11 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:25:35.56
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://2chb.net/r/history/1550979041/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 21 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:26:44.24
◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
31 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:27:07.96
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
41 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:27:34.08
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
51 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:28:00.49
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
61 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:28:24.77
◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
71 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:28:45.43
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
81 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:29:07.34
◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
91 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:29:28.99
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
101 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:29:56.83
◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
111 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:30:27.73
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 121 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:30:59.19
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。
131 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:31:22.37
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※検証)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,57も参照)
(本項 続く)
141 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:31:41.05
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。
上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
151 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:32:08.53
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
161 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:32:32.12
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
171 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:32:50.71
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
181 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:33:13.60
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。
191 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:33:36.48
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
201 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:33:58.15
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
211 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:34:18.45
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
221 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:34:40.06
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
231 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:35:02.36
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中国では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 241 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:35:23.76
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代)
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) 251 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:35:48.16
(承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
261 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:36:10.65
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
271 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:36:37.39
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。
281 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:36:56.28
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
291 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:37:16.39
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 301 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:37:37.74
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
311 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:37:57.71
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
321 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:38:20.41
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
331 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:38:40.19
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
341 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:39:02.88
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
351 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:39:22.99
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 361 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:39:43.54
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
371 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:40:06.22
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
381 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:40:24.36
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
391 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:40:43.31
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
401 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:41:06.95
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
411 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:41:30.59
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
421 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:41:52.00
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
431 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:42:12.36
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
441 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:42:34.25
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
451 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:42:53.46
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
461 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:43:14.44
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定
471 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:43:34.04
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 48日本@名無史さん2019/02/27(水) 09:43:45.28
梅
491 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:43:55.02
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
50日本@名無史さん2019/02/27(水) 09:43:58.48
梅
51日本@名無史さん2019/02/27(水) 09:44:14.30
梅
521 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:44:14.54
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上)
53日本@名無史さん2019/02/27(水) 09:44:28.42
梅
541 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:45:07.24
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
551 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:45:36.35
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
56日本@名無史さん2019/02/27(水) 09:45:37.35
428>>936
>畿内説では1里は魏晋里、約430メートル以外の記述はない、としているし
文献上も考古遺物(古尺の実物)からもそれ以外の里はない<
「尺定規」は、大きく変化していないし、「里歩系」の寸法とは関係がないもの。
>ただ、大陸中華の都合で誇張されている部分と、遠地だから不正確な部分があるだけ<
魏使らは「余」を使って書き分けているから、実際に計測したデータを持っていた。 571 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:45:57.05
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
581 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:46:16.21
(承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
591 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:46:38.53
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 601 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:47:04.92
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半と考えられる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
61日本@名無史さん2019/02/27(水) 09:47:22.53
梅
621 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:47:26.93
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀)
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。 631 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:47:50.83
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。 641 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:48:13.42
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
651 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:48:33.96
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。
661 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:48:56.34
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
671 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:49:21.45
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
681 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:49:41.88
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。
691 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:50:02.68
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。
701 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:50:35.33
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。 711 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:51:03.08
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰) 721 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:51:25.72
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周囲代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
また八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比にするための捏造であった可能性が高いといえよう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
731 ◆UiepmfCeDJqf 2019/02/27(水) 09:52:02.64
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 なし
74日本@名無史さん2019/02/27(水) 10:04:08.11
そんな事よりも、なぜ『倭猿』なんだと思う
人の家の真似、モノマネばかりしている
とか
75日本@名無史さん2019/02/27(水) 10:11:47.79
428>>941
九州説側は、常に反「論」して、根拠付きで説明・解説してるのに、
大和説は、単に一行、根拠も理由もなく「違うんだー」って書くだけww
最近はコピペしかしないし、そろそろ終わりかな 76日本@名無史さん2019/02/27(水) 10:15:54.65
428>>943
>>ただ、大陸中華の都合で誇張されている部分と、遠地だから不正確な部分があるだけ<
>どれくらい誇張されているんだ? それがたんりなんだよ。<
魏使らは「余」を使い分けているから実測しており、
魏志は誇張されていない。 77日本@名無史さん2019/02/27(水) 10:20:08.31
『牛郎織女』
なぜか老婆の話と同じ、
結婚したときも駆け落ちのようなものだよとか、
でも老婆の話ではない・・・もう少し前の代の話?
>しかし、幸福な生活は長く続かず、
>このことを王母娘娘が知ると、
>「天兵」(天にある軍隊)を遣わして
今で言うと空軍とか、そういう話でしょ?
78日本@名無史さん2019/02/27(水) 10:21:40.55
本当に・・・・『松傾』?
家は、こういう名前の家なんだけど
79日本@名無史さん2019/02/27(水) 10:21:41.88
428>>947
>>倭國乱の当事者と卑弥呼共立の当事者は同じなのだから<
>これに根拠があれば、九州説にも説得力が出るんだが、
これが一切根拠も論証もない「お花畑の脳内設定」でしかないからな<
当然、倭國亂の当事国が卑弥呼の共立をしたのだ。
人類の常識だ。 80日本@名無史さん2019/02/27(水) 10:33:41.16
説明できない事については人類の常識と言い切って逃亡を図るのは哀れ
81日本@名無史さん2019/02/27(水) 10:37:26.66
428>>951
>陳寿は倭国を周旋五千里の長大国と捉えている <
倭地参問だから、(倭国ではなく)倭種を含む倭地であり、
侏儒國までの参問で記載された陸路距離合計が五千里になっているから、
周旋五千里は、狗邪韓國から侏儒國付近までの陸路合計だよ。
>距離が分かっていればそれも一定の意味があるけれど、
旅程の最後は水行陸行の日数で書かれていて実距離は陳寿の手元にない<
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、
「旅程の最後は水行陸行の日数」は、郡〜邪馬壹國女王之所都の所要日数。 82日本@名無史さん2019/02/27(水) 10:40:39.31
428>>954
>倭国本土(本州、四国、九州)上陸まで、萬里
女王国まで萬二千里という設定で誇張されてるから、
実距離との対応も比例関係も縮尺もない<
「余」の有無での書き分けがあるから、魏使らの実測記録。 83日本@名無史さん2019/02/27(水) 10:41:37.21
何が凄い(不明)のか?という話
『中国神話』この辺り・・・。
84日本@名無史さん2019/02/27(水) 11:03:50.16
倭人伝の行程記事の、到る○○国の前には、○乍ら△乍らが入る。
「到る」狗邪韓国がその例だ。
そして本来なら、「到る」伊都国の前にも、○乍ら△乍らが入る。
この場合、唐津平野から(南して東して)500里で伊都国に「到る」、という書き方だ。
85日本@名無史さん2019/02/27(水) 11:17:42.77
428>>963
>九州倭國が5世紀まで続いてるわけあんめ。<
倭国は、中国では唐会要にまで「正北抵新羅」として、
北部九州に中心がある国だ、という認識だ。
>東征毛人五十五国の5世紀の政権は、河内・大和だよ。<
5世紀には、倭国は、まだ北部九州が中心の国だ。
>3世紀の倭人伝に、大和は倭種の国だと書いてあんだろ。 毛人国は、長野のアルプスの北東だんべ。<
大和は、阿毎氏の神武らの東征に拠っても、
まだ「倭人と出雲系毛人と蜘蛛族系毛人の混合状態であり、
3世紀後半の「東征毛人五十五國」に拠って、ほぼ倭人の支配地になった位だ。
>九州からアルプスの北東まで、遠征できんだろに。<
三道将軍らは行ったらしいが、
九州倭国の東征の主力は、
瀬戸内近畿東海から南関東への倭建命や倭武天皇の東征だ。 86日本@名無史さん2019/02/27(水) 11:22:33.18
428>>966
>その東治が東冶県あたりにあるだけのこと 九州説は死亡ずみ <
「陳寿の東治」≠「范曄の東冶」、であるだけの事。
大和説は死亡ずみ。 87日本@名無史さん2019/02/27(水) 11:32:41.42
九州説ってアンチ天皇の人が多いよな
朝鮮系か日本文化の非主流派(あぶれ者)なのが明らか
88日本@名無史さん2019/02/27(水) 11:34:25.16
428>>967
>>九州説が研究しなくても
畿内説の自滅で九州説の支持が高まる構図が最近の情勢だな<
>事実、九州説は研究などしていないな それで差がついた
邪馬台国が畿内にあったと中高生が学校で教わる日も近い<
事実、大和説は、「南→東」などの嘘つき騙しなどのように、
都合の悪い史料事実の否定曲解や隠蔽をして、世間の人々を騙そうとした。
それで、九州説と差が付いた。
そして、大和説に騙された3割の国民が、
国家権力やマスコミや学会教育界を支配しているから、
国民が、また戦前の万世一系八紘一宇の皇国史観戦争宣伝に騙されて、
近隣諸国と殺し合い戦争や核戦争に賛成し、
参加させられてしまう日が、非常に近い。 89日本@名無史さん2019/02/27(水) 11:36:18.92
五畿内説は、
内心、持論に不安を抱えていることを認識しているので、
必死に擁護カキコを続けているのだろう。
90日本@名無史さん2019/02/27(水) 11:37:22.14
>>87
九州説は低学歴なのが特徴
彼らはイデオロギー先にありきで歴史を作る
そのイデオロギーとは自分をいじめた日本社会に対する復習意識つまり恨の思想
高学歴の人は畿内説 91日本@名無史さん2019/02/27(水) 11:39:37.08
428>>970
>・1万2千里というのはすごく遠いという意味なんだよ
・水行30日と陸行1月を合わせても1万2千里なんだよ
・計算すると福州の東になるんだよ
>知能が低いと理解できないんだね<
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
自説の長里では、1万2千里では計算すると、赤道付近にまで行ってしまう、
という事が、知能が低いから理解できないんだよね。 92日本@名無史さん2019/02/27(水) 11:40:24.32
つまり、韓国政府が宣伝する邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね、、、
93日本@名無史さん2019/02/27(水) 11:44:33.31
428>>982
「南→東」などの嘘つき詐欺の大和説は、
都合の悪い史料事実の否定曲解や、隠蔽などのインチキで出来ている 94日本@名無史さん2019/02/27(水) 11:45:32.15
朝鮮人が推進しているから九州説などと感情で歴史を作っている時点でIQが低いのがよくわかる
低学歴で差別主義者
95日本@名無史さん2019/02/27(水) 11:46:58.21
別スレではチョンが九州説主張してたぞ?
96日本@名無史さん2019/02/27(水) 11:47:27.81
五畿内説は、内心、持論に不安を抱えていることを認識しているので、
一日中、必死に擁護カキコを続けているのだろう。
97日本@名無史さん2019/02/27(水) 11:51:20.23
>>94
テヨンのなりすまし
あいつらにかかると安倍総理すら韓国人にされる
右翼勢力を騙すための煙幕だよ
奴らの本音は大和が半島に領有権を持っていた過去の歴史を消し去りたいという事
半島を支配していたのが九州倭国なるものだったことにして日本の植民地支配の根拠を比定するのが目的 98日本@名無史さん2019/02/27(水) 12:09:41.99
50年前のテヨン「文明後進国の倭人が半島を支配していたなどあり得ない」
20年前のテヨン「前方後円墳が半島にあった?あれは韓国から日本に伝わった」
10年前のテヨン「前方後円墳は倭国発祥だった?倭国は九州倭国で大和朝廷ではない」
現在のテヨン「倭国が畿内だった?考古学者のねつ造に決まってるニダ!」← イマココ
99日本@名無史さん2019/02/27(水) 12:10:19.08
中華コンプレックス(負い目を感じているとか)か、
何かなんだろう
『松傾』
は本当は古代の中国の人だと書いてあるでしょ、
それで、日本というのは戦争に負けたの?
天津、国津・・・デタラメでしょ?
100日本@名無史さん2019/02/27(水) 12:14:10.80
日本の神話?
最後まで反抗していたのが、
アマツ何やら〜星?、機織り〜〜とかいう話とかw
101日本@名無史さん2019/02/27(水) 12:19:08.27
『アマツ星』
ググってみて
102日本@名無史さん2019/02/27(水) 12:21:12.93
誰が、どう考えても、デタラメだろう
103日本@名無史さん2019/02/27(水) 12:23:51.20
テンプレだけで70も行くのなんとかしろよ。
外部のwikiにでもまとめろって(*´ω`*)
104日本@名無史さん2019/02/27(水) 12:32:12.88
デタラメではない?・・・合致しているところもあるような
105日本@名無史さん2019/02/27(水) 12:33:10.37
>>90
>高学歴の人は畿内説
大学の事か
関関同立か 106日本@名無史さん2019/02/27(水) 12:36:32.00
428>>984
>万二千里の由来は、前漢のときに張騫が派遣された大月氏までの距離。 大月氏国までおよそ1万里。<
これは長里。
>後漢から魏の時代頃には、その1万里にさらに2千里を付加して、遠いところの代名詞とされた。
そもそも、張騫が大月氏へ派遣されたのは、前漢武帝が匈奴討伐のために大月氏と組んで挟撃しようとしたことによる。
魏の司馬イが、その漢武帝の戦略にちなんで、呉を牽制しようとしたことが邪馬台国厚遇の理由だろう。
邪馬台国までの1万2千里には、そのような大月氏との対比もあるのだよ〜。これ、歴史の太鼓判な。<
ダメだ。
礼記も淮南子も東方は「ほぼ短里」で書いているし、
漢書注の如淳も、司馬懿の思惑以前に、「帯方〜倭」を短里の万里と書いているから、
実態としては、「大月氏との対比」になっていないし、
「司馬懿の呉のへの牽制」にもなっていない。
つまり、魏使らは、きちんと計測して、「余」を使って記録し分けた。 107日本@名無史さん2019/02/27(水) 12:42:18.61
クソスレ
108日本@名無史さん2019/02/27(水) 12:45:35.14
日本の古代史を歪めているのは半島に倭国の勢力が及んでいたことを比定したがるテヨンの政治的介入
妄説を繰り返してテヨンが倭人に何もかも教えてやったと言い張っている
109日本@名無史さん2019/02/27(水) 12:49:41.75
また九州説が興奮してマルチで荒してるな
110日本@名無史さん2019/02/27(水) 13:18:53.62
ふつうに倭人伝よめば冒頭「倭は朝鮮の南と東にある」倭人在帶方東南大海之中であって、
これが全てだと思うんだがな。ちゃんと地理的に把握されてるじゃん。あとは「国」を現代の
意味で解釈してはならず、説文解字には国とは邦のことであり、大きなものを邦、小さなものを
国というとすら書いてある。ようはムラ程度の意味だ。であるから邪馬台国というのもせいぜい
やまと村といった意味で解するべきであって、朝鮮の南にひろがっている膨大な領域は倭であって
「やまと村」ではない。「やまと村」は卑弥呼の先祖の墓がある場所(女王之所都、なお都とは
祖先の墓のある場所)にすぎない。
卑弥呼の出身地は邪馬台国なのだろうが、卑弥呼が倭国をたばねている場所はかならずしも
邪馬台国村ではない、女王の居在地が邪馬台国村でなくてもよい。これだけの話しだろう。
111日本@名無史さん2019/02/27(水) 13:27:41.88
428>>996
「南→東」など、大和説はウソ付き詐欺をしてしてははダメよ
晩節を汚すなよ
大和説滅亡は時の流れ
逆らっても無駄 112日本@名無史さん2019/02/27(水) 13:33:53.03
「967日本@名無史さん2019/02/27(水) 08:00:45.86>>975
>963
>記紀に纒向に宮があったことは明記してあるのだから
うそはイカンぜよ。 @阿波」
↓
「>うそはイカンぜよ。
垂仁天皇 纒向珠城宮
景行天皇 纒向日代宮
泡は無知で無恥」
↓
「>975
>垂仁天皇 纒向珠城宮
>景行天皇 纒向日代宮
それが一体どうしたと??? @阿波」
纏向に、宮があるだろ?
泡は、無知で無恥 113日本@名無史さん2019/02/27(水) 13:34:08.56
劉邦の諱の「邦」を避諱して「国」が使われた
辰韓人は国を邦と呼ぶので秦人に似たところがあると書いている
114日本@名無史さん2019/02/27(水) 13:38:19.01
>>1
>箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
前方後円墳なら基本は一人で一基ということになる。
卑弥呼の両親や、記録にはないがいたであろう叔父さん叔母さんなどの親族。、
そして男弟、2世紀前半の其国の男王に遡るまで一人で一基の前方後円墳で説明せねばならない。
これは無理なのだ。
埋葬に際して工事は行われたであろうが卑弥呼の墓は一族の集団墓であろう。
「棺あり 槨はなし」
石室などはない。
場所は纏向ごとき平地ではなく、神の座、王の座にある。
神の座、王の座とは大和盆地最良の水源だ。
それは高天原(御所市高天)だ。 115日本@名無史さん2019/02/27(水) 13:38:19.07
116日本@名無史さん2019/02/27(水) 13:46:35.47
429>>82
「南→東」などの嘘吐き詐欺から得られた妄想の数値を、
現実に当て嵌める試みは、無意味だろ。
つまり、大和説は、×。 117日本@名無史さん2019/02/27(水) 13:53:49.11
zarakokuは2つ前のスレの書き込みにまでレスしてるのかwwww
118日本@名無史さん2019/02/27(水) 13:57:32.35
言ってることは全部同じだがな
119日本@名無史さん2019/02/27(水) 13:59:24.21
120日本@名無史さん2019/02/27(水) 14:11:29.45
>>115
考古学者の森浩一(1928-2013)
「纏向遺跡の建物が出たとき、崇神の宮ではないか、垂仁の宮ではないか、景行の宮ではないかということは、どうして出てこなくて、いきなり卑弥呼がくるのですか。」と苦言を呈している。 121日本@名無史さん2019/02/27(水) 14:27:01.62
前世紀の遺物らしい発言だな
122日本@名無史さん2019/02/27(水) 14:41:31.68
123日本@名無史さん2019/02/27(水) 14:53:14.50
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
124日本@名無史さん2019/02/27(水) 15:29:21.14
畿内鉄
125日本@名無史さん2019/02/27(水) 15:56:32.66
429>>92
>そういう理屈で短里を使うのならもっと説明するべきだよ
要は、とても遠いという意味合いの1万2千里を当てはめるために、実際の距離を1万2千里の比率に伸ばしたという事だよね?<
昨今の安部政府の役人らのように、
魏使らは、皇帝らに騙しがバレたら首が危ない事を知っているから、
「とても遠いという意味合いの1万2千里を当てはめる」
というようなインチキはしない。
それが正常な「人類の常識」。 126日本@名無史さん2019/02/27(水) 15:59:20.89
429>>94
「南→東」などの嘘吐き詐欺や、都合の悪い史料事実の隠蔽の騙しをする大和説は、
自己矛盾するダメ説
九州説は、しないから、ほぼ終わっているから、問題なし 127日本@名無史さん2019/02/27(水) 16:03:08.51
429>>95
「南→東」の方向の詐欺だけではなく、
しかも、部分行程の距離の比率さえ一定しない、
という問題を指摘されて100年
まったく解決できないままだった大和説が、
20世紀とともに国民の支持を失って終わったのは
遅過ぎ 128日本@名無史さん2019/02/27(水) 16:03:45.66
129日本@名無史さん2019/02/27(水) 16:07:58.65
429>>110
>お前ら一人一説じゃん <
いや、みんな、九州一説だ。 130日本@名無史さん2019/02/27(水) 16:12:13.24
>>113
>>畿内説は自己矛盾するダメ説 <
>そうやって具体的な指摘の出来ない九州説が
空論として淘汰されていくのは当然の成り行きだ <
そうやって、都合の悪い史料事実は隠蔽し、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」などに具体的な反論の出来ない大和説が
空論として淘汰されていくのは当然の成り行きだ 131日本@名無史さん2019/02/27(水) 16:15:11.25
429>>117
「南→東」などの嘘吐き大和説の、
詐欺も罵倒も、オウム返しされ投稿も、もう全て通用しないからな
ほらさっさと退場しな 132日本@名無史さん2019/02/27(水) 16:17:04.72
429>>120
「南→東」などの嘘吐き詐欺の大和説は、
もはや虚勢を張るぐらいしかできないようだな
みんな見てみ。
哀れで滑稽なこの様を
わははは 133日本@名無史さん2019/02/27(水) 16:24:57.13
429>>121
大和説の反論って、反論になってないから話が噛み合わないんだよね
方向や距離は当てになるという見解に、
大和説では、沖縄台湾は方向はよいが、距離は合わない、
と言ったことになるみたいなになる、
頓珍漢な問いで返されたり
この場合、こういう理由で方向も距離もも当てにできる、と考えられる
というのが反論だと思うのだが 134日本@名無史さん2019/02/27(水) 16:29:12.93
そうなんだよね。
畿内説は完全にダブルスタンダードを取っているよね。
135日本@名無史さん2019/02/27(水) 17:08:44.71
429>>124
>九州説は萬二千里をきちんと説明できないからダメなんだよ<
大和説は、
魏志や魏略には「余」の有無での書き分けがあるから、実測値からの推定記録である事が判るが、
淮南子や如淳注や後漢書では「余」がないから、書き換えや形容的な記載であった、
という事が、全く説明が出来ないから、×なんだよ。
>基本は大月氏に対するバランス
大月氏が、漢書西域伝で「大月氏國治監氏城去長安萬一千六百里」
この11600里よりも遠く見せたいというのが、根本<
関係がない。
淮南子の大月氏記載は、長里。
倭地などの東方記載は短里。
勿論、周髀算経も、礼記の東方記録も、如淳注も魏志も魏略も後漢書も短里。 136日本@名無史さん2019/02/27(水) 17:15:45.08
429>>133
>「その比率縮尺で確かに正しいと考える根拠の提示がないのがダメ」
と、明確に理由が書かれているのに <
九州説は、「確かに正しい」なんて言わない。
「大体正しくて、6倍位も違わない」というのだし、
要するに「大和説よりは確率が高い」という。
その明確な「事実からの推論論理を無視」する大和説は、ダメ説 137日本@名無史さん2019/02/27(水) 17:29:56.63
429>>136
>比率縮尺の場合は九州上陸から二千里でどこに着くのかを示してください<
「九州上陸から二千里」ではないの。
「方四百余里」の對海國」と、「方三百里」の一大國の、
国内見聞移動した事が書かれていて、その国内移動距離は書かれていないし、
奴國へは至の前に移動があった事を示す文言がないから行っておらず、
だから、九州島上陸までに萬七百〜萬千四百里」になり、
不彌國で、「萬千三百余里〜萬二千余里」になり、
不彌國の後は「0里〜七百里」になるの。
だから、九州島であり、尚且つ筑紫付近になるの。 138日本@名無史さん2019/02/27(水) 17:34:00.12
429>>144
「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソ付き詐欺をし、
都合の悪い史料事実を隠蔽して、
人の話をきいてないんね
だから大和説はダメなんだ 139日本@名無史さん2019/02/27(水) 17:42:36.69
つまり、韓国政府が宣伝する邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね、、、
140日本@名無史さん2019/02/27(水) 18:08:23.68
ザラコクの前スレに対するレスをまとめてNGするいい方法ないかね?
141日本@名無史さん2019/02/27(水) 18:10:39.08
ワッチョイどころかIDすら表示されない仕様だからNGはほとんど不可能かと。
キーワードNG設定するしかないね。
142日本@名無史さん2019/02/27(水) 18:16:36.75
>>112
>纏向に、宮があるだろ?
うそはイカンぜよ。 @阿波 143日本@名無史さん2019/02/27(水) 18:29:56.76
大和説をNGにすればええんちゃうかな
144日本@名無史さん2019/02/27(水) 18:38:26.45
429>>194
候補となるような3世紀前半〜中頃の遺跡があるときに
初めて行程解釈と整合するかどうかの判断になる
「南→東」の嘘つき詐欺ガキの大和説には、
候補すらない 145日本@名無史さん2019/02/27(水) 18:38:58.64
>>142
>>纏向に、宮があるだろ?
>うそはイカンぜよ。
泡も、結局は健常人ではないと自ら公開していくスタイルなんだよなw
纏向珠城宮 は纏向ではないのかい? 宮と書いてあるのに宮ではないというつもりか?
纏向日代宮 は纏向ではないのかい? 宮と書いてあるのに宮ではないというつもりか?
一番最初は「記紀に纒向に宮があったことは明記してある」だぞ
現実に存在したかどうかの前に、記紀の記述でそうなっているという話だ
日本書紀
崇神 三年秋九月、遷都於磯城、是謂瑞籬宮
垂仁 冬十月、更都於纏向、是謂珠城宮也
景行 則更都於纏向、是謂日代宮
古事記
崇神 御眞木入日子印惠命、坐師木水垣宮、治天下也
垂仁 伊久米伊理毘古伊佐知命、坐師木玉垣宮、治天下也
景行 大帶日子淤斯呂和氣天皇、坐纒向之日代宮、治天下也
纏向に宮があると記紀に書いてあるな! 146日本@名無史さん2019/02/27(水) 18:43:48.31
>>145
>纏向に宮があると記紀に書いてあるな!
ハハハハは、記紀の纏向は今の纏向じゃないんだよ。 残念でした。 @阿波 147日本@名無史さん2019/02/27(水) 18:47:25.78
>>145
>纏向に宮があると記紀に書いてあるな!
そんな、後付けの地名に頼らずに、ちゃんとした遺跡でも見つけてから言い給え。 ワハハハ。 @阿波 148日本@名無史さん2019/02/27(水) 18:51:30.83
429>>207
>昔の中国じゃ南に倭国が伸びてると思ってたんだよ
後漢書あるいは魏志倭人伝がそうなってるし
それを参照した史書にもほとんどそう書かれてるから<
「南に伸びている」とは書かれていない。
魏志は「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」と書いているし、
後漢書は「自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王」と書いているし、
宋書は「東征毛人五十五國」した事を書いている。 149日本@名無史さん2019/02/27(水) 19:01:01.05
>>143
そうね
大和説なんて阿呆なワードを使うのは、ザラコクだけのようだな 150日本@名無史さん2019/02/27(水) 19:02:05.80
429>>208
>短里があるとする根拠は、循環論法以外はないし、循環論法を否定する論拠は何度も複数挙げている
1.短里の使用例はない<
周髀算経や、礼記や淮南子や、介山や如淳注や、魏志や魏略や後漢書や、
江表伝や海賦や梁書や書紀など、一杯ある。
>2.短里を使う理由のある人がいない <
類一寸千里を使った淮南子や、
魏の文帝や重臣の周髀算経の度量衡への復古の方針し従った人々がいる。
>3.短里を示す考古遺物が一切ない(魏晋里は古尺の現物が出土している)<
短里問題は、
「里歩系」内の話であり、「始皇帝の1歩長命令の否定」の話であり、
「尺寸系」の尺定規の寸法など、関係がない。 151日本@名無史さん2019/02/27(水) 19:08:53.38
429>>211
>韓の方四千里は、実際には方四千里ではないけれど、沿岸航行七千里に合わせて、
南北四千里、東西は東の端まで行かないから三千里として、方四千里としている
最初に設定ありきで、それに合わせて机上の計算で作った数字なんだよ <
これは×。
韓の「方四千里」情報は、当然郡役人らの計測情報であり、
魏使らは、計測記録する必要も、業務でも命令も関係もなかったもの。 152日本@名無史さん2019/02/27(水) 19:21:32.92
429>>212
>九州説の短里があるという論理展開は以下の通り
1.倭人伝の行程は、現実の距離に合わないから短里だ
2.短里があるのは、倭人伝が短里で書いてあることで証明できる
これだけなんだよ 循環してるだろ?w <
違うな。
九州説の論理は
1.魏志や倭人伝での、里の記載実態の「1里の距離」は、
「75m〜90mで、75mに非常に近い長さ」である、と算出推論出来る。
2.それは、始皇帝が規定した「1歩=6尺」の寸法とは全く違って、
その5〜6分の1位の寸法である、
というだけの事。
どこにも循環論法はない。 153日本@名無史さん2019/02/27(水) 19:22:01.11
>>141
>ワッチョイどころかIDすら表示されない仕様だからNGはほとんど不可能かと。
そうだよな だから>>1が名無しでイミフの書き込みや、罵声を吐く
まず、>>1が堂々とコテハンつければいいと思うよ
ザラコクは特定できるからいいよ 154日本@名無史さん2019/02/27(水) 19:23:23.77
九州説は全1病を発症せずには居られないのか?
155日本@名無史さん2019/02/27(水) 19:24:21.30
156日本@名無史さん2019/02/27(水) 19:27:36.72
九州説は3人ぐらいか
韓国コピペ
ザラコク
キウスってとこかな
157日本@名無史さん2019/02/27(水) 19:29:31.93
こうして見ると九州説には異常者しか居らんのがわかるな
158日本@名無史さん2019/02/27(水) 19:34:14.68
429>>213
>邪馬台国は九州にあったに違いないから
魏志倭人伝の距離は短里に違いない 循環論法<
邪馬台国なんて史料に存在もしない造作をして、
女王國は大和にあったに違いないから、
「南は東の間違い」であり、「不彌國の後だけが長里であった」と主張するのは、
明らかに結論先にありきであり、循環論法。 159日本@名無史さん2019/02/27(水) 19:34:25.45
ザラコク
キウス
岡上
160日本@名無史さん2019/02/27(水) 19:35:49.55
>>146
>ハハハハは、記紀の纏向は今の纏向じゃないんだよ。 残念でした。
これにまったく根拠がない
日本書紀
垂仁 冬十月、更都於纏向、是謂珠城宮也
古事記
垂仁 伊久米伊理毘古伊佐知命、坐師木玉垣宮、治天下也
で分かるように、磯城郡の中に纏向があったのは間違いない
泡が、ミスがばれて詭弁で誤魔化しに走っているだけ 161日本@名無史さん2019/02/27(水) 19:35:57.45
邪馬台国つまり倭国は九州に相違ない
現在の天皇家つまり大和朝廷とは連続性が一切ない消えた政権勢力
162日本@名無史さん2019/02/27(水) 19:37:36.29
畿内から環濠が消えていく1世紀後半〜2世紀中頃の、守山の伊勢遺跡
政治の中枢の誕生を示す遺跡だろう
国作りが進み平和で豊かな時代が到来したんだろう
中国の建築様式やレンガ、出雲や北陸の建築様式の建物など各地の特徴を持った建物跡が出土している。
おそらく30もの首長たちが集い、祭祀を行い政治が行われていたと推測できる。
面白いことに伊勢遺跡の全盛期に同時代の墓が周辺に認められないんだよね。政治の中枢であるが墓がない、国会のような年に1回首長たちが集う祭祀の場であった可能性がある。
神無月に出雲に神々が集う言い伝えがあるが、伊勢遺跡の伝承だった可能性もある。
伊勢遺跡の祭祀は夜に行われていたと言われている。
夜の食国を治めたのは月夜見
農作業に使う暦を作って、首長たちに伝えていたのかもしれない
魏志倭人伝の魏略からの引用に女王国には暦がないという記述は興味深い
万葉集の奈良時代後半の歌を読むと、月やホトトギス時鳥の来訪の期待感が、次第に高まっていくのが感じられる
桓武朝で神代の王統が復活したのだろうか?
163日本@名無史さん2019/02/27(水) 19:38:13.06
>>153
思い出した
エセスレ?が立った時 エセスレのスピードだ速かったので
>>1が半日で500レス自演投稿でスレ埋めたな
あのときは爆笑
まだ残ってるかなwww 164日本@名無史さん2019/02/27(水) 19:38:28.98
>>158
魏志倭人伝の記述に邪馬台国は帯方より南1万2千里で
沖縄台湾辺りになる会稽東治(冶)の東と書いてあるぞ
そこはもちろん邪馬台国じゃない 165日本@名無史さん2019/02/27(水) 19:40:45.51
>>161
それは何を説明しようとしてるでもない
ただの妄想だね 166日本@名無史さん2019/02/27(水) 19:43:44.41
>>156
>韓国コピペ
こいつは、「連続句読点」と読んであげてほしいww 167日本@名無史さん2019/02/27(水) 19:44:35.33
429>>215
>しかも、もっと前の時代から日本を北に、蝦夷とか毛人を南に
書いた地図が実在してるんだぜ
九州説がデタラメを主張してるって動かぬ証拠じゃないの?<
しかし、中国史書群の記録は、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」であり、
「自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王」であり、
倭国は「正北抵新羅」であるから北部九州であり、
その倭国が「東征毛人五十五國」をした、としているし、
記紀も新唐書も「神武兄弟の東征」を記載しているんだから、
14世紀頃?の混一地図が、
過去の中国史書群の記載の説明が読めなかったアホであった、
という事にしかならんだろ?。 168日本@名無史さん2019/02/27(水) 19:46:00.92
纒向は記紀にある通り纒向宮なんだよ。
畿内説は魏志倭人伝も記紀も無視しすぎだ。
169日本@名無史さん2019/02/27(水) 19:49:45.86
>>168
考古物証と様々な史書との比較から
魏志倭人伝の邪馬台国の位置は伝承に基づいたものであって
事実を反映したものではないと結論が出ました 170日本@名無史さん2019/02/27(水) 19:54:05.56
>>218
>魏志倭人伝の里は魏で使われた尺度と大幅に異なっている
だから邪馬台国までの距離を正確に測ったものとは扱えない
ゆえに邪馬台国まで1万2千里というのは不確かなもの これが三段論法<
魏志倭人伝の里は、秦漢朝で使われた尺度と大幅に異なっている
そして、個々の里記載事実と実際の地理的里距離との対応を推定して計算すると、
いずれも秦漢朝の里寸法の5〜6分の1位の距離になった。
ゆえに女王國まで萬二千余里という合計里数も、
秦漢朝の里寸法の5〜6分の1位の距離として、信頼できる。
これが三段論法 171日本@名無史さん2019/02/27(水) 19:56:40.18
429>>219
>魏志倭人伝の記事によったら邪馬台国は沖縄とか台湾の辺りになるぞ<
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、
女王國は、沖縄とか台湾辺りにはならない。 172日本@名無史さん2019/02/27(水) 19:58:28.72
173日本@名無史さん2019/02/27(水) 20:01:58.74
鎮魂歌
卑弥呼→台与の頃を歌ったものだろうか?
邪馬台国、初期のヤマト政権は、石器作りや狩猟を生業にしていた勢力が主体だったことが窺える
また、「フル」、「アチメ」という言葉は大和言葉では意味が分からないが、朝鮮語では「流れる」「朝日」という意味になる
初期のヤマト政権は、朝鮮半島と日本列島を行き来していた日本海側の勢力も関係していたのかもしれない
纒向遺跡の外来系土器から推測すると、これらの勢力は東海山陰吉備が主体だったと考えられる
初期のヤマト政権はこれらの勢力による征服王朝、いわば鬼の王朝と言えるだろう
石上神宮の布留の謂れは、刀が【流れてきて】布で受け止めたら留まったというもの。
【アチメ】 オオオオ オオオオ オオオオ
天地ニキ揺ラカスハ サ揺ユラカス 神ワカモ 神コソハ キネキコウ キ揺ラナラハ
アチメ オオオオ オオオオ オオオオ
【石ノ上】 【布瑠】社ノ 【太刀】モガト 願フ其ノ児ニ 其ノ奉ル
アチメ オオオ オオオ オオオ
【猟夫】ラガ 持タ木ノ【真弓】 奥山ニ 御狩スラシモ 弓ノ弭見ユ
アチメ オオオ オオオ オオオ
上リマス【豊日霎】カ 御魂欲ス 本ハ金【矛】 末ハ木矛
アチメ オオオ オオオ オオオ
【三輪山】ニ アリタテルチカサヲ 今栄エデハ 何時カ栄へム
アチメ オオオ オオオ オオオ
吾妹子ガ、【穴師】ノ山ノ山ノ山モト 人も見ルカニ 深山カ縵為ヨ
アチメ オオオ オオオ オオオ
魂筥ニ 【木綿】取リシデワ 魂チトラセヨ 御魂上リ 魂上リマシシ神ハ 今ゾ来マセル
アチメ オオオ オオオ オオオ
御魂ミニ 去マシシ神ハ 今ゾ来マセル 魂筥持チテ 去リクルシ御魂 魂返シスナヤ
174日本@名無史さん2019/02/27(水) 20:03:09.60
429>>220
>いいや
魏志倭人伝に書いてあるような地理を中国人が信じこめば、ああいう地図を書いてしまう
という現実だよ <
いいや、中国のはるか後代の学者であっても、
魏志や後漢書や宋書や唐会要などの史書の説明がよく理解出来ず、
頓珍漢なアホ地図を書いてしまう事があり、
それをまた、現代日本の・・・・アホ大和説学者らが、盲信隷従した、
という事の貴重な例証だよ。 175日本@名無史さん2019/02/27(水) 20:04:36.89
九州説は呪文を唱えた
しかし何の効果もなかった
176日本@名無史さん2019/02/27(水) 20:05:11.43
陶ケンと鬼笛って関係あるのだろうか?龍笛とも関係あるのだろうか?
子供の頃、夜に笛を吹いてはいけません、鬼が出ますよと叱られたのを思い出す
出雲笛との関係はどうなんだろう?
フルヘユラトフルヘ
フルは布留のことだろうか?
