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邪馬台国畿内説 Part432 ->画像>19枚


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1◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:08:22.37
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1551227135/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
2◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:10:25.81
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある 
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
3◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:10:46.88
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
4◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:11:03.73
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
5◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:11:24.93
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
6◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:11:47.73
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
7◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:12:05.45
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。

 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
8◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:12:25.23
◆6−2
 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
9◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:12:45.33
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
10◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:13:05.57
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
11◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:13:31.67
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
12日本@名無史さん
2019/03/02(土) 17:13:52.94
430>>429
>>庄内の時期に交流を持ち始めたのでしょう<

>ぶぶー その前の畿内第X様式土器から、北部九州で畿内様式土器が出てるよ<


第X様式の、筑紫と大和の先後の根拠が、不明。
しかし、庄内が、
筑紫が三雲や祇園山に拠って3世紀前半頃であるが、
大和は、石塚の3世紀末からであるから、
第X様式も、九州が先行した可能性が高い。

>交流は縄文時代からあるんだから、誤魔化しても無駄<

交流なら、饒速日が一番古くなるが、縄文期からであるのか?は、不明。
大和は、饒速日以前は、出雲銅鐸祭祀系と毛人との混合地域であったらしい。
13◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:13:54.85
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
 逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
  「泝流」が6回
  「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。
14◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:14:24.34
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※検証)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,57も参照)
(本項 続く)
15◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:14:44.56
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。
上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
16日本@名無史さん
2019/03/02(土) 17:14:47.24
うめ
17日本@名無史さん
2019/03/02(土) 17:15:12.07
うめ
18◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:15:24.01
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。


◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
19日本@名無史さん
2019/03/02(土) 17:15:37.58
うめ
20◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:15:50.86
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
21日本@名無史さん
2019/03/02(土) 17:16:00.73
うめ
22◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:16:09.80
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
23日本@名無史さん
2019/03/02(土) 17:16:15.85
うめ
24◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:16:29.49
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。


 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
25◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:16:48.60
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
 畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
 逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
26◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:17:08.17
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
 遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。


◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
27◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:17:47.60
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
28◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:18:05.89
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
29◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:18:32.51
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中国では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。


◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
邪馬台国畿内説 Part432 	->画像>19枚
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
30◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:18:53.27
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) 邪馬台国畿内説 Part432 	->画像>19枚
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 邪馬台国畿内説 Part432 	->画像>19枚

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
31◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:19:16.09
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛
 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総
 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵
 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬
 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆
 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)

◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
32◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:19:42.96
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
33◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:20:03.53
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
 九州説にとって不利な条件と言える。
34◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:20:27.85
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
35◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:20:47.57
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   邪馬台国畿内説 Part432 	->画像>19枚
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
36◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:21:06.45
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
37◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:21:27.72
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
38◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:21:47.12
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
39◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:22:07.01
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
40◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:22:28.35
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
41◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:22:46.01
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  邪馬台国畿内説 Part432 	->画像>19枚
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
42日本@名無史さん
2019/03/02(土) 17:23:00.59
430>>430
>>畿内説は、材料不足のまま箸墓を3世紀にしたがる <

>その前に、纏向遺跡が3世紀初頭には存在しているのが確実であり、<

その根拠は、何なんだね?。

>特別な王のための新造都市だっていうのが重要なんだよ<

Yahooで、東大のyamatogawakonanという大和説者が、
土壙のようなものから出たのが庄内3であった、
という事であり、3世紀末の石塚が庄内の始め(庄内1)であるんだから、
纏向の掘立式建築は、4世紀頃だろう、という事になってしまう。

>箸墓の年代は、畿内説でも260〜280年としている
論点は、これが卑弥呼の死後に作った墓として整合性があるかという点だけ<

箸墓は、布留だから、ほぼ無条件で、4世紀以降だ。
43◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:23:04.22
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
44◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:23:25.69
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
45◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:23:45.93
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
46◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:24:07.70
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
47◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:24:29.60
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
48◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:24:50.84
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
49◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:25:10.67
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
50◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:25:29.10
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
51◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:25:46.68
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
52◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:26:04.87
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
53◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:26:24.61
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
54◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:26:43.32
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
邪馬台国畿内説 Part432 	->画像>19枚 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
55◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:27:01.06
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
56◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:27:20.08
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。

                (以上、漢書西域上)
57◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:27:37.73
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
58◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:27:54.91
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い


◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
59◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:28:13.13
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
60◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:28:31.58
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
61◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:28:49.86
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。

古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
邪馬台国畿内説 Part432 	->画像>19枚

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
62日本@名無史さん
2019/03/02(土) 17:28:51.23
430>>434
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
何か1つでもいいから証拠を出そうや
何もないのに言い張ってても説得力ゼロ
63◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:29:08.31
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半と考えられる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と整合する。
 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
64◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:29:29.99
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀) 邪馬台国畿内説 Part432 	->画像>19枚
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。
65◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:29:50.21
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:邪馬台国畿内説 Part432 	->画像>19枚

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。


◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
66◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:30:11.78
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。


◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
67◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:30:33.64
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。


◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
 「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。
68◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:30:52.29
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
  纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
69◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:31:18.82
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。


◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
70◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:31:38.31
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。
71◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:31:58.67
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。
72◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:32:19.03
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
邪馬台国畿内説 Part432 	->画像>19枚


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。


◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 邪馬台国畿内説 Part432 	->画像>19枚
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
73◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:32:40.97
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。

邪馬台国畿内説 Part432 	->画像>19枚


◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)
74◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:33:00.25
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。


◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周囲代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。

 また八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比にするための捏造であった可能性が高いといえよう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
75◆UiepmfCeDJqf
2019/03/02(土) 17:33:37.79
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 なし
76日本@名無史さん
2019/03/02(土) 17:41:09.42
チョンプレ終わり
77日本@名無史さん
2019/03/02(土) 17:51:39.20
前スレ>995
>読んでねーか 中傷かい

そんなことをまた「一切の具体論なしで」書いてる暇があったら、
一つでも二つでも具体的な根拠を挙げて論じればいいだろ?

九州説には具体的な根拠がない
根拠だと言っていたものは、すでに具体的な根拠によって否定されて
それがテンプレのFAQに列挙されているww
78日本@名無史さん
2019/03/02(土) 17:58:47.26
>筑後山門の東に海はなかったと思ったけれど…

山門は、卑弥呼の宮室があった都の中心地。
邪馬台国は大牟田、柳川、みやま、筑後、八女あたりの地域。
その邪馬台国=女王国の東方面が国東半島と瀬戸内海。
女王国東渡海千余里の実際のルートは、行橋あたりから周防灘、瀬戸内海を東行するもの。
79日本@名無史さん
2019/03/02(土) 18:04:51.84
山門では大型建物がある遺跡は見つかってない
倭人の風習が見られない九州の柳川あたりでは弥生終末期〜古墳時代に
畿内系、山陰系土器とともに卜骨が出るようになる
80日本@名無史さん
2019/03/02(土) 18:04:57.73
430>>435
>畿内第X様式土器の拡散は、政治的な背景を持たない斉一志向の流れだった。<

第X様式の、筑紫の始まり時期と、大和での始まり時期は、まだ不明だ。

>一方、政治的な背景を持つ畿内土器の北部九州への拡散は庄内土器の時期で、実年代としては3世紀中頃。
九州で最も早い庄内式は、博多地域でみられる。
そして、それと同時に、大和では鉄器があふれるような流れが現れる。
何が起こったのか、一目瞭然だ。<

今のところ、筑紫の庄内は、三雲や祇園山が早く、3世紀前半であり、
大和の庄内は、石塚の3世紀末だ。
何が起こったのか?は、一目瞭然であり、
筑紫から大和への伝播が起こったのだ。
81日本@名無史さん
2019/03/02(土) 18:05:33.52
>>78
山門を勝手に拡大する九州説
82日本@名無史さん
2019/03/02(土) 18:07:22.29
鎮魂歌
卑弥呼→台与の頃を歌ったものだろうか?
邪馬台国、初期のヤマト政権は、石器作りや狩猟を生業にしていた勢力が主体だったことが窺える
また、「フル」、「アチメ」という言葉は大和言葉では意味が分からないが、朝鮮語では「流れる」「朝日」という意味になる
初期のヤマト政権は、朝鮮半島と日本列島を行き来していた日本海側の勢力も関係していたのかもしれない
纒向遺跡の外来系土器から推測すると、東海山陰吉備による征服王朝と言えるんじゃないかな
石上神宮の布留の謂れは、刀が【流れてきて】布で受け止めたら留まったというもの。

【アチメ】 オオオオ オオオオ オオオオ
 天地ニキ揺ラカスハ サ揺ユラカス 神ワカモ 神コソハ キネキコウ キ揺ラナラハ
アチメ オオオオ オオオオ オオオオ
 【石ノ上】 【布瑠】社ノ 【太刀】モガト 願フ其ノ児ニ 其ノ奉ル 
アチメ オオオ オオオ オオオ
 【猟夫】ラガ 持タ木ノ【真弓】 奥山ニ 御狩スラシモ 弓ノ弭見ユ
アチメ オオオ オオオ オオオ
 上リマス【豊日霎】カ 御魂欲ス 本ハ金【矛】 末ハ木矛
アチメ オオオ オオオ オオオ
 【三輪山】ニ アリタテルチカサヲ 今栄エデハ 何時カ栄へム
アチメ オオオ オオオ オオオ
 吾妹子ガ、【穴師】ノ山ノ山ノ山モト 人も見ルカニ 深山カ縵為ヨ
アチメ オオオ オオオ オオオ
 魂筥ニ 【木綿】取リシデワ 魂チトラセヨ 御魂上リ 魂上リマシシ神ハ 今ゾ来マセル
アチメ オオオ オオオ オオオ
 御魂ミニ 去マシシ神ハ 今ゾ来マセル 魂筥持チテ 去リクルシ御魂 魂返シスナヤ
83日本@名無史さん
2019/03/02(土) 18:08:26.25
畿内から環濠が消えていく1世紀後半〜2世紀中頃の、守山の伊勢遺跡
政治の中枢の誕生を示す遺跡だろう
国作りが進み平和で豊かな時代が到来したんだろう

中国の建築様式やレンガ、出雲や北陸の建築様式の建物など各地の特徴を持った建物跡が出土している。
おそらく30もの首長たちが集い、祭祀を行い政治が行われていたと推測できる。
面白いことに伊勢遺跡の全盛期に同時代の墓が周辺に認められないんだよね。政治の中枢であるが墓がない、国会のような年に1回首長たちが集う祭祀の場であった可能性がある。
神無月に出雲に神々が集う言い伝えがあるが、伊勢遺跡の伝承だった可能性もある。

伊勢遺跡の祭祀は夜に行われていたと言われている。
夜の食国を治めたのは月夜見
農作業に使う暦を作って、首長たちに伝えていたのかもしれない

魏志倭人伝の魏略からの引用に女王国には暦がないという記述は興味深い

万葉集の奈良時代後半の歌を読むと、月やホトトギス時鳥の来訪の期待感が、次第に高まっていくのが感じられる
桓武朝で神代の王統が復活したのだろうか?

信長秀吉家康の例え話
ホトトギスは何を指すのだろうか?
84日本@名無史さん
2019/03/02(土) 18:09:09.36
やっぱり万葉集のこの歌に古代史は凝縮されている

真十鏡 可照月乎 【白】妙乃 【雲】香隠流 【天津】霧【鴨】

まそ鏡、照るべき月を、白栲の、雲か隠せる、天つ霧かも

照るはずの月を、白い雲が隠しているのでしょうか。それとも天の霧が隠しているのでしょうか。

「まそ鏡」は、澄んだ立派な鏡というような意味です。この歌では、月を導く枕詞(まくらことば)として使われています。
85日本@名無史さん
2019/03/02(土) 18:09:11.57
>>80
考古学に完全無知なうえ
中高生レベルの歴史を知らないで
毎日ウソついてる素人のおじいさんが
理由も言わずに断定しても
誰が信じる?
86日本@名無史さん
2019/03/02(土) 18:09:18.45
430>>440
>大陸貿易の主導権を畿内が握ってしまったんだよね<

大陸との交易や国交や戦争は、白村江までは九州倭国が主導権。
87日本@名無史さん
2019/03/02(土) 18:09:39.46
>>77のつづき
というか、九州説は畿内説のスレにわざわざ来てまで書くなら、
きちんと具体的な根拠を挙げて九州説を主張してよ

それをきちんと具体的に否定してあげるからさw
88日本@名無史さん
2019/03/02(土) 18:10:29.01
大和弥生社会の展開とその特質
寺沢薫
(纒向学研究 第4号より抜粋・引用)

もともと第一の道論(注釈:奈良盆地の独自の発展によるヤマト王権の誕生)は、奈良盆地の自然環境の卓越性を根拠に、生産力の先進性をことさらに高く見積もり、
前期古墳に見る隔絶性から前段階の強力な権力の存在を推定するという本末転倒の論理によって説明されてきた感が強い。
以降、第一の道論は吉備連合論、河内(大和川水系)連合論、鉄ルート開発 ・ 確保論、倭国乱での巻き返し論等々を巻き込み、修復を繰りかえしながら多くの論者によって支持され続けてきた。
しかし証明のための論理や手法に根本的な改善は見られない。
私は第一の道を否定する立場である。
第二の道は多様である。
私は北部九州や2世紀以降とくに強大な勢力として新興してきた吉備を中心とした瀬戸内海勢力を維新主要勢力とした政治的談合による倭国の再編成(私の言う「新生倭国」の誕生)と考えている。
畿内や大和ではその直前まで首長墓を含む一般的墓制は方形墓なのであって、しかも王権を構成した主要地域に比べると、
墓に反映されるほどの階級的に隔絶した首長権力が存在した形跡は微塵もないのである。

http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
89日本@名無史さん
2019/03/02(土) 18:13:15.67
>>78
>その邪馬台国=女王国の

つまり「女王国」というのは、卑弥呼を共立した連合範囲っていう主張だな?
奴国の向こう側まで女王国だって言うんだから?

だったら大和の東は海じゃないってのは意味がないな?
伊勢から伊勢湾を渡って三遠駿へ渡海する、で何も問題ない
90日本@名無史さん
2019/03/02(土) 18:18:03.56
430>>448
つまり会稽東冶之東じゃなく、会稽東治之東なんだよね
倭人伝と合わない沖縄説ってもちろん死亡だし、
魏使らや陳寿は方向を間違っていないんなら、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説も、当然死亡だよね
91日本@名無史さん
2019/03/02(土) 18:18:55.41
渡海とは危険を伴う。
伊勢湾ごときは沿岸航行すなわち水行でよろしい。
92日本@名無史さん
2019/03/02(土) 18:21:50.76
>>91
あんたごときが決めることじゃない
93日本@名無史さん
2019/03/02(土) 18:22:44.04
>>88
「小地域の中心的集落は『纒向遺跡群』(108)で、東西2q、南北1.5 qの網目状に
 広がる古代纒向川扇状地の微高地五ヵ所に庄内0式から布留2式までの居住遺構が点在する。
 第V–3 様式からVI様式の土坑などが僅かに存在はするがほぼ集落としての体はなさない。
 最大範囲の盛行期は庄内3〜布留0式段階である。列島最古の前方後円墳を要する纒向古墳群の
 存在や遺構、遺物の特性から『ヤマト王権最初の大王都』と考える。」 
『 』は引用者がつけた

「私はこの仮称「ヤマト」国こそが『魏志』倭人伝に記された「邪馬台国」であろうと考えている。」

「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」寺澤薫(2016)
94日本@名無史さん
2019/03/02(土) 18:24:40.32
>>91
>渡海とは危険を伴う。
>伊勢湾ごときは沿岸航行すなわち水行でよろしい。

それで言うなら多島海ですぐに陸地に逃げられる瀬戸内海は、
最初から「渡海ではない」んだよ
95日本@名無史さん
2019/03/02(土) 18:24:41.29
>>90
>つまり会稽東冶之東じゃなく、会稽東治之東なんだよね

東冶は東治と同じ場所だから
九州説は死んだ
96日本@名無史さん
2019/03/02(土) 18:25:31.86
430>>452
>ホケノ山古墳の木棺が120〜240年 2世紀前半から3世紀半ば <

木棺は、樹皮から年輪数古い事と、AMSが50〜100年位古く出る事で、
年代根拠にならず、
(卑弥呼の冢ではなく)前方後円墳で、
有棺有槨で、庄内〜布留である事から、3世紀末以後。
97日本@名無史さん
2019/03/02(土) 18:30:12.26
>>94
>それで言うなら多島海ですぐに陸地に逃げられる瀬戸内海は、
>最初から「渡海ではない」んだよ

渡海以前に、倭人伝時代、瀬戸内海はまだ使い物にならなかったから。  @阿波  
98日本@名無史さん
2019/03/02(土) 18:30:59.52
>>94
>それで言うなら多島海ですぐに陸地に逃げられる瀬戸内海は、
>最初から「渡海ではない」んだよ

渡海以前に、倭人伝時代、瀬戸内海はまだルートとして使い物にならなかったから。  @阿波  
99日本@名無史さん
2019/03/02(土) 18:40:18.70
畿内説はゾンビ
100日本@名無史さん
2019/03/02(土) 18:41:44.59
430>>460
>嘘つきでもないし詐欺師でもないしなんでもない
魏志は、州胡(済州島)が馬韓の南なのに西だといってる
つまり海にでた途端に方角が90度ずれてるんだよw <

韓伝の記載であるから、郡の役人の記録であれば、
普通は「方向と距離」を確認して位置説明する筈であるのに、
「又有州胡在馬韓之西海中大島上」というように、全く大島のない方向を記載してしまっているから、
この情報は、おそらく、
方向計測法をよく知らない南岸の馬韓人情報であり、
州胡人が、船で島伝い海岸伝いに西からやってくる方向で、
郡役人らに「西海中大島上」と説明したもの。
101日本@名無史さん
2019/03/02(土) 18:43:16.62
このように
負け組トンデモ九州説は
自分の主張の理由を
まったく言えない
だから滅んだ
102日本@名無史さん
2019/03/02(土) 18:45:03.13
>>100
九州説しどろもどろの言い訳ワラタ
103すれ主さん 名無しでいいから答えてくれませんか
2019/03/02(土) 18:46:20.16
纏向遺跡と
垂仁天皇の「纒向珠城宮」、景行天皇の「纒向日代宮」と
卑弥呼の關係をおしえてください


初期ヤマト王政を解く鍵かも
104すれ主さん 名無しでいいから答えてくれませんか
2019/03/02(土) 18:47:05.20
纏向遺跡と
垂仁天皇の「纒向珠城宮」、景行天皇の「纒向日代宮」と
卑弥呼の關係をおしえてください


初期ヤマト王政を解く鍵かも
105日本@名無史さん
2019/03/02(土) 18:47:39.14
キウスが暴れはじめました
106日本@名無史さん
2019/03/02(土) 18:48:03.75
103 104
107すれ主さん 名無しでいいから答えてくれませんか
2019/03/02(土) 18:48:27.01
オウム返しやイミフの罵声はもいいですが答えてくれませんか
108日本@名無史さん
2019/03/02(土) 18:49:07.88
>>100
そんな情報を聞いて確認もしないで上に方向しちゃった役人は、なんで首が飛ばないの?

ww
109日本@名無史さん
2019/03/02(土) 18:49:39.66
107
110日本@名無史さん
2019/03/02(土) 18:50:01.60
>>105=>>1
あなたがすれ主ですね 

纏向遺跡と
垂仁天皇の「纒向珠城宮」、景行天皇の「纒向日代宮」と
卑弥呼の關係をおしえてください
111日本@名無史さん
2019/03/02(土) 18:50:25.86
>>107
また発作かよ
112日本@名無史さん
2019/03/02(土) 18:50:44.59
103 104 107 110
113日本@名無史さん
2019/03/02(土) 18:51:18.24
全一病キウスw
114日本@名無史さん
2019/03/02(土) 18:54:55.67
>>107
>オウム返しやイミフの罵声はもいいですが

よくないから
よくないから九州説爺よ
オウム返しやイミフの罵声やめろ
115日本@名無史さん
2019/03/02(土) 18:58:20.40
105
116日本@名無史さん
2019/03/02(土) 18:58:51.58
109
117日本@名無史さん
2019/03/02(土) 18:59:24.03
109
118日本@名無史さん
2019/03/02(土) 18:59:51.77
中傷でし返せない畿内説
119日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:00:26.83
111
120日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:00:48.03
112
121日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:01:14.11
テンプレはどうでもいからワッチョイとIDつけろよ・・・
122日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:01:52.74
113
123日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:03:47.17
>>118
ウソしか言えない九州説

w
124日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:04:26.19
123
125日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:06:04.31
>>111=>1
教えてくださいよ

纏向遺跡と
垂仁天皇の「纒向珠城宮」、景行天皇の「纒向日代宮」と
卑弥呼の關係
126日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:09:33.98
前スレだが
方位は魏の使いは間違えようが無い

北極星が西にあるわけが無い

それも魏の使いが何度も来てるのだからネ
127日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:11:26.81
430>>470
ほら、また,
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説が、
思考停止して、ヘイトスピーチをした
128日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:12:39.51
>>1
論じられず 尻尾を振って退散

残されたのは話題替えか、オウム返しww×wwの∞
129日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:14:35.28
即答は望まないが畿内説の統一見解をヨロシク

前スレだが
方位は魏の使いは間違えようが無い

北極星が西にあるわけが無い

それも魏の使いが何度も来てるのだからネ
130日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:14:46.28
430>>474
>邪馬台国はヤマト国  狗奴国は南河内と和泉
これで問題ない <

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であり、
「南→東」の嘘つき騙しにもなっているから、×。
131日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:14:54.08
前スレのワイのおもいつき新説を貼り付けとくわ(「あ!思いついた!」)

844 日本@名無史さん sage ▼ 2019/03/02(土) 09:55:10.46 [0回目]
@倭に行くにはまず狗邪韓國に行く、そこまでが7千里だ。

さて、
A最初に海を千里ほど行くと対馬国だ。
Bまた南に行くと一大国だ。
Cまた海を千里行くと末蘆国だ。
D東南に陸を五百里行くと伊都国だ。
E東南にいけば奴国で百里だ。
F東にいけば不彌國で百里だ。(ここまでを朝鮮半島と見なす。このあたり一帯が「狗邪韓國」地方)

G南にいけば投馬国で、ここまでで水行二十日だ。(対馬)

H南にいけば邪馬台国地方で、その都(邪馬台国村)へ行くには水行十日、陸行1か月かかる。

こう読み取れば、もともと不明朗だった邪馬台国地方の地理については
知識がないので何も記述されておらず、一方で帯方郡が把握していた朝鮮の
地理については詳細に記述してあるというように解することができる。
132すれ主さん 名無しでいいから答えてくれませんか
2019/03/02(土) 19:16:02.35
纏向遺跡と
垂仁天皇の「纒向珠城宮」、景行天皇の「纒向日代宮」と
卑弥呼の關係をおしえてください


初期ヤマト王政を解く鍵かも
133日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:18:52.51
>>129
そんなこと勝手に決めても意味ないね
現実に方位を間違える人が実在するんだから
134日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:20:36.92
>>132
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
135日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:21:00.46
430>>476
>>普通に庶民の流行だろう 基本、皿や容器なんだから<

>だーカーラー、飯炊き甕だけならそれでいいけれど、精製器種3種という祭祀用土器込みで
北部九州は畿内様式を受け入れてるだってばさ <

だーカーラー、
筑紫の庄内の始まりは、三雲や祇園山の3世紀前半だが、
大和の庄内の始まりは、(卑弥呼の冢の後の)石塚の)撥型前方後円墳から、
なんだからさ、
どっちが先だったのか?、見え見えだろ?。
136日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:21:38.89
嘘を嘘でかためるのみならず
真実ですら嘘といいはる畿内説
嘘で首が回らなくなっているんだな
137日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:21:55.79
>>125

>>111=>1
教えてくださいよ 纏向遺跡と
垂仁天皇の「纒向珠城宮」、景行天皇の「纒向日代宮」と
卑弥呼の關係をおしえてください <


卑弥呼や纏向を継承した王なんだよ
畿内説を知らないお馬鹿さん
138日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:23:56.93
>>135
ウソを連呼しても反論にはならない
139日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:24:38.60
>>133
希ですよ
魏の使いは朝廷の命令で来てるのでしょ
魏では知識人も幾度か来てるのでしょ
幾度も方位を間違えますか
140日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:24:54.15
テンプレ妄想の世界に逃げるしかない畿内説
考えてみれば愚かなやつらだ
141日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:25:28.27
きないせつと打ち込んで変換したら、
ウソと出てくるように成った。
142日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:26:13.32
>>137
キウスコ投稿には異常さがよく出てる
143日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:29:12.79
>>138
ウソだという根拠は
144日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:29:13.47
返答ができないと九州説を中傷する
畿内説は改竄データ以外の反論には弱い
145日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:29:19.34
根拠のない決めつけしか出来なくなった九州説
いよいよ終わりやね
146日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:30:38.32
>>102
泣くなよ 論じろよ
期待はして無いがな
147日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:30:54.49
畿内説は世間ではまるで認知されていない
そのくせなぜかネットでは勝利宣言をする
ネット弁慶の典型みたいなダサいやつら
148日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:31:58.13
テンプレ神を信じれば畿内説が勝ちます
少ない信者の方々、信じましょう
149日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:32:12.92
畿内説に負けて九州説口惜しいのう
150日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:32:14.87
430>>477
この投稿は、明大紀要の佐々木の論考からの転写。
Yahoo時代のssnが紹介して、私が、
「筑紫→大和の搬入が0」で「筑紫の方が大和よりも搬入範囲がはるかに広範囲」であるんなら、
そりゃ筑紫の方が盟主だよ、
と批判したら、佐々木が一旦紀要から削除して、しばらくしてまた書き換えた代物。
しかし、相変わらず「南→東」の嘘つき騙しは直っておらず、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の事にも触れず、
大和が独立的な盟主であった、という主張を続けるインチキをしている。
151日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:35:07.79
あはれなり 

九州説は

あほになり
152日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:36:03.32
畿内説は嘘
ヤマト説が正しい
153日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:36:15.84
畿内文化は、天から降ってきたのだ。
中華も九州も関係ない。
154日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:36:24.32
430>>482
渡来の呉系楽浪鏡師らから三角縁神獣鏡の製法を子弟らが教わって、
粗悪な副葬用の大量の△を造った大和が
また、なんか訳わからんこと言ってる
155日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:36:35.11
ここは畿内説スレだ
156日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:38:28.73
105日本@名無史さん2019/03/02(土) 18:47:39.14
キウスが暴れはじめました
>>113日本@名無史さん2019/03/02(土) 18:51:18.24
全一病キウスw




これはなんなの 全キウス病
レス稼ぎ 降参したの


だからね名無しの戯言はいいから ザラコク退治も出来ないでしょ
これへの説明のための努力した方がいいよ 2013から頭が進歩してないよ

>>139さん利用させていただきます。
>139日本@名無史さん2019/03/02(土) 19:24:38.60
>>133
希ですよ
魏の使いは朝廷の命令で来てるのでしょ
魏では知識人も幾度か来てるのでしょ
幾度も方位を間違えますか
157日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:42:55.69
九州説はなぜわざわざ畿内説スレに書き込みに来るのか
自スレ立ててやればいいのに
よくわからん
158日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:44:47.22
>>155
>ここは畿内説スレだ <
そのとおり
しかし、読み齧りの畿内説を論じてるのは>>1とあと数人なんだよ
以外の畿内説を支持してる人の書き込みが少ないのはなぜか考えろ

簡単 畿内説支持者が少ないから
159日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:45:46.84
>>143
祇園山から庄内式は出ていない
160日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:48:50.06
430>>484
>古代の祭祀を軽視しちゃダメだよ 精製器種3種は、祭祀用供献土器なんだから
祭政一致の時代だということを、見ない振りしてるだろ? 単なる文化の伝播じゃないんだよ<

筑紫倭国以前の西日本の盟主は、出雲であったのであり、
出雲から「国譲り」を強制した筑紫倭国時代になっても、
九州倭国の東征に晒された瀬戸内地域では、出雲系の祭祀伝統を継続する吉備や播磨や阿波があり、
吉備や阿波が、出雲式の祭祀形態を「東征毛人五十五國」の諸国に伝えていた、
という可能性は十分にある。
161日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:49:41.53
畿内説が泣き言モードに入った
今日はもうまともな会話はできんだろう
このくらいで勘弁してやるか
162日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:49:52.00
纒向文化は天から降臨した。
九州はただの土人のクニだ。
163日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:50:03.72
>>158
九州説こそキチガイしかおらんのは何故か考えた方がいいんじゃないのか
164日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:50:29.21
と思って引くと思ったろう畿内説
畿内説の狂信者をのばなしにするはずがないだろう
165日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:50:37.97
>>150
>この投稿は、明大紀要の佐々木の論考からの転写。
>Yahoo時代のssnが紹介して、私が、
>「筑紫→大和の搬入が0」で「筑紫の方が大和よりも搬入範囲がはるかに広範囲」であるんなら、
>そりゃ筑紫の方が盟主だよ、
>と批判したら、佐々木が一旦紀要から削除して、しばらくしてまた書き換えた代物。

本として出版されてる明大紀要が
削除したり、書き換えしたり出来るわけないだろ
九州説は妄想がひどすぎる
166日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:53:00.21
>>161

そういう、何も証拠のない話を
世間でなんと言うか知ってる?

「作り話」というんだよ
167日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:53:32.89
>>164
野放しにしたら何か都合悪い事でもあるの?
畿内説は九州説の妄言なぞどうでもいいんだが
168日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:53:59.04
>>157=>>1
九州説がこのスレ盛り上げているのだよ 感謝しろよ
畿内説の数人でここまでくるスレかよ
テンプレはアンチ九州説そのもんじゃん
九州説他を意識したFAQがそのもんじゃん

悔しかったら FAQ無くすこと 
畿内説の常識なんだろFAQ必用ないね

FAQは他説の人寄せだよ
その意味で>>1は学が無いけど、5ちゃんのスレ主としてはOK
169日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:54:01.90
430>>485
質問されても、
知らん振りするか?、「南→東」などのような嘘つき騙しをするか、
「質問の意味が分からない」って言うか、「証拠は?」と言い返すだけの、
チエオクレ
それが大和説。
170日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:55:09.09
スレ主 
無意味なカキコミ大杉
171日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:55:31.38
>>168
別に盛り上げてくれなんて誰も頼んでないんだけど
172日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:55:48.06
畿内説の残党はあと3-4人かな。
九州説は300-400人の大部隊。
圧倒的な東征軍の前に、奈良盆地の陥落まじか。
173日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:56:57.18
430>>487
>北部九州が畿内中心の
祭祀連合の秩序の中にあったのは考古学的に確実なんだから諦めな<

白村江までは、大和や九州倭国の別種分家の旧小国であったんだから、
諦めな。
174日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:59:42.52
>>170
お前・・・自分の投稿歴みろよ
175日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:59:43.69
430>>489
資料批判も出来てないネタで、
他人を詐欺師よばわり
さすが「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者。
176日本@名無史さん
2019/03/02(土) 19:59:57.83
>>172
九州説にそんだけ居ても3−4人の畿内説に太刀打ちすらできなくて
スレ荒らししてるの
カカシでも揃えた方がマシじゃないかな
177日本@名無史さん
2019/03/02(土) 20:01:43.74
430>>490
九州倭国の別種分家の大和では、
筑紫系土器の浸透、前方後円墳の築造、三角縁神獣鏡の配布
全部、繋がって連続してるんだよ。
178日本@名無史さん
2019/03/02(土) 20:02:58.12
>>177もまた、ひとつも証拠を出せない九州説
179日本@名無史さん
2019/03/02(土) 20:03:12.94
地方公務員の学者もどきが邪馬台国を語る時代に突入したな
有名大学の教授で畿内説オンリーの考古学者はいないのかね 
邪馬台国畿内説は片手間程度にして
磯田みたいに広範囲に日本史を語ろうとしてるのか 磯田の江戸期は評価する

畿内説の研究者のレベルが下がったな商売人みたいだww
180日本@名無史さん
2019/03/02(土) 20:04:09.32
>>179もまた、ひとつも証拠を出せない九州説
181日本@名無史さん
2019/03/02(土) 20:05:23.47
>>143
なあ、>>135 がウソってことは確定でいいな?
182日本@名無史さん
2019/03/02(土) 20:07:05.82
魏使が三国志を書いたと勘違いしてるのが九州説
183日本@名無史さん
2019/03/02(土) 20:07:19.09
有名な人の子孫、末裔というのがいるでしょ、
つーちゃん(ごちゃんねる?)に、
書き込みをしている人とか、いないのかな?


