地名まで対応しているのに、伊都=怡土だけ認めずに、伊都は米多だ、とか言い出したら
頭おかしいとしか思わないだろ?<
「奴=那の津、那珂」のように、全く違う位置の地にしたり、
「投馬=出雲、邪馬臺=ヤマト」というように、
文字も意味も全く違う地にしたりする大和説者は、
頭がおかしいとしか思えないだろ?。
卑弥呼の遣使以降急激に鉄器が増えるということだな
畿内を中心とした政治的結合は鉄器によるものではないということでもある
鉄の少ない後進地域(畿内)が鉄の多い先進地域(北部九州)を飲み込んでしまったというのが現実
3世紀の時点では鉄の量は、国力とは関係ないし、首都の位置とも関係ないということ
鉄がー、鉄がー、鉄がーといくら喚いても、関係ないものは関係ない
428
>>398 >1万をシチサンに割ったくらいで「内訳まで細かく」とか 笑うしかない<
韓の「方四千里(=一辺千里)」を書いた後で、
何故「ハチニ」や「ロクシ」を選択しなかったのか?や、
「七千余里」ではなく「八千里」や「九千里」を選択しなかったのか?を言えないのか?、
とか、笑うしかない。
428
>>401 >伊都国を怡土として不動のものとするなら、その北西五百里に末盧国を探さなくてはいけない<
「東南に出発して、その後陸行五百里かかる」末盧國を探さなければならない。
>>365
>3世紀後半の羽口などは、試験的に九州から導入されたものだろう。
ハハハハは 九州に碌な鍛冶炉遺構がないのに? @阿波 >>356 >畿内はバンバン掘っているだろ?
>それでも出ないんだよ。
出てるだろ? 何を言ってるんだ?
纒向遺跡第174次調査
「60uの小さな調査範囲からコンテナケース20箱分の多量の遺物が出土しました。
そのほとんどは纒向遺跡の最盛期である3世紀代のものです。
それらの遺物の中には、近辺で鉄器生産がおこなわれていたことを
示す鞴(炉に空気を送り込む道具)の羽口や鉄滓、鉄片など特筆すべきものがありました。」
http://www.makimukugaku.jp/info/hakkutsu.html 纒向の3世紀で鉄生産してたことが考古学的にはっきりしたよ
畿内説も九州説も考古学の後押しがないから辛いよね。 口先だけが頼り。 @阿波
>>361 >土器で政権範囲を語るとそうなるな
何度もみっともないなw
飯炊き甕だけじゃなくて、精製器種3種の祭祀用土器まで受け入れているんだから、
祭祀連合という政治的な枠組みに参加してるんだよ
ウイーン宮廷は、伊万里焼で祭祀なんてしてないだろ?w
>>372
>纒向の3世紀で鉄生産してたことが考古学的にはっきりしたよ
纒向の3世紀で「忌部はん」 が鉄生産してたことが考古学的にはっきりしたね。 ワハハは @阿波 >>373 >口先だけが頼り。
泡は妄想だけが頼りww
あと、どんな時でも「忌部はん」って書くだけ
泡に根拠は一切なしww
>>374
>精製器種3種の祭祀用土器まで受け入れているんだから
あぁ、小型軽量薄型「東阿波型土器」ね。 @阿波 428>>402
>水行七千里も、渡海千里も、九州上陸まで一ヶ所たりとも測定された距離がない<
でっち上げて、部下や後続の張政らに拠ってズボラした事が皇帝らにバレれば、
首が危ないから、ズボラしないし、
「余」の有無での書き分けまであるから、「測定」されていた。
>渡海三ヶ所も
狗邪韓国(プサン)ー対馬国 100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐) 70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津) 50km/1000里=50m/1里
となり、まったく比例していない <
有効数字1桁程度の近似計測値としては、十分比例範囲内であるし、
類スレの里数計測地点の選択が恣意的過ぎて、問題大有り。
>九州北岸から二千里では、九州北部から出ない。
九州島内の陸行距離は萬二千里に入ってないから、意味がない <
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっており、その「南」だから、北部九州そのもの。
>九州島まで一万里、そこから先が二千里(水行20+10日、陸行1月)と、
考えられていた「かもしれない」程度ww<
大和は、「南≠東」に拠って、99.5%以上×、という程度。
結局大和説は、根拠が行程パズルにするしかないから、ここだけにこだわっているんだよ。 >>371 この時期までに、高温炉に羽口使っていたのは九州。
何も根拠を言わない
何も証拠を出さない
それが九州説
>>379
>この時期までに、高温炉に羽口使っていたのは九州。
ハハハハは 九州に碌な鍛冶炉遺構がないのに? @阿波 畿内説も九州説も考古学の後押しがないから辛いよね。
倭国(阿波)の前では黙るしか手が無い。 @阿波
ついでに、お抱え学者も
倭国(阿波)の前では黙るしか手が無い。 @阿波
428
>>404 >日数表記も、「道里」略載なんだよ
>>137のFAQ78を読んでおいで<
陳寿の「道里」は、日数というよりははるかに、文字通りの「道の里」だよ。
>末盧国には官の記載がないから行ってない、というのはまああり得るが、
投馬国を通っていないとする理由はない あるのは九州説の都合と思い込みだけww<
女王之所都への途中の説明であるんだから、
通っておれば、魏使らは当然「里」を記載した筈。
それを「里」で記載せず、倭人からの「日数」記載だけであった、という事は、
魏使らが通っていない、という事の証拠。
>>368 >鉄の少ない後進地域(畿内)が鉄の多い先進地域(北部九州)を飲み込んでしまったというのが現実
何をもって現実と言うのかな?
ゆめでもみてる?
神器の伝播を見れば、博多湾沿岸勢力が畿内に侵入したことは明白だ。
>>385
>神器の伝播を見れば、博多湾沿岸勢力が畿内に侵入したことは明白だ。
それ、↓と五十歩百歩だよ。 @阿波
「鉄の少ない後進地域(畿内)が鉄の多い先進地域(北部九州)を飲み込んでしまったというのが現実」 >>369 >何故「ハチニ」や「ロクシ」を選択しなかったのか?や、
シチサンに決まってるだろ
渡海が3回ある
>>352 古墳時代が3世紀に纏向で始まったかのように思っている馬鹿。
倭人伝には「倭人は土を盛って墓となす」とある。
ホケノ山や箸墓はどう見ても石を積んで作られているように見えるだろ。
だから、魏使達の見た墓は所謂古墳ではない。
土饅頭のような墓か、または方形周溝墓のような弥生時代の墓だったろう。
箸墓のような巨大な墓でもない。
箸墓は前方部も含めると280mにもなり、周濠を含めると350mもある。
大きな墓だった事を示す為に径100余歩と書いたのだから、箸墓のような墓なら径200余歩と書くはず。
橿原考古学研究所は卑弥呼の墓は勝山か、石塚古墳であろうとしている。
これらの墓には葺き石がないから「土を盛って墓となす」と言う倭人伝の記述に合わなくもない。
だが。これらの墓に今葺き意志がないとしても、初めから無かったのではない可能性もある。
石塚と言う名前が示しているように石はあったと考えるべきだろう。
戦国時代には城や砦を作る為に名も無い古墳から石を取って砦にしたという。
箸墓のように誰某の墓となれば石を剥がす事はなかった。
そこで箸墓の葺き石は残っているのだ。
さて、箸墓の周濠から輪鐙が出土しているから、築造時期も4世紀後半から5世紀のものであろうと考えられる。
畿内で鉄器で作られるようになったとしてもそれ以後。
鉄屑が見つかったからと言って鉄が十分にあった事にはならない。
輸入した鉄を加工して農具などにする際に出来たもの。
鉄滓から精製して鉄にする能力が無かった証拠。
428
>>404 >邪馬台国行きも水行十日、陸行一月という日数表記だが、
これは自女王國以北、其戶數道里可得略載に間違いなく入るんだから、
投馬国が女王国以北に入らないというのは通らないんだよ <
「南至投馬國」の「至」の前に移動があった事を示す文言がないから、
投馬國説明は、(邪馬壹國女王之所都の直ぐ北の)
不彌國から行く側副傍線行程説明であり、
「自女王國以北、其戸數道里可得略載」の国になり、
「自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之」の国にもなる。
>>385 北部九州は威信材を何でもかんでも副葬する文化があっただけ
鏡・剣・勾玉をセットで副葬する文化が継承されていた形跡はない
畿内に伝搬と言いたいなら、直前の遺跡はどこだよ?
428
>>413 >試料の気化と同時で、プラズマ化してから、電場(加速器)に導入するんだよ <
それなら、プラズマ化した瞬間から、原子核の放射性壊変が発生しており、
電場で加速すれば、その原子核の放射性壊変が更に亢進してしまう事になり、
ますます「古い計測値」が出てしまう、
という失敗をした事になる。
>>381 福岡の博多遺跡と徳島の庄遺跡、奈良の纏向遺跡
から羽口が出ていて、いずれも弥生終末期とされている。
技術伝播を考えると、博多が最初。
その後、庄や纏向へ波及したと考えるのが筋。
428
>>415 「南→東」などの嘘吐き詐欺師の大和説がやっていることは、
反論ではなく、
都合の悪い問題の隠蔽や、論点そらしの拒絶
>>388 箸墓の前方部に、有段二重口縁壷の破片が散らばっている。
この型の二重口縁壷が造られたのは、3世紀後半〜4世紀中頃までとされている。
5世紀築造としたら、有段二重口縁壷の破片が前方部に散らばっていないはず。
箸墓、5世紀築造はない。
邪馬台国畿内説を宣伝してきた韓国人たちが、論破されているな。。。
428
>>419 >『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。<
「道里」と、「道里遠近」とは違うよ。
「道里」は。「里数」であるが、
「道里遠近」は、「遠近」の程度、であり、
この例ではその「遠近程度」が「行道八日」程度だ、と言っているのであり、
「道里」そのものにはなっていない。
当たり前の事。
428
>>431 >>魏の人たちがどうやって、東シナ海のはるか向こうの正確な位置を認識できたのか…。<
>そりゃ、倭人から聞いたのさ。 沖縄へは、縄文時代から渡っていたからなあ。
博多の倭人に聞いたら、ちゃんと答えてくれたということ。<
博多の倭人は、不彌國のすぐ南に「邪馬壹國女王之所都」である事を知っているから、
女王が沖縄にいるなんて言う筈がないので、×。
この狂ったじいさん、そのうち「戸数多少」は「戸数」でないと言い出すかもね
428
>>434 >「末盧国から東南五百里陸行」というのが、卑弥呼のとき以前の記録で、
それが、北部九州の地理情報として混入した、というのが妥当性が高いと思う <
」魏使らが、
「卑弥呼のとき以前の記録で、 それが、北部九州の地理情報として混入した」
なんて失敗やインチキをしていれば、部下や後続の張政らに確認されて、
皇帝らにバレれば首が飛ぶ可能性があるから、
魏使らはしないので、×。
邪馬台国畿内説を宣伝してきた韓国人たちが、論破され、狂ってしまったのではないのかな。。。
>>372 技術伝播の時間差を考えると、「3世紀代」と言っても、纏向は3世紀後半だろうね。
428
>>438 >魏使の復命書に何が書いてあったのかも謎だし三国志を書いたのは陳寿だしな<
魏使らが「インチキやズボラ」を書いて、
部下や、魏朝の臣下になった難升米や都市牛利らや、後続の張政らに拠って、
皇帝らにバレたら、首が危なくなるから、
魏使らはそんな事をしない。
北部九州はどんなにゴマカシしても
会稽東治之東にならないよ
あきらめるんだな
428
>>443 >九州は西服衆夷六十六國だから九州倭国は存在しないな<
勿論「南≠東」などによっても、女王國≒倭國は九州であるし、
唐会要倭国伝(日本国伝ではない)の「正北抵新羅」に拠っても倭国は北部九州であるし、
倭王武の「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」が出来る地が九州である、
などという事から、
九州に倭国中枢が存在した。
>>374 献上品用でしょうね
文化の差と、畿内→北部九州の一方方向の土器の流れから対等の交流と思えない
庄内の時期に交流を持ち始めたのでしょう
北部九州の庄内土器は胎土研究では播磨と河内産みたいですが
北部九州の庄内土器の受け入れに関しては、那珂八幡あた りを中心に大流行という所でしょうか
地元の胎土を使い、独自に各地で進化してるし
結論、現状では3世紀前半に畿内が北部九州を押さえている状況には見えない、
鉄の技術の流れも畿内には十分に届いてないことからもわかる
というところでしょう
この間、那珂八幡が巻向と関連が無さそうというのがわかり、さらに追い討ちをかけましたね
畿内説は、材料不足のまま箸墓を3世紀にしたがる
卑弥呼となんでもかんでも結びつけるのはよくない
纏向の掘っ立て柱建物も同じこと、周りの古墳の被葬者の建物と考えないのかな
>>409 >結論、現状では3世紀前半に畿内が北部九州を押さえている状況には見えない
素人が見えなくても意味が無いから
428
>>460 >いつも思うんだけど そうやって過去スレの書き込みにレスしてるけど
誰も君を相手にしてなくね?<
批判す対象は、大和説であり、
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者が、
文部省や、マスコミや、学会教育界を支配して、
国民を騙して「皇国史観専制国家」にしようとしている事が、
黙過し難く、一人でも、大和説から抜けられるように、
大和説の嘘吐き騙しの実態を、国民に知らせよう、と思っているだけ。
428
>>474 >現在でも出雲の人の発音を聞くと、最初のイが弱くエに近い音で発音される
「(ェ)ヅモ」だな
まあ、2千年近く前も同じ発音だったとは言わないが、日本海側山陰地域は
東北方言に近い発音になるから、的外れな推定ではない <
「南≠東」などの嘘吐き騙しだから、始めから、×。
>>409 献上品www
ヤマト王権を支配下に置いていた強大な九州王朝があったという珍説を唱えてるのかwww
428
>>476 「畿内」なんて存在もしない嘘つき騙し詐欺文言。
史料事等の推論根拠が有ることが、アカデミック九州説
無いことが、ホロン部、大和説
>>412 反論があるなら、どうぞ
畿内で硯の発見が無かったらヤバい状況ですよ
今から砥石を精査していくでしょうが
あれだけ九州であるなら、出てくるとは思いますがね
邪馬台国畿内説を宣伝してきた韓国人たちが、論破されているな。。。
>>412 >結論、現状では3世紀前半に畿内が北部九州を押えている状況には見えない…
これ、太鼓判。
>>417 柳田が想定してる国内で作りかけの硯は
弥生時代中期(紀元前1世紀)ごろだし
三雲・井原遺跡で見つかったのは弥生時代後期(1〜2世紀)と見られてるし
卑弥呼の遣使と関係ない時代から文字を使う渡来人が博多湾沿岸に来てたんだろ
428
>>480 >畿内説は<
畿内なんて存在もしない嘘つき詐欺文言。、
>萬二千里は、淮南子等の伝説上の世界の果てまでの数字を援用して、
遠い地の果てからの朝貢であるとする符丁であって、「具体的な現実の距離とは関係ない」という主張だ<
魏使らは、「余」や「部分行程」などを記録しているから、「援用」していない。
>つまり、「水行20+10日、陸行1月」が「具体的な道里」であって、 この日数と萬二千里とは関連がないという立場
逆に九州説は、「萬二千里は邪馬台国までの具体的な距離であり
その内訳も明記してある」と主張している以上は、「水行20+10日、陸行1月」が
「里数に換算できなければならない」訳だそうでなければ、「内訳の積み上げで萬二千里にならない」からね
もちろん、「帯方郡からの総日数」が水行10日陸行1月というのも既に否定されている<
「至邪馬壹國」の前に書かれていないから、「郡〜女王之所都」の所要日数説明。
>帯方郡からの距離は九州上陸までに1000キロを超えるから、水行10日のためには
1日に100キロ進む船が必要だが、3世紀にはそんな高速船はないから物理的に否定される <
「歴韓國乍南乍東」は韓国陸行」だから、水行は「循海岸水行」と3渡海だけだから、×。
>また、九州上陸後に陸行1月は困難だし、特に北部九州説は詰んでいる<
不彌國で萬二千余里がほぼ済んでいるし、「南≠東」等に拠って大和説は詰んでいる。
>さて、萬二千里で邪馬台国に到着すると主張するなら、
「水行20+10日、陸行1月」が何里に換算されるのか、示してごらん?ww <
説明済み、
428
>>482 >テンプレは畿内説の代表じゃないけどな
出雲が投馬国だよな <
どちらも、「南≠東」などに拠って、×。
>>417 >畿内で硯の発見が無かったらヤバい状況ですよ
なんでヤバいのか理由を言えない人がいくら頑張っても
畿内説は痛くも痒くもないから
w
w
紀元前108年に楽浪郡が設置されて、
漢字文化圏から日本の産物の何を目当てに紀元前から博多湾沿岸まで来てたのか
何を中国に持ち込むと利益が得られるのかということだな
硯は出雲からも出ている
山陰から北部九州に運ばれてるもの(出土するもの)は何かということ
邪馬台国畿内説を宣伝するために、韓国政府に雇用されたキナイコシが出現して、論破された時の癖を出して、弱弱しい強がりを言い放ったな。。
423日本@名無史さん2019/02/25(月) 15:33:09.02
>>417 >畿内で硯の発見が無かったらヤバい状況ですよ
なんでヤバいのか理由を言えない人がいくら頑張っても
畿内説は痛くも痒くもないから
w
w
邪馬台国畿内説を宣伝するために、韓国政府に雇用されたキナイコシが、焦っているな。。。
>>393 >それなら、プラズマ化した瞬間から、原子核の放射性壊変が発生しており、
何度も言うが、原子核壊変に関わる核力のオーダーと、電子との電磁気力のオーダーが
桁違いだから、電子の挙動は原子核に影響しないんだって!
>電場で加速すれば、その原子核の放射性壊変が更に亢進してしまう事になり、
しません
そして、たとえしたところで、電場・磁場中を移動するのは秒もかからないんだから
その間の壊変は誰が何と言おうと無視できる
ポワソン分布でググってみなw
>>405 >大和の鉄器時代は、ホケノ以降だよ。
ホケノ山古墳の木棺が120〜240年
2世紀前半から3世紀半ばだね
この頃にはヤマトに鉄が潤沢にあった訳だし、鉄鏃もいっぱいだから何も問題ないなw
>>409 >庄内の時期に交流を持ち始めたのでしょう
ぶぶー
その前の畿内第X様式土器から、北部九州で畿内様式土器が出てるよ
交流は縄文時代からあるんだから、誤魔化しても無駄
>>410 >畿内説は、材料不足のまま箸墓を3世紀にしたがる
その前に、纏向遺跡が3世紀初頭には存在しているのが確実であり、
特別な王のための新造都市だっていうのが重要なんだよ
箸墓の年代は、畿内説でも260〜280年としている
論点は、これが卑弥呼の死後に作った墓として整合性があるかという点だけ
428
>>483 >その連合政権の中心の王都のある国がが、畿内のヤマト国だってこと<
畿内なんて存在もしない嘘つき騙しの詐欺文言であるし、
大和は、九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国であった、という事。
>前方後円墳は各地の墓制を統合した物で、<
筑紫の那珂八幡などが伝わったもの。
>連合政権つまり卑弥呼の共立勢力の存在を示している<
「南≠東」などに拠って×。
>また、三角縁神獣鏡は魏との交流を記念する銘文を持つものもあり、多くは倭国内で
作られた踏み返しなどのコピー鏡だが、魏との交流を記念する動機を持つ勢力は、
魏と交流した主体そのもの以外にはない<
△は、呉系楽浪鏡師らの渡来に拠って、まず筑紫付近で造られて、地方にも広められたもの。
>北部九州も、前方後円墳体制に最初から参画しているし、三角縁神獣鏡を
配布される側、つまり地方勢力なのが確定<
大和も、筑紫から前方後円墳が伝わったであったし、△も東征将軍らの持参で始まった。
>前方後円墳が作られた頃に纏向に連合勢力があったと認めた時点で、
北部九州に自立した独立主体がなかったことが確定する<
大和などに前方後円墳が出来た時点で、九州倭国の東征支配下になった事が確定する。
畿内は東でも東南東ならまだしも東北東だからな〜
>>430 卑弥呼と邪馬台国を持ち出さなければ、纏向の連合政権は大和王権へ発展する最初の政権ということで整合性を持ち、それが歴史の真実であるとの太鼓判になる。
それをあれこれ捏ね上げて、九州の卑弥呼を大和へ持ってこようとするから、おかしなことになるのだね。
文部科学省と出版業界、奈良県、桜井市などがいくらうれしそうな顔するからとて、古代史素人ファンである我々は歴史の真実を真面目に追究しなくてはいけない。
みなさん、我々素人は歴史の真実を追究しましょう。
九州説は何か1つでもいいから証拠を出そうや
何もないのに言い張ってても説得力ゼロ
>>429 畿内第X様式土器の拡散は、政治的な背景を持たない斉一志向の流れだった。
一方、政治的な背景を持つ畿内土器の北部九州への拡散は庄内土器の時期で、実年代としては3世紀中頃。
九州で最も早い庄内式は、博多地域でみられる。
そして、それと同時に、大和では鉄器があふれるような流れが現れる。
何が起こったのか、一目瞭然だ。
>>434 中国の3世紀の史書をみれば、大和が卑弥呼の邪馬台国でないことは、実に明白。
なのに、“証拠”を捏ね上げて、大和に邪馬台国を引っ張ろうとしている。
古代史素人ファンの風上にも置けないな。
>>428 ホケノは3世紀中頃。
それまで、大和は東日本と同様に、鉄器過疎地帯。
ホケノから、急に鉄器だぶつき地域になる。
何が起こったのか、明白だよね。
>>423 思わず反論に窮して、あちこち見回している畿内説者。
わははははは。
>>438 大陸貿易の主導権を畿内が握ってしまったんだよね
>>439 反論?
