11 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 00:59:10.39
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://2chb.net/r/history/1563075932/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 21 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 00:59:57.24
◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
31 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:00:17.13
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
4日本@名無史さん2019/07/17(水) 01:03:23.66
テンプレ作りご苦労様です
前スレの 後半部分よく読んでね
51 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:03:27.12
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、
付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
61 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:04:14.29
◆3−2
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
71 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:04:35.42
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
8日本@名無史さん2019/07/17(水) 01:04:42.88
前スレのキチガイが消えたと思ったら
テンプレ作りしてたのかww
wwwwwwwwww
91 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:04:57.64
◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
101 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:06:26.49
◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
111 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:06:56.53
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
121 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:08:36.75
◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、
こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。
権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、
突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。
宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、
気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
131 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:09:12.57
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
141 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:10:00.49
◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
151 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:10:20.04
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 161 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:11:52.48
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。
被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
171 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:12:18.63
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
181 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:12:36.01
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※
)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
191 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:13:20.87
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
201 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:13:47.10
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
211 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:14:09.30
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
221 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:14:27.52
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
23日本@名無史さん2019/07/17(水) 01:15:19.94
オーーーーイ 1 ◆UiepmfCeDJqf 君の落とし物だよ
⇓
(°▽°)
241 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:15:37.24
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
251 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:16:41.38
◆FAQ 12−2
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、
自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。
261 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:17:03.24
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
271 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:17:25.71
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
281 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:17:51.16
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
291 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:18:50.30
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
301 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:19:33.57
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、郡県内では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
311 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:20:08.88
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 321 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:21:23.65
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 331 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:21:53.70
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代)
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) 341 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:22:12.38
(承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
351 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:23:26.04
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
361 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:23:55.06
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
371 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:24:19.27
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。
381 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:24:35.92
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
391 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:26:20.51
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、
瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、
博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。 401 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:27:23.50
◆FAQ 31−2
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、
庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
411 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:27:42.84
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
421 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:28:02.65
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
431 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:28:19.10
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
441 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:29:08.91
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
451 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:30:22.83
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
461 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:30:44.56
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
471 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:31:05.86
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 481 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:31:25.12
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
491 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:32:49.47
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、
新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
501 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:33:42.53
◆FAQ 42−2
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
511 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:34:00.36
