11 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 01:43:12.77
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://2chb.net/r/history/1556557045/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 21 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 01:45:23.42
◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
31 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 01:46:38.11
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
41 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 01:46:59.13
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
51 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 01:47:23.27
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
61 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 01:47:47.35
◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
71 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 01:48:16.06
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
81 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 01:48:35.21
◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
91 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 01:48:58.71
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
101 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 01:49:45.50
◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
111 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 01:50:08.77
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 121 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 01:50:36.82
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。
131 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 01:51:02.08
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※
)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,57も参照)
(本項 続く)
141 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 01:51:24.73
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
151 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 01:52:01.71
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
161 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 01:52:56.23
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
171 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 01:53:19.07
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
181 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 01:53:39.91
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。
191 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 01:54:01.34
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
201 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 01:54:23.12
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
211 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 01:54:44.88
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
221 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 01:55:08.78
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
231 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 01:56:10.10
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中国では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 241 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 01:56:33.02
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代)
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) 251 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 01:57:04.92
(承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
261 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 01:57:30.79
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
271 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 01:57:52.46
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。
281 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 01:58:14.52
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
291 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 01:58:37.52
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 301 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 01:59:11.48
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
311 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 01:59:34.27
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
321 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 01:59:55.06
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
331 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 02:00:17.87
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
341 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 02:00:53.75
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
351 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 02:01:21.49
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 361 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 02:01:42.67
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
371 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 02:02:11.15
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
381 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 02:02:32.71
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
391 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 02:02:51.78
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
401 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 02:03:11.40
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
411 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 02:03:33.09
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
421 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 02:03:58.35
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
431 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 02:04:17.13
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
441 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 02:04:40.61
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
451 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 02:05:02.94
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
461 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 02:05:29.78
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定
471 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 02:05:50.52
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 481 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 02:06:11.65
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
491 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 02:06:32.48
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上)
501 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 02:06:52.61
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
511 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 02:07:14.42
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
521 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 02:07:36.85
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
531 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 02:07:56.27
(承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
541 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 02:08:19.33
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 551 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 02:08:40.42
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半と考えられる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
561 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 02:09:06.89
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀)
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。 571 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 02:09:34.60
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。 581 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 02:09:57.88
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
591 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 02:10:24.84
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。
601 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 02:10:45.16
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
611 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 02:11:13.93
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
621 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 02:11:34.80
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。
631 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 02:11:58.91
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。
641 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 02:12:23.49
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。 651 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 02:12:49.22
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰) 661 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 02:13:31.10
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値を示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
671 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/03(金) 02:14:12.52
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 なし
68日本@名無史さん2019/05/03(金) 03:44:33.09
3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
69日本@名無史さん2019/05/03(金) 05:59:33.09
3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
70日本@名無史さん2019/05/03(金) 06:56:19.69
邪馬台国はヤマト国、現代の奈良県です
他の畿内は邪馬台国ではありません
それぞれの地域にそれぞれの歴史があるんです
他の地域の歴史を抹殺することは、人間として一番してはいけないことです
71日本@名無史さん2019/05/03(金) 08:30:53.28
このスレッドに、嘘だらけのテンプレートを、貼り付けている、3つの独立の根拠があれば、そこが邪馬台国だという、自称ベイジアンの発表した意見のどこがおかしいか発表します。。。
真実のロシアのルーレットの思考の実験を読めば、普通の頭の者なら、理解できます。。。
架空の世界に、12丁の、色の違う、4発発射できる、回転式の架空の拳銃を使ってルーレットをする架空の会場が、開場しました、、
赤の拳銃、緑の拳銃、青の拳銃、そして、その他の9色の拳銃が用意され、どちらが運が良いか決定しようとしている、架空の奥山氏と、架空の類奥山氏が、入場しました、、
緑と青、そして、その他の赤以外の9色の架空の拳銃の専用の弾は、的を死体にはしないで、本体と同じ色をつける、絵の具の弾です、
赤の架空の拳銃は、的を死体にする専用の弾を、発射します、、
ルールがありますが、不公平です、、
架空の奥山氏は、どの色の拳銃を使用するときにも、空にしたあと弾を3発込めて、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
架空の類奥山氏は、奥山氏の頭に色が付かなかった時は、その色の拳銃を使用するときには、弾を4発込めて、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
架空の類奥山氏は、架空の奥山氏の頭に色が付いた時は、空にしたあと、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
拳銃は、奥山氏から初めて互いに交互に、緑、青、その他の赤以外の9色、最後に赤と撃ちます。
最後に生きている方には、架空の睡眠銃で睡眠弾が発射されます。。
架空の生物にはクマモンという着ぐるみを、死体には、、巻きぴょん、、という着ぐるみを装着させます。。。
拳銃の数を知らない、奈良の小汚い自称考古学者が出現し、巻きぴょんの中身を調べました。。。
頭部が、緑と青と赤のものが作製されていたら、それが奥山氏の確率は、ベジタリアンとベジタリアンでは無い者では、それぞれ、どのような、計算結果になるでしょうか、、、
72日本@名無史さん2019/05/03(金) 09:48:10.24
>>978
>>そして「冢≠前方後円墳」である。<
>という根拠は? <
孔明もはっきり「冢≠墳」を使った遺言をしているから。
>ほらね 「根拠を示さずに決めつけ」する九州説は 妄想<
ほらね、「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、
相手の返事も待たずに同じ投稿の中で、すぐさま、
「根拠を示さずに決めつけ」妄想する、と断定誹謗して、
世間の人々を騙そう、とする!。
こんな詐欺師に、普通の国民は騙されないんでしょうが、
世間には権力や詐欺やヘイトスピーチに騙されて興奮しや易い人もおられますから、
心配ですね。 73日本@名無史さん2019/05/03(金) 09:52:03.96
>>980
その心は・・、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説が出すような証拠や根拠なら
妄想認定は当然なんだが・・、
こんないみでしょうねえ、、、
「嘘つき騙しで、人間ではない」大和説の言う根拠は、根拠ではないな 74日本@名無史さん2019/05/03(金) 09:53:06.27
>>72
>孔明もはっきり「冢≠墳」を使った遺言をしているから。
「冢≠墳」を使ったという証拠は?
ほらね 「根拠を示さずに決めつけ」する九州説は 妄想 75日本@名無史さん2019/05/03(金) 09:54:46.01
>>985
その「南→東」などの嘘付き騙しの珍説にも
大和説は根拠がないのだろう? 76日本@名無史さん2019/05/03(金) 09:55:16.48
>>73
「嘘つき騙しで、人間ではない」大和説の言う根拠は、根拠ではないな
「嘘つき騙しで、人間ではない」という証拠は?
ほらね 「根拠を示さずに決めつけ」する九州説は中傷ばかり 77日本@名無史さん2019/05/03(金) 09:56:34.37
出雲伝承では邪馬台国は九州なんだから九州だろ
出雲伝承の信憑性は知らんがやたら欠史八代について詳しく書いてるよね
78日本@名無史さん2019/05/03(金) 09:58:27.95
>>987
>>大和の大型前方後円墳は、全部「冢」ではないから、×だし、<
>ほら、また根拠もなく言い張っている<
魏使らは当然孔明の遺言を知っているから、「冢≠墳」である事も知っている。
そして「南≠東」でもあるんだから、大和説は妄想なんだ。 79日本@名無史さん2019/05/03(金) 09:59:49.35
>>991
苦境に陥った九州説がオウム返しに逃避し始めたぞ 80日本@名無史さん2019/05/03(金) 10:02:33.92
>>79が
また途中で投稿ボタンを押した事になったようだから、訂正
「南≠東」や「冢≠墳」などで、
苦境に陥った大和説が、オウム返しに逃避し始めたぞ。 81日本@名無史さん2019/05/03(金) 10:08:26.97
>>78
>魏使らは当然孔明の遺言を知っているから、「冢≠墳」である事も知っている。
ほら、また根拠もなく言い張っている
だから九州説は妄想なの 82日本@名無史さん2019/05/03(金) 10:11:33.99
>>994
>古墳が営まれた3世紀中頃から7世紀を古墳時代と呼び、これを古墳がもっとも大型化する中期を中心に、
前期(3世紀中頃〜4世紀後半)、<
筑紫の卑弥呼の冢は3世紀中頃であるが、大和の石塚の前方後円墳は3世紀末なので、×。
>これら出現期の古墳は、多くは前方後円墳もしくは前方後方墳で、
長い木棺を竪穴式石室に収めた埋葬施設や、<
大和の竪穴式石室は4世紀以後であるので、×。
>多数の銅鏡をはじめとする呪術的な副葬品をもつなど、画一的な特徴をもっていた。<
銅鏡の副葬は3世紀末以後のホケノが最初だから、×。
>それは古墳が各地の首長たちの共通の意識のもとにつくり出された墓制で、
その背景には古墳の出現に先だって広域の政治連合が形成されていたことが考えられる。<
九州倭国の「東征毛人五十五國」があった事が原因だから、×。 83日本@名無史さん2019/05/03(金) 10:11:44.06
>>77
>出雲伝承では邪馬台国は九州なんだから九州だろ
出雲伝承のどこに邪馬台国が出てくるの?
いつも「根拠を示さずに決めつけ」をする
だから九州説は妄想と言われる 84日本@名無史さん2019/05/03(金) 10:14:03.74
>>996
>弥生時代の終わりころから、日本列島各地に有力な首長の墓として、様々な形の墳丘をもった墳墓がつくられるようになった。
そうした各地の墳墓がもついくつかの要素を総合して、3世紀なかごろ、奈良盆地に大きな墳丘をもつ前方後円墳が出現した。
その規模や副葬品から判断すると、弥生時代の首長とは比べものにならないほど強力な力を持つ支配者が存在したことがわかる。
箸墓古墳をはじめとする初期の前方後円墳が、奈良盆地に集中することは、これらの被葬者と初期ヤマト政権の関係が深いことを示唆している。<
九州倭国の「東征毛人五十五國」があった事が原因であるから、×。 85日本@名無史さん2019/05/03(金) 10:20:07.05
>>998
>独立だからかけるんだよ 確率計算の基本 サイコロ1個である目が出る確率が1/6、
サイコロ2個である同じ目が出る確率は、2個のサイコロの出目が「独立」だから
(1/6)^2で計算するんだろ?
このレベルで反論したつもりになってるんだから、九州説は無能<
「南≠東」が99.9%成立すりから、大和説の個々の根拠の確率も、
(75%でもサイコロの6分の1でみなく)0.1%以下であり、
そんな根拠を3個集めたって0.3%以下にしかならず、
大和説は×。 86日本@名無史さん2019/05/03(金) 10:20:50.56
ザラコクは西服衆夷を無視してるから説得力無いな
87日本@名無史さん2019/05/03(金) 10:24:18.48
>>1000
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しをしたり、
「根拠を示される前に、決めつけヘイトスピーチ誹謗」するのを
・・・・詐欺師の妄想と言います。
また大和説惨敗で終了。 88日本@名無史さん2019/05/03(金) 10:29:01.87
>>78
>魏使らは当然孔明の遺言を知っているから、「冢≠墳」である事も知っている。
まず、孔明の遺言は「冢≠墳」などとは言っていない
つ>>63
FAQ84
「諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て
墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば
「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。 」
次に、孔明の没年が234年、蜀の滅亡が263年だ
239年、247年の遣使に対する答礼使が、敵対する他国の要人の遺詔を
「当然知っている」と考える理由がない
孔明の遺言が三国志にあるのは、蜀に滅亡後その蜀漢の記録が西晋に接収されたからだ
接収後でも中央の史官や歴史家以外が知る機会はない 89日本@名無史さん2019/05/03(金) 10:30:52.97
980日本@名無史さん2019/05/03(金) 09:02:46.65
>九州説の言う根拠は根拠ではないな
ま、いいでしょう
BS11 も九州説に舵を切るようだし、令和と共に流れは大きく変わるでしょう。
90日本@名無史さん2019/05/03(金) 10:32:54.67
天皇家の歴史書であるところの記紀に邪馬台国出てこない
それが天皇家と邪馬台国関係ない証拠じゃん?
呉あたりの人が荊蛮の地に流れ着いた阿蘇の麓で国を築いたのが
つまり邪馬台国なんだろ?
別に小国が分立してたことを否定する人はいないんだろうし
中国から金印をもらって冊封されるのを喜ぶ人もいないんだから
それでいいんじゃねーの?
天皇家の氏が姫氏じゃ、困るだろう??
91日本@名無史さん2019/05/03(金) 10:34:03.11
年表
西暦57年 金印「漢委奴国王」を授かり、初代・神武天皇が誕生した。
107年 第6代・孝安天皇(倭国王帥升等)が後漢に朝貢した。
177年 第10代・崇神天皇が即位した。
179年 奈良県の三輪山西麓の瑞籬宮に都を移した。
181年 ニュージーランドのタウポ大噴火
181年 崇神5年、疾病の流行。『崇神紀』によると「倭国の人口の半分が死んだ」
181年 『後漢書』によると「空が黄色くなり太陽が覆われた。」 「6月に雹が降った。大きさは鳥の卵ほどもあった。」
182年 『後漢書』によると「井戸の中が凍ってしまった」異常気象を示す記述は2年続く
181〜184年 倭国大乱
183年 モモソ姫の助言で大田田根子に大物主神を祀らせたら五穀豊穣となり疾病が治まった。
184年 疾病などの影響で崇神天皇が権威を失った。倭国を救ったスーパーヒーローのモモソ姫が女王・卑弥呼になった。
184年 黄巾の乱が勃発し、漢が衰退した。漢から授かった金印の権威消失。
198年(戊寅年) 崇神天皇が崩御した。
199年 第12代・垂仁天皇が即位した(女王・卑弥呼を補佐する役割)
202年 纒向珠城宮(纒向遺跡)に都を移した。
※『魏志倭人伝』によると官のトップは伊支馬(垂仁天皇の本名は伊久米),次席は弥馬升(垂仁天皇后の本名は日葉酢)
237年 垂仁天皇が崩御した。
238年 第12代・景行天皇が即位した。(女王・卑弥呼を補佐する役割)
238年 難升米と都市牛利が魏に朝貢した。卑弥呼が「親魏倭王」の金印を授かった。
248年 『三国志』によると女王・卑弥呼がついに亡くなった。
264年 景行27年、景行天皇の息子ヤマトタケルが熊襲討伐に成功。
266年 台与が晋に朝貢した。
※約100年の空白期間
※卑弥呼と台与を日本の歴史から消す代わりに架空の天皇である第13代天皇と第14代天皇を創作し空白期間を埋めた。
390年 第15代・応神天皇が即位した。
92日本@名無史さん2019/05/03(金) 10:34:56.88
邪馬台国じゃなく、邪馬壱国だとすると音的にどんな感じの地名だろうか
93日本@名無史さん2019/05/03(金) 10:36:20.38
>>68
>3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、
結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって
相互に因果関係がないと立証できるなら、
その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。<
大和説の場合、始めから「南→東」などの史料事実の否定曲解という、
「確率が0.1%以下位」の嘘つき騙しの上での挙証や論理であるから、
「75%の確率の独立な根拠」を選んだ、と幾ら叫んでも、
個々の確率は0.1%以下でしかなく、
それを3つ提示しても0.3%位以下にしかならず、
つまり×。 94日本@名無史さん2019/05/03(金) 10:36:53.68
95日本@名無史さん2019/05/03(金) 10:39:46.60
>>86
>ザラコクは西服衆夷を無視してるから説得力無いな
それだけじゃなくて、隋書に「裴清」、日本書紀に「裴世清」と同一の固有名詞があり、
隋への遣使が大和朝廷によるものなのが間違いないのに、
唐の太宗李世民の「世」の避諱も知らずに、「裴清」と「裴世清」は別人って
いう見苦しい戯れ言を言う爺だから、何もかもデタラメだよ 96日本@名無史さん2019/05/03(金) 10:40:57.43
天皇系には刺青する習慣だってないんじゃないの??
97日本@名無史さん2019/05/03(金) 10:41:39.78
天皇家のみならず、畿内の刺青する伝統ってのはどうなってんの??
そういう痕跡はあるの?
98日本@名無史さん2019/05/03(金) 10:42:45.15
邪馬台国の人は自分らで太伯の子孫だといってんだろう?
99日本@名無史さん2019/05/03(金) 10:43:55.32
例えば記紀に刺青について何か出てくるか?
100日本@名無史さん2019/05/03(金) 10:45:35.98
>>93
北部九州から水行30日の位置にあるので
邪馬台国が北部九州の可能性はゼロだよね 101日本@名無史さん2019/05/03(金) 10:46:24.30
>>74
>>孔明もはっきり「冢≠墳」を使った遺言をしているから。<
>「冢≠墳」を使ったという証拠は?、
孔明の遺言の文。
ほらね 「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・詐欺師の大和説者は、
相手の返事を待たずに、即座に、
「根拠を示さずに決めつけ」する九州説は 妄想
というヘイトスピーチを書く・・・・詐欺師。 102日本@名無史さん2019/05/03(金) 10:47:48.49
>>91
卑弥呼が金印もらう直前に垂仁天皇が亡くなってるから
垂仁天皇の死によって卑弥呼の独裁になったんだろうな 103日本@名無史さん2019/05/03(金) 10:50:17.00
>>88
孔明の墓もそうであったが、
ここは孔明の墓に限るものでなく、薄葬令及び墳と塚についてのこと
なお、「塚は高墳也」という如く、
墓の全長に対する盛土の高さの比が小なるものを「墳」といいく、全長に対する高さの比率が数倍に及ぶ背高のものを「塚」と呼んで区別した。
則ち一見して高さが格別に高い墳のことである。
秦の始皇帝塚はあたかも富士山の如く、見上げるような姿の高墳である。 104日本@名無史さん2019/05/03(金) 10:50:29.86
>>101
北部九州から水行30日の位置にあるので
邪馬台国が北部九州の可能性はゼロだよね。 105日本@名無史さん2019/05/03(金) 10:50:45.12
>>76
ほらね、相手の返事も待たずに、
「根拠を示さずに決めつけ」する、というヘイトスピーチをし、
「南→東」などの嘘付き騙しの対しては返事もしない大和説は、
・・・・詐欺の中傷ばかり 106日本@名無史さん2019/05/03(金) 10:50:49.72
>>92
>邪馬壱国だとすると音的にどんな感じの地名
邪馬壹の壹は、最後に母音のつかない「it」の音(itiではない)で、
基本的に音節が母音で終わる日本語の音訳として不自然
また「馬」が母音で終わる開音節で次に「壹」の「i」が来ると母音が連続することになるが
上代日本語では、母音の連続、二重母音はなかったとされており、その点でも不自然
もちろん、異国の人の聞き取りによる音訳だから、どこまで正確かは分からないが、
邪馬壹という音は上代日本語の音としては極めて不自然で、邪馬壹の方が誤記とする方が
妥当だ 107日本@名無史さん2019/05/03(金) 10:52:17.20
一番偉い卑弥呼の箸墓を
四段築成にしちゃったから
それより高さのある墓を作れなくなって
日本の古墳って高さはないよね
108日本@名無史さん2019/05/03(金) 10:52:39.32
>>105
北部九州から水行30日の位置にあるので
邪馬台国が北部九州の可能性はゼロだよ 109日本@名無史さん2019/05/03(金) 10:53:19.00
>>101
>孔明の遺言の文。
そんな寝言を言っているのはザラコクだけだよww
つ >>88
つ>>63
FAQ84
「諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て
墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば
「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。 」 110日本@名無史さん2019/05/03(金) 10:53:23.63
>>79
「南→東」などの嘘付き騙しがバレて、
苦境に陥った大和説が、
オウム返し合戦に逃避し始めたぞ。 111日本@名無史さん2019/05/03(金) 10:54:43.04
>>110
北部九州から水行30日の位置にあるので
邪馬台国が北部九州の可能性はゼロだよね 112日本@名無史さん2019/05/03(金) 10:57:48.99
113日本@名無史さん2019/05/03(金) 10:58:47.79
>>103
>ここは孔明の墓に限るものでなく、薄葬令及び墳と塚についてのこと
孔明と薄葬令は、どうやっても無関係だろ?ww
それに薄葬令(と称するもの)も、皇帝墓以外にはなんの制約もつけていないぞww
>なお、「塚は高墳也」という如く、
>墓の全長に対する盛土の高さの比が小なるものを「墳」といいく、
>全長に対する高さの比率が数倍に及ぶ背高のものを「塚」と呼んで区別した。
これもデタラメだけれど、これが正しいなら、平原1号墓はどうやっても「冢」にはならないし
いわゆる古墳こそ「冢」と呼ばれるべきだってことだね 114日本@名無史さん2019/05/03(金) 10:59:51.22
>>106
でも、さらにいえば、そこにいた人らがいわゆる日本語を話してたのかどうかは
不明じゃん
呉の太伯が流れてっていう素がはっきりしてんだからもっと中国語よりだって
おかしくないし
そもそも九州だと今だって何いってんのかわかんないしw 115日本@名無史さん2019/05/03(金) 11:02:51.06
邪馬台国ってのは呉の姫氏系の国で
天皇家との関係性は必要ないんじゃないの?
116日本@名無史さん2019/05/03(金) 11:04:57.55
そもそも邪馬台国だっつーのに倭国があるわけで
違う国だろ?
記紀に書いてるような流れで倭国があるとしたら
別に邪馬台国は九州でいいんじゃないの?
117日本@名無史さん2019/05/03(金) 11:06:21.91
>>81
>>魏使らは当然孔明の遺言を知っているから、「冢≠墳」である事も知っている。<
>ほら、また根拠もなく言い張っている だから九州説は妄想なの<
ほら、また、この大和説男は、孔明の遺言も知らないらしくて、
根拠もなく「九州説は妄想なの」とヘイトスピーチしている。 118日本@名無史さん2019/05/03(金) 11:06:23.92
>>111
畿内説の納得いかないところは、むしろそれ
水行30日は用いるのに方角の解釈は変えるのな 119日本@名無史さん2019/05/03(金) 11:06:32.08
>>112
>このタウポ説
>興味深いな
タウポ火山が2世紀末頃に巨大噴火をしたことはほぼ確実
その噴火後の火山の冬が黄巾の乱の原因となった異常気象と飢饉をもたらしたと
いうところまでは、無理のない推論だと思う
ただ、崇神、垂仁、景行の在位年代は、特に根拠がないから何とも言えない 120日本@名無史さん2019/05/03(金) 11:08:04.86
>>112
タウポ噴火は、富士山噴火の約1000倍の大きさの噴火だからね 121日本@名無史さん2019/05/03(金) 11:11:15.77
>>119
物的根拠もあるよ
モモソ姫(卑弥呼)は崇神天皇と同時代の人
モモソ姫の箸墓は四段築成で、天皇陵より格上の形状で
当時の人々は天皇よりもモモソ姫のほうが偉いと認識していたのは確実 122日本@名無史さん2019/05/03(金) 11:11:27.02
>>86
この「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、
「西服衆夷」の「服」の原意が、
「服する」という自動詞的な意味であった事を無視してるから、
どっちにしても嘘つき詐欺師であり、
説得力無いな。 123日本@名無史さん2019/05/03(金) 11:13:56.91
『日本書紀』でもモモソ姫は天照大神とならぶ最高神・大物主神の妻なので
天皇よりもはるかに偉い。
『日本書紀』の中で一番偉い人物はモモソ姫
124日本@名無史さん2019/05/03(金) 11:15:10.61
>>114
>そこにいた人らがいわゆる日本語を話してたのかどうかは
>不明じゃん
記紀には、記紀成立以前の「歌」がいくつも載っているし
万葉集にもかなり古い歌が収録されているので、古代日本語については
研究が進んでいるんだよ
>呉の太伯が流れてっていう素がはっきりしてんだからもっと中国語よりだって
>おかしくないし
これをそのまま信じる方がどうかしている
これは、「会稽東冶之東」「萬二千里」の傍証として、陳寿が挿入したもので、
論衡の倭についてのもの 125日本@名無史さん2019/05/03(金) 11:15:59.64
>>118
畿内説の場合、明らかに間違ってるのは方角1箇所だけだからね
北部九州説の場合、水行以降の記述はすべて間違ってることになるが 126日本@名無史さん2019/05/03(金) 11:18:10.56
>>124
銅鐸は越(会稽)から直接、日本に伝わったと中国でも言われている
紀元前に越(会稽)から日本に移民があったのは間違いなさそう 127日本@名無史さん2019/05/03(金) 11:18:22.96
>>116
>そもそも邪馬台国だっつーのに倭国があるわけで
>違う国だろ?
倭国の中に、末盧国も伊都国も奴国もある訳じゃん
末盧国も伊都国も奴国と、邪馬台国は並列の国ってだけで
伊都国が邪馬台国の都とかいうのはデタラメ 128日本@名無史さん2019/05/03(金) 11:21:37.03
>>125
北部九州説はなw
でもその時代方角が怪しい事は怪しいんだよ 129日本@名無史さん2019/05/03(金) 11:22:26.77
>>118
>水行30日は用いるのに方角の解釈は変えるのな
南を読みかえないと日本列島上に比定地を想定できない
南を読みかえる根拠は十分な妥当性を持って論証できる
水行30日は列島の海岸水行として妥当な距離となる
水行30日を読みかえる十分な根拠がない
帯方郡から北部九州までを10日で進むのは物理的に不可能 130日本@名無史さん2019/05/03(金) 11:24:49.01
>>121
>物的根拠もあるよ
>モモソ姫(卑弥呼)は崇神天皇と同時代の人
それだと>>91の年表の崇神の在位が古くなりすぎていることになる 131日本@名無史さん2019/05/03(金) 11:27:26.05
>>127
ほんそれ。伊都国が邪馬台国の都なら、魏志倭人伝を書いた人もそう書くよな 132日本@名無史さん2019/05/03(金) 11:30:13.25
>>122
>「西服衆夷」の「服」の原意が、
>「服する」という自動詞的な意味であった事を無視してるから、
自動詞的とかごまかしても、「西服衆夷」では「衆夷」という目的語がある時点で
完全に他動詞なんだよ
それにここでの「服」は、「征服」を東征、西服と二つに分けたものだから、
本来の意味から言っても他動詞だ 133日本@名無史さん2019/05/03(金) 11:32:17.64
>>88
>諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て
>因山して起墳せざれば「墳」に非ず。<
孔明は、「因山為墳」と遺言した事が事実。
>不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。<
孔明は「冢足容棺」と遺言で命じた事が事実。
>素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。<
孔明は、定軍山という大きい山を墳に見立てる事を命じ、冢は棺を容るるに足る大きさにせよ、と命じたから、
「墳と冢を区別した」事になり、「冢≠墳」だという認識であった。
>次に、孔明の没年が234年、蜀の滅亡が263年だ
239年、247年の遣使に対する答礼使が、敵対する他国の要人の遺詔を「当然知っている」と考える理由がない
孔明の遺言が三国志にあるのは、蜀に滅亡後その蜀漢の記録が西晋に接収されたからだ
接収後でも中央の史官や歴史家以外が知る機会はない <
魏帝や魏の役人や魏軍が、敵対していた蜀の孔明の死やその墓の位置や築造を、
知らない筈がない。 134日本@名無史さん2019/05/03(金) 11:33:47.13
>>113
平原説は卑弥呼の墓なんぞではない。せいぜい糸島の県主クラス。
平原説は時代遅れ、畿内説の同類同クラスだね。 135日本@名無史さん2019/05/03(金) 11:36:12.50
連続句読点を使用する謎の者が、悪乗りを、続行しているが、面白いので、良いな。。。
136日本@名無史さん2019/05/03(金) 11:37:39.64
>>125
>畿内説の場合、明らかに間違ってるのは方角1箇所だけだからね
手品を云うなよ
一つではすまんぞ、少なくとも6か所ある、 137日本@名無史さん2019/05/03(金) 11:38:05.48
>>91
>184年 疾病などの影響で崇神天皇が権威を失った。
倭国を救ったスーパーヒーローのモモソ姫が女王・卑弥呼になった。<
「南≠東」などに拠って、×。 138日本@名無史さん2019/05/03(金) 11:38:56.97
1 ◆UiepmfCeDJqf のベイズの計算が複雑なのが分らないのかな
そんなに単純な計算じゃないよ
139日本@名無史さん2019/05/03(金) 11:39:10.61
頭が悪いので、笑える良い意見の発表だな。。。
129日本@名無史さん2019/05/03(金) 11:22:26.77
>>118
>水行30日は用いるのに方角の解釈は変えるのな
南を読みかえないと日本列島上に比定地を想定できない
南を読みかえる根拠は十分な妥当性を持って論証できる
水行30日は列島の海岸水行として妥当な距離となる
水行30日を読みかえる十分な根拠がない
帯方郡から北部九州までを10日で進むのは物理的に不可能 140日本@名無史さん2019/05/03(金) 11:39:55.86
>>130
うん?
卑弥呼184年〜
崇神が戊寅年の198年没で同時代の人だよ 141日本@名無史さん2019/05/03(金) 11:42:19.48
>>137
北部九州から水行30日の位置にあるので
邪馬台国が北部九州の可能性はゼロだよね 142日本@名無史さん2019/05/03(金) 11:42:41.35
>>139
帯方郡から、10日間、海を進んで、九州を1月歩いたので、熊本城に到着したのだったな。。。 143日本@名無史さん2019/05/03(金) 11:44:33.16
144日本@名無史さん2019/05/03(金) 11:46:03.60
>>142
そうだったな、、、
僕たちは、、、、次、、、という漢字に注目したのだったね。。。 145日本@名無史さん2019/05/03(金) 11:46:50.42
>>92
>邪馬台国じゃなく、邪馬壱国だとすると音的にどんな感じの地名だろうか<
後漢書の李賢注の(唐代の)李賢は、
倭国の太宰府付近に派遣された郭務ソウの報告で、
「邪摩惟」という音韻呼称の報告を知った事になるから、
おそらく、邪馬壹は「ヤマイ」という音韻であった。 146日本@名無史さん2019/05/03(金) 11:48:22.24
>>144
次という字は、必ず順番を、表すのだったね。。。 147日本@名無史さん2019/05/03(金) 11:51:39.78
>>146
次という字が、表している意味は、国同士の比較か、道で繋がっている順番のどちらか以外には、考えられないのだったね
。。。 148日本@名無史さん2019/05/03(金) 11:51:58.63
>>140
>卑弥呼184年〜
>崇神が戊寅年の198年没で同時代の人だよ
>>120で
>モモソ姫の箸墓は四段築成で、天皇陵より格上の形状で
と書いている訳だから、箸墓を卑弥呼の墓としているんだよね?
だとすると没年が3世紀半ば
崇神とモモソ姫をどういう関係だと想定している?