なんのことだ?
畿内説は特になにも論駁されてないぞ?
>>407 >北部九州はどんなにゴマカシしても
>会稽東治之東にならないよ
>あきらめるんだな
畿内ならなるの?
>>417 >あれだけ九州であるなら、出てくるとは思いますがね
出て来てから畿内説を唱えてね。
現状では畿内説は妄想や願望の域を出ない。
>>433 >
>>430 >卑弥呼と邪馬台国を持ち出さなければ、纏向の連合政権は大和王権へ発展する最初の政権ということで整合性を持ち、それが歴史の真実であるとの太鼓判になる。
>それをあれこれ捏ね上げて、九州の卑弥呼を大和へ持ってこようとするから、おかしなことになるのだね。
>文部科学省と出版業界、奈良県、桜井市などがいくらうれしそうな顔するからとて、古代史素人ファンである我々は歴史の真実を真面目に追究しなくてはいけない。
>みなさん、我々素人は歴史の真実を追究しましょう。
全面的に同意するよ。
かえってヤマト王権さえもわからなくなっている。
428
>>491 >魏使、郡使が行ったところでも、測量しなければ距離(里数)は分からない<
「余」が使われているから、測量はあった。
>陸行であれば、歩測や移動時間で見積もることができるが、沿岸航行の水行では大陸の人間には距離を見積もる手段がない<
沿岸航行は、韓に入るまでの「循海岸水行」部分だけであり、簡易三角測量で距離が見積れる。
>大陸史書に、里程と日数の二重表記の例はない <
単に一回切りの視察記録であれば、片方だけの事もあろうが、
難升米らのように魏の臣下になって、今後も往来が継続する可能性がある場合には、
行程説明と所要日数説明の両方を書く事は、十分に有り得る。
>帯方郡からの距離は九州上陸までに1000キロを超えるから、水行10日のためには
1日に100キロ進む船が必要だが、3世紀にはそんな高速船はないから物理的に否定される<
韓国陸行をこっそり否定抹殺するインチキをしたから。
>不彌国まで行っても、まだ1300里残っている <
残っていない。
>1300里あれば550キロ以上進める<
半島や海峡で使った里距離では、全く行けない。
>短里もないし、萬二千里は積み上げた数値ではないし、倭国内の特定の地点を指さない<
邪馬壹國女王之所都までの道のり距離だ。
>>433 >九州の卑弥呼を
これがデマではないことを、誰でも確認できる客観的な根拠とともに
具体的に論証して見せればいいねんで?
できんうちは、何ゆうても無駄やw
>>446 >残っていない。
つまり会稽東冶之東じゃないんだよね
倭人伝と合わない九州説って
もちろん死亡だよね
428
>>494 >>会稽・・・東はね 畿内説の一部のお馬鹿さんが南の方角は認めるが
距離は認めないという矛盾をネグレクトして九州説にチャモンをつけてるだけ<
>・・・だという理由をひとことも語らない九州説
すべて理由のない決め付けで出来てるんだねえ 九州説っさ<
「理由をひとことも語らない」のだ、という理由をひとことも語らない、大和説。
すべて理由のない決め付けで出来てるんだねえ 大和説ってさ。
>>435 >畿内第X様式土器の拡散は、政治的な背景を持たない斉一志向の流れだった。
何もなければ、遠地と土器様式を斉一化しようということにはならないだろ?
まず、ここが論証できないから、ただの妄想だって話になる
既に、この畿内第X様式土器の時点で、奴国の領域は畿内と協調関係にあるんだよ
>>436 >大和が卑弥呼の邪馬台国でないことは、実に明白。
具体的に根拠とともに論証して!
全然明白に書いてないぞ!
>>438 >ホケノは3世紀中頃。
ホケノ山古墳の木棺が120〜240年
2世紀前半から3世紀半ば
428
>>495 「南→東」などの嘘つき詐欺師の大和説は、
「何かを見つけました、邪馬台国はここです」とすぐに言いたがるけれど、
文献考古の周辺情報との整合性がまるで取れていない
要するに、都合のいい情報ひとつだけを拾ってそれで論立てしただけの、
チェリーピッキングばかり
>>429 どこからどれぐらいの量が出土してるの?
>「南→東」などの嘘つき詐欺師の大和説
これ↑連呼してる既知外は素人なんかな?
研究史もまったく知らなそう
>>450 普通に庶民の流行だろう
基本、皿や容器なんだから
>>502 >四隅突出墓文化圏が、出雲・投馬国の可五万余戸の範囲だと考えている
吉備ではその勢力圏の広がりを考えたときに、五万戸になるような範囲が見出せない
ただ、吉備の特殊器台が出雲でも使われているし、吉備と出雲が近い関係だったと考える余地はある<
吉備は、元は出雲系であったが、九州倭国の「東征」に拠って、倭種や九州倭国の支配地になった地域。
>山陰山陽を合わせて中国地方と呼ぶが、
北部九州 奴国 二万戸
中国地方 投馬国 五万戸
近畿地方 邪馬台国 七万戸
という関係の中での、中国地方と見れば、それでよいのかも<
「南≠東」などに拠って、×。
428
>>505 >畿内説は、そのまま水行陸行の日数分進む、とするだけ<
畿内なんて存在もしない嘘つき詐欺文言であるし、
「南≠東」などに拠っても、×。
428
>>507 >畿内説は、距離も方角も不正確であてにならないとしているだけだよ<
畿内なんて存在もしない嘘つき詐欺文言であるし、
距離は、有効数字1桁近似値程度の正確さであるし、
方向は、東西南北程度は全く間違えない正確さであるから、
大和説は、×。
嘘つきでもないし詐欺師でもないしなんでもない
魏志は、州胡(済州島)が馬韓の南なのに西だといってる
つまり海にでた途端に方角が90度ずれてるんだよw
428
>>510 >同意します 纏向や箸墓から畿内説はあまりにも飛躍しすぎたと思います
畿内説の良いところをダメにしたような気がします <
畿内なんて存在もしない嘘つき詐欺文言であるし、
大和説は「南≠東」などによっても始めから×であり、良いところなどもない。
>京都大学や大阪大学の研究者に期待したい <
京大阪大の研究であっても、「南→東」の嘘つき騙しの大和説者である限り、
思想宗教に狂った・・・・アホでしかなく、
期待出来ない。
428
>>514 そんなアホ連呼すればするほど
九州説に反論ひとつマトモに出来ない大和説のテンプレが
ますますミジメになるだけだぞ
>>450 >何もなければ、遠地と土器様式を斉一化しようということにはならないだろ?
>まず、ここが論証できないから、ただの妄想だって話になる
文化の伝播と支配構造は必ずしも一致しない。
中国でiPhoneが売れていても、アメリカが中国を支配したわけではない。
ジーンズを履いているからといって、アメリカ人ではない。
>>462 容器は何でもいいんだよ。
大事なのは三種の神器くらいだ。
そしてそれは九州北部から伝播して畿内の銅鐸文化を駆逐した。
>>464 テンプレで九州説ボコボコにされてるやん
なのに九州説は反論出来ず
イヤガラセ専門に堕落
この現実
【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江→尾張→伊勢→纏向
↓
宇佐→安芸・伊予→阿波・吉備→淡路島→摂津・河内
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→3世紀初に畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀末に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入
支配は西から東へ拡大し、土器などの産物は王都である筑紫へ
>>464 テンプレはバカを晒しているだけだ。
恥ずかしいと思え。
纒向遺跡への搬入土器の出身地割合
伊勢・東海系 : 49%
北陸・山陰系 : 17%
河内系 : 10%
吉備系 : 7%
近江系 : 5%
関東系 : 5%
播磨系 : 3%
西部瀬戸内海系 : 3%
纒向には魏の使いが滞在していた筑紫からの搬入物がない。
邪馬台国が交流していたはずの楽浪郡からの土器も出ない。
目と鼻の先の河内との交流も乏しく、畿内の他の地域のような瀬戸内海や淀川の水運の利益を受けられない、尾張の支配下の後進地域であった。
畿内説が言うように東海地方が狗奴国なら、纒向への土器の流入を説明できない。
邪馬台国はヤマト国
狗奴国は南河内と和泉
これで問題ない
>>472
みごとに阿波系をはずしているねぇ。
それ全部、「東阿波型土器」様式なんだよ。 @阿波 >>456 >普通に庶民の流行だろう
>基本、皿や容器なんだから
だーカーラー、飯炊き甕だけならそれでいいけれど、精製器種3種という祭祀用土器込みで
北部九州は畿内様式を受け入れてるだってばさ
3世紀中葉から後半にかけて日本列島各地で出現した前方後円墳は,弥生時代後期後葉の様々な地 域の交流の所産という考えが日本考古学界で広く受け入れられている。
しかし古墳の出現は首長間交流の所産であるのに対し,集落から出土する土器は一般庶民の生活を 反映している。したがって,両者の関係をそう単純には結びつけることはできない。
纒向遺跡での搬入土器の主体は東海系であるのに対し,河内平野では吉備系土器が主体である。纒向遺跡では北陸系や近江系といった河内には 流入しない土器群がみられる。
前方後円墳で象 徴されるネットワークは恐らく大和が中心で,そしてそれは祭祀,あるいは政治的な意味合いも含めたネットワークであろう。
それに対して,畿内型(系)土器の拡散で象徴されるネットワークは大和や河内が必ずしも中心ではなく,場合によっては交易の所産である可能性も高い。
特に重要なのは, 福岡平野の比恵・那珂遺跡群で,一度畿内型土器が搬入され,模倣製作されたのち,在地の土器製作者がそれらを我流の技術で生産し,豊前,豊後の一部地域はもちろん,壱岐や遠く朝鮮半島南部に搬出するという現象である。
これは福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたことを示すものであろう。
中央(最高首長)の意思決定行為は内的に細分化・専門化されておらず(官僚機構の不在),支配能力が高くなく,したがって地方首長は自分の支配地域の維持運営にさまざまな責任を負っているため,地方は中央の意思とは別に,独自の行動をとることが可能である。
古墳出現期の福岡平野がまさに,独自の行動をとっている地方の実例である。古墳時代を国家段階と捉えた時期もかつてあったが,この研究の成果が示すように,少なくとも古墳時代初頭は国家段階にまったく達していないことが推測できるのである。
>>476 神道で容器に対するこだわりはあまり感じないな。
鏡とかの方が大事だろ。
>>476
>精製器種3種という祭祀用土器込みで
小型軽量薄型「東阿波型土器」だね。
>北部九州は畿内様式を受け入れてるだってばさ
「東阿波型土器」様式だね。 @阿波 >>478
>鏡とかの方が大事だろ。
麻だよ、麻。 @阿波 >>460 >魏志は、州胡(済州島)が馬韓の南なのに西だといってる
>つまり海にでた途端に方角が90度ずれてるんだよw
ただ、狗邪韓国→対馬→壱岐は南で(だいたい)合ってるんだよな
南東までいかない東よりの南だから、海に出た途端、という訳でもない
ヤマト王権から三角縁神獣鏡を配布されてた九州が
なんか訳わからんこと言ってるw
方角を間違えているといっても、45度より小さいんだよね。
概ね正しい。
南が東というのは、詐欺。
>>465 >文化の伝播と支配構造は必ずしも一致しない。
>中国でiPhoneが売れていても、アメリカが中国を支配したわけではない。
>ジーンズを履いているからといって、アメリカ人ではない。
古代の祭祀を軽視しちゃダメだよ
精製器種3種は、祭祀用供献土器なんだから
祭政一致の時代だということを、見ない振りしてるだろ?
単なる文化の伝播じゃないんだよ
>>472 質問もせず「説明出来ない」って断定するチエオクレ
それが九州
>>482 それ、卑弥呼の死後の話だよ。
工場を畿内に移転しただけ。
でないと福岡の森が燃料のために丸裸になってしまうから。
>>465 >中国でiPhoneが売れていても、アメリカが中国を支配したわけではない。
>ジーンズを履いているからといって、アメリカ人ではない。
しばらく前に、ウイーン宮廷では伊万里焼が、って言ってた人だろ?
伊万里焼で祭祀をしないだろ、って言われて今度は現代のiPhoneですか?ww
手を変え品を変え誤魔化そうとしているけれど、北部九州が畿内中心の
祭祀連合の秩序の中にあったのは考古学的に確実なんだから諦めな
>>486
>でないと福岡の森が燃料のために丸裸になってしまうから。
福岡は砂漠のようだ。 @阿波 >>483 >方角を間違えているといっても、45度より小さいんだよね。
>概ね正しい。
証明も出来てないネタで他人を詐欺師よばわり
さすが九州
>>486 九州で畿内系土器の浸透、前方後円墳の築造、三角縁神獣鏡の配布
全部連続してるんだよ
>>483 >方角を間違えているといっても、45度より小さいんだよね。
九州上陸まではね
>概ね正しい。
いや、九州上陸後は、北東が東南と記述されており、90度狂ってるよ
まったく正しくない
ここのごまかしに、全勢力を傾けているのが九州説のお笑いポイントww
>南が東というのは、詐欺。
全然?
陳寿が、倭国を会稽東冶之東の南国と認識していたのは、魏志倭人伝の記述から明白
それに合わせた、矛盾がなくなるような記述にされている
また、魏志のヤマト訪問の際の方角記述が、丹波からヤマトへの陸行が南陸行1月と
記録されていれば、その前の水行もそれに連られて南とされても何もおかしくない
>>490 >九州で畿内系土器の浸透、前方後円墳の築造、三角縁神獣鏡の配布
>全部連続してるんだよ
まさに、これ!
歴史の流れ、というやつだ
九州説は、ピンポイントでチェリーピッキングするばかりだから、つながりがなく
周辺情報との整合性が取れず、主張することがポイントごとに矛盾するばかりで
論説になっていない
その、主張ポイントごとに矛盾、というのを、
一人一説で「あいつの言うことは九州説でもおかしい」と自己矛盾を他人に押し付けることで
自分は正しいと言い張っている状態なんだよな、現状の九州説は
>>484 入れ物の形が祭祀で重要視されてた、というのがすでに推測でしかない
流行の容器に変わるのはおかしな事でもない
直接の祭祀道具の方が重要だろうね
>>492 >「あいつの言うことは九州説でもおかしい」と
いや、九州説は互いに批判しないよ
ザラコクすら野放しじゃないかww
>>471 ほら、罵るだけ
まったく反論出来ない
九州説死んでます
>>493 >入れ物の形が祭祀で重要視されてた、というのがすでに推測でしかない
>流行の容器に変わるのはおかしな事でもない
供献土器って分かる? 破砕供献って分かる?
「入れ物の形」じゃなくて、壊すことが目的の祭祀専用の土器を作ってるんだよ
単なる流行じゃないの!
>>493 もう破綻してるね九州
祭祀に土器を使うこと自体が九州じゃ外来なのに
428
>>533 >今問題にしているのは
「其大倭王」居邪馬臺國
去「其國」萬二千里
去「其西北界」拘邪韓國七千餘里
ここで、三連続で出てくる指示語「其」の解釈だ 前にも、詳しく解説したが
最初の「其」は、「倭」または「倭国」
次の「其」も「其国」で「倭国」
三番目の「其」も「倭」または「倭国」だ
二番目にだけ「倭国(の王都)」と補うのは、インチキ捏造の類でしかない<
大和説の類スレ主は、全くの・・・・だね。
二番めの 「去其國萬二千里」の前にある事になる「國」記載は、
「其大倭王居邪馬臺國」の「邪馬臺國」の「國」しかない。
だから、「去其國萬二千里」の「其國」は「大倭王居邪馬臺國」しかない。
だから、「倭国(の王都)」と説明しても何ら問題にならない。
だから、問題にした類スレ主は、・・・・。
どう足掻いても会稽東之東にならない九州説って
明らかにもう死んでるジャマイカ
最近、三種の神器の伝播がどうたらしつこく言い張ってる人いるけど、
畿内に伝播する直前の九州での副葬ってどれだよ
纏向の掘立柱建物は
まず、箸墓を含め石塚古墳、矢塚古墳、勝山古墳。、東田大塚古墳、ホケノ山古墳
および天皇陵の埋葬者と關係あると考えるのが学者の常道だが
いきなり、卑弥呼の居館は無いだろう
纏向の掘立柱建物は
まず、箸墓を含め石塚古墳、矢塚古墳、勝山古墳。、東田大塚古墳、ホケノ山古墳
および天皇陵の埋葬者と關係あると考えるのが学者の常道だが
いきなり、卑弥呼の居館は無いだろう
>>501 >いきなり、卑弥呼の居館は無いだろう
無いだろと言い張る理由は?
いかなるときも、決して理由を言わない
それが九州説
>>467 ボコボコにされてないよ
畿内節がボコボコにされてるのだよ
畿内説がアンチ九州説で成り立ってるなら、おお笑い
よほど自信が無いのだよ
ここ畿内説のスレ 九州説の反論は九州説関連のスレでやるのが普通だよ
なんのためにこのスレが存在するのか考えて見なさいww
428
>>537 >九州島内は通行していないし、日数表記はされていない 以上ww<
九州島内は通行しているから、類スレ主は×。
>補足 この部分はテンプレとも意見が違うのだが、九州島内の陸行記事は
古い記録から採った地理紹介のための記述で、魏使は九州島内を陸上移動はしていないと思う
もちろん、伊都国、奴国では上陸して、その国内は歩いているけれど<
末盧國からの「東南陸行五百里到伊都國」に違反しているから、×。
>壱岐からそのまま伊都国へ船で行き、奴国(福岡)、投馬国(出雲)へも、
そのまま船を回していると思っている それが最も合理的だから <
「南≠東」に拠って出雲も×。
類スレ主は、気がクルったらしい。
>>450 土器は関係無いよ、当時の流行や文化だよ
国政を文化で語るなら、全国に散らばった3世紀と思われる土器は邪馬台国の支配地になるよ
畿内を中心に広まった土器でいいんでねーの 支配関係とは関係は無いよ
前方後円墳も流行
>>507 >また畿内説負けたのか
勝負するほど畿内説は強くない
畿内説を戒めているだけだけどな
>>508 つまり九州説はヤマト王権の存在まで否定するわけだな
428
>>551 >そりゃ七万戸の国なら普通は西日本一帯を想定してもおかしくはないんだからな。
倭人は山と海に挟まれた場所に住むんだしな。平野に固まって住むのではない。
勿論山中深く高地に住むのでもない。 そうなると畿内周辺が主な場所になる。<
「南≠東」などに拠って、×。
>>487 >祭祀連合の秩序の中にあったのは考古学的に確実なんだから諦めな
中心とは思えないな。
九州北部は河内と交流があったが、纒向は隔絶されていたからね。
それも考古学的事実だよ。
>>491 >陳寿が、倭国を会稽東冶之東の南国と認識していたのは、魏志倭人伝の記述から明白
つまり機内ではない。
九州でよい。
>>492 >周辺情報との整合性が取れず、主張することがポイントごとに矛盾するばかりで
>論説になっていない
畿内説は小説でも書いているつもりなのか?
>>494 >ザラコクすら野放しじゃないかww
あぽーんしているので。
428
>>552 >魏志倭人伝で 自「郡」至女王國、萬二千餘里 の郡は帯方郡だろ?
