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邪馬台国畿内説 Part467 ->画像>50枚


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1◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:08:51.09
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://2chb.net/r/history/1559722323/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。

2◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:11:54.82
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある 
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。

3◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:12:18.17
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。

4◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:12:37.94
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。

5◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:13:01.12
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。

6◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:13:21.07
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。

7◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:13:41.64
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。

 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

8◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:14:03.46
◆6−2
 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。

9◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:14:27.57
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。

10◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:14:50.48
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。

11◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:15:14.29
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山

12◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:15:40.24
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。

13◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:16:06.62
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※

実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,57も参照)
(本項 続く)

14◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:16:32.74
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。

15◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:16:54.64
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。

16◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:17:20.13
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。

17◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:17:51.43
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。

18◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:18:14.11
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。


 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。

19◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:18:36.28
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
 畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
 逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。

20◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:19:01.05
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
 遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。


◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。

21◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:19:24.75
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。

22◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:19:49.92
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。

23◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:20:24.41
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、郡県内では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。


◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
邪馬台国畿内説 Part467 	->画像>50枚
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。

24◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:20:50.05
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) 邪馬台国畿内説 Part467 	->画像>50枚
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 邪馬台国畿内説 Part467 	->画像>50枚

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)

25◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:21:12.74
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛
 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総
 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵
 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬
 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆
 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)

◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。

26◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:21:44.42
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。

27◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:22:10.34
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
 九州説にとって不利な条件と言える。

28◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:22:40.18
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。

29◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:23:10.46
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   邪馬台国畿内説 Part467 	->画像>50枚
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。

30◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:23:41.81
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国

31◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:24:10.86
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。

32◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:24:33.00
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。

33◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:24:58.73
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。

34◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:25:26.03
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。

35◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:25:55.43
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  邪馬台国畿内説 Part467 	->画像>50枚
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。

36◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:26:35.12
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。

37日本@名無史さん2019/06/08(土) 11:26:40.97
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から伊都国に一大率を派遣し、九州を支配したという空想を、どのような詭弁で説明するのだろうか。。。

38日本@名無史さん2019/06/08(土) 11:26:55.18
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から伊都国に一大率を派遣し、九州を支配したという空想を、どのような詭弁で説明するのだろうか。。。
985 名前:日本@名無史

39日本@名無史さん2019/06/08(土) 11:27:02.29
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から伊都国に一大率を派遣し、九州を支配したという空想を、どのような詭弁で説明するのだろうか。。。

40◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:27:09.46
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。

41日本@名無史さん2019/06/08(土) 11:27:18.10
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から伊都国に一大率を派遣し、九州を支配したという空想を、どのような詭弁で説明するのだろうか。。。

42日本@名無史さん2019/06/08(土) 11:27:19.61
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から伊都国に一大率を派遣し、九州を支配したという空想を、どのような詭弁で説明するのだろうか。。。

43◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:27:45.21
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

44◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:28:17.09
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。

45◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:28:38.28
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。

46◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:29:02.19
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。

47◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:29:28.00
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。

48◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:29:54.96
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。

49◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:30:17.39
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。

50◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:30:42.59
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。

51日本@名無史さん2019/06/08(土) 11:31:11.13
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から伊都国に一大率を派遣し、九州を支配したという空想を、どのような詭弁で説明するのだろうか。。。

52◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:31:12.10
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定

53◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:31:32.54
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
邪馬台国畿内説 Part467 	->画像>50枚 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。

54◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:32:12.25
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。

55◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:32:40.34
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。

                (以上、漢書西域上)

56◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:33:08.73
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。

57◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:33:35.94
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)

58日本@名無史さん2019/06/08(土) 11:33:40.13
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から伊都国に一大率を派遣し、九州を支配したという空想を、どのような詭弁で説明するのだろうか。。。

59◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:34:13.14
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)

60◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:34:42.56
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。

61◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:35:09.04
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
邪馬台国畿内説 Part467 	->画像>50枚

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。

62◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:35:35.52
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江、尾張、三河などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。

63◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:36:00.19
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) 邪馬台国畿内説 Part467 	->画像>50枚
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。

64◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:36:26.07
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:邪馬台国畿内説 Part467 	->画像>50枚

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。


◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

65◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:36:50.16
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。


◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。

66日本@名無史さん2019/06/08(土) 11:37:15.85
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から伊都国に一大率を派遣し、九州を支配したという空想を、どのような詭弁で説明するのだろうか。。。

67◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:37:16.17
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。


◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
 「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。

68◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:37:40.73
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
  纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。

69日本@名無史さん2019/06/08(土) 11:37:53.21
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から伊都国に一大率を派遣し、九州を支配したという空想を、どのような詭弁で説明するのだろうか。。。

70日本@名無史さん2019/06/08(土) 11:37:52.64
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から伊都国に一大率を派遣し、九州を支配したという空想を、どのような詭弁で説明するのだろうか。。。

71◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:38:04.29
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。


◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。

72日本@名無史さん2019/06/08(土) 11:38:15.42
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から伊都国に一大率を派遣し、九州を支配したという空想を、どのような詭弁で説明するのだろうか。。。

73日本@名無史さん2019/06/08(土) 11:38:16.06
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から伊都国に一大率を派遣し、九州を支配したという空想を、どのような詭弁で説明するのだろうか。。。

74◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:38:30.97
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。

75日本@名無史さん2019/06/08(土) 11:38:34.59
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から伊都国に一大率を派遣し、九州を支配したという空想を、どのような詭弁で説明するのだろうか。。。

76日本@名無史さん2019/06/08(土) 11:38:51.88
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から伊都国に一大率を派遣し、九州を支配したという空想を、どのような詭弁で説明するのだろうか。。。

77◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:38:57.86
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。

78日本@名無史さん2019/06/08(土) 11:39:18.88
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から伊都国に一大率を派遣し、九州を支配したという空想を、どのような詭弁で説明するのだろうか。。。

79◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:39:24.58
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
邪馬台国畿内説 Part467 	->画像>50枚


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。


◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 邪馬台国畿内説 Part467 	->画像>50枚
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。

80日本@名無史さん2019/06/08(土) 11:39:35.19
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から伊都国に一大率を派遣し、九州を支配したという空想を、どのような詭弁で説明するのだろうか。。。

81◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:39:50.58
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。

邪馬台国畿内説 Part467 	->画像>50枚


◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)

82日本@名無史さん2019/06/08(土) 11:39:54.45
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から伊都国に一大率を派遣し、九州を支配したという空想を、どのような詭弁で説明するのだろうか。。。

83日本@名無史さん2019/06/08(土) 11:39:54.02
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から伊都国に一大率を派遣し、九州を支配したという空想を、どのような詭弁で説明するのだろうか。。。

84◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:40:19.11
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。


◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値を示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

85◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:40:48.36
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】なし

86日本@名無史さん2019/06/08(土) 11:40:50.14
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から伊都国に一大率を派遣し、九州を支配したという空想を、どのような詭弁で説明するのだろうか。。。

87日本@名無史さん2019/06/08(土) 11:40:50.34
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から伊都国に一大率を派遣し、九州を支配したという空想を、どのような詭弁で説明するのだろうか。。。

88日本@名無史さん2019/06/08(土) 11:42:18.34
>>361
>(平原)あんな公園の小山など、径100余歩にははるかに足りない。
もっと丁寧に表現すると、・・・
後漢から魏晋代の舶載鏡が1枚たりとも埋葬されていない
ご自慢の46センチ鏡も鏡面側を磨いた形跡がなく写らない鏡で割ることだけを目的に
ただ大きく作っただけ<

21枚の「尚方作」方格規矩鏡の中心になる鏡は、
サイズ的に、洛陽出土の「尚方作」鏡の中心になっており、
魏の工房が造ったもの以外には考えられず、
明帝の下賜鏡であった可能性が非常に高い。

89日本@名無史さん2019/06/08(土) 12:05:47.02
ついに「陸行一月」の謎が解けたyo!

1.西晋司馬懿は明帝曹叡の後見人指名がなければ皇帝になれなかった(大恩人・明帝が特別厚遇した倭国王卑弥呼)→明帝曹叡の聡明さを歴史に刻みたい強い動機。
2.魏の帝都・洛陽から見て呉との戦いにおいて最高の牽制となる背後にあるためには、倭国卑弥呼「女王之所都」が「会稽郡」の「東治」ではなく、更に南の「東冶」の東の海上にある必要(少なくとも魏志倭人伝の読者にそう思わせねばならない)。
3.しかし本当の位置も残さなければならない。

そこで陳寿が使ったのが、九州島=「東冶」の東に届く、南北が実際の2倍ある長大な「一つの島」であるように思わせるテクニック。
まず、帯方郡からの3放射読み(描き)で、1.(対馬松浦糸島)奴国ルート(正)、2.投馬国ルート(正)、3.邪馬台国ルート(幻)を設定。
ちなみに伊都国から東南100里奴国と東100里不弥国(港町宗像)は放射読み(描き)。
次に「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ(ダチョウ倶楽部の押すなよ、押すなよ)」と本当の位置を示唆しつつ、
九州島が南北に「陸行半月」であることを倭人から聞き「東夷(倭)人不知里数」、それを2倍して「陸行一月」として東シナ海に浮かぶ幻の九州島(南部)を創り、「東冶」の東の海上に「女王之所都」を持ってきた。
同時に倭国に行ったことがある中国の知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした。
ちなみに邪馬台国七万戸は北部九州全体の連合名、卑弥呼は加盟各国から「倭王之所都」奴国王に共立されたレンタル(飾り物)女王。現在のEU(欧州連合)とEU大統領みたいなもの。

90日本@名無史さん2019/06/08(土) 12:07:15.22
>>89の図解(模式図)だyo!
帯方郡  
〜↓南水行十日(正)+「水行十日」=「南水行二十日」〜〜〜
対馬&壱岐〜〜〜↑→→→→→→↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓関門海峡〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜       
〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜┃▲↘陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島〜〜〜〜〜〜〜〜
〜┃▲▲奴国(女王之所都)▲▲┃↓「女王国東の海」豊後水道〜〜〜
〜┃▲狗奴国▲▲▲▲▲投馬国┃←宮崎平野〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜┃▲↓「陸行半月」(正)▲┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽〜┗━━九州島(正)━━┛〜↑実際の九州島 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 
東治〜〜〜東シナ海(正)〜〜〜〜↓幻の九州島南部(魏志倭人伝の創作)〜〜〜〜〜
〜〜〜│△△△△△△△△│〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜│↓「陸行半月」(幻)│〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜│△△△△△△△△│〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
東冶〜│女王之所都(幻)△│←「当在会稽東冶之東」(印象操作)〜〜〜
〜〜〜│狗奴国(幻)_△△/ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜\九州島(幻)_/〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

91陳寿90度回転さん2019/06/08(土) 12:13:37.01
(出所)文化庁:国指定文化財等データベース『史跡名勝天然記念物 纏向遺跡』(1/3)

纒向遺跡は、奈良盆地東南部に所在する、3世紀初頭に突如出現し、4世紀初めに営まれた大規模な集落跡である。
周辺には、纒向石塚古墳をはじめとする史跡纒向古墳群や箸墓古墳など出現期の古墳が点在している。

この遺跡については、昭和46年以降、桜井市教育委員会及び奈良県立橿原考古学研究所が176次にわたって発掘調査を実施してきた。
その結果、遺跡は東西2キロメートル、南北1.5キロメートルという、当該時期では類をみない規模であることが判明した。
今回指定しようとするのは、そのなかの、辻地区と太田地区の一部である。

辻地区においてはすでに多数の掘立柱建物、大規模な水路、祭祀土坑などが検出されている。
平成20年からの調査で掘立柱建物は3世紀前半期とみなされるもので、3棟の掘立柱建物が東西に連続して存在している。
もっとも大きい建物は、桁行4間、梁行は現状で2間、復元すると4間と考えられ、南北19.2メートル、東西12.4メートルで、
その西側には、独立棟持柱建物、さらにその西にも掘立柱建物が検出され、柵で囲まれていた。
さらに、その西側にも多くの柱穴及び井戸が確認されている。

92陳寿90度回転さん2019/06/08(土) 12:15:52.23
(出所)文化庁:国指定文化財等データベース『史跡名勝天然記念物 纏向遺跡』(2/3)

これらは、微高地に位置し、軸線と方位を揃え、一連の建物群は強い規格性を有しており、これらは居館を構成するものとみなされる。
その範囲は東西150メートル、南北100メートル前後の方形を呈すると考えられている。
また、建物廃絶後の庄内式期の長径4.3メートル、短径2.2メートルの土坑からは、線刻のある土器や底部穿孔の土器、
ヘラ状木製品や黒漆塗りの弓、剣形木製品などが出土した。

このほか、イワシ類・タイ科などの魚類、カエルなどの両生類、ニホンジカ・イノシシなどの哺乳類、
そして2000個以上のモモの種などが出土し、当時の祭祀のあり方を知る上できわめて重要である。

一方、辻地区の南方、谷を挟んだ太田地区では、掘立柱建物、祭祀土坑などと、墳長28メートルの前方後方墳(メクリ1号墳)、
方形周溝墓、木棺墓、土器棺墓なども検出された。時期は庄内式期であり、史跡纒向古墳群などと同時期である。

93日本@名無史さん2019/06/08(土) 12:17:31.14
>>89の図解(模式図)だyo!
帯方郡  
〜↓南水行十日(正)+「水行十日」=「南水行二十日」〜〜〜
対馬&壱岐〜〜〜┌→→→→→→┐〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓関門海峡〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜       
〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜┃▲↘陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島〜〜〜〜〜〜〜〜
〜┃▲▲奴国(女王之所都)▲▲┃↓「女王国東の海」豊後水道〜〜〜
〜┃▲狗奴国▲▲▲▲▲投馬国┃←宮崎平野〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜┃▲↓「陸行半月」(正)▲┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽〜┗━━九州島(正)━━┛〜↑実際の九州島 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 
東治〜〜〜東シナ海(正)〜〜〜〜↓幻の九州島南部(魏志倭人伝の創作)〜〜〜〜〜
〜〜〜│△△△△△△△△│〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜│↓「陸行半月」(幻)│〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜│△△△△△△△△│〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
東冶〜│女王之所都(幻)△│←「当在会稽東冶之東」(印象操作)〜〜〜
〜〜〜│狗奴国(幻)_△△/ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜\九州島(幻)_/〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

94陳寿90度回転さん2019/06/08(土) 12:18:05.80
(出所)文化庁:国指定文化財等データベース『史跡名勝天然記念物 纏向遺跡』(3/3)

このほか、この遺跡で注目される出土遺物としては、東海をはじめ、
南関東から北部九州という広範囲にわたる他地域の土器が出土していることである。
地点によっては全体の15〜30パーセントを占め、この遺跡の性格を考える上で重要である。
このほか、銅鐸片や鳥形・舟形の木製品、木製仮面の出土も注目される。
布留式期になると、鞴の羽口や鉄滓なども出土し、鉄器製作を行っていたことも明らかとなっている。

纒向遺跡は、3世紀初頭から4世紀始めにかけて営まれた、きわめて大規模な集落跡である。
しかも、本遺跡のような規格性のある建物群は例がなく、当該時期の首長居館の構造を知る上できわめて重要である。
また、同時期の居住域や墓域及び祭祀遺構、大溝などが広範囲に広がっていることも明らかとなった。
出土遺物も豊富で、東海系の土器をはじめとする他地域の土器が多数出土する点も注目される。
この遺跡周辺には、史跡纒向古墳群や箸墓古墳など出現期の古墳が多数存在し、これらの古墳との関わり、
すなわち大和政権と関わりのある遺跡とみなされる。

このように、纒向遺跡は我が国における古代国家形成期の状況を知る上できわめて重要である。
今回、もっとも保存を急ぐ居館域等を史跡指定し、保護を図ろうとするものである。

95日本@名無史さん2019/06/08(土) 12:20:27.37
>>89の図解(模式図)だyo!
帯方郡  
〜↓南水行十日(正)+「水行十日」=「南水行二十日」〜〜〜
対馬&壱岐〜〜〜┌→→→→→→┐〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓関門海峡〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜       
〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜┃▲_↘陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島〜〜〜〜〜〜〜〜
〜┃▲▲奴国(女王之所都)▲▲┃↓「女王国東の海」豊後水道〜〜〜
〜┃▲狗奴国▲▲▲▲▲投馬国┃←宮崎平野〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜┃▲↓「陸行半月」(正)▲┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽〜┗━━九州島(正)━━┛〜↑実際の九州島 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 
東治〜〜〜東シナ海(正)〜〜〜〜↓幻の九州島南部(魏志倭人伝の創作)〜〜〜〜〜
〜〜〜│△△△△△△△△│〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜│↓「陸行半月」(幻)│〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜│△△△△△△△△│〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
東冶〜│女王之所都(幻)△│←「当在会稽東冶之東」(印象操作)〜〜〜
〜〜〜│狗奴国(幻)_△△/ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜\九州島(幻)_/〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

96陳寿90度回転さん2019/06/08(土) 12:23:29.26
(出所)文化庁:国指定文化財等データベース『史跡名勝天然記念物 纏向古墳群』

初期大和政権が成立した奈良盆地東南部に所在する出現期の古墳群で、
纒向石塚古墳・ホケノ山古墳・纒向矢塚古墳・纒向勝山古墳・東田大塚古墳等からなる。

墳丘は全長100m前後の前方後円形を呈し、後円部に比べて前方部の高さが低いところに特徴がある。
築造時期は、庄内式期から布留式最古期、すなわち弥生時代終末期から古墳時代前期初頭にかけてである。

纒向石塚古墳では周溝からは農具・土木具、祭祀具、建築部材などが出土し、
ホケノ山古墳では、木材で構築した木槨部分の周囲に石を積み上げるという珍しい構造の埋葬施設をもち、
画文帯神獣鏡や鉄製武器などが副葬されていた。

本古墳群は、定型化した前方後円墳より遡る庄内式の段階に築造が始まった。
この古墳群の墳丘と相似形のものは九州から関東にあるが、分布の中心で規模も大きく、
すでに大和地域の首長を中心とした政治連合ができあがっていたことを示唆する。

その一方、纒向石塚古墳の周溝から出土した木製品、ホケノ山古墳の埋葬施設や副葬品の構成等は、
定型化した前方後円墳には見られないものであり、弥生時代終末期の墳丘墓とする意見もある。

本古墳群は定型化した前方後円墳の成立過程、
さらには我が国における古代国家の形成過程及びその時期の社会の在り方を知るうえで重要である。

97日本@名無史さん2019/06/08(土) 12:23:36.46
>>363
>陸行一月が成立しない九州説は最初からバツ。<

「水行十日陸行一月」は、郡から女王之所都の主要日数になるから、
九州でピッタリであり、
この「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・アホ詐欺師の大和説者は、×。

98日本@名無史さん2019/06/08(土) 12:25:09.13
>>364
>卑弥呼がもらった水銀朱ごどこにあったか? 平原遺跡だよ。
水銀朱が雨で流出して見つかった。
成分も中国の水銀朱であると判明している。<

ふーん。

99日本@名無史さん2019/06/08(土) 12:27:45.13
>>368
>都万(つま)の地名は隠岐に残る。 出雲が投馬国。 <

「南≠東北」などに拠って、×。

100陳寿90度回転さん2019/06/08(土) 12:31:45.55
(出所)文化庁:国指定文化財等データベース『史跡名勝天然記念物 唐古・鍵遺跡』(1/2)

唐古・鍵遺跡は,奈良盆地のほぼ中央部を流れる初瀬川が形成した沖積低地に位置する,弥生時代の代表的な大規模環濠集落跡である。
人物・シカなどの絵画が措かれた土器や石器が担土する遺跡として、明治時代から著名であった。
昭和12年の京都大学と奈良県による唐古池の発掘調査によって,多数の竪穴や貯蔵穴,多量の土器・石器・木製品などが発見された。
後に第1次とされるこの調査の成果として,鎌・杵などの木製農耕具や木器の盛行が日本で初めて確認され,
弥生時代の性格が明らかとなり,また近畿地方の弥生土器編年の基準が作られた。

遺跡の範囲を確認する目的で,昭和42年から昭和56年の間に奈良県教育委員会が5次にわたる調査を実施し,
その後昭和61年から平成9年の間に田原本町教育委員会が6次にわたる調査を実施し,
多重環濠がめぐる我が国有数の大規模な集落跡であることが明らかになりつつある。
また,開発に伴う田原本町教育委員会による事前調査の成果も合わせて,
掘立柱建物、人骨の残る木棺墓、壺棺墓、井戸、橋脚などの遺構や多種多様で多量の遺物など貴重な発見が相次いでいる。

101陳寿90度回転さん2019/06/08(土) 12:33:57.57
(出所)文化庁:国指定文化財等データベース『史跡名勝天然記念物 唐古・鍵遺跡』(2/2)

これまでの調査結果から,本遺跡は以下のような変遷が考えられている。

縄文時代晩期の遺物がわずかながら出土しているが,この時期の遺構は認められない。

弥生時代前期前半には馬蹄形をなす微高地上に2〜3の比較的小規模な集落が形成され、明確ではないが,
前期後半には一都の集落に環濠がめぐらされるようである。

中期になると,幅釣10mの巨大な環濠を径400mにわたってめぐらせた舵機簿集落へと発展する。
この環濠の外側にはさらに3〜5条の環濠がめぐり,幅100〜150mの環濠の帯を形成している。

中期後葉から後期にかけては,この環濠帯は幅150〜200m程度にまで拡大し,集落が最も大規模になったと考えられる。
この時期には,青銅器の鋳造に関連する遣物が集落の東南部から出土しており,付近に工房の存在が推定される。

弥生時代の末から古墳時代の始めにかけて,環濠は認められなくなり,集落は衰退したものと考えられる。

出土品には,木製農耕具とその未製品,建築部材,鐸形土製品,楼閣を描いたとされるものをはじめとした
多数の絵画土器,銅矛・銅鏃や青銅器の土製鋳型,鞘入り石剣,骨角器,刻骨,
連結したイノシシ下顎骨,糞石,多量な動・植物遺体などがあり豊富な内容と量を誇る。

本蓮跡は,弥生時代研究において画期的な基礎を作った学史的に著名な遺跡である。
また,我が国有数の規模を誇る拠点的な多重環濠集落であり,
弥生時代の一中心地であった近畿地方中枢部における社会の実態やその変遷過程を示し,
さらに多種多様な出土遺物は当時の生活の状態を伝える上できわめて重要である。
よって,史跡に指定に指定し保護しようとするものである。

102日本@名無史さん2019/06/08(土) 12:35:59.32
また糞スレ立てたのか

103日本@名無史さん2019/06/08(土) 12:37:01.11
>>89
逆に考えるんだ!
「女王所都」の「都」は別の場所に遷都した後に、昔の京(王都)があった所という意味。
ちょうど平安時代以降、奈良(平城京)を「南都」と呼ぶようになったように。

「陸行一月」は確かに纏向だけど、倭国大乱後、北部九州首都圏が卑弥呼を帥升亡き後の奴国王に迎え、倭王になったと思われる。

だから、女王国30カ国は瀬戸内海経由で、昔の女王之所都(纏向)に歩いて行くまでの中国&四国地方=安芸、吉備、讃岐、阿波などの国々。
卑弥呼共立後の邪馬台国(女王国)は、北部九州〜纏向まで一元的に支配していた。
だから、奴国「共立後の卑弥呼王宮」からみた南の狗奴国は熊本平野、投馬国は宮崎平野となる。

また、纏向女王・卑弥呼が北部九州の奴国(=倭国)王に共立された理由は、実は「九州」島内で倭国王・師升を脅かしていた、狗奴国卑弥弓呼・狗古智卑狗を制圧するためだったら面白いが、
何より威信財の金メッキの材料であり、不老長寿の薬とされて珍重されていた丹(水銀)に北部九州(首都圏)が目を付けただろう。
「其山有丹」と書かれるくらいだから、邪馬台国からの魏帝への献上品として、水銀(丹)が選ばれたと考えられる。
始皇帝が徐福(平原の王となって戻らず)を水銀探しに派遣していたくらいだから、400年後の魏朝も倭国を水銀(丹)の産出国と見ていたことは間違いない。
その候補地としては、纏向遺跡から60q離れた三重県松阪市から弥生式土器が見つかった採掘現場がある紀伊半島東部の大和水銀鉱床郡。

後に活目(いくめ)大王(11代垂仁)の4世紀前半、伊勢神宮が置かれた理由も、おそらく紀伊半島東部の水銀鉱床を聖域(禁足地)として独占するためと考えられる。

104日本@名無史さん2019/06/08(土) 12:37:59.84
>>369
>帯方郡から北部九州まで、水行で10日でたどり着ける高速船は弥生時代には存在しないから
物理的に不可能ww<

「水行十日陸行一月」の「水行十日」は、韓は陸行だから、
残りの「循海岸水行」と 3海峡の渡海の分だけであり、
だから、この大和説男も、×。

>南水行で着くのなら、倭人伝冒頭は
倭人、在帶方「東南」大海之中ではなく
倭人、在帶方「南」大海之中となるのが道理ww<

魏志なく倭人伝には「南水行」なんて文言はなく、
この男がまたインチキ騙しをした、という事が判った。

105日本@名無史さん2019/06/08(土) 12:38:34.09
>>89の図解(模式図)だyo!
帯方郡  
〜↓南水行十日(正)+「水行十日」=「南水行二十日」〜〜〜
対馬&壱岐〜〜〜┌→→→→→→┐〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓関門海峡〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜       
〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜┃▲_↘陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島〜〜〜〜〜〜〜〜
〜┃▲▲奴国(女王之所都)▲▲┃↓「女王国東之海」豊後水道〜〜〜
〜┃▲狗奴国▲▲▲▲▲投馬国┃←宮崎平野〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜┃▲↓「陸行半月」(正)▲┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽〜┗━━九州島(正)━━┛〜↑実際の九州島 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 
東治〜〜〜東シナ海(正)〜〜〜〜↓幻の九州島南部(魏志倭人伝の創作)〜〜〜〜〜
〜〜〜│△△△△△△△△│〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜│↓「陸行半月」(幻)│〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜│△△△△△△△△│〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
東冶〜│女王之所都(幻)△│←「当在会稽東冶之東」(印象操作)〜〜〜
〜〜〜│狗奴国(幻)_△△/ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜\九州島(幻)_/〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

106陳寿90度回転さん2019/06/08(土) 12:38:59.72
ちなみに纏向遺跡居館城から唐古・鍵遺跡史跡公園までは、北東に約4.6km。
すぐ『ご近所』。

107陳寿90度回転さん2019/06/08(土) 12:41:02.85
>>106
について、北東→北西に訂正します。

(誤)ちなみに纏向遺跡居館城から唐古・鍵遺跡史跡公園までは、北西に約4.6km。
   すぐ『ご近所』。
       ↓
(正)ちなみに纏向遺跡居館城から唐古・鍵遺跡史跡公園までは、北西に約4.6km。
   すぐ『ご近所』。

108日本@名無史さん2019/06/08(土) 12:46:10.09
居館はまだいいとして、城と付けるのは過大評価だよ。
まあ、居館であったかどうかすら不明だけど。
図面だけを見ると神社に見える。

109日本@名無史さん2019/06/08(土) 12:47:38.51
三国志の距離や日数は全く場所を示す根拠にならない
対馬や壱岐に行くまでの里数からして違っているわけだし、実際より遠くに見せかけたことは明らか
最初は細かく書いてみたけど、どうしても遠くにあることにできそうにもないから、
最後は適当に多めの日数書いて遠い場所にあることにしただけ
こんなものを根拠にして畿内だいや九州だ、といって議論することがそもそもの間違い
早く気がつけよ

110日本@名無史さん2019/06/08(土) 12:48:28.21
そりゃ神社が真似してるからな

111日本@名無史さん2019/06/08(土) 12:49:57.12
>>108
ご指摘の通りです。
Googleマップの文字を読み間違えました。

>>106
>>107
は、纏向遺跡 居館城(誤) → 纏向遺跡 居館域(正)に訂正します。

112日本@名無史さん2019/06/08(土) 12:53:33.29
>>105
帯方郡
↓「南水行十日」+「東&南水行十日」…投馬国ルート
↓「陸行半月」…東「治(さんずい)」之東
━━九州南端(薩摩・大隅半島)━━
↓「陸行半月」〜東シナ海の上をw
「女王之所都」〜東「冶(にすい)」之東…邪馬台国ルート「陸行一月
「狗奴国」…魏の不倶戴天の敵=呉との同盟を臭わせるw

113日本@名無史さん2019/06/08(土) 12:58:55.94
>>103
九州島における3世紀の水銀鉱床としては、長崎県・佐賀県の九州西部水銀鉱床群、宮崎県・熊本県南部の九州南部水銀鉱床群があり、
前者は末盧国背後・吉野ヶ里、後者は投馬国・狗奴国領域であり、水銀の輸出が倭国の主要な外貨獲得手段と見れば、
倭国大乱や狗奴国戦争を引き起こし、首なし人骨や鉄鏃が刺さった頭蓋骨などが北部九州で多数に出土する原因と考えられる。
ちなみに平安時代の山岳信仰(密教)修験道の開祖として知られる空海は丹(水銀)の中国への輸出のため、留学できたのではないか?と言われており、
古代倭国の政争(倭国大乱、邪馬台国狗奴国戦争、神功の夫仲哀暗殺、筑紫君磐井の乱、乙巳の変、壬申の乱)を考える上で、
大陸・半島への輸出品(外貨獲得手段)としての水銀鉱床の奪い合い、という視点は決定的な意味を持つようになるかもしれない。

114日本@名無史さん2019/06/08(土) 12:59:37.32
✖纏向遺跡
◎纏向古墳群

115日本@名無史さん2019/06/08(土) 13:06:01.40
>>105
秦の始皇帝は方士・徐福を倭国に派遣して、東王父の住む蓬莱山(不死山)の不老不死の薬・丹を探させた。
徐福は何回かの渡倭の後、倭列島(平原綾香)の王となって帰ってこなかったとある。福島姓は徐福の末裔説アリ。
つまり道教の原点は、西王母の崑崙山←中原(皇帝)→東王父の蓬莱山、など山岳信仰であり、真の目的は水銀(丹)を独占することにあったと思われ、
東西の父母の乗り物である龍は、たまに出土する巨大な恐竜の骨からのイマジネートと言われる。
日本版山岳信仰である密教(修験道)の役行者(厩戸皇子の右腕として仏教を広めた)、奈良時代の行基、平安時代の空海など、みな水銀鉱床を探すためで、見つけると聖域として立ち入り禁止にして大陸や半島に輸出し巨万の富を得ていたのだろう。
伊勢神宮(平原女王「天照大神」八咫鏡)の創建(垂仁&雄略)が、紀伊半島東部の水銀鉱床を天皇家(平原女王の末裔)が独占するためだったとすれば、
天皇制が始皇帝のハマった道教(神仙)思想の産物といわれるのも、水銀の輸出(行きの船)独占で獲得した外貨(帰りの船)で鉄を輸入し、古墳時代の倭国をリードしていたからだろう。

116日本@名無史さん2019/06/08(土) 13:07:23.22
>>371
>九州には、奴国、投馬国、邪馬台国、狗奴国は人口の面で入り得ない。<

入り得る。
その「人口の面」というのが、(誰がやったのか?は知らんが)インチキ騙し。

117日本@名無史さん2019/06/08(土) 13:11:08.08
また論破済みのテンプレ貼ってるのかよ

118日本@名無史さん2019/06/08(土) 13:14:49.77
>>115
天皇家が平原女王の末裔なら、平原女王(倭国内最大の内向花紋鏡=「天照大神」伊勢神宮八咫鏡)は「平原広沢(倭国)の王となって留まり、帰って来なかった」徐福の末裔ってことか!?

徐福得『平原』廣澤、止王不來

つまり、日本の天皇家は、秦の始皇帝の方士・徐福の末裔ってことでゎ?!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%90%E7%A6%8F

119日本@名無史さん2019/06/08(土) 13:29:23.03
距離同様に戸数も周旋も数字を盛っているのは明らか
魏志倭人伝に書かれているような大きな国がアジアの辺境の地にあったわけがない
立派な国が朝貢してきたことにしておかないとマズイわけだから、むこうには数字を盛るだけの十分な理由もある
いいかげんに目を覚ましたほうがいい
そんなデカい国が同時の日本列島にあったはずがない
牛馬がなければ規模の大きい国は存立不可能だし、
そもそもそういうものがないのに大帝国を築いた例が世界史上あるのか?ないだろ?

120日本@名無史さん2019/06/08(土) 13:29:55.22
同時→当時

121日本@名無史さん2019/06/08(土) 13:31:54.89
平原綾香って徐福は女性シンガーだったという事か

122日本@名無史さん2019/06/08(土) 13:53:22.24
>>88
>21枚の「尚方作」方格規矩鏡の中心になる鏡は、
>サイズ的に、洛陽出土の「尚方作」鏡の中心になっており、

「陶氏作」鏡を出土地不明って言った奴の言うことなんて、誰も信じないよw
洛陽出土鏡なんて、知っているわけがないもんなw

123日本@名無史さん2019/06/08(土) 14:38:18.60
>>378
>投馬国は、戸数道里略載された女王国より以北の国として記載されているから、
北部九州説を採る限り、それより南の宮崎投馬国説は通らない<

それは、陳寿の説明順とは違っており、×だ。
陳寿は先に、投馬國の位置説明を「不彌國から南方の水行二十日の位置だ」と書いており、
その後で、「自女王國以北、其戸數道里可得略載」と書いたのだから、
投馬國は「自女王國以北」の「其戸數道里可得略載」の国には入っていなかった、
という説明になるのだ。

124日本@名無史さん2019/06/08(土) 14:41:52.09
>>383
>投馬国・出雲は丹波以西の四隅突出墓文化圏
邪馬台国・ヤマトは畿内第V様式土器が共通して出土する大和+河内〜環大阪湾の範囲<

「南≠東」などに拠って、×。

125日本@名無史さん2019/06/08(土) 14:46:07.27
>>384
>3世紀初頭の纒向石塚古墳からは朱塗の鶏形木製品がでてる
にわとりぽいやつ <

石塚は、3世紀末だから、×。

>3世紀後半の纏向の黒塚古墳の木棺は真っ赤だよ、

黒塚は4世紀だから、×だ。

126日本@名無史さん2019/06/08(土) 14:50:23.65
>>385
>九州で陸行一月はどこからどこなのよ?
誰も答えられないのか?九州説は! <

「水行十日陸行一月」は、郡〜女王之所都の所要日数だ、と答えて来てある。
だから、
この投稿の大和男も、・・・・アホ詐欺師であった、
という事を示している。

127日本@名無史さん2019/06/08(土) 15:00:04.88
ザラコク爺さん以外の九州説論者は、意気消沈して息してないようだな。

128日本@名無史さん2019/06/08(土) 15:01:56.81
>>386
>【会津】支配層の男性は渡来系 灰塚山古墳出土人骨、DNAや骨格から全身像を復元
 「今後、縄文人との支配者層の変遷を探りたい」★2 ・・・
辻教授によると、会津地方は、能登半島などを経由してきた渡来系の集団が、
大和朝廷の政治的な後ろ盾を得ながら支配していたとみられる。辻教授は
「前方後円墳の建設はその現れ。今後の詳細な調査を通じて、縄文人との
支配者層の変遷を探りたい」と話した。
めっきが剥がれてきたなwww<

辻という男が、
出雲の文身國や越の大漢國や、
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」などの歴史を隠し、
大和扶桑國は、九州倭国の別種の旧小国であって、九州倭国の東征の手助けをした国であった、
という事も隠して、「大和朝廷」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言を使ったから、
「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・アホ詐欺師であった、
という事を説明済みであり、
大和説がまたまたメッキが剥げて来たのだった。

129日本@名無史さん2019/06/08(土) 15:14:14.83
>>389
>丹生の民俗というサイトには
『邪馬台国の卑弥呼
 卑弥呼の時代は施朱の風習があった。魏志倭人伝には、「丹」が献上品に名を連ねて
 いる。その結果、倭人の住む国の産物に「其山有丹」と紹介されている。卑弥呼の支配地域に
 辰砂の出る山があったと言うことである。<

いや、魏志には「辰砂」なんて文言が書かれておらず、
「朱丹=朱色の顔料」の採れる山や木があるようだ、
と書かれているだけであり、魏帝から「鉛丹」を贈られた、という事であっただけだから、
「水銀朱」だ、と断定したこの大和説男は、嘘吐き騙しの・・・・安護詐欺師だ。
 
>どの山であったのかは邪馬台国の位置論に関わる。<

邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言だ。

>それぞれの鉱山の開発された時代を探る必要がある。卑弥呼の時代には、大和と阿波の鉱床群が開発されており、九州は
 まだであったと市毛勲氏は日本民族文化体系3の中で言われている。』とある。<

市毛勲も、「朱丹=赤色の顔料」を、「水銀朱」だけだ、と断定的にした、
嘘吐き騙しの・・・・アホ詐欺の大和説者であったんだろう、
という事になるだけだ。

ただ、市毛勲氏の日本民族文化体系3での記述が、原本で確認できていない

130日本@名無史さん2019/06/08(土) 15:26:17.46
>>395
>九州説 脱落。   @阿波 <

阿波は、「南≠東」などの実態や「卑弥呼から下賜の鏡片」が出土しているから、
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」を喰らった国であり、
元は出雲銅鐸祭祀國の支配部族であったが、
九州倭国の支配下の地として、(吉備などと並んで)、
出雲系祭祀の習俗習慣担当の忌氏の国であったらしい、という事。

131日本@名無史さん2019/06/08(土) 15:27:50.30
>>119
>距離同様に戸数も周旋も数字を盛っているのは明らか
>魏志倭人伝に書かれているような大きな国がアジアの辺境の地にあったわけがない

こうやって、日本の歴史の始まりをできるだけ小さな国にして、
できるだけ貶めようという目的で一生懸命書きこんでるのが九州説の活動なんだよなww

132日本@名無史さん2019/06/08(土) 15:29:37.81
>>396
>【奈良】邪馬台国の有力候補地「纒向遺跡」の桃の種、かじられた跡なし 
「桃が供え物として使われたことを裏付ける重要な成果だ」・・・<

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるから×だし、
大和説は、「南≠東」などに拠って、始めから×である。

133日本@名無史さん2019/06/08(土) 15:31:43.40

134日本@名無史さん2019/06/08(土) 15:32:21.57
>>131
古代日本にデカい国があったほうがうれしいってことか?
朝鮮人が自国の歴史を実際よりも古くからあることにしたがっているのと同じ発想だな
牛馬いないのにデカい国なんかそもそも無理
情報伝達どうするんだよ?

