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邪馬台国畿内説 Part440 ->画像>17枚


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1◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:33:24.04
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://2chb.net/r/history/1553364267/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
2◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:34:48.39
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある 
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
3◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:35:10.59
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
4◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:35:30.13
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
5◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:35:49.39
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
6◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:36:08.03
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
7◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:36:30.37
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。

 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
8◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:36:49.15
◆6−2
 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
9◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:37:05.83
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
10◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:37:21.74
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
11◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:37:40.21
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
12◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:38:07.93
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
 逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
  「泝流」が6回
  「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。
13◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:38:25.28
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※

実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,57も参照)
(本項 続く)
14◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:38:43.38
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
15◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:39:11.58
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。


◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
16◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:39:31.05
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
17◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:39:55.45
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
18◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:40:12.44
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。


 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
19◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:40:29.39
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
 畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
 逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
20◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:40:48.64
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
 遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。


◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
21◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:41:03.32
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
22◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:41:20.41
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
23◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:41:36.89
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中国では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。


◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
邪馬台国畿内説 Part440 	->画像>17枚
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
24◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:42:05.12
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) 邪馬台国畿内説 Part440 	->画像>17枚
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 邪馬台国畿内説 Part440 	->画像>17枚

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
25◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:42:23.65
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛
 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総
 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵
 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬
 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆
 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)

◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
26◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:42:43.77
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
27◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:43:01.96
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
 九州説にとって不利な条件と言える。
28◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:43:19.65
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
29◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:43:39.73
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   邪馬台国畿内説 Part440 	->画像>17枚
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
30◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:43:54.78
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
31◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:44:12.47
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
32◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:44:28.22
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
33◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:44:45.13
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
34◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:45:03.07
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
35◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:45:19.08
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  邪馬台国畿内説 Part440 	->画像>17枚
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
36◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:45:34.91
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
37◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:45:50.72
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
38◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:46:08.21
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
39◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:46:24.41
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
40◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:46:41.08
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
41◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:47:01.61
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
42◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:47:18.37
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
43◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:47:33.79
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
44◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:47:52.02
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
45◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:48:14.85
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
46◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:48:30.65
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
47◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:48:48.12
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
邪馬台国畿内説 Part440 	->画像>17枚 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
48◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:49:03.56
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
49◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:49:20.35
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。

                (以上、漢書西域上)
50◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:49:36.05
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
51◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:49:52.58
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い


◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
52◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:50:08.34
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
53◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:50:27.81
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
54◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:50:44.36
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。

古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
邪馬台国畿内説 Part440 	->画像>17枚

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
55◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:51:02.20
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半と考えられる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と整合する。
 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
56◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:51:21.11
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀) 邪馬台国畿内説 Part440 	->画像>17枚
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。
57◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:51:39.95
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:邪馬台国畿内説 Part440 	->画像>17枚

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。


◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
58◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:51:58.04
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。


◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
59◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:52:15.17
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。


◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
 「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。
60◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:52:31.79
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
  纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
61◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:52:50.57
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。


◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
62◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:53:08.07
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。
63◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:53:24.12
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。
64◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:53:42.73
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
邪馬台国畿内説 Part440 	->画像>17枚


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。


◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 邪馬台国畿内説 Part440 	->画像>17枚
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
65◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:54:00.76
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。

邪馬台国畿内説 Part440 	->画像>17枚


◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)
66◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:54:19.26
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。


◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周囲代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。

 また八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比にするための捏造であった可能性が高いといえよう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
67◆UiepmfCeDJqf
2019/03/27(水) 04:54:38.25
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 ◆FAQ 3-2に加筆
68日本@名無史さん
2019/03/27(水) 07:10:41.93
スレ番号が重複しています。
69日本@名無史さん
2019/03/27(水) 08:12:42.74
鎮魂歌
卑弥呼→台与の頃を歌ったものだろうか?
邪馬台国、初期のヤマト政権は、石器作りや狩猟を生業にしていた勢力が主体だったことが窺える
また、「フル」、「アチメ」という言葉は大和言葉では意味が分からないが、朝鮮語では「流れる」「朝日」という意味になる
初期のヤマト政権は、朝鮮半島と日本列島を行き来していた日本海側の勢力も関係していたのかもしれない
纒向遺跡の外来系土器から推測すると、初期のヤマト政権は東海山陰吉備が主体の征服王朝と考えられる
石上神宮の布留の謂れは、刀が【流れてきて】布で受け止めたら留まったというもの。

【アチメ】 オオオオ オオオオ オオオオ
 天地ニキ揺ラカスハ サ揺ユラカス 神ワカモ 神コソハ キネキコウ キ揺ラナラハ
アチメ オオオオ オオオオ オオオオ
 【石ノ上】 【布瑠】社ノ 【太刀】モガト 願フ其ノ児ニ 其ノ奉ル 
アチメ オオオ オオオ オオオ
 【猟夫】ラガ 持タ木ノ【真弓】 奥山ニ 御狩スラシモ 弓ノ弭見ユ
アチメ オオオ オオオ オオオ
 上リマス【豊日霎】カ 御魂欲ス 本ハ金【矛】 末ハ木矛
アチメ オオオ オオオ オオオ
 【三輪山】ニ アリタテルチカサヲ 今栄エデハ 何時カ栄へム
アチメ オオオ オオオ オオオ
 吾妹子ガ、【穴師】ノ山ノ山ノ山モト 人も見ルカニ 深山カ縵為ヨ
アチメ オオオ オオオ オオオ
 魂筥ニ 【木綿】取リシデワ 魂チトラセヨ 御魂上リ 魂上リマシシ神ハ 今ゾ来マセル
アチメ オオオ オオオ オオオ
 御魂ミニ 去マシシ神ハ 今ゾ来マセル 魂筥持チテ 去リクルシ御魂 魂返シスナヤ
70日本@名無史さん
2019/03/27(水) 09:17:37.71
>>549
>>前方後円墳は当時の流行である<

>流行があったとして、王より臣下の墓が大きいことはあり得ない
つまり小さな墓しかない地域に王はいない<

流行は関係が薄い。
要は、遺族は、その時代やその地域にとって、
「必要だ」と思えば、いくらでも大きくするもの。
仁徳陵が、世界一であっても、仁徳は世界の王であった筈がない。
71日本@名無史さん
2019/03/27(水) 09:20:45.47
>>550
>>伊勢遺跡が邪馬台国の王都でヤマトが墓地と言う手もあるなww<

>ここでも九州説の時系列無視、年代観のおかしさが露呈している
伊勢遺跡は2世紀末頃には廃絶されている 卑弥呼の時代まで存続していない <

どっちにしても、「南≠東」などによって、×。
72日本@名無史さん
2019/03/27(水) 10:04:14.17
>>559
>初期ヤマト王制は、ヤマト国七萬戸の範囲しか直接治めてないよ<

「南≠東」などに拠って、「七萬戸」は×。

>あとは首長同士の属人的な関係で、祭祀連合が成立していただけ
会津辺りでも、個人的に祭祀連合に参加する首長があれば、前方後円墳が作られるし
その地の次代首長がそれを良しとしなければ、一代限りになる<

九州倭国の「東征毛人五十五國」の将軍らや、
それに従軍した(九州倭国の別種分家の)大和王ら部将が、
現地で那珂八幡などの九州の前方後円墳の墓形を踏襲した、
という事になるだけだ。
73日本@名無史さん
2019/03/27(水) 10:13:44.19
>>70
>仁徳陵が、世界一であっても、仁徳は世界の王であった筈がない。

仁徳は日本の王だな
それがどうした
74日本@名無史さん
2019/03/27(水) 10:14:05.38
>>564
>その通り、こういう構文だ↓
「夏后少康之子封於會稽」=「会稽東治」・・・(於≒治)<

それなら「東治」という文言は要らなかった筈であり、
それを陳寿が敢えて「会稽東治」という文を書いた、という事は、
陳寿は「会稽≠会稽東治」と考えて、
「会稽の東だ」と言わずに「会稽の東治の東だ」と書いた、という事になる。
つまり、「会稽地域≠会稽東治地域」だという事だ。
75日本@名無史さん
2019/03/27(水) 10:49:08.04
>>74
>つまり、「会稽地域≠会稽東治地域」だという事だ。

会稽といっても時代ごとに時代背景がちがう
「会稽地域の東」・・・三世紀魏の時代における会稽地域
「会稽東治地域の東」・・・故事:「夏后少康之子封於」の時における會稽地域
76日本@名無史さん
2019/03/27(水) 11:00:53.73
>>75
>「会稽東治地域の東」・・・故事:「夏后少康之子封於」の時における會稽地域

ダメだね
故事にいう「夏后少康之子封於会稽」の時の會稽地域は
「会稽東治」とまったく関係がない
77日本@名無史さん
2019/03/27(水) 11:09:49.95
九州説は筋の通らない言い訳ばかりしてるな
78日本@名無史さん
2019/03/27(水) 11:15:32.16
偽スレはゴミ
79日本@名無史さん
2019/03/27(水) 11:15:46.02
偽スレはゴミ
80日本@名無史さん
2019/03/27(水) 11:16:20.12
偽スレはゴミ
81日本@名無史さん
2019/03/27(水) 11:16:24.21
>>584
>4000里や7000里は
机上で創作されたデタラメな数字だって結論以外は出てこないだろ?<

4000里や7000余里は、
郡役人や魏使らが実地に計測した数字だ、
って結論以外は出てこないだろ?。
82日本@名無史さん
2019/03/27(水) 11:19:59.90
>>81
九州説ジイさん
理由もなく結論は出ないよ
83日本@名無史さん
2019/03/27(水) 11:57:41.33
偽スレはゴミ
84日本@名無史さん
2019/03/27(水) 12:05:24.56
>>76
>故事にいう「夏后少康之子封於会稽」の時の會稽地域は
>「会稽東治」とまったく関係がない

陳寿ともあろうものが、なんの謂われなくして「夏后少康之子封於会稽」の故事を引くものか。
夏氏にまつわる故事あっての「三国志」であり、「会稽東治の東」なんだけどねえ。
(さては、古来中華大帝国に連綿と伝わる「夏氏」の超偉大さを知らねえな・・・)
85日本@名無史さん
2019/03/27(水) 12:18:23.77
偽スレはゴミ
86日本@名無史さん
2019/03/27(水) 12:18:45.42
偽スレはゴミ
87日本@名無史さん
2019/03/27(水) 12:26:27.04
>>84
>陳寿ともあろうものが、なんの謂われなくして「夏后少康之子封於会稽」の故事を引くものか。

謂れ?
だから入れ墨の話に振ってるだろ
「夏后少康之子封於会稽」の會稽と「会稽東治」とは
まったく別の場所だ
88日本@名無史さん
2019/03/27(水) 12:28:38.86
>>68
>スレ番号が重複しています。

じゃあ、偽スレを埋めればいいよb
89日本@名無史さん
2019/03/27(水) 12:29:28.97
>>88
わかりました。。。
90日本@名無史さん
2019/03/27(水) 12:29:48.44
>>88
わかりました。。。
91日本@名無史さん
2019/03/27(水) 12:29:50.62
>>594
>夏后少康之子は會稽(現在の紹興市)に封じられ越の始祖となった。
越王と吳王は敵対していたのだから、現在の江蘇省域に会稽を求めるのは無理ってこと。<

陳寿が、(会稽とは書かず)「会稽東治之東と書き分けた」という事は、
陳寿は、「東治」とは「夏后少康之子封於會稽の会稽とは少し違ってと、その東方治域だ」
と言おうとしている、という事であり、
陳寿執筆時は、260年頃の分郡の後だから、執筆時点では「その東方地域は、揚州や呉の管轄下になっていた、
という事だ。

>紹興市の東方なら浙江省だよ。<

夏后少康之子封於會稽の会稽が紹興市だと絶対断定出来る程でもないし、
杭州付近からなら、東方の一番先端は、上海付近である。
92日本@名無史さん
2019/03/27(水) 12:30:07.36
>>88
わかりました。。。
93日本@名無史さん
2019/03/27(水) 12:30:39.65
>>88
わかりました。。。
94日本@名無史さん
2019/03/27(水) 12:30:46.15
倭人伝の「夏后少康之子封於会稽」は『漢書』からの引用

『漢書』巻二十八下地理志下
「其君禹後、帝少康之庶子云。封於会稽。文身断髮、以避蛟龍之害」
『禮記』王制篇
「東方は夷と曰ふ。被髮にして身を文し、火食せざる者有り。
南方は蠻と曰ふ。雕題して趾を交へ、火食せざる者有り。」

倭人は皆黥面文身であるので、東方と南方の風習を合わせもつということ
會稽、東冶之東が正しい
95日本@名無史さん
2019/03/27(水) 12:31:02.51
>>88
わかりました。。。
96日本@名無史さん
2019/03/27(水) 12:34:47.56
>>598
>纏向は北部九州より北側にあると事実を教えてもらっても
一向に理解できない九州脳の貧弱さが ほんとに哀れでならないな<

纏向は、「南≠東」でも「南≠東北東」」でも×である、という事実を教えて貰っても、
一向に理解できない大和脳の貧弱さが、
ほんとに哀れでならないな。
97日本@名無史さん
2019/03/27(水) 12:41:21.61
>>88
わかりました。。。
98日本@名無史さん
2019/03/27(水) 12:43:44.94
>>91
>陳寿は、「東治」とは「夏后少康之子封於會稽の会稽とは少し違ってと、その東方治域だ」
と言おうとしている、という事であり、


陳寿は発狂してないから、そんなことしない
会稽の東のまた東なら、一言で会稽の東と書くよ
99日本@名無史さん
2019/03/27(水) 12:48:51.97
>>73
>>70
>>仁徳陵が、世界一であっても、仁徳は世界の王であった筈がない。

>仁徳は日本の王だな
>それがどうした

畿内に大きな墓があっても、九州の邪馬台国とは関係ないんだよ。
九州と畿内はどちらも倭人だが、中国が相手にしていた倭は九州だけ。
100日本@名無史さん
2019/03/27(水) 12:53:04.67
>>88
わかりました。。。
101日本@名無史さん
2019/03/27(水) 12:55:10.55
>>94
『漢書』巻二十八下地理志下
「其君禹後、帝少康之庶子云。封於会稽。文身断髮、以避蛟龍之害」
に係る引用であるので、これのみで判断すべし。

『禮記』王制篇
「東方は夷と曰ふ。被髮にして身を文し、火食せざる者有り。
については、封於会稽との関連引用はないので、当然のこととして会稽と南方との関連の記述もない。
(刺青の話しは、倭人の風習についてのみの記述である。)
102日本@名無史さん
2019/03/27(水) 13:00:10.73
これ、後から立ててあるから重複スレだな。
103日本@名無史さん
2019/03/27(水) 13:02:16.58
>>88
わかりました。。。
104日本@名無史さん
2019/03/27(水) 13:20:18.19
>>88
わかりました。。。
105日本@名無史さん
2019/03/27(水) 13:40:11.08
>>599
>>その会稽の事であるんなら、「東治」という文言は全く不必要な文言であるのに、
それが記載されている、という事は、
女王國は「東治」地域の東方だ、と言いたい、という事になる事と、<

>それは当然だね 会稽の「東治」地域は北緯26度ほどだから
北緯30度の会稽とは随分と違う<

陳寿は、「会稽東冶」と「会稽東治」とをはっきり書き分けているから、
会稽東冶付近は×なんだし、
4度という事は444km位、も真南になれば、
会稽東治とは全く言えない事からでも、×。
106日本@名無史さん
2019/03/27(水) 13:41:57.67
流行語や他人の商標を出願して本家に金を要求したり妨害するような悪質な行為が問題になってるけど九州説とはまさしくそういうモラルの無い人達の主張だと判明したか
107日本@名無史さん
2019/03/27(水) 13:47:46.15
>>88
わかりました。。。
108日本@名無史さん
2019/03/27(水) 13:50:02.58
>>91
>杭州付近からなら、東方の一番先端は、上海付近である。

上海は北だよ
109日本@名無史さん
2019/03/27(水) 13:52:58.19
>>602
>>出発時点や途中では、伊都国は見えず、到着近くにならないと見えないから。<

>ランドマークになる可也山はトンボ山は見えているのだから
それで簡易測量もできないということは
魏使一行には山立てのできる技術将校とか軍事顧問がいないことになる
そして周髀を立てて測量ができるとのたまうエセ儒者もいないわけだ <

トンボ山とは何か?どこか?、は知らんが、
伊都国は、見えないんだから、
三角測量は出来ないし、一寸千里の測影長比べは、勿論出来ないし、
魏使一行には山立てのできる技術将校とか軍事顧問などいる筈もないし、
普通に、記里車や歩測をする史家ないのであり、 
ということは魏使一行には、末盧國→伊都國の行程では、
測量しながら進むことは無理ということだ。
110日本@名無史さん
2019/03/27(水) 13:56:58.44
>>101

『禮記』は三國志を読む層は基礎知識としてもっている
倭人伝では「漢書」地理志の儋耳・珠轟Sの記事と共通する記載も多く
「所有無與儋耳朱崖同」としている
111日本@名無史さん
2019/03/27(水) 14:30:43.42
>>0099
それ、太鼓判。
よく言い聞かせてください。
112日本@名無史さん
2019/03/27(水) 14:33:49.29
>>99
九州はもう言い張るだけになったな
歴史学の世界からは完全ドロップアウトだ
113日本@名無史さん
2019/03/27(水) 14:40:01.68
>>109
>三角測量は出来ないし、一寸千里の測影長比べは、勿論出来ないし、
>魏使一行には山立てのできる技術将校とか軍事顧問などいる筈もないし、
>普通に、記里車や歩測をする史家ないのであり、 
>ということは魏使一行には、末盧國→伊都國の行程では、
>測量しながら進むことは無理ということだ。

はーい、結論出ましたね

倭人伝に書いてある方位や里数はまったく信用できません
邪馬台国はどこか?という問題解決には役に立たない
そういうこと
114日本@名無史さん
2019/03/27(水) 14:41:31.25
禮記は周から漢にかけてまとめられたもの。
この東夷は、倭を指しているとは限らない。
115日本@名無史さん
2019/03/27(水) 14:44:39.67
>>611
>>明帝らは明確に、現地遼東での「征伐」戦での距離の話をしており、
洛陽から遼東への平穏な遠征路の距離など、何の意味もなく無意味であり、<

>遠征に何日かかるかという見積もりをしてるんだから
行きの行軍にかかる日数と帰りの日数を計算している <

日数の話は、「四千里征伐」の議論とは全く別。

>必要な兵糧(つまり軍費)に直結する問題であり
それを意味ないとか、無知にも程がある<

明帝は、司馬懿の征伐戦での「臨機応変の知略や軍略」に信頼を置く話をしており、
遼東までの遠征路では、実際に殆ど困難な戦闘もなく、
兵糧などは部下に任しておけばよく、
戦闘が起きたのは、遼東に入ってから。
116日本@名無史さん
2019/03/27(水) 14:44:44.17
バカが飛んできた
117日本@名無史さん
2019/03/27(水) 14:46:10.33
いまだにテョンが畿内教の布教活動やってるんだな
118日本@名無史さん
2019/03/27(水) 14:50:58.02
>>110
其風俗不淫、男子皆露紒、以木棉招頭。其衣横幅、但結束相連、略無縫。
婦人被髮屈紒、作衣如単被、穿其中央貫頭衣之。
種禾稲、紵麻、蚕桑緝績。出細紵、縑緜。其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛、
楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鉄鏃或骨鏃。所有無與儋耳・朱崖同。

「・・儋耳・朱崖同」のくだりは、其の風俗以下についてのことである。
漢人が『禮記』を基礎知識として有しているというのは良いが、
しかし会稽の件は、「会稽東治之東」で、終了している記述で、これでおしまい状態になっている。

なお次の「其風俗不淫・・」の行から述べているのは、倭地のことであり、
「所有無與儋耳・朱崖同」とのべていて、倭地と儋耳・朱崖との類似性のことである。

ゆえに、倭地と儋耳・朱崖との類似性記述と、会稽の故事記述とを結び付けようとするのは、むりやり牽強付会と言わざるを得ない。
それでも両者を結び付けようとするならば、それは単に個人的な連想であり、
いわゆる教養が邪魔して、考えすぎ・とらわれすぎに陥っている状態と言わざるを得ないねえ。
119日本@名無史さん
2019/03/27(水) 14:51:24.06
>>88
わかりました。。。
120日本@名無史さん
2019/03/27(水) 14:55:01.11
>>612
>東治は東冶の間違いであるのは中国日本両国の研究者で一致する見解だろ<

後代の「自己解釈に拠る高慢な書き換え」をする半分×人間の後漢書の范曄の、
「東治→東冶」の書き換えを可とする学者は、
中国や日本だけではなくどこの国の学者であろうと、
「史料批判からの帰納的確率的推論」の出来ない、一種の・・・・アホ学者、
なのであろう。
「南→東」などの嘘付き騙しのサギ師大和説学者らと、同じ。
121日本@名無史さん
2019/03/27(水) 14:55:07.33
畿内説の宣伝係には、頭の悪い人が多いです。
だから、畿内説の嘘の宣伝が、国民に信用されません。。。
122日本@名無史さん
2019/03/27(水) 14:56:26.88
>>121
そうですね、そして、5ちゃんねるで、畿内説を宣伝する係員には、頭の悪い人しかいません。
だから、畿内説の嘘の宣伝が、国民に信用されません。。。
123日本@名無史さん
2019/03/27(水) 14:58:45.08
>>121
同感
124日本@名無史さん
2019/03/27(水) 14:59:44.13
追加

上の0114は、0110に対する意見だよ。
125日本@名無史さん
2019/03/27(水) 15:00:15.91
畿内説を宣伝するバカな係員が、飛んでいる可能性が、高まってきたな。。。

116日本@名無史さん2019/03/27(水) 14:44:44.17
バカが飛んできた
126日本@名無史さん
2019/03/27(水) 15:04:11.40
一緒に花見に行く孫たちが来たな。。。
127日本@名無史さん
2019/03/27(水) 15:05:59.21
>>616
>公孫氏征伐で4000里の距離を100日という事は1日40里で計算しているのだから短里では1日3km
こんな軍隊の指揮官はクビだろ <

実際の征伐は、
二年春、遣太尉司馬宣王征淵。六月、軍至遼東。
の後、
淵遣將軍卑衍,楊祚等歩騎數萬屯遼隧、圍塹二十餘里。
宣王軍至、令衍逆戰。宣王遣將軍胡遵等撃破之。
宣王令軍穿圍、引兵東南向、而急東北、即趨襄平。衍等恐襄平無守、夜走。
諸軍進至首山、淵復遣衍等迎軍殊死戰。復撃、大破之、遂進軍造城下、爲圍塹。
會霖雨三十餘日、遼水暴長、運船自遼口徑至城下。
雨霽、起土山,脩櫓、爲發石連弩射城中。
淵窘急。糧盡、人相食、死者甚多。將軍楊祚等降。
八月丙寅夜、大流星長數十丈、從首山東北墜襄平城東南。
壬午、淵衆潰、與其子脩將數百騎突圍東南走、大兵急撃之、當流星所墜處、斬淵父子。
城破、斬相國以下首級以千數、傳淵首洛陽、遼東,帶方,樂浪,玄菟悉平
という状態であったんだから、
「一日3km」位のペースであった、と予想しても、何らおかしくない。
128日本@名無史さん
2019/03/27(水) 15:41:48.60
>>612
>周代からの「1歩≒1尺」などの嘘付き騙しを平気で喚き散らす九州説は恥ずかしくないのかね
文献に全く無いだろ<

周髀算経の、
立二十八宿,以周天曆度之法。
術曰:倍正南方,以正勾定之。即平地徑二十一步,周六十三步。
は、
長里説での「径二十一歩」は、32m位になり、その周は100m位になり、
そんな場所を選択する事が困難になり、
その周に28宿を配置するのも、全く無駄で無意味になり、
しかし、短里の歩であれば、
「径二十一歩」は、5.3m位であり、
8尺棒を使っても簡単に描け、周も16m位であるから、
28宿は50cm余り毎に置けて、
太陽の位置を示す宿として、非常に見やすいモノになり、
だから、この「二十一歩」が、短歩の使用例になる。
129日本@名無史さん
2019/03/27(水) 15:57:19.10
>>619
>>また、洛陽〜遼東の前線地の距離は、長里でも3500里以下であり、<

>証拠は?<

後漢書の劉昭註では、洛陽〜遼東郡治(襄平)が3600里であり、
実際の戦闘は、
「淵遣將軍卑衍,楊祚等歩騎數萬屯遼隧」の「圍塹二十餘里」付近からであるから、
襄平のはるか前から始まっている。
130日本@名無史さん
2019/03/27(水) 15:57:19.06
>>91
>陳寿が、(会稽とは書かず)「会稽東治之東と書き分けた」という事は、
そもそも誤字だからね。仮説上の仮説では信憑性がどんどん低くなるよ。

>陳寿は、「東治」とは「夏后少康之子封於會稽の会稽とは少し違ってと、
>その東方治域だ」 と言おうとしている、という事であり、
それも君の仮説だよね。

>陳寿執筆時は、260年頃の分郡の後だから、執筆時点では
執筆は280年以降とされているよ。
>「その東方地域は、揚州や呉の管轄下になっていた、 という事だ。
杭州湾の北は吳の太伯の時代も吳だよ?

>夏后少康之子封於會稽の会稽が紹興市だと絶対断定出来る程でもないし、
断定出来るよ。大禹陵は会稽山にある。
子孫の越王句践の本拠地は会稽(紹興市)だよ。
そして吳王夫差の本拠地は吳(江蘇省蘇州市)だよ。
君は「臥薪嘗胆」を知らないの?

>杭州付近からなら、東方の一番先端は、上海付近である。
杭州から東方の一番先端は、誰が見ても寧波だね。
そもそも(地名+方角+治)なんて文例は無いのだが、
上海だとしたら吳郡東治、吳縣東治とでも書いた方がずっと適切だろ?。
131日本@名無史さん
2019/03/27(水) 16:05:43.63
>>118

少康之子は文身断髮で倭人の黥面との共通性は書かれていない
倭人伝を読む知識層は当然の知識として南方の民族の雕題を知っている
無教養向けに書いているのではない
東夷伝序文で「雖夷狄之邦、而俎豆之象存。中國失禮、求之四夷」と書かれ、
黥面文身をする東方と南方の文化を合わせ持つ倭人と
華夏族の文化の接点として「夏后少康之子封於会稽」を書いている
黥面土器は瀬戸内、東海で多く出土する
九州は非常に少ない
132日本@名無史さん
2019/03/27(水) 16:15:58.01
文身断髮の越人像
黥面はされていない

邪馬台国畿内説 Part440 	->画像>17枚
133日本@名無史さん
2019/03/27(水) 16:26:49.84
>>624
>>明帝は、「四千里征伐」と言い、(遠征路の話ではなく)、
実際の征伐戦における司馬懿の知略を信頼する旨の事を言っていた。<

>あきらかに遼東が遠くて遠征路がとても長い だから独断専行を任すには
応用と機転のきく仲達こそ適任って話ししてんだけど<

何會?の上表文の「道路廻阻四千余里」も、
公孫淵が、(最も下策の)籠城をしないで逃亡して、
(上策の)野戦を選択したの話であるから、
明らかに、遼東の長さを示す文言だ。
しかし、公孫淵は、最も下策の籠城を選択してしまった。
134日本@名無史さん
2019/03/27(水) 16:30:14.68
>>624
>帯方郡から遼東までは、およそ7000里だ<

これは、短里の例ですね。
135日本@名無史さん
2019/03/27(水) 16:32:11.55
>>115
>日数の話は、「四千里征伐」の議論とは全く別。

三国志読んでない人がウソ書いても
読んでる人の方が多いから
意味がない
136日本@名無史さん
2019/03/27(水) 16:32:51.28
>>632
このように、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しをし、
まったく証拠の出せない断定ではじまり、終わる
それが大和説

だから学問になれなかった
137日本@名無史さん
2019/03/27(水) 16:37:52.72
>>634
史料事実や史料実態ではで九州説
大和説は、
「天皇家や国民を、戦争させて殺されても、
唯我独尊の高慢な自分等が勝ち残って世界を支配する」
という戦争狂運動
138日本@名無史さん
2019/03/27(水) 17:08:10.26
>>645
文献考古の史料事実やそれからの帰納的確率的推論の学問と人権を叫ぶのが九州説
「南→東」などの史料事実の否定曲解や人種的偏見や殺戮戦争を叫ぶのが大和説
139日本@名無史さん
2019/03/27(水) 17:11:23.40
>>650
ご都合主義にも程がある。
「南→東」や「里記載が6倍長い」とか、そんなことを言い出したら、
大和説は、架空の単位を創作して、距離なんて都合よく自由自在じゃないか。
人として恥ずかしくないのか?
140日本@名無史さん
2019/03/27(水) 17:16:09.12
>>651
「史料事実や史料実態」や学問は大和説の敵
「唯我独尊支配」の人種差別戦争や、天皇家や国民への「嘘つき騙し」で騙すのが大和説
141日本@名無史さん
2019/03/27(水) 17:19:38.14
>>654
ここまで「天皇家や国民」との間に、認識バイアスのある人でないと
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、信仰できないんだろう
142日本@名無史さん
2019/03/27(水) 17:22:56.30
>>656
正常な脳は使わない
ないから使えない
「南→東」などの嘘付き騙しをする
天皇家や国民の考えとは、反対の考えをする

それが大和説
143日本@名無史さん
2019/03/27(水) 17:24:37.95
>>662
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
学問的に反論できないから中傷に走るのが見苦しい
144日本@名無史さん
2019/03/27(水) 17:27:35.83
>>667
「南→東」などの嘘付き騙しという事の、
証拠を出さず、オウンゴールで自滅する大和説
145日本@名無史さん
2019/03/27(水) 17:33:57.35
>>678
大和説は、「南→東」などの嘘付き騙しをした事が、不安なんだな
だから異常に攻撃的になる
146日本@名無史さん
2019/03/27(水) 17:54:23.31
>>679
>相変わらず論理的思考のできない人だなww
まあしょうがないか、今どき九州説を信じてるくらいだからw
魏志に方四千里と書かれているからといって、方四千里と考えられていたわけじゃないんだよw
違うのは百も承知で、倭国までの距離を長く誇張するために、倭国の朝貢を地の果てからの朝貢と
演出するために、韓地の大きさが調整してあるだけww
ろくな人間も住んでいないところにでかい国があるなんて、陳寿も思ってないよw<

類スレ主は、相変わらずの分裂幻覚の妄想の・・・・アホのようだな。
一度、自分が書いた文を読み直してみれば、
自分がどんな、人類の常識知らずの・・・・アホなのか?がよく判るんだろうが、
・・・・アホでは、読み返す事もないんだろうな。
147日本@名無史さん
2019/03/27(水) 18:03:50.25
>>681
>違うよ、狗邪韓国まで七千里にするために方四千里にしてあるんだよ
方四千里の1辺とと四分の三で七千里という計算
そして、その七千里は倭地の本土(本州四国九州)まで一万里から
渡海千里を三回で三千里を引いたもの 机上の単純計算だよ
九州説は、帯方郡から地続きの韓地のことは帯方郡の役人は
よく知ってると主張するくせに本当にいい加減だなww
帯方郡も楽浪郡も漢の領土なんだから、漢尺で測ってるはずだろww
九州説の言い分が正しいならなw<

違うよ。
郡役人らも魏使らも、「ためにする机上の計算」なんてしない。
きちんと計測した事を報告しないと、バレたら、首が危ないもの。
類スレ主は、人類の常識知らずの、・・・・アホ詐欺師。
148日本@名無史さん
2019/03/27(水) 18:20:54.77
>>686
>測量してたら、渡海は一声千里、陸行は近ければ百里、ちょっと遠ければ五百里
倭地の水行は測れないので日数です、なんてことにはならないだろww
測量してないから、近いか遠いかくらいの記述しかできていない
測量精度とかいう以前の段階<

ダメだ。
對海國の「方四百余里」や、一大國の「方三百里」や、狗邪韓國までの「七千余里」など、
「1」と「5」以外の数字も使って書き分けているし、
「余」の有無も使って書き分けているから、
魏使らは、間違いなく、有効数字1桁位の計測近似値で計測記録している。

類スレ主は、・・・・アホ詐欺師。
149日本@名無史さん
2019/03/27(水) 18:25:54.52
>>689
>>到着近くにならないと見えないから<

>到着近くになれば、伊都国に向かって「ずっと北東に歩いてきたこと」が分かるだろww
方角はその場で間違うはずがないって九州説はいうんだからww<

いや、伊都国は、近づいて案内人に教わるまでは判らないし、
途中の難路では、案内人に任せるから、一々方向計測などする必要もない。
150全然関係ない投稿
2019/03/27(水) 18:26:14.95
中日ドラゴンズの新人の根尾選手(大阪桐蔭)
イチローに指導してもらいたいな。
151日本@名無史さん
2019/03/27(水) 18:29:46.88
ここはゴミ捨て場
腐った畿内説の残骸ばかり
152日本@名無史さん
2019/03/27(水) 18:31:18.92
>>691
>>周代からの「1歩≒1尺」に従ったのか?、という事。<

>周代から「一歩=六尺」だよww<

周髀算経の「1里」は、谷本計算に拠って「短里」だよ。だし、
周髀算経の、
「立二十八宿,以周天曆度之法。
術曰:倍正南方,以正勾定之。即平地徑二十一步,周六十三步」
の「歩」は、「短歩」だよ。
153日本@名無史さん
2019/03/27(水) 18:32:19.49
九州説はゴミ意見を投げ捨てに来ないでくれないか
掃除が大変なんで
154日本@名無史さん
2019/03/27(水) 18:35:30.13
>>152
周尺は1尺20cm
25cmで計算したと言っている谷本は計算ミスをしている
155日本@名無史さん
2019/03/27(水) 18:36:09.41
>>698
>大和説って頭がおかしい人しかいないの?
その通り、そんな人しかいない
頭がおかしくない人は、近年の研究成果を見て、
「南≠東」や「畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言」である事を
すぐ理解出来るから、
九州説でよいのだとすぐに理解するからね
156日本@名無史さん
2019/03/27(水) 18:40:48.00
前スレのレス改変のオウム返ししか出来なくなってるなら書き込まない方がマシだよ
157日本@名無史さん
2019/03/27(水) 18:43:28.78
荒らしやオウム返しやキチガイじみた振る舞いによって
九州説は自ら九州説を穢しまわる
158日本@名無史さん
2019/03/27(水) 18:44:36.73
>>705
>日本書紀崇神紀65年の記事だと「任那者去筑紫国(福岡)二千余里北阻海以在鶏林(新羅)之西南」
つまり半島-九州間は2000余里とのこと。<

何だ?、
これじゃ、
唐会要倭国伝の「正北抵新羅」と、
魏志などの渡海三千余里とほぼ同じ短里になる記載であり、
筑紫=倭女王國の根拠そのものになるではないか。
159日本@名無史さん
2019/03/27(水) 18:47:20.60
ところで畿内説ってこれか?
邪馬台国の証拠→纒向遺跡
卑弥呼の墓→箸墓古墳

今どきこれを元に邪馬台国畿内説をしっかり説明できる学者っているか?
160日本@名無史さん
2019/03/27(水) 18:52:10.55
>>706
>日本には大和民族しかいないのであしからず <

日本は、
南方由来や大陸由来の旧石器人や縄文人や毛人や出雲がいた所に、
中国の燕の南や呉王夫差の遺民らの倭人が、
渡来して来て、混血した地域であるので、
悪しからず。
161日本@名無史さん
2019/03/27(水) 18:57:48.64
>>158
倍は違うだろ
任那が韓地最南端で福岡を奴国として
魏志倭人伝では3600里
日本書紀崇神紀では2000余里

ありえない仮定だけど日本書紀崇神紀が
魏志倭人伝と同じ里を用いたとするなら
邪馬台国はますます九州北部から遠のく事になる
162日本@名無史さん
2019/03/27(水) 18:59:33.55
>>159
それを畿内説の根拠のメインにしている人はおらんが
163日本@名無史さん
2019/03/27(水) 19:01:27.34
>>709
大和説は、全員、
「南→東」などの嘘付き騙しであり、
「邪馬台国とか畿内とか大和朝廷」とかの存在もしない嘘つき騙し文言を使い、
国民も天皇家も人種差別殺戮戦争で殺させて、
自分が、唯我独尊の世界の支配者になりたい国粋国家殺戮戦争主義の、
・・・・アホですから、
怖いから、近付かないようにしましょうね。
164日本@名無史さん
2019/03/27(水) 19:07:28.16
>>712
不安なんじゃないよ
内心、もう大和説は間違いだったことは分かってるんだけど、
大和説者が、ネット弁慶が憂さ晴らしで強い言葉を使って虚勢を張ってるだけ
スレ主も類スレ主も人種差別戦争大好きバカも、みんなそう
歴史の真実は関係なしに、
オームのように、勝ち負け殺し合い戦争だけが目的になっているから
話が通じないww
165日本@名無史さん
2019/03/27(水) 19:08:38.53
キナイコシは今の時間帯は来ないよ

彼は10時以降から朝方まで、寝た後のと昼間の投稿が多い

アル中だから
166日本@名無史さん
2019/03/27(水) 19:11:28.48
ERROR: We hate Continuous..
連投してるで
問い合わせID:4be092030ad3aecf
ホスト:p1665221-ipad020107kobeminato.hyogo.ocn.ne.jp
名前: 日本@名無史さん
E-mail:
内容:
>>713
大和説者はまず、
「南→東」などの嘘付き騙しを止めて、
他人と正確に意思疎通ができるような
基礎的な学問と、まともで正直は人間性が必要
167日本@名無史さん
2019/03/27(水) 19:16:24.35
>>128
>長里説での「径二十一歩」は、32m位になり、その周は100m位になり、

漢尺の度量衡では一歩(複歩)=約 1.38 mだから、直径29メートルだ
普通の広場でそれくらいの面積は軽く取れるだろww
168日本@名無史さん
2019/03/27(水) 19:18:19.93
>>149
>いや、伊都国は、近づいて案内人に教わるまでは判らないし、
>途中の難路では、案内人に任せるから、一々方向計測などする必要もない。

案内人に案内されていようが、最終的に伊都国に着くんだから、
伊都国に着く時点で、伊都国に向かってずっと北東方向に歩いていたことは分かるだろ?