後漢書で 「樂浪郡」徼 去其國萬二千里 で、起点が楽浪郡になっているのに
萬二千里は変わらないのを、どう思ってるんだ?<
後代史家の范曄は、「自己解釈に拠る書き換え」の多い半分×人間であるが、
楽浪と帯方に関しては、
204年に楽浪郡の南半分を分郡して造られた帯方郡よりも、
後漢代のずっと存在していた楽浪郡を起点にした表記にしたんだろう。
そして、分郡に拠っても、
楽浪郡都と帯方郡都の距離が近くて、倭国への距離が殆ど同じであったので、
魏志の「萬二千余里」とほぼ同じ「萬二千里」を採用したんだろう。
>>501 >および天皇陵の埋葬者と關係あると考えるのが学者の常道だが
>いきなり、卑弥呼の居館は無いだろう
まず最初に、関係を「關係」と変換することは普通の日本人のFEPではないんだがなww
まあ、それは置いておいて
卑弥呼が「天皇陵の埋葬者と關係ある」人物なんだから問題ないだろ?
ヤマトトトヒモモソヒメは、皇女=天皇(大王)の関係者・血縁だし、国家巫女だ
それが、ヒメヒコのヒメ王なら、倭王で問題なかろう
>>505 >ここ畿内説のスレ 九州説の反論は九州説関連のスレでやるのが普通だよ
アンチ畿内説からの批判でも構わんけど、とにかく「具体的な根拠をつけて」論じてくれ
そうすれば議論になるから
>>508 >土器は関係無いよ、当時の流行や文化だよ
供献土器、破砕供献から逃げ回ってるんじゃないよww
この無能がww
土器の流行論は、とっくに破綻してるんだから諦めなww
>>514 >畿内説は小説でも書いているつもりなのか?
日本語分かりますか?
論説になっていないのは、九州説だぞww
論にも、説にもなっていない
428
>>553 >ヤマの付く場所といえばヤマトにヤマシロ、ヤマセと生駒辺りに集中してるからな。
あの辺りが邪馬台国だよ、聖徳太子の縁の矢田丘陵辺りだね。
まぁもう畿内説で決まったんだよ。<
「南≠東」などに拠って、×。
>>510 大和だけの王権だろ。
神武は饒速日に取り入って、奈良盆地の隅に定住させてもらった。
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf 3世紀中葉から後半にかけて日本列島各地で出現した前方後円墳は,弥生時代後期後葉の様々な地 域の交流の所産という考えが日本考古学界で広く受け入れられている。
しかし古墳の出現は首長間交流の所産であるのに対し,集落から出土する土器は一般庶民の生活を 反映している。したがって,両者の関係をそう単純には結びつけることはできない。
纒向遺跡での搬入土器の主体は東海系であるのに対し,河内平野では吉備系土器が主体である。纒向遺跡では北陸系や近江系といった河内には 流入しない土器群がみられる。
前方後円墳で象 徴されるネットワークは恐らく大和が中心で,そしてそれは祭祀,あるいは政治的な意味合いも含めたネットワークであろう。
それに対して,畿内型(系)土器の拡散で象徴されるネットワークは大和や河内が必ずしも中心ではなく,場合によっては交易の所産である可能性も高い。
特に重要なのは, 福岡平野の比恵・那珂遺跡群で,一度畿内型土器が搬入され,模倣製作されたのち,在地の土器製作者がそれらを我流の技術で生産し,豊前,豊後の一部地域はもちろん,壱岐や遠く朝鮮半島南部に搬出するという現象である。
これは福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたことを示すものであろう。
中央(最高首長)の意思決定行為は内的に細分化・専門化されておらず(官僚機構の不在),支配能力が高くなく,したがって地方首長は自分の支配地域の維持運営にさまざまな責任を負っているため,地方は中央の意思とは別に,独自の行動をとることが可能である。
古墳出現期の福岡平野がまさに,独自の行動をとっている地方の実例である。古墳時代を国家段階と捉えた時期もかつてあったが,この研究の成果が示すように,少なくとも古墳時代初頭は国家段階にまったく達していないことが推測できるのである。
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>>562 >で邪馬台国は後のヤマト、これ以外の答えはない<
「南≠東」などに拠って、×。
428
>>564 「南→東」などの嘘つき詐欺の指摘に、な〜んも反論できなくて、
中傷専門に堕落したのが
落ちぶれ果てた大和説
昼間に連投する畿内説の暇人さが畿内説の異様さを表している
428
>>579 >邪馬台国とは七万戸の国で女王が都とする国。<
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき詐欺文言だから、×。
>都を津と解釈すれば女王が生まれた場所だからな。
ヤマトしかないだろ、しかも保津の姫、モモソそのものだ。
ヤマトからヤマシロ、ヤマセ周辺しかあり得ない。<
大和を「邪馬台国の女王」とするのは、「南≠東」などに拠って×。
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>>583 >3「自女王國以北其戸数道里可得略載」
女王國よりも北の地域は戸数と道里(=里数)を略載することができる
女王國内は里数ではなく日数表記<
女王國は「女王共立国」であり、
邪馬壹國も投馬國も含むから、日数表記があろので、×。
>7「自女王國以北特置一大率檢察諸國」 女王國よりも北の地域には特に一大率を置く
女王國内には一大率を置いていない<
「女王共立国」に伊都國が含まれるから、女王國内に一大率を置いており、×。
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>>587 >>師升も自ら海を渡っていますし<
>これなんだけど、倭王自ら洛陽へ旅をするのはナンセンス。 >ナンバーツーの(太宰の)帥が上洛したのではないか?
魏志倭人伝でも率(帥)は卑弥呼に次ぐナンバーツーだし。<
「安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見」であるから、
帥升は倭國王と記録された事になり、
この男は、×。
>>528 wiki 平原遺跡より引用
主な出土品
大型内行花文鏡 5面(または4面) 別称「内行花文八葉鏡」[注釈 2]、日本製、直径46.5センチメートルの超大型内行花文鏡。
内行花文鏡 2面
方格規矩鏡 32面
四螭文鏡 1面
メノウ製管玉12、ガラス製勾玉3、ガラス丸玉 約500、ガラス小玉 約500、ガラス管玉 約30、ガラス連玉 約900
耳璫 3破片
素環頭大刀 1
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>>590 >いやいや。 女王国と書いてあるのは、全部邪馬台国だよ。
同じ字いてあるのに、違う意味のものがあるという解釈もひどいな〜。
邪馬台国を指していないのは、どれで、どうしてそう解釈しているのか、書いてみてチョ。<
卑弥呼は邪馬壹國の王であったのか?は、不明。
単に、姫氏の家柄や宗教的権威で、倭國亂が収まるのに適していたから共立された倭女王、
という感じがある。
そして、その「女王之所都」は7万戸の邪馬壹國にあって、
行政は弟男が佐治し、大夫が実行し、
その軍事的支配権は一大率の阿毎氏が持って、伊都国に常治した。
しかし、同じ姫氏の本家筋の狗奴國は承服しなかった。
【八咫鏡】
平原遺跡から出土した5枚の超大型内行花文鏡の直径は46.5cmであり、史上最大の銅鏡である。
径1尺の円の円周が4咫であり、これらの鏡は直径2尺、円周が8咫であることから三種の神器の一つである八咫鏡と考えられる。
神道五部書等によれば八咫鏡は八葉という。
伊勢二所皇御大神御鎮座傳記は伊勢太神宮の宝鏡について「八頭花崎八葉形、圓外日天八座」とある。
八葉とは、鈕孔を巡る八葉座のことであるが、通常の内行花文鏡は四葉座であり、平原から出土した超大型内行花文鏡の八葉座は他に例がないことから、これが伊勢にある八咫鏡と同汎鏡と考えられる。
内行花文鏡は、前漢時代の日光鏡や清白鏡の系譜上にある太陽を象った太陽信仰の象徴である。
伊都にある王墓の代表である三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、内行花文鏡が太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国は内行花文鏡を王権の象徴として漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことになる。
八咫鏡はニニギら日向王家の象徴であるが、それが日向峠のある高祖山周辺にあったことで、伊都が記紀に伝えられる倭国の旧都、筑紫の日向であったことがわかる。
石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した同等の鏡として、紀国一宮である日前宮(ひのくまみや)の日像鏡、國懸宮(くにかかすみや)の日矛鏡がある。
伊勢が大和の東の出口、日前は西の出口にあり、伊勢とほぼ同等の力を持っていたといわれている。
筑前国風土記では、宗像大社辺津宮の神宝も八咫鏡と記録されている。
これらを含めると、八咫鏡の総数は、伊勢内宮、宮中賢所、日前宮、國懸宮、辺津宮、伊都に5枚で、最低でも10枚は存在していたことになる。
この他に日本書紀では筑紫の帥である神夏磯姫が所有していたことが記録されているが、顛末は記録されていない(上記のいずれかと重複している可能性がある)。
>>523 >大和だけの王権だろ。
そういう寝言はこの図1枚で否定される
九州説はすべての考古学的証拠を全否定しないと成り立たないから大変だ
そして、全否定する根拠はまるでないww
>>532 剣が出土したソースはないということだな
>>536 >剣が出土したソースはないということだな
三尺の素環頭大刀は、剣ではないということかな
まあ、剣・両刃直刀と大刀・片刃反りありは区別するべきものだけれどw
>>534 >平原遺跡から出土した5枚の超大型内行花文鏡の直径は46.5cmであり、史上最大の銅鏡である。
>径1尺の円の円周が4咫であり、これらの鏡は直径2尺、円周が8咫であることから
>三種の神器の一つである八咫鏡と考えられる。
またかよ
平原の鏡が八咫鏡とか言いだしたのは昭和になってからだし、
円周で円形物の大きさを示した例は古今東西一例もない
伊勢のご神鏡は実見記録はないが、入れ物の大きさから考えて直径46センチはない
>>538 当時の人が区別してなかったかどうかは不明だが
同一視する根拠がなければ、別物と考えるしかない
必死で連呼してる平原卑弥呼説は有明海沿岸の肥人女王説だよな
428
>>612 >卑弥呼が魏から鏡を賜ったのを景初二年と倭人伝に書かれるのは
時代が下って誤記が多くなった12世紀以降
それ以前の倭人伝ではほぼ景初三年になっている <
魏志に書かれた「明帝の詔書の景初二年」情報は、おそらく起居注からであり、
通典にも「魏明帝景初二年」と書かれており、
「景初三年」の後代史書は、「自己解釈などに拠る書き換え」の多い書ばかりでおり、×。
>畿内の前方後円墳ホケノ山は三世紀中葉と 科学的にも判定されている<
AMS法は、プラズマ化の失敗に拠り、50〜100年位古く出た年代になるから、×。
以上で大和説は消滅
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>>613 >会稽東治という地名は存在てなかったので
後漢書または古地名にある会稽東冶の書き間違い<
「会稽東治」の「東治」は、地名ではないので、
この大和説男の頭が、×。
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>>614 全部が全部根拠がない言いがかりのみで
「南→東」などの嘘吐き詐欺の大和説は
ヒデえなこりゃ
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>>615 気づいてないのか?、「南→東」などの嘘吐き詐欺の大和説
お前らは、国民の7割に拒否されて、とっくに死んでるんだ
早いところ成仏してくれ南無阿弥陀仏
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>>617 >馬鹿だな普段中国と交流が無い国が入貢してきたから喜ばれたんだぞ <
「舊百餘國、漢時有朝見者」の、
筑紫城の倭奴國のある「正北抵新羅」の北部九州の倭国からの入貢があったから、
喜ばれたの。
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>>619 >畿内から魏の年号が入った銅鏡が多数見つかるのは
国交のあった証じゃないですかねえ <
洛陽からは0〜1枚しか見つからず、敵国の呉系の鏡である△は、
明帝の下賜の銅鏡百枚に選ばれなかったでしょうねえ。
魏志倭人伝の行程記事をめぐり百年以上議論が続いて来て、
片方(畿内説)は行程記事を無視、
もう片方(九州説)は放射読みだとか短里だとか、苦しい理屈をひねり出す。
この状況そのものが、行程記事を読み解くための『鍵』が足りないということを示しているんですよ。
そしてその『鍵』、『オッカムの剃刀』とは、『陳寿90度回転説』なのです。
魏使が遺した行程記事をそれを史書にする際に陳寿が全て、
『反時計回りに90度書き換えた』
これこそが『鍵』、『オッカムの剃刀』なのです。
『陳寿90度回転説』によって、邪馬台国は奈良、投馬国は出雲、狗奴国は東海、倭種の国は北海道。
このように全てが無理なく比定されるのです。
これで邪馬台国の位置に関する議論なんて、全て終わりなんですよ。
>>548 >『反時計回りに90度書き換えた』
本来東だったものが南と書かれているんだから、陳寿の行為としては
「時計回りに」90度、じゃないかね?
>>496 その破砕土器供献は北部九州の庄内期にいつどこにあるの?
>>548 >倭種の国は北海道。
>このように全てが無理なく比定されるのです。
北海道は知られてないから無理があるぞ
倭種の国を倭国の外と考えるのが間違い
「倭種の人」が「倭人」なんだから勘違いしないように
そして自分と同じ畿内説主張者も、行程記事をよく読むべきです。
記紀によれば、神武のはるか以前、出雲の国譲りにおいて出雲王国は滅亡しています。
けれども卑弥呼をモモソヒメ、伊支馬をイクメイリビコイニエノスメラミコト(11代垂仁)、
弥馬升をミマキイリビコイニエノスメラミコト(10代崇神)に比定すれば、
崇神・垂仁期においても、出雲王国は独立のクニとして依然として存続している。
しかも日本海側で水行30日分の、長大な領域を保持し続けている。
しかも、例のテンプレお目付け副長官『卑奴母離』(鄙守、比奈守、夷守)が投馬国(出雲王国)にはいない。
その他の国々では『伊都国』を除き、すべての国にお目付け副長官『卑奴母離』(鄙守、比奈守、夷守)がいるにも関わらずです。
これは投馬国(出雲国)が、崇神期、垂仁期においてもヤマト王権との間に友好関係を保ちつつ、
ある程度独立していたことの証左なのです。
魏志倭人伝から得られるこのような情報を活用しないのは、本当にもったいないことなんですよ。
>>549 その通りですね。
ご指摘ありがとうございます。
428
>>658 >おおよその史書の各倭人伝には景初三年に
卑弥呼が魏から百枚銅鏡を貰ったと書いてるよ <
後代史書の「自己解釈に拠る書き換え」は半分×で根拠にならず、
明帝の詔書の景初二年以後の紀年鏡は、始めから×なの。
>>450 >何もなければ、遠地と土器様式を斉一化しようということにはならないだろう…
そうした斉一化が起こることを、流行という。
例えば、供献用の壷に穴を開けることが尾張あたりで発祥したが、その穴あき壷は拡散し、全国規模で斉一化していく。
こうした流行は政治的な背景を持たない。
弥生X様式の斉一化は、それと同じ。
なので、畿内地方と奴国との間には、国の領域に関連する問題は起こっていない。
一方、3世紀中頃に突然起こる庄内式土器の北部九州への移動とその庄内式製作技法を導入して地元で造る筑前型庄内式土器の出現は、単なる流行ではなく、極めて政治的な事柄による移動拡散があったことを示している。
女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種
この倭種は女王國とは違う國があった、ということだよね?
倭国に入るのかな?
日本書記に記された、10代崇神の、
『出雲にあるという神宝を見てみたいな。ちょっと借りて来てよ』
に始まる出雲系レガリア争奪エピソードも、出雲王国が実態として存続しているから成立する訳です。
普通に読めば訳が分からないじゃないですか?
ずっと以前にいったん国を譲ったのに、兄弟で殺し合いをしてまで、
何でそんなにヤマト王権にレガリアを渡したがらないんだと。
稲佐の浜での国譲りにより、出雲王国がマルッと滅んだわけじゃないんですよ。
そういうことの証左の一つなんです、魏志倭人伝の行程記事と言うのは。
>>556 >女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種
>
>この倭種は女王國とは違う國があった、ということだよね?
>倭国に入るのかな?
『陳寿90度回転説』によれば東は北なんで、
それは津軽海峡を渡った先の、北海道の縄文人かアイヌに比定されますね。
陶ケンと鬼笛って関係あるのか?龍笛とも関係あるのだろうか?
子供の頃、夜に笛を吹いてはいけません、鬼が出ますよと叱られたのを思い出す
出雲笛との関係はどうなんだろう?
フルヘユラトフルヘ
フルは布留のことだろうか?
陶ケンの分布は興味深い
>>451 >(大和が卑弥呼の邪馬台国でないことは、実に明白)→具体的に根拠とともに論証して…
このスレッドでは何度も取り上げられている「女王国東渡海千余里 復有国皆倭種」が、それ。
女王国は邪馬台国を指している。
東へ渡海千余里は、その邪馬台国から東方へ(魏晋1里430m×千里=430km)舟で行くこと。
渡海する海は、瀬戸内海を指している。
倭種の国は、瀬戸内海を430km東へ行ったところにある国で、その距離の到着点は大和に当たる。
こうした要素に該当する地理的シチュエーションは、ほかにはない。
結論として、大和はその倭種の国であり、出発地の邪馬台国では有り得ない。
>>555 庄内土器も文化を受容しただけで、流行なのでは?
そこに政治的背景があるとする、というのもどうもすっきりしない
移民はあったかもしれないが、それは富を求めての庶民の移民では?
土器は庶民の文化なのでね
ある意味 中国鏡も北部九州は受容して国産鏡製作が始まっている
気に入った文化は受容し発展させる地域性だったのかもね
しかし、古墳前期後半ぐらいからみられる祭祀の共通性は無視できないので、この頃には大きな範囲でまとまりつつあったと思うね
弥生時代後期に出現してる、旧国数ヵ国程度の広がりをもつ土器様式圏が、
終末期になって解消されていく、ってのが、社会的に重要なんだよ
>>452 >ホケノ山古墳の木棺が120〜240年。2世紀前半から3世紀半ば。
ホケノ山の築造が120年から240年の120年間にわたってだらだらと続けられたということは有り得ないので、その期間のどこかの年代に築造時期を絞らなければならない。
その絞った時期が、3世紀中頃ということ。
120年〜240年の間の最後の時期に当たる。
>>563 何で小枝のC14を無視するの?
試料としては最適なのに
いつも年代の都合の悪い物は除外したり、
日本最古の発見にするよね
行程記事では、末盧国(松浦)上陸後からずっとキッチリ90度ずつ、
記事の方位と実際の方位とがズレ続けている訳だよ。
紀元200年頃、倭国の人口は本州+四国で約50万、九州で約10万だった。
で、北九州最大の大人口地域である奴国(博多湾)で、倭人伝記事に2万余戸使い切っている。
そのように常識的に考えればね、投馬国(5万)、邪馬台国(7万)、
そして邪馬台国を脅かすほどの勢力である狗奴国(戸数不明)が、全部まとめて九州に入る訳ないでしょ?
普通に考えてよ。ものすごく簡単な理屈じゃないの。これが分からないということが分からない。
>>533 卑弥呼が邪馬壹国の王であったかなかったかについては、(女王国)の表記が何を意味しているかという問題とは別の事柄。
この倭人伝の(女王国)が意味しているのは邪馬壹(臺)国であり、一方、倭國を表す場合は(倭國)(倭女王)などと倭の字を冠して書いてあり、倭國と女王国を明確に書き分けている。
そして、文意からすると、(女王国)は邪馬壹(臺)国を指しているのは、明白。
>>560 その言い分を前提にすると、倭種の国が魏と交流があり、
北部九州は倭種の国の傘下に入っていたんだけどな
>>540 別物と考える根拠はない。
少なくとも平安時代まで、日本においても剣は両刃で反りはないはずだ。
草薙剣も反りなんかないだろう。
>>563 >その絞った時期が、3世紀中頃ということ。
恣意的すぎる。
根拠がない捏造と批判されてもしょうがない。
畿内説はそんなこじつけばかり。
>>565 >で、北九州最大の大人口地域である奴国(博多湾)で、倭人伝記事に2万余戸使い切っている。
>そして邪馬台国を脅かすほどの勢力である狗奴国(戸数不明)が、全部まとめて九州に入る訳ないでしょ?
人口の推定が、当時の文献を無視したでたらめな数字なんだろ。
>>564 >何で小枝のC14を無視するの?