135日本@名無史さん2019/06/08(土) 15:33:01.25
面倒だから、上から@ABCDEとしてみていく
まず、@は(前)韓国国立慶尚大学校招聘教授の新井宏氏のシンポジウムで使った
「パワーポイントのスライド」じゃん
論文じゃないよww
査読付き論文じゃないと、科学的知見としては公知とならない
要するに、自分で作るスライドにはどんな妄想でも書けるってこと
結論の、
「日本産樹木年輪による炭素年代は国際較正基準よりも数10年古くシフトしている」
 これは、JCALで補正されてるって意味だよな?
「土器付着炭化物の炭素年代は、おそらく腐植酸の影響で著しく古くでている。
 もし土器付着物のデータを棄却して種実などのデータを採用すれば、従前の
 年代観の方がはるかに近い。」
 これは、従前の年代観が微妙に意味不明 「従前の」というのが例えば
 「年輪年代法が公表される前の1984年の森岡編年」ぐらいのものを指すなら、
 特に異存はない
 結論の後の最後の図を見ると、2009年の歴博の年代観がダメで、2000年の
 寺澤薫「王権誕生」の年代観を「従前の」としているようにも見える
 この王権誕生で寺澤先生は、纏向遺跡周辺の仮称ヤマト国を邪馬台国として
 いるんだが
「土器付着炭化物の信頼性を高めるために、考古学界挙げての取組みが必要である。」
 これは、当たり前のこと

結論を見てみても当たり前のことが当たり前に書いてあるだけで、
これのどこを否定する必要があるのか分からないww

136日本@名無史さん2019/06/08(土) 15:34:28.13
次A
これも新井宏氏 歴博「古墳出現の炭素十四年代」について
新井氏のホームページでは、梓書院『季刊考古学』、と掲載雑誌が書いてある(ように見えるんだが
オレの気のせいかもしれない)が、『季刊考古学』は学術雑誌出版社の「雄山閣」の雑誌
どうやら、九州の出版社「梓書院」の『季刊邪馬台国』に書いたものらしい
「梓書院」は「梓書院では、季刊邪馬台国をはじめ、一般書や芸術関連書、歴史・研究などの
書籍から、漫画や電子書籍に至るまで、様々な本の制作、販売を行っております。」という出版社
梓書院は、科学論文は専門じゃないし、『季刊邪馬台国』学術雑誌ではない
九州の出版社で、基本的に九州説の雑誌や本を出してる

で、内容は2009年の歴博春成論文への批判
最後の結論は「繰り返すが、炭素年代でピンポイントの時期指定をしたいのは願望であって、
よほどの好条件が具備されない限り実現できない。もし、そのような議論があったとしたら、
まず疑ってかかるのが、科学的な立場なのである。」
まあ、この結語に異論はない
内容は、自分で研究したものではなくて、他者の測定値をまとめて検討しているというもの

@Aはともに論文じゃないとは言わないが、ピアレビューを経た学術論文ではない
新井宏氏も、日本の考古学界で活動している研究者でもない

どや顔で反論してみろ、と言われなきゃならんものとは思わん

137日本@名無史さん2019/06/08(土) 15:36:52.24
次BC
鷲崎弘朋「年輪年代・炭素年代法と弥生・古墳時代の年代遡上論」
 古樹紀之房間というホームページに掲載
鷲崎弘朋「歴博「古墳出現期の炭素 14 年代測定」は誤り」
 「梓書院」の『季刊邪馬台国』

鷲崎氏は、年輪年代法があるところから標準パターンがほぼ100年ずれていて、
それはおそらく標準パターンの連結の誤りであろうとしている
その問題は、以下のものが詳しい
「木材の年輪年代法の問題点―古代史との関連について」http://washiyamataikoku.my.coocan.jp/ronbun1.html
オレが何回か、「どの範囲の年代が、何年分ずれているって主張したいの?」って訊いているのは、
このあたりを「前スレ>972」が理解、把握しているかを確認するため
一度も答えてもらえなかったけどな
で、この鷲崎氏の言う「年輪年代法の100年のずれ」は、土器編年の年代観と比較してのもの
鷲崎氏は、結局は現行の土器編年の年代観は認めている
14C年代法は、年輪年代法を絶対年代の根拠とするために、年輪年代法が狂うと14C年代較正曲線も
ずれるという話

別件だが「古樹紀之房間」の古代系譜についてのページは読んでいて面白く、
「神武から開化の欠史八代は実在で、実際には兄弟相続を含み崇神天皇までで
5世代であり、物部氏等の伝承系譜と整合性が取れる」というのは、
定説になることはないけれど、説得力があると思った

結局、@ABCは、専門の考古学者ではない人の私的な文書または
一般向け(内容の検証はない)雑誌の文章で、科学的に証明されたと
いえるものではない

138日本@名無史さん2019/06/08(土) 15:39:14.44
三重県まで邪馬台国にしてしまうキナイコシ
瀬戸内航路で何処から纏向までが陸行一月か説明できないキナイコシ

139日本@名無史さん2019/06/08(土) 15:39:37.80
次D
これは確かに学術論文で、Australian Archaeologyという雑誌の2006年のShort Reports
Sean Ulm「Australian Marine Reservoir Effects: A Guide to ∆R Values」
南半球では、大洋の海流の大循環のため、長い間海洋中にトラップされていたCO2が
大気に混ざるので、INTCALより古い値を示すことを述べた論文
これが、Marine Reservoir Effects・海洋リザーバー効果で、日本は太平洋に面しているため、
南半球ほどではなくても海洋リザーバー効果で、INTCALより古い値が出るというのが
「前スレ>972」の言いたいことだと思うが、日本より強く海洋リザーバー効果を受ける
「南半球での14C較正曲線SHCal(SHはSouth Hemisphere,南半球)が作られている
14C年代そのものは加速器質量分析(AMS)法で実測値が出るので、それをどの較正曲線で
実年代を求めるのかというところで、海洋リザーバー効果で日本の換算値があてにならないと
いうのなら、より強くその影響を受けるSHCalで換算すればよい
その試算が、個人のウェブだけど実際にやられてるよ
http://yamatai.sblo.j p/article/163028132.html

海洋リザーバ効果を考慮に入れても、問題なく3世紀だね

140日本@名無史さん2019/06/08(土) 15:41:33.38
EはQuaternary Researchの1975の論文
「Apparent radiocarbon ages of recent marine shells from Norway,
 Spitsbergen, and Arctic Canada」Jan Mangerud, Steinar Gulliksen
核実験や化石燃料が多く遣われるようになる前の、貝殻試料から14C年代を測定し、
化石燃料からの古代炭素の放出や海洋循環の影響を考察した論文

まあ、1975年の古い論文だし、こういう様々な影響を考慮して14C較正曲線は
バージョンアップを続けているという話で、現在はINTCAL13 (北半球)、
SHCAL13 (南半球) 、MARINE13 (海洋)というバージョンになっている

この論文と、日本の測定値がずれているという話とは「前スレ>972」の頭の中以外では、
特につながりはないよ

結局のところ、「前スレ>972」の言いたいことを論証する根拠となる科学的学術論文は、
挙げてくれた6つのURLには「なかった」ということやね

これで満足かな?
九州説の人の私的論文をいくら貼っても意味ないよ
ソースは「邪馬台国の会のホームページです(キリ)」っていうのと何も変わらんよ

141日本@名無史さん2019/06/08(土) 15:43:54.93
>>401
>まず第一に、帯方郡から基本的に南、または東、東南方向に順に記述されている
その状態で、 東南至奴國百里 有二萬餘戶 <

奴國には、至の前に移動の有無を示す文言がないから、魏使らは移動しておらず、
側副傍線國の説明だ。

>東行至不彌國百里 有千餘家 南至投馬國、水行二十日 可五萬餘戶
南至邪馬壹國、女王之所都。水行十日、陸行一月 可七萬餘戶
自女王國以北、其戶數道里可得略載
と、邪馬台国(女王国)まですべてきっちり戸数と道里が略載された国が
記載されていて、その直後に「自女王國以北、其戶數道里可得略載」とあるのだから、
邪馬台国よりも前に書かれている国々は(陳寿の認識では)すべて女王国より以北の国になる<

ダメだ。
「自女王國以北」と書いた時点では、既に投馬國は、
(邪馬壹國女王之所都のすぐ北の)不彌國から南方の水行二十日の側副傍線國であった、
と説明されていたのだから、
陳寿は、投馬國を「自女王國以北」の国の中には含めていない、という書き方だ。

>投馬国も当然に、女王国より以北だよ<

この大和説男も、
陳寿の説明の記載順を曲解捏造解釈をする嘘吐き騙しの・・・・アホ詐欺師だ。

142日本@名無史さん2019/06/08(土) 15:44:01.97
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から伊都国に一大率を派遣し、九州を支配したという空想を、どのような詭弁で説明するのだろうか。。。

143日本@名無史さん2019/06/08(土) 15:44:10.79
唐子鍵遺跡が王都に傾きつつあるなww

144日本@名無史さん2019/06/08(土) 15:47:15.66
朝鮮人の歴史は4世紀末の奈良からスタートしますた

・〜2世紀 : 唐古鍵遺跡
・(〜3世紀末:邪馬台国消滅)
・〜4世紀半ば:纏向遺跡
・4世紀末〜:↓奈良・高取

■最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
「建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、
最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と
考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。」
「同町では、朝鮮半島式の床暖房装置(オンドル)を
持つものを含めて約40棟見つかっている。」

「白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長は、
建物の時期についてはさらに検討が必要としながらも、
(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが
営んだ重要な施設があったことは間違いないとみている。」

http://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html

145日本@名無史さん2019/06/08(土) 15:49:48.04
>>140
何度も言ってるでしょ。
3世紀に纏向に人がいなかったとは誰も言ってないよ
炭素年代で3世紀の物なんて何処にでもあると思うよ 
日本中に人がいたのだから

146日本@名無史さん2019/06/08(土) 15:50:46.97
>>134
>朝鮮人が自国の歴史を実際よりも古くからあることにしたがっているのと同じ発想だな

じゃなくて、九州説が朝鮮人の発想なんだよww
はやく気付けや
そんなに朝鮮人の発想の尻馬に乗りたいのか?ww

>牛馬いないのにデカい国なんかそもそも無理

国の考え方がおかしいんだよ
祭祀連合であって、統治機構があるわけではない

>情報伝達どうするんだよ?

だから、一大率という代官を置いている訳だろ
その場での判断を任されている全権の刺史のごとき官だ

そして伊都国の官、官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚とは別に存在している
伊都国が邪馬台国の都などというのは、妄想もいいところww
陸行一月も無視だしw

147日本@名無史さん2019/06/08(土) 15:51:15.07
>>402
>でも、倭国には「其山有丹」と明記されているんだから、
「九州限定の倭国」という九州説は破綻するんだよ <

魏志倭人伝には「朱丹=赤い顔料」と書かれているが、
「水銀朱」とは書かれていないから、「水銀朱」の有無は何の証拠にもならず、
その山に赤い顔料が採れればよく、
九州にはベンガラなどの赤い顔料のもとになるものがいくらでもあるから、
九州説は全く破綻しない。

148日本@名無史さん2019/06/08(土) 15:56:08.75
>>138
>三重県まで邪馬台国にしてしまうキナイコシ

三重県は、余傍国最初の(邪馬台国の)次有「斯馬國」が伊勢志摩だから、
女王国の内だよ
此女王境界所盡よりも前に記述されているからね
三重県が邪馬台国だとは誰も言っていないなww

>瀬戸内航路で何処から纏向までが陸行一月か説明できないキナイコシ

だから、そこのところはテンプレよりも日本海航路が正しいと思う
邪馬台国畿内説 Part467 	->画像>50枚
このレベルの試案、提案を九州説でも作ってくれよ
陸行1月をどう考えているのか教えて欲しい

149日本@名無史さん2019/06/08(土) 15:56:49.19
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から伊都国に一大率を派遣し、九州を支配したという空想を、どのような詭弁で説明するのだろうか。。。

146日本@名無史さん2019/06/08(土) 15:50:46.97
>>134
>朝鮮人が自国の歴史を実際よりも古くからあることにしたがっているのと同じ発想だな

じゃなくて、九州説が朝鮮人の発想なんだよww
はやく気付けや
そんなに朝鮮人の発想の尻馬に乗りたいのか?ww

>牛馬いないのにデカい国なんかそもそも無理

国の考え方がおかしいんだよ
祭祀連合であって、統治機構があるわけではない

>情報伝達どうするんだよ?

だから、一大率という代官を置いている訳だろ
その場での判断を任されている全権の刺史のごとき官だ

そして伊都国の官、官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚とは別に存在している
伊都国が邪馬台国の都などというのは、妄想もいいところww
陸行一月も無視だしw

150日本@名無史さん2019/06/08(土) 16:00:01.75
>>149
空気のシャワーで脳細胞を構成する炭素14を崩壊させられ、精神が破綻した者には、魏志倭人伝時代の桜井市から伊都国に一大率を派遣し、九州を検察し恐れさせたという空想を、説明することは、出来ないな、

151日本@名無史さん2019/06/08(土) 16:00:10.24
>>145
>3世紀に纏向に人がいなかったとは誰も言ってないよ
>炭素年代で3世紀の物なんて何処にでもあると思うよ 
>日本中に人がいたのだから

「王都級の遺跡」は日本中のどこにでもあるものじゃないだろ?
日本最大の王墓の第一候補となる墳丘墓が累代的に築造されている地に、
大規模で特別な建物軍を含む計画的に築造された大面積の遺跡がある

その「王都級の遺跡」の年代が3世紀だってのが重要なんだよ

152日本@名無史さん2019/06/08(土) 16:03:48.58
>>148
>正しいと思う

人には「証拠は?証拠は?」と散々言っておきながら、
自分は証拠もなく自説に都合のいいことだけを「思う」と言って根拠にする奥山w

153日本@名無史さん2019/06/08(土) 16:04:09.66
>>151
纏向は3世紀に始まり、王宮級になったのが4世紀半ばだな。
邪馬台国は3世紀末期にすでに消滅している。

154日本@名無史さん2019/06/08(土) 16:11:53.38
>>148
俺は甘木・朝倉が邪馬台国の中核と思ってるから
また水行は郡からの日程説支持・・・不弥国までは里数で突如日数に変るのにひっかかる
投馬国は宮崎あたりかな

テンプレ作業員は日本海ルートや唐子鍵遺跡王都説にはなんら反論無いのかね・・・・

155日本@名無史さん2019/06/08(土) 16:12:05.48
自分の国を検察されることになる祭祀連合に、自分から入る王は、居ないな。。

156日本@名無史さん2019/06/08(土) 16:14:10.47
>>150
>空気のシャワーで脳細胞を構成する炭素14を崩壊させられ

あまりにもバカすぎるから少し添削するかね

「空気のシャワー」
これ、宇宙線が大気上層に侵入して高層大気の原子と衝突して
生じる高エネルギーの粒子シャワー、二次宇宙線のことが言いたいんだろ?ww

空気のシャワー=エアシャワーは、クリーンルームの入り口なんかにあるやつだぞww
まあ、二次宇宙線のことを「空気シャワー」と表現することもあるけれど、
「空気のシャワー」とは言わない
>脳細胞を構成する炭素14

高エネルギーの粒子シャワーが衝突すると想定されているのは、14Nだ
14Nに高エネルギーの中性子が衝突して、以下の反応が起こる
 14N + n(中性子) → 14C + p(陽子)
この反応で、質量数14の窒素が、原子番号が一つ小さい質量数14の炭素に変換される

脳細胞中にも14Cは存在するけれど、それは元から大気中にあったものが植物の光合成で
固定され食物連鎖で人の脳まで届いたもので、二次宇宙線によって生じるものではないし、
二次宇宙線の衝突は14Cを生成する方向の反応であり、14Cのベータ崩壊は14C原子核の
不安定さによって自発的に起こるものだ

ザラゴキといい連続句読点といい、よく分かっていないことを書きこんで自ら恥をかくというのは
どういう芸風なんだろう?
日本人の価値観ではよく分からないなww

157日本@名無史さん2019/06/08(土) 16:16:37.37
>>151
環濠集落で調べてみなよ
3世紀に多々あるよ
纏向には環濠は無いし

158日本@名無史さん2019/06/08(土) 16:16:59.41
北部九州から、祭祀連合の構成国であるための、独立した、75パーの確率の根拠である、カエルや桃や木製仮面や木製鶏は、発見されたのだろうか、、、

159日本@名無史さん2019/06/08(土) 16:18:41.96
>>154
>また水行は郡からの日程説支持

この時点でバカ丸出し
そんな書き方がしてある史書はない

倭人、在帶方「東南」大海之中 なのに
「南」至邪馬壹國、女王之所都。水行十日、陸行一月 だけでつくのだとしたら、
九州説が絶対に正しいと言い張る方角でも矛盾する

>投馬国は宮崎あたりかな

それだと「自女王國以北、其戶數道里可得略載」に抵触するから、その説は通らない
九州説では整合性のある投馬国の比定地が設定できない

160日本@名無史さん2019/06/08(土) 16:20:17.20
>>152
>自分は証拠もなく自説に都合のいいことだけを「思う」と言って根拠にする奥山w

テンプレを貼っている人が「奥山」だっていう主張じゃなかったのか?
テンプレに反する意見を言う人が「奥山」だったら矛盾するだろ?ww

161日本@名無史さん2019/06/08(土) 16:24:15.00
>>157
>環濠集落で調べてみなよ

3世紀の王都が環濠集落だと思っている時点で時系列無視だ

>3世紀に多々あるよ

3世紀以前には環濠集落も多くあるが、そのうちで王都級となると
候補にできるものはないだろ?

あるというなら、具体的に挙げてみせてくれ

>纏向には環濠は無いし

吉野ヶ里も卑弥呼の時代の前に環濠は維持されなくなってるよ
卑弥呼の共立以降、環濠集落は各地で廃されたように見える
まあ、この辺はもう少し編年の精緻化が必要だけれど

162日本@名無史さん2019/06/08(土) 16:25:18.37
やはり、プロ固定は、頭が悪すぎるので、頓珍漢な意見を発表したな、、
空気シャワーには、中性子が、含まれていることも、
地上の物体の原子核が、空気シャワーの中性子を捕獲したらどうなるかも、
邪馬台国畿内説を宣伝するプロ固定は、まるで知らないし、想像も出来ないのだな、、、

156日本@名無史さん2019/06/08(土) 16:14:10.47
>>150
>空気のシャワーで脳細胞を構成する炭素14を崩壊させられ

あまりにもバカすぎるから少し添削するかね

「空気のシャワー」
これ、宇宙線が大気上層に侵入して高層大気の原子と衝突して
生じる高エネルギーの粒子シャワー、二次宇宙線のことが言いたいんだろ?ww

空気のシャワー=エアシャワーは、クリーンルームの入り口なんかにあるやつだぞww
まあ、二次宇宙線のことを「空気シャワー」と表現することもあるけれど、
「空気のシャワー」とは言わない
>脳細胞を構成する炭素14

高エネルギーの粒子シャワーが衝突すると想定されているのは、14Nだ
14Nに高エネルギーの中性子が衝突して、以下の反応が起こる
 14N + n(中性子) → 14C + p(陽子)
この反応で、質量数14の窒素が、原子番号が一つ小さい質量数14の炭素に変換される

脳細胞中にも14Cは存在するけれど、それは元から大気中にあったものが植物の光合成で
固定され食物連鎖で人の脳まで届いたもので、二次宇宙線によって生じるものではないし、
二次宇宙線の衝突は14Cを生成する方向の反応であり、14Cのベータ崩壊は14C原子核の
不安定さによって自発的に起こるものだ

163日本@名無史さん2019/06/08(土) 16:26:12.14
炭素年代と纒向古墳群

桃の種・・・祭事に使用(掘立柱建物は斎場兼神社)
土器の付着物・・・これは人がいた証拠

そんなもんかな???
これを、盾に纏向は王都とか箸墓は卑弥呼の墓というには????

164日本@名無史さん2019/06/08(土) 16:28:48.06
頭が悪すぎる意見なので、何度でも貼り付けて、笑えば良いな、、、

156日本@名無史さん2019/06/08(土) 16:14:10.47
>>150
>空気のシャワーで脳細胞を構成する炭素14を崩壊させられ

あまりにもバカすぎるから少し添削するかね

「空気のシャワー」
これ、宇宙線が大気上層に侵入して高層大気の原子と衝突して
生じる高エネルギーの粒子シャワー、二次宇宙線のことが言いたいんだろ?ww

空気のシャワー=エアシャワーは、クリーンルームの入り口なんかにあるやつだぞww
まあ、二次宇宙線のことを「空気シャワー」と表現することもあるけれど、
「空気のシャワー」とは言わない
>脳細胞を構成する炭素14

高エネルギーの粒子シャワーが衝突すると想定されているのは、14Nだ
14Nに高エネルギーの中性子が衝突して、以下の反応が起こる
 14N + n(中性子) → 14C + p(陽子)
この反応で、質量数14の窒素が、原子番号が一つ小さい質量数14の炭素に変換される

脳細胞中にも14Cは存在するけれど、それは元から大気中にあったものが植物の光合成で
固定され食物連鎖で人の脳まで届いたもので、二次宇宙線によって生じるものではないし、
二次宇宙線の衝突は14Cを生成する方向の反応であり、14Cのベータ崩壊は14C原子核の
不安定さによって自発的に起こるものだ

ザラゴキといい連続句読点といい、よく分かっていないことを書きこんで自ら恥をかくというのは
どういう芸風なんだろう?
日本人の価値観ではよく分からないなww

165日本@名無史さん2019/06/08(土) 16:29:31.76
やはり、プロ固定は、頭が悪すぎるので、頓珍漢な意見を発表したな、、
空気シャワーには、中性子が、含まれていることも、
地上の物体の原子核が、空気シャワーの中性子を捕獲したらどうなるかも、
邪馬台国畿内説を宣伝するプロ固定は、まるで知らないし、想像も出来ないのだな、、、

156日本@名無史さん2019/06/08(土) 16:14:10.47
>>150
>空気のシャワーで脳細胞を構成する炭素14を崩壊させられ

あまりにもバカすぎるから少し添削するかね

「空気のシャワー」
これ、宇宙線が大気上層に侵入して高層大気の原子と衝突して
生じる高エネルギーの粒子シャワー、二次宇宙線のことが言いたいんだろ?ww

空気のシャワー=エアシャワーは、クリーンルームの入り口なんかにあるやつだぞww
まあ、二次宇宙線のことを「空気シャワー」と表現することもあるけれど、
「空気のシャワー」とは言わない
>脳細胞を構成する炭素14

高エネルギーの粒子シャワーが衝突すると想定されているのは、14Nだ
14Nに高エネルギーの中性子が衝突して、以下の反応が起こる
 14N + n(中性子) → 14C + p(陽子)
この反応で、質量数14の窒素が、原子番号が一つ小さい質量数14の炭素に変換される

脳細胞中にも14Cは存在するけれど、それは元から大気中にあったものが植物の光合成で
固定され食物連鎖で人の脳まで届いたもので、二次宇宙線によって生じるものではないし、
二次宇宙線の衝突は14Cを生成する方向の反応であり、14Cのベータ崩壊は14C原子核の
不安定さによって自発的に起こるものだ

166日本@名無史さん2019/06/08(土) 16:29:59.92
頭が悪すぎる意見なので、何度でも貼り付けて、笑えば良いな、、、

156日本@名無史さん2019/06/08(土) 16:14:10.47
>>150
>空気のシャワーで脳細胞を構成する炭素14を崩壊させられ

あまりにもバカすぎるから少し添削するかね

「空気のシャワー」
これ、宇宙線が大気上層に侵入して高層大気の原子と衝突して
生じる高エネルギーの粒子シャワー、二次宇宙線のことが言いたいんだろ?ww

空気のシャワー=エアシャワーは、クリーンルームの入り口なんかにあるやつだぞww
まあ、二次宇宙線のことを「空気シャワー」と表現することもあるけれど、
「空気のシャワー」とは言わない
>脳細胞を構成する炭素14

高エネルギーの粒子シャワーが衝突すると想定されているのは、14Nだ
14Nに高エネルギーの中性子が衝突して、以下の反応が起こる
 14N + n(中性子) → 14C + p(陽子)
この反応で、質量数14の窒素が、原子番号が一つ小さい質量数14の炭素に変換される

脳細胞中にも14Cは存在するけれど、それは元から大気中にあったものが植物の光合成で
固定され食物連鎖で人の脳まで届いたもので、二次宇宙線によって生じるものではないし、
二次宇宙線の衝突は14Cを生成する方向の反応であり、14Cのベータ崩壊は14C原子核の
不安定さによって自発的に起こるものだ

ザラゴキといい連続句読点といい、よく分かっていないことを書きこんで自ら恥をかくというのは
どういう芸風なんだろう?
日本人の価値観ではよく分からないなww

167日本@名無史さん2019/06/08(土) 16:30:36.31
やはり、プロ固定は、頭が悪すぎるので、頓珍漢な意見を発表したな、、
空気シャワーには、中性子が、含まれていることも、
地上の物体の原子核が、空気シャワーの中性子を捕獲したらどうなるかも、
邪馬台国畿内説を宣伝するプロ固定は、まるで知らないし、想像も出来ないのだな、、、

156日本@名無史さん2019/06/08(土) 16:14:10.47
>>150
>空気のシャワーで脳細胞を構成する炭素14を崩壊させられ

あまりにもバカすぎるから少し添削するかね

「空気のシャワー」
これ、宇宙線が大気上層に侵入して高層大気の原子と衝突して
生じる高エネルギーの粒子シャワー、二次宇宙線のことが言いたいんだろ?ww

空気のシャワー=エアシャワーは、クリーンルームの入り口なんかにあるやつだぞww
まあ、二次宇宙線のことを「空気シャワー」と表現することもあるけれど、
「空気のシャワー」とは言わない
>脳細胞を構成する炭素14

高エネルギーの粒子シャワーが衝突すると想定されているのは、14Nだ
14Nに高エネルギーの中性子が衝突して、以下の反応が起こる
 14N + n(中性子) → 14C + p(陽子)
この反応で、質量数14の窒素が、原子番号が一つ小さい質量数14の炭素に変換される

脳細胞中にも14Cは存在するけれど、それは元から大気中にあったものが植物の光合成で
固定され食物連鎖で人の脳まで届いたもので、二次宇宙線によって生じるものではないし、
二次宇宙線の衝突は14Cを生成する方向の反応であり、14Cのベータ崩壊は14C原子核の
不安定さによって自発的に起こるものだ

168日本@名無史さん2019/06/08(土) 16:30:41.51
唐子鍵遺跡が邪馬台国の王都に賛成だな
出土物が纒向と雲泥の差
たぶん、唐子鍵遺跡の楼閣から纏向古墳群のの労働者の奮闘を眺めていたらロマンがあるな

169日本@名無史さん2019/06/08(土) 16:32:29.91
孫達の来訪が遅いので、祭祀連合についての討論や研究をして、時間を潰せば良いのではないのかな、、、

170日本@名無史さん2019/06/08(土) 16:36:45.00
北部九州から、祭祀連合の構成国であるための、独立した、75パーの確率の根拠である、カエルや桃や木製仮面や木製鶏は、発見されたのだろうか、、、

171日本@名無史さん2019/06/08(土) 16:37:12.60
>>159
>>投馬国は宮崎あたりかな
>それだと「自女王國以北、其戶數道里可得略載」に抵触するから、その説は通らない

何が何でも此処で頑張らなくちゃ、畿内は消えるからな
とはいえ、「通らない」だけで持ちこたえるのはむつかしかろww

172日本@名無史さん2019/06/08(土) 16:39:24.93
小学率は、中性子捕獲を、インターネットで調べている最中なのではないのかな、、、

173日本@名無史さん2019/06/08(土) 16:39:40.98
其死有棺無槨 封土作冢

竹箭或鐵鏃或骨鏃

以婢千人自侍

宮室樓觀城柵嚴設 

常有人持兵守衛

174日本@名無史さん2019/06/08(土) 16:44:43.99
>>173
纏向は失格とでも?

175日本@名無史さん2019/06/08(土) 16:45:22.52
>>410
>日本海航路で、丹後半島か、若狭湾から奈良盆地。<

「南≠東北」でも「南≠東」でもどっちでもよいが、×。

176日本@名無史さん2019/06/08(土) 16:49:48.46
>>174
そもそも南じゃなくて東なので候補にする方がおかしい。

177日本@名無史さん2019/06/08(土) 16:53:35.28
纏向の建物Dは、あんな庄屋の館みたいなCGじゃなく、
楼閣として描いた方がいいと思うんだよね。

吉野ヶ里遺跡北内郭の大型建物は、唐子・鍵遺跡の出土品を参考に
楼閣として復元されてるんだけど、実物を見ると、遠目でも間近でも、
思った以上に巨大なのにビックリする。

纏向の建物Dは、その1.5倍ある訳だからね。
あれをもし楼閣として復元したら、見た人間がみんな魂消るような、
巨大な宮殿になることは間違いない。

178日本@名無史さん2019/06/08(土) 16:56:53.34
>>419
>この経路の170キロが大体妥当な線だよ・・・<

「南≠東」や「南≠東北」などで、×。

>この経路沿いに、大古墳や古来からの来歴のある神社が並んでいる<

九州北岸の上陸陸行をする必要頑張ってないし、途中の国を書かなかった事でも矛盾であり、×。

>まあ、これも試案に過ぎないけれど、
このレベルのものすら九州説は出せないじゃないか?<

×案なんて、幾ら出しても×。

>せめて同じ土俵までは上がれるといいんだけれど、
九州説はオワコンになって既に30年だから、どうやっても無理かな? <

せめて、「史料事実や史料実態」の同じ土俵までは上がってくれればといいんだけれど、
大和説はオワコンになって既に50年近くだから、どうやっても無理かな?

179日本@名無史さん2019/06/08(土) 16:59:02.15
城や柵で、防衛されていた、卑弥呼の宮は、どのような宮だったのだろうか、、、

180日本@名無史さん2019/06/08(土) 17:01:58.98
桜井市と磯城郡田原本町は行政区が違うのだよね

磯城郡田原本町の唐子鍵遺跡のほうがヤマト説には重要な遺跡なのだがネ

桜井市に傾いたのは畿内説学者互助会のはしたない謀略

古墳造営基地でよかったのに・・・市教委の発表で目新しい発見皆無(税金の無駄遣い)

181日本@名無史さん2019/06/08(土) 17:06:58.58
>>421
>とことんバカなんだなww
畿内説の想定する倭国には九州も含まれるから、阿蘇山が倭国の記述として
書かれていても何も問題ない
九州説の想定では、倭国は九州のみだそうだから、その倭国の範囲に
丹のある山がなければ、それは倭国ではないということになるww<

スレ主らはとことん・・・・アホ詐欺師なんだな。
大和説の想定では、九州は北岸通過だけであり、阿蘇なんか見てもいないから、
阿蘇山の実地の見聞を記録出来る筈がない。
書かれている事が、大和説の否定の根拠。

>九州説の想定では、倭国は九州のみだそうだから、その倭国の範囲に
丹のある山がなければ、それは倭国ではないということになるww <

朱丹は「赤い顔料」であり、最低阿蘇などにベンガラがあるから、何の支障もない。

182日本@名無史さん2019/06/08(土) 17:08:54.61
どうして九州北部から畿内に行くのに日本海航路使うの?
瀬戸内海通ったほうが波が穏やかでいいと思うのだが

183日本@名無史さん2019/06/08(土) 17:09:22.22
>>179
@宮室1棟+A楼観4棟+B城柵(環濠)厳設
を備えた吉野ヶ里が千戸(5,500人)だから、仮に邪馬台国が北部九州30カ国連合体の名前>>89で、本体(女王之所都)は奴国二万戸としたら>>105
吉野ヶ里の10倍程度の環濠城塞だっただろう。

184日本@名無史さん2019/06/08(土) 17:09:51.40
キナイコシは馬鹿だね
邪馬台国 С 女王国 なら
九州説でも水銀ある事になるじゃん 中国地方や四国も女王国の一員でいいじゃん

185日本@名無史さん2019/06/08(土) 17:10:03.86
>>425
>街道が整備されていない時代だし、毎日進める訳でもないのだから2日で10キロ程度で、
1月、30日かけて150キロ強というのは、妥当な推定距離だよ<

「南≠東」などに拠って、始めから×説であった。

186日本@名無史さん2019/06/08(土) 17:11:43.10
>>427
>それは、街道が整備されて交通網が発達してから、
鯖を腐らせないように大急ぎで走ったときの時間だろ?<

「南≠東」などに拠って、始めから×議論であった。

187日本@名無史さん2019/06/08(土) 17:15:46.23
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國 
次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 
次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 
次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 
次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡

これを説明できる説に賛同してもいいよ

188日本@名無史さん2019/06/08(土) 17:17:18.51
>>428
>>楼閣だった、と断定出来る根拠がない。<

>楼閣ではないとする理由もないよな?<

石床や石敷き詰めなどの重量に耐えるものがないから、
屋根や高層などの重いものを付けた建築ではないので、×だ。

189日本@名無史さん2019/06/08(土) 17:17:35.44
>>140
https://www.google.com/amp/s/www.sciencealert.com/radiocarbon-dating-ancient-levant-region-calibration-inaccuracies/amp

古いんだよ君は
お前らの大好きなINTCAL13も地域差が大きくて日本の国土について相応しい校正曲線とは言えないんだよ
で、弥生時代はBC1000年から始まるの?
何で答えないの?
始まってないのは知ってるけど、始まってないと答えると歴博の炭素年代測定値を否定することになる
すると同様に古墳時代や弥生末期の年代測定値に対しても疑義を唱えなくてはならなくなるからだろ?

190日本@名無史さん2019/06/08(土) 17:20:02.42
>>430
>途中途中で接待責めに逢い、雨の日は移動しないのだから、
そのペースは全く妥当。<

始めから、「南≠東」などで×話だ。

191日本@名無史さん2019/06/08(土) 17:25:53.70
>>431
>阿蘇に関しては隋書倭国伝の記述だから魏志倭人伝とは直接的には関係ないが
邪馬台国畿内説なら九州から畿内までの連合国家だから、阿蘇が記述されても問題ない<

隋書は、隋使が阿蘇の噴火を近くで実見した、という記載になっており、
大和説では、隋使が九州北岸からそのまま東方の大和に向かった、という説であるから、
阿蘇山の噴火を実見出来ず、
だから、大和説は×だ。

192日本@名無史さん2019/06/08(土) 17:31:00.72
畿内説は記紀の説話と整合性がなく説明ができない
応神400年頃から急に崇神250年頃とかいうまるで江戸末期〜平成並みに天皇長寿かよ

193日本@名無史さん2019/06/08(土) 17:31:09.99
>>191
阿蘇の話は行程の記事以外のところに書いてあるんだから
畿内説が正しいということだね

とい、中九州説死亡のお知らせだ

194日本@名無史さん2019/06/08(土) 17:32:27.34
>>191
>阿蘇山の噴火を実見出来ず、

ほい
北部九州説が死亡

195日本@名無史さん2019/06/08(土) 17:32:49.98
>>637
>根拠は磯釣りで、弥生時代の魏使様を、江戸時代の鯖商人と同じ速度で疾走させるのね?<
どんだけ笑わせてくれるんだ九州説は! 却下!<

どっち道「南≠東」などの嘘付き騙しのサギ話での問答にしかならないなあ。
どんだけ笑わせてくれるんだ大和説は!。
却下!。

196日本@名無史さん2019/06/08(土) 17:36:07.88
隋の時代に卑弥呼も居なければ邪馬台国も無い。

倭国
山により、海を負い、馬臺を鎮め、以て都を建てる。

馬臺(神殿?)を置く場所が首都を意味する。

邪靡堆のある国 ≠ 邪馬臺のあった国

197日本@名無史さん2019/06/08(土) 17:36:28.51
>>184
>九州説でも水銀ある事になるじゃん 中国地方や四国も女王国の一員でいいじゃん

「倭国=九州」説死亡

198日本@名無史さん2019/06/08(土) 17:42:58.34
>>446
>鯖商人と同じ速度で街道を全力疾走する、 長袖文官の魏使様に爆笑する。
九州説の主張全て却下! <

魏志倭人伝の「南」を、「東」と否定曲解してまでして、
大和説では、九州北岸の上陸陸行などのような全く必要のない事を魏使らにやらせる。
こんな「人類の常識」知らずの、・・・・アホ詐欺の大和説の主張は、
全て却下!。

199日本@名無史さん2019/06/08(土) 17:49:06.69
>>188
>石床や石敷き詰めなどの重量に耐えるものがないから、
>屋根や高層などの重いものを付けた建築ではないので、×だ。

お、それ九州にないな

九州説死亡のお知らせ

200日本@名無史さん2019/06/08(土) 17:58:38.09
>>198
>大和説では、九州北岸の上陸陸行などのような全く必要のない事を魏使らにやらせる。

??
やらせてないけど?

201日本@名無史さん2019/06/08(土) 18:01:11.57
>>451
>で、九州のどこからどこまで歩いたら、 一か月かかるんだ?<

「水行十日陸行一月」の「陸行一月」は、
郡から女王之所都までの陸行所要日数の話になるんだから、
歴韓國乍南乍東の韓国陸行移動の日数と、
對海國と一大國のそれぞれの国内見聞移動の日数と、
末盧國上陸から女王之所都までの陸行移動日数の、
合計だ。

202日本@名無史さん2019/06/08(土) 18:02:28.92
>>109
>三国志の距離や日数は全く場所を示す根拠にならない
>対馬や壱岐に行くまでの里数からして違っているわけだし、実際より遠くに見せかけたことは明らか

遠くに見せかけたかもしれないが、その結果として一里が短かった。

203日本@名無史さん2019/06/08(土) 18:02:45.76
>>453
>九州のどこに、3Cの径100余歩の墓があるのか?<

祇園山。

204日本@名無史さん2019/06/08(土) 18:06:34.87
>>460
>丹後半島か若狭湾から歩けば、1月は妥当。 却下!!!<

始めから「南→東北」という嘘つき騙しのルートを主張しているから、×であり、却下。

205日本@名無史さん2019/06/08(土) 18:13:09.14
>>203
うっわ・・。ショボ・・。ショボすぎる・・。
これのどこが径100余歩なんだよ。
こんな公園の小山の中に、卑弥呼がいるわきゃねーだろ。

しかもwikiの記事、根拠レスで「卑弥呼の墓の可能性がある」とか書いてるし。
こんなチョコチョコと姑息な工作ばっかやってるな、九州説は。

206日本@名無史さん2019/06/08(土) 18:13:10.16
>>183
二重環濠城柵に囲まれた、吉野ヶ里遺跡・北内郭の建物群
−主祭殿(宮室=2階大広間で政治、3階で神に報告)
−東祭殿(四季の行事=夏至日出−冬至日没ライン)
−高床住居(卑弥呼の住居)
−竪穴建物(召使の住居)
−物見櫓(楼観)4棟
−高床倉庫6棟
−斎殿(主祭殿と東祭殿の中間)
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c310.html

207日本@名無史さん2019/06/08(土) 18:14:38.02
>>203

「祇園山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく筑紫忌部が持ち込んだ「若杉山産」だと何度言えばw   @阿波

208日本@名無史さん2019/06/08(土) 18:15:23.55
3女性の合葬=箸墓・後円部(直径160m)の断面図(北側)
………………………______
5段目……………/倭迹迹日百襲姫\←崇神が追加
4段目…………/ ̄ ̄ ̄台 ̄与 ̄ ̄ ̄\_____________
3段目………/_ ̄_ ̄_ ̄_ ̄_ ̄_\____________\_
2段目……/_____________\_____________\_
1段目_/5m盛土/卑弥呼(150m)\5m盛土\_______________\__地面
周濠… ̄ ̄ ̄ ̄ ̄殉葬者奴婢100人 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄地下

209日本@名無史さん2019/06/08(土) 18:15:32.53
平原1号墓だとか、祇園山古墳だとか、
こんなショボいもんしか候補がない時点で、ホントどうしようもないね、九州説は。

写真を見た瞬間に(こりゃダメだ)と思わないの?人として。

210日本@名無史さん2019/06/08(土) 18:16:54.83
>>171
>何が何でも此処で頑張らなくちゃ、畿内は消えるからな
>とはいえ、「通らない」だけで持ちこたえるのはむつかしかろww

感想はいいから、言いたいことがあるなら「具体的な根拠をつけて反論」してくれww
ここは、「方角は絶対正しいから畿内説はありえない」って言わなければ破綻する九州説が
方角を無視しているお笑いポイントなんだからww

具体的で論理的な論証をお待ちしていますww

211日本@名無史さん2019/06/08(土) 18:18:28.34
>>176さん、>>171さんが方角はどうでもいいって言ってますよww

九州説同士で、擦り合わせしてくれませんか?ww

212日本@名無史さん2019/06/08(土) 18:19:35.81
>>464
>ルートに無くても大陸では珍しい活火山だから連合国家の領域なら記述するだろう<

隋書は、阿蘇山の噴火の実見記録を載せているから、隋使らは阿蘇山の噴火を、
かなり近くから(最低外輪山の内側や、中央火口丘から)実見記録した、という事になる。

>だから魏と通交したのは邪馬台国であり、隋と通交したのは畿内ヤマト王権<

邪馬台国なんても畿内なんても、
存在もしなかった嘘つき騙しの、詐術的な文言であり、
隋と通交したのは阿蘇山が実見出来る九州俀國であり、
大和の書紀では、
九州北岸から難波へ直行していて、阿蘇山の噴火を実見していないから、
×であり、却下。

213日本@名無史さん2019/06/08(土) 18:20:40.17
>>182
>どうして九州北部から畿内に行くのに日本海航路使うの?