記紀の系譜上ではモモソ姫の方が2世代前、祖父母と同世代となっている
崇神の方が2世代若いのに卑弥呼より没年が50年以上古いというのは無理があるだろ? 149日本@名無史さん2019/05/03(金) 11:52:55.66
>>145
モモソ姫はオオイチ
倭国の都市はイチ(市)と呼ばれてたわけだから
「台」が中国朝廷を指す漢字になって使えなくなって
代わりに「壹」の字が使われたのは納得 150日本@名無史さん2019/05/03(金) 11:53:41.41
151日本@名無史さん2019/05/03(金) 11:54:04.05
魏志倭人伝には、熊本城から、順番に、女王卑弥呼の直属の女王国と書かれた領土の、境界が尽きる奴国までを示した部分があったな。。。
152日本@名無史さん2019/05/03(金) 11:54:36.52
153日本@名無史さん2019/05/03(金) 11:59:17.81
次とは、なんの脈絡もなく、手当たり次第に書いたのではないよ、
この国の次に(隣に、或は近くに)またこの国がある、、、の意味。
154日本@名無史さん2019/05/03(金) 11:59:52.27
>>148
卑弥呼は大田田根子で
箸墓は大田田根子の墓の可能性もある。
三輪氏の祖は大田田根子
朝廷内で一番偉いのは三輪氏だったから
大田田根子の氏族が日本で一番偉かったのは確実だしね 155日本@名無史さん2019/05/03(金) 12:00:26.24
>>94
「南→東」などの嘘付き騙しがバレて×になった大和説は、
願望だけしか残っておらず、惨めだな。 156日本@名無史さん2019/05/03(金) 12:01:07.67
>>151
邪馬台国の場所が記録されている部分の、真実の翻訳ではないのかな。。。。
(帯方郡から)南に10日航海し、(末盧国から)陸路を1月行くと女王が都にしている所である(後に、熊本城が建てられた)邪馬壹国に至る。
官は伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮といい、70000戸あまりあるようだ。。
女王の国とそこから北の地域は、その戸数や道や里の様子は、おおよそ書き記すことができるが、その他のかたわらの国は遠くて交流も絶えており、詳しく書き記せない。。。
(帰りに宿泊するのは、邪馬台国の)次は斯馬国であり、その次は巳百支国であり、その次は伊邪国であり、
その次は都支国であり、その次は彌奴国であり、その次は好古都国であり、
その次は不呼国であり、その次は姐奴国であり、その次は對蘇国であり、
その次は蘇奴国であり、その次は呼邑国であり、その次は華奴蘇奴国であり、
その次は鬼国であり、その次は為吾国であり、その次は鬼奴国であり、
その次は邪馬国(八女)であり、その次は躬臣国であり、その次は巴利国であり、←邪馬国(八女)に注目、、、、
その次は支惟国であり、その次は烏奴国であり、その次は(帯方郡からの道里を前述し、示した)奴国である。
これが女王の境界が尽きるところである。。。
その(女王の熊本城のすぐ)南に狗奴国があって、男子が王になった。
その官には狗古智卑狗がある、、
女王に服属していない、、、 157日本@名無史さん2019/05/03(金) 12:02:34.99
ちなみに大田田根子は
『日本書紀』では最高神・大物主神の子供だから
天皇よりもはるかに偉いよ
158日本@名無史さん2019/05/03(金) 12:05:07.50
狗奴国の狗古智卑狗というのもは、菊池彦ではなく、河内彦だったので、やはり邪馬台国は熊本城だったのだな。。
159日本@名無史さん2019/05/03(金) 12:07:58.25
>>154
モモソ姫と大田田根子は同一人物では?
大田田根子は神武天皇や崇神天皇と血がつながってないから
モモソ姫を捏造して
卑弥呼(モモソ姫)は天皇と血が繋がってることにした 160日本@名無史さん2019/05/03(金) 12:23:57.17
>>95
>ザラコクは西服衆夷を無視してるから説得力無いな <
「服」は「服する」という自動詞である事を論拠にしているんだから、無視していないな。
>それだけじゃなくて、隋書に「裴清」、日本書紀に「裴世清」と同一の固有名詞があり、
隋への遣使が大和朝廷によるものなのが間違いないのに、唐の太宗李世民の「世」の避諱も知らずに、<
そんな事は常識であり、当然知っていたよ。
>「裴清」と「裴世清」は別人っていう見苦しい戯れ言を言う爺だから、何もかもデタラメだよ<
問題は、書紀は「唐使」だった、とはっきり記載していた事であり、
「隋使」と記載した隋書の事を書いていなかった、という大問題であり、
裴世清というの記載も、隋書の裴清と記載と違ったものになっている、
という事の、私の指摘の話であったんだよ。
そして、その事は、書紀の裴世清の大和訪問は、隋の大業四年ではなく、
その12年後の唐の武徳中であった、という事の証拠になり、
書紀がインチキ騙しを書いた事の証拠にもなり、
釈日本紀の延喜講記に書かれた事の証拠にもなる、っていう重大な問題の証拠になる事だったんだよ。
書紀のインチキ騙しの証拠を書かせてくれて、どうも有難う。 161日本@名無史さん2019/05/03(金) 12:24:06.41
>>158
天皇と敵対関係にある人や国は
「熊」や「蜘蛛」の字で書かれることが多いから
クナ国っていうのは敵対国っていう意味で国名ではないと思うよ 162日本@名無史さん2019/05/03(金) 12:30:56.17
日本国が衰退した倭国を、合戦で最後に追い詰めたのが、倭国の本部だった邪馬台国の熊本城だった可能性が、急激に浮上してきたのではないのかな。。。
161 名前:日本@名無史さん 2019/05/03(金) 12:24:06.41
>>158
天皇と敵対関係にある人や国は
「熊」や「蜘蛛」の字で書かれることが多いから
クナ国っていうのは敵対国っていう意味で国名ではないと思うよ 163日本@名無史さん2019/05/03(金) 12:32:07.85
日本武尊とは、何者なのだろうか。。。
164日本@名無史さん2019/05/03(金) 12:43:38.22
>>163
ヤマトタケルは景行の息子だろ
熊襲と倭国の境界付近にある吉野ケ里遺跡は
3世紀後半に一度衰退してるから
その頃に熊襲討伐して活躍した人だよ 165日本@名無史さん2019/05/03(金) 12:43:54.93
川上梟帥の真実の住所は、何処だったのだろうか。。。
166日本@名無史さん2019/05/03(金) 12:45:02.54
肥の河上とは、何処だったのだろうか、、、
167日本@名無史さん2019/05/03(金) 12:47:09.19
ヤマタノオロチ退治事件が、本州で発生した事件というのは、真実なのだろうか。。。
168日本@名無史さん2019/05/03(金) 12:54:02.86
169日本@名無史さん2019/05/03(金) 12:55:15.80
肥後熊本じゃないの
170日本@名無史さん2019/05/03(金) 13:17:10.90
>>100
>北部九州から水行30日の位置にあるので
邪馬台国が北部九州の可能性はゼロだよね<
不彌國で萬二千余里がほぼ終わってしまっており、
投馬國は「移動した記載がない」から移動しておらず、
だから、邪馬壹國は不彌國のすぐ南にある事になって、
「水行30日」なんて行かないので、
大和説は×なの。 171日本@名無史さん2019/05/03(金) 13:18:25.87
拳銃の数を知らない、奈良の小汚い自称考古学者が出現し、巻きぴょんの中身を調べました。。。
172日本@名無史さん2019/05/03(金) 13:19:39.97
討論会が再開されれば、釣り堀が、儲かるのでは、ないのかな。。。
173日本@名無史さん2019/05/03(金) 13:32:08.05
ヤマタノオロチ退治事件で出現した、神の刀は、日本武尊が手にしたものだったのだろうか。。。
174日本@名無史さん2019/05/03(金) 13:36:06.90
九州説>>>>75パー>>>>>>>>>>>>1だった可能性が急激に高まってきたな。。。
175日本@名無史さん2019/05/03(金) 13:40:25.70
クマモンの中身は、どうなっているのだろうか。。。。
176日本@名無史さん2019/05/03(金) 13:41:18.55
熊本城の地下や、緑川の上流には、どのような秘密があるのだろうか、、、
177日本@名無史さん2019/05/03(金) 13:41:38.86
>>167
九州北部の邪馬台国が出雲にちょっかいを出していたところに、出雲の助っ人として現れたのが狗奴国王の神武。
邪馬台国=ヤマタノオロチ。
後に畿内で発足した政権は狗奴国の末裔ということだ。 178日本@名無史さん2019/05/03(金) 13:42:24.04
179日本@名無史さん2019/05/03(金) 13:43:08.14
180日本@名無史さん2019/05/03(金) 14:11:20.22
倭国大乱を収束させるため近畿、出雲、北部九州の勢力が連合し邪馬台国(ヤマト)を成立、卑弥呼を女王として拠点を畿内に移す
卑弥呼は桃、カエル等を祭祀に供え太陽を崇め稲の豊作や国の安泰を祈祷した
後継者の台与の死後は有力豪族が祭祀王として邪馬台国を受け継ぎヤマト王権へと変質
その後、倭の五王、大王へと続いていく
卑弥呼は天照大神の伝説となり天皇家の宮中祭祀が名残となった
181日本@名無史さん2019/05/03(金) 14:37:34.95
>>180
またそんな史書にも記紀にも書いていないことを妄想しちゃって 182日本@名無史さん2019/05/03(金) 14:51:23.50
>>177
大和が狗奴国の末裔だとしたら、卑弥呼の時代の事が記紀に記されていないのは理解できるな。 183日本@名無史さん2019/05/03(金) 14:54:01.65
神功記に魏志倭人伝を引用して
神功皇后の活躍時期を卑弥呼と台与の時代に合わせてるんだから
そういうことだよ
184日本@名無史さん2019/05/03(金) 14:55:27.67
記紀の作者は邪馬台国は奈良って当たり前のように
思ってたってことなんだよな
185日本@名無史さん2019/05/03(金) 14:58:53.30
水行30日についての九州説の説明は苦しいのばかりだな
186日本@名無史さん2019/05/03(金) 15:00:01.79
187日本@名無史さん2019/05/03(金) 15:02:04.93
>>184
天武が邪馬台国を知っていたとは思えん。
わからんので適当に話を作ってアレイに吹き込んだのだろう。 188日本@名無史さん2019/05/03(金) 15:04:14.29
189日本@名無史さん2019/05/03(金) 15:05:09.64
熊本城と少しは、離れてた遺蹟から発見された、マッチョな人体の化石は、風の力で時速20kmで船を漕ぐ者達だったという、真実は、魏志倭人伝時代の討論会にどのような衝撃を与えたのだろうか。。。
190日本@名無史さん2019/05/03(金) 15:07:25.96
>>188
知っていたと「思う」だろ?
妄想癖はなかなかな治らんからな。 191日本@名無史さん2019/05/03(金) 15:12:17.53
中国の古文献にヤマト国と読める記述がありゃ、奈良平安の頃の人は誰だって朝廷のことだと思うわな
ちなみに九州説は江戸時代の国学者の発明
192日本@名無史さん2019/05/03(金) 15:18:05.84
古事記から日本書紀で、なぜ、肥の河上や倭建命の漢字を変換したのだろうか。。。
193日本@名無史さん2019/05/03(金) 15:20:34.34
邪馬台国城が落城したときに奪われた名前は、建だけだったのだろうか、、、
194日本@名無史さん2019/05/03(金) 15:22:23.26
日本は文字を使用するようになった8世紀に書かれた記紀は伝言ゲーム
爺さんの爺さんの爺さんから聞いた話や口伝による伝説を構成して書いた
195日本@名無史さん2019/05/03(金) 15:23:22.34
>>191
奈良時代の時点で邪馬台国は伝説の国だったはずだ。
半島の三国史記ですら卑弥呼の記述があるのに記紀で全く出てこないのはあえて書かなかったとしか思えない。 196日本@名無史さん2019/05/03(金) 15:26:35.92
>>195
そりゃそうだ
中国に朝貢して国王に任命されましたとか
絶対書けんわ 197日本@名無史さん2019/05/03(金) 15:28:42.57
中国の文献から奈良盆地がイメージ出来る訳がない。
遣使が頻繁に通っていたにも関わらず、その時代に編纂された史書ですら、具体的に奈良を示す記述は皆無。
198日本@名無史さん2019/05/03(金) 15:33:43.17
>>190
邪馬台国が奈良だとしたら知ってたよ
卑弥呼時代からの神社とかあるからね
今上そこに参拝にいくんだよ 199日本@名無史さん2019/05/03(金) 15:34:19.03
>>185
>水行30日についての九州説の説明は苦しいのばかりだな<
同意はするが河川も考えられる
また、瀬戸内、日本海でも30日はかかりすぎ 200日本@名無史さん2019/05/03(金) 15:34:24.92
今上天皇もそこに参拝に行く
201日本@名無史さん2019/05/03(金) 15:35:27.71
>>199
『延喜式』で大阪から福岡まで舟で1ヶ月 202日本@名無史さん2019/05/03(金) 15:35:58.41
>>102
>卑弥呼が金印もらう直前に垂仁天皇が亡くなってるから
垂仁天皇の死によって卑弥呼の独裁になったんだろうな<
天皇なんて、まだ存在していなかったし、
大和の人間は「南≠東」などに拠って、×。 203日本@名無史さん2019/05/03(金) 15:39:54.45
>>104
>北部九州から水行30日の位置にあるので
邪馬台国が北部九州の可能性はゼロだよね。<
また・・・・の貼り付けのようだから、貼り付けのお返しをしておこう。
不彌國で萬二千余里がほぼ終わってしまっており、
投馬國は「移動した記載がない」から移動しておらず、
だから、邪馬壹國は不彌國のすぐ南にある事になって、
「水行30日」なんて行かないので、
大和説は×なの。 204日本@名無史さん2019/05/03(金) 15:43:57.14
>>199
渡海千里の千里は距離ではなく一日で到着できるという意味だと畿内説が言ってたな。
しかも奈良の東の倭種の国とは房総半島の事だそうだ。
この畿内説の言う通りだとすると、伊勢から房総半島まで一日で行けるわけだから、
博多から投馬国と比定している出雲まで2日もかからないはずだ。
こういう矛盾には一切答えようとしない畿内説ってどうよ? 205日本@名無史さん2019/05/03(金) 15:44:30.39
安心してる場合じゃないぞ キナイコシ
まだ76パーの件 決着ついてねーぞ
それとも、逃げたか
206日本@名無史さん2019/05/03(金) 15:45:01.96
>>197
>遣使が頻繁に通っていたにも関わらず
遣唐使が頻繁に通っていた時代だって、そんなもん無いぞ
発想がおかしい 207日本@名無史さん2019/05/03(金) 15:45:33.31
208日本@名無史さん2019/05/03(金) 15:47:10.42
>>207
日本書紀では朝貢した倭王はほとんど消されてるよ
神功皇后は朝貢したけど王じゃなく皇后だからね 209日本@名無史さん2019/05/03(金) 15:47:15.29
>>206
史書を読んだこと無いのかな?
一通り読んでごらん。 210日本@名無史さん2019/05/03(金) 15:47:40.03
そんなことよりも
ミンメイ関係の話、
なぜかジャイアンのような思考でしょ
ミンメイが・・・という意味ではなくて、
起源の話
211日本@名無史さん2019/05/03(金) 15:47:53.02
千里が一日で行けるなんて聞いたことが無いな
短里でも無理だぜ
212日本@名無史さん2019/05/03(金) 15:48:24.28
213日本@名無史さん2019/05/03(金) 15:48:30.20
>>199
>同意はするが河川も考えられる
>また、瀬戸内、日本海でも30日はかかりすぎ
瀬戸内、日本海で30日はかかりすぎと思う人が
河川も考えられると思う脳の構造が
とても理解しがたい 214日本@名無史さん2019/05/03(金) 15:50:00.75
>>202
あなたずっとスレに張り付いてるけど知識がないねえ 215日本@名無史さん2019/05/03(金) 15:50:56.81
>>207
想像ではなく合理的推定だね
正史として発表した国の方針に完全に逆行してるだろ 216日本@名無史さん2019/05/03(金) 15:52:26.17
倭人伝がとか記紀がとか、何百年も同じことやってるのに結論出ないってことは
別の視点で探るのが正解ってことなんだろうな
217日本@名無史さん2019/05/03(金) 15:53:11.19
218日本@名無史さん2019/05/03(金) 15:53:16.26
江戸日本橋から京都三条大橋までの距離は約492km
一般的に、徒歩で13日から15日前後かかっていたようです。
江戸日本橋から京都三条大橋までの距離は約492km。15日とすると、1日平均約33kmも歩く計算になります。
元禄年間に日本に滞在したドイツ人医師ケンペルは、2回江戸に来ていますが、一度目は3月2日に京都を出発し、途中駕籠や馬に乗るものの、3月13日に江戸に到着、12日の旅でした。
また幕末に日本を訪れたオランダのお抱え医師シーボルトは、3月25日に京を出て4月10日に江戸に到着していますから、17日の旅です
陸行1月は 倍かかったとしても300キロは進んだでしょう
すると各説 とんでもないところに着いてしまいます
倭人伝で表示された日数表示には水行も含め疑問の余地はあります 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b)
219日本@名無史さん2019/05/03(金) 15:55:57.15
>>204
キミ、脳に虫が湧いてるね
言った人間別だから矛盾しないよ 220日本@名無史さん2019/05/03(金) 15:56:40.69
221日本@名無史さん2019/05/03(金) 15:57:21.71
>>106
>邪馬壹の壹は、最後に母音のつかない「it」の音(itiではない)で、
基本的に音節が母音で終わる日本語の音訳として不自然 <
8世紀の大和における音韻習慣が、3世紀の九州倭国でも規則であった、
という事の方が不自然であり、×。
3世紀の九州倭国では、在地の毛人縄文人の音韻と、渡来倭人の持っていた音韻と、漢字使用での音韻の、
混合時代であった、という認識が最も可能性がある。
>また「馬」が母音で終わる開音節で次に「壹」の「i」が来ると母音が連続することになるが
上代日本語では、母音の連続、二重母音はなかったとされており、その点でも不自然<
これも×。大和の上代日本語ルールが3世紀の九州倭国に存在していない。
倭人伝の倭人側の使用文言として「持衰」や「噫」という「母音の連続、二重母音」例が書かれているから、×。
>もちろん、異国の人の聞き取りによる音訳だから、どこまで正確かは分からないが、
邪馬壹という音は上代日本語の音としては極めて不自然で、邪馬壹の方が誤記とする方が
妥当だ <
この男も、
8世紀の大和の音韻習慣を3世紀の九州倭国の適用して、
都合の悪い文言を否定抹殺してしまおう、とする・・・・詐欺師の大和説者だな。 222日本@名無史さん2019/05/03(金) 15:57:51.97
223日本@名無史さん2019/05/03(金) 15:57:54.10
>>218
アホか
魏志倭人伝は倭国の王族や魏の高官の話で
そんなに速く移動したわけないだろ。
陸行1ヶ月は、各地でもてなされたり祭祀を行いながらの移動スピードだ 224日本@名無史さん2019/05/03(金) 16:00:30.67
>>107
>一番偉い卑弥呼の箸墓を四段築成にしちゃったから
それより高さのある墓を作れなくなって 日本の古墳って高さはないよね<
「卑弥呼の箸墓」という設定自体が、「南≠東」などに拠って、×。 225日本@名無史さん2019/05/03(金) 16:01:11.98
226日本@名無史さん2019/05/03(金) 16:01:14.53
>>213
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。 227日本@名無史さん2019/05/03(金) 16:01:40.10
>>108
>北部九州から水行30日の位置にあるので邪馬台国が北部九州の可能性はゼロだよ<
この貼り付けも、否定済み。 228日本@名無史さん2019/05/03(金) 16:02:12.33
>>218
>陸行1月は 倍かかったとしても300キロは進んだでしょう
>すると各説 とんでもないところに着いてしまいます
「陸行一月」 距離約350km 歩行速度11.7km/日 @阿波
陸行一月区間(旧土佐街道 別名土佐浜街道) 途中の河川は川船で渡河
投馬国(土佐国宿毛) ➡ 魏使一行 阿南市若杉山辰砂採掘現場視察 ➡ 女王国(阿波国鮎喰川下流域集落群) 229日本@名無史さん2019/05/03(金) 16:02:33.35
>>217
旧唐書 日本条
長安三年,其大臣朝臣真人來貢方物。
朝臣真人者,猶中國?部尚書,冠進コ冠,其頂爲花,分而四散,身服紫袍,以帛爲腰帶。
真人好讀經史,解屬文,容止?雅。則天宴之於麟コ殿,授司膳卿,放還本國。
開元初,又遣使來朝,因請儒士授經。詔四門助教趙玄默就鴻臚寺教之。
乃遺玄默闊幅布以爲束修之禮。題云「白龜元年調布」。
人亦疑其偽。所得錫賚,盡市文籍,泛海而還。
其偏使朝臣仲滿,慕中國之風,因留不去,改姓名爲朝衡,仕?左補闕、儀王友。
衡留京師五十年,好書籍,放歸?,逗留不去。
天寶十二年,又遣使貢。上元中,擢衡爲左散騎常侍、鎮南都護。
貞元二十年,遣使來朝,留學生橘免勢、學問僧空海。
元和元年,日本國使判官高階真人上言:「前件學生,藝業稍成,願歸本國,便請與臣同歸。」從之。
開成四年,又遣使朝貢。 230日本@名無史さん2019/05/03(金) 16:03:19.84
『セイントセイヤ ソルジャードリーム』
この曲(youtube動画)も、
同じようなコンセプトになっているし
231日本@名無史さん2019/05/03(金) 16:05:07.30
>>109
>>孔明の遺言の文。<
>そんな寝言を言っているのはザラコクだけだよww・・・<
この貼り付けも否定済みであり、「南→東」などの嘘付き騙しのアホ詐欺師の大和説者は、
・・・・。 232日本@名無史さん2019/05/03(金) 16:07:05.61
>>112
>このタウポ説 興味深いな<
その説も、「南→東」などに拠って、×。 233日本@名無史さん2019/05/03(金) 16:07:19.51
234日本@名無史さん2019/05/03(金) 16:07:31.78
あと某まいく・おーの曲()とかw
本当に、どういう事なんだろう
235日本@名無史さん2019/05/03(金) 16:09:40.90
伊吹山に、白い猪というのは、実在したのだろうか。。。
236日本@名無史さん2019/05/03(金) 16:10:32.33
237日本@名無史さん2019/05/03(金) 16:13:43.55
>>113
>孔明と薄葬令は、どうやっても無関係だろ?ww<
倹約思想が同じ。
>それに薄葬令(と称するもの)も、皇帝墓以外にはなんの制約もつけていないぞww <
孔明や皇帝らが倹約しているのに、その家臣が厚葬出来るものではない。
>これもデタラメだけれど、これが正しいなら、平原1号墓はどうやっても「冢」にはならないし<
壹與も、家臣らが魏の役人たちであったから、当然薄葬令の影響下のあった。
>いわゆる古墳こそ「冢」と呼ばれるべきだってことだね <
前方後円墳は「冢」ではないから、×。 238日本@名無史さん2019/05/03(金) 16:16:36.08
>>237
>前方後円墳は「冢」ではないから、×。
千回連呼しても根拠がないから、×。 239日本@名無史さん2019/05/03(金) 16:17:07.90
動物画のモチーフ
縄文時代は猪が多くて、弥生時代は多様化するが鹿が多いんだよな
面白い
240日本@名無史さん2019/05/03(金) 16:17:43.78
>>121
>モモソ姫(卑弥呼)は・・・<
「南≠東」などに拠って×。 241日本@名無史さん2019/05/03(金) 16:18:24.82
>>233
それでいくと邪馬台国の時代の奈良盆地はまだ倭国の新入りだもんな。
出雲など日本海沿岸に渡来した連中が最終的に、大和に都を置いたと考えるのが合理的な気がする。 242日本@名無史さん2019/05/03(金) 16:22:29.31
>>240
北部九州から水行30日の位置にあるので
邪馬台国が北部九州の可能性はゼロだよ 243日本@名無史さん2019/05/03(金) 16:23:25.18
>>229
はい
「具体的に奈良を示す記述は皆無」ですね?
奈良盆地をイメージできますか?
残念でした 244日本@名無史さん2019/05/03(金) 16:23:26.42
日本武尊よりも前の時代に、日本をヤマトと呼ぶことがあったのだろうか、、、
245日本@名無史さん2019/05/03(金) 16:25:43.50
>>244
ヤマトと読むかどうか以前に、3世紀の畿内は文字を知らなかったんじゃないかと 246日本@名無史さん2019/05/03(金) 16:26:23.35
ヤマトという言葉が、最初に使われていたと、ヤマトという言葉は、どのような意味があったのだろうか。。。
247日本@名無史さん2019/05/03(金) 16:28:46.65
古という字が、クと発音できるのなら、古倭はクヤマトと発音できるのでは、ないだろうか、、、
248日本@名無史さん2019/05/03(金) 16:30:52.58
>>124
>>そこにいた人らがいわゆる日本語を話してたのかどうかは不明じゃん <
>記紀には、記紀成立以前の「歌」がいくつも載っているし
万葉集にもかなり古い歌が収録されているので、古代日本語については研究が進んでいるんだよ<
倭人伝には倭人の使用文言として「持衰」と「噫」という二重母音例が使われているとしてから、×。
>>呉の太伯が流れてっていう素がはっきりしてんだからもっと中国語よりだって
おかしくないし<
>これをそのまま信じる方がどうかしている
これは、「会稽東冶之東」「萬二千里」の傍証として、陳寿が挿入したもので、
論衡の倭についてのもの<
松野氏姫氏の呉王夫差の遺民の話は、
中国側の記録や松野氏姫氏系図の他にも、
新撰姓氏録の松野連の説明や、
日本書紀私記の「東海姫氏國=倭国」や、
野馬臺詩?の東海姫氏國にも載っている。 249日本@名無史さん2019/05/03(金) 16:31:14.78
仲哀天皇の宮は、なぜ、畿内ではないのだろうか。。。
250日本@名無史さん2019/05/03(金) 16:34:22.10
>>248
そうやって怪しい史料に頼れば頼るほど
世間で九州説の信用は落ちていく 251日本@名無史さん2019/05/03(金) 16:34:50.02
>>125
>畿内説の場合、明らかに間違ってるのは方角1箇所だけだからね<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言かったであるし、
大和説は、文献考古のほぼ全てで否定され、合っているところは全くない。
>北部九州説の場合、水行以降の記述はすべて間違ってることになるが<
北部九州説は、文献考古の全てと合っている。 252日本@名無史さん2019/05/03(金) 16:35:29.04
畿内説にとって不都合な史料は怪しい史料だとかw
253日本@名無史さん2019/05/03(金) 16:38:26.03
ヤマトという言葉の真実の意味は、何だったのだろうか。。。
254日本@名無史さん2019/05/03(金) 16:38:57.84
>>127
>倭国の中に、末盧国も伊都国も奴国もある訳じゃん
末盧国も伊都国も奴国と、邪馬台国は並列の国ってだけで
伊都国が邪馬台国の都とかいうのはデタラメ<
大和が倭国の都だ、という大和説がデタラメ。 255日本@名無史さん2019/05/03(金) 16:44:42.51
>>128
>北部九州説はなw でもその時代方角が怪しい事は怪しいんだよ<
地球上に生まれ育って普通に成人した人類は全て、
太陽は東方から出て来て、西方に沈む、
という事を知るから、東西南北位は大間違いをする筈がないんだよ。
大間違いをするのは、嘘つき騙しの・・・・詐欺師の大和説者ばかり。 256日本@名無史さん2019/05/03(金) 16:46:18.45
>>254
結局また理由も言わずに思考停止して結論連呼になる
これが九州説の末路だ 257日本@名無史さん2019/05/03(金) 16:46:41.99
方角間違えるとか、古代人をなめ過ぎだろw
しかも紀元前の方が人類の歴史は長いんだぞw
258日本@名無史さん2019/05/03(金) 16:55:34.62
>>129
>南を読みかえないと日本列島上に比定地を想定できない<
倭人伝の行程説明ルールに従って読めば、ほぼ九州だ。と比定される。
>南を読みかえる根拠は十分な妥当性を持って論証できる<
「南→東」などの読み替えは成立出来ない。
>水行30日は列島の海岸水行として妥当な距離となる<
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている時点で、距離でも×であるし、
「南≠東」に拠っても九州から東方は×。
>水行30日を読みかえる十分な根拠がない <
「水行30日」は、行程の里数記載には含まれない。
魏使らや陳寿の行程説明で、十分。
>帯方郡から北部九州までを10日で進むのは物理的に不可能、
歴韓國乍南乍東は、陸行路であり、
郡からの循海岸水行で部分と、三海峡で、10日。 259日本@名無史さん2019/05/03(金) 16:55:39.31
260日本@名無史さん2019/05/03(金) 16:59:29.36
>>258
水行と書いてあるのに陸上を行くとか
こうやってインチキ計算を重ねて九州説は迷路に入っていく 261日本@名無史さん2019/05/03(金) 17:03:29.09
魏略だっけ?
倭の国々は山と海の狭間に寄り添っており、(邪)馬台を都としていた。
と書いてあったな。
まだ渡来人が海岸に住み着いてまもない頃だったんだろうよ。
その頃の奈良盆地なんてまだ縄文時代引きずってたんじゃないのかな?