陶ケンの分布は興味深い
宗像以東、山口県を中心に山陰、日本海側に分布している
177日本@名無史さん2019/02/27(水) 20:06:47.00
429>>221
>このスレは実は九州説をおびき寄せ
ボロボロになるまで論破し尽くして九州説をストレス死にさせるためにあるのだ<
このスレは実は、
「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソ付き詐欺をする大和説者をおびき寄せ、
ボロボロになるまで論破し尽くして、
大和説をストレスで入院隔離させるためにあるのだ 178日本@名無史さん2019/02/27(水) 20:07:25.86
>>160
>で分かるように、磯城郡の中に纏向があったのは間違いない
ハハハハは、記紀の纏向は今の纏向じゃないんだよ。 残念でした。
そんな、後付けの地名に頼らずに、ちゃんとした遺跡でも見つけてから言い給え。 ワハハハ。 @阿波 179日本@名無史さん2019/02/27(水) 20:14:54.17
妄想を狂ったように並べ立てる九州説と阿波
健常な人間がこれを見たら果たしてどう思うだろう
180日本@名無史さん2019/02/27(水) 20:17:50.43
つまり、韓国政府が宣伝する邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね、、、
181日本@名無史さん2019/02/27(水) 20:20:09.82
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
182日本@名無史さん2019/02/27(水) 20:22:52.14
429>>223
畿内なんて嘘つき騙し文言や「南→東」などの嘘つき詐欺の大和説者は、
夜寝れなくなるぐらいイライラ。
九州説者は、詐欺師退治で発散でスッキリ 183日本@名無史さん2019/02/27(水) 20:24:33.49
>>177
畿内説は九州説叩きでストレス発散してすっきりしてるんだけど 184日本@名無史さん2019/02/27(水) 20:27:25.14
韓国政府が宣伝していた邪馬台国畿内説が、ゴキブリが叩きつぶされるようにして叩きつぶされてしてしまった。。。
185日本@名無史さん2019/02/27(水) 20:30:55.84
>>182
今までの嘘を全部暴かれて退治されたのは九州説じゃないかな 186日本@名無史さん2019/02/27(水) 20:33:23.45
>>184
韓国政府が宣伝していた邪馬台国畿内説が、ゴキブリが叩きつぶされるようにして叩きつぶされてしてしまったので、ストレス発散してすっきりしてるのでは、ないのかな。。。 187日本@名無史さん2019/02/27(水) 20:33:49.47
>>178
>ハハハハは、記紀の纏向は今の纏向じゃないんだよ。 残念でした。
だから、それの根拠は?
泡は、返答できなくなるとバカみたいに同じことだけ書き続けるようになるw
ああ、バカみたい、じゃなくて、モノホンのバカだったかww
せめて、記紀の纏向がどこのつもりなのかくらいは「具体的に」書いて見せたらどうだ? 188日本@名無史さん2019/02/27(水) 20:34:58.79
428>>237
>論衡に見られる「百越の流れの倭」と、「日本列島の民族」を同じ「倭」表現していることから
分かるように、大陸中華では倭国が越の沖合いにある南国という思い込みがそもそもあり、
魏志倭人伝の中でも「計其道里、當在會稽東冶之東」とあるように、撰者の陳寿も
その思い込みの中にある<
これも半分×だな。
要は、倭は、
元は「燕の南」にいて、それが流れて九州に来た部族(天孫族?)と、
呉王夫差の遺民の姫氏?の二部族が中心勢力であり、
それに在地の猿田彦や、毛人や、出雲系宗像や安曇や、徐福らが混在したもの。 189日本@名無史さん2019/02/27(水) 20:39:30.45
>>187
じゃあ、記紀の纒向は今の纏向遺跡でいいわけだ。
邪馬台国は関係ないな。
畿内説の根拠は何もない。
その当時、そこにあったのはヤマト王権だ。
記紀の天皇の系譜に女王の姿はない。 190日本@名無史さん2019/02/27(水) 20:40:34.07
429>>245
>魏志倭人伝に女王国があると記されている
会稽東治(冶)の東は現在の地図で見ると沖縄とか台湾の辺り<
後漢書の「会稽東冶」は、半分×書であるから根拠にならない。
魏志の「会稽東治」は、上海〜江蘇省の海岸地域になるから、
その「之東」は」は、ほぼ九州島付近であり、
沖縄とか台湾の辺りにはならない。 191日本@名無史さん2019/02/27(水) 20:42:13.61
九州説のでっち上げた嘘一覧
短里
谷本計算
九州に卑弥呼の古墳
弥生時代に漢字の使用
三角縁神獣鏡は呉の鏡師が日本に渡来して作った
しかも中国では1枚も見つかってない
プラズマ化が原子崩壊を加速させる
後漢書、隋書、北史、梁書、太平御覧等の著作者は揃いも揃って
勝手な解釈で魏志に書いてある事を書き換え記載した
書き切れないな
192日本@名無史さん2019/02/27(水) 20:42:51.00
429>>248
>魏志倭人伝には女王国の位置として会稽東治(冶)の東
沖縄か台湾の辺りと書かれている事や <
後漢書の「会稽東冶」は、半分×書であるから根拠にならない。
魏志の「会稽東治」は、上海〜江蘇省の海岸地域になるから、
その「之東」は」は、ほぼ九州島付近であり、
沖縄とか台湾の辺りにはならない。 193日本@名無史さん2019/02/27(水) 20:44:06.27
194日本@名無史さん2019/02/27(水) 20:47:26.85
429>>251
つまり「大和になる筈」という思想先にありきで、
大和説は、
「南→東」などの方向捏造をし、
「始皇帝の1歩=6尺」の寸法から出て来る1里≒434m位単位を捏造したのだな? 195日本@名無史さん2019/02/27(水) 20:48:28.18
>>192
会稽東冶という地名はあったけれど
会稽東治というのは存在した事がない 196日本@名無史さん2019/02/27(水) 20:52:13.21
ERROR: We hate Continuous...
連投ですよ
問い合わせID:4afa6d9ccfa320a2
ホスト:p1650162-ipad020105kobeminato.hyogo.ocn.ne.jp
名前: 日本@名無史さん
E-mail:
内容:
429>>253
やれやれ、
「南→東」などの嘘つき詐欺の大和説は、
ついに脳がイカレちまったみたいだな
まだまだ大幅に返信が遅れていますが、これですので、一旦返信中止。 197日本@名無史さん2019/02/27(水) 20:55:44.36
>>187
>だから、それの根拠は?
その根拠は、碌に人が暮らしていない遺跡だから。 これに尽きる。 @阿波 198日本@名無史さん2019/02/27(水) 21:00:00.79
さっさと答えろよ。
纒向宮は崇神天皇の宮だよな?
卑弥呼の宮じゃないよな?
199日本@名無史さん2019/02/27(水) 21:20:18.29
>>196
何だそのザラコクのレスを皆が待ち望んでいるかのような書き方
妄想の世界に逃避するのもいい加減にするんだ 200日本@名無史さん2019/02/27(水) 21:27:40.89
201日本@名無史さん2019/02/27(水) 21:28:38.09
>>189
>じゃあ、記紀の纒向は今の纏向遺跡でいいわけだ。
>邪馬台国は関係ないな。
何の根拠もない言いきりで草
記紀の纒向、今、纒向遺跡として発掘されていて、そこが卑弥呼もいた倭国の王都なんだよ
纒向があった国の名前がヤマト国で、それが大陸中華の人の聞き取り音訳で邪馬台国と記されただけ 202日本@名無史さん2019/02/27(水) 21:30:23.92
429>>262
「南→東」などの嘘吐き詐欺師の大和説者や類スレ主や、
その仲間の5chは、連日大和説が論破され続けてが、
正気が無くなってるようだ 203日本@名無史さん2019/02/27(水) 21:31:30.03
>>189
>その当時、そこにあったのはヤマト王権だ。
その通りだよ
そしてそれが邪馬台国の中心政体だ
>記紀の天皇の系譜に女王の姿はない。
記紀は、男系原理で佐治国の男弟の系譜を大王系譜としているだけ
卑弥呼はヤマトのヒメ王にして、倭国の共立祭祀王
のちの代では、斎王にあたる王だよ 204日本@名無史さん2019/02/27(水) 21:32:42.77
>>192
>魏志の「会稽東治」は、上海〜江蘇省の海岸地域になるから、
こういう嘘を平気で連呼できるようになる九州説ってスゴイね
犯罪者養成プログラムかなんかみたい 205日本@名無史さん2019/02/27(水) 21:33:22.19
>>193
>纒向宮は崇神らの宮でいいんだよな?
その「崇神『ら』」に卑弥呼も含まれるんだよ
簡単だろ? 206日本@名無史さん2019/02/27(水) 21:34:16.58
207日本@名無史さん2019/02/27(水) 21:34:46.93
429>>264
「南→東」などの嘘吐き詐欺のように、大きく捏造した反抗を、
ホッカムリする大和説の・・・・ガきら。 208日本@名無史さん2019/02/27(水) 21:36:21.93
>>187
>その根拠は、碌に人が暮らしていない遺跡だから。 これに尽きる。
それは、「今の纒向」が「記紀の纒向」ではない理由にはならないだろ?
やっぱりモノホンのバカだな
で、泡の考える「記紀の纒向」は「具体的にはどこ」なんだ?
違うと言うためには具体的に違う場所が必要だぞww 209日本@名無史さん2019/02/27(水) 21:37:27.84
アンカ間違い
>>197
>その根拠は、碌に人が暮らしていない遺跡だから。 これに尽きる。
それは、「今の纒向」が「記紀の纒向」ではない理由にはならないだろ?
やっぱりモノホンのバカだな
で、泡の考える「記紀の纒向」は「具体的にはどこ」なんだ?
違うと言うためには具体的に違う場所が必要だぞww 210日本@名無史さん2019/02/27(水) 21:39:58.96
>>206
>含まれるという根拠は?
是時、~明憑倭迹々日百襲姬命曰「天皇、何憂國之不治也。若能敬祭我者、必當自平矣。」
これで十分だろ? 211日本@名無史さん2019/02/27(水) 21:46:59.79
>>201
>記紀の纒向、今、纒向遺跡として発掘されていて
そこをいくら発掘しても、碌に人が暮らしていない遺跡が??? ご愁傷様。 @阿波 212日本@名無史さん2019/02/27(水) 21:47:13.85
429>>270
>畿内とは律令の頃の行政区分五畿七道のうちの五畿
大和、山城、摂津、河内、和泉の事をいう<
大和の王が天皇を称したのは、天智が最初だから、畿内も天智以後に出来た。
>魏志倭人伝に邪馬台国が沖縄とあろうとも <
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
沖縄なんて事にも正当な根拠はない。
>ここに三世紀の魏との交流の証の銅鏡や
集権的な政治機構のあった事を思わせる前方後円墳がある<
大和の銅鏡は、3世紀末の4世紀頃だし、
△は、明帝→卑弥呼の鏡ではないし、
大和の前方後円墳は、3世紀末以後であり、卑弥呼の冢ではない。
>よって大和=邪馬台国とするのが蓋然性が高い <
大和は、九州倭国から別れた別種の旧小国であり、
東征毛人五十五国の中の一国であるから、
よって、大和=女王國は、×。 213日本@名無史さん2019/02/27(水) 21:48:40.56
ザラコクオウムは何を聞いても
同じことしか答えない
214日本@名無史さん2019/02/27(水) 21:48:48.46
>>208
>それは、「今の纒向」が「記紀の纒向」ではない理由にはならないだろ?
その根拠は、碌に人が暮らしていない遺跡だから。 これに尽きる。 @阿波 215日本@名無史さん2019/02/27(水) 21:51:58.76
これで畿内説は完全に終了だな。
纒向は崇神の宮。
卑弥呼とは関係ない。
216日本@名無史さん2019/02/27(水) 21:53:46.99
勝手に断定はトンデモの常
217日本@名無史さん2019/02/27(水) 21:54:14.30
218日本@名無史さん2019/02/27(水) 21:54:41.03
>>215
>纒向は崇神の宮。
もちろん、纒向は崇神の宮でもない。
その根拠は、碌に人が暮らしていない遺跡だから。 これに尽きる。 @阿波 219日本@名無史さん2019/02/27(水) 21:56:14.92
220日本@名無史さん2019/02/27(水) 21:57:10.85
邪馬台国畿内説を宣伝するために、韓国政府が、纏向遺蹟を天皇家のものではないことに、しようとしているな。。。
221日本@名無史さん2019/02/27(水) 21:58:16.12
429>>282
>これがウソ 現実の距離に合っているというためには、「魏晋里」で測らないといけない
現実の距離に合うように創作したものが「短い里」なんだよ
ここが理解できないおバカさんが九州説なんだよねww <
これがウソ。
「魏晋里」なんて統一した里はない。
魏朝と西晋朝は、周髀算経の里(短里)を採用したが、
魏や西晋の「民間学者」らは、秦漢朝の採用の里(長里)を採用したものが多かった、
という事が実態。
ここが理解できないおバカさんが、
「南→東」などの嘘吐きs魏志の大和説者や類スレ主らなんだよね 222日本@名無史さん2019/02/27(水) 21:58:48.64
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
223日本@名無史さん2019/02/27(水) 22:00:18.43
>>220
「纏向遺蹟」ね
こいつ、マジで日本人じゃないんと違う? 224日本@名無史さん2019/02/27(水) 22:01:18.67
429>>283
>じゃあ倭人伝に南と書いてあったが実際には東で
いいな?<
まともは人間は、人類の常識を知っており、東西南北間違えないから、×。 225日本@名無史さん2019/02/27(水) 22:02:32.77
>>219
>だから卑弥呼の宮だよね
記紀に卑弥呼の記載が有ればね。 でも、卑弥呼は奈良盆地は拒否すると思うよ。 @阿波 226日本@名無史さん2019/02/27(水) 22:02:56.84
429>>284
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説書き込み工作員よ
お前は、お前の上司によって拷問にかけてられているのと同じぞ 227日本@名無史さん2019/02/27(水) 22:05:15.74
429>>288
「南→東」などの嘘吐き詐欺の大和説の、
詐欺がバレた醜態は
いつも滑稽だから 228日本@名無史さん2019/02/27(水) 22:09:18.07
倭国は大和朝廷の事ではないからな
229日本@名無史さん2019/02/27(水) 22:11:17.49
連句点が使ってるPCは、日本国内向けに出荷されてない機種と思われ
230日本@名無史さん2019/02/27(水) 22:13:18.07
429>>290
>>韓伝の四千里四方を畿内説なりに解説くれんか<
>あのね、距離は実測じゃなく感覚なの<
あのね、「南→東」などの嘘吐き詐欺師の大和説は、
韓伝の「方四千里」も、三国志の殆どの里里記載も、
自説の秦漢朝里と合わないから、全て実測や論理ではなくて、
皇国史観人種差別宗教という結論先にありきに拠る「感覚」なの。 231日本@名無史さん2019/02/27(水) 22:17:21.69
429>>291
「南→東」などの嘘吐き詐欺師の大和説に対しては、
九州説は、事実に合わない所を指摘するだけ 。
大和説にとってはそれが拷問レベルの苦痛 。
けど上司や学会や文部省の命令だから、書き込まないといけない 。
本当に九州説とその背後は何の益体もない上に苦痛しか生み出さんな
まるで物の道理に反してるから
いずれはこの世から滅び去るんだろうけど 232日本@名無史さん2019/02/27(水) 22:19:35.30
証拠を用いての議論じゃなくて
根拠なしの断定しか出なくなった九州説は終焉の時が近い
233日本@名無史さん2019/02/27(水) 22:20:33.81
429>>292
オームや、右翼ヤクザ暴力団などの、
・・・・集団の「南→東」などの嘘吐き騙しの、
ブラック企業、大和説 234日本@名無史さん2019/02/27(水) 22:21:07.32
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだとバレたので、
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を宣伝するために雇用した、韓国人が焦って嘘を連続しているな。。。
223 名前:日本@名無史さん 2019/02/27(水) 22:00:18.43
>>220
「纏向遺蹟」ね
こいつ、マジで日本人じゃないんと違う?
229 名前:日本@名無史さん 2019/02/27(水) 22:11:17.49
連句点が使ってるPCは、日本国内向けに出荷されてない機種と思われ 235日本@名無史さん2019/02/27(水) 22:23:08.09
429>>293
人類の常識や、「南≠東」などのような、
物の道理に反するものは淘汰されてきた
人類はそうやって進歩してきた
大和説が滅びるのは、定め 236日本@名無史さん2019/02/27(水) 22:23:17.27
連句読点、痛手だったのかな
237日本@名無史さん2019/02/27(水) 22:23:40.50
>>214
>その根拠は、碌に人が暮らしていない遺跡だから。 これに尽きる。
泡は、返答できなくなるとバカみたいに同じことだけ書き続けるようになるw
ああ、バカみたい、じゃなくて、モノホンのバカだったかww
せめて、記紀の纏向がどこのつもりなのかくらいは「具体的に」書いて見せたらどうだ?
違うと言うためには具体的に違う場所が必要だぞww
それに発端は「纒向に宮があると記紀に書いてある」というのを
もの知らずのバカが、原文を知りもせずに否定したこと
話をそらして誤魔化そうとしても無駄ww
インチキごまかしが、泡のやり口
能なしの所行だよ 238日本@名無史さん2019/02/27(水) 22:25:31.03
いや、連続句読点はいま悶え喜んでるよ
超ドMだから
239日本@名無史さん2019/02/27(水) 22:26:57.73
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだとバレ、
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を宣伝するために雇用した、韓国人が焦って嘘を連続しているだけになったので、宣伝の工作活動の終焉の時が近いのではないのかな。。。
240日本@名無史さん2019/02/27(水) 22:28:50.45
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだとバレ、
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を宣伝するために雇用した、韓国人が焦って嘘を連続しているだけになったので、宣伝の工作活動の終焉の時が近いので、はいま悶え喜んでいるのでは、ないのかな、、、
超ドMだからw
241日本@名無史さん2019/02/27(水) 22:30:20.44
>>237
>せめて、記紀の纏向がどこのつもりなのかくらいは「具体的に」書いて見せたらどうだ?
具体的に言うと、とりあえず
竪穴式住居がいっぱい在って人が大勢暮らしている所。 水銀朱をばんばん取り出している所。 鉄器をばんばん製作しているところ。 勾玉をばんばん製作している所。 @阿波 242日本@名無史さん2019/02/27(水) 22:31:36.44
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだとバレ、
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を宣伝するために雇用した韓国人が焦って嘘を連続しているだけになったので、
宣伝の工作活動の終焉の時が近いので、韓国人の邪馬台国畿内説を宣伝する係員は、いま悶え喜んでいるのでは、ないのかな、、、
超ドMだからw
243日本@名無史さん2019/02/27(水) 22:34:48.38
九州説で狂ってないヤツって、いるの?
244日本@名無史さん2019/02/27(水) 22:35:48.03
429>>304
>海上距離は測定できないので、利用できる試料は九州上陸後の陸行部分のみ
不彌国の比定地はいまだに定説がないので、結局使えるのは
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島) 25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市) 20km/100里=50m/1里
のみ<
そりゃ、インチキ騙し計算。
韓の方四千里や、七千余里や、3渡海の各「千余里」や、
方四百余里や、方四百余里や、方三百里や、陸行五百里や、二つの百里や、
東渡海千余里や、四千余里や、五千余里までも、こっそり省いて隠蔽しているから、
類スレ主は、・・・・詐欺師。 245日本@名無史さん2019/02/27(水) 22:42:04.74
西晋は司馬炎が施行した戸調制をみると短里など採用してないのは明らかでしょ短里では一家の農地の割り当てが200坪しか無くて生きて行けない
246日本@名無史さん2019/02/27(水) 22:44:23.16
>>308
>平原1号墓は、魏志倭人伝に道教100枚もらったと明記されているのに、
後漢末〜魏代の鏡が1枚もない、仿製鏡ばかりがやたらに多い墓
墳丘の大きさは12×8メートルで、成人男子が10人もいれば1週間で作れるしょぼい墓
副葬品の多い厚葬墓で、副葬品から被葬者が女性の可能性が高い「だけ」で、
「女王」だとか「卑弥呼」だとかの想定は、よほどのバカでなければできない墓だよ<
いや、21枚の「尚方作」の方格規矩鏡が副葬されている鏡の女王だから、
卑弥呼か壹與かのどちらかであり、
卑弥呼の墓には祇園山があるから、壹與の墓である可能性が高いだけだ。 247日本@名無史さん2019/02/27(水) 22:58:49.57
429>>312
>(陳寿90度回転さんの韓伝の方四千里に関する話の返事)
>>少なくとも九州ではない証左の一つ。<
>何故なら九州であれば、半島との対比で「周旋五千里余」ではなく、
半島や対馬・壱岐と同じく「方可三千里」とか「方可二千里」と書かれる筈だからだ。<
何だ?、これは。
韓伝の「方四千里」に関する返信になっていないではないか。
それに「周旋五千余里」は、狗邪韓国〜侏儒國までの、(海路ではなく)
「陸地での参問」距離合計になっているんだぞ。 248日本@名無史さん2019/02/27(水) 23:01:42.86
>>246
100枚に79枚足りないな
じゃ被葬者は卑弥呼じゃないと言う事
径百歩でもないし
奴婢百人の殉葬跡もなし 249日本@名無史さん2019/02/27(水) 23:06:37.53
429>>314
>そして平原1号墓は200年ころの築造 <
いや、21枚の「尚方作」は明帝→卑弥呼の下賜鏡でしかあり得ず、3世紀中頃以後。
卑弥呼にとっては身分を示すお宝であったから、家臣らに下賜する事もならず、
壹與が相続したものであったんだろう。 250日本@名無史さん2019/02/27(水) 23:18:19.25
NHKのヒストリアで2018年の歴史ニュースランキングやってて
黒塚古墳の三角縁神獣鏡の成分が中国鏡と同じだというのを取り上げた
ツイッターの反応も、邪馬台国はやっぱり畿内だったのか、というのが多い
251日本@名無史さん2019/02/27(水) 23:20:44.34
428>>315
>(平原の21枚の「尚方作」鏡)
魏に権威を感じていなかったら、そもそも遣使はしないだろ?
この時点で矛盾しているのに気づかないのか?w
さらに、九州説の設定では九州は帯方郡との頻繁な交流があるんじゃなかったのか?
魏の皇帝が「到錄受、悉可以示汝國中人、使知國家哀汝」といって下賜した品を鋳潰したら、
皇帝の権威を踏みにじるようなものだぞ?www<
卑弥呼は、金印と同じく自分の身分を直接示す「明帝からの下賜のお宝」であったから、
部下や地方の豪族へ再下賜する事もならず、
所持したまま亡くなったので、後継の宗女の壹與が相続し、
その壹與が亡くなった時に相続する者がおらず、
壹與の実家の墓地に造られた墓に(楽浪鏡師らに拠って)塗装され、
誰にも渡さないように、破鏡して副葬された、
と思われる。 252日本@名無史さん2019/02/27(水) 23:20:50.41
あーあ九州説は終わったなあ
253日本@名無史さん2019/02/27(水) 23:32:38.03
>>241
>具体的に言うと、とりあえず
>竪穴式住居がいっぱい在って人が大勢暮らしている所。 水銀朱をばんばん取り出している所。
>鉄器をばんばん製作しているところ。 勾玉をばんばん製作している所。
それは具体的な場所じゃなくて、泡が勝手に挙げただけの条件だ
そして、こんな条件で「纒向」という『固有名詞』な場所が決まる訳がないだろう
どこまでもバカだし、ごまかしにもなっていない
そして、「記紀に纒向に宮があると書いてある」のは間違いないな?
これを否定した泡が、自分の書き込みにすら責任が持てない、人間として最低の
議論の前提すら具備していないカスだって子よだ! 254日本@名無史さん2019/02/27(水) 23:36:15.03
>>251
>その壹與が亡くなった時に相続する者がおらず、
>壹與の実家の墓地に造られた墓に(楽浪鏡師らに拠って)塗装され、
平原1号墓を何年頃の墓にする気だ?
ザラコクが卑弥呼の墓だと言い張っている祇園山古墳より
100年以上は軽く古いんだぞ、平原1号墓の方がww
もとがデタラメだから、何を書いても矛盾だらけになるw 255日本@名無史さん2019/02/27(水) 23:40:00.28
429>>319
>>帯方郡(ソウル)ー狗邪韓国(プサン)660km/7000里=94m/1里<
>これが正しいというつもりかい?
帯方郡はソウルじゃないって、このスレでも出てただろ?
帯方郡ちは鳳山郡智塔里の唐土城だよ テンプレにも書いてあるだろ?<
誰かがソウル〜プサン陸路が450km位、という事を書いていたし、
帯方郡都が沙里院であったとしても、「循海岸水行」の出発地は、おそらく海州であり、
歴韓國乍南乍東は、韓国をじぐざぐに陸行だから、
郡から狗邪韓国は、ほぼ550km位であり、
それが七千余里なんだから、1里は75〜80m位になり、
短里だ。 256日本@名無史さん2019/02/27(水) 23:41:23.77
>>253
>そして、「記紀に纒向に宮があると書いてある」のは間違いないな?
そしてその宮は卑弥呼ではなく崇神天皇の宮と書いてある。 257日本@名無史さん2019/02/27(水) 23:41:50.53
>>247
>「陸地での参問」距離合計になっているんだぞ。
参問は、訪問するとか行ってみるという意味ではない
史記/ 列傳 凡七十卷/ 卷一百二十三 大宛列傳第六十三
「後漢書云:「大秦一名犂鞬,在西海之西,東西南北各數千里。有城四百餘所。
土多金銀奇寶,有夜光璧、明月珠、駭雞犀、『火浣布』、珊瑚、琥珀、琉璃、瑯玕、朱丹、
青碧,珍怪之物,率出大秦。」(中略)萬震南州志云:「大家屋舍,以珊瑚為柱,琉璃為牆壁,
水精為礎舄。海中斯調(州)〔洲〕上有木,冬月往剝取其皮,績以為布,極細,手巾齊數匹,
與麻焦布無異,色小青K,若垢污欲浣之,則入火中,便更精潔,世謂之『火浣布』。
秦云定重『參問門樹皮』也。」括地志云:「火山國在扶風南東大湖海中。其國中山皆火,
然火中有『白鼠皮及樹皮』,績為『火浣布』。」
『 』はオレが付けた
後漢書の、大秦(ローマ帝国)の事物について書いてあるところに『火浣布』があって、
それを受けて萬震南州志に「海の中の島に生える木の皮を冬に剥いで布に織る(績)と、
極細で青黒く汚れても火に入れると綺麗になる、世にいう『火浣布』になる。
秦がいうには定めて重ねて参問するに門樹皮なりと」とある
さらに括地志には「扶風の南東の大湖海中に火山国があり、その国中の山が火を噴いている。
その火の中に白鼠皮と樹皮があり、織りて(績)『火浣布』と為す」とある
門樹皮について参問した訳だから、訪問じゃ意味が通らないだろ?
ちなみに、この話はかぐや姫に出てくる「火鼠の皮衣」の元ネタ 258日本@名無史さん2019/02/27(水) 23:44:58.13
>>256
>そしてその宮は卑弥呼ではなく崇神天皇の宮と書いてある。
その宮処に卑弥呼もいるんだよ
是時、神明憑倭迹々日百襲姬命曰「天皇、何憂國之不治也。若能敬祭我者、必當自平矣。」
これで十分だろ?
卑弥呼・百襲姫と佐治国男弟の崇神で、ヤマトのヒメヒコを為すんだよ 259日本@名無史さん2019/02/27(水) 23:47:48.90
かぐや姫は面白い
罪に応じた罰となる課題を与えるとか
当時の人は色々知っていたみたいやな
260日本@名無史さん2019/02/27(水) 23:50:42.05
かぐや姫と光明皇后がかなりダブるんだよな
竹から生まれた光り輝く姫
光り輝く鹿の娘
母系の物語か
最後は月に帰るのが意味深
261日本@名無史さん2019/02/27(水) 23:53:15.92
万葉集もその頃から、月と時鳥の歌ばかりになる
262陳寿90度回転さん2019/02/27(水) 23:54:18.77
263日本@名無史さん2019/02/27(水) 23:59:40.52
>>255
>誰かが(略)という事を書いていたし、
この時点で出典も真偽も不明だろ 264日本@名無史さん2019/02/28(木) 00:14:41.72
竹取物語の貴人たちの氏名と官位から、かぐや姫が求婚されたのは西暦701年に特定されます。
都は藤原京、帝は文武天皇。
そして、物語の最後の部分に、そんなこんなの事があって、「現在の藤原氏の繁栄に成っているのだ」と言って糾弾しています。
265日本@名無史さん2019/02/28(木) 00:30:51.03
かぐや姫のモデルは半島からの亡命姫
学説もあります
266日本@名無史さん2019/02/28(木) 00:42:06.74
あまりにも邪馬台国の議論に勝てなくて
九州説がとうとうかぐや姫の話をし出してるな
267日本@名無史さん2019/02/28(木) 00:55:52.42
701年は、大宝律令により畿内政権の全国支配が確立した年。
その立役者だった藤原氏をこき下ろすのが竹取物語の骨子。
268陳寿90度回転さん2019/02/28(木) 01:00:32.63
>>247
これも何度も書いているが、
『魏史韓伝』
方可四千里有(半島南部)
『魏使倭人伝』
方可四百餘里(対馬)
方可三百里(壱岐)
なので、半島南部との対比で九州を描写すれば、
『方可三千里有』だとか『方可二千里有』となる。
他方、『参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里』の意味は、
(大海に島が絶えたり連なったりしながら並んでいて、巡り巡って五千余里あります)と言うこと。
明らかに陸地の形として、半島南部、対馬、壱岐、九州とは違う恰好のものを描写している。
したがって魏史韓伝中の『方可四千里有』の記事は、少なくとも九州ではないことの証左。 269日本@名無史さん2019/02/28(木) 01:09:24.20
長崎の描写だろ。
博多から伊万里、長崎、佐賀と回ってくると、韓地よりやや大きいと感じたんだろう。
270日本@名無史さん2019/02/28(木) 01:13:12.00
先祖の罪を裁いた話でしょ
そして武取りに動き始めたことを暗喩してるんじゃないかな
万葉集を読めば神代が今更復活するのかという歌もあるし、時鳥が自分のとこに来てくれと心待ちにする歌もある
桓は棺に納めるという意味
光明皇后、行基の頃から色々新しい動きがあったんじゃないかな
271陳寿90度回転さん2019/02/28(木) 01:20:20.65
>>269
これも何度も書いているが、長崎と半島西部・南部の地形を比較すれば、
半島西部・南部の方がはるかに複雑に入り組んでおり、本土から離れた島もたくさんある。
半島南部が『方可四千里有』であれば、九州もまた『方可○○○』と記述される。
したがって、魏使韓伝の該当記事は『少なくとも九州ではないこと』を補強する証左の一つ。 272日本@名無史さん2019/02/28(木) 01:20:38.33
いまグーグルアースで距離計測してたんだけど、自郡至女王國、萬二千餘里を
1里=400メートルで計算したら楽浪郡からでも沖縄や畿内じゃぜんぜん近すぎるんだな。
4800キロメートル必要だから、洛陽あるいは許昌あるいはギョウを起点にして沖縄を
とびこえて台湾でちょうど4800キロくらいになる。畿内方面にむかったとすれば奈良は
3200キロくらいで、道なりにグネグネ行ったとしてせいぜい北海道(札幌)で4400キロ程度。
こりゃむつかしいわw
273日本@名無史さん2019/02/28(木) 01:45:13.61
>>272
どの場所をどうぞ測ったのか具体生のまるで無い投稿だなあ
九州説の人かな 274日本@名無史さん2019/02/28(木) 02:01:02.62
超初心者っぽい
275日本@名無史さん2019/02/28(木) 02:18:32.48
>>106
>これは長里…
中国史書に長里、短里などという語彙は使われていない。
なにを、寝とぼけた話してるのか。
呉が公孫氏を味方につけて、魏を挟撃しようとしたのは、歴史事実。
その戦略をぶち破ったのが司馬イ。
呉のおかぶをとって、倭を味方に引き入れて、呉を東南から牽制しようとしたのは明らか。
古代中国人は、倭は沖縄あたりにあると考えてきたから、司馬イの目論見は当然だな。
魏の皇帝がその倭の卑弥呼の朝貢を大喜びしたのは、そういうことだ。 276日本@名無史さん2019/02/28(木) 02:50:07.43
考古学者の森浩一(1928-2013)
「纏向遺跡の建物が出たとき、崇神の宮ではないか、垂仁の宮ではないか、景行の宮ではないかということは、どうして出てこなくて、いきなり卑弥呼がくるのですか。」と苦言を呈している。
日本書紀
崇神 三年秋九月、遷都於磯城、是謂瑞籬宮
垂仁 冬十月、更都於纏向、是謂珠城宮也
景行 則更都於纏向、是謂日代宮
古事記
崇神 御眞木入日子印惠命、坐師木水垣宮、治天下也
垂仁 伊久米伊理毘古伊佐知命、坐師木玉垣宮、治天下也
景行 大帶日子淤斯呂和氣天皇、坐纒向之日代宮、治天下也
277日本@名無史さん2019/02/28(木) 02:53:55.27
>>258
>…ヤマトのヒメヒコを為すすんだよ
この書紀の崇神と百襲の設定は、書紀編纂者が倭人伝からパクったものだろう。
だから、古事記は、このエピソードに素知らん顔だ。
パクリをもって、ヒメヒコ制というような政治形態が古代にあった、と学者が胸張るとはな。
ちょっとした、お笑いではなのか〜。 278日本@名無史さん2019/02/28(木) 03:11:44.81
279日本@名無史さん2019/02/28(木) 03:12:40.05
>>255
75m〜80mというような幅の物差しの単位はないのだよ。
5mも幅を持たした単位があるなら、インキチし放題だ。
政府がインキチを奨励しとることになる。
だから、1里75m〜80mなんて単位は、あり得んワイ。 280日本@名無史さん2019/02/28(木) 03:14:37.24
>>278
九州また思考停止
というか、最初から思考してない? 281日本@名無史さん2019/02/28(木) 03:16:35.01
>>280 は?なにいってんだクズ?北九州が楽浪郡や帯方郡から4800キロも
かかるのかよ。ありえねえつってんだよ。 282日本@名無史さん2019/02/28(木) 03:23:42.85
>>277 倭人伝の「官」「副」は違和感ありますね。これは魏あるいは帯方郡と
通行(あるいは通信)があった諸国(つか、「村」)の正使と福使のことじゃないか。
外交においては中国のプロトコルが尊重されて正使福使という設定があるのは
想像されるけれども、倭の国(つか「村」)の統治が一貫して「官」「副」で記述
されているのは事実を調査して記述したものとはちと思えないですね。 283日本@名無史さん2019/02/28(木) 03:30:08.44
倭国の「倭」という文字はのちに「曲がりくねって遠いさま」という意味で詩歌に
うたわれるようになったのだけれども、これはあんがい皮肉であって、実際に
支那の使者が何度か倭の「やまとこく(村)」まで往来して、あきらかにそんな
距離など無く、そういった報告や文書などが賢人の間ではある程度知られて
板のかもしれない。一萬二千余里と記述されているけれども現実には千二百
余里もあるかなしかであって、そういうことを嗤う主旨で「倭とは曲がりくねって
とおいさまを表わす」と皮肉っているのならば具体的な数値となってくる。
284日本@名無史さん2019/02/28(木) 03:30:53.25
>>81
倭地の語彙は、「倭地温暖冬夏食生菜…」の箇所に出ており、この倭地は東の倭種の国を含んでいないので、「倭種を含む倭地」ということにならない。
沖縄あたりまで続く巨大九州島が、倭地。
東の大和は含まれていない。 285日本@名無史さん2019/02/28(木) 03:35:01.84
>>85
>5世紀には、倭国は、まだ北部九州が中心の国だ。
そんな、アホな。 286日本@名無史さん2019/02/28(木) 03:44:19.68
>>90
>高学歴の人は畿内説…
畿内説は、意識高い系のアホ。 287日本@名無史さん2019/02/28(木) 04:04:14.59
>>284
>沖縄あたりまで続く巨大九州島
九州説は捏造で出来ているwww 288日本@名無史さん2019/02/28(木) 04:57:30.60
>>276
>考古学者の森浩一(1928-2013)
「纏向遺跡の建物が出たとき、崇神の宮ではないか、垂仁の宮ではないか、景行の宮ではないかということは、どうして出てこなくて、いきなり卑弥呼がくるのですか。」と苦言を呈している
構図は簡単 利益誘導のために卑弥呼を悪用 289日本@名無史さん2019/02/28(木) 05:22:34.86
九州説にできることは中傷どまり
290日本@名無史さん2019/02/28(木) 05:43:31.75
429>>334
「南→東」や「尚方作」の無視など、
理由も言わずに人類の常識を平然と踏みにじり、
考古学的には大和説などと嘯く
まさに狂気の沙汰 291日本@名無史さん2019/02/28(木) 05:52:16.33
狂気の沙汰はザラコクだよ
尚方作なんて銘文は、三角縁にだってあるんだぜ
三角縁神獣鏡は明帝の下賜品だと認めるんだな?