そのライン上に、倭国第二の大国、投馬国・出雲があるからだよ
魏使は倭国の情勢調査もお仕事だから、奴国、投馬国、邪馬台国は
立ち寄る必要がある

214日本@名無史さん2019/06/08(土) 18:22:37.83
−古代東アジアでは、周辺国はみな、中国皇帝同盟に冊封され(金印紫綬)所属することで貿易・外交をスムーズにし、その先進文明を取り入れていた。
−漢委奴国王(57)帥升(107)を輩出した奴国二万戸が倭国大乱で失脚した(王無)理由は、黄巾の乱で220年に滅びた後漢という後ろ盾を失ったためと思われる。
ところで、
−弥生倭国では、北部九州を中心とした銅剣&銅矛(武器=戦争)圏と、畿内東海を中心とした銅鐸(釣鐘=平和)圏があり、両者の中間・中国四国地方では、両者が併存し、独自の大型墳丘墓(四隅突出墓・双方中円墳)を作っていた(建設圏)。
−邪馬台国は南の狗奴国と交戦中で、魏帝に冊封・援軍要請するほど激しく争っていたことを示し、それらは銅鐸(平和)圏ではなく、銅剣&銅矛(戦闘)圏にあったと思われる。
−3世紀北部九州の「武器」の出土量は、同時期の畿内の100倍以上。
−伊都国には王がおり、女王国以北、半島までの諸国を監視する一大率が置かれ、実質的な政治(外交貿易)を行っていたと思われる。
−その親世代である平原女王墓からは伊勢神宮の八咫鏡(天照大神の御神体)と同型同大の内向花紋鏡が出土している。
一方、
−纏向王権(≠ヤマト王権)は、銅鐸(平和)圏が(戦争圏と平和圏が交わる)出雲・吉備・阿波の大型墳丘墓文化(建設圏)と統合し、築かれた王権といえる。
−畿内の鉄出土量が北部九州に並ぶのは、纏向遺跡が放棄される4世紀初頭以降である(纏向遺跡の終焉と共に畿内に鉄が普及し始める)。

これらをまとめると、
−邪馬台国は伊都国の南〜狗奴国の北である筑紫平野(北部九州)にあり、
−纏向王権は本州島の毛人勢力が集結して建てた(邪馬台国とは別の)地方王権。
→北部九州(邪馬台国)相手のビジネス〔出稼ぎ農民兵の人材派遣を兼ねて、食糧(瀬戸内海の旨い塩&畿内東海の米)&戦場でも飯盒炊飯できる=下からの直火ですぐ炊ける布留式土器販売〕で挙げた利益で巨大古墳を築いていた王権であり、
−邪馬台国が狗奴国を帯方郡張政の調停により併合した後、伊都国王が邪馬台国を乗っ取り、さらに瀬戸内海経由で纏向王権を征服し、ヤマト王権となったと考えられる。

215日本@名無史さん2019/06/08(土) 18:24:20.91
>>184
>キナイコシは馬鹿だね
>邪馬台国 С 女王国 なら
>九州説でも水銀ある事になるじゃん 中国地方や四国も女王国の一員でいいじゃん

残念ながら、九州説は「倭国は九州のみ」っていう主張なんだよ
そうしないと同時代に北部九州よりも立派な弥生墳丘墓が、
出雲にも吉備にも丹波にも大和にもあるから、
それらを差し置いて北部九州に倭王が居たとは言えなくなる

他の地域の方が明らかに栄えていて国力が上だから、
それらとは独立した九州だけの倭国を想定しないと九州説は成り立たないんだよ

そして、九州だけの倭国だと3世紀に丹がないから、その時点で即死してしまうw

216日本@名無史さん2019/06/08(土) 18:25:20.88
>>213
>魏使は倭国の情勢調査もお仕事だから、奴国、投馬国、邪馬台国は
>立ち寄る必要がある

だとしたらなんで出雲のことに全く触れられていないんだよw
幾ら何でも不自然すぎる

217日本@名無史さん2019/06/08(土) 18:25:22.75
邪馬台国論争は永遠のジグソーパズル。

九州には冢(100人殉葬150m円墳)がないし、大和には集落はあっても王都(鉄・文字)がない。

つまり、双方の弱点を補う「九州(大和奥津城)説」が正しいのである。

卑弥呼の王宮(宮室楼観城柵厳設)は、伝統的な北部九州にないと大陸半島との貿易や外交など政治判断に支障が出るし、
冢(王家の谷=神仙郷)なら離れていても問題ない。
むしろ人口密集地で土地不足の弥生銀座(大都会)北部九州から離れていた方が良い。
日本海ルート(片道2ヶ月・往復4ケ月)と違い、魏使には隠した地中海=瀬戸内海(神武東征)ルートなら、日向→筑紫→豊後→安芸→吉備→大和と主要国王を訪問(視察)しながら年に1回墓参りに行ける。
台与が悲惨な殉葬を止めさせ、卑弥呼の冢を埋め立てるようにして自らの寿陵・箸墓を築造。次の崇神が倭迹迹日百襲姫も合葬したのである。
つまり箸墓は3人の女性が合葬されているのである(1段目・卑弥呼+4段目・台与+5段目・百襲姫)。

218日本@名無史さん2019/06/08(土) 18:25:38.83
>>214
>邪馬台国は伊都国の南〜狗奴国の北である筑紫平野(北部九州)にあり、


丹の採れない所に邪馬台国は、ない。   @阿波

219日本@名無史さん2019/06/08(土) 18:27:52.74
>>217
>邪馬台国論争は永遠のジグソーパズル。


いや、とっくに「其山有丹」で決着済み。   トンデモ説同士の邪馬台国論争は永遠のジグソーパズル。    @阿波

220日本@名無史さん2019/06/08(土) 18:27:52.87
>>466
>九州説は、魏志倭人伝の特殊読みしか根拠がないんだから、
魏志倭人伝に書いてあることが正しくないって言い出したら、
九州説が拠って立つ基盤は皆無になるよ?
まあ、魏志倭人伝だけでも九州説は却下されるってだけなんだけどさw<

大和説は、「南→東」などにように、
魏志倭人伝には「間違いが沢山ある」という特殊読みしか根拠がないんだから、
魏志倭人伝に書いてあることが正しいって言い出したら、
大和説が拠って立つ基盤は皆無になるよ?。

まあ、魏志倭人伝だけでも九州説は却下されるってだけなんだけどさ

221日本@名無史さん2019/06/08(土) 18:32:50.47
卑弥呼の魏帝への朝貢理由は要するに狗奴国戦争における援軍要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まる。

長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置(比定)であることに留意されたい。

南の狗奴国の位置が決まれば、北の邪馬台国の位置が自動的に決まる。
狗奴国が熊本平野か川内平野かだが、邪馬台国七万戸(35万石)を統治している女王卑弥呼をして、魏の明帝曹叡に援軍要請させるほど窮地に陥れる(狗奴)国の国力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸35万石)もしくはそれ以上の人口(八万戸40万石)と仮定。
面積から見て、狗奴国が川内平野でゎ3世紀の開墾能力では限界があると思われ、狗奴国は菊地+熊本+八代の3平野を合わせた超大国と想定して、
北の邪馬台国は筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所&(天気が良ければ)福岡平野→糸島(伊都国)→壱岐島までズドーンと見渡せる甘木朝倉と確定。

222日本@名無史さん2019/06/08(土) 18:35:08.68
>>221の続き

すると、もう一つの謎である継体の正体(狗奴国王卑弥弓呼=「越」王家子孫/八代淡海→近江)も判明。古代史は以下のように一挙に解明できるのである!

漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(卑弥弓呼、帯方郡張政に降伏、卑弥呼に服従)、宮崎の神武(投馬国)を派遣し、水銀朱(丹)豊富な大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)狗奴国系(台与死後「男弟」子孫に入婿、阿蘇遷都)
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国系(仲哀を神功皇后が暗殺、筑紫遷都)
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国系(武烈死後、倭王磐井を暗殺、筑紫君と史実歪曲→阿蘇遷都・倭王阿毎多利思比孤へ)
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)(唐新羅連合軍の脅威現実味→欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)大和東遷、飛鳥疎開宮造営)
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→崇神朝・応神朝・継体朝の倭王権(九州王朝)内の抗争がすべて大和で起こっていたように史実歪曲。
桓武朝=9世紀(平安時代)

まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(狗奴国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…→神武派遣、饒速日征服、奥津城造営(水銀朱・丹独占が真の目的)→欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京)

223日本@名無史さん2019/06/08(土) 18:39:05.41
>>469
>魏志倭人伝の時点で阿蘇が書かれていないので卑弥呼のいた邪馬台国とは連続性なし。
よって却下。<

いや、其餘旁國に「蘇」の文字が付く国が三つもあり、阿蘇との近縁が強く疑われる。
また、邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言。

224日本@名無史さん2019/06/08(土) 18:42:50.24
傍国は遠絶ってあるから九州では無いな
同様に邪馬台国も九州には無い

225日本@名無史さん2019/06/08(土) 18:44:12.58
>>196
>隋の時代に卑弥呼も居なければ邪馬台国も無い。

おいおい、お前さんが引用しているのは翰苑だぞ
成立は唐代だ

>倭国
>山により、海を負い、馬臺を鎮め、以て都を建てる。

翰苑の原文では憑山負海 鎭馬臺以建都
通説では鎭「邪」馬臺以建都の欠字とされる

>馬臺(神殿?)を置く場所が首都を意味する。

「(神殿?)」ってww
「邪」を落としてしまうと意味不明になるだけ
翰苑はこのあと、後漢書曰 倭在朝東南大海中(中略)其大倭王治邦臺と続くんだから、
鎭「邪」馬臺以建都と読むのが確実

226日本@名無史さん2019/06/08(土) 18:49:57.14
>>216
>だとしたらなんで出雲のことに全く触れられていないんだよw

触れられてるだろ?
ほら「南至投馬國、水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戶。」
戸数、道里が略載され、官名もきっちり記録されている

古事記の、スサノオに娘を助けられた出雲の長が稻田宮主須賀之八耳神だ
彌彌を「みみ」と読めば、出雲の長の名前になる

まあ、耳のつく首長は、出雲だけではないけれど

227日本@名無史さん2019/06/08(土) 18:50:53.93
倭国は山々に囲まれ云々という記述が無いので
奈良盆地を含まない事は確かだなw

228日本@名無史さん2019/06/08(土) 18:52:21.73
>>224
>傍国は遠絶ってあるから九州では無いな

これはちょっときびしい
遠絶なのは、大陸にいる陳寿から見て「倭国」が遠絶なんだよ
其余傍国だけが遠絶な訳ではない

229日本@名無史さん2019/06/08(土) 18:53:30.80
>>227
>倭国は山々に囲まれ云々という記述が無いので

伊都国も山に囲まれた狭い平野だけどそんなことは書いてないなww
もう少し、整合性って言葉を考えてから書き込みなよww

230日本@名無史さん2019/06/08(土) 19:03:41.84
孫達が、カタンという賽子のゲームを始めたので、また、討論や研究を再開すれば良いな、、

231日本@名無史さん2019/06/08(土) 19:03:47.47
>>135
>結論を見てみても当たり前のことが当たり前に書いてあるだけで、

先に結論ありきで畿内説を持ち出しているもんな。
当然そうなるけど、正しいとは言えない。

232日本@名無史さん2019/06/08(土) 19:05:21.07
>>151
>「王都級の遺跡」は日本中のどこにでもあるものじゃないだろ?

あちこちにある程度の集落に勝手に王都級という修飾語をつけているだけ。
そもそも「王都級」とやらの定義は何だ?

233日本@名無史さん2019/06/08(土) 19:05:51.47
>>229
伊都国には海があるだろバカか?www

234日本@名無史さん2019/06/08(土) 19:06:28.09
>>490
>陸行一月を無視している九州説は嘘つき騙し<

「南→東」などの嘘付き騙しをし、
「水行十日陸行一月」は「女王之所都」の説明文言である事を無視し、
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている事を無視し、
だから、
「水行十日陸行一月」が「郡〜女王之所都」の所要日数になる事を無視する大和説者は、
嘘つき騙しの・・・・アホ詐欺師。

235日本@名無史さん2019/06/08(土) 19:06:32.16
纒向の炭素シャワーは鉄を消滅させるのか?
畿内説はわけわからんな。

236日本@名無史さん2019/06/08(土) 19:07:22.57
>>113 >>115 >>222
出雲&吉備の混血王・大物主が、父スサノオが銅鐸のための青銅を供給して以来、交流がある東海&北陸と共に築いた纏向遺跡。
その真の目的は(スサノオが建築材に適した杉を植林した)紀伊半島の大和水銀鉱床の獲得&北部九州への販売だろう。
饒速日の代で纏向王権は北部九州(神武崇神)に乗っ取られた。
その後、大連・物部氏として奥津城大和&河内で、崇神・応神・継体朝の前方後円墳の築造を担当する一方、水銀朱の採掘で莫大な富を上げた。
そこへ継体第3皇子の欽明が百済王族とのハーフ蘇我氏と共に、仏教寺院建設と共に飛鳥疎開宮を建設しに派遣されてきた。
当然、紀伊半島の大和水銀鉱床群を独占してきた物部氏と蘇我氏は争い、丁未の乱で物部守屋が戦死。欽明朝の外戚・蘇我氏の天下となる。
乙巳の変は、欽明朝(大和分家)を乗っ取ろうとした大臣蘇我入鹿を、
瀬戸内海沿岸に朝鮮式山城を築かせていた九州本家の天智が視察のためと称して訪れ、誅殺したとする説がある。

237日本@名無史さん2019/06/08(土) 19:08:32.83
>>226
>彌彌を「みみ」と読めば、出雲の長の名前になる

耳はむしろ九州に多いのだが?

238日本@名無史さん2019/06/08(土) 19:09:22.19
整合性とは、何だろうか、、、

239日本@名無史さん2019/06/08(土) 19:11:10.93
Q:女王国の東の海を渡った千里先にある倭種の国は?

畿内説:東海、伊豆あたり。千里とは船で一日という意味だ。

Q:その理屈だと博多湾から投馬国(出雲)までも2日以内で到達できますが?

畿内説:九州説は捏造ニダ!

240日本@名無史さん2019/06/08(土) 19:15:10.58
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から同じ祭祀連合の内部の伊都国に一大率を派遣し、九州を検察し恐れさせたという空想を、どのような詭弁で、整合性を守りながら説明するのだろうか。。。

241日本@名無史さん2019/06/08(土) 19:18:17.43
カタンのルールを覚えて、一緒に遊べば良いのではないのかな、、
という孫娘の提案を、断れないのではないのかな。。。

242日本@名無史さん2019/06/08(土) 19:35:17.44
畿内説は詭弁

243日本@名無史さん2019/06/08(土) 19:44:13.81
>>187
九州説しかないよ
九州説では女王国は本州西部、四国も含めてるから

倭国は中国風に言えば、朝鮮より南の圀程度

女王国は西日本全体でもいいよ

邪馬台国が何処かが議論でしょ

3世紀にヤマト王政は関係無いと思うよ


和人では

244日本@名無史さん2019/06/08(土) 19:45:32.68
○ 畿内説は詭弁
◎ 畿内説は奇弁

245日本@名無史さん2019/06/08(土) 19:47:00.98
畿内説には検弁が必要だな

246日本@名無史さん2019/06/08(土) 19:49:01.77
>>199
アンタ何も知らないの?
文明は進化するのだよ
あんたの住んでる家には基礎工事無いのかねーー

纏向の掘立柱建物以前の遺跡を研究したらいいよ

247日本@名無史さん2019/06/08(土) 19:51:17.71
>>199
初心者は去れ
過去スレで写真付きで説明してるじゃん

248日本@名無史さん2019/06/08(土) 19:55:03.32
>>197
アホか倭国は九州と断定してねーよ
倭国の中枢がどこにあったかが議論だよ
中國から見て、朝鮮の南か東か知らんが倭国だろ

249日本@名無史さん2019/06/08(土) 19:55:54.02
○ 畿内説は詭弁
◎ 畿内説は奇弁

250日本@名無史さん2019/06/08(土) 19:55:57.99
○ 畿内説は詭弁
◎ 畿内説は奇弁

251日本@名無史さん2019/06/08(土) 19:57:50.85
>>248
後漢書だと、せいぜい倭奴国まで。
本州など眼中にない。

252日本@名無史さん2019/06/08(土) 19:58:59.57
倭人伝からだよ
あくまで倭人伝からだよ
やまたいこくの中心は海に近い所だよ

253日本@名無史さん2019/06/08(土) 20:02:16.68
>>251
古代中国
本州何て認識は無いよ
倭国ぐらいだから
小倉から下関は見えるんだから
同じ倭国の認識だよ
問題は邪馬台国の所在地だよ

254奥山くん2019/06/08(土) 20:04:48.19
日本海航路説
どう料理する?テンプレ変える?

お手並み拝見ww

255日本@名無史さん2019/06/08(土) 20:05:02.14
>>506
>それより、九州で陸行一月は、どこからどこなのか?
これが示されない限り、あらゆる九州説は嘘つき騙しの却下!!! <

それより、「南→東」などの嘘付き騙しの根拠は何なのか?。
これが示されない限り、あらゆる大和説は嘘つき騙しの却下!!!。
そして、「陸行一月」に関する論拠は、もう何度も説明してある。

256日本@名無史さん2019/06/08(土) 20:07:37.84
>>233
>伊都国には海があるだろバカか?www

伊都国に海があるとも書いてないねぇww

バカ丸出しw

細かな地勢は倭國のどの国についても書いてない
つまり>>227の「倭国は山々に囲まれ云々という記述が無いので 」というのが
畿内説への反論としてまったく意味をなさないのを自分で確認してくれた訳だww

257日本@名無史さん2019/06/08(土) 20:09:22.22
>>507
>3Cの径100余歩の墓は九州のどこにあるのか?
これが示されない限り、全ての九州説は却下!!!<

当然祇園山の確率が最も高い事は、もう何度も説明してある。
そして、その事を隠蔽し、
「南→東」などの嘘付き騙しの論拠を示せない限り、
全ての大和説は、却下。

258日本@名無史さん2019/06/08(土) 20:11:50.91
>>235
>纒向の炭素シャワーは鉄を消滅させるのか?

「炭素シャワー」だって?wwwww

日本の学術用語にはそんな言葉は存在しないぞwwww
九州説クラブに入るための入会規約には
「サイエンス無視の頭のおかしい人限定」とかいう縛りでもあるのかね?ww

259奥山くん2019/06/08(土) 20:14:34.43
唐子鍵遺跡王都説
どう料理する?テンプレ変える?

お手並み拝見ww

260日本@名無史さん2019/06/08(土) 20:15:46.81
>>252
>やまたいこくの中心は海に近い所だよ

陸行一月はガン無視ww

261日本@名無史さん2019/06/08(土) 20:16:59.21
>>256
アンタの伊都国の比定地は何処なの?
海あるし‥

262日本@名無史さん2019/06/08(土) 20:19:43.16
畿内説は炭素シャワー

263日本@名無史さん2019/06/08(土) 20:20:41.96
>>260
陸行かい
ひと月でどこも到達しないよ
一日5キロと言ってた奴もいるが 笑うよ

邪馬台国論叢で陸行一月の謎を解いた学者いたら教えろよ

264日本@名無史さん2019/06/08(土) 20:23:01.56
>>511
>畿内説は畿内が九州を統治したとか支配したなどとは一切主張していない<

何だ?、これでは、スレ主らは、
「卑弥呼=倭国女王」説を放棄したかのように見えるではないか。

>統治はそれぞれの地域の首長、ヒコ王が行っている
畿内説の主張は卑弥呼の共立は祭祀連合によるヒメ王の統一であって、
その祭祀連合は統治はしない <

それなら、「畿内が卑弥呼共立の地」であるかのように言っているから、
やはり「南≠東」や、
大和は、九州倭国の筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国であり、
九州倭国の「東征毛人五十五国」の中の一国である、という事と矛盾するから、
やっぱりスレ主らは×だ。

265日本@名無史さん2019/06/08(土) 20:24:13.61
テンプレでも話題の
陸行一月なんの解説ねージャン

長いテンプレで要所押さえてねージャン

266日本@名無史さん2019/06/08(土) 20:25:36.98
>>512
>わざわざ遠回りをしているんじゃなくて、倭國第二の大国である投馬国を経由するためだよ
魏使の訪問目的には倭国の情勢調査が含まれているからね
>船で出雲まで行って、そこから北部九州まで戻って瀬戸内を行くより、
丹波まで行ってそこから陸行の方が合理的だろ?<

どっちにしても、「南≠東」などに拠って、スレ主らは、×だ。

267日本@名無史さん2019/06/08(土) 20:27:59.89
>>248
>アホか倭国は九州と断定してねーよ
>倭国の中枢がどこにあったかが議論だよ

では、北部九州はお呼びでないな

吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル
出雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え四方に5〜9mの平坦部
てなサイズがある

大和の纏向型前方後円墳が列島最大で、
纒向石塚古墳で全長96メートル、
東田大塚古墳で墳丘長120メートルある

平原1号墓の墳丘サイズ14×12メートルというのは首長墓だとしても、
有力国の首長墓としては、どうしても見劣りする

伊都国でも古墳時代に入って三雲遺跡群に作られる端山古墳は全長78.5メートルあるし
三雲南小路遺跡の墳丘サイズが周りの周溝で30メートル四方くらい
須玖岡本遺跡D地点墳丘墓も同程度のサイズ
吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓でも南北約40m、東西約27mの長方形に近い形態、という大きさがある

墳丘サイズはその築造にかかる動員力=国力を直接示す指標

北部九州は、地方首長の権力伸張に乗り遅れた地域なんだよ
そんなところに倭王がいる訳ないだろ?

268日本@名無史さん2019/06/08(土) 20:29:37.49
>>215
>残念ながら、九州説は「倭国は九州のみ」っていう主張なんだよ <

その説どの学者が言ったの?
5ちゃんの投稿者ならわかるけどー
倭国は漠然とした日本領土だよ

269日本@名無史さん2019/06/08(土) 20:30:39.32
カタンは、魏志倭人伝時代の日本列島のような物だというのが、僕達の予想だね、、、

270日本@名無史さん2019/06/08(土) 20:31:08.85
>>261
>アンタの伊都国の比定地は何処なの?
>海あるし‥

普通に怡土郡でいいよ?
三雲遺跡群がその中心

魏志倭人伝には伊都国に海があるともないとも書いてないだろ?
周りが山だと書いてないから、奈良盆地じゃないってのは無意味だってこと

>>261はとことん的外れww

271日本@名無史さん2019/06/08(土) 20:31:57.50
>>269
孫達と、はしゃいだので、疲れたのではないのかな、、、

272日本@名無史さん2019/06/08(土) 20:32:27.93
>>264
>九州倭国の「東征毛人五十五国」の中の一国である、という事と矛盾するから、
>やっぱりスレ主らは×だ。

その
九州倭国の「東征毛人五十五国」の中の一国である
という説を盲信してる時点で
あんた・・・
可哀想なひとだね

273日本@名無史さん2019/06/08(土) 20:33:32.29
>>263
>一日5キロと言ってた奴もいるが 笑うよ

それ、ただの「感想」だってww
鯖街道の鯖商人並みに魏使さまを走らせるって言ってたの、お前だろ?

笑い者は>>263だよwwwww

274日本@名無史さん2019/06/08(土) 20:33:47.74
>>267
邪馬台国は何処にあったと思う
卑弥呼は何処にいたと思う
倭人伝に基き解説してくれんかな
各説 倭人伝無視しすぎだ 特にヤマト説

275日本@名無史さん2019/06/08(土) 20:34:50.07
>>271
賽子のゲームをするより、賽子のゲームをしている孫達の声を聞きながら、魏志倭人伝時代の研究をする方が良いな、、、

276日本@名無史さん2019/06/08(土) 20:35:08.34
>>268
>その説どの学者が言ったの?

九州説の学者?




ナイナイ

277日本@名無史さん2019/06/08(土) 20:36:03.62
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から同じ祭祀連合の内部の伊都国に一大率を派遣し、九州を検察し恐れさせたという空想を、どのような詭弁で、整合性を守りながら説明するのだろうか。。。

278日本@名無史さん2019/06/08(土) 20:37:49.81
頭が悪すぎる意見なので、何度でも貼り付けて、笑えば良いな、、、

156日本@名無史さん2019/06/08(土) 16:14:10.47
>>150
>空気のシャワーで脳細胞を構成する炭素14を崩壊させられ

あまりにもバカすぎるから少し添削するかね

「空気のシャワー」
これ、宇宙線が大気上層に侵入して高層大気の原子と衝突して
生じる高エネルギーの粒子シャワー、二次宇宙線のことが言いたいんだろ?ww

空気のシャワー=エアシャワーは、クリーンルームの入り口なんかにあるやつだぞww
まあ、二次宇宙線のことを「空気シャワー」と表現することもあるけれど、
「空気のシャワー」とは言わない
>脳細胞を構成する炭素14

高エネルギーの粒子シャワーが衝突すると想定されているのは、14Nだ
14Nに高エネルギーの中性子が衝突して、以下の反応が起こる
 14N + n(中性子) → 14C + p(陽子)
この反応で、質量数14の窒素が、原子番号が一つ小さい質量数14の炭素に変換される

脳細胞中にも14Cは存在するけれど、それは元から大気中にあったものが植物の光合成で
固定され食物連鎖で人の脳まで届いたもので、二次宇宙線によって生じるものではないし、
二次宇宙線の衝突は14Cを生成する方向の反応であり、14Cのベータ崩壊は14C原子核の
不安定さによって自発的に起こるものだ

ザラゴキといい連続句読点といい、よく分かっていないことを書きこんで自ら恥をかくというのは
どういう芸風なんだろう?
日本人の価値観ではよく分からないなww

279日本@名無史さん2019/06/08(土) 20:38:33.03
やはり、プロ固定は、頭が悪すぎるので、頓珍漢な意見を発表したな、、
空気シャワーには、中性子が、含まれていることも、
地上の物体の原子核が、空気シャワーの中性子を捕獲したらどうなるかも、
邪馬台国畿内説を宣伝するプロ固定は、まるで知らないし、想像も出来ないのだな、、、

156日本@名無史さん2019/06/08(土) 16:14:10.47
>>150
>空気のシャワーで脳細胞を構成する炭素14を崩壊させられ

あまりにもバカすぎるから少し添削するかね

「空気のシャワー」
これ、宇宙線が大気上層に侵入して高層大気の原子と衝突して
生じる高エネルギーの粒子シャワー、二次宇宙線のことが言いたいんだろ?ww

空気のシャワー=エアシャワーは、クリーンルームの入り口なんかにあるやつだぞww
まあ、二次宇宙線のことを「空気シャワー」と表現することもあるけれど、
「空気のシャワー」とは言わない
>脳細胞を構成する炭素14

高エネルギーの粒子シャワーが衝突すると想定されているのは、14Nだ
14Nに高エネルギーの中性子が衝突して、以下の反応が起こる
 14N + n(中性子) → 14C + p(陽子)
この反応で、質量数14の窒素が、原子番号が一つ小さい質量数14の炭素に変換される

脳細胞中にも14Cは存在するけれど、それは元から大気中にあったものが植物の光合成で
固定され食物連鎖で人の脳まで届いたもので、二次宇宙線によって生じるものではないし、
二次宇宙線の衝突は14Cを生成する方向の反応であり、14Cのベータ崩壊は14C原子核の
不安定さによって自発的に起こるものだ

280日本@名無史さん2019/06/08(土) 20:39:01.90
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から同じ祭祀連合の内部の伊都国に一大率を派遣し、九州を検察し恐れさせたという空想を、どのような詭弁で、整合性を守りながら説明するのだろうか。。。

281日本@名無史さん2019/06/08(土) 20:43:55.60
カタンの第二回目の闘いにも、誘われてしまった。。。

282日本@名無史さん2019/06/08(土) 20:44:20.79
>>268
>その説どの学者が言ったの?

九州説は学説としては死滅してるから、九州説の学者さんなんて者はいないなww
いたら教えてくれ

物故者では例えば本居宣長なんかは畿内と関係ない九州の女酋だとしてるね

283日本@名無史さん2019/06/08(土) 20:47:03.52
>>514
>>(ホケノ)狭い閉鎖空間があるから、有棺有槨であり、<

>狭い閉鎖空間は槨ではない<

当たり前だ。
「狭い閉鎖空間」だけでは「槨」ではないし、「棺」も狭い閉鎖空間だ。
そして、人が扉に拠って出入り出来、長期滞在居住出来る大きさであれば、
本来は「室」であり、「槨」とは言い難かったものだ。
しかし、魏の役人らには、「槨」と「室」の違いが余りなく、
どちらも「槨」という文言で表記していたらしい、という事だ。

284日本@名無史さん2019/06/08(土) 20:50:33.17
>>105 >>214 >>222
紀伊半島の水銀(丹)鉱床群を獲得するためという、邪馬台国東遷説には、説得力がある。
それまで北部九州は大陸半島から輸入していた朱(丹)を、紀伊半島に杉植林中のスサノオが見つけ、大国主・大物主へと伝え、纏向が作られ、
最終的に銅剣銅矛(戦争)圏である北部九州が奥津城として占領征服し、立ち入り禁止になっていったのだろう。
畿内の鉄出土量が纏向遺跡の終焉と共に増えるのも、それを裏付けている。
邪馬台国がヤマトに東遷することで大物主&饒速日の纏向箸墓王権を滅ぼし、紀伊半島の水銀鉱床を独占してヤマト王権となり、大陸半島に輸出し鉄を輸入することで列島を統一支配していった。
前方後円墳体制乗っ取りは表向きの話。東遷の目的はあくまで紀伊半島の水銀鉱床。

285日本@名無史さん2019/06/08(土) 20:51:38.19
>>1 奥山?

浅はかだな
瀬戸内航路でじゃ無い
ここ
邪馬台国畿内説 Part467 	->画像>50枚

邪馬台国畿内説 Part467 	->画像>50枚

反論あればヨロシク

286日本@名無史さん2019/06/08(土) 20:56:01.84
奥山はテンプレ作成作業員だから
論はねーヨ
支離滅裂のテンプレでも容認するよ俺はねww

287日本@名無史さん2019/06/08(土) 20:57:37.34
>>515
>ホケノ山古墳より纒向石塚古墳の方が古いし
渡り堤付き円形周溝墓まで入れれば瀬田遺跡の円形周溝墓が今のところ一番古い<

「渡り場付き」である事が明確な円形周溝墓は、
西晋武帝の天円地方認識(天円部も地方部も双方とも墓)とも違うし、
モンゴルや高句麗や那珂八幡や石塚の前方後円墳のような、
「前方部と後円部とが一体とした墓」という墓でもない。

288日本@名無史さん2019/06/08(土) 20:58:45.11
>>282
あんたなぁ
何も知らないのに投稿すんなよ

289日本@名無史さん2019/06/08(土) 20:59:22.99
>>284
邪馬台国&伊都国混血王・崇神東遷後、大物主を三輪山へ改葬(分祀=分骨)し、倭迹迹日百襲姫(台与)が追葬された箸墓の断面図(北側)
大物主の上に台与が乗る騎乗位(大物主の股間の白蛇がモモソ姫の股間を下から突き上げる)
………………………______
5段目……………/倭迹迹日百襲姫\←崇神が追加
4段目…………/ ̄ ̄ ̄大物主 ̄ ̄ ̄\←三輪山へ改葬_____
3段目………/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\___________\_
2段目……/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\____________\_
1段目_/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\_____________\__地面
……… ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

290どう料理する?テンプレ変える?2019/06/08(土) 21:01:22.29
259奥山くん2019/06/08(土) 20:14:34.43
唐子鍵遺跡王都説
どう料理する?テンプレ変える?

>>1 奥山?
浅はかだな
瀬戸内航路でじゃ無い
ここ
邪馬台国畿内説 Part467 	->画像>50枚



お手並み拝見ww

291日本@名無史さん2019/06/08(土) 21:12:49.21
>>284
中国大陸に水銀朱(丹)が高値で売れることに気付くのが早かった大陸半島に近い北部九州と出雲。
それぞれが九州島の邪馬台国と本州島の纏向王権を誕生させ、前者が東遷し後者(紀伊半島西部の水銀鉱床群)を征服してヤマト王権となった。
そして東遷した崇神の子・垂仁の代になって伊勢神宮が創建され、紀伊半島東部も禁足地として大王(天皇)家の独占となった。
まさに垂仁(活目大王)から崇神(邪馬台国&伊都国混血)朝ヤマト王権の全国統一→応神朝&継体朝の高句麗戦争&百済支配が始まるのである!

292日本@名無史さん2019/06/08(土) 21:13:01.79
>>517
>九州説の言う古い九州の横穴式石室は、畿内タイプの合掌型竪穴式石室に横口を付けたもの
そして畿内の横穴式石室は、九州の横口式竪穴系石室が横穴式石室に変化する前に独自に生じている
それが九州のものが伝わったとするのはチェリーピッキングのインチキ<

お前が、九州の横穴式石室の始まりは4世紀末と言い、
大和の横穴式石室の始まりは6世紀頃、というような説明を書いたから。
そして、それは、Yahooで議論した時の結果と大体同じであり、
Yahooでは、栄山江?付近の5世紀前半?頃の前方後円墳の横穴式石室の編年とも一致し、
九州の装飾古墳の編年にも一致した、
という記憶がある。
だから、どう考えても、横穴式石室墓は九州から大和に伝播した、という事になった。

293日本@名無史さん2019/06/08(土) 21:13:09.40
>>288
>あんたなぁ
>何も知らないのに投稿すんなよ

でも具体的な九州説の学者の名前はなしww

九州説はかれこれもう30年くらい前に終わってるんだよw

294日本@名無史さん2019/06/08(土) 21:32:53.28
>>291
伊勢神宮の創建と共に、祖先・天照大神の御神体「八咫鏡」(平原女王墓出土、同時期の倭国最大の内向花紋鏡と同大同型)が祀られたんだね。

295日本@名無史さん2019/06/08(土) 21:33:08.93
カタンは、やはり、精神を疲れさせるな、、、

296日本@名無史さん2019/06/08(土) 21:38:36.18
>>295
このスレッドで、笑いリラックスし、元気になれば良いな。。

297日本@名無史さん2019/06/08(土) 21:40:31.89
>>543
>>槨の目的は(遺体や)棺を収める空間を作ること<

>具体的には人が立ち入ることができて追葬ができる構造物が「槨」<

ダメだ。
東夷伝に記載された「槨」では、「扉や戸」があった記述や形跡がなく、
だから、人が立ち入ったり追葬出来る状態であったのか?も不明であり、
だから、遺体や棺に直接土や石を被せて、息が出来なくなるのを防ごう、とした可能性が高い。
だから、出入りが出来ない小部屋で十分だ。

そして、戸があって「人が立ち入ることができて追葬ができる構造物」であれば、
それは、「室」と呼ぶべきものであり、
例えば49日や一年忌法要も、中で行えるような場所だ。

298日本@名無史さん2019/06/08(土) 21:40:33.92
横穴式石室墓は九州から大和に伝播した、、、という真実は、
ピンク色の石と、どのような関係性があるのだろうか、、、

299日本@名無史さん2019/06/08(土) 21:40:49.16
>>296
おまえは早く死ぬといいな

300日本@名無史さん2019/06/08(土) 21:45:25.55
>>544
>>祇園山の墳裾の殉葬墓に幾つもの「竪穴式石室」が見られ、<

>またザラゴキが嘘を吐いているw
祇園山古墳周辺の古い弥生墓地にあるのは甕棺墓と土坑墓だ
竪穴式石室を伴うものはない <

wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/himikotyou/himiko3horon.htm
に拠れば、
「合計六二基(甕棺3、石蓋土壙32、箱式石棺7、竪穴式石室13、構造不明7)にも及ぶ小型埋葬施設が検出されて・・・」
だ。

301日本@名無史さん2019/06/08(土) 21:50:52.62
ウソサイトでしょ

302日本@名無史さん2019/06/08(土) 22:02:43.89
>>545
>>渡来の呉系楽浪鏡師ら職人たちが、列島での現場で関与して書いたもの
というのが常識なんだけどね <

>ザラゴキがまた嘘を吐いているw そんな常識はない!<

「王〜」氏のような中国の鏡の専門家や、
大和説者以外の世界の古代史学者や、「海東」鏡などの史料事実 などからの常識だ。

>さらに言えば呉系の鏡作り職人が倭國に来たという証拠も根拠もない <

日本のみで突然△ばかりを300個以上造る、なんて事は、
呉系の楽浪鏡師らの渡来なくては起こり得ない。

>まず最初から「呉系楽浪鏡師」というのがいない
楽浪郡は魏が押さえているのにどうしてそこに呉から鏡師が来られるんだ?ww
思いつきだけで批判してもデタラメにしかならない<

楽浪鏡師らは、魏の明帝の公孫氏討伐を知り、楽浪帯方への渡海進出を知って、
戦乱を避けるのに呉に戻る事も出来ず、
陳氏らの何組もの鏡師らが、列島へ避難渡来して来た。

303腹本 勲2019/06/08(土) 22:05:59.31
「満州先生の新刊が出たらしいぜ」
「それを先に言えよ! 早く買わなきゃ売り切れちまうじゃないか!」

≪「馬韓も百済も満州にあった」が限定100部で発売≫

304日本@名無史さん2019/06/08(土) 22:07:28.17
>>214 >>298
そう言えば、後期古墳「横穴式+阿蘇のピンク石」は継体朝(今城塚古墳)の特徴だね。

305日本@名無史さん2019/06/08(土) 22:07:47.83
ごみやんか

306日本@名無史さん2019/06/08(土) 22:09:08.83
>>303
みじめだな

307日本@名無史さん2019/06/08(土) 22:09:12.13
>>222 >>298
横穴式+阿蘇ピンク石は継体朝(後期古墳)の特徴だぬ…

308日本@名無史さん2019/06/08(土) 22:14:59.00
>>307
横穴式石室は百済支配(王子を人質)の影響かな?>>291
戦国時代の石垣で有名な近江坂本穴太衆は、朝鮮式山城を造るために招聘された唐新羅軍の戦い方を熟知した百済人石工たちで、
天智天皇の大津宮近くに領地を与えられたとか?