262日本@名無史さん2019/05/03(金) 17:09:54.23
箸竹を使い始めたのが奈良時代だというのに、箸墓は3世紀とかいうアホもおったな・・・なつかしいw
263日本@名無史さん2019/05/03(金) 17:12:11.28
264日本@名無史さん2019/05/03(金) 17:14:09.98
265日本@名無史さん2019/05/03(金) 17:16:46.41
266日本@名無史さん2019/05/03(金) 17:19:07.01
『Yngwie Malmsteen - Best of [HQ]』
本当に、この曲を聴いてみて、
日本の話(他の国も同じ)?というか・・・、
神話に出てくる人物の話でしょ
実際は正確には日本人ではないとか
267日本@名無史さん2019/05/03(金) 17:20:50.59
>>258
>倭人伝の行程説明ルールに従って読めば、ほぼ九州だ。と比定され
そういうウソをいくら言い張っても
会稽は大隅半島より南だから 268日本@名無史さん2019/05/03(金) 17:21:47.25
畿内説ってあれだな。
いつの間にか梯子を外された文政権みたいなもんだなw
269日本@名無史さん2019/05/03(金) 17:26:40.35
九州説は韓国好き過ぎるな
270日本@名無史さん2019/05/03(金) 17:27:39.75
>>265
そういうウソついても、もうダメなんだよ
通用しないの
箸墓3世紀ってもう教科書に載ってる時代なんだよ
せめてお迎え来る前に現実を見て死ねよ 271日本@名無史さん2019/05/03(金) 17:29:08.73
>>270
教科書買ってきて貼れよw
うちのには書いてないからw 272日本@名無史さん2019/05/03(金) 17:29:31.81
>>268
またも「根拠を示さずに決めつけ」する九州説は
妄想説 273日本@名無史さん2019/05/03(金) 17:30:33.99
>>132
>>「西服衆夷」の「服」の原意が、
「服する」という自動詞的な意味であった事を無視してるから、<
>自動詞的とかごまかしても、「西服衆夷」では「衆夷」という目的語がある時点で
完全に他動詞なんだよ <
いや、宋の皇帝や役人は、
「服」という文字を見れば、当然まず「服する」という自動詞の意味で受け止め、
「衆夷」という目的語を見れば、
「過去に征服行為があって、現在は服属状態であるんだな」と解するもの。
過去の征服では、倭国中枢の筑紫の西の方(有明海や肥前半島方面)も、
平西将軍の征服対象であったんだろう、とも解するもの。
>それにここでの「服」は、「征服」を東征、西服と二つに分けたものだから、
本来の意味から言っても他動詞だ <
幾らしゃべっても「服」の本義は「服する」という自動詞の意味であったのであり、
「征服」は、「征する」と「服する」のする合成文言だ。 274日本@名無史さん2019/05/03(金) 17:33:43.48
野馬臺詩の東海姫氏國なんて偽書の可能性高いとされてるのに平気で引用しちゃいかんでしょ
275日本@名無史さん2019/05/03(金) 17:34:38.69
>>271
古墳が営まれた3世紀中頃から7世紀を古墳時代と呼び、これを古墳がもっとも大型化する中期を中心に、
前期(3世紀中頃〜4世紀後半)、
中期(4世紀後半〜5世紀末)、
後期(6〜7世紀)
に区分している。
古墳時代前期の前半を出現期という。この時期の古墳の中で最大の規模をもつものは、奈良県の箸墓古墳である。
弥生時代の後期には、すでに大きな墳丘をもつ墓が各地で営まれていたが、3世紀中頃から後半になると、より大規模な前方後円墳をはじめとする古墳が西日本を中心に出現した。
これら出現期の古墳は、多くは前方後円墳もしくは前方後方墳で、長い木棺を竪穴式石室に収めた埋葬施設や、多数の銅鏡をはじめとする呪術的な副葬品をもつなど、画一的な特徴をもっていた。
それは古墳が各地の首長たちの共通の意識のもとにつくり出された墓制で、その背景には古墳の出現に先だって広域の政治連合が形成されていたことが考えられる。
出現期の古墳の中でもっとも規模が大きいものは奈良県(大和)にみられ、この時期大和地方を中心とする近畿中央部の勢力によって政治連合が形成されていた。
この大和地方を中心とする政治連合をヤマト政権という。 276日本@名無史さん2019/05/03(金) 17:37:21.23
西服衆夷の服が自動詞ってのは全くデタラメだから諦めろよ
文法的に明確に違うのだからどうしようも無い
277日本@名無史さん2019/05/03(金) 17:38:19.57
弥生時代の終わりころから、日本列島各地に有力な首長の墓として、様々な形の墳丘をもった墳墓がつくられるようになった。
そうした各地の墳墓がもついくつかの要素を総合して、3世紀なかごろ、奈良盆地に大きな墳丘をもつ前方後円墳が出現した。
その規模や副葬品から判断すると、弥生時代の首長とは比べものにならないほど強力な力を持つ支配者が存在したことがわかる。
箸墓古墳をはじめとする初期の前方後円墳が、奈良盆地に集中することは、これらの被葬者と初期ヤマト政権の関係が深いことを示唆している。
278日本@名無史さん2019/05/03(金) 17:38:24.32
>>275
それ桜井市内中学校向けの奴なw
B畜のは日本の教科書とは内容が違うからw 279日本@名無史さん2019/05/03(金) 17:40:09.48
そもそもヤマタイコクなんて名前わざわざ説明するまでもないわな
他の地名は自然に読み替えてるのにヤマタイコクなんて名前を九州にあったかもなんて考えるほうがおかしい
280日本@名無史さん2019/05/03(金) 17:41:14.25
[最新の教科書]
箸墓古墳は第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命の墓に治定されている。
281日本@名無史さん2019/05/03(金) 17:41:24.11
>>273
おのが利益のため漢文法まで破壊しようとする九州説おそるべし 282日本@名無史さん2019/05/03(金) 17:44:02.54
>>279
ヤマトという地名は地図に記載されない小さな村も含めると九州には沢山あるんだよ。
しかし近畿にはそれが無いんだよ。 283日本@名無史さん2019/05/03(金) 17:44:25.24
>>278
>それ桜井市内中学校向けの奴なw
>B畜のは日本の教科書とは内容が違うからw
こういうウソと差別発言が平気で出来るようになる九州説おそるべし 284日本@名無史さん2019/05/03(金) 17:46:19.03
>>282
ヤマトという地名まで盗もうとする貪婪九州説おそるべし 285日本@名無史さん2019/05/03(金) 17:46:36.68
>>283
お前が奈良の現実を知らんということだw 286日本@名無史さん2019/05/03(金) 17:48:38.51
287日本@名無史さん2019/05/03(金) 17:48:47.58
>>284
そもそも奈良盆地には何も無かったんだよ。 288日本@名無史さん2019/05/03(金) 17:53:52.70
>>287
「根拠を示さずに決めつけ」する
九州説は妄想の説です 289日本@名無史さん2019/05/03(金) 17:54:01.43
神社、寺(本職)とか、そういう家の人だったのかな?
『姥清水』
これも同じだしな。
290日本@名無史さん2019/05/03(金) 17:54:38.39
箸墓で大量に出土した壺形埴輪は関東でも広くみられるものw
女王国の東の海の向こうの倭種の国はどこなんだよ?www
291日本@名無史さん2019/05/03(金) 17:54:50.98
>>134
>平原説は卑弥呼の墓なんぞではない。せいぜい糸島の県主クラス。<
平原は、大量の玉や21個の「尚方作」鏡などを副葬しているから、
女王クラスの墓であった事が確実であり、
もっとも該当するのは、卑弥呼の宗女でまた共立的に女王になり、
西晋武帝に大量の玉などを上納できた壹與の墓。
21個の「尚方作」鏡は、おそらく卑弥呼から相続したものであり、
彼女は、卑弥呼ほどの権力を持たず、薄葬令にも制約されて、
出身地の平原の「壹」部族の地に埋葬されたもの。 292日本@名無史さん2019/05/03(金) 17:57:08.69
>>291
平原って青い勾玉も出てたよな。
まさしく青珠だろそれ。 293日本@名無史さん2019/05/03(金) 17:58:24.50
294日本@名無史さん2019/05/03(金) 17:58:27.85
>>290
>箸墓で大量に出土した壺形埴輪は関東でも広くみられるものw
証拠は? 295日本@名無史さん2019/05/03(金) 18:01:37.48
296日本@名無史さん2019/05/03(金) 18:03:16.34
297日本@名無史さん2019/05/03(金) 18:11:41.10
たしか、あの写真も「市」という名前だしな、下の名前・・・w
その代くらいの時に川崎に来たような事を言っていたり
むかーし住んでいたというところが、
伊達郡とか、その辺り?
後に「市」だと、わかったという話でしょ
298日本@名無史さん2019/05/03(金) 18:11:51.77
299日本@名無史さん2019/05/03(金) 18:14:50.36
なぜなのか知らないけど、
老婆は、もっと前の代(世代)の話を知っていたりw
300日本@名無史さん2019/05/03(金) 18:15:04.75
Y染色体からして天皇は縄文系だそうだからええんちゃうの
301日本@名無史さん2019/05/03(金) 18:21:28.21
土器を見る限り古くから九州北部と交流があったと豪語する畿内説は勘違いだよな。
それは同じ縄文系文化が残ってたという事であってさ。
302日本@名無史さん2019/05/03(金) 18:23:59.64
>>140
>うん? 卑弥呼184年〜 崇神が戊寅年の198年没で同時代の人だよ<
うん?。
卑弥呼は、
魏使らが240年に「年已長大」と記録し、30〜35歳位だ、とされたんだから、
生まれたのは、205〜210年位であり、仮に20歳で共立されたんなら、
女王になったのは、225〜230年位である事になり、
従って、184年〜説は×。 303日本@名無史さん2019/05/03(金) 18:27:18.56
304日本@名無史さん2019/05/03(金) 18:27:27.64
当時住んでいた家にあった本や書なんかも、
誰かに、あげたりしたのかな〜と言っているしな、
神道、仏教関係のものなのかな、機織り関係の書?
305日本@名無史さん2019/05/03(金) 18:29:05.06
>>148
>箸墓を卑弥呼の墓としているんだよね? だとすると没年が3世紀半ば
崇神とモモソ姫をどういう関係だと想定している?
記紀の系譜上ではモモソ姫の方が2世代前、祖父母と同世代となっている
崇神の方が2世代若いのに卑弥呼より没年が50年以上古いというのは無理があるだろ?<
「南≠東」などの嘘付き騙しをした×話であり、
・・・・アホ同士の議論。 306日本@名無史さん2019/05/03(金) 18:30:26.73
>>302
>魏使らが240年に「年已長大」と記録し、30〜35歳位だ、とされたんだから、
その説、根拠ありません 307日本@名無史さん2019/05/03(金) 18:32:43.62
>>149
>モモソ姫はオオイチ
倭国の都市はイチ(市)と呼ばれてたわけだから
「台」が中国朝廷を指す漢字になって使えなくなって
代わりに「壹」の字が使われたのは納得 <
「邪馬台国」なんて存在もしない文言を使っての、嘘つき騙しの話だから、
この男も、「・・・・詐欺師の大和説者であった」という事で、納得。 308日本@名無史さん2019/05/03(金) 18:33:21.91
>>301
土器の何を見たの?
根拠は?
「根拠を示さずに決めつけ」する九州説は、妄想です 309日本@名無史さん2019/05/03(金) 18:34:59.69
>>154
>卑弥呼は大田田根子で
箸墓は大田田根子の墓の可能性もある。<
「南≠東」などに拠って、×。 310日本@名無史さん2019/05/03(金) 18:36:24.07
>>303
縄文人は争いを好まなかったという定説があるからね。
渡来人同士の覇権争いが倭国大乱かもしれん。
奈良に倭国大乱の痕跡が見られないのは、当時はまだ縄文系文化だった証拠かも。 311日本@名無史さん2019/05/03(金) 18:36:41.11
三国志の中の長大の用例が老人を指してないのは確かだけど幾つなのかはちょつと幅あるな
312日本@名無史さん2019/05/03(金) 18:42:10.70
>>159
>・・・卑弥呼(モモソ姫)は天皇と血が繋がってることにした<
「南≠東」などに拠って、×。 313日本@名無史さん2019/05/03(金) 18:44:18.18
桜井市説 メジャーにしようよ
314日本@名無史さん2019/05/03(金) 18:46:21.24
>>311
「成人」という認識でいいと思う
卑弥呼が成人しても嫁がなかったというのは彼女の過去の話であって
朝貢当時の年齢を言っているのではない 315日本@名無史さん2019/05/03(金) 18:48:17.12
稲、稲荷・・・そういう話もしていたし、
むかーしの神(仙)道?
それとも普通の話なのかな
316日本@名無史さん2019/05/03(金) 18:48:41.39
>>161
>天皇と敵対関係にある人や国は「熊」や「蜘蛛」の字で書かれることが多いから<
天皇なんて存在もしていなかったから、×。
>クナ国っていうのは敵対国っていう意味で国名ではないと思うよ<
卑弥呼や難升米らは漢字が使え、漢字で「狗奴國」という文言を説明した筈だから、
狗奴國側の自称でもあった、と思うよ。 317日本@名無史さん2019/05/03(金) 18:50:49.20
5月6日(月)19:00〜 歴史科学捜査班
#31「最新発掘調査! 邪馬台国はどこに?」
古代史最大のミステリー…『邪馬台国』とは、どこだったのか?
数ある説の中でも有力とされてきた「畿内説」と「九州説」。捜査班が各地に赴き、邪馬台国論争の今に迫る。
318日本@名無史さん2019/05/03(金) 18:57:13.76
>>295
>箸墓で大量に出土した壺形埴輪は関東でも広くみられるものw
当然その論文にそんなことが書いてあるはずもなく
箸墓で大量に出土したの特殊壺であって、壺形埴輪は私が知る限り前方部から3点見つかったのみ
箸墓の前方部墳頂祭祀時点で発生はしているが、主に次世代の祭祀用土器であり、古墳文化圏の拡大とともに、それなりの時間をかけて関東まで波及した
女王国の東の海の向こうの倭種の国が女王の後継者世代の政治的影響下に入るのに十分な時間幅がある 319日本@名無史さん2019/05/03(金) 19:05:24.47
>>291
分かった
この遺跡、中国から来たそこそこ偉い女の使者の墓で、ここで亡くなったけど運べないだかで埋葬したんだと思う 320日本@名無史さん2019/05/03(金) 19:17:37.47
>箸墓の前方部墳頂祭祀時点で発生はしているが、主に次世代の祭祀用土器であり・・、
次世代の祭祀用土器とは、まったく理解しがたいセリフ。
321日本@名無史さん2019/05/03(金) 19:18:35.34
以前から書いていることなんだけど
もれ(仮)の言っていること、書いていることは、ほとんど老婆談
あの写真の家のw
嫁だから詳しいのかな・・・何なんだろう
322日本@名無史さん2019/05/03(金) 19:20:13.09
323日本@名無史さん2019/05/03(金) 19:24:23.69
>>320
基礎知として祭祀が世代ごとに変化してるって時代の流れを知らんとね 324日本@名無史さん2019/05/03(金) 19:26:01.82
箸墓の埋葬者は吉備の人じゃないの?
「2018年4月、奈良県立橿原考古学研究所が前方部出土の壺形土器と壺形埴輪26点、後円部頂上から
出土した葬送儀礼用の土器の破片54点を調査した結果、前方部の土器は地元の土であるのに対し、
後円部は吉備地方の土の特徴と酷似していることが分かった。
このことから吉備地方で製造された完成品を後円部に並べたこと、吉備地方の勢力が大きな力を
持っており、箸墓古墳の造営に重要な役割を果たしたことが推測される」
それが卑弥呼だというのならば邪馬台国は吉備だということでしょ?
325日本@名無史さん2019/05/03(金) 19:29:34.26
326日本@名無史さん2019/05/03(金) 19:43:12.16
よくわからないけど、
凄い刀、謎の刀wも飾ってあったと言っているし
ほとんど偶然なのかな〜、何なんだろう?
ということになる
327日本@名無史さん2019/05/03(金) 19:53:47.13
僕達の計算結果では、日本武尊は、5世紀の天皇家に所属するのだったな、、、
328日本@名無史さん2019/05/03(金) 19:57:31.09
邪馬台国の本部は、5世紀に滅ぼされたので、滅ぼした側の天皇家の、公式文章に、記録がないのだな、、、
329日本@名無史さん2019/05/03(金) 20:00:24.95
5世紀になっても、日本国の本部には、墨汁が、無かったのだろうか、、、
330日本@名無史さん2019/05/03(金) 20:03:47.04
屁理屈を考えるのにも苦労が尽きないようだねえ、、。
331日本@名無史さん2019/05/03(金) 20:13:27.94
日本国の本部に、墨汁があった根拠の考古発見物体の、一番古いものは、何だったのだろうか、、、
332日本@名無史さん2019/05/03(金) 20:19:06.92
日本国の本部に、墨汁があった根拠の考古発見物体の、一番古いものの真実の西暦は、年輪や、発生する放射能で検査できるのだろか、、、
333日本@名無史さん2019/05/03(金) 20:21:48.84
333
334日本@名無史さん2019/05/03(金) 20:22:24.48
335日本@名無史さん2019/05/03(金) 20:27:26.58
>>331
明日香で出土した木簡じゃなかったかな
天皇って書いてあったらしい 336日本@名無史さん2019/05/03(金) 20:29:52.89
考古発見物体が、年輪と関係ない物体のときは、一緒に発見された、生物の化石にプラズマテレビの化学で、検査して、100年足せば、良いのではないのかな、、、
337日本@名無史さん2019/05/03(金) 20:30:17.01
畿内は九州の植民地
338日本@名無史さん2019/05/03(金) 20:31:53.54
339日本@名無史さん2019/05/03(金) 20:32:34.27
九州説ってホントにクズだね
340日本@名無史さん2019/05/03(金) 20:32:47.98
明日香で出土した木簡という、優れた考古学者が、紹介してくれた、考古発見物体は、プラズマテレビの化学で検査されたのだろうか、、、
341日本@名無史さん2019/05/03(金) 20:33:51.47
九州は帯方郡の植民地
342日本@名無史さん2019/05/03(金) 20:35:28.33
明日香で出土した木簡という、優れた考古学者が、紹介してくれた、考古発見物体は、プラズマテレビの化学で検査しなくても、年輪があった可能性が、高まってきたな、、、
343日本@名無史さん2019/05/03(金) 20:35:56.62
>>142
>帯方郡から、10日間、海を進んで、
これで九州に上陸できるような高速船は3世紀には存在しない
10日で九州にたどり着くのは物理的に無理
つまりこの読み方=水行の起点は帯方郡、というのはデタラメ読みなんだよ
相変わらず、読点が多いなww 344日本@名無史さん2019/05/03(金) 20:37:51.11
345日本@名無史さん2019/05/03(金) 20:38:29.15
>>342
雇用主に貰った饅頭を食べてから、研究すれば良いのではないのかな、、、 346日本@名無史さん2019/05/03(金) 20:40:03.85
347日本@名無史さん2019/05/03(金) 20:43:19.57
>>199
>同意はするが河川も考えられる
河川はないよ
川のときは泝流、順流という言葉を使う 348日本@名無史さん2019/05/03(金) 20:43:54.10
九大の観潮レーダー解析で、
対馬海峡の各島間千里は潮を利用する1日航海であったと分かっている。
一日千里で間違いない。
349日本@名無史さん2019/05/03(金) 20:44:52.79
そういや伊都国南部や吉野ケ里からは硯が出土してたね。
3世紀に既に文字を使っていたんだろう。
その時代の奈良は。。。
350日本@名無史さん2019/05/03(金) 20:46:13.06
>>204
>渡海千里の千里は距離ではなく一日で到着できるという意味だと畿内説が言ってたな。
これは常識
>しかも奈良の東の倭種の国とは房総半島の事だそうだ。
こんなことを言ってる人はいない
伊勢湾を渡海した先あるいは伊豆半島から渡海した伊豆諸島だ
90度回転説を採るなら、隠岐の島や佐渡でもよい
相変わらずの捏造体質だなww 351日本@名無史さん2019/05/03(金) 20:47:20.27
>>348
じゃあ博多湾から水行20日でどこまで行ってしまうかだなw 352日本@名無史さん2019/05/03(金) 20:48:20.33
>>233
このゴミまだ貼ってるのかよ
外国人のド素人が日本の歴史を勝手に解釈してるだけなのに
そのド素人の言うことを鵜呑みにするって、おめでたいやつだな 353日本@名無史さん2019/05/03(金) 20:49:09.17
354日本@名無史さん2019/05/03(金) 20:49:33.13
とことん数字に弱い畿内説終了
〜糸冬〜
355日本@名無史さん2019/05/03(金) 20:50:40.20
お湯が、湧いたが、玉露が切れていたので、紅茶で良いな、、
356日本@名無史さん2019/05/03(金) 20:52:36.06
感謝します、、、
346日本@名無史さん2019/05/03(金) 20:40:03.85
>>342
7〜8世紀の飛鳥池工房遺跡だよ 357日本@名無史さん2019/05/03(金) 20:52:40.38
>>351
水行20日は帯方郡から投馬国までのこと。
その内訳は、帯方郡〜末盧国の1萬里を10日、末盧国〜九州西岸回り〜宮崎西都市都万まで1萬里を10日、これでドンピシャ。 358日本@名無史さん2019/05/03(金) 20:55:59.80
>>352
見てきたけど、こう書いてあったぞ。
日本の歴史の第3版が変わります日本の古代史/幕府/近代史/第二次世界大戦/日本の歴史(B局から転載を許可されています。オリジナルのビデオ作者を支持してください! 359日本@名無史さん2019/05/03(金) 20:56:14.54
>>357
じゃ、なんで「南」って方位が書いてあるの? 360日本@名無史さん2019/05/03(金) 21:05:14.34
>>359
帯方郡もしくは九州北岸末盧国から西都都万は南だろ。
そこへ行くのに、船で行けば(1萬里を)10日ってことさ。
文章に忠実・正確に言えば、不彌国から南の方角に投馬国あり。(帯方郡からの)水行日数は20日。 361日本@名無史さん2019/05/03(金) 21:11:11.72
>>358
つまり出典不明のデータってことな
名前も所属してる研究機関も不明
どこの馬の骨ともわからん外国人が作った動画だということ 362日本@名無史さん2019/05/03(金) 21:14:57.15
九州説のやつらは日本の専門家を信用しないが
どこの馬の骨ともわからん外国人の言うことは鵜呑みにする
363日本@名無史さん2019/05/03(金) 21:18:37.52
>>215
>想像ではなく合理的推定だね
>正史として発表した国の方針に完全に逆行してるだろ
日本書紀の雄略紀には、ちゃんと遣呉使が記されてるよ
もの知らずが適当なこと言っちゃダメだって
隋の裴世清が来たこともちゃんと書いてあるんだから 364日本@名無史さん2019/05/03(金) 21:18:55.04
>>360
距離の起点と方角の起点が別とか
なに考えてんの
そんな文章書くやつ正気じゃねーわ 365日本@名無史さん2019/05/03(金) 21:19:40.76
日本の考古学者を信用するような井の中の蛙は畿内説だけかもなw
366日本@名無史さん2019/05/03(金) 21:22:47.80
>>363
またヨタ言ってら
だから、朝貢を伏せてるだろ
国内的には中国のほうを蕃国扱いしてんだから、国交は伏せる必要ないんだよ
まったく無知な奴だな 367日本@名無史さん2019/05/03(金) 21:24:25.81
素人が専門家よりも偉いと思っているとトンデモまっしぐらだなw
368日本@名無史さん2019/05/03(金) 21:25:04.94
>>237
>孔明や皇帝らが倹約しているのに、その家臣が厚葬出来るものではない。
でも倭王を差し置いて、征東将軍とやらはでかい墓を作っていいんだろ?
本当にでまかせだらけのいい加減だよなww 369日本@名無史さん2019/05/03(金) 21:27:45.76
370日本@名無史さん2019/05/03(金) 21:28:07.70
>>237
>壹與も、家臣らが魏の役人たちであったから、当然薄葬令の影響下のあった。
いや、高いのが冢で、低いのは冢じゃないって話だぞww
元の>>103を読めよ
「なお、「塚は高墳也」という如く、
墓の全長に対する盛土の高さの比が小なるものを「墳」といいく、
全長に対する高さの比率が数倍に及ぶ背高のものを「塚」と呼んで区別した。」 371日本@名無史さん2019/05/03(金) 21:29:25.03
ザラコクの勝手定義
372日本@名無史さん2019/05/03(金) 21:33:37.42
だいたい冢って大の意味だからね
373日本@名無史さん2019/05/03(金) 21:34:25.04
>>243
>「具体的に奈良を示す記述は皆無」ですね?
>奈良盆地をイメージできますか?
「大臣朝臣真人」って書いてあるじゃないか
これは粟田朝臣真人だよ
奈良の貴族そのものだから、奈良以外はイメージできないなww
>残念でした
残念なのは>>243の頭だよ
よく恥ずかしげも無く生きてられるね? 374日本@名無史さん2019/05/03(金) 21:39:42.81
>>369
畿内教会には畿内説派と桜井説派があるそうだ 375日本@名無史さん2019/05/03(金) 21:41:08.88
そろそろ、僕達の孫達が、悪のりの続行を再開する時間が、到来したのでは、ないのかな、、、
376日本@名無史さん2019/05/03(金) 21:41:33.80
377日本@名無史さん2019/05/03(金) 21:43:16.05
>>373
だから、真人くんは奈良でも奈良盆地でもないですよね?
「具体的に奈良を示す記述は皆無」ですね?
奈良盆地をイメージできますか? 378日本@名無史さん2019/05/03(金) 21:45:28.79
379日本@名無史さん2019/05/03(金) 21:46:24.45
>>257
>方角間違えるとか、古代人をなめ過ぎだろw
>しかも紀元前の方が人類の歴史は長いんだぞw
相変わらず反論にもならないことを延々と書き続けるんだな?
バカ?
その場で方角を間違わないことと、史書に書かれるまで間違いが無いことは
同値ではないと何度教えれば分かるんだ
バカ?
畿内説は魏使が方角も分からないバカだったというものではなく、
三国志に記述されている方角が現実に合わない、だ 380日本@名無史さん2019/05/03(金) 21:46:32.87
僕達の老婆(仮)
妹の誕生日は、5月15日、もち、キュウリのはっぱだっーの
381日本@名無史さん2019/05/03(金) 21:46:50.52
>>364
>距離の起点と方角の起点が別とか
日数はあくまで日数(単位:日)であり、決して距離ではない。
しかし、方角と距離は密接であるから、両者の起点は同じでなくてはおかしい。
ただ、日数と方角は密ではないから、別起点ということは有りうる。
この場合は、「方角は南である。(ただ参考までに日数を記せば)水行20日である・・」、という書き方だ。 382日本@名無史さん2019/05/03(金) 21:49:40.90
蒔絵をまけば、蛸が釣れる???
383日本@名無史さん2019/05/03(金) 21:50:59.24
うんこたれそう
w
384日本@名無史さん2019/05/03(金) 21:51:04.72
>>379
畿内説曰く、魏の時代は日本列島が南に長く伸びる島だと思っていたと言っていただろ?
はるか遠方まで航行出来ていた中国様を馬鹿にし過ぎじゃねえのか? 385日本@名無史さん2019/05/03(金) 21:51:33.86
>>381
じゃ、なんで起点を書かないの?
書き方としておかしいでしょ? 386日本@名無史さん2019/05/03(金) 21:51:44.44
うんこたれそう
w
387日本@名無史さん2019/05/03(金) 21:52:13.82
うんこたれそう
w
388日本@名無史さん2019/05/03(金) 21:52:50.58
>>384
実際に、中国様がそういう地図を描いて残ってるわけだが 389日本@名無史さん2019/05/03(金) 21:53:10.03
たれたwww
390日本@名無史さん2019/05/03(金) 21:53:50.61
うんこスレ
391日本@名無史さん2019/05/03(金) 21:54:24.08
結局のところ畿内説は畿内説同士で整合性が取れず却下されるしかないのか。。。
畿内説らしき奴もアホばっかやな
まあ5chやからしゃあないか
392日本@名無史さん2019/05/03(金) 21:55:49.67
393日本@名無史さん2019/05/03(金) 21:55:56.64
おまえもな
394日本@名無史さん2019/05/03(金) 21:57:16.34
おまえのな
395日本@名無史さん2019/05/03(金) 21:57:59.09
396日本@名無史さん2019/05/03(金) 21:59:31.51
邪馬台国畿内説の宣伝係員が、討論会に、夢中になり、名誉の脱糞を敢行が可能性が高まってきたな、、、
397日本@名無史さん2019/05/03(金) 22:00:51.14
>>273
>幾らしゃべっても「服」の本義は「服する」という自動詞の意味であったのであり、
こういう嘘を平気で書き続けるからww
中国語の辞書でも
服从,顺服 [obey;submit (oneself) to]
って書いてあるんだよ
obeyもsubmit (oneself) toも他動詞だろ?
いくらデタラメなザラコク解釈を書いてもダメww
現実はザラコクに冷たいんだよw 398日本@名無史さん2019/05/03(金) 22:02:39.14
文法、文法、という孫達からのメールが、一斉に発射されてしまった。。
399日本@名無史さん2019/05/03(金) 22:04:10.92
400日本@名無史さん2019/05/03(金) 22:05:49.42
>>396
この人むかし東遷脱糞厨と呼ばれてた人? 401日本@名無史さん2019/05/03(金) 22:06:27.89
75パーが、自由に、泳ぎ出した可能性があるので、また、笑える良いスレッドになるな、、
402日本@名無史さん2019/05/03(金) 22:06:37.51
>>282
>ヤマトという地名は地図に記載されない小さな村も含めると九州には沢山あるんだよ。
そうなんだよ
小さな地名ばかりで過去において都が置かれたような
栄えた「ヤマト」は九州には一つもない
>しかし近畿にはそれが無いんだよ。
近畿にあるのは王都のヤマトであり、次第に広い範囲を代表するようになった大和だよ 403日本@名無史さん2019/05/03(金) 22:06:52.81
九州はみなボケ老人
404日本@名無史さん2019/05/03(金) 22:07:33.95
>>399
小さな紙に書ききれず日本を縦にむりやり突っ込んだチョン製複製を畿内説の根拠にしてたんだよなw
いつの話だよw 405日本@名無史さん2019/05/03(金) 22:08:10.38
>>401
その人にひとことも反論できないド・パーがお前だな 406日本@名無史さん2019/05/03(金) 22:08:41.02
畿内は九州の植民地
407日本@名無史さん2019/05/03(金) 22:09:27.69
意味がわからない、意見の発表も、少しは、リラックスの助けになるな、、、
400日本@名無史さん2019/05/03(金) 22:05:49.42
>>396
この人むかし東遷脱糞厨と呼ばれてた人? 408日本@名無史さん2019/05/03(金) 22:09:41.15
九州説はみんな自分が偉いと勘違いしてる傲慢じいさん
409日本@名無史さん2019/05/03(金) 22:09:40.95
>>404
などと根拠のない想像しか出来ない
それが情弱九州説 410日本@名無史さん2019/05/03(金) 22:10:08.67
>>399
それが中国製だアホ
一辺2m以上の巨大なやつ知らんのか? 411日本@名無史さん2019/05/03(金) 22:10:10.45
412日本@名無史さん2019/05/03(金) 22:12:56.11
413日本@名無史さん2019/05/03(金) 22:13:59.39
>>358
今さらどうなるものでもないが、日数の起点を書かなかったのは、俺もおかしいとは思う。
しかし、当時の人々にとって、水行一日千里が常識であったのではないか。
ん、南至水行20日ね、
なんだこれは帯方郡から投馬国までの2万里のことか、、、とすぐ見当がついたのではないか。
古代は古代なりに、常識的な数字というものはあったと思う。
逆に古代の人にはとうてい理解しがたいであろうが、
「新幹線で3時間」といえば、現代人のわれわれなら、ははん東京−大阪のことかなと、およそ見当はつく。
水行20日も、そんな感じじゃなかったのかな。 414日本@名無史さん2019/05/03(金) 22:14:56.13
415日本@名無史さん2019/05/03(金) 22:15:30.07
もう一つ、饅頭を食べてから、レベルの低い、5ちゃんねるとは、別の、頭がカラフルになるかどうか、ギリギリの、レベルの高い、闘いの場へ、立ち向かえば、良いな、、、
416日本@名無史さん2019/05/03(金) 22:17:00.59
>>287
>そもそも奈良盆地には何も無かったんだよ。
嘘つきw
奈良盆地の弥生時代の遺跡分布
417日本@名無史さん2019/05/03(金) 22:17:21.36
当たって死んでくれ
418日本@名無史さん2019/05/03(金) 22:18:38.63
結論としては、邪馬台国があった頃の畿内は縄文式文化の継続地域だったということか。ふむふむ。
419日本@名無史さん2019/05/03(金) 22:21:46.07
そもそも弥生って関東の地名だよな?
そこで見つかった土器より古いのは縄文式からさらに発展したもの又は派生と考えるべきでは?
420日本@名無史さん2019/05/03(金) 22:23:43.70
>>419
いちばん古いものが最初に見つかるわけではない 421日本@名無史さん2019/05/03(金) 22:26:29.79
>>351
>じゃあ博多湾から水行20日でどこまで行ってしまうかだなw
博多湾から出雲までの日本海側沿岸航行だよ
1日20キロ程度で、10日単位で丸めると20日になる 422日本@名無史さん2019/05/03(金) 22:26:30.96
東大の裏だから偉い先生がすぐ見つけただけ
423日本@名無史さん2019/05/03(金) 22:28:26.81
>>357
>その内訳は、帯方郡〜末盧国の1萬里を10日
その距離はどうやっても10日じゃ着かないんだって何度教えればいいんだ? 424日本@名無史さん2019/05/03(金) 22:29:47.25
>>421
苦しい言い訳やなw
で、女王国東の渡海千里にある倭種の国は?
一日で行ける場所だ。 425日本@名無史さん2019/05/03(金) 22:31:02.76
その弥生町式土器は今の時代観だと土師器になるらしい
426日本@名無史さん2019/05/03(金) 22:34:41.07
>>377
>「具体的に奈良を示す記述は皆無」ですね?
>奈良盆地をイメージできますか?