例えば

邪馬台国のこと?知っているよ、
みたいな人物
184日本@名無史さん
2019/03/02(土) 20:13:47.52
>>79
「みやま市の遺跡」で検索し、上から2番目の「みやま市の遺跡」を開く。

遺跡はいっぱいある。
弥生後期には177戸におよぶ西日本一の集落跡が出ている。
環濠跡も出ている。
有数の地帯だ。
185日本@名無史さん
2019/03/02(土) 20:54:15.19
430>>491
>いや、九州上陸後は、北東が東南と記述されており、90度狂ってるよ まったく正しくない
ここのごまかしに、全勢力を傾けているのが九州説のお笑いポイントww<

これが、大和説者のお笑いのポイント。
知らない土地に案内されて、(総目的地方向であればいざ知らず)、
次の目的地方向も見えないのに、その方向を記録記載するなんて事は有り得ない。
行程説明での人類の常識は「出発説明+途中の説明+到着の説明」の順に記録する事。

>>南が東というのは、詐欺。<

>全然?
陳寿が、倭国を会稽東冶之東の南国と認識していたのは、魏志倭人伝の記述から明白
それに合わせた、矛盾がなくなるような記述にされている<

いや、全然。
陳寿はきちんと「会稽東治之東」と書いており、ほぼ九州島付近になり、
女王國の範囲にほぼぴったり合ってい大量。

>また、魏志のヤマト訪問の際の方角記述が、丹波からヤマトへの陸行が南陸行1月と
記録されていれば、その前の水行もそれに連られて南とされても何もおかしくない<

「南→東北」という嘘つき騙しだから、・・・・。
186日本@名無史さん
2019/03/02(土) 20:55:32.17
ワッチョイかIDの導入に賛成
キウスや呼子上陸バカ、糸くずが見分けられると、面倒がだいぶ減らせる
187日本@名無史さん
2019/03/02(土) 20:58:24.10
430>>492
>九州で畿内系土器の浸透、前方後円墳の築造、三角縁神獣鏡の配布 全部連続してるんだよ<

まさに、これが×!  歴史の流れの否定、というやつだ
大和説は、ピンポイントでチェリーピッキングするばかりだから、つながりがなく
周辺情報との整合性が取れず、主張することがポイントごとに矛盾するばかりで
論説になっていない
その、主張ポイントごとに矛盾、というのを、史料事実の否定曲解の説で、
「あいつの言うことは九州説でもおかしい」と自己矛盾を他人に押し付けることで
自分は正しいと言い張っている状態なんだよな、現状の大和説は
188日本@名無史さん
2019/03/02(土) 20:58:38.27
>>126>>139
>幾度も方位を間違えますか

ザラコクでさえ>>185
「知らない土地に案内されて、(総目的地方向であればいざ知らず)、
 次の目的地方向も見えないのに、その方向を記録記載するなんて事は有り得ない。」
って言ってるよww

方角を間違いなく魏使が記録してるっていうのは、最初から無理筋ww
189日本@名無史さん
2019/03/02(土) 21:01:05.77
430>>495
>ほら、罵るだけ まったく反論出来ない 九州説死んでます<

ほら、罵るだけ まったく反論出来ない
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説、死んでます
190日本@名無史さん
2019/03/02(土) 21:01:24.74
NG登録でザラコクも消せるしな
191日本@名無史さん
2019/03/02(土) 21:06:49.21
430>>499
>どう足掻いても会稽東之東にならない九州説って
明らかにもう死んでるジャマイカ<

陳寿の記載は「会稽東治之東」であるのに、
それを「会稽東之東」と書いているこの大和説男は、
明らかに、詐欺にクルってもう死んでるジャマイカ
192日本@名無史さん
2019/03/02(土) 21:10:05.38
430>>504
いかなるときも、決してまともな返事や理由を言わない

それが「南→東」などの嘘つき騙しの大和説
193日本@名無史さん
2019/03/02(土) 21:14:02.04
430>>508
>土器は関係無いよ、当時の流行や文化だよ
国政を文化で語るなら、全国に散らばった3世紀と思われる土器は邪馬台国の支配地になるよ
畿内を中心に広まった土器でいいんでねーの 支配関係とは関係は無いよ
前方後円墳も流行<

邪馬台国も畿内も存在しない文言になり、
だから意味不明な投稿になってしまうから、この大和説男も、×。
194日本@名無史さん
2019/03/02(土) 21:15:41.04
>>184

>弥生後期には177戸におよぶ西日本一の集落跡が出ている。

大道端遺跡の弥生時代後期の住居遺構は十数軒くらいしか出てない
5世紀前半〜7世紀後半の集落遺跡

http://www.library.miyama.fukuoka.jp/rekishi/kodai01.html
195日本@名無史さん
2019/03/02(土) 21:16:38.72
430>>510
>つまり九州説はヤマト王権の存在まで否定するわけだな<

否定しない。
大和は九州倭国から別れた別種の旧小国で、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国だ、と何度も言ってある。
196日本@名無史さん
2019/03/02(土) 21:21:32.47
430>>517
>卑弥呼が「天皇陵の埋葬者と關係ある」人物なんだから問題ないだろ?<

「南≠東」などに拠って、×。
197日本@名無史さん
2019/03/02(土) 21:25:46.11
430>>519
>供献土器、破砕供献から逃げ回ってるんじゃないよww
この無能がww 土器の流行論は、とっくに破綻してるんだから諦めなww<

その供献が狭い地域で一過性的に終わっているんなら、
やはり一種の「流行」だな。
198日本@名無史さん
2019/03/02(土) 21:26:17.26
また粘着畿内説にからまれた
あいつら何にでも噛みつく狂犬病だからなあ
あれじゃロム民も書きこまなくなるはずだ
199日本@名無史さん
2019/03/02(土) 21:31:10.77
畿内説スレに粘着している九州説がなにを言うか
200日本@名無史さん
2019/03/02(土) 21:42:57.31
430>>535
>そういう寝言はこの図1枚で否定される
邪馬台国畿内説 Part432 	->画像>19枚
九州説はすべての考古学的証拠を全否定しないと成り立たないから大変だ
そして、全否定する根拠はまるでないww<

年代決定にインチキがある。
卑弥呼の冢よりも前方後円墳の方がずっと新しい、という事は考慮されておらず、
九州倭国の「東征毛人五十五國」や、大和の三道将軍ら東征部将らの考察も入っていない。
201日本@名無史さん
2019/03/02(土) 21:52:56.26
倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。
皆、徒跣。屋室有り。
父母、兄弟は異所に臥息す。
朱丹を以ってその身体に塗る。
中国の紛を用いるが如し。

男子は大小無く、皆、黥面文身す。
古より以来、その使中国に詣(いた)るや、皆、自ら大夫と称す。
夏后少康の子は会稽に封ぜられ、断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。
今、倭の水人は沈没して魚、蛤を捕るを好み
文身は、亦、以って大魚、水禽を厭(はら)う。
後、稍に以って飾と為る。諸国の文身は各に異なり
或いは左し、或いは右し、或いは大に、或いは小に。尊卑差有り。
その道里を計るに、まさに会稽東冶(”現中国の浙江省”) の東に在るべし。

女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚す。
常に伊都国に治す。国中に於ける刺史の如く有り。
王が使を遣わし、京都、帯方郡、諸韓国に詣らす、及び郡が
倭国に使するに、皆、津に臨みて捜露す。
文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。

「魏書」第30巻『 魏志倭人伝 』 普平陽侯相 陳寿撰

神々からの日本最古の捏造教科書とされる古事記や日本書紀には記述されてないが
致密かつ高度な中華文明を生み出した古代中華帝国漢人官僚には正確に記述されてた
神々しい伝説の邪馬台国や女王卑弥呼、倭人達の倭国群は日本の何処にあったんだろう?
202日本@名無史さん
2019/03/02(土) 21:54:57.04
430>>548
>魏使が遺した行程記事をそれを史書にする際に陳寿が全て、
「反時計回りに90度書き換えた」<

陳寿は、普通の人間のようであり、
魏使らの記録や起居注などの記載を踏襲しているだけであり、
「反時計回りに90度書き換え」なんて、アホな事は、
する必要がないし、しない。
203日本@名無史さん
2019/03/02(土) 22:30:30.10
430>>552
>これは投馬国(出雲国)が、崇神期、垂仁期においてもヤマト王権との間に友好関係を保ちつつ、
ある程度独立していたことの証左なのです。<

「南≠東」に拠って、×。
204日本@名無史さん
2019/03/02(土) 22:37:20.46
430>>555
>一方、3世紀中頃に突然起こる庄内式土器の北部九州への移動と<

大和の庄内は、石塚の3世紀末であるから、起こっていない。

>その庄内式製作技法を導入して地元で造る筑前型庄内式土器の出現は、<

筑紫型庄内の方が先に存在した。

>単なる流行ではなく、極めて政治的な事柄による移動拡散があったことを示している。<

庄内の筑紫→大和は、おそらく、
九州倭国の「東征毛人五十五国」の将軍らによる伝搬。
205日本@名無史さん
2019/03/02(土) 22:41:25.47
430>>557
>稲佐の浜での国譲りにより、出雲王国がマルッと滅んだわけじゃないんですよ。
そういうことの証左の一つなんです、魏志倭人伝の行程記事と言うのは。<

滅んだわけではない事は、梁書の文身國の記録から分かっていた事だよ。
206日本@名無史さん
2019/03/02(土) 22:44:31.33
430>>558
>『陳寿90度回転説』によれば東は北なんで、
それは津軽海峡を渡った先の、北海道の縄文人かアイヌに比定されますね。 <

「南≠東」に拠って、女王國は大和ではないので、×。
207日本@名無史さん
2019/03/02(土) 22:55:56.65
430>>563
>ホケノ山の築造が120年から240年の120年間にわたってだらだらと続けられたということは有り得ないので、その期間のどこかの年代に築造時期を絞らなければならない。
その絞った時期が、3世紀中頃ということ。
120年〜240年の間の最後の時期に当たる。<

ホケノは、卑弥呼の冢より後の有棺有槨の前方後円墳であり、
庄内〜布留であるので、3世紀末以後であるから、×。
208日本@名無史さん
2019/03/02(土) 23:03:18.78
430>>564
>何で小枝のC14を無視するの? 試料としては最適なのに
いつも年代の都合の悪い物は除外したり、 日本最古の発見にするよね <

小枝は、木棺よりは史料としてはよいが、
何故中に小枝が入ったのか?が、崩落もあったので、はっきりせず、
AMSの50〜100年位古く出る事でも、結局絶対的な根拠にならない。
209日本@名無史さん
2019/03/02(土) 23:04:48.12
>>194
掘ってないところを掘ってみないことには。
210日本@名無史さん
2019/03/02(土) 23:12:03.73
430>>565
>行程記事では、末盧国(松浦)上陸後からずっとキッチリ90度ずつ、
記事の方位と実際の方位とがズレ続けている訳だよ。<

別にずれていないし、ずらす必要もない。

>紀元200年頃、倭国の人口は本州+四国で約50万、九州で約10万だった。<

陳寿は、九州の戸数記載した8國だけでも15万戸と書いているから、
1戸一人としても15万人になり、5人とすれば75万人になり、
それを十万人とした学者は、嘘吐き騙しであった事になり、×。
211日本@名無史さん
2019/03/02(土) 23:15:58.47
>>209

ジジイの「掘ったら」妄想なんかいらん
212日本@名無史さん
2019/03/02(土) 23:46:43.28
中立的な立場から、邪馬台国畿内説の人に質問させてもらうが

箸墓古墳を卑弥呼の墓に比定しているのは知っているが、魏志倭人伝に登場する他の権力者の墓をどう推定しているのか
具体的には卑弥呼を支えた男弟、卑弥呼の後に立った男王、女王台与の三人

逆の問い方をすると、オオヤマト古墳集団のどの古墳がそれらの人物の墓と想定しているのか
西殿塚、桜井茶臼山、メスリ山、行燈山、渋谷向山の、五つの箸墓の後に連なる大王墓クラスの墓に加えて、
黒塚古墳、東殿塚古墳、櫛山古墳あたりも候補になりそうだし
卑弥呼の男弟に関しては卑弥呼より先に死んだ可能性もある限り、箸墓に先行する東田大塚やホケノ山あたりも候補になって来そうだが

そこんところ、どう考えているのか興味ある
213日本@名無史さん
2019/03/03(日) 00:20:20.33
>>194
しかし、倭人伝をよくみると、卑弥呼の宮室が邪馬台国の政治経済の中心地にあるとは、どこにも書いてないけどな。
邪馬台国の政治経済の中心地は八女市あたりにあり、一方、卑弥呼の宮室は山門にあったのだろう。
そして、その山門は現在と同じように大水田地帯であって、決して大遺跡のある場所ではなかったといえる。
大和説者は、辺鄙にあった纏向遺跡の祭祀施設と墓域を大集落のように思い込んでいるので、卑弥呼と遺跡を結び付けたがるが、実際はそうではなかったということだろう。
大和の纏向遺跡も、実態は、辺鄙にあって、祭祀センターと墓域があるだけの場所なのだ。
卑弥呼の宮室も、祭祀所とともにそうした鄙びた大水田地帯の一角にあったと考えるのがよい。
八女市にあるような遺跡は、山門がある瀬高町にはないと考えたほうがよいということだな。
214日本@名無史さん
2019/03/03(日) 00:31:19.63
>>212
わからんものはわからんと言うのが畿内説だ
情報が少ない
男弟と言っても実弟か族弟かわからないので年齢の推定が困難だ
卑弥呼がかなりの高齢者なら遣使の頃に実務的に佐治できた人物とはかなり年齢差があるかも知れない
後の男王は失敗者だから大した墓でないかもしれない
なぜ男弟の墓を黒塚、台与の墓を衾田陵というあたりが射程内かもしれないが、まあ候補に入るという程度だ
215日本@名無史さん
2019/03/03(日) 00:36:13.10
>>213

すべて作り話
山門説は考古学がなかった江戸時代の女酋説
今じゃトンデモ
216日本@名無史さん
2019/03/03(日) 01:27:29.00
>>214
なるほどね
確かに失敗者の男王よりは、卑弥呼の宗女で乱を収めた台与の方が、箸墓に後続する大王墓たる西殿塚の被葬者には相応しいだろうし
黒塚は大きさは大王墓に劣るが、大量の三角縁神獣鏡が出土していて箸墓古墳の1/2相似形だから、卑弥呼に近い人物である男弟が被葬者であるという可能性は充分ありそうだ

まあ、邪馬台国畿内説の、箸墓の被葬者=卑弥呼の比定が正しければの話だが
217日本@名無史さん
2019/03/03(日) 01:46:56.95
>>215
>山門説は考古学がなかった江戸時代の女酋説

いやそもそも
筑後山門説って新井白石の未発表ボツ原稿だろ
出発点からもともと没なんだよ
218日本@名無史さん
2019/03/03(日) 02:04:45.24
九州で無理矢理「ヤマト」の地名を探しただけでしょ
219日本@名無史さん
2019/03/03(日) 03:10:01.93
IDか
一番困るのは>>1だろうな
220日本@名無史さん
2019/03/03(日) 04:31:24.38
全一病罹患者乙
221◆q8leUXpsw.
2019/03/03(日) 04:56:54.72
テスト
222日本@名無史さん
2019/03/03(日) 06:05:23.38
>>201 この箇所だけを読んだら、ほんと鹿児島か種子島あたりとしか思えないよな。
南には敵対的な沖縄の男王がおり、北には大宰府があり、そこがいまや実質的な
経済と交易の中心地になってると読めば全てが整合する。邪馬台国北九州説は
いかにも無理があるけれども、邪馬台国南九州説はじつに説得力がある。むしろ
高天原こそが真の邪馬台国であるという宗教的信念にもとづくのならば、邪馬台国とは
架空の南方洋上の理想国を指していたというのが結論でもおかしくない。
223日本@名無史さん
2019/03/03(日) 06:09:23.29
・邪馬台国⇒高天原⇒南方洋上にある理想国⇒(現実には存在しない宗教上の概念)
・卑弥呼⇒高天原を祭祀する巫女⇒じっさいには邪馬台国にいたわけではない(南九州)
・名目上の倭の首都は邪馬台国、ただしそのような国(つか村)は概念であり実在しない
・実際の経済や政事の中枢⇒北九州の大率⇒大宰府(建前上はあくまで奉行所、実質は倭の首都)
224日本@名無史さん
2019/03/03(日) 06:33:34.97
430>>571
>小枝=250年〜400年
石室木材=前120年〜後50年
木棺木材=120年の前後50年〜100年間に伐採

石室木材は、他の出土物との関連から無理。
木棺木材は、伐採年だから古墳築造年を割り出すのに難がある。
というわけで、小枝250年〜400年が有効。
そして、他の出土物との比較から3世紀中頃説は、妥当。<

小枝も、存在理由やAMSに問題があり、
前方後円墳や有棺有槨や、庄内〜布留などに拠って、3世紀末以後、が妥当。
225日本@名無史さん
2019/03/03(日) 06:39:21.27
430>>574
>いやだって、紀元200年頃の九州の人口って10万人くらいしかいないんだから、
奴国を入れて、投馬国を入れて、邪馬台国を入れて、狗奴国を入れて、
さらにその上、その他の細かい国々を全部九州に詰め込むなんて、
無理でしょ何をどうやっても。事実として無理なんだよ。<

九州の人口を10万人とした学者や、90度回転の、
脳の思想や能力に問題あり。
226日本@名無史さん
2019/03/03(日) 06:50:31.20
430>>578
>>渡海する海は、瀬戸内海を指している。<

>九州説さん そういうことなんの根拠もなく決めていいなら
邪馬台国を世界にどこにでもできるし 世界のどこじゃないことにも自由に出来る
つまり九州説は意味がない <

梁書に拠れば、東方には、日本海側には文身國があり、
太平洋側には侏儒國が残っていたんだし、
邪馬壹國女王之所都の筑紫からまっすぐ東へ向かえば、瀬戸内地域になるから。

つまり、大和説者は、何の頭もなく、・・・・アホばかり。
227日本@名無史さん
2019/03/03(日) 06:54:27.09
430>>579
>比恵那珂遺跡では土器供献に畿内系主体になる時期に
集落の井戸祭祀は在来系が主体<

弥生銀座地区でも、「土器が畿内系主体」には全くなっていなかった。
228日本@名無史さん
2019/03/03(日) 07:19:13.70
430>>636
>奴国と邪馬台国は別の国だ <

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙しのインチキ文言だ。
229日本@名無史さん
2019/03/03(日) 08:03:50.97
>>213
>しかし、倭人伝をよくみると、卑弥呼の宮室が邪馬台国の政治経済の中心地にあるとは、どこにも書いてないけどな。

畿内説に利用されそうな文言で心配ではあるが。
宮室は伊都や大宰府、経済の中心地は奴国、政治の中心地は伊都あたりが妥当では?
230日本@名無史さん
2019/03/03(日) 08:05:50.10
>>223
考古学的にも確認できる伊都国や奴国の役割は?
231日本@名無史さん
2019/03/03(日) 08:12:00.31
伊都は遠の朝廷太宰府の原型だろうな
邪馬台国の出張所だ
232日本@名無史さん
2019/03/03(日) 08:12:32.19
>>213
>倭人伝をよくみると、卑弥呼の宮室が邪馬台国の政治経済の中心地にあるとは、
>どこにも書いてないけどな。

古代で、政経分離がなされていたと思う方がおかしい
王以外の政治の中心はあり得ないし、あったらすぐに革命になる
また王都以外に人や富が集まるところもあり得ない
あったらその土地の首長が、革命なりクーデターなりを起こすだろう

法治のない時代には、力による秩序以外はあり得ない
共立も最大勢力に乗る形でなければ成り立たない

EUの議長国は小国でも務まるから邪馬台国は小国でもいい、と繰り返し書いてるやつは
古代を現代視点でしか見られない、知恵の足りない人だ

ただ、卑弥呼の共立における「力」は、武力ではなく「宗教的な権威による力」であり、
それ故に「女王」が成立するという古代国家としては珍しい状態と言える
その様子が特異であるために、魏志倭人伝でも「事鬼道能惑衆」と特記されている
233日本@名無史さん
2019/03/03(日) 08:34:04.11
>>223
テンプレ読んだことあるか?
あるなら、そんな妄想がありえないことくらいわかるはずだが
234日本@名無史さん
2019/03/03(日) 08:35:07.29
取り敢えず政経分離は一般的には外交で使だてると思うがね
国内で政治と経済の中心が異なるという意味では使わんのではないかな
235日本@名無史さん
2019/03/03(日) 08:52:02.76
>>233=>>1
テンプレ読む必要あるのかねー
畿内説本の拾い集めだろ
236日本@名無史さん
2019/03/03(日) 08:57:03.99
倭人伝の誤解釈で成り立つ畿内説
237日本@名無史さん
2019/03/03(日) 09:06:00.01
九州説の無理読みの方が頭おかしいと思うけれど
238日本@名無史さん
2019/03/03(日) 09:06:01.24
ウソの云いわけ集テンプレ
239日本@名無史さん
2019/03/03(日) 09:10:16.92
>>235
>テンプレ読む必要あるのかねー

反論する気があるなら読むのが当然
読む必要あるのか、などというのは議論する気がないという自白でしかない

自説を言いっ放しにしたいだけなら九州説スレでやりなさい

>畿内説本の拾い集めだろ

いいえ、古代史の本や論説を広く読んで紹介してるよ
畿内説に限らず、ね

九州説は全然本も論文も読んでないから、今現在何が分かっているのか
まったく把握も理解もしてない情弱だってことだ
240日本@名無史さん
2019/03/03(日) 09:11:50.52
卑弥呼之所都は、共立倭30国の祭祀中心施設。
そして、邪馬台国には邪馬台国の首都(主邑)があった・・・、と理解すべし。
241日本@名無史さん
2019/03/03(日) 09:12:58.66
>>236
>倭人伝の誤解釈で成り立つ畿内説

ミラーリング乙
どこが誤解釈なのか「具体的に指摘」しないと無意味だと何度言われてもしないし
できない辺りが、九州説にまともな論理力のある人が残っていない証明になってる
242日本@名無史さん
2019/03/03(日) 09:19:08.08
テンプレは、
誤記内説が誤りであることの証拠・証明事例集
243日本@名無史さん
2019/03/03(日) 09:23:16.86
>>242
間違いだと主張したいことがあるなら、
「具体的に指摘」しろと何度言われればww

要するに間違いが見つけられないんだろww
244日本@名無史さん
2019/03/03(日) 09:35:25.21
誤記内説は、戦後昭和人の夢旅物語。
いいかえれば、理想郷シャングリラまでの12,000里の旅。夢旅に誤りはないからなあ・・・、
245日本@名無史さん
2019/03/03(日) 10:02:51.62
>>244
つまりそれは
「畿内説は誤りだ」という夢物語なのですね
九州説老人が残り少ない余生を
絶望のうちに生き恥さらした果てに
惨めに悶え死ななくて済むように
投与する麻薬のようなもの
246日本@名無史さん
2019/03/03(日) 10:19:18.12
「畿内説は誤りだ」ということではない。
そもそも誤記内説は夢物語なのだから、夢は夢として永遠に正しいのだ。
247日本@名無史さん
2019/03/03(日) 10:34:09.73
邪馬台国畿内説を宣伝する韓国政府が、5ちゃんねるで作製したこのスレッドのテンプレートが、論破されて破綻してしまった。。。
248日本@名無史さん
2019/03/03(日) 10:50:07.53
>>232
>政経分離がなされていたと思うほうがおかしい…

祭政一致であったから、邪馬台国の政治経済の中心地と卑弥呼の祭祀所が別々の所にあったということはない、と言いたいのだろうが、
それは分からんよ。
倭人伝は、邪馬台国の政治経済の中心地に卑弥呼の祭祀センターがあった、とは書いていない。
また、大和の纏向遺跡は祭祀センターと墓域で構成されていて、そこに大和の政治経済の中心があったようにはみえないし、
纏向遺跡の前身と考えられる近江の伊勢遺跡は、純然とした祭祀センターだった。
この2世紀後半から3世紀前半には、日本では祭祀センターと政経センターは分離していたと考えるのが妥当だ。
そうした体制の発祥は2世紀後半の出雲で、出雲地域の祭祀センターは平地の集落からはなれて、山上に別に設営されていた。
伊勢遺跡や纏向遺跡では、それが平地に移った形だ。
だから、北部九州の邪馬台国でも祭政の所在地は分離しており、邪馬台国内の祭祀センターは山門、政治経済のセンターは八女にあったわけだ。
そして、卑弥呼の祭祀センターはまだ発見されていないということになる。
ただ、その場所は国道443号と国道775号が交差している瀬高町山門の吉井信号から北へ70mほどの国道443号の東側脇だ。
ヤフーの地図を開いて、見てみたまえ。
その卑弥呼の祭祀センターは、実に壮大な規模だよ。
249日本@名無史さん
2019/03/03(日) 10:58:16.71
纒向遺跡は兵の駐屯地
元締めが卑弥呼
250日本@名無史さん
2019/03/03(日) 11:04:36.22
政経分離か政教分離かはっきりしてくれ
251日本@名無史さん
2019/03/03(日) 11:29:23.90
「まつりごと」って言葉が示しているように、古代日本では「政治即ち祭祀」なんだよ
だからシャーマン的存在の卑弥呼が共立されたんだろうよ
政教ってのは分離する/しないの問題じゃなくて、「政=まつりごと=祀り事」、全く同じものなの
252日本@名無史さん
2019/03/03(日) 11:30:25.03
政治は伊都国、経済は奴国、宗教は邪馬台国
253日本@名無史さん
2019/03/03(日) 11:36:52.80
倭人伝の誤解釈で成り立つ畿内説
254日本@名無史さん
2019/03/03(日) 11:37:01.40
伊都におかれた大率は最重要エリアである対馬海峡を検察する内政の要。
同時に、郡使を饗応する外交の場でもあった。
伊都が政治の中心地であった間違いない。
255日本@名無史さん
2019/03/03(日) 11:39:40.27
>>251
>「まつりごと」って言葉が示しているように、古代日本では「政治即ち祭祀」なんだよ

祭祀と言えば、やっぱり「忌部はん」でしょ 。
倭国(阿波)では、縄文時代から石を円形に並べて、祭祀をやってるからね。 
そして祭祀には、水銀朱が必須ってね。
トンデモさんはまだ夢を見続ける気?   @阿波
256日本@名無史さん
2019/03/03(日) 11:39:59.12
当時に政治と宗教の分離なんて想定してる人は、後代の「形骸化した祭祀像」のようなものを、「まつりごと(政かつ祀)」が現代の「政治」の役割を果たしていた時代に当て嵌めてるの?
257日本@名無史さん
2019/03/03(日) 11:41:48.57
魏志倭人伝からそう読んでいるだけ。
258日本@名無史さん
2019/03/03(日) 11:44:42.38
卑弥呼時代の邪馬台国を、後世のヤマト王権と同一視してはいけないんだよ。
魏志倭人伝からは、邪馬台国がヤマト王権とかなり違う性格の国であったことがわかる。
まして姫彦だのなんだのなんて、笑止千万。
259日本@名無史さん
2019/03/03(日) 11:50:14.41
どうも伊都国の「一大率」を根拠に政教分離などと唱えている人がいるようだが
一大率の役割は律令制の大宰府や鎌倉幕府の鎮西探題のようなものという理解で良かろう
大宰府があったからと言って国の政治が一任されていた訳ではないし、鎮西探題に鎌倉幕府が政治を一任していた訳でもない
政治センターの機能の一部分割だろうよ
邪馬台国が「まつりごと」のセンターだったのは間違いなく、伊都国の一大率がセンター機能を分担していただけ
それをどうして「まつりごと」を現代的に「政」と「祀」に分離して考えるのか
260日本@名無史さん
2019/03/03(日) 11:52:47.12
>>259
この考え方は邪馬台国を大和に想定しようが九州に想定しようが成り立つ
261日本@名無史さん
2019/03/03(日) 12:07:20.53
鬼道で政策決めてたのだから政治は邪馬台国でしょ
殷なんかは占いて政策決めてたのがわかってる
もちろん運任せではなく骨の割れる方向とか細工されてたそうだけど
262日本@名無史さん
2019/03/03(日) 12:09:46.80
>>259
>一大率の役割は律令制の大宰府や鎌倉幕府の鎮西探題のようなものという理解で良かろう

根拠がない。
263日本@名無史さん
2019/03/03(日) 12:10:02.79
>>259
>それをどうして「まつりごと」を現代的に「政」と「祀」に分離して考えるのか

祭祀と言えば、やっぱり「忌部はん」でしょ 。
倭国(阿波)では、縄文時代から石を円形に並べて、祭祀をやってるからね。 
そして祭祀には、水銀朱が必須ってね。
トンデモさんはまだ夢を見続ける気?   @阿波
264日本@名無史さん
2019/03/03(日) 12:13:51.08
仮に畿内の前方後円墳や出土する考古遺物が忌部はんのものだったとしても
邪馬台国は畿内にあったという説には何の影響もない
阿波はその辺をどう考えているのか
265日本@名無史さん
2019/03/03(日) 12:14:49.18
>>263
祀りを行っていたのは卑弥呼と魏志倭人伝に書いてある
266日本@名無史さん
2019/03/03(日) 12:18:10.31
逆に「経済センター」というのは最も細かく考える必要があるよね
1、租税(邪馬台国に租税の制度があったのは確実)としての稲などの集積地(徴税センター)
2、物資の交易の拠点(流通センター)
3、祭祀道具や武器の生産の拠点(生産センター)
これら三つが同一拠点で行われていた訳ではあるまい(考古学的にこれらが同一拠点で行われていた高い蓋然性があるのはせいぜい飛鳥に宮が築かれるようになってから)

1に関しては、政治センターの邪馬台国が最も大規模だが、当然、伊都国や奴国も行っていただろうね(そもそも徴税を中央政府が一括して行う原則が確率するのは早くても大化の改新から)
2に関しては、邪馬台国をどこと想定するかによるけど、大陸との交易が以前から活発だった奴国である可能性はある
3に関しては、政治センターと離れた僻地で行われていた可能性も高い

何をもって経済センターなのか
2という人が多いだろうけど、そこに1や3の機能まで混同する人がいれば、一気に話は噛み合わなくなる
267日本@名無史さん
2019/03/03(日) 12:18:36.16
どうも、「僕の考えたさいきょうの邪馬台国」の姿に当てはめなければ気が済まない人物がいるようだ。
魏志倭人伝の記述に向き合ってほしい。
特にキナイコシ。
268日本@名無史さん
2019/03/03(日) 12:19:26.68
>>262
では一大率とは何だと考えるのか
269日本@名無史さん
2019/03/03(日) 12:25:43.44
>>264
>邪馬台国は畿内にあったという説には何の影響もない
>阿波はその辺をどう考えているのか

残念ながら、畿内には、邪馬台国たる集落群や基盤資源・技術・文化の発祥が見られない。 
だから、「畿内の前方後円墳や出土する考古遺物が忌部はんのもの」。    @阿波
270日本@名無史さん
2019/03/03(日) 12:26:29.53
>>266
伊都国に関しては、祭器である銅鏡を含む青銅器生産の拠点であったことが考古学的に明らかになってきた。
また、女王への献上品を確認する流通拠点でもあった。
それは租税(があったとすれば)の拠点でもあったということ。
ただし民間の流通は、人口を考えれば奴国、後の那の津だったのだろう。
卑弥呼が後の大宰府にいたとしても、祭祀のみの中心だったことになる。
271日本@名無史さん
2019/03/03(日) 12:29:22.15
>>264
>邪馬台国は畿内にあったという説には何の影響もない
>阿波はその辺をどう考えているのか

残念ながら、畿内には、邪馬台国たる集落群や基盤資源・技術・文化の発祥が見られない。 
だから、邪馬台国は倭国(阿波)にあった。    @阿波
272日本@名無史さん
2019/03/03(日) 12:31:44.06
>>268
魏志倭人伝によると、女王国から北の国々つまり対馬海峡を検察していたとある。
つまり最大の役割は対馬海峡の保安だよ。
伊都から出発して対馬海峡の各地の様子を報告する姿が、刺史のようだと言われたのだろう。
対馬海峡の各地の官は、大率の評価を受けることになり、大率を畏れ憚った。
273日本@名無史さん
2019/03/03(日) 12:35:27.42
残念ながら、畿内には、邪馬台国たる集落群や基盤資源・技術・文化の発祥が見られない。 
だから、邪馬台国は倭国(阿波)にあった。  

畿内説はその辺をどう考えているのか   @阿波
274日本@名無史さん
2019/03/03(日) 12:35:33.46
経済の中心地と祭祀(政治)の中心地が別の場所でも
祭祀は同じ、つまり供献土器は同じ
弥生終末期に畿内を中心として北部九州まで斉一化が見られる
博多湾沿岸の中心地の比恵那珂博多が緊密に影響を受けているのは畿内
筑後や糸島の影響は受けていない
275日本@名無史さん
2019/03/03(日) 12:40:22.66
奈良は周辺の豪族の墓地と考えてよいであろう
あまりにも、縄文期も含め集落群が少ない
湿地帯ではな
276日本@名無史さん
2019/03/03(日) 12:43:45.01
イトクズ博物館のガクゲイインが、
畿内まで出張して来てるようだな
277日本@名無史さん
2019/03/03(日) 12:45:24.70
>>274
民間レベルでは那の津に大量の物資が全国から集積していた。
しかし政治や祭祀の中心には畿内の影響は見られなかったということだな。
278日本@名無史さん
2019/03/03(日) 12:49:15.99
弥生時代の桃太郎
鬼退治の後は何処に行ったのか?
279日本@名無史さん
2019/03/03(日) 12:49:23.69
>>271
畿内の古代集落跡は
そのまま現在の住宅地や商業地になった場所がほとんど
そうじゃない場所は古代から住みづらくて住居跡もない
これで大概の人は納得してるんだけど
280日本@名無史さん
2019/03/03(日) 12:50:19.43
>>277

牧童九州説はもう学習能力が著しく低下しているので
説明を受けても何度も同じことを書く
比恵那珂遺跡では供献土器が畿内系主体になる時期TB期に
集落の井戸祭祀は在来系が主体
281日本@名無史さん
2019/03/03(日) 12:51:49.74
>>279
>これで大概の人は納得してるんだけど

大概の人???  ハハハハハ   @阿波
282日本@名無史さん
2019/03/03(日) 12:52:52.40
>>271
技術も3世紀の古墳1基から鉄鏃、銅鏃、鉄製農耕具
鍛冶場の跡などから金属加工技術が存在したというのがわかる
283日本@名無史さん
2019/03/03(日) 12:55:00.59
>>282
>技術も3世紀の古墳1基から鉄鏃、銅鏃、鉄製農耕具
>鍛冶場の跡などから金属加工技術が存在したというのがわかる

倭国(阿波)にね。   @阿波
284日本@名無史さん
2019/03/03(日) 12:55:52.08
>>271
文化的に見れば畿内発の土器が全国的に出土があり
また三角縁神獣鏡の分布の中心に位置している事は
考古的にも明らかになっている
285日本@名無史さん
2019/03/03(日) 12:57:40.63
阿波は大概なヤツというわけだ
286日本@名無史さん
2019/03/03(日) 13:00:24.72
>>284
>文化的に見れば畿内発の土器が全国的に出土があり

畿内発の土器???   
企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法に特徴がある土器は、倭国(阿波)の発祥だよ。  @阿波
287日本@名無史さん
2019/03/03(日) 13:02:48.63
東阿波秘境型土器は布留式期
288日本@名無史さん
2019/03/03(日) 13:08:44.69
いつも逃げ腰だな大和説は
289日本@名無史さん
2019/03/03(日) 13:12:50.98
>>287
>東阿波秘境型土器は布留式期

ハハハハハ、そうだったら単なる布留式土器じゃん。  
阿波の学者も時期とその特異性にびっくりこいて、命名したんだろう。 「東阿波型土器」と。  @阿波
290日本@名無史さん
2019/03/03(日) 13:12:55.08
>>270
>卑弥呼が後の大宰府にいたとしても、祭祀のみの中心だったことになる。

大宰府という場所をカッコで括って、カッコの中は別の場所でもいいわけだから、この考え方で太鼓判ということだな。
291日本@名無史さん
2019/03/03(日) 13:15:29.77
>>288
という一言だけ残して
議論するわけでもなく足早に逃げ去る九州説
292日本@名無史さん
2019/03/03(日) 13:16:34.22
>>289

布留式土器は布留式土器
東阿波秘境型土器は東阿波秘境型出遅れ土器
別もの
293日本@名無史さん
2019/03/03(日) 13:22:18.48
>>292
>東阿波秘境型土器は東阿波秘境型出遅れ土器

なるほど、その「東阿波秘境型土器」を有難がって畿内に蔓延していったわけだ。  ワハハハハ  @阿波
294日本@名無史さん
2019/03/03(日) 13:25:05.57
東阿波秘境型土器は畿内から出るのか…?
295日本@名無史さん
2019/03/03(日) 13:26:43.64
A: 曰卑彌呼 宣帝之平公孫氏也 其女王遣使至帶方
B: 自称大夫 倭国之極南界也 光武賜以印綬

A/Bは同じ構文であるが、「之」があるので、
Aでは平を「・・を平らぐる」と他動詞読みすること明らか。・・・宣帝、これ公孫氏を平らぐる也
Bにおいても極は「・・を極むる」と他動詞読みすること当然である。・・・倭国、これ南界を極むる也

つまり、「奴国は倭の極南界であった」などは、たわごとワラワラ。
296日本@名無史さん
2019/03/03(日) 13:27:55.87
>>294
>東阿波秘境型土器は畿内から出るのか…?