309日本@名無史さん2019/06/08(土) 22:15:54.89
>>308
なんで阿蘇が百済と関係するんだよ
無能

310日本@名無史さん2019/06/08(土) 22:15:58.27
ザラコク、キウス、連続句読点と発狂してるな

311日本@名無史さん2019/06/08(土) 22:16:24.55
関係ないと言っているんだよ、どこの池沼なんだ?

312日本@名無史さん2019/06/08(土) 22:17:07.58
なんでも半島と結びつけるのはやめてくれないか?

313日本@名無史さん2019/06/08(土) 22:19:33.39
以前書いたはず

家(『松傾』?)は工人とか、そういう家ではないし

314日本@名無史さん2019/06/08(土) 22:21:14.11
他のスレの人のほうが詳しい

やはうえ(日本では?)〜が何やらと言っている人がいたり

315日本@名無史さん2019/06/08(土) 22:27:36.23
日本の話でしょ?
当時、天皇なんていないんだけど、天王も

316日本@名無史さん2019/06/08(土) 22:31:33.76
6世紀になって畿内に本格普及し始める横穴式石室は、天智天皇の命令で、瀬戸内海沿岸の朝鮮式山城の石垣を積んだ百済人の石工が、外と内を裏返して石を積んだもので、
それまで倭国に大陸半島のような大規模な石垣の城や石室は存在しなかった(死者の魂復活を恐れて追葬不可能な有棺無槨)。
近江坂本穴太衆も百済石工の末裔を名乗っている。
https://shirobito.jp/article/634
7世紀に法隆寺の本堂(卍欄干)五重塔を建てたのも百済人大工。厩戸皇子の命令で四天王寺を建てた世界最古の工務店「金剛組」も百済人大工の末裔とホームページで名乗っているw
https://www.kongogumi.co.jp/enkaku.html
古代倭国を近代化したのが、本場百済の職人さんw

317日本@名無史さん2019/06/08(土) 22:34:07.15
>>316
年代観が無茶苦茶
もっと日本の歴史を勉強してから来い

318日本@名無史さん2019/06/08(土) 22:36:41.99
人の家から、
何かを盗んだのがいるんだろう

こういうのも有名な話みたいだし

319日本@名無史さん2019/06/08(土) 22:40:13.89
本当に・・・・・・・・・・お前はどこの出身なの?
家は、いまの福島県のほうだと言っているんだけどw

むかーし住んでいたところの話

320日本@名無史さん2019/06/08(土) 22:41:54.48
>>548
>>同范鏡は、当然、九州渡来の呉系楽浪鏡師らが関与して造られて、配布されたもの。<

>だったら、関西中心に大量にあって九州がわずかな1枚2枚を後生大事にしているのが
説明できないだろ?
どうして九州でいっぱい作らないんだ?ww<

呉系楽浪鏡師らは、明帝の楽浪帯方の渡海奪回戦から逃避避難して来たが、
その直後に明帝→卑弥呼の銅鏡百枚の下賜があった事が判り、
更に卑弥呼からの国内への下賜が始まったから、
楽浪鏡師らは、九州での新規の鏡作りがうまく行かなくなって、
卑弥呼の配布のお手伝いや、修理や塗装や、
地方の豪族への同范鏡作りや、依頼注文製作や、
鏡作り神社での教育などに向かったから。

321日本@名無史さん2019/06/08(土) 22:43:33.00
チョン州とか、
そっちのほうの人間だろう?

322日本@名無史さん2019/06/08(土) 22:49:00.91
>>316
ホントだw
>天智天皇の都・大津京(滋賀県大津市)の建設と運営には、多くの渡来系氏族が尽力したといわれていますが、古代から交通の要衝として栄えた大津から比叡山麓・比良山麓の琵琶湖西岸一帯には、
>少なくとも古墳時代頃には、石積み技術や知識を持った渡来系氏族が集住していたようです。
>「穴太古墳群」という群集墳の、大陸由来とみられる横穴式石室の石積みは、穴太衆の野面積に石の配置がそっくりだそうです。
>石工の仕事のルーツは、石室の石を積んだり、墳丘に石を葺くといったものだったとみられています。
>その技術が日本の風土に合わせて高められた要因は、比叡山延暦寺の開創です。
>比叡山の琵琶湖側の麓には、最澄が天台宗の守護神とした日吉大社があり、その門前町である穴太の里(現在の滋賀県大津市坂本一帯?)に居住する石工は、
>登山道の土留め、井戸・水田の石積、堂塔伽藍建立地の造成、基礎石垣構築、五輪塔の切出・加工などに従事して、技術を高めていったと推測されています。

金剛組ホームページから
578年、聖徳太子の命を受けて、海のかなた百済の国から三人の工匠が日本に招かれました。このうちのひとりが、金剛組初代の金剛重光です。
工匠たちは、日本最初の官寺である四天王寺の建立に携わりました。重光は、四天王寺が一応の完成をみた後もこの地に留まり、寺を護りつづけます。

アッチャー!
日本の近世城郭の穴太積み石垣も社寺→城郭建築(美しい屋根の反りとか)も、すべて百済から導入されたんだね。
蘇我氏は百済王族とのハーフらしいし>>236 上皇明仁陛下も「ゆかり発言」しちゃってるしねw
それにしても神前で演奏される雅楽まで百済人楽士が伝えたとは知らなんだ!上皇后美智子陛下がピアニストだからかなw

宮内庁ホームページ 天皇陛下、桓武天皇の母が百済王族の高野新笠と自ら在日であることをお認めになるw
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/kaiken-h13e.html

323日本@名無史さん2019/06/08(土) 22:49:02.49
143 163 168 180 184 243 246 247 248 252 254 259 263 265 268 274 285 286 290

324日本@名無史さん2019/06/08(土) 22:51:10.52
また自演中毒者か

325日本@名無史さん2019/06/08(土) 22:51:56.60
>>567
>驚いたな。。。
一大率は、文書を読み書きできる可能性が高いことに、僕達は気づいてしまった。。。<

成程。
漢文の読み書きが出来なくっちゃ、
「皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯」が出来ないもんね。

326日本@名無史さん2019/06/08(土) 22:53:49.62
157

327日本@名無史さん2019/06/08(土) 23:05:19.29
>>595
>纏向石塚古墳は庄内0式でてるから3世紀初頭<

石塚は、庄内1であるが、
撥型前方後円墳であるから、卑弥呼の冢よりも後であり、
那珂八幡よりもくびれ部が緩やかであるから、那珂八幡よりも後であり、
3世紀末。

328日本@名無史さん2019/06/08(土) 23:06:35.23
老婆が言うには

当時、家にあった本や書なんかも、
誰かにあげたのかな〜・・・と言っているし

よくわからない本や書だと言っていた

329日本@名無史さん2019/06/08(土) 23:23:05.60
九州説にかかると、魏使様はやたらに疾走させられるんだよね。

呼子に上陸して、東南に向けて山中をレンジャー部隊のように疾走するとか、
若狭湾から、鮮度命の鯖商人のように疾走するとか。

倭人「よっく聞けい!」
倭人「貴様らはこれから、ここから目的地まで、ちょいとばかり走ってもらう」
倭人「遅れた者は、メシ抜き、接待抜きじゃ!」
魏使様たち「なッ‥何だか嫌な予感がするのう‥」

どこの男塾かっての。

330日本@名無史さん2019/06/09(日) 00:02:54.57
末盧から伊都まで数キロ輿に乗って移動していただくだけです。
そこが郡使が常に滞在するところになります。

331日本@名無史さん2019/06/09(日) 01:30:15.11
「それにしても倭人共は、何でこんなにワシらを全力で走らせたがるんじゃッ!」
「おうッ!まさに『草木茂盛し、行くに前人を見ず』じゃわい!」
「さすが○○は学があるのう!」
「お前ら、梯儁様を見ろッ…。汗一つかかずに走り続けておられるわいッ!」
「(梯儁)……」

332日本@名無史さん2019/06/09(日) 02:02:56.16
『陸行一月』の4文字により、九州説は全てアウト!

 全て×!

 全て却下!

333日本@名無史さん2019/06/09(日) 02:07:08.81
『陸行一月』を『陸行一日』にするのは悪質な改ざん!
嘘つき騙しにより×!

334日本@名無史さん2019/06/09(日) 03:03:31.19
>>267
大乱→狗奴国との小競り合い→卑弥呼死後の乱→狗奴国との戦争

この戦乱の大混乱期に成人男子をでかいだけの古墳の築造なんかに当ててる時点で当時の情勢と合わない
副葬品の豪華さこそが富や国力の指標と言えよう
仁徳天皇や応神天皇の世の日本が当時世界で一番国力があったわけではない

335日本@名無史さん2019/06/09(日) 03:12:25.19
>>226
みみとかとよとかは九州が一番多いだろ
とよなんか国名にもなってるし

336日本@名無史さん2019/06/09(日) 05:07:47.53
>>294
>平原女王墓出土、同時期の倭国最大の内向花紋鏡と同大同型

まだそんな与太話を信じてるのかよ?w
八咫鏡はそこまで大きくないぞ!

337日本@名無史さん2019/06/09(日) 05:11:09.12
>>316
このデタラメな半島推しもコークリ君かな?ww

338日本@名無史さん2019/06/09(日) 05:12:35.63
>>320
それは説明とは言わない
ただのデタラメだww

339日本@名無史さん2019/06/09(日) 05:20:44.68
>>322
>桓武天皇の母が百済王族の高野新笠

その時点で在日九世だろ?
稲荷山鉄剣の意富比垝オオビコから乎獲居オワケまでの八代よりまだ遠いぞw

正しくは「桓武天皇の母が『祖先の一人に百済王族がいるという系譜伝承のある』高野新笠」だ

340日本@名無史さん2019/06/09(日) 05:27:46.65
>>330
>末盧から伊都まで数キロ輿に乗って移動していただくだけです。

500里が数キロ?wwww
短里がまた短くなったなww

普通の短里が80メートルくらい
昨日暴れてた以一為十バカだと43.5メートル
数キロをオマケして8キロとしても一里16メートルだww

どんだけ国が小さいんだよw
しかもそこに何千戸もあるw


>そこが郡使が常に滞在するところになります。

それも誤読
郡使往來常所駐 郡使の往来常に駐まる所なり
行き帰りに必ず寄るところだ

341日本@名無史さん2019/06/09(日) 06:42:38.65
>>335
>みみとかとよとかは九州が一番多いだろ

どの辺に?
具体的に挙げてみて

耳がつくのは
天照大神の子(正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊)、
先に挙げた出雲のスサノオの妃の親(稲田宮主簀狹之八箇耳)
神武天皇の三皇子(手硏耳命、神八井耳命、神渟名川耳尊)、
神武天皇の妃の祖(三嶋溝橛耳~)
太田田根子の祖(陶津耳命)
辺りが大所だな

九州だと景行天皇に討たれた耳垂くらいか

342日本@名無史さん2019/06/09(日) 06:45:06.33
>>327の訂正
>纏向石塚古墳は庄内0式でてるから3世紀初頭<

石塚は、庄内1であるが、
撥型前方後円墳であるから、卑弥呼の冢よりも後であり、
那珂八幡よりもくびれ部がシャープであるから、那珂八幡よりも後であり、
3世紀末。

(那珂八幡の方が、くびれ部が穏やか)

343日本@名無史さん2019/06/09(日) 06:48:41.20
>>334
>この戦乱の大混乱期に成人男子をでかいだけの古墳の築造なんかに当ててる時点で当時の情勢と合わない
>副葬品の豪華さこそが富や国力の指標と言えよう

>>334のご高説では戦乱のご時世に豪華な副葬品を用意するのか?ww
一気に民心が離れそうだが?

魏志倭人伝には以婢千人自侍とある
婢を千人動員できるなら男子も同様に動員できるだろ?

>仁徳天皇や応神天皇の世の日本が当時世界で一番国力があったわけではない

文化の違うところと比較してどうする?ww
だから九州説は畿内とは無関係って言わなきゃならないのにww

前方後円墳を作る文化圏では最大の墳丘を作っている畿内が一番国力があったんだよ

344日本@名無史さん2019/06/09(日) 06:56:40.63
>>89の図解(模式図)だyo!
帯方郡  
〜↓南水行十日(正)+「水行十日」=「南水行二十日」〜〜〜
対馬&壱岐〜〜〜┌→→→→→→┐〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓関門海峡〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜       
〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜┃▲_↘陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島〜〜〜〜〜〜〜〜
〜┃▲▲奴国(女王之所都)▲▲┃↓「女王国東渡海」豊後水道〜〜〜
〜┃▲狗奴国▲▲▲▲▲投馬国┃┘宮崎平野〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜┃▲↓「陸行半月」(正)▲┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽〜┗━━九州島(正)━━┛〜↑実際の九州島 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 
東治〜〜〜東シナ海(正)〜〜〜〜↓幻の九州島南部(魏志倭人伝の創作)〜〜〜〜〜
〜〜〜│△△△△△△△△│〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜│↓「陸行半月」(幻)│〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜│△△△△△△△△│〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
東冶〜│女王之所都(幻)△│←「当在会稽東冶之東」(印象操作)〜〜〜
〜〜〜│狗奴国(幻)_△△/ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜\九州島(幻)_/〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

345日本@名無史さん2019/06/09(日) 06:59:31.77
>>344
九州説は語るべきことがないからすぐコピペに走るww

346日本@名無史さん2019/06/09(日) 07:14:28.52
ピンク石は天武天皇が記紀テーマパークを作るためにわざわざ現地から取り寄せた

347日本@名無史さん2019/06/09(日) 07:16:06.47
箸墓の周濠は江戸時代の改修だしね。

348日本@名無史さん2019/06/09(日) 07:17:05.30
箸墓の前方部は江戸時代の後付けであることだし、、、

349日本@名無史さん2019/06/09(日) 07:26:53.08
>>622
>そのうちの18.3cm鏡は、おそらく洛陽市出土ではなく、鄭州市出土だよ。
『洛陽〜』の図版を見て、地名を確認しなかったんだと思うよ。 18cmで小型か?
洛陽市出土の尚方鏡は10cm代からあるぞ。20cm超だと4枚はある。<

何度も書いたように、
www.ne.jp/asahi/isshun/original/mater10.html
の表の「鏡径」の寸法の記録から、直ぐに読み取れる事は、
列島からしかでない△は、ほぼ全て22〜23cm位(やや大型?)であり、
それとは対照的に、△以外の鏡は、ほぼ全て18cm位(やや小型?)である、という事であり、
それと中国の鏡を比べると、
中国の洛陽や「尚方作」の鏡は、小型の鏡が圧倒的に多く、
呉付近の鏡は、混在しているが、やや大型の方が多く、
楽浪鏡も、混在している、という事であり、
だから、列島の鏡は、
小型の鏡は、明帝→卑弥呼の下賜鏡であった可能性が高く、
大型の△は全て、渡来の呉系楽浪鏡師らの関与した鏡なんだな、という事になる。

350日本@名無史さん2019/06/09(日) 07:46:21.97
お墓に朱が用いられるのは、遺体の防腐処置らしいね、、、
遠くから遺族が来ることを考えたのだな、、、

351日本@名無史さん2019/06/09(日) 07:47:18.63
横穴になったのは遺体と対面しやすくするためらしい、、、

352日本@名無史さん2019/06/09(日) 07:49:13.89
筑紫日向の意図は、初めの東遷は筑紫からであったが、2回目の東遷は西都原からだったからのようだね、、、

353日本@名無史さん2019/06/09(日) 07:51:37.29
ウマシマジが鏡を持ち込んだが、、、
受け入れられず宇佐の豊玉姫を担ぎ出したらしい、、、月神信仰という、、、

354日本@名無史さん2019/06/09(日) 07:52:16.01
息長氏も月神信仰らしいが何か関係があるのだろうか、、、

355日本@名無史さん2019/06/09(日) 07:53:15.15
初代武内宿禰はオオタラシヒコの双子の長子らしい、、、

356日本@名無史さん2019/06/09(日) 07:55:17.25
双子は当時の風習もあって、祖父の彦フツ忍信命の養子になったという、、、

357日本@名無史さん2019/06/09(日) 07:56:28.06
ヤマトタケルの子が仲哀天皇らしいね、、、

358日本@名無史さん2019/06/09(日) 07:58:30.42
高倉下の子孫が武内宿禰というのは、2代目武内宿禰ということではないかな、、、

359日本@名無史さん2019/06/09(日) 07:59:08.68
武内宿禰の家系から仁徳大王が出たという、、、

360日本@名無史さん2019/06/09(日) 08:00:21.21
どうも仁徳紀と応神紀には重複記事が多いから、応神天皇は簒奪者だったのではないかな、、、

361日本@名無史さん2019/06/09(日) 08:07:12.01
半島政略に現れる荒田別や巫別はどうして栃木にいるのだろうか、、、

362日本@名無史さん2019/06/09(日) 08:07:58.17
半島と縁が深いということだろうか、、、

363日本@名無史さん2019/06/09(日) 08:13:20.41
高取のオンドルはモデルハウスみたいなものだったと思うよ
そして現地説明会で日本は土壁を改良して採用した
オンドルは不採用

364日本@名無史さん2019/06/09(日) 09:13:12.03
>>343
副葬品はわざわざ取り寄せるというより生前使ってたものを入れるのだろう
君がその戦乱の時代に大和の古墳を何個作った想定か知らんが、延べ人数何十万人、日数も合計何年何十年かかっただろう
そんな人員と時間を割いて戦に負けたらアホだろう

婢千人も誇張だよ
卑弥呼の住んでいた集落にしても婢千人の他に政行う官や下級役人、宮殿を守る兵士や民草もいただろう
そんな大集落や建造物が当時どこにあったというのかね
戸数や里数と同様に誇張だろう

365日本@名無史さん2019/06/09(日) 09:21:14.25
>>341
天照大神や素戔嗚尊が産まれたのは筑紫日向だぞ
お前が上げたものはだいたい九州の話
神武天皇の皇子も筑紫日向から来た神武が筑紫風の名前をつけたにすぎない

366日本@名無史さん2019/06/09(日) 09:42:09.44
ヤマトタケルが過労死したのは、兄の武内宿禰のせいらしい、、、なんという嫌な奴、、、

367日本@名無史さん2019/06/09(日) 09:43:52.95
近江のイノシシが息長氏を象徴するというのは、
息長氏が豚を飼う風習を持ち込んだからなのか、、、

368日本@名無史さん2019/06/09(日) 09:49:31.47
驚いたな、、、息長氏は三家一体なのか、、、
近江と伊都と宇佐で構成されていたとは、、、
伊都は特に朱鉱床の採掘をしていて丹生都姫を祀る丹生氏になったという、、、
伊勢に移り住んだのだな、、、

369日本@名無史さん2019/06/09(日) 09:51:02.14
丹生津姫は天照大神の妹神とみられる向きもあるね、、、

370日本@名無史さん2019/06/09(日) 09:52:24.82
仲哀天皇はヤマトタケルの遺言があったから大王になれたらしい、、、

371日本@名無史さん2019/06/09(日) 10:01:32.36
やはり神獣鏡は道教の意匠のようだね、、、

372日本@名無史さん2019/06/09(日) 10:04:07.25
しかし魏の時代には銅鉱山が呉に取られていたのに銅鏡を卑弥呼に下賜できるものだろうか、、、
鉄鏡が下賜品なのではないかな、、、

373日本@名無史さん2019/06/09(日) 10:08:23.76
息長氏は多氏というのは、厳密ではないのではないかな、、、
たしかに、息長と名乗るまえは意宇氏だったから音通するのだが、、、

374日本@名無史さん2019/06/09(日) 10:12:54.99
ヌナカワミミの登極で神八井耳一族は伊予に逃げたという、、、その流れから東国へ流れたという、、、
一方で阿蘇に戻ってきたのではないかな、、、

375日本@名無史さん2019/06/09(日) 10:17:42.17
息長氏が弥生時代末期に導入した蚕は華北由来の三眠蚕だという、、、
北九州で出る絹は四眠蚕の絹だから、起源が違うということだな、、、

376日本@名無史さん2019/06/09(日) 10:19:32.77
太陽神とは世界共通で男性神なのだが、、、
本邦だけアマテラスオオミカミとして女性なのは何故なのだろうか、、、

377日本@名無史さん2019/06/09(日) 10:20:56.88
どうも太陽神を奉斎する巫女集団が、重要らしい、、、

378日本@名無史さん2019/06/09(日) 10:24:31.19
北方の扶余などツングース族が持つ
鉄やシャーマンと言った要素を息長氏が持つのは、そのものだからか、、、

379日本@名無史さん2019/06/09(日) 10:26:15.50
鉄をサヒというのは、鮮卑と関係があるから、、、?

380日本@名無史さん2019/06/09(日) 10:27:54.10
イズモでは金属はカネだったから、出雲族と息長氏は別の原語を話す部族というわけだ、、、

381日本@名無史さん2019/06/09(日) 10:29:02.80
>>341
>神武天皇の妃の祖(三嶋溝橛耳~)
>太田田根子の祖(陶津耳命)

これは同一人物だろ。
大山積の息子であり、筑紫の生まれ。
愛媛、大阪、京都など、九州から瀬戸内ルートを開拓した人物だ。
大三島神社、摂津三島神社、上賀茂下鴨神社などに祭られている。

382日本@名無史さん2019/06/09(日) 10:29:17.49
出雲も山を遥拝するのは太陽崇拝で、インドの太陽神スーリヤ崇拝が元にあると言う、、、

383日本@名無史さん2019/06/09(日) 10:31:33.15
スーリヤヴァルマン三世という人物は、インドネシアの人だったかな、、、

384日本@名無史さん2019/06/09(日) 10:32:29.78
アッシュール神も有翼日輪の太陽神ではある、、、

385日本@名無史さん2019/06/09(日) 10:33:20.28
どうしてサルゴン二世は川に流されてしまったのだろうか、、、

386日本@名無史さん2019/06/09(日) 10:34:11.16
しかも、赤子を川に流す神事がどうして日本の神社に存在するのだろうか、、、

387日本@名無史さん2019/06/09(日) 10:36:51.05
>>349
>何度も書いたように、

何度書こうが、その少数データで判断する事が間違い。
事実誤認なので却下。

>だから、列島の鏡は、

結論が飛躍しているので却下。

388日本@名無史さん2019/06/09(日) 10:37:05.09
本邦では宇佐八幡宮で託宣が存在したように、
託宣する神はデルフォイの巫女と本邦だけなのはどういうことだろうか、、、

389日本@名無史さん2019/06/09(日) 10:38:59.62
そういえば、シャカの父
浄飯王はペルシャ王宮のマギだったそうだね、、、

390日本@名無史さん2019/06/09(日) 10:40:49.03
マギというのはアッカド時代には占星術師をやっていたミトラ教の神官のことではなかったかな、、、

391日本@名無史さん2019/06/09(日) 10:41:26.64
>>221の続き

すると、もう一つの謎である継体の正体(狗奴国王卑弥弓呼=「越」王家子孫/八代淡海→近江)も判明。古代史は以下のように一挙に解明できるのである!

漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(卑弥弓呼、帯方郡張政に降伏、卑弥呼に服従)、宮崎の神武(投馬国)を派遣し、水銀朱(丹)豊富な大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)狗奴国系(台与死後「男弟」子孫に入婿、阿蘇遷都)
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国系(仲哀を神功皇后が暗殺、筑紫遷都)
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国系(武烈死後、倭王磐井を暗殺、筑紫君と史実歪曲→阿蘇遷都・倭王阿毎多利思比孤へ)
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)(唐新羅連合軍の脅威現実味→欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)大和東遷、飛鳥疎開宮造営)
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→崇神朝・応神朝・継体朝の倭王権(九州王朝)内の抗争がすべて大和で起こっていたように史実歪曲。畿内を記紀の歴史テーマパーク化していった(九州の地名を畿内へ移植。八代淡海→近江琵琶湖、阿蘇山外輪山→三輪山など)
桓武朝=9世紀(平安時代)

まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(狗奴国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…→神武派遣、饒速日征服、奥津城造営(水銀朱・丹独占が真の目的)→欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京)

392日本@名無史さん2019/06/09(日) 10:42:46.18
つまりシルクロードに隠された北方のステップを支配した遼河文明のツングース族が、世界史の要ということなのだね、、、

393日本@名無史さん2019/06/09(日) 10:43:25.49
畿内説は滅びました

394日本@名無史さん2019/06/09(日) 10:45:15.98
住宅地に墓は作らないのは古今共通するという、、、
つまり息長氏は奈良盆地は王家の谷だったという認識なのだね、、、
当然だね、、、

395日本@名無史さん2019/06/09(日) 11:07:48.67
>>344
陳寿が口から舌を出してるように見えるなw (((^┰^)))

396日本@名無史さん2019/06/09(日) 11:26:35.99
>>394
家で言えば、食堂とトイレを間仕切りなして一つの部屋の中に作らないように、晴れ(王都)と穢れ(王墓)を一緒にしないのは基本。
穢れは結界(廊下+間仕切り壁)を作って晴れの場ときちんと分け、封印するのが古今東西共通。墓地の隣の住宅が嫌われるのと一緒。
ヤマトの奥津城は、廊下(瀬戸内海)+間仕切り壁(生駒&和泉山地)で結界封印。北部九州首都圏(食堂)に霊気(トイレの臭い)が漂わないようにした。
日本列島では天気(雨雲)は西から崩れるように、西から東へ風が流れているのも大和盆地が奥津城に選ばれたのも自然の摂理に適っている。

397日本@名無史さん2019/06/09(日) 12:04:27.61
「陸行一月」を無視する九州説は、詐欺師の嘘つき騙し。
よって九州説は全て×。

398日本@名無史さん2019/06/09(日) 12:25:42.13
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399日本@名無史さん2019/06/09(日) 12:29:50.85
文字を使っていた国でなければ朝貢するはずがないわけで、
奈良に邪馬台国があったというならまずは硯を見つけてこないとな

400日本@名無史さん2019/06/09(日) 12:33:02.42
>>344 >>208 >>391 
邪馬台国の奥津城・纏向遺跡は、大物主・饒速日父子が造った箸墓(卑弥呼の冢)の造営キャンプ&セレモニーホール…すべて解けた!
瀬戸内海(膣)の突き当り河内平野の更に奥の大和盆地は、生駒&和泉山地が途切れる二上山のあたりで山門(結界=子宮)になっている天然の奥津城。

401日本@名無史さん2019/06/09(日) 12:36:17.88
北海道が頭部、本州島を女体に見立てると、両脚が中国(右)四国(左)地方、膣が河内平野、子宮が大和盆地となる。

402日本@名無史さん2019/06/09(日) 13:13:08.26
いらぬテンプレを貼りスレを専断する畿内説だが
誰か例のテンプレなしのスレを立てれないものか

403日本@名無史さん2019/06/09(日) 13:13:58.47
>>399
硯が見つかった→漢字を使っていた は妥当な推論
硯が未発見ニダ→漢字を使ってない は脳崩壊人間

404日本@名無史さん2019/06/09(日) 13:17:22.01
肝心の文字が見つからないのだから土器の絵付けでしょ

405日本@名無史さん2019/06/09(日) 13:17:52.72
>>398
おせえよ   

406日本@名無史さん2019/06/09(日) 13:21:12.90
>>403
根拠なし

407日本@名無史さん2019/06/09(日) 13:29:52.20
遼河文明で龍が発生したあと、中国皇帝のシンボルに採用されるまで、一体何があったのだろうか、、、

408日本@名無史さん2019/06/09(日) 13:30:52.78
最初の王朝とされる夏は買うという意味の言葉と音が同じそうだね、、、

409日本@名無史さん2019/06/09(日) 13:33:46.98
夏は交易民族であるという説だが、、、
夏を起こしたのは東夷の百越の一派だという、、、
夏の遺跡は洛陽中心にあるのだが、現住地は長江下流域の淮河との間と見られるという、、、

410日本@名無史さん2019/06/09(日) 13:36:26.39
言語学的にはオーストロネシア語族からウラルアルタイ語への変容が見られる
分子人類学的にはハプログループNOと見られる部族が南から遼河へ向かった流れが想定されているが、、、

411日本@名無史さん2019/06/09(日) 13:41:19.13
夏王朝が倒れた後、後裔は夏后氏となり
匈奴も夏后氏のうちという、、、

匈奴はのちのフン族とみられ
フン、hun hurry メソポタミアにいうフルリ人
あるいはヘテ人ヒッタイト人につながっていると推測する人もいる、、、

412日本@名無史さん2019/06/09(日) 13:43:10.25
また hurry はインドにあって高貴な人と呼ばれたアーリア人なのではないかと指摘する人もあれば、、、
アーリア人はアヤ人すなわち漢人そのものという人もいるという、、、

413日本@名無史さん2019/06/09(日) 14:08:10.22
>>406
という根拠なし

414日本@名無史さん2019/06/09(日) 14:13:52.22
>>396

平原や祇園山はトイレか

415日本@名無史さん2019/06/09(日) 14:59:55.18
いや、クソ

416日本@名無史さん2019/06/09(日) 15:21:04.94
孫達を見送ってきたので、また、論破すれば良いのではないのかな。。。

417日本@名無史さん2019/06/09(日) 15:26:30.95
死んだのか
お気の毒に

418日本@名無史さん2019/06/09(日) 15:26:46.96
連続読点の使用者が、高度な意見を、たくさん、発表しているが、
ツングースとは、何者なのかを、僕達も研究しているのだったな、、

392日本@名無史さん2019/06/09(日) 10:42:46.18
つまりシルクロードに隠された北方のステップを支配した遼河文明のツングース族が、世界史の要ということなのだね、、、

419日本@名無史さん2019/06/09(日) 15:30:43.53
>>418
ツングースは、倭人によって、馬と一緒に捕獲され、箸墓古墳を作製するための労働力になったというのが、僕達の予想だったな。。。

420日本@名無史さん2019/06/09(日) 15:33:27.53
シルクロードというのは、シンセサイザーという楽器を有名にした曲だったな、、、

421日本@名無史さん2019/06/09(日) 15:34:25.10
ではお孫さん達を追悼するか

422日本@名無史さん2019/06/09(日) 15:35:19.36
はやく本人もしたいね

423日本@名無史さん2019/06/09(日) 15:37:24.10
馬は、どこで、発生した生物なのだろうか、、、

424日本@名無史さん2019/06/09(日) 15:46:48.90
蛇女の領土に迷い込んだ馬を、返して欲しいヘラクレスは、蛇女と交わったので、
3兄弟が、誕生したのだったな、、、

425日本@名無史さん2019/06/09(日) 15:52:51.45
スーリヤ

アッシュール
には太陽を意味するsolの語幹がみられるな、、、
突厥王族のアシュクザイ
アシナ氏につながるかもしれない、、、

突厥文字は実際は北欧に分布したバイキングのルーン文字とみなす向きもある、、、
つまり遼河文明人の影響は
ユーラシアを古くからそして中世に至るまで痕跡が残るというわけだ、、、

426日本@名無史さん2019/06/09(日) 15:54:12.33
岡上は無学

427日本@名無史さん2019/06/09(日) 15:58:19.14
>>419
倭人に朝鮮半島で捕獲されたツングースは、最初は奴隷だったが、奈良で馬を増やして訓練できたので、前方後円墳を作製した者達に、職員として雇用されたのではないのかな、、、

428日本@名無史さん2019/06/09(日) 16:02:18.09
>>424
ツングースは、スキュタイと同じ者達では、ないのかな。。。

429日本@名無史さん2019/06/09(日) 16:13:35.93
>>355
>初代武内宿禰はオオタラシヒコの双子の長子らしい、、、

それを言うならワカタラシヒコ、成務天皇じゃないのか?
成務天皇と武内宿禰が同年同月同日生まれってところから出た妄想だろ?

430日本@名無史さん2019/06/09(日) 16:20:57.81
武内宿禰という、謎の者は、仲哀天皇急死事件の関係者だったな、、
そして、スキャンダラスなことが、あったというのが、僕達の予想だったな、、、

431日本@名無史さん2019/06/09(日) 16:22:17.72
>>364
>副葬品はわざわざ取り寄せるというより生前使ってたものを入れるのだろう

戦時中にそんな贅沢な暮らしをしていたら、それこそ民心が離れるぞ?ww
46センチ鏡5枚をいつ作ったという想定なんだ?wwww

>君がその戦乱の時代に大和の古墳を何個作った想定か知らんが、延べ人数何十万人、
>日数も合計何年何十年かかっただろう
>そんな人員と時間を割いて戦に負けたらアホだろう

戦乱の時代が何年続いたつもりなんだ?
農閑期の間に始まって終わる程度のものだぞ?

古墳作りは箸墓クラスだと1基で10年かかるという試算がある
戦争があったとして、古墳作りにはそんなに影響しない
完成が一年延びるだけだ

この辺も理解が足りないなww

>戸数や里数と同様に誇張だろう

要するに「魏志倭人伝は全部誇張だから無視」で、結論ありきの自分の妄想が正しいってか? ww
スゴイ推論方法だなww

432日本@名無史さん2019/06/09(日) 16:23:00.81
>>399
算術を知らずに箸墓のような巨大古墳が造れるはずもなく、
算術を知っているのであれば、当然のことながら文字も使っている。

433日本@名無史さん2019/06/09(日) 16:46:37.41
エリコの塔という、謎の塔があったのではないのかな、、、

434日本@名無史さん2019/06/09(日) 16:46:43.12
>>432
文字を使っていた証拠がないからどうしようもない

435日本@名無史さん2019/06/09(日) 16:46:49.67
>>431
卑弥呼の暮らしを誰が見てるんだ?
銅境なんて威信財でもあるが日常品だろう?
大型内向花紋鏡を具体的にいつ作ったのかは不明だが
筑紫の戦は鉄鏃、鉄剣の時代だ
平原遺跡や九州の箱式石棺墓によく入ってる銅境や銅矛なんかいくら作ろうが戦に影響はないだろう

戦争が古墳造りに影響を与えるのではない
古墳造りが戦争や内乱に影響を与えるのだ
箸墓クラスで10年として、他の大和にある古墳は作らないのか?
220〜260年ぐらいの間で古墳何基造った想定だ?

魏志倭人伝が誇張されてることはお前も認めているだろう
少なくとも戸数や里数は認めているはずだ
魏志倭人伝の内容と同じ少なくとも千人以上は住める宮殿や、数千人が住める規模の集落など同時代存在しない
存在しない以上、この数字も他同様誇張であろう
しかもこの誇張の10倍するというのは同じ書物に記載があるんだ
何の根拠もなく言ってるわけではない
逆に魏志倭人伝をそのまま信じるならどういう想定だね?

436日本@名無史さん2019/06/09(日) 16:58:16.89
>>435

倭人伝には千人以上は住める宮殿などとは書いてないな

437日本@名無史さん2019/06/09(日) 17:04:54.99
下女が千人なら、千人以上が入れないと。
纒向だと周りに家も少ないから、通勤したとも思えない。

438日本@名無史さん2019/06/09(日) 17:10:11.97
銅鏡は鏡面が平らでないのでちゃんと映らないから日用品では無いと思うな
何かに水張った方がキレイに映る

439日本@名無史さん2019/06/09(日) 17:11:09.59
自ら侍奉する婢が千人
婢が女王と同じ建物に住んでいるのではない

440日本@名無史さん2019/06/09(日) 17:14:15.87
>>623
http://www001.upp.so-net.ne.jp/wi12000/forGmap/html/hirabaru_sq.html
を、お気に入りの保存しようと思ったが、どうしても保存出来ず、
止むを得ないから、その都度、>>623の画面を出してから、
それを出すしかないみたい。

441日本@名無史さん2019/06/09(日) 17:15:08.37
通勤者で問題なし

442日本@名無史さん2019/06/09(日) 17:17:28.15
>>438
あれ、レフ板だから

443日本@名無史さん2019/06/09(日) 17:24:03.53
>.630
>その経路の想定がこれなんだよ・・・陸行部分は大和から丹波、出雲への往還路として妥当なルートを選んでいる
日本海側3大古墳や出雲大神宮や元伊勢籠神社を経由するルートだ
そして、海沿いの移動は水行となる
これが現状、一番妥当な推定ルートだ<

「南→東」などに拠って、×。

444陳寿90度回転さん2019/06/09(日) 17:41:10.61
行程記事の『千余里』と言うのは『けっこう遠く』と言う意味。
『千余戸』と言うのは『大きめの集落が1個』と言う意味。

これと同じで、
『婢千人』と言うのは『使用人が大勢います』と言う意味。

なので纏向遺跡の発掘済み建物跡に、人間が実際に1000人入るか否かなど、
考えるだけ無意味。

445日本@名無史さん2019/06/09(日) 17:50:29.41
纒向で一番古い前方後円墳は、3世紀末だったのだが、
一番古い掘立柱は、何時、建てられたのだろうか、、、

446日本@名無史さん2019/06/09(日) 17:52:48.71
一番古いカエルの骨は、何時、埋められたのだろうか、、

447日本@名無史さん2019/06/09(日) 17:56:20.00
大物主神を、最初に、祭ったという大国主神とは、何者なのだろうか、、、

448日本@名無史さん2019/06/09(日) 18:05:00.08
日本書紀では、大国主神は大物主神であり、ヤマタノオロチを退治した素戔嗚尊の息子なのだったな。。。

449日本@名無史さん2019/06/09(日) 18:08:18.40
>>448
ヤマタノオロチを退治した素戔嗚尊が、僕達の予想通り、日本武尊なのであるなら、大物主神は、仲哀天皇ということになる可能性があるな、、、

450日本@名無史さん2019/06/09(日) 18:11:48.56
仲哀天皇の祟りを恐れて、応神天皇は、三輪に祭った可能性があるな、、

451日本@名無史さん2019/06/09(日) 18:13:29.41
>>450
つまり、崇神天皇は、応神天皇と同一人物だった可能性があるのだね、、、

452日本@名無史さん2019/06/09(日) 18:14:09.62
>>662
>「会稽東治」は「会稽郡」の一部だから イコール会稽郡ではない あたりまえだ
会稽東治が会稽郡に含まれない「江蘇省東岸〜臨海郡海の海岸部」だなどと
なんの根拠もないどころか 詐欺そのものだ<

「臨海郡」のWiki。
臨海郡(りんかい-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。
三国時代から唐代にかけて、現在の浙江省南部に設置された。
257年(太平2年)、三国の呉により会稽郡東部を分割して、臨海郡が立てられた。
臨海郡は揚州に属した。

だから、魏代の大半時期は、会稽郡の東部は会稽郡になるが、
257年(258年説もある)から陳寿の執筆の頃は、
会稽郡の東部は、呉に拠って臨海郡になり、揚州に属した、
という事。
それが「会稽東治」。

453日本@名無史さん2019/06/09(日) 18:14:22.32
一番古いカエルの骨は、何時、埋められたのだろうか、、

454日本@名無史さん2019/06/09(日) 18:16:53.97
>>666
「南→東」などの嘘付き騙しのように
大和説は頑として証拠を出さない
九州説は証拠に基づいて判断する

両者の間には越えられない壁がある

455日本@名無史さん2019/06/09(日) 18:19:31.23
纒向遺蹟には、高エネルギーによって発生した空気のシャワーが、降り注いだ可能性があるな、、、

456日本@名無史さん2019/06/09(日) 18:26:18.12
>>454
こんなウソを平気でつく九州説を
誰が信用するの?