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
521 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:34:16.02
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
531 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:34:35.81
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
541 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:35:25.41
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
551 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:36:15.53
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
561 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:37:03.45
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
571 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:37:30.29
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
581 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:37:47.52
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
591 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:38:02.76
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
601 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:38:52.43
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと
訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定
611 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:39:15.08
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 621 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:39:41.76
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
631 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:39:59.28
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上)
641 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:42:28.49
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
651 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:42:58.07
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
661 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:43:15.84
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
671 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:43:32.11
(承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
681 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:44:10.98
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
691 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:44:40.12
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 701 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:44:58.65
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
711 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:46:00.53
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
721 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:47:23.14
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀)
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 731 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:47:56.16
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。 741 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:48:14.07
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
751 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:48:35.40
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。
761 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:49:13.89
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
771 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:49:52.33
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
781 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:50:50.65
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
79日本@名無史さん2019/07/17(水) 01:51:03.09
オーーーーイ 1 ◆UiepmfCeDJqf 君の落とし物だよ
⇓
(°▽°)
801 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:51:18.06
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。
811 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:51:32.91
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。
821 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:51:52.15
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。 831 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:52:44.77
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。
天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
841 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:53:53.92
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
851 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:54:13.37
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
861 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:54:30.23
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 871 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/17(水) 01:54:48.26
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 なし
88日本@名無史さん2019/07/17(水) 01:54:55.78
オーーーーイ 1 ◆UiepmfCeDJqf 君の落とし物だよ
⇓
(°▽°)
89日本@名無史さん2019/07/17(水) 02:45:25.77
前スレでは纏向が古墳造営基地で決定したみたい
90日本@名無史さん2019/07/17(水) 03:07:21.82
91日本@名無史さん2019/07/17(水) 03:45:19.95
92日本@名無史さん2019/07/17(水) 03:58:56.89
>>91
>前スレの後半読めばいいよ
造営基地説が全滅してて藁 93日本@名無史さん2019/07/17(水) 04:03:34.38
纏向古墳群で天皇陵墓比定されてるのはどこだろう
94日本@名無史さん2019/07/17(水) 04:05:10.14
95日本@名無史さん2019/07/17(水) 04:10:57.27
FAQ38がわかりずらいのだが
纒向遺跡は都市かつ大集落じゃなかったっけ
96日本@名無史さん2019/07/17(水) 04:39:46.98
FAQ38のAでいいんでねーか
集落跡も見つかっていないのに大集落と騒いでる奴が間違ってる
97日本@名無史さん2019/07/17(水) 04:54:58.56
>>96
集落跡が見つかってないって騒いでるの
世界でお前のほか、誰かいる? 98日本@名無史さん2019/07/17(水) 05:04:24.86
>>96
>>1は祭祀空間という言い方をしてる
集落かどうかは何も言っていないが
都だと言っている
まあ、都が集落である必要はないわな
どうでもいいんじゃないの? 99日本@名無史さん2019/07/17(水) 05:08:10.50
>>94
>理由もなく、か?
理由もなく、だ
せっかく幾つも書いていたが
あやふやな物だったり因果関係が無かったり
反論されたら結局一つも残らなかったからな 100日本@名無史さん2019/07/17(水) 06:37:15.80
ついに「陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「倭国(女王之所都)=計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋初代皇帝司馬懿(秀吉)は魏・明帝曹叡(信長)の後見人指名がなければ皇帝になれなかった。西晋にとって大恩人・曹叡の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまったミスを誤魔化し、孫呉を滅ぼす先鞭を付けたことにしてあげたい。
→曹魏の帝都・洛陽から見て宿敵孫呉との戦いにおいて、最高の牽制となるその背後に倭国「女王之所都」があるためには、
ライバル孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡(蘇州)「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南の福州の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳朱崖に似ている。
そこで陳寿が行った忖度が、九州島(倭国)が、狗邪韓国(伽耶)の南から儋耳朱崖(べトナム国境)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む「南北に」長大な列島であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国@】と、「當在会稽冶之東」となる【奴国A(幻)】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国@】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」←2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島をベースに、幻の邪馬台国島を、そして東治⇔東冶間の「陸(歩)行一月」を転用して、幻の【奴国A】を創り、福州「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。
101日本@名無史さん2019/07/17(水) 06:48:19.63
集落跡が纒向から見つかっていないのは事実である
102日本@名無史さん2019/07/17(水) 06:52:07.10
畿内説石野船長「南→東と読み替えて、不弥国から東に進み投馬国(出雲)を目指そう!次は女王卑弥呼の纏向だw全速前進!」
畿内説寺澤機関長「順風満帆!やはりこちらが正しかったですねw天も我々を祝福しているかのようですw九州説の警告なんて無視して良かったw」
畿内説橋本航海士「我々の進行方向と左右両舷をすっぽり取り囲むような三日月形の巨大氷山発見→)!!!」
畿内説石野船長「エンジン逆回転!!全速後退!!」
畿内説寺澤機関長「なんで方角を読み替えたんだよ!!!船長のくせに!!!このハゲェ〜ッ!!!(豊田真由子元衆院議員)」
畿内説橋本航海士「フル回転中の逆回転でギア全損!!!エンジン大爆発!!!間に合いません!!!!!」
(フルスピード→ノーブレーキで氷山に乗り上げ衝突し、再び着水する畿内説タイタニック号)ガツン!ドカン!ザブン!
(船側&船底外板を船首から船尾まで横一直線に切り裂く音)ギギギギギギギ!!!