C14の資料については、次のような報告がみられる。
小枝=250年〜400年
石室木材=前120年〜後50年
木棺木材=120年の前後50年〜100年間に伐採
石室木材は、他の出土物との関連から無理。
木棺木材は、伐採年だから古墳築造年を割り出すのに難がある。
というわけで、小枝250年〜400年が有効。
そして、他の出土物との比較から3世紀中頃説は、妥当。
なんだよ、その勝手な情報の取捨選択は。
一番やってはいけないことだ。
畿内説は魏志倭人伝の解釈からしてそうだ。
せっかくの炭素法という科学的資料も、畿内説にかかると全く無意味になってしまう。
>>568 片刃の太刀と両刃の剣が区別されておらず、両方とも剣と呼ばれていた根拠は?
>>570 いやだって、紀元200年頃の九州の人口って10万人くらいしかいないんだから、
奴国を入れて、投馬国を入れて、邪馬台国を入れて、狗奴国を入れて、
さらにその上、その他の細かい国々を全部九州に詰め込むなんて、
無理でしょ何をどうやっても。事実として無理なんだよ。
伊都クズはイメージでしか語れない
各論を持ち出されるといつもトンズラ
>>560 >渡海する海は、瀬戸内海を指している。
九州説さん
そういうことなんの根拠もなく決めていいなら
邪馬台国を世界にどこにでもできるし
世界のどこじゃないことにも自由に出来る
つまり九州説は意味がない
>>561 比恵那珂遺跡では土器供献に畿内系主体になる時期に
集落の井戸祭祀は在来系が主体
>>571 >石室木材=前120年〜後50年
>木棺木材=120年の前後50年〜100年間に伐採
両方の条件を満たす範囲は、後20~50年だな。
>>575 逆質問はぐうの音も出ないときの典型的な反応
少なくとも現代では太刀と呼ばれているのだから、
それを古代に剣と呼んでいたと主張する以上、立証義務はそちらにある
三種の神器の一つ、草薙剣
『日本書紀』では「草薙剣」「倶娑那伎能都留伎」[6]、『古事記』では「草那藝之大刀」(八俣大蛇退治時)「草那藝剣」(天孫降臨、ヤマトタケル時)と表記される[38][39]。
少なくとも古事記は剣と刀の両方の表記を同じ草薙剣に用いているから、あまり区別されていなかったことがわかる。
弥生時代のことを記した文献だけどね。
少なくとも、区別がされるようになったのは記紀が編纂された時代より後世のことであることがわかる。
弥生時代のことだとする根拠は?
お前の思い込みは根拠にならないぞ
古墳時代はすでに神武以降の人皇の時代とされている。
神代は弥生時代だ。
基本的な区分だろ。
素環頭大刀は奈良時代まで高麗剣と呼ばれたので
出雲国の八岐大蛇の尾から出た天叢雲剣ではないな
刀なのに剣と呼ばれていた。
わかりやすい。
基本的に区別していなかったということだ。
素環頭大刀はそもそも弥生時代に最も多く見られた様式なので、三種の神器の原型も当然そうであるべきかもしれない。
むしろそれ以外の様式とは考えにくい。
当然、平原遺跡のそれも、装飾品ばかりの中にわざわざ素環頭大刀だけ入れたのは、三種の神器の様式に揃えるためだったと考えるのが妥当。
>>588 >古墳時代はすでに神武以降の人皇の時代とされている。
どこでだれが?
イメージだけだから記紀で三種の神器がどう記載されてるかとか知らないんだろうなw
吉武高木遺跡には大刀はないので、三種の神器云々と宣伝してるのは嘘ついてるということ?
>>452 >ホケノ山古墳の木棺が120〜240年。2世紀前半から3世紀半ば。
木棺も炭素年代法で調査すべきじゃ無いかなぁー
428
>>674 >ダメに決まってるだろう
3番目が「邪馬台国の西北界」ではダメなのが確定だから、
その直前のその国は「倭国」であって、邪馬台国ではあり得ない
結論ありきでごまかそうとしているだけ 解釈の方向がおかしい<
類スレ主は、ここまで脳がクルってしまっているようだ。
其大倭王居邪馬臺國 樂浪郡徼去其國萬二千里、去其西北界拘邪韓國七千餘里
の「邪馬臺國」を大和に持って行くために、2番目の「其」の指し示す文言が、
その直前の「國」記載の「大倭王居邪馬臺國」の地である事を、
否定するインチキを、という叫び続けている。
>>676 >3世紀前半から4世紀にかけて、奈良にあった政治勢力の呼称としては、ワイは纏向連合政権、縮めて纏向政権と呼んでいる。
大型建物群や大墳丘墓を造り、鉄器など貴重財を連合各国へ配布したのは、この政権<
3世紀前半というのがインチキであり、
九州倭国の「東征毛人五十五国」の鉄器の勢力が入ってし来て支配したのは、
3世紀末。
428
>>684 >その三十里を1里76.5mで計算すると2295m。
介山の標高が2440mだから、海抜750mの介休市の地面から三角測量したとしても、その介山の高さが2295mになることは、有り得ん。<
20kmも離れた介休市から、「山高」を計測する事が、まずあり得ない。
黄河支流の低地付近でなければ無意味。
>だから、高三十里は登高三十里の意味で、介山の崖に作った登山道の距離が1里430mで約12kmもあるということだな。<
「山高」とかいてあるのであり、「登山道」とは書かれていない。
>介山の高さを言うのなら、三十丈だ。
丈を付けるだけで、高さだということが分かる。<
はっきり「山高三十里」だと書いてある。
428
>>687 >3世紀中葉から後半にかけて日本列島各地で出現した前方後円墳は,弥生時代後期後葉の様々な地 域の交流の所産という考えが日本考古学界で広く受け入れられている。<
3世紀中葉が×。
3世紀中葉の卑弥呼の墓は「冢」であって前方後円墳ではなかったのだから、
266年頃の西晋武帝の天円地方思想を学習した後の3世紀の第4四半世紀頃以後になる。
>前方後円墳で象 徴されるネットワークは恐らく大和が中心で,そしてそれは祭祀,あるいは政治的な意味合いも含めたネットワークであろう。
それに対して,畿内型(系)土器の拡散で象徴されるネットワークは大和や河内が必ずしも中心ではなく,場合によっては交易の所産である可能性も高い。<
佐々木も、九州倭国の「東征毛人五十五国」があった、という事を隠蔽しているインチキ学者。
>特に重要なのは, 福岡平野の比恵・那珂遺跡群で,一度畿内型土器が搬入され,模倣製作されたのち,在地の土器製作者がそれらを我流の技術で生産し,豊前,豊後の一部地域はもちろん,壱岐や遠く朝鮮半島南部に搬出するという現象である。<
これも、大和の庄内の最初が3世紀末の石塚であり、
筑紫の庄内が三雲などの3世紀前半であった事を隠した、佐々木のインチキ。
428
>>688 >出土土器を見たら分かる。
政権加盟各国が、土木作業員を送って、纏向の地ならしをした。
その纏向は、加盟国の祭祀センターと墓域の場所。
加盟各国から職員が送られて、祭祀が行われた。<
大和は、九州倭国の「東征毛人五十五国」の東征将軍らの支配下になった。
428
>>705 >九州説はそもそも論として
6世紀初頭〜中頃になるまでは統一的な王朝と呼べるようなものがなかった
という前提は抑えて欲しいんだが… <
大和説はそもそも論として
6世紀初頭〜中頃の継体の反乱までは、
「九州倭国の「東征毛人五十五国」の「田舎のご大尽」程度であったのであり、
その後、扶桑國として九州倭国の王家に参画出来て、独立志向に入り、
隋の文帝に日本国を名乗って、唐の武徳中に日本国を認められ、
白村江の後の701年に、九州倭国を併合吸収継承した、
という歴史の大筋を認めて貰いたいもんだが・・・。
という前提は抑えて欲しいんだが…
428
>>713 >出発の方向を指してるのでもちろん南に出発しても東の畿内に辿り着く<
不彌國で、全体として東南方向の、萬二千余里がほぼ終わってしまっているから、
はるか東方の大和には全く辿り着かない。
>>595 >漢の歩兵の武器が日本神話の神剣て
そうなんだよ。
そこが面白いところだとは思っている。
でも鏡はもう少し格上だろ?
要するに漢がくれるものはなんでもありがたがっていたんだよ。
平原遺跡の女王はそれを国産の八咫の鏡で置き換えた功績がある。
428
>>720 「南→東」などの嘘つき詐欺をする人で、
頭のおかしくない大和説のひとって、
実在するのかね?。
>>539 >伊勢のご神鏡は実見記録はないが、入れ物の大きさから考えて直径46センチはない
伊勢の鏡は焼けて灰になっているからじゃない?
428
>>731 スレ主にしろ類スレ主にせよ、全大和説者にしろ、
「南→東」などと云った嘘つき詐欺をする人物は、
偏った異常で危険な政治思想にどっぷり漬かった人物で
なんか世間や国民の常識というものに対して
怨念にも似た深く暗い悪感情を抱いていて
際限なく呪詛も言葉を吐いているように見える
要するに狂ってるということだが
実は、これが大和説の本質なのではないか
>>737 >磐井は明らかに反乱に失敗して屈服してるので
反乱の前も後も畿内政権の勢力圏だな
独立勢力同士の戦いでは無い<
大和は、九州倭国の別種の旧小国の、東征毛人五十五國の中の一国であり、
白村江の後で、母国の九州倭国を併合吸収継承したもの。
428
>>739 >磐井の先代と考えられてる石人山古墳が畿内大王陵の縮小コピー、磐井の岩戸山も継体陵の縮小コピー
つまり九州王は代々ずっと畿内大王の家来なんだよ 磐井の反乱というのも実は
勃興してきた中央集権主義が地方分権主義を強引に圧殺したことの大義名分の可能性もあるんだ
反乱なんか濡れ衣で、それどころか忠臣を陥れた可能性すらあるってこと<
根本的にクルっている。
倭の五王らの「東海姫氏國」の系図では、
倭王武の次の倭國王哲の次で、突然倭国王の地位から下がった記載になっており、
その時に現れて倭王になったのが、阿毎氏であった磐井のようであり、
磐井は、中国の裁判制度を模した寿陵を造っており、
同じ阿毎氏の大和のヲホドや物部の反乱で倒されて、
葛子が糟屋の屯倉を与えて、大和の阿毎氏が九州倭国の王家に参加する事を承諾し、
葛子の子孫のタリシホコが天子を称して栄えた、という事。
428
>>743 「南→東」などの嘘つき詐欺の大和説は、
論破され続けてきた黒歴史そのものだから
力づくでも消したいんだろ?
バレバレ
428
>>746 その「南→東」などの嘘つき段ましの大和説者の連呼、
反論できませんっての、降伏文書だね
家の老婆が言っていた事なんだけど、
老人会(町内)などの集まりがあるでしょ
たまに医者が呼ばれて来るんだけど
その医者が、テレビばかり見ていると頭が悪くなる?
みたいな事を言っていたとかw
良い面もあるんだろうけど
うらしまマリン?
テレビ、そんなもの観ないじゃ〜んと書いてあったり、
観たいものがない?だった?
昔から?というのも、おかしな言い方なんだけど、
昔から言っていたw
今日は医者が来て〜こういう話をした、
手や足の運動〜とかw
テレビとか、
そういうものばかり観ていると・・・
>>604 お前程度ならなんでもありがたがるだろうが、
スサノオの十拳剣の刃が欠けるほど鋭い天叢雲剣とは
出雲の良質の砂鉄からたたら製鉄で作られる高品質の鋼だ
平原のまがい物屋のおやじは殺されてその首は高い柱に吊るされたんだよ
428>755
>樂浪郡徼 去「其國」萬二千里 は「倭國」で確定 <
「樂浪郡徼 去其國萬二千里」の「其國」は、「其大倭王居邪馬臺國」で確定 。
>>611 ザラコクは自分の妄想を語っているだけだな
何も証拠を出せないのだもの
428
>>756 >>呼子付近から伊都国方向は、可也山のかなり南方向になるから、<
>なりません 同じ方向だよ<
類スレ主は、自分から、
「可也山〜三雲付近は5〜6kmだ」と書いていた。
428
>>764 >記録として書かれた本来の目的のうち、最も重要であろう方位も距離もいい加減で、明らかに事実に反している項目がいくつも見受けられる文献があるとして、
けれどそこに書かれた出来事は、考古学で発見された事物が文献の一部を補強するので金科玉条のように正しい
だから文献に書かれた事象は必ずあったんだ、ということ? <
違うね。文献であれ考古であれ、
その出現状況の史料批判をして、同時代性や客観性や信頼性を評価して、
その確率を推し測った上で、古代史論を推定すべきだ、という事。
428
>>766 文献考古共に、
単一の孤立史料であれば、その同時代性や客観性や信頼性を評価して確率を推定し、
裏付けがあれば推論確率を上げ、
反証があれば再評価をし、
疑義があれば保留する
そういう普通のことを言ってるだけなんだよな、九州説は
なにか異議があるの?
428
>>768 >・硯が見つかるが文字の使用例が殆どない<
大夫の呼称や、室見川の銘版や、ホウ製記銘鏡や、卑弥呼らの上表などがあった。
>・見つかるのは大陸との交流地に偏る ↓
・北部九州はこの硯の発見された前200年くらいから後200年くらいまで続く文化圏を維持していたが文字の普及は全く見られない<
見られた。
>・日本は漢字の定着も、独自文字もない無文字時代だった
・硯の使用は外国人相手の限定的な漢字の使用目的
・漢字が定着しない事から日本の支配層や創設者が大陸の人間だったと言う説は否定される<
九州倭国以外の大半は、文字をほぼ使用しなかった。
>・前200年ごろから九州に現れた王と呼べる存在が盛んに外国と交流していた
・通訳がいるが文字は無いと言う史書の倭の記載に合致する<
難升米られたの頃には、通訳も不要であった。
428
>>789 >そして、桃核から推定される纏向遺跡の年代が、その絶対年代と余裕を持って(推定年代には大きな誤差がある)
同じ時期よりも前といえるし、<
桃核をAMSで検査したから、50〜100年位古く出る、という史料批判が欠落していた。
>前方後円墳や畿内様式土器の拡散で広範囲の政治秩序=国の存在が推知できる<
いずれも、九州が先行し、
大和は、「東征毛人五十五國」によって伝播したもの。
>3世紀の倭国の各地域間の関係は、支配ー被支配の関係にはないが、墳墓祭祀を繋がりの核とした一つの大きな秩序を
作っていたのは確実であり、北部九州もその祭祀連合に参加していた、
独立していたのは、九州倭国と、侏儒國と、出雲と、越と、東方の毛人ら。
瀬戸内東海は、九州倭国の「東征毛人五十五國」の一部であった。
半島に出兵したという倭国は九州倭国
白村江の戦いで滅亡した
大和ではない
だから植民地主義者の言うように
日本が半島に歴史的理由で領有権を
持っている事などは一切ない
そんなことよりも・・・・凄い現象が起きているでしょ、
『もののけ姫 ヒイ』〜『デスラ〜』『』『』
芸能、音楽・・・あと漫画、ゲームとか、
どういう事なんだろう
松の木が立てられていて・・・・、
『松傾』
ほとんど、この家の話でしょ、
というか家の写真なんだけど
このスレの住人なら知っているはず
むかーし住んでいた『姥清水』(『みちのく 岩代』いまの福島県の・・・)
と言うところがあって、たすか、そういう物も貼り付けた
山の上のほうにいて〜牛を飼い、蚕、機織り〜という話とか
>>791 >ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。<
いずれも、九州倭国からの「東征毛人古十五國」などに拠って、九州からなど齎されたもの。
>箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である<
韓の古韓尺の技術者の渡来であり、那珂八幡などの技術の伝来改良があったもの。
>その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。<
当然、東征毛五十五國の将軍らが齎したものになる。
>ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。<
朝鮮半島や九州での発掘発見が無ければ、伝来ではなく、
偏西風での飛来、という事になるだけ。
>同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。<
吉備からは、もっと沢山出土した筈。
なぜ同じことを言っているんだろう・・・とか、
テレビばかり観ていると・・・、
うらしまマリン(仮名、キャラクター名)
テレビ?そんなの観ないじゃん
(みたいモノがない?)
>>555 >なので、畿内地方と奴国との間には、国の領域に関連する問題は起こっていない。
これを読むと、征服とか一体化とかを想定してるんじゃないのか?
畿内説が言っているのは、あくまで祭祀連合であって、各地の首長はそれぞれの
地域(クニ)を統治していると考えている
そして、その首長がそのまま後の豪族となっていく
それぞれの国の領域は変わらないぞ
奴国と邪馬台国は別の国だ
まあ連合に参加する首長が増えたり減ったりはしただろうけれど
個人的には、ヒメヒコ制のヒメ王部分の統一が卑弥呼の共立であって、
ヒコ王はそのまま各地の統治を続けたと考えている
各地のヒメ王が卑弥呼の配下、下部組織になったというイメージ
そして、祭祀に使う祭祀用土器は共通祭祀様式のために統一化されたと
考えれば、非常に理解しやすい
サイバーパンク〜〜〜〜〜コミック、
「母親が〜」と言っているキャラがいて、
なぜか川崎区に住んでいると言う話でしょ?
家も川崎区(川崎区)の南部のほうに住んでいるし、
>>556 >この倭種は女王國とは違う國があった、ということだよね?
そうとも限らないだろう
魏略では、同じ文が冒頭にある
倭在帯方東南大海中 依山島爲國 度海千里復有國 皆倭種
これを読む限り、倭を構成する洲島は互いに千里離れているところもあるが、
渡海千里しても全部倭の領域であり、倭種の国である、と読める
魏志倭人伝では、間にいろんなことが入り込んでいるけれど、もともとは
この程度の意味と取れば十分だろう
九州説が旧唐書の「倭の別種」という記述に引きずられて、過剰な評価を
しているだけだよ
>倭国に入るのかな?
入るとは限らないけれど、積極的に除く必要もないだろ
そのコミック、読んでみた?
川崎区の南部のほうに工場地帯があるんだけど、
そういうところが出てきたりw
線路、運河のようなところとか
>>558 >『陳寿90度回転説』によれば東は北なんで、
隠岐の島や佐渡でいいだろ
これらは記紀に載っている古来の倭の領域だ
>>636 >畿内説が言っているのは、あくまで祭祀連合であって、各地の首長はそれぞれの
>地域(クニ)を統治していると考えている
>そして、その首長がそのまま後の豪族となっていく
その中で、魏と交渉し得たのは誰かということだよ。
郡使は伊都に滞在します、帯方郡から一万二千里です、
そういった明確な記述を無視して畿内しかないと叫び続けているのが畿内説なんだ。
>個人的には、ヒメヒコ制のヒメ王部分の統一が卑弥呼の共立であって、
これはもう、考古学的な根拠のない想像だよ。
卑弥呼とヒメの語感が似ているから、程度のレベル。
一皮むけば「僕の考えた最強のヤマト」が見え隠れするのが畿内説。
>>560 >渡海する海は、瀬戸内海を指している。
それ、誤読
瀬戸内海のような多島海は、水行であって渡海ではない
渡海千里皆倭種の解釈は
>>638の通り
>倭種の国は、瀬戸内海を430km東へ行ったところにある国で、その距離の到着点は大和に当たる。
>こうした要素に該当する地理的シチュエーションは、ほかにはない。
渡海千里は、一日の航海で行き着ける外洋に漕ぎ出す航路
九州説では短里を使うくせに、ここだけ一里430メートルを使うのも笑わせてくれる
>結論として、大和はその倭種の国であり、出発地の邪馬台国では有り得ない。
読み違いで主張しても説得力のある論にはならないよ
「皆」倭種の「皆」を軽視している
渡海前も「皆」倭種なんだよ
倭種の人が倭人で、倭人の領域について書いてあるのが魏志倭人伝
この否定こそ、何度も書かれているのに、論の修正もなく違うんだーしか言わないww
>>638 >そうとも限らないだろう
>この程度の意味と取れば十分だろう
>入るとは限らないけれど、積極的に除く必要もないだろ
すべて詐欺師の論法。
少しずつ定義や争点をずらしていき、魏志倭人伝とは関係ない邪馬台国像を捏造する。
前方後円墳があり姫彦がいて桃で祭祀を行い、鉄も絹も痕跡程度しかない、建物も数棟あるだけの邪馬台国。
貧相極まりない。
>>642 >読み違いで主張しても説得力のある論にはならないよ
>「皆」倭種の「皆」を軽視している
>渡海前も「皆」倭種なんだよ
勝手に見知らぬ「九州説」を作り上げて叩くなよ。
卑怯だな。
渡海前も倭種だよ。
そんなところは論点ではない。
ただ、渡海後は倭種だけれど女王国ではない。
九州の東側の本州にも倭種がいるというだけだ。
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
その西北界(国境)である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
また、帯方郡から投馬国(宮崎都万)までは水行20日
邪馬台国時代の遺物の出土状況
安物サン邪馬台国時代とかデタラメ作っちゃってるからなあ
>>564 >何で小枝のC14を無視するの?