457日本@名無史さん2019/06/09(日) 18:29:19.61
陳寿執筆の頃って280年代だろ

458日本@名無史さん2019/06/09(日) 18:31:42.58
しかも典拠がウイキペディアではね

459日本@名無史さん2019/06/09(日) 18:34:11.37
東治なんて一つも出てないから説明になってないな

460日本@名無史さん2019/06/09(日) 18:38:26.72
>>672
>距離は適当だと何度かけば・・・・<

「里数」を適当に書いたのでは、
韓の「方四千里」や、郡からの部分行程の里記載などの比率が、
実際の地理的距離の比率とほぼ合う、という事になる筈が無く、
バラバラの比率になってしまう筈。
という事は、比率が実際に地理的比率にほぼ合っている、という事が、
実際に計測があった、という事の証拠になる。

461日本@名無史さん2019/06/09(日) 18:44:05.94
バラバラの比率だから×だな

462日本@名無史さん2019/06/09(日) 18:46:11.07
>>407
道教の神仙思想は、銅を金メッキする水銀鉱床を探し出し独占し、王となるということ。
日本の天皇制は、九州西部(末盧国・伊都国・吉野ヶ里)南部(投馬国&狗奴国)を征服した邪馬台国と伊都国混血王崇神が東遷し、
四国阿波と(スサノオ)大物主・饒速日3代の纏向王権が見つけた紀伊半島西部の水銀鉱床を征服独占することで誕生した(ヤマト王権)。
崇神の子垂仁が伊勢神宮を創建し、紀伊半島東部の水銀鉱床も独占。
日本の神社の御神体がすべて水銀メッキによる銅鏡なのも、その名残。別の場所に分祀勧請する時は、必ず同大同型鏡でなくてはならない。

463日本@名無史さん2019/06/09(日) 18:49:35.86
>>462
補足訂正

日本の天皇制は、九州西部(末盧国・伊都国・吉野ヶ里)南部(投馬国&狗奴国)【水銀鉱床群】を征服した邪馬台国と伊都国混血王崇神が東遷し、
四国阿波の【水銀鉱床群】と(以下略)

464日本@名無史さん2019/06/09(日) 19:02:16.15
金メッキの技術が伝わったのはもっと後とされてるし元々金色の青銅器にさらに金メッキをする事がそこまで重要とは思えないけれど

465日本@名無史さん2019/06/09(日) 19:04:46.92
神社のご神体は鏡とは限らないよね

466日本@名無史さん2019/06/09(日) 19:07:37.92
>>676
>辻地区の大型建物の年代については、付属した祭祀土坑の遺物の桃核の14C年代が根拠だが
「100年近い年代幅」のデータの、一番新しい時点を採っても卑弥呼の遣使よりも古い年代になる
卑弥呼の遣使の時点で、纏向に倭国最大の一大拠点があったのは確実 <

年代計測の12個のばらつき範囲が「130年〜230年」であったんなら、
その計測値にはプラズマ化の影響を考慮していなかった事が確実であり、
だから、プラズマ化の影響が仮に「100年新しくなる」という事であったんなら、
バラツキの範囲は「230年〜330年」になってしまい、
何の意味も持たない計測であった事になってしまう。

467日本@名無史さん2019/06/09(日) 19:10:27.29
ご神体に鏡が多いのは明治二十八年の法令の制定だからな

468日本@名無史さん2019/06/09(日) 19:20:53.14
>>678
>>淮南子に準じて邪馬台国まで一万二千里とされており、それは一里が100メートル以下の縮尺となる。<

>このコピペ野郎もしつこくデタラメを貼り続けるからたちが悪い
「淮南子に準じて萬二千里」とした時点で、現実の地理とは無関係な数値であると認めることになるのに
それを無視して、現実の地理との「縮尺」を考えているのがデタラメの根源
縮尺などはここからは想定しようがない<

いや、淮南子は「10尺棒に拠る一寸千里」を記載しているから、
淮南子も、「ほぼ短里を使っていた」事になる。

469日本@名無史さん2019/06/09(日) 19:21:44.40
北部九州出土の水銀朱の硫黄同位体比は
九州の水銀鉱床のものではないな

470日本@名無史さん2019/06/09(日) 19:29:17.07
>>680
>陸行百里、五百里は、近ければ百里、少し遠ければ五百里としているだけ
簡単に説明がつくだろ?<

いや、韓の「方四千里」や「七千余里」や「方四百余里」や「方三百里」や、
渡海千里や、侏儒國の近くまでが「四千余里」などの説明が付かないから、×。

471日本@名無史さん2019/06/09(日) 19:39:32.67
>>681
>「弥生時代の開始年代―AMS −炭素14年代測定による高精度年代体系の構築―」
学術創成研究グループ 藤尾 慎一郎・今村 峯雄・西本 豊弘(2005 総研大・分化科学研究) ・・・
きちんと「炭素12と13の比であるδ13C値」「炭素/窒素比や窒素同位体(δ15N)の測定」を
行って、海洋リザーバ効果の影響が大きいかどうかを判定している。・・・<

これもプラズマ化に関する補正をやっていないから、×。

472日本@名無史さん2019/06/09(日) 19:43:46.88
遼河文明は気候変動によって二度衰退しているという、、、

473日本@名無史さん2019/06/09(日) 19:45:52.76
最初の衰退では、南下の流れで洞庭湖付近で三苗と衝突したという、、、
このとき龍が中原にもたらされたらしい、、、

474日本@名無史さん2019/06/09(日) 19:47:20.56
次の気候変動は2世紀で、ちょうど黄巾の乱が起きた時期に部族のシャーマンが託宣したという、、、
故郷に帰る、、、?

475日本@名無史さん2019/06/09(日) 19:49:24.54
アカルヒメが姫島に来たように瀬戸内を通って播磨摂津へと、、、
それ以外に列島に留まっていた家もあり、、、

476日本@名無史さん2019/06/09(日) 19:50:49.70
キュロス大王のもと栄えたペルシャから列島にやって来たと、、、

477日本@名無史さん2019/06/09(日) 19:51:32.81
ツングース族は他の遊牧民たちと連帯していたようだな、、、

478日本@名無史さん2019/06/09(日) 19:53:19.29
遼河文明という文明は、民族が入れ替わり、ツングースが最後だった可能性があるな、、、

479日本@名無史さん2019/06/09(日) 19:57:12.73
斉の王族が徐族という、、、
徐とはユダヤ人のことだという、、、
儒教もユダヤ教のことだという、、、

480日本@名無史さん2019/06/09(日) 20:00:13.36
遼河文明という文明は、ツングースが来る前は、毛人になった者達が主人公だった可能性があるな。。。

481日本@名無史さん2019/06/09(日) 20:02:33.04
>>480
毛人の先祖にも、何種類かの民族があった可能性があるな。。。

482日本@名無史さん2019/06/09(日) 20:03:37.23
息長氏に率いられて彼らペルシャ人も日本にやって来たわけだ、、、

483日本@名無史さん2019/06/09(日) 20:09:31.08
つまり前方後円墳は、高句麗からもたらされたクルガンの発展系なのだね、、、
従来の弥生墳丘墓を尊重する気配が見られない異質な文化が入ってきたと判断する考古学者がいたな、、、

484日本@名無史さん2019/06/09(日) 20:14:54.53
>>483
とある漫画でいうと、すぴーどわごん?

とあるゲームのスレがあるんだけど、
ワゴンセール、ワゴンセールと言っている人がいたり

何なんだろう『オプーナ aa』

485日本@名無史さん2019/06/09(日) 20:18:44.49
エリコの塔という、石積みの塔があったのではないのかな、、、

486日本@名無史さん2019/06/09(日) 20:19:08.58
漫画に登場する人物(架空、仮名?)なんだけど

『すぴーどわごん財団』

日本の話なのかな、日本に置き換えたりすると・・・とか

487日本@名無史さん2019/06/09(日) 20:22:44.34
『スピードワゴン財団』

画像を調べてみるとわかる、グーグル。

488日本@名無史さん2019/06/09(日) 20:23:30.62
ヨシュアとは、何者なのだろうか、、、

489日本@名無史さん2019/06/09(日) 20:24:05.21
今も息長氏は財団を以って世界経済に影響を与えているようだね、、、

490日本@名無史さん2019/06/09(日) 20:25:01.71
プラスチックが規制されるのも手の内何ではないかな、、、

491日本@名無史さん2019/06/09(日) 20:33:53.86
毛人の先祖にも、何種類かの民族があった可能性があるな。。。

492日本@名無史さん2019/06/09(日) 20:34:26.69
>>365
>天照大神や素戔嗚尊が産まれたのは筑紫日向だぞ
>お前が上げたものはだいたい九州の話
>神武天皇の皇子も筑紫日向から来た神武が筑紫風の名前をつけたにすぎない

まったく具体名を挙げない
お前、バカだろww

天照大神の子供は高天原で生まれてる 九州は関係ない
スサノオの出雲の宮の神は出雲の土着の神だ 九州は関係ない
神武天皇の妃の祖(三嶋溝橛耳) 太田田根子の祖(陶津耳命)
この二人は淀川水系の実力者 九州は関係ない

神武天皇の三皇子のうち、手研耳以外は畿内の生まれ 九州は関係ない

で?
九州の方が多い耳はどこにいるんだ?ww
具体的に挙げてみなww

493日本@名無史さん2019/06/09(日) 20:42:56.84
>>381
>大山積の息子であり、筑紫の生まれ。

世代が合わない
淀川水系の実力者だよ

弥生時代の初め頃には遠賀川系の第T様式の土器が出ているから、
その頃に九州からの影響があったのは否定しないが

大山祇はその頃の始祖神伝承であって、その子供だとか神話を真に受けた論を展開されてもねぇ

494日本@名無史さん2019/06/09(日) 20:56:39.73
>>435
>銅境なんて威信財でもあるが日常品だろう?

平原の46センチ鏡は鏡面を磨いてないから映らない
つまり日常品ではない
葬送祭祀用にわざわざ作ったものだな

お前さんは、思い込みばかりで正しい情報も知らずに適当なことを書くばかりだ

つまり無能なバカ

495日本@名無史さん2019/06/09(日) 20:56:46.59
桃太郎は高句麗の朱蒙なんだけど、、、

496日本@名無史さん2019/06/09(日) 21:00:58.89
>>495
それで?

497日本@名無史さん2019/06/09(日) 21:01:57.79
>>435
>しかもこの誇張の10倍するというのは同じ書物に記載があるんだ

まったく無関係な破賊文書の話だろ?
そこに地理は軍事情報という牽強付会を重ねてるだけ

>何の根拠もなく言ってるわけではない

「以一為十」の四文字だけを頼りに誤解曲解してるだけ
根拠にはならないよw

>逆に魏志倭人伝をそのまま信じるならどういう想定だね?

「十倍してある」ではなく、あてにならないとして周辺情報も含めて総合的に検討するしかないだろ
お前が頭悪いのは確定だからww

498日本@名無史さん2019/06/09(日) 21:04:03.13
モモタロウ

むかーしの中国の話

499日本@名無史さん2019/06/09(日) 21:17:54.74
>>708
>原文は、このサイトが見やすいし便利だと思う
http://www.seisaku.bz/sangokushi/30_touiden.html

そのサイト、確認してみたけど、
「計其道里、當在會稽東冶之東」という「治→冶」の嘘つき騙しをしているから、
おそらく台湾系の文書であり、×だよ。

500日本@名無史さん2019/06/09(日) 21:19:42.92
邪馬台国畿内説を宣伝する、悪質な罠を仕掛ける在日韓国人が、自作自演で正体が、バレてしまったな、、、

501日本@名無史さん2019/06/09(日) 21:22:37.53
>>500
泳がせておけば、笑いリラックスできる物事のままにしておけるのではないのかな、、、

502日本@名無史さん2019/06/09(日) 21:33:39.52
>>725
「南→東」などの「都合の悪い史料事実の否定曲解」の嘘付き騙しをし、
具体的な事実を何も言わないのが大和説

つまり、頭の中で思い付いた小説だけだなんだね
それを、妄想と言うんだが

503日本@名無史さん2019/06/09(日) 21:36:25.01
>>726
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
・・・・アホ詐欺師であり、分裂幻覚の妄想の精神論だからな

504日本@名無史さん2019/06/09(日) 21:48:56.65
カエルの骨は、何時、埋められたのだろうか、、

505日本@名無史さん2019/06/09(日) 21:53:48.39
インターネットでの邪馬台国畿内説の宣伝は、完全に、失敗したので、雇用主は宣伝係員を解雇した方が、無駄が無くなり批判が少なくなるのではないのかな、、、

506日本@名無史さん2019/06/09(日) 21:58:07.88
>>728
>・邪馬台国の発音に近い地名 ⇒ ヤマト国そのもの <

邪馬台国なんて、存在もしなかった嘘つき騙し文言。

>・戸数7万戸 ⇒ 大和+河内〜環大阪湾の畿内第V様式土器が共通で出る範囲<

米田に拠って、中心は河内であって大和ではない。
   
>戸数7万は実数ではないだろうが、福岡平野2万戸(奴国)、四隅突出墓の範囲5万戸(投馬国、出雲)との比較で妥当な数字といえる <

出雲や大和の比定が、「南≠東」などに拠って、×。

>・30近くの国々の盟主 ⇒ 纏向遺跡で出土する、広範囲で多様な各地の土器の集積 広い範囲からの人が集まっている証拠<

筑紫の土器がないから、盟主ではなく、×。  
 
>⇒ 前方後円墳の定型化が、纏向遺跡で進められている それを古墳時代に列島の広い範囲で共通に受け入れていることから、この墓制の共通化を主導した盟主と認められる<

前方後円墳は、那珂八幡などからの伝番。

>・宮室、楼観、城柵 ⇒ 纏向遺跡の辻地区居館域の建物群 それまでの弥生時代の建築にはない複数建物の計画的な配置が確認できる <

石床にような基礎がなく、卑弥呼や千人の婢の住める場所もないから、×。

507日本@名無史さん2019/06/09(日) 21:58:59.46
>>728
>⇒ 唐子鍵遺跡から、楼閣を記した線刻土器が多数出土している<

在地の出雲系銅鐸祭祀部族の国であり、×。

>・卑弥呼の墓径百歩 ⇒ 纏向古墳群は、最初期の纏向型前方後円墳の纏向石塚古墳で墳丘長96メートル
   それ以後、ずっと列島最大の墳丘墓が作られ続け、いずれでも径百歩の墓として見劣りしない
   どれが卑弥呼の墓かは編年次第で変動するため特定できないが、いずれにしても纏向古墳群に卑弥呼の墓がある蓋然性が極めて高い
・徇葬百人 ⇒ 日本列島で大規模殉葬の確認例はない  家族墓である方形周溝墓への追葬を殉葬と誤認した=倭国には殉葬の風習があると 誤解した可能性がある <

存在しないんなら、×。

508日本@名無史さん2019/06/09(日) 22:02:27.45
>>505
奥山ついにクビかw

509日本@名無史さん2019/06/09(日) 22:14:22.27
カエルの骨は、何時、埋められたのだろうか、、

510日本@名無史さん2019/06/09(日) 22:29:26.04
明治維新はクソだったが、長州の末裔の安倍さんが過去を清算したからね

歪められた歴史や文化をこれから取り戻していけばいい

511日本@名無史さん2019/06/09(日) 22:33:26.62
邪馬台国畿内説を宣伝する、悪質な罠を仕掛ける在日韓国人が、自作自演で正体が、バレてしまったな、、、

512日本@名無史さん2019/06/09(日) 22:36:24.02
>>595
>纏向石塚古墳は庄内0式でてるから3世紀初頭<

石塚は、庄内1であるが、
撥型前方後円墳であるから、卑弥呼の冢よりも後であり、
那珂八幡よりもくびれ部が緩やかであるから、那珂八幡よりも後であり、
3世紀末。

513日本@名無史さん2019/06/09(日) 22:37:40.34
三島も悲惨やな
邪馬台国に関わるとろくなことがない

514日本@名無史さん2019/06/09(日) 22:41:47.10
>>510
クソの上塗りだろう

515日本@名無史さん2019/06/09(日) 22:45:32.21
荒らし行為をした者が、詐りの意見を発表し、真実を歪めているな、、、

977 名前:日本@名無史さん 2019/06/09(日) 22:33:41.32
九州説のスレって言っても荒らし連中しかいないじゃんw

516日本@名無史さん2019/06/09(日) 22:47:46.37
>>750
>>836年の遣使に関しては、唐会要は倭国使として、薜原朝常嗣等が来たのだ、と判断した、
入唐求法巡礼行記が記録した藤原朝常嗣のした名前は存在せず、
入唐求法巡礼行記の記録の信頼性が落ちる、という事になるだけだ。<

>お前は白村江で滅びた説なのに、なぜ836年で倭国使だと言うのかね?<

私は、「倭国は大和日本国に併合吸収継承されたが残映は残った」、という説。

>現代の《唐會要》は残欠なので、《唐會要》完成時点では藤原朝臣常嗣となっていた可能性の方が高いな。
「薜原」という姓は存在しない以上、清代までに誤字になったのだろう。<

この男(スレ主ら)は、まったくの「捏造小説家」だねえ。

>当時の記録である《入唐求法巡礼行記》の信頼性は全く揺るがない。<

日本国の遣唐使に付いて行ったんだから、日本国の意向は考えには逆らえない。

>>要は、それぞれの筆者が、そろぞれの国の政府の意向に叛くような情報を書けたか?、
という、史料批判に拠る信頼性の問題だ。<

>陰謀論は史料批判ではない。<

陰謀なんて関係がない。 史料批判だ。

517日本@名無史さん2019/06/09(日) 22:51:16.62
邪馬台国畿内説を宣伝してきた奥山氏は、卑劣な行為を止め、正々堂々の討論をすれば、毅然な敗北者として人気や尊敬が高まる可能性もあるのではないのかな、、、

518日本@名無史さん2019/06/09(日) 22:52:41.31
カエルの骨は、何時、埋められたのだろうか、、

519日本@名無史さん2019/06/09(日) 23:00:14.56
邪馬台国畿内説を宣伝する、悪質な罠を仕掛ける在日韓国人が、自作自演で正体が、バレてしまったな、、、

520日本@名無史さん2019/06/09(日) 23:07:07.97
畿内説の宣伝係が、自演のためにスマホを何台も購入し、破産寸前であることが、世の常だな、、、

521日本@名無史さん2019/06/09(日) 23:07:45.15
>>386
ヒルコ 筑波イサ宮生まれ 船に乗せ捨てられる
カナサキに拾われて西殿(西宮)で育てられる
ヒヨルコ(流産)(近江) 船に乗せ流される
天照 ハラミの宮(富士)生まれ
月読 筑紫(月隅)ヲトタチバナノアワキ宮 生まれ
ソサノヲ(スサノオ) ソサ(紀伊)熊野生まれ

(ホツマツタエ)

522日本@名無史さん2019/06/09(日) 23:12:09.09
アタマのビョーインに行け、
日本の話ではないんだけどw

523日本@名無史さん2019/06/09(日) 23:13:21.59
>>521
>月読 筑紫(月隅)ヲトタチバナノアワキ宮 生まれ

ふーん。
これって、イザナギが禊をした筑紫の日向の小戸の橘の阿波木原のことだよね。
原とあるから集落だろうとは思っていたけれど、宮があったんだねえ。
その宮で禊をしたんだねえ。
ちなみに橘とは立ち鼻であり、岬のことらしい。
今の小戸(福岡市西区小戸)は地形が変わり果てているから、その痕跡を見つけるのは難しいだろうけど。

524日本@名無史さん2019/06/09(日) 23:14:18.15
>>ソース

525日本@名無史さん2019/06/09(日) 23:14:38.67
どこの国の話をしているんだ?と聞いているんだ

526日本@名無史さん2019/06/09(日) 23:16:02.06
>>522
ソース?

527日本@名無史さん2019/06/09(日) 23:18:02.48
158-166 スサノオ、オロチ(モチコ(天穂日の母)、ハヤコ(三女神の母))、ハタレの乱(九州-東北)
158 伊勢→宇佐 三女神、モチコ(天穂日の母)、ハヤコ(三女神の母)、(トヨ姫アヤコ(ムナカタの娘、クマノクスヒの母))
158 天岩戸 7月13日 皆既日食 日没直前 琵琶湖 京都 大津 津
天照(男)、瀬織津姫(妻)、イサワ宮 伊勢(伊雑宮 志摩)
ヒルコ(天照の姉)、思兼(夫)、ヤス川宮(野洲川宮)近江 ネ(北陸)とサホコ国(山陰?)を兼ね治める

(ホツマツタエ)

528日本@名無史さん2019/06/09(日) 23:22:57.55
>>499
>おそらく台湾系の文書であり、

またデタラメか。
「中華書局評点本」1959年版と書いてあるぞ。

529日本@名無史さん2019/06/09(日) 23:23:08.41
その、ほつまつたえ・・・・・・・・というのは、
どこからの引用なんだ?

例えば、とある漫画を読み(作品に影響され)、
私も同じような作品を書いてみました

そういう話だろうwと言っているの

530日本@名無史さん2019/06/09(日) 23:25:52.63
漫画がソースの松傾

531日本@名無史さん2019/06/09(日) 23:26:34.46
以前から書いているんだけど、頭が悪いんだろう

532日本@名無史さん2019/06/09(日) 23:27:03.67
>>529
正解

江戸時代の小説

ただし史実も含む

533日本@名無史さん2019/06/09(日) 23:31:39.14
>>516
>>お前は白村江で滅びた説なのに、なぜ836年で倭国使だと言うのかね?<
>私は、「倭国は大和日本国に併合吸収継承されたが残映は残った」、という説。

隼人の反乱は、721年に平定されている。836年に至っては、そんな実態は無いぞ。

>現代の《唐會要》は残欠なので、《唐會要》完成時点では藤原朝臣常嗣となっていた可能性の方が高いな。
「薜原」という姓は存在しない以上、清代までに誤字になったのだろう。<
>この男(スレ主ら)は、まったくの「捏造小説家」だねえ。

「薜原」という姓が存在しないのは事実だよ。
九州倭国とか言ってる捏造家に言われたくないねぇ。

>当時の記録である《入唐求法巡礼行記》の信頼性は全く揺るがない。<
>日本国の遣唐使に付いて行ったんだから、日本国の意向は考えには逆らえない。

ほら、すぐ陰謀論に走る。

>>要は、それぞれの筆者が、そろぞれの国の政府の意向に叛くような情報を書けたか?、
という、史料批判に拠る信頼性の問題だ。<
>>陰謀論は史料批判ではない。<
>陰謀なんて関係がない。 史料批判だ。

陰謀論だよ。
都合の良い偽史を元に批判を繰り返しているだけだ。

534日本@名無史さん2019/06/09(日) 23:33:34.41
松傾の文章ってセンスないよね

535日本@名無史さん2019/06/09(日) 23:33:47.09
調べてみた『倭猿』

〜真似ばかり。
どうぞどうぞw真似してください。

このような話なんだけど、なぜだと思う。

引用〜教わった、模倣、なんでも良いんだけど、
その後に『我田引水』?

このような事ばかりしているという意味、
実際はアナタの家の話ではないのに・・・w

人権侵害

536日本@名無史さん2019/06/09(日) 23:43:22.36
あの曲を聴いてみた?

あいつらの卑怯なやり方に〜凍りついた
『姥清水』のテーマ

『姥清水』に出てくる人物が本家、
ホンモノのような家だという意味、その家の人などを殺そうとしたり?

そういう話

この人物(本家、本元、先生のような人物)から教わったり、
習ったり・・・したあと〜w

537日本@名無史さん2019/06/09(日) 23:46:13.23
>>502
>>503
「陸行一月」により×。

538日本@名無史さん2019/06/09(日) 23:53:04.58
音楽の業界でも何でも良いんだけど、
なぜ詳しい人たちがいるのか?なんだよな。

539日本@名無史さん2019/06/10(月) 00:13:26.48
こねくり回すのはいいけど
畿内説の新しい情報ないのかね

540日本@名無史さん2019/06/10(月) 01:29:42.79
>>512
>那珂八幡よりもくびれ部が緩やかであるから、那珂八幡よりも後であり、

九州説はこうやって
今日も真っ赤なウソをつく

平面図調べられたら一発でバレるのに
知能がないのかな

541日本@名無史さん2019/06/10(月) 01:57:09.45
どこの池沼なんだ?と聞いているんだよ

542日本@名無史さん2019/06/10(月) 01:59:15.64
『倭猿』

もれ(仮)は正解だと言っているんだよw
なぜだと思う?

543日本@名無史さん2019/06/10(月) 02:00:27.98
それと『天王』調べてみたの?

544日本@名無史さん2019/06/10(月) 02:03:41.35
池沼だから「❓」なんだろう?と聞いているんだよ

何度説明しても『❓』

545日本@名無史さん2019/06/10(月) 02:07:54.22
お前の都合の良いように、話を作るな(創作)と言っているわけ

『松傾』何の話だと思う?

546日本@名無史さん2019/06/10(月) 03:28:48.67
>>492

出雲、大和、韓あたりは実在の地名を使ってるせいで分かりやすいが
高天原だけ頑なに九州と認めないのは如何なものか

天照大神達は筑紫日向産まれ
出雲や大和には船で行く
行動範囲は出雲、韓、筑紫日向
どう考えても筑紫だろう
素戔嗚尊や神武を実在の人物と扱ってるくせにその高天原だけ、天上の国とするのはどうなのか?

>>494

5枚程度しかない大型内向花紋鏡を作ったところで戦争には何の影響もない
古墳は1基作るだけで戦争を軽く超える労力を使わなければならない
この違いもわからないのか
5枚の鏡造るための銅売って鉄買ってたらちょっと費用の足しになるくらいかな?
まあ九州は鉄鏃を死体に刺さったままにするぐらい鉄はありふれてたけもね

で、その時代に古墳は何基作ったの?

547日本@名無史さん2019/06/10(月) 03:32:46.59
>>497

お前の何の根拠もなく
里数や方角を全て無視するよりマシ
俺は魏志倭人伝は極めて正確だと思っている
その正確というのは、当時の中国の役人が、当時の史書を書くためのルールに則って書いたという前提を元にした正確さ
お前は総合的というが、お前のは結論ありきなんだよ

だから質問に答えられないと全部無視
脊髄反射で反論するから、どこかで矛盾する

そういえば弥生時代はいつから始まるんだっけ?
これすら答えられない
何で答えてくれないの?

548日本@名無史さん2019/06/10(月) 05:41:02.75
答 奥山は無知だから

549日本@名無史さん2019/06/10(月) 06:42:16.73
>>751
>>本人が亡くなってから45年も経ってから、墓誌が書かれた、
という事の異常性が判らないスレ主らは、やはり・・・・アホ詐欺師なんだろうなあ。<

>「辛丑年(641)12月3日に没して、戊辰年(668)12月に松岳山上に埋葬」だぞ。
夫人が亡くなった時に同じ墓に再葬し墓誌を作ったのだろうし何も問題ないな。<

Wikiの、
「船氏王後墓誌(ふなしおうごぼし、船王後墓誌/船首王後墓誌)は、船王後の墓誌。
金石文の1つ。国宝に指定されている。
天智天皇7年(668年)の船王後の埋葬に伴う墓誌で、
現存では日本最古の年紀を持つ墓誌になる。
ただし「官位」の文言等により、実際の製作時期は若干降るとされる[7][6][4]
(天武天皇朝末年以降の追納か[8][9])。」
に拠った事。
書紀の推古朝の冠位十二階は、隋書俀國伝の冠位十二階の盗用造作であったんだろうと考えられ、
船王後が「大仁」を受けたのは、九州倭国からであって、
668年時点で、船王後が大仁であった記録があった事を知っていたのは、
九州倭国系であった天武であった可能性があるから。

550日本@名無史さん2019/06/10(月) 06:46:03.96
>>754
ほらな
大和説には「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しの、
・・・・アホ詐欺論しか無い。

551日本@名無史さん2019/06/10(月) 06:49:20.01
>>761
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しの、
・・・・アホ詐欺をするまでになった大和説者は、
心が病んでいるな。

552日本@名無史さん2019/06/10(月) 06:55:06.01
>>767
>萬二千里っていうのは漢土、中華王朝の直轄地の広さの一辺の長さなんだから、
そんな短い距離だと思うのがおかしい <

この男も、まだ判っていないな。
古代中国での直轄地の広さは
周代までの里数記載は一寸千里に拠っていたんだから、始めから短里であった、
という事になるんだよ。

553日本@名無史さん2019/06/10(月) 07:02:47.61
>>769
>できるものならして見せてくれよ
水行一日は何里になるんだ?wwwww <

勿論、水行は、川流れや海流や風や波高などの影響を受けやすいから、
大体の事しか決まらず、
古田さんも第1書で、魏志倭人伝から逆算されて、
「水行は1日で約450里(短里)」という計算であった。

554日本@名無史さん2019/06/10(月) 07:55:14.94
>>546>>547
結論ありきはそっちだろ?ww

神話は史実じゃない
この原則を無視しまくった立論はデタラメだってこと
神話は曖昧だから、神話をもとに話を作るってした時点でやりたい放題にしかならないし
捏造牽強付会の温床にしかならない

高天原の実在を主張するやつは端から軽蔑してるww

平原一号墓の46センチ鏡の鏡面は磨いてないから映らないし
実用品じゃないっていうのを無視してるのはお前だろ?
それに鋳造してるのは46センチ鏡の5枚だけじゃなく、副葬40枚中の38枚だぞww
戦時中に何やってんだ?って話

まあ、九州の片田舎は邪馬台国じゃないし狗奴国との不和とも無縁のところだから
そんな余裕もあったってだけだがね

平原一号墓の銅鏡大量埋納は、出雲の荒神谷の銅剣大量埋納と比べるべきもの
それまでの青銅器祭祀から、前方後円墳祭祀、祖先祭祀に切り替わるところで
手持ちの青銅材料を大量鋳造で使い切るのが目的なんだよ

狗奴国との不和はそこまで重大じゃないだろ
FAQ9
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。

555日本@名無史さん2019/06/10(月) 07:58:12.02
>>552
>周代までの里数記載は一寸千里に拠っていたんだから、始めから短里であった、
>という事になるんだよ。

方萬里っていうのは秦の始皇帝の漢土統一後の概念だから、
当然始皇帝の統一した度量衡の秦漢尺の体系で萬里だよww

はい論破w

556日本@名無史さん2019/06/10(月) 08:31:00.88
>>773
>九州説さん「畿内説ありきの結論で凝り固まっている」 とか決め付ける根拠は?
根拠も示さず決め付けるのは妄想である証拠 <

何度も言っているように、
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言である事と、
「南→東」や「前方後円墳=冢」などの、
史料事実の否定曲解の嘘つき騙しをしている事。

557日本@名無史さん2019/06/10(月) 08:32:30.13
>>775
こんなふうに
何も反論ができず
悪口だけ言うのは
大和説者が論破され負けてる証拠だな

558日本@名無史さん2019/06/10(月) 08:38:54.20
>>776
>そんな狭い範囲に千戸の国なんてどうやっても入らないだろ? <

何をアホ言ってんだい?。

陳寿の「国間里数」記載は、原則として、
出発国の外縁部付近の出発地から、
到着國の外縁部にある入り口や門に該当する地点まで。
百里は、伊都国の広さではない。

559日本@名無史さん2019/06/10(月) 08:41:19.46
>>781
「南→東」などの嘘付き騙しなどのように、
その心を病んじゃってるのが大和説者の悲劇だな
執拗で異常な繰り返し連呼とか
窃視妄想、追跡妄想とか
はっきり症状でてる

560日本@名無史さん2019/06/10(月) 08:45:02.66
>>785
大和説者が、いくら言われても、
「南→東」などの嘘付き騙しの証拠を、絶対にださないのは、自分でも、
妄想であるらしい、という事をうすうす知っているからだよ

561日本@名無史さん2019/06/10(月) 09:30:24.99
>>795
>そして倭國は東夷の最果ての国という位置づけだから、
その世界の端までの距離が倭國までの距離という見立てになる<

淮南子や魏志の記載では、「世界の端」が倭になっておらず、
倭国よりも遠方の国や地が幾つも書かれているから、
このスレ主らは、×。

562日本@名無史さん2019/06/10(月) 09:33:50.23
>>808
「南→東」などの嘘付き騙しがバレて、
九州説者を中傷する理由はない
それが大和説

563日本@名無史さん2019/06/10(月) 09:38:03.14
>>391 なるほど

564日本@名無史さん2019/06/10(月) 09:39:54.28
>>809
九州説者は、まだ真面目に議論しようとしている
大和説者が、まともな議論をしようとしているかは置いといて
大和説者は、「南→東」などのウソ付き騙しの連呼からはじまって
何でも「証拠は?」のまぜっかえしや、茶化しばかりだからな
どちらが悪質なのかは明白だろ

565日本@名無史さん2019/06/10(月) 09:41:39.34
>>391
まとめると、纏向遺跡は紀伊半島の植林中スサノオが発見した大和水銀鉱床の販売で力をつけた大国主→大物主→饒速日の3代90年の遺跡であり、
邪馬台国卑弥呼→伊都国神武(更立男王国中不服)→台与→崇神(複立男王並受中国爵命)に征服されてヤマト王権となったのである!

566日本@名無史さん2019/06/10(月) 10:08:36.81
>>826
>全く同意。 12000里と言うのは、測量した訳ではなく
『ほぼ世界の果て』と言う象徴的な意味を持つ数字。<

魏使らは、
(古来の中国在住の民間的な学者らのような推定思想を書く事が出来る立場ではなく)、
魏帝らへの「倭地への正確な位置や行程を報告する」事が業務であり、
そんな立場である事を逸脱して、「象徴的な意味を持つ数字」を記録した、
という事がバレれば、そりゃ首が危ないから、
魏使らは、きちんと計測した数字を記録し、
陳寿も、おそらく、その数字に「余」を付けたりして、
有効数字1桁位の近似値にして、記載した、と思われる。

567日本@名無史さん2019/06/10(月) 10:24:18.42
>>833
>漢土と同じ里、歩、尺をつかうから、<

倭人の上層部以外の倭人は、「里」を知らないから、
倭人伝の「里」記載は、魏使らによる計測値である。

>12000里が『ほぼ世界の果て』と言う象徴的な意味を持つ。<

不彌國で「萬二千余里」がほぼ終わっており、
不彌國から邪馬壹國の移動里数が書かれていないから、
だから、「萬二千余里」は、
郡から邪馬壹國女王之所都までの「道のり里数の合計」である事になる。

>つまり12000里は、短里の存在を否定する証左の一つ。<

つまり「萬二千余里」は、短里の存在を肯定する証左の一つ。

568日本@名無史さん2019/06/10(月) 11:12:44.59
>>554

神話はそれそのままは事実じゃないが、口伝で伝えられてきた歴史を内包してるのは事実だろう
だから君も神武天皇の実在を疑ってはないんだろ?
崇神天皇や応神天皇の時代まで神話に出てきた神が登場するぞ?
だからと言って全部切り捨てるのか?

高天原が実在するのではなく、高天原のモデルは実在するだろう
お前が出した実在しない高天原から降りた素戔嗚尊や神武天皇やその子孫も全て嘘話か?

神話時代の描写や名前が古い日本の習俗や名前を今に伝えているのは確かだろうに、なぜそれを無視するのか?

他のボウ製境は小型で、実用に足るものだろ?
普段から作ってたんだろう
別に戦時中に鏡作って戦に影響あるか?
古墳なら影響大ありだけどね
鏡数十枚と古墳数基か、どちらが戦に影響を与えるか言ってみて?
猿でもわかると思うけどね

青銅器使い切るの意味がわからんね
銅鐸鋳つぶして銅鏃にしてるのは銅が必要だからだろう
三角縁神獣境や画紋帯神獣境も古墳時代以降200年以上に渡って作られている
需要は古墳時代になってもあるだろう?

569日本@名無史さん2019/06/10(月) 11:24:46.36
イザナギイザナミの国産みと黄泉の国神話が終わって、高天原神話に突入したあたりから急に習俗、着物、文化、地名が具体的になるんだよね
古事記や日本書記に記載されてることも、記憶術を使った表現が多い
古の事実を口伝を基に伝えていたのは確かだろう

畿内説派は自分らの理論が神話との整合性がないからといって全て切り捨てるのはよくない
そういえば魏志倭人伝も都合が悪いことは全て切り捨ててたかな

570日本@名無史さん2019/06/10(月) 11:29:45.81
>>833
>漢土と同じ里、歩、尺をつかうから、<

倭人の上層部以外の倭人は、「里」を知らないから、
倭人伝の「里」記載は、魏使らによる計測値である。

>12000里が『ほぼ世界の果て』と言う象徴的な意味を持つ。<

不彌國で「萬二千余里」がほぼ終わっており、
不彌國から邪馬壹國の移動里数が書かれていないから、
だから、「萬二千余里」は、
郡から邪馬壹國女王之所都までの「道のり里数の合計」である事になる。

>つまり12000里は、短里の存在を否定する証左の一つ。<

つまり「萬二千余里」は、短里の存在を肯定する証左の一つ。

571日本@名無史さん2019/06/10(月) 11:34:27.73
>>862
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
季違いアホ詐欺師でないと、やってられないんだ、
と実感

572日本@名無史さん2019/06/10(月) 11:48:13.56
>>568
>だから君も神武天皇の実在を疑ってはないんだろ?

疑ってますが、何か?

573日本@名無史さん2019/06/10(月) 11:53:47.86
ところでなんで奈良を大和と呼んでたのはいつ頃なの?