粟田朝臣真人は続日本紀に出世の次第も順に書いてあるのにそれを無視してごたごた言ってもムダ
奈良盆地の様子が書いてないって、倭國からの遣唐使がきたという記録に倭國の細々したことは
書いてないのが当たり前
九州のことも書いてないしイメージできないのに何を言ってるんだ? 427日本@名無史さん2019/05/03(金) 22:37:33.10
>>426
真人が出てくるのは倭国条じゃなくて日本条だから。 428日本@名無史さん2019/05/03(金) 22:38:26.39
だめだこりゃw
429日本@名無史さん2019/05/03(金) 22:40:28.66
>>384
>はるか遠方まで航行出来ていた中国様を馬鹿にし過ぎじゃねえのか?
その「はるか遠方まで航行できていた中国様」のソースプリーズww
中華の王朝は基本的に海に出るのが苦手な内陸王朝だぞ
せいぜい黄海の半島から半島へ渡るくらいだ
論衡に記された百越の流れの倭と、日本列島の民族を同じ倭だと信じてしまったので、
それと整合性を取るためにも、会稽東治之東に届くほどの
南北に長大な洲島を想定する必要があったんだよ 430日本@名無史さん2019/05/03(金) 22:42:16.29
>>400
>この人むかし東遷脱糞厨と呼ばれてた人?
連続句読点っていう韓国大好きな人だよ 431日本@名無史さん2019/05/03(金) 22:42:53.13
>>429
お前さん初めてここ来たのかい?
列伝ぐらい読んでこいよ。
倭人伝はその中の一つなんだから。 432日本@名無史さん2019/05/03(金) 22:45:22.49
>>413
>しかし、当時の人々にとって、水行一日千里が常識であったのではないか。
渡海と水行を区別していない時点で却下だよ
史書の地理・旅程記事で「水行、陸行」という表記を採用したのは三国志の陳寿その人
水行と渡海ははっきり区別されてるよ 433日本@名無史さん2019/05/03(金) 22:52:44.53
>>424
>で、女王国東の渡海千里にある倭種の国は?
>一日で行ける場所だ。
これも何度も教えてるだろ?
>>350でも書いたように
伊勢湾を渡海した先あるいは伊豆半島から渡海した伊豆諸島だ
90度回転説を採るなら、隠岐の島や佐渡でもよい
魏略ではその記述は冒頭にあるし、倭国本土(本州四国九州)の周辺の
渡海千里で行ける島も全部倭種ってだけの記述だぞ
東渡海の前も倭種だから「皆」倭種という表現になっている
魏略
倭在帯方東南大海中 依山島爲國 度海千里復有國 皆倭種
この位置なら、対馬や壱岐へ渡海千里しても、そこも皆倭種という意味になる
東とも書いてないし 434日本@名無史さん2019/05/03(金) 22:57:05.22
本当に日本(実際は日本ではない?)でいうと
寒いな〜の家の話ばかりなんだけど、
どういう事になっているんだろう
435日本@名無史さん2019/05/03(金) 22:58:42.08
東遷脱糞厨→物部厨→葛城厨→左側スロープ厨
436日本@名無史さん2019/05/03(金) 23:02:54.38
>>433
それさ、伊勢から伊豆まで1日で行けるのならば、博多から出雲まで20日もかかるのはおかしいという意味でしょ 437日本@名無史さん2019/05/03(金) 23:08:00.47
>>180
>倭国大乱を収束させるため近畿、出雲、北部九州の勢力が連合し
邪馬台国(ヤマト)を成立、卑弥呼を女王として拠点を畿内に移す<
「南≠東」などに拠って、×。 438日本@名無史さん2019/05/03(金) 23:12:34.25
>>184
>記紀の作者は邪馬台国は奈良って当たり前のように
思ってたってことなんだよな <
「邪馬台国」なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
記紀は倭国の存在や歴史を抹殺盗用造作している半分×書であるから、×。 439日本@名無史さん2019/05/03(金) 23:14:58.71
>>185
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説の、
水行30日の説明も、嘘吐き騙しの詐欺ばかりだな 440日本@名無史さん2019/05/03(金) 23:16:09.39
>>427
>真人が出てくるのは倭国条じゃなくて日本条だから。
どこまでもチェリーピッキング体質だな
その日本条に>>229で引用されているように
「長安三年,其大臣朝臣真人來貢方物」と長安三年の遣使だと書いてあるな?
そしてこの長安という元号は武則天の武周の元号だ
そして、唐会要の「倭國条」に
「則天時。自言其國近日所出。故號日本國。蓋惡其名不雅而改之。」とあって、
則天時の長安三年に来た「倭國の使いの粟田朝臣真人=奈良の朝廷の貴族」が
倭国から日本国への国号の変更を申し出たことが分かる訳だ
いろんな史書の対応を総合的に見て、整合性が取れる解釈をしないとダメなんだよ
「これは日本国条だから」とかいうのは、チェリーピッキング初級だww 441日本@名無史さん2019/05/03(金) 23:18:44.03
>>431
>列伝ぐらい読んでこいよ。
>倭人伝はその中の一つなんだから。
で、列伝のどこに、中華王朝の外洋遠征の話があるんだ?
具体的に示してみな
黄海の山東半島から遼東半島への渡海はもう書いてあるぞ 442日本@名無史さん2019/05/03(金) 23:20:56.51
>>187
>天武が邪馬台国を知っていたとは思えん。
わからんので適当に話を作ってアレイに吹き込んだのだろう。<
天武は、皇子名や、天智よりも年上や、天智の息子殺しや、
宗像の姫を妻にしているなど、九州倭国の出目であった可能性が高いから、
倭国の事は知っていたんだろうが、邪馬壹國の事は知らなかった可能性もあるな。 443日本@名無史さん2019/05/03(金) 23:22:47.90
>>436
>それさ、伊勢から伊豆まで1日で行けるのならば、博多から出雲まで20日も
>かかるのはおかしいという意味でしょ
どうしてそういうインチキ読みするかな?
案A 伊勢湾の渡海 伊勢から渥美半島へ
案B 伊豆諸島への渡海 伊豆半島から伊豆諸島へ
案C 本州から隠岐の島、佐渡
このAとBをどうしてニコイチにするんだ? 444日本@名無史さん2019/05/03(金) 23:25:38.70
>>191
ちなみに「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
現代文部省や右翼学会教育界学者らの発明 445日本@名無史さん2019/05/03(金) 23:28:05.65
いつ、覗いても、邪馬台国畿内説が、論破されているな、、、
446日本@名無史さん2019/05/03(金) 23:30:19.42
>>198
>邪馬台国が奈良だとしたら知ってたよ <
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるから×だし、
「南≠東」などに拠っても、×ね。 447日本@名無史さん2019/05/03(金) 23:31:18.86
>>443
そんな主観的想像を並べても余計に信用なくすだけでしょ 448日本@名無史さん2019/05/04(土) 00:00:23.49
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
449日本@名無史さん2019/05/04(土) 00:06:27.50
>>447
>そんな主観的想像を並べても余計に信用なくすだけでしょ
>>443は>>436のインチキ読みを咎めたもので、渡海千里皆倭種の解釈としては
>>433で書いたように
魏略ではその記述は冒頭にあるし、倭国本土(本州四国九州)の周辺の
渡海千里で行ける島も全部倭種ってだけの記述
東渡海の前も倭種だから「皆」倭種という表現になっている
魏略
倭在帯方東南大海中 依山島爲國 度海千里復有國 皆倭種
この位置なら、対馬や壱岐へ渡海千里しても、そこも皆倭種という意味になる
東とも書いてない
東渡海千里の倭種は倭国じゃないという九州説の主張は「皆」を
無理に読み落とすというインチキの上に成り立っている 450日本@名無史さん2019/05/04(土) 00:13:05.97
>>>>295
(2)東日本は平底の世界
東日本で有段口縁壺が出土すると,
私どもはすぐに近畿の布留式あるいは布留系の土器と考え,
近畿の編年と比較しがちである。
しかしよく資料を見ると,その姿勢が過ちの素であることに気づく。
西日本において,布留式の影響が強く働いた地域では,基本的に丸底の世界に変わる。
甕,小型土器群はもちろん,壺の大半も例外ではない。
一方,東日本で出土する有段口縁壺の大半は,平底である。
有段回縁壺が近畿起源であるとしても,東日本で丸底化しない事実を考慮すれば,
それは東日本に根付いた地元の土器と考えるべきであろう。 451日本@名無史さん2019/05/04(土) 00:22:54.86
>>448
>A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
>「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
これ「川じゃない」って言いきっていいと思う
後代史書で、ガンジス川とソンホン川に水行を使っている例があるけれど、
どちらも水行距離が千里を越える大河で、今日でも内陸航路に使われている
日本の川のような小さな川の水行は一例たりともない
循海岸水行のように海を示す語句がなければ川だと言う人がたまにいるけれど、
そもそも、この循海岸水行が全史書の中で地理・旅程記事に「水行」を使った初出なので
丁寧に説明しただけ
むしろ、水行と言えば循海岸というように読めばよい 452日本@名無史さん2019/05/04(土) 01:23:12.74
年表を若干修正した
西暦57年 金印「漢委奴国王」を授かり、初代・神武天皇が誕生した。
107年 第6代・孝安天皇(倭国王帥升等)が後漢に朝貢した。
177年 第10代・崇神天皇が即位した。
179年 奈良県の三輪山西麓の瑞籬宮に都を移した。
181年 ニュージーランドのタウポ大噴火
181年 疾病の流行。『崇神紀』によると「倭国の人口の半分が死んだ」
181年 『後漢書』によると「空が黄色くなり太陽が覆われた。」 「6月に雹が降った。大きさは鳥の卵ほどもあった。」
182年 『後漢書』によると「井戸の中が凍ってしまった」異常気象を示す記述は2年続く
181〜184年 倭国大乱
183年 モモソ姫の助言で大田田根子に大物主神を祀らせたら五穀豊穣となり疾病が治まった。
184年 疾病などの影響で崇神天皇が権威を失った。倭国を救ったスーパーヒーローのモモソ姫か大田田根子が女王・卑弥呼になった。
184年 黄巾の乱が勃発し、漢が衰退した。漢から授かった金印の権威消失。
198年(戊寅年) 崇神天皇が崩御した。
199年 第12代・垂仁天皇が即位した(女王・卑弥呼を補佐する役割)
202年 纒向珠城宮(纒向遺跡)に都を移した。
※『魏志倭人伝』によると官のトップは伊支馬(垂仁天皇の本名は伊久米),次席は弥馬升(垂仁天皇后の本名は日葉酢)
237年 垂仁天皇が崩御した。
238年 第12代・景行天皇が即位した。(女王・卑弥呼を補佐する役割)
238年 難升米と都市牛利が魏に朝貢した。卑弥呼が「親魏倭王」の金印を授かった。
248年 『三国志』によると女王・卑弥呼がついに亡くなった。
264年 景行27年、景行天皇の息子ヤマトタケルが熊襲討伐に成功。
266年 台与が晋に朝貢した。
※約100年間の空白期間
※卑弥呼と台与を日本の歴史から消す代わりに架空の天皇である第13代天皇と第14代天皇を創作し空白期間を埋めた。
390年 第15代・応神天皇が即位した。
453日本@名無史さん2019/05/04(土) 01:30:59.55
454日本@名無史さん2019/05/04(土) 03:38:14.53
455日本@名無史さん2019/05/04(土) 05:54:20.91
>>206
>遣唐使が頻繁に通っていた時代だって、そんなもん無いぞ
発想がおかしい <
魏志倭人伝での「南≠東」だけではなく、
遣唐使が往来していた唐代の記録の唐会要倭國伝でも、
倭國は「正北抵新羅」であったんだから、倭國は北部九州にあったのであり、
大和説は×なんだぞ。 456日本@名無史さん2019/05/04(土) 05:59:47.24
>>455
つまり方位が間違ってるって証拠だよ薄ら馬鹿爺さん 457日本@名無史さん2019/05/04(土) 06:04:39.03
>>215
>想像ではなく合理的推定だね
正史として発表した国の方針に完全に逆行してるだろ<
いや、「正史」とやらの記紀は、
歴代中国史書群が記録してきた倭国の存在や歴史を抹殺盗用造作している半分偽書であり、
そんなものを根拠にしたって、「合理的推定」の根拠にならない。
3世紀でも「南≠東」に拠って、倭国は九州にあったのであり、
8世紀でも唐会要倭國伝の「正北抵新羅」に拠って、倭国は北部九州にあった。 458日本@名無史さん2019/05/04(土) 06:13:28.16
>>218
>陸行1月は 倍かかったとしても300キロは進んだでしょう
すると各説 とんでもないところに着いてしまいます
倭人伝で表示された日数表示には水行も含め疑問の余地はあります 👀<
だから、「水行二十日」は、「萬二千余里」がほぼ終わった不彌國から南への、
側副傍線國の投馬國への所要日数距離表示。
「水行十日陸行一月」は、郡から女王之所都までの所要日数としての付加説明付加であり、
「歴韓國乍南乍東」は陸行。 459日本@名無史さん2019/05/04(土) 06:20:06.00
要するにザラコク爺さんは反社会的勢力の人で
日本政府に抵抗してる過激派極左シンパで
暴力革命ができないと諦めたからこうして
日本の歴史も文化も全部破壊したいんだろ
460日本@名無史さん2019/05/04(土) 06:29:18.21
理由なし
結論ありきの決めつけ100%
自分たち覚醒エリートには人民を導く義務があるエヘン
それが九州説という名を借りた極左政治思想
461日本@名無史さん2019/05/04(土) 07:31:29.39
>218日本@名無史さん2019/05/03(金) 15:53:16.26
>江戸日本橋から京都三条大橋までの距離は約492km
>一般的に、徒歩で13日から15日前後かかっていたようです。
江戸時代とごちゃまぜはイカンな。
道も橋も未整備、宿場もなく、食べ物も売っていなかった古代のことだ。
草を払い、倒木を片付け、朝夕にメシを炊き、河で風呂を使い、野営しながらの道なんだからな、、
462日本@名無史さん2019/05/04(土) 07:37:15.42
>>218
>陸行1月は 倍かかったとしても300キロは進んだでしょう
>すると各説 とんでもないところに着いてしまいます
「陸行一月」 距離約350km 歩行速度11.7km/日 @阿波
陸行一月区間(旧土佐街道 別名土佐浜街道) 途中の河川は川船で渡河
投馬国(土佐国宿毛) ➡ 魏使一行 阿南市若杉山辰砂採掘現場視察 ➡ 女王国(阿波国鮎喰川下流域集落群) 463日本@名無史さん2019/05/04(土) 07:44:58.41
陳寿はバカだ、オレ様の倭人伝解釈のほうが正しい・・、
などと云うのは本末転倒
464日本@名無史さん2019/05/04(土) 07:49:11.88
465日本@名無史さん2019/05/04(土) 07:52:52.21
>>238
>>前方後円墳は「冢」ではないから、×。<
>千回連呼しても根拠がないから、×<
漢字漢文では「冢≠墳」だから、この大和説・・・・男も×。 466日本@名無史さん2019/05/04(土) 07:59:45.83
>>241
>それでいくと邪馬台国の時代の奈良盆地はまだ倭国の新入りだもんな。
出雲など日本海沿岸に渡来した連中が最終的に、大和に都を置いたと考えるのが合理的な気がする。<
唐会要倭國伝の「正北抵新羅」に拠って、倭國は唐代まで北部九州が中心だ、という認識であり、
日本國伝は、倭伝と並立している書き方であり、大和日本国は倭國から別れた別種の旧小国であった、という書かれ方。 467日本@名無史さん2019/05/04(土) 08:03:12.93
好字令以降の慣習で、日本語も日本人の頭も、二文字熟語文化の中にある。
しかし倭人伝は中国文化だ、漢字一文字ずつを切り離して読むべし。
決して、二文字熟語として読んではいけない。
468日本@名無史さん2019/05/04(土) 08:04:43.35
>>242
>北部九州から水行30日の位置にあるので<
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている書き方であり、「北部九州から水行30日」の一にある、とは書かれていないから、
×。
>邪馬台国が北部九州の可能性はゼロだよ<
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
「南≠東」や「正北抵新羅」によっても、大和の可能性はゼロだよ。 469日本@名無史さん2019/05/04(土) 08:09:55.42
>>250
そうやって、
「倭国の存在や歴史を否定盗用造作した半分偽書」の怪しい記紀に頼れば頼るほど
世間で大和説の信用は落ちていく 470日本@名無史さん2019/05/04(土) 08:14:39.58
>>256
結局また、理由も言わずに思考停止して、
「南≠東」や「倭國は正北抵新羅」などから隠蔽逃亡して、
大和説の結論連呼になる
これが嘘つき騙しの・・・・詐欺師の大和説の末路だ 471日本@名無史さん2019/05/04(土) 08:20:13.72
「墳」は、全長に対する高さの比が小さい。0.1〜0.2くらいのものだろう。
横から見ると、人工の台地か、工事残土の盛り土。
しかし「塚」は、全長に対する高さの比がかなり大きい、0.3〜0.5くらいにはなるだろう。
大げさに例えれば、(八合目以上が欠けた)ピラミッドのように、ぐっと見上げる感じになる
始皇帝陵(始皇帝塚)が好事例だ。
472日本@名無史さん2019/05/04(土) 08:21:22.24
>>260
「歴韓國乍南乍東」や「對海國や一大國の国内見聞移動」は、
陸行しないと行けないのに、水行したとか、
「南→東」の嘘つき騙しとか、
倭国の「正北抵新羅」の抹殺隠蔽とか、
こうやってインチキ解釈を重ねて、
大和説は迷路に入っていく 473日本@名無史さん2019/05/04(土) 08:23:32.17
>>262
>>箸竹を使い始めたのが奈良時代だというのに、箸墓は3世紀とかいうアホもおったな・・・
なつかしいw<
ふーん、成程。 474日本@名無史さん2019/05/04(土) 08:26:35.12
>>264
「南→東」や「冢=墳」の嘘つき騙しや、
「正北抵新羅の無視」や、
「大和日本国は倭国の別種の旧小国」の隠蔽など、
大和説者の現実逃避スゲー 475日本@名無史さん2019/05/04(土) 08:30:23.46
>>267
>>倭人伝の行程説明ルールに従って読めば、ほぼ九州だ。と比定され<
>そういうウソをいくら言い張っても 会稽は大隅半島より南だから <
そういうウソつき騙しをいくら言い張っても、
陳寿の女王國の位置推定の「会稽東治」の東は、ほぼ九州島付近だから。 476日本@名無史さん2019/05/04(土) 08:31:41.53
別の云い方をするなら、
「墳」は広い墳頂広場を有しており、そのうえで祭祀を行うように作られている。
しかし「塚」の頂部は狭いので、墓標や祠くらいは置いたかもしれないが、基本的には頂部へ登らない。
祭祀は、塚の前に玉垣をしつらえて行う形式であった(ある)のであろう。
477日本@名無史さん2019/05/04(土) 08:36:37.08
>>269
大和説者は、「戦争反対平和主義の天皇家」に反対で、
「9条を改悪して戦争出来る国にしたい」安部自民などや、
右翼マスコミ人種らや人種差別戦争狂の学会教育界に、賛成し過ぎだな。 478日本@名無史さん2019/05/04(土) 08:46:03.00
畿内説は政治と無関係だけど
九州説は左翼的な立場で発言してるって事か
九州説が普段言論封鎖的な発言してるのはそのせいなんだな
479日本@名無史さん2019/05/04(土) 08:50:45.84
480日本@名無史さん2019/05/04(土) 08:50:48.67
畿内説は皇国史観に基付くもので政治的な意味合いが極めて高い説なんですけど
現皇室が古来より一貫して日本を統治してきたこれが史実であると
これを証明するのが畿内説の目的。
481日本@名無史さん2019/05/04(土) 08:54:52.41
>>480
その「古来」というセリフこそ曲者。
旧石器時代からか? 縄文時代からか? 弥生の初めからか? 弥生後期からか? それとも古墳時代からか? 482日本@名無史さん2019/05/04(土) 08:58:52.86
何かあるとすぐに東遷と主張する九州説が言ってもねー
483日本@名無史さん2019/05/04(土) 09:00:46.83
>>481
紀元は2600年だから
弥生の初めかくらいらかじゃないの
畿内説の人に聞いてよ
人によって多少違うかもしれないけど。 484日本@名無史さん2019/05/04(土) 09:01:49.43
チョンの立てたチョンスレ上げんな
485日本@名無史さん2019/05/04(土) 09:08:14.72
>>483
そうか、ちと読み違えたわ。
畿内説の認識は、弥生の初めからだろうから、
それ以前〜それ以後の先住の民族・種族・部族の権利は一切認めない・・・、ということ。
言い換えれば、畿内人以外の権利、畿内説以外の説も認めないという意味になろ。 486日本@名無史さん2019/05/04(土) 09:09:32.14
>>480
九州説にはこんなウソを平気でつく人しか残っていないのか 487日本@名無史さん2019/05/04(土) 09:26:25.99
2600年前の弥生の初めからということは、
弥生の渡来人たちの内では、皇祖が一番先に倭国・大和にやってきた種族であ〜る、
という意味も込められているのか。 なるほど、口から出まかせの2600年ではないのだな・・。
488日本@名無史さん2019/05/04(土) 09:58:55.58
畿内説では神武東征も否定し大和朝廷畿内発生説を主張する人もいる
最近の研究で渡来人が本格的に日本列島に流入したのは弥生時代後期以降だと判明し
畿内に渡来人が来たのも弥生時代後期以降なんだ
神武が実在したなら弥生時代後期以降である事になるよね。
489日本@名無史さん2019/05/04(土) 09:59:55.59
口から出まかせは九州説だけさ
490日本@名無史さん2019/05/04(土) 10:26:53.28
>>483
>紀元は2600年だから
>弥生の初めかくらいらかじゃないの
>畿内説の人に聞いてよ
九州説が右翼皇国主義の天皇家万世一系思想であることを自白 491日本@名無史さん2019/05/04(土) 10:33:37.37
492日本@名無史さん2019/05/04(土) 10:58:40.28
>>452
>199年 第12代・垂仁天皇が即位した(女王・卑弥呼を補佐する役割)
佐治国男弟をどう考えてる?
官筆頭の伊支馬とは別人だろう
佐治国男弟が崇神で、その皇太子イクメ(垂仁)が官筆頭の方が据わりがよいと思うが?
タウポの噴火〜黄巾の乱の頃は倭国乱の始まりの時期で、そこから何年も経ってから、
収拾のための卑弥呼の共立があったとする方が時系列に合うと思う
卑弥呼の寿命から考えて、2世紀末の共立は厳しいと思うが? 493日本@名無史さん2019/05/04(土) 11:01:06.25
>>465
>漢字漢文では「冢≠墳」だから、
漢字漢文では冢=墳なんだなぁww
冢 高墳也 494日本@名無史さん2019/05/04(土) 11:04:01.72
>>470
>「墳」は、全長に対する高さの比が小さい。0.1〜0.2くらいのものだろう。
>横から見ると、人工の台地か、工事残土の盛り土。
よくまあ、こんなデタラメな想定ができるなあ
墳は「盛土」で、高くても低くても墳だよ 495日本@名無史さん2019/05/04(土) 11:04:54.81
>>491
陳寿本人が会稽の地名を出してるんだ
九州最南端より明らかに南だよ
ザラコクは無理やり会稽を北に移動するウソをつき
他の九州説は全員沈黙する
これが九州説の惨状だよ 496日本@名無史さん2019/05/04(土) 11:06:28.19
>>476
>「墳」は広い墳頂広場を有しており、そのうえで祭祀を行うように作られている。
>しかし「塚」の頂部は狭いので、墓標や祠くらいは置いたかもしれないが、
>基本的には頂部へ登らない。
また新手のバカが出たのか?
自分の勝手な想像は、現実にはならないんだってば! 497日本@名無史さん2019/05/04(土) 11:11:51.81
>>486
>九州説にはこんなウソを平気でつく人しか残っていないのか
まともな判断力のある人は、現状の考古遺物の発掘状況その他研究成果を一通り見聞きすれば、
畿内説以外に採りようがないことが理解できるからね
今どき九州説を主張している人は、基本的にまともじゃないんだよ
現状の研究成果を捏造・デタラメだと名誉毀損級の誹謗中傷を主張しないと、
九州説を維持できないところまで来ている 498日本@名無史さん2019/05/04(土) 11:15:23.84
>>494
ちなみに冢は頂と音通で高い・大きいなどの意味もある
当時の高塚である前方後円墳にピッタリだ 499日本@名無史さん2019/05/04(土) 11:21:06.94
>>496
つーか
墳頂で祭祀してる箸墓は「冢」でおkの
言質いただきマシタサンキュー
って感じ 500日本@名無史さん2019/05/04(土) 11:22:53.36
>>491
>あほ?
返答できませんと素直に謝ればいいのにww
こんなので、自分を守ろうとするなんて本当に安くて薄っぺらいプライドだよな 501日本@名無史さん2019/05/04(土) 11:24:07.21
自レスのどこがあほいわれたかもわからんあほ
502日本@名無史さん2019/05/04(土) 11:28:50.25
墳と冢が違うって言ってる人たちって、古「墳」、前方後円「墳」と呼ばれているものは
冢じゃないって言いたいだけなんだよね
古冢、前方後円冢と呼ばれてないから違う、っていうレベル
503日本@名無史さん2019/05/04(土) 11:31:41.11
>>501
>自レスのどこがあほいわれたかもわからんあほ
「どこ」が「どのように」アホなのか「具体的に指摘」できないやつは無能
って何度言われたら分かるんだ?
まあ、無能なやつにいくら要求してもムダなのは分かってるけどさ
>>501のようなコメントが反論になると思っている時点で、無能の極致にいるやつだわ 504日本@名無史さん2019/05/04(土) 11:35:34.16
>>499
>墳頂で祭祀してる箸墓は「冢」でおkの
>言質いただきマシタサンキュー ・・、って感じ
おおい、逆だ
「塚」の頂部は狭いので、(墓標や祠くらいは置いたかもしれないが)、基本的には頂部へ登らない(使者の体の上を踏んづけない)。
祭祀は、「塚」の前に玉垣をしつらえて行う形式であった(もしくは現在もそうである)のであろう。 505日本@名無史さん2019/05/04(土) 11:39:24.61
その根拠は?
506日本@名無史さん2019/05/04(土) 11:43:50.41
>>493
>漢字漢文では冢=墳なんだなぁww
>冢 高墳也
いろいろな形態の墳のうち、とりわけ背高のっぽを特に「塚」と呼ぶ、、、ってことだろ。 507日本@名無史さん2019/05/04(土) 11:52:23.71
>>505
前方後円墳は墳であるが、墳丘上に祭祀施設や埴輪等を並べるようにできている。
しかし「塚」は登らない。
卑弥呼の墓と思しき高千穂の塚には立ち入らず(急峻で立ち入れない)、その前に高千穂神社を建てて一統を祀っている。 508日本@名無史さん2019/05/04(土) 11:56:17.95
>>507
>しかし「塚」は登らない。
なんでそんなウソつくの? 509日本@名無史さん2019/05/04(土) 11:59:50.32
>>504
>おおい、逆だ
>「塚」の頂部は狭いので、(墓標や祠くらいは置いたかもしれないが)、基本的には頂部へ登らない>(使者の体の上を踏んづけない)。
>祭祀は、「塚」の前に玉垣をしつらえて行う形式であった(もしくは現在もそうである)のであろう。
やはり九州説は情弱もの知らずだな
箸墓の後円部に関して、4段築成と5段築成の2種類の記述があるのは知ってるのか?
航空レーダー計測による赤色立体図が作られてから4段築成という表記が標準になったが、
4段築成の最上部の平面に、かつて5段目ともされた円形壇が作られているんだよ
その円形壇での葬送祭祀が終われば、その円形壇の頂上に登る人はいなくなる
箸墓はお前さんの定義でも完全に冢だろ? 510日本@名無史さん2019/05/04(土) 12:04:48.19
>>508
>なんでそんなウソつくの?
妄想とでっち上げの想像を加えないと、畿内説に反論一つ、イチャモン一つさえ付けられないほど
追い詰められているからだよww 511日本@名無史さん2019/05/04(土) 12:14:12.44
>>506
>いろいろな形態の墳のうち、とりわけ背高のっぽを特に「塚」と呼ぶ、、、ってことだろ。
説文解字注
墳
墓也。此渾言之也。析言之則墓爲平處。墳爲高處。
墓のうち、平ったいのが「墓」、高いのが「墳」だ
そして、>>498の言うように、墳のうちでかいのが冢
「ちなみに冢は頂と音通で高い・大きいなどの意味もある 」
字義から言っても、大作冢に合うのは前方後円墳や前方後方墳なんだよ
そのうち一番大きなものが倭王の冢の第一候補になる
あとは編年の問題だけになる 512日本@名無史さん2019/05/04(土) 12:18:40.15
テスト投稿
513日本@名無史さん2019/05/04(土) 12:26:28.84
冢は三国志では4ヶ所しか出てこない
魏志倭人伝中に2ヶ所韓伝に1ヶ所諸葛亮伝に1ヶ所
そして実際に冢を造った記事は倭国の記事のみ
これは当時の中国では薄葬が流行っていたため冢の造営が廃れていたため
逆に厚葬がひろく行われていた後漢時代は冢地や冢塋の地を賜ったという記事がみられる
従って卑弥呼の墓はかなり大掛かりなものだと思われる
514日本@名無史さん2019/05/04(土) 12:31:40.99
>>509
>その円形壇での葬送祭祀が終われば、その円形壇の頂上に登る人はいなくなる
>箸墓はお前さんの定義でも完全に冢だろ?