ザァアアアアアアア!!!(全隔壁に一気に浸水、瞬時に沈む畿内説タイタニック号)
畿内説石野・寺澤・橋本「ぎゃあああああああああああああああ!!」(ごく僅かな庄内式土器と大量の布留式土器と三角縁神獣「銅鏡五百枚」と共に海底に引き摺りこまれ、海の藻屑と化す畿内説タイタニック号)
ダウンロード&関連動画>>
一方、九州説オリンピック号でゎ…
九州説A「畿内説タイタニック号から遭難信号SOS傍受!!」
九州説B「あれほど警告したのに、なんで東(大国主・大物主・饒速日3代の纏向宮殿→箸墓Ω→前方後円墳墓担当の物部氏へ)に向かったんだろう?直ちに救助に向かおう!」
九州説C「纏向の大型建物ABCDは2世紀末には遡れないのに!!!」
不弥国の東の海上に到着した九州説オリンピック号が見た光景は…
因幡の白兎同様、サメの餌食となった畿内説タイタニック号の乗客乗員の遺体の一部と思しき夥しい肉片&骨片が散乱…血で真っ赤に染まった波間に石野船長と寺澤機関長のものと思しきメッキ縁眼鏡がキラキラ&プカプカ浮かんでいる…
茫然自失の九州説ABC「だから船乗りの方角間違え(南→東)は漂流しちゃうからあり得ない、纏向は「本州」島の毛人王権ってあれほど言ったのに...orz」 103日本@名無史さん2019/07/17(水) 06:59:30.15
>>101
>集落跡が纒向から見つかっていないのは事実である
調査した専門家が集落だと報告してるんだから
調査してない素人がいくら
「見つかってない」「事実だ事実だ」
と連呼しても意味がない
証拠出せないだろ? 104日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:02:12.39
>>103
>調査した専門家が集落だと報告してるんだから
その専門家wwwとやらが実は問題なわけで>>102w 105日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:02:18.59
前スレ>985
>1、「墓(古墳)が多い」
見せる権力である大墳丘墓は権力中心近くの人口の多い人目につくところに作られる
むしろ、王都そのものまたは王都近辺である根拠
>☝
>エジプトを参照
この辺がもの知らずだよな
エジプトの見せる権力、ピラミッドはギザにある
そしてピラミッドを作ったエジプト第4王朝の首都はメンフィスで
ギザのピラミッドから15キロくらいだ
纒向から最大の古墳である大仙古墳まで直線距離で30キロというのと比べてもまだ近い
エジプトのピラミッドも「王都そのものまたは王都近辺」を裏打ちする根拠だよ
106日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:04:31.62
>>102も下らない作り話をコピペばかりしてないで真面目に勉強するように生活を改めたらどうだ 107日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:06:17.07
>>100の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
← ┏━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜日本海〜〜〜〜
洛陽┃ ┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜東→✖畿内説沈没地点(†乗客乗員>>102)
【魏】┃〜〜〜↓↓南「水行十日」〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┃〜対馬▲↓〜〜〜〜〜〜↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」§琵琶湖
↓ ┃〜〜〜↓↓玄界灘〜南「水行十日」┗━━━━━━━━━━━┓ 淀川↙ ↑木津川
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌→→→→→→┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃河内湖+大和湖Ω箸墓
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃紀伊半島
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃★奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王四千余里」@阿波
建業┃〜〜┃狗奴(球磨)国▲▲投馬(都万)国┘宮崎平野=南「水行二十日」
会稽┃〜〜┗━━━九州島━━┛↓〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海〜┌←←←←←┘南「水行十日」
蘇州┃〜〜┌───▲奄美大島┐↙邪馬台国島(幻)↓陳寿の創作
↓ ┃〜〜│↓「陸行一月」(幻)│〜「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
福州┃〜〜│△△▲△△△△△│←亶州(沖縄)〜〜↓「自郡至女王国 万二千余里」
東冶┃〜〜│☆奴国A(幻)△△│★『【女王之所都】計其道里 當在会稽東「冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲狗奴国(幻)△△│←夷州(台湾)〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└△△△△△△△△┘〜「※其余旁国遠絶 不可得詳」
┏▲海南島〜└△△△△△△┘〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(☆奴国A)東南 船行一年」 108日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:06:34.20
>>104
>その専門家wwwとやらが実は問題なわけで>>102w
いくら中傷したって
なんの証拠も出せない無関係者の言い分が通ることは
ない 109日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:08:18.06
前スレ>985
>土木作業員でも可 また報告書も推論であり物証たる住居跡群は見つかっていない
大量の土木作業員を受け入れるにはそれだけのインフラが必要なんだよ
例えば沖縄の海兵隊の移転先として、テニアン島が手を挙げて誘致してたけど、
テニアン島の人口が少なくて海兵隊とその家族を受け入れるだけの生活基盤がないから却下されてる
また、住居跡で言えば奴國の岡本遺跡でも比恵那珂遺跡群でも住居跡は
ほとんど出ていない(竪穴住居6件)が集落遺跡じゃないなんて九州説で言うやつはいないだろ?