574日本@名無史さん2019/06/10(月) 11:54:36.46
間違い↑
ところで奈良を大和と呼んでたのはいつ頃なの?

575日本@名無史さん2019/06/10(月) 11:58:09.90
>>863
>人を訪ねる場面に参問が使われている例があるが、
すべて死すべき状態のある人物に対してであり、
人を訪ねるというより状況を確かめに行く場面でしかない
そして、土地や場所を訪問するという意味で参問が使われている例は一つもない<

魏志倭人伝での「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」の「参問」は、
狗邪韓國→女王之所都→侏儒國付近までの倭地部分での、
陸路での移動訪問した事を意味させており、
その記載陸路里数を合計すると、(余を省いて)、
女王國から侏儒國付近の4千里には東渡海千里があるからそれを引いて、
400×2+300×2+500+100+(4000−1000)=5000(里)
にピッタリである。

576日本@名無史さん2019/06/10(月) 12:07:03.05
>>568
>他のボウ製境は小型で、実用に足るものだろ?
>普段から作ってたんだろう

もちろん間違い
祭祀のためにまとめて作られた

577日本@名無史さん2019/06/10(月) 12:10:58.83
>>575の追記
この5千余里の計算が侏儒國付近でほぼぴったりであった事は、
女王國から東渡海して上陸した地点が四国の北西部であった事を示し、
そこから足摺付近にまで南に陸行した事になるから、
倭種とされたのは四国西部までであった事になり、
魏使らは、中国地方や瀬戸内で吉備や難波へは行っていなかった事になり、
大和説が完全に×になり、
女王國が「ほぼ九州島付近」だけであった事にもなる。

578日本@名無史さん2019/06/10(月) 12:13:33.14
奈良と大和の呼称は併存してたんじゃね
日本書紀や万葉集にも字は違ってるが奈良はあるそうだから

579日本@名無史さん2019/06/10(月) 12:14:54.39
そして明治時代に奈良県が出来るまでは大和国

580日本@名無史さん2019/06/10(月) 12:35:15.60
ヤマト説が正解

581日本@名無史さん2019/06/10(月) 12:41:44.76
>>214 >>565
纏向遺跡は、大国主(出雲)大物主(出雲吉備混血)饒速日、3代90年の王都&王墓だった!

582日本@名無史さん2019/06/10(月) 12:48:05.67

583日本@名無史さん2019/06/10(月) 12:49:05.98
>>578
どちらにしても、概ね8世紀以降ですね。
邪馬台国とは程遠い。

584日本@名無史さん2019/06/10(月) 12:50:34.96
>>578
逆に奈良という地名はいつ頃からあるんだろ?

585日本@名無史さん2019/06/10(月) 13:01:47.86
>>581 >>582
天皇家(記紀)が封印しているのは、出雲スサノオ・大国主・大物主って、そういうことかっ!!

586日本@名無史さん2019/06/10(月) 13:03:39.42
ヤマトの呼称はもとからあって
漢字表記については飛鳥や春日みたいに
枕言葉が残ったものではという話に
そうかもと思った事がある
飛ぶ鳥のアスカ
春の日のカスガ

587日本@名無史さん2019/06/10(月) 13:06:17.29
春日のココ、空いてますよw

588日本@名無史さん2019/06/10(月) 13:18:47.77
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から同じ祭祀連合の内部の伊都国に一大率を派遣し、九州を検察し恐れさせたという空想を、どのような詭弁で、整合性を守りながら説明するのだろうか。。。

589日本@名無史さん2019/06/10(月) 13:19:26.24
また、論破すれば良いな。。。

590日本@名無史さん2019/06/10(月) 13:25:20.23
邪馬台国畿内説を宣伝するプロ固定に、元気がないのではないのかな、、、

591日本@名無史さん2019/06/10(月) 13:26:46.36
ヤマトという本来の意味は、八の俣だったな。。。

592日本@名無史さん2019/06/10(月) 13:27:48.29
>>591
尾根や川や道の分岐点なのだったな。。。

593日本@名無史さん2019/06/10(月) 13:28:34.52
>>592
日本中、どこにでもあるのだったね、、

594日本@名無史さん2019/06/10(月) 13:37:00.14
やまとはくにのまほろばって歌はヤマトタケルの歌だったっけ
邪馬台国時代に遡るかは分からないけど文献上で現れるのはかなり古いよね

595日本@名無史さん2019/06/10(月) 13:45:36.13
ひたすら意味不明な安価(前スレのレス番urlさえ貼れないのか)飛ばすのもおかしいし
それに対抗してる人(スレ主?)もおかしいな

596日本@名無史さん2019/06/10(月) 13:50:56.16
あと神武だのなんだの出すのはもうやめとけ

597日本@名無史さん2019/06/10(月) 13:54:35.49
奈良時代より前のヤマトが大和国を指していたかどうかが甚だ不確実。
倭がヤマトだとしたら、後漢書では狗邪韓国から倭奴国までの対馬海峡だし。

598日本@名無史さん2019/06/10(月) 14:06:20.42
>>549
>ただし「官位」の文言等により、実際の製作時期は若干降るとされる[7][6][4]
>(天武天皇朝末年以降の追納か[8][9])。」 に拠った事。

それも仮説だろ?。

>書紀の推古朝の冠位十二階は、隋書俀國伝の冠位十二階の盗用造作であったんだろうと考えられ、
>船王後が「大仁」を受けたのは、九州倭国からであって、

また偽史陰謀論による妄想だね。
「阿須迦天皇の末(641年)」は、九州年号によると命長二年。
命長は七年まで続くから、阿須迦天皇は九州王朝ではないことは明白。
船王後は阿須迦天皇に「大仁」を賜ったのだから、九州倭国から賜っていない。

>668年時点で、船王後が大仁であった記録があった事を知っていたのは、

子孫が墓誌作成したのだから何も問題ないし、668年時点とも確定していない。

>九州倭国系であった天武であった可能性があるから。

九州王朝説では、光仁天皇から九州王朝系に戻るんじゃないのか?
偽史信者は言うことが違って困るね。

599日本@名無史さん2019/06/10(月) 14:06:29.80
倭は日本語で自身を指すワレに対して当てられた漢字という説が多いけれど

600日本@名無史さん2019/06/10(月) 14:08:36.73
>>593
奈良時代より前の文章というのは、天皇家の命令でも燃やされなかった、固い物体に刻まれた物しかない可能性が、高いので、
奈良時代より前、奈良をヤマトという発音で表した証拠は、固い物体に刻まれた物しかない発見できないのではないのかな。。。

601日本@名無史さん2019/06/10(月) 14:09:56.45
奈良の地名は、日本書紀では「那羅山」、万葉集では「奈良」。
現在でも「平城山」と書いてナラヤマと読む。
朝鮮語の「国の都」を意味する「クニナラ」が語源とも言われている。
朝鮮嫌いの日本の学者は根拠なくこれを否定してるが。

602日本@名無史さん2019/06/10(月) 14:15:04.96
百済が滅亡して、百済人が奈良に逃げ込み、百済の言葉を流行らせた可能性が高いな。。。

603日本@名無史さん2019/06/10(月) 14:17:15.13
仏教伝来も百済からだよね。

604日本@名無史さん2019/06/10(月) 14:28:49.79
欽明7年か

605日本@名無史さん2019/06/10(月) 14:31:33.17
百済は滅ぼされてしまったので、宗主だった天皇に、百済の再興を依頼したのではないのかな。。。

606日本@名無史さん2019/06/10(月) 14:31:50.40
>>598
いや九州王朝云々は置いといて
それもう仮説じゃなくて定説だから
この点では津田左右吉説支持してる人らは少ないっての

607日本@名無史さん2019/06/10(月) 14:33:00.06
>>898
>>上陸してから倭地は三千里しかないよ?<

>だいたい九州から奈良に着く距離だね<

「三千里」という計算であっても、
半島の東西幅の4分の3や、3海峡里が3千里であるんだから、
そんな長さでは、尾道位が精一杯であり、
奈良なんて全く届かないよ。

608日本@名無史さん2019/06/10(月) 14:37:29.82
test

609日本@名無史さん2019/06/10(月) 14:38:53.76
なんか前に東大閥がどうたらとか、上古研究においちゃ何十年も前においてかれた学閥を出してるのはなんで?て思ったら
上古研究の進展についてあまりにも遅れてるからなのか

610日本@名無史さん2019/06/10(月) 14:39:09.44
>>902
>ついに「陸行一月」の謎が解けたyo!・・・
2.魏の帝都・洛陽から見て呉との戦いにおいて最高の牽制となる背後にあるためには、
倭国卑弥呼「女王之所都」が「会稽郡」の「東治」ではなく、
更に南の「東冶」の東の海上にある必要
(少なくとも魏志倭人伝の読者にそう思わせねばならない)。・・・<

女王國の位置に関する陳寿の位置推定は、「計其道里、當在會稽東治之東」であって、
「東冶」の東の海上、ではなかったから、
この男も嘘つき騙しの・・・・アホ詐欺師であり、×。

611日本@名無史さん2019/06/10(月) 14:43:12.41
>>903
このように
「南→東」などの嘘付き騙しに反論する代わりに
相手の悪口を言う
というのが、・・・・アホ詐欺師の大和説の特徴だね
大和説は
二十世紀のころ論破されて、国民の7割に否定され、
台湾や一部の中国学者以外の殆ど全世界の学者からも否定されて消えた過去の説だから、「
それしか道が無いのだろう

612日本@名無史さん2019/06/10(月) 14:47:55.05
>>904
>・・・の図解だyo・・・<

「会稽東冶之東」という嘘つき騙し文言を使ったから、この男は
・・・・アホ詐欺師であり、だから、×。

613日本@名無史さん2019/06/10(月) 14:52:25.19
>>913
>・・・全部九州説連中に当てはまるだろ?<

全部、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの、
・・・・アホ詐欺師の大和説やスレ主ら連中に当てはまるだろ?

614日本@名無史さん2019/06/10(月) 14:54:01.92
>>609
記紀を丸々否定した結果、上古の歴史は暗黒になってしまったよ。

615日本@名無史さん2019/06/10(月) 14:57:49.54
>>927
>さて、畿内説のどこがヘンなのか 指摘して下さいね 具体的に<

「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから変だし、
「南→東」などのように史料事実の否定曲解の嘘つき騙しをしているから、ヘン。

616日本@名無史さん2019/06/10(月) 15:04:59.50
邪馬台国畿内説を宣伝するプロ固定に、元気がないのではないのかな、、、

617日本@名無史さん2019/06/10(月) 15:11:19.17
>>615
「畿内」が存在しないとかトンデモ説は明らかに変だし
史料事実を否定してはならないとか、史料批判の全否定をするトンデモ説って、ほんとヘン。

618日本@名無史さん2019/06/10(月) 15:22:07.03
>>597
>奈良時代より前のヤマトが大和国を指していたかどうかが甚だ不確実。

そうやって地名までドロボウしないと
ニッチもサッチもいかない九州説は
すでに詰んでる

619日本@名無史さん2019/06/10(月) 15:33:49.50
>>903
このように
「南→東」などの嘘付き騙しに反論する代わりに
相手の悪口を言う
というのが、・・・・アホ詐欺師の大和説の特徴だね
大和説は
二十世紀のころ論破されて、国民の7割に否定され、
台湾や一部の中国学者以外の殆ど全世界の学者からも否定されて消えた過去の説だから、「
それしか道が無いのだろう

620日本@名無史さん2019/06/10(月) 15:42:48.35
後漢書だと倭(ヤマト)は狗邪韓国を北限とし、倭奴国を南限とする国なんだよね。

621日本@名無史さん2019/06/10(月) 15:48:47.55
やはり、古事記が作製されるより前に、奈良がヤマトと呼ばれていた証拠は、見つからなかった。。。。

622日本@名無史さん2019/06/10(月) 15:50:40.46
>>928
>また、漢土は秦・漢の統一を経て、方万里に拡大されている <

以前のYahooでの議論の時には、
https://ctext.org/zhou-bi-suan-jing/zh
の中國哲學書電子化計劃の周髀算経には、陸地の大きさが、
二万三千里か?、二万八千里とか?書かれていたが、
現在の中國哲學書電子化計劃には、その記載が削除された状態になっており、
しかし、周代に既に陸地の大きさが二万数千里である、
という計測か?計算か?があった事になる。

>これを整理したのが、淮南子の時則訓・・・
五行説との対応で、東西南北+中央之極が、それぞれ萬二千里とされている<

だから、秦漢代の淮南子が最初であったのではなく、淮南子の前に、周代に既に、
「陸地の大きさが二万数千里だ」という論があった、という事になる、

623日本@名無史さん2019/06/10(月) 15:54:14.51
>>621
ヤマトとい言葉は現代の奈良県と重なる国名を指している言葉だったのではなく、ヤマトという言葉は道が八方向に延びる起点、つまり、国の中心という意味だったのだな。。。

624日本@名無史さん2019/06/10(月) 15:55:59.24
>>622
>しかし、周代に既に陸地の大きさが二万数千里である、
>という計測か?計算か?があった事になる。

ならないよ
周髀算経って周代の本じゃないもの
元禄寿司が江戸時代の寿司屋だと言い張るような脳タリンさ

625日本@名無史さん2019/06/10(月) 15:57:17.91
>>623
ヤマトとい言葉は現代の奈良県と重なる国名を指している言葉だったのではなく、ヤマトという言葉は道が八方向に延びる起点、つまり、国の中心という意味だったのだな。。。
というのは、
ヤマトという言葉は現代の奈良県と重なる国名を指している言葉だったのではなく、ヤマトという言葉は道が八方向に延びる起点、つまり、国の中心という意味だったのだな。。。
とタイピングしたかったのではないのかな。。。

626日本@名無史さん2019/06/10(月) 16:26:57.03
統合性が失調してるな

627日本@名無史さん2019/06/10(月) 16:39:51.14
国民から支持も受けず
中國の学者にも否定されたのが畿内説ってことかなww

628日本@名無史さん2019/06/10(月) 16:41:06.95
>>627
なにを言っても証拠がないのが九州説

629日本@名無史さん2019/06/10(月) 16:43:24.44
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から同じ祭祀連合の内部の伊都国に一大率を派遣し、九州を検察し恐れさせたという空想を、どのような詭弁で、整合性を守りながら説明するのだろうか。。。

630日本@名無史さん2019/06/10(月) 16:45:33.26
>>629
空気のシャワーで脳細胞を構成する炭素14を崩壊させられ、精神が破綻し、統合性が失調した者には、魏志倭人伝時代の桜井市から伊都国に一大率を派遣し、九州を検察し恐れさせたという空想を、説明することは、出来ないな、

631日本@名無史さん2019/06/10(月) 16:46:26.94
ヤマトという言葉は現代の奈良県と重なる国名を指している言葉だったのではなく、ヤマトという言葉は道が八方向に延びる起点、つまり、国の中心という意味だったのだな。。。

632日本@名無史さん2019/06/10(月) 16:48:42.89
>>631
いにしえのヤマトという言葉は、古倭と書き、クヤマトと呼ばれた可能性が高いな。。。。

633日本@名無史さん2019/06/10(月) 16:49:23.77
>>632
熊本のことでは、ないのかな。。。。

634日本@名無史さん2019/06/10(月) 16:50:01.25
>>585
天津神=九州倭人(筑紫)王、国津神=本州毛人(纏向)王 というこつ。

635日本@名無史さん2019/06/10(月) 16:51:09.95
九州説って「説」は存在しないんだよ
熊本説と宮城説じゃ根拠も結論も別々だろ
邪馬台国は九州のどこかにあるんだって程度の共通項じゃ、到底ひとつの説とは呼べないんだよ

636日本@名無史さん2019/06/10(月) 16:56:16.29
畿内説も似たようなもの。
最近では関西方面全体とか言ってボカしたりするしね。

637日本@名無史さん2019/06/10(月) 16:57:18.29
>>636
また九州説がウソをついてるな

638日本@名無史さん2019/06/10(月) 17:00:32.60
>>636
頭おかしい人?

畿内説は畿内説だ
昔からそうだ
邪馬台国≒畿内だという説なんだから邪馬台国畿内説という名前なんだ

639日本@名無史さん2019/06/10(月) 17:09:20.10
>>638
うんうん、それはいいけれど、卑弥呼がいた宮城は畿内のどこにあったの?

640日本@名無史さん2019/06/10(月) 17:12:23.76
>>628
>なにを言っても証拠がないのが九州説

畿内説も証拠ないだろw

641日本@名無史さん2019/06/10(月) 17:13:27.08
>>640
畿内説は証拠に基づいて推論するよ
九州説とは違う

642日本@名無史さん2019/06/10(月) 17:13:50.71
>>639
纒向

643日本@名無史さん2019/06/10(月) 17:16:43.70
>>641
畿内説を信じている人には「証拠」に見えるのかもしれんが、そうじゃない人にはそう見えないものばかりだけどな

644日本@名無史さん2019/06/10(月) 17:16:53.77
キナイコシは頭おかしいとみずから認める纏向は宮城ではないからな

645日本@名無史さん2019/06/10(月) 17:20:44.67
>>644
また日本語のおかしい九州説

646日本@名無史さん2019/06/10(月) 17:21:13.66
>>643
という証拠は?

647日本@名無史さん2019/06/10(月) 17:22:21.46
>>628
畿内説を支持てる著名な学者名を数名上げなさいよ
洛陽の骨董市で▲見つけた無名の人をいれてもいいよ

648日本@名無史さん2019/06/10(月) 17:24:07.12
>>643
また「証拠を出さない九州説」を帰納的に立証してしまう九州説って、ブーメラン自死が好きすぎ

649日本@名無史さん2019/06/10(月) 17:25:38.60
これが畿内説の証拠ニダ!
・カエルの骨
・桃の種(かじられていないやつ)

どや!

650日本@名無史さん2019/06/10(月) 17:26:51.10
>>647
白石石野寺澤森岡米田東新納柳田松本河上岸本・・・

651日本@名無史さん2019/06/10(月) 17:27:33.61
>>929
>帯方郡から狗邪韓国まで七千里でそこから周旋五千里の或絕或連の列島が倭国、合わせて萬二千里だ
その周旋五千里のうち渡海千里三回だから、単純計算では残りは二千里になる<

ダメだ。
まず、萬二千余里は、郡から女王之所都の折れ線的道のり里数であり、
「參問倭地、絶在海中洲島之上或絶或連、周旋可五千餘里」の「倭地」の里数ではないから、×。
そして、(女王國や邪馬壹國や倭國ではなく)「倭地」という限りは、
魏使らが実見し参問して通った半島南岸から侏儒國付近までの、
倭種の陸地の居住地までを含めなければならない、という事になる。
だから、周旋五千里に、
狗邪韓國から末盧國の間の3海峡の海上部分を含める事は、×。

652日本@名無史さん2019/06/10(月) 17:28:07.93
>>650橿考が多いなww

653日本@名無史さん2019/06/10(月) 17:29:30.03
倭人伝は中國の文献も加味し
>>628
畿内説を支持てる中國の著名な学者名を数名上げなさいよ
洛陽の骨董市で▲見つけた無名の人をいれてもいいよ

654日本@名無史さん2019/06/10(月) 17:30:38.48
>>932
ほら、大和説者は、「南→東」などの嘘付き騙しの指摘に、
答えられない
このように大和説はいつも、「史料事実の否定曲解のウソをつく

655日本@名無史さん2019/06/10(月) 17:31:54.31
石野は吉備説に鞍替えしたと思うが・・
違う?

656日本@名無史さん2019/06/10(月) 17:34:52.02
>>646
お里が奥山だなww

657日本@名無史さん2019/06/10(月) 17:36:52.69
ニュー速でウロウロするなよ奥山くんw

658日本@名無史さん2019/06/10(月) 17:41:56.62
全一病が悪化してるな

659日本@名無史さん2019/06/10(月) 17:44:04.51
>>658
>>1

そこまでのクダラン人間だよ奥山君は

660日本@名無史さん2019/06/10(月) 17:45:48.99
>>658
阿保丸出し 笑笑

661日本@名無史さん2019/06/10(月) 17:46:05.86
>>658
なんで反応するんだよw

662日本@名無史さん2019/06/10(月) 17:46:19.96
>>937
はい 、大和説者は、
「南は東の間違いだ」だから「南は東の間違いだ」だ、
という循環論法と同じような誹謗でした
大和者やスレ主らの言うことに
根拠のあったためし無し

663日本@名無史さん2019/06/10(月) 18:01:27.40
>>657
奥山君はニュー速で鼻つまみもんだよ

664日本@名無史さん2019/06/10(月) 18:03:17.24
>>661
滑稽な言動を見たら誰でも笑うだろう

665日本@名無史さん2019/06/10(月) 18:03:24.96
>>944
>基本的に陳寿が見ることができた記録をまとめて三国志を書いているけれど、
この参問倭地〜周旋可五千餘里は陳寿がいろいろ調べた資料から自分で考察して書いているからだよ
計其道里、當在會稽東冶之東とセットで考えれば理解できるだろ?<

ダメだ。ウソを付くなスレ主。
陳寿は「計其道里、當在會稽東治之東」と書いたのであり、
「計其道里、當在會稽東冶之東」と書いたのではない。

666日本@名無史さん2019/06/10(月) 18:05:06.35
>>663
奥山はニュー速に書き込んでないよ

667日本@名無史さん2019/06/10(月) 18:08:07.02
>>665
>陳寿は「計其道里、當在會稽東治之東」と書いたのであり、
>「計其道里、當在會稽東冶之東」と書いたのではない。

証拠は?

668日本@名無史さん2019/06/10(月) 18:10:53.04
>>954
>そんなデタラメあるか 「南」はどこから南なんだ <

投馬國へは、「至の前に移動した説明文言がない」から側副傍線行程説明であって、
魏使らは行っておらず、だから、
邪馬壹國女王之所都の「南」は、不彌國の南だ、という意味だ。

そんな「・・・・アホ詐欺」のインチキばかりしてるから、
大和説は死んだんだ

669日本@名無史さん2019/06/10(月) 18:11:10.43

670日本@名無史さん2019/06/10(月) 18:33:47.52
>>668
「南水行」と書いてあって
「南」の起点が不弥国
「水行」の起点が帯方郡って

そんな文章書いた奴がもし実際いるなら
そいつ確実に発狂してるから

671日本@名無史さん2019/06/10(月) 18:36:23.86
>>666
ニュー速にはついていけないの?

672日本@名無史さん2019/06/10(月) 18:48:05.13
ニュース板の奥山氏は名指しすると副回線で自演始めるからすぐ分かるよ。

673日本@名無史さん2019/06/10(月) 18:48:24.91
>>671
奥山は名無しで投稿してるよ

昔は
◆q8leUXpswで出てた 

このスレではテンプレ作業員
後は
ニュー速同様 自信が無いから あの手この手
ここ同様に適当に遊ばれてる

674日本@名無史さん2019/06/10(月) 18:50:28.02
ニュー速は特に知識は無い一般人用だからな

675日本@名無史さん2019/06/10(月) 18:53:20.11
>>624
過去スレ読んでみなさいよ
結構 あんた論破されるよ
悪いけど釣りじゃないよ 奥山じゃないよ僕は

6761  ◆q8leUXpsw. 2019/06/10(月) 18:54:22.44
テスト

677日本@名無史さん2019/06/10(月) 18:55:30.45
テスト成功
スレ主は奥山ジャン

678日本@名無史さん2019/06/10(月) 18:56:38.80
>>674
あんた奥山君?

679日本@名無史さん2019/06/10(月) 18:57:13.09
>>673
それ、なんか証拠でも?

九州説はいつも証拠が出せない

680日本@名無史さん2019/06/10(月) 18:58:51.95
>>977
>>要するに、発掘考古学者や教育委員会などの担当は、
「祇園山が卑弥呼の墓であった可能性が高い」という事を知っていて、
大和説のためには殉葬の否定をしなければならない、として、<

>そういう陰謀論に走るから 九州説は月刊ムーのレベルまで 堕ちた <

陰謀ではないねえ。
発掘担当者は、発掘事実や発掘実態はそのまま報告したが、
それに対する解釈をする時に、大学や教育委員会や文部省らに「忖度」した。

681日本@名無史さん2019/06/10(月) 19:00:48.41
本来ニュー速は何かニュースがあったときに一般人がワイワイ語るスレで
学問板ではない

682日本@名無史さん2019/06/10(月) 19:01:04.77
>>667
質問なのか
無知なのか
何れなの?
いつも 出てくるけど反論や自論無いの?

683日本@名無史さん2019/06/10(月) 19:05:23.83
>>682
質問ではなく詰問だな
答えられないとお前は論破される

684日本@名無史さん2019/06/10(月) 19:05:37.30
おーーーーーい

みんな聞けーーーーーーーーーーーー

>>1や奥山やキナイコシはなーーーーーー

お馬鹿キャラだから、ここまでスレが進むのだーーーーーーーーーーーーーー

感謝しろーーーーーーーーーーーーー

685日本@名無史さん2019/06/10(月) 19:06:26.30
>>680
したという証拠は?

686日本@名無史さん2019/06/10(月) 19:07:57.72
>>684
九州説はいつも鎧袖一触で論破され
悪口いうしか無いみじめな姿になる

687日本@名無史さん2019/06/10(月) 19:08:09.68
>>683
詰問か  ハァー(笑)

688日本@名無史さん2019/06/10(月) 19:10:23.29
>>686
イミフ

689日本@名無史さん2019/06/10(月) 19:10:33.08
>>687
ほら、敗者イター

690日本@名無史さん2019/06/10(月) 19:12:36.83
>>688
理解できないのは知能が低いということ

反論できるなら悪口オンリーにならない
なった人は反論できない人
つまり論破された人

691日本@名無史さん2019/06/10(月) 19:13:36.85
>>1さんよ

まだ 回答が無いのだけど
瀬戸内行路で陸行一月は何処から纏向まで

頼むよ答えてくれよ

逃げてんのかい

日本海航路説になっちゃうよ

692日本@名無史さん2019/06/10(月) 19:26:19.39
>>89
>そこで陳寿が使ったのが、九州島=「東冶」の東に届く、
南北が実際の2倍ある長大な「一つの島」であるように思わせるテクニック。<

陳寿は、「東冶」ではなく「東治」と推定したのであるから、×。

693日本@名無史さん2019/06/10(月) 19:28:51.07
>>90
>図解(模式図)だyo!・・・<

これも、「東冶」なんて嘘つき騙しであるから、ばつ。

694日本@名無史さん2019/06/10(月) 19:36:33.05
纏向の年代は炭素年代法でも何でもいいが
地方豪族連合の古墳造営基地でいいんでねーの

年代的には3世紀より古いと思うよ
文化程度が相当遅れてるから

695日本@名無史さん2019/06/10(月) 19:39:55.72
>>690
どあほ
あんたの投稿はねこれ
>九州説はいつも鎧袖一触で論破され
悪口いうしか無いみじめな姿になる<

内容が無いからイミフ

696アノネのネ2019/06/10(月) 19:43:49.61
倭人伝は中國の文献も加味し
>>628
畿内説を支持てる中國の著名な学者名を数名上げなさいよ
洛陽の骨董市で▲見つけた無名の人をいれてもいいよ

697日本@名無史さん2019/06/10(月) 19:49:53.73
>>695
ほら
悪口いうしか無いみじめな姿になってる
九州説はまた鎧袖一触で論破さたんだね

698日本@名無史さん2019/06/10(月) 19:50:07.01
石野逃げたのか、考えが変わったのかようわからん

699日本@名無史さん2019/06/10(月) 19:51:11.76
>>691
回答あっても無いことにする九州説
それは詐欺師

700日本@名無史さん2019/06/10(月) 19:59:24.47
>>91
>纒向遺跡は、奈良盆地東南部に所在する、
3世紀初頭に突如出現し、4世紀初めに営まれた大規模な集落跡である。<

「90度回転」男は名前からして×だし、
「文化庁」も「大和説という結論先にありき」人種だから疑わしいし、
3世紀初頭、という年代判定も、おそらく第X様式年代なのであろうが、
纏向と連動していてそれに続く石塚が庄内1で3世紀末であるから、疑わしい。

>平成20年からの調査で掘立柱建物は3世紀前半期とみなされるもので<

掘立柱建築の傍にある土坑からは庄内3が出ているから、
掘立柱建築は3世紀末以後になり、文化庁は×。

701日本@名無史さん2019/06/10(月) 20:06:56.31
>>92
>また、建物廃絶後の庄内式期の長径4.3メートル、短径2.2メートルの土坑からは、線刻のある土器や底部穿孔の土器、
ヘラ状木製品や黒漆塗りの弓、剣形木製品などが出土した。<

土坑が幾つあったのか?は知らんが、
掘立柱建築の傍の土坑からは庄内3が出土していた筈であり、
だから建物廃絶後ではなく、建物使用中が庄内3であったのであった、
という事になる。

702日本@名無史さん2019/06/10(月) 20:24:13.44
>>94
>このほか、この遺跡で注目される出土遺物としては、東海をはじめ、
南関東から北部九州という広範囲にわたる他地域の土器が出土していることである<

筑紫の土器は0であり、半島土器も殆ど見られない事が、非常に重要である。

>また、同時期の居住域や墓域及び祭祀遺構、大溝などが広範囲に広がっていることも明らかとなった。<

「大道が幾つもある弥生銀座」に比べて、纏向には大道が全くない事が致命的であるし、
居住域も小さく離れている事も、大都市としては、致命的である。

703日本@名無史さん2019/06/10(月) 20:25:22.03
647 652 653 655 656 657 659
660 663 673 675 676 677 678
682 684 687 688 691 695 696
698

704日本@名無史さん2019/06/10(月) 20:35:16.47
何かの試験の合格者が、発表されているのだろうか、、、

703 名前:日本@名無史さん 2019/06/10(月) 20:25:22.03
647 652 653 655 656 657 659
660 663 673 675 676 677 678
682 684 687 688 691 695 696
698

705日本@名無史さん2019/06/10(月) 20:37:05.10
>>96
>本古墳群は、定型化した前方後円墳より遡る庄内式の段階に築造が始まった。
この古墳群の墳丘と相似形のものは九州から関東にあるが、分布の中心で規模も大きく、
すでに大和地域の首長を中心とした政治連合ができあがっていたことを示唆する。<

いや、大和〜関東の初期前方後円墳群は、
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の将軍や部将や、
それを応援した大和などの大倭職の部将らの墓であり、
征服した毛人や出雲系銅鐸祭祀部族などを「墓守り人」にして造らせた墓である。

706日本@名無史さん2019/06/10(月) 20:37:09.62
>>704
邪馬台国畿内説を宣伝するプロ固定が、不合格だった確率は、75パーなのではないのかな、、、

707日本@名無史さん2019/06/10(月) 20:38:56.46
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から同じ祭祀連合の内部の伊都国に一大率を派遣し、九州を検察し恐れさせたという空想を、どのような詭弁で、整合性を守りながら説明するのだろうか。。。

708日本@名無史さん2019/06/10(月) 20:41:35.20
剣形木製品とは、何だろうか、、、

709日本@名無史さん2019/06/10(月) 20:44:52.84
>>708
なぜ、合戦の武器を木で作製したのだろうか、、、

710日本@名無史さん2019/06/10(月) 20:48:01.91
破綻した邪馬台国畿内説の宣伝係員に、元気がないな。。。

711日本@名無史さん2019/06/10(月) 20:50:01.72
>>710
邪馬台国九州論の優れた学者達に、完全に論破されてしまったからではないのかな、、、

712日本@名無史さん2019/06/10(月) 20:54:46.63
今日は、社会での労働時間の合計が、少し長すぎたので、このスレッドで、笑いリラックスして元気になれば良いな。。。

713日本@名無史さん2019/06/10(月) 20:56:52.01
>>103
>「陸行一月」は確かに纏向だけど、倭国大乱後、
北部九州首都圏が卑弥呼を帥升亡き後の奴国王に迎え、倭王になったと思われる。<

「南≠東」などに拠って、×。

714日本@名無史さん2019/06/10(月) 21:01:10.63
この意見は、頭の悪い者が思いつく意見だな、、、

635日本@名無史さん2019/06/10(月) 16:51:09.95
九州説って「説」は存在しないんだよ
熊本説と宮城説じゃ根拠も結論も別々だろ
邪馬台国は九州のどこかにあるんだって程度の共通項じゃ、到底ひとつの説とは呼べないんだよ

715日本@名無史さん2019/06/10(月) 21:03:20.30
>>707
空気のシャワーで脳細胞を構成する炭素14を崩壊させられ、精神が破綻し、統合性が失調した者には、魏志倭人伝時代の桜井市から伊都国に一大率を派遣し、九州を検察し恐れさせたという空想を、説明することは、出来ないな、、、

716日本@名無史さん2019/06/10(月) 21:04:09.94
>>709
敗戦間近の日本は戦闘機を木で作ってたな。。。

717日本@名無史さん2019/06/10(月) 21:07:08.55
吉備と出雲の関係をどう捉えるかが、一つのポイント
吉備の特殊器台が出雲の四隅突出墓に供献されているから、祭祀に関して相互乗り入れに
近い関係があったように見える

この吉備と出雲が「一体の投馬国」なら、大和・吉備・奴国の連合という枠組みで
魏使の訪問する投馬国は出雲というのも可能となる

718日本@名無史さん2019/06/10(月) 21:08:12.91
>>109
>対馬や壱岐に行くまでの里数からして違っているわけだし、実際より遠くに見せかけたことは明らか
最初は細かく書いてみたけど、どうしても遠くにあることにできそうにもないから、
最後は適当に多めの日数書いて遠い場所にあることにしただけ<

韓の方四千里や、七千余里や、三つの海峡の各千里余里や、
對海國や一大國の大きさや、末盧國〜伊都国などの「里数」記載が、
実際の地理的距離とは、(6倍位も違わず)、
周髀算経里と比べて2割位の差異の範囲内の収まっているから、
信頼性がかなりある。

719日本@名無史さん2019/06/10(月) 21:08:38.74
邪馬台国畿内説を宣伝するプロ固定が出現するまで、孫達が作製してくれた、亡くなってしまった僕達の飼い犬の散歩コースの風景と飼い犬の合成写真のアルバムを、眺めれば良いな。。。

720日本@名無史さん2019/06/10(月) 21:10:48.77
>>112
陳寿は、「会稽東冶」なんて、書いてもいないから、×。

721日本@名無史さん2019/06/10(月) 21:16:38.28
ここ半年ぐらい邪馬台国ネタを覗いてきたが、畿内説の崩壊っぷりときたら半端じゃないな。
テンプレは修正必須だぞw

722日本@名無史さん2019/06/10(月) 21:24:37.43
>>119
皇帝の命令でやって来た魏使らが「距離同様に戸数も周旋も数字を盛る」という嘘つき騙しが、
部下や後続の使者らに拠ってバレたら、
魏使らの首が危ないから、
彼らはしない。
いい加減に目を覚ましたらどうだ?。

723日本@名無史さん2019/06/10(月) 21:36:19.75
>>717
>吉備と出雲の関係をどう捉えるかが、一つのポイント


吉備忌部と出雲忌部 だと、何度言えばw   @阿波

724日本@名無史さん2019/06/10(月) 21:49:11.88
>>122
>>21枚の「尚方作」方格規矩鏡の中心になる鏡は、
>>サイズ的に、洛陽出土の「尚方作」鏡の中心になっており、<

>「陶氏作」鏡を出土地不明って言った奴の言うことなんて、誰も信じないよw
洛陽出土鏡なんて、知っているわけがないもんなw<

www.ne.jp/asahi/isshun/original/mater10.html
の、洛陽出土の「尚方作」方格規矩四神鏡のサイズを見てごらん。
18.3cmと19.8cmであり、
列島出土の「尚方作」方格規矩鏡は、18.1cm、17.4cm、16.1cm、
20.3cmだが、
列島出土の△は、ほぼ全て、22cm位以上の鏡ばかり。

という事は、これじゃ、列島の「尚方作方格規矩鏡」は、洛陽の魏の工房で造られた「尚方作」鏡だった、
という事になってしまう。

725日本@名無史さん2019/06/10(月) 22:23:41.92
古呆けた学部の、古呆けた自称学者が、優れた日本人達を騙せないので、
朝鮮人に同調し、唯物史観に塗れた邪馬台国畿内説は、破綻してしまいました、、、

726日本@名無史さん2019/06/10(月) 22:52:23.03
>>148
>三重県は、余傍国最初の(邪馬台国の)次有「斯馬國」が伊勢志摩だから、
女王国の内だよ
此女王境界所盡よりも前に記述されているからね
三重県が邪馬台国だとは誰も言っていないなww <

「南≠東」などに拠って、×。

>>瀬戸内航路で何処から纏向までが陸行一月か説明できないキナイコシ<

>だから、そこのところはテンプレよりも日本海航路が正しいと思う<

「南≠東北」などで、×。

727日本@名無史さん2019/06/10(月) 23:07:08.09
>>151
>「王都級の遺跡」は日本中のどこにでもあるものじゃないだろ?<

梁代になっても、列島には、九州倭国と、出雲文身國と、越の大漢國と、
侏儒國と、女國が記録され、他にも蝦夷の国やアイヌもいたようだった。

>日本最大の王墓の第一候補となる墳丘墓が累代的に築造されている地に、<

大きな墓は、大きくする必要と、その人員が確保出来る事が必要であり、
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五国」の将軍らにとっては、
支配出来た毛人や出雲銅鐸祭祀部族に威圧する必要があった事と、
彼らを「墓守り人」に出来たから、巨大古墳が出来たの。
大規模で特別な建物軍を含む計画的に築造された大面積の遺跡がある<

>その「王都級の遺跡」の年代が3世紀だってのが重要なんだよ<

最初期の石塚は、3世紀末なの。

728日本@名無史さん2019/06/10(月) 23:22:07.07
>>153
>纏向は3世紀に始まり、王宮級になったのが4世紀半ばだな。<

纏向の始まりには、
九州倭国の「東征毛人五十五國」で唐古鍵を征伐支配出来た、
という事が必須であったんだろうなあ。

>邪馬台国は3世紀末期にすでに消滅している。<

こりゃ、九州の邪馬壹國の事のようだが、
「ヤマイ」という地名は、
唐の李賢が太宰府付近の地名として「邪摩惟」という地名を記載したから、
残っていた。

729日本@名無史さん2019/06/11(火) 00:05:48.32
だから、どこの池沼の集団なんだ?と聞いているんだよw


どこかの学者?それとも宗教などの信者?