いちいち方向計測しなくても、太陽が見えていれば、北東に向かっていることは分かる
自分の影もあるんだしww
169日本@名無史さん
2019/03/27(水) 19:24:43.78
『き』ってなんやろな?

柵、城は『き』と呼ばれていたらしい
高城たかき 石城いわき
というような例がある

神話における木を植える話とかどういう意味なんだろうか
170日本@名無史さん
2019/03/27(水) 19:30:07.34
テスト投稿
>畿内説じゃなくて邪馬台国は奈良<

どっちにしても、「南≠東」などに拠って、×。
171日本@名無史さん
2019/03/27(水) 19:31:06.84
島巡り詐欺の対馬海峡渡海距離は3700里だったんじゃないのかよw
172日本@名無史さん
2019/03/27(水) 19:32:00.44
九州説は可哀想だな
九州説者自らによってでメタメタに破壊されて
173日本@名無史さん
2019/03/27(水) 19:34:23.12
九州説者によってメタメタに破壊される九州説
174日本@名無史さん
2019/03/27(水) 19:36:33.21
>>722
>測量を行うのは、帯方郡、楽浪郡の官人=漢人だという主張だっただろ?<

魏志に書かれた記録は、原則として魏代の記録であるから、
楽浪や帯方の役人たちも、魏使らも、魏朝の度量衡=短里で計測記録したものなんだよ。
175日本@名無史さん
2019/03/27(水) 19:38:29.15
>>140
>「史料事実や史料実態」や学問は大和説の敵
「唯我独尊支配」の人種差別戦争や、天皇家や国民への「嘘つき騙し」で騙すのが大和説 <


同意します
倭人伝他に基く資料が奈良近辺には少なすぎます
176日本@名無史さん
2019/03/27(水) 19:38:52.23
九州説者は脳がメタメタだからな
177日本@名無史さん
2019/03/27(水) 19:40:24.15
こいつ誰?不要なカキコミ
157日本@名無史さん2019/03/27(水) 18:43:28.78
荒らしやオウム返しやキチガイじみた振る舞いによって
九州説は自ら九州説を穢しまわる
178日本@名無史さん
2019/03/27(水) 19:40:42.24
>>725
「南→東」などの嘘付き騙しの、
唯我独尊の人種差別戦争的な・・・・アホ大和説者は、
「大和民族」という語を否定されると、非常に興奮する
179日本@名無史さん
2019/03/27(水) 19:42:29.79
>>176
何が言いたいの
アンチ九州説は別スレで頼むよ
180日本@名無史さん
2019/03/27(水) 19:43:00.33
効いてる効いてるww
181日本@名無史さん
2019/03/27(水) 19:44:55.11
>>1 イン したな
くだらんネ
カキコミに内容が無い
182日本@名無史さん
2019/03/27(水) 19:45:33.82
>>726
中傷って言うのは、「南→東」などの嘘付き騙しに拠って、
人種差別的な文言でのヘイトスピーチのアジテートみたいなのを言うんだよ
大和説のお得意。

怖いもんだな、大和説は。
183日本@名無史さん
2019/03/27(水) 19:45:34.49
>>1 イン したな
くだらんネ
カキコミに内容が無い
184日本@名無史さん
2019/03/27(水) 19:45:56.86
このスレはとっくに敗北したのにみっともない悪あがきをする九州説をからかって遊ぶスレだぞ?
185日本@名無史さん
2019/03/27(水) 19:49:13.26
今のところ畿内説の説明も反論も無し
186日本@名無史さん
2019/03/27(水) 19:51:08.06
>>1 イン したな
くだらんネ
カキコミに内容が無い
187日本@名無史さん
2019/03/27(水) 19:52:19.05
ここはドロン
188日本@名無史さん
2019/03/27(水) 19:53:05.82
>>748
>邪馬台国はヤマト国、奈良<

「南≠東」などに拠って、×。
189日本@名無史さん
2019/03/27(水) 19:55:19.94
>>165
どんと来いスレにそれらしきウザいのがいるんだが。
190日本@名無史さん
2019/03/27(水) 19:55:28.78
魏志倭人伝には邪馬台国は会稽東治(冶)の東
沖縄や台湾の辺りと書いてある
よこに邪馬台国はない事は明白だから九州説は死亡

一方畿内には古来からやまとと呼ばれてきた場所に
魏志倭人伝に記されている径百歩の墓に相当する
三世紀からの前方後円墳が存在し
卑弥呼の時代の魏の年号の入った三角縁神獣鏡が
国内で最多見つかっている

九州説はこれに対して
証拠もなしの思いつく限りの出鱈目を並べているだけが現状
191日本@名無史さん
2019/03/27(水) 19:56:18.11
キウスが暴れてるな
192日本@名無史さん
2019/03/27(水) 19:57:00.26
ここはドロン
193日本@名無史さん
2019/03/27(水) 19:57:32.87
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ホスト:p1665221-ipad020107kobeminato.hyogo.ocn.ne.jp
名前: 日本@名無史さん
E-mail:
内容:
>>751
「南→東」などの嘘付き騙しの負け組大和説は、
全く反論が出来ないから、
未来ないからな
194日本@名無史さん
2019/03/27(水) 20:00:56.03
今どき箸墓や三角縁神獣鏡を持ち出す畿内説って・・・
畿内説からも相手にされない寂しい奴なんだろうな。
195日本@名無史さん
2019/03/27(水) 20:02:35.44
>>194
それにすら反論できず嘘と誹謗中傷で自滅に追い込まれていく九州説
196スレ主さんへ
2019/03/27(水) 20:05:20.86
纒向学研究 第5〜6号も参考にしたほうがいいよ
内容が無ければ無視でもいいですが
197日本@名無史さん
2019/03/27(水) 20:25:49.72
少し引用してよ。
198日本@名無史さん
2019/03/27(水) 20:47:19.48
九州説がいくら口から出任せ並べ荒らし行為を働いても
畿内説がそれにまったく乗ってない時点ですでに勝負はあった
199日本@名無史さん
2019/03/27(水) 20:52:33.20
九州説はどうやら人格的な部分から問題があるようだな
200日本@名無史さん
2019/03/27(水) 20:53:18.38
キウスが論文読める訳なかろ
201日本@名無史さん
2019/03/27(水) 20:59:41.95
>>198
邪馬台国大和説は、な〜んも立証できてまへんがな。
202日本@名無史さん
2019/03/27(水) 21:03:56.82
>>190
古来から〜。
具体的にいつからだよ。
5世紀半ば頃からだろ。
あはははは。
203日本@名無史さん
2019/03/27(水) 21:09:45.84
まあ、(女王国東渡海千余里復有国皆倭種)だからなあ。
瀬戸内海の東に大和などがあるということだよ。
つまり、女王国は筑紫な。
204日本@名無史さん
2019/03/27(水) 21:12:18.25
>>842
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
ガセネタのかたまり
205日本@名無史さん
2019/03/27(水) 21:14:17.51
>>851
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説に
証拠出せっ
て言えば確実に退治できるからな
こりゃ流行るわ
206日本@名無史さん
2019/03/27(水) 21:17:45.67
女王国まで1萬二千里、
そして女王を去る4000里。
つまり合計すれば1万6千里の大月氏と同じ宇宙の果てのクニが大和纒向。
207日本@名無史さん
2019/03/27(水) 21:24:12.17
>>203
それを言うなら
計其道里 當在會稽東治之東(東治は東冶の転写間違いと考える)

(女王国までの)その道里を計算すれば
まさに會稽東冶の東(沖縄か台湾辺り)に当たると書いてあるのはどうする気?
208日本@名無史さん
2019/03/27(水) 21:26:03.91
>>854
>青森まで古墳時代にヤマトを中心とした祭祀連合が出来てたというのですね<

唐会要倭国伝の「正北抵新羅」によって、
唐代まで北部九州倭国が列島盟主であったのであり、
大和は、九州倭国から別れた別種の旧小国であり、
九州倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一国であったから、
「ヤマトが中心」は、×なの。

>そして、その連合はヤマトに従属してたから、蝦夷地の首長は
ヤマト(畿内)の王より大きな前方後円墳は作れなかったでいいですね?<

大和は、白村江で大敗した九州倭国を併合吸収継承して列島盟主になってから、
関東以北の毛人蝦夷との戦いを始め、
724年にようやく多賀城付近に達しただけだったの。
209日本@名無史さん
2019/03/27(水) 21:26:26.18
>>206
女王国まで1万2千里とあればそれはすでに世界の果て
1万2千里は淮南子の記述に由来する世界の果てまでの距離
210日本@名無史さん
2019/03/27(水) 21:27:46.56
淮南子に準じて邪馬台国まで一万二千里とされており、それは一里が100メートル以下の縮尺となる。
対馬海峡が三千里、韓が四千里四方というのも同じ縮尺である。
帯方郡から倭の国境である狗邪韓国までは七千里である。
一万二千里は明確に王都の位置を示しており、この縮尺では邪馬台国は九州北部に収まる。

淮南子に概念的数字でこの世の果ては国境より1万2千里とある
後漢書に倭奴国は倭の極南界で会稽東治の東とある
そして魏志倭人伝に女王国は会稽東治の東とある
女王国とは倭奴国のことである

一万二千里という数字だけが伝わった結果、中国人からは倭が実際よりも南方の会稽の東にあるととらえられてしまった。
会稽の東という表現は、東夷において短里が使われていた証拠でもある(倭人条を含む魏志東夷伝すべてが短里で統一されている)。
211日本@名無史さん
2019/03/27(水) 21:27:55.82
そして女王を去る4000里。
つまり合計すれば1万6千里の大月氏と同じ宇宙の果てのクニが大和纒向
212日本@名無史さん
2019/03/27(水) 21:29:04.75
>>862
既に「南≠東」などの嘘付き騙しがバレて、
大和説が即死していたんだし
213日本@名無史さん
2019/03/27(水) 21:30:20.39
>>864
「南≠東」などの嘘付き騙しがバレて、
大和説死亡済み
214日本@名無史さん
2019/03/27(水) 21:32:42.61
>>202
5世紀半ばにはすでに大和の呼び名が定着していたよ
そして畿内説スレなんだから文献や物証の数々で
3世紀の畿内にやまとという名の国があった事は確実
だからやまとは少なくとも3世紀からそう呼ばれていたと答えるが
215日本@名無史さん
2019/03/27(水) 21:32:44.14
>>866
>(語呂合わせを)やめたら畿内説が即死だし<

成程。
216陳寿90度回転さん
2019/03/27(水) 21:34:47.75
最初の巨大前方後円墳で、後円部5段築成の箸墓は、間違いなく3cの超大物の墓。

で、3cの超大物と言えば、ヒミコ、トヨ、神武、崇神、垂仁あたりだろう。

そして箸墓が、女性被葬伝説を持ち、当時はヒメとヒコで、ヒメが格上であることを考えれば、
神武、崇神、垂仁の線は消え、ヒミコかトヨとなる。

だかヒミコは親魏倭王、トヨはそうでないとなると、格上はヒミコ。

箸墓が卑弥呼の墓である蓋然性は高いと思う。
217日本@名無史さん
2019/03/27(水) 21:34:49.64
>>210
会稽東治(冶)の東東が1万2千里で女王国と書いてあるんだから
縮尺にすると1里140mで100m以上になるよ
218日本@名無史さん
2019/03/27(水) 21:35:24.61
>>867
>未だ解明できない纏向の掘立柱建物 2〜3世紀か?それ以降か?それ以前が?
柱は掘って作るから、ようわからん<

そばの土坑の庄内が「ヤマトの庄内3」であったから、3世紀末だね。
219日本@名無史さん
2019/03/27(水) 21:42:27.90
>>871
>ないって証拠は? 九州説は、いつも証拠出せなくて死ぬ
ウソついてるからね <

「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、その証拠が挙げられないから、
何に対しても、先に「証拠は?」と質問して、
自分等が「南→東」などの嘘付き騙しの証拠を挙げられない事を隠して、
相手が証拠を挙げる前に、「証拠を挙げられない」と宣言して、
議論に勝っているように、世間の人々にアピールしているんだよね。
・・・・詐欺師だから。
220日本@名無史さん
2019/03/27(水) 21:44:26.65
>>872
「南→東」などの嘘付き騙しの理由は、言えないの?
まあ大和説は、・・・・アホのインチキだから
仕方ないけどね
221日本@名無史さん
2019/03/27(水) 21:49:47.95
>>878
>九州には丹が無いので終了でしょ<

「丹」は顔料であり、
九州には阿蘇山付近でベンガラが沢山採れるから、
「丹がない」なんていう事が、そもそも嘘つき騙しであった訳で。
大和説、終了。
222日本@名無史さん
2019/03/27(水) 21:53:27.65
>>883
>もう奈良文研とか歴博は畿内説を 匂わすことすらやめている。
畿内説で予算とったら 当然畿内説を補強するような 証拠を出さなくてはならないが
今まで全く出てこなかったので 2012年くらいから急速に 論文などがなくなったね。
根拠がないのに無理にこじつけて 論文書くのも辛いもんだ。<

ふーん、成程。
223日本@名無史さん
2019/03/27(水) 21:54:07.11
キチガイ滅亡祈願埋め
224日本@名無史さん
2019/03/27(水) 21:54:37.18
キチガイ滅亡祈願埋め
225日本@名無史さん
2019/03/27(水) 22:01:55.69
邪馬台国畿内説が、完全に、破綻してしまった、、、
226日本@名無史さん
2019/03/27(水) 22:02:21.34
>>909
>(陳寿90度回転さん)
これも何度も書いてるんだけど、短里と言う架空単位が存在する訳ではなく、
陸上では、 近く:100里 ちょっと遠く:500里
海上では、 広めの海峡:1000里
こんなもんなんだよ、魏志倭人伝の行程記事の距離と言うのは。
頭の数字で3とか7とかの端数が出てこないのは、
測定してない一声いくらのアバウトな数字であることの証左なんだ。<

七千余里とか、方四百余里とか、方三百里とかの、1と5以外の数字がある事と、
「余」の有無での書き分けがあるから、
陳寿90度回転さんは、嘘つき騙しの詐欺師である事になり、
×ね。
227日本@名無史さん
2019/03/27(水) 22:05:15.18
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
228日本@名無史さん
2019/03/27(水) 22:05:20.87
>>918
「南→東」などの嘘付き騙しのインチキ妄想で
国民や学者を論破できると勘違いしてる大和説脳
229日本@名無史さん
2019/03/27(水) 22:14:02.63
>>931
これももう何度も投稿して上げているが、
「倭地参問」は、
(侏儒國付近までの)陸上部分の移動の里数記載を合計して上げると、
ほぼぴったり五千余里になるので、
もうFAは終っているの。
230日本@名無史さん
2019/03/27(水) 22:19:15.60
>>938
>投馬国は山陰+山陽を合わせた出雲、邪馬台国は大和、河内、摂津等を合わせた近畿一帯であろう。
狗奴国については人口の記述がないが、近畿一帯に対抗できる大人口地帯・大平野と言えば、
東海+尾張+美濃、あの辺りを置いて他にはない。<

90度回転男も、「南≠東」などに拠って×。
231日本@名無史さん
2019/03/27(水) 22:19:18.40
考古学をなめきった畿内説に鉄槌を下す時が来たな
これ以上デマをたれながすとだまされる人間もでてくるかもしれないからな
232日本@名無史さん
2019/03/27(水) 22:22:21.89
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連投ですよ
問い合わせID:4be1aa0d89812072
ホスト:p1665221-ipad020107kobeminato.hyogo.ocn.ne.jp
名前: 日本@名無史さん
E-mail:
内容:
>>940
>奴国(博多湾沿岸)20000戸、投馬国(山陰+山陽)50000戸、邪馬台国(近畿)70000戸は、
その後の古墳の大きさや数で見ても、まあそんなもんだろう。<

「南≠東」などに拠って、×。
233日本@名無史さん
2019/03/27(水) 22:58:32.42
>>174
>楽浪や帯方の役人たちも、魏使らも、魏朝の度量衡=短里で計測記録したものなんだよ。

魏朝には短里なんてないし、短里を知っている人も使っている人もいない
歩は複歩だし、一歩=六尺で、魏晋歩=約 1.45 m 、一里=300歩で約435メートルだ
234日本@名無史さん
2019/03/27(水) 22:58:59.89
>>945
>つまり、纏向遺跡一帯は、当時の倭国において最も早く中国風の都市計画をしようとしており、
当然のことながら本物の中国人だって商売や技術指導のために纏向に大勢滞在していたことを意味する。

普通に考えればそこら辺一帯の王、そして男王(ヒコ)でなく女王(ヒメ)の方が当時は格上なので、
纏向の女王(ヒメ)が親魏倭王なんだろうなと推論するのが自然だ。<

「南≠東」などに拠って、×。
235日本@名無史さん
2019/03/27(水) 22:59:23.72
この畿内説のスレにはネタバレが含まれています。
236日本@名無史さん
2019/03/27(水) 23:02:14.38
>>203
>瀬戸内海の東に大和などがあるということだよ。

その渡海千里は、どこからどこへの渡海だと考えてるんだ? 九州説では?
「具体的に答えて」ごらん?
237日本@名無史さん
2019/03/27(水) 23:05:35.35
>>206
>そして女王を去る4000里。

そこは倭國じゃないから
238日本@名無史さん
2019/03/27(水) 23:07:23.80
>>947
>鬼頭宏、小山修三らによる歴史人口学により、
3cの九州島がそんな大人口を擁していたと言う主張は否定される。<

鬼頭か小山だったか?覚えていないが、
確か、福岡の人口を、
魏志記載の7万戸を、1戸あたり1〜2人になるような人口にしていた、
というような事を覚えているぞ。
それはインチキそのものではないか。
だから、おそらく、二人とも「南≠東」の嘘吐き騙しの大和説者。
239日本@名無史さん
2019/03/27(水) 23:08:46.73
>>210
>淮南子に準じて邪馬台国まで一万二千里とされており、それは一里が100メートル以下の縮尺となる。

しつこいな、こいつは
現実の地理と萬二千里は無関係だから、縮尺という概念が入り込む余地はない
240日本@名無史さん
2019/03/27(水) 23:19:43.46
>>948
>紀元200年頃の日本人口が約59万人で、九州が約10万、本州四国が約50万なんだから、
何をどうしようもない。 <

これだな。
「九州が約10万」という事は、
こりゃ当然邪馬壹國と投馬國を「九州ではない」としている訳だから、
それを本州四国に、始めから決めつけている事になり、
鬼頭や小山が、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者であった事がアック実であり、
×ね。
241日本@名無史さん
2019/03/27(水) 23:23:53.36
>>954
〉これらにより親魏倭王は、九州のどこか片田舎にいながら魏使を騙して倭国全体の王を僭称した女酋長ではなく、
纏向の女王(ヒメ)であることに疑いはない。中国人は纏向まで来て、おそらくは定住さえしているのだから、
魏使が九州の片田舎の女酋長に騙されるはずがない<

「南≠東」などに拠って、×。
242日本@名無史さん
2019/03/27(水) 23:28:10.90
>>957
>小山の人口推定が正しい。 倭人伝の戸数は、巨大九州島を想定したものだ。
実際、弥生末の九州でそんだけの人口養えるわけがない。 そういうわけだ。<

小山も、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説学者であるから、×。
243日本@名無史さん
2019/03/27(水) 23:34:24.75
>>872
>戸数は伝聞であり、魏使が数えたものでは無い
投馬国5萬戸がいい例、 もし、5万戸ぐらいと魏使が現地を見聞し予想したなら
投馬国の様子を記述したと思うよ <

戸数は、目測と伝聞が混じったものであり、
「可」がああるものもあるから、魏使らの推定も入っている。
244日本@名無史さん
2019/03/27(水) 23:40:13.60
>>973
>鬼頭氏の人口推計は 当時知られていた弥生遺跡数に 一定の係数を掛けたもの。
>計算方法を根本から見直す必要があると思うが・・・<

鬼頭も、九州を5万人と計算しているようでは、
魏志を無視した「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・大和説である事になる。
245日本@名無史さん
2019/03/27(水) 23:42:18.88
>>977
大和説者って、「南→東」などの嘘吐き騙しの自分の思想を連呼するだけで
なんの証拠も出せないんだよね
そんなの学説として 認められないのは 当然だよね
246日本@名無史さん
2019/03/27(水) 23:48:45.34
ザラコクの狂態
247日本@名無史さん
2019/03/28(木) 04:05:50.05
一大卒が伊都国で女王国以北を検察するとある。
以北とは(狗邪韓国)、対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国と投馬国にあたる。
仮に畿内説に立つと、これらの 国々は邪馬台国に至るルート上に存する国と言うことになる。
糸島に置かれた官が、ビョイーンと奈良に至るまでの地域を検察するって不自然じゃないかな?
248日本@名無史さん
2019/03/28(木) 06:44:59.88
>>0244
対馬で5千人余りというのが、倭人伝の記述。
良い田んぼがなく米が足りないので、朝鮮半島や壱岐で交易して、米などを得ているというもの。
そんなカツカツ生活で、5千人も養えるわけがあんめ。
倭人伝の戸数は、盛り過ぎじゃ。
249日本@名無史さん
2019/03/28(木) 07:17:19.49
伊都国からはよく遺物が出土する。
三雲南小路遺跡や、井原遺跡、平原遺跡等の王の墓はもちろん 有名だけど、
それ以外の住居跡等である。これは隣の奴国等と一緒に出土量からして大国だった 証であり、
他の地域とは明白に格差がある。
今宿五郎江遺跡の環濠は現在の福岡市に属しているので福岡市側が発掘していたが、
福岡市も糸島市もこの今宿の場所 は伊都国の範囲という共通認識になっている。
複数の行政機関が 参加する形となるので伊都国を発掘するという意味では効率がいいだろう。
250日本@名無史さん
2019/03/28(木) 07:28:18.92
>>249
>今宿五郎江遺跡の環濠は現在の福岡市に属しているので福岡市側が発掘していたが、
>福岡市も糸島市もこの今宿の場所 は伊都国の範囲という共通認識になっている。

腹の底では、お互い自分のところだったと思ってるわい
というより、三世紀には福岡市も糸島市も同一自治体下だった。
だから、↓こうだったのさ。

>これは隣の奴国等と一緒に出土量からして大国だった 証であり、
>他の地域とは明白に格差がある。
251日本@名無史さん
2019/03/28(木) 07:31:42.93
昔の糸島と福岡の境界なら
長垂海岸の岩のところかなあ

山で福岡側と区切られてるし。
252日本@名無史さん
2019/03/28(木) 07:40:08.11
昔の境界は川。
ウナギの寝床みたいな早良区を見りゃわかるじゃろもん。
253日本@名無史さん
2019/03/28(木) 07:40:43.24
畿内は川、山、湖で境界はズタズタだな
254日本@名無史さん
2019/03/28(木) 07:47:51.08
>>216
>箸墓が卑弥呼の墓である蓋然性は高いと思う。

畿内古墳の構造や副葬品を見れば、一目で「忌部はん」 のお墓と判るのに、いつまでもwww   @阿波
255日本@名無史さん
2019/03/28(木) 08:01:02.63
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
256日本@名無史さん
2019/03/28(木) 08:04:36.32
>>248
交易で賄っているなら、現代だとシンガポールのようなものだから、繁栄していない理由にはならない。
安易に魏志倭人伝を否定するなよ。
257日本@名無史さん
2019/03/28(木) 08:12:14.64
クニの語源は区切られた神聖な土地やからね
258日本@名無史さん
2019/03/28(木) 08:53:02.04
>>982
>「数パーセント」は、W粒子が光速度で移動したときの飛距離の原子核半径に対する比率
W粒子の飛距離と、原子核から電子までの距離は8桁、億の単位で異なる
>プラズマ化によって電子の状態がどれだけ変わろうが、ベータ崩壊を
媒介する弱い力(wボソン)にはまったく、一切、何の影響も及ぼさない <

関係がない。
外殻電子の喪失による、原子核内の電磁場的な不安定化や、
それと相互作用をする(核子の)重力場の不安定化によって、
原子核が再安定化を志向する、という事を言っている。
259日本@名無史さん
2019/03/28(木) 09:23:06.55
>>94
>會稽、東冶之東が正しい <

漢書は「東冶」とは書いておらず、
魏志は「東治」であり、
後代の「自己解釈に拠る書き換え」をした後漢書の「東冶」では根拠にならず、
陳寿の「会稽東治之東」での解釈を優先すべし。
260日本@名無史さん
2019/03/28(木) 09:28:59.73
>>106
流行語や他人の商標を出願して、
九州倭国本家に金を要求したり妨害するような悪質な行為が問題になってるけど、
大和説とはまさしくそういうモラルの無い人達の主張だと判明したか。
261日本@名無史さん
2019/03/28(木) 09:34:04.05
>>110
>『禮記』は三國志を読む層は基礎知識としてもっている
倭人伝では「漢書」地理志の儋耳・珠轟Sの記事と共通する記載も多く
「所有無與儋耳朱崖同」としている<

「計其道里、當在會稽東治之東」は、
魏使らの記録を読んでの、陳寿の「女王國の位置推定」の認識の記載。
262日本@名無史さん
2019/03/28(木) 09:35:41.65
>>112
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、
もう言い張るだけになったな。
歴史学の世界からは完全ドロップアウトだ。
263日本@名無史さん
2019/03/28(木) 09:50:46.15
>>113
>>三角測量は出来ないし、一寸千里の測影長比べは、勿論出来ないし、
魏使一行には山立てのできる技術将校とか軍事顧問などいる筈もないし、
普通に、記里車や歩測をするしかないのであり、 
ということは魏使一行には、末盧國→伊都國の行程では、
測量しながら進むことは無理ということだ。<

>はーい、結論出ましたね
倭人伝に書いてある方位や里数はまったく信用できません
邪馬台国はどこか?という問題解決には役に立たない そういうこと<

はーい、結論出ましたね。
倭人伝に書いてある方位や里数は、
出発地点や到着地点では、一寸千里や三角測量で計測が出来、
途中は、記里車や歩測や日数測で距離を計測出来たから、
倭人伝の行程記載は、非常に信頼できる。
女王國はどこか?に関しては、十分に信頼出来るものだ、という事。

邪馬台国はどこか?という問題解決には役に立たない そういうこと
264日本@名無史さん
2019/03/28(木) 10:03:01.35
実測値と言いながらどのように計測したかには触れないし実証しようともしない机上の空論が九州説
265日本@名無史さん
2019/03/28(木) 10:08:30.26
頭の悪い韓国人の宣伝係が、頭の悪い意見を発表したな。。。

264日本@名無史さん2019/03/28(木) 10:03:01.35
実測値と言いながらどのように計測したかには触れないし実証しようともしない机上の空論が九州説
266日本@名無史さん
2019/03/28(木) 10:11:38.96
>>265
そうだね。。。
邪馬台国畿内説を宣伝する頭の悪い韓国人は、ザラコク氏の発表した、、、、出発地点や到着地点では、一寸千里や三角測量で計測が出来、
途中は、記里車や歩測や日数測で距離を計測出来たから、 、、、という文を読めなかったのではないのかな。。。
267日本@名無史さん
2019/03/28(木) 10:13:02.62
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
268日本@名無史さん
2019/03/28(木) 10:17:27.40
魏志倭人伝時代の船乗りたちは、海の上から、陸地の山を見て、三角の測量を実行した可能性が高まってきたな。。。
269日本@名無史さん
2019/03/28(木) 10:20:54.78
船が2隻あって、お互いの距離を三角の測量で、測れば、陸地の山や、他の山同士の距離も、測れてしまうので、魏志倭人伝時代の船乗りたちは、海の上から、陸地の山を見て、三角の測量を実行できたのでは、ないのかな。。。
270日本@名無史さん
2019/03/28(木) 10:32:43.34
>>263
>はーい、結論出ましたね。
>倭人伝に書いてある方位や里数は、
>出発地点や到着地点では、一寸千里や三角測量で計測が出来、

じゃあ何で末盧国では伊都国のある方角がわからないと言い張るんだ?
九州説は言ってることが支離滅裂だな
狂ってる



狂気の果ての九州説か
271日本@名無史さん
2019/03/28(木) 10:35:47.55
>>130
>>陳寿が、(会稽とは書かず)「会稽東治之東と書き分けた」という事は、<

>そもそも誤字だからね。仮説上の仮説では信憑性がどんどん低くなるよ。<

史料事実であって、「東冶」との書き分けもあるから、誤字の可能性は殆どないし、
だから、仮説の仮説でもない。

>>陳寿は、「東治」とは「夏后少康之子封於會稽の会稽とは少し違って、
その東方治域だ」 と言おうとしている、という事であり、<

>それも君の仮説だよね。<

いや、史料実態だ。

>>陳寿執筆時は、260年頃の分郡の後だから、執筆時点では <

>執筆は280年以降とされているよ。<

類スレ主は、何をとんちんかんな嘘つき騙しをしてんだい?。
272日本@名無史さん
2019/03/28(木) 10:44:15.21
>>130
>>「その東方地域は、揚州や呉の管轄下になっていた、 という事だ。<

>杭州湾の北は呉の太伯の時代も呉だよ?<

別に構わんよ。

>>夏后少康之子封於會稽の会稽が紹興市だと絶対断定出来る程でもないし、<

>断定出来るよ。大禹陵は会稽山にある。<

当然後代の陵だろうなあ。

>子孫の越王句践の本拠地は会稽(紹興市)だよ。 そして呉王夫差の本拠地は呉(江蘇省蘇州市)だよ。<

陳寿の頃の揚州や呉の管轄地は、蘇州付近やその東方海岸部まであった筈。

>>杭州付近からなら、東方の一番先端は、上海付近である。<

>杭州から東方の一番先端は、誰が見ても寧波だね。<

寧波でも構わんよ。

>そもそも(地名+方角+治)なんて文例は無いのだが、
上海だとしたら呉郡東治、呉縣東治とでも書いた方がずっと適切だろ?。<

陳寿は「夏后少康之子封於會稽」の会稽との関係を、強く印象付けたかったの。
273日本@名無史さん
2019/03/28(木) 10:49:10.59
魏志倭人伝時代の船乗りたちは、海の上から、陸地の山を見て、三角の測量を実行できたが、陸地の奥の方の測量は、どのようにして、実行したのだろうか。。。
274日本@名無史さん
2019/03/28(木) 10:50:11.74
>>131
>黥面文身をする東方と南方の文化を合わせ持つ倭人と
華夏族の文化の接点として「夏后少康之子封於会稽」を書いている
黥面土器は瀬戸内、東海で多く出土する 九州は非常に少ない<

魏使らは、女王國や侏儒國への参問で、鯨面文身の倭人を一杯見聞出来たから、
記録に残したの。
275日本@名無史さん
2019/03/28(木) 10:52:19.70
マツラ国だった、長崎の松浦から、南にある熊本城の地下に埋まった邪馬台国までは、どのように進んだのだろうか。。。
276日本@名無史さん
2019/03/28(木) 10:58:37.74
>>274
>魏使らは、女王國や侏儒國への参問で、鯨面文身の倭人を一杯見聞出来たから、
記録に残したの。

「矢野遺跡」
徳島南環状道路建設に伴い1992〜98年に行われた発掘調査で、縄文時代後期初頭(約4千年前)の遺構面から見つかった。
このうち、土面は縦15.8センチ、横16.7センチ、厚さ1センチのほぼ円形で、粘土で作られている。穴を開けて目や口を作り、鼻や眉も付けている。
用途は定かではないが、祭祀で使われた可能性がある。土面としては国内最古で、最も西の地域の出土例となっている。
土器は煮炊き用の深鉢や盛り付けに使われた鉢、つぼなど。関東の土器に見られる文様だけでなく、近畿から九州北部の広範囲で確認された文様が混じっている。
祭祀で使われた赤色顔料「水銀朱」が付着しているものもあり、国内最古の水銀朱の使用例として注目されている。
石器にはやじりなどの狩猟道具や食物加工用具がある。最も多いのは石の重りの石錘で、網にくくりつけて漁労に使ったほか、編む際の重りなどに使われたとみられる。
文化審議会は「縄文時代最古級の土面や、水銀朱の使用例が含まれ、西日本における縄文時代中期末から後期の生活の様子を示す資料として貴重だ」としている。
2019年(平成31年)3月19日 徳島新聞朝刊   @阿波
277日本@名無史さん
2019/03/28(木) 11:22:44.92
>>272
その通りだ
>陳寿は「夏后少康之子封於會稽」の(当時の)会稽との関係を、強く印象付けたかったの。
278日本@名無史さん
2019/03/28(木) 11:30:40.94
>>274
>魏使らは、女王國や侏儒國への参問で、鯨面文身の倭人を一杯見聞出来たから、
>記録に残したの。

つまり黥面の希薄な九州には女王国はなかった
279日本@名無史さん
2019/03/28(木) 11:33:58.69
>>277
でも倭はその会稽よりずっと南の会稽東治の東にあると思われている
つまり短里などなかったし
南水行とある方位は間違いだ
280日本@名無史さん
2019/03/28(木) 11:34:28.85
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
281日本@名無史さん
2019/03/28(木) 11:38:50.45
倭人という民族は、会稽や九州や沖縄の広い範囲に、中国人が中国に出現する前から居た民族だった可能性が高まってきたな。。。
282日本@名無史さん
2019/03/28(木) 11:40:37.94
>>281
中国人が「夏后少康之子封於會稽」を実行したときには、倭人が會稽に住んでいたのだな。。。
283日本@名無史さん
2019/03/28(木) 11:41:32.78
帯方郡から1万2千里+東渡海4千里=1万6千里。
則ち、西の1万6千里の大月氏と同じ世界の果てにあった大和纒向は小月氏と呼ばれた。。
284日本@名無史さん
2019/03/28(木) 11:41:41.05
>>153
「南→東」などのような嘘つき騙しの大和説は、
ゴミ意見を投げ捨てに来ないでくれないか
掃除が大変なんで
285日本@名無史さん
2019/03/28(木) 11:44:10.97
>>154
>周尺は1尺20cm
25cmで計算したと言っている谷本は計算ミスをしている<