「企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法に特徴がある土器」
が、ごろごろ出てるでしょ、畿内にも。  @阿波
297日本@名無史さん
2019/03/03(日) 13:33:51.12
>>248
>それは分からんよ。

それで逃げるなら、論証は不要だなww

国際法も国内法もない人治の古代で、決定権があるのは王一人であり
その決定を神託に委ねているのがヒメヒコ制のヒメ王

そのヒメ王の神託による決定を、実行に移すのがヒコ王
ヒメ王とヒコ王は、一対一体で始めて機能する

ヒメ王の宮とヒコ王の宮は建物は別でも、別の町にあるとか別の国にあるとかなどと
いうことはありえない

>>248は、呼子上陸バカかな?
ワッチョイやIDがあれば、見分けがついて楽なんだけれど
298日本@名無史さん
2019/03/03(日) 13:36:10.32
>>295
実際の奴国は九州北部にあったようだから
たわごとと言えばたわごとだけど
299日本@名無史さん
2019/03/03(日) 13:38:33.14
呼子上陸バカは考古学知識ゼロだから別人だろう
300日本@名無史さん
2019/03/03(日) 13:41:11.98
>>248
>また、大和の纏向遺跡は祭祀センターと墓域で構成されていて、そこに大和の政治経済の中心があったようにはみえないし、
>纏向遺跡の前身と考えられる近江の伊勢遺跡は、純然とした祭祀センターだった。

纏向遺跡の周囲には、芝遺跡があるし、川を数キロ下ったところには唐子鍵遺跡がある
伊勢遺跡も野洲側流域遺跡群の中の祭祀中心というだけで、祭祀遺跡が単体で国だと主張する人はいない
http://yasugawa-iseki.yayoiken.jp/index.html

祭祀遺跡は国ではないから邪馬台国ではない、という論理は意味がない
つまり>>248は、論理性のない人だってこと
たぶん、呼子上陸バカと同一かな
301日本@名無史さん
2019/03/03(日) 13:41:19.24
>>297
>国際法も国内法もない人治の古代で、決定権があるのは王一人であり
>その決定を神託に委ねているのがヒメヒコ制のヒメ王

完全に妄想が入っているようだ。
少なくとも、魏志倭人伝に登場する邪馬台国とは関係がなさそうだ。
302日本@名無史さん
2019/03/03(日) 13:42:36.33
>>293

1遺跡に1個から5個だから
米がない秘境から季節労働者が畿内各地に出稼ぎに行ったのだろう
東阿波秘境型出遅れ出稼ぎ土器
303日本@名無史さん
2019/03/03(日) 13:42:50.56
>>248
>纏向遺跡の前身と考えられる近江の伊勢遺跡は、純然とした祭祀センターだった。

考えられないよ。
出雲を中心とする日本海側の交易圏の一部であり、建築法などにも出雲の影響が見られる。
纒向との直接の関係は見いだせない。
304日本@名無史さん
2019/03/03(日) 13:47:57.70
>>281
>大概の人???

大丈夫、泡はもう「まともな人」扱いに入れてないから

土器を時系列無視で様式も形式も無視して何でも「東阿波型土器」というだけで、
何の根拠もないし、根拠を何も示せないことはもう明らかだし、
倭人の活動をすべて「忌部はん」というだけで
何の根拠もないし、根拠を何も示せない
305日本@名無史さん
2019/03/03(日) 13:52:07.01
>>294
>東阿波秘境型土器は畿内から出るのか…?

河内あたりまでは運び込まれてるよ
ただ、探せば見つかる、というレベルで蔓延などしていない

亀井遺跡で最古の分銅と見られる、2倍系列の重さを持つセットの石円柱が出ている
そういったところへ、阿波から物品を持ってきた容れ物なんじゃないかな
畿内で見つかる東阿波型土器は
306日本@名無史さん
2019/03/03(日) 13:54:29.52
>>301
>少なくとも、魏志倭人伝に登場する邪馬台国とは関係がなさそうだ。

「なさそうだ」では、単なる個人の感想だろ?
議論がしたければ「具体的な論拠」を示して論じてくれ
307日本@名無史さん
2019/03/03(日) 14:01:06.60
>>303
>出雲を中心とする日本海側の交易圏の一部であり、建築法などにも出雲の影響が見られる。
>纒向との直接の関係は見いだせない。

纏向で定式化した前方後円墳の墳丘への葺き石は、出雲の四隅突出墓の葺き石にその
源流を求めるのが通説
纏向にも当然に出雲の影響が見られるし、その意味で伊勢遺跡と纏向遺跡は
同じ性格を持つ遺跡群と見ることができる

出雲を含む日本海側交易圏と、畿内第V様式土器圏(邪馬台国七万戸)と
東海・伊勢の勢力(三遠式銅鐸圏)の会合の場として伊勢遺跡があり、
その機能を纏向遺跡が引き継いだと見るのが、近年の多数説
まだ通説とは言えないけれどね
http://yasugawa-iseki.yayoiken.jp/37yamato-y.html
308日本@名無史さん
2019/03/03(日) 14:05:06.08
>>306

根拠もなく自分の妄想を垂れ流しているのはそっちだろ。
309日本@名無史さん
2019/03/03(日) 14:05:30.70
お前が立証するのが先だろ。
魏志のどこに ヒメヒコ制って書いてる??
310日本@名無史さん
2019/03/03(日) 14:12:18.81
>>307

「伊勢遺跡が誕生する頃に、大福式銅鐸を母体として統合された近畿式銅鐸が生まれる
  伊勢遺跡の隆盛とともに三遠式銅鐸とも統合される」

ということだな
311日本@名無史さん
2019/03/03(日) 14:19:08.65
>>303
阿波の忌部さんが言うておられる。
一言。
勉強不足。

2世紀頃には、近江から大和まで、墓制を等しくする緩やかな経済文化圏ができていた。
3世紀に入ってからも、纏向の祭祀センターで行われた祭祀様式は、近江の祭祀様式をそっくり引き継いだものだった。
その纏向の連合政権の中枢は、大和、近江、尾張の三角圏が占めていた。
出雲の国譲り神話にみられるように、出雲王権から独立宣言して、出雲広域圏よりも広い拡大広域圏を形成したのが纏向の連合政権。
その拡大広域政権の祭祀センターが纏向遺跡だったのだ。
そして、このころ、九州では卑弥呼の山門長期政権が続いていて、その卑弥呼の祭祀センターは、壮大な祭祀ワールドを形成していた。
312日本@名無史さん
2019/03/03(日) 14:20:43.95
山門長期政権なんてものは無い
313日本@名無史さん
2019/03/03(日) 14:23:49.60
何も無いくせに筑後南部の爺は博多湾岸の遺跡を使おうとする
314日本@名無史さん
2019/03/03(日) 14:57:26.43
>>309
ヒメヒコ制は、記紀の分析結果が
支配階層で血縁関係のある男女ペアの合葬が多く見られるという考古学的発見で裏付けられたという見方から
学界で支持者が多い説だ
倭人伝の「男弟が佐治する」という一節をそう解釈するのも多数説で、憑依型巫女と審神者のペアとして理解する者も多い
315日本@名無史さん
2019/03/03(日) 15:07:54.89
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こちらは神戸板宿郵便局のページです。住所 兵庫県神戸市須磨区大黒町2−1−1。
電話番号 078-734-1004  板宿駅周辺の郵便局に関する情報 👀
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316日本@名無史さん
2019/03/03(日) 15:09:55.76
伊勢遺跡が纒向遺跡の前身だと言うのなら、吉備の楯築墓は何だと言うのか
何で吉備の地に突然(当時としては)巨大な墳丘墓が表れたのかは分からないが
楯築墓→纒向型前方後円墳→箸墓以後の定式化した大王墓
という変遷を辿った可能性は極めて高いと思う(血縁はともかく、連続した権威の系譜)

楯築墓→後の吉備の首長墓
纒向型→箸墓以後の大王墓
を別の系譜と判断するには吉備のブランクが長すぎるし
纒向型前方後円墳の祭祀器具の吉備との関係を考えても、吉備の楯築墓を築いた勢力こそ、纒向勢力の前身でしょ
317日本@名無史さん
2019/03/03(日) 15:13:39.70
吉備は九州からの勢力がつくった
とすると、九州説が俄然説得力を増す
318日本@名無史さん
2019/03/03(日) 15:14:16.52
大和説はいつも中傷ばかりだな
319日本@名無史さん
2019/03/03(日) 15:20:32.55
>>309
>魏志のどこに ヒメヒコ制って書いてる??

ヒメヒコ制は、現代の整理された概念につけられた名称(ラベル)であって、
議事倭人伝にヒメヒコ制という文字があるかどうかというレベルの話に
しようとするのは頭が悪過ぎる

そもそもヒメヒコ制という概念の発端の一つが、魏志倭人伝の
卑弥呼と佐治国の男弟の存在だ

卑弥呼は「鬼道」と魏志倭人伝に書かれた倭國独自の宗教指導者だが
魏志倭人伝に「自爲王以來、少有見者。以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食、傳辭出入。」と
あるように引きこもりの女王で、実務を担ってはいない様子が描かれている
その実務を担うのはまず第一に有男弟佐治國と書かれた男弟で、その下に
伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮の4官だろう

この神聖化された卑弥呼と、実務佐治国の男弟が、魏志倭人伝から直接読み取れる、
国の中枢の血縁の男女のペアであり、これをヒメヒコと見るという話だ

さあ、こっちはきちんと魏志倭人伝という史料から論証したぞ

個人の感想以上の「具体的な根拠を伴った反論」ができるならしてごらん
320日本@名無史さん
2019/03/03(日) 15:24:06.37
430>>640
>>『陳寿90度回転説』によれば東は北なんで、<

>隠岐の島や佐渡でいいだろ これらは記紀に載っている古来の倭の領域だ<

「東→北」とした上での話なら、始めから×だ。
321日本@名無史さん
2019/03/03(日) 15:24:35.07
>>311
>出雲の国譲り神話にみられるように、出雲王権から独立宣言して、出雲広域圏よりも広い拡大広域圏を形成したのが纏向の連合政権。
>その拡大広域政権の祭祀センターが纏向遺跡だったのだ。

先にも書いたように、墳丘の葺き石は、出雲の要素であり、出雲から独立などはしていない
出雲も卑弥呼の共立メンバーと見るのが妥当
さらに、特殊器台〜円筒埴輪は吉備の要素であり、吉備も卑弥呼の共立メンバーに入る

纏向遺跡で創始された前方後円墳祭祀の祭祀連合は、北部九州まで含めた広域連合の秩序を
形成している

北部九州だけの独立国にして、邪馬台国を小国にしようとする試みはそろそろ諦めなさい
322日本@名無史さん
2019/03/03(日) 15:26:57.16
これだけ言い続けても、「具体的な根拠・論拠をつけた反論」は
九州説から何もないな

その場の思いつき、そうじゃないに決まってる、レベルの書き捨てしかない
323日本@名無史さん
2019/03/03(日) 15:33:21.24
考古学的に、纒向の広域連合に吉備・出雲〜東海まで含まれているというのは認めるが、筑紫が含まれているというのはどうして?
324日本@名無史さん
2019/03/03(日) 15:37:17.44
430>>642
>>渡海する海は、瀬戸内海を指している。<

>それ、誤読 瀬戸内海のような多島海は、水行であって渡海ではない<

それ誤読。
魏使らや陳寿は、当然(長里ではなく)短里を使っており、
当然三海峡で使った 「千里」の距離であり、
今治付近以東の多島海部部分は、意図されていない。

渡海千里皆倭種の解釈は>>638の通り

>渡海千里は、一日の航海で行き着ける外洋に漕ぎ出す航路
九州説では短里を使うくせに、ここだけ一里430メートルを使うのも笑わせてくれる<

使わない。
325日本@名無史さん
2019/03/03(日) 15:42:11.52
倭人伝の行程記事の
従郡至倭、循海岸水行歴韓国、乍南乍東、到、其北岸狗邪韓国
この「到」狗邪韓国の前には、「○乍ら(途中右折の)△乍ら」が入っている。
(対して上陸後の第一歩を、松浦から北東の糸島平原へ向かえば、険しいけれど一本道で右折左折はない。どう見ても不適合だ。)

しかしここを、前例に倣って(省略せず、正しく)読むならば、
東南陸行して、○乍ら、途中折れて、△乍ら、「到伊都国」となる。
つまり、唐津平野から松浦川沿いに(南して、途中多久で右折の、東して)、
東南陸行500里で(佐賀川上の)伊都国に到る、という書き方だ。
326日本@名無史さん
2019/03/03(日) 15:46:36.94
>>323
認める はぁ
狗奴国何処よ 
327日本@名無史さん
2019/03/03(日) 15:47:05.11
>>321
邪馬台国の卑弥呼は大和の祭祀者であるというのは幻想であって、3世紀前半に活躍した卑弥呼は筑後山門に祭祀センターを置いた北部九州倭國の盟主。
纏向の連合政権が加盟各勢力の祭祀様式を取り入れて新たな祭祀様式を形成したことは、それはそれでいいと思うが、
倭人伝に記される倭國とその盟主である卑弥呼が大和の連合政権の盟主であったとするのは、
物言わぬ考古出土物をまとめて相関関係を作りあげるための一つの学術的技術ではあるが、その「卑弥呼モデル」はすでに崩壊しつつある。
纏向の連合政権は、その後ヤマト王権に発展することになる弥生終末期に人工的に形成された地方連合政権である。
328日本@名無史さん
2019/03/03(日) 15:50:05.69
自説に都合で書かれていない事を勝手に書き加えてしまうのが九州説
329日本@名無史さん
2019/03/03(日) 15:55:33.56
>>324
>それ誤読 瀬戸内海のような多島海は、水行であって渡海ではない

倭人伝は、有明海〜薩摩への沿岸航行、薩摩から屋久島あたりまでの沿岸航行などを「水行」と書いてある。
水行の語彙は、多島海だけに適用されるとは限らない。
水行の語彙と渡海の語彙は、語義が異なる。
一緒くたにしては、いけない。
330日本@名無史さん
2019/03/03(日) 15:57:47.56
それなら屋久島は渡海だろ
331日本@名無史さん
2019/03/03(日) 16:01:28.39
>>327
>纏向の連合政権

そんなのあるかい
332日本@名無史さん
2019/03/03(日) 16:05:57.35
>>326
私に聞かれても困る
私は邪馬台国=畿内だとは一言も言っていないし、寧ろ中立的な立場から
「纒向連合に肝心の筑紫が含まれていた考古学根拠は何か(伊都国や奴国が連合に含まれていた根拠がなければ、いくら纒向連合が当時の最大勢力だとしても、それが邪馬台国とは言えないので)」
と疑問を投げ掛けているので

ただ、纒向連合の形成に吉備・出雲〜東海圏の勢力の関与が見られるのは考古学的事実だよ
だからと言って、西は瀬戸内・出雲から東は東海に至る範囲の"全ての"勢力が纒向連合に加わっていたとは限らないけどね
333日本@名無史さん
2019/03/03(日) 16:07:54.73
430>>648
>女王国だけでなく、女王まで含めて、倭國とその範囲の意味で使っている部分が多数ある<

「女王國」というのは、固有名詞ではなく、普通名詞であり、
「女王を共立した国の纏まり」という程度の意味であり、
従って狗奴國が含まれるのか?は、微妙だ、
そして、卑弥呼を30国の親魏倭王として倭女王と呼んだ時点頃から、
30国の全体の呼び名として、倭國と呼称を使っている事になる。
そして、陳寿は、倭國と倭種とをはっきり使い分けている。

そして、邪馬壹國は、女王國の中の一国であり、倭國の中の一国にもなる。
勿論「邪馬台国」なんて、存在もしない嘘つき騙し文言だ。
334日本@名無史さん
2019/03/03(日) 16:15:22.70
>>327

山門には何も無い
335日本@名無史さん
2019/03/03(日) 16:18:25.85
430>>652
>そして、古墳時代の間、北部九州で作れた最大の古墳が古墳時代も
後期に入ってからの磐井の墓、岩戸山古墳でこれは畿内の継体天皇の真陵、
今城塚古墳の縮小コピーになっている<

反対だ。
磐井が先に亡くなって、その後で継体が亡くなったんだから、
今城塚が岩戸山のコピーだ。
そして、岩戸山には、裁判の模型が付けられているから、
磐井の方が盟主としての治績を誇っていて、
継体よりも上位であった事を示している。
336日本@名無史さん
2019/03/03(日) 16:19:45.98
>>316
吉備の特殊器台と石塚古墳の弧文円板を過大評価しすぎるのは、危うい。
学者の寺澤氏は、その過大評価の筆頭であるが、寺澤氏のモデルはおそらく間違いだろう。
特殊器台は出雲の西谷墓でもみつかっているが、この西谷墓の墳頂からは地元をはじめとして、吉備の特殊器台や北陸、その他中国地方各地の器台、壷の破片が出ている。
なので、特殊器台が出たからといって、出雲の西谷墓は吉備の勢力が築いたとはいえない。
これと同じで、箸墓で特殊器台が出たからといって、箸墓を築いたのは吉備の勢力だとは言えない。
また、石塚古墳の周濠出土の弧文円板に刻まれた弧文は吉備で用いられたものであるが、あくまで墳墓自体で用いられる呪具であり、水に沈めて行う祭祀のための呪具ではない。
それを吉備ではみられなかった(水に沈める祭祀)のための呪具として用いていることは、ある意味吉備の祭祀様式を無視して、異なる祭祀様式に転用していることを示している。
このことは、石塚古墳の周濠に弧文円板を沈めて祭祀を行ったのは、吉備ではなかったとこを示している。
纏向の連合政権が加盟各勢力の祭祀様式を寄せ集めたというのは、こうしたことを指している。
吉備由来の祭器、呪具を過大評価するのは、危ういというゆえんである。
337日本@名無史さん
2019/03/03(日) 16:25:41.82
沈めたなんて誰が決めた?
338日本@名無史さん
2019/03/03(日) 16:25:46.28
筑紫と言っても、久住の研究では
UA期までに畿内の庄内式、布留式の供献土器文化圏になるのは
比恵那珂博多の博多湾沿岸を中心に筑前と
佐賀東部と筑後北部地域までの点的な分布にとどまる
339日本@名無史さん
2019/03/03(日) 16:29:35.51
430>>675
>考古学で明らかになったのは、九州か畿内かではないんだよな
3世紀には比恵那珂博多を中心とした福岡市域が畿内と文化的に密接な関係であったので
九州勢力を想像するなら博多湾沿岸を除く九州に共通な文化圏か博多湾岸〜畿内の文化圏か
ということになる <

畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言。
あった事は、大和は筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であり、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国。
340日本@名無史さん
2019/03/03(日) 16:33:46.83
>>681
>個人的には、後者から前者への政権交代により卑弥呼が共立されたと考えている。<

大和は、卑弥呼共立に全く関係がないから、×。
341日本@名無史さん
2019/03/03(日) 16:36:51.23
430>>683
>これ、歴史の太鼓判<

これ、偽史の太鼓判?。
342日本@名無史さん
2019/03/03(日) 16:37:18.74
だから畿内説は、テンプレ◆2、FAQ 26、FAQ 77に書いてあるように、
「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点
から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場
ということだな
343日本@名無史さん
2019/03/03(日) 16:38:48.61
>>312
卑弥呼政権は長期政権ではない。
344日本@名無史さん
2019/03/03(日) 16:39:47.25
>>314
>支配階層で血縁関係のある男女ペアの合葬が多く見られるという考古学的発見で裏付けられたという見方から

それは平安時代でも明治大正でも同じようなもの。
根拠にはならない。
345日本@名無史さん
2019/03/03(日) 16:42:07.34
>>319
妄想を垂れ流すのは根拠とは言わないんじゃ...
346日本@名無史さん
2019/03/03(日) 16:43:23.41
曹操墓は男性一人に女性二人だったか
347日本@名無史さん
2019/03/03(日) 16:44:56.53
>>336
>>337←これよ
古墳の周濠に最初から水が湛えられていたかのような言い草だが、どうして最初から水が湛えられていたことになっているのか
348日本@名無史さん
2019/03/03(日) 16:45:23.36
430>>691
>魏と韓の国境のあった帯方より南1万2千里と書いてあるし <

その「萬二千余里」は、不彌國でほぼ終わっている。

>女王国は沖縄や台湾辺りになる会稽東治(冶)の東と書いている<

「会稽東冶」とは書いてないし、
「会稽東治之東」では沖縄台湾にならない。
349日本@名無史さん
2019/03/03(日) 16:55:20.17
「考古学的に、纒向遺跡の形成に吉備・出雲〜東海までの勢力が関わっていたことが分かる」

それはそう

「だから当時は畿内・東海・出雲・吉備・筑紫の大規模連合が出来上がっていたし、邪馬台国=大和国」

論理の飛躍では?
さりげなく筑紫を含んでいるが、肝心の筑紫が連合に加わっていた根拠がどこにあるのか?
350日本@名無史さん
2019/03/03(日) 16:57:58.31
430>>693
>>不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、<

>不彌國で萬二千余里がほぼ終わっていて、
そこが北部九州なら会稽よりはるかに北だね
つまり九州説は倭人伝の記載とまったく合わないダメな説<

この男(類スレ主?)がまた、インチキ騙しをしている。
陳寿の記載の「会稽東治之東」の「東治」をまたこっそり隠している。
「会稽東治之東」なら、ほぼ九州島付近であり、
投馬國が南九州だから、九州島付近が女王國になり、
倭人伝の記載にほぼぴったり。
351日本@名無史さん
2019/03/03(日) 17:05:46.41
>>334
山門は、壮大な祭祀ワールドだった。
352日本@名無史さん
2019/03/03(日) 17:06:46.23
430>>695
>ところが陳寿は魏の長里で解釈したから、実際よりずっと南と思い込んだんだよ<

「長里」で解釈したら、女王國は、赤道付近にまで行ってしまうんだから、
陳寿の長里で書いていないし、
後漢書も、長里を使わず、短里を使っていた。
353日本@名無史さん
2019/03/03(日) 17:08:43.07
纒向ファンタジーワールドww
354日本@名無史さん
2019/03/03(日) 17:12:22.03
430>>697
>>本国に報告した魏の役人だって魏の長里で報告したんだよ<

長里であれば、女王國は赤道付近になってしまうが、
そんな記載はまったくないから、魏の役人らも「短里」を使った。
355日本@名無史さん
2019/03/03(日) 17:20:36.18
【古代】母系遺伝子は渡来系の弥生期人骨「父系遺伝子は縄文系」 DNA分析で 鳥取・青谷上寺地遺跡
http://2chb.net/r/newsplus/1551600018/
356日本@名無史さん
2019/03/03(日) 17:26:25.17
>>323
>筑紫が含まれているというのはどうして?

定型化前の纒向型前方後円墳の時点で北部九州最大国の奴国の首長墓に
前方後円墳が採用されているからだよ

那珂八幡古墳が比恵那珂遺跡群の長の墓だ

最初期から祭祀連合の一員と見ることに不審はない
357日本@名無史さん
2019/03/03(日) 17:28:27.10
>>327
>筑後山門に祭祀センターを置いた北部九州倭國の盟主

筑後山門の祭祀センターに比定される遺跡はどれ?
これから見つかるはず、とか言わずに具体的に示してくれ!

できなければただの戯れ言w
358日本@名無史さん
2019/03/03(日) 17:34:47.45
>>327
>その「卑弥呼モデル」はすでに崩壊しつつある。

これの「具体的な根拠」は?

現実にはその畿内纒向で始まった前方後円墳祭祀連合に、早い時期から奴国も
宮崎・西都原も参画してるんだから、それ以外のところだけで
卑弥呼の女王国連合を考えるには無理だろ?

筑紫の奴国が畿内側連合に参加していて、筑紫山門が邪馬台国ってどんだけ小さいんだよw
さらに奴国の横を通って朝貢するのって無理じゃね?

畿内纒向に祭祀連合の存在を認めたら、九州説が成立する「余地」は残らないよ
359日本@名無史さん
2019/03/03(日) 17:37:28.05
奴国には色々な要素があり、畿内はその一部だろ。
巨大な商都に様々な勢力がいただけのこと。
魏志倭人伝によれば、外交使節は那の津に上陸しないで伊都に入っているので、

>>358
>さらに奴国の横を通って朝貢するのって無理じゃね?

は魏志倭人伝を無視した空論と言えよう。
360日本@名無史さん
2019/03/03(日) 17:38:11.18
430>>699
>北部九州の土器というのは、畿内の模倣製作土器<

根本的に、
大和の庄内は、石塚の3世紀末であり、
筑紫の庄内は、三雲や祇園山の3世紀前半であるから、大和が筑紫を模倣した。
そして、楽浪土器の流入も筑紫が早いし、陶器も吉武高木が古いし、
第X様式が、先後がはっきりしないだけ。
361日本@名無史さん
2019/03/03(日) 17:38:20.96
>>347
弧文円板は石塚の周濠の底の土層から出土した。
木組したとみられる丸太や鳥形が円板の近くでみつかっており、周濠完成後の導水前に行った祭祀の呪具だったのだろう。
この周濠には導水施設がみられることから、初めから水を入れる企画だったことは明らか。
したがって、周濠に導かれた水に霊力を与えるための呪具が弧文円板であり、鳥形だったというのは妥当な考えだ。
弧文円板は、水に沈めるために周濠の底に埋められた。
水に霊力を与えるために水濠や水溝に呪具を沈める祭祀を行は、山上の尾根先に造られる吉備の周濠のない墳墓にはみられない祭祀で、こうした水に呪具を沈める祭祀を行ったのは近江や尾張、大和などであった。
したがって、石塚で弧文円板を水に沈める祭祀を行ったのは、吉備ではなく、連合政権中枢を形成した大和、近江、尾張の勢力だったとみるのは、極めて妥当だといえる。
362日本@名無史さん
2019/03/03(日) 17:39:37.67
>>358
>宮崎・西都原も参画してるんだから、それ以外のところだけで

投馬国は魏と直接交流していないことが明記されている。
魏志倭人伝を無視したことばかり書き立ててどうするの?
363日本@名無史さん
2019/03/03(日) 17:40:37.78
>>329
>水行の語彙は、多島海だけに適用されるとは限らない。

誰も「多島海だけが水行」なんて言ってないだろ?

水行は、岸や陸地の近くの航行で何かあったら陸に上がって逃げられる比較的安全な航海
沿岸航行や多島海の島伝い航行が水行
瀬戸内海は水行になる

渡海は外洋に漕ぎ出して渡っていく何かあったら遭難して死ぬしかない危険な航海
だから自衰頼みをするしかない
364日本@名無史さん
2019/03/03(日) 17:40:53.20
>>356
>定型化前の纒向型前方後円墳の時点で北部九州最大国の奴国の首長墓に

前方後円墳は九州が発祥なんじゃない?
それが吉備や大和に伝わったのかもね!
365日本@名無史さん
2019/03/03(日) 17:41:19.10
纒向ファンタジーワールド開催中w
366日本@名無史さん
2019/03/03(日) 17:42:25.37
大和弥生社会の展開とその特質
寺沢薫
(纒向学研究 第4号より抜粋・引用)

もともと第一の道論(注釈:奈良盆地の独自の発展によるヤマト王権の誕生)は、奈良盆地の自然環境の卓越性を根拠に、生産力の先進性をことさらに高く見積もり、
前期古墳に見る隔絶性から前段階の強力な権力の存在を推定するという本末転倒の論理によって説明されてきた感が強い。
以降、第一の道論は吉備連合論、河内(大和川水系)連合論、鉄ルート開発 ・ 確保論、倭国乱での巻き返し論等々を巻き込み、修復を繰りかえしながら多くの論者によって支持され続けてきた。
しかし証明のための論理や手法に根本的な改善は見られない。
私は第一の道を否定する立場である。
第二の道は多様である。
私は北部九州や2世紀以降とくに強大な勢力として新興してきた吉備を中心とした瀬戸内海勢力を維新主要勢力とした政治的談合による倭国の再編成(私の言う「新生倭国」の誕生)と考えている。
畿内や大和ではその直前まで首長墓を含む一般的墓制は方形墓なのであって、しかも王権を構成した主要地域に比べると、
墓に反映されるほどの階級的に隔絶した首長権力が存在した形跡は微塵もないのである。

http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
367日本@名無史さん
2019/03/03(日) 17:42:51.83
周濠内から出土したからといって、最初から周濠内にあったとは限らない
368日本@名無史さん
2019/03/03(日) 17:43:35.94
>>355
これは意外
弥生時代の西日本は渡来系の父系遺伝子が主流だと思ってた
東日本はもっと縄文比率が高いだろう
だが、現代において6割が渡来系という現実と整合性が難しい
今回はサンプル数が少ないから断定はできんが
369日本@名無史さん
2019/03/03(日) 17:44:00.51
430>>700
>宮崎と博多湾沿岸は交流がない <

神武東征頃の伝承に、阿毎氏の伝承が筑紫と大和と宮崎に出て来る。
370日本@名無史さん
2019/03/03(日) 17:46:24.68
>>345
>妄想を垂れ流すのは根拠とは言わないんじゃ...

妄想と主張したいなら、妄想だと判断するための
「具体的な根拠」を示して論じてくれ

「ぼくちんが気に入らないから妄想だい!」では議論にならない
こちらは魏志倭人伝の原文表記を根拠として示している
反論しても構わないが同じレベルの土俵に上がってくれ!
371日本@名無史さん
2019/03/03(日) 17:48:37.47
>>368
安羅伽耶や百済が亡んだとき、どっさり混血の引揚者や亡命者が来てんだよ
372日本@名無史さん
2019/03/03(日) 17:49:08.83
妄想と同じレベルって何だ?
373日本@名無史さん
2019/03/03(日) 17:52:44.97
>>370
九州説は毎日妄想垂れ流してる関係で
妄想妄想と呼ばれ慣れすぎてるから
なんか悪口言いたいとき
ふだん耳タコで聞いてる単語がつい口から出ちゃうだけだよ
何も思考してないのさ
374日本@名無史さん
2019/03/03(日) 17:55:17.43
>>344
>それは平安時代でも明治大正でも同じようなもの。
>根拠にはならない。

反論したいなら証拠出してね
375日本@名無史さん
2019/03/03(日) 17:56:25.09
那珂八幡古墳って箸墓古墳より先なの?
376日本@名無史さん
2019/03/03(日) 17:57:14.13
>>372
>妄想と同じレベルって何だ?

「具体的な根拠」を示して論じてる畿内説と同じレベルにだよ
無理なんだね?
377日本@名無史さん
2019/03/03(日) 17:58:04.02
大和説、まだ自分の世界に引きこもってオナニーしてるんかい
いいかげん九州説に反論してみろよw
378日本@名無史さん
2019/03/03(日) 18:00:06.77
>>359
>奴国には色々な要素があり、畿内はその一部だろ。

奴国がヤマトに征服された直轄地ではなく、奴国の首長がいる時点で
畿内がすべてではなく一部なのは当然

だが、その畿内の祭祀連合の中核的要素が、首長の死に際して前方後円墳を築くことなのだから
奴国首長の墓に前方後円墳・那珂八幡古墳が造営されている時点で、
畿内中心の祭祀連合の一員なのは明確になっている

ごちゃごちゃ言っても詭弁以上にはならないよ

>魏志倭人伝を無視した空論と言えよう。

奴国まで畿内中心の祭祀連合の一員で、伊都国がそうじゃないっていうのも苦しかろ?
伊都国でも築山古墳、端山古墳と首長墓を前方後円墳で作り始めるし

第一、倭国最大の連合に奴国が参加していて、魏使が奴国も通っていて、
それで人口も遺跡も乏しい筑紫山門が倭王に認められるって、おかしな話だとは思わないかい?

まともな論理的思考能力のある人が全員畿内説なのは、当たり前なんだよ
379日本@名無史さん
2019/03/03(日) 18:01:02.76
>>354
>長里であれば、女王國は赤道付近になってしまうが、

口先で結論だけ言い張るが
九州説はまったく証拠が出せない

だから九州説は学問として扱われない
380日本@名無史さん
2019/03/03(日) 18:02:22.35
>>377
こういう発言が
「自分の世界に引きこもってオナニー」
の典型だ
何も証拠が出せない
381日本@名無史さん
2019/03/03(日) 18:03:18.84
>>370
妄想でないと主張したいなら、妄想でに判断するための 「具体的な根拠」を示して論じてくれ
382日本@名無史さん
2019/03/03(日) 18:03:29.41
>>375
>那珂八幡古墳って箸墓古墳より先なの?

定型化前だからね
そういう意味じゃ「古墳」でなくて「墳丘墓」だな
383日本@名無史さん
2019/03/03(日) 18:03:56.10
>>371
父系が縄文で母系が渡来系というのも、いびつ過ぎる
それにこれは殺された方の集団だし
攻撃した方の集団は普通に渡来系が主流だろう

百済滅亡後とか後世になって渡来してきた人が多くても、
日本の人口が増えていたので、比率で見れば微々たるもの
弥生時代の渡来でその後の構成比は決まったと考えるべき
384日本@名無史さん
2019/03/03(日) 18:05:06.13
>>362
>投馬国は魏と直接交流していないことが明記されている。

おいおい、魏志倭人伝のどこに「魏と直接交流してないことが明記」されているんだ?
原文引用できるものならしてごらん

投馬国は、道里(水行二十日)も戸数(可五萬餘戸)もきちんと
略載されている女王国以北の国で今使譯所通三十國の1つだぞ

>魏志倭人伝を無視したことばかり書き立ててどうするの?

無視してるのはそっちだろ
宮崎西都原は投馬国じゃないぞww
投馬国は出雲だ
385日本@名無史さん
2019/03/03(日) 18:05:59.41
>>381
魏志倭人伝の原文表記が根拠として示されてるのが
見えないの?

九州説はそこまで現実が見えないの?
386日本@名無史さん
2019/03/03(日) 18:07:13.70
>>364
>前方後円墳は九州が発祥なんじゃない?
>それが吉備や大和に伝わったのかもね!

那珂八幡古墳より、畿内纒向の纒向石塚古墳の方が古いんだよ
那珂八幡古墳はその「纒向型」前方後円墳という規格で作られている
387日本@名無史さん
2019/03/03(日) 18:08:47.14
>>366
いい加減うざいな、こいつは

「小地域の中心的集落は『纒向遺跡群』(108)で、東西2キロ、南北1.5 キロの網目状に
 広がる古代纒向川扇状地の微高地五ヵ所に庄内0式から布留2式までの居住遺構が点在する。
 第V–3 様式からVI様式の土坑などが僅かに存在はするがほぼ集落としての体はなさない。
 最大範囲の盛行期は庄内3〜布留0式段階である。列島最古の前方後円墳を要する纒向古墳群の
 存在や遺構、遺物の特性から『ヤマト王権最初の大王都』と考える。」 
『 』は引用者がつけた

「私はこの仮称「ヤマト」国こそが『魏志』倭人伝に記された「邪馬台国」であろうと考えている。」

「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」寺澤薫(2016)
388日本@名無史さん
2019/03/03(日) 18:10:40.92
>>365
>纒向ファンタジーワールド開催中w

そういう根拠なし、意味なしの煽りが、九州説の根拠および人材の
貧困さと空虚さの実証にしかなっていないww
389日本@名無史さん
2019/03/03(日) 18:12:04.35
九州説は嘘をつくのが仕事です
390日本@名無史さん
2019/03/03(日) 18:14:14.77
>>372
>妄想と同じレベルって何だ?