730日本@名無史さん2019/06/11(火) 00:09:40.27
>>720
>陳寿は、「会稽東冶」なんて、書いてもいないから、×。

三國志卷六十/吳書十五/賀全呂周鍾離傳第十五
「會稽東冶」五縣賊呂合、秦狼等、爲亂。
四年、廬陵賊、李桓、路合、「會稽東冶」賊、隨春、南海賊、羅雌凵A一時並起

陳寿は「會稽東冶」て書いてるねぇww

731日本@名無史さん2019/06/11(火) 00:22:36.96
記紀は正しいんだー、14C年代は信じないんだー、って好き放題だな、おい!ww

高天原の描写が弥生社会だというのはよく言われることだけれど、
何百年も後から見て、500年前と600年前の区別って付けようがないんだよ
たとえ説話のもととなるでき事があったとしても、その時系列は再現できないし、
史実と捉えることはできない

記紀の内容は、雄略天皇以降はほぼ史実とみなせる(正確だとは言わない)
応神、仁徳辺りまでは、人物名とエピソードは実在と見られるが、紀年は追えない
崇神まではそれに相当する人物を想定することはできるが、史実とするのは困難
欠史八代は名前だけの伝承だろうし、歴史として復元するのは無理

記紀編纂の奈良時代から遠く離れるに連れ、信頼性が落ちていくのが当然
それを記紀に書いてあるから史実だって言われてもねぇ

繰り返すが高天原の実在を主張するやつは端から軽蔑してるww
神武の東征を史実だというやつも同様だ

732日本@名無史さん2019/06/11(火) 00:30:29.08
75パー 久々に聞いた
あれは笑ったなww

733日本@名無史さん2019/06/11(火) 00:30:45.88
>>731
>応神、仁徳辺りまでは、人物名とエピソードは実在と見られるが、紀年は追えない

実在を否定する根拠にはならないですね。

>欠史八代は名前だけの伝承だろうし、歴史として復元するのは無理

なんの事績もない王がいたらいけないの?
否定する根拠にはならない。
平成だって、昭和に比べたら何にもなかったなあと言われるかもしれない。

>記紀編纂の奈良時代から遠く離れるに連れ、信頼性が落ちていくのが当然

それはその通り。
でもそれは全面否定する理由にはならない。
まして、考古学的に九州が優勢だった時代が長くあり、中国の史書も古いものほど九州が倭国という想定で書かれている。
そうしたら九州から畿内への主役の交代がどこかで起きなければいけないのは必然。

734日本@名無史さん2019/06/11(火) 01:13:02.10
信頼できないものを根拠にした論も、当然に信頼できない

それを正しいと言い張るやつは軽蔑に値する

要するに、不確かなものを想像で補って作る論は、その想像で補うというところで
どんなデタラメでも可能になる

お前のやっていることはそういうデタラメのごり押しなんだよ
だから、軽蔑している

735日本@名無史さん2019/06/11(火) 01:14:37.58
>>731
14c年代は校正年代が地域似よって大きく異なるから最新のINTCAL13も欧州以外では信用できないというのがもうわかったからな
これからINTCAL13ましてもっと前の校正曲線を無条件に信じるのは科学的とは言えない
それ以前に14cは未知の影響が大きすぎる
案外熱ルミネッセンスの庄内式土器3世紀末から4世紀中頃が正しいのかもね

736日本@名無史さん2019/06/11(火) 01:18:49.66
記紀に書かれてるものを無条件に信じない奴も信じられないな
何はともあれ日本最古の歴史を綴った歴史書であることには変わりない
天皇家あげの神聖な歴史書としては不自然な描写が多すぎる
口伝は基とはいえ古の歴史を奈良時代にできる範囲で後世に伝えようとしたのは確かであろう
魏志倭人伝と奇妙に一致する箇所もあるので大いに参考にすべきてある

737日本@名無史さん2019/06/11(火) 01:35:49.25
少なくとも、大王も大王家も存在しない時代に、
男系直系の系譜がずっと続いていると言うのは明らかに不自然で、
フィクションが入っていると言わざるを得ない。

738日本@名無史さん2019/06/11(火) 01:39:28.98
まあよく見ると皇統の揺らぎもたくさん記されている。
だからこそ、創作ではなく、当時においてできる限りの記録を残そうとしたのだとわかる。
日本書紀など多くの一書を引用しているからね。
問題も多々あろうが、全否定するのは理性的ではない。

739日本@名無史さん2019/06/11(火) 01:51:05.45
>>738
つまり無批判に使ったらダメっつーことや

740日本@名無史さん2019/06/11(火) 02:06:44.30
>>735
庄内式土器3世紀末から4世紀中頃だと、北部九州の土器編年と合わないから無理

741日本@名無史さん2019/06/11(火) 02:30:15.44
それにしても、何なんだろう

子供のころの話

近所に河内のおっさんと呼ばれている人がいた、
河内という名前でもないし、そこの出身というわけでもないのに

川崎区というところの話

『河内のおっさん』

いつも一升瓶を持ち歩いていたから、
合っていると言えば合っている

742日本@名無史さん2019/06/11(火) 02:39:21.51
>>740
西新式土器ってすごい長い間使われてるから恣意的な解釈すれば早くも遅くもできるんだよなあ
しかもそういう奴に限って三雲遺跡の庄内式土器は新しいとか言い出す

743日本@名無史さん2019/06/11(火) 02:45:10.18
銀〜?という親戚がいるんだけど・・・、

何度も説明した

744日本@名無史さん2019/06/11(火) 04:26:11.72
>>735みたいな非科学ムーがますます九州説を眉唾に貶めている

745日本@名無史さん2019/06/11(火) 05:33:08.13
>>159
>倭人、在帶方「東南」大海之中 なのに
「南」至邪馬壹國、女王之所都。水行十日、陸行一月 だけでつくのだとしたら、
九州説が絶対に正しいと言い張る方角でも矛盾する <

いや、不彌國で「萬二千余里」はほぼ終わっており、
「水行十日陸行一月」は「女王之所都」へのへ所要日数の説明文言。
口先で、世間を騙すな。

746日本@名無史さん2019/06/11(火) 05:42:05.58
>>168
>唐子鍵遺跡が邪馬台国の王都に賛成だな
出土物が纒向と雲泥の差
たぶん、唐子鍵遺跡の楼閣から纏向古墳群のの労働者の奮闘を眺めていたらロマンがあるな <

残念ながら、「南≠東」などに拠って、×だな。

747日本@名無史さん2019/06/11(火) 05:48:10.46
>>177
>纏向の建物Dは、その1.5倍ある訳だからね。
あれをもし楼閣として復元したら、見た人間がみんな魂消るような、
巨大な宮殿になることは間違いない。<

どっちにしても、纏向は「南≠東」などに拠って×であり、
大和は、九州倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一国。

748日本@名無史さん2019/06/11(火) 05:51:35.13
>>745
口先で、世間を騙そうとしてるのは九州説だけど、それ無駄だから

「南至投馬國水行二十日」
「南至邪馬壹國(=女王之所都)水行十日陸行一月」
どちらも方位の起点と日数起算地は切り離せない
誰でも考えればわかることだから世間は騙せない

749日本@名無史さん2019/06/11(火) 05:55:40.07
>>746
つまり「南」コケたら九州説即死

750日本@名無史さん2019/06/11(火) 06:02:04.63
>>745
>いや、不彌國で「萬二千余里」はほぼ終わっており、

そこは「会稽東治之東」になりようが無いはるか北方だ
つまりその珍解釈は間違いで確定なんだよ

751日本@名無史さん2019/06/11(火) 06:05:15.38
>>193
阿蘇の見聞は、
秦王國から「後十日」の位置の都於邪靡堆の国の話として書いてあるんだから
大和説が×だ、ということだね

大和説死亡のお知らせだ

752日本@名無史さん2019/06/11(火) 06:07:24.37
>>194
>大和説では、阿蘇山の噴火を実見出来ず、

ほい
大和説が死亡

753日本@名無史さん2019/06/11(火) 06:10:51.15
>>197
>九州説でも水銀ある事になるじゃん 中国地方や四国も女王国の一員でいいじゃん

「倭国=大和」説死亡

754日本@名無史さん2019/06/11(火) 06:13:52.63
>>751
>阿蘇の見聞は、
>秦王國から「後十日」の位置の都於邪靡堆の国の話として書いてあるんだから

そのような史料事実なし
嘘をついた九州説が×で、死亡ということだね

755日本@名無史さん2019/06/11(火) 06:16:06.22
>>199
>石床や石敷き詰めなどの重量に耐えるものがないから、
屋根や高層などの重いものを付けた建築ではないので、×だ。

お、それ纏向にないな
筑紫にはまだ未発掘の場所が大量に残っている
大和説死亡のお知らせ

756日本@名無史さん2019/06/11(火) 06:18:47.71
>>752
>大和説では、阿蘇山の噴火を実見出来ず、
>ほい
>大和説が死亡

九州説は脳が死んでるな
推古朝の都は大和にあったという世間常識では
阿蘇のある九州も倭国の一部だ
なんの問題もない
むしろ隋使が阿蘇の噴火を実見したなどという史料事実はなくて珍説家による創作だ
脳が死んでるから九州説なんだろうけど

757日本@名無史さん2019/06/11(火) 06:20:07.51
>>753
>「倭国=大和」説死亡

いや、もともとそんな説ないから

758日本@名無史さん2019/06/11(火) 06:24:45.13
「倭国=大和」説なんてものが実在すると思ってて
しかもそれを水銀の産地問題で論破したと思い込んでる人って
発狂してる人以外にありえないだろ

759日本@名無史さん2019/06/11(火) 07:13:42.23
九州説には、筑紫説>>221(奴国説>>105)、熊本説(>随書「邪靡堆」)、佐賀説(吉野ヶ里)などがあるが、
纏向王権が国津神=毛人王権(大国主・大物主・饒速日)3代90年の遺跡で、それを天津神(邪馬台国&伊都国)が東遷して征服したことでは一致している。
欠史八代が纏向王家の末裔で、神武東征後大連として臣従し、6世紀末蘇我氏の仏教寺院に取って代わられるまでの300年間、前方後円墳を築造を主導した物部氏の娘を后に迎えていることもそれを裏付ける。
さらに九州王朝説>>391も存在する。

このように九州説は、中国文献(後漢書東夷伝、魏志倭人伝、梁書、随書など)と国内神話(古事記&日本書紀)、威信財(恣意的解釈が不可能な絶対年代)の大陸出土品との照合編年、
ヤマト王権の水銀鉱床独占、前方後円墳の分布、土器編年考古学との高い整合性を誇っているのに対し、
畿内説は単に、土器編年(恣意的操作が可能な相対年代)と(画文帯)神獣鏡+3重銅鐸鋸歯紋▲▲▲から国産説が以前根強く魏鏡説が確定しない三角縁神獣鏡の分布のみからの短絡で、
文献学を全く顧みず、恣意的に切って捨てる愚を犯していまっているのである。

760日本@名無史さん2019/06/11(火) 07:22:16.22
>>759
すべては「箸墓=卑弥呼の冢」から始まった似非考古学(土器編年繰り上げ操作+北部九州出土品の過小評価)の畿内説w

761日本@名無史さん2019/06/11(火) 07:31:59.03
>>759
>このように九州説は、中国文献(後漢書東夷伝、魏志倭人伝、梁書、随書など)と国内神話(古事記&日本書紀)、威信財(恣意的解釈が不可能な絶対年代)の大陸出土品との照合編年、
>ヤマト王権の水銀鉱床独占、前方後円墳の分布、土器編年考古学との高い整合性を誇っているのに対し、

すごい自画自賛だけど具体的内容何もないよね
それ誇ってるの、誰?
アマチュアのおじいちゃんだよね

中国文献と国内神話の照合?
それ、恣意的解釈100%なの、年代だけじゃないよね?


九州説威信財の大陸出土品との照合編年?
それ、誰がやってるの?
恣意的解釈が不可能な絶対年代?
平原1号が3世紀半ばとか明帝の下賜鏡とか言ってるやつ?
考古学者からも文献学者からも相手にされてないよね?

ヤマト王権の水銀鉱床独占、前方後円墳の分布、土器編年考古学との高い整合性?
それ、誰の学説?
見たことないな

762日本@名無史さん2019/06/11(火) 07:37:54.15
>>761
>ヤマト王権の水銀鉱床独占、前方後円墳の分布、土器編年考古学との高い整合性?


倭国(阿波)のパクリじゃないの?   @阿波  

763日本@名無史さん2019/06/11(火) 07:38:05.39
>>760
>すべては「箸墓=卑弥呼の冢」から始まった似非考古学(土器編年繰り上げ操作+北部九州出土品の過小評価)の畿内説w

「似非考古学」とか
「土器編年繰り上げ操作」とか
ただの悪口だよね?
具体的内容が何もなくて
一切反論をしてないんだもの

それって・・・
「九州説は論破されました」って宣言してるのと同じでしょ


九州説ってどうしてそんなに中身がないの?

764日本@名無史さん2019/06/11(火) 07:42:28.59
九州説じいさんの頭の中身がないから

765日本@名無史さん2019/06/11(火) 07:44:49.75
>>759
欠史八代(邪馬台国&伊都国混血王=天津神)が纏向王家の末裔・物部氏の妻(先祖スサノオ・大国主・大物主・饒速日など国津神)を娶ったというのは、まさに古代ヒメヒコ制(入り婿政治)。
ヒコ・彦(入り婿=男弟/マスオ)が行う政治的決断を、ヒメ・姫(卑弥呼/サザエ)が神(「姫の」先祖・磯野藻屑源素太皆)に報告し許可をもらう祭祀を担当し、国を動かす。
伊都国王・神武東征(崇神東遷)の九州(東遷)説ならヒメヒコ(入り婿)政治を説明できるが、畿内説だと神武・崇神の出自が説明できない上、
卑弥呼(鬼道政治=邪馬台国)男弟(一大率行政官=伊都国)が起源と思しき入り婿政治を行う必要もなく、ヤマト王権(大和朝廷)の政治形態に引き継がれていかざるを得なかった必要性も説明できない。

766日本@名無史さん2019/06/11(火) 07:53:02.83
>>759
>鋸歯紋▲▲▲から国産説が以前根強く魏鏡説が確定しない三角縁神獣鏡

相変わらず雑なことしか言わないなw
九州説の拠り所の平原一号墓の仿製鏡の方格規矩鏡にもしっかり鋸歯文があるんだが?ww
つまり平原一号墓の被葬者は銅鐸文化の継承者だなw
銅鐸の鋸歯文を大事に使ってるんだからww

なんてことはない、大陸の鏡にも普通に鋸歯文は使われているってだけ
それを銅鐸の鋸歯文とか言い出すからトンデモになる

調べもせずにキーワードだけでチェリーピッキングするのが九州説の体質だってよく分かるなww

767日本@名無史さん2019/06/11(火) 07:57:58.42
>>759
>威信財(恣意的解釈が不可能な絶対年代)の大陸出土品

それがな、大陸で作られてから倭國に伝来して墓に副葬されるまでの移動・伝世期間が
「恣意的に解釈されてる」んだよww

九州の遺跡はみんな古いんだ
卑弥呼の時代には廃れている

768日本@名無史さん2019/06/11(火) 08:04:03.07
>>760
で?九州説には卑弥呼の冢はあるのかね?平原1号w?祇園山w?

畿内説には…あるよ!(田中要次)>>208

769日本@名無史さん2019/06/11(火) 08:05:49.06
>>767
東遷説を裏付けてしまう畿内説、乙w

770日本@名無史さん2019/06/11(火) 08:06:41.59
仲哀天皇の宮は、なぜ、畿内ではないのだろうか、、、

771日本@名無史さん2019/06/11(火) 08:09:44.68
仲哀天皇の名は、足仲彦尊なのだったな。。。

772日本@名無史さん2019/06/11(火) 08:12:36.21
>>202
>遠くに見せかけたかもしれないが、その結果として一里が短かった。<

魏使らも陳寿も、大和説者らのような・・・・アホ詐欺師ではないから、
「遠くに見せかける」ような嘘つき騙しをしてはいけない事を知っているいるし、
そんな事はしなかった。

773日本@名無史さん2019/06/11(火) 08:13:57.05
稲依別王とは、何者なのだろうか、、、、

774日本@名無史さん2019/06/11(火) 08:22:53.73
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から同じ祭祀連合の内部の伊都国に一大率を派遣し、九州を検察し恐れさせたという空想を、どのような詭弁で、整合性を守りながら説明するのだろうか。。。

775日本@名無史さん2019/06/11(火) 08:26:08.65
なぜ九州説はまったく根拠を出さないのだろう



・・・ないからだよ

776日本@名無史さん2019/06/11(火) 08:33:54.49
>>213
>そのライン上に、倭国第二の大国、投馬国・出雲があるからだよ
魏使は倭国の情勢調査もお仕事だから、奴国、投馬国、邪馬台国は
立ち寄る必要がある <

「南≠東」などに拠って、×。

777日本@名無史さん2019/06/11(火) 08:36:09.98
米塚は、何時の時代に、出現したのだろうか。。。

778日本@名無史さん2019/06/11(火) 08:36:49.20
>>774
空気のシャワーで脳細胞を構成する炭素14を崩壊させられ、精神が破綻し、統合性が失調した者には、魏志倭人伝時代の桜井市から伊都国に一大率を派遣し、九州を検察し恐れさせたという空想を、説明することは、出来ないな、、、

779日本@名無史さん2019/06/11(火) 08:38:09.49
畿内説の最大の嘘は纒向を王都とか卑弥呼の宮殿跡と

短絡的に決めつけたことだと思う

780日本@名無史さん2019/06/11(火) 08:42:48.19
>>215
>残念ながら、九州説は「倭国は九州のみ」っていう主張なんだよ<

お気の毒だが、史料事実は、
倭國は、唐会要倭國伝の「正北抵新羅」などに拠って北部九州であり、
大和は、その倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一国であった、
に過ぎないんだよ。

781日本@名無史さん2019/06/11(火) 08:43:37.34
掘立柱の遺蹟は、卑弥呼を防衛した城址ではないな。。。

782日本@名無史さん2019/06/11(火) 08:45:34.83
>>781
城という字には、穴を掘ったり、土や石を積み上げたりして、防衛するという意味があるのだったなね。。。

783日本@名無史さん2019/06/11(火) 08:46:07.76
米塚は、何時の時代に、出現したのだろうか。。。

784日本@名無史さん2019/06/11(火) 08:46:28.68
>>217
>九州には冢(100人殉葬150m円墳)がないし、<

祇園山で十分だし。

>大和には集落はあっても王都(鉄・文字)がない。
つまり、双方の弱点を補う「九州(大和奥津城)説」が正しいのである。<

「南≠東」などに拠って、×。

785日本@名無史さん2019/06/11(火) 08:51:51.69
>>782
城という字には、穴を掘ったり、土や石を積み上げたりして、防衛するという意味があるのだったなね。。。
という部分は、
城という字には、穴を掘ったり、土や石を積み上げたりして、防衛するという意味があるのだったね。。。
とタイピングしたかったのではないのかな。。。

786日本@名無史さん2019/06/11(火) 08:54:22.51
>>224
>傍国は遠絶ってあるから九州では無いな
同様に邪馬台国も九州には無い <

邪馬台国なんて存在もしなかったウソつき騙し文言であるし、
傍国って、あくまで「傍」にある国だといっているのであり、
四国以東は「倭種」として区別しているようだから、
ほぼ九州島付近以内の国だな。

787日本@名無史さん2019/06/11(火) 08:57:59.77
>>767
>九州の遺跡はみんな古いんだ
やれやれ、考古学さえ読まねえのか……

788日本@名無史さん2019/06/11(火) 09:03:49.88
>>767
平原遺跡は倭国大乱より後だよ。
年代はほぼ一致している。

789日本@名無史さん2019/06/11(火) 09:21:24.32
>.226
>>だとしたらなんで出雲のことに全く触れられていないんだよw<

>触れられてるだろ?
ほら「南至投馬國、水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戶。」
戸数、道里が略載され、官名もきっちり記録されている <

投馬國は、南≠東などに拠って、×。

790日本@名無史さん2019/06/11(火) 09:27:34.11
柱の穴の址だけで、どのようにして柱が立っていた時期を、決定したのだろうか、、、

791日本@名無史さん2019/06/11(火) 09:33:15.40
>>790
柱の穴の址だけで、柱が立っていた時期を、決定できないので、
周辺の考古発見物体が、柱が立っていた時期に使用されていた物体だという仮定をし、
そして、考古発見物体の年代を検査する方法が正しいのだという仮定をし、
周辺の考古発見物体の年代を検査して決定したのではないのかな。。。

792日本@名無史さん2019/06/11(火) 09:35:56.04
>>791
つまり、仮定が間違っていれば、掘立柱の遺蹟は、5世紀以降の物体だった可能性もあるのだね、、、

793日本@名無史さん2019/06/11(火) 09:37:12.49
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から同じ祭祀連合の内部の伊都国に一大率を派遣し、九州を検察し恐れさせたという空想を、どのような詭弁で、整合性を守りながら説明するのだろうか。。。

794日本@名無史さん2019/06/11(火) 09:39:51.79
平原遺跡も祇園邪馬台国も、別にどうでもいいわ。

あのショボさでは、卑弥呼の墓の可能性は最初からゼロだもの。

795日本@名無史さん2019/06/11(火) 09:40:47.10
祇園邪馬台国→祇園山

796日本@名無史さん2019/06/11(火) 09:47:16.64
>>239
>Q:女王国の東の海を渡った千里先にある倭種の国は?
畿内説:東海、伊豆あたり。千里とは船で一日という意味だ。<

「女王國」の位置が、「南≠東」などで、×。

>Q:その理屈だと博多湾から投馬国(出雲)までも2日以内で到達できますが?
畿内説:九州説は捏造ニダ! <

「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
出雲は、「南≠東北」などに拠って、×。

797日本@名無史さん2019/06/11(火) 09:54:49.72
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。。。
という意見や、
弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。 。。。
という意見は、本当は、誰の意見を加工したのだろうか。。。

798日本@名無史さん2019/06/11(火) 09:55:17.49
南は東の間違いでは無いので、
畿内説は既に破綻しています。

「混一疆理歴代国都之図」オリジナル
http://imgur.com/05nzzbI
これと同じものが、島原市の寺で発見されている

799日本@名無史さん2019/06/11(火) 09:56:19.12
>>256
>伊都国に海があるとも書いてないねぇww バカ丸出しw <

「皆臨津搜露」と書いてある。

>細かな地勢は倭國のどの国についても書いてない <

末盧國は海岸の漁労を書き、
不彌國は投馬國への「水行二十日」の出航国とされている。

800日本@名無史さん2019/06/11(火) 09:56:22.24
>>796
「畿内」なんて存在もしなかった?

瞬間的にバレる嘘を平気でつける神経に驚嘆
九州説すげえ

801日本@名無史さん2019/06/11(火) 09:56:34.04
>>797
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。。。
という意見や、
弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。 。。。
という意見は、頭が悪い者が思いついてしまう意見なのではないのかな。。。

802日本@名無史さん2019/06/11(火) 09:57:03.25
>>765
卑弥呼の鬼道政治とは要するに青森県恐山のイタコ政治だろうな。

吉野ヶ里の主祭殿2階の大広間で男弟を衆議(下)院議長を中心に加盟30カ国の王たちの意見がが二択に煮詰まった段階で、
女王卑弥呼が参議(上)院議長として3階に上がってあの世の神を降臨させ、お告げ裁定を下す。

803日本@名無史さん2019/06/11(火) 09:58:30.70
>>787
>やれやれ、考古学さえ読まねえのか……

具体的な指摘はゼロw
いつも必ずゼロ、それが九州説クオリティww

こちら側からの以下の「具体的な指摘」には一切返事がないww

これは何度も指摘しているのに九州説側から返事がないポイントなんだが、
「特徴的な特殊な形状」というのは、単にくびれていること「だけ」
実際にはこんな形
邪馬台国畿内説 Part467 	->画像>50枚

そして、平原1号墓から出土の遺物は、この図の左端の赤いやつ
邪馬台国畿内説 Part467 	->画像>50枚

この断片で、くびれてるって言えるか?

そして、これは漢代の耳璫の形状
邪馬台国畿内説 Part467 	->画像>50枚

晋代じゃなくてもくびれた耳璫は出土している

つまり、平原1号墓の耳璫のくびれた形状をもって、
「晋代に特徴的な特殊な形状」とするのは無理があるし、
平原1号墓の編年を遅くする根拠が、それしかない時点で無理筋

ガラスの管玉については、丹波の王墓でも大量に出ている
「同類のものは、日本からは出土せず」というのは意味がない

804日本@名無史さん2019/06/11(火) 10:00:57.43
>>799
>「皆臨津搜露」と書いてある。

九州説でも伊都国=佐賀説だと、一大率は臨津搜露のたびに港・津まで出向くらしいよww
つまり、「皆臨津搜露」とあることは、伊都国に海があることを意味しないらしいww

九州説の詭弁によると、ねww

805日本@名無史さん2019/06/11(火) 10:02:45.28
僕達の研究が正しければ、ロシアのルーレットは、ロシアの革命で出現したルーレットなのだったな。。。

806日本@名無史さん2019/06/11(火) 10:03:35.21
>>799
>不彌國は投馬國への「水行二十日」の出航国とされている。

で、不彌國はどこにあるんだい?
出発方向が南なんだから、南向きに海が開けてるところだよな?

北部九州にそんな場所、あったっけ?(すっとぼけ)
出発方向じゃないなら、末盧国から伊都国の東南は出発方向しか
書いていないというザラゴキ理論は崩壊

807日本@名無史さん2019/06/11(火) 10:04:03.17
>>802
平屋の宮室はあるが、楼閣なし、城柵なし、厳かに設けてない(木製板壁一枚w)平屋の纏向宮殿じゃ、民を惑わす鬼道政治はムリポw

二重環濠城柵、楼観4棟、クランク状で厳かに設けた出入口…吉野ヶ里のような北部九州の3階建ての宮室(主祭殿)でこそ可能だ。

808日本@名無史さん2019/06/11(火) 10:04:53.20
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。。。
という意見は、
ロシアのルーレットを出現させたロシアの革命で起こったことを、モデルにしている可能性があるな。。。

809日本@名無史さん2019/06/11(火) 10:06:53.77
それにしても、弥生的青銅器祭祀という言葉を考えた者は、頭が悪いな。。。

810日本@名無史さん2019/06/11(火) 10:08:36.56
ロシアのルーレットを出現させたロシアの革命では、唯物論によって、教会が弾圧されたのだったな。。。

811日本@名無史さん2019/06/11(火) 10:10:31.75
>>810
やはり、、、、
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。。。
という意見は、 唯物論による思想で、教育された頭の悪い者が思いつく意見だね。。。

812日本@名無史さん2019/06/11(火) 10:11:42.38
3世紀の南海トラフ地震で畿内は崩壊状態だったんだよな。

813日本@名無史さん2019/06/11(火) 10:13:23.56
>>807
そんなものは三世紀の九州に無いんだよ

814日本@名無史さん2019/06/11(火) 10:14:53.59
唯物論による思想で教育されると、頭が悪い者になるのではなく、
頭が悪い者が、唯物論による思想で教育されると、間違った意見を考え付くのではないのかな。。。

11 ◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:08:51.09
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる

815日本@名無史さん2019/06/11(火) 10:15:45.46
>>788
>平原遺跡は倭国大乱より後だよ。
>年代はほぼ一致している。

何と一致してるの?
卑弥呼の墓じゃないことは確定してるよね?

816日本@名無史さん2019/06/11(火) 10:17:16.53
>>802 >>807
死ぬことを「鬼籍に入る」つまり「鬼の仲間入りをする」「鬼になる」というからね。

まさに3階建ての主祭殿(宮室=国会議事堂)は、卑弥呼の「鬼道」政治をするに相応しい構造だ。
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c301.html
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c310.html
https://amanaimages.com/info/infoRM.aspx?SearchKey=25905026218

817日本@名無史さん2019/06/11(火) 10:18:03.46
>>814
反論しないで悪口だけ言う
と言うのは
頭の悪い者のすることだ
しかも極度に

818日本@名無史さん2019/06/11(火) 10:18:37.70
>>260
>>やまたいこくの中心は海に近い所だよ<

>陸行一月はガン無視ww<

「不彌國で萬二千余里はほぼ終わっている」事をガン無視。

819日本@名無史さん2019/06/11(火) 10:20:27.74
>>818
「不彌國で萬二千余里はほぼ終わっている」
というのは倭人伝をガン無視

820日本@名無史さん2019/06/11(火) 10:20:49.63
弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。 。。。
という意見は、時代の時間を間違えているだけではなく、、、自然環境変化に起因する社会構造変化、、、という、頭の悪い者が考え付く言葉が紛れ込んでいるな。。。

821日本@名無史さん2019/06/11(火) 10:21:43.50
>>816
明らかにお卑弥呼の時代じゃないものしか出せない九州説って
明らかにオワコンだよね

822日本@名無史さん2019/06/11(火) 10:23:08.13
>>820
唯物論による思想で教育されると、頭が悪い者になるのではなく、
頭が悪い者が、唯物論による思想で教育されると、間違った意見を考え付くのではないのかな。。。

11 ◆UiepmfCeDJqf 2019/06/08(土) 11:08:51.09
弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える

823日本@名無史さん2019/06/11(火) 10:24:24.77
お卑弥呼の時代には、鉄の武器が、九州に溢れていたのだったな。。。

824日本@名無史さん2019/06/11(火) 10:25:25.30
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から同じ祭祀連合の内部の伊都国に一大率を派遣し、九州を検察し恐れさせたという空想を、どのような詭弁で、整合性を守りながら説明するのだろうか。。。

825日本@名無史さん2019/06/11(火) 10:28:13.51
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。 。。
という意見は、庄内併行期が倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当するという仮説を前提にしているのだな。。。。
だが、朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
庄内併行期が倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当するというという空想を、どのような詭弁で、整合性を守りながら説明するのだろうか。。。

826日本@名無史さん2019/06/11(火) 10:30:41.50
>>765 >>802 >>816
なるほど、鬼道政治はイタコ(コックリさん)+ヒメ(巫女)ヒコ(男王)政治ってことか!!
邪馬台国時代は、卑弥呼(サザエさん)が、男弟(カツオ)がまとめてきた30カ国の王たちの二者一択を、
卑弥呼の先祖(磯野藻屑源スタミナ)の霊を降臨させて、どちらかを選ばせ(コックリさん)「神託」として2階の大広間に控える王たちに告げる。

卑弥呼の宮殿かどうかはさておき、吉野ヶ里千余戸(5,500人)の終焉が3世紀後半というのも、意味アリ気w

827日本@名無史さん2019/06/11(火) 10:32:48.43
>>267
>墳丘サイズはその築造にかかる動員力=国力を直接示す指標
北部九州は、地方首長の権力伸張に乗り遅れた地域なんだよ
そんなところに倭王がいる訳ないだろ?<

卑弥呼も壹與も、軍事力行使の直接的担当者ではなく、
庶民層からの?共立の平和的?シンボル的な女王。
それに、魏の薄葬令の制約もある。
当然墓は、遺族が采配した常識的なサイズ。

それに引き加え、「東征毛人五十五國」などのような軍事的征服をした将軍らは、
薄葬令の制約もなく、
征服民を威圧するためにも、巨大墓を造らせる。

828日本@名無史さん2019/06/11(火) 10:37:06.97
>>270
>普通に怡土郡でいいよ? 三雲遺跡群がその中心
魏志倭人伝には伊都国に海があるともないとも書いてないだろ?
周りが山だと書いてないから、奈良盆地じゃないってのは無意味だってこと <

伊都国は「皆臨津搜露」出来る位置。
大体、前原付近から糸島水道付近。

829日本@名無史さん2019/06/11(火) 10:42:47.98
>>826
>卑弥呼の宮殿かどうかはさておき、吉野ヶ里千余戸(5,500人)の終焉が3世紀後半というのも、意味アリ気w

つまり、東遷説(筑紫の邪馬台国が纏向王権を征服)が正しい。

邪馬台国時代の「男弟」(磯野カツオ)が、東遷後のヤマト王権時代では「更立男王」神武「複立男王」崇神(フグ田マスオ)に、
邪馬台国時代の巫女女王「卑弥呼」「台与」が、東遷後のヤマト王権の「併合した纏向王家の大物主&饒速日の物部氏の娘たち」に取って代わったということ。

830日本@名無史さん2019/06/11(火) 10:43:43.63
>>272
>その九州倭国の「東征毛人五十五国」の中の一国である
という説を盲信してる時点で あんた・・・ 可哀想なひとだね<

「自昔・・・東征毛人五十五國」は、倭王武が宋の皇帝に宛てた公式の上表文であり、
宋書にまで転載されたものの一部だ。
そんな文の価値が判らないなんて、あんた・・・可哀想なひとなんだろうね。

831日本@名無史さん2019/06/11(火) 10:55:01.71
稲荷山古墳の鉄剣に、
『若い頃、雄略天皇にお仕え出来て名誉だったぜ』
と書いてるんだから、
関東と南東北あたりが東征毛人五十五國なんでしょうよ。

832日本@名無史さん2019/06/11(火) 10:58:52.82
>>816
吉野ヶ里の主祭殿の大広間の面積は妻側12.3m×平側12.7mだから156u(約50坪=約100畳)
邪馬台国の加盟国が30カ国前後だから、各国王(議員)席で「起きて半畳寝て一畳」で30畳。
3階への階段を背にした卑弥呼(参議院議長)席と男弟(衆議院議長)席で8畳程度、書記官などの官僚が周囲の板の間で取り巻いて、大体100畳あれば事足りるのではないだろうか?
https://akiou.wordpress.com/2015/12/06/yoshinogari-p2/

平屋で、間仕切り壁だらけの纏向宮殿じゃ↑こういう鬼道(ヒメヒコ&コックリさん)政治は無理だねw

833日本@名無史さん2019/06/11(火) 11:05:27.76
宋書の記事に見える
『東の毛人五十五國、西の衆夷六十六國』
は、数は盛ってるんだろうが、
これを上表した倭王武の認識としては、
(自分たちは日本列島の真ん中辺にいる)
との認識を示すものに他ならない。

だいたい、倭の五王まで九州に持って来ないと成立しないのかね?九州説は。
ほとんど妄想の域に入ってるぞそれは。

834日本@名無史さん2019/06/11(火) 11:13:53.61
>>826 >>829
卑弥呼の鬼道政治の実態、ヤマト王権へと受け継がれたヒメヒコ制の実態、すべて具体的に判る九州説。

結論ありき「箸墓=卑弥呼の墓」で、土器(日用品)の編年繰り上げ操作、三角縁神獣鏡(すでに330枚出土)を魏鏡と言い張る畿内説w

835日本@名無史さん2019/06/11(火) 11:21:12.80
>>282
大和説は、
「南→東」などの嘘付き騙しがバレて、学説としては死滅してるから、
・・・・アホ詐欺師の大和説者はいても、
大和説の学者さんなんて者はいないな。
いたら教えてくれ

836日本@名無史さん2019/06/11(火) 11:30:37.94
>>831
>関東と南東北あたりが東征毛人五十五國なんでしょうよ。


関東忌部 だと、何度言えばw   @阿波

837日本@名無史さん2019/06/11(火) 11:31:05.31
>>284
>紀伊半島の水銀(丹)鉱床群を獲得するためという、邪馬台国東遷説には、説得力がある。
それまで北部九州は大陸半島から輸入していた朱(丹)を、
紀伊半島に杉植林中のスサノオが見つけ、大国主・大物主へと伝え、纏向が作られ、
最終的に銅剣銅矛(戦争)圏である北部九州が奥津城として占領征服し、
立ち入り禁止になっていったのだろう。<

「朱丹」は「赤い顔料」であり、水銀朱だけではなく、むしろベンガラでもよく、
「丹木」を魏に贈った話もあるし、
「南≠東」などに拠って、×。

838日本@名無史さん2019/06/11(火) 11:32:42.71
>>285
>反論あればヨロシク<

「南≠東北」などに拠って、×。

839日本@名無史さん2019/06/11(火) 11:41:02.69
>>293
でも具体的な大和説の学者の名前はなく、
現役も、学会学者も、文部省も、教科書会社も、右翼マスコミも、
全員「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・アホ詐欺師である事になり、
大和説はかれこれもう40年年くらい前に終わってるんだよ。

840日本@名無史さん2019/06/11(火) 11:46:36.41
>>839
もしもしお爺ちゃん、
全部ブーメランで、アンタに刺さってますよ。

841日本@名無史さん2019/06/11(火) 11:48:28.41
>>819
>「不彌國で萬二千余里はほぼ終わっている」

そこからまだ水行陸行合わせて2月かかるんだから、その読み方が間違ってるってだけww
島巡りとかインチキしてるから、デタラメになるんだよw

842日本@名無史さん2019/06/11(火) 11:50:38.38
>>827
>当然墓は、遺族が采配した常識的なサイズ。

王の遺族の采配としては非常識だよ、平原1号墓も祇園山古墳もね
つまり、倭王の墓じゃないってことだ

年代も合わないし、何を言ってるんだかww

843日本@名無史さん2019/06/11(火) 11:50:39.70
そこから2ヶ月という方がインチキ読み

844日本@名無史さん2019/06/11(火) 11:50:41.61
大和説を始めたいのであれば、まず真っ先に
南は東の間違いである事の根拠を示すべきである。

「混一疆理歴代国都之図」オリジナル
https://imgur.com/05nzzbI
これと同じものが、島原市の寺で発見されている

845日本@名無史さん2019/06/11(火) 11:51:59.85
三雲南小路遺跡などの王墓も平原遺跡と同じような規模だよ。

846日本@名無史さん2019/06/11(火) 11:52:02.40
陸行一月で、九州のどこからどこまで彷徨うつもりなんだろうね。

847日本@名無史さん2019/06/11(火) 12:05:05.13
島めぐり、道草、遊び呆け、、、

848日本@名無史さん2019/06/11(火) 12:10:33.09
いつから、三重まで畿内に入れたんだ!

849日本@名無史さん2019/06/11(火) 12:15:33.60
>>846
陸行一月だと紀伊半島も縦断してしまうなw

850日本@名無史さん2019/06/11(火) 12:17:03.11
陸行一月で、大阪湾岸から纏向までどのように徘徊したのだろうね。

851日本@名無史さん2019/06/11(火) 12:25:21.35

852日本@名無史さん2019/06/11(火) 12:25:33.63
>>848
七世紀から

853日本@名無史さん2019/06/11(火) 12:26:47.54
>>848
纒向が尾張と関係が深いから、そのうち愛知や岐阜も畿内に含めるかもよw

854日本@名無史さん2019/06/11(火) 12:33:45.19
>>850
日本海航路説にグウの音も出ないので、
瀬戸内航路で藁人形論法をすると。

855日本@名無史さん2019/06/11(火) 12:34:47.78
で、九州のどこからどこまで、
一月かけて徘徊するんだよ?

856日本@名無史さん2019/06/11(火) 12:35:44.60
>>844
>大和説を始めたいのであれば、まず真っ先に
>南は東の間違いである事の根拠を示すべきである。

とっくに示してますが、何か?

857日本@名無史さん2019/06/11(火) 12:38:30.83
>>854
テンプレ無視かい
ならば まずスレ主と議論することだなww

858日本@名無史さん2019/06/11(火) 12:40:10.58
>>844
そんなどうでもいいやつ2回も貼り付けるんだから、ドヤってるつもりだろ?
畿内説は「南を東と読み替える」説ではないんだよ
頓珍漢だ

859日本@名無史さん2019/06/11(火) 12:45:15.35
で、九州のどこからどこまで、
一月かけて徘徊するんだよ?