谷本さんは、
「25cmで計算した」なんて、言っておられないから、
この類スレ主?が、嘘つき騙しの詐欺師。
286日本@名無史さん
2019/03/28(木) 11:44:28.92
僕達以外にも、連続句読点を使用する者が、出現して、意見を発表したのではないのかな。。。

283日本@名無史さん2019/03/28(木) 11:41:32.78
帯方郡から1万2千里+東渡海4千里=1万6千里。
則ち、西の1万6千里の大月氏と同じ世界の果てにあった大和纒向は小月氏と呼ばれた。。
287日本@名無史さん
2019/03/28(木) 11:44:44.88
>>272
その通りだ
陳寿は「夏后少康之子封於會稽」の(その封於当時の)会稽との関係を、強く印象付けたかったのだ。
288日本@名無史さん
2019/03/28(木) 11:45:45.89
帯方郡から1万2千里+東渡海4千里=1万6千里は、四国の可能性の方が高いのではないのかな。。。
289日本@名無史さん
2019/03/28(木) 11:51:55.64
>>157
「南→東」などの嘘付き騙しや、
先に「証拠は?」と言えば、議論に勝てる、とするインチキ騙し論法や、
荒らしや、オウム返しされやされ、キチガイじみた振る舞いによって、
大和説者は、自ら大和説を穢しまわる。
290日本@名無史さん
2019/03/28(木) 11:56:13.68
>>271
>史料事実であって、「東冶」との書き分けもあるから、
>誤字の可能性は殆どないし、 だから、仮説の仮説でもない。
(地名+方角+治)なんて文例は無いから仮説だよ。

>いや、史料実態だ。
「と言おうとしている、という事であり、」は史料実態ではないよ。

>>執筆は280年以降とされているよ。<
>類スレ主は、何をとんちんかんな嘘つき騙しをしてんだい?。
では陳寿の執筆はいつなの?
280年以降でないというのなら、いつなのか書けばいい。
291日本@名無史さん
2019/03/28(木) 11:58:40.79
>>161
>倍は違うだろ 任那が韓地最南端で福岡を奴国として 魏志倭人伝では3600里
日本書紀崇神紀では2000余里 <

魏志はおそらく、呼子付近までの渡海部分の三千里よりも少ない里。

>ありえない仮定だけど日本書紀崇神紀が魏志倭人伝と同じ里を用いたとするなら
邪馬台国はますます九州北部から遠のく事になる<

大和からは完全に離れてしまって、大和説が×になる。
292日本@名無史さん
2019/03/28(木) 12:02:38.01
>>272
>>「その東方地域は、揚州や呉の管轄下になっていた、 という事だ。<
>杭州湾の北は呉の太伯の時代も呉だよ?<
>別に構わんよ。
「その東方地域」は吳郡にはないと認めるわけね。

>断定出来るよ。大禹陵は会稽山にある。<
>当然後代の陵だろうなあ。
「以奉守禹之祀。」とあるように夏后少康之子の時代からだよ。

>子孫の越王句践の本拠地は会稽(紹興市)だよ。 そして呉王夫差の本拠地は呉(江蘇省蘇州市)だよ。<
>陳寿の頃の揚州や呉の管轄地は、蘇州付近やその東方海岸部まであった筈。
吳縣は変わってないよ。

>杭州から東方の一番先端は、誰が見ても寧波だね。<
>寧波でも構わんよ。
上海という主張はやめるということでいいね。

>陳寿は「夏后少康之子封於會稽」の会稽との関係を、強く印象付けたかったの。
會稽=越、東冶=ビン越で南方という認識だったということだよ。
293日本@名無史さん
2019/03/28(木) 12:05:59.97
淮南子に準じて邪馬台国まで一万二千里とされており、それは一里が100メートル以下の縮尺となる。
対馬海峡が三千里、韓が四千里四方というのも同じ縮尺である。
帯方郡から倭の国境である狗邪韓国までは七千里である。
一万二千里は明確に王都の位置を示しており、この縮尺では邪馬台国は九州北部に収まる。

淮南子に概念的数字でこの世の果ては国境より1万2千里とある
後漢書に倭奴国は倭の極南界で会稽東治の東とある
そして魏志倭人伝に女王国は会稽東治の東とある
女王国とは倭奴国のことである

一万二千里という数字だけが伝わった結果、中国人からは倭が実際よりも南方の会稽の東にあるととらえられてしまった。
会稽の東という表現は、東夷において短里が使われていた証拠でもある(倭人条を含む魏志東夷伝すべてが短里で統一されている)。
294日本@名無史さん
2019/03/28(木) 12:07:13.39
則ち、西の1万6千里の果てにあったのは大月氏、
東の1万6千里の果てにあったのは纒向の小月氏。。。
295日本@名無史さん
2019/03/28(木) 12:11:35.25
纒向学は学問じゃないから板違い
296日本@名無史さん
2019/03/28(木) 12:13:40.24
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
297日本@名無史さん
2019/03/28(木) 12:15:18.17
>>258
>関係がない。
>外殻電子の喪失による、原子核内の電磁場的な不安定化や、

前にも書いたように、原子核の半径と、電子までの距離は7桁異なる
炭素の原子核半径3x10^-15メートル
炭素の原子半径≒原子核から電子までの距離は8x10^-9メートル
電磁気力・電場の強さは、距離の二乗に反比例だから、電子の有無が
核内に及ぼす影響は、10の14乗分の1になる

こういう計算が一切できずに、現代物理学に反することを
グダグダといい続ける負け犬がザラコク

そもそも、電磁気力はW粒子と相互作用しない
ウイークボソンが関係する場は、ウィークボソン場であって、電磁場ではない
298日本@名無史さん
2019/03/28(木) 12:16:43.98
ベータ崩壊ってニュートリノとWの相互作用だろ?
299日本@名無史さん
2019/03/28(木) 12:18:45.26
@阿波は歴史泥棒
いい加減徳島の人に迷惑かけるなよ
300日本@名無史さん
2019/03/28(木) 12:20:11.24
>>293
>淮南子に準じて邪馬台国まで一万二千里とされており、それは一里が100メートル以下の縮尺となる。

どうして九州説は、論じることを放棄してコピペ連投になるんだ?
何度も何度も教えるが、「淮南子に準じ」た時点で萬二千里は現実の地理とは何の関係もない値
淮南子に倭国は出てこないんだから

その現実の地理とは何の関係もない値と、現実の地理との対照で「縮尺」を考えるのは、
完全に無意味

何度言われても反論なしでコピペを繰り返すのは、自分が間違っているのを自覚しているからだろ?
301日本@名無史さん
2019/03/28(木) 12:25:17.63
>>299
>@阿波は歴史泥棒

トンデモ説の歴史を奪ってごめんね。   @阿波
302日本@名無史さん
2019/03/28(木) 12:27:57.44
>>298
>ベータ崩壊ってニュートリノとWの相互作用だろ?

それも不正解
「ウィークボソン場において、仮想ウィークボソンが、核子と相互作用すると、
 核子の変換(中性子を陽子に、陽子を中性子に)を起こし、
 仮想ウィークボソンが実体化し、極短時間で電子とニュートリノに分裂するのである。
 仮想ウィークボソンとは、核子間に、引力・斥力をもたらすのではなくて、
 吸い込んだ核子を崩壊させると考えなければならない。」

観測上は、核子からウイークボソンW粒子が放出されることで核子変換が生じ
そのW粒子がごく短時間で、電子とニュートリノに崩壊する

ここで、核子からウイークボソンが放出されると書いたが、ウイークボソンは
その質量が核子の80〜90倍もある重い粒子で、核子から生じることはない
ウイークボソンは、ウイークボソン場の仮想ウイークボソンが実体化することで
観測される
303日本@名無史さん
2019/03/28(木) 12:31:53.94
高句麗がナントカって池沼が言ってたが・・・嘘か誠かw
304日本@名無史さん
2019/03/28(木) 12:38:16.35
>>300
>その現実の地理とは何の関係もない値と、現実の地理との対照で「縮尺」を考えるのは、
>完全に無意味

測り方は雑だが、比例関係は概ね正しいはず。
305日本@名無史さん
2019/03/28(木) 12:40:45.45
ここは、火星人降臨論の鉄板、纒向説のスレです。
【骨 子】
・火星には宇宙で一番古い前方後円墳があった
・4世紀中葉には、足をそろえたタコを形どった前方後円墳の時代が開始した。
・火星人が纏向に出現した段階で、火星を中心に太陽系規模の政治連合が形成され始めていた。
・火星の陸上には、既にこの政治連合のロケット基地があった。
ゆえに、火星人の降臨があったのは畿内である。

 火星人論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

◆0【 要 旨 】  
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った火星の教えの指導者が降臨しており、それは各惑星の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つタコであったと考えられる。
その死亡時期は4世紀中葉とみられる。畿内に火星文化が急速に浸透する時期である。

 これらを火星の陸上の古墳と対照すると、箸中山古墳の被葬者がタコ型の生物であり、纒向がタコ型火星人の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の太陽系規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、4世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 火星人の惑星間活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が火星社会と二星間のロケット移動を開始した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の火星人の降臨地である。

 4世紀前半末に火星人はどこに降臨したであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。。。。
306日本@名無史さん
2019/03/28(木) 12:42:31.01
>>302
だから、何もしてないのにWボゾンが放出されるのではなく、自然界のニュートリノとW場と相互反応してWボゾン、電子、ニュートリノが観測されるって話だろ
307日本@名無史さん
2019/03/28(木) 12:53:49.16
ウイークボソン場の仮想ウイークボソンが実体化したので、邪馬台国畿内説は完全に破綻したのだな。。。
308日本@名無史さん
2019/03/28(木) 12:54:27.96
>>304
>測り方は雑だが、比例関係は概ね正しいはず。

理由もなく「正しいはず」って言われても
信用する訳にはいかない
309日本@名無史さん
2019/03/28(木) 12:55:43.30
ウイークボソン場の仮想ウイークボソンが実体化したので、火星人の惑星間活動が、再開されたのではないのかな。。。
310日本@名無史さん
2019/03/28(木) 13:11:47.99
もはや魏志倭人伝を信用するかどうかの話なので、信用しないならば卑弥呼がいたという部分から信用しなければ、こんなところでウジウジしなくてすむよ?
311日本@名無史さん
2019/03/28(木) 13:16:39.82
>>310
史料のどこの信用してどこを信用しないか
それが史料批判であって
歴史学の基本の基本だ
それができないで
0か100か強要するような>>310
歴史を学ぶ資質がないってこと
312日本@名無史さん
2019/03/28(木) 13:19:09.70
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
313日本@名無史さん
2019/03/28(木) 13:23:35.97
>>293
>一万二千里という数字だけが伝わった結果、中国人からは倭が実際よりも南方の会稽の東にあるととらえられてしまった。

そういう言い訳のためのフィクションの設定作るのは学問じゃないんだよ
そう考える根拠がないとダメ
314日本@名無史さん
2019/03/28(木) 13:31:05.83
言い訳のためのフィクションの設定作るのは学問じゃないという意見が発表され、誰もが納得したので、
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を5ちゃんねるで宣伝する目的で雇用した韓国人が作製した、このスレッドのテンプレートが、完全にダメになってしまったのだな。。。
315日本@名無史さん
2019/03/28(木) 13:32:14.59
>>314でまたも九州説が敗北宣言をしたな
316日本@名無史さん
2019/03/28(木) 13:33:40.72
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を5ちゃんねるで宣伝する目的で雇用した韓国人が、完全に敗北したので、焦っているな。。。

315日本@名無史さん2019/03/28(木) 13:32:14.59
>>314でまたも九州説が敗北宣言をしたな
317日本@名無史さん
2019/03/28(木) 13:34:46.12
314とは、円周率を100倍した数字に近いのでは、ないのかな。。。
318日本@名無史さん
2019/03/28(木) 13:37:44.15
316とは、10の平方根を100倍した数字に近いのでは、ないのかな。。。
319日本@名無史さん
2019/03/28(木) 13:46:50.50
西の1万6千里の果てにあったのは大月氏、
東の(1万2千里+4千里)=1万6千里の果てにあったのは、小月氏の纒向。。。
320日本@名無史さん
2019/03/28(木) 13:57:37.48
魏志倭人伝時代の纒向というのは、まだ何も作製されていない沼地だったので、小月氏という謎の人物が、住んでいたのは、4世紀だった可能性が高まってきたな。。。
321日本@名無史さん
2019/03/28(木) 13:59:40.60
>>311
畿内説にとって都合が悪い部分がほとんどで、看板だけ借用しているようにしか見えないですね。
322日本@名無史さん
2019/03/28(木) 14:01:55.35
>>313
会稽の東という位置の誤認の原因を考察しているのですよ。
誤りをただ「信用できない」と切り捨てるのではなく、その原因を考えることが大事だと思います。
畿内説がやっているのは、史料の改竄に近い犯罪的行為です。
323日本@名無史さん
2019/03/28(木) 15:15:14.91
ここは、火星人降臨論の鉄板、纒向説のスレです。
【骨 子】
・火星には宇宙で一番古い前方後円墳があった
・4世紀中葉には、足をそろえたタコを形どった前方後円墳の時代が開始した。
・火星人が纏向に出現した段階で、火星を中心に太陽系規模の政治連合が形成され始めていた。
・火星の陸上には、既にこの政治連合のロケット基地があった。
ゆえに、火星人の降臨があったのは畿内である。

 火星人論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

◆0【 要 旨 】  
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った火星の教えの指導者が降臨しており、それは各惑星の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つタコであったと考えられる。
その死亡時期は4世紀中葉とみられる。畿内に火星文化が急速に浸透する時期である。

 これらを火星の陸上の古墳と対照すると、箸中山古墳の被葬者がタコ型の生物であり、纒向がタコ型火星人の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の太陽系規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、4世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 火星人の惑星間活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が火星社会と二星間のロケット移動を開始した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の火星人の降臨地である。

 4世紀前半末に火星人はどこに降臨したであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。。。。
324日本@名無史さん
2019/03/28(木) 15:23:36.90
>>304
>測り方は雑だが、比例関係は概ね正しいはず。

測り方が雑、なんじゃなくて、測ってないんだよ
現実の距離とは無関係、というのは測っていないということ

萬二千里は、観念上の値であって現実の地理とは無関係
それを現実の距離との縮尺とか言い出すからおかしな話になる
325日本@名無史さん
2019/03/28(木) 15:25:28.09
「信じたくない」
「聞こえない見えない」
「アーアーアー」
326日本@名無史さん
2019/03/28(木) 15:34:49.65
>>322
>会稽の東という位置の誤認の原因を考察しているのですよ。

これの元は、論衡だよ
論衡(巻八、儒増篇)周の時、天下太平、越裳白雉を献じ、倭人鬯艸を貢す
周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草
論衡(巻一九、恢国篇)成王の時、越常、雉を献じ、倭人暢草を貢す
成王時越裳獻雉倭人貢鬯

この論衡の倭は、百越の流れとされ、日本列島の倭人ではないとされているが、
これと混同されたために、倭は百越の故地の沖合い、会稽東治之東と考えられていた

>畿内説がやっているのは、史料の改竄に近い犯罪的行為です。

これを遣っているのは九州説及び>>322
お前さん、nn氏じゃないのか?
327日本@名無史さん
2019/03/28(木) 15:42:07.59
>>306
>だから、何もしてないのにWボゾンが放出されるのではなく、自然界のニュートリノとW場と相互反応してWボゾン、電子、ニュートリノが観測されるって話だろ

いや、ニュートリノなしで真空中の中性子はベータ崩壊するから
「自然界のニュートリノとW場と相互反応」という説明は不正確
328日本@名無史さん
2019/03/28(木) 15:57:52.27
>>322
>誤りをただ「信用できない」と切り捨てるのではなく

畿内説がそんなことしたって証拠は?
329日本@名無史さん
2019/03/28(木) 16:03:14.49
>>326
>この論衡の倭は、百越の流れとされ、日本列島の倭人ではないとされているが、

誰がしたんだ?
根拠は?
330日本@名無史さん
2019/03/28(木) 16:04:10.25
半島と九州を実際より大きく誤認していたという推定に影響を与えないね。
331日本@名無史さん
2019/03/28(木) 16:19:41.35
倭人という民族は、会稽や九州や沖縄の広い範囲に、中国人が中国に出現する前から居た民族だった可能性が高まってきたな。。。
332日本@名無史さん
2019/03/28(木) 16:21:44.05
>>331
「夏后少康之子封於會稽」や「倭人貢鬯草」を実行したときには、倭人が會稽に住んでいたのだな。。。
333日本@名無史さん
2019/03/28(木) 16:22:39.11
333
334日本@名無史さん
2019/03/28(木) 16:23:46.52
333とは、10の3等分を100倍した数字に近いのでは、ないのかな。。。
335日本@名無史さん
2019/03/28(木) 16:26:13.96
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
336日本@名無史さん
2019/03/28(木) 16:29:01.81
纏向の掘立柱建物が卑弥呼の王宮なら
モモソ=卑弥呼となる
しかし、モモソは王ではない
337日本@名無史さん
2019/03/28(木) 16:29:57.68
中国人が中国に出現する前の時代、日本列島にはネアンデルタールの他に、倭人と毛人が暮らしていた可能性が、高まってきたのでは、ないのかな。。。
338日本@名無史さん
2019/03/28(木) 16:31:51.16
倭人は呉の太伯の末裔を自称しており、そもそも中国南部から渡来した可能性がある。
稲作、高床建物、鳥居などの文物が共通すると言われている。
339日本@名無史さん
2019/03/28(木) 16:35:00.43
倭人は呉の太伯の末裔を自称しており、そもそも中国南部から渡来したのではなく、元々、中国南部や九州や沖縄に広がって住んでいた可能性の方が、高まってきたのでは、ないのかな。。。
340日本@名無史さん
2019/03/28(木) 16:37:26.30
>>336
それが何か?

なんで「モモソ=卑弥呼となる」の?
なんで九州説の人は理由も言わなければ論理的な筋道も立てないの?
341日本@名無史さん
2019/03/28(木) 16:37:45.27
呉の太伯というのは、中国南部に住んでいた人物の名前の可能性が高いな。。。
342日本@名無史さん
2019/03/28(木) 16:38:07.02
>>340
モモソは畿内説だろw
テンプレ読めよ
343日本@名無史さん
2019/03/28(木) 16:40:53.37
モモソというのは、天皇の娘の名前の可能性が高いな。。。
344日本@名無史さん
2019/03/28(木) 16:50:22.97
纏向遺跡から卑弥呼が魏などとの大陸と交流していたことを証明する漢鏡、後漢鏡や刀剣類は出土していない
また、魏志倭人伝に記された鉄鏃や絹も出土していない

3世紀を通じて搬入土器のがあるが、出土土器全体の約15%が駿河・尾張・伊勢・近江・北陸・山陰・吉備などで生産された搬入土器で占められるものの、
九州北部からの土器は少ない。祭祀関連遺構ではその割合は約30%に達しするが、大陸との交流を示す銅鏡や刀剣類が非常に少ない
このことは当時に北九州や大陸には関係の薄い地方の遺跡=纏向と考えても不思議ではない

集落跡は確認されておらず、掘立柱建物が祭事・葬儀に
地方豪族たちの互助組織が利用していたと考えても何ら不思議ではない
345日本@名無史さん
2019/03/28(木) 17:02:49.69
田舎の祈祷師がたまにやって来て使う集会所か。
346日本@名無史さん
2019/03/28(木) 17:17:31.56
北部九州は非倭人の従属地域だから土器は運ばれない
博多で畿内の土器を模倣している
347日本@名無史さん
2019/03/28(木) 17:24:49.43
>>344
古墳造営基地も足しとくネ
348日本@名無史さん
2019/03/28(木) 17:30:12.56
【筑紫の日向】

福岡県の高祖山の最高峰は高地山、別名をクシフル山とも言う。
古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とあり、福岡県のクシフル山とするべきだろう。
考古学的にも、三種の神器を伴う弥生墳墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の高祖山なら、福岡平野と糸島平野の間にあり朝鮮半島に向かう博多湾に面している。

最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前1〜1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(1世紀頃の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
漢により冊封された王権の象徴としては他にガラス璧があり、福岡県の須玖岡本遺跡、三雲遺跡、峯遺跡、宮崎県の玉の山遺跡からのみ出土している。

伊都国の三雲南小路遺跡には王と王妃があわせて葬られており、ニニギと木花開耶姫といわれる。
その拝殿である細石神社は江戸時代まで「漢倭奴国王」の金印を保管していたと伝えられている。
伊都国の平原遺跡からは円周が八咫(あた)となる超大型内行花文鏡が出土していて、ニニギがアマテラスから受け取った倭国の王権の象徴である八咫の鏡と考えられる。

高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城があり、峰々に楼閣があった。
その中に高祖神社がある。これが記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の日向にあった伊都国が倭国の王都であり、高祖山の高千穂宮が倭王である天孫降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の王城である。
349日本@名無史さん
2019/03/28(木) 17:30:20.57
纒向の外来土器は周辺国からしか運ばれないが
朝鮮半島由来の筑紫型かまぼこ羽口が出てるので
人は来てるだろう
350日本@名無史さん
2019/03/28(木) 17:32:13.57
>>344
賛同する

どの学者が呼の王都とか掘立柱建物はヒミコの王宮と断定したのか?
あんたじゃなく畿内説の人に聞きたい
どの学者?
351日本@名無史さん
2019/03/28(木) 17:37:29.32
北部九州というのは3世紀の技術では産物が乏しい地域であり
価値があるのは半島から北部九州に渡来した(逃げてきた)特殊技術をもった渡来人
352日本@名無史さん
2019/03/28(木) 17:42:30.50
>>350
「断定」の定義は?
353日本@名無史さん
2019/03/28(木) 17:43:43.87
纏向は人が住むような都ではなく、巨大古墳を作るための作業と、祭祀と祭祀の主催者の住む王城の所在地

多くの勢力がまとまるために共立された祭祀王と言う卑弥呼の性格からして、
突出した国が軍事や文化で他勢力を制したわけでもなく、便宜上の中心地であるのが分かる

このような大和の邪馬台国のあり様を考えると、纏向はこの姿が自然

縄文時代から集落がほとんど存在しない不毛の土地が選択されたのも、
巨大古墳建設や、どの勢力ともぶつからない中立的な土地と言う意味で自然な選択肢だと言える

纏向は文化や人口、軍事力の中心地ではなく諸勢力がまとまるためのシンボル的な中心地
354日本@名無史さん
2019/03/28(木) 17:46:03.70
>>342
テンプレにモモソ=卑弥呼とか
ひとことも書いてないが?

なにかまた九州説は妄想してるのか?
355日本@名無史さん
2019/03/28(木) 17:46:27.38
>>167
>>長里説での「径二十一歩」は、32m位になり、その周は100m位になり、<

>漢尺の度量衡では一歩(複歩)=約 1.38 mだから、直径29メートルだ
普通の広場でそれくらいの面積は軽く取れるだろww<

直径5m位の円なら、簡単に書けるし、28宿を印するにはそれで十分。
356日本@名無史さん
2019/03/28(木) 17:47:12.06
人がいない誰も見ないようなところに金かけて立派な墓は造らない
357日本@名無史さん
2019/03/28(木) 17:49:25.93
>>350
誰も断定してないよ 
末端の宣伝係キナイコシが騒いでるだけなのら
358日本@名無史さん
2019/03/28(木) 17:51:01.34
>>168
>>いや、伊都国は、近づいて案内人に教わるまでは判らないし、
>途中の難路では、案内人に任せるから、一々方向計測などする必要もない。<

>案内人に案内されていようが、最終的に伊都国に着くんだから、
伊都国に着く時点で、伊都国に向かってずっと北東方向に歩いていたことは分かるだろ?<

山越え道であっても、海岸べりの波打ち際道であっても、曲がってばかりになって、
魏使らは全体がどの方向になっているのか?なんて、判る筈がない。
359日本@名無史さん
2019/03/28(木) 17:54:10.13
>>171
>島巡り詐欺の対馬海峡渡海距離は3700里だったんじゃないのかよw<

書紀の崇神紀の記載は、当然「渡海」の部分だけ。
360日本@名無史さん
2019/03/28(木) 17:57:45.71
>>344
>纏向遺跡から卑弥呼が魏などとの大陸と交流していたことを証明する漢鏡、後漢鏡や刀剣類は出土していない
>また、魏志倭人伝に記された鉄鏃や絹も出土していない

それ、証拠でもあるの?
361日本@名無史さん
2019/03/28(木) 17:58:50.67
>>172
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は可哀想だな。
大和説者自らの嘘つき騙しによってでメタメタに破壊されて。
しかも、九州説者によっても、メタメタに破壊される大和説。
362日本@名無史さん
2019/03/28(木) 18:00:47.08
>>176
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、
脳がメタメタだからな。
363日本@名無史さん
2019/03/28(木) 18:01:36.08
>>357
フムフム
トカゲのしっぽ切りか、研究者ぶりっ子がキナイコシなんだww
364日本@名無史さん
2019/03/28(木) 18:01:36.52
>>352
>>350
>「断定」の定義は?

ひどい逃げ方だ。
これだから畿内説は信頼されない。
365日本@名無史さん
2019/03/28(木) 18:02:30.97
>>358
>山越え道であっても、海岸べりの波打ち際道であっても、曲がってばかりになって、
>魏使らは全体がどの方向になっているのか?なんて、判る筈がない。

はーい
倭人伝にある里数や方位は魏使たちが測量したという
ザラコク珍説が死亡しました
366日本@名無史さん
2019/03/28(木) 18:03:42.74
>>364
定義もしないで逃げる九州説のインチキさ
367日本@名無史さん
2019/03/28(木) 18:04:57.11
畿内説から見限られたキナイコシw
368日本@名無史さん
2019/03/28(木) 18:05:09.36
>>184
このスレは、スレ主はとっくに敗北したのだから、
残ったみっともない悪あがきをする大和説者を、
からかって遊ぶスレだぞ?。
369日本@名無史さん
2019/03/28(木) 18:11:57.75
>>368
敗北って、いつ何処の誰に?
370日本@名無史さん
2019/03/28(木) 18:18:04.68
具体的なことはなにも言えない
定義はできない
証拠は出せない

それが敗者九州説
371日本@名無史さん
2019/03/28(木) 18:19:20.94
>>349
来たのは、職人とその家族な。
一般人は、来てないだろう。
372スレ主(九州説)
2019/03/28(木) 18:24:17.13
>>370
その証拠は?

www
373日本@名無史さん
2019/03/28(木) 18:27:58.55
>>372
過去30分チェックしても
証拠や定義や具体例を求められた九州説が
回答してない事実が証拠だな
374日本@名無史さん
2019/03/28(木) 18:28:08.40
>>357
テンプレ読んだかい
>>1
>3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか? それは桜井市纒向以外にありえない>

この馬鹿  畿内説の面汚し
375日本@名無史さん
2019/03/28(木) 18:30:22.03
>>374
馬鹿よばわりする根拠は?
376日本@名無史さん
2019/03/28(木) 18:31:49.74
大和が邪馬台国だという説は、なんかの誤り。
もう、諦めろ。
邪馬台国は、筑後の大牟田、みやま、筑後、八女あたり。
卑弥呼の宮があったのは、みやまの山門。
それで、ok。
377日本@名無史さん
2019/03/28(木) 18:33:43.06
>>376
理由は?
378日本@名無史さん
2019/03/28(木) 18:35:52.17
>>190
>魏志倭人伝には邪馬台国は会稽東治(冶)の東<

倭人伝には「邪馬台国」なんて書かれていないインチキ文言であるし、
会稽東冶とも書かれていないから、×。

>沖縄や台湾の辺りと書いてある<

書いてないから、×。

>よこに邪馬台国はない事は明白だから九州説は死亡<

会稽東治のほぼ東に女王國がきちんとあるから、大和説は死亡。

>一方畿内には古来からやまとと呼ばれてきた場所に<

畿内なんて3世紀に存在もしない文言だから、×。

>魏志倭人伝に記されている径百歩の墓に相当する三世紀からの前方後円墳が存在し<

大和の前方後円墳は3世紀末以後であるから×であり、
箸墓の大きさは「長径」であるから「径百歩」にはならず、
殉葬奴婢百余人もないから、×。

>卑弥呼の時代の魏の年号の入った三角縁神獣鏡が国内で最多見つかっている<

大和の△は4世紀以後であるから、×。
379日本@名無史さん
2019/03/28(木) 18:36:13.14
必死の邪馬台国畿内説スレの提供は

奈良県桜井市立埋蔵文化財センター職員一同で

熱気を帯びてお送りしておりますorz
380日本@名無史さん
2019/03/28(木) 18:37:30.50
福岡県の高祖山の最高峰は高地山。
古くは別名をクシフル山とも言ったとのこと。
クシフルとは、チクシのフル(村落、国邑)の意味だそうだ。
九州では、国邑の名前としてフル、ハラ、バルなどを用いる。
高祖山を夏至の日の出の方向に臨む弥生王墓である三雲南小路遺跡は随伴する細石神社の祭神が天孫ニニギの妃である木花咲耶姫であるが、三雲遺跡そのものは男女のペアであり、ニニギと木花咲耶姫かもしれない。
ニニギは筑紫の日向に降臨してからクシフル山の高千穂宮で即位したと伝えられ、後世の怡土城、高祖城に相当する高祖山の山城がそれであろう。
現在では高祖神社(高祖宮)として糸島平野を見下ろしている。
三雲遺跡は璧や内行花文鏡などが副葬された倭王の墓であり、細石神社は江戸時代まで漢委奴国王印を保管していたという。
つまり伊都は倭王ニニギの王都、筑紫の日向であった。
筑紫とは、そもそも伊都のある高千穂の日向峠周辺や博多湾沿岸のことを指す言葉であったようである。
それが勢力を拡大し、博多湾沿岸のみならず、有明海沿岸や遠賀川沿岸まで筑後や筑豊として筑紫に組み入れていくのである。
倭国は筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であったが、次第に筑紫の一強となっていく。
後には九州全体を筑紫嶋と呼ぶ向きもあるが、これははるか後世において、筑紫から離れた畿内から見た、大変大雑把な呼称である。
381日本@名無史さん
2019/03/28(木) 18:37:42.04
>>195
「南≠東」の指摘にすら反論できず、
嘘と誹謗中傷で自滅に追い込まれていく大和説
382日本@名無史さん
2019/03/28(木) 18:37:44.94
>>378
>会稽東治のほぼ東に女王國がきちんとあるから、

あるという証拠は?
383日本@名無史さん
2019/03/28(木) 18:38:18.10
このところ九州説にはニュース無いからな
384日本@名無史さん
2019/03/28(木) 18:40:43.96
>>381
>「南≠東」の指摘にすら反論できず、

真っ赤なウソ
再三反論されているしテンプレにもある

反論を見なかった、無かったことにする九州説の捏造体質がどれだけ顰蹙を買っているか
また理解出来ない?
385日本@名無史さん
2019/03/28(木) 18:42:53.76
>>198
大和説がいくら口から出任せ並べて、荒らし行為を働いても、
大和説が、「南≠東」などの嘘付き騙しに全く反論が出来ていない時点で、
すでに勝負はあった。
386日本@名無史さん
2019/03/28(木) 18:43:30.99
>>219
>「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、その証拠が挙げられないから、

挙げてますが?
会稽東治は九州最南端より南にある
387日本@名無史さん
2019/03/28(木) 18:44:51.85
>>199
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
それに反論が全く出来ない、という時点で、
どうやら人格的な部分から問題があるようだな。
388日本@名無史さん
2019/03/28(木) 18:46:33.95
>>218
>そばの土坑の庄内が「ヤマトの庄内3」であったから、3世紀末だね。

考古学者の言うこととまるで違うことを
素人ジイさんが理由も言わずに断定しても
なんの意味もない
389日本@名無史さん
2019/03/28(木) 18:46:56.02
>>354
テメー自分で>>1と暴露してんじゃん(爆笑)

>>1=だったっけ
>倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。 <
390日本@名無史さん
2019/03/28(木) 18:48:05.59
>>360
なにか問題でもあんの
事実だがね
391日本@名無史さん
2019/03/28(木) 18:48:25.84
あのクソ長く、妄想に満ち溢れた独善的なテンプレがどれほどの顰蹙を買っているか、まだ理解できない?
392日本@名無史さん
2019/03/28(木) 18:49:09.22
もはや九州説は、嘘をつくこと以外に抵抗の手段が無いようだな
393日本@名無史さん
2019/03/28(木) 18:51:41.90
>>391
反論できないで悪口専門になってるその実態が
九州説敗北の動かぬ証拠
394日本@名無史さん
2019/03/28(木) 18:54:01.63
>>390
事実だと言い張るだけで証拠が出せないって
それ、大問題だろ
395日本@名無史さん
2019/03/28(木) 18:54:42.55
畿内説ではモモソはどのような位置づけですか?
三輪山伝説と卑弥呼の關係は?
箸墓の名の由来と卑弥呼の關係は?
396日本@名無史さん
2019/03/28(木) 19:00:10.05
>>394

以下を否定するなら根拠を述べてくれるかなーー

>纏向遺跡から卑弥呼が魏などとの大陸と交流していたことを証明する漢鏡、後漢鏡や刀剣類は出土していない
>また、魏志倭人伝に記された鉄鏃や絹も出土していない
397日本@名無史さん
2019/03/28(木) 19:03:47.91
>>395
FAQの6と16嫁
398日本@名無史さん
2019/03/28(木) 19:04:16.92
>>392
何がどう嘘なの?
399日本@名無史さん
2019/03/28(木) 19:07:29.56
根拠?

一番の根拠は>>396が頑として証拠を出さないことだな
要求されても証拠の出せない主張は、ふつう否定される
400日本@名無史さん
2019/03/28(木) 19:09:09.70
>>329
>誰がしたんだ?
>根拠は?