墳丘に広場あり、4段目にあまたの埴輪列あり、5段目に登って葬送儀礼ありなんだから「墳」。
そもそも「塚」は、人々が登って何事か祭事を成すようにはできていない。 515孫権ちゅうぼう(字わすれた2019/05/04(土) 12:34:08.09
516日本@名無史さん2019/05/04(土) 12:41:15.15
>>511
>墓のうち、平ったいのが「墓」、高いのが「墳」だ
>そして、>>498の言うように、墳のうちでかいのが冢
>「ちなみに冢は頂と音通で高い・大きいなどの意味もある 」
>字義から言っても、大作冢に合うのは前方後円墳や前方後方墳なんだよ
墳のうちでかいのが冢ではない。
墳のうち背高のっぽ(墳の全長に対する高さ比率の大なるスタイルで、その形態からして墳丘広場は狭い)のが冢。
箸墓と始皇帝塚の、高さ/全長比率を比べられたし。 始皇帝陵は高さ比率が明らかに大。。 517日本@名無史さん2019/05/04(土) 12:52:47.89
>>516
↑
九州説はまたウソか
もう病気だな
wwwwwww wwwwww 518日本@名無史さん2019/05/04(土) 12:58:53.98
>>516
>箸墓と始皇帝塚の、高さ/全長比率を比べられたし。 始皇帝陵は高さ比率が明らかに大。。
また九州説が嘘ついた
519日本@名無史さん2019/05/04(土) 13:00:04.27
>>270
>そういうウソついても、もうダメなんだよ 通用しないの
箸墓3世紀ってもう教科書に載ってる時代なんだよ
せめてお迎え来る前に現実を見て死ねよ<
そういうウソついても、もうダメなんだよ
国民には、もう通用しないの
「箸墓4世紀」に、大和説者は反論できなかったし、
教科書に載っても、その教科書会社や文部省の検定が憲法違反の検閲であり、
「南→東」などの嘘吐きや「倭国が正北抵新羅」をバレていて、
無視している事もバレている時代なんだよ
せめてお迎え来る前に現実を見て死ねよ 520日本@名無史さん2019/05/04(土) 13:00:48.18
>>513
なるほど。
そうすると薄葬令というのは、後漢時代の「塚」に高さ制限が設けられたと思えばよいのだな。
それで薄葬令以降、一般には安上がりの低墳が流行し、
やがて金持ちは、墓域のほうを横に精一杯広げて、広大な面積を誇る前方後円墳等を作るようになった・・・、 521日本@名無史さん2019/05/04(土) 13:01:42.95
>>272
またも「根拠を示さずに決めつけ」する九州説は
妄想説 522日本@名無史さん2019/05/04(土) 13:02:32.16
つべこべ言わずに比較しようぜ
始皇帝陵
底辺515m×485m
高さ52.5m
箸墓古墳
全長278m
後円部直径156m
高さ29m
523日本@名無史さん2019/05/04(土) 13:04:45.45
>>521の訂正。
また途中で投稿ボタンを押した事になってしまった。
またも「南→東」などの嘘吐き騙しや「倭国の正北抵新羅」などを無視して、
「根拠を示さずに決めつけ」する大和説は
妄想説 524日本@名無史さん2019/05/04(土) 13:05:08.34
箸の歴史
有力な説としましては、7世紀に入ってから遣隋使が中国から日本に帰国した際に、
中国の文化を日本に持込み、そのなかのひとつに箸があり、徐々に日本の文化としても根付いていったとされています。
525日本@名無史さん2019/05/04(土) 13:06:58.15
>>518
オレの云った通りだろ
大仙や箸墓の高さ35mに比べて、
始皇帝陵(塚)の全長は大仙・箸墓の中間の350mなのに高さは76mもある!! 526日本@名無史さん2019/05/04(土) 13:10:07.49
>>275
この投稿も、また反論済みのものであり、
投稿回数が増えると、また5chに全面的に拒否されるから、
出来るだけ、放置しておこうね。 527日本@名無史さん2019/05/04(土) 13:17:18.88
始皇帝陵の76mは20世紀初頭の記録で正確には50mちょっとという記事もあるな
写真の感じでは外観はなだらかな丘
528日本@名無史さん2019/05/04(土) 13:19:02.32
529日本@名無史さん2019/05/04(土) 13:19:32.70
>>276
>西服衆夷の服が自動詞ってのは全くデタラメだから諦めろよ
文法的に明確に違うのだからどうしようも無い<
漢字漢文の本義的に、「服」は「服する」という自動詞文言であり、
であり、倭王武の上表文を読んだ宋の皇帝や役人たちは、
「服する」という意味での解釈をするのであり、つまり、
「西」は、以前に征服時期があって、「現在は服している状態だ」と言っているんだな、
と受け止めるのであり、
その事は、魏志の「南≠東」や唐会要倭國伝の「正北抵新羅」などという記載に拠っても、
確認される。 530日本@名無史さん2019/05/04(土) 13:20:47.05
>>277
>弥生時代の終わりころから、日本列島各地に有力な首長の墓として、様々な形の墳丘をもった墳墓がつくられるようになった。
そうした各地の墳墓がもついくつかの要素を総合して、3世紀なかごろ、奈良盆地に大きな墳丘をもつ前方後円墳が出現した。
その規模や副葬品から判断すると、弥生時代の首長とは比べものにならないほど強力な力を持つ支配者が存在したことがわかる。
箸墓古墳をはじめとする初期の前方後円墳が、奈良盆地に集中することは、これらの被葬者と初期ヤマト政権の関係が深いことを示唆している。 <
これも、「南≠東」などに拠って、×。 531日本@名無史さん2019/05/04(土) 13:20:51.15
532日本@名無史さん2019/05/04(土) 13:23:45.93
533日本@名無史さん2019/05/04(土) 13:31:42.89
九州説が数値も画像も確認しないで投稿してる事は分かった
534日本@名無史さん2019/05/04(土) 13:33:45.66
>>281
おのが利益のため、
「南→東」と曲解捏造し、
自動詞の「服する」を「征服した」と他動詞だけに読み、
倭國の「正北抵新羅」をなかった事にする解釈をするなど、
漢文を破壊しようとする大和説おそるべし 535日本@名無史さん2019/05/04(土) 13:36:10.96
自動詞なのは揺るがないからな
高校の国語の先生に聞いてみれば
536日本@名無史さん2019/05/04(土) 13:37:52.94
>>284
「邪馬壹→ヤマト」というように、
地名まで曲解捏造しようとする貪婪しよう大和説おそるべし 537日本@名無史さん2019/05/04(土) 13:39:59.11
>>288
「根拠を示さずに、口先で決めつけて国民を騙そう」とする
大和説は妄想の説です 538日本@名無史さん2019/05/04(土) 13:42:47.39
勤務シフトが長かったので、今日は、5ちゃんねるとは別の頭がカラフルになるかどうか、ギリギリまでわからない、レベルの高いインターネットの討論会にアプローチする元気が湧かないな、、、
539日本@名無史さん2019/05/04(土) 13:44:37.59
討論会の話題が、高校の国語の話題に、変換されているな、、、
540日本@名無史さん2019/05/04(土) 13:44:46.85
数理に弱いの畿内説ww
541日本@名無史さん2019/05/04(土) 13:46:08.78
僕達には、高校生の孫がいるね、、
542日本@名無史さん2019/05/04(土) 13:47:36.39
高校の国語を学習しているのでは、ないのかな、、、
543日本@名無史さん2019/05/04(土) 13:49:21.51
高校生でも習う自動詞なのは揺るがないものとは、なんだろうか、、、
544日本@名無史さん2019/05/04(土) 13:54:20.43
高校生でも習う自動詞なのは揺るがないものを、自動詞ではないものと誤認した人物が、このスレッドに現れたのだろうか、、、
545日本@名無史さん2019/05/04(土) 13:56:07.53
>>308
>土器の何を見たの? 根拠は? 「根拠を示さずに決めつけ」する九州説は、妄想です<
確か、大和と関東の土器が、縄文系として似ている、
というような話であったようだったが?。
「何の話だったのか?」や「根拠を示さずに決めつけ」する大和説は、妄想です 546日本@名無史さん2019/05/04(土) 13:56:31.80
自動詞とは、なんだろうか。。
そして、自動詞ではないものとは、何だろうか。
547日本@名無史さん2019/05/04(土) 13:58:00.44
自動詞と他動詞がある可能性が、高いな。
548日本@名無史さん2019/05/04(土) 14:02:10.50
>>514
>墳丘に広場あり、4段目にあまたの埴輪列あり、5段目に登って葬送儀礼ありなんだから「墳」。
>そもそも「塚」は、人々が登って何事か祭事を成すようにはできていない。
それ、お前さんの「勝手定義」だろ?
まあ、もうそうだわな
そうじゃないというなら、根拠を具体的に提示してくれ
中国古典の原文引用でいいよ
また「あほ」の捨て台詞で逃げるのかな?ww 549日本@名無史さん2019/05/04(土) 14:03:17.80
>>318
>箸墓の前方部墳頂祭祀時点で発生はしているが、主に次世代の祭祀用土器であり、
古墳文化圏の拡大とともに、それなりの時間をかけて関東まで波及した
女王国の東の海の向こうの倭種の国が女王の後継者世代の政治的影響下に入るのに
十分な時間幅がある<
「南→東」になる話に摩り替えたようだから、×。 550日本@名無史さん2019/05/04(土) 14:06:40.33
>>324
>それが卑弥呼だというのならば邪馬台国は吉備だということでしょ?<
「南≠東」などに拠って、×。 551日本@名無史さん2019/05/04(土) 14:08:00.08
>>525
>始皇帝陵(塚)の全長は大仙・箸墓の中間の350mなのに高さは76mもある!!
本当に本格的にバカなんだな
墳丘の山としての傾斜を比べるなら、後円部径と高さの比を見ないとダメだって分からないんだろ?ww
テンプレにもあるこの図で、傾斜はだいたい同じだって一目見て分かるだろうに
552日本@名無史さん2019/05/04(土) 14:11:17.00
ザラコク氏に、討論を仕掛けた邪馬台国畿内説を宣伝しているプロ固定が、、、服、、という自動詞を、他動詞に変換したことを、見破られ、論破された確率が、75パーセンテージまで、高まってきたのでは、ないのかな、、、
553日本@名無史さん2019/05/04(土) 14:17:46.31
>>534
>自動詞の「服する」を「征服した」と他動詞だけに読み、
ザラコクはどこまでもバカだなぁ
少し長く引用すると
自昔「祖禰」躬甲冑跋渉山川不遑寧處
東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國
この部分の主語は「祖禰」なんだから、自動詞だったらどうやっても
おかしな意味にしかならないだろ
倭の五王の祖先が自ら甲冑を身につけ、東の毛人55国を征し、
西の衆夷66国に倭の五王の祖先が服したっていうのがザラコクの主張なんだなww
自動詞ならそういう意味にしかならないぞww 554日本@名無史さん2019/05/04(土) 14:19:36.89
僕達が、魏志倭人伝を翻訳したときに、使用した学部公式漢和辞書には、
服は、、、名詞。服、、、自動詞。服する、、という、日本語でもそのままの意味しか、無いな、、
555日本@名無史さん2019/05/04(土) 14:25:38.09
服という漢字は、完全に自動詞だな、、
556日本@名無史さん2019/05/04(土) 14:28:21.31
邪馬台国畿内説を宣伝するプロ固定の、キナイコシと3寸男と75パーは、服します、、、
557日本@名無史さん2019/05/04(土) 14:31:34.41
服という漢字は、完全に自動詞なので、目的語が無くても、文章が成立するのだね、、、
邪馬台国畿内説を宣伝するプロ固定の、キナイコシと3寸男と75パーは、頭が悪いので、討論会で、服します、、、
558日本@名無史さん2019/05/04(土) 14:34:20.69
3寸男は、反撃すれば、討論会が活発になるので、良いのではないのか、、、
559日本@名無史さん2019/05/04(土) 14:37:44.89
僕達は、普通の頭の持ち主なので、頭の悪い人物には、負けないのでは、ないのかな、、、
560日本@名無史さん2019/05/04(土) 14:40:57.49
3寸男が、逃亡した可能性が、高いな。。
561日本@名無史さん2019/05/04(土) 14:43:01.72
>>551
傾斜角度を言ってるんじゃな〜い。
高さ/全長比率、つまりチビかノッポかのちがいだ。
畿内説はその時々で自説に都合良く、今回は後円部だけつまみ食いのチェリーピッキングww 562日本@名無史さん2019/05/04(土) 14:44:33.35
国語でも、勝ってしまった。。。
563日本@名無史さん2019/05/04(土) 14:45:59.02
何かの角度についての、討論会が始まった可能性が、高まってきたな、、、
564日本@名無史さん2019/05/04(土) 14:48:15.49
>>492
卑弥呼が長生きだったのはさすがに定説では? 565日本@名無史さん2019/05/04(土) 14:52:21.08
>>492
佐治国男弟は官筆頭の伊支馬と同一人物だと思うよ
なんで別人だと思うの? 566日本@名無史さん2019/05/04(土) 15:01:08.43
僕達は、ヤマトという言葉の、真実の意味を研究していたのでは、なかったのかな、、、
567日本@名無史さん2019/05/04(土) 15:02:20.20
長大って三国志の用例では別に長生きでは無いからね
568日本@名無史さん2019/05/04(土) 15:07:24.69
>>565
佐治国男弟は「月読尊」
「月読尊」は「伊支馬」かもね。 @阿波 569日本@名無史さん2019/05/04(土) 15:07:48.78
ここでの長大は大人になっているくらいの意味
570日本@名無史さん2019/05/04(土) 15:11:57.32
なぜ、倭や日本や大和をヤマトと読んだのだろうか、、
571日本@名無史さん2019/05/04(土) 15:15:25.23
>>570
ヤマトという言葉には、国家という意味か、国家の本部という意味があったのでは、ないのかな、、、 572日本@名無史さん2019/05/04(土) 15:33:14.51
>>563
三寸男は、棒の先と棒の影を結ぶ角度の計算を、繰り返し失敗していたのではないのかな、、、 573日本@名無史さん2019/05/04(土) 15:34:29.91
>>339
大和って、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別所の旧小国であり、
大和説って、ホントに九州倭国のクズだったんだね 574日本@名無史さん2019/05/04(土) 15:35:36.15
草薙剣とは、八岐大蛇から出現した剣と同じなのだろうか、、、
575日本@名無史さん2019/05/04(土) 15:37:08.95
>>341
大和は、九州倭国の「東征毛人五十五国」の中の一国であり、植民地 576日本@名無史さん2019/05/04(土) 15:41:43.87
>>561
>傾斜角度を言ってるんじゃな〜い。
>高さ/全長比率、つまりチビかノッポかのちがいだ。
本当に頭が悪いんだな
高さ/「全長」比率を見ても、チビかノッポかなんて分からないだろ?
本気で言ってるのか?
秦の始皇帝陵に幅5メートルの尻尾が長さ800 メートルくらい付いていたら、
秦の始皇帝陵の高さ/「全長」比率は半分弱になるがそれをチビになったというのか?
一つの山、墳丘として造営されている部分で比較しないと意味がないし、
その場合前方後方墳では、後円部高/後円部径だろうし、チビかノッポかの印象は
傾斜角で決まる
こういう論理性の欠けた書き込みが九州説のデフォだから困る
九州説スレを復活させて、そっちでやったらどうだ? 577日本@名無史さん2019/05/04(土) 15:42:39.14
>>343
>10日で九州にたどり着くのは物理的に無理 <
郡から女王之所都の「水行十日陸行一月」の「水行十日」は、
「循海岸水行」と「三海峡での渡海」の合計所要日数であり、
無理ではない。 578日本@名無史さん2019/05/04(土) 15:48:17.35
八岐大蛇は、頭が多いので、人民の娘を食べるために、取り合いで、同士討ちになることが、あったのではないのかな、、、
579日本@名無史さん2019/05/04(土) 15:49:27.43
>>347
>河川はないよ 川のときは泝流、順流という言葉を使う<
「水行」は「陸行」と対比的に対になって使用されており、
だから、陸行以外の「水行」全体を意図している事になり、
海行も河川行も湖沼行も、全て水行に含まれる事になる。 580日本@名無史さん2019/05/04(土) 15:51:40.19
>>579
なるわけないだろメチャクチャ言うな
ならなんで渡海があるんだ 581日本@名無史さん2019/05/04(土) 15:54:08.27
面白くなくなったな
畿内説はまともな回答もできず
ただ、こどのように駄々をこねているだけ
582日本@名無史さん2019/05/04(土) 15:55:12.54
こどって何だろね
583日本@名無史さん2019/05/04(土) 15:55:24.50
魏志倭人伝
邪馬台国の官
官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。
伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。
邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。
出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。
出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。
ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。
邪馬台国の官の筆頭
伊支馬。これがどういう勢力か解明できれば、邪馬台国卑弥呼に近付ける気がする。
伊支馬、生駒、生馬、伊熊、猪熊、生目などの地名が、ヤマト、出雲、三河、遠賀川、宮崎に見られる。
何か関係あるのか?
生駒は火の神。
生馬神社の牛荒神も藁が巻きつけられ、荒ぶって燃えると自らが燃えるようになされている。火の神か。
584日本@名無史さん2019/05/04(土) 15:58:36.04
>>551
ここのこの図は、なかなかの力作だ。すばらしい。
一目見るだけで、秦の始皇帝塚は背高の男前、大仙・中山はチビのデブとわかる。 585日本@名無史さん2019/05/04(土) 15:59:05.59
>>565
>佐治国男弟は官筆頭の伊支馬と同一人物だと思うよ
>なんで別人だと思うの?
同一人だという記述がない
書いてある場所が遠く離れていて、関連があるようには書いていない
同一人なら
乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。事鬼道、能惑衆。
年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。
の最後を有男弟佐治國為官のように書くんじゃないか 586日本@名無史さん2019/05/04(土) 16:01:01.43
>>577
>郡から女王之所都の「水行十日陸行一月」の「水行十日」は、
>「循海岸水行」と「三海峡での渡海」の合計所要日数であり、
>無理ではない。
帯方郡から狗邪韓国までを7日間で行くのは物理的に無理 587日本@名無史さん2019/05/04(土) 16:02:45.90
ヤマトとは、八岐のことだった可能性があるな。。
588質問良いですか2019/05/04(土) 16:03:55.80
畿内説・九州説おのおのに質問です
1.女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 ここは何処ですか?
2、又有侏儒國在其南 ここは何処ですか?
3、去女王四千餘里 又有裸國黒齒國 ここは何処ですか?
589日本@名無史さん2019/05/04(土) 16:04:33.81
俣と岐は、どう違うのだろうか。。。
590日本@名無史さん2019/05/04(土) 16:06:24.99
九州説が迷惑目的の書き込みしかしないから、相手にするのも疲れる
他人に迷惑をかけることを厭わない、というより
むしろ積極的に迷惑をかけることを目的にするというのは、
日本人の価値観にはない行動原理だから、キウスや連続句読点の相手は
徒労感が大きい
591質問良いですか2019/05/04(土) 16:06:31.04
畿内説・九州説おのおのに質問です
1.女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 ここは何処ですか?
2、又有侏儒國在其南 ここは何処ですか?
3、去女王四千餘里 又有裸國黒齒國 ここは何処ですか?
592日本@名無史さん2019/05/04(土) 16:10:05.20
>1.女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 ここは何処ですか?
たぶん記述の混乱
魏略の記述に従えば「東」は付いていないし
倭国周辺の一日の渡海で行ける島にも倭人がいるというだけの記述
>2、又有侏儒國在其南 ここは何処ですか?
これは典拠不明
>3、去女王四千餘里 又有裸國黒齒國 ここは何処ですか?
これは淮南子の引用だから、伝説上の国であり実在しない
593日本@名無史さん2019/05/04(土) 16:10:39.72
九州説でまともな主張は「どこにある?」ってくらい稀少らしいな
日程は実行不能なものばかり
釈読は類例ゼロの我流珍読
判断は主観オンリーじゃないか
594日本@名無史さん2019/05/04(土) 16:11:32.52
>>350
>>渡海千里の千里は距離ではなく一日で到着できるという意味だと畿内説が言ってたな。<
>これは常識<
これは、ちょっと無理だ。
動力船ならいざ知らず、手漕ぎの倭船で、
持衰も含めた大量の人員と、資材や下賜品を積んでは、
時速3〜4kmの歩行程度の速さしか出ず、
更に、強い海流や風の海流では、大きく迂回もしなければならず、
暗くなっては、漂流や座礁の危険もあり、
昼間の日中の半日では40km位しか進まず、
對海國や一大國への渡海は、一日半位以上はかかってしまう。
千余里の計測も、一寸千里でなければ、無理だ。 595日本@名無史さん2019/05/04(土) 16:12:13.02
魏略の転記ミス
596日本@名無史さん2019/05/04(土) 16:13:45.89
>>579
>「水行」は「陸行」と対比的に対になって使用されており、
陸行も、史書の地理旅程記事では陳寿の三国志以前には使われていないんだよ
まあ、陳寿が参考にした底本の撰者かもしれないけど 597日本@名無史さん2019/05/04(土) 16:15:55.98
このレベルの低いスレッドで、笑ったり、プロ固定を論破して気分がリラックスできたおかげで、ヤマトという意味は、八つの分岐したものだということを発見した可能性が、高まってきたな、
598日本@名無史さん2019/05/04(土) 16:19:39.40
>>351
>じゃあ博多湾から水行20日でどこまで行ってしまうかだなw<
安全のために、沖合洋上航行を避けて、出来るだけ昼間だけの手漕ぎの沿岸航行をするんだろうし、
1日20〜25kmとして水行二十日で400km〜500kmであり、
九州東周りなら、鹿児島湾に入ってしまうな。 599日本@名無史さん2019/05/04(土) 16:25:04.68
仲哀天皇の宮は、なぜ、畿内ではないのだろうか。。。
600日本@名無史さん2019/05/04(土) 16:28:10.10
八岐大蛇は、頭が多いので、人民の娘を食べるために、取り合いで、同士討ちになることが、あったのではないのかな、、、
601日本@名無史さん2019/05/04(土) 16:29:33.96
>>363
>隋の裴世清が来たこともちゃんと書いてあるんだから<
これ完全な間違いね。
書紀に書かれたのは(隋ではなく)唐使の裴世清であり、
唐の武徳中の時の唐の使節であった事になる。
隋の大業四年に来たように書いた書紀は、嘘吐き騙しの×史書。 602日本@名無史さん2019/05/04(土) 16:31:50.45
両道入姫命とは、何者なのだろうか。。
603日本@名無史さん2019/05/04(土) 16:36:08.56
604日本@名無史さん2019/05/04(土) 16:37:32.73
>>366
またヨタ言ってら
だから、5世紀の倭の五王らは、
「使持節、都督、・・・使持節、都督、・・・諸軍事、・・・將軍」
を貰って朝貢しているんだろ?。
中国のほうが倭国を蕃国扱いしてんだよ。
まったく無知な奴だな。 605日本@名無史さん2019/05/04(土) 16:59:29.12
>>604
トンチンカンなやつだな
相当頭が悪いらしい
と言うか、知能が低いのかな
そンな黒歴史を記紀が書かれた時代の日本政府が認めるわけにいかないと説明されてるだろ
だからその話題を当時の日本の正史はカットせざるを得ないんだよ 606日本@名無史さん2019/05/04(土) 17:00:38.16
>>585
卑弥呼を佐治してる男弟が
官のトップと考えるほうが自然だよ 607日本@名無史さん2019/05/04(土) 17:03:17.59
>>568
阿波は荒魂の日本国魂を祀る
首都から離れた隔離地帯
阿波説あきらめな 608日本@名無史さん2019/05/04(土) 17:03:49.86
両道入姫命とは、何者なのだろうか。。
609日本@名無史さん2019/05/04(土) 17:10:17.38
適当に日程書いたやつも2000年後にあーだこーだ言われてるとは思いもしなかっただろうな
610日本@名無史さん2019/05/04(土) 17:12:08.34
>>607
>首都から離れた隔離地帯
勝手な妄想はご免被る。
>阿波説あきらめな
諦めるべきは、畿内説や九州説の旧態依然説。
佐治国男弟は「月読尊」
「月読尊」は「伊支馬」かもね。 @阿波 611日本@名無史さん2019/05/04(土) 17:12:30.73
気多大社の謂れは興味深い。
孝元天皇の時代(台与の頃かな)オオナムチが【化鳥、大蛇】を退治して【海路が開けた】とある
越の化鳥、オロチがヤマタノオロチなら、ヤマタノオロチは八衢のオロチじゃないかという連想が働く
個人的には父系は八衢、母系は息長かもと考えている
紀元前丹後半島では鉄の加工が盛んだった
その後淡路島や池上曽根遺跡、伊吹山の麓の稲部遺跡などでも鉄工房が営まれるようになる
紀元前後、丹後半島のヤマタノオロチの王は倒され丹後半島を追い出され畿内に逃げてきたんじゃないかな
ヤマタノオロチ族と風宮の神との関係が気になる
級長津彦命 級長戸辺命
しなは息が長いという意味
息が長い、吹子、鉄と関係あるかもしれない
時代は下り、壬申の乱
天武は息長タラシ系を滅ぼしたんじゃないかな
そして鎮魂したと
龍田神社
天武天皇4年(675年)4月10日に勅使を遣わして風神を龍田立野に祀り、大忌神を広瀬河曲に祀ったと『日本書紀』の記述が初見である。
祭神
天御柱命は級長津彦命(男神)、国御柱命は級長戸辺命(女神)のこととされている。
【にほ鳥】の息長川は絶えぬとも君に語らむ言尽きめやも
息長タラシ系の最後は大津皇子かもしれない
ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
金烏臨西舎 鼓声催短命
泉路無賓主 此夕離家向
草薙剣に祟られた天武
こういう経緯があったからかもしれない
612日本@名無史さん2019/05/04(土) 17:15:14.35
>>610
勝手な妄想じゃないだろw
災害を起こす荒魂を祀ってるのは阿波だけという現実を見ろ 613日本@名無史さん2019/05/04(土) 17:16:27.75
仲哀天皇の宮は、なぜ、畿内ではないのだろうか。。。
614日本@名無史さん2019/05/04(土) 17:17:15.95
>>609
たしかに『魏志倭人伝』の作者は
邪馬台国の場所を知らなかっただろうね
行ったことあるわけないし 615日本@名無史さん2019/05/04(土) 17:17:34.53
>>612
>首都から離れた隔離地帯
勝手な妄想はご免被る。
倭国(阿波)が唯一無二の首都。 @阿波 616日本@名無史さん2019/05/04(土) 17:20:47.18
>>612
>災害を起こす荒魂を祀ってるのは阿波だけという現実を見ろ
すべての神々を祀るのが、唯一倭国(阿波)。 @阿波 617日本@名無史さん2019/05/04(土) 17:22:29.09
古事記や日本書紀は、仲哀天皇の両親のことや、息子のことを、隠しているのだろうか、、、
618日本@名無史さん2019/05/04(土) 17:25:00.84
>>616
お前『日本書紀』読んでないの?
「倭国の人口の半分が死んだ」ほどの厄災が起きて
ビビった崇神天皇が平和の神の大物主神を奈良の三輪山に祀ったんだよ
阿波は災害の神である荒魂を祀った隔離地帯 619日本@名無史さん2019/05/04(土) 17:26:53.60
>>606
実弟なら官というより摂政か副王級だろ
中国人なら王位継承権第2位をそんな地位に就けないよな
だから男社会に育ってヒメヒコ制を理解できなかった中国人
による観察の限界だという説があるわけで 620日本@名無史さん2019/05/04(土) 17:27:25.91
日本武尊は、なぜ、天皇ではないのだろうか、、
621日本@名無史さん2019/05/04(土) 17:28:08.27
>>618
>お前『日本書紀』読んでないの?
お前『日本書紀』頼りなの? @阿波 622日本@名無史さん2019/05/04(土) 17:28:56.13
>>614
だから実際よりすごく南に書いちゃったわけでしょ 623日本@名無史さん2019/05/04(土) 17:29:09.05
討論が活発なので、邪魔にならないようにすれば、良いな。
624日本@名無史さん2019/05/04(土) 17:35:48.16
625日本@名無史さん2019/05/04(土) 17:37:53.38
>>618
阿波国美馬(ミマ)郡美馬(ミマ)町には、延喜式内社の「倭大国魂神社」が建立されている。
この事実は、阿波国が、かつて倭の国であり、歴代天皇が営んだ王都の地であったことを表す。
これは、「王都の地 倭」の決定的証跡である。
通説の「古代の王都は奈良盆地に営われた」とする確定解釈は、工作物(奈良盆地の巨大古墳)に惑わされた錯覚と言えるだろう。
延喜式内社に採択された国魂神社は、都合20社を数える。
うち「倭大国魂神社」については、その由来が日本書紀に納められている。
第10代崇神天皇(ミマキイリヒコ)は、疫病が流行し、民心が乱れた為、神祭りによって地勢の安泰を図ろうと、天神地祇のほか、倭の地主神である倭大国魂神を祀ったという。
まさに「倭大国魂神社」の建立地は、倭の地(国)の証明になる。
そして、その倭大国魂神社が、奈良大倭国ではなく、唯一阿波国にのみ存在するのである。 626日本@名無史さん2019/05/04(土) 17:38:53.95
>>621
実際に神社があるんだから、物的証拠のある話だろ 627日本@名無史さん2019/05/04(土) 17:42:38.47
>>625
だから「倭大国魂神社」って言うのは災害を起こす神様なんだよ
阿波は災害を起こす神様の隔離地
平和の神である「大国主神」は奈良に祀られた 628日本@名無史さん2019/05/04(土) 17:42:50.13
629日本@名無史さん2019/05/04(土) 17:44:32.02
>>627
>平和の神である「大国主神」は奈良に祀られた
【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】
徳島県阿南市長生町に鎮座する「八鉾神社」。祭神は大己貴命。延喜式内社である。
この「八鉾神社」には四つの重要文化財が神宝として保管されている。
また「八鉾神社」自体も重要文化財に指定されているので、合計五つの重要文化財を持ち合わせている神社となる。
一つは「大己貴命 木造彫刻立像」
二つ目は「少彦名命 木造彫刻立像」
三つ目が「二品家政所 下文 」
四つ目が「附紺紙金泥法華経」である。
この八鉾神社、阿波では出雲の「杵築大社(出雲大社)」の元社であると伝えられている。
八鉾とは八千矛神(やちほこのかみ)。
出雲の主であり、長(おさ)である大国主神のこと。
大国主神の別名、大己貴神は、長国の偉大な主を意味している。
大国主神は、スサノオ命の子孫で、稲羽の素兎の物語で有名である。
オオクニヌシは、兄さん達から大きな袋を持たされる等、色々のいじめを受けたが、それらの試練を乗り越え、出雲国を治める立派な人となった。
オオクニヌシの子供にコトシロヌシ(えべっさん)と建御名方神(たけみなかたのかみ)がいる。
コトシロヌシは、式内社の事代主神社として、勝浦町沼江と阿波市市場町伊月に祀られ、タケミナカタは、式内社の多祁御奈刀祢神社として石井町浦庄字諏訪に祀られている。
平安時代に記録される3132座の式内社の中に、これら八鉾神社や事代主神社・多祁御奈刀祢神社等の国譲りに遣わされた神達を祀る神社は、阿波にしかない。 @阿波
【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】
https://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/47852915.html?__ysp=44CM5YWr6Ym%2B56We56S%2B44CN44CR 630日本@名無史さん2019/05/04(土) 17:46:04.38
>>628
>大和の大神神社は、倭国(阿波)の「大御和神社」が本家本元である。
これは間違った知識だよね 631日本@名無史さん2019/05/04(土) 17:49:57.61
>>630
>これは間違った知識だよね
君では相手にならない。 @阿波 632日本@名無史さん2019/05/04(土) 17:50:17.79
>>629
大国主とか平和の神の大物主はいろんなとこに祀られてるのよ。
災害を起こす神である「倭大国魂神社」が祀られてるのは阿波だけ。
隔離地だからね 633日本@名無史さん2019/05/04(土) 18:24:28.42
優れた考古学者に、感謝して、研究を進行させれば、良いな。。
やはり、天皇という肩書きは、後の時代に作製されたので、真実の日本一の権力者が、
誰かは不明なのだな、、、
624 名前:日本@名無史さん 2019/05/04(土) 17:35:48.16
>>620
常陸風土記には倭武天皇 634日本@名無史さん2019/05/04(土) 18:28:06.71
阿波氏は検証が雑だし論理が飛躍してるな
635日本@名無史さん2019/05/04(土) 18:28:08.11
日本武尊の時代には、日本列島全体が、合戦場だった可能性が、高まってきたな、、、
636日本@名無史さん2019/05/04(土) 18:42:28.55
おおよそ大和での前方後円墳は2世紀末から6世紀末。
この6世紀末というのがポイント。
また前方後方墳と後円墳が4世紀の天理の地で合体する(西山古墳)
4世紀の天理に主力がいて、そして6世紀末に滅んだ豪族とは物部だ。
前方後円墳とは元来、物部の墓制だ。
だから瀬戸内にルーツがあるのだ。
また天皇陵が非・前方後円墳になるのは蘇我の台頭と一致する。
637日本@名無史さん2019/05/04(土) 18:46:55.30
>>632
>大国主とか平和の神の大物主はいろんなとこに祀られてるのよ。
【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】 @阿波 638日本@名無史さん2019/05/04(土) 18:48:31.55
前漢の時代には100余国に分かれていた日本列島
卑弥呼の事績は広大な範囲を国家という枠組みの中に取り込んだことだろう
延喜式祝詞では天照大神に準えて最大限の敬意が払われている
伊勢に坐す天照大御神の大前に白さく、
皇神の見霽かし坐す四方の国は、天の壁立つ極、国の退立つ限、青雲の靄く極、白雲の向伏す限、
青海原は棹柁干さず、舟の艫の至り留る極、大海原に舟満ち都都気て、
陸より往く道は荷の緒結ひ堅めて、磐根木根履み佐久弥て、馬の爪の至り留る限、長道間無く立ち都都気て、
狭き国は広く、峻しき国は平けく、遠き国は八十綱打挂けて引き寄する事の如く、皇大御神の寄さし奉らば、
639日本@名無史さん2019/05/04(土) 18:49:16.14
福岡・筑豊の赤村に巨大前方後円墳があると噂になっている。
土器も出ているのなら古墳の可能性もあるだろう。
もし巨大前方後円墳なら、おそらく6世紀末。
そして被葬者は物部守屋の子で筑豊に流された片野田であろう。
640日本@名無史さん2019/05/04(土) 18:52:46.33
日本武尊は、日本一の権力者だという、互いに独立した75パーセンテージの3つの根拠の、神の宝の所有権がなかった可能性があるな。。
641日本@名無史さん2019/05/04(土) 18:56:09.43
老婆が言うには
馬に乗って・・・という話もしていたし、
なぜか女の人(母親だったかな?)の話w
なんで詳しいんだろう
642日本@名無史さん2019/05/04(土) 18:59:22.20
>>640
八岐大蛇から出現した草薙剣と熱田神宮と源平の壇ノ浦の合戦は、関係が、高いのでは、ないのかな、、、 643日本@名無史さん2019/05/04(土) 19:00:10.50
>>633
>やはり、天皇という肩書きは、後の時代に作製されたので、真実の日本一の権力者が、
>誰かは不明なのだな、、、
左が真の権力者・大物主。
崇神によって倒される。
崇神に殺されたのは出雲最後の王・阿田賀田須
モモソ姫の亭主である。
事代主
┣━━━━━━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ(踏鞴五十鈴)媛━━神武
┣━━━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津媛━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命 644日本@名無史さん2019/05/04(土) 19:00:48.15
研究に対する荒らし行為が、開始されてしまった、、、
645日本@名無史さん2019/05/04(土) 19:00:59.88
むかーしの中国(中国の人)の話なのかな?