860日本@名無史さん2019/06/11(火) 12:45:23.11
>>858
顔真っ赤だぞwww

861日本@名無史さん2019/06/11(火) 12:58:56.42
>>860
見えていないのにウソをつく
九州説は毎日ウソばかりだ

w

862日本@名無史さん2019/06/11(火) 13:01:38.52
>>858
畿内説こそ、議論を頓知に巻いている。

863日本@名無史さん2019/06/11(火) 13:01:48.29
>>13
>(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,57も参照)

参照するのはFAQ57ではなく、FAQ58
次回修正お願いします

864日本@名無史さん2019/06/11(火) 13:03:32.19
行程記事の方位は、松浦上陸後から実際の地理と現に違っている。
距離もアバウト。

なので、戸数や地名や考古遺物や古墳から比定しなければならない。

それに当てはまるのは畿内のみ。

865日本@名無史さん2019/06/11(火) 13:08:43.03
>>864
>それに当てはまるのは畿内のみ。

まったく当てはまらないw

866日本@名無史さん2019/06/11(火) 13:09:14.67
で、九州のどこからどこまで、
一月かけて徘徊するんだよ?

867日本@名無史さん2019/06/11(火) 13:22:21.11
>>865
>まったく当てはまらないw

理由は?
なぜ九州説は理由を言わない

868日本@名無史さん2019/06/11(火) 13:33:53.94
>>724
>>「陶氏作」鏡を出土地不明って言った奴の言うことなんて、誰も信じないよw
洛陽出土鏡なんて、知っているわけがないもんなw<
>の、洛陽出土の「尚方作」方格規矩四神鏡のサイズを見てごらん。
>18.3cmと19.8cmであり、

洛陽東漢中期墓(尚方四神博局鏡)23.2 p

>列島出土の「尚方作」方格規矩鏡は、18.1cm、17.4cm、16.1cm、 20.3cmだが、

平原遺跡1号鏡(「尚方」方格規矩四神鏡)23.3cm、
大和天神山古墳1号鏡(「尚方」方格規矩四神鏡)23.0cm、
桜馬場遺跡(「尚方」方格規四神矩鏡)23.2cm、

>列島出土の△は、ほぼ全て、22cm位以上の鏡ばかり。

方格規矩鏡と三角縁神獣鏡の径を比較をするのか?
意味がないな。

>という事は、これじゃ、列島の「尚方作方格規矩鏡」は、洛陽の魏の工房で造られた「尚方作」鏡だった、
という事になってしまう。

飛躍したトンデモ結論だね。
出土遺跡の年代や鏡の分類すら考慮しないのに、
なぜ「魏の工房」と限定出来るんだ?

869日本@名無史さん2019/06/11(火) 13:38:05.48
途中までは詳しく距離を書いているのに突然日数になるのをどう考えるか
行ってみたら想像していた場所よりはるかに近かったため、ごまかしたのであろう
実際に書いてあった通りに行けば邪馬台国の場所はジャワあたりにせざるを得ない
いずれにせよ邪馬台国が日本列島内にあったとすれば畿内にあった可能性はゼロw

870日本@名無史さん2019/06/11(火) 13:38:32.75
帯方郡からの使者は、壱岐の南にある松浦市に上陸し、伊万里を経て、白石平野に抜け、魏志倭人伝時代には湾だった筑後川下流域を迂回し、河内町まで海岸を歩き、熊本城を目指すのだったな。。。

871日本@名無史さん2019/06/11(火) 13:42:06.91
>>867
初心者なら
過去スレ読めよ

872日本@名無史さん2019/06/11(火) 13:45:43.53
ここは九州説のスレ?

873日本@名無史さん2019/06/11(火) 13:46:06.21
>>870
河内の武将が狗奴国に寝返ったので、合戦になった可能性があるな。。。

874日本@名無史さん2019/06/11(火) 13:47:31.07
邪馬台国は北部九州に無いとすれば、あとは任那だな。
違和感のある水行〜の節は、帯方郡からの道のりであり、
陸路だと一月かかるという半島南部の倭国の領土。
半島南部に住む卑弥呼が、北部九州一帯を治め、その領域を女王国と呼んでいた。
これしか無いやろ?

875日本@名無史さん2019/06/11(火) 13:49:22.87
>>870
倭人は裸足なので、一番苦手な山道を短くするために、伊万里から白石に抜けるルートを選んだのだったな。。。

876日本@名無史さん2019/06/11(火) 13:50:21.13
>>857
>テンプレ無視かい
ならば まずスレ主と議論することだなww <

ムリ、テンプレはそのままにして置き(畿内説の主流は瀬戸内航路)
名無しで陸行1月の言い訳に日本海航路と>>1は言ってるだけだから


いつものこと  畿内に邪馬台国が有ればいいだけであとは詭弁

877日本@名無史さん2019/06/11(火) 13:51:27.72
>>871
いや、おまえがまずテンプレ読め

878日本@名無史さん2019/06/11(火) 13:54:29.23
BSで中国の学者が中国の史書記述の外国の距離は当てにならない
(インドやベトナムの距離も史書ではデタラメ)
説くカギは方位が重要とか言ってたよ

879日本@名無史さん2019/06/11(火) 13:55:55.12
>>870
熊本まで船で行けるのに、何でそんなに陸上を徘徊するんだよ。
相変わらず無理に無理を重ねるな九州説は。

880日本@名無史さん2019/06/11(火) 13:57:18.03
>>877
瀬戸内行路いいの?

881日本@名無史さん2019/06/11(火) 13:59:29.31
九州の西側の海流が逆向きなので、歩いた方が速く進めるのではないのかな。。。

879日本@名無史さん2019/06/11(火) 13:55:55.12
>>870
熊本まで船で行けるのに、何でそんなに陸上を徘徊するんだよ。
相変わらず無理に無理を重ねるな九州説は。

882日本@名無史さん2019/06/11(火) 14:00:06.20
>>879
九州の地図見た?

883日本@名無史さん2019/06/11(火) 14:02:50.93
メジャーじゃないけど
太平洋航路だと思うよ
投馬国 九州南部(宮崎) そこから南に向い黒潮で紀伊半島南端
そこから陸行一月で畿内

884日本@名無史さん2019/06/11(火) 14:03:53.51
>>881
マッチョな倭人も海流に逆らって、長崎半島まで南下することは、嫌だった可能性が高いな。。。

879日本@名無史さん2019/06/11(火) 13:55:55.12
>>870
熊本まで船で行けるのに、何でそんなに陸上を徘徊するんだよ。
相変わらず無理に無理を重ねるな九州説は。

885日本@名無史さん2019/06/11(火) 14:06:17.81
>>803
吉野ヶ里で止まってんだね、爺ちゃん

886日本@名無史さん2019/06/11(火) 14:07:25.55
>>869
逆だよ。
奴国以外は小国群立していた北九州とと比べ、
投馬国と邪馬台国は一気に広大な領域国家になったので、記事の記載が里から日に変わった。
言うまでもなく投馬国は出雲で、邪馬台国は畿内だ。

887日本@名無史さん2019/06/11(火) 14:11:52.34
>>886
日本海航路もない
船で行けば記載の通りの日数ならもっと遠くまで行ける
陸行の日数は丹後半島から纏向なら1ヶ月もかからない

888日本@名無史さん2019/06/11(火) 14:12:12.51
畿内説は日本海航路であって、瀬戸内海航路ではない
テンプレはおかしい

889日本@名無史さん2019/06/11(火) 14:18:33.38
>>872
畿内説スレなんだけど、九州説論者が珍説・奇説を大量投下して、
学問的にも教科書上でも決着がついていることを、
声の大きさだけで既成事実化を図ろうとしてるんだよね。

890日本@名無史さん2019/06/11(火) 14:19:19.27
>>888
テンプレは畿内説じゃなくて奥山説だからなあ。。。
そういう夢を見たという日記のようなもんだよ。

891日本@名無史さん2019/06/11(火) 14:20:31.83
>>887
で、大荷物を伴った長袖文官の魏使様たちに、
越前の鯖商人並みの速度で全力疾走させるんだろ?

892日本@名無史さん2019/06/11(火) 14:21:57.08
>>884
マッチョな倭人の半分は、狗奴国の味方をしていたので、 長崎半島まで南下し天草に近づくと、帯方郡の役人が海上の合戦に巻き込まれてしまい、死体になってしまう可能性も高いのではないのかな。。。

879日本@名無史さん2019/06/11(火) 13:55:55.12
>>870
熊本まで船で行けるのに、何でそんなに陸上を徘徊するんだよ。
相変わらず無理に無理を重ねるな九州説は。

893日本@名無史さん2019/06/11(火) 14:23:56.03
このスレは言わばチラシの裏みたいなもの。
ここでちょっと考えをまとめて、まとまったら本スレに戻って協議する。

894日本@名無史さん2019/06/11(火) 14:24:12.17
学問的にも教科書上でも決着がついていることというのは、邪馬台国の場所が決定できないということだけだな。。。

889日本@名無史さん2019/06/11(火) 14:18:33.38
>>872
畿内説スレなんだけど、九州説論者が珍説・奇説を大量投下して、
学問的にも教科書上でも決着がついていることを、
声の大きさだけで既成事実化を図ろうとしてるんだよね。

895日本@名無史さん2019/06/11(火) 14:28:52.33
>>894
自称考古学という学芸会による、唯物論を前提にした推理も、学問という物事に入ってしまっているのではないのかな。。。

889日本@名無史さん2019/06/11(火) 14:18:33.38
>>872
畿内説スレなんだけど、九州説論者が珍説・奇説を大量投下して、
学問的にも教科書上でも決着がついていることを、
声の大きさだけで既成事実化を図ろうとしてるんだよね。

896日本@名無史さん2019/06/11(火) 14:31:21.29
>>888
同意。
瀬戸内航路説は、畿内説の中でも、
出雲王国の存在が疑問視されていた頃のもの。少し古い。
荒神谷遺跡などが発見されて出雲王国の存在が広く認知された後は、
無理に投馬国=吉備として、瀬戸内海を通す理由がなくなった。

897日本@名無史さん2019/06/11(火) 14:36:30.80
日本海航路というのは、東向きというよりも、北東向きになってしまうな。。。

898日本@名無史さん2019/06/11(火) 14:37:50.79
テンプレは瀬戸内航路
>>5
>畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸・・・
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、
現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して
機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。<

>>29
> 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野
→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   邪馬台国畿内説 Part467 	->画像>50枚

899日本@名無史さん2019/06/11(火) 14:57:02.64
とりあえずこのテンプレ作った人は、畿内説(確定敵とかそうしたバカなことは言わない)の人ではなくて
纏向説の人てのが分かった

900日本@名無史さん2019/06/11(火) 14:59:17.16
出雲王国とは、どのような王国なのだろうか、、、
そして、出雲の国譲りとは、三輪山と何か関係性があるのだろうか。。。

901日本@名無史さん2019/06/11(火) 15:01:46.87
>>896
わざわざ日本海通らなくても、瀬戸内海通っていく方が波が低くてはるかに安全
対馬海流にのればいいから丹後半島あたりまではいいとしても、陸を進む距離が長くなりすぎてどう考えても遠回り

902日本@名無史さん2019/06/11(火) 15:25:30.92
>>901
・ツマ、ィツモの類似性
・隠岐に都万(つま)郡の地名が残存
・三輪山信仰と出雲王国の関連性
・古代出雲は九州と並び半島への表玄関で、渡来人も多数

これらを踏まえれば、日本海(出雲)ルートが有力と考えられる。

903日本@名無史さん2019/06/11(火) 15:28:15.18
>>898
いずれにせよ、それは出雲王国が伝説でしかなかった時代は、それしか説かまなかった。

けども今は状況が変わっている。

904日本@名無史さん2019/06/11(火) 15:35:16.60
説かまなかった
→説が立てようがなかった

905日本@名無史さん2019/06/11(火) 15:46:22.30
一方向に水行30日と言う行程記事の記述も、
山陰から丹後半島までの地形と符合する。

906日本@名無史さん2019/06/11(火) 15:47:56.22
>>886
東西350里(仮)の奴国の2.5倍程度の戸数しかない投馬国が広域国家のはずがないんだよなあ

907日本@名無史さん2019/06/11(火) 15:58:22.98
大阪は狗奴国だから瀬戸内海からヤマト入りは不可能

日本海側も若狭辺りは化け鳥のオロチがいたから通行できないな

熊野か宇陀方面からヤマト入りするしかない

908日本@名無史さん2019/06/11(火) 16:00:10.11
当時の日本列島の大部分は殷文化の影響が強かったんだろう

獣の肩甲骨を使った卜占、動物や人の生贄、殉葬、酒を使ったトランス状態で神託をきく、太陽神の末裔、
邪馬台国の記述や纒向遺跡の祭祀遺構に合致する

殷では女性は巫女として政治に参加し、戦争の最前線で活躍するなどその地位は非常に高く、飲酒は神事であった

桃の種は大量の酒を作った跡だろう

卑弥呼のいた邪馬台国、ヤマトは戦争の最前線

纒向遺跡は、対狗奴国の前線基地
河内、和泉の狗奴国と争っていたんだろう

909日本@名無史さん2019/06/11(火) 16:01:50.69
穢れを嫌う文化から見たら(狗奴国側から見たら)、生贄、殉葬は鬼の所業に見えたに違いない

中国大陸で殷が滅びたのと同じ理由で、日本列島でもその残酷さ故、奈良時代迄に殷の影響は排除されていったんだろうね

天平時代
令月 氣淑風和梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香
蘭はイチイ、アララギのことかな
中部地方以北の寒い地域に多い植物
珮は殷、周の時代に流行った飾り

立派な月は風と手を組み、梅が鏡についた白い粉を払った。東国では殷の末裔の影響が残っていた

纒向遺跡の外来系土器の主体尾張は、江戸時代まで人を生贄にする風習が残っていた
尾張藩が禁止令を出したほど

910日本@名無史さん2019/06/11(火) 16:07:18.68
>>906
博多湾平野の2.5倍の耕地があるという事は、山陰山陽の複数の平野に渡ると言う事で、
水行10日と言う距離の長さから考えても、領域国家であることは明らか。

911日本@名無史さん2019/06/11(火) 16:07:28.98
九州の30分の1ぐらいの面積で既に6/30国も消費してるわけで
そこから九州の2倍はある面積を消費して2ヶ国しかないというのはどう考えてもおかしいよね

912日本@名無史さん2019/06/11(火) 16:09:55.40
>>910
領域国家は別にいいけど
領域の割に戸数少なすぎだよね

913日本@名無史さん2019/06/11(火) 16:10:53.80
水行10日
→不弥国から水行20日

914日本@名無史さん2019/06/11(火) 16:33:21.55
九州では自分の事を「オイ」、相手の事を「ワイ」と言う。
関西では自分の事を「ワイ」、相手の事を「ジブン」と言う。

よって関西人は濊(ワイ)族の末裔である。

915日本@名無史さん2019/06/11(火) 16:48:18.32
魏志倭人伝記載の方角「南」が「東」で
あることを証明出来ない畿内説は、
既に破綻しています。

「混一疆理歴代国都之図」
https://imgur.com/PAiNBQf

なお、会稽東冶の東と記載されている
地域は、ちょうど九州島のあたりです。

916日本@名無史さん2019/06/11(火) 16:55:48.76
奴国の人口密度が突出しているんだよ。

917日本@名無史さん2019/06/11(火) 16:58:31.50
>>916
伊都国も一万
田畑たりてない壱岐でも三千だぞ

918日本@名無史さん2019/06/11(火) 17:02:53.37
>>843
>そこから2ヶ月という方がインチキ読み

どこがどうインチキなのか、
「具体的な論拠とともに示して」ね!

919日本@名無史さん2019/06/11(火) 17:06:49.06
>>845
>三雲南小路遺跡などの王墓も平原遺跡と同じような規模だよ。

うそつきww

三雲南小路遺跡は一辺約30メートルの方形周溝墓
平原1号墓の墳丘は12×8メートルしかない

面積比で比べると、900対96で10倍までは行かないけれど
かなり圧倒的な差があるぞww

こういう具体的な数字を出されたらインチキだと
すぐばれるような言い訳はやめなよw

920日本@名無史さん2019/06/11(火) 17:08:17.21
>>343
>前方後円墳を作る文化圏では最大の墳丘を作っている畿内が一番国力があったんだよ<

いや、畿内なんて存在もしていなかった嘘つき騙し文言であるし、
巨大な古墳を造るのは、必要があった事と、人手があった事。
そして、大和は、九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」のお手伝いで、
必要と人手が出来たの。

921日本@名無史さん2019/06/11(火) 17:08:40.10
平原遺跡も方形周溝墓なのに、なぜか周溝と墳丘を比べる詐欺師

922日本@名無史さん2019/06/11(火) 17:09:28.55
>>862
>畿内説こそ、議論を頓知に巻いている。

九州説って日本語が不自由なことってのが入会規約に書いてあるのか?

議論を煙に巻く
議論を頓知でごまかす、だぞww

頓知に巻くなんていう日本語はないww

923日本@名無史さん2019/06/11(火) 17:12:39.67
>>864
>行程記事の方位は、松浦上陸後から実際の地理と現に違っている。

魏使さまは唐津には上陸してないだろう
そのまま船で伊都国、奴国へ進むのが合理的だし当然だろう

末盧国から東南陸行五百里は、北部九州の地理の紹介記事に
佐賀へ抜けるルートが混入したってところだ

924日本@名無史さん2019/06/11(火) 17:14:04.68
>>345
「南→東」などの嘘付き騙しだバレて、議論に負けた・・・・アホ詐欺師の大和説は、
語るべきことがないから、すぐに、
人種差別的な文言を使って議論に勝ったかのような言い方をして、
世間や国民を口先で騙そうとする事に走る

925日本@名無史さん2019/06/11(火) 17:15:32.97
>>869
>行ってみたら想像していた場所よりはるかに近かったため、ごまかしたのであろう

でたらめだなぁww
「行ってみたらはるかに近い」って、水行20+10日、陸行1月もかかっているんだから、
むしろ思ってたより遠いくらいじゃね?

水行20日+10日、陸行1月が、九州説だとでたらめ解釈以外説明できないんだよなww

926日本@名無史さん2019/06/11(火) 17:20:02.64
畿内説の最後の拠り所が「水行20日+10日、陸行1月が」だけになっちまったなw

927日本@名無史さん2019/06/11(火) 17:22:41.37
>>925
帯方郡からの日程で解決

928日本@名無史さん2019/06/11(火) 17:26:25.20
>>878
>BSで中国の学者が中国の史書記述の外国の距離は当てにならない
>(インドやベトナムの距離も史書ではデタラメ)
>説くカギは方位が重要とか言ってたよ

そうかい?
旧唐書
皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴棟驕C
南去太和城十餘里,
東北至成都二千四百里,
東至安南如至成都,通水陸行

東北至 成都 二千四百里     ここまでが成都に至る経路
東至  安南 如至成都,通水陸行 ここが安南に至る経路

「方角」至「場所」「距離」、の形式で地理、旅程記事は書かれている
つまり「東」至「安南」「如至成都」の「如至成都」は安南までの「距離」
「如至成都」は、「成都に至るが如し」=「二千四百里くらい」で(安南に着く)って記述だよ

成都行きは方角も距離も大体正しい
邪馬台国畿内説 Part467 	->画像>50枚
安南行きは距離は正しいが、方角がおかしい
邪馬台国畿内説 Part467 	->画像>50枚

魏志倭人伝では、そのまま読めば末盧国以降、軒並み方角がおかしいのは確定なんだから
方角は正しいって無批判に言うのは無意味だぞww

929日本@名無史さん2019/06/11(火) 17:28:13.66
>>885はリンク間違いか?
リンク先には吉野ヶ里のよの字もないんだが?

930日本@名無史さん2019/06/11(火) 17:35:16.80
>>887
>船で行けば記載の通りの日数ならもっと遠くまで行ける
>陸行の日数は丹後半島から纏向なら1ヶ月もかからない

反論したかったら、もっと具体的に数値的な試算もつけて!

邪馬台国畿内説 Part467 	->画像>50枚
水行20日 福岡から出雲平野までが約300キロ 妻木晩田遺跡辺りまでだと370キロ
水行10日 妻木晩田遺跡から竹野までが約150キロ

これを水行1日20キロ程度とすると、
福岡から出雲平野まで15日、妻木晩田辺りまでだと18日  10日単位で丸めれば20日
出雲平野から竹野までで11日、妻木晩田から竹野で7日半  10日単位で丸めれば10日になる

陸行部分は170キロで、単純平均で30日で6キロ弱
1日ごとに移動日とすれば、2日で12キロで大荷物の移動で食料調達、調理の時間も入れれば
そんなものだろう

特に、問題はないぞ

931日本@名無史さん2019/06/11(火) 17:36:49.98
一般人の多いニュー速でも、論破されまくってしまう畿内説の宣伝係は、

解雇で良いな。。。

932日本@名無史さん2019/06/11(火) 17:37:07.83
>>928
全く同意。
末盧国上陸後、方位は実方位と現にズレている。
方位は正しいといくら息巻いても、現にズレているものはズレているんだから、
何をどうしようもないよね。

933日本@名無史さん2019/06/11(火) 17:40:02.81
>>932
独り言は、体に良くないぞ。。。

934日本@名無史さん2019/06/11(火) 17:40:53.11
>>906
>東西350里(仮)の奴国の2.5倍程度の戸数しかない投馬国が広域国家のはずがないんだよなあ

もちろん、広域の領域国家はありえないよ
転々と存在する平野部の首長連合体が、出雲=投馬国・可五万戸の実体

出雲大社や西谷墳墓群がある出雲平野、
熊野大社や出雲国府が置かれた松江平野、
妻木晩田遺跡のある大山付近、と出雲には複数の中心がある
西桂見墳丘墓のあるあたり(鳥取市)にも大きな勢力があるし

935日本@名無史さん2019/06/11(火) 17:42:12.48
>>908
>桃の種は大量の酒を作った跡だろう

桃は糖分が少ないからお酒は作れないよ

936日本@名無史さん2019/06/11(火) 17:45:14.99
>>921
>平原遺跡も方形周溝墓なのに、なぜか周溝と墳丘を比べる詐欺師

30メートルに対する1メートルはたいしたことないだろ?
なら、三雲南小路は29メートル四方でもいいよww

それでも、平原1号墓が圧倒的に見劣りするのは隠しようがない

レトリックで人をうそつき呼ばわりしてごまかそうとしても、
うそつきなのは九州説の方っていうのは確定事項ww

937日本@名無史さん2019/06/11(火) 17:48:03.63
>>930
水行1日で20km、陸行1日で6kmは、
速すぎもせず遅すぎもせずで、
いい数字だと思いますよ。

水行も毎日進める訳ではなく、ちょっと波が高かったらすぐに避退だろうからね。

938日本@名無史さん2019/06/11(火) 17:48:59.18
>>927
>帯方郡からの日程で解決

それだと、投馬国で詰むよ
同じ語順、同じ記載形式なんだから、投馬国行きと邪馬台国行きとを
同じように読まないといけない

でも、それだと道里戸数がきちんと略載されている投馬国が
「女王国より以北」にはならない

帯方郡からの日数ということに「すれば」解決っていう時点で
結論ありきのインチキ読みだよ

東南大海中なのに南へ行くだけで到着とか、方角の矛盾もあるしww

939日本@名無史さん2019/06/11(火) 18:01:18.12
>>440
いまもう一度やってみると、
http://www001.upp.so-net.ne.jp/wi12000/forGmap/html/hirabaru_sq.html
が、お気に入りに保存出来た。

940日本@名無史さん2019/06/11(火) 18:28:01.89
>>938
近頃やたらボコられてる宣伝係はバイト代はちゃんと貰えてるのか?

941日本@名無史さん2019/06/11(火) 18:37:06.51
>>444
>(90度回転男)行程記事の『千余里』と言うのは『けっこう遠く』と言う意味。<

「けっこう遠く」であるなら、
「百里」でも「萬里」でも「五百里」などでも構わない筈だし、
「余」なんて曖昧な意味になる文字を付けない筈であり、
それを「千余里」と「特定した近似値」として書いた、という事は、
魏使らが実際に計測した数値であった、という事。

>『千余戸』と言うのは『大きめの集落が1個』と言う意味。<

これも同じ。「大き目の集落」を意味するんなら「百余戸」でも「萬余戸」でもよかった筈。

>これと同じで、 『婢千人』と言うのは『使用人が大勢います』と言う意味。
なので纏向遺跡の発掘済み建物跡に、人間が実際に1000人入るか否かなど、
考えるだけ無意味。<

これは、例の「90度回転」論と同じであり、
この男は、自説にとっては都合の悪い史料記載事実を貶める事で抹殺する宣伝をして、
世間の人々を騙そうとする、嘘つき騙しの・・・・アホ詐欺師であったのだ、
という事。

942日本@名無史さん2019/06/11(火) 18:39:36.92
>>940
>近頃やたらボコられてる宣伝係は

あなたの認識は現実世界からの乖離が大きくなっているようです
神経内科、心療内科、精神科等、標榜科はいずれでも構いませんので
「心のお医者様」を受信なさるよう、強く推奨(highly recommended)いたします

お大事になさってください

943日本@名無史さん2019/06/11(火) 18:41:19.35
>>456
>こんなウソを平気でつく九州説を誰が信用するの?<

国民の過半数(6割位)は、九州説を信用したの。

944日本@名無史さん2019/06/11(火) 18:41:59.38
>>940
で、>>938に「具体的な反論」はないのかい?
なければ、論破された、つまり「日程は帯方郡から」は誤りってことだけれど?

945日本@名無史さん2019/06/11(火) 18:43:12.62
畿内説改め纒向学w
ここまであからさまに胡散臭い説がかつてあっただろうか?w

946日本@名無史さん2019/06/11(火) 18:45:37.91
>>944
九州説の否定よりさっさと纒向説を構築しろよw
桃の種とカエルの骨でw
話はそれからだ。

947日本@名無史さん2019/06/11(火) 18:52:40.64
>>467
>ご神体に鏡が多いのは明治二十八年の法令の制定だからな<

ふーん。
これもまた、明治政府の思想統制であったのか。
まるで、現在の安部自民の文部省の、
大和説教科書を肯定する検定と同じだなあ。

948日本@名無史さん2019/06/11(火) 19:12:19.81
つまり九州説の論拠は明治政府に用意されたものという事だな

949日本@名無史さん2019/06/11(火) 19:13:37.60
>>901
>わざわざ日本海通らなくても、瀬戸内海通っていく方が波が低くてはるかに安全
対馬海流にのればいいから丹後半島あたりまではいいとしても、陸を進む距離が長くなりすぎてどう考えても遠回り

瀬戸内行路では陸行1月の説明はできない

950日本@名無史さん2019/06/11(火) 19:18:54.24
新纒向説はまだか?
次スレではテンプレ更新しろよなw

951日本@名無史さん2019/06/11(火) 19:25:56.47
>>949
陸行は1日の間違いなのだよ
河内湖から大和川の下流域から陸行

952日本@名無史さん2019/06/11(火) 19:28:11.75
日本海ルートで陸行1月を説明できたとしても、
帰りの日本海ルートは1年365日対馬海流に逆らって進むことになるのでとうてい不可能。
行きはよいよい、帰りは怖い・・、考えたことあるのかwwww

953日本@名無史さん2019/06/11(火) 19:29:23.50
連続句読点が別キャラの口調なのに間違え句読点を連続で使ってたなwww
そのあと誤魔化すために連続句読点のキャラで連投始めててさらに草www

954日本@名無史さん2019/06/11(火) 19:31:19.01
テンプレがおかしい
瀬戸内はムリ最短距離は日本海

955日本@名無史さん2019/06/11(火) 19:37:07.79
>>949
>瀬戸内行路では陸行1月の説明はできない

そうだろね
でも、日本海航路はあり得ない
なんのためにわざわざ波の高い日本海に繰り出していかないといけないのか?
瀬戸内海の方がどう考えても楽

956日本@名無史さん2019/06/11(火) 19:40:49.43
>>955
>瀬戸内海の方がどう考えても楽

瀬戸内海も卑弥呼時代は航行不可 だと、何度言えばw   @阿波

957日本@名無史さん2019/06/11(火) 19:43:22.55
瀬戸内沿いには前期古墳が点々と所在してるしな

958日本@名無史さん2019/06/11(火) 19:47:38.48
>>946
>九州説の否定よりさっさと纒向説を構築しろよw

要するに具体的な反論一つまともにできない能無しですっていう自白だなww
纒向説なんてないよ
日本の首都は東京であって、新宿の都庁所在地じゃないだろ?
邪馬台国はヤマト国であり畿内第V様式土器を共通に使う範囲
おおむね「大和+河内〜環大阪湾の範囲」五色塚古墳のあたりまでと思えばいい

>桃の種とカエルの骨でw

日本でほぼ唯一の「明確な弥生時代の祭祀遺跡」ってのが明確になるだけだね
九州に明確な祭祀の痕跡ってあるかな?

九州では卜骨も出てないようだけれど?

959日本@名無史さん2019/06/11(火) 19:48:34.37
>>957
>瀬戸内沿いには前期古墳が点々と所在してるしな

その古墳は、卑弥呼の時代じゃないからね。  雄略天皇以降の古墳だろう。  @阿波

960日本@名無史さん2019/06/11(火) 19:51:23.82
>>949
>陸を進む距離が長くなりすぎてどう考えても遠回り

何度も説明しているが、距離を短くするよりも
魏使が倭国の情勢を見るために、倭国第2の大国である投馬国・出雲を通る経路にしたんだよ

大和から出雲への往還路をそのまま使えるし
大和から人里伝いに日本海まで出て、そこから水行(沿岸航路)で出雲まで、というのを
逆向きに伝うだけ

出雲から北部九州までの日本海側沿岸航路は、それこそ縄文時代から使われている
それが、九州で出る糸魚川のヒスイの輸送経路だし

961日本@名無史さん2019/06/11(火) 19:53:15.61
>>951
>陸行は1日の間違いなのだよ

これも何度も書いているけれど、陸行が1日だったらわざわざ書かない
投馬国も末盧国も、渡海、水行後の陸行なんて書いてないだろ?
でも、最終目的地が海岸ぺりにあるなんてことはない

962日本@名無史さん2019/06/11(火) 20:00:06.19
>>959
考古学無知はだまって巣に籠ってろよ

963日本@名無史さん2019/06/11(火) 20:01:41.00
>>962
お?
お前はプロなのか?w

964日本@名無史さん2019/06/11(火) 20:04:45.92
>>963
阿波よりはまし

965日本@名無史さん2019/06/11(火) 20:13:11.18
魏からこう指示が出てる
>還り到らば、録して受け、悉く、以って汝の国中の人に示し、
>国家が汝を哀れむを知らしむべし。
忠実にこれを実行して陸行1ヶ月かかった

966日本@名無史さん2019/06/11(火) 20:18:56.31
また、研究すれば良いのではないのかな、、、

967日本@名無史さん2019/06/11(火) 20:20:02.02
出雲王国とは、どのような王国なのだろうか、、、
そして、出雲の国譲りとは、三輪山と何か関係性があるのだろうか。。。

968日本@名無史さん2019/06/11(火) 20:20:48.86
>>952
>帰りの日本海ルートは1年365日対馬海流に逆らって進むことになるのでとうてい不可能。

頭悪すぎ
対馬海流が海岸をゴリゴリ削りながら流れているとでも思っているのか?ww

実際の海流はこんなもの
昨日の気象庁のデータ
邪馬台国畿内説 Part467 	->画像>50枚
日本海沿岸には、ほとんど0.2ノット(10センチ/秒)以下の流れしかない
対馬海峡付近だとこれ
こっちは今日のデータ
邪馬台国畿内説 Part467 	->画像>50枚
これは表層流だから、風の影響も受けるし沿岸付近はむしろ東から西に流れてるぞ

>行きはよいよい、帰りは怖い・・、考えたことあるのかwwww

お前が考えなしで想像だけで書いてるだけ
実際の具体的なデータを出されると、間違いだってはっきりするww

969日本@名無史さん2019/06/11(火) 20:21:34.92
>>966
論破も、楽しめば良いのではないのかな、、、

970日本@名無史さん2019/06/11(火) 20:22:37.15
>>964
>阿波よりはまし

考古学は残酷だね。  たのしい妄想を打ち砕いてしまう。   @阿波

971日本@名無史さん2019/06/11(火) 20:23:11.56
誰がプロ固定なのかの討論が、始まったのではないのかな。。。

963日本@名無史さん2019/06/11(火) 20:01:41.00
>>962
お?
お前はプロなのか?w

972日本@名無史さん2019/06/11(火) 20:23:44.27
>>955
>でも、日本海航路はあり得ない

根拠なしの決め付けは妄想だよww
実際それで縄文時代からヒスイを運んでるんだから、あるんだよ

>なんのためにわざわざ波の高い日本海に繰り出していかないといけないのか?

日本海の波が荒いのは、冬の季節風が荒れ狂うときだけ
日本海側にもいくらでも海水浴場があるだろ?
夏とか、いい季節なら日本海も普通に凪いでるよ

973日本@名無史さん2019/06/11(火) 20:26:01.47
日本海も冬以外は波高は高くないが
第一感は瀬戸内だよね

974日本@名無史さん2019/06/11(火) 20:27:07.04
>>957
>瀬戸内沿いには前期古墳が点々と所在してるしな

その古墳は、卑弥呼の時代じゃないからね。  雄略天皇以降の古墳だろう。  @阿波

975日本@名無史さん2019/06/11(火) 20:28:20.16
マッチョな弥生人は、海流よりも、海面に吹く風を利用して、進んだのだったな。。。

976日本@名無史さん2019/06/11(火) 20:32:19.68
>>975
季節によっては、北風が吹き続けることがあるのだったね。。

977日本@名無史さん2019/06/11(火) 20:32:31.60
対馬海流に乗ったら漕がなくても進むし
瀬戸内では干満でタイミングによっては漕がないと逆に進む
日本海を行ったほうが早い

978日本@名無史さん2019/06/11(火) 20:33:38.94
まだ帆の船とかないから 漕いだ

979日本@名無史さん2019/06/11(火) 20:34:39.49
>>975
>マッチョな弥生人は、海流よりも、海面に吹く風を利用して、進んだのだったな。。。

それには帆掛け船が必要なのではないのかな。。。   @阿波

980日本@名無史さん2019/06/11(火) 20:38:10.26
>>968
山口ー島根ー鳥取沖の海流・潮流こそ問題なのだ。
玄界灘のことを云っても役には立たぬ。

981日本@名無史さん2019/06/11(火) 20:38:17.17
>>977
>対馬海流に乗ったら漕がなくても進むし

だから、壱岐からは、労せずに末盧国(福津辺り)に着いてしまう。   @阿波

982日本@名無史さん2019/06/11(火) 20:39:45.59
丸木に毛の生えたような手漕ぎの船だから、帯方郡から松浦市まで、10日で辿りつく速度がなければ、対馬海峡は渡れないな。。

983日本@名無史さん2019/06/11(火) 20:40:03.87
台与が張政が帰るときに奴隷を20人つけるけど
舟漕ぐのに20人くらいいると思うんだよね

984日本@名無史さん2019/06/11(火) 20:40:52.29
>>972
船で運ばにゃならんほどヒスイが取れたのか、、。
ウソヒスイ。

985日本@名無史さん2019/06/11(火) 20:41:57.76
>>982
そうだね、、、
ゆっくりしていると、対馬海流に流されてしまうな、、、

986日本@名無史さん2019/06/11(火) 20:44:01.34
>>982

松浦市は、およびでないのではないのかな。。。   @阿波

987日本@名無史さん2019/06/11(火) 20:45:32.82
丸木に毛の生えたような手漕ぎの船だから、海上で休めないな、、、

988日本@名無史さん2019/06/11(火) 20:46:07.16
>>985
>ゆっくりしていると、対馬海流に流されてしまうな、、、


だから、壱岐からは、労せずに末盧国(福津辺り)に着いてしまうのではないのかな。。。   @阿波

989日本@名無史さん2019/06/11(火) 20:47:09.84
出雲王国とは、どのような王国なのだろうか、、、
そして、出雲の国譲りとは、三輪山と何か関係性があるのだろうか。。。

990日本@名無史さん2019/06/11(火) 20:50:30.14
>>989
>出雲王国とは、どのような王国なのだろうか、、、

出雲忌部の根城なのではないのかな。。。   @阿波

991日本@名無史さん2019/06/11(火) 20:53:08.33
>>973
>日本海も冬以外は波高は高くないが
>第一感は瀬戸内だよね

第一感って何?
第六感の仲間?

いずれにしても、日本海経路は倭国第二の大国である投馬国・出雲を経由するのが目的
ここに触れずに論評していてもしょうがないよ

992日本@名無史さん2019/06/11(火) 20:54:55.39
>>984
>船で運ばにゃならんほどヒスイが取れたのか、、。
>ウソヒスイ。

実際に九州で翡翠が出ているし、日本の翡翠の産地は糸魚川にしかない
そして長距離移動、輸送で便利なのは海運であり、実際に新潟県でも
丸木舟が出土している

感覚や気分だけで否定しても意味ないよ

993日本@名無史さん2019/06/11(火) 20:56:45.25
>>991
>日本海経路は倭国第二の大国である投馬国・出雲

出雲は出雲忌部で決まりなのではないのかな。。。   @阿波

994日本@名無史さん2019/06/11(火) 20:57:18.84
>>980
>山口ー島根ー鳥取沖の海流・潮流こそ問題なのだ。
>玄界灘のことを云っても役には立たぬ。

海峡部分ですら、大して流速は速くない
ましてや海峡を抜けて日本海に広がってしまった流れをやww
どうあがいても、逆らって移動するのに困難なほどの海流はない

残念でした
具体的な実証データの前では、九州説は常に屈する立場にある
なぜなら、具体的な実証なしの思い込みだけだからww

995日本@名無史さん2019/06/11(火) 20:57:32.24
魏使様は帆のある中国船でご移動でしょ。

996日本@名無史さん2019/06/11(火) 20:58:45.73
>>929
遺跡が「平原がー」、「吉野ヶ里がー」
ここの畿内説ってアップデートしないの?

997日本@名無史さん2019/06/11(火) 21:01:27.97
>>985
>ゆっくりしていると、対馬海流に流されてしまうな、、、

歩く速さの時速4キロでも、秒速1メートルより速い(1.11m/s)
対馬海流の沿岸付近の流速は0.2ノット以下(0.1m/s 以下)
普通の手漕ぎでも、特に問題にはならないだろ

998日本@名無史さん2019/06/11(火) 21:01:32.15
>>992

その海運に携わったのは、忌部の海人族以外にはいないのではないのかな。。。   @阿波

999日本@名無史さん2019/06/11(火) 21:02:19.43
翡翠は、天皇であるための3つの独立した75パーの確率の根拠の物体の一つを作製するために、原材料として使用された可能性があるな、、、

1000日本@名無史さん2019/06/11(火) 21:02:42.39
>>996
九州説で、新しいめぼしい遺跡があるようなら具体的にご教授願えますかな?

あるんだったらね!

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