>試料としては最適なのに
天井の崩落が確認できるし、外れ値だし、祭祀に小枝を使う理由も思いつかないし、
他の値の揃いがいいから、一つの飛び値を重視する合理性がないからだよ
無視はしていないから、ちゃんと測定してるだろ?
その上で、根拠にならないと判断されているんだよ
>>566 >倭國を表す場合は(倭國)(倭女王)などと倭の字を冠して書いてあり、
つまり、卑弥呼は倭女王なんだよ
邪馬台国女王とは書いてないだろ
そもそも、邪馬台国表記は一ヶ所しかなく、卑弥呼の都が置かれた地域の名称だ
>倭國と女王国を明確に書き分けている。
そんなことはない
女王国だけでなく、女王まで含めて、倭國とその範囲の意味で使っている部分が多数ある
>そして、文意からすると、(女王国)は邪馬壹(臺)国を指しているのは、明白。
この「文意からすると」というところで、勝手解釈が入り込んでいるんだよ
九州説によくある、ご都合解釈ってやつだ
1伊都国の王が「皆統屬女王國」
2「南至邪馬壹國 女王之所都」
3「自女王國以北其戸数道里可得略載」
4「次有奴國此女王境界所盡」
5「其南有狗奴國(中略)不屬女王」
6「自郡至女王國萬二千餘里」
7「自女王國以北特置一大率檢察諸國」
8「傳送文書賜遣之物詣女王」
9「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」
10「有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里」
11「倭女王遣大夫難升米等」
12「其年十二月詔書報倭女王曰」
13「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和」
例えば、1と5は伊都国と狗奴国について、女王に従うかどうかを示した文章で、ほぼ同じ文型を取っているけれど、属の目的語が「女王」と「女王国」になっている
5の「女王」は卑弥呼個人に属する(さない)というのは意味がないから、事実上「女王国」だろう
9と10も同様に、10の「女王」を去ること四千餘里も「女王国」でいい
結局女王国というのは、倭国の中で卑弥呼の都する国・邪馬台国に「属」する国の範囲をいうのだろう つまり「女王国」≠「倭国」
さらに言えば、「女王国(伊都国、邪馬台国を含む)」+狗奴国+α=「倭国」
2,7は「自女王國以北」が共通していて「自(より)」で起点を示しているので、この起点となる「女王国」が広範囲だと、文意が取りづらくなる(取れないとまでは言わない)
この二つは「女王国」=女王がいる国=女王が都する国・邪馬台国と読めばよい
>>568 >別物と考える根拠はない。
>少なくとも平安時代まで、日本においても剣は両刃で反りはないはずだ。
>草薙剣も反りなんかないだろう。
??
草薙剣は剣だろ? だから、両刃で反りはない
古来のもので太刀と呼ばれるものがない時代は全部剣だってことだ
太刀は、片刃で反りのあるもの
>>607 >伊勢の鏡は焼けて灰になっているからじゃない?
宮中の鏡は何度も焼損した記録があるけれど、伊勢の御神鏡は焼けた記録はないよ
この辺、混同している人が多いけどさ
>>629 >半島に出兵したという倭国は九州倭国
>白村江の戦いで滅亡した
>大和ではない
結局、九州説は白村江まで九州川国を代表していたっていうトンデモに
突っ込むことになるんだよなw
古墳時代の間、北部九州に権力移動を伴う動乱の気配がないから
そして、古墳時代の間、北部九州で作れた最大の古墳が古墳時代も
後期に入ってからの磐井の墓、岩戸山古墳でこれは畿内の継体天皇の真陵、
今城塚古墳の縮小コピーになっている
この時点で、九州に倭王がいたというのがトンデモ、と判断できない人が
いまだに九州説をやっているわけだ
結論を言うと、
お前は神様()の家ではなかったと言う話でしょw
それの何が嫌なんだよ
ウラシマ、河伯、天狗〜というのも
実際は『神仙界』などの話でしょ?
日本(倭国?不明)の話ではないし
即位の時に三種の神器が無いままだった後鳥羽上皇は日本刀を盛んに作らせた
>>647 >無視はしていないから、ちゃんと測定してるだろ?
>その上で、根拠にならないと判断されているんだよ
小枝を無視すれば、後20〜50年が妥当だよ。
『伊達の桃太郎』
古代・・・中国のような話だしな・・・。
>>650 >草薙剣は剣だろ? だから、両刃で反りはない
>古来のもので太刀と呼ばれるものがない時代は全部剣だってことだ
古事記では太刀とも書いている。
>>652 >古墳時代の間、北部九州に権力移動を伴う動乱の気配がないから
>後期に入ってからの磐井の墓、岩戸山古墳でこれは畿内の継体天皇の真陵、
動乱の気配がないというのは考古学の話だよね?
継体と磐井の戦争も、考古学的には確認できない。
でも記録としては動乱はあったことになっている。
自分で矛盾に気づかないのかな?
>>652 >この時点で、九州に倭王がいたというのがトンデモ、と判断できない人が
継体は乱で屯倉一つを手に入れるにとどまった。
ほぼ畿内の支配は九州に及んでいない。
墓の形を共有していただけ。
継体の共立の過程を読むと、畿内は北陸にも影響を及ぼしていない。
北陸から継体を迎えるからには親族だという意識はあったのだろうが、支配関係は成立していない。
まして邪馬台国の頃に、周囲よりより貧しかった奈良盆地勢力が列島を代表して魏まで使いを出せたわけがない。
郡使が滞在するのは伊都とも明記されており、魏志倭人伝に記された邪馬台国は九州北部と考えるしかない。
もののけ姫・・・・、
神殺しみたいな台詞が出てくるでしょ?
左目を・・・・とか
wiki『河伯』(日本では河童??)のところを読んでみて
畿内説が取り上げているのは、普通にヤマト王権の萌芽なんだよ。
九州北部の邪馬台国に卑弥呼がいた頃、畿内にも新しい勢力が誕生しつつあった。
その年代が近かったから、取り違えてしまった。
しかもその勢力は後に列島を支配したため、その繁栄を後ろ向きに投影して幻想を見てしまった。
>>662 >まして邪馬台国の頃に、周囲よりより貧しかった奈良盆地勢力が
そんな妄想してるから歴史がまったく理解出来ないんだな
キュウリのような葉が写っている写真は、
家の写真なんだけどw
河伯⇔ウラシマン⇔河童⇔浦島太郎⇔
仮名、キャラクター名
>>662
>まして邪馬台国の頃に、周囲よりより貧しかった奈良盆地勢力が列島を代表して魏まで使いを出せたわけがない。
同意。
>魏志倭人伝に記された邪馬台国は九州北部と考えるしかない。
その魏志倭人伝にある「其山有丹」より、邪馬台国は九州北部では有り得ない。 ワハハは @阿波 謎の震災なども、
人工地震だと思うと言ってる人がいたりw
なぜだと思う
生贄、人柱?
日本にも同じような話があるでしょ、
実際は同じ家(日本に渡って来た)に関係する話?
数年前の、とあるスレ
なぜ誰々さんの家は大きくならないのですか?
と言っている人がいたり
誰々さんの家の?成り済まし、
騙りがいるからなんだろうけど
誰々さんの家は、なぜ収入が無いのですか?とか、
家も大きくならない(増築、リフォームでも良いけど)
そのような事を言ってる人がいたような・・・w
誰々さんに渡るはずの利益などがあるでしょ、収入?
騙り、成り済ましのところに流れている・・・みたいな話
なぜか知っているというか?
気づいている人がいたり
本当に音楽で言うと『タイ焼きくん』・・・と同じ?
本来(本当は)なら・・・私(俺)の収入wという話
wikiを読んでみて
考古学で明らかになったのは、九州か畿内かではないんだよな
3世紀には比恵那珂博多を中心とした福岡市域が畿内と文化的に密接な関係であったので
九州勢力を想像するなら博多湾沿岸を除く九州に共通な文化圏か博多湾岸〜畿内の文化圏か
ということになる
『松傾』・・・・松の木が立てられている写真w
というか書き込みをしている家の写真なんだけど
『もののけ姫 ヒイ』
このような人物の家とか?
当時、住んでいた家があったんだけど、
部屋に凄い刀(ナゾの刀)が飾ってあった
とか
老婆談、あの写真の家の話
いま住んでいる場所があるでしょ・・・、
『サイバーパンクSPECIAL』川崎区の・・・?
いつ頃の話なんだろう、
橋が完成したから・・・という話とか
そのときは歳も取っていたし、
遠いからと言って断ったこともあるんだよ
本当に・・・家の話なのかな?
>>675 >九州勢力を想像するなら博多湾沿岸を除く九州に共通な文化圏か博多湾岸〜畿内の文化圏か
その分け方が適切かどうかは改めて考えるとして、
その後者は天孫族なんだろう。
個人的には、後者から前者への政権交代により卑弥呼が共立されたと考えている。
それにより、博多湾沿岸のみであった倭国が有明海方面に拡大する。
その先にあるのが肥後狗奴国だ。
この時点で、畿内と九州北部は交流があるが、継続的な政治的繋がりを想定するのは難しいだろう。
記紀では、継体の頃でさえ政治的統合はできていない(北陸がやっと)。
瀬戸内海ルートは開拓中であり、畿内が魏と密接な関係を結べるだけの安定かつ迅速な交通量は確保できていない。
九州北部に限って言えば、大率による対馬海峡の統治が交流の安定性を保証できる。
>>681 九州説は九州の考古学知識が皆無で願望で作り話をするが
博多湾沿岸と肥後との交流は3c前半はあまりない
肥後北部は3c後半くらいに北部九州の土器の影響を受け始め(南部は遅れる)
4cに土器様相が一変する
考古学的根拠もなく博多湾岸の遺跡群を利用だけしてるのが肥国比定地説
428
>>795 >萬二千里という千里単位のざっくりした値が、特定の場所を指す数値だと思う方がおかしい<
後漢書が、萬二千里を、「樂浪郡徼から其大倭王居邪馬臺國」の距離だ、
と言うつもりで書いている、という事が判らない類スレ主の方がおかしい。
>そして、水行、陸行の日数が里数に換算できない限り、邪馬台国までの距離に算入できないし、
邪馬台国までの距離は求められない <
これが、類スレ主が、後漢書の邪馬臺國を大和に持って行くための詐術であったのだよ。
後漢書の邪馬臺國は、魏志の萬二千余里や七千余里を採用した限り、北部九州付近になるしかなく、
大和説にとっては致命的になるから。
勿論、魏志の「水行や陸行の日数」など、後漢書には全く関係もない。
>後漢書の記述でも、萬二千里が王都までの距離だなどとは何処にも書いてないし、「其」という指示語の
指すものを順に追って読んでいっても、当該箇所の「其国」は「倭國」であって「邪馬台国」ではありえないし
「倭國(の王都邪馬台国)」と書いてもいない言葉を足すのは質の悪い捏造でしかない<
類スレ主が、世間の人々を騙そうと、まだもがいている。
>>648 倭國、倭女王と倭を冠する場合は魏との外交関係の記述のケースが多い。
連合勢力としての国が倭國で、その王が卑弥呼。
一方、女王国の場合は、地理記述や風俗記述の場合が多い。
倭國女王の宮室があって、女王が暮らしているその国が女王国。つまり、邪馬台国ということになり、そこを中心として地理や風俗の記述がある。
倭人伝は、そのような構成になっている。
428
>>802 >前方後円墳なら径百歩ある大きな塚と書かれているよ <
「冢≠前方後円墳」であるから、この男も×。
>>687 >「冢≠前方後円墳」であるから、この男も×。
なんの根拠もないことを
百万遍唱えても
ただの無駄
428
>>805 >ホケノ山に三角縁がないから、239年以前<
ホケノは、前方後円墳だから卑弥呼の冢よりも新しいし、
晋の武帝の天円地方の説明の266年よりも後だし、
庄内〜布留で布留があるから、3世紀末以後にしかならない。
428
>>807 >方位を間違うというより
陳寿が東にあった邪馬台国を皇帝への奉りのために
国境よりはるか南1万2千里にある事にして魏志倭人伝を書いた<
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、
「国境よりはるか南」にはならないんだし、
「東にあった邪馬台国」なんて存在もしない嘘つき詐欺であるから、
この男は×。
>>690 魏と韓の国境のあった帯方より南1万2千里と書いてあるし
女王国は沖縄や台湾辺りになる会稽東治(冶)の東と書いている
>>684 >博多湾沿岸と肥後との交流は3c前半はあまりない
>肥後北部は3c後半くらいに北部九州の土器の影響を受け始め(南部は遅れる)
狗奴国を肥後に比定すると、博多湾沿岸との近いのに対立していたことで説明できる。
しかも、卑弥呼の次の壹與が狗奴国も合わせて筑紫と肥国を統合したという仮説に合致する。
>>690 >不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっていて、そこが北部九州なら会稽よりはるかに北だね
つまり九州説は倭人伝の記載とまったく合わないダメな説
瀬戸内海の交通量がまだまだ少なく、交流はあったが政治的な統合ができなかった時代、陸路では筑紫と肥国さえ容易ではなかっただろう。
しかも、郡使は伊都国に滞在し、九州を出ていない。
漢の頃から交流があり金印を下賜したのは博多湾沿岸の天孫族。
奴国3万戸を最大国邑し、卑弥呼の共立で拡大した筑前筑後肥前の邪馬台国7万戸、対立する肥後狗奴国、交流が維持されていた(片道10日かかるけど)ので戸数がわかる宮崎の投馬国。
これが伊都に駐在した郡使が認識した倭国の規模だろうね。
>>693 ところが陳寿は魏の長里で解釈したから、実際よりずっと南と思い込んだんだよ。
428
>>810 >畿内にある3世紀の前方後円墳によって畿内説が決定的に有利になるから
九州説の墓じゃね <
大和の前方後円墳は、卑弥呼の墓の冢ではないし、
一番古い石塚でも3世紀末にしかならず、
大和説が決定的に×であり、大和説の墓場になる。
>>695 本国に報告した魏の役人だって魏の長里で報告したんだよ
>>692 北部九州の土器というのは、畿内の模倣製作土器
西北九州から有明海沿岸は全羅南道を中心とした支石墓文化圏なので
馬韓と秦人に似た辰韓が言語が違うように
おそらく筑紫と言語が違うのだと思うが
対立している要素はないだろう
蚕・・・機織をしていて、牛を飼っていた〜と言う話でしょ?
『松傾』
こういう名前の家
なんで詳しいんだろう、ホンモノの家なのかな?
むかーし、泥棒のようなものに入られて・・・とか、
結婚したときも、駆け落ち?みたいな事を言っていたし
>>700 宮崎と福岡が交流できないなら、奈良と福岡はもっと無理w
428
>>814 >箸墓の円墳部は径百歩にほぼ一致<
前方後円墳の「径」は「前方部〜後円部の先端」の距離になるから、
箸墓は、×。
>全体含めて径百歩になるような古墳は畿内にそれこそゴマンとある<
魏使らは「1里=76.5m」位の短里を使っており、
1里=300歩に拠って、百歩は25.5m位になり、
そりゃ、「径百余歩」の墓は、日本中に一杯あるだろう。
>それと箸墓は案外径百歩で作ったのかもな
国交のあった魏で使われていた歩を取り入れてそれで測って<
箸墓は、前方後円墳だから、卑弥呼の冢ではなく、×。
古い時代刀剣は両刃でも片刃でもすべて剣
刀(片刃)はその後新たにできた分類
>>704 考古学研究成果を拒絶しても無駄
南九州の鹿児島、宮崎は弥生中期から古墳初頭にかけて
瀬戸内系土器が客体的(融合しない)に存在する地域
先に、こっち(いまの福島県?川崎?)に来て、家を建てて住んでいたんだよと言っていたり、
その後・・・、嫁になる人が・・・。
本当に、どこに住んでいたころの話なんだろう、
いまの福島県か・・・川崎の話なのかな
親戚が住んでいる家(福島県、伊達郡?)に
疎開したとも言っているし
428
>>820 台所も居間も寝室もトイレもなんもないとか
千人の俾や卑弥呼や男一人や守衛を雑魚寝させるとか
無知を晒して恥をかく
それが、大和説クオリティ
>>707 客体的でも存在するなら交流はあったということだよね。
歪曲してはダメだよ。
>>711 何を歪曲?
客体的に存在するのは北部九州ではなくて瀬戸内系土器がね
>>699 >対立している要素はないだろう
目と鼻の先で統合できていないのなら、筑後平野を巡って争いになるのは必然。
博多湾沿岸と有明海沿岸が統一されていないのに、畿内と博多湾沿岸が統合されるわけがない。
そもそも奈良より福岡の方がはるかに栄えていたのだから、奈良など問題外。
あと、奈良と大阪(摂津河内)は直接交流していないからね。
少なくとも纒向は終わりとばかり交流していた。
日本列島は細かく分断されていたんだよ。
428
>>821 >国境より南1万2千里っぽくなるように調整してる架空のものだから
それで邪馬台国までの道のりは表せない <
「調整してる架空のもの」なんて書いて、
部下や後続の張政や難升米らに拠って、皇帝らにバレれば、
そりゃ、確実に魏使らの首が飛ぶね。
勿論、そんな事をそそのかした大和説者の首も危ない。
爆弾(空襲)が落ちてくるから〜みたいな話(連絡?)があって、
・・・以前、住んでいた家、親戚(兄弟?)の家に避難した・・・。
老婆談
>>712 そりゃ宮崎なら瀬戸内は目と鼻の先。
しかし、宮崎と福岡が交流なしというのは無理だ。
宮崎からも大陸からの鏡が出るから、福岡と交流があった証拠だよ。
大宝律令で九州の異人とされている地域の中で
諸国牧が造られたところの説は、どうも思い込みが激しいというか
自己中心的に博多湾沿岸遺跡群を利用する人がいる
筑前国/能臣嶋/牛牧。
肥前国/鹿嶋馬牧。庇羅馬牧。生属馬牧。/柏嶋牛牧。?野牧。早埼牛牧。
肥後国/二重馬牧。/波良馬牧。
日向国/野波野馬牧。堤野馬牧。都濃野馬牧。/野波野牛牧。長野牛牧。三野原牛牧。
仮に筑紫と大和が間の勢力を飛び越えて繋がりがあったなら、それこそ神武東征みたいな関係を想定しなくてはいけないね。
>>713 >あと、奈良と大阪(摂津河内)は直接交流していないからね。
デマを連呼しても九州説の信用落とすだけだぞ
まあもう無いだろうけど
>>716 北部九州の須玖式(中期)くらいまでだな
それも一方通行
纒向遺跡への搬入土器の出身地割合
伊勢・東海系 : 49%
北陸・山陰系 : 17%
河内系 : 10%
吉備系 : 7%
近江系 : 5%
関東系 : 5%
播磨系 : 3%
西部瀬戸内海系 : 3%
纒向には魏の使いが滞在していた筑紫からの搬入物がない。
邪馬台国が交流していたはずの楽浪郡からの土器も出ない。
目と鼻の先の河内との交流も乏しく、畿内の他の地域のような瀬戸内海や淀川の水運の利益を受けられない、尾張の支配下の後進地域であった。
畿内説が言うように東海地方が狗奴国なら、纒向への土器の流入を説明できない。
>>716 >宮崎からも大陸からの鏡が出るから、福岡と交流があった証拠だよ。
宮崎から大陸からの鏡が出ると
どうして福岡と交流があった証拠になる?
説明不能だろ
>>722 福岡を通過せずにどうやって大陸と交易するの?
>>721 楽浪土器は博多湾沿岸でも2c後半がピークで3c前半まで
>>721 素人が知識もなく
考古学を我流珍解釈すると
こういうミジメなことになるという典型・・・
晒し者?