老婆が言っているのは「寒いな〜」の家の話なんだけどw
『松傾』こういう名前の家
646日本@名無史さん2019/05/04(土) 19:01:03.34
延喜式祝詞には、
皇御孫之命は、天之御蔭 日之御蔭と隠坐てとある
天でも日でもないということだろう
また道饗祭の祝詞には、八衢彦、八衢姫、クナトが高天原で事を始めた皇御孫之命で、根の国底の国の侵略に抗ったと書かれている。
八衢は道が幾つにも分かれるところ、方違
方違神社のある堺辺りのことだろう
近くに浅香アサカという地名が残る
狗奴クナ国だろう
久邇、朝香
647日本@名無史さん2019/05/04(土) 19:07:35.47
大物主は、カエルを食べていたので、八岐大蛇と関係がありそうだな、、、
643日本@名無史さん2019/05/04(土) 19:00:10.50
>>633
>やはり、天皇という肩書きは、後の時代に作製されたので、真実の日本一の権力者が、
>誰かは不明なのだな、、、
左が真の権力者・大物主。
崇神によって倒される。
崇神に殺されたのは出雲最後の王・阿田賀田須
モモソ姫の亭主である。
事代主
┣━━━━━━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ(踏鞴五十鈴)媛━━神武
┣━━━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津媛━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命 648日本@名無史さん2019/05/04(土) 19:10:30.02
キナイコシが、キャラクターを変換して、つぶやき始めてしまった、、、
649日本@名無史さん2019/05/04(土) 19:21:43.69
関係ない事の書き込みによる嫌がらせ増えたね
650日本@名無史さん2019/05/04(土) 19:23:23.18
令和の典拠、梅の歌序
5世紀辺りの歴史と壬申の乱の真相を歌にしたものなんじゃないか?
梅がどんな勢力か謎なんだよな。物部氏に恨まれていた出雲大臣の勢力かな。天穂日
令月 氣淑風和梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香 加以 曙嶺移雲 松掛羅而傾盖 夕岫結霧鳥封□(穀の禾の部分が糸)而迷林 庭舞新蝶 空歸故鴈
蘭はイチイ、アララギのことかな
中部地方以北の寒い地域に多い植物
珮は殷、周の時代に流行った飾り
立派な月は風と手を組み、梅が鏡についた白い粉を払った。東国では殷周の末裔の影響が残っていた。
それだけで終わらず‥
壬申の乱が起きたのかな
曙嶺移雲 松掛羅而傾盖
朝日の美濃に雲が移り、新羅の装いの松と偶然にも仲良くした
本巣市、本巣郡辺りのことかな
朝日(神社)とか加茂とかの地名が残る
霊亀元年(715年)、尾張国人の席田君邇近及び新羅人74家が美濃国を本貫地とし、席田郡を建てる。
夕岫結霧鳥封□(穀の禾の部分が糸)而迷林 庭舞新蝶 空歸故鴈
岫は岩穴、山の洞穴
霧は霧島のことかな
霧島神社、天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊が祀られている
庭は朝庭かな
朝が東なら夕は西
西の洞穴は霧島と手を結び、鳥はうすものに閉じ込められたが林の中を彷徨っている
朝廷には新しい蝶が舞い、元いた雁は巣に帰ってしまった
651日本@名無史さん2019/05/04(土) 19:25:48.43
記紀神話と邪馬台国との関連付けに熱中するのはちょっと理解できない
652日本@名無史さん2019/05/04(土) 19:28:25.33
壬申の乱の当時、尾張美濃辺りは新羅系の拠点になっていたんだろう
ヤマタノオロチにトドメを刺したのは誰なんだろうか?
653日本@名無史さん2019/05/04(土) 19:29:50.37
>>368
>>孔明や皇帝らが倹約しているのに、その家臣が厚葬出来るものではない。<
>でも倭王を差し置いて、征東将軍とやらはでかい墓を作っていいんだろ?
本当にでまかせだらけのいい加減だよなww <
東征将軍らの新規征服支配国は、母国の九州倭國とは半分独立国的であり、
従って、魏の薄葬令の制約も殆ど受けないの。 654日本@名無史さん2019/05/04(土) 19:30:29.92
壬申の乱はさすがにスレ違い
655日本@名無史さん2019/05/04(土) 19:30:42.66
>>372
>だいたい冢って大の意味だからね<
豚などの上に「ワかんむり」がかぶさっている字形だから、
おそらく豚の顔や大きな鼻の形状を示す文字であり、
だから、「錐体台」的な形状を示す文字であり、
従って(説文解字の示すように)底面よりも高さを感じられる形状であり、
馬韓の家屋の写真の形や、列島の竪穴式住居の形状や、
祇園山古墳の形状とも合致する。 656日本@名無史さん2019/05/04(土) 19:31:24.88
>>648
お前の犯行だろうが
ホントに九州説は人間のクズしかいないな
クズ説だけに
ww 657日本@名無史さん2019/05/04(土) 19:37:47.33
カエルを食べていたことが、考古発見物体で、確実になった大物主だけではなく、カエルを食べていた可能性が高い、八岐大蛇や、八十梟帥は、天皇の一族に、次々に叩き潰されてしまった可能性が、高まってきたな。。。
658日本@名無史さん2019/05/04(土) 19:41:17.89
空白の改行が、多いのが、一致してしまった、、、
641日本@名無史さん2019/05/04(土) 18:56:09.43
老婆が言うには
馬に乗って・・・という話もしていたし、
なぜか女の人(母親だったかな?)の話w
なんで詳しいんだろう
656日本@名無史さん2019/05/04(土) 19:31:24.88
>>648
お前の犯行だろうが
ホントに九州説は人間のクズしかいないな
クズ説だけに
ww 659日本@名無史さん2019/05/04(土) 19:42:14.58
九州説はウソしか言わない
660日本@名無史さん2019/05/04(土) 19:45:10.05
討論会で、論破されたので、また、嘘の悪口を言い放ち、敗北宣言してしまった、、、
659日本@名無史さん2019/05/04(土) 19:42:14.58
九州説はウソしか言わない
661日本@名無史さん2019/05/04(土) 19:49:05.07
嘘つき村の住民だと知られてしまった人物は、どうすれば、真実を伝達できるのだろか、、、
662日本@名無史さん2019/05/04(土) 19:52:29.67
>>651
>記紀神話と邪馬台国との関連付けに熱中するのはちょっと理解できない
どうして、思いっきり関連するよ。
例えば神武東征紀。
大げさに脚色され誇張されてるね。
その理由は、神武の時代こそが実は「女王国」だったからさ。 663日本@名無史さん2019/05/04(土) 19:55:54.49
「わしの思い込みが根拠なんじゃ!」
まさに害基地
664日本@名無史さん2019/05/04(土) 19:59:34.45
日本武尊の時代には、日本列島全体が、合戦場だった可能性が、確定したな。
665日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:00:16.96
>>663
思い込みではなくて崇神天皇4世紀前半ならその数十年前にトヨがいるはず。
実際、その時期にトヨがおり、国宝中平銘鉄刀の保持者である和邇氏の祖・考昭天皇の母である。
全部客観的事実。
認めたくないやつが認めないと言ってるだけ。 666日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:01:15.21
泥棒のようなものに入られたという話があるでしょ、
嫉妬団によるものなのか?または嘘の話(冤罪)
その家の話でしょ、親戚の話?
667日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:06:44.57
>>591質問良いですか2019/05/04(土) 16:06:31.04
畿内説・九州説おのおのに質問です
1.女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 ここは何処ですか?
2、又有侏儒國在其南 ここは何処ですか?
3、去女王四千餘里 又有裸國黒齒國 ここは何処ですか?
九州説の回答は出てるが推理
畿内説は伝聞ゆえ取るの足らない情報
で良い、
畿内の味方をするわけででは無いが、魏の使いが行ったのは邪馬台国迄あとは伝聞 668日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:07:11.50
>>595
>魏略の転記ミス
話の流れからして魏略の方が自然
魏略は翰苑所引の逸文は信用度が低いが、この部分は漢書の顔師古注所引のものだから
誤字脱字は翰苑所引ほど心配しなくてよい
魏略と三国志の倭人伝部分は共通の底本の存在が想定されるが、三国志烏丸鮮卑東夷傳では
「倭在帯方東南大海中 依山島爲國」と「度海千里復有國 皆倭種」の間に、
多くの情報が挿入されたと見ればよい 669日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:08:51.72
>>376
松野連姫氏系図が怪しくないって言うなら、もう日本史を語る資格ないよ
ボールペン書きしたような倭の五王の名前がそのまま出てくる系図を根拠にしたらその時点でトンデモだww <
https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-83-7c/longwestlonghigh/folder/1513659/86/63554686/img_0?1345976920
松野氏姫氏系図は、江戸末から明治の鈴木真年という学者(東大教授になった)が、
松野氏の子孫を探しあてて、筆写したものであり、
それが、どういう事情か?は知らないが、国会図書館と静シン堂?の二カ所に残され、
上に示された系図は、おそらく尾池という人をがどちらかを筆写したものであり、
更に、平野さんが二カ所の系図を「第1系図と第2系図」として統合され、
(だから毛筆ではなく、ボールペンか鉛筆書き)、
その中に、倭奴國王や帥升や卑弥呼や壹與らや、熊襲の王や姫らや、
難升米や伊聲耆や掖邪狗や、高良玉垂命らしき人や、倭王旨らしき人や、倭の五王や、
姫氏の最後の倭国王の哲などの名前も出てくる。
そして、最後の人物の名前は(Yahooでmkpoという大和説者から聞いたが)失念したが、
関ケ原で宇喜多家に加わって敗戦で行方不明で系図が途切れ、
それを、その人の子孫が持っていて、鈴木真年氏に見せたという事。
また、確か、現在の松野家は熊本に沢山いるようであり、
松野頼三?代議士や、マラソンの松野明美も松野氏姫氏の子孫なんだろう。 670日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:12:52.47
>>594
>暗くなっては、漂流や座礁の危険もあり、
ザラコクが自分で上記のように書いているとおり、
暗くなってから航海を続けること、海上で夜明かしをすることは
そのまま遭難=死に直結するので、渡海は朝早く出てその日のうちに渡りきるしかない
この辺まで、勝手な自己解釈をするから、ザラコクはまともな論立てができない 671日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:13:42.93
>>669
なるほど、大和朝廷の「朝貢」を隠すために創られたということが良く分かったw 672日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:14:36.23
>>379
>その場で方角を間違わないことと、史書に書かれるまで間違いが無いことは
同値ではないと何度教えれば分かるんだ バカ?
畿内説は魏使が方角も分からないバカだったというものではなく、
三国志に記述されている方角が現実に合わない、だ <
魏使らや郡役人らが記録した「東と南」のような、全く字形も意味も違う文字を、
陳寿や写本者や版刻者が間違える、とでも思っているのか?。
お前は、バカか?。 673日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:16:05.65
>>601
>書紀に書かれたのは(隋ではなく)唐使の裴世清であり、
>唐の武徳中の時の唐の使節であった事になる。
ちゃんと正史に書いてあることまで、このように勝手解釈で
捏造するからザラコクはまともな論立てができない 674日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:17:34.17
>>665
あんた客観と主観の区別がついてないぞ
左側スロープじいさんだな 675日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:18:57.70
>>606
>卑弥呼を佐治してる男弟が
>官のトップと考えるほうが自然だよ
王族のヒコヒメがトップにいて、その下に官がいるのが当然だろう
まあ、皇太子も王族だが 676日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:19:10.85
東遷脱糞厨→物部厨→葛城厨→左側スロープじいさん
自分の転向については口をつぐんだまま
所詮、素人の思い込み
677日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:19:30.25
>>665
崇神天皇はいつの時代の人かはっきりしてないからなぁ。
『日本書紀』だとモモソ姫と同時代の人だけど
モモソ姫を卑弥呼とすると
崇神天皇は2世紀後半の人になる 678日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:22:59.42
>>674
>あんた客観と主観の区別がついてないぞ
全部、客観なのに主観と言ってるのはおまえだ、ポン助。 679日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:23:32.41
ザラコクの勝手定義
ザラコクの自分都合法則
キウスの偽多重人格
連句点の妄想親族
左側スロープの非客観的事実
680日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:24:49.87
箸墓は崇神天皇陵の可能性は高い
証拠は前スレ読んでくれ
681日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:25:31.21
年表を若干修正した
西暦57年 金印「漢委奴国王」を授かり、初代・神武天皇が誕生した。
107年 第6代・孝安天皇(倭国王帥升等)が後漢に朝貢した。
177年 第10代・崇神天皇が即位した。
179年 奈良県の三輪山西麓の瑞籬宮に都を移した。
181年 ニュージーランドのタウポ大噴火
181年 疾病の流行。『崇神紀』によると「倭国の人口の半分が死んだ」
181年 『後漢書』によると「空が黄色くなり太陽が覆われた。」 「6月に雹が降った。大きさは鳥の卵ほどもあった。」
182年 『後漢書』によると「井戸の中が凍ってしまった」異常気象を示す記述は2年続く
181〜184年 倭国大乱
183年 モモソ姫の助言で大田田根子に大物主神を祀らせたら五穀豊穣となり疾病が治まった。
184年 疾病などの影響で崇神天皇が権威を失った。倭国を救ったスーパーヒーローのモモソ姫か大田田根子が女王・卑弥呼になった。
184年 黄巾の乱が勃発し、漢が衰退した。漢から授かった金印の権威消失。
198年(戊寅年) 崇神天皇が崩御した。
199年 第12代・垂仁天皇が即位した(女王・卑弥呼を補佐する役割)
202年 纒向珠城宮(纒向遺跡)に都を移した。
※『魏志倭人伝』によると官のトップは伊支馬(垂仁天皇の本名は伊久米),次席は弥馬升(垂仁天皇后の本名は日葉酢)
237年 垂仁天皇が崩御した。
238年 第12代・景行天皇が即位した。(女王・卑弥呼を補佐する役割)
238年 難升米と都市牛利が魏に朝貢した。卑弥呼が「親魏倭王」の金印を授かった。
248年 『三国志』によると女王・卑弥呼がついに亡くなった。
264年 景行天皇の息子ヤマトタケルが熊襲討伐に成功。
266年 台与が晋に朝貢した。
※約100年間の空白期間
※ヤマトタケルが天皇になってないことから台与が女王になる前の内戦で男系の王族は権威を失い完全に神武・崇神とは血の繋がりのない女王制に移行したか。そのための空白期間か
※卑弥呼と台与を日本の歴史から消す代わりに架空の天皇である第13代天皇と第14代天皇を創作し空白期間を埋めた。
390年 第15代・応神天皇が即位した。
682日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:25:59.15
>>677
15代応神天皇が4世紀末(390年元年)で確定、なら10代崇神は4世紀前半であろう。
墓は行灯山古墳、その時点で3世紀後半のトヨは決まり、そして3世代前のヒメ后も決まり。
邪馬台国の王都は葛城である。 683日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:28:01.14
>>639
>福岡・筑豊の赤村に巨大前方後円墳があると噂になっている。
>土器も出ているのなら古墳の可能性もあるだろう。
そんな可能性はないよ
国土地理院のサイトで後円部とされる部分の断面図(任意に指定した直線の標高が図示できる)を
見れば、左右の高さが合わないことが分かる
古墳だったらそんな作り方はしない 684日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:28:25.23
>>678
恥ずかしいじいさんだなwww
お前の考えはお前の主観にしかならないんだよ
中学からやり直したらどうだ? 685日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:28:29.03
>>384
>畿内説曰く、魏の時代は日本列島が南に長く伸びる島だと思っていた、
と言っていただろ?<
畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であり、
そんな詐欺師の大和説者が、「思っていた」事など、
そんなものが根拠になる筈がないだろ?。
>はるか遠方まで航行出来ていた中国様を馬鹿にし過ぎじゃねえのか?<
おや?、これは九州説者の投稿のようだな。
これは、すこし、失礼をしてしまったようだ。 686日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:29:29.30
>>680
せめてコピペしてよ
どこ読めばいいかわからん
とにかく伝承では箸墓はモモソ姫の墓だし
箸墓は崇神天皇陵よりも格上の形状(四段築成)だし
当時の人々はモモソ姫は崇神天皇よりも偉いと認識してたのは物的証拠のある確実なこと 687日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:30:20.30
>>680
>箸墓は崇神天皇陵の可能性は高い
無理。
崇神の前代で、纏向遺跡のある磯城地域の最高実力者。
つまり崇神の叔父であるイカガノシコオ。
だから大阪交野や山城に箸墓との類似古墳がある。
イカガノシコオの義理父や子供がいた場所である。 688日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:31:07.39
>>682
応神天皇は新王朝っていうのは学者の間でもわりと有力な説だから
応神天皇以前に天皇不在の期間があることを考慮しないとダメ 689日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:31:28.63
>>385
>じゃ、なんで起点を書かないの? 書き方としておかしいでしょ?<
当然、距離記載も方向記載も、原則として「起点が分かるように」書かれているよ。 690日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:32:17.61
>>653
>東征将軍らの新規征服支配国は、母国の九州倭國とは半分独立国的であり、
>従って、魏の薄葬令の制約も殆ど受けないの。
東征「将軍」というからには「倭王の配下」なんだろ?
配下、家臣が王よりでかい墓を作ってると考えるのが非常識ww
記紀の四道将軍にヒントを得た妄想なんだろうが、四道将軍もその子孫も
大和の大王よりでかい墓を作った例は一つもないぞw 691日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:33:53.50
>>684
中平銘文鉄刀を発見したのは俺ではない。
和邇氏の祖が孝昭天皇であると言ってるのも俺ではない、
その母がトヨ津姫だと言ってるのも俺ではない、記紀だ。
全部客観なのだが、お前は市んだら? 692日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:34:24.07
自称考古学者やプロ固定が宣伝している、邪馬台国畿内が、一番、税金や雇用主の投資を無駄にしている可能性が、高まってきたな、、、
679日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:23:32.41
ザラコク氏の真実定義
ザラコク氏の真実法則
キウス氏の巧妙な罠
真実の日本国の未来を支える孫達
左側スロープが馬の通り道だった真実
693日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:35:15.14
>>655
>おそらく豚の顔や大きな鼻の形状を示す文字であり、
>だから、「錐体台」的な形状を示す文字であり、
また新しい「思いつき」ww
ブタの鼻の形状が冢www
九州説の卑弥呼の墓は「ブタの鼻の形状」www
本当に日本の歴史には一切敬意を持たないんだな、九州説の人間は! 694日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:35:44.42
>>689
狂ったお前にしかわからないということは
書いてないということだ 695日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:35:50.16
>>688
新王朝だという根拠は?
河内に初めて大王墓を作ったのは応神ではなく、父親の仲哀。
新王朝でも何でもない。 696日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:36:38.24
697日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:36:56.62
嘘つき村の住民だと知られてしまった人物は、どうすれば、真実を伝達できるのだろか、、、
698日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:36:57.26
>>691
それをまとめたのはお前の考えだろ?
それとも誰かのパクりか? 699日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:37:24.41
纏向遺跡の真南に箸墓
纏向遺跡の真北に黒塚古墳
黒塚古墳は箸墓の約半分の大きさで
難升米に授けた黄幢(黄色い旗さし)と思われるU字金具も出土してる
箸墓が卑弥呼の墓でほぼ決まりでしょう
700日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:37:51.81
>>665
>思い込みではなくて崇神天皇4世紀前半なら
「崇神天皇4世紀前半」が既に思い込みw 701日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:38:28.05
702日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:38:44.50
淀川北岸も興味深いな
三島郡とか豊津とか地名が残る
まだまだ謎が沢山あるな
703日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:39:04.95
>>691
東大寺山がワニ氏あるいは物部氏の墓だと誰が言ってる? 704日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:39:13.39
>>388
>実際に、中国様がそういう地図を描いて残ってるわけだが<
魏使らのような実地に見聞計測記録した事は、信頼性が抜群だが、
実地に計測もせず、後代での「前代記録の自己解釈に拠る解釈」や、
「実地に来ていても計測もせずに大体の推定」で描いたものは、
信頼性が全くなく、根拠にならないの。 705日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:40:56.32
>>392
また「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説が、
墓穴を掘った 706日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:41:18.05
>>680
>箸墓は崇神天皇陵の可能性は高い
>証拠は前スレ読んでくれ
それでも4世紀にはならないな
「崇神天皇4世紀前半」は単なる主観による思い込みw 707日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:42:23.05
>>698
客観を集めて自説にした、悪いか。
おまえなんてアホの白石や寺沢のケツを舐めてるだけではないか。 708日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:44:03.14
>>706
古事記の没年干支は信頼できるという説が有力。
ならば崇神没年は318年。 709日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:45:18.31
ふなっしー、『松傾』?の家も最初は
「王」という名前だったという話だしな、先祖の話(むかーしの渡来人)?
710日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:45:40.94
>>691他
左側スロープ君は誰にも相手にされない妄想厨で、常に冷たくあしらわれるから
いろいろ拗らせてて、意固地になっていて態度も悪い
悪いことは言わないから自分の巣へお帰りよ 711日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:45:43.87
巨大前方後円墳の下には都合の悪い遺物が隠されている気がするんだよな
卑弥呼の墓もどれかの墓の下敷きになっている可能がある
仁徳天皇陵の下も興味深いわ
あんな好立地にそれまで何も無かったなんて考えられないからね
日本書紀の櫛八玉神が料理をする話に出てくる
【神産巣霊】(かみむすひ)の御祖尊の、命の富み栄える【新しい宮居】
が何処にあったのか気になるわ
712日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:46:38.21
>>707
誰と勘違いしてる?
お前も全一病か?
だろ、お前の考えなんだから、それはお前の主観だ
客観を集めても解釈を加えたら、それはお前の主観になるんだぞwww 713日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:48:19.36
>>703
>東大寺山がワニ氏あるいは物部氏の墓だと誰が言ってる?
金関さんは著書でワニ氏と書かれていた。
あと和田萃さんも和邇氏の系譜に卑弥呼がいるのではという見解を述べられてたそうだ。
天理の和爾にある墓を物部の墓だと言ってる人はいない、アホなのかおまえは。 714日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:48:26.62
>>708
崇神没年は「戊寅年」だろ。
318年、258年、198年が考えられるが
モモソ姫(卑弥呼)と同時代の人のようだから198年の可能性が高い 715日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:49:55.77
>>712
自説を言うのがいけないのか。
お前の説なんてアホ学者のケツの穴をなめてできたもんだろ。 716日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:50:17.24
>>397
>>幾らしゃべっても「服」の本義は「服する」という自動詞の意味であったのであり、<
>こういう嘘を平気で書き続けるからww
中国語の辞書でも 服从,顺服 [obey;submit (oneself) to] って書いてあるんだよ
obeyもsubmit (oneself) toも他動詞だろ?<
この男(スレ主?)は、全くのアホだね。
辞書は、いろんな使用例や意味を書くのが仕事だが、
「obey〜」も「submit (oneself) to〜」も、実行「する」のは主語そのものであり、
自動詞の意味ではないか。 717日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:51:37.57
>>713
あんたが物部、物部うるさいから確認しただけだよ
東大寺山=ワニ氏は有名だからね
他人の見解を引用するなら、それを明示しなけりゃ、パクり扱いされるぞ 718日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:52:10.27
>>714
318年が最有力。
四道将軍ゆかりの会津に前方後円墳ができる時期、
吉備津彦の墓もその時期、
稲荷山鉄剣のヲワケさんもその時期。
198年ってバカなのか。 719日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:53:38.25
× 稲荷山鉄剣のヲワケさんもその時期。
〇 稲荷山鉄剣のヲワケさんの祖オオヒコもその時期。
720日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:54:37.63
>>715
誰が自説を述べるなといった?
主観でしかないことを客観だとかふざけたこといったから、からかっただけだぞwww
で、径150メートルとかいう塚は主観かい?客観かい?www 721日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:55:32.79
つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだね、、、
722日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:58:03.62
紀年論とか
前世紀の遺物だぞ
九州説って、化石?
723日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:58:25.47
最後に残ったのは邪馬台国ヤマト政権説
724日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:59:14.84
プロ固定達が、論破されることを、恐れ、立ち小便をするふりをして、真実の討論会から、一斉に逃亡してしまった、、、
725日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:59:31.77
>>720
>主観でしかないことを客観だとかふざけたこといったから、
客観を集めた主観で悪いか。
卑弥呼がヒメ(蹈鞴五十鈴)と言ってるのも
、高天彦神社の塚も俺の説だ、悪いのか。 726日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:02:34.53
>>695
>河内に初めて大王墓を作ったのは応神ではなく、父親の仲哀。
古市古墳群で、のちの大王墓の規格となった二重周濠を持つ最初の巨大古墳は津堂城山古墳
津堂城山古墳はヤマトタケルの白鳥陵だと思っている
現在、軽里大塚古墳が白鳥陵に治定されているが、年代的に津堂城山古墳の方が合う 727日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:02:33.94
>>402
>>ヤマトという地名は地図に記載されない小さな村も含めると九州には沢山あるんだよ。<
>そうなんだよ 小さな地名ばかりで過去において都が置かれたような
栄えた「ヤマト」は九州には一つもない<
「ヤマト」は、「邪馬(山)の戸」や「邪馬(山)の門」と考えられるから、
「入口になる戸や門の場所」である事を示す事になり、
中心部の都の場所とは少し離れていて、違うんだよ。
>>しかし近畿にはそれが無いんだよ。<
>近畿にあるのは王都のヤマトであり、次第に広い範囲を代表するようになった大和だよ<
ダメだ。
「ヤマト」では、国の周辺の入り口や市の門である事を示すだけで、
「王都」の名前になっていない。 728日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:03:32.16
卑弥呼墓が箸バカ古墳なら奴婢の埋葬はどう説明するんだ、ボケw
早く答えろ。
729日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:05:07.40
訳が分からない同士討ちなので、饅頭を食べればよいな、
730日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:05:30.06
>>718
258年も有力で318年がダントツで有力なわけではないだろ
『日本書紀』の記述と物的証拠(モモソ姫の箸墓)のあることだから
198年でもおかしくない
少なくとも四道将軍ゆかりの会津に前方後円墳ができる時期や吉備津彦の墓よりも重要な証拠だぞ 731日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:06:28.37
>>403
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しの大和説者は、
皆、唯我独尊で、の世界の支配者になりたい戦争キョクウの、
ヤクザ暴力団らの仲間。 732日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:07:09.94
>>726
>津堂城山古墳はヤマトタケルの白鳥陵だと思っている
思ってるが根拠かいw
津堂城山から水鳥の埴輪がでているが、
お父さんのヤマトタケルをしのんで全国から水鳥を献上させた仲哀にふさわしい。
津堂城山は仲哀で間違いない。 733日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:07:34.65
734日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:10:38.95
>>406
>畿内は九州の植民地<
そうですね。
イギリスなどからの落伍者の集まりであったアメリカやオーストラリアと、
全く同じようなパターンですね。 735日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:11:21.74
>>730
>198年でもおかしくない
いやおかしい。
15代応神が390年元年。
そこから記紀では5世代前、
実際には各豪族の系譜からも3〜4世代前の崇神が198年になるわけない。
一世代間が何年になるのだ、少しは考えろ。
モモソ姫=卑弥呼なんて決めつけるな。
バカなのかお前は。 736日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:14:03.85
>>728
説明されてるから読め
知能足りてないから無理? 737日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:15:07.21
>>735
おかしくないよ
崇神はいつの時代の人か確定してないんだから138年の可能性もある
仲哀は実在性が疑われてる
5世代前っていうところにそもそも信憑性がない 738日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:15:49.49
玉露は、お湯を熱くしては、いけないので、長く蒸らせば良いのではないのかな、、、
739日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:16:17.11
>>733
へぇ奴婢埋葬の伝承や痕跡もないのか可哀そうw
高天原には奴婢埋葬の伝承や痕跡があるもんね〜っとwww 740日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:16:43.71
>>408
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は、みんな、
母国(倭国や英仏)で、犯罪者的唯我独尊の暴力団で食っていけなくなり、
アメリカやオーストラリアでなら、自分が偉いと勘違いしてる、
落ちこぼれガキら。 741日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:17:40.51
>>737
自説に都合が悪いからって非実在にするな、卑怯者。 742日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:18:05.87
>>739
頭悪そう
そもそも箸墓は調査されてないしね 743日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:18:25.79
自動詞のことで、逃亡してしまった、3寸男は、75パーより頭が悪かったな、、、
744日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:18:45.70
>>699
>難升米に授けた黄幢(黄色い旗さし)と思われるU字金具も出土してる
>>699は、三角縁神獣鏡の笠松型文様はなんだと思ってる?(誘導尋問) 745日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:19:09.41
>>741
お前が勝手に実在にするなよ
専門家の間でも非実在が有力なのに 746日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:19:11.35
>>404
「南→東」などの嘘吐きだましなどと、
根拠のない想像しか出来ない
それが情弱の・・・・詐欺師の大和説者。 747日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:20:52.89
古事記の没年干支なら仲哀は362年。
成務は355年。
丁度いいんじゃないの。
崇神は318年。
はい邪馬台国論争は終わり、ヒメ后やトヨ津姫が住んだ葛城ですた。
748日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:22:08.58
>>742
奴婢埋葬の伝承さえないのかと聞いてるのだが。 749日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:22:34.34
3寸男は、頭が悪いので、討論の作戦の入門書しか理解できなかったのでは、ないのかな、、、
750日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:22:35.12
>>744
おめーすげーな。黄幢(黄色い旗さし)じゃん 751日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:22:59.06
752日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:25:09.60
>>748
たしかに伝承はない
箸墓は天皇陵よりも格上の形状という伝承より重要な物的証拠しかないw 753日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:25:15.11
>>699
>箸墓が卑弥呼の墓でほぼ決まりでしょう
時代が違う。
卑弥呼が死んで慌てて10年かかる墓を作るわけがない。 754日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:26:14.07
>>708
>古事記の没年干支は信頼できるという説が有力。
古事記に没年干支と呼ばれるものは、本文より小さな文字で書き込まれており、
後世に注記として追記されたと考える説も有力
>ならば崇神没年は318年。
没年干支を信用する場合でも、戊寅年は258年でもよい
箸墓を崇神の墓だと主張するなら、258年の方が合う 755日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:26:16.47
3寸男は、キナイコシと同じくらい頭が悪いので、どちらが、テンプレートを貼り付ける係員か、わからないな、、、
756日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:26:19.64
>>416
>嘘つきw 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布<
そりゃ、弥生時代なら、九州倭国の東征毛人五十五国の前であり、
出雲銅鐸祭祀部族や、毛人蝦夷系部族や、東征の神武らの欠史八代が混在共存していたんだから、
まだ婚姻などで平和に栄えていたんだろう。 757日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:26:44.17
758日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:27:04.29
>>739
>高天原には奴婢埋葬の伝承や痕跡があるもんね〜っとwww
ないな 759日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:27:25.78
『何者にもなれない お前たち』
馬に乗っていて・・・という話と同じだしなw
760日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:27:34.43
>>752
崇神の叔父で磯城の最高実力者イカガノシコオね。
大した男ではない。 761日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:27:50.77
3寸男は、キナイコシと同じくらい頭が悪いので、同じ人物の可能性も、あるな。。
762日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:28:12.10
>>753
時代は同じだろ
>卑弥呼が死んで慌てて10年かかる墓を作るわけがない。
意味がわからない 763日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:28:21.71
卑弥呼の後の男王の墓とか台与の墓も探すべきやな
764日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:29:23.34
そろそろ、次回の、テンプレートを誰かが、貼り付けるのでは、ないのかな、、、
765日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:29:37.83
>>756
「九州倭国の東征毛人五十五国」なんて
トンデモ説爺さんの脳内にしか存在しないけどな 766日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:29:52.77
>>421
>>じゃあ博多湾から水行20日でどこまで行ってしまうかだなw<
>博多湾から出雲までの日本海側沿岸航行だよ
1日20キロ程度で、10日単位で丸めると20日になる<
「南→東北」という全くの嘘吐き騙しになるから、××。 767日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:29:56.47
>>754
>箸墓を崇神の墓だと主張するなら、258年の方が合う
合うわけなかろう。
どんな一世代間を想定してるんだ。
自説に無理に合わすな。 768日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:30:45.57
あの家の写真(葱の華、キュウリの葉など)でしょw
それと、そういう話なんだけど、何なんだろう、
本当の末裔(一族、遠い親戚)なのかな、日本に来て、日本人になっている?