そりゃあ、「九州説レベル」だよ
妄想=九州説レベル

だから、史料や考古学的な実物証拠を基盤とする畿内説とは話がかみ合わない
391日本@名無史さん
2019/03/03(日) 18:19:24.90
>>377
>いいかげん九州説に反論してみろよw

これまでに九州説が「九州説の根拠」として挙げたものはすべて否定済み
全部テンプレに書いてある

まず、 九州説を根拠付きで示す、
または、畿内説に根拠付きで反論するってのができたら、
議論になるよ

ただ、九州説は
1.伊都国と奴国は邪馬台国とは別の国として魏志倭人伝に書かれている
2.北部九州に伊都国と奴国以上に栄えている場所が考古学的に見いだせない
の2つだけで詰んでるんだよな

まあ、がんばれww
392日本@名無史さん
2019/03/03(日) 18:24:13.63
倭人伝の行程記事の
従郡至倭、循海岸水行歴韓国、乍南乍東、到、其北岸狗邪韓国
この「到」狗邪韓国の前には、「○乍ら(途中右折の)△乍ら」が入っている。
(これに対比し、上陸後の第一歩を、北東の糸島平原へ向かえば、険しいけれど一本道で右折左折はない。どう見ても不適合だ。)

しかしここを、前例に倣って(省略せず)読むならば、
東南陸行して、○乍ら、途中折れて、△乍ら、「到伊都国」となる。
つまり、唐津平野から松浦川沿いに(南して、途中多久で右折の、東して)、
東南陸行500里で(佐賀川上の)伊都国に到る、と読むのが正しい解というわけだ。
393日本@名無史さん
2019/03/03(日) 18:36:51.08
>>392
>しかしここを、前例に倣って(省略せず)読むならば、

勝手に追加したら駄目だろう
394日本@名無史さん
2019/03/03(日) 18:40:07.37
430>>736
>>帯方郡から一万二千里です、<

>これがどうしようもなく誤読
萬二千里は、伝説の世界観から引っ張ってきた数字で、倭国の特定の場所を指さない<

「余」の有無での書き分けがあるから、「引っ張って来ていない」し、
侏儒國までの見聞も書いているから、引っ張って来ていない。
395日本@名無史さん
2019/03/03(日) 18:43:14.50
430>>737
>もちろん、倭人社会の王、日本列島の最大勢力だよ
>「僕が考えたさいきょうのヤマト」<

大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であり、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国。
396日本@名無史さん
2019/03/03(日) 18:43:17.97
>>358
>これの「具体的な根拠」は?

大和の石塚などの前方後円型墳丘墓の祖形は吉備楯築の双方中円墳とされ、その楯築の原型は播磨の有年などの突起付き円墳だというのが、そもそもの大和の前方後円型墳丘墓吉備由来説。
そして、有年の突起付き円墳の突起が、前方後円型墳丘墓の撥方前方部に発展するというモデルが提唱された。
ところが、有年で突起付き円墳の次に出土した墳墓がなんと、方形墓だったのだ。
有年の突起付き円墳は、前方後円型墳丘墳へ発展しないことが分かった。
これが、吉備型墳墓が前方後円墳へ発展するというモデルが崩壊し始めたことを示す出来事だった。
つまり、前方後円墳は突起付き円墳や双方中円墳につながらない可能性が極めて高くなったというわけ。

纏向遺跡出土の九州系土器は、南九州の土器の破片1点のみ。
この破片が宮崎・西都原産のものかどうか定かでないが、北部九州のものでないことは確か。
誰かが指摘していたが、「さりげなく筑紫をもぐりこませてはいかんだろう」と言うのは、正しい。
纏向遺跡では、北部九州の土器は一片たりとも出ていない。
纏向と博多がつながるのは3世紀中頃であって、けっしてそれ以前ではないだ。
397日本@名無史さん
2019/03/03(日) 18:44:11.59
>>348
九州北部の端不彌国までで1万700里で邪馬台国まであと1300里あるぞ
398日本@名無史さん
2019/03/03(日) 18:47:15.71
>>396
それ、具体的な根拠じゃなくて
誰かの意見だろ?

誰の意見?
399日本@名無史さん
2019/03/03(日) 18:49:22.58
>>394
1万2千里は元が淮南子に書いてある世界の果てを示す距離
現代の距離に直すと赤道を超えた場所になる
その数字に余がついたとしても
実際の場所を示すことにはならない
400日本@名無史さん
2019/03/03(日) 18:52:05.66
青谷上寺地遺跡の遺伝子解析結果が出たみたいやな
母系は渡来系、父系は縄文系
401日本@名無史さん
2019/03/03(日) 18:52:09.26
>>396
>纏向遺跡では、北部九州の土器は一片たりとも出ていない。

ガセネタですな

その北部九州では畿内式の土器が出ているんですけど?
その畿内式土器が3世紀前半に北部九州で現地生産されるようになり
その北部九州製の土器が纏向で出てるんですけど?

つまり
「北部九州の土器は一片たりとも出ていない」
というのは
北部九州在来式の土器が出ていないことを歪めて伝えたガセ
402日本@名無史さん
2019/03/03(日) 18:54:11.32
430>>738
>倭人伝は卑弥呼の時代から壹與が張政を送らせるまで
卑弥呼の遣使は238年(239年?)だから 遣使以降激減してることになる<

激減していない。
倭国は、
梁書倭国伝が、「復立卑彌呼宗女臺與爲王、其後復立男王、並受中國爵命。晋安帝時、有倭王賛」
と書いているし、
宋書も、倭国の五王の遣使を書いているし、
旧唐書や唐会要の倭国伝にも「世與中國」や「世與中國通」と、
国交が継続していた事を書いているが、
日本国は、
新唐書に「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」
と書かれたのが最初である。
403日本@名無史さん
2019/03/03(日) 18:56:14.03
>>402
激減してるな
定期職貢じゃなくなった
404日本@名無史さん
2019/03/03(日) 18:56:18.77
魏志倭人伝に書いてある邪馬台国の位置帯方より南1万2千里は架空のもの
会稽東治(冶)の東は沖縄や台湾のあたり
このダブルパンチで九州説は死滅
405日本@名無史さん
2019/03/03(日) 18:58:00.15
>>430>>739
>それで畿内勢力は博多湾岸に植民地を作ったんだね<

九州倭国が、筑紫城の倭奴國の阿毎氏が大和に植民し、
更に、「東征毛人五十五國」に拠っても、再度植民地を作ったの。
406日本@名無史さん
2019/03/03(日) 18:58:24.01
大和説が虚構の遺跡巻向にすがりついているということがよく分かった
オナニーもそこまでいけば立派な病気だw
407日本@名無史さん
2019/03/03(日) 18:58:47.04
>>396

>纏向と博多がつながるのは3世紀中頃であって、けっしてそれ以前ではないだ。

TA期に多々良川河口ではX様式が目立ち、TB期に那珂で庄内甕模倣製作が始まり
那珂八幡が築かれるから、繋がるのは3世紀前半
408
2019/03/03(日) 18:59:36.02
>>404
あなたのまで揶揄でなく
引用文献の揶揄
409日本@名無史さん
2019/03/03(日) 19:00:40.91
>>402
>日本国は、
>新唐書に「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」
>たのが最初である。

それは、過去に遡って
我が国は他国に臣従したことがない
と強弁する政策をとったからだよ
単なる国策

政治のウソに騙されるのは愚かなことだ
410日本@名無史さん
2019/03/03(日) 19:01:19.42
430>>740
>いや、学者たちの圧倒的多数派の意見だ<

「南→東」などの嘘つき騙しの大和説の学者の事であるんなら、
いくら「圧倒的多数」であっても、何の信頼性もなく、
×だよ。
411日本@名無史さん
2019/03/03(日) 19:01:23.61
>>399
文献をしっかり読みこなすことがあなたの課題
412日本@名無史さん
2019/03/03(日) 19:02:17.83
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
413日本@名無史さん
2019/03/03(日) 19:02:22.79
改竄、剽窃、捏造、収賄
畿内説に犯罪の種は尽きない
414日本@名無史さん
2019/03/03(日) 19:02:23.84
>>406
こうやって誰も主張者のない纒向遺蹟が邪馬台国の根拠説を作り上げて攻撃し
悦に入るのが九州説のオナニー
415◆m1vOjzSxiM
2019/03/03(日) 19:02:32.19
テスト
416日本@名無史さん
2019/03/03(日) 19:03:11.30
>>408のおかしな日本語を書いたのは
九州説のナリスマシ爺さんだな
417日本@名無史さん
2019/03/03(日) 19:03:17.55
>>393
現代の5ちゃんなんぞと違い、
古代における文書化とその維持(写本)には大金がかかった。
一字でも削るため、倭人伝においても省略はつきもの
前例と同様の処は、遠慮なく省略されている。
そこをどのように、すんなりと補って読むか、それが成否の分かれ目だ。おわかりかな。
418日本@名無史さん
2019/03/03(日) 19:03:54.96
奥山=>>1

テスト完了
419日本@名無史さん
2019/03/03(日) 19:04:24.71
論破されたキウスが成りすまし攻撃を始めた
420日本@名無史さん
2019/03/03(日) 19:07:04.04
>>417
そんな言い訳で捏造は正当化できないよ
421日本@名無史さん
2019/03/03(日) 19:08:24.32
奥山は橿考と関係無いからヨロシク
422日本@名無史さん
2019/03/03(日) 19:08:28.70
>>411
文献をしっかり読みこなした上で
魏志倭人伝にある邪馬台国の位置は
陳寿が当時の晋皇帝の祖先の功績を奉るために
後漢から伝承の位置である倭国の都があるとされる場所
帯方、楽浪より南1万2千里の会稽東治(冶)乃東
倭の極南界にあるものとして書いたものと推察している
423日本@名無史さん
2019/03/03(日) 19:10:41.17
>>363
渡海は渡河と同じ用法であり、渡河はこちらの岸から向かい側の岸へ越えることなので、渡海もこちらの岸から向こうの岸へ越えること。
渡海千里の瀬戸内海の場合、周防灘の北部九州側の岸(行橋市あたり)から東の難波あたりの岸へ海を越えること。
何も、むずしい話ではない。
424日本@名無史さん
2019/03/03(日) 19:11:38.69
九州説は負けがかさみ過ぎるあまり
とうとうスレ主の成りすましに手を染めたようだな
425日本@名無史さん
2019/03/03(日) 19:14:51.39
>>424
それ前から常習

執拗に偽スレ立ててるだろ
426日本@名無史さん
2019/03/03(日) 19:15:46.76
>>423
あなたm瀬戸内海を知らないんでしょ
427日本@名無史さん
2019/03/03(日) 19:16:02.72
>>396
>つまり、前方後円墳は突起付き円墳や双方中円墳につながらない可能性が
>極めて高くなったというわけ。

やっぱり情報が遅いし、情弱だわ
https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-0a-2d/kawakatu_1205/folder/1583928/09/57475009/img_0?1463139529

畿内に陸橋付き円形周溝墓があったことが確認され、外部に前方後円墳の起源を求める必要はないと
されるようになっている

そこに葺き石や円筒埴輪(特殊器台)の樹立という、各地の墓制の外部装飾が付加されて
定式化されていった、でいいんだよ
428日本@名無史さん
2019/03/03(日) 19:17:06.17
430>>743
>こっちは、魏略の引用と解釈から、きちんと論証してるだろ?
せめて同じ土俵に上がってくれないと、そっちのレベルが低すぎて話が通じないww <

大和説者の天誅の「畏友」のイリヒコ氏の、
www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/wacomp.html
では、
「倭在帯方東南大海中、依山島以国」と「度海千里、復有国。皆倭種」は、
切り離されて別の場所に書かれていて、類スレ主の引用とは違うね。
いずれにしても、魏略は、写本版本が残っておらず、
他書に、引用や注として書き換えられて残っているだけであり、
まあ、一種の半分×書だなあ。
429日本@名無史さん
2019/03/03(日) 19:17:56.36
奥山は橿考と関係無いからヨロシク
430日本@名無史さん
2019/03/03(日) 19:20:11.67
>>406
>大和説が虚構の遺跡巻向にすがりついているということがよく分かった

纒向遺跡が「虚構の遺跡」だと判断する根拠を具体的に示してね!

でないと、畿内説と同じレベルでは議論ができないよ
早く同じ高さの土俵に上がってね!

九州説の情弱の人たちには無理な要求かも知れんけどさw
431日本@名無史さん
2019/03/03(日) 19:23:12.14
>>411
>文献をしっかり読みこなすことがあなたの課題

>>411の主張は「具体的には何」なの

萬二千里が、どこから出てきた数字だと考えているんだ?
「具体的に答え」られるかな?
432日本@名無史さん
2019/03/03(日) 19:25:08.91
帯方より南1万2千里は淮南子に由来する架空の世界の果てまでの距離
魏志倭人伝に邪馬台国の場所と記されてる会稽東治(冶)の東は
沖縄や台湾のあたり

これを認めたら即死してしまう九州説はこの事実に対して
ああでもないこうでもないと嘘でっち上げを繰り返しては
畿内説にあっけなく論破され恥の上塗りを重ね続ける
それが邪馬台国論争の歴史
433◆m1vOjzSxiM
2019/03/03(日) 19:25:12.11
奥山君
貴君の最近 畿内説で学んだことは何なの
時計が止まってますよ
434日本@名無史さん
2019/03/03(日) 19:26:30.70
>>417
>そこをどのように、すんなりと補って読むか、それが成否の分かれ目だ。おわかりかな。

その「どのように」ってところで、結論ありきで「根拠なしの捏造」に走るから、
九州説は学説にならないんだよ

短里がその典型
島巡り仮説もひどい
伊都国・奴国と邪馬台国と重ねる二重帳簿詐欺も、普通の知能があればできない
435日本@名無史さん
2019/03/03(日) 19:27:04.43
>>357
>筑後山門の祭祀センターに比定される遺跡はどれ?

大和纏向の祭祀センターは、大型建物群を中心点として、纏向遺跡の範囲とその北の奈良市付近〜その東側の大和古墳群、柳本古墳群のある長い山裾のぐるり一帯。
これと同じで、筑後山門の吉井信号付近を中心点として、現在のみやま市全域が卑弥呼の祭祀センター。
どちらも、壮大な祭祀ワールドだった。
436日本@名無史さん
2019/03/03(日) 19:27:14.21
>>433

奥村じゃないよ
437日本@名無史さん
2019/03/03(日) 19:29:24.09
430>>748
「南≠東」などのように、
この当たり前のことを否定しないと成り立たないから大和説は大変だ・・・
だから、インチキ解釈や捏造に走る
その時点で、人としても終わってる
438 ◆2rsjLzBNWs
2019/03/03(日) 19:30:50.37
>>431
万千里は邪馬台国まで
それ以降の倭人伝の地は万千里以外でどのように表すの
439日本@名無史さん
2019/03/03(日) 19:32:02.06
>>423
>渡海は渡河と同じ用法であり、渡河はこちらの岸から向かい側の岸へ越えることなので、
>渡海もこちらの岸から向こうの岸へ越えること。

ここまでは、まあいい
だが、幅500メートルくらいの向こうがはっきり見える海峡が渡海と記述されているところはない

>渡海千里の瀬戸内海の場合、周防灘の北部九州側の岸(行橋市あたり)から
>東の難波あたりの岸へ海を越えること。

例えば、幅100メートル長さ2キロの運河があったとして、その長軸方向を「渡る」と表現するかい?
瀬戸内海は幅が狭く多島海になっている
それを西から東へ抜けるのを渡海と表現することはない

>何も、むずしい話ではない。

詭弁としても出来が悪いな
瀬戸内渡海千里説は成立の余地がない
440日本@名無史さん
2019/03/03(日) 19:34:30.04
1万千里は世界の果てと言ってた日本の学者が思い出せないので
教えてくださいよ
441日本@名無史さん
2019/03/03(日) 19:35:37.06
>>435
>これと同じで、筑後山門の吉井信号付近を中心点として、現在のみやま市全域が卑弥呼の祭祀センター。
>どちらも、壮大な祭祀ワールドだった。

面積だけ纒向と揃えても、そこに「祭祀遺跡がない」んだからしょうがないだろう

>>357で訊いたのは
「筑後山門の祭祀センターに比定される『遺跡』はどれ? 」だよ?
442日本@名無史さん
2019/03/03(日) 19:37:17.80
430>>750
>>楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。<

>はいはい、何度書いても、「その国(邪馬台国)」はインチキ捏造 <

はいはい、何度ウソを書いても、「樂浪郡徼、去其國萬二千里」の「其國」は、
その前の「其大倭王居邪馬臺國」でしかなく、
類スレ主はインチキ捏造男。

>その国は「倭國」でしかない <

倭國は、まだ出て来ていないし、まだ書かれていないので、
類スレ主は、またインチキをした。
443日本@名無史さん
2019/03/03(日) 19:37:33.32
瀬戸内海は渡海だよ水行と違う
海の水は塩辛い
釣れる魚も海水魚

水行は川
444日本@名無史さん
2019/03/03(日) 19:39:54.46
>>435
>万千里は邪馬台国まで

これがすでに認識がおかしい
まず万千里ではなく「萬二千里」だし、邪馬台国ではなく「女王国」までだ

女王国(女王共立領域≒倭国)までの大雑把な概略の距離感を示すものであって
倭国内の特定地点を指すものではない

>それ以降の倭人伝の地は万千里以外でどのように表すの

帯方郡から萬二千里の距離にある大きな洲島の上に存在してるんだよ
445日本@名無史さん
2019/03/03(日) 19:40:31.46
急がないのでよろしくお願いします
私も外出しますので
>1万千里は世界の果てと言ってた日本の学者が思い出せないので 教えてください<
446日本@名無史さん
2019/03/03(日) 19:41:10.02
>>444>>438向け
>万千里は邪馬台国まで

これがすでに認識がおかしい
まず万千里ではなく「萬二千里」だし、邪馬台国ではなく「女王国」までだ

女王国(女王共立領域≒倭国)までの大雑把な概略の距離感を示すものであって
倭国内の特定地点を指すものではない

>それ以降の倭人伝の地は万千里以外でどのように表すの

帯方郡から萬二千里の距離にある大きな洲島の上に存在してるんだよ
447日本@名無史さん
2019/03/03(日) 19:43:26.68
>>427
瀬田遺跡の突起付き円形周溝墓の築造時期は、古墳前期初頭だろう。
その突起の形は、東田大塚古墳の前方部と非常によく似ている。
そして、この時期には、纏向ではすでに前方後円型墳丘墓が5基も造られていて、それらは完全に全周する周濠をもつ大墳墓。
それより後につくられた瀬田の周溝墓は、播磨などの弥生後期の突起付き円墳から少しも変化していず、旧態そのもの。
この瀬田遺跡の周溝墓は播磨型そのものであって、纏向古墳群とはまったく系統を異にしている。
奈良文研にだまされてはいけない。
448日本@名無史さん
2019/03/03(日) 19:47:02.70
>>443
>水行は川

これははっきり間違い
地理旅程記事での水行は基本的に「海」の海岸沿い航行か、近接距離の島伝い航行

三国志から新旧唐書までの範囲で、海以外で水行が使われているのは
二ヶ所(ガンジス川とソンホン川)のみで、現在でも内陸航路に使われている大陸河川のみ

日本(倭国)にはそんな大河川はないので、水行は沿岸航行一択になる
449日本@名無史さん
2019/03/03(日) 19:47:59.77
>>426
瀬戸内海は、地図をみれば、ひと目で分かる。
450日本@名無史さん
2019/03/03(日) 19:50:03.11
邪馬台国畿内説スレとは切り離した大和王権スレ欲しくないか?
451日本@名無史さん
2019/03/03(日) 19:50:17.61
>>441
だから、みやま市全域がそれ。
452日本@名無史さん
2019/03/03(日) 19:51:05.99
>>447
>瀬田遺跡の突起付き円形周溝墓の築造時期は、古墳前期初頭だろう。

これの根拠は?
平面プランを見るだけで、纒向型前方後円墳より前方部が小さく、
纒向古墳群をモデルにしていると見るのは根拠がない
453日本@名無史さん
2019/03/03(日) 19:53:01.56
430>>755
>>墓の形を共有していただけ。<

>何のために墓の形を共有しないといけないんだ?<

大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であり、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国であったから。

>祭祀の統一がなされているからだろ? その祭祀連合、前方後円墳秩序を古墳時代の倭国と読んでいるんだよ<

大和の前方後円墳は、九州倭国の前方後円墳と少し形が違う。

>>継体の共立の過程を読むと、畿内は北陸にも影響を及ぼしていない。
北陸から継体を迎えるからには親族だという意識はあったのだろうが、支配関係は成立していない。<

>結局、九州説は「支配」していないから国じゃないってところに逃げるんだよなw<

大和は、九州倭国の王家の一員に、ようやく成れたんだよ。

>畿内説は、何度も何度も、祭祀連合であって支配・被支配の関係にはないと言っているのにw<

大和は、九州倭国の別種分家の旧小国。
454日本@名無史さん
2019/03/03(日) 19:54:51.52
>>451
>だから、みやま市全域がそれ。

くどいな
祭祀遺跡は「何遺跡」なんだ?
神殿の柱跡なり、供献遺物が大量に出土するなどの遺跡があるなら
「固有名詞で遺跡名を示し」てくれ

これから掘れば見つかるというのでは話にならないぞ!
遺跡もないのにあるはずだでは根拠にならない
455日本@名無史さん
2019/03/03(日) 20:00:14.92
>>439
勘違いしてるようだけど、この渡海千余里を書いたのは晋代の中国人。
彼は魏の書庫にあった資料をもとに、渡海千余里と書いた。
その資料は魏の役人が作成したもので、魏の役人は倭人から聞いたことを記録に移したもの。
倭人が言ったことを中国語に翻訳したわけ。
つまり、渡海千余里は、倭人が「その海を千余里舟で行くとまた別の国があるよ。我々と同じ倭人の国だけどね」と言ったことの中国語翻訳なのよ。
なので、現在の我々が、どうのこうの言っても始まらん。
456日本@名無史さん
2019/03/03(日) 20:05:31.11
430>>759
>>畿内説が取り上げているのは、普通にヤマト王権の萌芽なんだよ。<

>そうだよ そしてそのヤマト王権が、大陸の人の聞き取り音訳で邪馬台国と記されただけ <

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言だから、×。

>九州北部に邪馬台国はないし、卑弥呼はいない ここから既に論証も根拠もない妄想に入っている<

邪馬台国はないし、卑弥呼はいた。 ここから既に論証も根拠もない妄想に入っている。

>年代が近いどころか、完全に重なってるよ<

重なっていない。卑弥呼の墓は冢であり3世紀半ばであるが、
大和の庄内の始めの石塚は撥型前方後円墳であるから、3世紀末。

>つまり、ヤマト王権の歴史がそのままリアルタイムで魏朝に伝わっているわけだ<

伝わっていない。大和が中国に遣使したのは開皇末。
457日本@名無史さん
2019/03/03(日) 20:05:51.32
>>454
なんども言うようだが、それは、まだ掘ってないので詳細なことは分からん。
掘ったら、そんな柱穴やまじないした跡が出るよ。
あなたの言うことは、学者らが掘ったあとにつくる報告書に詳しく出る。
それまで待っていなさい。
458日本@名無史さん
2019/03/03(日) 20:06:08.82
>>378
>奴国がヤマトに征服された直轄地ではなく、奴国の首長がいる時点で
>奴国首長の墓に前方後円墳・那珂八幡古墳が造営されている時点で、
>奴国まで畿内中心の祭祀連合の一員で、伊都国がそうじゃないっていうのも苦しかろ?

やべー
こいつが何言ってんのかわかんねー
妄想が根拠とか、頭おかしくない?
459日本@名無史さん
2019/03/03(日) 20:08:31.80
>>382
>>375
>>那珂八幡古墳って箸墓古墳より先なの?

>定型化前だからね
>そういう意味じゃ「古墳」でなくて「墳丘墓」だな

勝手ルール作りもここまでくると笑えるな。
九州北部にいた複数の集団のうち、前方後円墳を作るグループが瀬戸内を通過して畿内に入り、最終的に勢力を伸ばしただけじゃん。
460日本@名無史さん
2019/03/03(日) 20:12:08.36
>>458
それで何言ってるか分からないのは貴方の知識不足では?
自分が知らなかった情報=全て妄想、と認定するとは、自分が全知全能の神だとでも思っているのか
461日本@名無史さん
2019/03/03(日) 20:12:20.40
>>386
>那珂八幡古墳はその「纒向型」前方後円墳という規格で作られている

筑紫型とでも呼称を改めるといい。
462日本@名無史さん
2019/03/03(日) 20:14:34.30
>>459
それこそ勝手作り話
九州北部にいた前方後円墳を作るグループなんて何処にいるんだ


これだから九州説は・・・
463日本@名無史さん
2019/03/03(日) 20:15:13.05
>>461
理由もなく?

w
w
w
464日本@名無史さん
2019/03/03(日) 20:17:44.31
>>462
記紀でも読めば?
465日本@名無史さん
2019/03/03(日) 20:17:49.58
>>763
>え? 今頃やっと畿内説のことを知ったの?<

畿内なんて存在もしない嘘つき騙しの文言だよ。

>でも、無駄だよ 九州も畿内も同じ「倭国」ということになるから<

九州は「倭國」であるが、
大和は、九州倭国から別れた別種の旧小であり、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国。
邪馬壹國大和説は生き残れない。
466日本@名無史さん
2019/03/03(日) 20:21:19.62
430>>764
大和説は、オームやナチスのような、
万世一系八紘一宇の戦争皇国史観者の説だろう、
と言ってもいいだろうね
467日本@名無史さん
2019/03/03(日) 20:32:02.64
430>>765
>土器の流入も、畿内第V様式から庄内式、不留式と、連続していて<

流入方向が間違い。庄内は筑紫が3世紀前半であり、大和の石塚が3世紀末。

>最終的に九州の地場の土器がなくなる <

なくならない。楽浪土器や陶質土器の流入があり、吉武高木のように早くから陶器に変わっていった。

>それと平行して、前方後円墳を九州でも作るようになり、<

前方後円墳も、那珂八幡などの方が、大和の石塚よりも早い。

>さらに九州でも三角縁神獣鏡をありがたがって副葬するようになる<

△も、筑紫の3世紀前半の志登や祇園山などの方がの、大和の4世紀よりも早い。
これらは、明確に政治的な祭祀な支配つながりだし、継続的に発展してるぞ
468日本@名無史さん
2019/03/03(日) 20:33:50.97
>>452
瀬田の突起付き円形周溝墓の円墳の形がほぼ整円形であり、弥生後期の円墳はおおむね不整円形。
石塚など纏向古墳群も弥生墳丘墓らしく不整円形である。
ところが、この瀬田周溝墓の円墳の形は箸墓の後円部と似て整円に近い。
また、前方部も東田大塚古墳の前方部とそっくりだ。
ところが、奈良文研は、この周溝墓は弥生後期後半(2世紀中頃〜後半)の築造だとしている。
奈良文研の年代評価はいつも百年古く出る、と評する人もいる。
つまり、そういうことよ。
469日本@名無史さん
2019/03/03(日) 20:34:48.73
430>>766
大和説者は、その一人一人が全員「南→東」などの嘘つき騙しの詐欺師であり、
無知すぎるのが問題。
470日本@名無史さん
2019/03/03(日) 20:45:40.96
430>>776
>>瀬戸内海ルートは開拓中であり、畿内が魏と密接な関係を結べるだけの安定かつ迅速な交通量は確保できていない<

>それ以前から、日本海経路で宗像から越まで大国主の通婚圏になるくらいの密接な交流が維持されてるよ<

出雲は、梁代においても倭国とは別の独立的國であり、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」は、瀬戸内方面路になる。
471日本@名無史さん
2019/03/03(日) 20:50:27.80
奈良説は年代詐欺がないと成り立たない。
472日本@名無史さん
2019/03/03(日) 20:52:18.94
430>>778
>その祭祀の統一の中心が大和にあることは認めるんだな?<

認めないよ。
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であり、
九州倭国の「地方の市を監督する大倭職」の国であったんだから。
473日本@名無史さん
2019/03/03(日) 20:54:03.89
430>>779
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
どうしてこんなに無知で
ウロ覚えのテキトーなガセばかり垂れ流すんだろう
474日本@名無史さん
2019/03/03(日) 20:57:25.82
430>>780
>それだけ長い間、深刻な反論もなく、通説として現在も通用していますが、何か?<

いや、通用していないよ。
国民の7割に否定されたままだし、
古田さんらに反論否定されてますが、何か?。
475日本@名無史さん
2019/03/03(日) 21:00:45.28
>>455
>渡海千余里は、倭人が「その海を千余里舟で行くとまた別の国があるよ。
>我々と同じ倭人の国だけどね」と言ったことの中国語翻訳なのよ。

倭人が千餘里を測れないから、これはないな
何より「里」の長さが伝わっていない

「渡海千余里は、倭人が「その海を向こうに渡って行くとまた別の国があるよ。
 我々と同じ倭人の国だけどね」と言ったことの中国語翻訳なのよ。 」
なら同意
476日本@名無史さん
2019/03/03(日) 21:02:28.61
実際には、
「1日漕いで海を渡るとまた同じ倭人がいるよ」
と言ったんだろう。
477日本@名無史さん
2019/03/03(日) 21:02:37.97
430>>781
>いや? 初期大古墳の分布という、がちがちの考古学的証拠で
「前方後円墳秩序という祭祀連合」の盟主が畿内にあるのは明白なんだが?<

いや、前方後円墳は筑紫から始まって、
それが、九州倭国から別れた別種の旧小国の大和に、
東征将軍らに拠って伝えられた事は、明白なんだが。

これを根拠なしと言わないと成り立たない、
つまり最初から成立の余地がないのが大和説なんだよ。
478日本@名無史さん
2019/03/03(日) 21:04:30.58
430>>784
九州説者からの反論で、
テンプレで完封されているのではないかな?
479日本@名無史さん
2019/03/03(日) 21:05:01.04
>>457
>なんども言うようだが、それは、まだ掘ってないので詳細なことは分からん。
>掘ったら、そんな柱穴やまじないした跡が出るよ。

やっと白状したか
つまり現状では、柱跡もまじないした跡も「一つもない」んだなww

>それまで待っていなさい。

みやま市(山門)に祭祀センターがあると主張するのは、
実際に発掘されるまでは待ってなさい

まあ、未来永劫待つことになると思うけどさww
480日本@名無史さん
2019/03/03(日) 21:15:51.92
「畿内説の奴は南を東と読み替えている!けしからん!」

まあ言いたいところは分からんでも無いが、じゃあ九州説は魏志倭人伝の邪馬台国への行程を読み替えていないのか?
違うだろ
バカ正直にそれに従ってたら邪馬台国が海中に存在していることになっちゃうから、距離を読み替えているのが九州説だろう?

距離を読み替えるのは問題ないのに、方角を読み替えるのは大問題?どうしてそんなことがあろうか
481日本@名無史さん
2019/03/03(日) 21:22:52.18
>>477



いや「前方後円墳は筑紫から始まって」とか
「九州倭国から別れた別種の旧小国の大和」とか

そんなトンデモ話を
根拠なしと言わない人などいないが
482日本@名無史さん
2019/03/03(日) 21:23:24.58
>>458
>こいつが何言ってんのかわかんねー

根拠と結論が対で書いてあるのを、根拠だけ引いてきたら訳が分からないのが当然
まあ、それ以前に「>>458の知的能力が決定的に足りないから理解できない」説が有力だがなw

>妄想が根拠とか、頭おかしくない?

妄想だと判断する理由を「具体的な根拠」を挙げて言わないと無意味だって
まあ、それ以前に「>>458の知的能力が決定的に足りないから(ry
483日本@名無史さん
2019/03/03(日) 21:25:30.72
430>>795
>おいおい、権威のない祭祀なんて意味がないだろう <

祭祀というものは、本来、個々の部族や氏族のシンボル的なものだ。

>祭祀が権威の根源であり、その祭祀の統一は権威の統一を意味する
3世紀前半にいきなり広範囲に出現した、統一墳墓祭祀、前方後円墳祭祀が始まった契機として
卑弥呼の共立が最も説明原理として蓋然性が高い<

ダメだ。卑弥呼の墓は冢であり、前方後円墳ではない。

>神道においては多くの場合、権威の象徴は鏡だよ。<

>それは「姿の見えない神の形代」としての象徴物であって、
その神の言葉をおろす巫女をヒメ王と呼んでいるんだよ
人間社会の存在としての宗教権威はヒメ王という人物になる<

ヒコヒメ制なんていうのも、部族単位でのものであり、
国家の権威とは直接関係がない。
484日本@名無史さん
2019/03/03(日) 21:27:02.09
>>478
九州説者からの反論とか、何もないよ
だって証拠が出てこないだろ

九州説はテンプレで完封されている
485日本@名無史さん
2019/03/03(日) 21:27:33.41
>>446
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
>それ以降の倭人伝の地は万千里以外でどのように表すの
帯方郡から萬二千里の距離にある大きな洲島の上に存在してるんだよ

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^



すごい飛躍 とうてい学問とは思えない
あんたを非難してないよ
何処から拾ってきたの 日本のどの研究者や学者の弁
486日本@名無史さん
2019/03/03(日) 21:28:46.31
430>>797
>博多湾沿岸は卜骨が出ないから倭人の風習は無い<

卜骨習俗も部族単位的。
一大國に大量に出土しておれば、十分。
487日本@名無史さん
2019/03/03(日) 21:28:53.74
>>483
>ヒコヒメ制なんていうのも、部族単位でのものであり、
>国家の権威とは直接関係がない。

なんでそんなこと決めつけるの?
知りもしないのに
488日本@名無史さん
2019/03/03(日) 21:29:28.16
>>459
>九州北部にいた複数の集団のうち、前方後円墳を作るグループが瀬戸内を通過して畿内に入り、

北部九州に「前方後円墳を作るグループ」なんていなかったんだよ

それまでの北部九州の墓制の伝統とは一切関係ない前方後円墳がいきなり作られ始める
完全に他所から移入された墓制だ

それ以前は方形周溝墓(須玖岡本遺跡D地点、三雲南小路遺跡)か
四角く盛り土した低めの墳丘墓(吉野ヶ里遺跡北墳丘墓)しかない

こうやって、誰にでも確認できる確実な根拠を挙げて説明して初めて、
「北部九州にいた前方後円墳を作るグループ」なんてのは妄想だ!って言えるんだよw
489日本@名無史さん
2019/03/03(日) 21:31:42.45
>>486
>卜骨習俗も部族単位的。
>一大國に大量に出土しておれば、十分。

それ、倭人伝の記事と合わないよね
デタラメ言っても無駄だよ
九州説って・・・
駄目だよな
490日本@名無史さん
2019/03/03(日) 21:32:29.52
>>464
>記紀でも読めば?