292日本@名無史さん2019/02/28(木) 05:55:11.20
>>308
>平原1号墓は、魏志倭人伝に道教100枚もらったと明記されているのに、
後漢末〜魏代の鏡が1枚もない、仿製鏡ばかりがやたらに多い墓
墳丘の大きさは12×8メートルで、成人男子が10人もいれば1週間で作れるしょぼい墓
副葬品の多い厚葬墓で、副葬品から被葬者が女性の可能性が高い「だけ」で、
「女王」だとか「卑弥呼」だとかの想定は、よほどのバカでなければできない墓だよ<
いや、21枚の「尚方作」の方格規矩鏡が副葬されている鏡の女王だから、
卑弥呼か壹與かのどちらかであり、
卑弥呼の墓には祇園山があるから、壹與の墓である可能性が高いだけだ。 293日本@名無史さん2019/02/28(木) 05:55:34.68
>>308
>平原1号墓は、魏志倭人伝に道教100枚もらったと明記されているのに、
後漢末〜魏代の鏡が1枚もない、仿製鏡ばかりがやたらに多い墓
墳丘の大きさは12×8メートルで、成人男子が10人もいれば1週間で作れるしょぼい墓
副葬品の多い厚葬墓で、副葬品から被葬者が女性の可能性が高い「だけ」で、
「女王」だとか「卑弥呼」だとかの想定は、よほどのバカでなければできない墓だよ<
いや、21枚の「尚方作」の方格規矩鏡が副葬されている鏡の女王だから、
卑弥呼か壹與かのどちらかであり、
卑弥呼の墓には祇園山があるから、壹與の墓である可能性が高いだけだ。 294日本@名無史さん2019/02/28(木) 05:56:07.26
>>308
>平原1号墓は、魏志倭人伝に道教100枚もらったと明記されているのに、
後漢末〜魏代の鏡が1枚もない、仿製鏡ばかりがやたらに多い墓
墳丘の大きさは12×8メートルで、成人男子が10人もいれば1週間で作れるしょぼい墓
副葬品の多い厚葬墓で、副葬品から被葬者が女性の可能性が高い「だけ」で、
「女王」だとか「卑弥呼」だとかの想定は、よほどのバカでなければできない墓だよ<
いや、21枚の「尚方作」の方格規矩鏡が副葬されている鏡の女王だから、
卑弥呼か壹與かのどちらかであり、
卑弥呼の墓には祇園山があるから、壹與の墓である可能性が高いだけだ。 295日本@名無史さん2019/02/28(木) 05:57:26.94
>>308
>平原1号墓は、魏志倭人伝に道教100枚もらったと明記されているのに、
後漢末〜魏代の鏡が1枚もない、仿製鏡ばかりがやたらに多い墓
墳丘の大きさは12×8メートルで、成人男子が10人もいれば1週間で作れるしょぼい墓
副葬品の多い厚葬墓で、副葬品から被葬者が女性の可能性が高い「だけ」で、
「女王」だとか「卑弥呼」だとかの想定は、よほどのバカでなければできない墓だよ<
いや、21枚の「尚方作」の方格規矩鏡が副葬されている鏡の女王だから、
卑弥呼か壹與かのどちらかであり、
卑弥呼の墓には祇園山があるから、壹與の墓である可能性が高いだけだ。 296日本@名無史さん2019/02/28(木) 06:07:48.47
429>>350
「南→東」などの嘘吐き詐欺師の大和説者の脳は完全に壊れたな。 297日本@名無史さん2019/02/28(木) 06:10:46.87
429>>353
バッカな頭の♪
大和説は♪
いっつもみんなの♪
笑いもの♪ 298日本@名無史さん2019/02/28(木) 06:20:18.40
429>>361
>お前が卑弥呼しか知らないからだろww
普通に伊都国首長の奥さんだろ その程度の墓だよ<
伊都国首長の奥さんでは21枚の「尚方作」の鏡を副葬出来ない。 299日本@名無史さん2019/02/28(木) 06:26:13.81
429>>362
>棄却するしない以前に、信頼区間が広くなりすぎて意味のある情報がないって言ってるんだよww
まあ、そのレベルのことが理解できないから九州説なんだろうけど<
棄却するしない以前に、
里記載の起点到着点の比定や、データとして採用するしないとで、
類スレ主は、全くインチキ詐欺だ、といっているんだよ。 300日本@名無史さん2019/02/28(木) 06:29:46.29
429>>365
「南→東」などの嘘吐き詐欺の大和説者も、とうとう証拠提出できなくなり、
1里76.5mの否定説に、
根拠なしを晒したな。
よしよし。
早く目覚めてね。 301日本@名無史さん2019/02/28(木) 06:32:02.69
429>>367
このスレは
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説が
どうしてこうも下火になったか
初心者にもわかりやすく
現実的に体感できる
スレです 302日本@名無史さん2019/02/28(木) 06:32:12.99
>>287
>九州説は捏造で出来ているwww
お主の脳味噌の想像力が、完全に欠損しているだけ。
倭人伝に書いてある通りに普通に理解すれば、九州巨大島は当たり前の帰結。
自分の想像力の欠如に気づけ。 303日本@名無史さん2019/02/28(木) 06:35:02.40
429>>370
「南→東」などの嘘吐き詐欺がバレた大和説は
もう終いだな
全てが全て悪あがきの断末魔 304日本@名無史さん2019/02/28(木) 06:38:13.09
429>>373
「南→東」などの嘘吐き騙しがバレた大和説は、
こうして病身舞を踊りつつ
人々の忘却の彼方に消えていくのでした 305日本@名無史さん2019/02/28(木) 06:38:51.28
纏向と卑弥呼とどういう関係があるのか怪しくなってきたなww
306日本@名無史さん2019/02/28(木) 06:39:16.17
ザラコクさん、ウソをつくだけの残り人生って・・・むなしくない?
307日本@名無史さん2019/02/28(木) 06:46:01.58
429>>377
>(陳寿90度回転さん)
広めの海峡を渡ったらひと声『千里』。
陸上では、近い所は『百里』、ちょっと遠いところは『五百里』と、
行程記事は距離についてはこんなにアバウト。
ホントに歩数で測ったりしてたら、『百里』、『二百里』、『三百里』、『四百里』と、
もっとバラけるはずだ。
海峡だって真面目に測ったとしたら全部『千里』じゃなくて『五百里』とかが出て来るはず。
なので一万二千里がどうしたとか、短里がどうしたなんて議論は、本当に意味がない。<
「陳寿90度回転さん」男も×ね。
「方四百余里」や「方三百里」の計測情報がある事を、こっそり隠している!。 308日本@名無史さん2019/02/28(木) 06:49:52.15
429>>382
「南→東」などの嘘吐き詐欺の大和説は、
無知と、皇国史観の狂気が作った 309日本@名無史さん2019/02/28(木) 07:04:20.82
>>253
>それは具体的な場所じゃなくて、泡が勝手に挙げただけの条件だ
少なくとも、碌にに人が住んでいない所じゃないよ。 そりゃ、無茶というものだ。 残念でした。
>そして、「記紀に纒向に宮があると書いてある」のは間違いないな?
その記紀に書かれている纏向は、ひとが大勢暮らしている所。 よって、奈良の纏向では有り得ないってこと。
>これを否定した泡が、
記紀の記載を否定なんてしていないが??? 記紀に記載されているのは、人が大勢暮らす豊かな所。
君が勝手に奈良と決めつけているだけのことだよ。 @阿波 310日本@名無史さん2019/02/28(木) 07:05:30.00
429>>407
>だから仿世鏡ばかりで魏の皇帝下賜の鏡が一枚もない時点で <
21枚の「尚方作」鏡の存在を隠蔽している嘘吐き騙しだから、×。 311日本@名無史さん2019/02/28(木) 07:08:23.64
>>258
>これで十分だろ?
>卑弥呼・百襲姫と佐治国男弟の崇神で、ヤマトのヒメヒコを為すんだよ
君の妄想は聞き飽きた。 考古学的裏付け、まったくなし。 @阿波 312日本@名無史さん2019/02/28(木) 07:17:05.75
>>277
>この書紀の崇神と百襲の設定は、書紀編纂者が倭人伝からパクったものだろう。
>だから、古事記は、このエピソードに素知らん顔だ。
古事記の方が原伝承に近い体裁を取っているし、古事記に目的は豪族に繋がる系譜を示すことだが
あまりこういう理解はされていない
また、欠史八代は実際に欠史だったのだろう
だから夫壻なしの卑弥呼は、記事が少ない
日本書紀は、できるだけ多くの情報をもとに系譜だけではなく説話も重視して総合的に
記すことを編集方針としているので、崇神天皇紀以外も古事記よりも日本書紀の方が文章も
長く多くのエピソードを載せている
>パクリをもって、ヒメヒコ制というような政治形態が古代にあった、と学者が胸張るとはな。
日本書紀は、神功皇后を卑弥呼に当てているので、百襲姫の記述をに魏志倭人伝に
合わせる動機も理由もない
>ちょっとした、お笑いではなのか〜。
呼子が末盧国だとか言い張るとか、伊都国が邪馬台国だとか、短里があるとか言うことの方が
よほどひどいお笑い以前だと気づけるといいね! 313日本@名無史さん2019/02/28(木) 07:32:58.29
>>284
>沖縄あたりまで続く巨大九州島が、倭地。
その設定は、九州説お得意の短里の主張と相容れないのは分かるか?
九州説はその場その場で取り繕うとするから、いつも設定同士が矛盾する
>東の大和は含まれていない。
それは、「皆」倭種だから通らないと何度教えれば気づくんだ?ww 314日本@名無史さん2019/02/28(木) 07:36:30.29
>>306
>ザラコクさん、ウソをつくだけの残り人生って・・・むなしくない?
それが正しいという、半島儒教式の価値観で生きてるから、
ザラコク自身は充実してると思ってるよ
根っからのバカだし、漢文も読めないし科学知識もないのに、ググることすらしない情弱 315日本@名無史さん2019/02/28(木) 07:47:21.98
>>309
>少なくとも、碌にに人が住んでいない所じゃないよ。
泡はここから認識がおかしいんだよなww
土器の様式編年が作れるほど、纒向遺跡からは大量の土器が出ているが、
それが飯炊き甕なんだよ
大量のメシを食べる大量の人員が居たんだよw
>その記紀に書かれている纏向は、ひとが大勢暮らしている所。
大量のメシを食べる大勢のいる場所が纒向なんだから、完璧に合致するなww
>よって、奈良の纏向では有り得ないってこと。
つまり、泡のいうことは破綻しているし、結局具体的な「記紀の纒向ww」の
場所も言えない無能だ
>記紀の記載を否定なんてしていないが???
はっww
ゴマカシ嘘つき野郎の地が出てるなww
「>記紀に纒向に宮があったことは明記してあるのだから
うそはイカンぜよ。 @阿波」 」
『記紀に纒向に宮があったことは明記してある 』のを、ウソだと決め付けてるな!
泡は、トンデモ嘘つき野郎だ 316日本@名無史さん2019/02/28(木) 07:48:56.66
>>312
記紀の畿内説の都合の良いところだけ抽出するのはいかがなものか 317日本@名無史さん2019/02/28(木) 07:50:44.99
>>311
>君の妄想は聞き飽きた。 考古学的裏付け、まったくなし。
結局、泡は都合が悪くなると逃げる
いつもは、同じことをコピペして誤魔化すんだが、
それを指摘されて封じられると逃げる逃げるww
考古学的裏付けがないのは泡だろ
あるあるというのが全部しょぼいし、王都にふさわしいものはまるでないw 318日本@名無史さん2019/02/28(木) 07:51:06.40
>>315
現実的に纏向から集落跡とおぼしき、住居跡群が見つかっていないよ 319日本@名無史さん2019/02/28(木) 07:51:56.81
>>316
>記紀の畿内説の都合の良いところだけ抽出するのはいかがなものか
「具体的な指摘」なしなら無意味だと何度言えば? 320日本@名無史さん2019/02/28(木) 07:56:30.71
>>312
日本書記は、神功と卑弥呼に当てていない。
日本書記神功紀では、皇后の晩年に、卑弥呼の使節団が魏に朝貢している記事を倭人伝から引いている。
神功皇后はその時、大和で摂政を務めている。
神功と卑弥呼が別人であることは、はっきりしている。
崇神が卑弥呼の男弟と同じ立場の人物で、百襲が卑弥呼と同じ立場の人物であるとするのはよく似ているからであろうが、日本書紀の崇神と百襲の関係のパターンは倭人伝から移し替えたもののようにみえる。
日本書記のヤマト王権に対する考え方は、後漢書の卑弥呼の倭国→大和王権に立脚しているので、卑弥呼とその男弟に当たる人物が大和の政権にいなければならなかったということだと思われる。
しかし、実際には、卑弥呼とその男弟は筑後山門にいたことを日本書紀編纂者はちゃんと知っていて、田油津媛として記述している。 321日本@名無史さん2019/02/28(木) 08:01:05.84
宮と都とは必ずしも一致しない
同志社大学の名誉教授だった森浩一先生の指摘がズバリである
纏向の掘立柱建物は崇神の宮ではないか、垂仁の宮ではないか、景行の宮ではないかと考えるのが常道
322日本@名無史さん2019/02/28(木) 08:07:22.64
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだとバレ、
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を宣伝するために雇用した韓国人が焦って嘘を連続しているだけになったので、
宣伝の工作活動の終焉の時が近いので、韓国人の邪馬台国畿内説を宣伝する係員は、いま悶え喜んでいるのでは、ないのかな、、、
超ドMだからw
323日本@名無史さん2019/02/28(木) 08:12:51.11
429>>410
>割れた鏡の枚数でも、桜井茶臼山古墳に負けてるし、平原1号墓は
最初の頃、周溝に作られた土坑墓を原田大六氏が殉葬墓だと誤認したから、
魏志倭人伝の徇葬者奴婢百餘人と結びつけて考える人が出たってだけだぞ <
桜井茶臼山からは、「尚方作」鏡が出土したんかい?。 324日本@名無史さん2019/02/28(木) 08:17:56.12
>>313
“短里”などという物差しの単位は、存在しない。
1万2千余里は、遠い所という慣用句のようなもの。
この1万2千余里を地理的な実際の距離を表したものと考えるから、判断を誤る。
(皆倭種)の(皆)は、女王国から東へ千余里渡海したところにある複数の国を表したものであり、始発の(女王国)はこの(皆)に含まれない。 325日本@名無史さん2019/02/28(木) 08:19:05.76
429>>423
>平原1号墓が2世紀末というのは、魏志倭人伝とは独立の情報だから、<
21枚の「尚方作」鏡が出土したから、「2世紀末」説が×ね。 326日本@名無史さん2019/02/28(木) 08:24:03.40
>>315
>土器の様式編年が作れるほど、纒向遺跡からは大量の土器が出ているが、
その大量の土器が「東阿波型土器」様式だったという落ち。
>それが飯炊き甕なんだよ
>大量のメシを食べる大量の人員が居たんだよw
大勢の古墳人夫が飯を食べたんだろうね。
>大量のメシを食べる大勢のいる場所が纒向なんだから、完璧に合致するなww
大勢の古墳造営人夫が一時的に居たのは奈良纏向。
よって、奈良の纏向では有り得ないってこと。
> 『記紀に纒向に宮があったことは明記してある 』のを、ウソだと決め付けてるな!
その纏向は奈良の纏向じゃない と、何度言えばw ウソはイカンぜよ! @阿波 327日本@名無史さん2019/02/28(木) 08:24:45.47
429>>425
○人口や弥生銀座などの存在
○遺跡の分布
○冢の存在や初期の前方後円墳の分布
○「尚方作」鏡を始めとする明帝鏡や鏡片の分布
○行程記事
「人種差別的皇国史観」のキョクウ宗教に狂った大和論者の人たちには申し訳ないが、
これら全てが、女王國が筑紫であったことを示している。 328日本@名無史さん2019/02/28(木) 08:29:12.35
>>317
>考古学的裏付けがないのは泡だろ
竪穴式住居が無いのは考古学的に奈良纏向に決定済み。
>あるあるというのが全部しょぼいし、王都にふさわしいものはまるでないw
それは、まさに奈良纏向。 ワハハハハ。
君の妄想は聞き飽きた。 考古学的裏付け、まったくなし。 @阿波 329日本@名無史さん2019/02/28(木) 08:32:37.34
>>321
>纏向の掘立柱建物は崇神の宮ではないか、垂仁の宮ではないか、景行の宮ではないかと考えるのが常道
碌に人が暮らしてもいないような奈良纏向に、そんな宮が在る筈も無し。 @阿波 330日本@名無史さん2019/02/28(木) 08:32:42.09
429>>426
>7万戸は、沖縄あたりまで続く巨大島の想定のもとに想像で書かれた戸数<
7万戸は、おそらく、
大野から太宰府付近の卑弥呼の都から、
福岡平野〜筑紫平野を俯瞰して推定された、邪馬壹國の戸数。 331日本@名無史さん2019/02/28(木) 08:36:20.89
429>>452
「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソ付き詐欺がバレた大和説の、
終了のお知らせ 332日本@名無史さん2019/02/28(木) 08:37:40.46
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだとバレ、
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を宣伝するために雇用した韓国人が焦って嘘を連続しているだけになったので、
宣伝の工作活動の終焉の時が近いので、韓国人の邪馬台国畿内説を宣伝する係員は、いま悶え喜んでいるのでは、ないのかな、、、
超ドMだからw
333日本@名無史さん2019/02/28(木) 08:50:02.21
429>>453
>魏志倭人伝の書かれた時代に前方後円墳という言葉はない
もしあったのならそう書かれてただろうけど<
形状的に、前方後円墳≠冢。
>箸墓が卑弥呼の墓じゃなくても
全長で140mになるような古墳は畿内にいくらでもある 九州にはない<
「徑百餘歩」の「径」は長径であり、百余歩は25.5m余り。
九州には「殉葬奴婢百余人の冢」もある。
>景初二年は景初三年の誤記
複数の史書が卑弥呼が魏に使いを出したのは景初三年と記しているし <
後代史家の「自己解釈に拠る書き換え」になる記載は、証拠にならない。
>景初四年や正始元年などそれ以降の魏年号の入った鏡も畿内で見つかっている <
明帝下賜の「景初二年」以前の鏡にはならないし、大和からは出土していない。
>これは畿内が魏と継続して交流していた証<
畿内なんて存在もしない嘘つき文言であるし、
大和は、九州倭国から別れた別種の旧小国であるし、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の中で大きく出来た国。 334日本@名無史さん2019/02/28(木) 08:53:26.43
429>>457
いや「南→東」などの大和説の話
嘘つき騙しの詐欺師や、人種差別的皇国史観のキョクウの戦争殺人狂や、
ゴキブリと間違われる大和説 335日本@名無史さん2019/02/28(木) 08:56:11.40
429>>458
というか、
「南は東の間違いだ」のように、 方角も距離も大雑把だ、と言っている癖に、
墓の大きさの記述は正確だ、と言い張る大和説者の根拠って何なんだろう? 336日本@名無史さん2019/02/28(木) 09:00:39.35
429>>460
>根拠は実際に存在している前方後円墳や三角縁神獣鏡なんだが?
妄想が根拠の九州説とは違うのだよ<
大和の前方後円墳は、3世紀末以後だし、
三角縁神獣鏡は4世紀以後なんだが?。
九州説は、
「南→東」や「冢=前方後円墳」などの妄想が根拠の、
殺人戦争狂の皇国史観の大和説とは違うのだよ。 337日本@名無史さん2019/02/28(木) 09:15:29.04
ワハハハハ。
韓国政府が宣伝している邪馬台国畿内説が、完全に破綻した。。。
338日本@名無史さん2019/02/28(木) 09:26:34.31
邪馬台国への道を間違えたもの同士が、
ケンケンガクガク、甲論乙駁の大論争
このグジャグジャ状態は、100年続く
339日本@名無史さん2019/02/28(木) 09:40:47.88
429>>471
また大和説は朝から、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「百余歩≒25.5m→140m」とか、
発狂してるのか?。
かわいそうだな。 340日本@名無史さん2019/02/28(木) 09:48:30.80
429>>475
>しかし径百歩に相当する古墳や魏の年号の記銘された三角縁神獣鏡は実際に存在し
魏志倭人伝の記述とも合致している事が現在でもはっきりと確認できる<
「径百余歩≒25.5m余」の冢なら筑紫にあるし、
「殉葬奴婢百余人」の冢は、祇園山しか見つからないし、
「景初三年」以後の△は、明帝鏡ではないし、
大和からは、4世紀以後でしか見つからないし、
大和からは「尚方作」鏡が出土しない。 341日本@名無史さん2019/02/28(木) 09:51:18.80
429>>480
魏志倭人伝の記述と実際の考古物の一致
この事実によって,
「南→東」などの嘘つき詐欺の大和説などは、こっぱみじん 342日本@名無史さん2019/02/28(木) 09:54:41.65
429>>483
>前方後円墳や三角縁神獣鏡から悲鳴を上げて逃げ惑う九州説<
「卑弥呼の墓の冢」や21枚の「尚方作」鏡から、
悲鳴を上げて逃げ惑う「南→東」などの嘘つき詐欺の大和説。 343日本@名無史さん2019/02/28(木) 09:58:54.36
>>302
>九州巨大島は当たり前の帰結
九州だとゴリ押しするため、架空の地理をでっち上げておいて当たり前だとwww
九州説にとっては捏造は当たり前のことだと自分で言ってるわけだw
すげーな 344日本@名無史さん2019/02/28(木) 10:00:08.88
429>>486
>じゃ50歩だった証拠を持ってきな <
「徑百餘歩」だよ。
>銅鏡は百枚貰ったと書いてあるだろ<
「尚方作」鏡は〇だが、景初三年以後の紀年鏡や△は×だよ。
>都合が悪いから魏志倭人伝を無視する九州説><
「南→東」などのように、都合の悪い史料事実の否定曲解をする大和説。 345日本@名無史さん2019/02/28(木) 10:00:12.17
倭人伝の行程記事の
従郡至倭、循海岸水行歴韓国、乍南乍東、到、其北岸狗邪韓国
この「到」狗邪韓国の前には、「○乍ら(途中右折の)△乍ら」が入っている。
しかし上陸後の第一歩を、北東の糸島平原へ向かえば、険しいけれど一本道で右折左折はない。
ここを、前例に倣って(省略せず)正しく読むならば、
東南陸行して、○乍ら、途中折れて、△乍ら、「到伊都国」となる。
つまり、唐津平野から松浦川沿いに(南して、途中多久で右折の、東して)、
東南陸行500里で(佐賀川上の)伊都国に到る、という書き方だ。
346日本@名無史さん2019/02/28(木) 10:42:36.38
>>492
>ホケノ山の木棺は炭素14c年代測定法で120年〜240年と判明している
今の所三世紀中葉とされているがもしかしたら2世紀後半まで遡るかもなあ<
無理。
「木棺」では、
採取場所が木髄の近くだから、それだけで木皮までの年数だけ古く出るし、
AMSでも、プラズマ化に拠って、50〜100位古く出てしまう。 347日本@名無史さん2019/02/28(木) 10:50:09.20
阿波には人はいない
348日本@名無史さん2019/02/28(木) 10:50:41.51
429>>495
>じゃ百歩じゃなかった証拠は<
「徑百餘歩」だ。
>魏とは複数回交流があった事が魏志倭人伝に記録されている
そして複数の魏年号の記年鏡も見つかっている <
景初4年と6年と8年は、率善中郎將や大夫らが関与しただけで、
卑弥呼は直接関与しておらず、鏡を下賜された記録もないし、されていない。
本当に「南→東」などの嘘つき詐欺師の大和説は、魏志も読めず、物を知らないなあ。 349日本@名無史さん2019/02/28(木) 10:56:40.64
429>>499
「南→東」などの嘘つき詐欺師の大和説は、滅亡 350日本@名無史さん2019/02/28(木) 11:14:28.89
>>347
>阿波には人はいない
阿波には人がいっぱい。 @阿波
※北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)
【旧吉野川流域北岸勢力 弥生時代集落】
東州津遺跡・大柿遺跡・土取遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・薬師遺跡・吉水遺跡・田上I遺跡・拝原東遺跡・椎ヶ丸〜芝生遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・天神山遺跡・金泉寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・桧銅鐸出土地
【旧吉野川流域南岸勢力 弥生時代集落】
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡・石井遺跡
【鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落】
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡
※南の狗奴国(卑弥弓呼勢力)
【勝浦川流域勢力 弥生時代集落】
勢合銅鐸出土地・田浦遺跡・新居見遺跡
【那賀川流域勢力 弥生時代集落】
若杉山遺跡・加茂宮ノ前遺跡・深瀬遺跡・福寺山遺跡・宮ノ本遺跡
【海部川流域勢力 弥生時代集落】
芝遺跡・大里遺跡 351日本@名無史さん2019/02/28(木) 11:17:59.23
>>347
>阿波には人はいない
弥生人にとって、「阿波」はまさに理想の土地。
温暖な気候・多数の大河の恵み・大河流域の土地の恵み・黒潮流れる大海の恵み・山深い森林の恵み・多種類の希少鉱物の恵み
県北部(邪馬台国)には、銅、泥質片岩、緑色片岩、翡翠、蛇紋岩、紅蓮石
県南部(狗奴国)には、辰砂が採れる。
阿波に人が集まり、独自文化が発祥・全国展開したのは、当然といえば当然。 @阿波 352日本@名無史さん2019/02/28(木) 11:19:29.69
>>350
そのうち取り上げられる遺跡は2、3つ
石切場現地採用作業員集落 353日本@名無史さん2019/02/28(木) 11:26:09.26
429>>504
>理由は無いの? ただ「常識だー」と言い張るだけ?
それが九州説なの?<
大和説者や大和説学者らの常識の、
万世一系八紘一宇皇国史観という「結論先にありき」ではなく、
「人類の常識」な解釈に拠って、史料事実の理解や説明をするのが、九州説だ。 354日本@名無史さん2019/02/28(木) 11:27:42.43
>>352
>そのうち取り上げられる遺跡は2、3つ
2、3つ 分けてあげようか? @阿波
徳島県阿南市水井町「若杉山遺跡」・「丹波坑口」・「長生町奥ノ谷遺跡」
出土遺物
@石器(石臼・石杵)
A土器
甕・広口壺・二重口縁壺、小型丸底鉢、鉢、高杯、器台=生活用具のほとんどがそろっている
小型丸底坩(弥生X様式後半〜布留式まで)庄内式並行期がほとんど
土器胎土(結晶片岩・石英・雲母)
B玉類
蛇紋岩製勾玉
C鉄製品
刀子・不明鉄製品(やりかんな?)
D自然遺物
貝片・獣魚骨・人骨片
想定される生産形態
・土器以外の生活用具が少ないが、生活用具のほとんどが揃っている
・籾痕の付いた土器や鹿・猪・貝類=一定期間生活
・岩盤直上に営まれる→近くの集落の人間が農閑期に行う特産的生産レベルのものではなく、
分業化された専門工人集団の生産
・ハマグリ・オキアサリの成長線分析→採取時期は夏期後半から秋期後半
若杉山遺跡の採掘作業は、夏季後半から秋季後半に行われていた可能性
(徳島県立博物館1997・岡山1998) 355日本@名無史さん2019/02/28(木) 11:29:52.95
428>>513
論と証拠が揃っている九州説に
「南→東」などの嘘つき大和説の詭弁も、
もはや通用しやしない 356日本@名無史さん2019/02/28(木) 11:36:56.31
若杉山遺跡は辰砂採掘跡で集住遺跡じゃない
自然が造った鉱床
357日本@名無史さん2019/02/28(木) 11:37:46.65
429>>519
>現物が確かめられないならそこの記述は事実じゃないというだけだが?<
魏使らは、現物を見なくっちゃ「殉葬奴婢百余人」なんて書けないんだし、
筑紫には祇園山が存在しているんだが。
>しかし径百歩の墓は畿内に実在している <
そりゃ、「径百余歩(≒径25.5m余)の冢」なら、
おそらく、列島各地に存在しているんだろうが、
殉葬奴婢百余人を満たし得る墓は、現在のところ、祇園山しか存在しない。 358日本@名無史さん2019/02/28(木) 11:42:55.92
>>356
>若杉山遺跡は辰砂採掘跡で集住遺跡じゃない
集落遺跡? 若杉山遺跡から約5キロの集落遺跡。 はいどうぞ。
縄文の「朱」生産拠点
阿南・加茂宮ノ前遺跡
国内最大、最古級
祭祀と居住一体出土
阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡で、古代の祭祀などに使われた赤色顔料「水銀朱」を生産したとみられる縄文時代後期(約4千〜3千年前)の石臼や石きね300点以上や、
水銀朱の原料の辰砂原石が大量に出土した。
水銀朱に関連した遺物の出土量としては国内最多。生産拠点として国内最大、最古級だったことが明らかになった。
県教委と県埋蔵文化財センターが18日、発表した。
石臼の大きいものは直径30センチ。石きねは同約10センチ。生産した水銀朱を貯める土器、表面に水銀朱を塗った土器の破片や耳飾りが多く見つかり、
関連した遺物の出土数は1000点以上に上った。
水銀朱生産の一大拠点とされる三重県度会町の森添遺跡などでも縄文後期の石臼や石きねが見つかっているが、数十点にとどまる。
調査面積は約1万平方メートル。祭祀に使っていたとみられる石を円形に並べた遺構14基や住居跡2基も見つかった。
縄文後期の居住域と祭祀の遺構がまとまって確認できたのは西日本で初めて。
センターによると、辰砂原石は約5キロ離れた若杉山周辺から採取された可能性が高いとみられる。土器の模様には九州の土器に類似した特徴があり、
「当時から地域交流をしていたことがうかがえる」としている。
県教委などは2016年度から加茂宮ノ前遺跡を調査しており、弥生時代中期末〜後期初頭(約2千年前)の層から、鉄器や水銀朱の生産拠点とみられる集落跡を確認。
今回の発見で水銀朱の生産、利用時期は約1500年以上さかのぼることが明らかになった。
県教委教育文化課は「調査研究を進めて広く展示公開し、徳島の歴史や文化財に興味を持ってもらえるような取り組みを進めたい」としている。
2019年(平成31年)2月19日 徳島新聞朝刊 359日本@名無史さん2019/02/28(木) 11:48:16.20
>>356
>若杉山遺跡は辰砂採掘跡で集住遺跡じゃない
倭国(阿波)では、縄文時代から大勢住んで、お祀りでどんちゃん騒ぎしてたかもね。 ワハハハハ。 @阿波 360日本@名無史さん2019/02/28(木) 11:51:09.87
>>358
倭人伝が書いているのは曹魏の時代なので
遺跡の該当する時代の話をしている
阿波は縄文時代から現代まで採石場
石じゃ人口は増えない 361日本@名無史さん2019/02/28(木) 11:58:05.39
>>360
>倭人伝が書いているのは曹魏の時代なので
>遺跡の該当する時代の話をしている
同じ「加茂宮ノ前遺跡」の前々回の発掘報告。この時は縄文時代は未確認だった。
「弥生〜古墳時代と鎌倉〜室町時代の集落跡」 井の中の蛙さん、はいどうぞ。 @阿波
「加茂宮ノ前遺跡」
徳島県阿南市加茂町大西、宮ノ前にある加茂宮ノ前遺跡は那賀川の右岸、標高約24〜26mの自然堤防に立地している。
発掘調査では、弥生〜古墳時代と鎌倉〜室町時代の集落跡を確認。弥生時代中期後半〜古墳時代前期初頭(紀元1〜3世紀ごろ)の竪穴住居跡20棟余りと、土坑、溝、柱穴を発見した。弥生〜古墳時代の県内最大規模の集落とみられる。
住居跡や周辺の遺構からは、水銀朱の精製に関わる磨石(すりいし)や石杵、石臼などの石器500点余りと、祭祀に関わる水銀朱の原料となる辰砂約90点が見つかり、注目される。
住宅跡からは、サヌカイト製の石器とその残りかす、糸を紡ぐために使う土製紡錘車、鉄器、ガラス小玉が出土。鍛冶炉(製鉄の炉)を備えていた。
一つの住居で辰砂の精製と鉄の加工、紡織、石器づくりをしていることから、さまざまな物を同時に作る工房としての性格があることが分かった。
加茂宮ノ前遺跡の南西約5qには、弥生〜古墳時代の辰砂採掘遺跡である若杉山遺跡がある。那賀川の対岸には縄文〜鎌倉、室町時代の深瀬遺跡がある。若杉山、深瀬の両遺跡は時代が共通する上、辰砂が見られる点から、加茂宮ノ前遺跡との関連が注目される。
加茂宮ノ前遺跡では、水銀朱を作っていたほか、石器、鉄器の製作加工や紡織をするなど「生産のムラ」として大規模に展開していたといえる。(県埋蔵文化財センター専門研究員 田川憲) @阿波 362日本@名無史さん2019/02/28(木) 12:00:20.03
>>358
>土器の模様には九州の土器に類似した特徴があり、
南九州から移住したのかな? 363日本@名無史さん2019/02/28(木) 12:00:49.76
>>360
>倭人伝が書いているのは曹魏の時代なので
>遺跡の該当する時代の話をしている
倭国(阿波)では、卑弥呼時代から大勢住んで、お祀りでドンちゃん騒ぎしてたかもね。 ワハハハハ。 @阿波 364日本@名無史さん2019/02/28(木) 12:02:38.61
>>362
>南九州から移住したのかな?
ハハハ、南九州へ行ったんだろう。 @阿波 365日本@名無史さん2019/02/28(木) 12:06:51.42
>>361
>紀元1〜3世紀ごろの竪穴住居跡20棟余り
鉄器を加工できる親方が現地人を採用した採石場の小さな村
我々は王都や有力国の話をしている 366日本@名無史さん2019/02/28(木) 12:16:23.98
>>361
加茂宮ノ前遺跡で、住居跡20軒、内10軒から
鉄器を製作した鍛冶炉や鉄器作りに用いた道具類などが出土したのは
弥生時代中期末〜後期初頭のようだが? 367日本@名無史さん2019/02/28(木) 12:19:26.14
>>365
>我々は王都や有力国の話をしている
夢の中だけでね。 @阿波 368日本@名無史さん2019/02/28(木) 12:23:48.42
小さな石切場集落の加茂宮ノ前遺跡は何度か断絶しているようだな
石を取っては去り、また新しい親方がやって来ては石を取り、
そしてまた去りを繰り返したのだろう
369日本@名無史さん2019/02/28(木) 12:24:37.40
>>366
>弥生時代中期末〜後期初頭のようだが?
君の希望的感想は不要。 @阿波 370日本@名無史さん2019/02/28(木) 12:26:58.54
>>368
>加茂宮ノ前遺跡は何度か断絶しているようだな
君の希望的感想は不要。 @阿波 371日本@名無史さん2019/02/28(木) 12:28:31.41
阿波はこれからも石切り場としての誇りを持って
これ以上人口が減少しないように若者を石切工人として育てていただきたい
それと宿泊者数が全国最低が何年も続いているので
観光客にあまり阿波起源を連呼して嫌な思い出を残さないように
372日本@名無史さん2019/02/28(木) 12:28:50.04
>>326
>その大量の土器が「東阿波型土器」様式だったという落ち。
「阿波南部海岸地域の一様相」ー芝遺跡を中心としてー 林田真典
http://1st.geocities.jp/rekisironnsyuu/sibaiseki.ronnbunn.html
「3、旧河道出土資料について
旧河道からは弥生時代終末頃〜古墳時代前期前半頃にかけての外来系土器が多く出土した。」
「下層から布留甕1個体が出土し、上層からは東阿波型土器や布留式土器がまとまって出土しており、
時期差の可能性が考えられる出土状況が確認できた。」
東阿波型土器と畿内土器は、明確に区別できてるぞ
「阿波97個体で48%、畿内39個体で20%、在地36個体で18%、
讃岐7個体で4%、土佐3個体で2%、吉備3個体で2%、産地不明が12個体で
6パーセントである。」
「約半数が阿波(東阿波型土器を含む吉野川下流域)の土器で占めており、
次いで畿内系土器、在地土器の出土数が多い。」
うそつき妄想野郎のウソを暴くのも面倒でしょうがない
泡のいう、東阿波型土器の実態はこんなものだ 373日本@名無史さん2019/02/28(木) 12:33:51.81
>>372
>「約半数が阿波(東阿波型土器を含む吉野川下流域)の土器で占めており、
>次いで畿内系土器、在地土器の出土数が多い。」
それ全部、「東阿波型土器」様式だよ。 そんなに必死にならずに落ち着き給え。
そうとう、頭から湯気が立ってるようだね。 さもありなん。 @阿波 374日本@名無史さん2019/02/28(木) 12:34:17.69
>>326
>大勢の古墳人夫が飯を食べたんだろうね。
その大勢の人は、野宿だったとでも言うつもりかい?
古墳の造営には、年単位の時間がかかったはずだし、累代的に作られているから
その大勢の人がずっと纏向周辺に存在した訳だ
その大勢の人たちの存在が確実で、住居跡の検出が少ないということは
住居跡の発見率が低いってことだ
こういう簡単な論理的帰結が理解できない能無しが、トンデモ説に走る
そして、無能なやつに限って無駄に活発に書き込むから始末に負えない
竪穴式住居跡が少ないから、纏向遺跡が集落遺跡ではないとか、纏向には
人が住んでいなかったとかいうのは、バカ以外は主張しないww 375日本@名無史さん2019/02/28(木) 12:38:33.46
>>326
>大勢の古墳造営人夫が一時的に居たのは奈良纏向。
>よって、奈良の纏向では有り得ないってこと。
だいたい、「王権の所在地=王都」と「王墓の所在地」が別の場所にあるというのが
そもそも意味不明で、まったく根拠がない
大勢の古墳造営人夫がいたら、それは王墓の造営だしそこが王都だ
つまり、奈良の纏向が記紀に書かれた、崇神、垂仁、景行の三代の宮都なのは確実だ 376日本@名無史さん2019/02/28(木) 12:39:49.19
>>374
>その大勢の人は、野宿だったとでも言うつもりかい?