769日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:32:44.17
770日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:32:47.11
771日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:33:30.00
>>716
>「obey〜」も「submit (oneself) to〜」も、実行「する」のは主語そのものであり、
>自動詞の意味ではないか。
バカだバカだとは思っていたが、ここまでバカなのか(呆れ)
他動詞に主語があったら自動詞の意味になるとかww
本格的に「文法も文法用語も何一つ理解していない」な
バカすぎ
目的語があるのが他動詞で、西服衆夷の衆夷が目的語だ
ザラコクの主張では、「服」は「衆夷が主語」の自動詞でなければならないが、
服の主語は>>553でも書いたように「祖禰」だww 772日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:33:30.38
773日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:35:02.77
『 Yngwie Malmsteen - Best of [HQ] 』
youtubeで良いから聴いてみて
774日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:35:14.62
>>769
主観ではない、客観。
あるのだから仕方ない。
>>762
高齢の女王の墓も用意してなかったわけだな。
死んで慌てて建造開始、10年かかって墓が完成したと? 775日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:36:05.26
>>769
主観じゃないよ
客観
だって、なにも証拠が無いんだろ?
だから「ない」が客観 776日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:36:19.24
そろそろ、次回の、テンプレートを誰かが、貼り付けるのでは、ないのかな、、、
777日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:37:29.12
778日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:38:01.96
>>727
>中心部の都の場所とは少し離れていて、違うんだよ。
本当にバカだよな
邪馬壹國、女王之所都なんだから、邪馬臺國に都があるんだよww
ザラコク、お前は邪馬壹國だと言い続けているんだから、ヤマトの地名とは無関係だろ?ww 779日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:38:16.08
>>775
蜘蛛窟はある。
神武伝承の碑文も。
見えないのかボンクラ。
俺が作ったのではない。 780日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:38:55.24
>>426
>粟田朝臣真人は続日本紀に出世の次第も順に書いてあるのにそれを無視してごたごた言ってもムダ
奈良盆地の様子が書いてないって、倭國からの遣唐使がきたという記録に倭國の細々したことは
書いてないのが当たり前 九州のことも書いてないしイメージできないのに何を言ってるんだ? <
粟田も太宰府に勤務していた事があったし、
阿倍仲麻呂も王維らには「帰るのは九州だ」と言っていたようだし、
どうも、大和日本国政府は、九州倭国の人間を遣唐使にして、
大和日本国が九州倭国を支配していますよ、と唐に示したかったんではないんかなあ。 781日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:39:17.94
卑弥呼の後の男王
誰なんやろな
卑弥呼亡き後の内乱で亡くなったのかそれとも何処かに逃げ延びたのか
782日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:39:51.50
>>777
高齢の女王の墓も用意してなかったという大笑いの説なんだ、君はw
奴婢埋葬痕跡は? 783日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:40:13.36
>>774
>あるのだから仕方ない。
なら現物だせ阿呆 784日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:41:13.18
>>781
男王は大物主。
2世紀前半の男王から一貫して大物主。 785日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:41:37.72
>>779
それを奴婢のものだと解釈してるのはお前
だから高天神社に奴婢云々という主張はお前の主観
やっぱり主観と客観の区別がつかないのなw 786日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:41:56.30
>>783
高天原の地図が見えないの?うんこさんw 787日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:42:26.84
>>780
>どうも、大和日本国政府は、九州倭国の人間を遣唐使にして、
粟田も、阿部も大和人間 788日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:43:00.72
左側スロープくんの狂気が明らかにされていきますなぁ
789日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:43:06.68
>>785
奴婢は土蜘蛛。
部落解放運動の原点も葛城。
神武が住んだカシハラだね。 790日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:43:33.77
>>432
>渡海と水行を区別していない時点で却下だよ
史書の地理・旅程記事で「水行、陸行」という表記を採用したのは三国志の陳寿その人
水行と渡海ははっきり区別されてるよ <
渡海も水行に含まれ、水行の中の一形態だから、×。 791日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:44:07.32
偶然にしては・・・という話
(漫画、アニメ・・・その他、含め)ばかりなんだよな
792日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:44:25.17
>>789
主観と客観の区別がつかない耄碌爺は巣に帰ったらどうだ? 793日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:44:32.08
>>780
>阿倍仲麻呂も王維らには「帰るのは九州だ」と言っていたようだし、
これも真っ赤なウソだな 794日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:46:08.73
>>732
>お父さんのヤマトタケルをしのんで全国から水鳥を献上させた仲哀にふさわしい。
>津堂城山は仲哀で間違いない。
津堂城山が仲哀陵というのは誰の説だ?
聞いたことがないぞ?
公式には(あてにはならないが)、津堂城山古墳は允恭天皇の陵墓参考地で、
仲哀陵は岡ミサンザイ古墳だ
親のヤマトタケルに所縁の白鳥の埴輪を、子どもの仲哀の古墳に置く理由も
>>732以外には分からないぞww
仲哀の陵墓は仲哀の遺族が作るわけだから 795日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:46:14.12
僕達は、今、孫達が勧めてくれた、討論の分野にあまり知識がない者のための討論のための作戦書を読みながらの合間に、この笑えるスレッドを読み、書き進め、笑い、リラックスしているのだが、早く、実践したいな、、、
796日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:46:28.29
>>789
土蜘蛛が奴婢だっていう「客観的」証拠プリーズ 797日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:47:17.32
そろそろ、次回の、テンプレートを誰かが、貼り付けるのでは、ないのかな、、、
798日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:47:25.83
卑弥呼が死を意識するほど高齢だったかは謎
高齢とは一言も書いてない
799日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:47:27.49
なんでモモソ姫が卑弥呼なんだよw
一皇女が何で女王なんだよw
しかも大物主と結婚、大物主より先に死んでるから寡婦でさえない。
アホではないのかwww
800日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:48:11.24
そろそろ、次回の、テンプレートを誰かが、貼り付けるのでは、ないのかな、、、
801日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:48:20.32
802日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:49:21.01
どこかの耄碌爺と違って神話を真に受けたり、勝手に年代当て嵌めたりしてないからな
803日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:49:52.31
>>782
奴隷なんか埋葬しないよ
人身御供がある国はその跡が残ってるだけ 804日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:49:58.33
>>739
>高天原には奴婢埋葬の伝承や痕跡があるもんね〜っとwww
それは「土蜘蛛」しかも後世のものを、勝手に自己の主観による
妄想解釈で奴婢だと読みかえているだけww
悪いことは言わないから、左側スロープ君はここにいてもバカ扱いしかされないし
自分の巣へ帰った方がいいよww 805日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:50:28.90
806日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:50:45.63
嘘つき村の住民だと知られてしまった人物は、どうすれば、真実を伝達できるのだろか、、、
807日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:51:07.07
>>794
だれの説も何も津堂城山は河内王朝開始期の大王墓。
日本書紀では仲哀がそれ。
岡ミサンザイは全然時代が違う。」 808日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:51:08.15
ヤマトを征伐した側が部落だろう
あべこべ
809日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:51:42.40
>>433
>90度回転説を採るなら、隠岐の島や佐渡でもよい<
「90度回転説」なんて、
正常人には全くあり得ないし、考えらえもしないアホ説であるから、×。
>魏略 倭在帯方東南大海中 依山島爲國 度海千里復有國 皆倭種
この位置なら、対馬や壱岐へ渡海千里しても、そこも皆倭種という意味になる
東とも書いてないし <
地誌や行程移動の記録は、原則として「順次式」であるから、×。 810日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:51:52.37
そろそろ、次回の、テンプレートを誰かが、貼り付けるのでは、ないのかな、、、
811日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:53:03.65
僕達は、今、孫達が勧めてくれた、討論の分野にあまり知識がない者のための討論のための作戦書を読みながらの合間に、この笑えるスレッドを読み、書き進め、笑い、リラックスしているのだが、早く、実践したいな、、、
812日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:53:03.99
>>805
卑弥呼墓に記述されてる太古からある大きな奴婢郷は葛城にしかない。
土蜘蛛以外に奴婢になった集団を答えろ。 813日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:54:52.35
>>751
>通説は博山炉
博山炉だと縦にいくつも重ねて描かれる理由が分からない
大陸出土の画像鏡には、笠松型文様がないことも説明しにくい
>>750の黄幢説の方が説得力があると思う 814日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:54:56.50
記紀は罪深い書物
罪の告白本みたいなもの
もう一回立場が入れ替わるとは思いもしなかったんだろう
815日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:55:27.12
816日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:55:42.14
>812
>土蜘蛛が奴婢になったって根拠は?
817日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:56:48.90
神武は高尾張邑で網を使って土蜘蛛を生け捕りにしている。
そしてカシハラに住んだ。
20世紀になってカシハラに水平社博物館ができ、その隣が神武天皇社だ。
見事につながっている。
818日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:57:28.32
>>767
>自説に無理に合わすな。
記紀の記述を自分の説の都合に合わせて勝手解釈で読みかえてるだけなのが
左側スロープ君のやり口
ザラコクの同類だよ 819日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:58:14.37
神武がいたかは知らないが共の者なんじゃないのか?
820日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:59:18.57
博山炉は博山炉でちゃんと表現されてるから笠松文とは別物と思う
821日本@名無史さん2019/05/04(土) 21:59:27.44
或いはヤマト征伐の際に寝返った者とか
822日本@名無史さん2019/05/04(土) 22:00:48.59
>>779
>神武伝承の碑文も。
天皇としか書かれていないのを勝手に神武にしているところからして、
典型的な脳内妄想のみが根拠のトンデモ説だ
悪いことは言わないから、左側スロープ君は自分の巣へお帰りなさい 823日本@名無史さん2019/05/04(土) 22:01:15.26
>>817
完全に個人の主観
耄碌爺は巣に帰ったら? 824日本@名無史さん2019/05/04(土) 22:02:18.07
150メートルの塚の客観性については触れなくなったキチ
825日本@名無史さん2019/05/04(土) 22:03:01.32
>>440
>その日本条に>>229で引用されているように
「長安三年,其大臣朝臣真人來貢方物」と長安三年の遣使だと書いてあるな?
そしてこの長安という元号は武則天の武周の元号だ
そして、唐会要の「倭國条」に 「則天時。自言其國近日所出。故號日本國。蓋惡其名不雅而改之。」とあって、
則天時の長安三年に来た「倭國の使いの粟田朝臣真人=奈良の朝廷の貴族」が
倭国から日本国への国号の変更を申し出たことが分かる訳だ<
ダメだ。唐会要では、
倭国の話や倭国使節は、(日本国伝には書かずに)倭國伝に記載し、
大和日本国の話や日本国使節の話は、(同時代の倭国の話とは )きちんと書き分けて、
日本国伝に書いているんだから、
「則天時。自言其國近日所出。故號日本國」の話は、倭国の使節の言上であり、
大和日本国の使節の言上ではない。
>いろんな史書の対応を総合的に見て、整合性が取れる解釈をしないとダメなんだよ
「これは日本国条だから」とかいうのは、チェリーピッキング初級だww<
お前の行為が、嘘吐き騙しのチェリーピッキング初級だ。 826日本@名無史さん2019/05/04(土) 22:03:42.96
>>780
>どうも、大和日本国政府は、九州倭国の人間を遣唐使にして、
>大和日本国が九州倭国を支配していますよ、と唐に示したかったんではないんかなあ。
だいぶ苦しくなってきたなww
続日本紀には粟田真人が太宰府に「赴任」する前から、出世していく様子(叙位記事)が
書かれているからどうやっても奈良朝廷の官人だぞww 827日本@名無史さん2019/05/04(土) 22:07:28.18
やはり、倭国を滅ぼしたのは、日本武尊だったのだな。
826 名前:日本@名無史さん 2019/05/04(土) 22:03:42.96
>>780
>どうも、大和日本国政府は、九州倭国の人間を遣唐使にして、
>大和日本国が九州倭国を支配していますよ、と唐に示したかったんではないんかなあ。
だいぶ苦しくなってきたなww
続日本紀には粟田真人が太宰府に「赴任」する前から、出世していく様子(叙位記事)が
書かれているからどうやっても奈良朝廷の官人だぞww 828日本@名無史さん2019/05/04(土) 22:07:52.92
>>786
>高天原の地図が見えないの?
高天彦神社周辺には「東に向かって下る東西方向の尾根」しかないんだよ
それが「径150メートルの塚」に見えるのは、左側スロープに特有の「主観」でしかない
この説は間違いなく左側スロープ君のオリジナルのものだww
他の人にはその「径150メートルの塚」なんて誰一人認識できないからねwwwwwww
悪いことは言わないから、左側スロープ君は自分の巣へお帰りなさい 829日本@名無史さん2019/05/04(土) 22:09:29.42
>>790
>渡海も水行に含まれ、水行の中の一形態だから、×。
それは文献解釈をまともにやったことのない情弱の勝手解釈
水行と渡海は区別されている 830日本@名無史さん2019/05/04(土) 22:10:02.08
そろそろ、次回の、テンプレートを誰かが、貼り付けるのでは、ないのかな、、、
831日本@名無史さん2019/05/04(土) 22:11:29.51
>>449
>魏略ではその記述は冒頭にあるし、倭国本土(本州四国九州)の周辺の
渡海千里で行ける島も全部倭種ってだけの記述<
「倭国本土(本州四国九州)」という文言がインチキなので×。
「南≠東」に拠っても、唐会要倭國伝の「正北抵新羅」に拠っても、
倭国はほぼ九州島付近であり、本州四国はほぼ倭国ではない。 832陳寿90度回転さん(畿内説)2019/05/04(土) 22:11:41.90
>>591
1.行程記事の方位は全て実方位に対して時計回りに90度回転させられています。
したがって東は北。
また渡海千余里は対馬海峡のような広めの海峡を渡った時の『一声千里』です。
これらにより該当する場所は宗谷海峡と北海道です。倭種は北海道のアイヌか縄文人です。
交易ネットワークで繋がっていた東北縄文人からのまた聞きのまた聞きで聞いたのでしょう。
2.南は東。千島列島のコロポックルです。
3.不明ですが、四千里の四と言う妙に具体的な数字には意味がありそうです。
そこそこの大国を四つ超えた先にあるのかも知れません。
山海経の妖怪話のように、ただの伝承やフィクションの可能性もあるでしょう。 833日本@名無史さん2019/05/04(土) 22:17:24.70
>>828
>高天彦神社周辺には「東に向かって下る東西方向の尾根」しかないんだよ
高天彦神社周辺には「西に向かって登る東西方向の尾根」しかないんだよ
箸墓が卑弥呼墓だという糞スレを452回も立ててる暇があるなら屁をこいて寝ておれ。 834日本@名無史さん2019/05/04(土) 22:17:31.48
>>450
>(2)東日本は平底の世界 東日本で有段口縁壺が出土すると,
私どもはすぐに近畿の布留式あるいは布留系の土器と考え, 近畿の編年と比較しがちである。
しかしよく資料を見ると,その姿勢が過ちの素であることに気づく。
西日本において,布留式の影響が強く働いた地域では,基本的に丸底の世界に変わる。
甕,小型土器群はもちろん,壺の大半も例外ではない。
一方,東日本で出土する有段口縁壺の大半は,平底である。
有段回縁壺が近畿起源であるとしても,東日本で丸底化しない事実を考慮すれば,
それは東日本に根付いた地元の土器と考えるべきであろう。<
ふーん。成程。 835日本@名無史さん2019/05/04(土) 22:18:07.34
そろそろ、次回の、テンプレートを誰かが、貼り付けるのでは、ないのかな、、、
836日本@名無史さん2019/05/04(土) 22:18:45.78
そろそろ、次回の、テンプレートを誰かが、貼り付けるのでは、ないのかな、、、
837日本@名無史さん2019/05/04(土) 22:18:57.94
>>833
左側スロープじいさんも全一病発症www 838日本@名無史さん2019/05/04(土) 22:19:44.42
そろそろ、次回の、テンプレートを誰かが、貼り付けるのでは、ないのかな、、、
839日本@名無史さん2019/05/04(土) 22:20:09.17
そろそろ、次回の、テンプレートを誰かが、貼り付けるのでは、ないのかな、、、
840日本@名無史さん2019/05/04(土) 22:20:11.64
>>818
国宝中平銘鉄刀の和邇氏の系譜に和田萃さんの予想通りトヨもヒメ后もいる。
お前ごときの出る幕ではない、引っ込め。 841日本@名無史さん2019/05/04(土) 22:21:06.41
そろそろ、次回の、テンプレートを誰かが、貼り付けるのでは、ないのかな、、、
842日本@名無史さん2019/05/04(土) 22:21:35.28
>>799
『日本書紀』でもモモソ姫は大物主神の妻だから
天皇より遥かに偉い存在だぞ 843日本@名無史さん2019/05/04(土) 22:21:36.63
そろそろ、次回の、テンプレートを誰かが、貼り付けるのでは、ないのかな、、、
844日本@名無史さん2019/05/04(土) 22:22:45.92
そろそろ、次回の、テンプレートを誰かが、貼り付けるのでは、ないのかな、、、
845日本@名無史さん2019/05/04(土) 22:23:09.81
そろそろ、次回の、テンプレートを誰かが、貼り付けるのでは、ないのかな、、、
846日本@名無史さん2019/05/04(土) 22:23:34.09
そろそろ、次回の、テンプレートを誰かが、貼り付けるのでは、ないのかな、、、
847日本@名無史さん2019/05/04(土) 22:24:22.54
そろそろ、次回の、テンプレートを誰かが、貼り付けるのでは、ないのかな、、、
848日本@名無史さん2019/05/04(土) 22:24:46.65
そろそろ、次回の、テンプレートを誰かが、貼り付けるのでは、ないのかな、、、
849日本@名無史さん2019/05/04(土) 22:25:00.52
>>842
時代が違う。
いくら頑張っても崇神は318年没でFA
モモソ姫もその時代。 850日本@名無史さん2019/05/04(土) 22:25:06.21
そろそろ、次回の、テンプレートを誰かが、貼り付けるのでは、ないのかな、、、
851日本@名無史さん2019/05/04(土) 22:25:45.14
そろそろ、次回の、テンプレートを誰かが、貼り付けるのでは、ないのかな、、、
852日本@名無史さん2019/05/04(土) 22:31:25.73
訳の分からない同士討ちが、決算した、、、
853日本@名無史さん2019/05/04(土) 22:31:52.34
>>807
>だれの説も何も津堂城山は河内王朝開始期の大王墓。
>日本書紀では仲哀がそれ。
日本書紀では河内王朝開始などという立場は取っていない
この時点で勝手解釈
そして「いわゆる」応神皇統に繋がる始祖は、むしろヤマトタケルだろう
天野末喜氏(元藤井寺市教育委員会文化財保護課長)の見解
「城山古墳の被葬者像 城山古墳は、370年前後に築造された大王墳であると考えた。
次の課題はその被葬者の特定ということになろう。これまでの見解としては、
大道弘雄(だいどうひろお)が志貴県主(しきあがたぬし)(大道1912)、
梅原末治(うめはらすえじ)が允恭天皇(梅原1920)、藤井利章(ふじいとしあき)と
水野正好(みずのまさよし)が仲哀天皇(藤井1982)を被葬者と想定している。
また、宮内庁の『陵墓参考地一覧』(昭和24年)では該当御方允恭天皇、考証意見第二類とする。
しかし、いずれの候補者も城山古墳の築造年代と齟齬(そご)をきたす。もっとも接近する
仲哀天皇にあっても一世代ほどのズレが観察される。
古市古墳群には、370年前後に城山古墳、390年前後に仲津山(仲姫(なかつひめ)陵)古墳
(藤井寺市)、410年前後に誉田御廟山古墳が築かれた。これらは三代に連なる大王の墳墓と
考えられる。誉田御廟山古墳に応神天皇が葬られたと考えると、仲津山古墳は仲哀天皇、
城山古墳には日本武尊(やまとたけるのみこと)が被葬者の候補にのぼってこよう。
ただ、仲哀天皇や日本武尊はその実在性に疑問符が付されていることを考えると、
城山古墳の被葬者として日本武尊という個人名を挙げることに躊躇せざるをえない。
しかしながら、応神天皇の二代前の大王が存在し、その大王が城山古墳に葬られた可能性まで
否定することはないように考える。ただ、城山古墳、仲津山古墳、誉田御廟山古墳の被葬者が
系譜的に結ばれていたことを考古学的に実証あるいは論証することは容易ではない。」 854日本@名無史さん2019/05/04(土) 22:33:42.43
>>809
>地誌や行程移動の記録は、原則として「順次式」であるから、×。
そう主張しながら、水行十日の起点をいきなり振り出しの帯方郡まで戻すご都合主義ww 855日本@名無史さん2019/05/04(土) 22:36:04.75
八岐大蛇から出現した神の剣を手にした、
日本武尊とは、何者なのだろうか、、、
856日本@名無史さん2019/05/04(土) 22:38:13.17
>>853
>日本書紀では河内王朝開始などという立場は取っていない
>この時点で勝手解釈
河内に墓を作った最初の天皇は仲哀だね。
違うのか? 857日本@名無史さん2019/05/04(土) 22:44:08.88
>>833
>「西に向かって登る東西方向の尾根」
それ、長さはどこできるかは任意
幅は50メートルちょいくらいの東西方向に細長い尾根なんだけど
それを主観だけで勝手に「径150メートルの塚」にしちゃってるのが
左側スロープ君の妄想葛城説ww
そこが大事な塚だったらその尾根に登る前の東側に
その「尾根を拝む位置、方向」に神社が作られるだろうに
実際の高天彦神社は、その尾根を踏みつけにして登った西側に、
さらに西側の山を拝む向きに建てられている
聖地でもなんでもない、ただの自然地形の尾根に過ぎないのが
神社の立地という現実だけからでも明白
これも以前に教えたことがあるんだけれど、都合の悪いことは見ない聞かないで、
壊れたレコードよろしくデタラメなトンデモ説を書き続ける
それが主観妄想の人、左側スロープ君の本質だ
悪いことは言わないから、自分の巣へお帰りなさい 858日本@名無史さん2019/05/04(土) 22:44:28.60
>>853
>370年前後
いやその根拠がわからない。
仲哀の場合は想定より早く死んで墳墓が作られてなかった可能性が高い。
神戸の五色塚古墳はカゴ坂皇子が凱旋する神功皇后軍を迎え撃つために、
仲哀陵を作るという名目で兵を集めてた場所と言われるが、
そういう名目が成り立つのは仲哀陵墓が仲哀の生存中に作られていなかったからであろう、。 859日本@名無史さん2019/05/04(土) 22:46:12.86
>>857
>それ、長さはどこできるかは任意
いや、参道が急にもっこり盛り上がる部分からだよ。
おおよそ150m。
文句あるまい。 860日本@名無史さん2019/05/04(土) 22:47:32.58
>>856
>河内に墓を作った最初の天皇は仲哀だね。
>違うのか?
しつこいなぁ
「しかし、いずれの候補者も城山古墳の築造年代と齟齬(そご)をきたす。もっとも接近する
仲哀天皇にあっても一世代ほどのズレが観察される。 」 861日本@名無史さん2019/05/04(土) 22:48:05.61
860
862日本@名無史さん2019/05/04(土) 22:49:07.78
863日本@名無史さん2019/05/04(土) 22:51:45.50
>>857
>聖地でもなんでもない、ただの自然地形の尾根に過ぎないのが
>神社の立地という現実だけからでも明白
鳥居とは聖地への結界。
下(東側)に鳥居があっただろ。
あの小山も聖地。
もちろん高天彦神社自体も聖地。
あと小山を取り囲むようA参道があり。けっして踏み付けてないから。 864日本@名無史さん2019/05/04(土) 22:53:20.87
主観ばっかり
865日本@名無史さん2019/05/04(土) 22:53:29.81
>>860
だから370年なんて根拠はない。
しつこいのはおまえだ。 866日本@名無史さん2019/05/04(土) 22:53:32.86
>>859
>いや、参道が急にもっこり盛り上がる部分からだよ。
それ、道が谷筋から尾根にとりつくところだから、地形に合っていないし、尾根の端とも合わない
>おおよそ150m。
それ西側の東に向かってだらだら下るところを根拠なく150メートルになるところまでを
150メートルって言ってるだけだよなww
西側の塚の境界部には何一つ根拠がない
しかも尾根の幅は50メートルちょい
これを「径150メートルの塚」と呼ぶのは、左側スロープ君の主観だけだよwwwwwww
>文句あるまい。
文句しかないんだが?
そこが大事な塚だったらその尾根に登る前の東側に
その「尾根を拝む位置、方向」に神社が作られるだろうに
実際の高天彦神社は、その尾根を踏みつけにして登った西側に、
さらに西側の山を拝む向きに建てられている
聖地でもなんでもない、ただの自然地形の尾根に過ぎないのが
神社の立地という現実だけからでも明白
これも以前に教えたことがあるんだけれど、都合の悪いことは見ない聞かないで、
壊れたレコードよろしくデタラメなトンデモ説を書き続ける
それが主観妄想の人、左側スロープ君の本質だ
悪いことは言わないから、自分の巣へお帰りなさい 867日本@名無史さん2019/05/04(土) 22:54:49.93
自分の意見にはみんなひれ伏すとでも思ってんのか、こいつは
868日本@名無史さん2019/05/04(土) 22:56:49.00
>>863
>あと小山を取り囲むよう?参道があり。けっして踏み付けてないから。
自分で>>859で
「参道が急にもっこり盛り上がる部分から」って書いてるじゃないかww
この盛り上がる部分から先は、左側スロープ君が「径150メートルの塚」といっている部分を
踏みつけにして道が付けられてるんだよ
自分で何を書いてるかぐらいは理解しなさいww
悪いことは言わないから、自分の巣へお帰りなさい 869日本@名無史さん2019/05/04(土) 22:58:34.09
>>865
>だから370年なんて根拠はない。
トンデモさんは、研究成果も公式報告書も、
自説に合わなければ「根拠がない」ことにしようとするww 870日本@名無史さん2019/05/04(土) 23:00:38.14
>>866
>それ、道が谷筋から尾根にとりつくところだから、地形に合っていないし、尾根の端とも合わない
そりゃ人為的に手を加えたら地形には合わないだろ。
あの石の多さは人為的な何かがあった証拠だ。
だいたい卑弥呼が誰かも言えない箸墓というボンクラ説者が偉そうに言うんじゃない。 871日本@名無史さん2019/05/04(土) 23:01:59.19
>>869
年輪年代ならともかく土器編年でなんで370年なんて具体的数字になるのだ? 872日本@名無史さん2019/05/04(土) 23:02:22.24
あかん、寝るわ。
873日本@名無史さん2019/05/04(土) 23:44:22.91
>>870
>そりゃ人為的に手を加えたら地形には合わないだろ。
>あの石の多さは人為的な何かがあった証拠だ。
大作冢なんだから、人の手によって冢を作ったと書いてあるのに
ただ単調に下るだけの細長い自然地形の尾根を「径150メートルの塚」だと
主観妄想だけで主張するお笑いトンデモ説、それが左側スロープ説だww
自分で>>859で
「参道が急にもっこり盛り上がる部分から」って書いてるじゃないかww
この盛り上がる部分から先は、左側スロープ君が「径150メートルの塚」といっている部分を
踏みつけにして道が付けられてるんだよ
自分で何を書いてるかぐらいは理解しなさいww
悪いことは言わないから、自分の巣へお帰りなさい 874日本@名無史さん2019/05/04(土) 23:48:04.89
>>870
>だいたい卑弥呼が誰かも言えない箸墓というボンクラ説者が偉そうに言うんじゃない。
畿内説の素人の大勢は、卑弥呼に倭迹迹日百襲姫命を当てるのが標準
プロは、この辺りの固有名詞は実在の証拠も根拠もないとして、具体名は挙げないのが標準 875日本@名無史さん2019/05/04(土) 23:56:03.85
>>874
アホか
箸墓は天皇陵よりも格上の形状で
当時の人々は天皇よりも箸墓に眠る人(モモソ姫)のほうが偉いと思ってたのは間違いないんだよ
『日本書紀』でもモモソ姫は天照とならぶ最高神・大物主神の妻だから天皇より偉い 876日本@名無史さん2019/05/04(土) 23:59:21.75
>>849
>崇神は318年没でFA
証拠がない
応神から5世代前ってだけでは弱すぎる 877日本@名無史さん2019/05/05(日) 00:35:14.33
5chに限らず畿内説ってバカなんだな
878日本@名無史さん2019/05/05(日) 01:01:18.94
理論で抵抗できなくて
悪口言うくらいしかない九州説って
そうとう頭悪くない?