記紀のどこにそんなことが書いてあるんだ?
原文の漢文のままでいいから、「具体的に」引用して見せなよ

「九州に前方後円墳を作るグループがいた」なんてのは、
記紀のどこにも書いてないのは知ってるけどさw
491日本@名無史さん
2019/03/03(日) 21:34:01.77
430>>800
>>ただ、それでも九州説は西日本全体の統一祭祀王などという誇大妄想は持ち出さない。<

>つまり、九州では卑弥呼は共立されていない訳だ
もちろん、共立されていない卑弥呼は九州にはいないってことだな <

関係がない。
祭祀は、部族氏族単位的なものだ。

了解!
492日本@名無史さん
2019/03/03(日) 21:37:47.20
>>485
ほら、また具体的内容のない非難しかしない
常に内容がないのが九州説クオリティ
493日本@名無史さん
2019/03/03(日) 21:39:20.82
>>491
>祭祀は、部族氏族単位的なものだ。

そうか
そんな状態の九州には
当然ながら国王が君臨する「国家」など無いな
494日本@名無史さん
2019/03/03(日) 21:42:19.15
>>448
> 日本(倭国)にはそんな大河川はないので、水行は沿岸航行一択になる <

畿内説の瀬戸内海航路だと四国はどの国?もしくはどの国の領地?投馬国?
近接距離の島伝い航行なら当然 四国も入るが・・・


あなたは何説ですか
495日本@名無史さん
2019/03/03(日) 21:43:08.10
430>>807
>>纒向から帯方郡まで継続的に交流できるわけない。<

>それを、誰もが確認できる客観的な根拠とともに、具体的に論じてくれと何度言えばww
実際に、交流できてるんだからしょうがないだろ?<

直接的には、殆ど交流がない。

>卑弥呼共立時点より前の時代で、丹波の首長は大陸渡来のガラスを大量に副葬してるよ<

丹波は、大和とは別部族であり、出雲や越系の地域。

>丹波から畿内大和までは、欠史八代の頃から密な交流がある
出雲と畿内大和の交流も、丹波経由で盛んに行われているよ<

大和も、九州倭国の「東征毛人五十五國」の前は、出雲系や毛人系であった。
496日本@名無史さん
2019/03/03(日) 21:49:23.20
430>>809
>九州では博多の奴国が一番大きいからそれより大きい投馬国や邪馬台国は九州には無い
官職名が大きく異なるのも九州から遠方にあった傍証だろう <

投馬國も邪馬壹國も、九州にあった。
官職名は、個々の国々の部族の役職呼称であり、
女王國や倭国では「大夫」や「一大率」などが官名であった。
497日本@名無史さん
2019/03/03(日) 21:53:51.82
>>494
>畿内説の瀬戸内海航路だと四国はどの国?もしくはどの国の領地?投馬国?
>近接距離の島伝い航行なら当然 四国も入るが・・・

瀬戸内海を行ったと「しても」、「渡海」にはならず「水行」だと言っているだけ

「水行」は基本沿岸航行だし、中国地方の日本海側沿岸航行が水行20日+10日だと判断している
ここはテンプレとは意見が異なる

なので、瀬戸内の国は通過しないし記載されていない
投馬国は出雲で、四隅突出墓の文化圏(丹波以西)が投馬国五萬餘戸の範囲

>あなたは何説ですか

日本海経路、丹波経由の畿内説だよ
498日本@名無史さん
2019/03/03(日) 21:55:11.92
ヨコからすまん
畿内説と言うが邪馬台国の範囲を明確にしてくれんか
近江は入るの  吉備は入るの  伊勢や伊賀は  若狭は 丹波・丹後は・・・

弾かれる地域は何国?
俺の認識では畿内は以下だが間違っている?
山城(山州・城州)大和(和州) 河内(河州) 和泉(泉州) 摂津(摂州)
499日本@名無史さん
2019/03/03(日) 21:58:11.42
>>498
そういうことはテンプレよめば?
500日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:01:28.38
>>498
>畿内説と言うが邪馬台国の範囲を明確にしてくれんか

テンプレにも書いてあるが、邪馬台国七萬餘戸は
「畿内第V様式土器を使う領域」で、概ね「大和+河内〜環大阪湾」の範囲だよ
501日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:02:32.98
>>491
>関係がない。
>祭祀は、部族氏族単位的なものだ。

九州はそうなの?
じゃあ宗教の人な卑弥呼が国王してる倭国は
祭祀が共有されてる畿内にあって九州なんかには無いと
そういう結論でるよね
502日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:05:16.06
>>480
距離は課題だな
いっそ畿内説みたいに方位・距離ともと言わないが距離ぐらい誤情報としたら良いのに
九州説は馬鹿正直に倭人伝と向き合うネ
503日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:06:41.16
>>501
焦って なんでもかんでもひとくくりにするな
504日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:07:12.60
>>502
正直ではない
505日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:08:18.25
>>503
その野次、もちろん反論になるだけの中身が無いね
506日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:12:08.45
>>502
畿内説は根拠を示して方位・距離とも誤情報だとしてる
九州説はその論証に何も反論しない
九州説は馬鹿で論争に負けたということだネ
507日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:16:55.59
>>499
テンプレの個人的意見ではどうも
また、近江や伊賀や伊勢もどういう位置づけかわからない
508日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:17:15.54
つまり、韓国政府が、宣伝してきた邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね、、、
509日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:17:42.48
>>479
いやいや、山門に祭祀センターがあったのだよ。
現在のみやま市域は、そのセンターを核とした壮大な祭祀ワールドだった。
そう主張する根拠は、ちゃんとあるのよ。
ただ、あなたが、遺跡、遺跡としつこく問うから、それは発掘したら出るというただけ。
遺跡が知りたかったら、発掘されるまで辛抱強く待っているのがよい。
ワイなんか、そんな枝葉末節はどうでもいいわけ。
山門の吉井信号近くの一点に卑弥呼の祭祀センターがあったことは、分かっているから。
まあ、そういうことだ。
510日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:18:42.80
>>493
>>491
>>祭祀は、部族氏族単位的なものだ。

>そうか
>そんな状態の九州には
>当然ながら国王が君臨する「国家」など無いな

だから卑弥呼は複数部族から共立されたんだよ。
魏志倭人伝のとおりだ。
511日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:20:47.89
>>507
個人的意見かどうか、どうやって決めたの?
512日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:20:59.14
韓国政府が宣伝してきた邪馬台国畿内説が、破綻したので、やはり、邪馬台国城は、熊本城の地下に埋まっているのだな、、、
513日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:21:02.14
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、
纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、
瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ほのぼの畿内説 つかみどころ不明
514日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:22:38.78
>>502
魏志倭人伝の里程が短里で書かれていることは地図に照らせば間違いない。
でもそれは郡使の報告書がそう書かれていたからであり、魏志倭人伝を書いた陳寿は長里を使う人だったので、邪馬台国までの距離を過大に見積もり、結果として会稽の東と想定してしまったんだよ。
515日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:23:29.97
>>506
畿内説は根拠もなく史書を否定して歴史を改竄するような嘘を言い張っているだけでは?
516日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:24:32.25
>>510
つまり祭祀が部族氏族単位的なままなら
卑弥呼を共立した部族でないな?

九州はそれでいいな?
517日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:24:50.00
>>490
文盲は黙っとれ
518日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:26:06.00
>>513
畿内説に反論は、ないのだね?
519日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:26:29.82
ヒメヒコってさ、お雛様みたいにお内裏様とお雛様が並んでいるんじゃないの?
女王は引きこもり、弟はその言葉を伝えるだけ。
実権は伊都の大率が掌握。
それのどこがヒメヒコ制なんだ?
520日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:27:08.43
>>506
それ 間違い
521日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:27:15.24
>>514
>魏志倭人伝の里程が短里で書かれていることは地図に照らせば間違いない。

という根拠は?
出せないの?
522日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:28:58.93
>>519
そんなこと倭人伝には書いてないな
九州説は捏造して信用を失なう
523日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:29:16.69
>>513
>◆5(倭国の形成と気候変動)
> 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況

纒向と関係ないよね

> 2に、河内と吉備の交流の深さ

纒向と関係ないよね

そもそも、邪馬台国は帯方郡と交流が深かったはずなのに、纒向から楽浪土器が出ない時点で、候補から脱落するよ。
524日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:29:40.36
>>518
無い
畿内説では
ヤマトを中心とした周辺国々の連合体が邪馬台国と言う説で良い
畿内は仮称
525日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:30:29.84
>>515

>畿内説は根拠もなく史書を否定して歴史を改竄するような嘘を言い張っているだけでは?

はい、こんなこと言う証拠だしてね
526日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:30:42.97
>>522
魏志倭人伝に書いてないヒメヒコ制などというものを持ち出して失笑を買っているのは畿内説。
ひな祭りは今日でおしまいにして、明日からは決してヒメヒコなんて書き込むなよ。
527日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:31:22.37
>>518
>>524

狗奴国の比定地が問題だよ
528日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:32:51.38
>>523
>そもそも、邪馬台国は帯方郡と交流が深かったはずなのに、纒向から楽浪土器が出ない時点で、候補から脱落するよ。

纒向から楽浪土器が出ないと
候補から脱落すると思う理由は?
529日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:35:07.91
>>527
狗奴国は陳寿(中國)が倭国を弱小と位置付けるためのダミー国
530日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:36:30.28
>>526
>魏志倭人伝に書いてないヒメヒコ制などというものを持ち出して失笑を買っているのは

「九州」も魏志倭人伝には書いてないが
君たち失笑されてるの?
531日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:39:57.10
>>527
どう問題?
具体的にどうぞ
532日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:40:08.05
>>475
>なら、同意…

確かに千余里をどう言い表したらよいかちょっと考えたのだが、誤解がないほうがよいので、渡海千余里と原文のままに書いたもの。
魏の使節が「千余里」と記録したのは、おそらく「舟で何日かかる」という表現だっただろう。
つまり、倭人伝の別のところで用いている「水行何日」ということだな。
その「何日かかる」を魏の里に計算したものが、千余里ということだ。
533日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:42:43.73
430>>822
>福岡を通過せずに、直接に出雲から半島に渡るルートがあったことを証明してね。<

だから、出雲の「国引き」神話には、
新羅や沃祖や沿海州方面や越から国引きした記載がある、
しかし、中国との直接的な交易があったのか?は不明だ。
534日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:43:43.07
つまり、韓国政府が、宣伝してきた邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね、、、
535日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:43:53.99
【邪馬台国はどんな国?】

「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。

「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。

「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
鉄は圧倒的に九州にある。
邪馬台国畿内説 Part432 	->画像>19枚

「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。

三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。

その山に丹あり
弥生時代の奈良では、朱丹は二箇所で しか使用されていない。
福岡県では41箇所の遺跡で使用されている。
536日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:44:30.10
>>529
賛同 狗奴国は
畿内・九州・出雲・阿波説等々に関係無く実在しない国であろう
倭人伝でも詳細は述べられていない ただ倭国を脅かす国としか記述されていない
狗奴国は中国の陰謀の架空の国でOK
537日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:44:59.34
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
538日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:45:22.11
>>529

逆だよ。
過大評価されていたんだよ。
実は対馬海峡周辺だけの国だったんだ。
539日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:45:25.95
>>509
>そう主張する根拠は、ちゃんとあるのよ。

その根拠がここまで一切一つたりとも示されていないんだが?

「掘れば出る」という仮定形の想像しか返答がないぞww

>山門の吉井信号近くの一点に卑弥呼の祭祀センターがあったことは、分かっているから。

残念ながら、その辺は弥生時代には海だぞ
邪馬台国畿内説 Part432 	->画像>19枚

>まあ、そういうことだ。

そういうことにはならないね
まあ、諦めなさい
山門説は考古学も遺跡分布の資料もない時代に、九州でヤマトの地名を探しただけの説なんだから、
がんばるだけムダだよ
540日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:47:07.67
430>>829
と思ってたら破綻していたのは「南→東」などの嘘吐き騙しに大和説だった、、、

大和説はなぜ破綻してしまったのだろうか、、、
541日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:47:31.68
>>532
帯方郡から九州北岸までの一万里が水行10日であったのだから、東の倭地について聞き取った内容は、
「隣の倭地までは渡海1日」
だったのだろう。
542日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:48:35.10
>>529
賛同 狗奴国は
畿内・九州・出雲・阿波説等々に関係無く実在しない国であろう
倭人伝でも詳細は述べられていない ただ倭国を脅かす国としか記述されていない
狗奴国は中国の陰謀の架空の国でOK
543日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:49:20.52
>>528
文盲は黙っとれ
544日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:49:36.18
>>517
>文○は黙っとれ (バカすぎなので引用を一部修正)

つまり根拠となる記紀の原文は示せないってことだな

バカの逆ギレは見苦しいし恥の上塗りww

言い返したかったら「九州に前方後円墳を作るグループがあった」と
「記紀に明記されている部分」を直接引用してみせればいい

できるものならな!
この無能が!
545日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:50:43.99
430>>832
万世一系八紘一宇の殺人戦争狂の皇国史観大和説者は、
牧畜民族だから
人とコミュニケーションをとるのに慣れてないんじゃないかな
546日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:51:56.45
>>497
日本海航路説ですね
その他はテンプレに賛同でいいですよね
日本海航路だとその他にテンプレに指摘するところはあると思いますが
無いということでいいですよね 
547日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:52:53.79
>>545
すぐそういう中傷に走るから
九州説は信用がない
548日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:54:39.71
>>497
出雲や丹波系の土器は纒向からどのくらい出土していますか
549日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:54:49.97
>>468
瀬田遺跡からは土器が出てる
土器の詳しい説明がないが年代推定には使ったであろう
弥生時代終末期の土器が多数出土したという表現で記述されている
円墳部分が整円だから新しいという主張のようだが、添付された他の円形周溝墓の例を見れば整円はいくつかある
それに東田大塚と前方部がそっくりと言うが、比率が違うのも一目瞭然
瀬田遺跡の円形周溝墓が古墳時代前期だなどというのは根拠のない戯れ言
https://www.gensetsu.com/20160515_seta/20160515_seta.htm
550日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:56:05.03
>>519
>女王は引きこもり、弟はその言葉を伝えるだけ。

弟は佐治国だぞ
「国を治めるを佐く(たすく)」だ
言葉を伝えるだけなんて書いてない
>>519の妄想

>実権は伊都の大率が掌握。

それも妄想
一大率は遠地に置かれた派遣官で、邪馬台国の治国には関与してない

>それのどこがヒメヒコ制なんだ?

>>519が妄想しているのはヒメヒコ制じゃないねww
551日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:56:18.01
430>>839
儒教である万世一系八紘一宇の殺戮戦争狂の大和説の
およそ人間のものとは思えない破滅的な思考形態を
晒し上げにするためだけに利用されるサンプル
552日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:56:40.82
>>546
相手は日本海しか通れないという説じゃあるまいし、何の問題があるんだ?
553日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:57:47.16
>>468
>瀬田の突起付き円形周溝墓の円墳の形がほぼ整円形であり、弥生後期の円墳はおおむね不整円形。

瀬田の円形周溝墓の円形部分は直径約31メートルで、
纒向石塚古墳の後円部径約64mよりずっと小さいんだよ

小さければ発達した大陸由来の測量法なしでも小さな誤差で円が描ける
一本の紐を中心からいろんな方向に引っ張るだけでいいんだから

>前方部も東田大塚古墳の前方部とそっくりだ。
邪馬台国畿内説 Part432 	->画像>19枚
邪馬台国畿内説 Part432 	->画像>19枚

この二つを同じ形と言うってのは、めちゃくちゃ面の皮が厚いなww
根拠を示さないで文字だけならごまかせるとでも思ったのか?w
554日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:58:33.52
九州は説は思い込みが強すぎ

それが全て
555日本@名無史さん
2019/03/03(日) 22:58:37.33
430>>841
倫理性のない「南→東」などの嘘吐き騙しの戦争狂の大和説は畜生
いや倫理性を憎みそれを破壊しようとすらするから畜生以下
556日本@名無史さん
2019/03/03(日) 23:01:25.98
>>526
>魏志倭人伝に書いてないヒメヒコ制などというものを持ち出して

>>319に返信もできないくせに、ほとぼりが冷めたと思ってまた適当なことを書いてる
こいつはダメなやつだ

>>319を再掲
ヒメヒコ制は、現代の整理された概念につけられた名称(ラベル)であって、
議事倭人伝にヒメヒコ制という文字があるかどうかというレベルの話に
しようとするのは頭が悪過ぎる

そもそもヒメヒコ制という概念の発端の一つが、魏志倭人伝の
卑弥呼と佐治国の男弟の存在だ

卑弥呼は「鬼道」と魏志倭人伝に書かれた倭國独自の宗教指導者だが
魏志倭人伝に「自爲王以來、少有見者。以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食、傳辭出入。」と
あるように引きこもりの女王で、実務を担ってはいない様子が描かれている
その実務を担うのはまず第一に有男弟佐治國と書かれた男弟で、その下に
伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮の4官だろう

この神聖化された卑弥呼と、実務佐治国の男弟が、魏志倭人伝から直接読み取れる、
国の中枢の血縁の男女のペアであり、これをヒメヒコと見るという話だ

さあ、こっちはきちんと魏志倭人伝という史料から論証したぞ

個人の感想以上の「具体的な根拠を伴った反論」ができるならしてごらん
557日本@名無史さん
2019/03/03(日) 23:02:43.34
丹は九州に無いから畿内に服属した九州を含む西日本が倭国だろ
558日本@名無史さん
2019/03/03(日) 23:02:54.23
430>>844
九州説は、ただの事実の指摘や、鸚鵡返しだけだけど
九州説は罵倒なんかしない 大和州説みたくな
559日本@名無史さん
2019/03/03(日) 23:03:35.89
>>547
理由が明記してある文章の理由が読み取れていないからだ。
560日本@名無史さん
2019/03/03(日) 23:05:17.93
>>556
>さあ、こっちはきちんと魏志倭人伝という史料から論証したぞ

論証と妄想の区別がつかない人だったか。
561日本@名無史さん
2019/03/03(日) 23:07:11.97
430>>846
「南→東」などの嘘吐き騙しだけではなく、
本当にこんな嘘つきまくるだけつきまくって罪悪感もないとか
大和説はとんでもねえな
562日本@名無史さん
2019/03/03(日) 23:07:23.59
>>532
>つまり、倭人伝の別のところで用いている「水行何日」ということだな。
>その「何日かかる」を魏の里に計算したものが、千余里ということだ。

三国志では、渡海、水行、(ついでに泝流)は区別されている
渡海千里は一日で漕ぎ渡れる距離だから、「海を渡って行けるところ」でいいと思うよ

「水行で何日かかる」は、里に換算できると思われていないし
換算できるなら投馬国までの水行二十日は、水行○○里に直されていただろう
563日本@名無史さん
2019/03/03(日) 23:10:50.25
しかし筑後山門説のやつは嘘ばっかりだな
九州説のやつらはみんな同じようなもんだけど
564日本@名無史さん
2019/03/03(日) 23:15:17.16
>>548
>出雲や丹波系の土器は纒向からどのくらい出土していますか

これくらいのことは自分でググってもらった方が早いと思うよ

よく使われる数字では、「北陸・山陰系17%」だね
これは外来土器の中での比率であって、出土土器の中で外来土器全体の比率が15〜30%だから
全土器に対する比率としては3〜6%程度かな
565日本@名無史さん
2019/03/03(日) 23:20:17.96
里と日程が混在してるのは複数の資料から書き起こしたからでしょ
伝統的な認識による地理が里で表され魏使による新たな知見すなわち畿内への道程が実際の日程で記された
566日本@名無史さん
2019/03/03(日) 23:22:40.58
>>560
>論証と妄想の区別がつかない人だったか。

何度も何度もバカを相手に噛んで含めるように繰り返し書いているが
再度書くぞ

「論証と妄想の区別が付いていない」と判断するための「具体的な根拠」を示して、
「何をもって妄想と考える」のかも「具体的な根拠」を示してくれ

>>560のやっていることは「論理的な反論」が一つもできないのを
「情緒的な言葉」でごまかして反論したふりをしているだけ

同じレベルの議論すらできない無能の所行ww
567日本@名無史さん
2019/03/03(日) 23:44:35.34
>>407
久住編年では、TB期は庄内2式〜3式。
庄内2式〜3式は3世紀初頭〜3世紀中頃。
久住の見解では、那珂で庄内甕が出るのはTB期新層(庄内3式期)。
なので、那珂の庄内甕は3世紀前半の後葉ということになる。
3世紀前半の前葉(庄内2式期)には、畿内勢力はjまだ那珂に入っていない。
568日本@名無史さん
2019/03/03(日) 23:48:35.07
>>559
>理由が明記してある文章の理由が読み取れていないからだ。

何処に、なんと理由が書いてあるの?
事実のみを示してね
詐欺師には無理?

答えないと
九州説には詐欺師しかいないと言われるよ
569日本@名無史さん
2019/03/03(日) 23:55:06.65
本日の九州説のバカ発言
1.九州に前方後円墳を作るグループがあったと記紀に明記されてる
2.みやま市全体が祭祀センターで吉井信号付近を掘れば出てくる(でもまだ掘ってない)
まあ、いつものことだがな
570日本@名無史さん
2019/03/03(日) 23:57:39.63
>>567
>庄内2式〜3式。

その前の畿内第V様式土器から比恵那珂遺跡群に入ってるって
571日本@名無史さん
2019/03/03(日) 23:57:55.45
>>401
庄内甕が那珂遺跡で出るのはTB期新層。
1B期新層は3世紀前半の後葉。
庄内甕の技術でもって現地生産される筑前型庄内甕は、そのあとの布留式期。
つまり、卑弥呼が死亡する頃に庄内甕が博多地域に姿を現すということ。
それまでは、大和と博多につながりはない。
北部九州の土器は、その後も纏向遺跡で出土していない。
出ているというのなら、そのことを書いた資料を出してもらいたい。
572日本@名無史さん
2019/03/04(月) 00:02:03.11
>>570
畿内X様式土器と庄内式土器は別物。
V式土器が北部九州に波及するのは、政治的背景のない単なる流行。
573日本@名無史さん
2019/03/04(月) 00:08:14.88
>>569
バ〜カ。
みやま市全域が祭祀センターだと、言うてないワイ。
吉井信号付近がそのセンターじゃ。
まあ、知らぬが仏、よ。
精々、がんばれ。
574日本@名無史さん
2019/03/04(月) 00:18:45.53
>>573
横レスだが
おまえの与太話のどうでもいい枝葉部分を相手が正確に理解してなかったから罵倒か?
はたから見てて、痛すぎるぞ
575日本@名無史さん
2019/03/04(月) 00:19:50.54
>>571

久住編年では筑前型庄内甕が始まるのはTB期
576日本@名無史さん
2019/03/04(月) 00:25:05.45
>>562
有明海から投馬国までの水行二十日、その後の投馬国からの水行十日の資料は、里に換算されてなかったのだろう。
それが、普通の解釈だな。
577日本@名無史さん
2019/03/04(月) 00:28:40.66
比恵遺跡群において大和型庄内甕を母胎として「筑前型庄内甕」がTB期に成立し、
UA期には比恵および博多遺跡群において大和の「布留0式」の影響を
リアルタイムに受けて「北部九州型布留甕」が成立したと考えられる。(久住)
578日本@名無史さん
2019/03/04(月) 00:37:45.40
>>569
キナイコシが相手の話を理解できないコミュ障であることが再確認された。
579日本@名無史さん
2019/03/04(月) 00:39:12.92
>>576
水行20日は帯方郡から投馬国までだろうな。
投馬国は邪馬台国より南の九州南部。
580日本@名無史さん
2019/03/04(月) 00:40:49.59
卑弥呼の死後に畿内と九州北部に何らかの関係が発生したり、畿内に変動があったが、その年代感がわずかにずれると畿内説のような滑稽なことになるんだな。
581日本@名無史さん
2019/03/04(月) 00:50:12.63
吉井信号付近爺は考古知識がまったく無い
582日本@名無史さん
2019/03/04(月) 02:13:35.05
>>575
比恵那珂遺跡の外来系土器
TA期=在来系土器が主体で、点的に少量の伝統的X様式土器が伝播・受容される。庄内甕は受容されない段階。
TB期=在来系土器が主体で、庄内甕が比恵那珂遺跡群周辺のみで受容され、そして筑前型庄内甕が生産された。
UA期=北部九州型というべき布留式類似土器群が成立。
(※ソース・検索欄に「那珂遺跡 庄内甕」と入力して、開いた画面の一番上の「異系統土器の出会い-Core」を開く)

TB期は、庄内2式並行期を古相とし、庄内3式並行期を新相とする。
この庄内3式期に続いてU式期に筑前型庄内甕からの変容と布留式類似土器が成立する。
なので、庄内甕が受容されたのは庄内3式期と考える。
柳田康雄は、庄内3式は270年頃までとしている。
583日本@名無史さん
2019/03/04(月) 02:16:51.11
>>581
わははははは。
584日本@名無史さん
2019/03/04(月) 03:07:59.34
>>582
訂正

庄内3式の年代の終わりを270年頃としているのは柳田康雄ではなく、寺澤薫。
そして、柳田康雄は、庄内3式の終わりを300年としている。


このほかに、比恵中央部ではTB期古相(庄内2式期)に前方後方墳が造られるが、TB期新相(庄内3式期)には那珂中央部に前方後円墳である那珂八幡古墳が造られる。
この古墳造営の推移をみても、庄内甕の受容と筑前型庄内甕の生産はTB期新相に起こったと考えるのが妥当だ。
585日本@名無史さん
2019/03/04(月) 03:12:31.97
>>582

TA期、TB期、UA期というのは久住の北部九州編年
筑前型庄内甕の製作が始まるのはTB期=3世紀前半=庄内3式並行期
586日本@名無史さん
2019/03/04(月) 03:14:23.98
>>584

だから筑前型庄内甕の生産は3世紀前半だろ
587日本@名無史さん
2019/03/04(月) 03:19:15.54
>>582の訂正

筑前型庄内甕の製作が始まるのはTB期=3世紀前半=庄内3式並行期

筑前型庄内甕の製作が始まるのはTB期=3世紀前半=庄内2〜3式並行期
588日本@名無史さん
2019/03/04(月) 03:29:44.24
>>585
TB期古相は庄内2式と、TB期新相は庄内3式と併行する。
TB期が庄内3式のみと併行するというのは、間違いだ。
那珂に庄内甕が入ったのはそのTB期新相(庄内3式期=240年代半ばから)で、筑前型が生産されるようになるのもTB期新相(庄内3式期の間)だろう。
その筑前型が、北部九州型布留甕に変容するのが次のUA期ということ。
589日本@名無史さん
2019/03/04(月) 03:33:59.84
>>588

>TB期新相(庄内3式期=240年代半ばから)

これは久住の編年じゃない
どこからもってきた?
590日本@名無史さん
2019/03/04(月) 03:37:48.44
>>587>>585の訂正だった
591日本@名無史さん
2019/03/04(月) 03:48:42.67
横レス
山門説を唱えてて、平気で嘘をつき、捏造ばっかりやるコテを前に見たことある
nnとかいうやつだったかな?
592日本@名無史さん
2019/03/04(月) 03:49:29.24
キナイコシのコミュ障はひどくなっているようだ
593日本@名無史さん
2019/03/04(月) 04:14:45.27
>>584
そもそも、北部九州の久住編年での絶対年代を寺沢氏や柳田氏の年代観で判断しようとするのが大間違い
北部九州と畿内の併行関係が久住氏と同じとは限らない


>庄内3式の年代の終わりを270年頃としているのは柳田康雄ではなく、寺澤薫。
>そして、柳田康雄は、庄内3式の終わりを300年としている。

上の間違った論理は置いといて、寺沢氏や柳田氏の年代観についての書き込みもおかしい

安本「寺沢薫氏は、庄内様式期の時代を、西暦200年をすこし過ぎたころから、255〜260年前後ごろまでに、あてている。」
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku370.htm

邪馬台国の会によると、柳田氏は庄内式を3世紀中頃までとしている
邪馬台国畿内説 Part432 	->画像>19枚

纒向学研究 第6号
弥生時代初期の時期区分と初期青銅器  柳田康雄
P40 表2 玄界灘沿岸の青銅器からみた土器編年と年代
庄内式は260年ごろまで
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-6.pdf
594日本@名無史さん
2019/03/04(月) 04:18:50.34
横レス失礼しました
これで消えます
595日本@名無史さん
2019/03/04(月) 04:31:15.34
キナイコシのコミュ障はひどくなっているようだ
596日本@名無史さん
2019/03/04(月) 04:40:51.80
430>>847
>比恵那珂博多は糸島より畿内寄りだから ・・・<

「畿内」なんて存在もしない嘘つき騙し文言。
しかし、伊都国と大和は、同じ「阿毎」氏同士であり、
大和は、倭奴國から別れた別種分家の旧小国の形。
597日本@名無史さん
2019/03/04(月) 04:55:57.70
430>>853
>多々良川河口の多々良込田遺跡が2c後半に出現し
畿内X様式土器群が目立つ<

2世紀後半、という比定か。
大和の第X様式は、3世紀末の石塚の前だから、
筑紫の方が古い可能性が高く、第X様式も筑紫の方が先行していて、
大和は、それが伝搬した可能性が十分にある。
598日本@名無史さん
2019/03/04(月) 05:01:25.62
>>573
>みやま市全域が祭祀センターだと、言うてないワイ。

>>435で「現在のみやま市全域が卑弥呼の祭祀センター」って書いてるのは>>573以外にいないだろ?
自分の書き込みすら覚えてないんだから「バ〜カ」はお前だww
599日本@名無史さん
2019/03/04(月) 05:06:20.42
430>>855
>相変わらず何の根拠もなく、妄想を書き込むだけだな
大陸に近くても単に通過点になるだけで、特に優位性の源泉にはならない
九州には特に資源もないだろ? 弥生時代には丹もないし
人材に関しては何を言ってるんだかとしか言いようがない
魏志倭人伝にも記紀にも固有名詞で出てくる九州の人物なんてほとんどいないじゃないかw<

類スレ主の、分裂幻覚の妄想の嘘吐き騙しは、ところ知らずだなあ。
未だに弥生銀座や糸島や筑紫平野や狗奴國の発展発掘を否定している。
600日本@名無史さん
2019/03/04(月) 05:17:09.24
430>>856
>布留式甕になる前から、畿内第X様式、庄内式、布留傾向甕、布留式甕の順できっちり九州から出てるよ
畿内の胎土で作られた本当の意味の搬入土器、
正確に畿内の製作技法で九州の胎土で作られた土器、
畿内の様式に倣っているがある意味適当な畿内系模倣土器、
のそれぞれが確認できるそうだ<

「正確に畿内の製作技法で九州の胎土で作られた土器、
畿内の様式に倣っているがある意味適当な畿内系模倣土器」
とは、筑紫の胎土で造られたものだ、という意味になるから、
筑紫が先発していて、大和が後から模倣した、という可能性の方が高い、
という事になるのであり、
だから、佐々木らは、また、解釈のインチキ騙しをしていた事になる。
601日本@名無史さん
2019/03/04(月) 05:25:15.52
>>572
>畿内V様式土器と庄内式土器は別物。
>V式土器が北部九州に波及するのは、政治的背景のない単なる流行。

いろいろグダグダ言ってるけどさ、例え流行だとしても流行が伝わるほど密接な関係だったと
言うことにしかならないぞ

韓国の流行とか、無理矢理なマーケティング以外では日本に伝わらないし、
無理矢理なマーケティングをしても日本国内では流行しないだろ?ww

畿内の流行が北部九州で受け入れられるっていうのはその時点で、
同一の文化圏、同一の流通圏の中にあるということで、九州だけの倭国は
どっちにしろ成り立たないよ
602日本@名無史さん
2019/03/04(月) 05:39:07.37
>>598
ヨコからごめん
どうでもいい話 君が〇だが
603日本@名無史さん
2019/03/04(月) 05:40:03.56
430>>862
>冢の原義は、(かぶせる+しめてかためる)の意で、ここから(土を大きく盛った墓)を意味するようになったそうだ。<

その根拠は?。
常識的には、「豚」の旁にワをかぶせた文字だから、
「豚やイノシシの顔のような形態の覆われもの」という文字であり、
「チョウ」の音感も尖りを示しており、
だから、「冢とは錐体台的な形状を示す」という説明をして来たのだ。
604日本@名無史さん
2019/03/04(月) 05:43:06.59
>>600
予備知識ゼロの状態で
筑紫側が畿内を模倣しているという話を聞いて
筑紫が先行と言い張り始めるザラコク脳
605日本@名無史さん
2019/03/04(月) 05:46:02.89
この人が間違えたのかな「みやま市全体が祭祀センター」

>>569日本@名無史さん2019/03/03(日) 23:55:06.65>>573>>578
本日の九州説のバカ発言
1.九州に前方後円墳を作るグループがあったと記紀に明記されてる
2.みやま市全体が祭祀センターで吉井信号付近を掘れば出てくる(でもまだ掘ってない)
まあ、いつものことだがな
606日本@名無史さん
2019/03/04(月) 05:47:01.60
430>>864
>九州に丹山が無いのは倭国が九州以外にも広がってるという事だから
倭国の奥深くにある邪馬台国は九州では無いという事だろう<

「丹」とは、単なる「顔料」。
だから、魏志には朱丹や鉛丹や丹木の書き分けがあり、
勿論、朱丹にしても、水銀朱の特定や断定をしていないし、
阿蘇のベンガラでもよい。
607日本@名無史さん
2019/03/04(月) 05:53:35.17
430>>868
>出雲の弥生遺跡からは外来の搬入土器が多く出ており、倭国内の人の移動を
伴う交流の結節点であったことが、考古学的出土遺物からも見て取れる
出雲の山持遺跡からは北部九州系の土器とともに、半島の勒島系土器や楽浪土器も出ている
論文ではないが、ソースとして山持遺跡の紹介パンフのpdfのURL貼っておくよ
http://www.pref.shimane.lg.jp/life/bunka/bunkazai/tayori/kankoubutu/hakkutupanhu.data/1-P1-11.pdf
半島に置かれた楽浪郡、帯方郡の漢人、魏人が出雲まで来ていないと考えるのは難しいし、
来ていれば当然に九州よりも大きな墳丘墓を作れる出雲の首長の羽振りのよさも分かる訳だ
そうした倭国内での大国である出雲を経由することが、「魏使」の立場(倭国の情勢を調べて
報告する)からすれば、北部九州から大和へ向かうのに日本海経路で出雲を経由する方が自然<

魏使らは、
「南≠東」や、足摺付近の侏儒國付近方面にしか行っていないから、
日本海経路説は×。
608日本@名無史さん
2019/03/04(月) 06:06:07.82
430>>877
>福岡が王都じゃないから、北部九州から水行20+10日、陸行1月かけて、
王の都の邪馬台国まで行くんだよ
この明確な記述をなんとか誤読する方法をこねくり回すのが、九州説の行程パズルなんだよなww
軒並み否定されて、もう書くことも残ってないだろw 短里なんてないし、
萬二千里は伝説の数字を引っ張ってきただけで倭国内の特定地点を示さないし、
里程と日程の二重表記はないし、 水行の起点が帯方郡というのも通らない
残念でしたw <

この類スレ主が、また「不彌國で萬二千余里」がほぼ終わっている事を、
こっそり隠しているね。
「南≠東」で大和も出雲も否定される事も隠している。
609日本@名無史さん
2019/03/04(月) 06:54:41.92
【ネトウヨ悲報】中国でもアンチネトウヨが増えていた!!!【ケンモメン】
http://2chb.net/r/news/1551645497/
610日本@名無史さん
2019/03/04(月) 06:56:44.21
>>578
>キナイコシが相手の話を理解できないコミュ障であることが再確認された。

何をもって理解していないというのか「具体的に指摘」しなさい

これができない九州説は全員、バカで無能だから
九州説なんかを支持しているってことで終わりだよww
611日本@名無史さん
2019/03/04(月) 07:02:32.41
>>579
>水行20日は帯方郡から投馬国までだろうな。