野宿というか、竪穴式住居より簡易なものだったんだろうね。
案外、竪穴式住居は高位の家族住居じゃないかと思っている。 @阿波 377日本@名無史さん2019/02/28(木) 12:40:56.03
378日本@名無史さん2019/02/28(木) 12:43:51.54
瀬戸内には別の文化圏・軍事勢力圏があったと思われるが、それは北九州ー日本海ー畿内勢力とは
敵対関係にあったのではないか。やはりこれが魏志倭人伝の言う邪馬台国とはちと思えない。
むしろ狗奴国(狗古智卑狗を王とする)の勢力だったのでは?
379日本@名無史さん2019/02/28(木) 12:44:26.82
>>326
>> 『記紀に纒向に宮があったことは明記してある 』のを、ウソだと決め付けてるな!
>その纏向は奈良の纏向じゃない と、何度言えばw ウソはイカンぜよ!
どこまでも誤魔化そうとしているが、 『記紀に纒向に宮があったことは明記してある 』というのは
それが奈良の纏向であるという主張を含んでいない
泡は自分の無能を話を摩り替えることで誤魔化そうとする卑怯者
まあ、記紀の纏向=奈良の纏向なのは確実だがな
磯城(師木)の纏向は、日本中探してもここしかないんだからw
泡も結局、言を左右するだけで、違うと言いながら自分の主張する「記紀の纏向」の
「具体的な場所」など、一切言えないしそんな場所はないからなw 380日本@名無史さん2019/02/28(木) 12:44:44.98
>>375
>だいたい、「王権の所在地=王都」と「王墓の所在地」が別の場所にあるというのが
>そもそも意味不明で、まったく根拠がない
その意味を教えよう。 そのお墓は倭国(阿波)を発った「忌部はん」 の物だからだよ。 分かったかい?
大勢の古墳造営人夫が一時的に居たのは奈良纏向。
よって、奈良の纏向では有り得ないってこと。 @阿波 381日本@名無史さん2019/02/28(木) 12:49:24.19
382日本@名無史さん2019/02/28(木) 12:50:13.53
>>379
>それが奈良の纏向であるという主張を含んでいない
そうだね。 奈良の纏向じゃないね。
>まあ、記紀の纏向=奈良の纏向なのは確実だがな
君の夢のなかではね。 ハハハハ。 @阿波 383日本@名無史さん2019/02/28(木) 12:53:05.18
>>381
>理想の土地秘境阿波に造れよw
倭国(阿波)を発った「忌部はん」 が勝手に造り始めたんだよ、 我も我もと、本国に見栄を張ってさ。 @阿波 384日本@名無史さん2019/02/28(木) 12:54:31.19
阿波は忌部の部民だよ
385日本@名無史さん2019/02/28(木) 12:55:16.22
仏法が古くから四国に深く定着し信仰された歴史と、
倭とりわけ邪馬台勢力と敵対していたという経緯は
無関係ではない気がする。四国は、紀伊や茨城などと
おなじ海洋民族の文化が強かったのではないか。
386日本@名無史さん2019/02/28(木) 13:00:44.11
>>385
>倭とりわけ邪馬台勢力と敵対していたという経緯は
どちらも倭国(阿波)だから。 敵対してたのは倭国(阿波)内でのお話。 @阿波 387日本@名無史さん2019/02/28(木) 13:01:19.39
徳島って丸木舟も準構造船も出てなかったよな
388日本@名無史さん2019/02/28(木) 13:08:26.34
300年代の倭人にはすでに外洋の渡海能力がそなわっていたのに
わざわざ日本海側を陸行して吉備から瀬戸内海側に抜ける経路を
とるのは、瀬戸内海を航行できなかった具体的な理由があったから
だろうというのがおれの見立て。そこはあきらかに北九州-出雲-畿内
勢力とは敵対関係にあったのではないか。
389日本@名無史さん2019/02/28(木) 13:12:28.29
博多湾岸で出土する遺物からはルート自体は日本海、瀬戸内の両方ある
遺跡の消長が連動しているのは瀬戸内側
390日本@名無史さん2019/02/28(木) 14:33:30.34
>>376
>案外、竪穴式住居は高位の家族住居じゃないかと思っている。
高位の家族住居ってww 竪穴式住居が?ww
泡ではそうなんだろうな、泡ではww 391日本@名無史さん2019/02/28(木) 14:36:27.23
阿波がまた血迷ったレスしてるのかwww
相変わらずだな。。。
392日本@名無史さん2019/02/28(木) 14:37:08.34
>>380
>その意味を教えよう。 そのお墓は倭国(阿波)を発った「忌部はん」 の物だからだよ。 分かったかい?
妄想乙ww
倭人をすべて忌部と言い張るだけの無能が泡
土器をすべて東阿波型土器と言い張るだけの無能が泡 393日本@名無史さん2019/02/28(木) 14:42:50.22
阿泡沫あいてにしてても仕方ないだろ
生産的なことしようよ
394日本@名無史さん2019/02/28(木) 14:45:09.65
>>382
>そうだね。 奈良の纏向じゃないね。
だと仮に仮定しても、
「>記紀に纒向に宮があったことは明記してあるのだから
うそはイカンぜよ。」
と書いた泡が、大バカなのは変わらない
誤魔化してもダメ
泡は無能
>君の夢のなかではね。 ハハハハ。
逆だ、逆w
記紀の記述を知っている、泡以外のほぼ全ての人が、纏向遺跡は記紀の記す纏向にあると
理解してるよ
違うというなら、具体的な「記紀の纏向」の比定地を挙げろって何度言われてもできないし
無能の極致
まあ、泡は「トンデモ妄想の世界」の中の住人だから仕方ないよな 395日本@名無史さん2019/02/28(木) 14:51:22.89
>>393
>阿泡沫あいてにしてても仕方ないだろ
>生産的なことしようよ
まあ、そうなんだけどねw
葛城厨の左側スロープ君も、袋叩きになってからほぼ来なくなったし、
次はそろそろ泡も葬る順番かなと思って 396日本@名無史さん2019/02/28(木) 15:36:27.20
>>395
>次はそろそろ泡も葬る順番かなと思って
さあ、頑張ってやってみよう! トンデモ諸君! ワハハは @阿波 397日本@名無史さん2019/02/28(木) 15:41:01.21
>>390-395
は、口先だけで、ひとつも根拠を挙げて葬れない、腰抜けトンデモさんだから。
まあ、碌な遺跡もない所だから、口先だけになるわな。 @阿波 398日本@名無史さん2019/02/28(木) 15:42:57.51
>>390
>高位の家族住居ってww 竪穴式住居が?ww
碌に、竪穴式住居もない所が?ww @阿波 399日本@名無史さん2019/02/28(木) 15:46:01.66
>>393
>生産的なことしようよ
碌な遺跡も無い所では、そりゃ無理だわ。 いままで生産的なこと、出来なかったいい証拠。 @阿波 400日本@名無史さん2019/02/28(木) 15:55:02.55
韓国政府が宣伝していた、碌な遺跡も無い所が邪馬台国だという意見の邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのだね。。。
401日本@名無史さん2019/02/28(木) 15:57:35.76
纒向遺蹟は魏志倭人伝時代が終了した後に製作されたのだが、碌に、竪穴式住居もないのでは、なかったのかな。。。
402日本@名無史さん2019/02/28(木) 15:59:45.52
>>401
騎馬時代に、遠くから人民が、馬で荷物を運んでやってきて、馬で遺蹟を作製したのだったね。。。 403日本@名無史さん2019/02/28(木) 16:01:03.14
>>402
纏向遺蹟に人民の住居は、無かったのではないのかな。。。 404日本@名無史さん2019/02/28(木) 16:15:56.60
429>>521
魏志倭人伝の記述と多数の史料事実や実態との合致
これによっても、「南≠東」などによっても、
大和説などは、粉っぱみじん 405日本@名無史さん2019/02/28(木) 16:21:35.17
>>397
>は、口先だけで、ひとつも根拠を挙げて葬れない、腰抜けトンデモさんだから。
基本的に全部根拠や理由がついてるだろ?
まあ、繰り返しになってる部分は書いてないけどな
基本はこれなんだよ
↓
倭人をすべて忌部と言い張るだけの無能が泡
土器をすべて東阿波型土器と言い張るだけの無能が泡
泡の言う「それ、忌部はん」に根拠がない
泡の言う「それ、東阿波型土器」に根拠がない
泡は、本当にこれだけだからみっともないww 406日本@名無史さん2019/02/28(木) 16:22:06.51
竪穴式は快適さでいえば下手な高床式より良いよ。とくに冬の寒さにはめっぽう強い。
雨による浸水も周辺の排水にさえ注意しておれば屋内まで浸水するということはまず無い。
竪穴式のデメリットは集住に向かないことで、10戸や20戸ならまだしも、何千戸もが
集住するような都を形成するには上下水あるいは建築資材の調達、燃料等の調達で
破綻する。巨大集落の形成は、高床式という建築技術の渡来がなければ不可能事
だったと思われる。
407日本@名無史さん2019/02/28(木) 16:23:13.97
水田稲作の起源地域は竪穴住居ではないからな
408日本@名無史さん2019/02/28(木) 16:24:16.11
429>>525
どこが問題なんだ?
「冢」や「殉葬奴婢百余人」や「径百余歩」など、
最も史料実態確認の難易度の低いものとの一致に、信頼性があるのは当然なのに
こんなことも理解できないとは
「南→東」などの嘘つき詐欺の大和説は困ったものだな 409日本@名無史さん2019/02/28(木) 16:27:34.50
429>>526
現に冢や径百余歩や殉葬奴婢百余人と、
ほぼ一致する祇園山という実物があんだからどうしようもないだろ
魏志倭人伝の記述と考古物の合致を見るのが九州説
妄想で語るのが大和説 410日本@名無史さん2019/02/28(木) 16:32:45.78
東夷伝で竪穴住居と考えられるのは、
「居所作草屋土室 形如冢 其戸在上 擧家共在中 無長幼男女之別」(韓伝)
「常穴居 大家深九梯以多為好」(挹婁伝)
411日本@名無史さん2019/02/28(木) 16:34:37.67
畿内説に聞くが、そもそも箸墓を卑弥呼の墓などと言った奴は誰なんだ?
そして根拠は何だったんだ?
412日本@名無史さん2019/02/28(木) 16:35:06.93
429>>533
>ちなみに奴婢を生き埋めにした跡は国内のどの古墳からも見つかってないよ
その事実の確認が取れないから周りに奴婢が埋まってるのが卑弥呼の墓だとは言えない <
祇園山で見つかっている。
>けれど径百歩の墓は実在している
そういうわけで径百歩の確認が取れる古墳が卑弥呼の墓<
箸墓は、冢ではないし、径百余歩ではないし、
殉葬奴婢百余人も見つかっていないから、×。 413日本@名無史さん2019/02/28(木) 16:38:06.59
429>>535
>径百歩の墓が円墳だとしても
九州にはなくてそのクラスがあるのは畿内なんだよな<
大和には、径百余歩の冢で、殉葬奴婢百余人がある墓は、見つかっていない。 414日本@名無史さん2019/02/28(木) 16:52:30.20
429>>537
>それこそ大昔から前方後円墳はなになに塚という名称で呼ばれて来たんだが<
「冢」と「塚」では文字が違うし、
説文解字も「冢=高墳」として「冢≠墳」である事を書き、
孔明も墳と冢とを違う概念として書き分けている。 415日本@名無史さん2019/02/28(木) 16:57:42.16
前から意味不明だったんだが、コピペなのかこれ
416日本@名無史さん2019/02/28(木) 17:01:40.15
三國志厨?
厨というのは、
そういう物(例えば、人物なら孔明)などを、
凄いと思い込んでいる・・・、みたいな意味らしいよ
417日本@名無史さん2019/02/28(木) 17:02:35.92
429>>545
魏志の「冢」は、古代の魏使らが記録した文言であるから、
魏代にはどんな意味で使われていたのか?が問題であり、
「冢」とは違う文字である「塚」を、日本人がどういう意味で使おうと、
関係がない話。 418日本@名無史さん2019/02/28(木) 17:16:58.88
>>405
>基本的に全部根拠や理由がついてるだろ?
碌な遺跡もないのに? 碌に人が暮らしてもいないのに? わはははは。
>土器をすべて東阿波型土器と言い張るだけの無能が泡
軽量薄型土器「東阿波型土器」を否定できない無能さん。
>>405は、口先だけで、ひとつも根拠を挙げて葬れない、腰抜けトンデモさんだから。
トンデモさんは、本当にこれだけだからみっともないww @阿波 419日本@名無史さん2019/02/28(木) 17:22:44.62
本当の話
老婆が言っていた事なんだけど、
テレビとか、そういうものばかり観ていると頭が悪くなると
医者が言っていたとかw
町内(お年寄り)の集まりみたいなのがあるでしょ、
そこに呼ばれてくる医者がいるんだけど・・・
『老婆談』
420日本@名無史さん2019/02/28(木) 17:24:45.76
ちなみに家は『松傾』・・・、
こういう名前の家、写真などもあったでしょw
421日本@名無史さん2019/02/28(木) 17:27:57.43
『渚・モデラート』
何か繋がっているのかな?
『浦島太郎』のような感じがしたり
422日本@名無史さん2019/02/28(木) 17:32:55.30
王母(神仙界?)〜と書いてあったり
『平家 祇園精舎』
423日本@名無史さん2019/02/28(木) 17:38:47.62
むかーし泥棒のようなものに入られて〜と言っていたりw
冤罪、嘘の事件の話とか?
424日本@名無史さん2019/02/28(木) 17:46:45.23
429>>546
>矢野神山<
「後円部」と言うようじゃ、そりゃおそらく前方後円墳であるから、「冢」にはならず、
「殉葬奴婢百余人」の痕跡もないようだから、
卑弥呼の墓説は×だな。 425日本@名無史さん2019/02/28(木) 17:51:48.20
泥棒のようなものに入られたと言うのも、
明治頃の話
老婆も生まれていなかった頃・・・、
親(義父、義母)などから聞いた話だと言っているし
老婆というのは『松傾』の嫁w
同じような名前の人がいたでしょ、冤罪事件?
426日本@名無史さん2019/02/28(木) 17:54:37.38
>>417
>魏代にはどんな意味で使われていたのか?が問題であり、
>「冢」とは違う文字である「塚」を、日本人がどういう意味で使おうと、
>関係がない話。
つまり現代日本人ザラコクが冢とはなんだかんだと
勝手に言ってることは無効だ
当然だが 427日本@名無史さん2019/02/28(木) 17:56:55.16
>>556
>という事は、
魏志倭人伝での卑弥呼の墓の記述は創作だったという事だ <
祇園山の墳裾の62個の小型埋葬施設の中には、
複数埋葬とか差し違え複数埋葬があった、という事であり、
そんな事は普通の集団墓地では起こり得ない事であり、
だから、殉死後殉葬の場合に起こり得る事。 428日本@名無史さん2019/02/28(木) 18:01:29.16
うらしまマリン(仮)
というキャラが登場するコミックの話なんだけど
テレビ?観ないじゃん(観たいものがない)
と書いてあったり
本当に家の老婆関係の話でしょ?
429日本@名無史さん2019/02/28(木) 18:06:37.30
ザ・モモタロウがやっていた当時?
既に・・・町内会(老人会?あまり覚えていない)に行っていたし、
あそこにある町内会館
430日本@名無史さん2019/02/28(木) 18:23:09.75
牛郎〜の話と同じでしょ、
老婆の実家(行ったことも無いから知らないけど)は
牛を飼っていた家で・・・、
431日本@名無史さん2019/02/28(木) 18:32:06.20
天の軍団〜〜〜〜〜戦争、空襲のことでしょ?
日本は負けたの?
432日本@名無史さん2019/02/28(木) 18:42:22.95
家は戦争には行っていないと言っているし、
むかーし住んでいたという家に疎開(避難)
親戚の家(『松傾』)に疎開したのかな、
蚕を飼い、機織りをしていたり、歌舞伎や芝居が〜とも言っていたし
433日本@名無史さん2019/02/28(木) 18:53:54.34
古代中国で言うと、
神仙界(天)から軍団が来たと言う話なんじゃないの?
いまでいうと空軍
434日本@名無史さん2019/02/28(木) 18:57:50.40
何か知っている人がいるのかな?
『何者にもなれない お前たち』
435日本@名無史さん2019/02/28(木) 19:17:50.08
429>>591
>鉄器など畿内の古墳2基だけで300点は見つかってる
絹も鏡を包んでいた痕跡が出てるよ<
畿内なんて存在もしないし、
その古墳というのも大和の前方後円墳だから、3世紀末以後であり、
卑弥呼のいた証拠にはならないものだ。 436日本@名無史さん2019/02/28(木) 19:21:34.92
本当に偶然にしては・・・?という話ばかり、
妹がいるんだけど、5月生まれ
『松傾』・・・の家
437日本@名無史さん2019/02/28(木) 19:30:04.02
429>>593
>>正確じゃない情報が混じってても
実際にものがあるならその部分は事実を書いてると言えるだろ
不正確な記述にたまたま合致する現物があった という可能性を否定できないからダメ<
>事実を書いてるとは言えない<
要は、史料批判をして、同時代性や客観性や職業的人間的な信頼性を確認して、
確率の高さに拠って、決めるべきだ、という事だ。
だから、倭人伝は、魏使ら役人の業務上の記録であるから、
確率が非常に高く、歴史への推論根拠になり、
後代史家や現代大和説者らのような、「自分の思想や考えに拠って、前史を書き換えた」史料は、
確率が低くて根拠にならない、という事だ。 438日本@名無史さん2019/02/28(木) 19:30:42.51
5月15日
金牛星=おうし座、金牛宮?
439日本@名無史さん2019/02/28(木) 19:36:46.37
429>>602
>たまたま偶然という可能性を否定できないのでダメ <
不可知部分が殆どである自然や歴史においては、
知り得た資料事実を資料批判をして、
確率の高い資料からの、帰納的推論をするしかないもの。 440日本@名無史さん2019/02/28(木) 19:36:59.76
いつも思うが歴史に確率の高さとかアホかと
90%の事象が10回あれば正しい確率は3割じゃないか
441日本@名無史さん2019/02/28(木) 19:38:28.11
>>437
はて、この切れの良い文体は、
このところ良く拝見するような気がいたしまするが・・・、 442日本@名無史さん2019/02/28(木) 19:39:59.55
>>418
>軽量薄型土器「東阿波型土器」を否定できない無能さん。
軽量薄型土器は、庄内式土器(土師器)の特徴であって、東阿波型土器だという根拠にはならない
庄内式土器は、山陰の内ケズリや、吉備の横みがき仕上げの影響で河内南部で成立したと考えられている
泡は、畿内出土土器を「東阿波型土器」だと判断する根拠を示したことがこれまで一度もない
そして、そんな根拠はどこにもないし、今後も示されることはないだろう
「土器をすべて東阿波型土器と言い張るだけの無能が泡
泡の言う「それ、東阿波型土器」に根拠がない 」
これに、具体的な返答ができなければ、泡は自滅で終了ww 443日本@名無史さん2019/02/28(木) 19:50:32.91
>>442
>軽量薄型土器は、庄内式土器(土師器)の特徴であって、東阿波型土器だという根拠にはならない
畿内説のお抱え学者にでも尋ねてごらん。 無知さんにも教えてくれるだろう。
>庄内式土器は、山陰の内ケズリや、吉備の横みがき仕上げの影響で河内南部で成立したと考えられている
あっ、そう。 山陰「忌部はん」や吉備「忌部はん」 のお陰と言いたいんだね。 ワハハハハ。 @阿波 444日本@名無史さん2019/02/28(木) 19:51:23.23
429>>608
>実際には殉葬は生き埋めじゃなくて特殊壷とかに
血を入れて特殊器台に捧げたとかだろな
人物埴輪の現れる前の古い古墳にはそれがある
殉葬跡は特殊器台で箸墓にもあって
径百歩で殉葬跡が認められる箸墓こそ卑弥呼の墓の条件を満たしていると言える<
殉葬の原則は、殉死者の陪葬であり、生き埋めや特殊器台ではなく、
陪葬になる場所できちんと墓に埋葬するもの。 445日本@名無史さん2019/02/28(木) 19:56:19.83
429>>611
>けど魏志倭人伝に書いてある径百歩とされる墓が畿内にいくつもある
九州にはない<
「径百余歩」は「径25.5m余」であり、それだけなら、列島中に沢山あった筈。
>これをどう捉えるべきか<
この投稿男が嘘つき詐欺師であったんだろう、と捉えるべき。 446日本@名無史さん2019/02/28(木) 20:00:25.70
429>>616
「南→東」などの嘘つき詐欺がバレた大和説は、
早い所白旗上げて、この、掲示板から撤退するんだな 447日本@名無史さん2019/02/28(木) 20:01:53.85
『神獣鏡』検索してみて
神仙思想〜東王父、西王母〜と書いてあったり
448日本@名無史さん2019/02/28(木) 20:03:40.17
>>343
卑弥呼の里大和を捏造するお主には、さすがに勝てんよ。
わははははは。 449日本@名無史さん2019/02/28(木) 20:06:14.78
『もののけ姫 ヒイ』
こういうのも同じ、同じ家の話なんだろうという意味
450日本@名無史さん2019/02/28(木) 20:07:02.35
よくわからないけど、
謎の刀も飾ってあったと言っているし
451日本@名無史さん2019/02/28(木) 20:07:06.21
429>>624
>じゃ魏の人間は何を見て径百歩の大きな塚なんて書いたんだよ<
卑弥呼の冢を見たんだし、
「径百歩」ではなく「径百余歩」だし、
「塚」ではなく「冢」だ。
>景初二年は三年の誤記<
後代史家の自己判断による書き換えは、確率が低過ぎて、証拠にならないし、
使えない。 452日本@名無史さん2019/02/28(木) 20:11:16.22
『デスラ〜』・・・・『松傾』?
同じような画像ばかり出てくるし
453日本@名無史さん2019/02/28(木) 20:11:29.18
429>>627
>このスレに九州説の書き込みが途絶えた時 九州説は息絶える<
大和説は、既に国民の7割に否定されており、
「南≠東」などに反論が出来なくなった時点で、息が絶えていた。 454日本@名無史さん2019/02/28(木) 20:15:43.13
【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江→尾張→伊勢→纏向
↓
宇佐→安芸・伊予→阿波・吉備→淡路島→摂津・河内
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→3世紀初に畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀末に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入
支配は西から東へ拡大し、土器などの産物は王都である筑紫へ
455日本@名無史さん2019/02/28(木) 20:22:07.65
429>>637
>槨あって棺なしは倭国の葬儀習慣であって
邪馬台国の葬儀習慣とは書かれてないね<
魏使らは、邪馬壹國女王之所都までは来て見ているし、
張政らは、卑弥呼の埋葬まで見ているから、
有棺無槨は、女王國でも邪馬壹國でも、同じ埋葬習慣。
>だから槨のある墓があってもそこは邪馬台国じゃないとは言えない<
だから、有棺有槨のホケノは卑弥呼の女王國ではない。 456日本@名無史さん2019/02/28(木) 20:30:44.44
429>>643
>バカめ国産鏡は素材も国内で作られたものとわかる<
国産鏡の素材は、
渡来漢鏡や銅鐸や、渡来の呉系楽浪鏡師らの持参材料銅や、
列島でのホウ製鏡や銅矛や銅鏃などの可能性もある。 457日本@名無史さん2019/02/28(木) 20:32:54.75
429>>644
「南→東」などの嘘つき騙しがバレた大和説は、
もう完全に手詰まりだろ?。
早めに撤退した方がこれ以上醜態を晒さずに済むぞ。 458日本@名無史さん2019/02/28(木) 20:37:06.84
429>>646
そもそも「南→東」などの嘘つき騙しがバレた大和説が、
このスレに書き込みに来る意味がわからんな
放っといた方がよほど大和説にとっても有益だろうに
大和説が何か書けば書くほど、それについて調べられて反証が蓄積していく 459日本@名無史さん2019/02/28(木) 20:52:32.72
429>>650
>ただな、それを見聞した魏使が「特記」して記録に残し、陳寿も書く価値のある情報だと
認識した時点で、長く王位にあった倭国随一の存在にふさわしい墓だったと言える
そこらにあるような25メートルの墓を5倍の誇張して書く理由がない
国内によりでかい墓があるようでは候補にならない <
魏使らは、5倍に誇張する必要がないし、
大和のでかい墓は、卑弥呼の頃より50年位後の事であり、時代が違う。
>>三角縁神獣鏡なんて何百枚も出てきてるわけだし<
>全国に何百枚も副葬されるだけの意味がある鏡だったということであり
そこに倭国と交流があった時代の魏の年代の紀年銘鏡があるんだから、<
△の紀年に景初二年以前のものはないし、
△は明帝の敵国の呉系の鏡だから、明帝の下賜鏡に選択されない。
>それを作り配布した主体が魏との交流の当事者だってこと <
それが、「海東△」に拠って、渡来して来た呉系楽浪鏡師らであった、という事。 460日本@名無史さん2019/02/28(木) 20:58:59.09
429>>653
>平原1号墓は本体を作ったときに掘った周濠が、長年放置されて埋まって堅く締まってから
その埋まった土に土坑を掘って作られた土坑墓の年代が3世紀前半くらいなんだから
どうやっても卑弥呼の墓にはならない<
平原には、卑弥呼が明帝から貰った21枚の「尚方作」鏡が副葬だれているから、
卑弥呼か壹與の墓であるしかなく、
だから、「3世紀前半くらい」という説が×。 461日本@名無史さん2019/02/28(木) 20:59:46.50
>>448
日本語が不自由のようだが、畿内説が里を捏造してるとでも言ってるのか?
デタラメ畿内説を勝手に捏造してイチャモンつけてるだけだな
九州説は自説を押し通すときも捏造、畿内説を攻撃するときも捏造
クズ過ぎる 462日本@名無史さん2019/02/28(木) 21:02:00.32
確率論からいけばザラコク説の正しい確率は年末ジャンボ1等が当たるくらいか
463日本@名無史さん2019/02/28(木) 21:08:47.66
429>>659
>国内に大規模殉葬が確認された墓は一つもない <
唯一、祇園山がある。
>円墳かどうかに関してはテンプレのこの側面図を見れば、墓の部分は円墳と
理解されるのは妥当 後円部5段築成の2段目までの高さしか、前方部は作られていない<
後円部が完成した時点で墳頂での埋葬祭祀をし終えて、
終った後で、また前方部の築成を再開する、
なんて無様な事をする筈がないから、×。 464日本@名無史さん2019/02/28(木) 21:11:56.71
465日本@名無史さん2019/02/28(木) 21:19:35.95
429>>667
>邪馬台国の葬儀習慣とは書かれてないからね
それでホケノに槨があるから邪馬台国じゃないとは言えないし<
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であり、
有棺有槨の墓があった地であれば、それは魏使らが来た女王國ではない。
>ホケノ山が特別だったのかもしれない
それに畿内の一般的な墓は方形周溝墓でまさしく棺あって槨なし
棺あって槨なしは畿内説を否定する材料としては弱すぎる <
ホケノは、有棺有槨だけではなく、
前方後円墳であるから卑弥呼の「冢」ではない事でも、
卑弥呼の頃よりもずっと後になり、否定される。 466日本@名無史さん2019/02/28(木) 21:21:59.01
429>>668
ここに投稿してくる「南→東」などの嘘つき大和説者は、頭が悪いな
まあ賢い人間は大和説なんてやらんだろうけど 467日本@名無史さん2019/02/28(木) 21:31:18.71
429>>669
この大和説者も、
「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」
という記載を全部、誇張だとして否定する、という事は、
この記載が大和説者にとっては、致命的に困るものだった、
という事なんだろうねえ。 468日本@名無史さん2019/02/28(木) 21:31:43.36
>>443
>畿内説のお抱え学者にでも尋ねてごらん。 無知さんにも教えてくれるだろう。
これを泡が答えられない時点で、泡が「それ、東阿波型土器」という根拠が失われる
「それ、東阿波型土器」という書き込みをしているのは泡なんだから、
その泡の書き込みに対する責任は100%、泡が持たないといけない
泡が説明できないなら、泡はデタラメを書き続けているってことだ
実際、河内や大和に東部瀬戸内様式(東阿波型土器を含む)の搬入土器が確認されていて、
畿内の庄内式、布留式土器とは区別されている
畿内の土器を「全部、東阿波型土器」と言い張るのは無能の所行ww 469日本@名無史さん2019/02/28(木) 21:33:08.50
>>435
>畿内なんて存在もしないし、
その狂った妄想はどこから湧いて来るのだろうね
きっと機能停止した後期高齢者の脳内に
汚ない蟲のように夥しくうねうねと
蠢いているのだろうが 470日本@名無史さん2019/02/28(木) 21:34:27.27
429>>672
>国内に大規模殉葬が確認された墓は一つもない
という事は 殉葬者百人という記述が創作だったという事だろう
創作した文章が混じってるのだから
そのあたりの文章をすべて真実だと決めつけることはできないね <
この男も、
「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」という記載を、
誇張だとして否定する、という事は、
この記載が大和説者にとっては、致命的に困るものだった、
という事なんだろうねえ。 471日本@名無史さん2019/02/28(木) 21:40:47.42
429>>678
でも、「南→東」などの嘘つき詐欺の大和説は、
都合のいいことは信じて、都合の悪いことは信じないんだよ
チェリーピッキングでできてるのも、大和説だからね 472日本@名無史さん2019/02/28(木) 21:45:21.63
当時、家(『松傾』)と結婚した家があるでしょ?
その人が一番の上の人なんじゃないの?
老婆が言うには、何々様(ひみこではない)
なんて言われていたと言っていたし
伊達郡というスレでも、
その家の事を言ってる人がいるでしょ
473日本@名無史さん2019/02/28(木) 21:47:16.32
429>>685
>たしかに倭国を九州に限定すると丹山は無くなるな<
丹山なら、九州にはベンガラ山や丹木があったようだし、
松浦川上流や豊後には水銀鉱山もあったらしい。 474日本@名無史さん2019/02/28(木) 21:51:18.50
>>468
>実際、河内や大和に東部瀬戸内様式(東阿波型土器を含む)の搬入土器が確認されていて、
東部瀬戸内様式=「東阿波型土器」。 すべて「東阿波型土器」様式なんだよ。
畿内説のお抱え学者にでも尋ねてごらん。 君のような無知さんにも教えてくれるから。
>畿内の庄内式、布留式土器とは区別されている
初期(弥生第X様式)の「東阿波型土器」から徐々に変化していってるからね。
畿内の土器は「全部、東阿波型土器」様式。
違うと言い張るのは無知の所行ww ワハハは @阿波 475日本@名無史さん2019/02/28(木) 21:52:27.02
『姥清水』関係なのかな?
山の上のほうの話をしていたり、
『松傾』この家の話でしょ
476日本@名無史さん2019/02/28(木) 21:53:14.99
429>>686
>古墳の多くは中がどうなってるのかわからない
もしかしたら箸墓は棺あって槨なしなのかも知れないだろ?
そういうわけでたまたまホケノが槨ありだとしても 畿内説を否定する事にはならない<
ホケノが有棺有槨であった限り、大和は、卑弥呼の女王國ではない。
>卑弥呼の墓は径百歩で直径が140mと伝えられる大きなもの<
卑弥呼の墓は、「長径が25.5m余」の墓。 477日本@名無史さん2019/02/28(木) 21:56:43.10
>>476
>ホケノが有棺有槨であった限り、大和は、卑弥呼の女王國ではない。
ホケノ山に槨はないから何も問題はないね? 478日本@名無史さん2019/02/28(木) 21:57:02.85
429>>688
>最近の研究では三角縁神獣鏡には舶載鏡が含まれてるという見方が優勢だわな<
「海東鏡」のように、呉系楽浪鏡師らの渡来に拠って、列島で造られた。 479日本@名無史さん2019/02/28(木) 22:06:00.21
480日本@名無史さん2019/02/28(木) 22:25:40.82
畿内説もいいけど
纏向=邪馬台国の所都は無いよ
俺が畿内説から九州説に鞍替えしたのは纏向が最大の要因
畿内説の研究者がこぞって纏向所都説に傾いた
良識ある研究者の集団と思えない
481日本@名無史さん2019/02/28(木) 22:26:23.12
畿内説もいいけど
纏向=邪馬台国の所都は無いよ
俺が畿内説から九州説に鞍替えしたのは纏向が最大の要因
畿内説の研究者がこぞって纏向所都説に傾いた
良識ある研究者の集団と思えない
482日本@名無史さん2019/02/28(木) 22:26:35.25
畿内説もいいけど
纏向=邪馬台国の所都は無いよ
俺が畿内説から九州説に鞍替えしたのは纏向が最大の要因
畿内説の研究者がこぞって纏向所都説に傾いた
良識ある研究者の集団と思えない
483日本@名無史さん2019/02/28(木) 22:29:53.94
>>474
>畿内説のお抱え学者にでも尋ねてごらん。 君のような無知さんにも教えてくれるから。
これを自分で説明できなきゃダメだって言っただろ?ww
答えられない指摘を受けると意味もなく同じコピペを繰り返すようになるクズが泡の実態
>>237を再掲
泡は、返答できなくなるとバカみたいに同じことだけ書き続けるようになるw
ああ、バカみたい、じゃなくて、モノホンのバカだったかww 484日本@名無史さん2019/02/28(木) 22:30:29.90
呉の神獣鏡と三角縁はロックとジャズくらい違う
洋楽か演歌かの区別が辛うじて出来るくらいの
九州説レベルの人にはわからない
485日本@名無史さん2019/02/28(木) 22:32:27.56
所詮 畿内説は銭儲け
だから学者が利権に飛びついただけ
国民は冷静に観てるよ
486日本@名無史さん2019/02/28(木) 22:32:41.96
>>480
どうでもいいことだし、3回も言わなくていいよ 487日本@名無史さん2019/02/28(木) 22:33:05.75
>>482
こういう異常者しかいなくなった九州説が
見ていてとても痛ましい 488日本@名無史さん2019/02/28(木) 22:35:54.73
429>>689
掘った所で、大したものが出ない事がわかり切ってるのが、大和の古墳
大和は、九州倭国の別種の旧小国で、
九州倭国の「東征毛人五十五国」の中の一国だと、判っているからな 489日本@名無史さん2019/02/28(木) 22:36:01.05
>>485
誰がどうやって銭儲けしてる?
利権って何?
具体的に言ってくれ 490日本@名無史さん2019/02/28(木) 22:37:11.48
>>483
>これを自分で説明できなきゃダメだって言っただろ?ww
ほれ。
鮎喰川下流集落群では、弥生終末期には軽量薄型の土器が生み出される。
中・東部瀬戸内から大阪湾岸地域、淀川地域・山城地域に搬出された阿波を代表する土器であり、東阿波型土器と呼んでいる。
企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法に特徴がある。土器製作専業集団によるものだろう。
類似技法による土器は讃岐・吉備に拡がり、薄型土器の南北軸を形成している。 @阿波 491日本@名無史さん2019/02/28(木) 22:40:14.39
スレチだが
米朝会談が決裂したのは日本にとって良い事だと思う
北と南が融和策を取るのは無理
韓国の大統領は落胆してると思うが、韓国の方向性を見誤まらないように願う
ちなみに俺は九州説支持
492日本@名無史さん2019/02/28(木) 22:40:25.68
キウスが暴れてるな
493日本@名無史さん2019/02/28(木) 22:42:15.86
>>483
ほれ。
416: 千葉県人:2015/02/22(日) 13:20:34.54 ID:.net
土器のことに関心があるようなので専門家の見解を少し書き込みます
東阿波式土器とは、厚さ2〜3ミリと、他地域の土器と比べ極端に薄く材料の粘土には
細かくすり潰された阿波の青石(結晶片岩)が含まれている
桜井市埋蔵文化センター著「ヤマト王権はいかにして始まったか」(平成19年編の)の中で
「纏向では、近年阿波系の土器が調査が進むにつれ増加しておりその傾向が研究者の間で
脚光を浴びている」とされている
大阪府文化財センター技師の方が書かれた「大阪府出土の讃岐・阿波・播磨系土器」では
「淀川以北摂津東部の6遺跡で阿波系が17個、摂津中部11遺跡で阿波系16個、旧大和川
周辺沖積平野の41遺跡で阿波系208個、和泉市11遺跡で阿波系19個など」
阿波系土器が圧倒的に多いことが明かされている 494日本@名無史さん2019/02/28(木) 22:43:14.47
429>>690
>黒塚古墳からは黄幢の骨組みらしいU字型の鉄製品出てるし<
「らしい」という程度では大した根拠ではないようだし、
「南≠東」などで×だし。
>難升米なんかは畿内出身者なんだろうな<
難升米の「難」氏の本貫は、中国の河南省と韓国にあり、
何年か前に、両者の合同の先祖供養があったようだよ。 495日本@名無史さん2019/02/28(木) 22:47:02.72
429>>691
>別に卑弥呼に限らず、当時の権力者が死ねば、多かれ少なかれ殉葬はやってたんだろう。
それらを含めて今まで殉葬の痕跡が見つかっていないと言うことは・・・<
祇園山に大量の殉葬があるから、「陳寿90度回転」男は、×。 496日本@名無史さん2019/02/28(木) 22:58:36.07
429>>716
「南→東」などの嘘吐き詐欺師の大和説は、
所々話が支離滅裂になるだけではなく、
都合が悪くなると、倭人伝全部の「否定抹殺」の、
「匂わせ」宣伝をするみたいだなな 497日本@名無史さん2019/02/28(木) 22:59:54.86
ようだというなら大した根拠 では無いな
ザラコク理論崩壊
498陳寿90度回転さん2019/02/28(木) 23:01:20.87
当時の人口を考えれば、邪馬台国の候補に成り得る所なんて、
@博多湾
A出雲
B奈良盆地
C東海地方
しかなくって、@、Aが行程記事の途中で出て来ている(奴国、投馬国)のだから、
邪馬台国は自動的にBになり、狗奴国はCになる。
これほど簡単かつ明瞭なことが、どうして分からないのだろう?