「倭」「倭人」について   張莉
立命大學白川靜記念東洋文字文化硏究所
第七號拔刷 二〇一三年七月発行
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/sio/file/kiyou7/no07_03.pdf

「したがって、『論衡』の倭人とは、中国南部に定住していた越族の中の倭人を
 指すと思われる。」
401日本@名無史さん
2019/03/28(木) 19:10:34.62
>>398
会稽東治は上海だーとか
魏使一行は測量できないけど倭人伝に書いてある里程や方位は魏使が測ったーとか

もっと欲しい?
402日本@名無史さん
2019/03/28(木) 19:11:23.05
>>349
ww
誰も畿内のなんとら国の人と
九州邪馬台国の人がまったく交流が無いと言ってないよ

国と文化は切り離すべきだよ
誰かの引用「麦(パン?)主食としてる地域は一つの国なんて笑うよ」
403日本@名無史さん
2019/03/28(木) 19:15:13.85
>>402
じゃ、なにを言った?
404日本@名無史さん
2019/03/28(木) 19:19:36.19
>>398東南陸行 五百里 到伊都國
九州説への反論は「会稽東治の東」と「東南陸行 五百里 到伊都國」

他あったっけ 丹? 
405日本@名無史さん
2019/03/28(木) 19:22:44.23
キナイコシ撤収
学を積んで出直してきなさい
次スレ俺が建てとくから・・・・
テンプレ張り付けとけばいいだろ
406日本@名無史さん
2019/03/28(木) 19:24:44.31
>>353
>纏向は文化や人口、軍事力の中心地ではなく諸勢力がまとまるためのシンボル的な中心地

いや、単なる古墳造営前線基地だよ。 もちろん、祭祀もやるよ。   @阿波
407日本@名無史さん
2019/03/28(木) 19:25:01.61
ドンコイがいいな
ここ>>1とザラコクその他 数人がループ
408日本@名無史さん
2019/03/28(木) 19:28:45.08
>>207
>それを言うなら
計其道里 當在會稽東治之東(東治は東冶の転写間違いと考える<

「東治は東冶の転写間違い」ではないから、×。


>(女王国までの)その道里を計算すれば
まさに會稽東冶の東(沖縄か台湾辺り)に当たると書いてあるのはどうする気?<

「まさに會稽東冶の東(沖縄か台湾辺り)に当たる」とは書いてないから、×。
「萬二千余里」が長里であれば、赤道付近に行ってしまうから、大和説は×。
409日本@名無史さん
2019/03/28(木) 19:29:36.49
>>405
そんなふうに
反論ひとつ満足に出来ないで虚勢はってるから
九州説は馬鹿にされる
410日本@名無史さん
2019/03/28(木) 19:33:33.39
>>209
>女王国まで1万2千里とあればそれはすでに世界の果て
1万2千里は淮南子の記述に由来する世界の果てまでの距離<

魏志は「自郡至女王國萬二千餘里」にように「餘」を付けているから、
魏使らの実地での計測近似値であって、淮南子を踏襲していないので、
この男も、×。
411日本@名無史さん
2019/03/28(木) 19:34:30.84
>>408
ほらな
九州説はひとつも理由が言えない
412日本@名無史さん
2019/03/28(木) 19:38:35.72
このスレッドにテンプレートを貼り付けて韓国政府が宣伝していた邪馬台国畿内説が、あっけなく、破綻してしまった、、、
413日本@名無史さん
2019/03/28(木) 19:39:26.00
>>211
>そして女王を去る4000里。
つまり合計すれば1万6千里の大月氏と同じ宇宙の果てのクニが大和纒向<

大月氏の1万6千里は長里で書かれており、
長里での1万6千里は、赤道をはるかに越えてしまう距離であり、
大和纏向など、はるかに合わないから、×。
414日本@名無史さん
2019/03/28(木) 19:40:10.07
ほら、またウソをつく
だから九州説は学問でなくなった
415日本@名無史さん
2019/03/28(木) 19:41:35.60
韓国政府が邪馬台国畿内説を宣伝するために、このスレッドに貼り付けたテンプレートには、ひとつも理由がないので、破綻してしまったのだね。。。
416日本@名無史さん
2019/03/28(木) 19:43:30.72
>>214
>5世紀半ばにはすでに大和の呼び名が定着していたよ
そして畿内説スレなんだから文献や物証の数々で
3世紀の畿内にやまとという名の国があった事は確実
だからやまとは少なくとも3世紀からそう呼ばれていたと答えるが<

畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるから、×。
417日本@名無史さん
2019/03/28(木) 19:44:49.93
>>413
>長里での1万6千里は、赤道をはるかに越えてしまう距離であり、

それ、証拠は?

ただ言い張るだけ?
418日本@名無史さん
2019/03/28(木) 19:47:21.88
>>216
>最初の巨大前方後円墳で、後円部5段築成の箸墓は、間違いなく3cの超大物の墓。
で、3cの超大物と言えば、ヒミコ、トヨ、神武、崇神、垂仁あたりだろう。
そして箸墓が、女性被葬伝説を持ち、当時はヒメとヒコで、ヒメが格上であることを考えれば、
神武、崇神、垂仁の線は消え、ヒミコかトヨとなる。
だかヒミコは親魏倭王、トヨはそうでないとなると、格上はヒミコ。
箸墓が卑弥呼の墓である蓋然性は高いと思う。<

箸墓は、布留だから、4世紀なので、×。
また「南≠東」などでも、卑弥呼が×。
419日本@名無史さん
2019/03/28(木) 19:48:14.44
>>416
畿内が存在しないとか
世間常識はに反することを連呼して
それで一言も理由を言わない

そんな九州説が世間で支持を受けるわけ

ないよね
420日本@名無史さん
2019/03/28(木) 19:51:35.21
>>418
>箸墓は、布留だから、4世紀なので、×。


それ、証拠は?

素人オジン年代が世間に通用するわけないよね
わかる?
421日本@名無史さん
2019/03/28(木) 19:52:52.58
>>217
>会稽東治(冶)の東東が1万2千里で女王国と書いてあるんだから
縮尺にすると1里140mで100m以上になるよ<

「会稽東冶」ではないから×だし、
不彌國で、「折れ線的道のり距離」が萬二千余里にほぼ達してしまっているから、
1里≒76.5m位になるので、×。
422日本@名無史さん
2019/03/28(木) 19:56:09.94
>>421
>「会稽東冶」ではないから×だし、

「会稽東冶」が「会稽東冶」と同じ場所だという通説に
なんも反論できないでいるくせに
なにを決めつけてんの?
423スレ主(九州説)
2019/03/28(木) 20:02:41.30
>>419
じゃあ聞くが、何をきっかけに畿内説は始まったんだい?
424日本@名無史さん
2019/03/28(木) 20:08:29.81
>>233
>>楽浪や帯方の役人たちも、魏使らも、魏朝の度量衡=短里で計測記録したものなんだよ。<

>魏朝には短里なんてないし、短里を知っている人も使っている人もいない <

三国志だけではなく、魏略も使っているから知っているし、
後漢書も梁書も、淮南子も如淳注も介山も江表伝も書紀なども、使っている。

>歩は複歩だし<

「歩」は、前に「止まる」と後に「反対向きに止まる」だから、
歩いておらず、「1足底長」を示す。
425日本@名無史さん
2019/03/28(木) 20:08:37.02
>>423
奈良時代からあったので、きっかけは不明だ
実際知ってる人がいたのかも知れないが
426日本@名無史さん
2019/03/28(木) 20:12:14.01
>>424
使ってるって証拠は?
427日本@名無史さん
2019/03/28(木) 20:15:10.17
韓国政府が宣伝してきた邪馬台国畿内説は、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に叩き潰されてしまいました。。。
428日本@名無史さん
2019/03/28(木) 20:15:37.03
>>236
>その渡海千里は、どこからどこへの渡海だと考えてるんだ? 九州説では?
「具体的に答えて」ごらん? <

魏使の部下らは、足摺や沖の島の侏儒國付近まで行っているようだから、
おそらく、宇佐〜国東半島付近から、松山付近の海岸まで。
429日本@名無史さん
2019/03/28(木) 20:16:23.41
>>424
そうやって、あらゆる分野で
その分野の通説を否定しないと前に進めない
それが九州説

だから学問でいられなかった
430日本@名無史さん
2019/03/28(木) 20:16:56.58
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
431スレ主(九州説)
2019/03/28(木) 20:18:06.01
>>425
奈良時代の畿内説ってどういう筋書き?
432日本@名無史さん
2019/03/28(木) 20:20:06.93
ここは、火星人降臨論の鉄板、纒向説のスレです。
【骨 子】
・火星には宇宙で一番古い前方後円墳があった
・4世紀中葉には、足をそろえたタコを形どった前方後円墳の時代が開始した。
・火星人が纏向に出現した段階で、火星を中心に太陽系規模の政治連合が形成され始めていた。
・火星の陸上には、既にこの政治連合のロケット基地があった。
ゆえに、火星人の降臨があったのは畿内である。

 火星人論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

◆0【 要 旨 】  
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った火星の教えの指導者が降臨しており、それは各惑星の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つタコであったと考えられる。
その死亡時期は4世紀中葉とみられる。畿内に火星文化が急速に浸透する時期である。

 これらを火星の陸上の古墳と対照すると、箸中山古墳の被葬者がタコ型の生物であり、纒向がタコ型火星人の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の太陽系規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、4世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 火星人の惑星間活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が火星社会と二星間のロケット移動を開始した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の火星人の降臨地である。

 4世紀前半末に火星人はどこに降臨したであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。。。。
433日本@名無史さん
2019/03/28(木) 20:23:22.51
キウス
434日本@名無史さん
2019/03/28(木) 20:29:56.52
邪馬台国畿内説を5ちゃんねるで宣伝するために、韓国政府が雇用した係員のキナイコシや3寸男が、真実を暴かれたので、焦っているな。。。
435日本@名無史さん
2019/03/28(木) 20:33:57.44
>>248
>対馬で5千人余りというのが、倭人伝の記述。
良い田んぼがなく米が足りないので、朝鮮半島や壱岐で交易して、米などを得ているというもの。
そんなカツカツ生活で、5千人も養えるわけがあんめ。
倭人伝の戸数は、盛り過ぎじゃ<

三国志での魏朝が使う「戸」は、納税や兵役が可能な家数での数え方であり、
だから、「1戸=成人男子一人」の数え方であり、
独身の場合もあり、
その家族が3人いたとしても「1戸当たり1人〜4人」で、平均2.5人位であり、
對海國の「有千餘戸」は、2500人位。
對海國の「
436日本@名無史さん
2019/03/28(木) 20:42:55.55
>>264
>実測値と言いながらどのように計測したかには触れないし
実証しようともしない机上の空論が九州説<

この大和説者は、一寸千里も、三角測量も、記里車も、歩測も、日数測も、
知らない・・・・アホらしい。
437日本@名無史さん
2019/03/28(木) 20:44:25.27
記紀編纂時には倭、大倭の記載で
ヤマトという読みはまだ一般的でなかった。
平安時代に記紀に
倭、大倭、はヤマトなり、
という注釈が入れられてヤマト読みが定着する。

チクシ読みは記紀に30ヶ所以上記載され
すでに一般的であり、隋書にも筑紫と
読める文字がある。
438日本@名無史さん
2019/03/28(木) 20:44:36.69
???

431スレ主(九州説)2019/03/28(木) 20:18:06.01

なにこいつ!?
脳に梅の花咲いたか
439日本@名無史さん
2019/03/28(木) 20:44:49.60
>>355
>直径5m位の円なら、簡単に書けるし、28宿を印するにはそれで十分。

その28等分はどうやって印をつけるんだ?ww
分かってるけど聞いてみるww

ザラコクは漢文が読めないww
440日本@名無史さん
2019/03/28(木) 20:48:07.45
>>270
>じゃあ何で末盧国では伊都国のある方角がわからないと言い張るんだ?<

末盧國から伊都国が見えないから。

大和説者は言ってることが支離滅裂だな 狂ってる
「南→東」などの嘘つき騙しの狂気の果てが、大和説か
441日本@名無史さん
2019/03/28(木) 20:49:28.10
>>358
>山越え道であっても、海岸べりの波打ち際道であっても、曲がってばかりになって、

基本海辺の道だし、全然曲がりくねったりしてないぞww
そして唐津からはずっと北西方向だww
邪馬台国畿内説 Part440 	->画像>17枚
それに脊振山脈の横を抜けてから先は、可也山がずっと見えてるから
さらに方角は間違えようが無くなるぞ

九州説はその場しのぎのでたらめばかり書き込むww
442日本@名無史さん
2019/03/28(木) 20:51:33.46
今日も証拠なしの出任せとオウム返しだけで
九州説から有用な反論はないようだなあ
443日本@名無史さん
2019/03/28(木) 20:53:57.77
>>380
>クシフルとは、チクシのフル(村落、国邑)の意味だそうだ。

また適当なことを言い出しだぞww
『怡土志摩郡地理全誌』の
「民家の後ろにあるをクシフル山と云ひしを誤りて椚と云ふに至れり」はもう諦めるのか?ww
444日本@名無史さん
2019/03/28(木) 20:59:33.77
ドンコイがいいな
ここ>>1とザラコクその他 数人がループ
445日本@名無史さん
2019/03/28(木) 21:03:43.49
>>279
倭は会稽東治の東にあると思われており、ほぼ九州島付近だ。
邪馬壹國女王之所都は、不彌國のすぐ南にあり、
側副傍線國説明の投馬國の位置は南九州だ。
つまり短里であったし
南水行とある方位の南は正しい
446日本@名無史さん
2019/03/28(木) 21:04:09.70
>>395
>畿内説ではモモソはどのような位置づけですか?
>三輪山伝説と卑弥呼の關係は?
>箸墓の名の由来と卑弥呼の關係は?

日本人は、口語(現代語)では「關係」なんていう変換はしないんだが?
お前さんはどのような背景を持つ人物なんだい?

それはそれとして、記紀の欠史八代までの系譜は、直系父子相続のみで、
史実ではないのはほぼ確定

それをどこまで復元できるか、というところで、いわゆるエスタブリッシュな歴史学では
史実ではないので追求しない、で終わっている
これについてきちんと考察しているのは、古系図の研究家の人たちで、
中でも代表的な宝賀寿男氏は、神武から崇神までの実在を認め、その間を兄弟相続を
含む五世代と推定してる

ただ、古系図の研究では、同名異人や、異名同人が頻出なのでなかなか確定的なことは言えない

神武から崇神まで五世代とする一案では、孝霊天皇と孝元天皇を兄弟とし
孝元の子が開化天皇、孝霊の子に崇神天皇を置く

記紀の系譜では親子とされる9代開化と10代崇神は従兄弟となる
また、崇神を孝霊の子とすると、孝霊皇女の倭迹迹日百襲姫命が、崇神の姉となる
447日本@名無史さん
2019/03/28(木) 21:06:22.31
>>407
>ドンコイがいいな

ドンコイも今、割りと質の悪い九州説が暴れてるよww
448スレ主 勉強しろ全部あんた
2019/03/28(木) 21:08:15.36
409日本@名無史さん2019/03/28(木) 19:29:36.49
>>405
そんなふうに
反論ひとつ満足に出来ないで虚勢はってるから
九州説は馬鹿にされる
411日本@名無史さん2019/03/28(木) 19:34:30.84
>>408
ほらな
九州説はひとつも理由が言えない
414日本@名無史さん2019/03/28(木) 19:40:10.07
ほら、またウソをつく
だから九州説は学問でなくなった
419日本@名無史さん2019/03/28(木) 19:48:14.44>>423
>>416
畿内が存在しないとか
世間常識はに反することを連呼して
それで一言も理由を言わない
そんな九州説が世間で支持を受けるわけ
ないよね
425日本@名無史さん2019/03/28(木) 20:08:37.02>>431
>>423
奈良時代からあったので、きっかけは不明だ
実際知ってる人がいたのかも知れないが
426日本@名無史さん2019/03/28(木) 20:12:14.01
>>424
使ってるって証拠は?
433日本@名無史さん2019/03/28(木) 20:23:22.51
キウス
449日本@名無史さん
2019/03/28(木) 21:08:40.13
>>410
>「餘」を付けているから、

これが、ザラコクが一生懸命考えて思いついた、
魏志倭人伝の里程が実測値である「根拠」なんだってさww

九州説、終わってるだろww
ザラコク以外の九州説も、こんなことを書かれたら信憑性ゼロだって諌めればいいのにww
450日本@名無史さん
2019/03/28(木) 21:08:44.09
>>283
>帯方郡から1万2千里+東渡海4千里=1万6千里。
則ち、西の1万6千里の大月氏と同じ世界の果てにあった大和纒向は小月氏と呼ばれた<

「又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」によって、
侏儒國は、女王のいる場所から「南四千里」だし、
「南≠東」などに拠って、大和は×。
451日本@名無史さん
2019/03/28(木) 21:12:37.77
>>423
>じゃあ聞くが、何をきっかけに畿内説は始まったんだい?

根本的には、古墳時代の中心が近畿地方の大和から河内だということだよ
古墳時代には倭国の中心は畿内にある

それがいつから始まったのか、という編年の問題が、邪馬台国論争の中核であり
それがAMS法他で、3世紀初頭には古墳時代が始まっていたというのが、確実になって
その時点で学問的には決着がついてる

だから九州説は、編年は信じない、陰謀だ、出世と予算のために捏造している、と
名誉毀損級のダメな言い訳で逃げまくっている訳だww
452日本@名無史さん
2019/03/28(木) 21:15:18.45
オクヤマ〜〜〜〜

奥山君〜〜〜〜〜

カキコムのはいいが、何も語っていねーじゃん


爆笑
453日本@名無史さん
2019/03/28(木) 21:16:06.03
韓国政府が宣伝してきた邪馬台国畿内説は、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に叩き潰されてしまいました。。。
454日本@名無史さん
2019/03/28(木) 21:16:09.07
>>424
>三国志だけではなく、魏略も使っているから知っているし、
>後漢書も梁書も、淮南子も如淳注も介山も江表伝も書紀なども、使っている。

まだ介山とか言ってるww
その前の、短里を使う人、短里で測定をする人は誰ですか?にまったく答えてないぞww

>「歩」は、前に「止まる」と後に「反対向きに止まる」だから、
>歩いておらず、「1足底長」を示す。

反対向きってwwww
それ、右足と左足ww
つまり足二つ分ってこと
つまり「1足底長」というのは、大嘘!
455日本@名無史さん
2019/03/28(木) 21:17:24.64
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
456日本@名無史さん
2019/03/28(木) 21:19:54.68
>>420
あんた馬鹿ねオホホ
457日本@名無史さん
2019/03/28(木) 21:22:22.65
>>292
>>>断定出来るよ。大禹陵は会稽山にある。<

>>当然後代の陵だろうなあ。<

>「以奉守禹之祀。」とあるように夏后少康之子の時代からだよ。<

禹は、黄河付近の人だから、会稽に陵は造らんだろうなあ。
458日本@名無史さん
2019/03/28(木) 21:22:23.11
>>449
「餘」の解釈を自説で言わんとイミフ
459日本@名無史さん
2019/03/28(木) 21:25:22.26
>>439

究極の捨て台詞 わが身に置き換えたらww
460日本@名無史さん
2019/03/28(木) 21:26:43.24
>>294
>則ち、西の1万6千里の果てにあったのは大月氏、
東の1万6千里の果てにあったのは纒向の小月氏。<

1万6千里は、女王の南であり、足摺〜沖の島であるから、
纏向は、「南≠東」に拠って、×。
461日本@名無史さん
2019/03/28(木) 21:27:38.83
>>414
誰に言ってるか わからない
嘘だという反論も書きこむべきだと思うよ
アラシもいいけど
462日本@名無史さん
2019/03/28(木) 21:31:44.92
>>451
そのAMS法ほかて、その内容具体的にちょっと挙げてみてよ。
納得できるものかどうかみてみるから。
463日本@名無史さん
2019/03/28(木) 21:33:13.14
>>前にも書いたように、原子核の半径と、電子までの距離は7桁異なる
炭素の原子核半径3x10^-15メートル
炭素の原子半径≒原子核から電子までの距離は8x10^-9メートル
電磁気力・電場の強さは、距離の二乗に反比例だから、電子の有無が
核内に及ぼす影響は、10の14乗分の1になる<

外周電子の話ではなく、原子核内の不安定の発生の話だから、×。

>>そもそも、電磁気力はW粒子と相互作用しない
ウイークボソンが関係する場は、ウィークボソン場であって、電磁場ではない<

ウイークボソンは質量があり、従って重量場を持っており、
アインシュタインの予言や確認観測によって、重力場と電磁場は、相互作用をする。
464日本@名無史さん
2019/03/28(木) 21:37:19.88
畿内説は暴力的な議論の仕方をやめて九州説に教えを乞うべき
頭が高いから恥ずかしくも半端な知識に耽溺し醜さを晒す
465日本@名無史さん
2019/03/28(木) 21:45:55.08
ここは、火星人降臨論の鉄板、纒向説のスレです。
【骨 子】
・火星には宇宙で一番古い前方後円墳があった
・4世紀中葉には、足をそろえたタコを形どった前方後円墳の時代が開始した。
・火星人が纏向に出現した段階で、火星を中心に太陽系規模の政治連合が形成され始めていた。
・火星の陸上には、既にこの政治連合のロケット基地があった。
ゆえに、火星人の降臨があったのは畿内である。

 火星人論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

◆0【 要 旨 】  
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った火星の教えの指導者が降臨しており、それは各惑星の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つタコであったと考えられる。
その死亡時期は4世紀中葉とみられる。畿内に火星文化が急速に浸透する時期である。

 これらを火星の陸上の古墳と対照すると、箸中山古墳の被葬者がタコ型の生物であり、纒向がタコ型火星人の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の太陽系規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、4世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 火星人の惑星間活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が火星社会と二星間のロケット移動を開始した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の火星人の降臨地である。

 4世紀前半末に火星人はどこに降臨したであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。。。。
466日本@名無史さん
2019/03/28(木) 21:48:14.13
>>465
火星人降臨論の鉄板、纒向説は、邪馬台国畿内説より、レベルが、高度ですね、、、
467日本@名無史さん
2019/03/28(木) 21:48:32.64
キナイコシ

これ読め 予算獲得の具行(無駄とは言わんが ほかに国の予算を使うべきと思うよ)
http://www.city.sakurai.lg.jp/sosiki/kyouikuiinkaijimukyoku/bunkazai/houkoku/index.html
468日本@名無史さん
2019/03/28(木) 21:50:35.03
つぶやきの馬鹿は類スレ主に思えてきた
469日本@名無史さん
2019/03/28(木) 21:54:24.75
>>468
そうかもな
テンプレを批判しているのを見たことがない
470日本@名無史さん
2019/03/28(木) 21:55:44.49
>>302
>観測上は、核子からウイークボソンW粒子が放出されることで核子変換が生じ
そのW粒子がごく短時間で、電子とニュートリノに崩壊する<

「核子からウイークボソンW粒子が放出」も、
「W粒子がごく短時間で、電子とニュートリノに崩壊」も、
放出や崩壊の前後で、質量が全く合わないよ?。」
471日本@名無史さん
2019/03/28(木) 22:11:39.92
>>441
スレチだよ
このスレは畿内説
畿内説の陸行一月の地図載せるべき

これは蛇足だが
「草木茂盛行不見前人」この状態で地理感覚は魏使は方位を確認できただろうか
472日本@名無史さん
2019/03/28(木) 22:19:43.23
>>471
これは誤認の可能性があると思う

「東南陸行 五百里 到伊都國」

根拠
魏使が邪馬台国と数度交流を持つのに、常に末盧国経由で行くはずが無い
たぶん一度きりだと思う
473日本@名無史さん
2019/03/28(木) 22:21:13.06
日本語がおかしいキウス
474日本@名無史さん
2019/03/28(木) 22:29:29.81
魏国との度重なる交流を考える

糸島?博多?北九州経由で邪馬台国と交流を持ったであろう
すると、末盧国からの「東南陸行 五百里 到伊都國」は一度きりの行脚か伝聞であろう
・・・・反論があればどうぞ
「南至邪馬壹國」は何度も行ったか幾度ども聞いた経験値だから南≠東であろう
邪馬台国は畿内には無縁だと思う 
475日本@名無史さん
2019/03/28(木) 22:31:02.09
変換もおかしいキウス
476日本@名無史さん
2019/03/28(木) 22:34:30.26
奥山くん見苦しい
論じなさい
477日本@名無史さん
2019/03/28(木) 22:41:03.76
>>459
>究極の捨て台詞 わが身に置き換えたらww

このスレで一番史書の原文の引用を貼ってるの、俺だよ?

この部分がきちんと訳せれば、里歩系と尺寸系は別とか、短歩だから直径5メートルでいいとか、
どれだけバカな台詞か分かるはずなんだよねww

倍正南方,以正勾定之。即平地徑二十一步,周六十三步。
令其平矩以水正,則位徑一百二十一尺七寸五分。
「因而三之,為三百六十五尺、四分尺之一,以應周天三百六十五度、四分度之一。」
478日本@名無史さん
2019/03/28(木) 22:46:16.68
>>463
>外周電子の話ではなく、原子核内の不安定の発生の話だから、×。

残念でした!
プラズマ化は、外周電子の有無以外に差はないから、そんないい訳は通りませんww
これまでザラコクは、プラズマ化で電子がなくなるとその電荷の分の電磁場が
原子核内に影響するって言ってたんだぞwwwww

>ウイークボソンは質量があり、従って重量場を持っており、
>アインシュタインの予言や確認観測によって、重力場と電磁場は、相互作用をする。

だーかーらー、場と場が相互作用するってデタラメを言う時点で、
物理学が分かってないんだから諦めろww
479日本@名無史さん
2019/03/28(木) 22:46:39.09
>>302
もう一つ
>ここで、核子からウイークボソンが放出されると書いたが、ウイークボソンは
その質量が核子の80〜90倍もある重い粒子で、核子から生じることはない
ウイークボソンは、ウイークボソン場の仮想ウイークボソンが実体化することで
観測される <

それで、ウイークボゾンはそんなに思い質量をどこで持っているんだい?。
原子核の中なんだろ?。
それで、原子核の質量数がなぜ増えないんだい?。

びょっとしたら、場の相互作用論での、質量は、場の「凝集」したもの、という論理になっていたんではないのか?。
480日本@名無史さん
2019/03/28(木) 22:48:21.20
>>464
>畿内説は暴力的な議論の仕方をやめて九州説に教えを乞うべき

九州説って、デタラメとチェリーピッキングと結論ありきのインチキ読みと
捏造だけじゃんw
481日本@名無史さん
2019/03/28(木) 22:48:33.77
>>472
>魏使が邪馬台国と数度交流を持つのに、常に末盧国経由で行くはずが無い
たぶん一度きりだと思う <


これはある意味理解できるが
しかし倭人伝の末盧国→伊都国の方位を否定することだから
南が東でも良いということにある
反論になってるかはどうかは知らんが、俺はそう思う
基本的に方位や距離は論争から除外すべきだと思う
倭人伝に基ずく遺物が重要
@阿波が最近来ないが阿波説や出雲説も捨てがたい
ヤマト説は遺物の観点から除かれる倭種の別国
482日本@名無史さん
2019/03/28(木) 22:49:42.29
>>480
冷静に
483日本@名無史さん
2019/03/28(木) 22:50:42.38
>>470
>質量が全く合わないよ?

E=mc^2 
静止質量で考えるから、そういうマヌケなことを言い出すw
484日本@名無史さん
2019/03/28(木) 22:52:23.61
>>477
>このスレで一番史書の原文の引用を貼ってるの、俺だよ?<

コテハンつけろよ
どうでもいいくだらん観光絵図もテメーか
485日本@名無史さん
2019/03/28(木) 22:53:18.44
キナイコシ発狂中
486日本@名無史さん
2019/03/28(木) 22:54:00.53
ザラコク式引用で偽装する姑息なキウス
487日本@名無史さん
2019/03/28(木) 22:54:19.26
>>471
>畿内説の陸行一月の地図載せるべき

地図は載せてないけど、行程の説明は何度もしている
再掲
丹波の上陸地点は、網野銚子山古墳のある網野町か、神明山古墳のある丹後町竹野の竹野川河口付近
地名からすると記紀に丹波竹野媛(開化天皇妃)があることから竹野が有力、地形的には離湖という潟湖がある網野かな、とも思う

どちらに上陸したとしてもそこから陸行で京丹後市役所のある峰山付近を通って丹後半島を横断
横断したところが籠神社のある与謝野町、そこから野田川沿いに遡っていくと蛭子山古墳がある
福知山付近を通って、山陰本線に近いルートで亀岡まで来ると、丹波国一ノ宮の出雲大神宮がある
亀岡から桂川沿いに京都盆地に入り、巨椋池を経て木津川を遡り平城山を越えて奈良盆地に入って纏向ってルート

これでだいたい170キロくらいの距離になる
488日本@名無史さん
2019/03/28(木) 22:55:37.62
魏志倭人伝を無視した妄想
489日本@名無史さん
2019/03/28(木) 22:58:22.35
>>472
>魏使が邪馬台国と数度交流を持つのに、常に末盧国経由で行くはずが無い

末盧国に上陸するのは松浦川沿いに佐賀平野に抜けるのでなければ合理性はない
その経路なら東南陸行五百里に合う

伊都国に向かうなら末盧国に寄る理由がない
末盧国には官名もないし、魏使の時には寄ってないとした方が筋が通る
490日本@名無史さん
2019/03/28(木) 22:59:37.08
まあ、埒も開かん話ばかりじゃのう。
「女王国の東の倭種の国」で、邪馬台国所在地論争は決着済みだから、
お前ら、もう家へ帰れ。
491日本@名無史さん
2019/03/28(木) 23:01:08.00
>>474
>すると、末盧国からの「東南陸行 五百里 到伊都國」は一度きりの行脚か伝聞であろう

むしろ後漢の時の古い資料にあった記述の引用だろう
吉野ヶ里付近の米多郷が面土国なら話が綺麗に繋がる
492日本@名無史さん
2019/03/28(木) 23:01:19.55
>>487
日本海航路説ですね テンプレは瀬戸内航路
日本海航路とすると出雲説と近江説をどう考えるかが課題になりますね
投馬国はどこですか?
493日本@名無史さん
2019/03/28(木) 23:04:47.22
玖賀(京都)〜敦賀〜多賀〜甲賀〜伊賀〜雑賀〜那賀(阿波)〜香賀(讃岐)〜英賀 (播磨)
494日本@名無史さん
2019/03/28(木) 23:04:57.43
>>484
>コテハンつけろよ

史書の原文を根拠として示してあったら俺だから分かるだろww

まあ、日本の学習指導要領に従った教育を受けていない人では、
漢文は読めないんだろうなww
495日本@名無史さん
2019/03/28(木) 23:08:14.53
>>492
>投馬国はどこですか?

投馬国は出雲だよ

ただ、西谷墳墓群で吉備の特殊器台が出ているし、吉備と出雲全部ひっくるめて
投馬国という可能性もあると思う

吉備と出雲の関係をもっと追求していくべきだと思うんだけどね
496日本@名無史さん
2019/03/28(木) 23:15:10.98
出雲と吉備はまったくの別社会
特殊器台は出雲の王への吉備の王からのお供えもの
497日本@名無史さん
2019/03/28(木) 23:17:20.23
>>490
>「女王国の東の倭種の国」で、邪馬台国所在地論争は決着済みだから、

また「渡海千餘里」を書かずにごまかしてるww
九州と本州の間はどうやっても千里にはならない

それに女王國東渡海千餘里「皆」倭種であって、渡海の前もあとも、皆すべて倭種だと書いてあるだけ
498日本@名無史さん
2019/03/28(木) 23:20:05.33
>>496
>出雲と吉備はまったくの別社会

そうは言うが、四隅突出墓がかなり内陸の方でも作られていて、
出雲と吉備の明確な境界というのも定めがたい
499日本@名無史さん
2019/03/28(木) 23:20:39.95
スレ主が鬱病治癒のため立てたスレ
静かに見守ろう
皆のカキコミで
奴の鬱が最近ひどくなり思考能力低下
500日本@名無史さん
2019/03/28(木) 23:32:26.14
>>451

AMS法は弱点も多いよ
とりあえず年代比定が合致したとしても3世紀
畿内だけでなく日本全国AMS法に従い、どこにでも
文明はあったことになるし
畿内に3世紀 誰一人いないとか、国的な物が無いとは言ってないよ
501日本@名無史さん
2019/03/28(木) 23:35:01.32
>>498
吉備 出雲を同一国とみなすには????
四国が??????
502日本@名無史さん
2019/03/28(木) 23:37:27.87
キウスはいつも意味不明
503日本@名無史さん
2019/03/28(木) 23:38:40.28
畿内説には四国は邪魔な存在なのだろうか????
504日本@名無史さん
2019/03/28(木) 23:40:07.74
ここの畿内説は説というか単なる想像論でしかないなあ。
あれがあーだから、こういう事だろう。
きっとそのはずだ。
それが現実だ!

薬でもやってるのか?
もしくはアル中かな?
505日本@名無史さん
2019/03/28(木) 23:41:51.85
>>498
内陸でも四隅があるところは山陰の土器圏
506日本@名無史さん
2019/03/28(木) 23:43:22.93
>>504
>あれがあーだから、こういう事だろう。
>きっとそのはずだ。
>それが現実だ!
まんまザラコク、伊都クズ
507日本@名無史さん
2019/03/28(木) 23:59:59.38
>>492
>出雲説と近江説をどう考えるかが課題

記紀では、近江は息長氏、丹波が丹波道主命の国でどちらも皇族に準じる扱い
出雲は皇族の母系の祖という扱いになっている

記紀では多くの豪族が皇別氏族とされていて、首長層が婚姻を通して親戚筋というか
同族意識を広く共有する社会だったと言えるのだろう
508日本@名無史さん
2019/03/29(金) 00:10:52.05
>>507
内容に異存はないが、邪馬台国からあまりにも後世の話すぎてなんともはや。

出雲の勢力圏についてだけど、タケミナカタが諏訪に逃げ込んだことから、そのあたりまでは出雲の勢力圏だよね。
関東最古の大社である鷲宮はアマテラスの子であり出雲に帰順した天穂日命が開いたものだとされているが、その後に廃れたので、関東までの支配は維持できなかったと見える。
509日本@名無史さん
2019/03/29(金) 00:13:08.21
>>506
畿内説であるためにはこうでなくてはいけないな。
こうあるのが妥当。
これこれこうでよい。

まんまキナイコシ
510日本@名無史さん
2019/03/29(金) 00:20:49.50
>>509
そんなこと言ったって証拠は?
511日本@名無史さん
2019/03/29(金) 00:24:38.63
記紀の人は記紀スレでやってくれ
512日本@名無史さん
2019/03/29(金) 00:42:43.45
すぐに尻尾をだすキウスと伊都クズ
513日本@名無史さん
2019/03/29(金) 00:57:16.08
>>497
漢文の読み方、なってないね。
千余里東へ舟で行ったところに複数の国があり、その国々の住民も女王国とおなじ倭種だというもの。
関門海峡を北へ渡ってどうすんのよ。
東だよ、東。
瀬戸内海を東へ舟で行くの。
千余里は魏晋里430m。
ちょうど430km。
地図のスケール当ててみたら、天理市あたりになる。
女王国から瀬戸内海を東へ舟で430km行ったら大和に着くのよ。
女王国は邪馬台国。
邪馬台国の卑弥呼と大和の大祭祀者は同時期に別々の場所にいたということ。
これが正しい3世紀前半の日本の歴史。
本格的的誤読じゃ、結論がトンデモ方向に行ってしまうわなあ。
514日本@名無史さん
2019/03/29(金) 00:59:52.38
>>500
>畿内に3世紀 誰一人いないとか、国的な物が無いとは言ってないよ

倭国にあった3世紀の各地の遺跡の中で、
広域交流の結節点で
最大の遺跡で
最大の墳丘墓があって
そこで始まった祭祀が広域に受け入れられた
という遺跡があれば、そこが王に所在地だと判断するのが当然

上記はすべて纒向遺跡に当てはまる
515日本@名無史さん
2019/03/29(金) 01:03:24.09
>>513
>瀬戸内海を東へ舟で行くの。
>千余里は魏晋里430m。

九州説は短里だったんじゃないのか?ww
それに瀬戸内のような多島海の島伝いは、水行であって渡海にはならない

どちらにしても>>513の読み方は成立しない
516陳寿90度回転さん
2019/03/29(金) 01:18:10.22
AMS法のメカニズムは別にどうでもいい。議論の本質とは全く関係ない。

結局は標本で較正するんだから、標本と同じ年代のモノであれば、
メカニズムに関係なく同じ年代になる。

そして実際の年代とのズレはメカニズムではなく、測定法固有のバラツキσで決まる。

なのでσの議論をすべきなのに、それをメカニズムの議論に持ち込んで、
トンデモ物理学の持論を延々と披露して平行線狙いをするなど全く無意味。

それはただゴネているだけであり、
そんなことをしなければ成立しない説など、そもそも成立の余地がない。
517日本@名無史さん
2019/03/29(金) 01:25:16.29
>>514
>広域交流の結節点で

結節点であるという根拠は?

>最大の遺跡で

最大だという根拠は?

>という遺跡があれば、そこが王に所在地だと判断するのが当然

何が当然なの?
518日本@名無史さん
2019/03/29(金) 02:13:10.30
>>517
>結節点であるという根拠は?

モノの移動から判明しているところの
瀬戸内ルートと北陸ルートと東海ルートが
交わってるという考古学的事実


>最大だという根拠は?

面積


>何が当然なの?