そう読む根拠が示されていない
逆に
1.渡海と水行は区別されている
2.渡海区間も含めて水行とまとめる理由がない
3.行程の途中で注釈なしにいきなり起点を振り出しに戻す合理性がない
4.方角の齟齬(冒頭で東南大海中とあるのに南だけで着く)
5.投馬国は戸数道里略載の女王国以北の国
と、複数の具体的な否定の根拠が示されている


>投馬国は邪馬台国より南の九州南部。

上記5.の「自女王國以北其戸数道里可得略載」により否定される
612日本@名無史さん
2019/03/04(月) 07:13:10.08
>>602
>どうでもいい話 君が〇だが

>>435
「筑後山門の吉井信号付近を中心点として、『現在のみやま市全域が卑弥呼の祭祀センター。』
 どちらも、壮大な祭祀ワールドだった。」

>>569
「本日の九州説のバカ発言
 2.みやま市全体が祭祀センターで吉井信号付近を掘れば出てくる(でもまだ掘ってない) 」
>>573
「みやま市全域が祭祀センターだと、言うてないワイ」

>>602もわざわざ横レスしてまでバカをさらさなくてもいいのにww
613日本@名無史さん
2019/03/04(月) 07:18:32.38
>>603
>だから、「冢とは錐体台的な形状を示す」という説明をして来たのだ。

素人のおじいちゃんが
自分独自の思いつきを
勝手に断定して説明しても
なんの説得力もないでしょ
614◆m1vOjzSxiM
2019/03/04(月) 07:34:17.78
瀬戸内海航路で邪馬台国に行った場合

1か月も南→東と魏使は間違えるだろうか?それも幾度も
北極星は常に山陽側で光り輝くし
太陽は四国側で光り輝く

誤情報や誤認で済ませる畿内説はやはりおかしいと思う

瀬戸内で方位を1か月も間違える方法を教えて欲しい
615日本@名無史さん
2019/03/04(月) 07:40:18.61
430>>915
>ただし方位と距離については邪馬台国は沖縄と言わざるを得ない。<

ダメだ。
不彌國で「萬二千余里」がほぼ終わっているから、沖縄説は×。
616日本@名無史さん
2019/03/04(月) 07:49:04.12
430>>916
>畿内説がどんなに方位間違いの根拠を挙げてもサラリ無視して見ざる聞かざる
理由ひとつ無しに南は正しいと結論だけ 言う それが九州説<

ダメだ。人類は、
生まれて来て、親や先生から「東西南北」を教わり、
それが太陽や天体などで決まる、という人類の常識を学べは、
太陽や天体が見えなくなる事が起こらない限り、
東西南北を間違う事はおこらない。
617日本@名無史さん
2019/03/04(月) 07:53:22.18
>>614
何度言っても理解しないな

その場で方角が分かるのと、
史書に正しい方角が書かれるのは、
同列には論じられない

記録が正しくても、史書の撰者がそれを誤情報だと認識していれば、
その記録は修正される

まあ、キウスに言うだけムダだがな
618日本@名無史さん
2019/03/04(月) 07:53:49.99
430>>918
>ふつうによめば沖縄であって、北魏に使者をおくったのは沖縄の小さな
原始部族であって、畿内に成立しつつあった大勢力からのそれではない。<

普通に読めば、不彌國で「萬二千余里」がほぼ終わってしまっているから、
沖縄も大和も、全く有り得ないの。
619日本@名無史さん
2019/03/04(月) 08:00:54.10
430>>921
>九州説じたいは俺は弱いとおもってる。それこそ北九州には巨大な集落が
いくらもあり、おそらく日本でもっとも文明開化が進んだ場所であったはずだ。
しかしそこは魏志倭人伝がいうところの邪馬台国ではない。<

邪馬台国なんて文言は、史料事実に存在しない嘘つき騙し文言であり、
不彌國で萬二千余里がほぼ終わってしまっている、という史料事実は
邪馬壹國女王之所都は、北部九州の筑紫付近である、
という事は避けられない。
620日本@名無史さん
2019/03/04(月) 08:08:26.28
430>>926
>それでも人は方位を間違う それが現実<

太陽を見て東西南北を決めた「普通の人類」は、大体の方位を間違えない。
分裂幻覚の妄想患者や、詐欺師や、忖度して方向を書き換えるような役人のように、
「人類の常識」を意図的に否定する犯罪人なら、
「方位を間違う」事は有り得る。
621日本@名無史さん
2019/03/04(月) 08:10:41.67
古田史学の会の読み方では、奴国2万戸も投馬国5万戸も置ける平野はない
福岡平野全域で2万戸ならともかく早良平野で2万戸は土地生産性から見ても無理

まあ、島巡り仮説とか臆面もなく言えるところがすげぇなとは思う
常人とは違う的な意味でw
622日本@名無史さん
2019/03/04(月) 08:12:02.83
>>620
九州説って現実を無視する宗教なのかな?
623日本@名無史さん
2019/03/04(月) 08:17:07.81
>>618
>普通に読めば、不彌國で「萬二千余里」がほぼ終わってしまっているから、

終わってしまっていると、倭人の国が会稽のはるか北になって史料事実と合わない
それで九州説は終わってしまっているから、ご愁傷様
624日本@名無史さん
2019/03/04(月) 08:19:13.12
>>927
>文書に一貫性がないという前提で解析をおこなうならばそれは科学ではない。
仮に冬至の日の出を東とするならば、それは真東よりは北に27度程度ずれた
場所から朝日は登ることになる。一方で夏至の日の出を東とするならば、それは
真東よりは北に27度近くも南から太陽が昇ることになる。よって日の出の場所
から東を特定する方法は、きわめて危険な方位推定方法であるというのが
科学の通説。<

勿論、それでも、東西南北の大体の方向は間違えないが、
周髀算経は、夕方の日の入り頃の8尺棒の影端と、翌朝の日の出頃の8尺棒の影端とを結んで東西を決め、
それと直交する方向で南北を決めており、
礼記は、8尺棒の接地場所を中心として円を描いて、
8尺棒の影端がその円を横切る(午前と午後の)2地点を結んで)、東西を決める、
という方法であり、
いずれも、東西南北は、ほぼ間違えない。
625日本@名無史さん
2019/03/04(月) 08:23:42.37
430>>939
「南→東」などの嘘つき騙しのサギの大和説が、
余りにも人類の常識知らずの・・・・アホ詐欺師で、
無力で笑えるわ
626日本@名無史さん
2019/03/04(月) 08:28:12.56
430>>946
昨日も、
なんの根拠もなくも「南は東の間違い」の論破宣言してた大和説に笑えたが、
大和説はこんな程度のタマしかおらんのだな
境遇を察して泣いてやるべきか
627日本@名無史さん
2019/03/04(月) 08:29:48.30
430>>947
「南→東」などの捏造ばっかしてる大和説
628日本@名無史さん
2019/03/04(月) 08:34:31.08
こんなウソばかりついてるから
九州説はダメになった
629日本@名無史さん
2019/03/04(月) 08:48:32.08
430>>965
>文脈の読めない人だな
その例は、「方角を間違うなどあり得ない」に対する反例の1つだ<

そりゃ、アホ人間は、間違う事は有り得るし、
詐欺師や宗教人間は、意図的に間違いを唱える事は有り得る。

>同じ時代に同じ人が書いた同じ史書、3世紀の陳寿の書いた魏志倭人伝でも
末盧国から伊都国の間の方角が90度間違っている<

伊都国は、末盧國からの出発でも、途中でも見えていないから、魏使らは書けないし、
郡の東南の方向の倭地でもない途中での事だから、
魏使らは、伊都国方向なんて書けないもの。

これを正しいと結論ありきで言い張って、伊都国方向が90度間違いだ、
とか言い出すのは噴飯物だ
630日本@名無史さん
2019/03/04(月) 09:07:10.28
>>629
>伊都国は、末盧國からの出発でも、途中でも見えていないから、魏使らは書けないし、

魏使は伊都国に行ってるんだけど、自分がどっちから来たか理解できない方向オンチさんなんですか?
唐津港が真西に見える場所から北へ北へと進んで来たけど、自分がどこにいるか分からない人ですか?

そりゃ彼、畿内を南と書き残しても仕方ないわ
631日本@名無史さん
2019/03/04(月) 09:12:47.42
>>629
周髀で測定とか、大ウソだったと自ら明かす古田説

w
w
632日本@名無史さん
2019/03/04(月) 09:24:16.79
つまり、韓国政府が実行してきた、纏向に邪馬台国があったという宣伝が、完全に嘘だったとバレたのだね。。。
633日本@名無史さん
2019/03/04(月) 09:25:12.84
九州説完全に終わったな
634日本@名無史さん
2019/03/04(月) 09:34:13.60
430>>968
>必要なのは、史料の限界を認めてすべて正しいなどと考えずに、
考古学的情報も含め各項目の信頼性を一つ一つ総合的に考えていくことだよ
記述の間違いはいろんな理由の錯誤から生じるのであり、錯誤にも一貫性のあるものから
表面的な一ヶ所だけの錯誤も当然にあり得る<

ダメだ。「錯誤も当然有り得る」という事も、確率が問題。
魏使に選ばれるようなら、判断力も、人類の常識も当然十分にある、
と思われたから選ばれるのであり、
その記録の信頼性は、99%以上だと思われ、
東西南北を錯誤する確率は、殆ど0%。

それに対して、始めから「南→東」などの嘘つき騙しを実行するような人種は、
始めから・・・・詐欺師であるんだろうから、
その信頼性の確率は、殆ど0%。
635日本@名無史さん
2019/03/04(月) 09:37:37.07
>>632
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
636日本@名無史さん
2019/03/04(月) 09:43:02.44
430>>977
>>末盧国の比定が違うんだろう。<

>唐津平野以上に妥当な場所はない
唐津平野の根拠を越える根拠が提示できない以上、他の比定地は駄論<

それほどでもない。
要は女王之所都へ行く事に関しての「安全最短の原則」であり、
唐津の確率が70%位か?で、呼子が20%位か?で、その他が10%位か?、
という程度。
637日本@名無史さん
2019/03/04(月) 09:48:49.41
纒向ファンタジーワールド24時間開演中・・・
638日本@名無史さん
2019/03/04(月) 09:54:07.18
韓国政府に雇用された、破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートが、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されてしまったな。
639日本@名無史さん
2019/03/04(月) 09:58:34.05
430>>987
>>唐津平野以上に妥当な場所はない<

>福岡に行くには不便。<

類スレ主は、大和説だから、
大和へ行くんなら、福岡に行くには不便であるどころか、
そもそも、九州に上陸する必要がない。
要は、魏使らは安全最短の原則。

>魏志倭人伝と方角も違う。<

途中になる伊都国は、全く見えていないんだから、
「方向を記録した」とする事の方が異常。

>おかしいだろ。<

大和説の類スレ主の脳が、おかしいんだろ?。
640日本@名無史さん
2019/03/04(月) 10:12:56.19
始めに纒向ありき、
終りも纒向で終わりき。これ纒向ファンタジーなり。
641日本@名無史さん
2019/03/04(月) 10:18:10.34
>>639
直接見えないとどっちの方角かわからないの?
じゃあ畿内の邪馬台国が南でいいね?
642日本@名無史さん
2019/03/04(月) 10:31:28.70
431>>80
>説明できない事については人類の常識と言い切って逃亡を図るのは哀れ<

脳がクルっているから「人類の常識」で判断する事が出来ず、
「非常識」な論を言い切って、・・・・アホ扱いされる大和説者や類スレ主ら、哀れ。
643日本@名無史さん
2019/03/04(月) 10:33:26.17
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
644日本@名無史さん
2019/03/04(月) 10:37:34.50
>>612
記憶力が優れずに採り誤りしているお主に、ちゃんと頭動かしてねと催促してるわけ。
常に誤理解が先行して判断を誤っているのだから、もう少し慎重にもの言うようにね。

さて、邪馬台国の祭祀センターは、筑後山門。
そして、邪馬台国の政治経済センターは八女。
卑弥呼の祭殿は、山門吉井信号やや北の国道東側脇にあった。
そして、みやま市全域に壮大な祭祀ワールドを形成していた。
大和の纏向が人の住まない祭祀センターと墓域であったのに反し、この卑弥呼の世界は実際に人が住み生活する実に壮大な祭祀ワールドであったのだ。
645日本@名無史さん
2019/03/04(月) 10:53:23.11
>>601
>例え流行だとしても流行が伝わるほど密接な関係だったと言うことにしかならないぞ。

お主の理解は、基本的に誤認といえる。
X式の場合は、庄内甕のケースとは異なり、近畿から北部九州へピンポイントに伝わったのではないのだ。
近畿から中国地方へ、中国地方から九州へ。
また同じく、徐々に北陸へ、関東へと全方位に波及した。
電波のない時代だから、流行の波及は地域間のバケツリレー式になる。
一方、庄内甕の場合は、吉備、あるいは大和、河内からピンポイントで那珂地域に直接移動したわけ。
このようなことから、庄内甕の博多地域への移動は、まぎれもなく政治的背景のあるものであったとみなされるのだ。

お主はグダグダ言っとるが、なんも具体的な指摘がない。
本質をちゃんと把握していないから、そうなるのだ。
つまり、何も分かっちゃいない、ということ。
646日本@名無史さん
2019/03/04(月) 10:56:53.49
431>>87
大和説者って、やくざ暴力団や麻原や安部自民らのような唯我独尊のタカ派の、
「戦争でも何でもして勝ち残って自分が支配者になればいいのだ」として、
本質的には、いずれ天皇家をも支配する「アンチ天皇」の人が多いよな
日本文化の非主流派(あぶれ者)なのが明らか
647日本@名無史さん
2019/03/04(月) 11:01:23.51
論破され尽くして、もはや中傷しかできない九州説
648日本@名無史さん
2019/03/04(月) 11:04:00.53
431>>90
大和説は、短気でタカ派の唯我独尊アホなのが特徴
彼らはイデオロギー先にありきで歴史を作る
そのイデオロギーとは「自分をいじめた日本社会」に対する復習意識
つまり恨の思想

抵頭脳で低学歴の、感情で動く人は、大和説
649日本@名無史さん
2019/03/04(月) 11:05:50.93
>>598
バーカ。
「みやま市全域が卑弥呼の祭祀ワールド」だよ。
どうも、頭だけでなく目も霞んでいるみたいだな。
霞んだ目で誤認識を続けて、そのうえひとに絡んでいる爺か〜。
目医者に行ってこいよ。
650日本@名無史さん
2019/03/04(月) 11:08:53.55
5ちゃんねるで邪馬台国畿内説を宣伝するために、韓国政府に雇用された宣伝係員が、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されてしまったな。
651日本@名無史さん
2019/03/04(月) 11:32:48.71
>>603
豕(ドン、トン)=いのしし、家畜のブタ。
冢の冖の下の字(チク)=しめてかためる。このチクの語尾の音が伸びた重(ジュウ)は同系語。どちらも大きく重いことを表す。冢は、ずっしりと重くかためた盛り土の意。
                                                    (学研大漢和字典)
652日本@名無史さん
2019/03/04(月) 11:42:58.28
>>644

牧童炭鉱夫には理解できないだろうが
「あったと思う」だけでは存在したことにはならない
653日本@名無史さん
2019/03/04(月) 11:44:51.22
>>645

その庄内式の模倣製作がはじまるのは3世紀前半
654日本@名無史さん
2019/03/04(月) 11:52:09.11
つまり、韓国政府が実行してきた、纏向に邪馬台国があったという宣伝が、完全に嘘だったとバレたのだね。。。
655日本@名無史さん
2019/03/04(月) 12:10:58.92
>>653
>その庄内式の模倣製作がはじまるのは3世紀前半

弥生第X様式はあくまで、厚型の弥生土器。
弥生第X様式と同期の「東阿波型土器」は、企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法に特徴。
庄内式も企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法に特徴。
推して知るべし。  @阿波
656日本@名無史さん
2019/03/04(月) 12:14:19.09
東阿波秘境型出稼ぎ土器は布留式期
657日本@名無史さん
2019/03/04(月) 12:20:09.16
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
658日本@名無史さん
2019/03/04(月) 12:25:02.80
573と649のレスを見れば明らかだが、みやま市がどうたら言ってるやつは荒らし
放置した方がいい
659日本@名無史さん
2019/03/04(月) 12:34:20.86
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明し、
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府に雇用された邪馬台国畿内説の宣伝係員が、インターネットの掲示板を荒らしているだけになったので、放置した方がいいな。。。
660日本@名無史さん
2019/03/04(月) 12:35:53.38
>>645
お前がそう思ってるだけの事を断言するなや。
お前M木だなw
661日本@名無史さん
2019/03/04(月) 12:42:17.29
>>645
弥生第X様式はあくまで、厚型の弥生土器。
弥生第X様式と同期の「東阿波型土器」は、企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法に特徴。
庄内式も企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法に特徴。
推して知るべし。  @阿波
662日本@名無史さん
2019/03/04(月) 12:43:53.07
>>660
なにも反論できない九州説
663日本@名無史さん
2019/03/04(月) 12:52:43.72
5ちゃんねるで邪馬台国畿内説を宣伝するために、韓国政府に雇用された宣伝係員が、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されてしまったな。
664日本@名無史さん
2019/03/04(月) 12:53:37.11
気づいている人は気づいている、
もれ(仮)の推理力は迷探偵クラスでしょ


このスレでも寺沢先生、
寺沢先生と言っている人がいたり

『鏡張り あやしい城の中で』

『むかし むかし うらしまは』(はとや?)
行ってみたのか、来てみたのか・・・?
たしか結婚したはず、それが現在の・・・。
665日本@名無史さん
2019/03/04(月) 12:56:21.60
『2ch 偉人 マータ・ハジマータ』

ばればれの自演?という人物もいたり
666日本@名無史さん
2019/03/04(月) 13:03:12.78
謎のコミック(『サイバーパンクspecial』)も同じでしょ、
迷宮の王、主・・・というキャラがいたり、


あと数年前のとあるスレ
「お前は、もう書き込みするな」と言ってる人がいたり、
教えたりしたら、いけない事だったのかな?
667日本@名無史さん
2019/03/04(月) 13:08:08.72
本当に書き込みも何もない・・・、
・・・・・・・・・・・・・・・
家の話じゃないのかな?と聞いているんだけど

『松傾』
こういう名前の家
668日本@名無史さん
2019/03/04(月) 13:13:01.80
何で九州説の人は読点の打ち方や接続詞の使い方が変なのだろう
わざと読み難くしてるのか
669日本@名無史さん
2019/03/04(月) 13:15:45.77
『肌を青く染めたね』という曲も同じでしょ

『デスラ〜』

蚕を飼い、機織りをしていたという話も、ほとんど合致しているし
670日本@名無史さん
2019/03/04(月) 13:17:47.82
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
671日本@名無史さん
2019/03/04(月) 13:21:52.22
そういう謎のコミックなんかとも同じ、
住んでいるところも?川崎区の南部のほうで、
『』松の木が立てられていて・・・・・・・。
672日本@名無史さん
2019/03/04(月) 13:29:06.51
よくわからないけど、何の家なんだろう

『松傾』

こういう名前の家
673日本@名無史さん
2019/03/04(月) 13:37:45.96
いま住んでいる家の話ではないw

当時(むかーし)住んでいた家があるんだけど、
部屋に凄い刀が飾ってあったという話も、
同じような気がする
674日本@名無史さん
2019/03/04(月) 13:58:08.08
〜三貴子(神?)
日本の話ではないという話ばかりだし、
もともと、そもそもの話?
675日本@名無史さん
2019/03/04(月) 14:01:21.96
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明し、
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府に雇用された邪馬台国畿内説の宣伝係員が、インターネットの掲示板を荒らしているだけになったので、放置した方がいいな。。。
676日本@名無史さん
2019/03/04(月) 14:51:39.22
>>653
庄内甕が博多地域に直接移動したのは、庄内3式期(TB新相)。
そして、その庄内3式期内に筑前型庄内甕も造られるようになり、次の布留式期に布留式甕へと変容していく。
これらは連続しており、庄内2式期の3世紀前半前葉に起こったことではない。
アドレスを挙げてある佐々木憲一の「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」でも、それが起こるのは古墳時代が始まる布留0式の箸墓期の直前としている。
実年代は、3世紀前半後葉〜3世紀後半前葉。
677日本@名無史さん
2019/03/04(月) 14:56:54.20
どのスレの話なんだろう、
邪馬台国でも何でも良いんだけど、
本当は?家の話のような・・・・・・・・w
678日本@名無史さん
2019/03/04(月) 15:01:42.26
>>676
>庄内甕が博多地域に直接移動したのは、庄内3式期(TB新相)。

それ、誰の説?
679日本@名無史さん
2019/03/04(月) 15:04:03.48
気づいている人は気づいているw

実際は人の家の話なのに・・・ということは人権侵害?
ただの犯罪?
680日本@名無史さん
2019/03/04(月) 15:08:50.07
『シャイニン・オン』〜『ボーボボ 田ぼ』

ほとんど同じ『うらしまマリン』(仮名、キャラ名)

ボーボボの田ぼというキャラ
「ありがとう、私(僕、俺)のために、本当にありがと〜」と言っていたり
681日本@名無史さん
2019/03/04(月) 15:14:36.47
(jojo)大統領というキャラ、アッシュ・クリムゾン・・・、
同じだと言ってる人がいたり


アッシュ?ポケモンの主人公の英語名
682日本@名無史さん
2019/03/04(月) 15:17:43.37
『ポケモン 主人公 英語名 アッシュ』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・?
きんぐ?
683日本@名無史さん
2019/03/04(月) 15:19:17.64
>>676
>アドレスを挙げてある佐々木憲一の「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」でも、それが起こるのは古墳時代が始まる布留0式の箸墓期の直前としている。

横から便乗だけど、それ捏造だろ?
佐々木論文のどこにそんなことが書かれている?
684日本@名無史さん
2019/03/04(月) 15:19:26.46
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明し、
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府に雇用された邪馬台国畿内説の宣伝係員が作製したこのスレッドが、全体的に気違いじみてきたな。。。。
685日本@名無史さん
2019/03/04(月) 15:21:03.52
何かの家なのかな?・・・だったのかな?

白い服を着ていたり、
実際は着ていたわけではないのかもしれないけど


例えば『暴力団 白い服』
でも家は、こういう家ではないw
686日本@名無史さん
2019/03/04(月) 15:25:43.68
『斎祀』〜『葱の華』の写真?
687日本@名無史さん
2019/03/04(月) 15:30:03.46
そのゲーム(格闘)のwiki

三種の神器〜何やらと書いてあるでしょ?
もともと、そもそもアッシュ(クリムゾン)の話なんだろうという意味
688日本@名無史さん
2019/03/04(月) 15:46:46.96
>>169
>考古物証と様々な史書との比較から
魏志倭人伝の邪馬台国の位置は伝承に基づいたものであって
事実を反映したものではないと結論が出ました <

この男(類スレ主)は、
とうとう、同時代の実地の見聞計測記録である魏志倭人伝を、
大和説にとっては全く都合が悪く、大和説を否定している事が分かって、
「全面的に倭人伝を否定抹殺」してしまう事にした、
・・・・でした。
689日本@名無史さん
2019/03/04(月) 15:52:02.87
431>>175
大和説は、
「南→東」や「1歩=6尺」や「冢=前方後円墳」などの、
嘘吐き騙しの呪文を唱えた
しかし何の効果もなかった
690日本@名無史さん
2019/03/04(月) 15:54:55.58
431>>179
「南→東」などの嘘吐き騙しの妄想を狂ったように並べ立てる大和説
健常な国民がこれを見たら、果たしてどう思うだろう
691日本@名無史さん
2019/03/04(月) 15:55:36.09
>>644
>記憶力が優れずに採り誤りしているお主に、ちゃんと頭動かしてねと催促してるわけ。
>常に誤理解が先行して判断を誤っているのだから、もう少し慎重にもの言うようにね。

誤魔化すなww
>>573で「みやま市全域が祭祀センターだと、言うてないワイ」 と書いているが
>>435で「筑後山門の吉井信号付近を中心点として、『現在のみやま市全域が卑弥呼の祭祀センター。』
 どちらも、壮大な祭祀ワールドだった。」 とそのままを書いてるじゃないかww

単に、自分の書き込みにすら責任がもてない、能力の足りない人間だという自白を
そんなに何度も繰り返さなくていいよww

しかも、掘れば出てくるけど掘ってないという間抜けさ
もういい加減にしときなww
692日本@名無史さん
2019/03/04(月) 15:57:43.46
431>>185
「南→東」などのように、
今までの嘘を全部暴かれて退治されたのは
大和説じゃないかな
693日本@名無史さん
2019/03/04(月) 15:57:56.82
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明し、
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府に雇用された邪馬台国畿内説の宣伝係員が作製したこのスレッドが、全体的に気違いじみてきたので、放置した方がいいな。。。
694日本@名無史さん
2019/03/04(月) 15:58:27.14
やっぱり、ワッチョイかIDスレにした方がいいんじゃないかな?
695日本@名無史さん
2019/03/04(月) 16:00:44.64
>>694
どうやって?
696日本@名無史さん
2019/03/04(月) 16:05:36.35
すげー勢いでスレが進むんだな⊂⌒~⊃。Д。)⊃

ワイが魏志倭人伝を読み解いた>>131 によれば、不彌國までが朝鮮半島(不彌國のあたりが
狗邪韓國地方)で、南に渡海した投馬国が対馬で、さらに渡海した場所が邪馬台国地方(倭)
であって、その都である邪馬台国村には、上陸した場所からさらに水行十日、陸行1か月かかる
となるので、邪馬台国地方に上陸してから邪馬台国村まで南に行くのか、それとも東に行くの
かは問題とならない。一大率が置かれたとされる伊都国はこの当時は朝鮮半島にあったので
はないかというのがワイの説だ(のち朝鮮半島から撤退するにさいして北九州に来た)。

この場合、卑弥呼がいたのは奈良盆地でまったく距離的には整合する。しかしおそらくは
倭の文化は最初期には北九州で発展し、それは絹糸の縫製によって成立しており、絹織物
の定着により、ようやく寒冷期の日本列島を越冬することが可能になった、それが成立
する以前の原始の「倭」は南九州にあり、南方洋上にあるとされる理想郷「高天原」こそが
民族の祖地たる「やまと」であり卑弥呼はその高天原を祭祀する巫女としていまや奈良盆地の
地で祭祀にあけくれている。よって「やまと」は宗教的な概念であり、その神殿はたまたま
奈良盆地にあるが、そこは魏志倭人伝の述べる「やまと」とは厳密には異なる。むろん
北九州もまた、いかに人口を大量にかかえ、技術の先進地であったとしても、そこは
宗教概念たる「やまと」ではない。
697日本@名無史さん
2019/03/04(月) 16:06:14.94
431>>191
大和説を破綻させた史料事実や史料実態の一覧

短里
谷本計算
卑弥呼の冢≠前方後円墳
弥生時代に漢字の使用
三角縁神獣鏡は呉系楽浪鏡師らが日本に渡来して作った
しかも中国ではら0〜1枚しか見つかってない
プラズマ化が原子核の結合を不安定化して崩壊を加速させる
後漢書、隋書、北史、梁書、太平御覧等の著作者は揃いも揃って
勝手な自己解釈で魏志に書いてある事を書き換え記載した
・・・

書き切れないな
698日本@名無史さん
2019/03/04(月) 16:10:47.27
431>>195
>会稽東冶という地名はあったけれど 会稽東治というのは存在した事がない <

陳寿の「東治」は、地名ではなく、説明文言。
699日本@名無史さん
2019/03/04(月) 16:14:05.56
>>698
トンデモ説パレードだな
700日本@名無史さん
2019/03/04(月) 16:14:41.90
>>698
しかもウソの説明
701日本@名無史さん
2019/03/04(月) 16:15:33.23
431>>201
>何の根拠もない言いきりで草
記紀の纒向、今、纒向遺跡として発掘されていて、
そこが卑弥呼もいた倭国の王都なんだよ
纒向があった国の名前がヤマト国で、
それが大陸中華の人の聞き取り音訳で邪馬台国と記されただけ<

勿論「邪馬台国」なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
「南≠東」に拠っても、×ね。
702日本@名無史さん
2019/03/04(月) 16:18:59.89
431>>203
>その通りだよ そしてそれが邪馬台国の中心政体だ<

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき詐欺文言だ。

>記紀は、男系原理で佐治国の男弟の系譜を大王系譜としているだけ
卑弥呼はヤマトのヒメ王にして、倭国の共立祭祀王 のちの代では、斎王にあたる王だよ <

「南≠東」に拠って、×だ。
703日本@名無史さん
2019/03/04(月) 16:27:12.12
431>>204
>>魏志の「会稽東治」は、上海〜江蘇省の海岸地域になるから、<

>こういう嘘を平気で連呼できるようになる九州説ってスゴイね
犯罪者養成プログラムかなんかみたい <

260年頃の会稽付近の分郡の地図を検索してごらん。
上海付近から江蘇省は、揚州や呉の支配「治」所になっており、
陳寿の「会稽の東の治所」という説明がピッタリなんだよ。
704日本@名無史さん
2019/03/04(月) 16:28:32.26
>>695
>どうやって?

スレ立てのときに、1行目にコードを書くだけだよ

「1行のコードを入れることによって、
 スレ内でワッチョイ・IPアドレスを強制的に表示させることが
 可能になっています(強制コテハン)。

 スレ建て時に使う命令コード一覧
 以下をコピペして、スレ立て時の1行目に貼り付けてください。」

IDを表示し、強制コテハンは表示しない
!extend:checked::1000:512

IDを表示し、IPアドレスを表示
!extend:checked:vvvv:1000:512

IDを表示し、強制コテハンを表示
!extend:checked:vvvvv:1000:512

IDを表示し、IPアドレスと強制コテハンを表示
!extend:checked:vvvvvv:1000:512
705日本@名無史さん
2019/03/04(月) 16:32:17.19
>>695 新スレを立てるときに、テンプレの冒頭に下の文字列を入れると
IP、ワッチョイ表示になります。文字列じたいは消えます。


!extend:checked:vvvvv:1000:512
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ(・・・以下、省略)
706日本@名無史さん
2019/03/04(月) 16:33:39.60
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明し、
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府に雇用された邪馬台国畿内説の宣伝係員が作製したこのスレッドが、全体的に気違いじみてきたので、放置した方がいいな。。。
707日本@名無史さん
2019/03/04(月) 16:40:30.68
>>704
それはガセ
708日本@名無史さん
2019/03/04(月) 16:43:59.83
>>676

「庄内3式期(TB期新相)」というのは、山門の吉井信号付近のお前の個人的感想だな
庄内式の受容はTB期古相(比恵36次)から
筑前型庄内甕の製作はTB期=3世紀前半
北部九州型布留甕はUA期=250±年以降
久住も佐々木も畿内説だからな
709日本@名無史さん
2019/03/04(月) 17:03:40.39
>>703
>260年頃の会稽付近の分郡の地図を検索してごらん。
>上海付近から江蘇省は、揚州や呉の支配「治」所になっており、

当然なっていない
治所とは政庁(のある城市)のことで、支配下にある地域ではない


>陳寿の「会稽の東の治所」という説明がピッタリなんだよ。

江蘇省は会稽の東ではなく、北にある
710日本@名無史さん
2019/03/04(月) 17:05:53.08
431>>204
>>纒向宮は崇神らの宮でいいんだよな?<

>その「崇神『ら』」に卑弥呼も含まれるんだよ 簡単だろ?<

「南≠東」などに拠って、×。簡単だろ?。
711日本@名無史さん
2019/03/04(月) 17:16:38.49
>>707
>それはガセ

??
>>705とも一致してるよ?
ガセだというなら、ガセじゃない情報を教えて

そんなにID導入がイヤなの?
712日本@名無史さん
2019/03/04(月) 17:23:03.40
>>708
そもそも、庄内甕が那珂集落に表れた実年代が3世紀前半のいつだというのか。
3世紀前半といえば、200年〜250年も幅がある。
その庄内甕が現れた時期についての資料をちゃんと出せよ。
佐々木憲一の論文では、古墳時代開始直前だとしている。
そして、その古墳時代開始を箸墓築造時期とする。
彼の言う箸墓築造の古墳時代開始は、3世紀後半前葉だ。
とすると、那珂に庄内甕が現れるのは250年頃ということになる。
これは、久住のTB期新相(庄内3式)に当たる。
この時期に博多地域にそうした政治的な画期があって、それから、しばらくして前方後円墳の那珂八幡古墳が那珂に造られるという政治的な社会背景が生まれる。

これでぴったりじゃないか。
庄内甕が那珂にもたらされたのは、250年頃だよ。
713日本@名無史さん
2019/03/04(月) 17:24:40.81
>>712
>佐々木憲一の論文では、古墳時代開始直前だとしている。

古墳時代開始「直前」って、一年前じゃないんだよww
結局、こういうところでインチキを滑り込ませるんだよなww
714日本@名無史さん
2019/03/04(月) 17:27:44.10
>>668
テンプレが一番読みにくい。
715日本@名無史さん
2019/03/04(月) 17:30:25.84
431>>219
>(纏向)だから卑弥呼の宮だよね <

「南≠東」などに拠って、×。
716日本@名無史さん
2019/03/04(月) 17:30:31.28
>>696
邪馬臺(ヤマドイ)と音写したのは、筑後山門(ヤマド)。
「やまと」からヤマドイになるかよ。
717日本@名無史さん
2019/03/04(月) 17:30:47.62
弥生第X様式はあくまで、厚型の弥生土器。
弥生第X様式と同期の「東阿波型土器」は、企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法に特徴。
庄内式も企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法に特徴。
推して知るべし。  @阿波
718日本@名無史さん
2019/03/04(月) 17:30:54.87
>>645
>一方、庄内甕の場合は、吉備、あるいは大和、河内からピンポイントで那珂地域に直接移動したわけ。
>このようなことから、庄内甕の博多地域への移動は、まぎれもなく政治的背景のあるものであったとみなされるのだ。

伝播ではないのなら、大消費地である奴国福岡への物資の集中があったということ。
どこが王都であったかわかるよね。
719日本@名無史さん
2019/03/04(月) 17:34:53.82
>>713
バカこけ。
「直前」が50年も前の3世紀前半になるかよ。
「直前」は、卑弥呼が北部九州で死亡した頃だ。
卑弥呼が死亡したのは248年頃。
ホケノ山に鉄器がわんさか副葬される時期だ。
720日本@名無史さん
2019/03/04(月) 17:38:05.67
431>>231の訂正
本当に大和説者とその背後の学会教育界や文部省は、
何の益体もない上に
苦痛しか生み出さんな
まるで物の道理に反してるから
いずれはこの世から滅び去るんだろうけど
721日本@名無史さん
2019/03/04(月) 17:38:57.92
>>712

>資料をちゃんと出せよ。

お前が出せカスw
久住編年は論文読め

>とすると、那珂に庄内甕が現れるのは250年頃ということになる。

お前が書いてるのはお前が思うというだけの学者の名前だけ使った詐欺編年
722日本@名無史さん
2019/03/04(月) 17:40:21.78
431>>232
「南→東」などのように、
証拠を用いての議論じゃなくて
証拠を否定曲解して、
根拠なしの断定しか出なくなった大和説は
終焉の時が近い
723日本@名無史さん
2019/03/04(月) 17:42:06.86
>>712
庄内甕が博多で出るようになったのは240年代半ばからと言ってた人だろ?
突っ込まれてたのに、なんで自分はソース出さないんだ?
724日本@名無史さん
2019/03/04(月) 17:42:22.16
>>716
なりますが、何か?
725日本@名無史さん
2019/03/04(月) 17:42:28.52
>>718
それまでまったく見られなかった庄内式が、3世紀中頃になって、なんでまた突然那珂だけに現れたのよ。
いいかげんにしてよ。
途中の安芸や行橋あたりに庄内式のプールがみられるというのなら、伝播してきたのかねえということになるが、まったく突然那珂に姿を現すんだからなあ。
普通の出来事じゃないわな。
726日本@名無史さん
2019/03/04(月) 17:43:40.02
431>>243
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者で、
狂ってないヤツって、いるの?
727日本@名無史さん
2019/03/04(月) 17:44:00.92
>>714
知能がない人には読めない
728日本@名無史さん
2019/03/04(月) 17:44:47.58
>>724
耳が悪いか、頭が悪いか、どちらかだろう。
729日本@名無史さん
2019/03/04(月) 17:49:31.48
>>719

詐欺をするな
佐々木は古墳時代開始直前などとは書いてない
730日本@名無史さん
2019/03/04(月) 17:49:35.18
>>723
佐々木憲一の論文が挙げられてるだろ。
それを読めば、古墳時代直前に庄内甕が博多に現れたと書かれているのが分かる。
お主は、読んでないんか。
早よ、読んどけよな。
731日本@名無史さん
2019/03/04(月) 17:51:10.73
>>729
んじゃ、なんて書いとるのか、要約してみせろよ。
732日本@名無史さん
2019/03/04(月) 17:51:41.25
>>712

結局のところ

>庄内甕が博多地域に直接移動したのは、庄内3式期(TB新相)。

というのは考古学者が言ってるのではなく
素人の>>676個人がそうだと考えただねなのね

九州説はこんなのばかりだ
733日本@名無史さん
2019/03/04(月) 17:51:59.75
>>730

>古墳時代直前に庄内甕が博多に現れたと書かれているのが分かる。

ウソ書くな
734日本@名無史さん
2019/03/04(月) 17:53:58.83
絶対年代の推定は絶対的なものではない。
240年と250年ではまったく意味が違うのに、そこが不明なまま議論を強引に進めようとしている。
また、どちらからどちらへの移動や伝播がどのような意味を持つのかも考慮されていない。
土器と鉄などの武具、鏡などの神器では、それぞれに意味が違うはずだ。
土器だけ見て畿内が博多を占拠したかのような言い草はナンセンスだ。
735日本@名無史さん
2019/03/04(月) 17:54:02.86
>>730
時代区分で言えば「古墳時代直前」って
弥生終末期のことだよね

庄内期がすっぽり入るね
736日本@名無史さん
2019/03/04(月) 17:55:18.67
>>721
おめらが挙げたアドレスの佐々木の論文に、そう書いてあるんだよ。
それともなにか、おめらはその佐々木の論文、読解できんというんか。
案外、読解できんのかもなあ。
737日本@名無史さん
2019/03/04(月) 17:55:20.06
>>734
それ、何に反論してるの?
738日本@名無史さん
2019/03/04(月) 17:57:42.77
>>734

古墳時代直前などと学者が書いてもないことを根拠にしてる詐欺師がお前
739日本@名無史さん
2019/03/04(月) 17:58:41.94
>>736
だから、その何処に?
740日本@名無史さん
2019/03/04(月) 18:00:15.22
>>730
だから佐々木論文のどこに書かれているんだよ
その部分をコピペしてくれ
ページで示すだけでもいい
741日本@名無史さん
2019/03/04(月) 18:00:35.97
431>>245
>西晋は司馬炎が施行した戸調制をみると短里など採用してないのは明らかでしょ
短里では一家の農地の割り当てが200坪しか無くて生きて行けない <

これは、周代の井田制の時には「里」の規定などなかったようであり、
西晋の戸調制に突然書かれた「里」での説明文が、
どのような意味で書かれたのか?が不明であって、
「短里」否定の根拠にならない、という事であった。
742日本@名無史さん
2019/03/04(月) 18:01:13.50
どうして九州説は、年代詐欺をしないと気が済まないんだろうね?