499日本@名無史さん2019/02/28(木) 23:03:55.03
429>>718
>日本の研究では殉葬墓は確認されていないのだが・・・<
そう。
日本の大和説学者らや、発掘担当者は、
祇園山の殉葬が都合が悪いので、全員で必死に「祇園山の殉葬」の否定報告をして、
国民や世間の人々を騙そうとして来たの。 500日本@名無史さん2019/02/28(木) 23:06:28.40
東阿波型土器は讃岐の下川津B類土器の影響下に生まれたもの
薄型土器の南北軸を形成する一員ではあるが、他地域に影響を与えたものではない
庄内や布留が東阿波型土器から生まれたとか、捏造以外の何者でもない
501日本@名無史さん2019/02/28(木) 23:06:32.92
ご自慢の祇園山には学術的な根拠が無いから確率からいって可能性0%という事だ
502日本@名無史さん2019/02/28(木) 23:10:07.67
429>>727
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説にとっては、
「都合の悪い事実の否定曲解や隠蔽」の騙しと、
殺人と屠殺(畜)が同じ感覚なのかもしれない。 503日本@名無史さん2019/02/28(木) 23:14:02.51
429>>736
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説民族は、
興奮するとヘイトスピーチ街宣をする 504日本@名無史さん2019/02/28(木) 23:16:29.73
429>>739
「南→東」などの嘘吐き詐欺師の大和説は、
ちょっと手痛い反撃うけると、コレだからな
ゴミらしくていいけど 505日本@名無史さん2019/02/28(木) 23:20:05.58
429>>742
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は、
だいたい証拠を要求されると発狂する 506日本@名無史さん2019/02/28(木) 23:20:43.21
>>501
学術w
じゃあ畿内の箸墓説はマイナス100%ってとこだなw 507日本@名無史さん2019/02/28(木) 23:22:18.13
429>>745
アホか
無視したって証拠を要求されて
出せなかったから
「南→東」などの嘘吐き騙しのアホ九州説の言い分が消えるんだよ 508陳寿90度回転さん2019/02/28(木) 23:25:49.06
『親魏倭王』のクニは、草深い山の中にも、ネコの額のような狭い平地にもない。
行程記事を都合良くひねくり回して、九州のどこか一点をピンポイントで主張することに、何の意味もない。
そこは少なくとも『巨大弥生式墳丘墓』か『巨大古墳』を造れる所であって、
そういう場所は自ずから限られているし、現代人の我々にとって何の意外性もない場所だ。
(ああやっぱり、あそこでしたか。前から思ってましたけどね)という場所。
509日本@名無史さん2019/02/28(木) 23:26:51.83
429>>747
大作冢径百餘歩jun葬者奴婢百餘人とはっきり書かれているのに、
ウソだぁ誇張だぁと泣きわめく、
「南→東」などの嘘吐きだましの大和説 510日本@名無史さん2019/02/28(木) 23:29:57.63
429>>749
まさに「南→東」などのような嘘吐き騙しが、
大和説バカの気が狂ってる証拠だと思うけどね 511日本@名無史さん2019/02/28(木) 23:35:32.47
>>490
内面ヘラケズリ技法が吉備から畿内に伝播するのは中期後半だから
阿波が一番遅い 512日本@名無史さん2019/02/28(木) 23:36:13.30
もうオウム人間ザラコクは反論受けるの嫌だから
2つも前のスレにオウム返しをしているだけか
完全にギブアップした証拠じゃないか
513日本@名無史さん2019/02/28(木) 23:36:44.75
514日本@名無史さん2019/02/28(木) 23:38:26.54
ザラコクは周りの一切に目を閉ざして
ひたすらお題目を唱えてるだけに等しい
515日本@名無史さん2019/02/28(木) 23:41:37.63
九州説は説じゃなくて宗教念仏の類いになってしまったな
516日本@名無史さん2019/03/01(金) 00:36:40.71
>>489
纒向学研究センターと桜井市埋蔵文化財センターの違いは?
二重行政ジャン
兵庫県立考古博物館は必要だと思うかね
橿考のノンキャリが作った産物ジャン
纏向に投じられてる税金知ってるか、国に予算編成時にいつもクダラン発表をするの知ってるか 517日本@名無史さん2019/03/01(金) 00:43:13.79
なにか出るとすぐ、邪馬台国だ、卑弥呼だと騒ぐ、一部の「考古学者」先生達には、「纏向遺跡=邪馬台国」の図式以外は
もう何も見えないんでしょうね。
学者であればもっと冷静に対処して欲しいものです。最近の近畿説の「妄信的な」「郷土史家的」学者先生たちは何か焦りすぎているように見えます。
まだ何もわかっていないのに、邪馬台国がどうしても近畿に無いといけないかのように無理矢理世間に押しつけようとしています。
「別に、今すぐ分からなければやがて将来の学者たちが発見してくれるさ。」程度に構えていればいいものを、
何が何でも自分が生きてるうちに、邪馬台国を巻向にしてしまおうと必死です。哀れさを通り越して悲しさを感じます。
518日本@名無史さん2019/03/01(金) 01:14:45.64
天理市埋蔵文化財センターと桜井市埋蔵文化財センターと纒向学研究センター
統合可能だと思うよ、
センター長 一人で合理化図られるしね
地方公務員の利権は痴呆公務員の利権だね
汗水たらして銭もらってる労働者からみればあきれるよ
519日本@名無史さん2019/03/01(金) 01:16:59.42
汗水たらして納めた税金も大事に使えよ
520日本@名無史さん2019/03/01(金) 01:23:20.35
>>515
自分の根拠を述べよ
またテンプレかなww 521日本@名無史さん2019/03/01(金) 01:41:18.64
消防等にみられるように市町村をまたいだ広域組織に埋蔵文化財センターも統合可能だよ
522日本@名無史さん2019/03/01(金) 02:06:20.71
キウスが暴れてるな
523日本@名無史さん2019/03/01(金) 02:28:05.15
まず九州で成果出せば良いんじゃね
予算なくて調査出来無いんでしょ
524日本@名無史さん2019/03/01(金) 02:44:44.02
>>516
畿内説とは関係ないことにイチャモンつけてるな
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いってか
畿内説が憎いからヤマト王権が憎い、纒向遺跡が憎い、周辺自治体さえも憎い
そのうち、日本の国が憎いってなりそうだな
纒向は日本の国家発祥の地であるが、その特別な遺跡の研究をすることさえ許せないんだろ
九州の地方自治体にも、埋蔵文化財センターやら博物館やら歴史館は山ほどあるが、そっちは問題ないのかよ
重要度を考えたら、月とスッポンだろが 525日本@名無史さん2019/03/01(金) 04:11:22.50
>>498
アホちゃう。
(狗奴国が邪馬台国の南にある)は、どこへ行ったのよ。
文献無視か。
これほど簡単明瞭なことを無視してどうするよ。
アホちゃう。 526日本@名無史さん2019/03/01(金) 04:16:43.49
>>493
その阿波系土器が出る時期についての見解は書かれてないのか。
いつの時代のことよ。
時期によって阿波系土器についての評価が異なってくるんだがな。 527日本@名無史さん2019/03/01(金) 04:31:41.33
>>490
東阿波型土器が生まれたのは弥生終末期というのだから、その技法が河内方面や吉備方面へ波及したのは布留式期ということでいいようだな。
徳島県の中でも、南部地域で東阿波型が出土するのは布留式UB期の土器と一緒だから、4世紀中頃以降になってくる。
東阿波型土器が各地へ波及するのは、古墳時代になってからだな。
阿波は、弥生終末期の政治的な激動期には関与していず、古墳時代の政権が動き出したあとに遅れて畿内へやってきたということになるな。 528日本@名無史さん2019/03/01(金) 05:31:13.90
429>>764
>方形周溝墓(家族墓)では、次々に一つの墓域に埋葬を追加していくから、
それが殉葬だと誤認されたかもしれない<
ダメだ。祇園山は、ほぼ同時期の陪葬的配置の墓群だ。
>また、卑弥呼より古い時代には吉野ヶ里の甕棺墓列のように、庶民墓が
墓域に集団埋葬され、それが北墳丘墓への墓道のように認識されれば、
これも殉葬だと誤認されうる <
ダメだ。祇園山は同時期の陪葬的な配列の墓群だ。
>大陸に殉葬の文化があり、それを前提に倭国の葬送文化を見たときに、
殉葬だと誤認されることはあると思う<
魏使らは、祇園山で、墳頂の大きな箱式石棺の主体の埋葬と併行する、
差し違い埋葬の複数埋葬を含む62個の陪葬を見て、
倭人から殉死した奴婢百余人のする殉葬だ、と聞いて、記録した。 529日本@名無史さん2019/03/01(金) 05:41:48.18
429>>768
大和説者は、議論に負けそうになったら、
不可知部分が殆どである自然や歴史に関しての、
(帰納的推論をするのではなく)断定証拠要求をする、
「何故?何故?」議論に持ち込んで、
先に「証拠は?」と質問した方が議論に勝っているかのように、
世間に印象付ける事が出来る、騙しの議論法で、
国民を騙そう、としているんだな。 530日本@名無史さん2019/03/01(金) 05:59:31.22
429>>770
>そして、形式論理以上の考古学的視点まで含めて考えれば、北部九州も含めて
卑弥呼の死んだ248年(?)頃の3世紀半ばには、古墳時代に入っているし <
ダメだ。類スレ主は、未だに、
「古墳時代」という墳丘墓を全て含み得る文言に摩り替えて、国民を騙そうとしている。
スレ主や大和説が言おうとしている「古墳時代」とは、大和の「前方後円墳」や、
「箸墓などのような完成型巨大前方後円墳」の事で、3世紀末の事だ。
そして、列島で、前方後円墳が始まったのは、
西晋武帝の天円地方思想を学んで、
モンゴルから高句麗の前方後円墳を知って、模倣が始まった那珂八幡などであり、
275年頃前後だ。
>古墳時代の前方後円墳体制では各地の首長墓、盟主墳は前方後円墳または前方後方墳となる
卑弥呼の墓は、3世紀の倭国の首長層の墓制を考えれば、前方後円墳と考えるのが妥当、となる <
卑弥呼の墓は、「冢」であり、前方後円墳ではないから、×だ。 531日本@名無史さん2019/03/01(金) 06:01:08.63
>>527
>東阿波型土器が生まれたのは弥生終末期というのだから、その技法が河内方面や吉備方面へ波及したのは布留式期ということでいいようだな。
なにをおっしゃる。 あっという間に、「忌部はん」 によって「東阿波型土器」技法は河内方面や吉備方面へ伝播しているよ。
>徳島県の中でも、南部地域で東阿波型が出土するのは布留式UB期の土器と一緒だから、4世紀中頃以降になってくる。
芝遺跡を引用しているようだが、いつもの、ウソはイカンぜよ! 弥生時代前期後半頃だよ。
「芝遺跡」
http://1st.geocities.jp/rekisironnsyuu/sibaiseki.ronnbunn.html
芝遺跡では弥生時代前期後半頃には吉野川下流域や紀伊からの搬入品が認められるが、
特に吉野川下流域土器は弥生時代を通じて恒常的に出土すると考えられる。
弥生時代終末頃になると吉野川下流域時の他に、畿内・讃岐・土佐・吉備からの搬入品が認められるようになる
約半数が阿波(東阿波型土器を含む吉野川下流域)の土器で占めており、次いで畿内系土器、在地時の出土数が多い。
>東阿波型土器が各地へ波及するのは、古墳時代になってからだな。
なにをおっしゃる。 弥生時代前期後半頃だよ。
「約半数が阿波(東阿波型土器を含む吉野川下流域)の土器で占めており、次いで畿内系土器、在地時の出土数が多い。」
>阿波は、弥生終末期の政治的な激動期には関与していず、古墳時代の政権が動き出したあとに遅れて畿内へやってきたということになるな。
なにをおっしゃる。 畿内・讃岐・土佐・吉備などへ進出した「忌部はん」達と頻繁に交流しているよ。
「弥生時代終末頃になると吉野川下流域時の他に、畿内・讃岐・土佐・吉備からの搬入品が認められるようになる」
そんな恣意的に事実を捻じ曲げようとしても、すぐばれるよ。 これだから、トンデモさんはwww @阿波 532日本@名無史さん2019/03/01(金) 06:03:23.25
429>>774
>工事途中の前方後円墳の周溝と休憩中に堤で昼寝してるおじさんたちを見て
殉葬者百人だと思った可能性はある <
可能性は殆ど0%であり、
この男も、まるで、分裂幻覚の妄想患者だな。 533日本@名無史さん2019/03/01(金) 06:07:17.73
429>>775
>だから、書かれていたら何なの? <
実験記録は、信頼性や確率が非常に高いのだ。
>人間とは会話の出来ないひと? <
この大和説男は、分裂幻覚の妄想だけではなく、
嘘吐き騙しの詐欺をする犯罪者でもあるようだ。 534日本@名無史さん2019/03/01(金) 06:12:42.13
429>>778
>ねぇボク、列車事故で死者100人と書かれていたら事故現場に100人のお墓を見つける必要があるか
よく考えてみようね<
この大和説男も、卑弥呼の冢での「jun葬者奴婢百餘人」」の話を、
列車事故の百人の死者の話に摩り替えて国民を騙そうとする、
分裂幻覚の妄想の犯罪者であるようだ。 535日本@名無史さん2019/03/01(金) 06:22:01.43
429>>783
>中国の殷墟の殉葬例を見ても
生き埋めというより首が切断された遺体が見つかっている
もしかしたら首を捧げるのが殉葬だったのかも
中国の古代儀式では人の生首をよく使ったらしいし
道歩くときに魔よけに生首ぶら下げて歩いたり
饅頭の成り立ちも人身御供の生首の代わりだったし<
この大和説男も、また、分裂幻覚の妄想の犯罪者的な男だな。
卑弥呼の葬儀で、しかも張政らも見ている前で、
奴婢百人の「生首を切り取る」なんて事が、起こる筈がない。 536日本@名無史さん2019/03/01(金) 06:25:01.85
>>531
その徳島南部の芝遺跡の記事のアドレスを開いてみたら、ちゃんと布留式土器と一緒に東阿波型土器が出たと書いてあるじゃんじゃん。
この記事では3世紀としているが、別の調査報告では布留式UB期と書いてある。
布留式は3世紀後半〜4世紀。
東阿波型土器が生まれたのは弥生終末期(庄内式期)で、外へ拡散するのは4世紀だろう。 537日本@名無史さん2019/03/01(金) 06:25:19.53
429>>784
>なされているよ だから九州説は死んだ<
この男も、分裂幻覚の妄想の犯罪者的大和説者のようだな。
だから、大和説は滅んだ。 538日本@名無史さん2019/03/01(金) 06:27:58.30
539日本@名無史さん2019/03/01(金) 06:29:21.70
429>>787
>国産鏡は銀・アンチモン比が中国鏡のそれと比べて多く広範囲に広がる
すなわち国産鏡の成分は中国の恐らく古い色んな銅を溶かして混合した物を使って作られたとわかるのさ<
成程。 540日本@名無史さん2019/03/01(金) 06:32:14.49
429>>792
幻聴を聴きながら死んでいく大和説の愚者
幻聴が聞こえるのは統合失調症の症状だぞ
それが大和説者の常態だよ 541日本@名無史さん2019/03/01(金) 06:34:01.75
>>536
小林行雄氏による弥生土器の編年
@ 弥生土器X様式期に小形丸底鉢(東阿波型土器)の登場
A その後、庄内式大和形甕の登場 542日本@名無史さん2019/03/01(金) 06:36:01.77
429>>798
追い詰められて、自分たちのダメなところを見つけられて
それでもなお、破綻の大和説 543日本@名無史さん2019/03/01(金) 06:38:53.66
>>536
>その徳島南部の芝遺跡の記事のアドレスを開いてみたら、ちゃんと布留式土器と一緒に東阿波型土器が出たと書いてあるじゃんじゃん。
それがなにか?
>東阿波型土器が生まれたのは弥生終末期(庄内式期)で、外へ拡散するのは4世紀だろう。
そんな恣意的に事実を捻じ曲げようとしても、すぐばれるよ。 これだから、トンデモさんはwww @阿波 544日本@名無史さん2019/03/01(金) 06:48:10.31
429>>804
類スレ主は、未だに、
8尺棒の幅が2寸であれば、
その影長計測が、8尺棒の接地場所のどのポイントからの計測をしたのか?、
という事だけでも、、2寸の計測誤差が発生する事になる、
という意味が理解できないアホであったのか?、
知らん振りして同じ事を貼り付ける・・・・であった?、ようだね。 545日本@名無史さん2019/03/01(金) 06:55:21.41
>>539
つまり国産鏡とは違って
三角縁神獣鏡は魏晋鏡と同成分だから
魏から下賜さrた鏡である事の証明と言えるんだぞ 546日本@名無史さん2019/03/01(金) 07:00:28.20
429>>820
>>会稽の東方の「治」域であり、上海付近から江蘇省の海岸地域になり、<
>後漢〜三国の頃には、会稽郡は銭唐江、銭唐湾より南にしかないよww
江蘇省は会稽ではないww <
陳寿は、「会稽郡」とは書いておらず、「会稽」の東治、と書いている。
そして、その「会稽」とは、
陳寿は、当然「夏后少康之子封於會稽」の「会稽」であるつもり。 547日本@名無史さん2019/03/01(金) 07:03:24.37
>>529
>(帰納的推論をするのではなく)断定証拠要求をする、
>「何故?何故?」議論に持ち込んで、
それ、あんたが帰納的推論どころか、その正反対
証拠ナシ断定ばかりしてるって
動かぬ証拠だよ
帰納的推論をしてるなら
何故と言われれば
すぐ理由が言えるし証拠も出せる
それをしないで断定ばかりしているから
「何故?」と聞かれて答えられないどころか
そうやって反発する
世間じゃ当然のことが出来ない
それが九州説
>「何故?何故?」議論に持ち込んで、
聞かれることを恥ずかしいと思えよ
あんたには人並みのことが出来てないという
無能の証拠なんだから
>先に「証拠は?」と質問した方が議論に勝っているかのように、
>世間に印象付ける事が出来る、騙しの議論法で、
証拠を聞かれて出せなきゃ
あんたの負けなの
それが世間の当たり前だよ 548日本@名無史さん2019/03/01(金) 07:05:44.08
>>524
>畿内説が憎いからヤマト王権が憎い、纒向遺跡が憎い、周辺自治体さえも憎い
纒向は邪馬台国ではなくヤマト王権とすればいいだけのこと。
一部の自治体の関係者が暴走しているのも良くない。 549日本@名無史さん2019/03/01(金) 07:06:40.60
>>524
ちゃうな
纏向を卑弥呼と結び付けた根幹ジャネーノ 550日本@名無史さん2019/03/01(金) 07:06:42.08
>>546
>そして、その「会稽」とは、
>陳寿は、当然「夏后少康之子封於會稽」の「会稽」であるつもり。
それが会稽郡で、いまの浙江省だよ
上海あたり?
江蘇省は会稽ではないww 551日本@名無史さん2019/03/01(金) 07:09:19.37
>>548
そんなことする理由がないな
九州説は理由のない決めつけばかりだね
知性がなくて
欲望まみれなのかな? 552日本@名無史さん2019/03/01(金) 07:12:21.62
>>524
>纒向は日本の国家発祥の地であるが、
碌に人が暮らした痕跡のない纏向が? これといった遺構のない纏向が? ハハハハハ @阿波 553日本@名無史さん2019/03/01(金) 07:14:54.58
>>552
日本の国号は大和朝廷が始めだからそれでいいんじゃないの
阿波ではない事は確実 554日本@名無史さん2019/03/01(金) 07:15:53.72
429>>834
>バカちゃう。
径百歩、殉葬百人、いずれも百でそろい過ぎてるよ。
邪馬台国の役人のホラ話を、魏使は真に受けたということじゃね。<
この大和説男も、嘘吐き騙しの詐欺師とちゃう?。
「径百歩、殉葬百人」として「余」をこっそり隠して、
「そろい過ぎている」と言っている。
また、ホラ話であれば、断定的な数字を使うものであり、「余」なんて付けないもの。
だから、「余」が付けられている、という事は、
魏使らの概算の「推定」数の記録であった、
ということを示すもの。 555日本@名無史さん2019/03/01(金) 07:16:42.07
556日本@名無史さん2019/03/01(金) 07:20:26.26
>>554
>だから、「余」が付けられている、という事は、
>魏使らの概算の「推定」数の記録であった、
>ということを示すもの。
ほらな
また帰納的推論など全くしない感覚的断定だ
このどうしようもない言行不一致が
九州説の特徴だね 557日本@名無史さん2019/03/01(金) 07:23:11.85
>>524
>纒向は日本の国家発祥の地
へーーーー妄想とはこれを言うんだなww 558日本@名無史さん2019/03/01(金) 07:29:31.27
>>557
そういう報告書が文化庁に上がってるんだけどね 559日本@名無史さん2019/03/01(金) 07:44:07.84
卑弥呼がヤマト王政を作った根拠があるのかね
一人の鬼道を操る者が日本国家の創造者かな
卑弥呼は誰の子なんだろうか
560日本@名無史さん2019/03/01(金) 07:55:32.39
>>538
>なにをおっしゃる。 あっという間に、「忌部はん」 によって「東阿波型土器」技法は
>河内方面や吉備方面へ伝播しているよ。
はい、また根拠なしの「忌部はん」ww
泡は根拠なく、すべてを「忌部はん」と「東阿波型土器」と認定するだけのバカ芸
泡のやっていることは、泡説の主張じゃなくて、「泡」というキャラクター芸なんだよな
笑えるのが「「東阿波型土器」技法は河内方面や吉備方面へ伝播しているよ」というのが
「よそで完成したものが遅く伝わってから」だってこと
泡の主張は潰えたなww
阿波というか、淡路島は、反正天皇が淡路宮で生まれたと日本書紀にあるし、
伊弉諾尊、伊弉冉尊の国生み神話はもともと淡路周辺の神話だろうと言われているし、
ヤマト王権初期には重要な場所だったと思われているんだが、泡のせいで評判ガタ落ちだw 561日本@名無史さん2019/03/01(金) 07:57:17.24
またアンカ間違い スマン
>>531
>なにをおっしゃる。 あっという間に、「忌部はん」 によって「東阿波型土器」技法は
>河内方面や吉備方面へ伝播しているよ。
はい、また根拠なしの「忌部はん」ww
泡は根拠なく、すべてを「忌部はん」と「東阿波型土器」と認定するだけのバカ芸
泡のやっていることは、泡説の主張じゃなくて、「泡」というキャラクター芸なんだよな
笑えるのが「「東阿波型土器」技法は河内方面や吉備方面へ伝播しているよ」というのが
「よそで完成したものが遅く伝わってから」だってこと
泡の主張は潰えたなww
阿波というか、淡路島は、反正天皇が淡路宮で生まれたと日本書紀にあるし、
伊弉諾尊、伊弉冉尊の国生み神話はもともと淡路周辺の神話だろうと言われているし、
ヤマト王権初期には重要な場所だったと思われているんだが、泡のせいで評判ガタ落ちだw 562日本@名無史さん2019/03/01(金) 07:59:43.99
>>541
>小形丸底鉢(東阿波型土器)の登場
この「小形丸底鉢=東阿波型土器」とするのが、インチキ捏造だ 563日本@名無史さん2019/03/01(金) 08:00:11.14
>>553
>日本の国号は大和朝廷が始めだからそれでいいんじゃないの
日本の国号は、倭国(阿波)から遷都後の大和朝廷(8世紀)からね。 @阿波 564日本@名無史さん2019/03/01(金) 08:02:45.52
>>552
>碌に人が暮らした痕跡のない纏向が?
大量に使用痕のある飯炊き甕の存在を無視して、人が暮らしていない、と言い張るところからもう
学説ではなくキャラ芸ww 565日本@名無史さん2019/03/01(金) 08:03:08.67
神武が九州から東征した証拠は皆無だが、阿波からなら可能性があるよね。
古墳は阿波のほうが古いし、畿内の古墳に使われた葺き石は阿波産のものが多い。
566日本@名無史さん2019/03/01(金) 08:09:06.44
>>562
>この「小形丸底鉢=東阿波型土器」とするのが、インチキ捏造だ
得意の「インチキ捏造」の登場。 ワハハハハ @阿波 567日本@名無史さん2019/03/01(金) 08:12:48.45
>>564
>大量に使用痕のある飯炊き甕の存在を無視して、人が暮らしていない、と言い張るところからもう
そりゃ、古墳造営の人夫さんだって、腹減るがな。 無茶言っちゃイカンぜよ。 ワハハハハ @阿波 568日本@名無史さん2019/03/01(金) 08:19:13.90
429>>850
「南→東」などの嘘つき騙しがバレて、
とっくに滅んでる大和説に言われてもなあ 569日本@名無史さん2019/03/01(金) 08:20:49.93
>>565
>神武が九州から東征した証拠は皆無だが、阿波からなら可能性があるよね。
いや、神武東征も倭国(阿波)での話だから。 その時代に、海を渡ってまでして、遠征軍を維持できないよ。
>古墳は阿波のほうが古いし、畿内の古墳に使われた葺き石は阿波産のものが多い。
水銀朱や勾玉や青石石棺もね。 @阿波 570日本@名無史さん2019/03/01(金) 08:22:40.69
>>1
> 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
> それは桜井市纒向以外にありえない。
コイツが主犯 571日本@名無史さん2019/03/01(金) 08:28:38.99
429>>853
>会稽東「治」なんて地名は存在してなかった <
「東治」は、地名ではない。
「夏后少康之子封於會稽」の「会稽」の東方の治域に対する、陳寿の説明文言。
>現在でも確かめられるのは会稽東「冶」 その東側が台湾や沖縄辺り<
会稽東冶≠会稽東治であるから、×。 572日本@名無史さん2019/03/01(金) 08:37:21.21
>>571
>「東治」は、地名ではない。
>「夏后少康之子封於會稽」の「会稽」の東方の治域に対する、陳寿の説明文言。
「治域」なんて言葉も無い
無知な現代人が勝手に発明して
インチキの説明をするのは、不可だ 573日本@名無史さん2019/03/01(金) 08:42:48.16
429>>864
>記年銘鏡の年号から最低4回は来てることになるな<
明帝は、女王からのから始めての遣使に対して女王に鏡を下賜して、
正始元年の届けられたのであり、
正始4年と6年と8年の遣使の渡来は、
卑弥呼への直接的な使節ではなく、大夫らへの遣使の渡来であり、
下賜があった記録初めてない。 574日本@名無史さん2019/03/01(金) 08:48:17.59
>>573
それはデタラメ
朝貢は国王名義で定期的にするもの 575日本@名無史さん2019/03/01(金) 08:50:13.50
429>>872
>卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩
「大きな冢を作った」と解釈した場合 <
それ解釈間違い。
「大きな冢を作った」ではない。
「大は作の形容」であり、「大いに冢を作った」という事になる。
>大きさを表現するなら箸墓の墳丘長278mを採用しただろうに<
「南≠東」などに拠って、×。
>なぜ円部だけ表現したのか? それは、後円部だけが墓であるからだ <
「円部」だけを表現しないから、×。 576日本@名無史さん2019/03/01(金) 08:56:14.05
>>575
>「大きな冢を作った」ではない。
大いに作って小さいのか?
九州説作って、ばか?
>「円部」だけを表現しないから、×。
そんなこと何で素人じいさんが独断で決めるんだよ
「帰納的推論」も何もしないでw
w
w 577日本@名無史さん2019/03/01(金) 08:57:44.51
429>>882<は、ちょっと変。私の投稿であれば?訂正。
>>魏志倭人伝には邪馬台国、女王国の位置は会稽東治(冶)の東で沖縄か台湾の辺りとある<
>その場合、五畿大和は八丈島になる。
おかしくないか、おかしくなけりゃ邪馬台国は沖縄台湾で良し。<
どちらも、×。 578日本@名無史さん2019/03/01(金) 09:00:32.32
429>>886
>沖縄台湾は魏志倭人伝にそう書いてあるだろ?<
書かれていないから、×。 579日本@名無史さん2019/03/01(金) 09:01:34.94
とうとう「×」しか言わなくなる無思考ザラコク
580日本@名無史さん2019/03/01(金) 09:03:16.95
429>>888
>地図上で見れば会稽東治(冶)の東は九州通り過ぎたはるか南になるよ <
ならないから、×。 581日本@名無史さん2019/03/01(金) 09:08:32.57
429>>891
>九州が巨大な陸地だと思っていたんだよ。<
魏使らも陳寿も思っていない。
南北は「水行二十日」程度で行ける大きさ。 582日本@名無史さん2019/03/01(金) 09:12:52.77
429>>892
>陳寿に政治的理由はあったよ
当時の皇帝の先祖の功績を祭り上げるという・・・<
陳寿は、西晋中枢とは関係が無くなっており、今更、政権中枢に関与する気はなく、
だから正確な三国志が書けた。 583日本@名無史さん2019/03/01(金) 09:19:32.12
429>>894
>会稽東治という地名は存在した事はなく
「東治」は、地名ではない。説明文言。
>会稽東冶はあった 後漢書でも女王国の位置は会稽東冶乃東<
後漢書は、「自己解釈による書き換え」のある半分×書であり、
史料批判無しには根拠に出来ない。
>魏志倭人伝の会稽東治は12世紀の誤記<
写本版本系の差異発生確率は、0.5%位であり、
宋明清代の校勘学者は誰も、「治」の校勘をしていない。 584日本@名無史さん2019/03/01(金) 09:23:47.41
もはやデタラメ結論のみを言い張るだけの九州説
当然ながら未来はゼロ
585日本@名無史さん2019/03/01(金) 09:28:21.09
>>582
>陳寿は、西晋中枢とは関係が無くなっており、今更、政権中枢に関与する気はなく、
>だから正確な三国志が書けた。
じゃあ司馬宇治の魏皇帝弑逆を全カットしたのは何故? 586日本@名無史さん2019/03/01(金) 09:50:01.79
429>>896
>西晋時代の皇帝の先祖は帯方を支配していた公孫氏を攻め滅ぼし
そのお陰で魏は倭に朝貢に来させる事が可能になった 皇帝の先祖を祭り上げるために
陳寿は邪馬台国を魏の学者や臣従が後漢の伝承をなぞって
国境より南1万2千里の世界の最果てに置いたように
それを踏襲して邪馬台国ははるか南に離れ後漢にも朝貢した
由緒正しい国ですよとして記述した<
関係がない。
陳寿は、西晋中枢とは関係が無くなっており、今更、政権中枢に関与する気はなく、
だから正確な三国志が書けた。 587日本@名無史さん2019/03/01(金) 09:52:21.29
韓国政府が宣伝していた邪馬台国畿内説が、あっけなく、破綻してしまった、、、
588日本@名無史さん2019/03/01(金) 09:54:24.95
娘に貰った宇治茶があったな。。。
589日本@名無史さん2019/03/01(金) 09:54:54.73
429>>906
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
脳病でも患ってるようだが 590日本@名無史さん2019/03/01(金) 10:01:22.69
まだ続いてるの?
陰謀関係のスレの話なのかな?
起源(発祥)などを主張していると、
日本の神も仏も・・・みたいな事になって、
そもそも日本の話ではない、誰々や某という人物の本家というのは外国だぞ
そういう事になるとか、それとも本当の話なのかも?
591日本@名無史さん2019/03/01(金) 10:03:11.54
苦しくなったのかまた変な事言い出してるなあ
西晋に仕えてるのに西晋の影響が無いとか
592日本@名無史さん2019/03/01(金) 10:05:16.76
429>>911
相変わらず、「南→東」などの嘘つき詐欺の大和説者は、
論理的思考ができないんだなあ
>萬二千里で会稽東冶之東と書いたのは陳寿であって、<
陳寿は、「東冶」なんて書いていない。
>そこに実際に倭国があった訳ではない<
陳寿は、「女王國」として位置を書いた。 593日本@名無史さん2019/03/01(金) 10:07:55.76
>>586
公孫氏が滅んだから朝貢を思いついた、という解釈がどうなのか疑問。
朝貢には、お土産の準備や船団手配など、卑弥呼側も先方も相当の期間が必要だ。
つまり、
公孫康の帯方郡設置後、朝貢話は進められており、公孫恭盧のころは概ねでき上っていた。
が、クーデターで4代目についた公孫淵が変人で、
卑弥呼に嫉妬して邪魔をしたため、延び延びになっていた。
それが、司馬懿の遼東城包囲で片付くみとおしとなったので、238年に、早速、実行に移されたのではないか。 594日本@名無史さん2019/03/01(金) 10:10:55.43
429>>916
魏志倭人伝に書いてある邪馬壹國女王之所都の位置が、実際のものである以上、
書いてある距離方位や位置情報で場所を割り出そうとするのは、有意味。
そして考古物で見ても、女王國は九州で決まり。 595日本@名無史さん2019/03/01(金) 10:11:38.32
>>592
>陳寿は、「東冶」なんて書いていない。
九州説はいつも
理由も言わずに断定ばかりするなあ 596日本@名無史さん2019/03/01(金) 10:11:39.61
本当にテレビなどを観ていると
❔?????❔という話ばかりだし
597日本@名無史さん2019/03/01(金) 10:14:34.21
429>>920
それで、「南→東」などの嘘つき騙しをする大和説者の、
どこの基地外ではないんだ?
精神科というのがあるから、そこに行け 598日本@名無史さん2019/03/01(金) 10:17:55.53
確率的帰納的には東冶が正しいな
599日本@名無史さん2019/03/01(金) 10:20:12.56
ほとんど同じような話ばかり出てこない?
『伊達の桃太郎』
司徒、司空〜三公、
『神獣鏡』
鏡の話にも同じような事が書いてあったり
600日本@名無史さん2019/03/01(金) 10:24:09.73
>>595
事実をそのまま再録しているのに、「断定」とはこれいかに??
記載された文字すら目に入っていないということだな。
もはや、目も虚ろなりか、、、 601日本@名無史さん2019/03/01(金) 10:26:06.94
429>>921
>>女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 は?万?里なんだよ<
>相変わらず、ア・タ・マ悪いなww
中華(漢土)の端から、世界の端まで萬二千里だ
それが東西南北それぞれにあるから、世界全体は3万6千里四方になる
萬二千里からまだまだいくらでも行く場所はある
だが、この領域は基本的に華人にとって人跡未踏の世界だから
伝説や観念の世界であって、その実在を問うのは無意味だ<
類スレ主は、相変わらず、ア・タ・マ悪いな。
「女王之所都」までが萬二千余里であり、それから、
「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種。
又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。
又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至」した、という事は、
魏使らや陳寿は、淮南子の「萬二千里」論を否定した、という事だ。
そしてそれは、
「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」
の陸上地の参問説明においても、示されている。
においても 602日本@名無史さん2019/03/01(金) 10:27:44.17
あの辺りに誰かが住んでいたのかな?
老婆の話によると、
戦争をしているとき?親戚の家に疎開したと言っていたり
確か伊達郡というところで・・・、
機織などをしていてとか
603日本@名無史さん2019/03/01(金) 10:30:23.72
429>>922
>卑弥呼の時代三世紀頃の前方後円墳<
卑弥呼の墓や冢であり、前方後円墳ではないから、×。
>各史書の倭人伝に卑弥呼が魏に使いを出したと記述のある年
西暦でいえば239年、景初三年の魏年号が記銘された三角縁神獣鏡の存在など<
明帝の銅鏡百枚の下賜の詔書は、景初二年だから、
それ以後の紀年鏡は、明帝の鏡ではなく、だから、×。 604日本@名無史さん2019/03/01(金) 10:31:48.69
>>565
>神武が九州から東征した証拠は皆無だが、阿波からなら可能性があるよね。
いや、神武東征も倭国(阿波)での話だから。 その時代に、海を渡ってまでして、遠征軍を維持できないよ。
>古墳は阿波のほうが古いし、畿内の古墳に使われた葺き石は阿波産のものが多い。
水銀朱や勾玉や青石石棺もね。 @阿波 605日本@名無史さん2019/03/01(金) 10:32:40.85
当時住んでいた家wというのがあるんだけど
本や書なんかが、ずら〜っと並んでいてとか、
家の話なのかな
606日本@名無史さん2019/03/01(金) 10:33:45.47
ザラコクの書いたことはデマと思っとけば十中八九間違いない
607日本@名無史さん2019/03/01(金) 10:43:07.02
韓国政府が宣伝していた邪馬台国畿内説が、あっけなく、破綻してしまった、、、
608日本@名無史さん2019/03/01(金) 10:44:12.04
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
609日本@名無史さん2019/03/01(金) 10:50:15.01
『平家 祇園精舎』調べてみて
『仙籍』〜という話が書いてあったり、仙人、神仙?