『牛郎織女』
これと同じような話でしょ、
どこの国の人なんだろう
>>710 このレスも良く見るけどさ、あの時代の家屋にトイレがある訳ないでしょうが。
平安時代の貴族の館にも、近世フランスのルーブル宮殿だってトイレなんてないんだから。
弥生時代や古墳時代にそんなもんあったらオーパーツだわ。
428
>>823 >箸墓の円墳部分は144m <
前方後円墳のような不定形の「径」は「前方部端から後円先端」で示すから、
箸墓は、×。
>魏の1歩は約1.4mだから魏晋里でほぼ径百歩だよ<
魏使らの記載里は「1里≒76.5m」の短里であるから、
「1里=300歩」に拠って、「1歩≒25.5m」になり、
この男は×。
奈良と福岡は交流があって、福岡と宮崎は交流がない?
畿内説は面白いことをいうなあ。
>>723 大陸の鏡w
宮崎のどの遺跡から何鏡が出土している?
>>724 >
>>721 >
>楽浪土器は博多湾沿岸でも2c後半がピークで3c前半まで
それ、卑弥呼の治世において、帯方郡と交流していたのは博多湾沿岸であったことの何よりの証拠だね。
>>730 >前方後円墳のような不定形の「径」は「前方部端から後円先端」で示すから、
無学な素人オジン75歳が独断でそんなこと決めても
誰も言うこと聞かないよ
>>641 >その中で、魏と交渉し得たのは誰かということだよ。
もちろん、倭人社会の王、日本列島の最大勢力だよ
>郡使は伊都に滞在します、
原文は「郡使往來常所駐」だ
「往来」って書いてあるのは分かるか?
行き帰りに寄るところという意味だ
末盧国には寄らなくてもいいということ
>帯方郡から一万二千里です、
これがどうしようもなく誤読
萬二千里は、伝説の世界観から引っ張ってきた数字で、倭国の特定の場所を指さない
>そういった明確な記述を無視して畿内しかないと叫び続けているのが畿内説なんだ。
間違った読み方をしている人の解釈を無視するのは当たり前だろ?
妄想の相手をしていたらきりがない
まあ、間違いは極力正すようにはしているけれど
>>736 >もちろん、倭人社会の王、日本列島の最大勢力だよ
「僕が考えたさいきょうのヤマト」
>>723 大陸の鏡w
宮崎のどの遺跡から何鏡が出土している?
>>733 倭人伝は卑弥呼の時代から壹與が張政を送らせるまで
卑弥呼の遣使は238年(239年?)だから
遣使以降激減してることになる
>>733 それで畿内勢力は博多湾岸に植民地を作ったんだね
428
>>830 >恐らく漢の時代からそういう風に決まっていた<
「決まっていた」んなら、魏使らは、記載する必要がない。
「余」を使って記載した、という事は、「決まっていなかった」のであり、
計測して記録した。
>倭国までは国境より1万里<
長里では赤道近くにまで行ってしまうから、短里での記載。
>その都は倭国の極南界で会稽東治(冶)の東にあり<
陳寿は、「会稽東治」。
後漢書の「会稽東冶」は范曄の自己解釈に拠る書き換えになるから、×情報。
>道のりを合計すると計1万2千里<
それ、短里であり、北部九州。
>>641 >これはもう、考古学的な根拠のない想像だよ。
これは、考古学からではなく、神社伝承や文献史学からの考察
畿内説のオリジナルじゃない
ヒメヒコ制はかなり広く知られており、支持も集めている学説だ
>卑弥呼とヒメの語感が似ているから、程度のレベル。
違うよ、何を言ってるんだww
ウサツヒコ・ウサツヒメ、サホビコ・サホビメのような
男女一対の代表が多く記述されていることからの考察だ
ヒメヒコ制は、神託を聞くヒメ王・祭祀王と、その神託を実行に移すヒコ王・実務王の
ペアによる統治を想定する
人前に出ない神託の巫女卑弥呼と、その佐治国の男弟が魏志倭人伝に記されており、
このペアをヒメヒコと見るのが、ヒメヒコ性での通説
>一皮むけば「僕の考えた最強のヤマト」が見え隠れするのが畿内説。
はいはい、いつも「自分の脳内の畿内説」と戦っている人だね
まあ、がんばれとしかww
>>643 >前方後円墳があり姫彦がいて桃で祭祀を行い、鉄も絹も痕跡程度しかない、建物も数棟あるだけの邪馬台国。
>貧相極まりない。
反論があれば、きちんと客観的で具体的な根拠を挙げて論証してね!
こっちは、魏略の引用と解釈から、きちんと論証してるだろ?
せめて同じ土俵に上がってくれないと、そっちのレベルが低すぎて話が通じないww
428
>>935 >箸墓は円墳部分が144mで径百歩に相当するよ 2倍なら288mだけどそんなにない
それに全体含めて径百歩144mの古墳ならそれこそ畿内にゴマンとある 九州にはないけど<
何か知らんが同じ事の繰り返しだなあ。
いずれにしても、「南≠東」や「冢≠前方後円墳」などに拠って、大和説は×。
428
>>836 >いいか、逃げるなよ?
前方後円墳の完成形のホケノ山古墳や、纒向古墳群が
周囲の視界の中にいっぱいある。
その中で、前方後円墳である箸墓古墳を作っていたのなら、完成形は前方後円墳だとわかる。
だったら、径百歩の2倍だと魏人にはわかったわけだ。 <
成程。
>>644 >渡海前も倭種だよ。
やっとここは認められるようになったかww
ちょっと進歩したなw
>ただ、渡海後は倭種だけれど女王国ではない。
ただ、渡海前も倭種だと認めた時点で、「渡海後は倭種だけれど女王国」が
根拠がなくなるんだよ
これまでは、渡海前は倭国で、渡海後を倭種と区別しているという主張だったんだからw
根拠なしの思い込みをいくら言っても無意味ww
>九州の東側の本州にも倭種がいるというだけだ。
九州の東側は、幅600メートルの関門海峡で、すぐそばに本州(中国地方)があって
ずっと地続きなんだから、本州と渡海千里の先と見るのは無理ww
北部九州も、中国地方の出雲も倭国だし、密な交流があるし、そこから大和までも
地続きの倭国だよ
この当たり前のことを否定しないと成り立たないから九州説は大変だww
だから、インチキ解釈や捏造に走る
その時点で、人として終わってるw
>>745 >何か知らんが同じ事の繰り返しだなあ。
>いずれにしても、「南≠東」や「冢≠前方後円墳」などに拠って、大和説は×。
二行目でもう
同じことの繰り返しばかり言ってる自分に
オウンゴール
>>645 >楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
はいはい、何度書いても、「その国(邪馬台国)」はインチキ捏造
その国は「倭國」でしかない
428
>>840 >魏志倭人伝の里程を辿ると会稽東治(冶)の東
沖縄や台湾の辺りになる
畿内には三世紀卑弥呼の頃の径百歩に相当するような古墳がある<
この投稿も、同じ事の繰り返しだから、×。
>>742 >ウサツヒコ・ウサツヒメ、サホビコ・サホビメのような
>男女一対の代表が多く記述されていることからの考察だ
そりゃ、夫婦がいたんだろう。
だから何?
>人前に出ない神託の巫女卑弥呼と、その佐治国の男弟が魏志倭人伝に記されており、
男弟は言葉を伝えるだけで、実権は持っていないよ。
ヒメヒコ制には該当しない。
どこのアホ学者の受け売りか知らないけど、恥ずかしいね。
途中まで読んだけど
太刀と剣の違いがようわからが
俺的には剣から派生したものが太刀だと思う
つまり戦闘用具の象徴や過去の戦績の武勲を遺すのがが太刀
戦闘用の剣が無ければ太刀の文化は生まれなかった
違うかな????????
428
>>847 >>そこからさらに魏志倭人伝では南に水行陸行するとある<
>後漢書にはこの部分がない。
つまり、日程は里程の言い換えなんだよ。 <
成程。
>>662 >墓の形を共有していただけ。
何のために墓の形を共有しないといけないんだ?
祭祀の統一がなされているからだろ?
その祭祀連合、前方後円墳秩序を古墳時代の倭国と読んでいるんだよ
>継体の共立の過程を読むと、畿内は北陸にも影響を及ぼしていない。
>北陸から継体を迎えるからには親族だという意識はあったのだろうが、支配関係は成立していない。
結局、九州説は「支配」していないから国じゃないってところに逃げるんだよなw
畿内説は、何度も何度も、祭祀連合であって支配・被支配の関係にはないと言っているのにw
統一国家の体をなすようになるのは、飛鳥時代以降で、完成は律令制の成立までかかるんだよ
ヒメヒコ制の概念は高群逸枝によって1938年に初めて唱えられた。
高群は次のように言う「古代の祭治形式にあつては、神宣を体する姫の職と、それを受けて執行する彦の職が絶対に必要であるところから、姫彦二職を主長とする制度が生じたのである」。
「姫彦統治制度にあつては、姫神が神事を、彦神が政事を分掌するが、この二神が一体となって即ちここに祭政一体の統治が行われる」。
高群逸枝『母系制の研究』理論社、1955年(初版1938年)、69, 362ページ、参照
倉塚曄子『巫女の文化』(平凡社1979)
古いなあ。
戦前の亡霊かよ。
428
>>848 >箸墓古墳だな
円墳部分が径百歩だし魏志倭人伝の記述にピッタリだ<
もう何度も説明済だから、×。
>伝承で被葬者は女性らしいし <
卑弥呼という名前と一致しないから、×。
>>752 >男弟は言葉を伝えるだけで、実権は持っていないよ。
そんなこと
倭人伝のどこに
書いてあらのかな?
>>665 >畿内説が取り上げているのは、普通にヤマト王権の萌芽なんだよ。
そうだよ
そしてそのヤマト王権が、大陸の人の聞き取り音訳で邪馬台国と記されただけ
>九州北部の邪馬台国に卑弥呼がいた頃、畿内にも新しい勢力が誕生しつつあった。
九州北部に邪馬台国はないし、卑弥呼はいない
ここから既に論証も根拠もない妄想に入っている
>その年代が近かったから、取り違えてしまった。
年代が近いどころか、完全に重なってるよ
つまり、ヤマト王権の歴史がそのままリアルタイムで魏朝に伝わっているわけだ
>しかもその勢力は後に列島を支配したため、その繁栄を後ろ向きに投影して幻想を見てしまった。
3世紀時点で、祭祀連合の盟主になってるよ
ただ、支配はしていない
強いて言えば、権威による統治だ
>>755 >何のために墓の形を共有しないといけないんだ?
>祭祀の統一がなされているからだろ?
政治的統一ではないことに注意。
筑紫が魏と交流していたことを妨げるものではない。
>>755 >統一国家の体をなすようになるのは、飛鳥時代以降で、完成は律令制の成立までかかるんだよ
ようやく九州説に歩み寄ってくれたかな?
だったら、帯方郡とやりとりしていたのは考古学的証拠に合わせて筑紫でいいよね?
>>756 いや、それ言っちゃったら
九州説も戦前の亡霊そのものだから
>>681 >それにより、博多湾沿岸のみであった倭国が有明海方面に拡大する。
こうやって、初期倭国を小さくして、大陸や半島の影響下の小国ってことにしたがるんだよな
九州説はww
>>760 え?
今頃やっと畿内説のことを知ったの?
でも、無駄だよ
九州も畿内も同じ「倭国」ということになるから
邪馬台国九州説は生き残れない
>>681 >この時点で、畿内と九州北部は交流があるが、継続的な政治的繋がりを想定するのは難しいだろう。
土器の流入も、畿内第V様式から庄内式、不留式と、連続していて最終的に九州の地場の土器がなくなる
それと平行して、前方後円墳を九州でも作るようになり、さらに九州でも三角縁神獣鏡をありがたがって副葬するようになる
これらは、明確に政治的(祭祀連合)なつながりだし、継続的に発展してるぞww
>>758 魏志倭人伝を読めよw
その弟は名前すら書かれていない。
>>767 だから、倭人伝のどこに書いてあるんだ?
九州の人って
倭人伝読んだこと・・・無いのか?
>>759 >つまり、ヤマト王権の歴史がそのままリアルタイムで魏朝に伝わっているわけだ
>3世紀時点で、祭祀連合の盟主になってるよ
どちらも根拠なし。
スレ主
一方通行のテンプレもいいが
随分反論も出てるぞ
テンプレをこれ以上長くしてほしくないから
名無し投稿を止めるか
無用なQ&Aやを省くとか、したらいい
>>767 卑弥呼だって実は名前さえ書かれていないのじゃ
>>662 >墓の形を共有していただけ。
何のために墓の形を共有しないといけないんだ?
祭祀の統一がなされているからだろ?
その祭祀連合、前方後円墳秩序を古墳時代の倭国と読んでいるんだよ
>継体の共立の過程を読むと、畿内は北陸にも影響を及ぼしていない。
>北陸から継体を迎えるからには親族だという意識はあったのだろうが、支配関係は成立していない。
結局、九州説は「支配」していないから国じゃないってところに逃げるんだよなw
畿内説は、何度も何度も、祭祀連合であって支配・被支配の関係にはないと言っているのにw
統一国家の体をなすようになるのは、飛鳥時代以降で、完成は律令制の成立までかかるんだよ
>>770 >随分反論も出てるぞ
たとえば、どれ?
全一病じいさん痛い人
>>772 >纒向から楽浪土器が出土しない限り、畿内別は無理…
だと思う理由は?
>>681 >瀬戸内海ルートは開拓中であり、畿内が魏と密接な関係を結べるだけの安定かつ迅速な交通量は確保できていない。
それ以前から、日本海経路で宗像から越まで大国主の通婚圏になるくらいの密接な交流が維持されてるよ
>>752 >そりゃ、夫婦がいたんだろう。
>だから何?
お前、バカなんだからさ、少し謙虚に調べてみろよ
ウィキペディアのヒメヒコ制のページを読むだけでも、そんなバカなことは言わなくなるぞw
サホビコ、サホビメは夫婦じゃないぞ 兄妹だ
ヒメヒコは、夫婦とは限らず、ハニヤスヒコ、ハニヤスヒメは、母と息子になっている
その土地(おそらくは統治権)を代表する人物が、男女一対で記されており、
それをヒメヒコと見る
>男弟は言葉を伝えるだけで、実権は持っていないよ。
卑弥呼は人に会わないんだから、権力行使を実際に行うのは、佐治国の男弟の方だ
その権力行使の後ろ盾となる権威が、人前に出ない神託のヒメ王・卑弥呼なんだよ
>>760 >政治的統一ではないことに注意。
>筑紫が魏と交流していたことを妨げるものではない。
政治的統一という言葉を本当に都合よく、というかご都合主義で使いまわすよなww
祭祀の統一というのは、権威の統一だから、倭人社会の代表として魏に遣使するのは
統一祭祀王じゃないと無理だよ
その祭祀の統一の中心が大和にあることは認めるんだな?
ならば、その祭祀の統一が卑弥呼の共立ではないとする理由もなくなる
九州説は、結局詰んでるんだよ
九州説はどうしてこんなに無知で
ウロ覚えのテキトーなガセばかり垂れ流すんだろう
>>756 >古いなあ。
>戦前の亡霊かよ。
それだけ長い間、深刻な反論もなく、通説として現在も通用していますが、何か?
>>769 >どちらも根拠なし。
いや?
初期大古墳の分布という、がちがちの考古学的証拠で
「前方後円墳秩序という祭祀連合」の盟主が畿内にあるのは明白なんだが?
これを根拠なしと言わないと成り立たない、つまり最初から成立の余地がないのが九州説なんだよ
スレ主
一方通行のテンプレもいいが
随分反論も出てるぞ
テンプレをこれ以上長くしてほしくないから
名無し投稿を止めるか
無用なQ&Aやを省くとか、したらいい
>>782 九州説の反論はテンプレで完封されているのではないかな?
>>776 福岡を起点として、日本海側は早くから交流が進んだんだよ。
瀬戸内海はかなり遅れた。
倭人の領域が東海まで拡大しても、内陸は取り残されたまま。そのいい例が纒向。
>>777 実権を持っていたのは大率の方だよ。
弟を持ち出してヒメヒコは無理がある。
>>778 >祭祀の統一というのは、権威の統一だから、倭人社会の代表として魏に遣使するのは
>統一祭祀王じゃないと無理だよ
祭祀の様式の統一は権威の統一とは別だよ。
神道においては多くの場合、権威の象徴は鏡だよ。
そしてそれは博多湾沿岸の文化だ。
土器を見ればいろいろあろうが、祭祀の権威であれば博多湾沿岸の銅鏡文化で統一されている。
ただ、それでも九州説は西日本全体の統一祭祀王などという誇大妄想は持ち出さない。
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
☝ 誰も指摘していない纏向遺跡の300万m平米では無理なのはわかってるし、住居跡もそれほど発掘されていない
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
☝
日本海峡を魏国の人は往来しているので解く必要はない
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
☝
Aが都合よすぎだから揚げ足を取られる・・ずいぶん記紀を引用してるから
その他 あるけど一度スレ主なりに整理してください
>>785 >福岡を起点として、日本海側は早くから交流が進んだんだよ。
この「福岡を起点として」というのが、いきなり根拠なしのご都合主義w
荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡の充実や記紀の記述を見れば、日本海交流の結節点は
出雲と見る方が妥当だろう
最近九州説で硯推しをしている人がいるけれど、日本最古の硯が出ているのも
福岡ではなく出雲の田和山遺跡だよ
>>787 >弟を持ち出してヒメヒコは無理がある。
どんな無理があるの?
具体的にどうぞ
むしろこれまで九州説の主張に近づいているな。
西日本の統一は律令制から
福岡の邪馬台国と熊本の狗奴国は対立
宮崎の投馬国は瀬戸内と交流
ただし博多湾沿岸だけは畿内とも関係する(天孫族の東征)
>>787 >実権を持っていたのは大率の方だよ。
相変わらず笑わせてくれるな
一大率は、邪馬台国からの派遣官で、地方の存在だぞ
邪馬台国には官が四人記されているのに、その上に一大率が君臨して実権を持ってたとか
どんな妄想だww
>弟を持ち出してヒメヒコは無理がある。
いや、この魏志倭人伝の記述が、ある意味ヒメヒコ制という説の根本の一つなんだから
これが、ヒメヒコ制という概念の典型だぞw
>>753 正論
鉄の太刀が見つかるという事は鉄の剣を使ってたか
大陸から王と認められたのであろう
>>787 >祭祀の様式の統一は権威の統一とは別だよ。
おいおい、権威のない祭祀なんて意味がないだろう
祭祀が権威の根源であり、その祭祀の統一は権威の統一を意味する
3世紀前半にいきなり広範囲に出現した、統一墳墓祭祀、前方後円墳祭祀が始まった契機として
卑弥呼の共立が最も説明原理として蓋然性が高い
>神道においては多くの場合、権威の象徴は鏡だよ。
それは「姿の見えない神の形代」としての象徴物であって、
その神の言葉をおろす巫女をヒメ王と呼んでいるんだよ
人間社会の存在としての宗教権威はヒメ王という人物になる
>>787 博多湾沿岸は卜骨が出ないから倭人の風習は無い
>>789 >荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡の充実や記紀の記述を見れば、日本海交流の結節点は
>出雲と見る方が妥当だろう
結節点を定義せよ。
わずかな関連性をことさら強調して無理筋ばかり推している畿内説らしいなあ。
出雲から筑紫に代表権が移った経緯が記紀に書かれているから、九州説は痛くもかゆくもないよ。
むしろ正しさが強調される。
出雲を持ち出すほど、日本海交易から取り残される奈良が惨めだ。
せめて畿内説を淀川水系中心に唱えればよかったのにねえw
>何か知らんが同じ事の繰り返しだなあ。
>いずれにしても、「南≠東」や「冢≠前方後円墳」などに拠って、大和説は×。
☝
これは畿内説の課題である
会稽東治・・しか反論できない 畿内説に限らず各説会稽東治に疑問を持ってるのは確か
私的には 中国から見て 日の昇る方向=東ぐらいで良いと思う
沖縄とか台湾なら当時中國と国交がなかったことになるが遺物が立証している
>>787 >ただ、それでも九州説は西日本全体の統一祭祀王などという誇大妄想は持ち出さない。
つまり、九州では卑弥呼は共立されていない訳だ
もちろん、共立されていない卑弥呼は九州にはいないってことだな
了解!
韓国政府が宣伝していた邪馬台国畿内説が、ゴキブリが叩きつぶされるようにして叩きつぶされてしてしまった。。。
>>798 >出雲から筑紫に代表権が移った経緯が記紀に書かれているから、九州説は痛くもかゆくもないよ。
根拠は記紀神話?