結局のところ、邪馬台国論争は古墳時代の開始時期の編年で決着がついたんだよ
それをいかに「認めない」と言うかってところに、九州説は特化してきてるww
743日本@名無史さん
2019/03/04(月) 18:02:16.12
>>736

お前のは読解じゃなく、書いてないことを書いてると言張ってるだけの詐欺
何も見つかって無いのに山門の吉井信号付近に宮があったと言張ってるのも同じ
744日本@名無史さん
2019/03/04(月) 18:05:49.26
>>735
だから、おめが言う「庄内期がすっぽり入るね」は、久住のTB期なんだよ。
そのTB期には、古相と新相の区分があるのは知ってるよね。
ワイがいうてるのは、庄内甕が那珂に現れたのは新相の区分のほうだということ。
おめらは、古相と新相の全期間中に庄内甕が現れたと、間抜けたことを言うとるわけ。
その全期間は、50年間も時間幅があるんだぜ。
50年間のいずれかの時期に庄内甕が現れたというわけだから、ワイはもっと絞れよというとるの。
200年頃なのか、250年頃なのか、そうした時期の取り方で歴史解釈が全然違ってくるのだよ。
はっきりしてよ、ね。
745日本@名無史さん
2019/03/04(月) 18:05:53.21
>>740
そうそう!
九州説は、フワっとした言い方でのらりくらりと言い逃れようとばかりするから、
具体論で詰めていかないと話が進まないww

そして、具体論に入った瞬間に爆散するw

昨日の吉井信号も具体的な遺跡はどこって聞き続けたら
結局「掘ってないから出てない」だし

九州説って、こんなんばっかしww
746日本@名無史さん
2019/03/04(月) 18:10:41.71
>>743
読解できるんなら、佐々木が言っとる「古墳出現前後」とは実年代のいつ頃を指しているのか言えるはずだわな。
短くてよいから、言ってみな。
読解できるんなら、よ。
747日本@名無史さん
2019/03/04(月) 18:11:44.35
431>>248
>100枚に79枚足りないな じゃ被葬者は卑弥呼じゃないと言う事 <

貰ったのは卑弥呼であった、という事。
そして、21枚の「尚方作」方格規矩鏡以外の殆どは、
卑弥呼や壹與から部下や豪族に下賜され、
更に鏡片にされて親愛なる部下や東征部将などに下賜されて、
余った鏡は、宗女として相続した壹與の墓に副葬された。
748日本@名無史さん
2019/03/04(月) 18:12:13.81
>>744

久住論文の図にはTB期古相に庄内式が描いてある
北部九州在来系甕と筑前型庄内甕の違いも別の論文に描いてある
お前の個人的編年なんぞいらん
749日本@名無史さん
2019/03/04(月) 18:13:02.79
>>745
遺跡がなけりゃ、推定できんのか?
アホちゃう。
750日本@名無史さん
2019/03/04(月) 18:15:44.10
>>748
その久住論文の表題を挙げてみなよ。
見てみるからよ。
751日本@名無史さん
2019/03/04(月) 18:16:05.41
>>746

>「古墳出現前後」

お前が書いたのは、「古墳時代開始直前」
途中で変えるな
佐々木論文のどこに書いてるのか示せ
752日本@名無史さん
2019/03/04(月) 18:16:08.28
>>746
こいつ逆ギレ?
自分がデタラメ言っててソース出せと問い詰められたが何も出せず
逆に相手に出せと要求してるのかwww
753日本@名無史さん
2019/03/04(月) 18:17:05.92
>>742
>結局のところ、邪馬台国論争は古墳時代の開始時期の編年で決着がついたんだよ

卑弥呼の死亡に伴う変化を誤認しているだけだよ。
754日本@名無史さん
2019/03/04(月) 18:17:22.81
>>750

ググレカス
755日本@名無史さん
2019/03/04(月) 18:19:17.45
考古学では240年と250年の区別がつかないのに、畿内は何を根拠に勝ち誇ったようなドヤ顔をしているの?
756日本@名無史さん
2019/03/04(月) 18:20:00.04
>>744
>ワイがいうてるのは、庄内甕が那珂に現れたのは新相の区分のほうだということ。

なんか根拠があって言ってるのかな?

それとも、そうであってほしいという欲望だけで言ってるのかな?
757日本@名無史さん
2019/03/04(月) 18:20:53.77
>>749

遺跡もないのに考古学者にケチつけるな
758日本@名無史さん
2019/03/04(月) 18:21:09.24
431>>250
>NHKのヒストリアで2018年の歴史ニュースランキングやってて
黒塚古墳の三角縁神獣鏡の成分が中国鏡と同じだというのを取り上げた<

NHKは、文部省の支配下にある似非マスコミであり、
そのような「結論先にありき」の報道など、何の証拠にもならない。

>ツイッターの反応も、邪馬台国はやっぱり畿内だったのか、というのが多い <

ツイッターも、この5chや文部省と同じように、
「結論先にありき」のタカ派の詐術的大和説狂人が多く、根拠にならない。
759日本@名無史さん
2019/03/04(月) 18:21:59.87
>>755
200年と250年の区別がつくからだよ
これで九州説がなくなった
760日本@名無史さん
2019/03/04(月) 18:23:27.88
431>>252
あーあ、「南→東」などの嘘つき詐欺師の大和説は、
やっぱり終わったなあ
761日本@名無史さん
2019/03/04(月) 18:26:38.74
実際には嘘つき詐欺師は九州説だと
今夜も証明されたわけだが
762日本@名無史さん
2019/03/04(月) 18:27:07.88
>>754
肝の小さい奴やなあ。
763日本@名無史さん
2019/03/04(月) 18:27:27.17
佐々木論文の編年
IA期が弥生V様式末(纒向1類,河内の庄内1式)に,
IB期は纒向2・3類,河内の庄内II〜III式に, 
IIA期が纒向3,4類,庄内III〜IVに,
IIB期が纒向4類5類庄内IV〜Vに, 
IIC期が布留1式におおむね併行する

・IA期:在来系土器が主体で(在来系長胴甕の底部はレンズ底〜尖り底が主体)で,
  点的に少量の伝統的V様式土器が伝播・受容される時期。庄内甕は受容されない段階。
・IB期:在来系土器が主体で(在来系壺・甕の底部は丸底化していない)で.
  庄内甕が布留式受容以前に出現する。庄内甕はこの時期,比恵・那珂遺跡群周辺の
  みで受容,生産され,在来系土器群とは排他的に出土する傾向がある。庄内河内型甕を
  中心とした津古遺跡周辺でも限定的に受容されたようである。
・IIA期:在来系土器が根強く存在しながら(在来系壺・甕の底部の多くは丸底)も衰退する
  (特に比恵・那珂遺跡群,博多遺跡群では在地系土器群が急激に衰退)一方で,庄内式系
  土器群から北部九州型ともいうべき布留式類似土器群が成立する。在来の甕と庄内系の甕は
  かなり残る。伝統的V様式甕も多く,レンズ底状,丸底が多く,球胴化し,タタキ後
  ハケメ仕上げのものが半数以上を占める。なおT特徴的な土器様相は比恵・那珂遺跡群,
  博多遺跡群のほかは非常に点的・限定的にしか波及せず,在来系土器については,
  この段階でも周辺遺跡ではレンズ底が根強く残る。
764日本@名無史さん
2019/03/04(月) 18:30:34.52
>>751
佐々木の論文の表題
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」
これを検索欄に入力して、開いた画面の上から2番目のサイトが、それじや。
自分でちゃんと読んでみろ。
765日本@名無史さん
2019/03/04(月) 18:31:10.65
>>755
韓国人の歴史認識法と一緒だから。
想像が事実という世界に住んでる連中だよ。
766日本@名無史さん
2019/03/04(月) 18:31:26.34
>>749
>遺跡がなけりゃ、推定できんのか?

遺跡がなけりゃ、その推定には何の根拠もないってことだww
推定はできるよ、そりゃね
でも、根拠なしの推定はなんでもアリだから、
デタラメでも「推定」と言い張ることができるってことww

そして、掘ってないから出ていない、対応する遺跡などはないと自爆したのが
「吉井信号バカ」だよ
767日本@名無史さん
2019/03/04(月) 18:33:28.20
弥生第X様式はあくまで、厚型の弥生土器。

弥生第X様式と同期の「東阿波型土器」は、企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法に特徴。

庄内式も企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法に特徴。

推して知るべし。  @阿波
768日本@名無史さん
2019/03/04(月) 18:35:11.11
>>759
庄内甕が博多に現れるのはいつかと、問うとるんだよ。
「3世紀前半」じゃ、スパンが長すぎて、話にならん。
769日本@名無史さん
2019/03/04(月) 18:36:06.86
>>763
そして佐々木は
弥生V様式末の平原1号が古墳出現直前と認識している
北部九州に庄内式が登場するのがいつ頃と言っているのか

明らかですね
240年でないのが
770日本@名無史さん
2019/03/04(月) 18:36:42.32
>>764

佐々木論文なんか皆何年も前からDLしとる
該当箇所を引用せよ
771日本@名無史さん
2019/03/04(月) 18:36:57.08
>>764
その佐々木論文のどこに書かれているかを問われているんだよ
772日本@名無史さん
2019/03/04(月) 18:37:48.45
>>765
>韓国人の歴史認識法と一緒だから。

それ、九州説ww

最近の実例 
つ「吉井信号バカ」ww
『掘ってないけど掘れば出る、根拠はある』(といいつつ何一つ示さない)ww
773日本@名無史さん
2019/03/04(月) 18:39:10.66
>>769
古墳出現の最古が箸墓だと言うとるぞ。
774日本@名無史さん
2019/03/04(月) 18:39:45.65
九州説は捏造で出来ている
という話
775日本@名無史さん
2019/03/04(月) 18:42:47.94
>>773
だから何?
弥生第V様式末の平原1号が古墳出現直前だよ
776日本@名無史さん
2019/03/04(月) 18:44:41.92
平原1号は久住TA期
777日本@名無史さん
2019/03/04(月) 18:46:06.02
九州トンデモ説は、佐々木論文を佐々木の意図にまったく反して曲解したが故のトンデモだな
778日本@名無史さん
2019/03/04(月) 18:47:13.63
>>776
そして久住TA期は弥生第V様式末
779日本@名無史さん
2019/03/04(月) 18:48:22.69
弥生第X様式はあくまで、厚型の弥生土器。

弥生第X様式と同期の「東阿波型土器」は、企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法に特徴。

庄内式も企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法に特徴。

推して知るべし。  @阿波
780日本@名無史さん
2019/03/04(月) 18:52:01.62
ウソは脳死した九州説の延命装置
781日本@名無史さん
2019/03/04(月) 18:53:14.02
>>11

◆9 参考

北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
782日本@名無史さん
2019/03/04(月) 18:53:13.55
431>>254
>平原1号墓を何年頃の墓にする気だ?
ザラコクが卑弥呼の墓だと言い張っている祇園山古墳より
100年以上は軽く古いんだぞ、平原1号墓の方がww<

壹與が共立された年次は、
248年で頃以後で265年頃以前であった、という事までしか判らない。
そして、卑弥呼は姫氏系であったが、宗女の壹與は、
その名前の音韻や文字から、阿毎氏系であったらしい、という事までしか判らない。

そして平原の次の王墓は、那珂八幡などの邪馬壹國地域の前方後円墳群になり、
その後が伊都国の阿毎氏系と思われる300年頃の阿毎氏系一貴山銚子塚位になるから、
265年から300年位の間に、壹與と那珂八幡などと一貴山銚子塚の、
最低3人余りが亡くなった事になり、
壹與が270年頃、那珂八幡らは275〜285年頃、一貴山銚子塚が300年頃、
という事になる。
783日本@名無史さん
2019/03/04(月) 18:58:49.35
>>781
つまり庄内0=弥生第V様式末が古墳出現直前
784日本@名無史さん
2019/03/04(月) 19:03:28.92
佐々木本人が2世紀の遺跡を古墳出現直前と言ってる以上
「佐々木が古墳出現直前と言ったから240年ダー」
と叫んでる奴は絶賛発狂中な
785日本@名無史さん
2019/03/04(月) 19:04:08.91
佐々木論文に全文検索を掛けたけど「古墳時代開始直前」という文字列はないねww
786日本@名無史さん
2019/03/04(月) 19:08:12.91
九州説は70%のウソと30%の間抜けで出来ている
787日本@名無史さん
2019/03/04(月) 19:16:52.28
>>771
自分で読んでこそ、勉強。
じっくり読んでみたまへ。
きみの読解力が試される。
わははは。
788日本@名無史さん
2019/03/04(月) 19:20:46.48
>>784
古墳出現の最古は箸墓と言うとるよ。
789日本@名無史さん
2019/03/04(月) 19:21:43.87
>>787
その下手な逃げ方、まるで論破された岡上のようだ
790日本@名無史さん
2019/03/04(月) 19:22:26.71
>>787
嘘ついたから書かれてる場所を答えられないだけ
ほんと九州説って倫理観ゼロ
791日本@名無史さん
2019/03/04(月) 19:23:18.70
どうやら最近の学会では蓄積した考古資料などから
古墳時代を従来の4世紀から3世紀まで繰り下げようという動きがあるのかもな
個人的には2世紀後半まで下げてもいいと思うが
792日本@名無史さん
2019/03/04(月) 19:24:18.06
>>781
なので、TB期=大和庄内2式、3式。
そして、TB期古相、新相が大和庄内2式、3式に対照している。
793日本@名無史さん
2019/03/04(月) 19:25:29.85
431>>257
>>「陸地での参問」距離合計になっているんだぞ。<

>参問は、訪問するとか行ってみるという意味ではない・・・<

「参じて問うた」と読んで、何ら不都合はない。
794日本@名無史さん
2019/03/04(月) 19:26:43.63
>>788
だから何?
795日本@名無史さん
2019/03/04(月) 19:27:15.78
431>>258
>その宮処に卑弥呼もいるんだよ
是時、神明憑倭迹々日百襲姬命曰「天皇、何憂國之不治也。若能敬祭我者、必當自平矣。」
これで十分だろ?
卑弥呼・百襲姫と佐治国男弟の崇神で、ヤマトのヒメヒコを為すんだよ <

「南≠東」などに拠って、×。
796日本@名無史さん
2019/03/04(月) 19:28:47.95
畿内に3世紀から巨大前方後円墳が存在した事が明らかになれば
九州説はますます説得力がなくなるな
797日本@名無史さん
2019/03/04(月) 19:30:18.34
>>772
遺跡しか推定方法がないと思っとる想像力欠如人間…というオチ。
798日本@名無史さん
2019/03/04(月) 19:33:23.89
短里サギ九州説
799日本@名無史さん
2019/03/04(月) 19:33:44.30
今夜も九州説がみじめに論破されてるね
800日本@名無史さん
2019/03/04(月) 19:36:16.77
短里短里サギでいくら稼いだか知らんが
九州説は被害者に賠償しなきゃいかんのう
801日本@名無史さん
2019/03/04(月) 19:36:52.22
>>794
アホちゃう。
箸墓を基準にしたら、その直前の庄内式は3式ということになる。
その時期に、那珂に庄内甕が現れたということや。
卑弥呼が死亡した頃というわけ。
狗奴国と戦争中のことやな。
その庄内甕を持ってきた者はどういう者たちか。
考えたら分かるやろ。
802日本@名無史さん
2019/03/04(月) 19:38:26.47
>>801
じゃあ、なんで佐々木本人は弥生第V様式末が古墳出現直前と言ったの?
803日本@名無史さん
2019/03/04(月) 19:40:32.61
>>801
九州説信者の知能は
このように極めて低い
804日本@名無史さん
2019/03/04(月) 19:41:24.52
短里短里サギ被害者の会を結成して
九州説を集団訴訟してやろう
805日本@名無史さん
2019/03/04(月) 19:43:05.44
>>796
その巨大前方後円墳も倭国(阿波)産なんだけどね。  @阿波
806日本@名無史さん
2019/03/04(月) 19:43:55.71
>>801
あんた、思い込み強すぎ
807日本@名無史さん
2019/03/04(月) 19:44:48.51
431>>268
>これも何度も書いているが、 『魏史韓伝』 方可四千里有(半島南部)
『魏使倭人伝』 方可四百餘里(対馬) 方可三百里(壱岐)
なので、半島南部との対比で九州を描写すれば、
『方可三千里有』だとか『方可二千里有』となる。<

ならないから、×。

>他方、『参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里』の意味は、
(大海に島が絶えたり連なったりしながら並んでいて、巡り巡って五千余里あります)と言うこと。
明らかに陸地の形として、半島南部、対馬、壱岐、九州とは違う恰好のものを描写している。
したがって魏史韓伝中の『方可四千里有』の記事は、少なくとも九州ではないことの証左。<

当たり前だし、
その「有」は「有三種、一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁韓」の「有」の事。
「90度回転」男は、どうやらハクチの・・・・のようであり、放置すべきのよう。
808日本@名無史さん
2019/03/04(月) 19:45:09.58
>>805
前方後円墳の一番古いのが畿内にあるから畿内のオリジナルだろう
809日本@名無史さん
2019/03/04(月) 19:48:41.66
>>793
>「参じて問うた」と読んで、何ら不都合はない。

こっちは、大陸史書の全文検索の結果から言ってるんだよ
参問は「参照して問う」だと思えばいい

ザラコクは物知らずなんだから、もっとバカはバカなりに謙虚になりな
810日本@名無史さん
2019/03/04(月) 19:49:14.74
韓国政府に雇用された、破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートが、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されてしまったな。
811日本@名無史さん
2019/03/04(月) 19:52:02.40
ぐえー論破されたンゴ
812日本@名無史さん
2019/03/04(月) 19:52:53.88
韓国政府に雇用された、破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートが、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されてしまったな。
813日本@名無史さん
2019/03/04(月) 19:54:38.83
>>808
>前方後円墳の一番古いのが畿内にあるから畿内のオリジナルだろう

そんなにやけくそにならんでもw ハハハハ   @阿波
814日本@名無史さん
2019/03/04(月) 19:54:57.48
オウム人間ザラコクも前スレへのオウム返しか
最近邪馬台国はないから×とか南≠東だから×とか
とうとうそんなのしか言わなくなったなあ
815日本@名無史さん
2019/03/04(月) 19:56:30.23
>>784
>佐々木本人が2世紀の遺跡を古墳出現直前と言ってる以上

だからソースを示せと
816日本@名無史さん
2019/03/04(月) 19:56:46.06
>>813
やけくそはそっちじゃないの
ハハハハ
817日本@名無史さん
2019/03/04(月) 19:57:23.28
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
818日本@名無史さん
2019/03/04(月) 19:57:47.98
纒向ファンタジーワールド24時間開演中、、、
819日本@名無史さん
2019/03/04(月) 19:59:29.86
王都であると主張する伊都に侵入しないなら、博多に何があっても関係ないと思うのだが?
820日本@名無史さん
2019/03/04(月) 20:00:08.84
九州説にとってこのスレのテンプレは
さぞかし悪夢ワールドだろうよ
821日本@名無史さん
2019/03/04(月) 20:00:16.27
>>808
吉備じゃなかったのかよ。
822日本@名無史さん
2019/03/04(月) 20:01:47.20
>>816
「忌部はん」達のお墓を誇りに思ってくれるのは嬉しいんだけどね。   @阿波
823日本@名無史さん
2019/03/04(月) 20:03:00.17
>>821
今のとこホケノ山が3世紀中葉だなあ
機内にはもっと古いのかるかも知れないけど
824日本@名無史さん
2019/03/04(月) 20:05:06.97
>>822
被葬者は何々大王とかで
忌部はんじゃないぞ
825日本@名無史さん
2019/03/04(月) 20:05:07.63
431>>275
>古代中国人は、倭は沖縄あたりにあると考えてきたから、司馬イの目論見は当然だな<

これも×だな。
倭は、周代は、「燕の南」であり、
呉王夫差の遺民の倭人は、南の越王勾践の方に逃げる筈がなく、
当然山東半島や燕を回って倭に達するしかなく、
徐福らが来たとすれば、南北のどちらからか?は不明であるが、
漢書は、「樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云」」として、
如淳曰としてはっきり「如墨委面、在帶方東南萬里」としており、
倭をあくまで半島から近いところだ、という把握であり、
沖縄は×。
826日本@名無史さん
2019/03/04(月) 20:05:53.78
>>757
意味不明だな。
827日本@名無史さん
2019/03/04(月) 20:08:06.29
>>824
あのねぇ、前々から何度も言ってるが、大王クラスのお墓は山稜なのよ。 まだ理解できないの?  @阿波
828日本@名無史さん
2019/03/04(月) 20:12:38.41
>>827
えっだって前方後円墳は大体なんとか天皇の墓だろ
教科書にも載ってるし
829日本@名無史さん
2019/03/04(月) 20:15:57.44
>>797
>遺跡しか推定方法がないと思っとる想像力欠如人間…というオチ。

遺跡以外の推定方法について、まずは「具体的な根拠」を示してごらんww
何一つ根拠を示さずに、いくら「推定した」って言っても無意味なんだってば!

そして、纏向以上の祭祀センターが吉井信号付近にあるっていうなら、
最後は結局遺跡で実証しなければ、それは推論でも推定でもなく、憶測・空想の類でしかない
830日本@名無史さん
2019/03/04(月) 20:17:14.12
>>828
君は古い説に刷り込みされているんだよ。 考古学はどんどん進んでるんだよ。  @阿波
831日本@名無史さん
2019/03/04(月) 20:17:13.93
仁徳天皇の墓とかはあるけでど
忌部はんの墓と伝わる古墳はどこにあるの
832日本@名無史さん
2019/03/04(月) 20:19:45.36
日本史板はID表示やワッチョイには対応していない
これ、常識な
833日本@名無史さん
2019/03/04(月) 20:20:06.05
>>830
へーその進んだ考古学とやらを見せて欲しいものだなあ
834日本@名無史さん
2019/03/04(月) 20:20:10.22
431>>279
>75m〜80mというような幅の物差しの単位はないのだよ。
5mも幅を持たした単位があるなら、インキチし放題だ。
政府がインキチを奨励しとることになる。
だから、1里75m〜80mなんて単位は、あり得んワイ。<

「里」は元々は、「田の土」であり、
「一枚の田やそれを耕作する集落」数で以って、大体の距離を説明する方法。
それは山海経も使っていたし、
「里歩」系の歩測の「1歩」と同じように
始めから、(尺寸系の定規のような)厳格な長さの単位ではなかった。

だから、始皇帝は「1歩=6尺」という命令を発する事が必要であった。
835日本@名無史さん
2019/03/04(月) 20:21:15.66
>>831
>仁徳天皇の墓とかはあるけでど
>忌部はんの墓と伝わる古墳はどこにあるの

仁徳天皇も「忌部はん」 の一人だけど、少なくとも河内の平野じゃないよ。  @阿波
836日本@名無史さん
2019/03/04(月) 20:21:41.39
431>>280
「南→東」などの嘘つき詐欺師の大和説は、
また思考停止

というか、最初から思考してない?
837日本@名無史さん
2019/03/04(月) 20:22:57.58
>>830
>考古学はどんどん進んでるんだよ。

そして泡は退化していくww
伊都国は怡土ではない、音が似ているのは根拠にならないと言いながら、
末盧国の比定地の根拠に、出所不明の永島文書にだけ見える「満津浦」を持ってくる頭の悪さ

「忌部はん」にも「東阿波型土器」にも具体的な根拠が示せないww
東阿波型土器は布留式土器が出回ってからのものなのに、畿内の古い土器を全部根拠なく
「東阿波型土器」だと言い張るだけの無能ww
838日本@名無史さん
2019/03/04(月) 20:23:44.54
>>833
>へーその進んだ考古学とやらを見せて欲しいものだなあ

弥生第X様式はあくまで、厚型の弥生土器。

弥生第X様式と同期の「東阿波型土器」は、企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法に特徴。

庄内式も企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法に特徴。

推して知るべし。  @阿波
839日本@名無史さん
2019/03/04(月) 20:24:58.36
>>835
天皇は九州宮崎の高天原に降りたニニギノミコトの子孫で
天孫族という事になっているが
840日本@名無史さん
2019/03/04(月) 20:27:44.97
>>838
阿波の土器は畿内ではほとんど見つからないようだが
841日本@名無史さん
2019/03/04(月) 20:33:44.56
>>840
>阿波の土器は畿内ではほとんど見つからないようだが

本国だからね。 畿内その他からは水銀朱を求めてやってきているよ。  @阿波
842日本@名無史さん
2019/03/04(月) 20:34:15.67
>>838
>弥生第X様式と同期の「東阿波型土器」は

これが間違ってるだけだろ?
長く維持された遺跡で、弥生第X様式と東阿波型土器が出たってのを、
勝手に同期にしてるとかそんなところだろうさw
843日本@名無史さん
2019/03/04(月) 20:36:00.33
阿波は大塚製薬を日本最大の企業だと言ってるようなものだろ
844日本@名無史さん
2019/03/04(月) 20:36:24.15
>>842
小林行雄氏による弥生土器の編年

@ 弥生土器X様式期に小形丸底鉢(東阿波型土器)の登場

A その後、庄内式大和形甕の登場
845日本@名無史さん
2019/03/04(月) 20:36:39.27
>>841
逆に畿内が本国なんじゃないの
ハハハハ
846日本@名無史さん
2019/03/04(月) 20:36:57.35
まあしかし、2世紀末頃には、卑弥呼の纏向政権は博多を傘下にいれていたという邪馬台国大和説は、無理ということだな。
3世紀中頃に庄内甕が突然博多に現れたわけだから、纏向の連合政権が兵員を送って卑弥呼の倭國連合を潰し、博多を傘下に組み込んで、鉄器をはじめとする舶載の貴重財を独占したということだよ。
卑弥呼の邪馬台国は筑後山門、大和は人工的に造られた連合政権、この構図は変わらん。
それが歴史の真実だ。
わははははは。
847日本@名無史さん
2019/03/04(月) 20:40:31.92
>>802
なんで、弥生第X様式末が古墳出現直前と言ったの?

そんなこと、どこに書いてあるのよ。
848日本@名無史さん
2019/03/04(月) 20:41:48.24
>>846
ちょっと何言ってるのかよくわかんない
849日本@名無史さん
2019/03/04(月) 20:41:54.33
>>845
>逆に畿内が本国なんじゃないの

だったら頼もしいのに、からっきしの甲斐性なしときたもんだ。  わははははは  @阿波
850日本@名無史さん
2019/03/04(月) 20:50:09.99
渦潮見るついでに徳島に渡ったが競艇と大塚製薬の看板以外何もなかった
町おこししたくなるのも仕方がない状況やな

徳島に比べたら奈良は大都会
851日本@名無史さん
2019/03/04(月) 20:50:30.88
431>>282
>倭人伝の「官」「副」は違和感ありますね。これは魏あるいは帯方郡と
通行(あるいは通信)があった諸国(つか、「村」)の正使と福使のことじゃないか。<

官、副は、一応、倭國内の地方行政の国でのトップと副官、という形。
倭奴國の後と思われる一大率の伊都国と、卑弥呼と同じ姫氏と思われる狗奴國には、
「王」の地位が残存していた。
そして、卑弥呼の「女王之所都」の都の行政トップは、おそらく「大夫」であり、
都のある邪馬壹國の行政とは、別の組織であった。
852日本@名無史さん
2019/03/04(月) 20:53:00.73
>>846
そういう誰も主張してないデタラメ畿内説をでっち上げて論破したつもり?www
853日本@名無史さん
2019/03/04(月) 20:55:03.11
>>283
>支那の使者が何度か倭の「やまとこく(村)」まで往来して、あきらかにそんな
距離など無く、そういった報告や文書などが賢人の間ではある程度知られて
板のかもしれない。一萬二千余里と記述されているけれども現実には千二百
余里もあるかなしかであって、そういうことを嗤う主旨で「倭とは曲がりくねって
とおいさまを表わす」と皮肉っているのならば具体的な数値となってくる。<

魏使らが、「萬二千余里」をインチキして書いたものであれば、
部下や後続の張政らに確認され、皇帝らにバレれば、首が危ないから、
魏使らは、そんなインチキはしない。」
854日本@名無史さん
2019/03/04(月) 20:55:25.96
九州説は日本の学者の研究成果を拒絶する民族説
855日本@名無史さん
2019/03/04(月) 20:57:48.41
>>849
阿波の地は畿内の支配下だったのに?
ハハハハ
856日本@名無史さん
2019/03/04(月) 20:59:06.61
431>>284
>沖縄あたりまで続く巨大九州島が、倭地<

「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」
である事を確認しているようだから、侏儒國や投馬國止まりであり、
沖縄は、×。
857日本@名無史さん
2019/03/04(月) 21:04:57.65
431>>285
>>5世紀には、倭国は、まだ北部九州が中心の国だ。<

>そんな、アホな。<

隋代に大和日本国が中国へ遣使を派遣していた事を知っている唐が、
白村江の対戦相手を「倭國」「倭種」「倭賊」としか書かず、
「日本国」とか書いていないから、白村江でも倭国が存続していたのであり、
5世紀の倭国は、まだ存在していた。
858日本@名無史さん
2019/03/04(月) 21:09:34.88
431>>289
「南→東」などのサギの大和説にできることは、
都合の悪い史料事実の否定曲解と、
九州説者らへのヘイトスピーチの中傷どまり。
859日本@名無史さん
2019/03/04(月) 21:21:56.07
姫氏とかどこから出て来たんだ
860日本@名無史さん
2019/03/04(月) 21:23:24.67
九州説はもう勝ち目なし
861日本@名無史さん
2019/03/04(月) 21:28:18.14
九州説の大嘘が世間にバレたとき
果たして世間の人間は九州説を許すかな
862日本@名無史さん
2019/03/04(月) 21:32:17.90
>>855
>阿波の地は畿内の支配下だったのに?