610日本@名無史さん2019/03/01(金) 10:55:59.39
当時の関係者(親戚など)だけが知っている事なのかな、
芝居、歌舞伎の話とか
何なんだろう
611日本@名無史さん2019/03/01(金) 10:57:42.51
確率の扱いはおかしいよね
仮に全体で0.5%としても他の資料と突合して違ってる部分が同様に0.5%である訳は無いからな
612日本@名無史さん2019/03/01(金) 10:59:12.15
>>595
事実をそのまま再録しているのに、「断定」とはこれいかに??
つまりは、記載された文字すら目に入っていないということだな。
もはや、目も虚ろなりか、、、 613日本@名無史さん2019/03/01(金) 11:05:08.62
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
614日本@名無史さん2019/03/01(金) 11:06:11.29
『仙籍』も同じ、調べてみると
劉□・・・のような名前が出てきたり、
615日本@名無史さん2019/03/01(金) 11:08:50.76
>>565
>神武が九州から東征した証拠は皆無だが、阿波からなら可能性があるよね。
いや、神武東征も倭国(阿波)での話だから。 その時代に、海を渡ってまでして、遠征軍を維持できないよ。
>古墳は阿波のほうが古いし、畿内の古墳に使われた葺き石は阿波産のものが多い。
水銀朱や勾玉や青石石棺もね。 @阿波 616日本@名無史さん2019/03/01(金) 11:10:09.97
『仙籍』〜【コトバンク】
C 中国で、天子の侍臣の名札。〔劉滄‐及第後宴曲江詩〕
芸能関係の話でしょ
617日本@名無史さん2019/03/01(金) 11:13:38.35
『仙籍』〜というのも、
最近、調べてみて(ネットでw)、わかった事なんだけど、
なぜ老婆は知っていたんだろう
618日本@名無史さん2019/03/01(金) 11:24:48.13
『伊達の桃太郎』門下と書かれている人物が・・・、
『松傾』なのかな、または親戚?
どういう事なんだろう
619日本@名無史さん2019/03/01(金) 11:38:55.84
429>>928
>卑弥呼の墓は径百歩と伝えられる大規模なもの <
「径百余歩」は「径25.5m余」であるから、普通のサイズ。
>また三世紀の畿内ではすでに集権的な権力が確立されていた事も示す<
畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
大和は、九州倭国の筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であり、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国であり、
新規に征服支配した毛人や出雲系に示しを付けるために巨大化したもの。
>その頃の九州古墳にこのクラスは存在しない<
九州は、既に「西服衆夷六十六國」済みであり、
魏の薄葬令に拠って、必要もなくなった。 620日本@名無史さん2019/03/01(金) 11:47:18.04
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
621日本@名無史さん2019/03/01(金) 11:59:07.61
C 中国の天子と書いてあるけど、もともと中国の話でしょ、何なんだろう
622日本@名無史さん2019/03/01(金) 12:01:54.84
429>>930
>ただの大和政権だが、畿内様式土器と前方後円墳(纒向型を含む)の分布から<
土器も前方後円墳も九州倭国からの伝来だ。
>当時の「倭国の領域全体を覆う秩序」の中心が大和にあることが分かる <
大和は、九州倭国の筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であり、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国であり、
新規に征服支配した毛人や出雲系に示しを付けるために巨大化しただけ。
>もちろん首長同士の連合だから、支配ー被支配の関係ではないし、
面として列島を埋めているわけではないが、北部九州や宮崎西都原も参画している秩序だ<
大和も宮崎も倭奴國の阿毎氏系の国であり、
伊都国になってからも一大率として、女王國の軍事的中心になり、
四道の東征将軍や武将として征服地を支配し、半島にも進出したが、
阿毎氏以外の姫氏や狗奴國や安曇や宗像なども、別個に東征したようで、
播磨や阿波や紀伊に拠点を造っていたようだ。 623日本@名無史さん2019/03/01(金) 12:05:44.37
「下層から布留甕1個体が出土し、上層からは東阿波型土器や布留式土器がまとまって出土しており、
時期差の可能性が考えられる出土状況が確認できた。」
だから畿内から親方が布留式土器を秘境現場にもって行ったということだな
624日本@名無史さん2019/03/01(金) 12:08:29.67
『天子』
ネットなどで検索すると「〜国の帝王。わが国の天皇。」
という・・・・が出てきたり
わが国というのは日本のことでしょ、
自称なのかな?
『天皇号』
この話とか
625日本@名無史さん2019/03/01(金) 12:15:42.40
本当に、例えば
『セイントセイヤ 中国』?
関係の話、画像が出てきたりするでしょ、何なんだろう
626日本@名無史さん2019/03/01(金) 12:17:36.34
阿波南部の芝遺跡は弥生時代前期後半頃から弥生時代を通じて恒常的に吉野川下流域から
搬入品が認められるが、布留甕よりも上層から東阿波型土器が出るということは
東阿波型土器の成立が庄内式より100年くらい遅れてるんだな
ど秘境だから仕方ないが
627日本@名無史さん2019/03/01(金) 12:19:57.69
>>623
>時期差の可能性が考えられる出土状況が確認できた。
「可能性が考えられる」 考えてみたら、「忌部はん」 が1個体だけ穴を掘って何かを埋めて隠しておいたんだよ。 ワハハハハ @阿波 628日本@名無史さん2019/03/01(金) 12:22:11.61
>>626
>布留甕よりも上層から東阿波型土器が出るということは
それが何か問題でも? @阿波 629日本@名無史さん2019/03/01(金) 12:24:37.85
阿波爺には考古学は無理
630日本@名無史さん2019/03/01(金) 12:36:23.15
韓国政府が宣伝していた邪馬台国畿内説が、あっけなく、破綻してしまった、、、
631日本@名無史さん2019/03/01(金) 12:44:39.65
本当に、おかしな話(現象)、
もともと中国の話なんじゃないの?
632日本@名無史さん2019/03/01(金) 12:58:46.94
『伊達の桃太郎』の、
この辺りも専門に聞いたほうが良い
>海上白浪〜
『白浪五人』
>王子王子・・・
うらしまマリン(河伯、日本では河童)
633日本@名無史さん2019/03/01(金) 13:01:44.78
ぽせいどん、ひどら、海龍?
何の話なんだろう
634日本@名無史さん2019/03/01(金) 13:05:30.14
『セイントセイヤ ポセイドン』
確実に、海底神殿、龍宮〜でしょ・・・。
635日本@名無史さん2019/03/01(金) 13:08:57.60
429>>943
「南→東」などの嘘吐き騙しをし、
理由もなく中傷するのが大和説か 636日本@名無史さん2019/03/01(金) 13:12:19.77
何度書いても本当の話でしょ、
この曲も、かなり詳しい
dead end『serpent silver』
あと、こういう作品も
『海神別荘』
637日本@名無史さん2019/03/01(金) 13:13:45.96
箸墓説を唱えだした五畿内人は誰なんだろう?
もしかして、ここのスレぬしか?、
638日本@名無史さん2019/03/01(金) 13:20:59.68
429>>944
位置情報と墓の大きさの情報の、信頼度を同一視せずして0、1、
all or nothingの論法にしてしまう大和説は、ただの思考放棄だろ
土地の位置情報は測量法があるし、古い伝承も下敷きにある
実際の地理とほぼ合うのは、
現代の地図情報と照らし合わせてほぼ確定
また、墓の大きさも実見情報だし、
百歩というのは身体尺で近似計測できるから 見積もりも容易だし、
現実に径百歩と見なせる祇園山が存在している
この二つを異列に論じようという時点で、チェリーピッキングだよww 639日本@名無史さん2019/03/01(金) 13:22:59.89
>>566
>この「小形丸底鉢=東阿波型土器」とするのが、インチキ捏造だ。
得意の「インチキ捏造」の登場。ワハハハハ @阿波
阿波の小型丸底鉢は弥生後期の矢野遺跡出土。
東阿波型土器は弥生終末期から。
なので、弥生後期の矢野遺跡出土小型丸底鉢は、東阿波型土器でないことになる。
時間軸をちゃんと整理しないとなあ〜。 640日本@名無史さん2019/03/01(金) 13:28:30.46
429>>945
>三世紀に魏と邪馬台国が交流を持った頃<
邪馬台国なんて、存在もしない嘘つき騙し文言であるから、×。
>大和と呼ばれる地域に大きな勢力があって<
九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国であり、旧小国。
>魏の年号が入った鏡が見つかって<
大和からは見つかっていない。
>径百歩に相当する古墳があって<
前方後円墳は、冢ではないし、長径だから、箸墓などは×。
>これはたまたまかな <
大和は、九州倭国の筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であり、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国であり、
新規に征服支配した毛人や出雲系に示しを付けるために巨大化しただけ。 641日本@名無史さん2019/03/01(金) 13:29:33.62
それにしても凄い話ばかり、
元ネタ(〜漢訳、日本語訳?)があるのかな、
それともゴーストライターみたいな存在がいて・・・?
642日本@名無史さん2019/03/01(金) 13:29:46.76
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
643日本@名無史さん2019/03/01(金) 13:31:26.02
429>>947
>冬でも裸足とか生野菜とか記述されてるのは
会稽陶冶の東という位置情報をもとに創作してると考えるべきだろ
そうなると位置情報だけではなくその他の部分も創作されてると考えるべきだよ<
陳寿は「会稽東治之東」だから、「会稽東冶の東」は、×。 644日本@名無史さん2019/03/01(金) 13:37:38.63
429>>949
>そうだよ
三角縁神獣鏡は畿内を中心としてその周辺からよく発見されるよ<
渡来の呉楽浪鏡師らが、当初は筑紫で造り、
卑弥呼の銅鏡百枚を見て東方の豪族らからの依頼製作に切り替えたが。
大和は、4世紀に入ってから,子弟に造り方を教えて、
大量の粗悪な副葬用の△を造らせた。 645日本@名無史さん2019/03/01(金) 13:40:32.83
646日本@名無史さん2019/03/01(金) 13:41:24.97
429>>952
>邪馬台国から畿内に下賜して
畿内から周辺に配られたんだね わかりました<
邪馬台国も畿内もないから、×。 647日本@名無史さん2019/03/01(金) 13:45:18.06
本当に
鯛やヒラメの舞い踊り・・・と同じ話でしょ、
さざえさん?
648日本@名無史さん2019/03/01(金) 13:46:22.20
429>>953
>「都合よく」って、アタマおかしいのか? 測る難易度を考えろ
数字と現物の合い具合を見ろ 行程は信じない 百余歩は信じる
自然で妥当であたりまえな結論だ だから現実を見ろって言ってるんだよ<
位置情報と墓の大きさの情報の、信頼度を同一視せずして0、1、
all or nothingの論法にしてしまう大和説は、ただの思考放棄だろ
土地の位置情報は測量法があるし、古い伝承も下敷きにある
実際の地理とほぼ合うのは、現代の地図情報と照らし合わせてほぼ確定
また、墓の大きさも実見情報だし、
百歩というのは身体尺で近似計測できるから 見積もりも容易だし、
現実に径百歩と見なせる祇園山が存在している
この二つを異列に論じようという時点で、チェリーピッキングだよ 649日本@名無史さん2019/03/01(金) 13:48:44.28
429>>955
「南→東」などの嘘吐き騙し大和説の論理は
駄々っ子の論理だな 650日本@名無史さん2019/03/01(金) 13:49:17.14
畿内箸墓説を唱えだした五畿人は誰なんだろう?
もしかして、ここのスレぬしか?、
651日本@名無史さん2019/03/01(金) 13:49:49.06
>>639
>阿波の小型丸底鉢は弥生後期の矢野遺跡出土。
あのぉ、矢野遺跡は縄文時代から続く遺跡なんだけどw 弥生時代も相当長いよ。 弥生後期の限定して遺跡じゃ
>なので、弥生後期の矢野遺跡出土小型丸底鉢は、東阿波型土器でないことになる。
だから、弥生後期の矢野遺跡出土小型丸底鉢を「東阿波型土器」という。 何考えてんの?
君、かなり一生懸命だね。 ガンバレ @阿波 652日本@名無史さん2019/03/01(金) 13:51:24.96
429>>962
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
都合の悪い現実からすぐに目をそむける 653日本@名無史さん2019/03/01(金) 13:56:52.77
429>>975
>でも中国の使者は邪馬台国まで行ってないんだろ?
倭国人からの伝聞なんだろ?<
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
魏使らの一部は、倭種や侏儒國付近まで行っている。 654日本@名無史さん2019/03/01(金) 13:57:27.51
『松傾』
ここを読んでみて
655日本@名無史さん2019/03/01(金) 14:04:55.11
>>651
>あのう、矢野遺跡は縄文時代から続く遺跡なんだけどw
小型丸底鉢が出たのは、矢野遺跡の弥生後期の層からなんだけど。
>だから、弥生後期の矢野遺跡跡出土小型丸底鉢を「東阿波型土器」という。
だから、東阿波型土器が発生するのは弥生終末期なので、その終末期の前の弥生後期には、まだ東阿波型土器を造る技術がないの。
君、かなり一生懸命の忌部さんだが、まあ、頑張りたまえ。 656日本@名無史さん2019/03/01(金) 15:07:29.31
>>570 成る程
歪められた、畿内説だな 纏向遺跡と卑弥呼を無理矢理結び着けるのは 学問と言うより、ゴネてるだけ^_^ 657日本@名無史さん2019/03/01(金) 15:19:35.12
430>>71
>「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312 ・・・<
これ、論破済み。 658日本@名無史さん2019/03/01(金) 15:22:49.12
430>>72
「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・大和説は、
論破されて反論が不能になっちったもんな 659日本@名無史さん2019/03/01(金) 15:30:37.26
430>>89
「南→東」などの嘘吐き詐欺師の大和説の学者さまは、
頭が弱いから、すぐ自爆する 660日本@名無史さん2019/03/01(金) 15:31:07.58
>>639
>なので、弥生後期の矢野遺跡出土小型丸底鉢は、東阿波型土器でないことになる。
>>541の
「@ 弥生土器X様式期に小形丸底鉢(東阿波型土器)の登場」は泡の書き込みじゃないのか?
バカなの?
ごめん、バカだったなww
結局、東阿波型土器は、庄内土器より100年程度遅れる訳だ 661日本@名無史さん2019/03/01(金) 15:35:58.74
430>>95
>それ畿内説がいつも言ってることなんだが <
畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
「南≠東」などで、大和説学者らは×で、分裂幻覚の妄想の・・・・病だ、
とはいつも言っている事なんだが。 662日本@名無史さん2019/03/01(金) 15:38:10.83
430>>97
「南≠東」などで、いつも簡単に論破される大和説が、
虚勢張りすぎで草。
ヤケクソかな ?。 663日本@名無史さん2019/03/01(金) 15:45:52.88
もう大体、泡のバカさ、ウザさは周知されたよな
あとは放置でOK?
664日本@名無史さん2019/03/01(金) 15:46:53.45
430>>100
陳寿は殆ど記録通りで、創作は殆ど含まれていないのだからいない、
チェリーピッキングしたらダメだよという事だ
方向や距離は記録通りだろうし、
会稽陶治の東というのは陳寿の地の文の位置説明だし、
温暖だろうという事も魏使らの夏場での観察記録であろうし、
そうなると
卑弥呼墓の大きさの記述は真実だとする根拠も十分にあるわけだよ
記述の多くに創作が含まれていないと分かってるのに、
墓の大きさだけは正しいとチェリーピッキングしてるのが大和説なんだよ
それを自覚しなさい 665日本@名無史さん2019/03/01(金) 15:51:07.76
430>>101
魏志倭人伝の記述が全て正しい,、なんていう筈がない。
当然、魏使らの見聞や近似計測ミスもありうるかた、殆ど正しい、という。
大和説の「絶対断定」論法では、
1つ破られればすべて破綻しちゃう 666日本@名無史さん2019/03/01(金) 16:03:48.12
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明し、
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだこのスレッドで宣伝する目的で雇用した、韓国人の係員のバカさ、ウザさは周知されたので、あとは放置でOKでは、ないのかな。。。
667日本@名無史さん2019/03/01(金) 16:07:36.73
430>>109
九州説が困ってるのは
国民の3割しか支持がなく、頭と品行が悪すぎる大和説が、
安部自民文部省政府や、キョクウマスコミやYahooや5chや、
皇国史観学会教育界の支持を受けて、
日本を侵略殺戮戦争をする国にする事のお手伝いをしている、
という事。
ある日突然戦争が始まって、今度は核戦争のために国民の殆どが殺されてしまいそう。
のほか何もない >>109 668日本@名無史さん2019/03/01(金) 16:12:19.93
430>>114
指摘したければ具体的のどうぞ
出ないとヤジでしかない
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、まともな人間ではないから、
ヤジとかウソとか迷惑行為以外なにかできるとも思ってないけどね 669日本@名無史さん2019/03/01(金) 16:18:23.15
430>>115
>一番信用できるのは魏との外交記事ってのが畿内説の立場<
何を言ってんだい?。
魏使ら自身は、魏の外交担当者ではないか。
しかし、大和説者は、その魏使らの「見聞計測」の記録を、
「間違いが多い」として否定抹殺曲解しているんではないか。
これが、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者の正体。 670日本@名無史さん2019/03/01(金) 16:23:28.71
ザラコクは反論に窮してのオウム返しだから論理が目茶苦茶になっとるな
671日本@名無史さん2019/03/01(金) 16:33:14.44
>>655
>小型丸底鉢が出たのは、矢野遺跡の弥生後期の層からなんだけど。
だから、小型丸底鉢=「東阿波型土器」=弥生後期(弥生終末期も弥生後期) だと、何度言えばw
>だから、東阿波型土器が発生するのは弥生終末期なので
意味不明。 弥生終末期も弥生後期。 頭、大丈夫? @阿波 672日本@名無史さん2019/03/01(金) 16:34:44.91
韓国政府が宣伝していた邪馬台国畿内説が、あっけなく、破綻してしまった、、、
673日本@名無史さん2019/03/01(金) 16:38:42.45
>>660
>結局、東阿波型土器は、庄内土器より100年程度遅れる訳だ
君は弥生土器第X様式より、庄内土器が100年程度古いって言ってるの? 意味不明。 @阿波 674日本@名無史さん2019/03/01(金) 17:14:04.29
畿内箸墓説を唱えだした五畿人は、いったい誰だったんだろう?
たぶん、ここのスレぬしだろうな、
675日本@名無史さん2019/03/01(金) 17:17:13.51
>>671
>小型丸底鉢=「東阿波型土器」=弥生後期(弥生終末期も弥生後期)
だから、これが根拠なしのインチキ捏造なんだってww
その小型丸底鉢を「東阿波型土器」というのはたぶん日本で泡一人w 676日本@名無史さん2019/03/01(金) 17:20:09.29
430>>122
>あのね 反論したり反証をあげたりしないと 滅びようにも滅びないんだよ
なんたって通説なんだからね <
「南≠東」などの反論を、逐一挙げてあるよ。
そして、大和説が反論不能である事は、
当然、大和説者のYahooや5chは知っているから、私の投稿の妨害をしている。 677日本@名無史さん2019/03/01(金) 17:25:17.24
>>676
南≠東なんてとっくに論破されとる
陳寿が皇帝奉りのために伝承に合わせ
現実的でない帯方より南1万2千里
沖縄台湾の辺りの会稽東治(冶)の東と書いたんだよ 678日本@名無史さん2019/03/01(金) 17:31:07.11
>>675
>その小型丸底鉢を「東阿波型土器」というのはたぶん日本で泡一人w
正式には、「小型軽量丸底鉢」というんだよ。 そんなこと言って恥の上塗りしちゃイカンぜよ。 @阿波
鮎喰川下流集落群では、弥生終末期には軽量薄型の土器が生み出される。
中・東部瀬戸内から大阪湾岸地域、淀川地域・山城地域に搬出された阿波を代表する土器であり、東阿波型土器と呼んでいる。
企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法に特徴がある。土器製作専業集団によるものだろう。
類似技法による土器は讃岐・吉備に拡がり、薄型土器の南北軸を形成している。 679日本@名無史さん2019/03/01(金) 17:34:52.70
泡よ、確認だが「記紀には纏向に宮がある」と書いてるな?
日本書紀
崇神 三年秋九月、遷都於磯城、是謂瑞籬宮
垂仁 冬十月、更都於纏向、是謂珠城宮也
景行 則更都於纏向、是謂日代宮
古事記
崇神 御眞木入日子印惠命、坐師木水垣宮、治天下也
垂仁 伊久米伊理毘古伊佐知命、坐師木玉垣宮、治天下也
景行 大帶日子淤斯呂和氣天皇、坐纒向之日代宮、治天下也
纏向に宮があると記紀に書いてあるな!
680日本@名無史さん2019/03/01(金) 17:36:31.23
>>678
>鮎喰川下流集落群では、弥生終末期には軽量薄型の土器が生み出される。
時系列、大丈夫か?
弥生終末期は、弥生後期よりも後だぞww
いや、時系列じゃなくて、ア・タ・マ大丈夫か? 681日本@名無史さん2019/03/01(金) 17:51:46.12
430>>124
>>九州から大和に移った神武の部下の大久米命の顔の刺青に、
当時の大和にいた姫が驚いた歌があたっよね。<
>と、文身が九州にあったと主張する根拠すら、畿内王朝の文献に依存する九州説ww
そして黥面土器という考古学的な実物証拠で考えると、かすりもしないのが九州
九州で文身の習慣があったとする直接証拠はない<
いや、おそらく書紀の記載なんだろうが、
書紀が、そんな事が1200年以上後になって問題になるなんて事がつゆ知らず、
ついうっかり記載してしまった、伝承の記録であり、
「ついうっかり記録」は信憑性があり、証拠になる。 682日本@名無史さん2019/03/01(金) 17:58:05.72
>>679
>泡よ、確認だが「記紀には纏向に宮がある」と書いてるな?
書いてるけど、それがなにか? @阿波 683日本@名無史さん2019/03/01(金) 18:01:17.97
>>680
>弥生終末期は、弥生後期よりも後だぞww
頭、大丈夫? 弥生終末期も弥生後期のうちって理解できないの? @阿波 684日本@名無史さん2019/03/01(金) 18:03:10.33
>>680
>弥生終末期は、弥生後期よりも後だぞww
頭、大丈夫? 弥生終末期は決しても弥生前期や弥生中期じゃないよ。 @阿波 685日本@名無史さん2019/03/01(金) 18:05:34.91
430>>127
>こいつ、バカだろww
まずは前スレのこれに反論できるならしてみそ?・・・<
これは、反論否定済みだな。 686日本@名無史さん2019/03/01(金) 18:11:02.83
430>>133
>>その道里を計れば、不彌國で萬二千余里がほぼ終わってしまっているから、<
>会稽東治の東にならなくなって九州説即死<
女王國の投馬國が南九州になって、女王國はほぼ九州島付近である事になるから、
大和説、即死。 687日本@名無史さん2019/03/01(金) 18:12:56.30
430>>134の訂正
「そうなると魏志倭人伝の距離方位は邪馬台国の場所を示していないから
それで考古物で見れば邪馬台国は畿内となるわけさ」
は、削除。 688日本@名無史さん2019/03/01(金) 18:16:07.11
430>>136
>会稽東治なんて地名はないから誤記<
「東治」は、始めから、
「地名」ではなく、「説明文言である」と言って来てあったから、
「地名はないから誤記」と言った類スレ主が、×。 689日本@名無史さん2019/03/01(金) 18:16:23.48
>>565
>神武が九州から東征した証拠は皆無だが、阿波からなら可能性があるよね。
いや、神武東征も倭国(阿波)での話だから。 その時代に、海を渡ってまでして、遠征軍を維持できないよ。
>古墳は阿波のほうが古いし、畿内の古墳に使われた葺き石は阿波産のものが多い。
水銀朱や勾玉や青石石棺もね。 @阿波 690日本@名無史さん2019/03/01(金) 18:24:47.77
691日本@名無史さん2019/03/01(金) 18:36:20.12
韓国政府が宣伝していた邪馬台国畿内説が、あっけなく、破綻してしまった、、、
692日本@名無史さん2019/03/01(金) 18:39:58.51
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
693日本@名無史さん2019/03/01(金) 18:43:47.07
430>>152
>さらに遷都され、沖縄から南九州、そして奈良が都となった。これが
紀元3世紀までにおこったことである。<
これ×ね。
奈良が都になったのは、白村江の後の701年頃に、
九州倭国を併合吸収継承した後。
それまでは、大和は、
筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であり、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国であり、
九州倭国の地方の市を監督する大倭職の国であり、
九州倭国から独立して日本国を名乗ったのが、隋の開皇末の小野妹子の遣使から。 694日本@名無史さん2019/03/01(金) 18:44:36.04
>>565
>神武が九州から東征した証拠は皆無だが、阿波からなら可能性があるよね。
いや、神武東征も倭国(阿波)での話だから。 その時代に、海を渡ってまでして、遠征軍を維持できないよ。
>古墳は阿波のほうが古いし、畿内の古墳に使われた葺き石は阿波産のものが多い。
水銀朱や勾玉や青石石棺もね。 @阿波 695日本@名無史さん2019/03/01(金) 18:46:22.70
>>154
大和説は全ての論拠がなくなった これが実態だけれどな
そしてスレ主は壊れて自分の殻に閉じこもり
とっくに論破された古臭いカビの生えた説を
ひたすら5chに向かって繰り返すだけになった 696日本@名無史さん2019/03/01(金) 18:49:29.67
>>688
>「東治」は、始めから、
>「地名」ではなく、「説明文言である」と言って来てあったから、
>「地名はないから誤記」と言った類スレ主が、×。
ウソをついたら自分が×になるだけで他人は関係ないんだよ 697日本@名無史さん2019/03/01(金) 18:50:49.50
430>>156
>邪馬台国は沖縄。文書は誠実に読みましょう。<
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき詐欺文言。
文書は、誠実に読みましょう。
また、不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、
邪馬壹國女王之所都は、(沖縄ではなくて)不彌國のすぐ南にある事になる。 698日本@名無史さん2019/03/01(金) 18:54:07.42
西服衆夷六十六国で畿内に屈服してる九州が東征は有り得ないな
699日本@名無史さん2019/03/01(金) 18:56:05.62
430>>159
>前方後円墳や三角縁神獣鏡などの考古物を見れば
邪馬台国は畿内だけどな <
邪馬台国なんても畿内も存在もしない嘘つき騙し文言。
大和の前方後円墳は、卑弥呼の冢ではなく、石塚で3世紀末。
大和の△は、布留期だから、4世紀以後。
いずれにしても、卑弥呼の3世紀前半に合わず、
大和説は、×。 700日本@名無史さん2019/03/01(金) 18:57:56.49
>>698
その時代に、海を渡ってまでして、遠征軍を維持できないからね。 @阿波 701日本@名無史さん2019/03/01(金) 19:22:08.36
>>695
>大和説は全ての論拠がなくなった これが実態だけれどな
そうだね、土器も古墳も倭国(阿波)製と分かってしまったからね。 @阿波 702日本@名無史さん2019/03/01(金) 19:23:10.54
>>699
そうやって
なにひとつ証拠のないことを
延々と断定し続けてる九州説の人って
明らかに頭ヘンだよね 703日本@名無史さん2019/03/01(金) 19:26:39.28
>>697
>また、不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているなら
そこは会稽よりはるかに北なので
九州説も終わってるから
死亡確定だよね
なむあみだぶ 704日本@名無史さん2019/03/01(金) 19:38:54.46
若杉山遺跡の坑道で弥生時代後期を再考しましょう、トンデモさん達。 って、NHKが言ってるよ。 @阿波
705日本@名無史さん2019/03/01(金) 19:43:08.11
卑弥呼がヤマト王政を作った根拠があるのかね
一人の鬼道を操る者が日本国家の創造者かな
卑弥呼は誰の子なんだろうか
706日本@名無史さん2019/03/01(金) 19:45:05.59
纏向を卑弥呼の王都と言いだした
有名大学の教授でも無い、畿内説三大奇って知らないだろうな
707日本@名無史さん2019/03/01(金) 19:45:41.87
>>705
他人と会話できない可哀想な九州説のおじいちゃん 708日本@名無史さん2019/03/01(金) 19:46:02.35
纏向遺跡と卑弥呼を無理矢理結び着けるのは 学問と言うより、ゴネてるだけ^_^
709スレ主さんよ2019/03/01(金) 19:50:20.12
スレが進んで喜んでる場合じゃねーよ
畿内説 問題山積みだな
24時間張り付かないで
しばらく最近の勉学にいそしんだらどうや
変身したら又スレ立てればいいよ
ザラコク退治も出来ない様じゃ✖
南→東の根拠が希白だからつけこまれるよ
誤情報や誤認何て証拠もくそもあったもんじゃ無いよ
710日本@名無史さん2019/03/01(金) 19:50:24.43
倭人伝の行程どおり進むと
沖縄あたりの海へドボンすることを
陳寿本人が明確に保証しちゃってるので
九州説があり得ないことは誰にでも解るよね?
711日本@名無史さん2019/03/01(金) 19:52:11.49
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、
魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
712日本@名無史さん2019/03/01(金) 19:55:13.29
>>709
畿内説にどんな問題があるんだ?
狂ったストーカーがいる以外にさー
それって圧倒的に強い者の宿命だろ
ならばそれも問題という程でもないよな 713日本@名無史さん2019/03/01(金) 19:55:49.48
考古学者の森浩一(1928-2013)
「纏向遺跡の建物が出たとき、崇神の宮ではないか、垂仁の宮ではないか、景行の宮ではないかということは、どうして出てこなくて、いきなり卑弥呼がくるのですか。」と苦言を呈している。
日本書紀
崇神 三年秋九月、遷都於磯城、是謂瑞籬宮
垂仁 冬十月、更都於纏向、是謂珠城宮也
景行 則更都於纏向、是謂日代宮
古事記
崇神 御眞木入日子印惠命、坐師木水垣宮、治天下也
垂仁 伊久米伊理毘古伊佐知命、坐師木玉垣宮、治天下也
景行 大帶日子淤斯呂和氣天皇、坐纒向之日代宮、治天下也
714日本@名無史さん2019/03/01(金) 19:57:35.91
715日本@名無史さん2019/03/01(金) 19:58:43.06
>>712
じゃあ聞くよ
纏向の掘立柱建物が、崇神や、垂仁、景行と関係無い事立証してみろよ 716日本@名無史さん2019/03/01(金) 19:59:01.29
九州説は万世一系天皇主義に毒されすぎ
717日本@名無史さん2019/03/01(金) 19:59:40.05
>>714
おなじく
纏向の掘立柱建物が、崇神や、垂仁、景行と関係無い事を立証してみろよ 718日本@名無史さん2019/03/01(金) 20:01:08.47
>>715
では証明にチャレンジしてみたいので、その人たちの実在を証明して下さい 719日本@名無史さん2019/03/01(金) 20:01:33.34
バカスレ主 IN
馬鹿だから、なにも論じない
720日本@名無史さん2019/03/01(金) 20:02:18.06
捕らえてみせますから、その虎を屏風から追い出して下さい
721日本@名無史さん2019/03/01(金) 20:03:19.05
テンプレに入れて見ろよ
Q 纏向の掘立柱建物は卑弥呼と言う前に、崇神や、垂仁、景行と関係が深い
722日本@名無史さん2019/03/01(金) 20:04:37.16
>>719
反論できないので相手を罵ることで
自分の馬鹿さを証明した九州説
それは惨めの極致である 723日本@名無史さん2019/03/01(金) 20:05:31.74
724日本@名無史さん2019/03/01(金) 20:06:43.72
>>714
無礼な事を言うなよ
森名誉教授をリスペクトしてる寺澤さんに失礼だよ 725日本@名無史さん2019/03/01(金) 20:07:50.56
>>128
批判してるやないか、箸墓は卑弥呼墓ではないって。 726日本@名無史さん2019/03/01(金) 20:08:04.33
727日本@名無史さん2019/03/01(金) 20:09:15.86
728日本@名無史さん2019/03/01(金) 20:10:27.17
批判って何だかも知らない九州説の貧困
729日本@名無史さん2019/03/01(金) 20:16:27.83
730日本@名無史さん2019/03/01(金) 20:17:36.34
>>727
初心者だな
過去のカキコミ読んでから参加しなよ 731日本@名無史さん2019/03/01(金) 20:20:52.05
>>729
同志社大学の森名誉教授の門下生が寺澤さん
寺澤さんの就職口も森さん7が斡旋したらしいよ 732日本@名無史さん2019/03/01(金) 20:21:03.57
>>730
ほらな
いかなる時も
まったく証拠の出せない九州説 733日本@名無史さん2019/03/01(金) 20:22:50.72
734日本@名無史さん2019/03/01(金) 20:24:52.39
>>731
そのあと
土器編年ナニソレ裏切り者クソヤロー的にボロクソ言ってたらしいな
ほかの弟子たちもみんな老醜の師を見捨てたが 735日本@名無史さん2019/03/01(金) 20:26:47.32
>>733
またも鎧袖一触で論破される九州説の悲惨 736日本@名無史さん2019/03/01(金) 20:28:12.15
纏向遺跡の名称は、旧磯城郡纒向村に由来し、「纒向」の村名は垂仁天皇の「纒向珠城(たまき)宮」、
景行天皇の「纒向日代(ひしろ)宮」より名づけられたものである。
737日本@名無史さん2019/03/01(金) 20:29:28.46
15代応神天皇が百済のアケ王擁立記事から390年元年。
そこから得られる応神以降30代の平均在位は11年弱。
応神から神武まで、神功皇后を入れて遡ること15代。
端数を省き11年で計算すると、神武まで15代で165年。
応神390年元年から165年を引くと神武元年は卑弥呼の生きた時代である225年となる。
現代中国語でのピンインでの表記
卑弥呼:Bēi mí hū / Bei1 mi2 hu1
(俾彌呼:Bǐ mí hū / Bi3 mi2 hu1)
今のところ卑弥呼の発音に関して日本側の古事記表記の比桃@(Bǐ miē hòu)、
比売后〈Bǐ mài hòu〉以外には類似する名称は存在しない。
神武と卑弥呼が同時代なら卑弥呼とはヒメ后〈Bǐ mài hòu〉、
ヒメ(踏鞴五十鈴)媛しかいないのである。
738日本@名無史さん2019/03/01(金) 20:30:51.92
だからなに?
739日本@名無史さん2019/03/01(金) 20:32:14.01
ヨコから参加
寺澤さんは纏向遺跡発掘の主役じゃ無かったよ
石野さんや関川さんが主役
石野さんと関川さんの見解は違ったけどね
740日本@名無史さん2019/03/01(金) 20:34:06.42
考古学者の森浩一(1928-2013)
「纏向遺跡の建物が出たとき、崇神の宮ではないか、垂仁の宮ではないか、景行の宮ではないかということは、どうして出てこなくて、いきなり卑弥呼がくるのですか。」と苦言を呈している。
☝
これへの反論は欲しいですな
741日本@名無史さん2019/03/01(金) 20:35:33.67
あ、もう一人おった。
神武の義理姉で鴨王の后、ヒム后こと日向賀牟度美良姫。
どちらも住んだのは葛城だ。
742日本@名無史さん2019/03/01(金) 20:35:37.57
>>740
どうして?
それ、明らかに考古学者としての発言じゃないだろ? 743日本@名無史さん2019/03/01(金) 20:37:06.77
>>740
当時の森さんの言ってた事は正しい。
でも今では時代が違うからね。
庄内0期は2世紀末になった。 744日本@名無史さん2019/03/01(金) 20:37:17.28
745日本@名無史さん2019/03/01(金) 20:39:32.60
寺澤は森の弟子には間違いないが
石野にすり寄っていたんだよ
見解が賛同できたか出世のためかは知らん
746日本@名無史さん2019/03/01(金) 20:39:48.46
>>743
いや、当時から相当ヘンだった
高句麗の前方後円墳とかさ 747日本@名無史さん2019/03/01(金) 20:42:27.96
748日本@名無史さん2019/03/01(金) 20:42:28.51
>>746
野球で言えばエラーした選手をいつまでも悪く言う姿は良くない。
箸墓=卑弥呼墓説の方がよほど致命的なエラー。 749日本@名無史さん2019/03/01(金) 20:43:27.84
>>745
森はマスコミで名前売る以外なんにもない芸能人学者だったから、くっついてて得が無いのはミエミエだしな
だから教え子みんな逃げた 750日本@名無史さん2019/03/01(金) 20:45:12.72
751日本@名無史さん2019/03/01(金) 20:45:18.74
>>749
NHKのヒストリアに出てた寺澤だって芸能人学者だ。 752日本@名無史さん2019/03/01(金) 20:47:46.81
753日本@名無史さん2019/03/01(金) 20:48:19.65
寺澤って纏向古墳群=三輪氏墓説なんて言ってるのか?