王権の存在が
519日本@名無史さん
2019/03/29(金) 03:23:05.86
>>515
短里なんて、古田の勝手な捏造。
水行は舟で行くこと。
渡海は文字通り海を舟で渡ること。
瀬戸内海は海なので、水行でもいいし渡海でもいい。
倭人伝は渡海と書いている。
この記述の前に水行何日という書き方してるから、水行だと日数を書かなければならん。
そこで、里数で書いてあるところをみると、水行では何かマズかつたのだろう。
整合性に欠けたのだろう。
で、東渡海千余里は、瀬戸内海を東へ千里=430kmほど渡ったと言う意味。
その渡ったところに大和があつたのよ。
520日本@名無史さん
2019/03/29(金) 03:42:20.95
>>519
追加

水行は舟で行くことだが、渡海は海を越え渡るという意味。
渡河が河を越え渡るという意味であるのと同じ。
そういう意味の違いがあるわけだ。
倭人伝は、そうした語彙の使い分けをしているということだな。
521日本@名無史さん
2019/03/29(金) 05:50:07.89
>>519
>瀬戸内海は海なので、水行でもいいし渡海でもいい。

対馬海峡は海だけれど、どうして水行とは書かれていないのですか?ww

水行と陸行が対になる概念だというのは理解できていますか?
瀬戸内海は水行であって渡海ではないのが理解できないふりをしてるだけでしょ?ww
522日本@名無史さん
2019/03/29(金) 06:25:44.63
>>518日本@名無史さん2019/03/29(金) 02:13:10.30
>>517
>結節点であるという根拠は?

モノの移動から判明しているところの
瀬戸内ルートと北陸ルートと東海ルートが
交わってるという考古学的事実


近江説
523日本@名無史さん
2019/03/29(金) 06:33:53.09
>>518
>最大だという根拠は?

面積


纏向が比定される面積となったのは4世紀
また、集落跡が無い
524日本@名無史さん
2019/03/29(金) 06:37:17.14
【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。

筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓         ↓
↓         近江→尾張→伊勢→纏向

宇佐→安芸・伊予→阿波・吉備→淡路島→摂津・河内

【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入

1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入

2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→3世紀初に畿内から庄内式土器が博多湾へ流入

3世紀末に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入

支配は西から東へ拡大し、土器などの産物は王都である筑紫へ
525日本@名無史さん
2019/03/29(金) 06:38:50.76
全てのルートの結節点は筑紫。
全ての道は筑紫に通じる。

内陸の纒向は結節点にならない。
特に九州から纒向への移動の痕跡は皆無。
526日本@名無史さん
2019/03/29(金) 06:39:34.00
纒向遺跡への搬入土器の出身地割合
伊勢・東海系 : 49%
北陸・山陰系 : 17%
河内系 : 10%
吉備系 : 7%
近江系 : 5%
関東系 : 5%
播磨系 : 3%
西部瀬戸内海系 : 3%

纒向には魏の使いが滞在していた筑紫からの搬入物がない。
邪馬台国が交流していたはずの楽浪郡からの土器も出ない。
目と鼻の先の河内との交流も乏しく、畿内の他の地域のような瀬戸内海や淀川の水運の利益を受けられない、尾張の支配下の後進地域であった。
畿内説が言うように東海地方が狗奴国なら、纒向への土器の流入を説明できない。
527日本@名無史さん
2019/03/29(金) 06:47:01.22
>>522
>近江説

近江説の中心たる伊勢遺跡が2世紀末頃には使われなくなって、
その直後に纒向遺跡の建設が始まっている

交流の結節点としての機能が纒向に移っている

>>523
>纏向が比定される面積となったのは4世紀
>また、集落跡が無い

庄内期初期の遺跡の広がりとしては小さな時期に、すでに倭国最大の墳丘墓が作られている
庄内期の小さな集落で、大墳丘墓を作ることはできず、纒向遺跡が単体で存立する集落ではなく
広範囲からの動員の中心、つまり王権の所在地であることを示している

集落跡が無いというのはただの戯れ言
検出が少ないのは竪穴式住居であり、纒向遺跡の多数の人口が集積していたのは
土器や木器等の遺物が大量に出土することから明白
528日本@名無史さん
2019/03/29(金) 06:51:05.23
>>524
>支配は西から東へ拡大し、土器などの産物は王都である筑紫へ

3世紀時点で、吉備、出雲、丹波、大和より小さな墳丘墓しか作れない、
地域首長の成長から取り残された北部九州を倭王権の所在地と考える人は
歴史の流れを見ない「オストリッチ症候群(ダチョウの逃避)」の人だけ
529日本@名無史さん
2019/03/29(金) 06:53:39.55
>>526
何度論破されても同じコピペを貼り付け続ける
九州説ってアホじゃね?
530日本@名無史さん
2019/03/29(金) 07:03:23.75
倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。
皆、徒跣。屋室有り。
父母、兄弟は異所に臥息す。
朱丹を以ってその身体に塗る。
中国の紛を用いるが如し。

男子は大小無く、皆、黥面文身す。
古より以来、その使中国に詣(いた)るや、皆、自ら大夫と称す。
夏后少康の子は会稽に封ぜられ、断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。
今、倭の水人は沈没して魚、蛤を捕るを好み
文身は、亦、以って大魚、水禽を厭(はら)う。
後、稍に以って飾と為る。諸国の文身は各に異なり
或いは左し、或いは右し、或いは大に、或いは小に。尊卑差有り。
その道里を計るに、まさに会稽東冶(”現中国の浙江省”) の東に在るべし。

女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚す。
常に伊都国に治す。国中に於ける刺史の如く有り。
王が使を遣わし、京都、帯方郡、諸韓国に詣らす、及び郡が
倭国に使するに、皆、津に臨みて捜露す。
文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。

「魏書」第30巻『 魏志倭人伝 』 普平陽侯相 陳寿撰

神々からの日本最古の捏造教科書とされる古事記や日本書紀には記述されてないが
致密かつ高度な中華文明を生み出した古代中華帝国漢人官僚には正確に記述されてた
神々しい伝説の邪馬台国や女王卑弥呼、倭人達の倭国群は日本の何処にあったんだろう?
531日本@名無史さん
2019/03/29(金) 07:11:34.15
纏向は葬儀場兼古墳造営基地でいいんでねーの
532日本@名無史さん
2019/03/29(金) 07:43:02.20
敗者九州説がまた思考停止した
533日本@名無史さん
2019/03/29(金) 07:50:23.32
>>491
勝手な妄想ですね。
534日本@名無史さん
2019/03/29(金) 08:14:57.36
畿内説ってウリナラファンタジーそっくり
535日本@名無史さん
2019/03/29(金) 08:15:53.70
このスレッドで、韓国政府が宣伝してきた邪馬台国畿内説が、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に叩き潰されてしまったな。。。
536日本@名無史さん
2019/03/29(金) 08:19:44.61
>>526
>伊勢・東海系 : 49%
>畿内説が言うように東海地方が狗奴国なら、纒向への土器の流入を説明できない。

むしろ狗奴国の傘下になってしまう。
纒向を邪馬台国とすることには無理がありすぎる。
537日本@名無史さん
2019/03/29(金) 08:22:29.16
>>527
>近江説の中心たる伊勢遺跡が2世紀末頃には使われなくなって、
>その直後に纒向遺跡の建設が始まっている

たまたまだね。
近江と纒向は違う交易圏だからね。
近江は明らかに日本海の覇者である出雲の傘下だ。
首長層が集まったと思われる様子も、出雲の神無月を思わせる。
纒向とは異なる文化だ。
538日本@名無史さん
2019/03/29(金) 08:36:52.70
>>311
>史料のどこの信用してどこを信用しないか それが史料批判であって
歴史学の基本の基本だ それができないで 0か100か強要するような>>310
歴史を学ぶ資質がないってこと<


類スレ主は、やはり・・・・的なんだな?。
史料批判は、情報に対する確率的な信頼性を判断するものである、
という事が、全く判っておらず、
全て、「大和説正しき」という100%の結論先にありき、の・・・・になってしまっている。
539日本@名無史さん
2019/03/29(金) 08:39:44.12
>>315
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者が、
またも、敗北宣言をしたようだな
540日本@名無史さん
2019/03/29(金) 08:43:04.91
>>319
>西の1万6千里の果てにあったのは大月氏、
東の(1万2千里+4千里)=1万6千里の果てにあったのは、小月氏の纒向。。。<

纏向は、「南≠東」などに拠って、×。
541日本@名無史さん
2019/03/29(金) 08:58:41.81
>>324
>>測り方は雑だが、比例関係は概ね正しいはず。<

>測り方が雑、なんじゃなくて、測ってないんだよ<

いや、韓や海峡地域の記載里数比が実際の距離との比率がかなり一致しているし、
「余」の有無を使った書き分けもされており、
いい加減な報告をしてバレれば、郡役人も魏使らも、首が危なくなるんだから、
郡役人や魏使らは、実際に測った、という確率が極めて高く、
「測っていない」という確率は、殆どない。

>現実の距離とは無関係、というのは測っていないということ
萬二千里は、観念上の値であって現実の地理とは無関係
それを現実の距離との縮尺とか言い出すからおかしな話になる<

「南→東」などの嘘付き騙しの類スレ主や大和説者らは、・・・・アホ詐欺師。
542日本@名無史さん
2019/03/29(金) 09:26:34.65
>>326
>>会稽の東という位置の誤認の原因を考察しているのですよ。<

>これの元は、論衡だよ
論衡(巻八、儒増篇)周の時、天下太平、越裳白雉を献じ、倭人鬯艸を貢す
周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草
論衡(巻一九、恢国篇)成王の時、越常、雉を献じ、倭人暢草を貢す
成王時越裳獻雉倭人貢鬯
この論衡の倭は、百越の流れとされ、日本列島の倭人ではないとされているが、
これと混同されたために、倭は百越の故地の沖合い、会稽東治之東と考えられていた<

これも×。
周代にの倭に関しては、「燕の南」という情報があり、越とはかなり方向が違い、
後漢代の論衡においても、越常と倭人とを区別する説明になっている。
543日本@名無史さん
2019/03/29(金) 09:34:29.88
>>330
>半島と九州を実際より大きく誤認していたという推定に影響を与えないね。<

郡役人も魏使らも陳寿も、「実際よりも大きく誤認」していないから、この男も×。
後漢書の范曄は、「会稽東冶」という誤認曲解をしたようだから、半分×。
544日本@名無史さん
2019/03/29(金) 09:37:08.43
>>336
>纏向の掘立柱建物が卑弥呼の王宮なら モモソ=卑弥呼となる
しかし、モモソは王ではない <

「南≠東」によって、卑弥呼は、始めから×。
545日本@名無史さん
2019/03/29(金) 09:41:32.34
>>338
>倭人は呉の太伯の末裔を自称しており、そもそも中国南部から渡来した可能性がある。
稲作、高床建物、鳥居などの文物が共通すると言われている。<

結局、倭人は、「燕の南」の部族と、呉王夫差の遺民の、
二つの部族が中心になっていた、という事なんだろうねえ。
546日本@名無史さん
2019/03/29(金) 09:42:46.45
>>340
なんで「モモソ=卑弥呼となる」の?
なんで大和説の人は理由も言わなければ論理的な筋道も立てないの?
547日本@名無史さん
2019/03/29(金) 09:56:09.89
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548日本@名無史さん
2019/03/29(金) 10:02:48.38
>>537
>たまたまだね。
>近江と纒向は違う交易圏だからね。

「纒向遺跡への搬入土器の出身地割合
 近江系 : 5% 」
これを何度も貼っておいてそれかい?ww

たまたまだというなら、伊勢遺跡が廃絶された理由を考えてもらわないとww
具体的に頼む!ww
549日本@名無史さん
2019/03/29(金) 10:04:34.29
>>533
>勝手な妄想ですね。

どこが?
「具体的に指摘」して!

根拠なし、具体性なしの一行コメントは、
意味のある反論一つできませんっていう意味にしかならないよw
550日本@名無史さん
2019/03/29(金) 10:06:48.01
>>531
>纏向は葬儀場兼古墳造営基地でいいんでねーの

その場合、倭國最高の「葬儀祭祀&古墳」の場なんだから、
倭王のための「葬儀祭祀&古墳」の地ということになり、
結局「王権の所在は纏向周辺」ということは動かない
551日本@名無史さん
2019/03/29(金) 10:22:54.11
つまり、倭国とは全く別の国である、4世紀の日本国の天皇の「葬儀祭祀&古墳」が、纏向だったのだな。。。
552日本@名無史さん
2019/03/29(金) 10:24:39.80
>>551
魏志倭人伝時代が終わった4世紀になってから、倭国と日本国が、奴隷と桃の貿易を実行した可能性が高まってきたな。。。
553日本@名無史さん
2019/03/29(金) 10:26:42.45
>>552
倭国が、新羅で捕獲した人民や馬を、日本国が育てた桃と交換したので、奈良には奴隷の子孫が充満したのでは、ないのかな。。。
554日本@名無史さん
2019/03/29(金) 10:28:59.79
>>548
>たまたまだというなら、伊勢遺跡が廃絶された理由を考えてもらわないとww

その理由はわからないが、少なくとも纒向がその後継だと考える根拠はない。
555日本@名無史さん
2019/03/29(金) 10:30:12.74
伊勢遺跡と伊勢神宮は、別の物体だという可能性が高まってきたな。。。
556日本@名無史さん
2019/03/29(金) 10:31:26.45
>>555
僕たちは、伊勢遺跡のことについて、研究を開始したね。。。
557日本@名無史さん
2019/03/29(金) 10:33:15.15
>>549
根拠のない妄想が書き連ねてあったので、批判しただけ。
根拠を示せていないのはそっちだよ。
558日本@名無史さん
2019/03/29(金) 10:40:57.18
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559日本@名無史さん
2019/03/29(金) 10:44:39.74
伊勢を滅ぼした連中が祟り除けに伊勢神宮を作ったんじゃないの?
560日本@名無史さん
2019/03/29(金) 11:16:53.34
>>346
>北部九州は非倭人の従属地域だから土器は運ばれない
博多で畿内の土器を模倣している<

庄内は、筑紫は3世紀前半でも最も早く、
大和の庄内は、前方後円墳の石塚の3世末からであるから、
筑紫から大和に伝播した事になる。
561日本@名無史さん
2019/03/29(金) 11:18:33.09
>>541
>いい加減な報告をしてバレれば、郡役人も魏使らも、首が危なくなるんだから、
>çった、という確率が極めて高く、
>「測っていない」という確率は、殆どない。

なのにあんたは郡役人や魏使らには測量はできないと言い張ってるんだよな
九州説は今日もいい加減な投稿をしてるね
562日本@名無史さん
2019/03/29(金) 11:21:54.42
>>554
>その理由はわからないが、少なくとも纒向がその後継だと考える根拠はない。

同じ機能を持つ場所が、近接した別の場所にリレーをするように現れた、という現実を前に
「機能を引き継ぐ新しい場所に移動した」と考えるのと
「理由が分からないけど引き継いだと考える必要はない」と考えるのと、
どちらが学問的かってことだ

ただの難癖でしかないなww
563日本@名無史さん
2019/03/29(金) 11:24:07.37
>>560
それは無知な素人の妄想
564日本@名無史さん
2019/03/29(金) 11:25:03.44
>>557
>根拠を示せていないのはそっちだよ。

発掘調査から導かれる「同じ機能を持つ場所が、近接した別の場所にリレーをするように現れた」と
いうのが根拠だよ

伊勢遺跡が廃絶された理由として「その機能を担う別の場所が新たに作られたから」というのは合理的

で、>>557は「引き継がれたと考える理由がない」と主張するなら、
伊勢遺跡が廃絶された理由を推定してもらわないとww
565日本@名無史さん
2019/03/29(金) 11:27:40.16
>>559
>伊勢を滅ぼした連中が祟り除けに伊勢神宮を作ったんじゃないの?

伊勢神宮ができたのは、かなり新しく天武持統朝まで下るらしい
記紀で天照を持統天皇の反映として持ち上げたことと対応するようだ

この辺は確認が難しいけれど
566日本@名無史さん
2019/03/29(金) 11:32:37.45
つまり、倭国とは全く別の国である、4世紀の日本国の天皇の「葬儀祭祀&古墳」が、纏向だったのだな。。。
567日本@名無史さん
2019/03/29(金) 11:33:41.54
>>562
>同じ機能を持つ場所が、近接した別の場所にリレーをするように現れた、という現実を前に

近接してないし、同じ機能でもない。
568日本@名無史さん
2019/03/29(金) 11:34:54.18
そもそも畿内説が好きな土器すら共通していない。
569日本@名無史さん
2019/03/29(金) 11:36:05.13
4世紀に、倭国が新羅で捕獲した人民や馬を、日本国が纏向で育てた桃と交換したので、現代の奈良には朝鮮系の奴隷の遺伝子が充満しているのでは、ないのかな。。。
570日本@名無史さん
2019/03/29(金) 11:36:46.53
日本海沿岸に出雲や筑紫などの大拠点があるのに、なぜ水系が全く違い無名で小さな纒向と関係すると思ってしまったのか。
571日本@名無史さん
2019/03/29(金) 11:40:27.23
伊勢遺蹟は、何者達が、何時、何の目的で、作製を実行したのだろうか、、、
572日本@名無史さん
2019/03/29(金) 11:42:21.86
>>571
出雲の傘下の地方議会だろうね。
573日本@名無史さん
2019/03/29(金) 11:45:00.44
出雲は、倭国だったのだろうか、日本国だったのだろうか、、、
574日本@名無史さん
2019/03/29(金) 11:45:50.20
>>573
出雲は倭国だよ。
575日本@名無史さん
2019/03/29(金) 11:46:53.59
出雲のヤマタノオロチとは、真実の生物だったのだろうか、、、
576日本@名無史さん
2019/03/29(金) 11:48:22.75
そんな生き物がいた証拠はない。
何かの暗喩かもしれないが、謎だねえ。
577日本@名無史さん
2019/03/29(金) 11:54:46.37
九州説が嫌いなんじゃなくて、バカが嫌いなんだよw

でも、ここに書き込みに来る九州説がバカしかいないから、
結局ここの九州説の人はだいたい嫌いだな
578日本@名無史さん
2019/03/29(金) 11:54:57.15
>>353
>多くの勢力がまとまるために共立された祭祀王と言う卑弥呼の性格からして、
突出した国が軍事や文化で他勢力を制したわけでもなく、便宜上の中心地であるのが分かる
このような大和の邪馬台国のあり様を考えると、纏向はこの姿が自然 <

「南≠東」などに拠って、×。
579日本@名無史さん
2019/03/29(金) 11:56:33.43
>>567
>近接してないし、同じ機能でもない。

近接って言葉を、適当に理解しているだろ?ww
伊勢遺跡が廃絶されたあと、伊勢遺跡の担っていた広域の交流拠点という機能は
どこに行ったと>>567は考えているんだ?

弥生終末期の、地域間交流がますます活発になってきた時期だぞ?

できれば、具体的に回答してほしいが、たぶん逃げるんだろうなww
580日本@名無史さん
2019/03/29(金) 11:58:24.31
>>354
テンプレに「南→東」などの噓吐き騙しの直接的根拠とか
ひとことも書いてないが?

なにかまた大和説は妄想してるのか?
581日本@名無史さん
2019/03/29(金) 11:58:27.20
このスレッドで、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人の係員が、自己嫌悪で、自殺してしまう可能性が、高まってきたな。。。

577日本@名無史さん2019/03/29(金) 11:54:46.37
九州説が嫌いなんじゃなくて、バカが嫌いなんだよw

でも、ここに書き込みに来る九州説がバカしかいないから、
結局ここの九州説の人はだいたい嫌いだな
582日本@名無史さん
2019/03/29(金) 12:05:49.65
>>365
>>山越え道であっても、海岸べりの波打ち際道であっても、曲がってばかりになって、
魏使らは全体がどの方向になっているのか?なんて、判る筈がない。<

>はーい
倭人伝にある里数や方位は魏使たちが測量したという
ザラコク珍説が死亡しました <

はーい
倭人伝にある「東南陸行五百里到伊都國」の「東南」は、
魏使たちの出発や途中での、目的地の伊都国方向の計測だ、
という、大和説者の珍説が死亡しました
583日本@名無史さん
2019/03/29(金) 12:18:26.15
>>580
またウソだな
テンプレには会稽東治之東が指摘されてて
具体的な里数も書かれてる
九州説ウソ多すぎ
584日本@名無史さん
2019/03/29(金) 12:28:22.63
>>583
語尾に「ニダ」と付けろよw
585日本@名無史さん
2019/03/29(金) 12:30:49.19
>>516
>結局は標本で較正するんだから、標本と同じ年代のモノであれば、
>メカニズムに関係なく同じ年代になる。

ただ、この「標本で較正」って所に落とし穴があって、
「絶対年代の分かる標本」が必要なんだよね
その目的で、利用可能であれば年輪年代法の試料が使われるのだけれど、
日本では、その年輪年代法が市民権を得ていない

日本の14C年代測定で、ひと頃「J-CAL」という較正曲線が示されていたけど、
現在は見かけなくなっている

水月湖年縞の試料の解析も進んでいるはずなのだけれど、申し訳ないが
年輪年代法の結果と不一致があるのではないかと邪推している

まあ、私の心が汚いだけなのだけれど
586日本@名無史さん
2019/03/29(金) 12:32:49.48
>>579
>伊勢遺跡が廃絶されたあと、伊勢遺跡の担っていた広域の交流拠点という機能は
>どこに行ったと>>567は考えているんだ?
>弥生終末期の、地域間交流がますます活発になってきた時期だぞ?

より広域にまとまったのなら、日本海交流の出雲と並ぶ拠点である筑紫だろうね。
そもそも伊勢遺跡が広域の拠点といっても、それは日本海と、瀬戸内海に通じる淀川水系の間を取り持つ機能であり、纒向ではその役割は果たせない。
伊勢遺跡の建築技法は出雲のものであり、伊勢遺跡を司っていたのは出雲の大権であったことは容易に想像できる。
運が良ければ、伊勢遺跡と同様の遺跡が日本海沿岸にいくつか見つかるかもしれないね。
日本海側の発掘は、九州や畿内に比べると遅れているからね。
587日本@名無史さん
2019/03/29(金) 12:40:06.22
>>584
本当に九州説の人は、半島の人が大好きだなww
連続句読点も、熱い韓国推しを続けているしww
588日本@名無史さん
2019/03/29(金) 12:40:59.21
奈良で、考古発見物の年代を主導的に研究していた大河内隆之は、なぜ、卑劣な偽造行為を実行してしまったのだろうか。。。
589日本@名無史さん
2019/03/29(金) 12:42:26.62
>>587
半島大陸の影響を無視して古代史を語ることはできないよ。
590日本@名無史さん
2019/03/29(金) 12:42:55.49
邪馬台国畿内説を5ちゃんねるで宣伝するために、韓国政府が雇用した係員のキナイコシや3寸男が、真実を暴かれたので、焦っているな。。。

587日本@名無史さん2019/03/29(金) 12:40:06.22
>>584
本当に九州説の人は、半島の人が大好きだなww
連続句読点も、熱い韓国推しを続けているしww
591日本@名無史さん
2019/03/29(金) 12:51:17.66
やれやれ、伊勢遺跡の意義を理解しないままによいしょして、畿内説はかえって墓穴を掘ってしまったね。
弥生時代の列島交易の主軸は日本海なんだよ。
だから制海権をかけて出雲の筑紫が覇を争ったわけだ。
新興しつつあった瀬戸内海との交流に近江は地理的に重要だっただろうが、伊勢遺跡は西日本の政権を担うほどの規模ではない。
交通の便が悪い大和の片隅の纒向なんて、お呼びではない。
592日本@名無史さん
2019/03/29(金) 13:02:24.45
なぜ、畿内には、倭国が奴隷として朝鮮で捕獲した人民の遺伝子が、充満してしまったのだろうか。。。
593日本@名無史さん
2019/03/29(金) 13:11:18.39
>>586
>より広域にまとまったのなら、日本海交流の出雲と並ぶ拠点である筑紫だろうね。

筑紫には、3世紀の広域交流の拠点と推定される遺跡はない

以上

結論ありきのごり押しは意味ないって!
きちんと根拠を示して、論証を積み上げてもらわないと!
594日本@名無史さん
2019/03/29(金) 13:15:18.52
>>593
広域での交流や統制に必要なのは文字の文化。
福岡で硯が発掘されてるのに何故奈良では見つからないのか?
これは情報の発信源であったという証拠とも言えるんだぞ?
595日本@名無史さん
2019/03/29(金) 13:16:45.05
>>591
>弥生時代の列島交易の主軸は日本海なんだよ。

だから、渡海千里の先が本州だなんて戯言は通らないし、
九州のみの倭國もありえない

つまり、3世紀時点で地域王権の伸張の遅れた北部九州に倭王の存在を推定するのは
よほど変な思い込みのバイアスを乗せない限りは、不可能な状況なんだよww

状況は理解できて来たかな?
日本海経路で、大和纏向へというのが、
南至投馬國、水行二十日、南至邪馬壹國、女王之所都。水行十日、陸行一月の実体だって
理解できてきたか?
596日本@名無史さん
2019/03/29(金) 13:44:02.35
このスレッドで、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人の係員が、邪馬台国畿内説が完全に叩き潰された状況を理解したので、自殺してしまう可能性が、高まってきたな。。。
597日本@名無史さん
2019/03/29(金) 13:48:00.80
>>596
日本海経路で、大和纏向へというよほど変な思い込みのバイアスを乗せたので、3世紀には無人だった纏向が、邪馬台国だと誤認してしまった可能性も、あるのではないのかな。。。
598日本@名無史さん
2019/03/29(金) 13:51:53.49
弥生時代の列島交易は、奴隷の商業だった可能性が、高まってきたな。。。
599日本@名無史さん
2019/03/29(金) 13:52:31.92
なぜ、畿内には、倭国が奴隷として朝鮮で捕獲した人民の遺伝子が、充満してしまったのだろうか。。。
600日本@名無史さん
2019/03/29(金) 13:52:44.68
600
601日本@名無史さん
2019/03/29(金) 13:53:04.69
>>595
論旨がめちゃくちゃになってきたぞ。
頭、大丈夫か?
602日本@名無史さん
2019/03/29(金) 13:55:43.38
>>593
3世紀の福岡には全国各地の土器が集まり、一大物流中心地であったことがわかる。
魏志倭人伝においても、対馬海峡を南北に交易している様子、伊都で荷をあらためる仕組みなどが説明されている。
広域交流の最大の拠点として発展していたことがわかる。
603日本@名無史さん
2019/03/29(金) 13:56:29.13
>>595
>つまり、3世紀時点で地域王権の伸張の遅れた北部九州に倭王の存在を推定するのは

地域王権ではなく、列島を代表する倭国王圏があったのだね。
604日本@名無史さん
2019/03/29(金) 13:57:58.10
3世紀時点で地域王権の伸張の遅れた大和に大陸と交流する倭王の存在を推定するのは
よほど変な思い込みのバイアスを乗せない限りは、不可能な状況なんだよww
605日本@名無史さん
2019/03/29(金) 14:01:03.09
本質的には、弥生終末期と古墳時代は連続していることを理解しているかどうか、なんだよね

九州説の人でも、畿内に大仙古墳とか作られている時代も九州倭國が列島を代表する中心で
倭の五王も九州筑紫の王とかいう古田史学はトンデモだって思うだろ?

でも、それ以外の九州説でも、3世紀に九州に邪馬台国があって倭王が九州にいて、
その後大和朝廷が日本の中心になった部分をまともに説明できない

一応、筋としては通っているのは、景行天皇、ヤマトタケル、仲哀・神功の征西で
邪馬台国の後裔が滅びたというタイプの九州説(邪馬台国の会・安本美典派)だが、
それでも3世紀時点で、前方後円墳体制に九州も参加しているから別政権というのも
結局は通らない
606日本@名無史さん
2019/03/29(金) 14:08:53.44
3世紀の時点で、畿内にはびこっていた勢力が筑紫にも足がかりを持っていた程度の話。
筑紫の前方後円墳は王墓とはみなされていないからね。
本質的には、弥生終末期と古墳時代は連続していることを理解しているかどうか、なんだよね
筑紫の方形周溝墓は祇園山など方墳に継承されていくし、彩色古墳などの独自の文化が古墳時代にも連続している。
沖ノ島の祭祀などに畿内も参加しているの見られる点など、もちろん交流はあるのだけれど、継体と岩井の戦いなど、九州と畿内が統一されたと捉えるのは難しい状況が続く。
607日本@名無史さん
2019/03/29(金) 14:10:17.66
>>605
畿内説の人も、当時完璧な統一があったと思っていないんだろ?
各地で政権が並立していてもおかしくない。
その中でたまたま残ったのが大和政権だったと考える脳は無いのか?
608日本@名無史さん
2019/03/29(金) 14:11:35.47
仲哀は征西ではないね。
もともと穴門豊浦宮に拠点を置いていたから、筑紫の倭王だろう。
神功皇后の足跡も福岡県内ばかり。
武内宿禰を祀る神社は福岡県内に数知れず。
そして応神を祀るのは宇佐八幡ときている。
609日本@名無史さん
2019/03/29(金) 14:13:50.86
よく言われるのは、九州北部は狭い範囲で多くの勢力が戦っていたということだ。
これはそれだけ筑紫全体が豊かであり、そこを手中にすることが倭国の代表である倭王の座を手に入れることと同義であったと考えられる。
田舎の大和は5世紀になってもそこにちょっかいを出す程度だった。
610日本@名無史さん
2019/03/29(金) 14:15:31.75
後漢書は倭の北限が狗邪韓国、倭の南限が倭奴国で、畿内など出てこない。
魏志倭人伝には後漢代までさかのぼった記事が書かれているのに、九州から畿内への遠大な東遷は書かれていない。
いつ倭は畿内に東遷したのかな?
611日本@名無史さん
2019/03/29(金) 14:16:15.56
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf

3世紀中葉から後半にかけて日本列島各地で出現した前方後円墳は,弥生時代後期後葉の様々な地 域の交流の所産という考えが日本考古学界で広く受け入れられている。
しかし古墳の出現は首長間交流の所産であるのに対し,集落から出土する土器は一般庶民の生活を 反映している。したがって,両者の関係をそう単純には結びつけることはできない。
纒向遺跡での搬入土器の主体は東海系であるのに対し,河内平野では吉備系土器が主体である。纒向遺跡では北陸系や近江系といった河内には 流入しない土器群がみられる。
前方後円墳で象 徴されるネットワークは恐らく大和が中心で,そしてそれは祭祀,あるいは政治的な意味合いも含めたネットワークであろう。
それに対して,畿内型(系)土器の拡散で象徴されるネットワークは大和や河内が必ずしも中心ではなく,場合によっては交易の所産である可能性も高い。
特に重要なのは, 福岡平野の比恵・那珂遺跡群で,一度畿内型土器が搬入され,模倣製作されたのち,在地の土器製作者がそれらを我流の技術で生産し,豊前,豊後の一部地域はもちろん,壱岐や遠く朝鮮半島南部に搬出するという現象である。
これは福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたことを示すものであろう。
中央(最高首長)の意思決定行為は内的に細分化・専門化されておらず(官僚機構の不在),支配能力が高くなく,したがって地方首長は自分の支配地域の維持運営にさまざまな責任を負っているため,地方は中央の意思とは別に,独自の行動をとることが可能である。
古墳出現期の福岡平野がまさに,独自の行動をとっている地方の実例である。古墳時代を国家段階と捉えた時期もかつてあったが,この研究の成果が示すように,少なくとも古墳時代初頭は国家段階にまったく達していないことが推測できるのである。
612日本@名無史さん
2019/03/29(金) 14:18:38.99
【邪馬台国の終焉】

八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮(香椎宮)に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮の王(五十迹手、熊鰐)が出迎えたが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、仲哀の妃の息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。

倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔と伝えられており、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。

仲哀の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は、仲哀の本来の皇后(大中津姫、仲哀と同じく景行の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人も殺害し、仲哀の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である応神を天皇にした。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは各王朝の祖先神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、後世の天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め、政治的権威も強かった(宇佐神託事件など)。
613日本@名無史さん
2019/03/29(金) 14:22:25.40
>>88
わかりました。。。
614日本@名無史さん
2019/03/29(金) 14:22:48.27
>>88
わかりました。。。
615日本@名無史さん
2019/03/29(金) 14:30:36.27
>>594
>福岡で硯が発掘されてるのに何故奈良では見つからないのか?
>これは情報の発信源であったという証拠とも言えるんだぞ?

なんで情報の発信源であったという証拠になるの?
616日本@名無史さん
2019/03/29(金) 14:35:01.83
>>615
広域での交流や統制に必要なのは文字の文化だからだろ。
同じスレの中の文章も繋げて理解できないのか?
617日本@名無史さん
2019/03/29(金) 14:37:39.63
大和って、文字もなく絹もなく、鉄もなく、西日本の中でも遅れた縄文時代のような生活水準だったということ?
618日本@名無史さん
2019/03/29(金) 14:40:06.56
縄文時代というのは、ネアンデルタールと関係があるのではないのかな。。。
619日本@名無史さん
2019/03/29(金) 14:40:29.87
>>88
わかりました。。。
620日本@名無史さん
2019/03/29(金) 14:53:59.93
>>616
広域での交流や統制に
なぜ文字が必要なの?
621日本@名無史さん
2019/03/29(金) 14:59:52.71
インカ帝国の実在を否定する邪馬台国九州説w
622日本@名無史さん
2019/03/29(金) 15:01:16.87
頭の悪い者が、討論に敗北してしまったので、頭の悪い質問を発表してしまったのでは、ないのかな。。。

620日本@名無史さん2019/03/29(金) 14:53:59.93
>>616
広域での交流や統制に
なぜ文字が必要なの?
623日本@名無史さん
2019/03/29(金) 15:02:58.82
熊本城の地下に眠っている卑弥呼は、どのようにして、伊都国や中国と連絡を取り合ったのだろうか。。。
624日本@名無史さん
2019/03/29(金) 15:04:24.58
>>623
魏志倭人伝に記録されていたのでは、なかったのかな。。。
625日本@名無史さん
2019/03/29(金) 15:07:27.82
女王国の北に、特別に、イダルを置き、検察している。
諸国はこれを恐れて遠慮している。。。
常に伊都国で治めている。
倭国においてイダルは、、、中国に前漢から五代十国時代まで存在した刺史という名の、、官職のような存在だ。。。
倭国の王が使者を派遣し、京都や帯方郡や韓国各地に挨拶させたり、また、郡が倭国に使者を送った時には、全て、入り江の奥を利用した港にやってきて、不正や隠し事がないか露わにして探す。
文書や賜り物を配送し、女王に挨拶させる時に、数の違いや錯誤が発生することはあり得ない、、、
626日本@名無史さん
2019/03/29(金) 15:08:54.09
九州説は負けグセが染み付いてて
すぐ解答不能に陥っては荒らしに堕ちる
みじめなもんだな
627日本@名無史さん
2019/03/29(金) 15:09:48.61
熊本城の地下に眠っている卑弥呼は、文書を使用して、伊都国や中国と連絡を取り合った可能性が高いな。。。
628日本@名無史さん
2019/03/29(金) 15:11:33.16
頭の悪い者が、討論に敗北してしまったので、頭の悪い言い逃れを実行してしまったのでは、ないのかな。。。

626日本@名無史さん2019/03/29(金) 15:08:54.09
九州説は負けグセが染み付いてて
すぐ解答不能に陥っては荒らしに堕ちる
みじめなもんだな
629日本@名無史さん
2019/03/29(金) 15:12:01.31
イダル?

あの嫌韓の連句点が韓国人?
630日本@名無史さん
2019/03/29(金) 15:13:35.32
>>627
卑弥呼は文書を読めたのだろうか、、、
631日本@名無史さん
2019/03/29(金) 15:15:09.89
邪馬台国畿内説を宣伝する頭の悪い韓国人が、討論に敗北してしまったので、頭の悪い中傷を実行してしまったのでは、ないのかな。。。

629日本@名無史さん2019/03/29(金) 15:12:01.31
イダル?