すごいね!ww
>>803 >纒向から帯方郡まで継続的に交流できるわけない。
それを、誰もが確認できる客観的な根拠とともに、具体的に論じてくれと何度言えばww
実際に、交流できてるんだからしょうがないだろ?
卑弥呼共立時点より前の時代で、丹波の首長は大陸渡来のガラスを大量に副葬してるよ
丹波から畿内大和までは、欠史八代の頃から密な交流がある
出雲と畿内大和の交流も、丹波経由で盛んに行われているよ
だから
>>798の「出雲を持ち出すほど、日本海交易から取り残される奈良が惨めだ」は
的外れもいいとこ
要するに、情弱無知の思い込みなだけ
日本の古代道路の全国的な整備は7世紀中期ごろだから
3世紀と飛鳥時代の始まりで交通はそんなに変わらない
九州では博多の奴国が一番大きいからそれより大きい投馬国や邪馬台国は九州には無い
官職名が大きく異なるのも九州から遠方にあった傍証だろう
韓国政府が宣伝していた邪馬台国畿内説が、あっけなく、破綻してしまった、、、
>>753 両方古代では剣
そのうち両刃より片刃の方が折れにくい事がわかって片刃の直剣が主流になり
それに反りをつければ切れ味が増す事がわかった
大刀、太刀は断ちからその名が来ている
草薙の剣は何人かでこっそり見た宮司の証言が正しいとすると
その形から有柄銅剣だろう
古事記には出雲で祀られていた神剣を大和の王が
管理している兄が居ぬ間にその弟から騙し取った故事が載っている
>>804 >王都まで行くのは特使だけ
魏からわざわざ金印を下賜するためにやってきた皇帝の特使
>>807 >卑弥呼共立時点より前の時代で、丹波の首長は大陸渡来のガラスを大量に副葬してるよ
>丹波から畿内大和までは、欠史八代の頃から密な交流がある
畿内説は年代感がめちゃくちゃ
>>808 >3世紀と飛鳥時代の始まりで交通はそんなに変わらない
西日本の統一は律令制を待たなくてはいけないということだ。
>>812 >古事記には出雲で祀られていた神剣を大和の王が
>管理している兄が居ぬ間にその弟から騙し取った故事が載っている
出雲の神宝を召し上げた話は、古事記にはなく日本書紀の崇神天皇紀にあるが
それは神剣とは書かれていないよ
>>814 >畿内説は年代感がめちゃくちゃ
丹波経由の出雲と大和の交流は、弥生時代中期には確実だから、特に問題はなかろ?
丹波の大陸由来のガラス製品は大風呂南墳丘墓が西暦200年ごろ、赤坂今井墳丘墓が
弥生終末期だから、卑弥呼の直前の頃で間違いない
九州説は時系列って言葉を勉強した方がいいよ?
>>815 日本書紀だったか
まあ出雲は銅剣で有名だったからな
ヤマタノオロチの故事も出雲で関連性も十分考えられる
>>798 >結節点を定義せよ。
>わずかな関連性をことさら強調して無理筋ばかり推している畿内説らしいなあ。
人に要求するんじゃなくてさ、
その前に、自分の書いた「福岡を起点として」というのが、出雲が交流の中心というのよりも
妥当性が高いことを「客観的で誰にでも確認できる根拠」とともに「具体的に」論じればいいんだよ
出雲で、各地の土器が出ているのは、いくらでも文献で確認できるだろ
出雲の弥生遺跡からは外来の搬入土器が多く出ており、倭国内の人の移動を
伴う交流の結節点であったことが、考古学的出土遺物からも見て取れる
出雲の山持遺跡からは北部九州系の土器とともに、半島の勒島系土器や楽浪土器も出ている
まあ、根拠なしでいろいろ言い張っても無駄だってこと
福岡を通過せずに、直接に出雲から半島に渡るルートがあったことを証明してね。
>>822 >福岡を通過せずに、直接に出雲から半島に渡るルートがあったことを証明してね。
福岡を通っていいんだよ
お友達の一大率に挨拶して通ればいいんだから
韓国政府が宣伝していた邪馬台国畿内説が、あっけなく、破綻してしまった、、、
>>799 >会稽東治・・しか反論できない
え?
畿内説の言ってること、なんにも聞いてないの?
本当に人工地震だと言っているんだよw
なぜだと思う
ちなみに家は『松傾』?
こういう名前なんだけど・・・というか『松傾』
本人の家なのかな
>>814 >畿内説は年代感がめちゃくちゃ
九州説はそうやって罵るだけだからダメなんだよ
「論」は無いの?
韓国コピペ野郎はもう谷本計算破綻晒しコピペ張らないのか?
一杯張ってもいいんだぞ?
一人一説九州説は牧畜民族だから
人とコミュニケーションをとるのに慣れてないんじゃないかな
出雲は辰韓・新羅と直接行き来もしてたでしょ。
互いに海岸線が長大なので、だいたいの方角を間違えなければ、ひたすらの回漕・帆走で相手の国のどこかに辿り着けるからね。
羊や馬と一緒に暮らすうち
頭の出来もそれぐらいになってしまったんだな
いや羊や馬の方がまだ賢いか
>>799 >私的には 中国から見て 日の昇る方向=東ぐらいで良いと思う
会稽東治之東が?
じゃ、なんで会稽東治って特定の地名出してんの?
支離滅裂でしょ九州説
この倭人伝の記事を無かったことにしたいだけでしょ
見え見えデス
九州説アウトですよ
対馬海峡は毎日上陸して休めるけど、それ以外のルートは日夜漕ぎ続けないといけないから、無理っぽい。
ハングル表記のポリタンクが大量に漂着したね
山陰地方を中心に北海道から山口県にかけて6千個以上が確認された
機織、七夕関係
wikiでも良いから読んでみて、
橋が架かった、完成したので〜、
みたいな話も載っていたり
なぜ詳しいんだ?となるでしょ?
・・・ホンモノの家だからなのかな、
老婆と言っているけど『松傾』の嫁だしな〜。
儒教である九州説は朝鮮人儒教の
およそ人間のものとは思えない破滅的な思考形態を
晒し上げにするためだけに利用されるサンプル
家には専門的な本や書も無いし、
老婆も読んでいない?読んでいなかったと思う、
むかーし住んでいた家には・・・・・・・・?
倫理性のない九州説は畜生
いや倫理性を憎みそれを破壊しようとすらするから畜生以下
福岡の地理的優位性を崩せるわけがない。
大陸との交渉も資源も人材も、全て九州北部が卓越していた。
もちろん、王都はその名も伊都だよ。
ただの事実の指摘だけど
畿内説は罵倒なんかしない
九州説みたくな
>>647 年代の都合が悪いから崩落にしてるのでしょ?
そもそも主体部から出土しているのに、崩落後だからと後の時代にした例はあるのか?
当然埋葬時に置かれた可能性もあるのに、なぜ除外するのか?
そして、周溝の下層からも布留0が出ている
下限は布留0の時期なのでは?
ノカツギの件も同じ
畿内では後の時代にある形の物
いろいろと怪しいのだよ
鉄が溶けると同じ匂いがする…
本当にこんな嘘つきまくるだけつきまくって罪悪感もないとか
九州説はとんでもねえな
比恵那珂博多は糸島より畿内寄りだから
伊都國には王はいるけど九州北部の王都ではない
>>845 >そして、周溝の下層からも布留0が出ている
ソースは?
李氏朝鮮で人が動物以下に扱われる環境で
まともな遺伝子が淘汰されてしまった結果だろう
鮮人は倫理で成り立つ世の中に徹底して合わない存在
>>765 畿内X様式はどこでいつ出てきてるの?
ソースが無いのだけど
>>845 >ノカツギの件も同じ
>畿内では後の時代にある形の物
それ、誰の説明?
ちゃんとした研究では黒塚や浦間茶臼山より前の形と編年されてるけど?
428
>>849 >後漢書はトヨの使者が来た十年後くらいに書かれてるから
信憑性はわりと高いよね<
トヨなんて、変な名前を出したこの男は、始めから少しおかしい人種なんだろうが、」
後漢書も、「自己解釈で前史の書き換え」を実行しているから、半分×書。
多々良川河口の多々良込田遺跡が2c後半に出現し
畿内X様式土器群が目立つ
>>843 >福岡の地理的優位性を崩せるわけがない。
>大陸との交渉も資源も人材も、全て九州北部が卓越していた。
相変わらず何の根拠もなく、妄想を書き込むだけだな
大陸に近くても単に通過点になるだけで、特に優位性の源泉にはならない
九州には特に資源もないだろ? 弥生時代には丹もないし
人材に関しては何を言ってるんだかとしか言いようがない
魏志倭人伝にも記紀にも固有名詞で出てくる九州の人物なんてほとんどいないじゃないかw
>もちろん、王都はその名も伊都だよ。
なんだ、糸クズかw
伊都国と邪馬台国は別の国っていう当たり前の気とを認められずに、
ご都合解釈、捏造、誤読を積み重ねる、クズとしか言いようがない一派だ
>>832 笑えるw けど畿内派はみんなそう思ってるよね、大昔から
>>850 >畿内?様式はどこでいつ出てきてるの?
>ソースが無いのだけど
何度貼らせれば気が済むんだ?
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf 布留式甕になる前から、畿内第X様式、庄内式、布留傾向甕、布留式甕の順できっちり九州から出てるよ
畿内の胎土で作られた本当の意味の搬入土器、正確に畿内の製作技法で九州の胎土で作られた土器、畿内の様式に倣っているがある意味適当な畿内系模倣土器、のそれぞれが確認できるそうだ
>>845 >当然埋葬時に置かれた可能性もあるのに、なぜ除外するのか?
主体部に小枝が置かれた例や、小枝を埋葬時に使う理由があったら教えてくれ
まあその前に、外れ値は除くって言うのは普通の処理法だよ
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は之(一大率)を畏れ憚っている。
(一大率は)伊都国で(女王国から北の諸国を)常に治めていた。
(その様子は)魏で(皇帝が)刺史(を州に派遣し検察させて洛陽で治めているの)と同じようだ」の意味となる。
女王卑弥呼が一大率を任命して治めさせているのは自女王國以北(女王国を含む)の対馬海峡の国々である。
女王国が伊都よりずっと東の畿内にあったら、一大率が支配していたのは畿内とその北である若狭湾沿岸になってしまうが、伊都に置かれていたという記述と齟齬を生じる。
つまり女王国は伊都国を含まなくてはいけない。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国を含むことを示している。
倭に近い文化を持っていた百済には、大率や徳率などの中央官僚の官職があった。
邪馬台国では中央官僚は大率一つだけだったので一大率と魏志倭人伝に書かれたわけだ。
都から対馬海峡の国々を検察に出かける様子が、刺史のようだとされたのだろう。
「刺史」・・・各地方を治める監察官
「大率」・・・百済などにあった高級官僚の役職
428
>>865 >後漢代に倭から2回朝貢に来ていて、その時に倭国まで一万里っていう<
それなら、漢代の倭からの朝貢使節も、短里を使って計測した、という事になってしまうな。
>>854 >九州には特に資源もないだろ? 弥生時代には丹もないし
笑止千万
>魏志倭人伝にも記紀にも固有名詞で出てくる九州の人物なんてほとんどいないじゃないかw
魏志倭人伝に出てくる名前は全て九州の名前だろうね。
同時代のことを記した記紀と違いすぎる。
卑奴母離、耳垂くらいか。
どちらも記紀の中でも九州の名前であることが明らかだけど。
428
>>874 >後漢書から見るに倭の極南界隈が1万2千里とされているのは
後漢でそういう伝承が作られた可能性が高い <
何だ?、類スレ主も、「短里」説に転向するんかい?。
>>688 >「冢≠前方後円墳」であるから…
いつまでも同じ表現を繰り返しているから、うっとうしい。
冢の原義は、(かぶせる+しめてかためる)の意で、ここから(土を大きく盛った墓)を意味するようになったそうだ。
古代中国人が卑弥呼の墓に対して冢の字を用いているのだから、卑弥呼の墓は大きく土を盛って造った墓だと言っているもの。
円墳も方墳も前方後円墳も大きく土を盛って造った墓であるから、前方後円墳も冢なのだよ。
いつまでも同じ表現するな。
うっとうしい。
428
>>876 しかし自演が多いよな、大和とか阿波とか、
バレバレなのに
九州に丹山が無いのは倭国が九州以外にも広がってるという事だから倭国の奥深くにある邪馬台国は九州では無いという事だろう
428
>>886 「南→東」などの嘘吐き詐欺の大和説は
そろそろ本格的に終いだな
何から何まで捏造説だから当たり前だけど
428
>>887 大和説は滅亡を恥じ入るな
それよりさんざんやらかてきた「南→東」などの、
嘘吐き騙しの詐欺捏造を恥じ入ろ
>>893 >距離も方位も伝承上のものに邪馬台国を当てはめたもので
どちらも邪馬台国までの道のりを表したものではない<
邪馬台国なんて、存在もしない嘘つき詐欺文言であるし、
「余」の有無で書き分けてあるから、実地の計測があった。
>>821の補足
出雲の弥生遺跡からは外来の搬入土器が多く出ており、倭国内の人の移動を
伴う交流の結節点であったことが、考古学的出土遺物からも見て取れる
出雲の山持遺跡からは北部九州系の土器とともに、半島の勒島系土器や楽浪土器も出ている
論文ではないが、ソースとして山持遺跡の紹介パンフのpdfのURL貼っておくよ
http://www.pref.shimane.lg.jp/life/bunka/bunkazai/tayori/kankoubutu/hakkutupanhu.data/1-P1-11.pdf 半島に置かれた楽浪郡、帯方郡の漢人、魏人が出雲まで来ていないと考えるのは難しいし、
来ていれば当然に九州よりも大きな墳丘墓を作れる出雲の首長の羽振りのよさも分かる訳だ
そうした倭国内での大国である出雲を経由することが、「魏使」の立場(倭国の情勢を調べて
報告する)からすれば、北部九州から大和へ向かうのに日本海経路で出雲を経由する方が自然
>>894 何かを自信満々に言い出して、具体論に入った瞬間に」、
「南≠東」などに拠って否定されて
しばらくグダグダとやっぱり「大和説の言い分が正しい」と、
詭弁を展開しようとするけれど
ウソにウソを重ねるだけになって、そのネタが使えなくなる
大和説はその繰り返しだ
428
>>895 「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説の言う事は、
おおよそ全てにおいて嘘
本当の事がなに一つないのが凄い
>>868 >半島に置かれた楽浪郡、帯方郡の漢人、魏人が出雲まで来ていないと考えるのは難しいし、
証拠を見つけてから書かないと、ただの妄想だよ。
福岡が王都なら、そこからわざわざ脚を伸ばす必要はない。
福岡ですら、魏の役人にとっては僻地である帯方郡からさらに地の果ての一万二千里の彼方の東夷の地なのだから。
>>868 >そうした倭国内での大国である出雲を経由することが、「魏使」の立場(倭国の情勢を調べて
出雲は卑弥呼より前の時代に没落しているよ。
出雲が卓越していたのはせいぜい1世紀まで。
>>872 >出雲が卓越していたのはせいぜい1世紀まで。
根拠を具体的に示してくれないか?
これを、その都度書かれる時点で、書き込みを続けているやつの知能程度がバレてる
西谷墳墓群の最盛期は2世紀末から3世紀初頭
西暦200年前後の数十年間に、3号→2号→4号→9号の順番で造られている
「せいぜい1世紀まで」とかいうのは、何の根拠もない大ウソだよ!w
>>871 >証拠を見つけてから書かないと、ただの妄想だよ。
>>821に書いてあるだろ
「出雲の山持遺跡からは北部九州系の土器とともに、半島の勒島系土器や楽浪土器も出ている」って
半島人が出雲まで来ているのは考古学的遺物から直接示されている
纒向と比べると小さいが
妻木晩田遺跡は172ヘクタール、1〜3世紀後半までは続く
>>821 >福岡が王都なら、そこからわざわざ脚を伸ばす必要はない。
福岡が王都じゃないから、北部九州から水行20+10日、陸行1月かけて、
王の都の邪馬台国まで行くんだよ
この明確な記述をなんとか誤読する方法をこねくり回すのが、
九州説の行程パズルなんだよなww
でもそれも軒並み否定されて、もう書くことも残ってないだろw
短里なんてないし、
萬二千里は伝説の数字を引っ張ってきただけで倭国内の特定地点を示さないし、
里程と日程の二重表記はないし、
水行の起点が帯方郡というのも通らない
残念でしたw
>>851 横レスだが
>箟被(のかつぎ)つきの銅鏃が発見されたことにより、発掘当初から、ホケノ山古墳は新しいのではないかと見る専門家もいて問題になっていた。
>これも、ホケノ山古墳の築造を布留1式期の4世紀と見れば説明がつく。
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku280.htm >>860 >笑止千万
根拠一つ書けない能なし
弥生時代には九州では丹・水銀鉱山が一つも見つかっていない
気多大社の謂れは興味深い。
孝元天皇の時代(台与の頃かな)オオナムチが【化鳥、大蛇】を退治して【海路が開けた】とある
倭国大乱の余波で日本海航路は安全が担保できない状況だったんだろう
四隅突出墳丘墓の分布
広島→岡山、島根、鳥取→石川、富山
舞鶴マイヅル、敦賀ツルガに無いのは興味深い
更に気多大菩薩は、孝元天皇の時代、従者を引き連れて渡来した異国の王子とある。 新羅の王子だろう。
オオナムチは異国の勢力の浸入を手引きしてまで、在地の勢力を討とうとした。
敦賀湾〜伊吹山の勢力は義に厚く最後までヤマト政権に抗ったんだろう。日本書紀にある伊吹山の荒ぶる神。
伊吹山は和歌に於いて一途な思いの代名詞
伊吹山にはヤマタノオロチの神霊が眠ると言われている。
伊吹山の麓の稲部遺跡、貴重な鉄が放置されている。
風の宮の神、級長津彦命 級長戸辺命
しなは息が長いという意味。
息が長い、吹子のことだろう。鉄。ヤマタノオロチ。
>>882 箟被つき銅鏃なんか弥生時代からある
過去レス読め
>何か知らんが同じ事の繰り返しだなあ。
>いずれにしても、「南≠東」や「冢≠前方後円墳」などに拠って、大和説は×。
☝
これは畿内説の課題である
会稽東治・・しか反論できない 畿内説に限らず各説会稽東治に疑問を持ってるのは確か
私的には 中国から見て 日の昇る方向=東ぐらいで良いと思う
沖縄とか台湾なら当時中國と国交がなかったことになるが遺物が立証している
纏向の掘立柱建物は
まず、箸墓を含め石塚古墳、矢塚古墳、勝山古墳。、東田大塚古墳、ホケノ山古墳
および天皇陵の埋葬者と關係あると考えるのが学者の常道だが
いきなり、卑弥呼の居館は無いだろう
>>884 それ言い出したら平原で出てる耳璫や瑪瑙の中国や半島との比較はできないぞ
>>890 考古学での年代推定はある形式のものが他の遺跡で
どの時期に出土しているかというのも参考にされる
箟被つき銅鏃も他の遺跡で3c中ごろには出ていなかったから
当初新しいんじゃないかという意見があったんだよ
お前はただ大和の出土物にだけケチをつけてるだけなんだよ
>>891 >お前はただ大和の出土物にだけケチをつけてるだけなんだよ
大和との繋がりが不明なのをごまかすために、そうやって中傷してるw
>>892 じゃお前が比定している卑弥呼の墓を提示してみ
>>894 おそらくお前は呼子詐欺の九州ならどこでもいいんじゃない説だろ
候補地も見つかってないのにただ畿内説にケチだけつけたがる
>>895 ハズレ
畿内説の根拠の一つを論破ということですね
今日は気分良く寝れます
>>896 無知のくせに恨だけで古代史に参加し、自説の候補地すらないのに
畿内説スレにまで来て、無知故のケチをつけてるだけ
箸墓の後円部が『直径でピッタリ100歩』だとか、『殉葬する者奴婢百余人』と言うのは、
モモソヒメの『百襲』と何らかの関係があって、ある種の呪術的意味を持っているんじゃないかね?
>>897 論破された負け犬の捨て台詞カッコ悪いですw
アンカーの後、1行空けが特徴と覚えておきます
負け犬クン
>>899 「石野博信氏は、ホケノ山古墳から箟被(のかつぎ)のついた銅鏃が出土したことを述べている。
このタイプの銅鏃は比較的新しい時代の物で、前期古墳の後半で布留T式以降と考えられている。」
もともとホケノと繋がる古墳での出土が比較的新しい時代の物とかいう話じゃないんだよ
候補なし妬み爺さん
一体いつ黒塚や浦間茶臼山古墳が前期古墳の後半になったんだ?