三輪山祭祀だから?
いやもうアホかと…
754日本@名無史さん2019/03/01(金) 20:48:20.69
>>751
あれは失笑を買ったな 畿内説の恥さらしだな学が無さすぎ 755日本@名無史さん2019/03/01(金) 20:49:12.12
>>752
という根拠は?という質問が意味をなさない。 756日本@名無史さん2019/03/01(金) 20:50:46.29
757日本@名無史さん2019/03/01(金) 20:51:33.41
758日本@名無史さん2019/03/01(金) 20:52:26.99
759日本@名無史さん2019/03/01(金) 20:53:12.48
>>736
>纏向遺跡の名称は、旧磯城郡纒向村に由来し、「纒向」の村名は垂仁天皇の「纒向珠城(たまき)宮」、
景行天皇の「纒向日代(ひしろ)宮」より名づけられたものである。 <
成程 纏向は卑弥呼と關係ねーな 景行天皇がヒミコでもねーし 760日本@名無史さん2019/03/01(金) 20:53:44.91
>>755
学説に根拠は要らない
なんでも言えばよい
と思ってる人は
九州説以外
いない
つまり
九州説は学説でない
って、動かぬ証拠なんだけどけね 761日本@名無史さん2019/03/01(金) 20:55:42.37
>>759
>成程 纏向は卑弥呼と關係ねーな 景行天皇がヒミコでもねーし
理由は?
理由の無いのが九州説 762日本@名無史さん2019/03/01(金) 20:59:56.53
>>759
>九州説は学説でない
その通りだよ。
邪馬台国が大和だと確信を得た瞬間、
「さて邪馬台国とはどこであろうか、私は九州だと思う。」と、
しらを切ったのが新井白石。
彼らは大和朝廷の中国への従属を認めたくなかったからだ。
その最大の根拠は倭国王帥升=スサノオ。
スサノオの5世代100年後に卑弥呼もトヨもいるからだ。
邪馬台国の王都は纏向ではない、葛城だ。 763日本@名無史さん2019/03/01(金) 21:02:44.41
今夜もキウスが暴れてたな
764日本@名無史さん2019/03/01(金) 21:09:23.62
新井白石は九州説を唱えたのだが、その目的は「論争」を創ること。
論争してる間は古代大和朝廷の中国への従属という辛い史実が定着しない。
「論争」を創ることで永遠に定着させないという事を狙った。
これは天才の発想なのでる。
765日本@名無史さん2019/03/01(金) 21:26:29.63
766日本@名無史さん2019/03/01(金) 21:29:23.69
>>737
>現代中国語でのピンインでの表記
現代語で読んでもしょうがないって、このスレでも代々何度も話題に出ているのにw
万葉仮名的に読むのが、解釈する上では一番有用 767日本@名無史さん2019/03/01(金) 21:33:11.33
そもそも邪馬台国は九州に在った。
その意味で、新井白石の九州説は正しかった。
また卑弥呼が拝したのは、日華の友好を示す親魏倭王の称号であり、お友達へのプレゼントにすぎなかった。
それにもかかわらず、
これを従属だなどと云って、古代日華の友好関係を壊しにかかり、、
険悪な空気を醸成するために論争を仕掛け作り出したのは五畿振りのほうだ。
768日本@名無史さん2019/03/01(金) 21:34:23.38
>>766
しょうがないって、ヒメ后以外にいないことはしょうがないって 769日本@名無史さん2019/03/01(金) 21:35:40.25
>>765
君には反論できない、という事でいいねw 770日本@名無史さん2019/03/01(金) 21:37:00.60
>>767
帥升の謁見要請は外交儀礼として土下座だろw 771日本@名無史さん2019/03/01(金) 21:42:49.77
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
772日本@名無史さん2019/03/01(金) 21:51:32.04
773日本@名無史さん2019/03/01(金) 21:54:38.82
>>772
>何に
これに。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃) C懿徳
ヒメ(踏鞴五十鈴) B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴) A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴) (200年頃) @神武 774日本@名無史さん2019/03/01(金) 21:55:12.77
卑弥呼は曹操一族とかねて親しき間柄だったが、
師升が中華とどの程度親しき関係だったかは不明だ。
というより、どうやら倭の奴国王とは対立関係にあったのに、
その手柄をまねて金印欲しさにいきなり押しかけても、当然ながら得るものはなかったであろう。
775日本@名無史さん2019/03/01(金) 22:01:12.53
>>769
>君には反論できない、という事でいいねw
土蜘蛛は殉葬奴婢じゃないし、卑弥呼と神武は夫婦じゃないし、
高天彦神社近くの斜面は塚じゃない
何度ごねてもムダw 776日本@名無史さん2019/03/01(金) 22:01:51.38
>>774
卑弥呼も師升も同地域の同族。
根拠は大量の奴婢。
太古からの奴婢郷があり、そして王権の謂れがあるところ、
それが卑弥呼や師升の住んだ場所だ。
葛城しかないのだが。 777日本@名無史さん2019/03/01(金) 22:02:46.58
778日本@名無史さん2019/03/01(金) 22:03:26.66
九州説は九州説同士で批判しないなww
まあ、半島南岸投馬国君は九州説からも叩かれてたけど
畿内説は、葛城をトンデモだってきちんと言ってるよ
779日本@名無史さん2019/03/01(金) 22:07:51.75
>>778
纏向がトンデモなんだが。
箸墓は崇神の前王、イカガノシコオ。
箸墓の類似古墳がある交野にも山代にも縁がある。 780日本@名無史さん2019/03/01(金) 22:14:25.57
古代日本には王が死ぬ度に奴婢を殉葬したという習慣はない。
つまり魏志に書かれた卑弥呼墓の殉葬は一つの大きな事件だ。
4世紀前半の崇神天皇以前に、奴婢を大量に誅殺した男がいる。
それが神武だ。
殺されたのは土蜘蛛。
神武の土蜘蛛誅殺こそ魏志に書かれた卑弥呼墓の奴婢殉葬の正体だ。
土蜘蛛は今も高天原に埋まっている。
781日本@名無史さん2019/03/01(金) 22:52:40.56
430>>162
>魏志倭人伝に書かれてる考古物があるのは畿内だけどね<
畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言だし、
大和の著名な考古物は、3世紀末以後だけどねえ。 782日本@名無史さん2019/03/01(金) 22:58:58.12
430>>163
>畿内様式土器と前方後円墳(纒向型を含む)の分布から
当時の「倭国の領域全体を覆う秩序」の中心が大和にあることが分かる <
畿内様式土器と前方後円墳は、いずれも筑紫が大和よりも先行しており、
倭国(≒女王國)は、「南≠東」などに拠って、
大和は×。 783日本@名無史さん2019/03/01(金) 23:02:25.30
430>>167
>絹も畿内で見つかってるよ
九州のと違って上質なヤツらしい<
大和の絹も3世紀末以後ね。 784日本@名無史さん2019/03/01(金) 23:06:05.37
430>>170
>会稽東治は存在してなくて会稽東冶<
魏志の陳寿は「会稽東治」であって、
「会稽東冶」は、×。 785日本@名無史さん2019/03/01(金) 23:07:06.47
なんで畿内から九州で最先端だった絹が発見されたのか
おのずと答えは出てくるよね
786日本@名無史さん2019/03/02(土) 01:03:02.08
>>704
歴博のC14年代では、弥生後期は2世紀〜3世紀半頃。
従来説では後期は1世紀前半〜3世紀初頭、終末期3世紀初頭〜3世紀半ば頃。
若杉山遺跡の坑道について、徳島県と阿南市は弥生後期としている。
新聞はその弥生後期を1世紀〜3世紀、あるいは2世紀〜3世紀としている。
歴博の年代でも弥生後期は3世紀半ばまでなので、若杉山遺跡の坑道の実年代について、新聞は混乱があるようだ。 787日本@名無史さん2019/03/02(土) 02:26:56.16
捏造
788日本@名無史さん2019/03/02(土) 02:51:07.12
このように
畿内説以外は皆トンデモ説で
偽情報を流すくらいしか能がない
789日本@名無史さん2019/03/02(土) 03:39:08.73
790日本@名無史さん2019/03/02(土) 05:47:26.86
791日本@名無史さん2019/03/02(土) 05:51:28.74
430>>206
>どう考えても現実に合わない部分があるからな
とくに距離方位 <
この男も、
古代の漢文の論理構造や、陳寿の説明方法や、
人類の常識、というものが分からない低能であるのか?、
何らかの宗教での「結論先にありき」の狂人であるのか?、
という事なんだろうなあ... 792日本@名無史さん2019/03/02(土) 06:06:50.00
430>>213
>>会稽東治は「上海付近から江蘇省「」の海岸地域になるから、<
>という真っ赤な嘘をつき続けないと 九州説は終わりなんだよね
ま、嘘ついてれば終わるけどね <
という、史料実態の否定や、人身攻撃をし続けないと、
大和 説は終わりなんだよね
ま、「南→東」などの嘘ついてれば、いずれ終わるけどね 793日本@名無史さん2019/03/02(土) 06:12:30.98
430>>216
>少なくとも魏志倭人伝にはその辺りと書かれてるから
通り過ぎる九州と何も書かれてない阿波よりは沖縄の方がマシ<
陳寿は、不彌國で「萬二千余里」がほぼ終わっている書き方をしているから、
沖縄説も大和説も阿波説も×。
勿論大和説と阿波説は「南≠東」によっても×。 794日本@名無史さん2019/03/02(土) 06:23:10.31
素直に読めば沖縄とか台湾とかだよな
倭国について書いてるという前提があったり当時の航海技術を考えたりすると有り得ないとなるのだけど
795日本@名無史さん2019/03/02(土) 06:23:17.89
430>>238
>邪馬台国は沖縄です。絹織物によって北九州や畿内で大量の人民が
越冬できるようになったとしても、そこは信仰の中心である高天原ではない <
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、沖縄説×です。 796日本@名無史さん2019/03/02(土) 06:24:49.48
纒向遺跡は大集落と言われながらも、人の住む集落跡が確認されていない。
現在確認されているのは祭祀用と考えられる建物と土抗、
そして弧文円板や鶏形木製品などの祭祀用具、物流のためのヒノキの矢板で護岸された大・小溝(運河)だけである。
遺跡の性格としては居住域というよりも、頻繁に人々や物資が集まったり箸墓古墳を中心とした三輪山などへの祭祀のための地と考える学者も多い。
797日本@名無史さん2019/03/02(土) 06:31:26.76
430>>245
>畿内様式土器と前方後円墳が3世紀には広く列島に分布している状態で、
畿内から独立して大陸に遣使できる存在がどこにあるのか、根拠を挙げて論証して、
それから初めて畿内説が誤りだと主張できるようになる<
大和の庄内も前方後円墳も、石塚が最初であり、それが3世紀末であった時点で、
庄内も前方後円墳も、筑紫の方が3世紀半ば以前で先行していた事になるから、
考古でも大和説は、×になった。 798日本@名無史さん2019/03/02(土) 06:32:54.37
>>794
そこが問題なのだよな倭人伝は
1.方位は合っているが距離は間違い
2.方位、距離とも間違っている
3.方位、距離(短里)とも会っている
4.他
俺は1を採用の九州説
方位は間違えようが無い・・天体観測で可能 799日本@名無史さん2019/03/02(土) 06:41:17.99
430>>258
そういう誹謗中傷の前に、誰もが確認できる客観的な根拠や証拠をもとに
論理的な論証をしなさい。
支離滅裂な矛盾や嘘吐き騙しだらけの書き込みばかりで、
論にすらなってないぞ、大和説は 。
基本的なところでは、
魏志倭人伝が、同時代の魏使らの実地の見聞計測記録になっており、
残存する史料するとしては最も卑弥呼時代の認識の論拠になる、
とするところから始めないと 。 800日本@名無史さん2019/03/02(土) 06:49:23.26
430>>262
>九州の学者も関東の学者も日本の学者は畿内説
九州説は便宜的に九州説と呼んでるだけで、
学問以外のお爺さんたちの一人一説 <
いくらそんな宣伝をして威張っても、
国民の7割は「大和説」否定であり、国民の過半数は、九州説。
つまり、
大和説学者や安部政府文部省や右翼マスコミや学会教育界の学者らの大和説は、
国民から「嘘つきだ」と否定されている、
という事が実態。 801日本@名無史さん2019/03/02(土) 06:52:41.58
430>>266
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説の人間は、
大和説の論旨を書き込むことって、殆どないよね
ただ文句を言うだけw 802日本@名無史さん2019/03/02(土) 07:07:18.65
430>>268
>>三海峡も「有効数字1桁近似値」記録であり、<
>なら、全体も有効数字一桁しか有効じゃないだろ?
萬二千里と書いてあっても信頼できるのは、最上位桁の萬里だけだなww
このようにザラコクの書き込みは常に矛盾とお笑いに満ちているww <
ダメだよ。
「萬二千余里」は、始めから有効数字2桁近似値になっており、
不彌國までの有効数字1桁の部分行程の合計にもなっており、
伊都国が怡土の地としてほぼ定点になっているから、
不彌國が、百里以内の範囲内にしかあり得ず、
だから、魏使らや陳寿の説明では。邪馬壹國女王之所都は、筑紫付近にしかあり得ず、
大和説も阿波説も沖縄説も、大和説学者も、右翼マスコミも、学会教育界も、
安部自民文部省も、×。 803日本@名無史さん2019/03/02(土) 07:21:48.57
寺沢薫「ヤマト王権の誕生-王都・纒向遺跡とその古墳」への反論
3世紀初めに突然現れた。きわめて計画的集落で、規模も大きい。・・・・・・・・・・・・・・集落跡は見つかっていない
搬入土器が多く、その搬出地は全国にまたがっている。遺跡規模は日本列島最大であり、市的機能を持っていた。・・・九州の土器はわずか
生活用具が少なく土木具が目立ち、巨大な運河が築かれ大規模な都市建設の土木工事が行われている。・・・・・集落と言う生活感が無いのは 古墳の前線基地である
導水施設と祭祀施設は王権祭祀。王権関連建物。吉備の王墓に起源する弧帯文、特殊器台・壺など。・・・・・大陸との交流を示す銅鏡や刀剣類が非常に少ない。鉄が致命的である
居住空間縁辺に定型化した箸墓古墳、それに先行する纒向型前方後円墳がある・・・・・・その他にも周りに古墳は一杯ある。また年代比定にももんだいがあるし、前方後円墳と円墳とは違う
804日本@名無史さん2019/03/02(土) 07:26:18.20
>>786
>若杉山遺跡の坑道について、徳島県と阿南市は弥生後期としている。
実際は、先日の「加茂宮ノ前遺跡」発掘結果により、縄文時代から辰砂採掘をしていたことになる。 @阿波 805日本@名無史さん2019/03/02(土) 08:19:35.97
>>796
>・・・と考える学者も多い。
九州説さん、その人の名前は?
ww 806日本@名無史さん2019/03/02(土) 08:22:34.96
807日本@名無史さん2019/03/02(土) 08:22:58.46
>>804
若杉山の坑道を、阿南市は弥生後期とし、新聞はその弥生後期の実年代を1世紀、あるいは2世紀〜3世紀としている。
この(3世紀)に3世紀後半も含めているのであれば、(弥生後期〜古墳時代前期初頭)とするのが正しいようにみえる。 808日本@名無史さん2019/03/02(土) 08:29:41.98
809日本@名無史さん2019/03/02(土) 08:39:01.05
>>803
つまり寺澤は、
畿内という大城郭が弥生文明の開始に先立って天から降ってきており、
そこに弥生文化→古墳文化も醸成された式の理解をしてるようだな。
だから、畿内城郭の外は野蛮な倭種ばかりであったと無意識に認識しており、
九州・中華などとの政治軍事文化の交差交流には考えが及んでいない。
当に「畿内(大城郭)都市」という言葉に心酔して語る畿内真理教主義者。 810日本@名無史さん2019/03/02(土) 08:40:08.00
>>798
>方位は間違えようが無い・・天体観測で可能
これが意味ないんだって
魏使は天体観測しながら移動なんてしないだろ?
そして、現地で方角を間違えないことと、その記録が間違いないこととは同値ではない
実際、末盧国から伊都国の方角が90度間違っている
方角が合っているというのは、信頼に足るものではない 811日本@名無史さん2019/03/02(土) 08:44:42.45
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
812日本@名無史さん2019/03/02(土) 08:47:07.17
430>>277
>奈良県の観光アピールにすら勝てない九州説は
そもそも学説でも何でもなかった<
安部文部省や右翼マスコミや学会教育界の後押しがあったのに、
国民の投票ですら3割でしかなく、
全く勝てなかった九州説は、そもそも学説でも何でもなかった 813日本@名無史さん2019/03/02(土) 08:49:16.29
>>812
ザラコクさん
自白いただきました
w
w
w 814日本@名無史さん2019/03/02(土) 08:50:39.00
いずれにしても、邪馬台国の所在地が狗奴国の北にあること、邪馬台国への道筋が伊都国→奴国→不彌国と記されていること、
女王国(邪馬台国)の東千余里を舟で渡海したところに倭種の国があると書かれていること、
これらから邪馬台国は大和にはなく、最も有力な比定地は筑後山門であることは明らか。
大和は強力な王権に発展したが、卑弥呼の邪馬台国ではない。
いつまでも無駄な議論を続けていることは、邪馬台国論争は単なるお遊びに過ぎないということを示している。
早く家に帰って、布団に入って寝なさい。
815日本@名無史さん2019/03/02(土) 08:50:53.66
430>>279
>観光アピール以下の九州説 <
オーム信者のような、宗教盲信の殺人鬼以下?の、大和説者。 816日本@名無史さん2019/03/02(土) 08:52:24.24
430>>281
>何を言っても適切な反論で返されてしまい手も足も出なくなった九州説
あとは畿内説が踏みにじるのみ <
何を言っても適切な反論で返されてしまい手も足も出なくなった大和説
あとは国民が踏みにじるのみ 817日本@名無史さん2019/03/02(土) 08:59:00.41
430>>283
>>多くの学者が、土器の分布と政治体制は連動しないと見ているようだね。<
>飯炊き甕だけならね 精製器種3種は祭祀用土器だから、祭政一致の時代においては
政治的な協調・一体化をそのまま示しているんだよ <
古代においては、結局は、国家権力の象徴物と武器だろうなあ。 818日本@名無史さん2019/03/02(土) 09:00:19.91
ザラコクの言う国民の投票って嘘だしなー
819日本@名無史さん2019/03/02(土) 09:00:41.00
>>810 名前:日本@名無史さん 2019/03/02(土) 08:40:08.00
>魏使は天体観測しながら移動なんてしないだろ?/
・・・古代人は天文学に長けていた。北辰信仰はその典型例。
もちろん季節の日の出・星座で方向を確かめるのは古代の常識。
>実際、末盧国から伊都国の方角が90度間違っている
・・・倭人伝が間違っているというのと同じだ。
間違っているという認識こそが間違っているのだが、間違いを指摘されて、あわてて噛みついただけのこと。
倭人伝通りの方角里数既述の先に伊都国はあり、それにふさわしい遺構もある。 820日本@名無史さん2019/03/02(土) 09:03:00.94
430>>284
具体的な根拠付きなら意味があるんだが、それができてないだろ?。
そして、「南→東」などのように、都合の悪い史料事実の否定隠蔽や曲解捏造しか生きる道がない。
大和説の人間はバカしかいないというのがこのスレでの実態。 821日本@名無史さん2019/03/02(土) 09:06:02.26
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
822日本@名無史さん2019/03/02(土) 09:09:22.25
>>810 名前:日本@名無史さん 2019/03/02(土) 08:40:08.00
>魏使は天体観測しながら移動なんてしないだろ?/
>実際、末盧国から伊都国の方角が90度間違っている
糸島のハラダ以来の伝統のエクスキューズ、カミツキガメ 823日本@名無史さん2019/03/02(土) 09:18:22.03
824日本@名無史さん2019/03/02(土) 09:19:25.19
>>777
>全部根拠なし、もうやけくそか。
「土蜘蛛は殉葬奴婢じゃないし、」
日本書紀には
「此三處土蜘蛛、並恃其勇力、不肯來庭。天皇乃分遺偏師、皆誅之。
又高尾張邑、有土蜘蛛、其爲人也、身短而手足長、與侏儒相類、
皇軍結葛網而掩襲殺之、因改號其邑曰葛城。」
とあるだけで、奴婢にしたなどとはどこにも書いてないし、奴婢郷ともしていない
まつろわぬ物は「皆誅之」「掩襲殺之」と誅殺しているだけだよ
勝手に奴婢にするなって話
妄想乙、で終わりだよ
「卑弥呼と神武は夫婦じゃないし、 」
卑弥呼は崇神と同世代
考霊から崇神まで直系父子相続ではない
系譜研究から、孝霊と孝元が兄弟
開化が孝元の子供、崇神が孝霊の子供で、開化と崇神が従兄弟同士という推定もある
卑弥呼が考霊皇女の倭迹迹日百襲姫命で問題ない
神武は崇神の5世代前、1世代25年で125年前になる
100年以上過去の人と夫婦というのは無理
「高天彦神社近くの斜面は塚じゃない 」
これ、斜面であって塚じゃないよなwwww
葛城もザラコクも、何度否定されても同じことを書き続ける狂信者だから質が悪い 825日本@名無史さん2019/03/02(土) 09:19:57.56
葛城は畿内説だよな。
なんとかしろよw
826日本@名無史さん2019/03/02(土) 09:22:49.27
そもそも天地開闢のはじめに畿内ありきの畿内真理教主義者
827日本@名無史さん2019/03/02(土) 09:23:17.83
>>798
「方位が間違ってて、日数が合ってる」という可能性をなぜ最初から排除する?
日数なんて数を数えるだけで、間違えようがない
九州だと先入観で凝り固まってるから、間違えようがない選択肢を最初から排除してるんだろうけど
>方位は間違えようが無い・・天体観測で可能
こういうことをいうやつの多くが、ある地点の方位は太陽を見ればわかるなどと言う
倭人伝の方位とは、A地点からB地点に移動したときの位置関係だとは理解していない
地図がない時代に、A地点を起点にしてB地点がどの方角にあるかを把握する方法はない 828日本@名無史さん2019/03/02(土) 09:24:26.31
方位については黙りこくるか罵声しか出ないキナイコシ
829日本@名無史さん2019/03/02(土) 09:26:48.72
曲がった道を記述してあるのに、
「素直に読む」のは良いことではない。
830日本@名無史さん2019/03/02(土) 09:27:30.28
>>819
>・・・倭人伝が間違っているというのと同じだ。
何を言ってるんだ?
間違いが一つもない無謬の書というのは、ほぼあり得ないぞ
史料の限界を考慮せず、すべて正しいと考えるのは、ただの原理主義で宗教・信仰の領域
科学ではない
長期間、転写伝世されてきた古代の史書で、大陸から見て「海外辺境の異国」の記事なんだから
どこが正しくどこが正しくないかを、他の情報と照らし合わせながら精査吟味しながら
読まないといけない
そこに文句を付けないと、畿内説に反論すらできない、というかそこくらいしか反論できない時点で
九州説ってのは終わってるw 831日本@名無史さん2019/03/02(土) 09:30:41.33
そもそも天地開闢のはじめに畿内ありきの五畿内真理教=ゴキブリ真理教
832日本@名無史さん2019/03/02(土) 09:31:00.36
>>825
>葛城は畿内説だよな。
>なんとかしろよw
ちゃんとやつの主張は片っ端から根拠付きで否定してあるだろ
左側スロープ君はトンデモだってちゃんと示してあるよww
>>825も九州説なら、ザラコクや糸クズ、キウス、呼子上陸バカをなんとかしたらどうだい?ww 833日本@名無史さん2019/03/02(土) 09:34:33.46
魏志倭人伝時代に倭人は本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのだろうか、、、
魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達は何者だったのだろうか、、、
そして、九州のどこに魏志倭人伝時代の倭国の都があったのだろうか、、、
834日本@名無史さん2019/03/02(土) 09:34:53.69
>>819
>倭人伝通りの方角里数既述の先に伊都国はあり、それにふさわしい遺構もある。
その遺構とはどこの何という遺構?
あと末盧国は現代の地名でどこ? 835日本@名無史さん2019/03/02(土) 09:38:09.99
>>830
あれも嫌これも嫌と
あらゆる史書を否定して妄想にふけるのは科学ではないよ 836日本@名無史さん2019/03/02(土) 09:38:29.64
>>833
魏志倭人伝時代には、纒向には、まだ何も作製されていなかったのでは、ないのかな。。。 837日本@名無史さん2019/03/02(土) 09:39:17.81
>>810
>実際、末盧国から伊都国の方角が90度間違っている
>方角が合っているというのは、信頼に足るものではない
末盧国の比定がおかしいのだよ。 838日本@名無史さん2019/03/02(土) 09:40:30.64
経験上では方位は絶対的では無いけどな
839日本@名無史さん2019/03/02(土) 09:41:50.87
>>830 名前:日本@名無史さん 2019/03/02(土) 09:27:30.28
>長期間、転写伝世されてきた古代の史書で、大陸から見て「海外辺境の異国」の記事なんだから
>どこが正しくどこが正しくないかを、他の情報と照らし合わせながら精査吟味しながら
>読まないといけない
その通りだ。古文書情報だけでなく、現地の潮流地理地形方角情報も忘れぬようにな。
でたらめの地理観で、でたらめの方向・里数の先に先導されても迷惑だ。 840日本@名無史さん2019/03/02(土) 09:43:00.68
纒向に、まだ何も作製されていなかった、魏志倭人伝時代の直前に、奈良湖の岸辺には何者が生活を実行していたのだろうか、、、
841日本@名無史さん2019/03/02(土) 09:43:26.57
仮に距離(里程)がまったく信用できないものだとして、方位は正しいと過程すれば
不彌國までは朝鮮半島の各国(つか村)のことを記述してあって、投馬國を対馬、
さらに水行10日陸行1月で邪馬台国と読んだほうが、まだマトモな地理関係な
気がすんのよね。陸行1か月もあれば南九州だろうが北九州だろうが畿内だろうが
どこへでも到達できる距離だろう。
842日本@名無史さん2019/03/02(土) 09:45:24.05
>>837
伊都国への道・里数・方角の比定がなされていないのだよ。 843日本@名無史さん2019/03/02(土) 09:54:55.17
>>841 名前:日本@名無史さん 2019/03/02(土) 09:43:26.57
>仮に距離(里程)がまったく信用できないものだとして、
倭人伝には里数が書かれているのに、里数は無いものとするなどというは、
そもそもそのような仮定が無意味・無学。
古代において、道がないのに、到達できるわけがない。
国の所在を決める前に、至る道、到る道を比定することが絶対前提の必須条件。 844日本@名無史さん2019/03/02(土) 09:55:10.46
@倭に行くにはまず狗邪韓國に行く、そこまでが7千里だ。
さて、
A最初に海を千里ほど行くと対馬国だ。
Bまた南に行くと一大国だ。
Cまた海を千里行くと末蘆国だ。
D東南に陸を五百里行くと伊都国だ。
E東南にいけば奴国で百里だ。
F東にいけば不彌國で百里だ。(ここまでを朝鮮半島と見なす。このあたり一帯が「狗邪韓國」地方)
G南にいけば投馬国で、ここまでで水行二十日だ。(対馬)
H南にいけば邪馬台国地方で、その都(邪馬台国村)へ行くには水行十日、陸行1か月かかる。
こう読み取れば、もともと不明朗だった邪馬台国地方の地理については
知識がないので何も記述されておらず、一方で帯方郡が把握していた朝鮮の
地理については詳細に記述してあるというように解することができる。
845日本@名無史さん2019/03/02(土) 09:55:59.77
846日本@名無史さん2019/03/02(土) 10:00:48.29
国の所在を云々する前に、
まず道の可能性を比較検討せよ。
道なくば、其の国には到至できぬ。到至の道は必ずある。
847日本@名無史さん2019/03/02(土) 10:01:02.41
>>814
>女王国(邪馬台国)の東千余里を舟で渡海したところに倭種の国があると書かれている
>これらから邪馬台国は大和にはなく、最も有力な比定地は筑後山門であることは明らか
おや?
筑後山門の東に海はなかったと思うんだけれど、気のせいだったかな?w 848日本@名無史さん2019/03/02(土) 10:01:28.36
>>841
>気がすんのよね。陸行1か月もあれば南九州だろうが北九州だろうが畿内だろうが
>どこへでも到達できる距離だろう。
逆に、陸行一月という記事に誤りがある可能性が高い。
日本列島の沿岸であれば、水行の方がはるかに安全で確実だからだ。 849日本@名無史さん2019/03/02(土) 10:06:45.19
>>828
>方位については黙りこくるか罵声しか出ないキナイコシ
黙っちゃいないだろ?
陳寿の認識、大陸の常識、伝承、魏志倭人伝の記述から、きちんと論じてるぞ
間違いが生じる理由も根拠も考察してる
思考停止で「方角が間違うはずがない」しか言えないのが九州説の側だw 850日本@名無史さん2019/03/02(土) 10:07:40.84
山の尾根伝いに移動したんじゃない
川に橋が架けられてるわけじゃなし
851日本@名無史さん2019/03/02(土) 10:08:02.54
水行10日、陸行1月と言うのは帯方郡を出発してからの総計の可能性もあるね。
その場合は>>844のGの水行二十日は邪馬台国への旅程ではない、投馬国への
別途の行程を表わしていることになる。いずれにせよ魏志倭人伝の旅程を一直線に
ならべるという方法には原文上の根拠はなく、いわゆる放射説の立場もとうぜんに
ありうる。 852日本@名無史さん2019/03/02(土) 10:10:30.51
853日本@名無史さん2019/03/02(土) 10:14:16.31
古代には、旅館もホテルもレストランも道の駅もなかった。
ナベカマ代わりの土器を背負い、寝具、夜具も背負い、食料も火打石も担いで歩いた。
日暮れ前に野営地を定めてメシを炊き、
夜が明けてからはまた朝飯を炊いて朝食をとる。
そして道具一切を荷造りして、やっとこさで歩きだす日々だったわけだ。
しかも、河には橋がない。
道々、山菜や小魚などの食い物を調達しながらで、まっすぐには進めぬ旅の道。
一月といっても大した距離にはならぬ。
854日本@名無史さん2019/03/02(土) 10:16:51.73
>>852 旅程なので問題ない。仮に支那人にとって対馬までが自分たちの統治権の
およぶ従属下にあると考えて居れば、従属地の地理を説明して、「その先に邪馬台国
地方がある」と記述するのは異例のことではない。 855日本@名無史さん2019/03/02(土) 10:17:58.38
>>835
>あれも嫌これも嫌と
>あらゆる史書を否定して妄想にふけるのは科学ではないよ
前も書いたけど、一つ(方角を)否定したら、史書を全否定してるとかいうのが
批判のための批判でありただの詭弁
例えば、三国志と後漢書と見比べて、狗奴国が東か南かを考えなきゃいけないというのを
魏志倭人伝の南を否定している、と翻訳するのは詭弁
史書同士だけではなく、考古学的証拠とも照らし合わせる
末盧国が壱岐から海を渡ってきたところ、唐津にあるのも
伊都国が九州北部にあるのも、畿内説は認めているし、三国志の記述を否定なんてしてないぞ
ただ、末盧国から東南陸行五百里で伊都国には着かないから、
この部分の記述(方角を含む)は正しくないとしているだけ 856日本@名無史さん2019/03/02(土) 10:19:23.61
>>853 まったくその通り。使節団といえども護衛も相応に必要であり
一種の軍事旅団のような性質をもってたでしょうね。 857日本@名無史さん2019/03/02(土) 10:20:16.66
道なくして、クニなし。
今でもそうだ。飛行機もあるが、飛行機だって航路は定められている。
道の比定なくして、倭人伝の主要国の比定もあり得ないのだ。
858日本@名無史さん2019/03/02(土) 10:20:26.98
859日本@名無史さん2019/03/02(土) 10:20:40.91
430>>296
>畿内から供給された祭器を使って祭祀を行っている九州の立場ってのを
考えられないのが九州説の人間w<
畿内なんて存在もしない文言を使って、
「南→東」などの人類の常識を否定する嘘つき騙しをして、
祭祀や祭器の伝達や先後を造作して、
倭王武の上表文の「東征毛人五十五國」という第一級史料事実を隠蔽する、
嘘つき騙しの大和説人種。 860日本@名無史さん2019/03/02(土) 10:22:52.90
430>>298
今どき「南→東」などの嘘つき騙しの大和説をやっている時点で、
知的能力や精神的な機能が足りないのは、ほぼ確定事項 861日本@名無史さん2019/03/02(土) 10:24:14.35
862日本@名無史さん2019/03/02(土) 10:25:27.19
>>853
帯方郡から九州上陸に何年もかかるとでも言いたいのか?w 863日本@名無史さん2019/03/02(土) 10:26:14.45
>>837
>末盧国の比定がおかしいのだよ。
出たw
呼子上陸バカ!
比定がおかしいというなら、おかしいという根拠と正しい比定地を
「具体的に示して」ね!
まあ、何度書いてもフルボッコにされるから、書かずに誤魔化してるんだろうけど
呼子上陸バカでも、伊都国の比定地は三雲遺跡群から動かさない
そして三雲遺跡群から見て北西五百里の地点はどうやっても海の上だ
この時点で東南陸行五百里の記述は間違っているというのは確定だよ
つまり「方角がすべて正しい」というのはあり得ない 864日本@名無史さん2019/03/02(土) 10:27:07.87
軍事旅団としても一日10キロは普通に歩くでしょ。1月あれば300キロは行ける。
865日本@名無史さん2019/03/02(土) 10:28:54.59
道なくして、クニ無し。
あるいは、道あってクニあり。
倭の共立30国とは、じつは道のネットワークだったのだ。
866日本@名無史さん2019/03/02(土) 10:29:33.55
>>861
韓地の説明を韓伝には書かず、倭人伝に書くことがおかしいと思わないのか? 867日本@名無史さん2019/03/02(土) 10:30:38.34
>>853
>一月といっても大した距離にはならぬ。
そうだよな、一日平均6キロ弱で170キロというのは妥当なところ
20キロとか40キロというのでは話にならないよなww 868日本@名無史さん2019/03/02(土) 10:31:17.67
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
869日本@名無史さん2019/03/02(土) 10:32:36.06
>>854
>旅程なので問題ない。
韓条と倭人条は完全に別立てだよ
伊都国と邪馬台国を重ねる二重帳簿詐欺説の人には、違和感がないのかもねww 870日本@名無史さん2019/03/02(土) 10:35:56.08
>>864
>軍事旅団としても一日10キロは普通に歩くでしょ。1月あれば300キロは行ける。
行軍ならね
途中の村でも歓迎されるだろうし、雨の日は進まなかったりすれば、歩く日は1日10キロでも
総平均ではもっと1日辺りの距離は小さくなるよ 871日本@名無史さん2019/03/02(土) 10:39:32.31
>>869
行程で途中から日程記述になる方が違和感
感じ方は人それぞれ
ちなみに編集のプロからみた考察の上野説では帯方郡始点 872日本@名無史さん2019/03/02(土) 10:43:50.45
>>870 なんとか1か月を北九州に押し込めたい
意思は分かるが、むしろ10kmでも短すぎるくらいだ。 873日本@名無史さん2019/03/02(土) 10:46:21.87
>>853
>道々、山菜や小魚などの食い物を調達しながらで、まっすぐには進めぬ旅の道。
>一月といっても大した距離にはならぬ。
郡使を迎える国を挙げての行列であり、伊都までは国ごとに毎日接待もあったろう。
それらの国の名前と代表者の名前も細かく記されている。
それが途中から、あと一月(詳細は略)となるだろうか。 874日本@名無史さん2019/03/02(土) 10:46:47.08
>>866 それは「国」の捉え方に現代流の誤解があるんだよ。古代の「国」はいまでいう「村落」
程度のニュアンスしかなかった。なので韓伝に名称の記載がなくとも矛盾はない。現代で
いえば東京都だの愛知県だのとは記述しても八王子村だの岡崎村だの記述がなくても
不思議だの矛盾だのは言えない。 875日本@名無史さん2019/03/02(土) 10:47:43.34
>>863
>この時点で東南陸行五百里の記述は間違っているというのは確定だよ
なんでここだけ信用するんだ?
それでは考古学と一致しないのだから、記事の方が誤りだとするべきだろう? 876日本@名無史さん2019/03/02(土) 10:53:42.24
>>854
デタラメな仮定だな。
漢や魏の直接の支配権は楽浪帯方まで。
後漢書も魏志倭人伝も、国境である狗邪韓国から南は未知の国として報告している。
だから壱岐や対馬もどのようなところが細かく説明されている。
「その先に女王国がある」というのは、狗邪韓国から先にあるということだ。
そしてその詳細な報告は九州北部で完結している。 877日本@名無史さん2019/03/02(土) 10:55:21.05
430>>309
>祭祀用土器も含めて、畿内様式土器を使うようになって、
地場の土器を放棄しているのが北部九州、というのが考古学的な事実だよ <
その「地場の土器を放棄」というのが逆で、
筑紫の胎土でずっと作られていて、そこに、播磨や河内からの搬入が加わり、
大和からは殆ど搬入はなく、筑紫→大和の搬入は0であったんだ。
>畿内の祭祀を受け入れていないなら、精製器種3種は九州から出土しないだろ?