あの嫌韓の連句点が韓国人?
632日本@名無史さん
2019/03/29(金) 15:16:54.93
>>631
イダルというのは、一大率という翻訳が確定しなかった中国語の発音を予想したのでは、なかったのかな。。。
633日本@名無史さん
2019/03/29(金) 15:18:07.88
熊本城の地下に眠っている卑弥呼は、文書を使用して、伊都国や中国と連絡を取り合った可能性が高いな。。。
634日本@名無史さん
2019/03/29(金) 15:20:06.09
>>622
熊本城と中国は遠いので、伝令には、文書を持たせた可能性が高いな。。。
635日本@名無史さん
2019/03/29(金) 15:23:44.43
正始元年に太守の弓遵が建中校尉梯儁等を派遣した。。。
皇帝の意思表示の公文書と印鑑と帯紐を献上するために倭国に詣うでた。
仮の倭王を拝み、同時に、皇帝の意思表示の公文書をもたらし、金、白い絹、錦、絨毯、刀、鏡、採掘物を贈った。
倭王は表に書き上げ、使いによって、皇帝の意思表示の恩に返答して感謝した。
636日本@名無史さん
2019/03/29(金) 15:25:49.85
熊本城の地下には、卑弥呼の硯や筆が埋まっている可能性が、高まってきたな。。。
637日本@名無史さん
2019/03/29(金) 15:27:15.06
>>366
「南や東の定義」もしないで、
南→東などの嘘付き騙しをして逃げる大和説者のインチキさ。
638日本@名無史さん
2019/03/29(金) 15:29:16.42
ここの畿内説は魏志倭人伝すら読んでないのか?
639日本@名無史さん
2019/03/29(金) 15:29:37.97
>>370
具体的なことはなにも言えない
定義はできない
証拠は出せない

それが「南→東」などの嘘付き騙しがバレた、敗者の、大和説
640日本@名無史さん
2019/03/29(金) 15:32:09.20
邪馬台国畿内説はなぜ駄目なのか

1つ目の理由
箸墓古墳を作製した崇神天皇は、720年に完成した日本書紀を作製した人物の、16回の親子関係で繋がった先祖です。。。。
日本書紀の記録した時代の、父と子の年齢差は、学部によると、平均が21.6歳であるから、箸墓古墳が374年頃に完成しました。
720-21.6✕16=374.4

2つ目の理由
箸墓古墳は大きすぎて、人民の少ない纏向では、馬がいないと製作できません。
箸墓古墳には、石や土を製作中の古墳の上に運んだ馬が通行した、左側スロープの痕があります。
朝鮮半島で高句麗の馬と馬主を捕獲した倭国と日本国が取引をして、馬と馬主を連れてきました。
倭国が新羅を降伏させて、高句麗の馬と馬主を捕獲したのは、4世紀後半です。
だから、箸墓古墳は4世紀後半に作製されました。。。

3つ目の理由
箸墓古墳を作製したときに掘った穴の数十年かかって積もった固い土の中の、底から20年分の部分に、紀元後400年頃の畿内馬具が落ちているのが、発見されました。。。
だから、箸墓古墳が380年頃に完成しました。

4つ目の理由
2013年に実行された箸墓古墳の大規模調査で、纏向遺蹟は全体も、魏志倭人伝時代の後の遺蹟だと判明しました。。
641日本@名無史さん
2019/03/29(金) 15:32:59.48
>>373
過去の300スレ位を全部チェックしても
「南→東」などの嘘付き騙しの証拠や、
言葉の定義や具体例を求められた大和説が殆ど回答してない、
という事実が証拠だな
642日本@名無史さん
2019/03/29(金) 15:33:14.77
5つ目の理由
何十年もかかった、延べ数十万人の調査では、掘立柱の周りには、鉄と人民の家がありませんでした。。
そして、桃の種が発見されました。
だから、掘立柱は大物主の桃の倉庫の柱でした。。。

6つ目の理由
魏志倭人伝時代には、奈良盆地は沼地でした。
だから、人民が都会を作れませんでした。

7つ目の理由
畿内説の宣伝係には、頭の悪い人が多いです。
だから、畿内説の嘘の宣伝が、国民に信用されません。。。

8つ目の理由
畿内説の宣伝係には、インターネットの掲示板での、悪質な荒らし行為を実行する人が多いです。
根拠が必要な討論では、敗北したからです。
だから、悪質な荒らし行為を実行する畿内説が、破綻しました、、
643日本@名無史さん
2019/03/29(金) 15:34:54.31
最新の理由
何十年もかかった、延べ数十万人の調査では、掘立柱の周りには、硯がありませんでした。。
そして、桃の種が発見されました。
だから、掘立柱は卑弥呼とは無関係の大物主の桃の倉庫の柱でした。。。
644日本@名無史さん
2019/03/29(金) 15:38:07.80
論破された九州説がごまかしに嘘の連投を始めた
645日本@名無史さん
2019/03/29(金) 15:38:33.17
>>606
>筑紫の前方後円墳は王墓とはみなされていないからね。

つまり、古墳時代最初期の時点で、筑紫には王が居なかった
⇒ 邪馬台国は北部九州になかった

で、終了だな
>>606はお疲れ様
646日本@名無史さん
2019/03/29(金) 15:38:44.82
>>375
>(テンプレを)馬鹿よばわりする根拠は?<

「南→東」などの嘘つき騙しをした事が証拠。
647日本@名無史さん
2019/03/29(金) 15:40:13.01
邪馬台国畿内説を宣伝する頭の悪い韓国人が、討論に敗北してしまったので、頭の悪い中傷を実行してしまったのでは、ないのかな。。。

644日本@名無史さん2019/03/29(金) 15:38:07.80
論破された九州説がごまかしに嘘の連投を始めた
648日本@名無史さん
2019/03/29(金) 15:41:05.53
>>383
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説には、このところ、
何十年位も新しい根拠のニュースは、
無いからな
649日本@名無史さん
2019/03/29(金) 15:41:35.89
>>607
>各地で政権が並立していてもおかしくない。

おかしくないし、それらの地方首長がそのままのちの豪族、県主や国造になっていったって
ずーっと言ってるだろ?

その各地の並立制権も、他と没交渉で独立状態にあったわけではなく、
首長層の連絡・連合はあったし、その中で最大勢力が畿内で倭王が居たなら畿内に居たと
考えるのが当然、というだけの話だ
650日本@名無史さん
2019/03/29(金) 15:42:55.33
>>609
>よく言われるのは、九州北部は狭い範囲で多くの勢力が戦っていたということだ。

つまり、小物がどんぐりの背比べをしていた地域なんだよ

>これはそれだけ筑紫全体が豊かであり、そこを手中にすることが倭国の代表である倭王の座を手に入れることと同義であったと考えられる。

個人の考えですねww
小物が倭国の代表になる訳がないんだよ
651日本@名無史さん
2019/03/29(金) 15:44:16.39
結局九州説は自分の言いだした
 広域での交流や統制に文字が必要
という理由がまったく説明できないのであった
652日本@名無史さん
2019/03/29(金) 15:45:19.85
>>616
>広域での交流や統制に必要なのは文字の文化だからだろ。

広域で文字が共有されていて初めて有効になるんだよ
北部九州にあるから交流や統制の中心ということにはならない

それが言えるためには、情報の受け手の側にも、文字インフラがあることが
示されないといけない

ここまで考えが及ばないところが、チェリーピッキング体質の本質なんだろうね
653日本@名無史さん
2019/03/29(金) 15:46:39.83
>>629
>あの嫌韓の連句点が韓国人?

半島の人は、相手を貶めるためには平気で相手を半島人呼ばわりするよww
654日本@名無史さん
2019/03/29(金) 15:46:50.58
>>646
「南→東」が
嘘つき騙しだ
って証拠がないよ
655日本@名無史さん
2019/03/29(金) 15:47:23.59
北朝鮮に操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代が始まる前までは倭人という民族が中国南部や九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
656日本@名無史さん
2019/03/29(金) 15:49:58.03
文字を知らない田舎の巫女では、魏に国書を送れないね。
金印がなければ倭王からの手紙であることを証明できないね。
657日本@名無史さん
2019/03/29(金) 15:50:50.85
このスレッドで、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人の3寸男が、相手を貶めるために、日本人を韓国人呼ばわりしていることが、確定してしまった。。。

653日本@名無史さん2019/03/29(金) 15:46:39.83
>>629
>あの嫌韓の連句点が韓国人?

半島の人は、相手を貶めるためには平気で相手を半島人呼ばわりするよww
658日本@名無史さん
2019/03/29(金) 15:53:19.90
>>652
言っちゃってから自分の考えたらずに気づいて
必死で外交に文字を使った話にスリカエてんだろ
でも糸島あたりにお雇い外国人書記が住んでればすむ話しか出せないんだよね
659日本@名無史さん
2019/03/29(金) 15:56:28.03
>>384
>>「南≠東」の指摘にすら反論できず、<

>真っ赤なウソ 再三反論されているしテンプレにもある
反論を見なかった、無かったことにする九州説の捏造体質が
どれだけ顰蹙を買っているかまた理解出来ない? <

真っ赤なウソ。
それが証拠に大和説者は、
そのテンプレを転写紹介すら出来ない状態。
以前に紹介した旧唐書の「大理と安南との関係文」でも、テンプレは、
大理→安南の通行路のコース説明が、
最初は、「成都へ行くコース」と同じ(如至成都)東方方向へ行って、
その後安南方向に通水陸行する、
と書かれてある事が理解出来ず、」だから「東」方向で間違いではなく、
テンプレの解釈が間違っていた、という事であった。
660日本@名無史さん
2019/03/29(金) 15:59:43.14
>>657
連続句読点が一大率をイダルと書いちゃったのは痛恨のミスだったな
661日本@名無史さん
2019/03/29(金) 16:02:27.08
>>386
>>「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、その証拠が挙げられないから<

>挙げてますが? 会稽東治は九州最南端より南にある <

陳寿の「女王國の位置推定」の「会稽東治之東」は、
ほぼ丁度魏使らの記録の九州島付近になり、
魏使らは、「南→東」に間違っていないから、
この類スレ主が、×人間。
662日本@名無史さん
2019/03/29(金) 16:02:39.75
>>659
また九州説が捏造
テンプレにそんな記事はない
663日本@名無史さん
2019/03/29(金) 16:05:04.95
>>658
楽浪土器がなかった纒向はお雇い外国人すらいなかったわけだ。
664日本@名無史さん
2019/03/29(金) 16:05:48.57
畿内説はヘイトスピーチ以外に主張の方法を知らないのか。
665日本@名無史さん
2019/03/29(金) 16:07:07.61
5ちゃんねるで邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人は、普通の日本人には分からないイダルという発音の韓国語を知っているので、勘違いしている可能性が高いな。。。
韓国語でイダルという発音は、何のことを指すのだろうか、、、

660日本@名無史さん2019/03/29(金) 15:59:43.14
>>657
連続句読点が一大率をイダルと書いちゃったのは痛恨のミスだったな
666日本@名無史さん
2019/03/29(金) 16:08:10.60
666
667日本@名無史さん
2019/03/29(金) 16:08:56.80
>>388
>>そばの土坑の庄内が「ヤマトの庄内3」であったから、3世紀末だね。<

>考古学者の言うこととまるで違うことを素人ジイさんが理由も言わずに断定しても
なんの意味もない <

掘立柱の建築のそばの土坑の庄内に関する、大和説考古学者らの、
「発掘報告」や、その年代根拠を、提示紹介しないのであれば、
幾ら人身攻撃をしても、何の意味も価値もない。
668日本@名無史さん
2019/03/29(金) 16:09:55.30
ここまでまともな畿内説の根拠が皆無
669日本@名無史さん
2019/03/29(金) 16:11:30.88
>>649
まず、畿内に倭王というのが存在したという根拠は?

魏志倭人伝には書いてあるよな?
伊都国あたりの説明で。

居たとしたら女王国以北ってことだよ。
670日本@名無史さん
2019/03/29(金) 16:11:54.55
>>392

「南→東」などの嘘付き騙しの九州説は、もはや、
嘘をつく事や、口先ヘイトスピーチをする事以外に、
抵抗の手段が無いようだな。
671日本@名無史さん
2019/03/29(金) 16:12:48.26
5ちゃんねるで邪馬台国畿内説を宣伝する頭の悪い韓国人が、討論で完全に敗北してしまったので、その9割も邪馬台国畿内説を信じない日本人に対して、何の意味も価値もない人身攻撃を実行しているのだね。。。
672日本@名無史さん
2019/03/29(金) 16:13:49.17
>>659
>最初は、「成都へ行くコース」と同じ(如至成都)東方方向へ行って、
>その後安南方向に通水陸行する、
>と書かれてある事が理解出来ず、」だから「東」方向で間違いではなく、

それだと、成都に行くのが北東と書いてあるのが、間違いになっちゃうんだよなww

そういう、最初のコースの方角でいいという言い訳をすると、成都行きの方角が間違い
成都行きの方角が正しい=目的地への方角が書いてあるとすると、安南行きの方角が間違い

どっちにしろ、旧唐書の大理周りの地理記事は、大陸史書が普通に方角を間違う実例なんだよww

そして、この話はテンプレには一切載っていないww
ザラコクはどこまで行ってもデタラメ捏造爺さんww
673日本@名無史さん
2019/03/29(金) 16:14:00.95
>>393
反論できないで悪口専門になってるその実態が、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説の、
敗北の動かぬ証拠。
674日本@名無史さん
2019/03/29(金) 16:14:55.70
>>664
>畿内説はヘイトスピーチ以外に主張の方法

どこがヘイトスピーチなのか、具体的に指摘してね!
それがなければ、そっちがただの名誉毀損だよw
675日本@名無史さん
2019/03/29(金) 16:19:28.15
>>394
>(鉄や矛や剣や絹などの)事実だと言い張るだけで証拠が出せないって
それ、大問題だろ<

そのお方は、もう、何度か数え切れない位、表を貼り付けておられたよ。
その事に知らん振りして、
「証拠が出せない」なんて嘘つき騙しを言い放つ大和説者の方が、
大問題だろ?。
676日本@名無史さん
2019/03/29(金) 16:19:59.58
>>673
だから「南」は東の間違いだって説をいうのが
なんで嘘付き騙しなの?
言論弾圧じゃん
677日本@名無史さん
2019/03/29(金) 16:21:10.40
畿内説のスタート地点は「南→東の間違い」

証明出来ず

畿内説終了
678日本@名無史さん
2019/03/29(金) 16:23:08.78
>>675
>そのお方は、もう、何度か数え切れない位、表を貼り付けておられたよ。
>その事に知らん振りして、
>「証拠が出せない」なんて嘘つき騙しを言い放つ大和説者の方が、
>大問題だろ?。

ほら、また九州説は
証拠を出さない
679日本@名無史さん
2019/03/29(金) 16:24:21.52
>>669
邪馬台国で代々男王を立てていたなどとは書いてないよな
680日本@名無史さん
2019/03/29(金) 16:26:17.38
>>677
>畿内説のスタート地点は「南→東の間違い」

それがスタート地点?
ほら、九州説はもう嘘をつく
そして、全く証拠を出さない
681日本@名無史さん
2019/03/29(金) 16:26:23.43
>>667
>掘立柱の建築のそばの土坑の庄内に関する、大和説考古学者らの、
>「発掘報告」や、

前にも紹介しただろ?
「纏向遺跡発掘調査概要報告書」2013. 5. 31
桜井市纒向学研究センター編
「出土遺物の年代観から土坑は庄内3式期新相頃のものと判断されるが、祭祀の時期が建物群の
廃絶の時期と近接すると考えられること、検出された3棟の建物のうち、中心的な建物とみられる建物
Dに近接して掘削されていること、土坑の北端が建物群南辺を画する柱列のラインと重複することなど
を勘案すると土坑は建物群の解体時に執り行われたマツリの痕跡と考えている。」
www.makimukugaku.jp/pdf/gaihou.pdf
682日本@名無史さん
2019/03/29(金) 16:31:36.83
>>679
邪馬台国と倭国をすり替えるキナイコシ
683日本@名無史さん
2019/03/29(金) 16:31:50.37
>>669
>まず、畿内に倭王というのが存在したという根拠は?

・纏向遺跡の指導者・首長が、前方後円墳を作る範囲の盟主なのは、
 遺跡・遺物の発掘調査から明確に認められる  
 ↑
これを「認められない」と言い続けているのが九州説

・北部九州までが前方後円墳を作る共同体(支配ー被支配の関係ではない)に
 参加している
・魏使は北部九州を経て邪馬台国に向かい、卑弥呼に金印、詔書を渡している

これだけで、魏志倭人伝の示す倭王・卑弥呼が纏向遺跡に居なかったら不思議
684日本@名無史さん
2019/03/29(金) 16:32:05.14
>>669
>魏志倭人伝には書いてあるよな?
>伊都国あたりの説明で。

何が書いてあるの?
以上なまでに説明の下手な人だな
685日本@名無史さん
2019/03/29(金) 16:32:30.41
また桜井市かよ
悪の巣窟だな!
686日本@名無史さん
2019/03/29(金) 16:33:44.15
>>683
妄想だらけで、どこから突っ込むべきなのかw
687日本@名無史さん
2019/03/29(金) 16:34:58.88
>>401
会稽東治は沖縄や台湾だーとか
魏使一行は測量できたのに、倭人伝に書いてある里程や方位は魏使が測ってないーとか
南→東などの嘘付き騙しとか・・・

大和説者の嘘つき騙しの例、もっと欲しい?
688日本@名無史さん
2019/03/29(金) 16:38:40.91
>>683
それらがどの文献の何処に該当するんだよ?

レスする前にロジカルシンキングのセミナーでも受けて恋
689日本@名無史さん
2019/03/29(金) 16:38:53.88
>>409
そんなふうに 「南→東」などの嘘付き騙しへに批判に、
反論ひとつ満足に出来ないで虚勢はってるから
大和説者は馬鹿にされる
690日本@名無史さん
2019/03/29(金) 16:39:57.15
>>683
えっ?

邪馬台国の話とどう関係あんの?w
691日本@名無史さん
2019/03/29(金) 16:40:14.99
>>687
また理由を言わずに決めつめる九州説の傲慢
692日本@名無史さん
2019/03/29(金) 16:45:10.90
>>411
>>「東治は東冶の転写間違い」ではないから、×。
>>「まさに會稽東冶の東(沖縄か台湾辺り)に当たる」とは書いてないから、×。
「萬二千余里」が長里であれば、赤道付近に行ってしまうから、大和説は×。<

>ほらな 九州説はひとつも理由が言えない <

「・・・(だ)から」と言って「理由を言ってある」のに、
「ひとつも理由が言えない」として、ヘイトスピーチ街宣をするのが、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者。
693日本@名無史さん
2019/03/29(金) 16:45:22.50
>>683
想像を説だの証拠だのという人は病気だよ。
痴呆症とか。
694日本@名無史さん
2019/03/29(金) 16:47:04.26
>>409
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、
そんなふうに反論ひとつ満足に出来ないで、
虚勢はってるから、馬鹿にされる。
695日本@名無史さん
2019/03/29(金) 16:51:00.82
>>414
ほら、また、何の説明も論理もなく、何の話なのか?も判らない分を書いて、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、ウソをつく。
だから大和説は学問でなくなった。
696日本@名無史さん
2019/03/29(金) 16:51:18.29
>>688
最低限のロジカルな思考ができれば解るところだが?


纏向遺跡の指導者・首長は前方後円墳を作る範囲の盟主  

北部九州は前方後円墳を作る共同体に参加している

魏使は北部九州を通過して国情を観察している

したがって中国側は纏向の指導者が倭人の盟主であることをに認識した
 
697日本@名無史さん
2019/03/29(金) 16:55:02.41
>>419
>畿内が存在しないとか 世間常識はに反することを連呼して
それで一言も理由を言わない
そんな九州説が世間で支持を受けるわけ ないよね<

3世紀の列島に、天子や天皇が存在した事を示す「畿内」が存在し」たとか、
世間常識はに反することを連呼して、 それで一言も理由を言わない。

そんな「南→東」などの嘘つき騙しの大和説が、
世間で支持を受けるわけ
ないよね
698日本@名無史さん
2019/03/29(金) 16:58:28.59
>>697
「畿内」という言葉が
3世紀の列島に天子や天皇が存在した事を示す
という理由が全く無い
699日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:01:09.34
3世紀時点で地域王権の伸張の遅れた大和に大陸と交流する倭王の存在を推定するのは
よほど変な思い込みのバイアスを乗せない限りは、不可能な状況なんだよww
700日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:02:14.05
>>605
問題なのは、それが起こったのが3世紀のいつなのかという点。
2世紀末から3世紀初頭には、大和の政権が博多を傘下に収めていたのか、それともそれは3世紀中頃に起こったのかということ。
3世紀初頭には、それはまだ起こっていないというのが、歴史の真実だな。
701日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:02:23.01
>>692
>「・・・(だ)から」と言って「理由を言ってある」のに、

ばかですか?
「ヘソが痒いから畿内説は間違いだ」と言っても
「理由を言ってある」ことにならん
702日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:03:05.16
>>698
畿内という言葉の意味を知らないキナイコシ
703日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:03:58.33
>>700
>3世紀初頭には、それはまだ起こっていないというのが、歴史の真実だな。

また理由も言わずに決めつける
それが九州説
704日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:05:05.02
象の鼻が短いから畿内が邪馬台国だと言い張るのが畿内説。
象の鼻は短くないのにと指摘すると、短いという証拠を出せと騒ぐ。
705日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:05:25.83
>>703
起こったという証拠を出せと。
706日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:05:31.48
>>702
ほら、また
全く理由が言えず
合理的な説明もできない九州説
707日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:06:26.67
3世紀の時点で、畿内にはびこっていた勢力が筑紫にも足がかりを持っていた程度の話。
筑紫の前方後円墳は王墓とはみなされていないからね。
本質的には、弥生終末期と古墳時代は連続していることを理解しているかどうか、なんだよね
筑紫の方形周溝墓は祇園山など方墳に継承されていくし、彩色古墳などの独自の文化が古墳時代にも連続している。
沖ノ島の祭祀などに畿内も参加しているの見られる点など、もちろん交流はあるのだけれど、継体と岩井の戦いなど、九州と畿内が統一されたと捉えるのは難しい状況が続く。
708日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:06:37.89
>>558
簡単だった 
709日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:09:47.66
>>705
奴国中枢部と考えられる那珂遺跡付近には3世紀前半のうちに前方後円墳(未定形化)が登場し畿内型の祭政が始まっている
710日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:11:47.91
>>707
>筑紫の前方後円墳は王墓とはみなされていないからね。

誰によって?
狂信的な九州説の人によって?
711日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:12:57.17
>>707
>筑紫の方形周溝墓は祇園山など方墳に継承されていくし、

それ、初耳だけど
誰の説?
712日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:17:42.93
>>707
>継体と岩井の戦いなど、九州と畿内が統一されたと捉えるのは難しい状況が続く。

それ、誰の説?
普通は雄略朝の瓦解で集権化の揺り戻しがあったと理解されてるとこなんだけど
713日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:18:06.11
>>710

畿内説だと那珂八幡は大王の墓なのか。
知らなかったな。
714日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:18:46.72
>>712
>普通は雄略朝の瓦解で集権化の揺り戻しがあったと理解されてるとこなんだけど

君の普通は世間で普通だと思われていないよ。
715日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:20:42.46
>>704
証拠を出せなくていつも九州説が論破されるパターンだね
716日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:22:05.77
それ以前に、那珂八幡の前方後円墳は纒向型とは無関係と発表されていたよな。
717日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:23:33.54
>>713
>畿内説だと那珂八幡は大王の墓なのか。
>知らなかったな。

論破された九州説が
なんとか言い返したいあまり
また実在しない発言を捏造する

この九州説の腐敗体質
718日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:23:43.19
>>709
畿内型ではないらしいね。
仮に畿内と同じ型だとして、だから何?
神武東征の正当化?
719日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:24:46.71
>>420
>>箸墓は、布留だから、4世紀なので、×。<

>それ、証拠は? 素人オジン年代が世間に通用するわけないよね わかる?<

纏向型前方後円墳の始まりの石塚が3世紀末で、
纏向型の最後のホケノが庄内と布留であり、
箸墓は「庄内がない布留」であるので、ホケノよりも後になって、
4世紀になる。
720日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:26:02.10
>>716
纒向型だなんて誰も言ってないが?
九州説の反論空振り悲惨
721日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:26:09.96
さらに箸墓で出土した馬具は5世紀以降のものらしい
722日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:28:10.22
奴国が畿内に影響を及ぼした

そう考えるとものすごく解りやすい

畿内派はバカなの?
723日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:28:19.36
>>720
ちょっと何が言いたいのかわからないな。
724日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:30:52.69
>>429
「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソつき騙しのように、
そうやって、あらゆる分野で、
その分野の史料事実の否定曲解の嘘つき騙しをしないと前に進めない
それが通説大和説

だから学問でいられなかった
725日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:31:51.88
ちなみに半島で発見された最古の馬具は5世紀のものだそうだ。
箸墓は古くても5世紀頃としか言いようがない。
726日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:34:24.88
>>722
そんなふうに理由もなく考えるのはバカだろう
727日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:35:03.78
>>720
ということは、前方後円墳で九州と纒向の関係は示せないということを認めてるんだなw

お前さん自分で何を言ってるのかわかってないのか?w
728日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:35:03.87
>>437
>記紀編纂時には倭、大倭の記載でヤマトという読みはまだ一般的でなかった。
平安時代に記紀に倭、大倭、はヤマトなり、 という注釈が入れられてヤマト読みが定着する。
チクシ読みは記紀に30ヶ所以上記載され すでに一般的であり、
隋書にも筑紫と読める文字がある。<

成程。
729日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:35:25.71
>>721
らしい?

そう言ってる考古学者が一人でもいるかね?
730日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:37:05.69
>>727
なんで前方後円墳で九州と纒向の関係が示せないことになるの?
731日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:38:42.71
>>729

>>725の件知ってる?
奈良では半島より先に馬を使っていたというのかい?
732日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:40:03.21
>>730
なんで那珂八幡古墳が纒向と関係あると言い切れるの?
733日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:45:48.24
そもそも纒向の年代比定に根拠がない。
734日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:46:29.90
>>686
>妄想だらけで、どこから突っ込むべきなのかw

そんなにいっぱいあるなら、一つ、二つずつでも「具体的に指摘」すればいいじゃん?

それをせずに、さも相手が間違っているような印象操作の書き込みだけをして
具体論に進むのから逃げ続けるのが九州説のやり口ww
735日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:46:35.41
纒向は崇神や物部の関連であり、卑弥呼は関係ないじゃん。
邪馬台国と絡めるのはアホ。
736日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:47:48.25
>>732
在来系しか無かった土地に庄内式が一括で入ってきて、つまり移民がきて、在来の祖先祭祀をしなくなり、畿内式の祭祀を始める
地元の王は外来の前方後円墳(墳丘墓)に葬られるようになり、第二主体には三角縁が副葬される
纏向には筑紫産の庄内式土器が持ち込まれる
これだけ状況証拠が揃えば十分だ
737日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:50:23.29
>>690
>邪馬台国の話とどう関係あんの?w

広範囲の盟主 ⇒ 別の言い方をすれば、列島の広範囲のの首長=倭王
魏志倭人伝の記述 ⇒ 倭国の首長・倭王卑弥呼の存在とその所在地が邪馬台国

これが別物だとする理由がないし、纏向に存在する盟主以外が倭王に除される理由がない
738日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:51:19.85
>>733
根拠なら考古学者が論文書いてるよ
739日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:51:40.04
>>693
>想像を説だの証拠だのという人は病気だよ。

どこが想像なのか、「具体的に指摘」してくれ

九州説は具体論から逃げ続けるだけww
740日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:52:25.25
>>439
>>直径5m位の円なら、簡単に書けるし、28宿を印するにはそれで十分。<

>その28等分はどうやって印をつけるんだ?ww 分かってるけど聞いてみるww<

天空の黄道の星座や星をを地面に投映するんだから、
地面の円の円周に、その28個の星座を順に並べて行けばよく、
夏至を北、冬至を南、春分を東、秋分を西に置けば、
7個ずつ順番において行くことになり、簡単。
741日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:53:40.04
>>731
>奈良では半島より先に馬を使っていたというのかい?

先に魏使が来て冊封されてるだろ
何か問題でも?
742日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:53:45.19
>>699
>3世紀時点で地域王権の伸張の遅れた大和に大陸と交流する倭王の存在を推定するのは

3世紀時点で、列島最大の墳丘墓が纏向遺跡に連続して作られている
⇒ 列島最大の動員力を持つ首長が、纏向遺跡に存在した

つまり、「3世紀時点で地域王権の伸張の遅れた大和」は間違い
743日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:54:57.19
>>736
で、その前方後円墳は那珂八幡の方が古いというのはどう説明する?
上で言われているように箸墓はだいぶん新しいだろ?構造からして。
744日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:57:15.40
畿内説の反論が苦しすぎて笑えてくるなw
嘘を突き通そうと必死な子供みたいなレベルだw
745日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:57:47.60
>>700
>2世紀末から3世紀初頭には、大和の政権が博多を傘下に収めていたのか、それともそれは3世紀中頃に起こったのかということ。
>3世紀初頭には、それはまだ起こっていないというのが、歴史の真実だな。

2世紀末どころか、弥生時代後期という枠組みで畿内第V様式土器が、比恵那珂遺跡群に流入している
「傘下に収める」という表現は定義がなく不正確だが、弥生時代後期には比恵那珂遺跡群の首長と
畿内第X様式土器圏の協調関係が認められ、それがそのまま前方後円墳体制の構築まで維持されている

3世紀初頭までの卑弥呼の共立時に、この協調関係が存在したことは確実
746日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:57:47.92
>>740
>7個ずつ順番において行くことになり、簡単。

何度であるか角度を知る必要があるんだけど
そんな方法でどうやる気?
747日本@名無史さん
2019/03/29(金) 17:58:41.12
>>737
それ全部お前の想像じゃんwww
748日本@名無史さん
2019/03/29(金) 18:01:30.80
>>441
>>山越え道であっても、海岸べりの波打ち際道であっても、曲がってばかりになって、<

>基本海辺の道だし、全然曲がりくねったりしてないぞww<

類スレ主は、年が幾つか?は知らんが、
まだ、親知らずなどのような、「山が海に食い込んだ岩場海岸」を通る経験を、
していないな?。
ひょっとしたら、密林のような山越えも経験した事がないのかな?。
749日本@名無史さん
2019/03/29(金) 18:02:17.04
>>707
>筑紫の前方後円墳は王墓とはみなされていないからね。

この>>707は頭が悪いんだろうな
北部九州の伊都国、奴国の領域で、弥生終末期から古墳時代初期において
那珂八幡古墳より大きな墳丘墓は作られていない
つまり、那珂八幡古墳に葬られた比恵那珂遺跡群の首長より動員力のある首長は、
この地域には居なかった

そして、那珂八幡古墳が王墓ではなく、それ以下の動員力=権威・権力を持つ主張しか
居なかった地域に倭王が居ると想定するのは愚の骨頂でしかない
750日本@名無史さん
2019/03/29(金) 18:02:20.97
>>743
どうって、卑弥呼がまだ生きてるから墓は死後なだけだが?
それに那珂八幡がIbで箸墓が布留0古相だから僅差だ
「だいぶん新しい」という根拠がない
751日本@名無史さん
2019/03/29(金) 18:03:24.81
>>732
>なんで那珂八幡古墳が纒向と関係あると言い切れるの?

両古墳とも 古墳の構造や副葬品を見れば、一目で「忌部はん」 のお墓と判るのに、いつまでもwww   @阿波
752日本@名無史さん
2019/03/29(金) 18:05:07.76
>>707
>筑紫の方形周溝墓は祇園山など方墳に継承されていくし、

それは大嘘
祇園山古墳は、段築・葺き石という古墳時代の古墳の特徴を踏まえた方墳でしかない
方墳は、前方後円墳より格下の墳形で、地域の盟主墳ですらないww
753日本@名無史さん
2019/03/29(金) 18:07:03.76
>>442
今日も、「南→東」などの嘘付き騙しや、
証拠なしの出任せや、「オウム返しされ」るようなアホ投稿ばかりで、
大和説から有用な反論はないようだなあ。
754日本@名無史さん
2019/03/29(金) 18:08:49.40
>>745
>畿内第V様式土器が、比恵那珂遺跡群に流入している

それ、筑紫忌部が持ち込んでものだから。   @阿波
755日本@名無史さん
2019/03/29(金) 18:12:15.13
>>743
>で、その前方後円墳は那珂八幡の方が古いというのはどう説明する?

これが妄想

纏向石塚古墳
纏向矢塚古墳
纏向勝山古墳
東田大塚古墳
箸墓古墳

の順番と想定されていて、那珂八幡古墳が箸墓より早いのはほぼ確実だけれど、
纏向石塚古墳より遅いのはさらに確実

那珂八幡古墳は、纏向遺跡で纏向石塚古墳から作られ始めた前方後円墳という墳形が
伝えられることによって作られた畿内の墳墓祭祀様式に従う古墳
756日本@名無史さん
2019/03/29(金) 18:18:35.71
>>755
>纏向石塚古墳
纏向矢塚古墳
纏向勝山古墳
東田大塚古墳
箸墓古墳


それらの、古墳の構造や副葬品を見れば、一目で「忌部はん」 のお墓と判るのに、いつまでもwww   @阿波
757日本@名無史さん
2019/03/29(金) 18:18:42.15
>>443
>また適当なことを言い出しだぞww 『怡土志摩郡地理全誌』の
「民家の後ろにあるをクシフル山と云ひしを誤りて椚と云ふに至れり」は
もう諦めるのか?ww<

その文も、先に「クシフル山」という古い呼称があった、という事を証言しているではないか。
類スレ主は、全くの・・・・詐欺師だね。
そして、「筑紫=チクシ」は、「チ」が「オロチ」などの「チ」と同じような形容語とすれば、
「クシ」が本来の呼称であった、という可能性が十分にあるではないか。
758日本@名無史さん
2019/03/29(金) 18:22:04.71
>>752
アホ〜。
九州は、墓を大きくして誇る田舎者根性はないのだ。
奈良時代に近づいてからやっと墓を小さくし始める大和の何倍も前から、それを行ってきている。
大きけりゃいいという田舎者根性の産物が、前方後円墳なんだよ。
あはははは。
759日本@名無史さん
2019/03/29(金) 18:22:21.40
>>740
>天空の黄道の星座や星をを地面に投映するんだから、
>地面の円の円周に、その28個の星座を順に並べて行けばよく、

まったく分かってないじゃないかww
この部分、太陽の公転(当時の考え方、現実には地球の公転)の1太陽年、365.25日に対応するように
円周の長さが365.25尺の円を描いて、円周を尺を単位で測ることで二十八宿を置くんだよ

倍正南方,以正勾定之。即平地徑二十一步,周六十三步。
令其平矩以水正,則位徑一百二十一尺七寸五分。
「因而三之,為三百六十五尺、四分尺之一,以應周天三百六十五度、四分度之一。」

ザラコクは、周髀算経でも尺の長さは里歩系とは別だから長さが変わらないって言ってたよな?
その尺で円周が「三百六十五尺、四分尺之一」になる円が必要なんだよ

ザラコクのいう「直径5m位の円」ではどうにもならないだろ?ww
つまり、六尺=一歩は周髀算経でも間違いなく維持されている
ザラコクも以前から、周髀算経でも一里=300歩は認めているから、
結局、ザラコクが短里の根拠だと言い張る周髀算経でも「一里=1800尺」の関係は維持されているし
短里も短歩も短尺もない訳だ

これで完全に、周髀算経が短里の根拠にはならないことが確定したなww
760日本@名無史さん
2019/03/29(金) 18:22:39.62
>>755
だからあ、祭祀様式を統一していたという記録が何処に書いてあるんだよ?
倭伝どころか記紀にすら書いてないじゃないか。
761日本@名無史さん
2019/03/29(金) 18:23:48.36
>>744
>畿内説の反論が苦しすぎて笑えてくるなw

どこの反論が苦しいのか「具体的に指摘」してくれ

それをせずに、さも相手が間違っているような印象操作の書き込みだけをして
具体論に進むのから逃げ続けるのが九州説のやり口ww
762日本@名無史さん
2019/03/29(金) 18:25:49.36
>>747
>それ全部お前の想像

どこが想像なのか、「具体的に指摘」してくれ

それをせずに、さも相手が間違っているような印象操作の書き込みだけをして
具体論に進むのから逃げ続けるのが九州説のやり口ww
763日本@名無史さん
2019/03/29(金) 18:29:05.37
>>760
>倭伝どころか記紀にすら書いてないじゃないか。

なんで書いてある必要があるんだ?
理由は?
764日本@名無史さん
2019/03/29(金) 18:29:16.18
>>758

大和と比べると小さいだけで
筑紫は古墳時代前期の九州では大規模の100m弱の前方後円墳をたくさん造ってるから
765日本@名無史さん
2019/03/29(金) 18:30:35.95
>>760
>だからあ、祭祀様式を統一していたという記録が何処に書いてあるんだよ?