また九州説は変なガセネタ流してるのか
>>901 「このタイプの銅鏃は比較的新しい時代の物で、前期古墳の後半で布留T式以降と考えられている。」
と言ってるのは安本で、べつに考古学者じゃないような
つか、学者ほとんど古代天皇の実在とか信じてないから
モデルな人いたかもねー、くらい
安物リライトは原文と180度逆のことあるから要注意な
100年も200年も生きるというのはあきらかにおかしいものね。歴年考証が
間違っていないと仮定すれば、どうしても実在そのものを疑わざるをえなくなる。
直感的には中国の三皇五帝とおなじで神話や信仰の存在を実在したものと
して記述したとみるべきなんだろう。とはいえ、やはりその仮託された神話の
存在であるべき古代天皇が、あまりにも具体的な事歴と思われる記述をとも
なっていることがあるものだから、これが困るんだよね。
南≠東の議論が繰り返されているけれども、きほん南は南であって東ではないと
よむのが正しいよ。後世の朝鮮人の記録に対馬では南=東と読み間違えがあると
いうことは根拠にならない。その人物が個人的に間違えたか、1000年以上も経った
まったく別の時代に、日本と朝鮮という、1000年前とはまったくことなる政治状況の
外交防衛上の結節点に置かれた対馬の特殊事情をこそ考慮すべきであって、
それが1000年間ずっと変わらず対馬では南=東であった、などと解釈することは出来ない。
古伝承がどう改竄されて今の形になったかも結構研究進んでるテーマなんで、九州説の好きな当てはめゴッコは時代遅れのものばかりだね
>>911 >・・・きほん南は南であって東ではないと
>よむのが正しいよ。・・・
また
思考停止ですか
もっとも誠実かつ科学的に解釈するのであれば、当時は地球が球体であるということは
知られておらず、一方で天体や星により方位を計測する技術は確立されていたことから
なんらかの測量誤差の積み重ねにより、魏の都からみた東が南となってしまうという
その誤差を説明するために、方位についての記述がことなってしまったと解する説だろう。
ただこれについても本当は東に進んでいるのに「南に進んだ」と記述しなければいけない
理由にはならないだろう(むしろ北に進んだと書かないといけないはず)。
>>913 文書をふつうによめば沖縄になるんだから、南は東だ、みたいな
トチ狂ったことを言ってはいけないよ。そんなもの何の根拠もない、それこそ
自説に都合よく読み替えただけの話しにすぎない。邪馬台国沖縄説の最大の
弱点は水行10日ののち、陸行1か月もかかるという点にあって、これは
最大の弱点。ただし方位と距離については邪馬台国は沖縄と言わざるを得ない。
畿内説がどんなに方位間違いの根拠を挙げても
サラリ無視して見ざる聞かざる
理由ひとつ無しに
南は正しいと
結論だけ
言う
それが九州説
@距離と方位については、とくに朝鮮半島から先のものについては邪馬台国の使者が
魏に対して欺罔しなければならない具体的な理由があって一貫して虚偽を述べていたと
仮定するならば、「邪馬台国はどこにあったか」という議論自体が無意味であって、その
記述からではなく、当時の日本列島の首邑の規模のみを比較して好き勝手に論じればよい。
これは結論を出すことを放棄した説になる。
A仮に魏志倭人伝の記述が正確かつ誠実に記述されており、邪馬台国の使者の証言
のみでなく、当時の魏の使者や技術者の測量により裏付けられたものであったと仮定
すれば、当時の測量方法に構造的な欠陥を指摘するべきであって、方位測量に関する
欠陥の「一貫性」が説明できなければいけない。
Bそのような技術的測量ではなく、倭人使者の証言だけでなく多くの文献や周辺の聞き取り
から裏付けをとったにすぎないようなものであれば、やはり@とおなじくその記述には信頼性が
担保されず、やはり「邪馬台国がどこか」などという議論をおこなう前提の資料としての信頼性は
無いものとして棄却するしかない。この場合もやはり@とおなじく邪馬台国がどこにあるかという
結論は出ないのだから、結論を出すことを放棄した説になる。
畿内説の最大の欠陥は
・畿内には3世紀にすでに巨大な集落があったことは遺跡調査から明らかである。
・しかしそこは魏志倭人伝に記載されたところの「邪馬台国」ではない。
で終わってしまうことなんだよ。なぜ魏志倭人伝にかかれた場所が
畿内にある大集落でなければならないのか。そこに論理的な飛躍がある。
ふつうによめば沖縄であって、北魏に使者をおくったのは沖縄の小さな
原始部族であって、畿内に成立しつつあった大勢力からのそれではない。
>>917 >結論は出ないのだから、結論を出すことを放棄した説になる。
結論が出ないという根拠がぜーんぜん無い
ただの思考停止宣言だね
>>918 >・しかしそこは魏志倭人伝に記載されたところの「邪馬台国」ではない。
>で終わってしまうことなんだよ。
そんなこと、理由も言わずに言い張られてもな
まさに思考停止
九州説じたいは俺は弱いとおもってる。それこそ北九州には巨大な集落が
いくらもあり、おそらく日本でもっとも文明開化が進んだ場所であったはずだ。
しかしそこは魏志倭人伝がいうところの邪馬台国ではない。たとえいちばん
人口が多くていちばん豊かな場所であったとしてもだ。
>>919 いいえ。史料を誠実にあつかうということです。誤記があるならその誤記に
一貫性をみなければいけない。つごうのよい箇所だけ謝りがあったと解してはいけない。
大和説は方位が決定的に合わない、沖縄説は最後の旅程が陸行1か月はかかりすぎだ。
これが1か日の誤記ならばまったく整合する。
>>922 >誤記があるならその誤記に
>一貫性をみなければいけない。つごうのよい箇所だけ謝りがあったと解してはいけない。
いけない理由は?
思い込みの強いひとは
言うこと言うこと
理由がなくて
困る
奈良県では太陽はどちらから昇るのかな
北極星はどこの方角に有るのかな
文書に一貫性がないという前提で解析をおこなうならばそれは科学ではない。
仮に冬至の日の出を東とするならば、それは真東よりは北に27度程度ずれた
場所から朝日は登ることになる。一方で夏至の日の出を東とするならば、それは
真東よりは北に27度近くも南から太陽が昇ることになる。よって日の出の場所
から東を特定する方法は、きわめて危険な方位推定方法であるというのが
科学の通説。
文書に一貫性がないという前提で解析をおこなうならばそれは科学ではない。
仮に冬至の日の出を東とするならば、それは真東よりは南に27度程度ずれた
場所から朝日は登ることになる。一方で夏至の日の出を東とするならば、それは
真東よりは北に27度近くも南から太陽が昇ることになる。よって日の出の場所
から東を特定する方法は、きわめて危険な方位推定方法であるというのが
科学の通説。
(間違いがあったので修正。二行目「北→南」
なんか誤字だらけだから、もうどうでもいいや。どうせ誰も読んでないだろう ⊂⌒~⊃。Д。)⊃
>>928 >文書に一貫性がないという前提で解析をおこなうならばそれは科学ではない。
という理由は?
>>928 >よって日の出の場所
>から東を特定する方法は、きわめて危険な方位推定方法であるというのが
>科学の通説。
なんてことはなくて
季節補正ができない程度のスキルの者が観察した結果なら
信頼性が低い
ってだけ
>>928 >文書に一貫性がないという前提で解析をおこなうならばそれは科学ではない。
そういう決め付けが科学的でない
文書で一貫性がない箇所を抽出して錯誤や改変の痕跡を探り当てるのが科学的分析手法だから
ヨコからスマン
箸墓は女性の墓と確定したの?
その根拠は?
>>926 魏使は倭国に行くたびに方位を間違えたのかなww
「畿内説が支持されないことが
よくわかるスレですね」
三輪山伝説を持ち出せば
モモソ=卑弥呼となるがモモソは王では無い
>>940 誰も親魏倭王の金印とは言ってないだろ
漢倭奴国王金印の事だろ
すぐに捏造という単語が出るあたり
九州説は日常的に捏造をやらかしてる事が丸わかりなんだけど
428
>>902 >韓国は10万キロ平米で方4000里なので
方5000里の倭国は3万7000平米の九州には収まらないから畿内が邪馬台国なのだろうな<
畿内も邪馬台国も存在しないインチキ文言だし、
「方5000里」というのもインチキだな。
昨日なんの根拠もなく論破宣言してた
>>896も笑えたが、九州説はこんな程度のタマしかおらんのだな
境遇を察して泣いてやるべきか
428
>>903 >邪馬台国の里程は明確に九州を通り過ぎるよ<
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、
この大和説男も、・・・・詐欺師だな。
出雲出土品
土器: 豊富 渡来土器、九州土器、高志土器を含め、大量の土器が出土。
青銅器: 豊富 弥生時代後期では、最も多くの青銅器が出土。主に装飾用。
鉄器: 豊富 朝鮮半島で製作された鉄剣、鉄器具など多数出土。
装飾品: 豊富 緑色凝灰岩や瑪瑙(メノウ)等を素材とした勾玉類が多数出土。
428
>>907 >周旋五千里だっけ
1里75mで正方形と仮定すると1辺100kmにも満たないから邪馬台国南九州説は消えたか<
「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」は、
倭國や女王國の参問ではなく、倭種も含む倭地の参問であり、
狗邪韓國から侏寿國付近までの(海上部分を含まず)陸上部分の見聞地の事になり、
魏志の記載とほぼピッタリなの。
畿内説は銭儲け
纏向遺跡などに巨額の国費が投じられ、毎年予算編成の時期になると”世紀の大発見”が発表される。
櫻井市は、商売上手。
428
>>908 >「倭在韓東南大海中」だから朝鮮半島南岸には倭はない<
後漢書は半分×書であり、根拠にならず、
狗邪韓國は、倭と書かれている。
>邪馬臺國と三十許國は極南界の倭奴國より北にある<
「極南界也」は「南界を極めるや」と読み、裸國と黒歯國を極めた事。
>つまり本州に拡がるのが倭<
侏儒國付近まで行った話。
428
>>910 >狗邪韓国には戸数が書いてないから倭国として扱われて無さそうだがそうすると国の数が29国になって1国足りないんだよな <
戸数記載の最小記載は(有効数字桁の)千戸であるので、
魏使らの概算では、500戸以下であったんだろうから。
>>950
>装飾品: 豊富 緑色凝灰岩や瑪瑙(メノウ)等を素材とした勾玉類が多数出土。
「緑色凝灰岩」 阿波の青石の一種だよ。 蛇紋岩製の勾玉も出土している。 それももちろん、倭国(阿波)産。
また、内磨き(内側へ湾曲部)の砥石に阿波の吉野川産の紅蓮石を使用している @阿波 428
>>916 >おいおい
10000里程で北部九州まで着いてるのだろ
あと2000里もあるのだから
北部九州は通り過ぎた<
對海國と一大國の国内移動が書かれており、
不彌國で萬二千余里はほぼ終わっているから、
邪馬壹國女王之所都は、北部九州を通り過ぎない。
428
>>926 >倭国乱で北部九州が決定的に没落して
歴年無主、つまり王がどこにもいない状態になって、そこから畿内を中心に
新たな秩序が作られて、卑弥呼が倭王に共立されたんだよ
北部九州の人間が移動したのでも、イニシアチブを取っての権力移動でもない <
卑弥呼や壹與共立の後は、九州倭国は、中国に遣使を欠かさず、順調に発展しており、
大和は、九州倭国の「東征毛人五十五国」の中の一国。
>これが本来の記述だろうし、この位置の方がいいたいことが理解しやすい <
後漢書は、半分×書であり、魏志の記載と合わない部分は採用出来ないし、
勿論「南→東」などの嘘吐き騙しの類スレ主も、全く信用出来ない。
>>921 >しかしそこは魏志倭人伝がいうところの邪馬台国ではない。たとえいちばん
>人口が多くていちばん豊かな場所であったとしてもだ。
宗教ですか?
もっと理性的になってください。
帯方郡から見たら、九州北部は概ね南だよ。
邪馬台国は帯方郡から一万二千里のところであるが、九州北部に上陸した時点で一万里なので、東方向への移動はあってもわずかだ。
>>910 >100年も200年も生きるというのはあきらかにおかしいものね。歴年考証が
>間違っていないと仮定すれば、どうしても実在そのものを疑わざるをえなくなる。
私は個人的には、欠史八代も含め固有名詞で個人名が伝承として伝わっていたのだと考えている
「だから、実在」という訳にはいかないが、年代の引き延ばしのために架空の天皇を造作するなら
もっと人数を増やした方がむしろ楽に創作できる
その意味では、それぞれの大王は「(伝承上は)居た」と考えているが、暦が伝わる前は
名前と宝算と一部の事跡しか伝わってなくて、前大王との関係なども明確ではなかったので
全部父子直系相続で無理やりに繋いだのだろう
>>886 >纏向の掘立柱建物は
>および天皇陵の埋葬者と關係あると考えるのが学者の常道だが
同意する。
記紀に纒向に宮があったことは明記してあるのだから、それを見つけた!なら誰も文句をつけなかったのに。
なぜか邪馬台国だ卑弥呼だとなってしまったから紛糾してしまう。
畿内論者はなぜか魏志倭人伝も記紀も信用しないので、どの遺跡(およびその主)も名無しになってしまって、歴史が暗黒に閉ざされてしまう。
畿内説は、ヤマト王権と邪馬台国を混同してしまっただけだよね。
素直に諦めて、歴史の真実を明らかにしようよ。
畿内説では歴史の真実にたどり着けないよ。
畿内は黒歯国だね。
お歯黒した人骨が出土している。
>>911 >後世の朝鮮人の記録に対馬では南=東と読み間違えがあると
>いうことは根拠にならない。
文脈の読めない人だな
その例は、「方角を間違うなどあり得ない」に対する反例の1つだ
同じ時代に同じ人が書いた同じ史書、3世紀の陳寿の書いた魏志倭人伝でも
末盧国から伊都国の間の方角が90度間違っている
これを正しいと結論ありきで言い張って、呼子が末盧国だとか言い出すのは噴飯物だ
>>915 >陸行1か月もかかるという点にあって、これは
>最大の弱点。ただし方位と距離については邪馬台国は沖縄と言わざるを得ない。
最大の弱点wじゃなくて、沖縄は倭国の本土ではあり得ない
七万戸を養う平地も遺跡もない
「方位と距離では」というのは、他の情報を一切合切無視した、
チェリーピッキングの変種ってだけ
無意味な議論
>>963
>記紀に纒向に宮があったことは明記してあるのだから
うそはイカンぜよ。 @阿波 >>922 >誤記があるならその誤記に
>一貫性をみなければいけない。
これも
>>922の勝手ルールだよ、いい加減にしなよ
必要なのは、史料の限界を認めてすべて正しいなどと考えずに、
考古学的情報も含め各項目の信頼性を一つ一つ総合的に考えていくことだよ
記述の間違いはいろんな理由の錯誤から生じるのであり、錯誤にも一貫性のあるものから
表面的な一ヶ所だけの錯誤も当然にあり得る
>>922は一貫して脳内妄想を根拠にする人で、知的能力、特に論理力の足りない人だな
>>965 >末盧国から伊都国の間の方角が90度間違っている
末盧国の比定が違うんだろう。
>>927 >文書に一貫性がないという前提で解析をおこなうならばそれは科学ではない。
それが、すり替えだっての!
錯誤に一貫性があると考える理由はない
数学の答案で一ヶ所計算間違いがあったときに、どの計算間違いが答案という文書中で
一貫してすべて同じ計算ミスをし続けている前提で考えないといけない、という主張に
合理的な妥当性があると思うか?
>>951 >倭國や女王國の参問ではなく、倭種も含む倭地の参問であり、
>狗邪韓國から侏寿國付近までの(海上部分を含まず)陸上部分の見聞地の事になり、
参問倭地は、倭地を訪問した、という意味じゃないぞ
倭地について、いろいろ調べると、という意味だ
次回のスレッドが、作製されているのではないのかな。。。
邪馬台国畿内説 Part431
http://2chb.net/r/history/1551222209/l50 次回のスレッドが、作製されているのではないのかな。。。
邪馬台国畿内説 Part431
http://2chb.net/r/history/1551222209/l50 次回のスレッドが、作製されているのではないのかな。。。
邪馬台国畿内説 Part431
http://2chb.net/r/history/1551222209/l50 >>967 >うそはイカンぜよ。
垂仁天皇 纒向珠城宮
景行天皇 纒向日代宮
泡は無知で無恥
次回のスレッドが、作製されているのではないのかな。。。
邪馬台国畿内説 Part431
http://2chb.net/r/history/1551222209/l50 >>969 >末盧国の比定が違うんだろう。
唐津平野以上に妥当な場所はない
唐津平野の根拠を越える根拠が提示できない以上、他の比定地は駄論
末盧国というのは、長崎県松浦市の地下に埋まっているのではないのかな。。。
邪馬台国畿内説を宣伝するために、韓国政府が、纏向遺蹟を天皇家のものではないことに、しようとしているな。。。
その天皇家(日本の?)というのは何なんだ?
他人の家の真似ばかりしていると言ってる人たちがいたりw
>>975
>垂仁天皇 纒向珠城宮
>景行天皇 纒向日代宮
それが一体どうしたと??? @阿波 ちなみに家は『松傾』・・・、
このような名前の家wあの写真の家
>>977
>唐津平野以上に妥当な場所はない
ヤケクソはイカンぜよ。 @阿波 邪馬台国畿内説を宣伝するために、韓国政府に雇用されている韓国人が、質問と意見を発表したな。。。
980日本@名無史さん2019/02/27(水) 08:22:35.69
その天皇家(日本の?)というのは何なんだ?
他人の家の真似ばかりしていると言ってる人たちがいたりw
邪馬台国畿内説を宣伝するために、韓国政府が、纏向遺蹟を天皇家のものではないことに、しようとしているが、駄論ではないのかな。。。
低脳には何を言っても、わからないんだろうけどw
家は『松傾』?
こういう名前の家
>>977 >唐津平野以上に妥当な場所はない
福岡に行くには不便。
魏志倭人伝と方角も違う。
おかしいだろ。
ネット検索していたりすると、
何かの専門家(機織関係?)のような人がいるでしょ、
それとも専門家ではなく、シロートなのかな?
そういうサイトが出てこない?。
『松傾』
百済の人〜と書いてあるだけで、
実際は・・・中国(中華)の人だと言っていたり?
数年も前の話になるんだけど
陰謀スレというのがあるでしょ?
まさか・・・『セオリツヒメ』が何やら〜と言っている人がいたり、
あの子が・・・だったとはね〜とか。
『』内の人物だったの?
>>987 だから北東の福岡ではなく、
唐津から、南乍ら東乍らして進んだ、つまり東南へ行ったのだよ。
倭人伝に書いてある通りの方角だ、文句あっか。
428
>>928 史料事実や自然や人類の常識、という現実を見ろよ
現実は常に大和説の敵だな
妹がいるんだけど・・・5月15日生まれ、
芸能人とか、そういう家でもない
ホンモノなんだよ
みたいな事を言ってる人がいたり
どういう事だと思う
到る○○国の前には、○乍ら△乍らが入る。「到る」狗邪韓国がそうだ。
「到る」伊都国の前にも、○乍ら△乍らが入る。
この場合は、唐津平野から(南して東して)500里で伊都国に到ったという書き方だ。
調べてみた?
水神〜河童(河伯)・・・・みたいな事も書いてあったり、
セオリツヒメ?
428
>>931 >>楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。<
>何度ウソ、捏造を書いてもダメ! その国は「倭国」だ<
類スレ主は、何度ウソ捏造を書いてもダメ!。
その国は「其大倭王居邪馬臺國」だ。
サザエさんの話?ではないのかな、
母親だと言う人だけが、なぜか素足(裸足)に下駄。
蚕、機織をしていたりとか、そういう話。
キュウリのような葉に、葱の華・・・〜写真とか。
『老婆談』
老婆も生まれていない頃の写真だと言っていたり、
あと、あの戦争が何やら〜とか、空爆?空軍?
『牛郎織女』?
老婆も生まれていない頃の写真だと言っていたり、
あと、あの戦争が何やら〜とか、空爆?空軍?
『牛郎織女』〜近代〜現在?
『松傾』?
何かの制服を着ているけど、
家は戦争などには行っていないと言っていたりw
軍人でもない?
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