879日本@名無史さん2019/05/05(日) 05:22:41.94
>>452
>184年 疾病などの影響で崇神天皇が権威を失った。倭国を救ったスーパーヒーローのモモソ姫か大田田根子が女王・卑弥呼になった<
「南≠東」などの嘘吐き騙しで、この男も×。 880日本@名無史さん2019/05/05(日) 05:31:04.09
>>460
理由なし
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しの、
結論ありきの決めつけ100%
自分たち唯我独尊の人種差別的殺戮戦争キョクウのエリートには
人民をの支配する義務があるする、エヘン、
という狂気が、全て。
それが九州説という名を借りた極左政治思想 881日本@名無史さん2019/05/05(日) 05:38:06.28
キウスと連続句読点は、まともな日本の学校教育を受けていないようだ
ザラコクは>>880を見て分かるとおり頭の悪い左翼思想の持ち主で学歴詐称のインチキの人
まともな常識ある九州説は皆無 882日本@名無史さん2019/05/05(日) 05:43:23.02
>>478
>畿内説は政治と無関係だけど<
ダメだ。
「南→東」の嘘吐き騙しや、「正北抵新羅」の隠蔽、などの嘘吐き騙しまでして、
畿内という文言を使っている限り、
天皇家が列島一元支配をしていた、という極右的暴力的国家の政治思想そのものだ。 883日本@名無史さん2019/05/05(日) 05:47:57.34
>>482
何かあるとすぐに畿内とか天皇とか邪馬台国とか「東」とかの、
「存在もしない宗教的嘘吐き騙し文言」を主張する大和説者が言ってもねー 884日本@名無史さん2019/05/05(日) 05:51:06.63
>>486
大和説者には、「南→東」や「正北抵新羅」の隠蔽などのような、
こんなウソを平気でつく人しか残っていないのか 885日本@名無史さん2019/05/05(日) 05:54:01.01
>>487
「南→東」などや「畿内」や「邪馬台国」や「正北抵新羅」の無視など、
口から出まかせは、、大和説だけさ 886日本@名無史さん2019/05/05(日) 05:56:53.39
>>490
大和説が、「天地開闢以来の天皇家万世一系支配」の思想であることを自白 887日本@名無史さん2019/05/05(日) 06:00:32.17
>>493
>漢字漢文では冢=墳なんだなぁww 冢 高墳也<
それ、「冢≠墳」であり「墳⊃冢」だ、っていう意味。 888日本@名無史さん2019/05/05(日) 06:05:52.52
>>495
>陳寿本人が会稽の地名を出してるんだ
九州最南端より明らかに南だよ<
ウソを付くなスレ主。
相変わらず「会稽東治」の、都合の悪い「東治」をこっそり外して、
国民を騙そう、としている。
ズレ主は無理やり「東治」を外すウソをつき、他の大和説は全員沈黙する
これが大和説の惨状だよ 889日本@名無史さん2019/05/05(日) 06:09:57.96
>>497
まともな判断力のある人は、現状の文献考古の史料事実や史料実態の状況、
その他研究成果を一通り見聞きすれば、
九州説以外に採りようがないことが理解できるからね
今どき大和説を主張している人は、基本的にまともじゃないんだよ
現状の史料事実や研究成果を
捏造・デタラメだと名誉毀損級の誹謗中傷を主張しないと、
大和説を維持できないところまで来ている 890日本@名無史さん2019/05/05(日) 06:13:40.14
>>498
>ちなみに冢は頂と音通で高い・大きいなどの意味もある<
冢には「大きい」という意味はない。
>当時の高塚である前方後円墳にピッタリだ <
平べったく見える前方後円墳は、全く×だ。 891日本@名無史さん2019/05/05(日) 06:17:59.32
>>499
>つーか 墳頂で祭祀してる箸墓は「冢」でおkの言質いただきマシタサンキュー
って感じ<
「墳頂」と言った瞬間に、「冢の否定」だよ。 892日本@名無史さん2019/05/05(日) 06:20:02.66
箸墓はビル10階分あるからね
最大級の土饅頭だわ
893日本@名無史さん2019/05/05(日) 06:21:39.83
>>502
>墳と冢が違うって言ってる人たちって、古「墳」、前方後円「墳」と呼ばれているものは
冢じゃないって言いたいだけなんだよね <
説文解字も孔明の遺言も「冢≠墳」だし、
陳寿も「冢=墳」だとは書いていない。 894日本@名無史さん2019/05/05(日) 06:27:52.94
>>509
>箸墓はお前さんの定義でも完全に冢だろ? <
「前方後円墳」は、始めから「冢≠墳」だから、×。 895日本@名無史さん2019/05/05(日) 06:29:03.22
纏向は古墳造営基地
掘立柱建物は安全祈願の神社か斎場
896日本@名無史さん2019/05/05(日) 06:30:33.39
>>510
大和説は、「南→東」などのように、妄想とでっち上げの想像を加えないと、
九州説に反論一つ、イチャモン一つさえ付けられないほど
追い詰められているからだよ。 897日本@名無史さん2019/05/05(日) 06:33:50.89
>>875
>箸墓は天皇陵よりも格上の形状で
そうかな。
神武は畝傍山そのものが墓にされてるフシがある。
天然の山・畝傍山と比べたら格段に見劣りするだろ。
その畝傍山も高天原(金剛山)と比べたら格段に見劣りする。 898日本@名無史さん2019/05/05(日) 06:34:22.79
>>511
説文解字注のような後代の解釈文は、
筆者の考えとおなじであるのか?の保証がなく、
根拠にならないから、×。 899日本@名無史さん2019/05/05(日) 06:37:21.97
墓の大きさが権威の象徴ではない、被葬者が埋葬されている標高。
もちろん高いほうが上。
だから前期古墳は山稜にあるのだ。
平地の箸墓古墳は論外。
900日本@名無史さん2019/05/05(日) 06:39:15.67
>>890
>平べったく見える前方後円墳は、全く×だ。
前方後円墳と平原1号墓と比べてどっちが平べったいと思ってるんだ?ww 901日本@名無史さん2019/05/05(日) 06:40:58.83
>>512
>テスト投稿 <
この投稿時点まで、
5chの「私への投稿掲載拒否」で、私は、投稿が出来ない状態であったのであり、
掲載拒否はまだまだ続くようであり、
また、相当返信が遅れる事になるんだね。 902日本@名無史さん2019/05/05(日) 06:43:47.18
>>513
>冢は三国志では4ヶ所しか出てこない
魏志倭人伝中に2ヶ所韓伝に1ヶ所諸葛亮伝に1ヶ所
そして実際に冢を造った記事は倭国の記事のみ
これは当時の中国では薄葬が流行っていたため冢の造営が廃れていたため
逆に厚葬がひろく行われていた後漢時代は冢地や冢塋の地を賜ったという記事がみられる
従って卑弥呼の墓はかなり大掛かりなものだと思われる<
ふーん、成程。 903日本@名無史さん2019/05/05(日) 06:44:59.53
古墳はただ土を積み上げてる訳ではなく高さを追求しても崩れない様に工夫して土木工事されてるから高いのが冢なら前方後円墳は冢だろう
904日本@名無史さん2019/05/05(日) 06:45:06.82
>>893
>説文解字も孔明の遺言も「冢≠墳」だし、
本当にザラコクは何度教えられても、デタラメ解釈を書き続ける
説文解字
冢 高墳也
冢が墳であることが明記されている
説文解字注
墳
墓也。此渾言之也。析言之則墓爲平處。墳爲高處。
墓のうち、平ったいのが「墓」、高いのが「墳」
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを
築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て
墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば
「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。 905日本@名無史さん2019/05/05(日) 06:48:29.30
>>517
「南=東」といい「冢=墳」といい、
大和説はまたウソか 。
もう精神的な病気だな 906日本@名無史さん2019/05/05(日) 06:48:49.12
九州にあった邪馬台国が大和に移ったんだよ
これで皆満足だろ
907日本@名無史さん2019/05/05(日) 06:53:34.59
>>521の訂正?
またも「南→東」や「冢=墳」や「正北抵新羅の無視」まど、
「根拠を示さずに決めつけ」する大和説は
妄想説 908日本@名無史さん2019/05/05(日) 06:54:13.07
ヤマトの元の意味だと判明した、八岐や八俣は、何かの例えなのではないのかな、、、
909日本@名無史さん2019/05/05(日) 06:54:16.58
後代のザラコク説は筆者である陳寿と同じ考えである保証が無いため×であると自供してしまったな
910日本@名無史さん2019/05/05(日) 06:54:39.82
箸墓が古墳造営基地であるという根拠
1、集落跡が無い、生活用具が少なく土木具が多く出土
2、搬入土器が多く各地から作業員が来ているし、市的機能を持っていたであろう
3、物資運搬の運河が築かれ古墳建設の土木工事が行われている
4、多くの古墳がある
5、斎場と見なされる 大型掘立柱建物がある
911日本@名無史さん2019/05/05(日) 07:00:20.27
論破され、惨めな思いで、夜を明かした者が、討論会で発生させた怨恨を、嘘の悪口を言い放つことで、晴らそうとしているな。。。
881日本@名無史さん2019/05/05(日) 05:38:06.28
キウスと連続句読点は、まともな日本の学校教育を受けていないようだ
ザラコクは>>880を見て分かるとおり頭の悪い左翼思想の持ち主で学歴詐称のインチキの人
まともな常識ある九州説は皆無 912日本@名無史さん2019/05/05(日) 07:05:18.89
纏向は
古墳造営基地として初期ヤマト王政と結び付くが、
邪馬台国の王都と結び付ける根拠が貧弱すぎる
箸墓が卑弥呼の墓かどうかは別の議論
913日本@名無史さん2019/05/05(日) 07:12:50.18
>>876
証拠は記紀と先代旧事本紀。
そして行灯山の考古学的年代。 914日本@名無史さん2019/05/05(日) 07:13:32.63
まとめ
「纏向は古墳造営基地 掘立柱建物は安全祈願の神社か斎場 」
根拠
1、集落跡が無い、生活用具が少なく土木具が多く出土
2、搬入土器が多く各地から作業員が来ているし、市的機能を持っていたであろう
3、物資運搬の運河が築かれ古墳建設の土木工事が行われている
4、多くの古墳がある
5、斎場と見なされる 大型掘立柱建物がある
纏向は
古墳造営基地として初期ヤマト王政と結び付くが、
邪馬台国の王都と結び付ける根拠が貧弱すぎる
箸墓が卑弥呼の墓かどうかは別の議論
915日本@名無史さん2019/05/05(日) 07:20:44.06
>>875
>『日本書紀』でもモモソ姫は天照とならぶ最高神・大物主神の妻だから天皇より偉い <
これに賛同する者は少ないと思うよ 916日本@名無史さん2019/05/05(日) 07:35:55.59
大物主の墓は、何処に作製されたのだろうか、、、
917日本@名無史さん2019/05/05(日) 07:38:19.60
>>897
>神武は畝傍山そのものが墓にされてるフシがある。
日本書紀では「明年秋九月乙卯朔丙寅、葬畝傍山東北陵」
古事記では「御陵在畝火山之北方白檮尾上也」
畝傍山そのものではなく、畝傍山の(東)北の白檮尾根の上と書いてある
畝傍山は左側スロープ君の大好きな高天彦神社から12キロくらい離れている
左側スロープ君が卑弥呼と主張するヒメタタライスズヒメの在所(三嶋溝咋)は57キロ離れている
神武にとってもヒメタタライスズヒメにとっても、高天彦神社の辺りは縁の薄い場所だ 918日本@名無史さん2019/05/05(日) 07:40:08.87
>>902
>従って卑弥呼の墓はかなり大掛かりなものだと思われる<
>ふーん、成程。
つまり、祇園山古墳も平原1号墓も、卑弥呼の墓の候補として不適ってことだよ 919日本@名無史さん2019/05/05(日) 07:43:12.88
>>906
>九州にあった邪馬台国が大和に移ったんだよ
>これで皆満足だろ
九州に漢委奴國王や帥升がいた時代はあったが、その政権が移動した訳ではないし
九州には最初から邪馬台国などない 920日本@名無史さん2019/05/05(日) 07:44:50.01
このレベルの劣ったスレッドとは、全く次元が異なる、5ちゃんねるとは別のインターネットの、魏志倭人伝時代についての高度なレベルの討論会では、
八岐大蛇退治事件の真実の究明から、仲哀天皇が何者だったのかの話題への変換が進行しているな、、、
921日本@名無史さん2019/05/05(日) 07:46:16.88
仲哀天皇の宮は、なぜ、畿内ではないのだろうか、、
922日本@名無史さん2019/05/05(日) 07:51:53.92
この、レベルの劣った、プロ固定のスレッドとは、全く次元が異なる、5ちゃんねるとは別のインターネットの、多くの分野から集合した優れた学者達による魏志倭人伝時代についての高度なレベルの討論会では、
八岐大蛇退治事件の真実の究明から、仲哀天皇が何者だったのかの話題への変換が進行しているな、、、
923日本@名無史さん2019/05/05(日) 07:55:54.47
大物主の墓は、何処に作製されたのだろうか、、、
924日本@名無史さん2019/05/05(日) 07:58:32.75
魏志倭人伝の方角が間違ってるって解釈はいいとして
南、実際は東にある敵国は現在のどこの地域なんだい?
戦争が行われたであろう境界から鉄製の武器は発掘されてるのかい?
925日本@名無史さん2019/05/05(日) 07:58:59.84
九州の大国である奴国が周辺を圧迫
周辺国はたまらず奴国より大きな畿内の国に救援要請
畿内の国が奴国をボコる
こんな流れだろうな
926日本@名無史さん2019/05/05(日) 08:00:21.04
仲哀天皇の宮は、なぜ、畿内ではないのだろうか、、
927日本@名無史さん2019/05/05(日) 08:01:31.77
この、レベルの劣った、プロ固定のスレッドとは、全く次元が異なる、5ちゃんねるとは別のインターネットの、多くの分野から集合した優れた学者達による魏志倭人伝時代についての高度なレベルの討論会では、
八岐大蛇退治事件の真実の究明から、仲哀天皇が何者だったのかの話題への変換が進行しているな、、、
928日本@名無史さん2019/05/05(日) 08:04:43.26
>>913
>証拠は記紀と先代旧事本紀。
記紀では崇神から応神まで6世代
旧事本紀でも、天皇の系譜は記紀と同一
崇神、垂仁、景行、日本武尊、仲哀、応神の6世代
記紀が根拠と言いながら、これを勝手に4世代だと捏造して
後代の記録から単純計算しただけですでに意味がないと否定されている天皇1代11年説を
機械的に当てはめているだけのトンデモ説が左側スロープ君の主張 929日本@名無史さん2019/05/05(日) 08:09:43.90
>>924
>南、実際は東にある敵国は現在のどこの地域なんだい?
東海地方でいいだろ?
朝日遺跡のある濃尾平野か、久努郷(久努国造)のある静岡かというのは
決めがたいけれど
古墳出現期の最古級かつ最大級の高尾山古墳のある沼津の辺りにも大きな勢力があったようだし 930日本@名無史さん2019/05/05(日) 08:18:55.83
天皇1代11年説とは、どのような説なのだろうか、、、
931日本@名無史さん2019/05/05(日) 08:23:58.54
説得力があるな 畿内のバカ学者どもに着かえてあげたい
>>914日本@名無史さん2019/05/05(日) 07:13:32.63
まとめ
「纏向は古墳造営基地 掘立柱建物は安全祈願の神社か斎場 」
根拠
1、集落跡が無い、生活用具が少なく土木具が多く出土
2、搬入土器が多く各地から作業員が来ているし、市的機能を持っていたであろう
3、物資運搬の運河が築かれ古墳建設の土木工事が行われている
4、多くの古墳がある
5、斎場と見なされる 大型掘立柱建物がある
纏向は
古墳造営基地として初期ヤマト王政と結び付くが、
邪馬台国の王都と結び付ける根拠が貧弱すぎる
箸墓が卑弥呼の墓かどうかは別の議論 932日本@名無史さん2019/05/05(日) 08:24:30.83
上皇陛下から遡り、仲哀天皇までは、何代なのだろうか、、、
933日本@名無史さん2019/05/05(日) 08:25:05.46
天皇1代11年説とは、どのような説なのだろうか、、、
934日本@名無史さん2019/05/05(日) 08:31:20.56
仲哀天皇の宮は、なぜ、畿内ではないのだろうか、、
935日本@名無史さん2019/05/05(日) 08:32:03.06
この、レベルの劣った、プロ固定のスレッドとは、全く次元が異なる、5ちゃんねるとは別のインターネットの、多くの分野から集合した優れた学者達による魏志倭人伝時代についての高度なレベルの討論会では、
八岐大蛇退治事件の真実の究明から、仲哀天皇が何者だったのかの話題への変換が進行しているな、、、
936日本@名無史さん2019/05/05(日) 08:35:32.59
>>929
>古墳出現期の最古級かつ最大級の高尾山古墳のある沼津の辺りにも大きな勢力があったようだし
静岡県沼津市の「高尾山古墳」も、「蛇紋岩製勾玉」や「水銀朱」などの副葬品から、倭国(阿波)の「忌部はん」のお墓に決定済み。 @阿波 937日本@名無史さん2019/05/05(日) 08:48:39.52
蛇紋岩製勾玉という物体は、蛇と関係があるのでは、ないのかな、、、
938日本@名無史さん2019/05/05(日) 08:51:58.31
蛇紋岩製勾玉という物体は、神の宝だった可能性が、高まってきたな、、、
939日本@名無史さん2019/05/05(日) 09:00:55.51
八咫鏡という鏡は、蜷局のような形をしている可能性が、急速に高まってきたな、、、
940日本@名無史さん2019/05/05(日) 09:01:46.01
鏡餅なのではないのかな。
941日本@名無史さん2019/05/05(日) 09:04:47.63
天皇で在るための、75パーセンテージの確率の独立した3つの根拠は、全て、蛇との関わりがあることが、判明してしまった、、、
942日本@名無史さん2019/05/05(日) 09:10:00.76
このレベルの低いスレッドで、笑ったり、プロ固定を論破して気分がリラックスできたおかげで、
ヤマトという意味は、八つの分岐したものだということや、天皇で在るための、75パーセンテージの確率の独立した3つの根拠は、全て、蛇との関わりがあることを発見した可能性が、高まってきたな、
943日本@名無史さん2019/05/05(日) 09:28:08.98
>>931
結論を出した理由が全く書いてない文章を読んで
説得力を感じるひとは
たぶん頭がヘン 944陳寿90度回転さん(畿内説)2019/05/05(日) 09:29:19.71
945日本@名無史さん2019/05/05(日) 09:39:15.25
仲哀天皇の宮は、なぜ、畿内ではないのだろうか、、
946日本@名無史さん2019/05/05(日) 09:39:34.57
この、レベルの劣った、プロ固定のスレッドとは、全く次元が異なる、5ちゃんねるとは別のインターネットの、多くの分野から集合した優れた学者達による魏志倭人伝時代についての高度なレベルの討論会では、
八岐大蛇退治事件の真実の究明から、仲哀天皇が何者だったのかの話題への変換が進行しているな、、、
947日本@名無史さん2019/05/05(日) 09:41:00.42
このレベルの低いスレッドで、笑ったり、プロ固定を論破して気分がリラックスできたおかげで、
ヤマトという意味は、八つの分岐したものだということや、天皇で在るための、75パーセンテージの確率の独立した3つの根拠は、全て、蛇との関わりがあることを発見した可能性が、高まってきたな、
948日本@名無史さん2019/05/05(日) 09:56:38.26
5ちゃんねるとは別のインターネットの、多くの分野から集合した優れた学者達による魏志倭人伝時代についての高度なレベルの討論会とは、全く次元が異なる、この、レベルの劣った、プロ固定のスレッドにも、そろそろ、次回のスレッドが必要なのではないのかな、、
、
949日本@名無史さん2019/05/05(日) 09:57:25.64
仲哀天皇の宮は、なぜ、畿内ではないのだろうか、、
950日本@名無史さん2019/05/05(日) 09:57:41.49
950
951日本@名無史さん2019/05/05(日) 10:03:30.61
>>943
根拠 書いてるよ
「纏向は古墳造営基地 掘立柱建物は安全祈願の神社か斎場 」
根拠
1、集落跡が無い、生活用具が少なく土木具が多く出土
2、搬入土器が多く各地から作業員が来ているし、市的機能を持っていたであろう
3、物資運搬の運河が築かれ古墳建設の土木工事が行われている
4、多くの古墳がある
5、斎場と見なされる 大型掘立柱建物がある 952日本@名無史さん2019/05/05(日) 10:08:12.34
掘立柱建物は、大物主の食品倉庫だったのでは、ないのかな、、、
953日本@名無史さん2019/05/05(日) 10:08:58.78
>>951
そこから
「邪馬台国の王都と結び付ける根拠が貧弱すぎる
箸墓が卑弥呼の墓かどうかは別の議論」
なんて全く出てこないな
w
それ以前に
「集落跡が無い」
「斎場と見なされる 大型掘立柱建物」
なんて言ってる人がいない 954日本@名無史さん2019/05/05(日) 10:12:10.67
キャラクターを変換したキナイコシが、出現したのでは、ないのかな。。。
953日本@名無史さん2019/05/05(日) 10:08:58.78
>>951
そこから
「邪馬台国の王都と結び付ける根拠が貧弱すぎる
箸墓が卑弥呼の墓かどうかは別の議論」
なんて全く出てこないな
w
それ以前に
「集落跡が無い」
「斎場と見なされる 大型掘立柱建物」
なんて言ってる人がいない 955日本@名無史さん2019/05/05(日) 10:13:05.29
956日本@名無史さん2019/05/05(日) 10:15:01.64
討論会が、開始されてしまった、、、
957日本@名無史さん2019/05/05(日) 10:17:57.64
958日本@名無史さん2019/05/05(日) 10:21:09.81
邪馬台国の中心地とされる候補地の一つに、纏向遺跡がある。
この遺跡は奈良盆地の東南、三輪山のふもとに位置し、大量の土器が出土し、大型建物跡も発見されている。
巨大な運河などの土木工事がおこなわれた大規模な集落であり、政治の中心的地域であったと考えられる。
この地には帆立貝型の独特な古墳が見られる。
これは前方後円墳に先行し、山陰地方の四隅突出型墳丘墓、吉備地方の楯築墳丘墓(岡山県倉敷市)、などの弥生時代後期の大型墳丘墓や、吉備地方中心に墳丘に立てられている特殊壺・特殊器台など、各地方の文化の特徴を継承している。
959日本@名無史さん2019/05/05(日) 10:21:23.29
>>956
この意見に、結論と根拠があるか、どうかを決定する、討論会なのではないのかな、、、
914日本@名無史さん2019/05/05(日) 07:13:32.63
まとめ
「纏向は古墳造営基地 掘立柱建物は安全祈願の神社か斎場 」
根拠
1、集落跡が無い、生活用具が少なく土木具が多く出土
2、搬入土器が多く各地から作業員が来ているし、市的機能を持っていたであろう
3、物資運搬の運河が築かれ古墳建設の土木工事が行われている
4、多くの古墳がある
5、斎場と見なされる 大型掘立柱建物がある
纏向は
古墳造営基地として初期ヤマト王政と結び付くが、
邪馬台国の王都と結び付ける根拠が貧弱すぎる
箸墓が卑弥呼の墓かどうかは別の議論 960日本@名無史さん2019/05/05(日) 10:21:26.73
961日本@名無史さん2019/05/05(日) 10:23:49.96
根拠には、確率が、あるのではないのかな、、、
962日本@名無史さん2019/05/05(日) 10:23:54.02
大規模な集落だって
963日本@名無史さん2019/05/05(日) 10:24:42.31
大規模な集落とは・・・
964日本@名無史さん2019/05/05(日) 10:25:25.41
>>949
仲哀天皇は架空の天皇だからな
皇居を畿内にすると伝承がないから架空なのがバレる
仲哀天皇の皇居を畿内と無縁の山口県にしたのはそのせい 965日本@名無史さん2019/05/05(日) 10:25:56.79
「纏向は古墳造営基地 掘立柱建物は安全祈願の神社か斎場 」
なので、
纏向は
古墳造営基地として初期ヤマト王政と結び付くが、
邪馬台国の王都と結び付ける根拠が貧弱すぎる
箸墓が卑弥呼の墓かどうかは別の議論
という、意見は、成り立つな、、、
966日本@名無史さん2019/05/05(日) 10:28:13.31
仲哀天皇は、架空の天皇なのだろうか、、、
967日本@名無史さん2019/05/05(日) 10:29:00.72
根拠には、確率が、あるのではないのかな、、、
968日本@名無史さん2019/05/05(日) 10:29:13.83
>>915
賛同するけど
最高神の妻が天皇よりも身分が低い根拠は何? 969日本@名無史さん2019/05/05(日) 10:31:20.32
仲哀天皇の両親の関係性は、正しいのだろうか、、、
970日本@名無史さん2019/05/05(日) 10:33:07.96
5ちゃんねるとは別のインターネットの、多くの分野から集合した優れた学者達による魏志倭人伝時代についての高度なレベルの討論会とは、全く次元が異なる、この、レベルの劣った、プロ固定のスレッドにも、そろそろ、次回のスレッドが必要なのではないのかな、、
、
971日本@名無史さん2019/05/05(日) 10:33:33.91
人の痕跡がなくても大集落なんじゃい。 文句あるのか
972日本@名無史さん2019/05/05(日) 10:37:03.00
掘立柱建物は、大物主の食品倉庫だったのでは、ないのかな、、、
973日本@名無史さん2019/05/05(日) 10:37:38.26
>>965
「纏向は古墳造営基地 掘立柱建物は安全祈願の神社か斎場 」
って根拠がないだろ
ばかですか? 974日本@名無史さん2019/05/05(日) 10:39:15.24
>>971
人の痕跡がないとか言ってるのは
どこの馬の骨? 975日本@名無史さん2019/05/05(日) 10:41:12.27
纒向遺蹟から、馬の骨が、発見された可能性が、高まってきたな、
976日本@名無史さん2019/05/05(日) 10:43:16.19
大規模な集落とは・・・
977日本@名無史さん2019/05/05(日) 10:44:08.71
住居跡がなくても大集落なんじゃい。 文句あるのか
978日本@名無史さん2019/05/05(日) 10:44:20.34
キナイコシが、論破されたので 、討論を諦め、悪口を、
言い放ってきたな。。。
973日本@名無史さん2019/05/05(日) 10:37:38.26
>>965
「纏向は古墳造営基地 掘立柱建物は安全祈願の神社か斎場 」
って根拠がないだろ
ばかですか? 979日本@名無史さん2019/05/05(日) 10:48:47.98
根拠には、確率が、あるのではないのかな、、、
980日本@名無史さん2019/05/05(日) 10:49:04.23
980
981日本@名無史さん2019/05/05(日) 10:53:06.07
古文書が記録した、仲哀天皇の両親の関係性は、正しいのだろうか、、、
982日本@名無史さん2019/05/05(日) 10:55:04.95
983日本@名無史さん2019/05/05(日) 11:06:45.57
このキャラクターは、誰だろうか、、、
982 名前:日本@名無史さん 2019/05/05(日) 10:55:04.95
今回も一行レスで反論したフリだけして
具体的に示せって言われて逃げるという様式美を繰り返している九州説がなんだって?ww
>>491⇒>>500⇒>>501⇒>>503
>>514⇒>>548 984日本@名無史さん2019/05/05(日) 11:09:11.42
今、出現している頭が悪いプロ固定は、二人なのだろうか、、、
985日本@名無史さん2019/05/05(日) 11:10:55.33
今、出現している頭が悪いプロ固定は、二人なのだろうか、一人なのだろうか、、
973日本@名無史さん2019/05/05(日) 10:37:38.26
>>965
「纏向は古墳造営基地 掘立柱建物は安全祈願の神社か斎場 」
って根拠がないだろ
ばかですか?
982 名前:日本@名無史さん 2019/05/05(日) 10:55:04.95
今回も一行レスで反論したフリだけして
具体的に示せって言われて逃げるという様式美を繰り返している九州説がなんだって?ww
>>491⇒>>500⇒>>501⇒>>503
>>514⇒>>548 986日本@名無史さん2019/05/05(日) 11:12:51.10
八岐大蛇は、頭が多いので、人民の娘を食べるために、取り合いで、同士討ちになることが、あったのではないのかな、、、
987日本@名無史さん2019/05/05(日) 11:13:39.83
古文書が記録した、仲哀天皇の両親の関係性は、正しいのだろうか、、、
988日本@名無史さん2019/05/05(日) 11:14:56.49
根拠には、確率が、あるのではないのかな、、、
989日本@名無史さん2019/05/05(日) 11:17:15.26
少しだけ、頭の悪い75パーは、居なくなってしまったのだろうか。。
990日本@名無史さん2019/05/05(日) 11:17:35.44
990
991日本@名無史さん2019/05/05(日) 11:24:19.09
また、邪馬台国畿内説を宣伝しているプロ固定が、論破され、逃亡してしまった、、、
992日本@名無史さん2019/05/05(日) 11:27:56.23
決定的に頭が悪いプロ固定だけが、残ってしまった可能性が、高まってきたな、、、
993日本@名無史さん2019/05/05(日) 11:31:07.30
両道入姫命とは、何者なのだろうか、、
994日本@名無史さん2019/05/05(日) 11:33:57.83
纒向遺蹟から、馬の骨が、発見された可能性が、高まってきたな、
995日本@名無史さん2019/05/05(日) 11:34:48.07
5ちゃんねるとは別のインターネットの、多くの分野から集合した優れた学者達による魏志倭人伝時代についての高度なレベルの討論会とは、全く次元が異なる、この、レベルの劣った、プロ固定のスレッドにも、そろそろ、次回のスレッドが必要なのではないのかな、、
、
996日本@名無史さん2019/05/05(日) 11:36:19.82
5ちゃんねるとは別のインターネットの、多くの分野から集合した優れた学者達による魏志倭人伝時代についての高度なレベルの討論会とは、全く次元が異なる、この、レベルの劣った、プロ固定のスレッドにも、そろそろ、次回のスレッドが必要なのではないのかな、、
、
997日本@名無史さん2019/05/05(日) 11:47:18.54
決定的に頭が悪い邪馬台国畿内説のプロ固定だけが、残ってしまった可能性が、高まってきたな、、、
998日本@名無史さん2019/05/05(日) 11:48:18.89
頭の悪い75パーは、居なくなってしまったのだろうか。。
999日本@名無史さん2019/05/05(日) 11:49:11.38
5ちゃんねるとは別のインターネットの、多くの分野から集合した優れた学者達による魏志倭人伝時代についての高度なレベルの討論会とは、全く次元が異なる、この、レベルの劣った、プロ固定のスレッドにも、そろそろ、次回のスレッドが必要なのではないのかな、、
、
1000日本@名無史さん2019/05/05(日) 11:49:34.34
決定的に頭が悪い邪馬台国畿内説のプロ固定だけが、残ってしまった可能性が、高まってきたな、、、
lud20220928054616ca
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