祭祀以外には使い道はないんだから、流行に過ぎないとかいういい訳も通らない<
大和の祭祀は、出雲系や越系や、
出雲系の残留の(九州倭国系に組み入れられた)吉備や阿波や、
東海の毛人系の残存祭祀であったんだろう。
>>魏志倭人伝の記述と畿内の考古学的状況の乖離は埋まらない。<
>魏志倭人伝の記述の最重要部分、倭國の共立女王がヤマト国に都を置いている、という点で
畿内の考古学的状況が一致してるんだが?<
「南≠東」などに拠って、×。 878日本@名無史さん2019/03/02(土) 10:56:57.88
>>875
問題はその考古学だな。
学と付けばなんでも正しいというのが学者風情の自己満足の典型。 879日本@名無史さん2019/03/02(土) 10:58:37.58
ザラコクは毎日ウソをついているな
880日本@名無史さん2019/03/02(土) 11:00:57.91
>>876 後漢書はあきらかに魏志をみて執筆しており、むしろ後漢書の記述と
范曄の誤読がのちの邪馬台国論争を混乱させているのではないか。 881日本@名無史さん2019/03/02(土) 11:02:20.36
>>321
>暮らしやすさは福岡だが、それが邪馬台国と関係ねーよ
古代の王はダミーの地に住み 人知れず隠れ家に住むのだよ
それが纒向なんだ<
「南≠東」などに拠って、×。 882日本@名無史さん2019/03/02(土) 11:03:50.51
>>873
それは読み間違い。
倭人伝は歴史書であるので、時系列に沿って書かれている。
郡使が登場するのは、倭人伝の終りのころ、景初二年の段以降のことである。
文頭の行程は、
倭国の風俗・習慣・墓制などと同じく、一般的な状況を記したもので、
倭人の一般的なクニ間行程のこと。 883日本@名無史さん2019/03/02(土) 11:05:13.14
方位で虐められ、
荒れまくるキナイコシ
魏使は来るたびに方位を間違えたと宣うキナイコシ
884日本@名無史さん2019/03/02(土) 11:05:47.11
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
885日本@名無史さん2019/03/02(土) 11:06:46.69
キナイコシはいつもザラコクに虐められているな
886日本@名無史さん2019/03/02(土) 11:09:00.58
官・副と書いてあるのは、そこから帯方郡(あるいは魏)に来た使者の名前じゃないかと
おれもおもう。各国(つか村)にかならず官と副がいるというのがいかにも作為的で
おかしい。これが朝貢のさいの使者であれば中国式の外交儀礼に沿ってあえて官・副を
置いたものとみることができる。そもそも魏志を書いた陳寿は自身が遍歴して記事を
あつめたのでなく、すでにあまたある文書を整理して魏志を編纂したのだから、各国の
じっさいの国長(つか村長)の名前を書いたとは思いにくい。
887日本@名無史さん2019/03/02(土) 11:11:39.24
>>884 いまの韓国民は、倭人が朝鮮半島から撤退してのち北方から
進入してきた部族の末裔でしょ。さすがに3世紀の朝鮮半島と韓国民は
無関係だよ。 888日本@名無史さん2019/03/02(土) 11:13:26.52
>>886
>官・副と書いてあるのは、そこから帯方郡(あるいは魏)に来た使者の名前じゃないかと
>おかしい。これが朝貢のさいの使者であれば中国式の外交儀礼に沿ってあえて官・副を
デタラメ書くな。
魏は帯方郡の役人を任命し、卑弥呼を倭王に冊封したけれど、倭の中の国邑の官をいちいち任命などしない。
官名が記されているわけでもない。
勝手なイメージをでっち上げるな。 889日本@名無史さん2019/03/02(土) 11:17:34.41
魏志倭人伝時代の直前に、倭人が朝鮮半島から撤退してのち、北方から進入してきた部族の末裔が、韓国人の正体だった可能性が高まってきたのでは、ないのかな。。
890日本@名無史さん2019/03/02(土) 11:17:59.14
倭人伝には「官××、副△△」と書いてあるでしょう。
891日本@名無史さん2019/03/02(土) 11:18:03.98
>>882
>倭国の風俗・習慣・墓制などと同じく、一般的な状況を記したもので、
>倭人の一般的なクニ間行程のこと。
明確に女王の都まで書かなければ意味がない。
そして郡使はきちんとその通り記録をして、魏志倭人伝に収録された。
伊都からずっと離れたところに女王の都があったら、そこまで辿れるように書かなければ意味がない。
水行10日陸行一月などと省略したら、次に行く時の役に立たない。
攻める時の役にも立たない。
結論から言えば、伊都とその周辺が倭国女王の都なんだよ。 892日本@名無史さん2019/03/02(土) 11:20:05.43
>>890
魏の役職名ではなく、よくわからない和語が書いてある。
つまり、倭人の任命した官なんだよ。
魏にとっては国境である狗邪韓国から南は全て、未知の倭人の土地なんだよ。 893日本@名無史さん2019/03/02(土) 11:23:00.78
>>889 新羅が韓国民(韓国語)の源流で、そこに北方からの流民が混血をくりかえし
やがて高麗をつくり、さらにモンゴルが征服することで大量の混血がおき、以降も継続的な
北方からの混血がくりかえされて李朝そして現在の韓国民が形成されたということで
ほぼ間違いないかと。百済は朝鮮半島から事実上放逐されたか新羅勢力に民族・言語的に
飲みこまれてしまったとみるべきかと。 894日本@名無史さん2019/03/02(土) 11:27:35.98
もう九州説で決まりでいいよ
無駄な争いが多すぎる
895日本@名無史さん2019/03/02(土) 11:32:19.52
コラ勝手に決めるな
896日本@名無史さん2019/03/02(土) 11:34:21.51
>>891
女王の都まで明確に書いてあるではないか。
それが読めない、現地に合わないというのは、捻じ曲げるからだ。
その昭和論争の元々は、
仲哀・神功皇后記に煽られて、糸島にイトクズコクがあったとした原田の早とちりから発している。
倭人伝の文頭記事は、倭の一般国情を記載したのであって、次に行くために書いたわけではない。
ではあるが、イトクズにとらわれなければ、原文でも十分役に立つ。 897日本@名無史さん2019/03/02(土) 11:34:26.10
>>892 朝鮮半島の沿海部に飛び地として倭人の管理する国(つか村)があったと
みることはどうだろうか。 898日本@名無史さん2019/03/02(土) 11:36:00.95
まあ畿内説は別に争ってる積りはないけど?
史料などから導き出される当然の結果を書いてるだけだが
そうすると何故か九州説が勝手に発狂し始めるんだけど
899日本@名無史さん2019/03/02(土) 11:38:28.24
>>891 邪馬台国というのは王都の場所であって「邪馬台国地方」はそのずっと
手前だよ。おれの >>844 の解釈でいえば、GあるいはHはすでに邪馬台国地方。
そのなかでも王都であるところの邪馬台村まで行くにはさらに水行10日陸行1月かかる。
軍事目的に提供するならこれで十分。 900日本@名無史さん2019/03/02(土) 11:38:31.14
イトクズハクブツカンの学芸員が、発狂するんだよな
生活かかってんのかな。
901日本@名無史さん2019/03/02(土) 11:38:49.82
430>>344
>>>目的語があれば他動詞なのかと<
>>そうでしょうね。 自動詞にも他動詞にも使える<
>つまり、西服衆夷六十六國は自ら服したんじゃなくて、征服されたんだよ
要するに、九州は征服された側 やっと正しく読めたなww <
倭国の九州全域征服は、
東テイ人の後漢最末期の朝貢の「序に就いた」記録があるから、
卑弥呼即位頃の事になるので、
倭王武の上表文の「西服衆夷六十六國」は、過去の卑弥呼時代の話になる事になる。 902日本@名無史さん2019/03/02(土) 11:40:42.74
北九州はあきらかに倭であり「邪馬台国」と一体の村々だったけれども
この当時の王都であるところの邪馬台村がそこにあったというのは
さすがにムリがある。倭のなかでももっとも発展し豊かな土地であったのは
北九州だったろうが、そこは倭人伝のいうところの王都(つか王村)ではない。
903日本@名無史さん2019/03/02(土) 11:45:03.11
九州説を発狂させて遊ぶのは楽しいなあ
904日本@名無史さん2019/03/02(土) 11:48:48.45
430>>348
>河内と大和は一体の地域だって何度も教えてるだろ?
畿内第V様式土器を共通に使う範囲が邪馬台国七万戸の範囲だよ <
「南≠東」などに拠って、×。
河内も大和も、どちらも九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国。
>でも一体の勢力だから、第V様式、庄内式、布留式と足並みを揃えて作る様式が変わっていく<
布留は南加賀の問題があるが、
第V様式と庄内式は、筑紫が、河内や大和より先行した事になる。 905日本@名無史さん2019/03/02(土) 11:49:03.57
ははは、そうだな。
北部九州は、すぐ沸騰するからな、、、
906日本@名無史さん2019/03/02(土) 11:51:46.52
>>897
>>>892 朝鮮半島の沿海部に飛び地として倭人の管理する国(つか村)があったと
>みることはどうだろうか。
その通りだよ。
半島南岸まで倭が支配しないと、対馬海峡の管理が成り立たない。
九州説はその立場だ。
しかし畿内説は伊都から先が女王の支配地域ということにしないと成り立たないらしい。
>>899
>軍事目的に提供するならこれで十分。
十分ではないよ。
概ねの方角と日数だけしかないと攻め込めない。
伊都国までは国邑をたどって里数と戸数、代表者の名前、産物などまで記してあるのに、肝心の女王国の中は適当な説明で済ますなどということがあるわけがない。 907日本@名無史さん2019/03/02(土) 11:57:36.77
君の言説に沿った表現でいうならば、僕の説は朝鮮半島東部にも倭の支配の
及ぶ飛び地があって、そこを経由して魏と通行したという説になるかな。支配とは
いわなくとも少なくとも倭の商館のようなものがあった。
908日本@名無史さん2019/03/02(土) 11:59:09.42
430>>365
>纏向の政権が博多などを傘下に加えた3世紀中頃以降のことだろう。、
「南≠東」や「東征毛人五十五國」などに拠って、×。 909日本@名無史さん2019/03/02(土) 12:01:55.91
>>907
まあ、魏志倭人伝には狗邪韓国の戸数が明記されていないから、数戸といったレベルであった可能性はある。
商館というほどの規模すら怪しい。
ただ、他の国の干渉を排除はしていたと思う。
大率は伊都に置かれてそこから北を検察していたというのも、狗邪韓国を含む対馬海峡の治安管理だろうね。
対馬海峡が大陸半島への交通という、倭にとっての生命線であったろう。 910日本@名無史さん2019/03/02(土) 12:02:53.44
検察ってどういう意味なんだろうね
911日本@名無史さん2019/03/02(土) 12:06:44.58
そもそも、のちに太宰府と命名される場所には古代よりあきらかに政庁が
置かれていたことを暗示しており、大宰府という文字が示すのはこの民族の
もっとも重要な政治を切り盛りする(宰)政庁がここにあったということだ。
これはなにも邪馬台国畿内説を否定するものではなく、畿内は皇室の
いまします場所であり、それとは別に政庁が置かれ、北九州というこの
当時もっとも重要な経済の中心地を差配していたのが原初大宰府で
あってなんらおかしい事ではない。そもそも姉たる卑弥呼を輔弼していた
弟がこの原初大宰府にいたとしてもおかしな話しではないではないか。
912日本@名無史さん2019/03/02(土) 12:09:57.13
430>>368
>鉄の少ない後進地域(畿内)が鉄の多い先進地域(北部九州)を飲み込んでしまったというのが現実
3世紀の時点では鉄の量は、国力とは関係ないし、首都の位置とも関係ないということ
鉄がー、鉄がー、鉄がーといくら喚いても、関係ないものは関係ない <
それは無理。
「東征毛人五十五國」は、当然、
鉄鏃のある九州倭国が、鉄の殆どない瀬戸内以東の征服であった。 913日本@名無史さん2019/03/02(土) 12:14:11.66
>>910
定期的に巡回して、そこの官に報告をさせ、異常がないか確認したんだろう。
想像だけど、専用の船に専用の旗でも立てていたかしれないね。
各地の官は、彼が卑弥呼に悪いことを報告されると困るので戦々恐々としていたわけだ。
本拠地は伊都にあるけれどしばしば船で対馬海峡の各地を転々としていたから、まるで中国における刺史のようだと説明できた。
あと、刺史は本来は都に置かれる中央官僚であったことに注意しなくてはいけない。
百済の官制にも大率があるが、佐治(摂政みたいなもの)を除けば最高位の中央官僚である。 914日本@名無史さん2019/03/02(土) 12:17:05.40
検察=奉行、程度の意味ではないか。軍事・警察・司法・行政を全て引き受ける場所。
915日本@名無史さん2019/03/02(土) 12:17:15.48
>>911
>当時もっとも重要な経済の中心地を差配していたのが原初大宰府で
>あってなんらおかしい事ではない。そもそも姉たる卑弥呼を輔弼していた
>弟がこの原初大宰府にいたとしてもおかしな話しではないではないか。
可能性はある。
しかも、九州上陸から二千里くらいで、帯方郡から一万二千里だ。
伊都では帯方郡から一万五百里にしかならず、帯方郡から一万二千里という後漢書や魏志倭人伝の記録とやや齟齬がある。
伊都に駐在する郡使は、奈良の卑弥呼には会えないが、大宰府の卑弥呼になら会いに行ける。 916日本@名無史さん2019/03/02(土) 12:20:34.98
>>914
その場合でも奉行に任じられた人物が一人だけいたことになるから、内容は変わらない。
その役所は伊都に置かれていて、おそらく魏からの公使である郡使の宿泊施設の近くにあったのだろう。
伊都は内政と外交を司り、考古学的には青銅器製造なども盛んな、名実ともに倭の王都だったのだろう。 917日本@名無史さん2019/03/02(土) 12:24:47.09
大宰府を囲む巨大な大宰府羅城の木材の炭素年代測定の一部は、240年頃を示していた。
大宰府の萌芽がすであったと考えるのはおかしなことではない。
918日本@名無史さん2019/03/02(土) 12:35:28.38
>>911
大宰帥は従三位程度だからな
5年の任期 919日本@名無史さん2019/03/02(土) 12:37:38.79
>>913
>あと、刺史は本来は都に置かれる中央官僚であったことに注意しなくてはいけない。
九州説はどっからそんなニセ情報持ってくるの? 920日本@名無史さん2019/03/02(土) 12:50:35.75
『松傾』の話をしているの?
日本の神話で言うと三貴子(神)
後の名前?みたいな事を言っている人がいたり、
普通の日本人のような名前
921日本@名無史さん2019/03/02(土) 12:51:06.41
>>898
東と南の区別もつかない畿内説が
史料から導き出される当然の結果を導くことが
できるとは到底思えない 922日本@名無史さん2019/03/02(土) 12:51:58.19
結果から逆算して史料を改竄するのが畿内説
923日本@名無史さん2019/03/02(土) 13:01:02.02
宰は(家畜を)屠殺するという意味の字
924日本@名無史さん2019/03/02(土) 13:07:25.68
説明しなくても、
誰でも知っている話だと言っていなかった?
泥棒のようなものに入られたと言う話とか、
日本の神話でしょ
925日本@名無史さん2019/03/02(土) 13:14:06.90
三国志最強の男 曹操の人望力 - 12 ページ
刺史は本来、地方行政の組織の枠に組み入れられた存在ではなかった。役職も目付のようなもので、州や郡、県の役人が政務を真面目に司っているか否かを監督し、 その成績を考察して、中央へ報告する役割を担っていた。
926日本@名無史さん2019/03/02(土) 13:14:58.03
最終的には・・・・・・空襲〜戦争?などで、
三貴子が勝利したという事なんじゃないの?
泥棒のようなものに入られたと言うのも、
戦争以前の話、出来事だし・・・・・w
メーソンの陰謀?そういうスレがあるでしょ
927日本@名無史さん2019/03/02(土) 13:16:05.36
大率が中央官僚であることを理解すれば、倭の王都がどこであったかは自ずと答えが出るな。
928日本@名無史さん2019/03/02(土) 13:16:51.98
後漢書は倭の北限が狗邪韓国、倭の南限が倭奴国で、畿内など出てこない。
魏志倭人伝には後漢代までさかのぼった記事が書かれているのに、九州から畿内への遠大な東遷は書かれていない。
いつ倭は畿内に東遷したのかな?
929日本@名無史さん2019/03/02(土) 13:19:16.24
430>>380
何も根拠を言わないし、証拠を出さない
そして、「南→東」などのように、史料事実否定曲解をし、
都合の悪い史料事実は、隠蔽する
それが大和説 930日本@名無史さん2019/03/02(土) 13:22:48.97
>>921
魏志倭人伝には女王国、邪馬台国が
帯方より南1万2千里の会稽東治乃東と書いている
会稽東治という場所は存在した事がなくて
後漢書には会稽東冶とあって
それは福建省福州市あたりになる
そしてその東は沖縄台湾辺りになるから
魏志倭人伝は邪馬台国の位置を正確に記したものではないという事になる
そして帯方より南1万2千里は漢時代に書かれた淮南子に出てくる
世界の果てまでを表す概念的な数字
つまり魏志倭人伝に書いてある邪馬台国までの距離は
世界の果てにあるという事を概念的に示すもの
一方考古物から見れば三世紀に畿内と魏が交流していたのは明らか
よって邪馬台国は畿内という事になる 931日本@名無史さん2019/03/02(土) 13:24:03.23
畿内のゴッドハンドが創った史料になんの価値もない
932日本@名無史さん2019/03/02(土) 13:25:15.49
430>>387
>>何故「ハチニ」や「ロクシ」を選択しなかったのか?や、<
>シチサンに決まってるだろ 渡海が3回ある <
それでは、郡から韓国までの「循海岸水行」部分の説明がないよ。 933日本@名無史さん2019/03/02(土) 13:26:18.58
>>921
畿内は存在しないとかいう意味不明の文言を
日がな1日わめいてる正気かどうかも怪しい九州説には
どんな史料を見てもまともに判断するのは難しいだろう 934日本@名無史さん2019/03/02(土) 13:30:03.88
近代の戦争の話?
何もしていなのに、
勝ったと言っている国があると言ってる人々がいたり
朝鮮半島周辺?『神仙界』?
935日本@名無史さん2019/03/02(土) 13:30:09.38
畿内に5万人もいたという嘘をぶちまける畿内説に
論理で対抗することは不可能
白痴と議論するようなものだ
936日本@名無史さん2019/03/02(土) 13:30:52.52
430>>383
>倭人伝には「倭人は土を盛って墓となす」とある。
ホケノ山や箸墓はどう見ても石を積んで作られているように見えるだろ。
だから、魏使達の見た墓は所謂古墳ではない。
土饅頭のような墓か、または方形周溝墓のような弥生時代の墓だったろう。
箸墓のような巨大な墓でもない。<
成程。 937日本@名無史さん2019/03/02(土) 13:36:59.06
>>935
それは事実とは言えないな
邪馬台国は7万戸と魏志倭人伝に書いてあるから
ざっと30万人以上は居なきゃ計算が合わない 938日本@名無史さん2019/03/02(土) 13:37:00.93
430>>392
>北部九州は威信材を何でもかんでも副葬する文化があっただけ
鏡・剣・勾玉をセットで副葬する文化が継承されていた形跡はない
畿内に伝搬と言いたいなら、直前の遺跡はどこだよ?<
祇園山は、盗掘されてしまって不明だが、
平原は、三種の神器が揃っている筈だな。 939日本@名無史さん2019/03/02(土) 13:38:12.30
漫画、アニメのネタ?
自分では何もしていない(戦争にも行っていない?)のに・・・勝っちゃった?
どらごんぼーる、他の作品?
ネットでも、
そのような事を言っている人ばかりだし
940日本@名無史さん2019/03/02(土) 13:39:14.16
>>930
ワンパターンな反論しか拠り所がない畿内説は哀れなり 941日本@名無史さん2019/03/02(土) 13:40:09.49
九州説が窮地に陥ると現れる呟き荒らし
942日本@名無史さん2019/03/02(土) 13:40:32.73
・・・・・・・・がんだむ?
943日本@名無史さん2019/03/02(土) 13:41:57.42
また意図的に畿内の範囲を広げてる
伸縮自在に邪馬台国を変質させる、それが畿内説だ
944日本@名無史さん2019/03/02(土) 13:42:17.48
>>940
そのワンパターンにぐうの根も出ないほどやり込められる頭の哀れな九州説 945日本@名無史さん2019/03/02(土) 13:45:55.48
>>943
ほう
畿内説がどっからどこまで勝手に広げたというのかな 946日本@名無史さん2019/03/02(土) 13:49:30.77
纒向遺跡への搬入土器の出身地割合
伊勢・東海系 : 49%
北陸・山陰系 : 17%
河内系 : 10%
吉備系 : 7%
近江系 : 5%
関東系 : 5%
播磨系 : 3%
西部瀬戸内海系 : 3%
纒向には魏の使いが滞在していた筑紫からの搬入物がない。
邪馬台国が交流していたはずの楽浪郡からの土器も出ない。
目と鼻の先の河内との交流も乏しく、畿内の他の地域のような瀬戸内海や淀川の水運の利益を受けられない、尾張の支配下の後進地域であった。
畿内説が言うように東海地方が狗奴国なら、纒向への土器の流入を説明できない。
947日本@名無史さん2019/03/02(土) 13:55:03.73
そんな物より前方後円墳だ
948日本@名無史さん2019/03/02(土) 13:58:57.47
430>>407
>北部九州はどんなにゴマカシしても
会稽東治之東にならないよ あきらめるんだな<
東治が北緯31度の上海であっても、
佐多岬が丁度北緯31度で真東だし、九州北岸で上海から東北東だから、
九州島は、ほぼ「之東」であるし、
上海の西の蘇州から揚子江の北岸はずっと「東治」地域の江蘇省だから、
「之東」は、九州島でほぼピッタリだよ。 949日本@名無史さん2019/03/02(土) 14:00:55.78
『元祖 高木ブー伝説』
何もしていない・・・みたいな事を言っているでしょ?
高木の神(普通の木だった?)とか、なぜ知っている人がいるんだろう
工作員のような人達がいて・・・?
950日本@名無史さん2019/03/02(土) 14:01:18.15
>>923 でたらめはいけない。説文解字には「辛」は奴をあらわしすとし、
説文解字注では本来は「宰」とは家をきりもりする奴隷から家宰の意味に
なったと記している。周礼には天礼には天官冢宰という大官を記載して
おり、すくなくとも漢の時代には「宰」は天子を補筆する者という語義が
あったとみるのが正しい。いずれにせよ家畜など関係ない。 951日本@名無史さん2019/03/02(土) 14:02:53.90
>>875
>なんでここだけ信用するんだ?
間違っていることが確定って書いてるのに、どうして信用してることになるんだ?
反論すればいいってもんじゃないだろ
頭悪いのにもほどがあるw 952日本@名無史さん2019/03/02(土) 14:05:33.32
430>>412
>>結論、現状では3世紀前半に畿内が北部九州を押さえている状況には見えない <
>素人が見えなくても意味が無いから <
「南→東」などの嘘吐き騙しである事がバレて、
嘘吐きである事が分かったた大和説学者が、
「見える」と言ってって、何の価値も意味もないから。 953日本@名無史さん2019/03/02(土) 14:06:30.92
つかいきなりデタラメなことばかり連投してるヤツが来てるのか。
次スレはIPとワッチョイ必須で建てないか?過去の経緯はしらないけど
別にIP無しである必要ないだろ。
954日本@名無史さん2019/03/02(土) 14:06:53.23
955日本@名無史さん2019/03/02(土) 14:09:38.46
高木の神〜皇祖神だと書いてない?
『高木ブー伝説』何なんだろう
956日本@名無史さん2019/03/02(土) 14:09:45.48
>>876
>「その先に女王国がある」というのは、狗邪韓国から先にあるということだ。
↑
これとこれがまったく繋がらないww 論理の飛躍がすげぇな
↓
>そしてその詳細な報告は九州北部で完結している。 957日本@名無史さん2019/03/02(土) 14:10:43.86
430>>415
>献上品www
ヤマト王権を支配下に置いていた強大な九州王朝があったという珍説を唱えてるのかwww<
「正北抵新羅」の北部九州の倭国の倭王武の上表文の、
「東征毛人五十五国」がなかった、というような、
珍説を唱えよう、とでもしているんかい?。 958日本@名無史さん2019/03/02(土) 14:14:49.65
>>883
>魏使は来るたびに方位を間違えたと宣うキナイコシ
その場で間違えないというのと
史書の記録に間違いがないというのを
無理やり混同し続ける無能
まあ、真実とは別のところで嫌がらせだけをしているのだから、
いくら言われても見ない聞こえないで知らんふりし続けるだけww
九州説は本当に惨めだなw 959日本@名無史さん2019/03/02(土) 14:17:38.98
>>956
魏志倭人伝は、倭国についての詳細報告を狗邪韓国からはじまり伊都国、奴国、不弥国までで終わらせている。 960日本@名無史さん2019/03/02(土) 14:20:23.79
>>891
>水行10日陸行一月などと省略したら、次に行く時の役に立たない。
>攻める時の役にも立たない。
>結論から言えば、伊都とその周辺が倭国女王の都なんだよ。
結論から言えばって、結論しか言えないの間違いだろww
糸クズの論理は、結論ありきの逆算捏造でしかないし、しかも破綻しているww
逆に言えば、伊都国・奴国以外に北部九州で栄えているところはないってことであり、
事実上これだけで北部九州説は潰える
三雲遺跡群は海から5キロも歩けば着くぞ
どこをぐるぐるして陸行1月もかかるんだ?ww 961日本@名無史さん2019/03/02(土) 14:25:36.98
>>901
>倭王武の上表文の「西服衆夷六十六國」は、過去の卑弥呼時代の話になる事になる。
それでいいよ
北部九州への畿内様式土器の浸透とも時期が合う
九州が畿内ヤマト王権に服属するようになったのはその頃でいい
どちらにせよ「服」は他動詞で、衆夷六十六國は九州九州を含む畿内より西の地域 962日本@名無史さん2019/03/02(土) 14:28:33.36
このスレでも皇国史観が〜と言っているでしょ、
皇祖神・・・高木神?
本当に国民などを騙していたと言う意味
963日本@名無史さん2019/03/02(土) 14:34:00.36
>>930
>会稽東治という場所は存在した事がなくて
>後漢書には会稽東冶とあって
三国志にも会稽東冶という記述があるよ
三國志卷六十/吳書十五/賀全呂周鍾離傳第十五に2ヶ所ある
その頃には東冶県は侯官県になっていたし、会稽郡からは外れていたけれど、
会稽東冶と呼ばれる地域は実在したと見ていいだろ 964日本@名無史さん2019/03/02(土) 14:47:19.63
>>943
>また意図的に畿内の範囲を広げてる
>伸縮自在に邪馬台国を変質させる、それが畿内説だ
大和+河内〜環大阪湾の範囲で、畿内第V様式土器を共通に使う領域ってきちんと教えてあるのに
未だに覚えないんだな
テンプレにもちゃんと書いてあるぞ 965日本@名無史さん2019/03/02(土) 14:50:33.30
中国の・・・皇という存在は、どうなるんだ?
という事になるでしょ、
本当の・・・皇?のような人物、存在
966日本@名無史さん2019/03/02(土) 14:51:49.97
>>964
なぜ大和+河内〜環大阪湾という区切りを恣意的に用いるのかな? 967日本@名無史さん2019/03/02(土) 15:05:57.77
誰々、民族(国)はトーテムを拝んでいるんだよな
というのも有名な話みたいだし
968日本@名無史さん2019/03/02(土) 15:12:15.65
ヤマト以外の畿内まで邪馬台国に含めようとするクズは潰さないとダメ
タチが悪過ぎる
969日本@名無史さん2019/03/02(土) 15:14:11.88
970日本@名無史さん2019/03/02(土) 15:15:07.42
確実に工作員のような人達がいて、
情報を漏らしたりしていた、している?
過去に〜そういうところ()で仕事をしていたり、
していた事がある人達
971日本@名無史さん2019/03/02(土) 15:16:15.15
もちろん正北抵新羅は西服衆夷六十六国の後だから九州を制圧してそこから北に向かったというヤマト王権の記述で間違いないな
なにせ九州の西にはもう国が無いからな
972日本@名無史さん2019/03/02(土) 15:17:56.52
『河童 長老』『AIKIRA』同じ話でしょ?
謎の施設が出て来て、たしか木のようなものが植えてなかった?
それとも施設の中にある壁に、
そのような木の絵が描いてあったのかな?
『AKIRA』?
973日本@名無史さん2019/03/02(土) 15:18:01.06
430>>420
>柳田が想定してる国内で作りかけの硯は
弥生時代中期(紀元前1世紀)ごろだし
三雲・井原遺跡で見つかったのは弥生時代後期(1〜2世紀)と見られてるし
卑弥呼の遣使と関係ない時代から文字を使う渡来人が博多湾沿岸に来てたんだろ<
柳田らの年代推定根拠は知らんが、それ以前に、
渡来して来た倭人の中核の「燕の南」の倭人も、呉王夫差の遺民の姫氏も、
当然漢字が使える人がいた部族だ。 974日本@名無史さん2019/03/02(土) 15:19:35.74
>>966
>なぜ大和+河内〜環大阪湾という区切りを恣意的に用いるのかな?
畿内第V様式土器を共通に使う範囲だからだよ
恣意的ではなく、考古学的な実体にある領域
畿内第V様式土器は弥生時代後期に使われるようになる
それ以前は各地で別々の土器を使っていたのが、地場の土器が消えて
共通様式の土器が使われるようになる
これは土器生産のセンターが作られてそこから広域に運ばれるように
なったということでもあり、一つの交易圏・流通圏としてまとまったことも示している
庄内式土器・布留式土器が列島の広い範囲で使われるようになるのも、
畿内で畿内第V様式土器の時に見られた同じ事象の拡大版だと考えると理解しやすい
歴史の流れに沿って考えていけば、倭の五王も九州倭国などというのはあり得ないことも理解できる 975日本@名無史さん2019/03/02(土) 15:23:09.15
畿内の範囲をバンバン広めてやるわ
止めれるもんなら止めてみな九州説よ
976日本@名無史さん2019/03/02(土) 15:23:16.30
>>954 そのサイトにちゃんと説文解字と康煕字典ついてんだから自分で見なさいよw 977日本@名無史さん2019/03/02(土) 15:25:58.53
>>975 きほん畿内というのは皇帝の居城から五百里以内の土地のことだから
皇帝の居城が決まらなければ畿内もきまらないという意味ではどこまでも広がる
可能性はありますね(´・ω・`) 978日本@名無史さん2019/03/02(土) 15:31:18.43
979日本@名無史さん2019/03/02(土) 15:36:08.39
別にええやん文句あるか
980日本@名無史さん2019/03/02(土) 15:37:46.72
数年前、他のスレッドに書いた事なんだけど
徳永英明『永遠の果てに』(MV、PV)
あと『この木、何の木』(『永遠の果てに』同じテーマ、コンセプト)
という曲とか、本当に誰にもわからない
981日本@名無史さん2019/03/02(土) 15:37:52.47
430>>424
>紀元前108年に楽浪郡が設置されて、
漢字文化圏から日本の産物の何を目当てに紀元前から博多湾沿岸まで来てたのか
何を中国に持ち込むと利益が得られるのかということだな
硯は出雲からも出ている
山陰から北部九州に運ばれてるもの(出土するもの)は何かということ<
それ以前に、出雲の「国生み神話」には、
新羅や沃祖やyup婁や越からの「国引き」があった記載があるから、
出雲も、相当昔から、漢字文化圏に通じていた可能性がある。 982日本@名無史さん2019/03/02(土) 15:41:44.96
>>981の追記
縄文期の出雲から搬出されたものとしては、隠岐の黒曜石があったようで、
ウラジオストック付近から、(北海道の黒曜石と並んで)隠岐の黒曜石が出土している。 983日本@名無史さん2019/03/02(土) 15:42:10.80
大坂山から箸墓に石を運んだなんて伝承があるから河内とは何らかの関係があったと思うけど
九州説は福岡佐賀熊本鹿児島宮崎あたりをバラバラに主張してるのだから九州説も一つに絞ればどうだろうか
984日本@名無史さん2019/03/02(土) 15:43:40.85
『平家 祇園精舎』
少し違うけど、同じような事を言っていたり、
ほとんど同じ?
985日本@名無史さん2019/03/02(土) 15:49:32.04
畿内説は歴史学ではなく歴史小説
986日本@名無史さん2019/03/02(土) 15:54:03.03
>>985
それ自分が考古学知識ないことを白状してるだけ 987日本@名無史さん2019/03/02(土) 15:56:01.93
九州説は証拠を出して語ろうや
小学生じゃあるまいし、自分の作った仮説もどきをいくら言い張っても説得力ゼロ
筋の通らない屁理屈でごねても無駄
988日本@名無史さん2019/03/02(土) 16:01:29.98
確か、このスレでしょ
死んだ伊作(遺作)、死んだ伊作・・・
と言ってる人がいたり
聴いたことないから知らないけど
『ここに いたこと』とか、
ほとんど同じコンセプト、記念樹?
そのため(証)のもの、作品などを残しておくとか
989日本@名無史さん2019/03/02(土) 16:01:37.62
>>976
宰の說文解字の辠人(罪人)がやってたのが「又屠也」康煕字典《荀子·正名篇》(動詞) 990日本@名無史さん2019/03/02(土) 16:05:09.15
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
991日本@名無史さん2019/03/02(土) 16:05:44.16
>>427
>>それなら、プラズマ化した瞬間から、原子核の放射性壊変が発生しており、<
>何度も言うが、原子核壊変に関わる核力のオーダーと、電子との電磁気力のオーダーが
桁違いだから、電子の挙動は原子核に影響しないんだって!<
原子核内の核力結合力が、電子一個分の電磁気結合力の仮に千倍であったとしても、
12個の電子を失えば、核力結合に1%位の不安定さや放射性壊変を起こす確率が増える。
>>電場で加速すれば、その原子核の放射性壊変が更に亢進してしまう事になり、<
>しません そして、たとえしたところで、
電場・磁場中を移動するのは秒もかからないんだから
その間の壊変は誰が何と言おうと無視できる ポワソン分布でググってみなw <
同じ事。
加速され直進する原子核に横からの、
軌道が曲がる位の強い電場をかけて軌道を変えて、その変わり方で区別するんだから、
個々の核子間か結合の安定性を破壊する位の、
電場がかかっていた事になる。
、 992日本@名無史さん2019/03/02(土) 16:07:35.74
九州説は以前のスレを見ればわかる
畿内説はボロボロに負けてただろ
993日本@名無史さん2019/03/02(土) 16:08:18.42
>>930
>そして帯方より南1万2千里は漢時代に書かれた淮南子に出てくる
世界の果てまでを表す概念的な数字
つまり魏志倭人伝に書いてある邪馬台国までの距離は
世界の果てにあるという事を概念的に示すもの <
何度も張り付けているが
1万2千里は邪馬台国までの距離だよ
邪馬台国が世界の果てなら
「去女王四千餘里 又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至」
1万6千里は宇宙かなwww 994日本@名無史さん2019/03/02(土) 16:15:14.14
430>>428
>>大和の鉄器時代は、ホケノ以降だよ。<
>ホケノ山古墳の木棺が120〜240年 2世紀前半から3世紀半ばだね
この頃にはヤマトに鉄が潤沢にあった訳だし、鉄鏃もいっぱいだから何も問題ないなw<
ダメだ。
木棺採取部と樹皮との年輪数分だけ古い検査材料である事になり、
さらにAMSで50〜100年位古い年代が出てしまうので、
実際には、200〜340年位だ、という事にしかならない。
それよりも、卑弥呼の冢ではなく前方後円墳である事や、
石塚よりも新しい事や、布留があったか4世紀以後である、という事の方が、
根拠になる。 995日本@名無史さん2019/03/02(土) 16:15:14.35
>>992
>九州説は以前のスレを見ればわかる
>畿内説はボロボロに負けてただろ
九州説側の書き込みは具体的な内容が一切ない
具体論がないからねw 996日本@名無史さん2019/03/02(土) 16:21:01.60
997日本@名無史さん2019/03/02(土) 16:24:20.35
結論ありきのデータ改竄を平気でやる畿内説
そういうマインドが蔓延しているかぎり考古学に未来はない
998日本@名無史さん2019/03/02(土) 16:24:40.00
『デスラ〜』・・・・『鏡張り あやしい城の中で』
ほとんど同じコンセプト
999日本@名無史さん2019/03/02(土) 16:28:59.85
今回のスレッドでも、韓国人が宣伝する邪馬台国畿内説が、ゴキブリが叩きつぶされるようにして、完全に論破されてしまったね。。。
1000日本@名無史さん2019/03/02(土) 16:29:03.02
邪馬台国を知りたければ九州に行くといい
古代の息吹がそこらへんに残っている
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