だったら頼もしいのに、畿内はからっきしの片田舎ときたもんだ。  わははははは  @阿波
863日本@名無史さん
2019/03/04(月) 21:34:30.59
>>861
>九州説の大嘘が世間にバレたとき

大丈夫、バレるもバレないもなく、九州説の言い分なんて世間に知られてないからw
864日本@名無史さん
2019/03/04(月) 21:36:24.65
>>861
もうバレてて、許されてない
九州説には老信者しかいない
865日本@名無史さん
2019/03/04(月) 21:38:51.80
>>847
ほら、九州説トンマが佐々木論文読んでないことを自白した
866日本@名無史さん
2019/03/04(月) 21:39:49.97
431>>291
>尚方作なんて銘文は、三角縁にだってあるんだぜ
三角縁神獣鏡は明帝の下賜品だと認めるんだな?<

ダメだよ。
△「尚方作」には、同范鏡ばかりがあり、
それだけでも「魏の工房」の製作の否定で、渡来の呉系楽浪鏡師らの製作であり、
「左回り」である事も、呉系の「海東」鏡と同じであり、「魏の工房」の否定になる。
つまり、「△尚方作」は、呉系楽浪鏡師の一人が、呉朝の工房の名前を騙った、
という可能性が高い。
867日本@名無史さん
2019/03/04(月) 21:45:41.81
弥生第X様式はあくまで、厚型の弥生土器。

弥生第X様式と同期の「東阿波型土器」は、企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法に特徴。

庄内式も企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法に特徴。

推して知るべし。  @阿波
868日本@名無史さん
2019/03/04(月) 21:47:30.64
佐々木論文で言及されているのは「古墳出現前後」だよ
そしてその古墳出現「前」は、弥生時代後期が終わる辺りだよ
869日本@名無史さん
2019/03/04(月) 21:49:09.43
まー同笵鏡って事はオリジナル魏鏡があるという事だな
870日本@名無史さん
2019/03/04(月) 21:49:46.78
>>856
1里430mで計算すると、ちょうど沖縄本島往復の距離になる。
871日本@名無史さん
2019/03/04(月) 21:50:34.53
>>866
>ダメだよ。
>△「尚方作」には、同范鏡ばかりがあり、
>それだけでも「魏の工房」の製作の否定で、渡来の呉系楽浪鏡師らの製作であり、

平原鏡も三角縁も同范鏡だらけで「尚方作」の銘があるよ
平原ダメだよ
872日本@名無史さん
2019/03/04(月) 21:52:55.27
ウソつかない奴は九州説じゃない状態の今日この頃
873日本@名無史さん
2019/03/04(月) 21:55:26.15
>>857
5世紀の政権が河内・大和にあったのは、歴然としている。
旧唐書は、日本国を疑っている。
大倭王の国が名前を替えただけとは思っていないの。
また、倭種、倭賊などの語彙を使っているのは、敵国だから当然といえば当然のこと。
それだけの話。
874日本@名無史さん
2019/03/04(月) 21:56:30.49
>>868
九州説は捏造専科
875日本@名無史さん
2019/03/04(月) 21:56:38.76
>>862
三世紀当時の畿内と比べれば阿波は動物しか居ない原野
ハハハハ
876日本@名無史さん
2019/03/04(月) 21:59:48.31
>>868
冗談なしよ。
佐々木論文は、最古の古墳を箸墓としているのだから、その直前は3世紀中頃。
ちょうど卑弥呼が死亡した頃。
ホケノ山に鉄器などがいっぱい副葬される頃。
それ以前は、何も副葬されない大和なのに、なんで鉄器などが突然副葬されるようになったの?
答えは、明らか。
877日本@名無史さん
2019/03/04(月) 22:02:21.06
山門吉井信号付近朝鮮人とは会話にならない
878日本@名無史さん
2019/03/04(月) 22:08:49.97
>>725
>途中の安芸や行橋あたりに庄内式のプールがみられるというのなら、伝播してきたのかねえということになるが、まったく突然那珂に姿を現すんだからなあ。

筑紫を頂点とする中央集権だったわけだ。
879日本@名無史さん
2019/03/04(月) 22:09:51.16
>>876
>佐々木論文は、最古の古墳を箸墓としているのだから、その直前は3世紀中頃。

いくらあんたが空想して頑張ったって、その佐々木本人が弥生第V様式末が古墳出現直前と書いてるでしょ

しかも、博多湾岸地域に庄内式が登場するのが古墳出現直前だなんて一言も書いてない

要するに、九州説がウソついてるのはバレバレ
証拠があるんだから諦めろ
880日本@名無史さん
2019/03/04(月) 22:13:49.92
>>871
>平原鏡も三角縁も同范鏡だらけで「尚方作」の銘があるよ
>平原ダメだよ

同じ秩序の中で、平原の方がはるかに大きい鏡であり、太陽信仰のシンボルであるので、どちらが格上であるかは明白だね!
881日本@名無史さん
2019/03/04(月) 22:15:07.26
>>879
その年代が247年の前なのか後なのか、確定はしない。
また、その意義も不明確だ。
882日本@名無史さん
2019/03/04(月) 22:15:47.69
九州説みたいなインチキ説を信奉してると
だんだん嘘をつくことに抵抗がなくなり
どんどん人間として堕落してゆく
883日本@名無史さん
2019/03/04(月) 22:18:09.55
>>881
「その年代」って、どの年代?
九州説の日本語はいつも不完全
コミュ障だから仕方ないのか?
884日本@名無史さん
2019/03/04(月) 22:24:36.45
>>880
他人には渡さないで個人所有して割り砕いた弥生時代の鏡と、広く配布して割られなかった古墳時代の鏡
用途も性格も時代も全然違うのに、なんで序列として比較できるの?
885日本@名無史さん
2019/03/04(月) 22:26:07.43
>>839
基地外、池沼の考えた話()だよ。
テンノウ?日本の話ではないでしょ。
886日本@名無史さん
2019/03/04(月) 22:31:04.75
わかりやすく例えるなら


もれ(仮)が、いろいろと教えてあげた後に、創作したりした話、
祭祀(斎祀?)関係もそう
887日本@名無史さん
2019/03/04(月) 22:31:50.27
>>829
ところが、あるんだなあ。
想像力欠如人間には、とても思いつかんだろうがな。
だがしかし、その根拠はだれが言うてやるか。
バ〜カ。
888日本@名無史さん
2019/03/04(月) 22:33:15.90
・・・教えてもらったりした後、
かなり時代が経ってから?

先生のような人物(家の人)を
殺したんでそ?みたいなことを言ってる人がいたり、
何なんだろう
889日本@名無史さん
2019/03/04(月) 22:34:36.49
>>887
自分の主張の根拠が言えないなら
お前の負けだ
890日本@名無史さん
2019/03/04(月) 22:36:01.16
江戸時代に女酋長に当てられた山門は
筑後の中でも風習が異なる被差別地域と見られていたんだろう
891日本@名無史さん
2019/03/04(月) 22:36:19.20
大和説の捏造が異常を極め、考古学が衰退している
在野の学者は泣いている
892日本@名無史さん
2019/03/04(月) 22:36:31.69
>>879
まだ出してこんなあ。
「佐々木本人が弥生第X様式末が古墳出現直前と書いている」て、どこに書いてるのよ。
そんなこと書くわけないだろによ。
893日本@名無史さん
2019/03/04(月) 22:36:44.60
でそ=でしょ

という意味らしい、どのスレだったか、
そのようなことを言ってる人がいたような

殺したのか?それとも殺そうとしたけど・・・、
他の地方に・・・逃れ?
894日本@名無史さん
2019/03/04(月) 22:40:00.39
何の家の話なんだろう、
本当は・・・断絶しているのかな?

・・・・・・絶えたように思えるけど、
どこかの地方へ落ち延びたりして・・・。

『氷の世界』?
895日本@名無史さん
2019/03/04(月) 22:40:49.23
>>889
お前は、纏向祭祀センターだけで我慢しとけ。
卑弥呼の宮室は、筑後山門だ。
山門は壮大な祭祀ワールドだよ。
身が震えるほどだ。
わははははは。
896日本@名無史さん
2019/03/04(月) 22:41:30.39
>>876
>佐々木論文は、最古の古墳を箸墓としているのだから、その直前は3世紀中頃。

「どの段階の土器をもって古墳時代とするのかという議論は,纒向石塚や箸墓など
纒向編年(当時)のどの段階に位置づけられる墳丘墓を古墳時代最古の古墳とするかが
研究者によって違うため,混乱を極めた。筆者はtいわゆる定形化した前方後円墳の
出現を重視しており,奈良県桜井市箸墓古墳を最古の古墳と捉える立場である。」

「したがって,地域によって古墳時代の始まりを時間的に統一することは簡単ではない。
即ち,「庄内式末」あるいは「布留式初頭」と言及した際そのおおよその西暦年代が
地域によって若干異なるという問題がないわけではない。一応,近畿地方では庄内,
布留式土器の時代を対象とし,それ以上細分はしない。」

「本稿で「初源期」の古墳という場合,それは近藤義郎編集の『前方後円墳集成』の
1期の古墳を指す。このなかには、箸墓や纒向石塚のように纒向4類の時期に遡るものが含まれるが,
それらは奈良盆地南東部の大和古墳群の纒向支群に現在のところ限られており,一般的に
布留式前半(纒向5類)の時期と考えてよい。」

この辺をきちんと読み取らずにごっちゃにしてるからダメなんだよ
897日本@名無史さん
2019/03/04(月) 22:41:35.37
『姥清水』〜『松傾』?

どう考えても同じ家の話だし・・・。
898日本@名無史さん
2019/03/04(月) 22:41:46.92
>>891
在野って学者と呼ばれない
899日本@名無史さん
2019/03/04(月) 22:44:00.49
>>892
書いてあったら、どうする?
900日本@名無史さん
2019/03/04(月) 22:45:27.74
>>895
>山門は壮大な祭祀ワールドだよ。

吉井信号バカは、推測の根拠を未だに示さないなww
そういう脳内お花畑を垂れ流すなっての!

自分がバカだとどこまでもさらしていくスタイルだな!
901日本@名無史さん
2019/03/04(月) 22:46:33.38
>>878
逆だろう〜。
902日本@名無史さん
2019/03/04(月) 22:47:32.26
九州説はウソつきすぎ
903日本@名無史さん
2019/03/04(月) 22:48:10.54
431>>324
>“短里”などという物差しの単位は、存在しない。<

史料実態は、短里だ。

>1万2千余里は、遠い所という慣用句のようなもの。
この1万2千余里を地理的な実際の距離を表したものと考えるから、判断を誤る。<

魏使らが、慣用句を使うズボラをした事が、
部下や張政らにバレたら、首が危ないから、そんなアホな事はしないもの。
904日本@名無史さん
2019/03/04(月) 22:50:36.50
>>868
佐々木本人は、最古の古墳は箸墓だと書いておるがなあ。
905日本@名無史さん
2019/03/04(月) 22:52:53.23
佐々木は、
「分析対象とするのは,古墳出現前後の時期に大和や河内で生産され.
北部九州(壱岐を含む)・朝鮮半島南部に運ばれ,そこで模倣製作された
伝統的V様式甕,庄内甕,布留甕(布留式傾向甕も含む)である。
特に集落から出土する土器を資料とする。」
と書いてるな
906日本@名無史さん
2019/03/04(月) 22:54:34.38
>>885
記紀に書いてる事も知らないのか
それとも天皇制廃止論者か何かか
907日本@名無史さん
2019/03/04(月) 22:55:07.71
>>877
遺跡専門員が言ってもなあ。
908日本@名無史さん
2019/03/04(月) 22:55:37.62
>>904
だから何?
909日本@名無史さん
2019/03/04(月) 22:58:20.14
>>879
早よ、その証拠だせよ。
大和説は捏ね上げトンデモ。
箸墓は、江戸時代まで円墳だった、だからなあ。
まともな論はないんか。
910日本@名無史さん
2019/03/04(月) 22:58:39.51
>>904
>佐々木本人は、最古の古墳は箸墓だと書いておるがなあ。

>>896の引用の中の1文だけ取り上げてそこしか見ないのは、典型的なチェリーピッキングw
911日本@名無史さん
2019/03/04(月) 22:59:51.52
史料から見て短里は存在しないな
中国本土で使われて無いのは明らかだからな
912日本@名無史さん
2019/03/04(月) 23:02:16.58
遺跡を考慮しないなら、糸島、博多湾岸方面は方位が違うから対照外になる
913日本@名無史さん
2019/03/04(月) 23:03:24.40
>>909
ここは畿内説のスレだから、そんなこと言った人はいないなあ
914日本@名無史さん
2019/03/04(月) 23:03:28.60
>>904

「また古墳出現直前,久住IA期には倣製鏡が40面出土した平原墳丘墓遺跡[czr−39]が隣接する」佐々木
915日本@名無史さん
2019/03/04(月) 23:03:57.16
>>908
古墳(箸墓)出現の時期の直前に、庄内甕が博多に現れる。
250年頃だよな。
卑弥呼死亡は248年頃。
邪馬台国が狗奴国と戦争中のときに、博多に庄内甕が突然現れるんだよ。
その意味、分かるよね。
916日本@名無史さん
2019/03/04(月) 23:04:11.79
>>898
アカデミーに属していないと学者ではないというのは不遜だな。
917日本@名無史さん
2019/03/04(月) 23:05:19.77
>>340の訂正
>大和からは「尚方作」鏡が出土しない。<

www.ne.jp/asahi/isshun/original/mater10.html
に拠れば、奈良県北葛城郡から、呉系楽浪鏡師らの、
同范鏡のある左周りの「呉の尚方作を似せた?△」らしき鏡が出土していた。
918日本@名無史さん
2019/03/04(月) 23:07:09.78
>>915

そりゃ吉井信号編年だろw
919日本@名無史さん
2019/03/04(月) 23:07:35.59
>>909
横レスだが
「古墳出現直前,久住IA期には倣製鏡が40面出土した平原墳丘墓遺跡」と書いてあるね
281ページの下の方の三雲遺跡の項にある

IA期が弥生V様式末(纒向1類,河内の庄内1式)とも書いてある
920日本@名無史さん
2019/03/04(月) 23:08:56.07
>>905
で?
それで邪馬台国の場所がこんな論議でわかるのか?
921日本@名無史さん
2019/03/04(月) 23:12:07.82
>>914
この文章が載っている論文の表題は?
922日本@名無史さん
2019/03/04(月) 23:12:22.57
>>920

もう結論は出ている
923日本@名無史さん
2019/03/04(月) 23:13:31.83
このスレは邪馬台国研究から
なぜ九州説がどうしようもなく頭が悪いのか研究するスレに変わりました
924日本@名無史さん
2019/03/04(月) 23:15:44.16
>>920
>それで邪馬台国の場所がこんな論議でわかるのか?

卑弥呼の遣使より前の時期から、北部九州最大国の奴国の中枢域・比恵那珂遺跡群で
畿内様式土器が出ており、畿内と北部九州が密に交流していたことが確認できる

つまり、畿内と没交渉の九州のみに倭国があったという九州説の拠り所が
破綻しているってことが確認できるんだよ
925日本@名無史さん
2019/03/04(月) 23:19:03.52
>>921
>この文章が載っている論文の表題は?

「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf
926日本@名無史さん
2019/03/04(月) 23:23:05.66
>>916
>アカデミーに属していないと学者ではないというのは不遜だな。

チラシの裏に根拠なしの憶測を書いている素人 が「学者」を自称しても嗤われるだけだよw
927日本@名無史さん
2019/03/04(月) 23:26:20.90
学者なのかどうかは、専門家と方法論を共有しているかどうかで決まる
928日本@名無史さん
2019/03/04(月) 23:26:37.85
何か知ってる人がいるのかな、
このようなことを言ってる人がいたでしょ?
数年前の・・・・あのスレ、陰謀関係?


「生きてたのか!もう私ではない」
「真似なんてしているから、こんなことになってしまった」
「もう私ではない、何度もいました、だっつーの!そういうことなんだっつーの!」
「本当にそう、もうどうにもならないんだっつーの!」
929日本@名無史さん
2019/03/04(月) 23:29:49.36
>>927
>学者なのかどうかは、専門家と方法論を共有しているかどうかで決まる

学者かどうかは、継続的に査読付き論文を発表してるかどうか、でいいと思う
930日本@名無史さん
2019/03/04(月) 23:32:50.00
生きてたというか、復活したの?
断絶していたと思われていたけど
・・・・・・・・・・みたいな話

セイントセイヤみたいな話、
フェニックス?
931日本@名無史さん
2019/03/04(月) 23:35:32.61
何の話なんだろう、中二病?
932日本@名無史さん
2019/03/04(月) 23:37:46.87
>>589
検索欄に「久住猛雄 TB期」と入力し、画面の1番上の「kusumi takeo 2006…」を開く。
2p目の上から15行目 畿内と北部九州の併行関係
933日本@名無史さん
2019/03/04(月) 23:47:09.17
>>932

>TB期新相(庄内3式期=240年代半ばから)

久住編年ではこんな年代は書いていない
934日本@名無史さん
2019/03/04(月) 23:47:31.87
>>924
王都である伊都国ではなく、大衆文化の奴国だけなんでしょ。
土器は民間交流を示すのみであり、政治や王権の所在を示すものではないわけだ。
935日本@名無史さん
2019/03/04(月) 23:50:26.80
家の話のような気がするんだけど、
姥清水・・・、
むかーし?住んでいたことがあるというところとか、
936日本@名無史さん
2019/03/04(月) 23:50:44.72
纒向から楽浪土器が出てないから、帯方郡と直接交流していたのはやはり九州北部にしかならないのだけど。
937日本@名無史さん
2019/03/04(月) 23:51:33.96
>>911
そうだね。
短里は東夷で使われていた単位だね。
938日本@名無史さん
2019/03/05(火) 00:06:18.33
>>866
>ダメだよ。
>△「尚方作」には、同范鏡ばかりがあり、
>それだけでも「魏の工房」の製作の否定で、

へー、平原の「尚方」も同范鏡ばかりだよー
銘の開始位置が6時方向なんておかしなものまであるから、国産でいいね

大和天神山の「尚方」の方が出来が良い
939日本@名無史さん
2019/03/05(火) 00:06:29.05
>>934

伊都国王は伊都国だけの王
940日本@名無史さん
2019/03/05(火) 00:15:10.28
>>937
東夷は里を知らなかった
941日本@名無史さん
2019/03/05(火) 00:18:27.42
>>937
>短里は東夷で使われていた単位だね。

誰が短里を使うんだい?
公孫氏は漢人だから漢尺を使う
魏代の帯方郡の人は魏尺を使う

韓人、倭人は里を知らない

さて、誰が短里を使うんだい?
942日本@名無史さん
2019/03/05(火) 00:20:55.47
>>932
TB期新相が240年代半ばから、なんてどこにも書いてないな
つまり、捏造したわけだ
943日本@名無史さん
2019/03/05(火) 00:24:03.93
周からの生き残りの人間だ!
944日本@名無史さん
2019/03/05(火) 00:36:30.53
書いてないことが九州説の根拠
945日本@名無史さん
2019/03/05(火) 01:11:54.05
山門説のやつはここ数日で何回嘘ついて捏造したんだろうな
捏造することが悪いことだという自覚がないところが異常すぎる
946日本@名無史さん
2019/03/05(火) 01:21:41.86
>>941
使われていたという事実を前にして何をほざくか。
魏志倭人伝を無視した議論は不毛だ。
947日本@名無史さん
2019/03/05(火) 01:25:39.95
畿内説の議論は、かなり細い糸を無理やり繋いでいるようだ。
話を聞いていると連想ゲームのようだ。
でもそれでは卑弥呼の宮はどこだというとまとまらない。
郡使はどこまで来たのかというと伊都までだとか畿内まで来たのだとか、まとまらない。
畿内までどうやって来たのかというと、瀬戸内海だ日本海だ、上陸地点もままならない。
纒向からは魏の使いを饗応した痕跡が全くなし。
およそ当時の九州北部に匹敵する文化的生活をしていたとは思えない貧相な纒向遺跡。
948日本@名無史さん
2019/03/05(火) 01:37:06.87
>>925
この「古墳出現直前」は、必ずしもTB期古相(庄内2式)を指していないと考えられる。
文章は、4世紀初め築造の端山古墳と三雲南小路遺跡や三雲遺跡、平原遺跡の関係が、箸墓古墳と纏向遺跡、那珂八幡古墳と比恵・那珂遺跡などの関係とよく似ているようにみえるというもの。
これらの古墳と遺跡の時間差は7、80年〜100年以上ある。
弥生後期の平原墓と4世紀初めの端山古墳との時間差は100年を越えるものである。
そのような長スパンの関係を述べる際に用いられた「古墳出現直前」は、「直近」の意味を言うものではないと考えられる。
TA期の直近であればTB期古層(庄内2式)を指すことになるが、この文章のケースの「直前」は7、80年の長スパンを前提にしているものなので、「古墳出現直前」は少なくともTB期新相あたりを示すものであろう。
949日本@名無史さん
2019/03/05(火) 01:51:29.31
>>942
TB期全体が200年〜260、270年の期間なので、これを便宜的に新古二等分すれば、TB期新相は240年頃から270年頃が妥当だろう。
950日本@名無史さん
2019/03/05(火) 01:54:16.35
>>947
九州説はもっとハードルが高いぞ
存在した痕跡が皆無な国を妄想して、実在したんだと言い張ってるんだからw
951日本@名無史さん
2019/03/05(火) 01:58:24.45
>>918
庄内甕が突然那珂に現れる理由は、それ以外に妥当なモデルはない。
952日本@名無史さん
2019/03/05(火) 02:00:24.92
>>949
捏造を指摘されておいて、また捏造するのかよwwwww
おまえ根っからの嘘つき人間なんだな
953日本@名無史さん
2019/03/05(火) 02:01:37.32
>>948

TB期新相に那珂八幡古墳が築かれるから
直前が長スパンなら「古墳出現直前」はTA期よりも古い時期になる
954日本@名無史さん
2019/03/05(火) 02:02:10.18
連続句読点も伊都クズも捏造しまくり
955日本@名無史さん
2019/03/05(火) 02:03:32.71
>>949

久住はそんな編年はしていない
UA期が250±年から
956日本@名無史さん
2019/03/05(火) 02:11:46.49
佐々木は、UC期の瑞山古墳と三雲遺跡の関係が
箸墓と纒向、那珂八幡古墳と比恵・那珂遺跡群の関係と比較できるのかもしれない
と書いている
957日本@名無史さん
2019/03/05(火) 02:15:24.46
>>939
>>934

>伊都国王は伊都国だけの王

そんな小さな国があったという証拠は?
三雲の富は広域の支配の結果だし、大量の漢鏡は倭の代表として中国と交渉していたことの証でもあるよ。
958日本@名無史さん
2019/03/05(火) 02:16:42.70
三国志の中で短里は使われていない
そもそも歴史上存在した事が無い
959日本@名無史さん
2019/03/05(火) 02:17:10.20
東夷伝で使われてますよ。
960日本@名無史さん
2019/03/05(火) 02:18:36.42
>>938
>へー、平原の「尚方」も同范鏡ばかりだよー
>銘の開始位置が6時方向なんておかしなものまであるから、国産でいいね

アマテラスは鏡を作らせた。
平原の卑弥呼が鏡を作らせたのをモデルとしているのだろう。
961日本@名無史さん
2019/03/05(火) 02:19:39.81
>>957

小さな伊都國は倭人伝に書いてある
後漢書には伊都國は書かれていないない
962日本@名無史さん
2019/03/05(火) 02:25:43.34
>>960

天照大神は岩戸に隠れていたから鏡を作らせてはいないね
963これは無いよ 南→東の回答になって無い
2019/03/05(火) 02:31:24.08
6141 ◆m1vOjzSxiM 2019/03/04(月) 07:34:17.78
瀬戸内海航路で邪馬台国に行った場合
1か月も南→東と魏使は間違えるだろうか?それも幾度も
北極星は常に山陽側で光り輝くし
太陽は四国側で光り輝く
誤情報や誤認で済ませる畿内説はやはりおかしいと思う
瀬戸内で方位を1か月も間違える方法を教えて欲しい
   ⇓
617日本@名無史さん2019/03/04(月) 07:53:22.18
>>614
何度言っても理解しないな
その場で方角が分かるのと、
史書に正しい方角が書かれるのは、
同列には論じられない
記録が正しくても、史書の撰者がそれを誤情報だと認識していれば、
その記録は修正される


「記録が正しくても、史書の撰者がそれを誤情報だと認識していれば、
その記録は修正される」
これは無いよ 根拠がない証拠がない 誰が修正したの?畿内説の一方的な倭人伝を歪めた解釈としか????
964日本@名無史さん
2019/03/05(火) 02:36:53.37
纒向遺跡の前身は伊勢遺跡で、伊勢遺跡の前身は出雲の荒神谷・加茂岩倉遺跡では?
荒神谷・加茂岩倉で出雲・畿内の連合形成
伊勢遺跡で東海・吉備も合流
965日本@名無史さん
2019/03/05(火) 02:51:36.14
>>963
九州説が方角は絶対に正しいといくら言い張っても無意味だよ
現実に末盧国から伊都国の方角が間違ってるんだから、どんな屁理屈こねても無駄
太陽がー、北極星がー、とか小学生レベルの口実

魏使の記録を陳寿が中国古来からある地理観に基づき訂正した可能性もあるし、
倭人からの伝聞をソースにした可能性もある
個人的には後者だと思うが

方角か日数のどちらかが間違ってて、どちらが間違ってるかは不明
これが正しいスタンス
966◆UiepmfCeDJqf
2019/03/05(火) 04:55:15.24
新スレ立てました。
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1551727393/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
967日本@名無史さん
2019/03/05(火) 05:42:20.41
431>>442
>軽量薄型土器は、庄内式土器(土師器)の特徴であって、東阿波型土器だという根拠にはならない
庄内式土器は、山陰の内ケズリや、吉備の横みがき仕上げの影響で河内南部で成立したと考えられている<

軽量薄型では、普通のろくろ成型ではもろ過ぎて、使い物にならないもの。
丈夫にするには、高温焼成が不可欠。
だから、韓での陶器や鉄をなどの高温焼成など技能を知っている北部九州が、
おそらく、列島での庄内の始まり。
968日本@名無史さん
2019/03/05(火) 05:52:21.78
431>>461
日本語が不自由のようだが、「九州説が里を捏造してる」とでも言ってるのか?
デタラメ説を勝手に捏造してイチャモンつけてるだけだな
大和説は、
自説を押し通すときも捏造、畿内説を攻撃するときも捏造
クズ過ぎる
969日本@名無史さん
2019/03/05(火) 06:02:13.71
431>>487
こういう、
「南→東」などの嘘吐き騙しの異常者しかいなくなったの大和説が、
見ていてとても痛ましい
970日本@名無史さん
2019/03/05(火) 06:11:33.33
431>>498
90度回転男は、
「不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている」という計算や、
「南≠東」である事、などが、
どうして分からないんだろうか?。
人間じゃないんだろうか?。
971日本@名無史さん
2019/03/05(火) 06:18:44.65
431>>508
大和は、「南≠東」や「不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている事」で、
×。
972日本@名無史さん
2019/03/05(火) 06:34:30.39
431>>545
>つまり国産鏡とは違って 三角縁神獣鏡は魏晋鏡と同成分だから
魏から下賜さrた鏡である事の証明と言えるんだぞ <

△は、魏晋鏡と「全く同じ」成分ではなかった、んだぞ。
973日本@名無史さん
2019/03/05(火) 06:35:52.38
963 名前:これは無いよ 南→東の回答になって無い 2019/03/05(火) 02:31:24.08
6141 ◆m1vOjzSxiM 2019/03/04(月) 07:34:17.78
瀬戸内海航路で邪馬台国に行った場合
1か月も南→東と魏使は間違えるだろうか?それも幾度も
北極星は常に山陽側で光り輝くし
太陽は四国側で光り輝く
誤情報や誤認で済ませる畿内説はやはりおかしいと思う
瀬戸内で方位を1か月も間違える方法を教えて欲しい
   ⇓
617日本@名無史さん2019/03/04(月) 07:53:22.18
>>614
何度言っても理解しないな
その場で方角が分かるのと、
史書に正しい方角が書かれるのは、
同列には論じられない
記録が正しくても、史書の撰者がそれを誤情報だと認識していれば、
その記録は修正される


「記録が正しくても、史書の撰者がそれを誤情報だと認識していれば、
その記録は修正される」
これは無いよ 根拠がない証拠がない 誰が修正したの?畿内説の一方的な倭人伝を歪めた解釈としか????
974日本@名無史さん
2019/03/05(火) 06:42:08.40
>>973
他人にわかる文章かいてね
975日本@名無史さん
2019/03/05(火) 06:42:45.85
>>965
ザラコクが解答済み
俺は末盧國の比定地が間違っていると思うがネ
976日本@名無史さん
2019/03/05(火) 06:48:04.94
>>965
>陳寿が中国古来からある地理観
  どういう地理観なの? 三国志より古い書物で詳しく頼む

>倭人からの伝聞をソースにした可能性もある
  これは予想だから、可能性は薄い
977日本@名無史さん
2019/03/05(火) 06:49:20.49
431>>584
もはやデタラメ結論のみを言い張るだけの大和説
当然ながら未来はゼロ
978日本@名無史さん
2019/03/05(火) 07:01:25.58
畿内説の方位の考えのロジック

1方位はすべて正しいとは言えない
根拠(東南陸行 五百里 到伊都國・・・ここは間違っているではないか)

2 1より南至投馬國、南至邪馬壹國 の 南は間違っている可能性がある

3 結 方位が間違っているとしたら邪馬台国が畿内にあってもおかしくない

こんなとこかな 確率論的にはダメだが
979日本@名無史さん
2019/03/05(火) 07:04:49.70
>>978
なんで九州説は他人の考えを創作するの?
980日本@名無史さん
2019/03/05(火) 07:15:12.05
>>972
舶載鏡に分類されてきた三角縁神獣鏡は
魏・晋鏡と全く同じ素材銅グループに入る
981日本@名無史さん
2019/03/05(火) 07:19:53.17
>>943
>周からの生き残りの人間だ!

すげえな! 400歳超にはなるなw
秦の始皇帝はこの人を調べた方が蓬莱に探検隊を出すよりも不老長寿に近づけたんじゃないか?ww

というか、周朝でも短里じゃないんだがなw
982日本@名無史さん
2019/03/05(火) 07:20:03.24
>>975
ザラコクと同等の馬鹿でウソツキだと言うのか?
それは・・・


・・・凄いな
983日本@名無史さん
2019/03/05(火) 07:23:15.29
>>964
伊勢遺跡だけ重視しすぎ。
おそらく同程度の遺跡は日本海側の各地にあったのだろう。
あと、畿内というのは漠然としていて意味をなさないよ。
せめて河内とか大和とか分けないとね。
984日本@名無史さん
2019/03/05(火) 07:24:02.83
>>946
>使われていたという事実を前にして何をほざくか。

使われてないよw
そこからして事実誤認だし、史料の扱い方がおかしい

単純に、晋の高祖司馬懿の公孫氏討伐の功績を持ち上げるために、
倭国をより遠くの大国として描くという動機の上で、距離を誇張して盛ってあるだけ

短里なんてないし、魏朝の役人が魏の皇帝の定めた公定尺の度量衡以外を使う理由はない
985日本@名無史さん
2019/03/05(火) 07:26:11.03
>>983
>おそらく同程度の遺跡は日本海側の各地にあったのだろう。

倭国(阿波)に、いっぱいあるよ。  @阿波
986日本@名無史さん
2019/03/05(火) 07:27:06.30
畿内説の方位の考えのロジック

1方位はすべて正しいとは言えない
根拠(東南陸行 五百里 到伊都國・・・ここは間違っているではないか)

2 1より南至投馬國、南至邪馬壹國 の 南は間違っている可能性がある

3 結 方位が間違っているとしたら邪馬台国が畿内にあってもおかしくない

こんなとこかな 確率論的にはダメだが
987日本@名無史さん
2019/03/05(火) 07:27:59.17
「はずがない」という思い込みだけで、議論になってない。
畿内説は自分たちだけのルールにより妄想を作り上げている。
988日本@名無史さん
2019/03/05(火) 07:30:25.97
>>987
>畿内説は自分たちだけのルールにより妄想を作り上げている。

九州説もだがねw   @阿波
989日本@名無史さん
2019/03/05(火) 07:37:30.44
>>712
>その庄内甕が現れた時期についての資料をちゃんと出せよ。
>佐々木憲一の論文では、古墳時代開始直前だとしている。
>そして、その古墳時代開始を箸墓築造時期とする。
>彼の言う箸墓築造の古墳時代開始は、3世紀後半前葉だ。
>とすると、那珂に庄内甕が現れるのは250年頃ということになる。

とウソを書き続けた
九州説信者は
しんじゃったの?
990日本@名無史さん
2019/03/05(火) 07:39:39.11
>>963
>これは無いよ 根拠がない証拠がない 誰が修正したの?
>畿内説の一方的な倭人伝を歪めた解釈としか????

魏志倭人伝を撰述したのは陳寿
陳寿が倭国を百越の流れの南方民族と認識しており、
倭国を会稽東冶之東にある南の国だと認識していたのは三国志から読み取れる

南国の倭国に行くのに東へ行ったと書いてあれば、南へ修正が入るのが当然

まあ、倭国内の水行の方角の記録が落ちていて、丹波から大和への南陸行に引きずられたと
考える方が、修正されたとするよりもありそうだとは思うけれど

何十年も前の数十・数百本の木簡(竹簡かも)の記録が、一本も紛失なく紛れもなく
整理されていたと考えるのも難しいからね
991日本@名無史さん
2019/03/05(火) 07:43:14.66
方位は間違ってるんじゃなくて意図的に45度傾けてるんだろ
南だっていうために
992日本@名無史さん
2019/03/05(火) 07:45:32.89
>>990
というか、筆者が
「これは間違いだな」
と思ってる情報があった場合
それを何のコメントも無しに史料に採用すると思うほうが
まさに「これは無いよ」だわ
993日本@名無史さん
2019/03/05(火) 07:45:55.75
>>975
>俺は末盧國の比定地が間違っていると思うがネ

出た! 呼子上陸バカさんチーっすww
伊都国の比定地は九州説でも動かさないんだよなw
怡土の三雲遺跡群周辺、糸島平野

そこから北西五百里行ったところはどうやっても海の上にしかならないんだよww
呼子に上陸したところで東南陸行にはならないww

末盧国は唐津平野が妥当
これを覆すだけの具体的な論拠を示せた人はいないし、
いないから今でも末盧国は松浦川河口平野の唐津が定説になっている
994日本@名無史さん
2019/03/05(火) 07:46:23.98
>>975
伊都国の方角は見えないから間違ったが、邪馬台国への方角は見えなくても間違えるはずがない
というのは二枚舌のイチャモン

末盧国の比定地が違うというなら、唐津より妥当な根拠を示してからにしてくれ
ほとんど遺跡もない、平地も少ない呼子など論外

>>976
倭は会稽東冶の東、つまり沖縄あたりに位置するという地理観
南北に長い島だと考えられていたわけだ

「夷人不知里数但計以日」
投馬国への行程から日数表記に変わったのは、これと整合性がある
魏使が頻繁に往来してた伊都国までとその周辺は魏使による記録
梯儁と張政しか行ったことのない邪馬台国への行程は倭人からの情報と考えられる
995日本@名無史さん
2019/03/05(火) 07:47:42.76
短里説は実際の距離をそのまま書いたって話になるけど
5倍誇張説や10倍誇張説は誇張しなければならない事情があって意図的にやった説。
「間違った結果、誇張された数字になった」のではない。
996日本@名無史さん
2019/03/05(火) 07:47:55.76
>>983
>おそらく同程度の遺跡は日本海側の各地にあったのだろう。

出てから言えってww
昨日の吉井信号バカと同じだぞw
997日本@名無史さん
2019/03/05(火) 07:48:10.48
>>994
末盧国の比定地が違うというなら、唐津より妥当な根拠を示してからにしてくれ

福津・宗像   @阿波
998日本@名無史さん
2019/03/05(火) 07:48:45.17
脳も良心もしんじゃってる人々
それが九州説信者
999日本@名無史さん
2019/03/05(火) 07:49:34.95
>>996
>出てから言えってww

倭国(阿波)にいっぱいあるよ。  @阿波
1000日本@名無史さん
2019/03/05(火) 07:49:56.47
九州説ってどうしてそんなに
ウソつくの?
-curl
lud20241207064707nca
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