>>760はアタマ悪いだろう?

自分で(というと自分の書き込みじゃないというのが多いが)前方後円墳は、
北部九州の伝統的な墳形ではない、北部九州の王(首長)墓は方形集溝墓だって言ってるじゃないか

それが、どうしていきなり、北部九州最大国である奴国の首長墓・那珂八幡古墳に現れたか
どうやって説明するつもりだ?

畿内との協調によって、畿内と同じ墳墓形式を採用した、以外の説明があるなら、
「具体的に説明」してみてくれ

「畿内との協調によって、畿内と同じ墳墓形式を採用」することを、祭祀様式を統一と表現してるんだが、
言いたいことがあるなら「具体的に指摘」してくれ

意味のない一行書き捨てコメントはいらないぞw
766日本@名無史さん
2019/03/29(金) 18:30:41.14
>>745
X様式の拡散が単なる流行以上のものでないことは、すでに証明されていると思うがなあ。
九州にピンポイントで拡散したのじゃないし。
しかも、全方位に向けての拡散がX様式じゃな。
その点、3世紀中頃に博多に現れる庄内式は、まさにピンポイントの拡散。
そして、その庄内式技術が地元の職人によって再生産されて北部九州に拡散する。
3世紀中頃に庄内式甕を携えた連中が、突然博多に現れたというこだ。
なぜ、そんなことが起こったのか。
答えは、明白さ。
767日本@名無史さん
2019/03/29(金) 18:32:57.86
>>759
そしてこれは周髀算経が実測なんてしてやしない思弁本だって証拠でもある
円周率に3使っちゃってるからね
768日本@名無史さん
2019/03/29(金) 18:33:20.25
>>758
>九州は、墓を大きくして誇る田舎者根性はないのだ。

これが、根拠がないどころか大間違い

大墳丘墓のような、視覚的なモニュメントは、その本質からして物理的な大きさによる
権力の大きさの誇示だ

大きな墳丘墓が作れないというのは、大きな墳丘墓を作るだけの動員力≒国力がないことの証明でしかない
769日本@名無史さん
2019/03/29(金) 18:35:39.61
>>736
状況証拠だけ。
何に十分なの?
770日本@名無史さん
2019/03/29(金) 18:36:05.49
>>764
>大和と比べると小さいだけで
>筑紫は古墳時代前期の九州では大規模の100m弱の前方後円墳をたくさん造ってるから

つまり、大和と比べると小粒な小権力者、小さな地方首長が筑紫周辺の北部九州にはたくさん居た
1人で大きな範囲に動員をかけられるような、大首長は居なかったってことだ

そんな地域に倭王の存在を想定するのは愚の骨頂
771日本@名無史さん
2019/03/29(金) 18:36:57.81
>>749
前方後円墳絶対主義?
信仰のようなもの?
772日本@名無史さん
2019/03/29(金) 18:37:13.15
那珂八幡の周囲に方形周溝墓がたくさん造られるが
一番小さいのを那珂八幡の親分の墓とは誰も思わないからな
773日本@名無史さん
2019/03/29(金) 18:37:37.22
>>752
>方墳は、前方後円墳より格下の墳形で、地域の盟主墳ですらないww

根拠なし。
願望?
774日本@名無史さん
2019/03/29(金) 18:38:00.55
畿内妄想全開www
春だねえwww
775日本@名無史さん
2019/03/29(金) 18:38:08.66
>>769
ばか以外の人が信を置くのに十分
776日本@名無史さん
2019/03/29(金) 18:38:17.94
>>769
>何に十分なの?

大和と奴国が協調関係にあったことを示すのに、十分だってこと
単に流行なら、一括では入らず、器種ごとに好みのものが選択されると
いうようなことが起こるのが普通
777日本@名無史さん
2019/03/29(金) 18:40:08.41
>>771
いや、通説だ
778日本@名無史さん
2019/03/29(金) 18:44:11.21
>>773
>根拠なし。
>願望?

根拠なしだと思いたがるのが、九州説の願望だねぇww

>>772にも書いてくれているが、どこの古墳群でも、複数の墳形の大小さまざまな古墳で
古墳群は形成されている

そして、どこの地域のどの古墳群でも、その古墳群中の最大の盟主墳は
前方後円墳または前方後方墳の墳形を取る
その辺は広瀬和雄先生がよく研究しているから、調べて読んでごらん

前方後円墳体制は、墳形と墳丘サイズの二つによる階層化の体系なんだよ
これによって、権力の大小、地位の高低を視覚的に示すことが古墳造営の目的になっている
779日本@名無史さん
2019/03/29(金) 18:44:20.84
>>451
>根本的には、古墳時代の中心が近畿地方の大和から河内だということだよ
古墳時代には倭国の中心は畿内にある<

倭国は、唐会要倭国伝の「正北抵新羅」に拠って、北部九州であり、
大和はその倭國の「東征毛人五十五國」の中の一国であったんだから、
古墳時代の中心は北部九州であり、
「畿内」なんて存在もしない嘘つき騙し文言でもあるから、×。

>それがいつから始まったのか、という編年の問題が、邪馬台国論争の中核であり
それがAMS法他で、3世紀初頭には古墳時代が始まっていたというのが、確実になって
その時点で学問的には決着がついてる<

卑弥呼の墓は「冢」であって「前方後円墳」ではなく、
だから大和の石塚や箸墓は、
筑紫の那珂八幡よりも後の、3世紀末以後になってしまい、
AMSでも、50年〜100年古く出る事が判ってしまっており、
学問的に決着が付いている。
780日本@名無史さん
2019/03/29(金) 18:45:51.82
>>774
>畿内妄想全開

どこが妄想なのか、「具体的に指摘」して!

根拠なし、具体性なしの書き捨てコメントは、
意味のある反論一つできませんっていう意味にしかならないよw
781日本@名無史さん
2019/03/29(金) 18:47:27.61
>>779
>卑弥呼の墓は「冢」であって「前方後円墳」ではなく、

それ、全く根拠ないでしょ
前方後円墳は冢と呼ばれて何の問題もない


>学問的に決着が付いている。

そんなこと主張してる学者いないから
782日本@名無史さん
2019/03/29(金) 18:47:43.61
>>774
妄想全開っていうのは、>>779のザラコクの書き込みみたいなのを言うんだよ

>>774でもそれくらいは分かるだろ?ww
783日本@名無史さん
2019/03/29(金) 18:53:10.82
>>762
想像ではないという根拠を示せよ。
784日本@名無史さん
2019/03/29(金) 18:54:07.11
>>765
「畿内との協調」だという根拠がない。
畿内が猿真似してさらに大きくしただけかも知れない。
785日本@名無史さん
2019/03/29(金) 18:54:10.14
>>766
>X様式の拡散が

X様式の弥生土器は拡散していないよ。  勘違いはイカンぜよ。
拡散したのは薄型軽量土器(「東阿波型土器)だよ。   「忌部はん」 によってね。   @阿波
786日本@名無史さん
2019/03/29(金) 18:54:45.13
>>765
那珂八幡が首長だなんて、誰が言った?
根拠は?
787日本@名無史さん
2019/03/29(金) 18:55:05.34
>>783
じゃあお前が先に「想像」を定義しろ
788日本@名無史さん
2019/03/29(金) 18:55:42.07
>>768
>大墳丘墓のような、視覚的なモニュメントは、その本質からして物理的な大きさによる
>権力の大きさの誇示だ

この宗教的思い込みを捨てない限り、真実は見えてこないかもね。
789日本@名無史さん
2019/03/29(金) 18:57:01.96
>>780
妄想ではなく事実だと証明する責任はそちらにある。
790日本@名無史さん
2019/03/29(金) 18:58:02.81
>>786
>那珂八幡が首長だなんて、誰が言った?
>根拠は?

学者が言ってます
地域で最大級の古墳を首長の墳墓と呼びます
791日本@名無史さん
2019/03/29(金) 18:58:07.17
>>477
>この部分がきちんと訳せれば、里歩系と尺寸系は別とか、短歩だから直径5メートルでいいとか、
どれだけバカな台詞か分かるはずなんだよねww
倍正南方,以正勾定之。即平地徑二十一步,周六十三步。
令其平矩以水正,則位徑一百二十一尺七寸五分。
「因而三之,為三百六十五尺、四分尺之一,以應周天三百六十五度、四分度之一。」<

この「令其平矩以水正,則位徑一百二十一尺七寸五分」のような、
平地を造って、そこに「二つの同心円を描く」というようなヘンテコな事は、
周代の周髀算経が記載する筈がなく、
前漢代の周髀算経の収集編集者が、「倍正南方」の意味がよく理解出来なくて、
「始皇帝の1歩=6尺」に従った同心円を書かせてしまった、
と言っているんだよ。
792日本@名無史さん
2019/03/29(金) 18:58:41.33
>>776
お前の普通は世間の普通ではない。
それに福岡は各地の様々な文化を取り込んでいる。
畿内だけ特別ではないよ。
793日本@名無史さん
2019/03/29(金) 19:00:38.91
>>766
>X様式の拡散が

X様式の弥生土器は拡散していないよ。  勘違いはイカンぜよ。
拡散したのは薄型軽量土器(「東阿波型土器)だよ。   「忌部はん」 によってね。   @阿波
794日本@名無史さん
2019/03/29(金) 19:01:56.56
模倣製作してる供献土器は畿内の土器だけだよ
795日本@名無史さん
2019/03/29(金) 19:01:57.89
>>789
具体的反論のないことが
合理的な疑義をさし挟む余地のない推定であることの証拠
つまり事実認定が可能
796日本@名無史さん
2019/03/29(金) 19:04:49.52
>>792
>それに福岡は各地の様々な文化を取り込んでいる。

例えば?
具体的には何?
797日本@名無史さん
2019/03/29(金) 19:05:07.34
>>794
>模倣製作してる供献土器は畿内の土器だけだよ

供献土器(軽量薄型丸底土器)は倭国(阿波)の土器だけだよ    @阿波
798日本@名無史さん
2019/03/29(金) 19:10:51.17
サクラサク季節到来
799日本@名無史さん
2019/03/29(金) 19:11:43.05
サクラチル筑紫
800日本@名無史さん
2019/03/29(金) 19:16:36.21
>>791
>平地を造って、そこに「二つの同心円を描く」というようなヘンテコな事は、
>周代の周髀算経が記載する筈がなく、

もちろん周髀算経にザラコクが妄想したようなことは書いてない
円形に平地を造成して、そこに整地面の同心円を一つ書くと書かれている

ちなみに周髀算経なんて本は周代には存在しない
801日本@名無史さん
2019/03/29(金) 19:16:37.04
ゾンビランドサガ
802日本@名無史さん
2019/03/29(金) 19:22:57.30
>>783
>想像ではないという根拠を示せよ。

>>762で「どこが想像なのか、「具体的に指摘」してくれ 」って書かれてるだろ?

お前がどこが想像だと思うのか「具体的に指摘」してくれたら、それについて
一つ一つ具体的に根拠を示していくからさww
803日本@名無史さん
2019/03/29(金) 19:24:36.51
>>784
>畿内が猿真似してさらに大きくしただけかも知れない。

前方後円墳という墳形が、畿内の方が先なんだから、
猿真似したとしたら、九州の方だぞ?

猿真似でしかも小さいやつしか作れない場所に、
倭王の存在を想定するのは愚の骨頂だw
804日本@名無史さん
2019/03/29(金) 19:25:26.84
>>791
>前漢代の周髀算経の収集編集者が、「倍正南方」の意味がよく理解出来なくて、
>「始皇帝の1歩=6尺」に従った同心円を書かせてしまった、
>と言っているんだよ。

つまりザラコクは周髀算経の筆者は短里なんて知らない
と言っているんだよ。
805日本@名無史さん
2019/03/29(金) 19:27:06.61
>>786
>那珂八幡が首長だなんて、誰が言った?

那珂八幡古墳周辺で同時代に、那珂八萬古墳より大きな盟主墳とみなせる墳墓がない
比恵那珂遺跡群の首長が盟主墳以外の墳墓に葬られるとする根拠が「もしあるなら」
『具体的に論じて』みてくれ

期待してるよww
806日本@名無史さん
2019/03/29(金) 19:29:54.45
>>788
>この宗教的思い込みを捨てない限り、真実は見えてこないかもね。

宗教的な思い込みだと判断した「具体的な理由」を示してくれるかな?

洋の東西を問わず、視覚効果の大きな巨大モニュメントは、権力の大きさの誇示だというのが
まず第一に想定されることだし、古今東西で臣下により大きな墳墓の造営を許す王朝などは一つもないのだが?
807日本@名無史さん
2019/03/29(金) 19:31:18.37
>>789
>妄想ではなく事実だと証明する責任はそちらにある。

だから、どこがどう妄想なのか「具体的に指摘」してくれたら、
その指摘一つ一つに具体的に答えてあげるっていってるだろ?

バカですか?ww
808日本@名無史さん
2019/03/29(金) 19:33:02.69
>>791
周回遅れだと本当に恥ずかしいねぇ

すでに、>>759に結論まで書かれちゃってるのに、まだバカなことを書いてるww
809日本@名無史さん
2019/03/29(金) 20:06:32.39
ここは、火星人降臨論の鉄板、纒向説のスレです。
【骨 子】
・火星には宇宙で一番古い前方後円墳があった
・4世紀中葉には、足をそろえたタコを形どった前方後円墳の時代が開始した。
・火星人が纏向に出現した段階で、火星を中心に太陽系規模の政治連合が形成され始めていた。
・火星の陸上には、既にこの政治連合のロケット基地があった。
ゆえに、火星人の降臨があったのは畿内である。

 火星人論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

◆0【 要 旨 】  
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った火星の教えの指導者が降臨しており、それは各惑星の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つタコであったと考えられる。
その死亡時期は4世紀中葉とみられる。畿内に火星文化が急速に浸透する時期である。

 これらを火星の陸上の古墳と対照すると、箸中山古墳の被葬者がタコ型の生物であり、纒向がタコ型火星人の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の太陽系規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、4世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 火星人の惑星間活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が火星社会と二星間のロケット移動を開始した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の火星人の降臨地である。

 4世紀前半末に火星人はどこに降臨したであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。。。。
810日本@名無史さん
2019/03/29(金) 20:10:22.22
サクラと言えば桜井市
桜井市にはクラの付く地名が結構ある

サクラは田の神が降臨する木と言われているが、語源には諸説ある
木花咲耶姫との関係を説く説もあったりする
サク・ラなのかサ・クラなのか
811日本@名無史さん
2019/03/29(金) 20:18:08.16
またも論争に敗れた九州説が
今夜も荒らしに堕落するのだった
812日本@名無史さん
2019/03/29(金) 20:22:02.11
ここの畿内説は魏志倭人伝すら読んでないのか?
813日本@名無史さん
2019/03/29(金) 20:26:36.35
サは古語で耕作や神霊を意味すると言われている
サルタヒコ
サタ大神
などサのつく神さんもいる
サタ大神伝承には神産巣日に纏わる貝とか出てきたり
サルタヒコは界の神だったり
814日本@名無史さん
2019/03/29(金) 20:29:27.14
>>812
このように
脈絡もなくただ罵倒する九州説の蛮行は
敗者の腹いせだろうか
815日本@名無史さん
2019/03/29(金) 20:39:27.83
北朝鮮に操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代が始まる前までは倭人という民族が中国南部や九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
816日本@名無史さん
2019/03/29(金) 20:46:13.11
色々な視点から歴史を考えるのは面白い
817日本@名無史さん
2019/03/29(金) 20:48:27.19
さくらさくら
818日本@名無史さん
2019/03/29(金) 20:50:15.42
畿内説によると那珂八幡は首長墓?
バカだろ。
首長だという証拠を出せよ。
どこの誰なんだ?
819日本@名無史さん
2019/03/29(金) 20:53:55.07
一大卒の長官の墓だったりする
820日本@名無史さん
2019/03/29(金) 20:54:13.21
>>818って何考えてんだろ
ヤケクソかな
821日本@名無史さん
2019/03/29(金) 21:06:20.78
>>819
>一大卒の長官の墓だったりする

つまり、筑紫忌部の親分の墓だよ。   @阿波
822日本@名無史さん
2019/03/29(金) 21:15:27.51
畿内説ったら、ついこないだまで箸墓古墳には卑弥呼が眠っているにだーとか言ってた連中だからなwww
宗教法人やるならちゃんと届け出しとけよ!www
823陳寿90度回転さん
2019/03/29(金) 21:29:11.42
>>585
参考になります。
いずれにせよ、メカニズム自体は関係なくて、較正に使う標本とσが問題かと。

とは言え、縄文前期ならともかく、3cや4cで絶対年代の決定が出来ないほど、年輪標本って不足してましたかね?
824日本@名無史さん
2019/03/29(金) 21:41:05.54
年代測定方法というか、物理的原理や法則やらをそれなりに理解しなきゃな。
編年標本をいくら増やしたところで、結局は統計なんだし正確に年代を特定することは不可能。
というか、、、ナンセンス。
遠い星までの距離をメートル単位の精度で言い切ろうとしてるようなものだ。
825日本@名無史さん
2019/03/29(金) 21:41:57.16
>>793
東阿波型土器は布留式土器と一緒に出るから、古墳時代初頭頃からの阿波の土器製作技術土器。
弥生X様式土器は弥生後期の厚手の土器。
まったく別の技術による土器だね。
忌部さんに言っておいてチョ。
826日本@名無史さん
2019/03/29(金) 21:56:38.46
奈良の考古発見物体の年代測定方法を、主導的に宣伝する係員が、卑劣な偽造犯罪を実行した理由は、何だろうか、、、
827日本@名無史さん
2019/03/29(金) 21:59:50.96
>>825
>東阿波型土器は布留式土器と一緒に出るから

なにそれ?  ワハハハハ


>弥生X様式土器は弥生後期の厚手の土器。

厚手の土器? 庄内式は軽量薄型土器だよ。  厚手の弥生土器を持ち出してきてどうするつもり?  ワハハハハ   @阿波

忌部さんに言っておいてチョ。
828日本@名無史さん
2019/03/29(金) 22:21:19.38
>>818
>畿内説によると那珂八幡は首長墓?

お前さぁ、まともな日本人か?
首長って言葉の意味、分かってるか?

村長、町長、市長、県知事、邑長、国造、縣主、のどれでもよいが、
ある範囲の組織のトップを、まとめて首長って呼ぶんだよ

那珂八幡古墳は、奴国の中心・比恵那珂遺跡群周辺で弥生終末期から古墳時代草創期の
最大の墳墓、盟主墳だ

比恵那珂遺跡群の人で、那珂八幡古墳の被葬者より上位の人はいないことを示している
つまり那珂八幡古墳の被葬者が、当時の比恵那珂遺跡群の最上位者で、その人物を首長と呼ぶんだよ
829日本@名無史さん
2019/03/29(金) 22:25:38.50
奈良の考古発見物体の年代測定方法を、主導的に宣伝する係員が、卑劣な偽造犯罪を実行した理由は、利益への欲望の為だった可能性が高いな。。。
830日本@名無史さん
2019/03/29(金) 22:25:55.13
那珂八幡古墳
「福岡平野の首長墓の系譜では最古に属する。」福岡市文化財活用部

http://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/cultural_properties/detail/item_id:101553
831日本@名無史さん
2019/03/29(金) 22:27:17.76
830
832日本@名無史さん
2019/03/29(金) 22:29:39.48
>>828

その那珂八幡古墳は、朱や勾玉、三角縁神獣鏡などから、筑紫忌部はんのお墓だと分かる。   @阿波
833日本@名無史さん
2019/03/29(金) 22:32:08.79
>>829
奈良の考古発見物体の年代測定方法を、主導的に宣伝する係員が、卑劣な偽造犯罪を実行した理由は、利益への欲望の為だった可能性が高いので、奈良の考古発見物体の年代は、全て研究をやり直す必要性が、高まってきたのではないのかな、、、
834日本@名無史さん
2019/03/29(金) 22:34:40.64
>>478
>>ウイークボソンは質量があり、従って重量場を持っており、
アインシュタインの予言や確認観測によって、重力場と電磁場は、相互作用をする。<

>だーかーらー、場と場が相互作用するってデタラメを言う時点で、
物理学が分かってないんだから諦めろww<

類スレ主は変な男。
議論に負けると、文言や意味をすり替えて嘲笑して、議論に勝ったかのようなヘイトスピーチをする男。

質量を持っているものは、万有引力を以っているから、重力場を持っている。
その重力がが電磁場と相互作用をする。
そして、重力場は電磁場と相互作用をする。
835日本@名無史さん
2019/03/29(金) 22:36:48.47
>>480
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者って、
デタラメとチェリーピッキングと結論ありきのインチキ読みと
捏造だけじゃんw
836日本@名無史さん
2019/03/29(金) 22:38:44.85
議論に負けると、文言や意味をすり替えて嘲笑して、議論に勝ったかのようなヘイトスピーチをする男というのは、利益への欲望が高い、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人の3寸男では、ないのかな、、、
837日本@名無史さん
2019/03/29(金) 22:45:17.00
>>481
>これはある意味理解できるが
しかし倭人伝の末盧国→伊都国の方位を否定することだから
南が東でも良いということにある<

良くない。
・・・・アホ以外の普通の教育を受けた人類は、東西南北はほぼ間違えない。

>反論になってるかはどうかは知らんが、俺はそう思う
基本的に方位や距離は論争から除外すべきだと思う <

この大和説男も、・・・・アホ詐欺師。

>倭人伝に基ずく遺物が重要
@阿波が最近来ないが阿波説や出雲説も捨てがたい<

阿波説も出雲説も、「南≠東」などに拠って、×。

>ヤマト説は遺物の観点から除かれる倭種の別国<

大和説は、文献からも考古からからも、×。
838日本@名無史さん
2019/03/29(金) 22:49:26.51
>>483
>>質量が全く合わないよ?<

>E=mc^2  静止質量で考えるから、そういうマヌケなことを言い出すw <

原子核内の他の核子も同じように質量を持っているから、×。
839日本@名無史さん
2019/03/29(金) 22:51:45.37
>>487
〉地図は載せてないけど、行程の説明は何度もしている
再掲
丹波の上陸地点は、網野銚子山古墳のある網野町か、神明山古墳のある丹後町竹野の竹野川河口付近
地名からすると記紀に丹波竹野媛(開化天皇妃)があることから竹野が有力、地形的には離湖という潟湖がある網野かな、とも思う<

「南≠東」などに拠って、×。
840日本@名無史さん
2019/03/29(金) 22:53:03.07
天理市に対抗して、桜井市も宗教団体を立ち上げたらどうかな?
841日本@名無史さん
2019/03/29(金) 22:53:41.89
>>823
>とは言え、縄文前期ならともかく、3cや4cで絶対年代の決定が出来ないほど、
>年輪標本って不足してましたかね?

一本の木の年輪で現代までをカバーできるものはないから、多くの年輪標本のデータから、
重なる部分を統計的に探して、その重なる部分を頼りにデータをつなげていくのだけれど、
そのつなぎ方が正しくないのではないか、という疑念があるんだよ

そもそも古い木の年輪データは、古くなるほど試料数が少なくなるし、
試料数が少なくなれば重なる部分を決定するための統計処理の信頼度が低くなる

そして生データを収集した研究者が光谷拓実先生ただ一人しかいないから、
日本の年輪年代法はブラックボックスになってしまっている部分がある

私は心が汚れているから、光谷先生がご存命のうちはその修正ができないんじゃないかと
邪推しているところがある
842日本@名無史さん
2019/03/29(金) 22:54:25.48
>>824
>年代測定方法というか、物理的原理や法則やらをそれなりに理解しなきゃな。
>編年標本をいくら増やしたところで、結局は統計なんだし正確に年代を特定することは不可能。
>というか、、、ナンセンス。
>遠い星までの距離をメートル単位の精度で言い切ろうとしてるようなものだ。

>というか、、、ナンセンス。
>というか、、、ナンセンス。
>というか、、、ナンセンス。
843日本@名無史さん
2019/03/29(金) 22:56:09.42
天理教団を天理市が立ち上げたと思ってるバカがいるのか?
844日本@名無史さん
2019/03/29(金) 23:06:50.00
>>834
>そして、重力場は電磁場と相互作用をする。

場と場は相互作用しないんだって!
場は、そこで粒子にかかる力・相互作用によってのみ観測されるし定義される
そして、力・相互作用は、現在の標準理論では媒介粒子のやりとりによって働く

電磁気力を媒介するのがフォトン・光子で、
β崩壊を起こす弱い相互作用はウイークボソンに媒介される
強い力はグルーオン、重力はグラビトンによって働く

そして、これらの媒介粒子、グラビトン、ウイークボソン、フォトン、グルーオンは互いに
相互作用しない
つまり、場と場の相互作用はない

まあ、ザラコクにいくら説明しても理解しないことは分かってるんだがな
845日本@名無史さん
2019/03/29(金) 23:07:10.08
>>489
>>魏使が邪馬台国と数度交流を持つのに、常に末盧国経由で行くはずが無い<

>末盧国に上陸するのは松浦川沿いに佐賀平野に抜けるのでなければ合理性はない
その経路なら東南陸行五百里に合う<

その前に、「一回きり」説が×。
張政も詔書や黄幢を運んでいるから、安全最短の原則。

>伊都国に向かうなら末盧国に寄る理由がない <

安全最短の原則。

>末盧国には官名もないし、魏使の時には寄ってないとした方が筋が通る <

末盧國の官名がないのは、
魏の「率善校尉」という直接的な臣下にもなっていた、
(松浦水軍家の)都市牛利の国であったから。
846日本@名無史さん
2019/03/29(金) 23:10:38.24
>>491
>むしろ後漢の時の古い資料にあった記述の引用だろう
吉野ヶ里付近の米多郷が面土国なら話が綺麗に繋がる<

「面土國」情報は、後代史書に拠る書き換え情報になるから、
半分×価値情報であり、根拠には使えない。
847日本@名無史さん
2019/03/29(金) 23:13:32.80
>>495
>投馬国は出雲だよ<

「南≠東北」に拠って、×だよ。
848日本@名無史さん
2019/03/29(金) 23:15:15.02
纒向学という言葉の意味を、九州説はよく理解していないから、
「畿内説を唱える人がいなくなってみんな纒向学だ」とか言い出すんだよなww
849日本@名無史さん
2019/03/29(金) 23:19:09.29
つーか、苦しまぎれにウソついてるだけでは?
850日本@名無史さん
2019/03/29(金) 23:21:14.64
>>497
>>「女王国の東の倭種の国」で、邪馬台国所在地論争は決着済みだから、<

>また「渡海千餘里」を書かずにごまかしてるww
九州と本州の間はどうやっても千里にはならない <

「東渡海千里」をした後で、その場所から南へ三千里位行って、
足摺や沖の島付近の侏儒國へ陸行している事になるから、
宇佐〜国東半島から渡海して松山方面の上陸した可能性が高い。

>それに
女王國東渡海千餘里「皆」倭種であって、渡海の前もあとも、皆すべて倭種だ
と書いてあるだけ <

書いてないから、×。
851日本@名無史さん
2019/03/29(金) 23:26:21.44
>>506
>あれがあーだから、こういう事だろう。
 きっとそのはずだ。
 それが現実だ!
それが、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者。
852日本@名無史さん
2019/03/29(金) 23:29:57.66
>>507
>記紀では、近江は息長氏、丹波が丹波道主命の国でどちらも皇族に準じる扱い
出雲は皇族の母系の祖という扱いになっている
記紀では多くの豪族が皇別氏族とされていて、首長層が婚姻を通して親戚筋というか
同族意識を広く共有する社会だったと言えるのだろう<

大和で天皇が出来たのは、天智頃から後であるから、
それまでなは「皇族」ははなかったから、×。
853日本@名無史さん
2019/03/29(金) 23:32:47.24
>>842
連続句読点がキャラ設定を間違えたらしいな
854日本@名無史さん
2019/03/29(金) 23:47:26.80
南を東とする詐欺にもうみんなついていけない
855日本@名無史さん
2019/03/30(土) 00:21:24.91
北東にある国に着いたけれど「東南陸行」で正しいのだ
と言い張る詐欺に誰もついてきてないよ
856日本@名無史さん
2019/03/30(土) 00:49:41.21
畿内説って金貰って学者に踊らされてるんだろうかw
一般的に学者という者は総合的に一般人以下の思考能力しかない事にも気付こうねw
学者と呼べるのは本当にごくごく一部の人だけなんだから。
邪馬台国がどうのこうのと言ってる連中はいわゆる落ちこぼれ組だよ。
857日本@名無史さん
2019/03/30(土) 01:24:50.23
九州説 病気がどんどん酷くなる
858日本@名無史さん
2019/03/30(土) 01:32:17.75
>>856
邪馬台国のスレに書き込んでいるお前も落ちこぼれなわけだw
859日本@名無史さん
2019/03/30(土) 02:07:06.48
>>848
もう邪馬台国は諦めたのか?
860日本@名無史さん
2019/03/30(土) 04:58:54.71
>>859
九州説よ、発狂してるのか?
861日本@名無史さん
2019/03/30(土) 05:04:18.54
(邪馬台国 )
所在地については容易に結論は出ないが、古墳が成立する時期を3世紀とする研究が進む中で、「ヤマト」を中心とするヤマト政権に邪馬台国が直接つながる可能性が高くなった。
 邪馬台国の中心地とされる候補地の一つに、纏向遺跡がある。この遺跡は奈良盆地の東南、三輪山のふもとに位置し、大量の土器が出土し、大型建物跡も発見されている。
巨大な運河などの土木工事がおこなわれた大規模な集落であり、政治の中心的地域であったと考えられる。
この地には帆立貝型の独特な古墳が見られる。
これは前方後円墳に先行し、山陰地方の四隅突出型墳丘墓、吉備地方の楯築墳丘墓(岡山県倉敷市)、などの弥生時代後期の大型墳丘墓や、吉備地方中心に墳丘に立てられている特殊壺・特殊器台など、各地方の文化の特徴を継承している。
862日本@名無史さん
2019/03/30(土) 05:08:57.74
古墳が営まれた3世紀中頃から7世紀を古墳時代と呼び、これを古墳がもっとも大型化する中期を中心に、
 前期(3世紀中頃〜4世紀後半)、
 中期(4世紀後半〜5世紀末)、
 後期(6〜7世紀)
に区分している。

古墳時代前期の前半を出現期という。この時期の古墳の中で最大の規模をもつものは、奈良県の箸墓古墳である。


 弥生時代の後期には、すでに大きな墳丘をもつ墓が各地で営まれていたが、3世紀中頃から後半になると、より大規模な前方後円墳をはじめとする古墳が西日本を中心に出現した。
これら出現期の古墳は、多くは前方後円墳もしくは前方後方墳で、長い木棺を竪穴式石室に収めた埋葬施設や、多数の銅鏡をはじめとする呪術的な副葬品をもつなど、画一的な特徴をもっていた。
 それは古墳が各地の首長たちの共通の意識のもとにつくり出された墓制で、その背景には古墳の出現に先だって広域の政治連合が形成されていたことが考えられる。
出現期の古墳の中でもっとも規模が大きいものは奈良県(大和)にみられ、この時期大和地方を中心とする近畿中央部の勢力によって政治連合が形成されていた。
この大和地方を中心とする政治連合をヤマト政権という。
863日本@名無史さん
2019/03/30(土) 07:00:01.76

根拠なし コジツケ
864日本@名無史さん
2019/03/30(土) 07:17:08.66
>>863
通説にひとことも反論できない九州説の惨状
865日本@名無史さん
2019/03/30(土) 07:19:41.03
南→東の、トントン詐欺
東南→北東の、北トン詐欺
866日本@名無史さん
2019/03/30(土) 07:21:19.14
九州説はやはり
自分たちが世間一般常識から
いかに取り残されているかということを
しっかり認識して目を覚ますべきでしょうね
867日本@名無史さん
2019/03/30(土) 07:27:36.97
>>845
>安全最短の原則。

海上にせよ、陸上にせよ、近ければ安全というわけではない。
とかく近道には、あれこれワナが仕掛けてあるものさ
868日本@名無史さん
2019/03/30(土) 07:35:49.68
畿内説の宣伝係が作製した、テンプレートの全体が、論破されて破綻してしまったので、スレッドが寂れてしまったな。。。
869日本@名無史さん
2019/03/30(土) 07:46:40.19
破綻した畿内説を宣伝する係員のキナイコシが、連続句読点に過剰反応するのはなぜだろうか、、、

853日本@名無史さん2019/03/29(金) 23:32:47.24
>>842
連続句読点がキャラ設定を間違えたらしいな
870日本@名無史さん
2019/03/30(土) 07:47:54.84
>>869
連続句読点は、畿内説を宣伝するキナイコシを、完膚なきまで叩きのめしている、優れた考古学者が、インターネット上の投稿で、多用する癖なのではないのかな。。。
871日本@名無史さん
2019/03/30(土) 07:54:09.03
この意見の発表者は、畿内説を宣伝するキナイコシを、完膚なきまで叩きのめしている、優れた考古学者ではないのかな。。。

824日本@名無史さん2019/03/29(金) 21:41:05.54
年代測定方法というか、物理的原理や法則やらをそれなりに理解しなきゃな。
編年標本をいくら増やしたところで、結局は統計なんだし正確に年代を特定することは不可能。
というか、、、ナンセンス。
遠い星までの距離をメートル単位の精度で言い切ろうとしてるようなものだ。
872日本@名無史さん
2019/03/30(土) 07:55:51.40
>>508
>出雲の勢力圏についてだけど、
タケミナカタが諏訪に逃げ込んだことから、そのあたりまでは出雲の勢力圏だよね。
関東最古の大社である鷲宮は
アマテラスの子であり出雲に帰順した天穂日命が開いたものだとされているが、
その後に廃れたので、関東までの支配は維持できなかったと見える。<

ふーん。
873日本@名無史さん
2019/03/30(土) 07:56:12.15
大河内隆之とは、何者だろうか。。。
874日本@名無史さん
2019/03/30(土) 07:57:05.41
>>870
言ってて恥ずかしくないの?
875日本@名無史さん
2019/03/30(土) 07:59:45.32
邪馬台国畿内説を5ちゃんねるで宣伝するために、韓国政府が雇用した係員のキナイコシや3寸男が、真実を暴かれたので、焦っているな。。。

874日本@名無史さん2019/03/30(土) 07:57:05.41
>>870
言ってて恥ずかしくないの?
876日本@名無史さん
2019/03/30(土) 08:00:54.87
>>512
「南→東」などの嘘付き騙しの証拠は、自分からは全く言えず、
すぐに相手に「証拠は?」と言って、
尻尾をだす詐欺論法の大和説者。
877日本@名無史さん
2019/03/30(土) 08:01:21.30
大河内隆之とは、何者だろうか。。。
878日本@名無史さん
2019/03/30(土) 08:07:36.16
>>876
この九州説の言い草は
「自分の言ってることは証拠ありません」
と告白してるも同じで
みっともないな
879日本@名無史さん
2019/03/30(土) 08:08:28.88
>>513
>東だよ、東。 瀬戸内海を東へ舟で行くの。 千余里は魏晋里430m。 ちょうど430km。
地図のスケール当ててみたら、天理市あたりになる。
女王国から瀬戸内海を東へ舟で430km行ったら大和に着くのよ。
女王国は邪馬台国。<

「邪馬壹國女王之所都」は、不彌國の南だから×。
勿論、魏朝西晋朝里は、1里≒76.5m位だから、「430km」も×。

>邪馬台国の卑弥呼と大和の大祭祀者は同時期に別々の場所にいたということ。
これが正しい3世紀前半の日本の歴史。
本格的的誤読じゃ、結論がトンデモ方向に行ってしまうわなあ。<

「南≠東」だから、この男は「本格的な誤読曲解」であり、×。
880日本@名無史さん
2019/03/30(土) 08:09:30.03
大河内隆之とは、何者だろうか。。。
881日本@名無史さん
2019/03/30(土) 08:11:01.13
このように理由を言わず、My結論を言い張るだけ

それが九州説
882日本@名無史さん
2019/03/30(土) 08:13:45.01
邪馬台国畿内説を5ちゃんねるで宣伝するために、韓国政府が雇用した係員のキナイコシが、真実を暴かれたので、焦っているな。。。
883日本@名無史さん
2019/03/30(土) 08:14:17.14
>>514
>倭国にあった3世紀の各地の遺跡の中で、<

倭国≒女王國は、九州島付近であるから、×。

>広域交流の結節点で 最大の遺跡で 最大の墳丘墓があって そこで始まった祭祀が広域に受け入れられた
という遺跡があれば、そこが王に所在地だと判断するのが当然<

大和の広域交流や遺跡や最大墳丘墓は、3世紀末以後であり、
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の旧小国、の所産であるから、×。

>上記はすべて纒向遺跡に当てはまる<

「南≠東」などに拠って×。
884日本@名無史さん
2019/03/30(土) 08:15:18.46
畿内説の宣伝係が作製した、テンプレートの全体が、論破されて破綻してしまったので、スレッドが寂れてしまったな。。。
885日本@名無史さん
2019/03/30(土) 08:18:55.90
>>516
>AMS法のメカニズムは別にどうでもいい。議論の本質とは全く関係ない。
結局は標本で較正するんだから、標本と同じ年代のモノであれば、
メカニズムに関係なく同じ年代になる。
そして実際の年代とのズレはメカニズムではなく、測定法固有のバラツキσで決まる。<

AMSがどうでもよいんなら、始めから、
その結果を論拠にした大和説の年代論を説明しなければよい。
886日本@名無史さん
2019/03/30(土) 08:22:09.39
>>885
「AMS法のメカニズムは別にどうでもいい」
   ↓
「AMSがどうでもよいんなら」

九州説の捏造歪曲体質がまたモロ出し
887日本@名無史さん
2019/03/30(土) 08:25:22.55
邪馬台国畿内説を5ちゃんねるで宣伝するために、韓国政府が雇用した係員のキナイコシが、真実を暴かれたので、焦っているな。。。
888日本@名無史さん
2019/03/30(土) 08:25:34.78
>>518
>モノの移動から判明しているところの 瀬戸内ルートと北陸ルートと東海ルートが
交わってるという考古学的事実 <

九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の旧小国の一国であり、
九州倭国の「地方の市を監督する大倭」職の国の、考古学的実態。

>面積 <

何の面積なのか?、が言えないんでしょ?。

>王権の存在が<

九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の旧小国の一国の王。
889日本@名無史さん
2019/03/30(土) 08:28:52.60
奈良の考古発見物体の年代測定方法を、主導的に宣伝する係員が、卑劣な偽造犯罪を実行した理由は、利益への欲望の為だった可能性が高いので、奈良の考古発見物体の年代は、全て研究をやり直す必要性が、高まってきたのではないのかな、、、
890日本@名無史さん
2019/03/30(土) 08:29:15.48
>>888
理屈抜きで結論だけゴリ押しかよ
891日本@名無史さん
2019/03/30(土) 08:30:54.57
>>519
>で、東渡海千余里は、瀬戸内海を東へ千里=430kmほど渡ったと言う意味。
その渡ったところに大和があつたのよ<

「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」であるから、「女王國≠復有國皆倭種」という事。
勿論、大和は「南≠東」などに拠って、女王國nisurunoha×。
892日本@名無史さん
2019/03/30(土) 08:42:31.80
もう「南≠東」しか言えない九州説はEND
893日本@名無史さん
2019/03/30(土) 08:44:29.70
帯方郡から1万6千里、纒向はこの世の果ての更に先
894日本@名無史さん
2019/03/30(土) 08:45:59.23
>>527
>>近江説の中心たる伊勢遺跡が2世紀末頃には使われなくなって、
その直後に纒向遺跡の建設が始まっている <

>交流の結節点としての機能が纒向に移っている <

近江は、九州倭国の東征軍と、出雲系と越系との妥協の結節地。
纏向は、3世紀後半以後〜4世紀。

>>523
>庄内期初期の遺跡の広がりとしては小さな時期に、すでに倭国最大の墳丘墓が作られている <

纏向の墳丘墓は、3世紀末以後。

>庄内期の小さな集落で、大墳丘墓を作ることはできず、纒向遺跡が単体で存立する集落ではなく
広範囲からの動員の中心、つまり王権の所在地であることを示している <

纏向は、九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国。

集落跡が無いというのはただの戯れ言
検出が少ないのは竪穴式住居であり、纒向遺跡の多数の人口が集積していたのは
土器や木器等の遺物が大量に出土することから明白
895日本@名無史さん
2019/03/30(土) 08:48:05.07
言い張るだけで子供みたいだね
896日本@名無史さん
2019/03/30(土) 08:53:39.50
>>894
消し忘れもあるし
頭使わず機械的作業で
いつものセリフ書き込んでるだけだろ
ポーズだけ反論してる体裁を作って繕っても
九州説の惨敗ぶりを宣伝することになるだけで
なんの意味もないぞ
897日本@名無史さん
2019/03/30(土) 08:55:00.54
>>891
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」

進んだ文化を持つ中国魏の役人にとって
邪馬台国や倭国群には労をさいて倭人伝に記述してるのに
邪馬台国から東へ渡海した所にある国々(村々?)は
特筆されるものが全くない未開な集落レベルの文化だったから
簡略して短い数行で終りしたとしか思えない記述記録なんだけど
どうなんだろう?
898日本@名無史さん
2019/03/30(土) 08:56:47.62
>>528
>>支配は西から東へ拡大し、土器などの産物は王都である筑紫へ <

>3世紀時点で、吉備、出雲、丹波、大和より小さな墳丘墓しか作れない、<

墳丘墓は、須玖岡本や吉野ケ里や祇園山などの北部九州が先行していて、
吉備、出雲、丹波の墳丘墓は3世紀後半。
前方後円墳は、那珂八幡などが先行し、瀬戸内沿岸から近畿は、3世紀末以後。

>地域首長の成長から取り残された北部九州を倭王権の所在地と考える人は
歴史の流れを見ない「オストリッチ症候群(ダチョウの逃避)」の人だけ<

筑紫の先行が見えない男は、「南→東」や「東征毛人五十五國の隠蔽」などのような、
思想宗教に狂った・・・・大和説者ら、だけ。
899日本@名無史さん
2019/03/30(土) 09:03:35.28
>>898
めちゃくちゃ我流だな
しかも理由なしか
900日本@名無史さん
2019/03/30(土) 09:07:13.63
邪馬台国畿内説を5ちゃんねるで宣伝するために、韓国政府が雇用した係員が作製し、頭使わず機械的作業で貼り付けてきた、テンプレートの全体が、論破されて破綻し、邪馬台国畿内説の惨敗ぶりを宣伝することになったので、スレッドが寂れてしまったな。。。
901日本@名無史さん
2019/03/30(土) 09:09:44.52
帯方郡から1万6千里、サクラ散る纒向はこの世の果ての更に先
902日本@名無史さん
2019/03/30(土) 09:11:33.68
>>897
>特筆されるものが全くない未開な集落レベルの文化だったから
>簡略して短い数行で終りしたとしか思えない記述記録なんだけど
>どうなんだろう?

そもそも海を越えて本州には渡っていない。
九州までで卑弥呼に会えているし、本州に渡る意味がない。
ただ、倭(九州)より東にも土地があるのは、魏の時代に郡使が九州北部を訪れて初めてわかったことなので、魏志倭人伝に収録された。
903日本@名無史さん
2019/03/30(土) 09:12:15.76
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるので、そろそろ、次回のスレッドを作製した方が良いな。。。
904日本@名無史さん
2019/03/30(土) 09:12:46.55
キチガイ滅亡祈願埋め
905日本@名無史さん
2019/03/30(土) 09:13:36.34
キチガイ滅亡祈願埋め
906日本@名無史さん
2019/03/30(土) 09:13:56.81
キチガイ滅亡祈願埋め
907日本@名無史さん
2019/03/30(土) 09:14:14.74
キチガイ滅亡祈願埋め
908日本@名無史さん
2019/03/30(土) 09:14:58.38
キチガイ滅亡祈願埋め
909日本@名無史さん
2019/03/30(土) 09:20:31.47
帯方郡から1万6千里、サクラ散る纒向はこの世の果ての更に先
910◆UiepmfCeDJqf
2019/03/30(土) 09:49:57.02
新スレ立てました。
http://2chb.net/r/history/1553905332/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
911日本@名無史さん
2019/03/30(土) 09:51:14.60
キチガイ滅亡祈願埋め
912日本@名無史さん
2019/03/30(土) 10:03:09.34
>>529
何度論破されても、同じ「南→東」などの嘘付き騙しを貼り付け続ける
大和説ってアホじゃね?
913日本@名無史さん
2019/03/30(土) 10:05:20.87
>>532
「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソつき騙しがバレた、
敗者大和説がまた思考停止した
914日本@名無史さん
2019/03/30(土) 10:07:02.18
「南→東」の、トントン詐欺
915日本@名無史さん
2019/03/30(土) 10:16:50.74
>>550
>>纏向は葬儀場兼古墳造営基地でいいんでねーの<

>その場合、倭國最高の「葬儀祭祀&古墳」の場なんだから、<

3世紀末の、九州倭国の「東征毛人五十五國」の地方の「市」の小国であったの。

>倭王のための「葬儀祭祀&古墳」の地ということになり、
結局「王権の所在は纏向周辺」ということは動かない<

九州倭国の「東征毛人五十五國」の地方の「市」の小国であった、
という事は動かない。
916日本@名無史さん
2019/03/30(土) 10:26:47.67
>>561
>>いい加減な報告をしてバレれば、郡役人も魏使らも、首が危なくなるんだから、
測った、という確率が極めて高く、 「測っていない」という確率は、殆どない。<

>なのにあんたは郡役人や魏使らには測量はできないと言い張ってるんだよな<

言い張ってないなあ。
出発地であっても、途中であっても、
見えれば、三角測量が出きるが、見えなければ一寸千里の応用しか出来ないし、
歩ければ、記里車や歩測や日数測も可能だと言っている。
類スレ主は、今日も、
いい加減な投稿をしてる・・・・詐欺師だね。
917日本@名無史さん
2019/03/30(土) 10:41:48.09
九州は西服衆夷六十六国された小国ばかりだから倭国の覇権は畿内であった事は確実
918日本@名無史さん
2019/03/30(土) 10:43:09.97
>>916
>見えれば、三角測量が出きるが、見えなければ一寸千里の応用しか出来ないし、
>歩ければ、記里車や歩測や日数測も可能だと言っている。

なら、一寸千里の応用はできるんでしょ?
それなのに伊都国が末盧国の北東にあることを 彼らが知り得ないのは 一体なぜ?

またいい加減な投稿をしてる・・・・詐欺師だね。
919日本@名無史さん
2019/03/30(土) 10:44:25.01
九州の西には海しか無いから西には征服する国が無い
920日本@名無史さん
2019/03/30(土) 10:48:38.23
>>915
>九州倭国の「東征毛人五十五國」の地方の「市」の小国であった、
>という事は動かない。

中国史料で出てくる「毛人」は
「日本」の北東にいる異民族なのに
なんでスリ変えるんだ?
九州説は歪曲捏造ばかりだな
921日本@名無史さん
2019/03/30(土) 10:54:41.51
>>562
>>(近江の伊勢遺跡)その理由はわからないが、
少なくとも纒向がその後継だと考える根拠はない。<

>同じ機能を持つ場所が、近接した別の場所にリレーをするように現れた、という現実を前に
「機能を引き継ぐ新しい場所に移動した」と考えるのと
「理由が分からないけど引き継いだと考える必要はない」と考えるのと、
どちらが学問的かってことだ  ただの難癖でしかないなww <

伊勢遺跡に、一旦九州倭国の東征軍と出雲や越の妥協の祭祀的國が出来、
その後でまた新たな東征軍の援軍が入って来て、出雲系や越系はその支配下になってんだろう、
という事だ。
その新しい東征軍と大和に入った東征軍とが、同時期の仲間同士であったのか?は判らない。
922日本@名無史さん
2019/03/30(土) 10:57:06.69
>>919
そういうことを言うと、仲哀天皇みたいに天罰が当たるよ。
923日本@名無史さん
2019/03/30(土) 11:01:21.99
>>577
大和が嫌いなんじゃなくて、
「南→東」などのような嘘つき騙しの、
卑弥呼を大和の女王だとする・・・・バカ大和説者が嫌いなんだよw

でも、ここに書き込みに来るだとする大和説が・・・・バカしかいないから、
結局ここの九州説の人は、だいたい皆嫌いだな
924日本@名無史さん
2019/03/30(土) 11:06:44.01
>>923
ザラコクは自分が嫌いなのか
 
925日本@名無史さん
2019/03/30(土) 11:07:53.08
帯方郡から1万6千里、サクラ散る桜井纒向は この世の果ての更に先
926日本@名無史さん
2019/03/30(土) 11:09:23.34
>>922
あれ、普通に戦死じゃないの?
927日本@名無史さん
2019/03/30(土) 11:16:05.72
>>916
>言い張ってないなあ。
>出発地であっても、途中であっても、
>見えれば、三角測量が出きるが、

唐津港に着いたなら北東に可也山が見える
伊都国に着いたならさっき見えた半分以下の距離で北西に可也山が見える
彼らが唐津港からどっち方向にいるか知り得ないと言うなら
三角測量など出来なかった、しなかったってことだ

つまりあんたは郡役人や魏使らには測量はできないと言い張ってるんだよ
928日本@名無史さん
2019/03/30(土) 11:27:10.01
>>926
神功皇后と武内宿禰と3人で神託を聞いていた。
「西には国なんてないじゃないか」と神託に文句をつけたが、部屋から出てきたときには既に死んでいた。
929日本@名無史さん
2019/03/30(土) 11:29:58.86
>>58
>>またウソだな テンプレには会稽東治之東が指摘されてて
具体的な里数も書かれてる 九州説ウソ多すぎ <

何故、そのテンプレの該当部分の文を転写をしないんだい?。
簡単な事ではないか。
テンプレは長過ぎて誰も読まないんだよ。
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、このように、ズルが多過ぎ。
930日本@名無史さん
2019/03/30(土) 11:31:48.86
倭王武は東の異民族も西の衆も征服したと言上したんだよな
つまり畿内にいた倭の大王なんだよ
931日本@名無史さん
2019/03/30(土) 11:35:09.92
>>929
それ、どこもズルじゃないのでは?
932日本@名無史さん
2019/03/30(土) 11:35:11.39
>>929
読まないのはお前の勝手
読まずに指摘されてないと言い張るのはお前の嘘
つまりお前は身勝手で嘘つきだ
933日本@名無史さん
2019/03/30(土) 11:36:04.88
天皇が熊襲を討とうと筑紫の香椎宮に滞在していた時、皇后が神懸りした。
天皇が琴を弾き、武内宿禰が祭場で神託を求めた。
皇后に憑りついた神は「西の彼方に金銀のほか、眩いばかりの宝物がある国がある。その国を天皇に帰属させよう」と言った。
しかし天皇は「高い山に登っても国は見えない」と言い、偽りを言う神であるとして琴を弾くのを止めた。
すると神はひどく怒って「もはやこの国は汝の治める国ではない。一筋の道に行きなさい(死を意味することか)」と言ったので、
武内宿禰が「恐れ多いこと。天皇、そのまま琴を弾いてください」と言った。
天皇は再び弾き始めたが間もなくして琴の音が途絶えた。
火を指し向けて見ると天皇は崩御していた。
934日本@名無史さん
2019/03/30(土) 11:37:19.70
少なくとも仲哀天皇は筑紫香椎宮にいた九州倭国の大王
935日本@名無史さん
2019/03/30(土) 11:39:26.47
>>934


外から九州に攻めてきて伊都とかを降参させた人でしょ?
936日本@名無史さん
2019/03/30(土) 11:44:02.15
九州説はウソをつくのが仕事です
937日本@名無史さん
2019/03/30(土) 11:46:15.32
>>593
>筑紫には、3世紀の広域交流の拠点と推定される遺跡はない 以上
結論ありきのごり押しは意味ないって!
きちんと根拠を示して、論証を積み上げてもらわないと!<

弥生銀座や、西新町や、三雲など、
西日本全域や半島との「広域交流の拠点」がある。
938日本@名無史さん
2019/03/30(土) 11:50:09.50
2世紀の事をいわれても
939日本@名無史さん
2019/03/30(土) 11:52:14.51
>>595
>だから、渡海千里の先が本州だなんて戯言は通らないし、<

渡海千里の先は、は、結局侏儒國付近にまで行っているんだから、
本州というよりは、四国の西海岸地域。

>九州のみの倭國もありえない<

倭国≒女王國であるから、倭国はほぼ九州島付近であり、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」の倭種は、九州島付近ではない。
940日本@名無史さん
2019/03/30(土) 12:07:55.37
>>605
>本質的には、弥生終末期と古墳時代は連続していることを理解しているかどうか、なんだよね
九州説の人でも、畿内に大仙古墳とか作られている時代も九州倭國が列島を代表する中心で
倭の五王も九州筑紫の王とかいう古田史学はトンデモだって思うだろ?<

関係なし。
白村江で倭國と戦った唐は、
唐会要倭国伝で「正北抵新羅」として、倭国が北部九州にあった事を書き、
旧唐書も唐会要も新唐書も、大和の日本国が、
九州倭国の倭奴國から別れた別種の旧小国であった事を証言しているし、
宋書の倭国王武の上表文でも、
「自昔・・・東征毛人五十五國」があった事を証言している。

という事は、大和に言い伝えられた崇神も景行も仲哀も神功も応神も、
九州倭国の部将クラスであった訳で、
継体の反乱で、ようやく九州倭国の王家に参加出来た、という事を示しており、
白村江の後で、倭国を」併合吸収継承出来た、という事になる。
941日本@名無史さん
2019/03/30(土) 12:08:10.22
>>939
>「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」の倭種は、九州島付近ではない。

壱岐くらいの距離だというなら目の前なはずじゃないか
942日本@名無史さん
2019/03/30(土) 12:10:05.39
>>940
>白村江で倭國と戦った唐は、
>唐会要倭国伝で「正北抵新羅」として、倭国が北部九州にあった事を書き、

それかいたの唐じゃないぞ
943日本@名無史さん
2019/03/30(土) 12:12:07.33
>>940
>九州倭国の倭奴國から別れた別種の旧小国であった事を証言しているし、

そんなこと書いた史料はないぞ
九州説また捏造かよ
944日本@名無史さん
2019/03/30(土) 12:18:56.24
九州説は我流トンデモ読みで正史と違うアナザーストーリー偽史の創作ごっこをしてる現代日本人だよ
945日本@名無史さん
2019/03/30(土) 12:25:28.55
>>940
>唐会要倭国伝で「正北抵新羅」として、倭国が北部九州にあった事を書き、

倭は「北限大海」なんだから本州だよ
倭のはじっこにある一地方である九州から新羅に渡るのが「正北抵新羅」ルートなだけ
946日本@名無史さん
2019/03/30(土) 12:25:52.57
>>935
仲哀天皇の本拠地は山口県の穴門豊浦宮。
筑紫香椎宮に入るにあたり、筑紫岡田宮と伊都高祖宮の王族の承認を取り付けたと言う話なんだよ。
王家のシンボルである三種の神器を掲げるのは、神威を示すためだったのだろうね。
947日本@名無史さん
2019/03/30(土) 12:28:08.97
ロシアの中心は日本から遙か西方だけど日本の北の国と言えばロシアだから同じ様に倭国の中心は畿内であった事は疑う余地が無いな
948日本@名無史さん
2019/03/30(土) 12:32:19.88
帯方郡から1万6千里、
サクラ散る桜井纒向は この世の果ての更に先
949日本@名無史さん
2019/03/30(土) 12:41:16.49
旧唐書や唐会要の記述では「別種」あるいは「倭が日本と改名した」という両論併記なのに
トンデモ九州説がインチキなチェリーピッキングしてるだけ
実際は大唐帝国にケンカ売った天智政権との関係をぼやかした断片的記録を見て事情を知らない後世の人がちょっと混乱したに過ぎない
950日本@名無史さん
2019/03/30(土) 12:42:01.67
>>606
>筑紫の前方後円墳は王墓とはみなされていないからね。<

いや、前方後円墳の一貴山銚子塚は、どう見ても王墓であり、
だから、それより前の那珂八幡などの弥生銀やその周辺の前方後円墳も、
王や武将クラスの墓。
そして、問題は、前方後円墳は、阿毎氏系の王墓に多く、
卑弥呼や久留米以南の東海姫氏國系の王墓は、前方後円墳を余り採用していなかった事。
そして、阿毎氏系と思われる宮崎や大和では、筑紫の前方後円墳よりも大きな前方後円墳を造っており、
また阿毎氏系と思われる磐井は、
姫氏から王位を奪った後は、やはり前方後円墳の寿陵?を造っている。
951日本@名無史さん
2019/03/30(土) 12:43:41.71
>>946みたいに史料を勝手に改造して読み替えると
簡単に偽史の出来上がり一丁あがりだ
お安いことで九州説
952日本@名無史さん
2019/03/30(土) 12:46:08.42
>>950
それ、田舎の地方王様だよな
大王じゃない
もちろん倭王ではない
953日本@名無史さん
2019/03/30(土) 12:49:06.28
>>950
姫氏とか阿毎氏とか恣意的にネーミングしちゃって
そういうラノベ書いてなんか楽しいの?
954日本@名無史さん
2019/03/30(土) 12:51:01.56
>>611
>「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312 ・・・<

佐々木の論考は、読めば分かるように、
纏向の石塚の庄内1が3世紀末になる事が判らず、
那珂八幡地区の庄内の3世紀前半と比べれば、筑紫の方が纏向よりもはるかに早かった、
という事が判っていないアホ学者。
955日本@名無史さん
2019/03/30(土) 12:56:23.26
>天罰が当たるよ。

九州西部の人はを日本人を殺すことをポアという
956日本@名無史さん
2019/03/30(土) 12:56:37.82
>>621
>インカ帝国の実在を否定する邪馬台国九州説w<

何これ?。
インカ帝国の実在を否定する、
「南→東」や「邪馬台国」などの嘘付き騙しの、
・・・・アホ大和説者の投稿?。
957日本@名無史さん
2019/03/30(土) 12:58:59.47
>>626
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、
負けグセが染み付いてて
すぐ解答不能に陥っては荒らしに堕ちる。
みじめなもんだな。
958日本@名無史さん
2019/03/30(土) 13:03:59.37
>>954
>纏向の石塚の庄内1が3世紀末になる事が判らず、

いや理由もなしにそんなデタラメ言われても
誰にも判んないから
959日本@名無史さん
2019/03/30(土) 13:06:44.50
>>644
論破された「南→東」などの嘘付き騙しのの大和説が、
ごまかしに、
また人格誹謗のヘイトスピーチの嘘の連投を始めた
960日本@名無史さん
2019/03/30(土) 13:08:42.02
九州トンデモ説は人が誤解しそうなニアピンで薄汚くミスリード詐欺するのが普通
このスレの耄碌爺さん達みたいに小中学生でも呆れるアホ言ってくれると
かえって清々しいな
961日本@名無史さん
2019/03/30(土) 13:09:36.70
>>959
いや、実際あんた人格に問題あるし
962日本@名無史さん
2019/03/30(土) 13:11:48.16
>>955
>九州西部の人は日本人を殺すことをポアという

九州説の人を日本人はパアという
963日本@名無史さん
2019/03/30(土) 13:13:31.32
>>645
>つまり、古墳時代最初期の時点で、筑紫には王が居なかった
⇒ 邪馬台国は北部九州になかった で、終了だな<

いや、前方後円墳時代の初期は、
筑紫では那珂八幡付近の阿毎氏系の王や武将の墓に好まれたし、
大和の阿毎氏の前方後円墳や庄内の始めの石塚は、3世紀末であったし、
勿論邪馬台国なんても7なかった、
で大和説、終了。
964日本@名無史さん
2019/03/30(土) 13:18:09.66
>>956
>>インカ帝国の実在を否定する邪馬台国九州説w<

>何これ?。

広域での交流や統制に必要なのは文字の文化だから硯の出た九州に都があったって言い張った九州説のおばかさんが論破されたシーンだ
965日本@名無史さん
2019/03/30(土) 13:18:31.06
>>649
>その各地の並立制権も、他と没交渉で独立状態にあったわけではなく、
首長層の連絡・連合はあったし、その中で最大勢力が畿内で倭王が居たなら畿内に居たと
考えるのが当然、というだけの話だ<

白村江で倭國と戦った唐は、
唐会要倭国伝で「正北抵新羅」として、倭国が北部九州にあった事を証言し、
旧唐書も唐会要も新唐書も、
大和の日本国が、 九州倭国の倭奴國から別れた別種の旧小国であった、
という事を証言しているし、
宋書の倭国王武の上表文でも、
「自昔・・・東征毛人五十五國」があった事を証言している。
966日本@名無史さん
2019/03/30(土) 13:19:28.42
九州説の人は宮をサティアンと呼ぶので
改竄記紀では「伊都高祖宮」と書いて(伊都高祖サティアン)と読む
967日本@名無史さん
2019/03/30(土) 13:19:55.42
>>963
庄内の始めの石塚が3世紀末とか
言えば言うほど九州説諸君
肩身が狭くならない?
968日本@名無史さん
2019/03/30(土) 13:21:41.21
倭王の姓は阿毎というのは、隋書に書いてあったかな。
日本語では「あまの(天の)」何某という名前だから、それを中国人は姓と解釈していたのだね。
「日出処天子」から始まる国書を送ったのが天の多利思比孤(タリシヒコ)と記録されている。
なぜか日本では聖徳太子のことにされている。
969日本@名無史さん
2019/03/30(土) 13:21:49.84
肩身が狭くなるというのは日本人の感性
彼等は人種が違う
970日本@名無史さん
2019/03/30(土) 13:22:18.33
>>965
>旧唐書も唐会要も新唐書も、
>大和の日本国が、 九州倭国の倭奴國から別れた別種の旧小国であった、
>という事を証言しているし、

そんな証言、ザラコク脳内花畑にしか存在しないから
971日本@名無史さん
2019/03/30(土) 13:28:52.91
関川編年の欠陥は山ほどあるが、やっぱり一番どうしょもないのはココかな
古墳中期までなんてとても続いてない纏向遺跡の土器を5期に時代区分して
一期一律30年と決め打ちして古墳中期始めの年代から遡って計算して弥生末の年代を決めちゃったたとこ
弥生時代専門の研究者口あんぐり
972日本@名無史さん
2019/03/30(土) 13:34:38.89
>>968
>なぜか日本では聖徳太子のことにされている。

いや、聖徳太子のこととハッキリ書いてある文章を見て
宋の人が写し間違えただけ
973日本@名無史さん
2019/03/30(土) 13:34:44.05
>>650
>(九州北部)」つまり、小物がどんぐりの背比べをしていた地域なんだよ
>個人の考えですねww 小物が倭国の代表になる訳がないんだよ <

九州は、卑弥呼や壹與が共立されたのであり、
大和は、九州倭国の「東征毛人五十五國」のために、
在地の毛人や出雲系銅鐸祭祀部族が征服されたんだよ。
974日本@名無史さん
2019/03/30(土) 13:38:22.29
>>651
結局「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
自分の言いだした広域での交流や、
「庄内は大和が古い」という理由や、
九州倭国の「東征毛人五十五國」などが、
まったく説明できないのであった
975日本@名無史さん
2019/03/30(土) 13:41:50.51
>>965
>宋書の倭国王武の上表文でも、
>「自昔・・・東征毛人五十五國」があった事を証言している。

そして毛人は日本の「東界北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本伝)なわけ
つまり宋に遣使した倭国王武は畿内にいた日本の王なのだ
976日本@名無史さん
2019/03/30(土) 13:42:00.20
>>652
>広域で文字が共有されていて初めて有効になるんだよ
北部九州にあるから交流や統制の中心ということにはならない<

硯もない大和よりも、
文字がある九州の方が、中国や半島との国交や交易が可能であり、
列島の盟主であった事の証拠になる。
977日本@名無史さん
2019/03/30(土) 13:43:49.33
>>974
「庄内は大和が古い」という理由?
「東征毛人五十五國」?
説明されてるけど?
テンプレにあるだろ
978日本@名無史さん
2019/03/30(土) 13:46:16.62
>>659
>でも糸島あたりにお雇い外国人書記が住んでればすむ話しか出せないんだよね<

大和には、「お雇い外国人書記が住んでる」話なんても、当然ないんだよね。
979日本@名無史さん
2019/03/30(土) 13:46:46.70
>>976
なんで列島の盟主であった事の証拠になるの?

合理的な理由がなければ
味の素のビンを握りしめて
「これこそ九州が列島の盟主であったことの証拠」
と言ってるのと同じだぞ
980日本@名無史さん
2019/03/30(土) 13:49:04.83
>>973
>九州は、卑弥呼や壹與が共立されたのであり、


されたんなら大きな国になってなきゃ変だよな

なんでその後もずうっと小物がどんぐりの背比べをしてんの?
981日本@名無史さん
2019/03/30(土) 13:50:53.88
九州どんぐり卑弥呼
982日本@名無史さん
2019/03/30(土) 13:50:57.42
>>978
ないと何か問題でも?
983日本@名無史さん
2019/03/30(土) 13:52:36.33
>>981
ゆるキャラにして吉野ヶ里歴史公園の売店で売ればいい
売れたらアイデア料くれ
984日本@名無史さん
2019/03/30(土) 13:55:48.28
>>983
版権が九州説利権になるくらい応援しようず
985日本@名無史さん
2019/03/30(土) 13:56:47.34
>>672
>それだと、成都に行くのが北東と書いてあるのが、間違いになっちゃうんだよなww
そういう、最初のコースの方角でいいという言い訳をすると、成都行きの方角が間違い
成都行きの方角が正しい=目的地への方角が書いてあるとすると、安南行きの方角が間違い
どっちにしろ、旧唐書の大理周りの地理記事は、大陸史書が普通に方角を間違う実例なんだよww <

ならない。
大理から昆明に行く途中の部分が、
大理から成都に行く(揚子江の支流の最上流の)東方へ行く部分を使っている事になる話。
986日本@名無史さん
2019/03/30(土) 13:59:36.63
>>983

どんぐり卑弥呼のどんぐりやまたい国は既に復元されている

http://www.dongurimura.com/main/
987日本@名無史さん
2019/03/30(土) 14:00:22.37
>>676
>だから「南」は東の間違いだって説をいうのが
なんで嘘付き騙しなの? <

普通の教育を受けた人類は、「南を東だとは間違えない」、
という事は、人類の常識であり、確率が殆ど100%だから。
988日本@名無史さん
2019/03/30(土) 14:04:15.52
>>985のように
口先いいわけ言うだけで
絶対に証拠出さないのが九州説
989日本@名無史さん
2019/03/30(土) 14:05:37.83
>>987
じゃあ一体なんで唐津港から伊都国のある方角がわからないの?
990日本@名無史さん
2019/03/30(土) 14:29:59.42
九州説は言うっことが自己矛盾しまくりだな
991日本@名無史さん
2019/03/30(土) 14:32:52.12
>>681
>「纏向遺跡発掘調査概要報告書」2013. 5. 31
桜井市纒向学研究センター編
「出土遺物の年代観から土坑は庄内3式期新相頃のものと判断されるが、祭祀の時期が建物群の
廃絶の時期と近接すると考えられること、検出された3棟の建物のうち、中心的な建物とみられる建物
Dに近接して掘削されていること、土坑の北端が建物群南辺を画する柱列のラインと重複することなど
を勘案すると土坑は建物群の解体時に執り行われたマツリの痕跡と考えている。」<

何だ?、庄内3の土坑が「建物群の解体時に執り行われたマツリの痕跡」なら、
布留の箸墓の時には、纏向の掘立建築は、存在しておらず、無くなってしまった後だ、
という事になってしまうではないか。
また、石塚の庄内1とホケノの庄内3はどちらも3世紀末付近であり、
という事は、前方後円墳時代そのものが短期間であって、
纏向の掘立建物は、ほんの一時期で解体ししてしまったものであった事になるではないか。
992日本@名無史さん
2019/03/30(土) 14:39:05.58
特徴的な山の山頂を目安にして簡易的な三角測量でもしてれば
唐津港から三雲や平原のあるあたりへの方位が北東なのは判明するわな
それに周髀で測量とかもし実用化出来てたなら伊都国の方が北なのも判るだろう
なぜ魏使たちにはそれが分からなかったのかな?

答えは明らかだ
彼らは測量をしながら旅をしてなんかいない
調査探検隊じゃないのさ
993日本@名無史さん
2019/03/30(土) 14:42:22.40
>>991
>また、石塚の庄内1とホケノの庄内3はどちらも3世紀末付近であり、

また根拠ひとつ言わないで奇妙な結論を連呼する
それが九州説
994日本@名無史さん
2019/03/30(土) 14:45:31.15
>>991
論理を辿るとおかしな結論が出ちゃうってことは
前提になったザラコク説がおかしいってことですが
995日本@名無史さん
2019/03/30(土) 14:45:54.65
>>683
>・纏向遺跡の指導者・首長が、前方後円墳を作る範囲の盟主なのは、
 遺跡・遺物の発掘調査から明確に認められる<

大和の前方後円墳は、九州倭国の阿毎氏系の「東征毛芯五十五國」の将軍や武将らの墓であり、
3世紀末以後のもの。  

>・北部九州までが前方後円墳を作る共同体(支配ー被支配の関係ではない)に
 参加している <

大和の前方後円墳は、卑弥呼やその東海姫氏國の王らは、直接関係がなく、
倭國内の臣下の伊都国などの阿毎氏系の東征将軍や武将の墓。

>・魏使は北部九州を経て邪馬台国に向かい、卑弥呼に金印、詔書を渡している<

「南≠東」などに拠って、×。
996日本@名無史さん
2019/03/30(土) 14:49:13.02
>>691
また理由を言わずに決めつめる,
「南→東」などの嘘付き騙しのの大和説の傲慢さ
997日本@名無史さん
2019/03/30(土) 14:50:33.16
>>991
庄内3式期新相頃に建物の主人が死んで
布留0古相に箸墓が完成するんだから
庄内3と布留0の境目が250年頃っていう現在の学説がバッチリなんでは?
998日本@名無史さん
2019/03/30(土) 14:54:57.21
言い張るだけのウソまみれ九州説は矛盾だらけになってて末期症状だな
999日本@名無史さん
2019/03/30(土) 14:55:01.74
>>996
畿内説はいつも理由を述べて合理的結論を出してますが?
1000日本@名無史さん
2019/03/30(土) 14:56:30.98
>>700
>問題なのは、それが起こったのが3世紀のいつなのかという点。
2世紀末から3世紀初頭には、大和の政権が博多を傘下に収めていたのか、それともそれは3世紀中頃に起こったのかということ。
3世紀初頭には、それはまだ起こっていないというのが、歴史の真実だな<

「南≠東」などに拠って、卑弥呼は(大和ではなく)九州の女王であったのであり、
大和の前方後円墳は、卑弥呼の冢や西晋武帝の天円地方の後だから、3世紀末であり、
九州倭国の東征将軍や武将らの墓であった、
というのが歴史の実態であり、真相だろうな。
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