ただのダブスタだよ
110日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:10:46.12
>>103
専門家って誰 石野? 県立橿原考古学研究所の人? 桜井市教委?
畿内説の色のついた人達じゃねーのか
畿内説互助会で認知され、マスコミ他誘導の結果が大集落となったのかもな
まぁ 論より証拠が大切だと思うがな
事実を無視し推論展開するのも手だが、確定はできない 111日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:11:11.42
>>100
>>102
卑弥呼の魏帝への朝貢理由は要するに狗奴国戦争における援軍要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置であることに留意されたい。
そこで主要3説(九州説・四国説・畿内説)における狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国「東渡海」千里「複有国」皆倭種(◎九州説…豊後水道、◎四国説…紀伊水道、✖畿内説…鈴鹿山脈?)
−其南有狗奴国(◎九州説…熊本もしくは薩摩、✖四国説…南阿波、✖畿内説…仲良し東海?)
畿内説はいずれも当てはまらず、3世紀の四国に十四万戸(邪馬台国+狗奴国)は無理がある(後述)。
消去法によって、九州説が正しい。
次に、狗奴国が熊本平野か鹿児島川内(せんだい)平野かだが、邪馬台国七万戸(35万石)を統治している女王卑弥呼をして、魏の明帝曹叡に援軍要請させるほど窮地に陥れる(狗奴)国の国力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸35万石)もしくはそれ以上の人口(八万戸40万石)と仮定。
面積から見て、狗奴国が川内(せんだい)平野でゎ3世紀の開墾能力では限界があると思われ、狗奴国は菊地(狗古智比狗の本拠)+熊本+八代の3平野を合わせた超大国と想定して、
北の邪馬台国は筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所&(天気が良ければ)福岡平野→糸島(伊都国)→壱岐島までズドーンと見渡せる甘木朝倉と確定。
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(上方下円墳)を比定。
祇園山古墳
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3
https://sora07.exblog.jp/26083348/
https://ameblo.jp/taishi6764/entry-12288771975.html 112日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:13:16.88
前スレ>985
>でき上ったものは古墳と掘立柱建物 水路 だけで都市と言えるだろうか
これが全くのもの知らず
話題になる特筆すべきものにハイライトが当てられているだけで、いろんな遺跡、遺物が出てるよ
そして当時の倭国内のどこにもない規模の古墳と軸線を揃えた大型建物 運河レベルの水路が
見つかってるから、当時最大の集落遺跡、都市の初現と考えられているんだよ
113日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:13:35.74
>>110
>まぁ 論より証拠が大切だと思うがな
その証拠を頑として出そうとしない九州説が
誰からも信用されないのは
当然だよな 114日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:18:18.01
九州説が纒向を攻撃しても何にも意味ないぞ
邪馬台国纒向説じゃなくて邪馬台国畿内説だからな
畿内説を否定するなら機内の古墳や銅鏡や考古発掘物の全てを否定しなきゃならない
ご苦労なこった
115日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:19:27.38
>>111の続き
すると、もう一つの謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国・卑弥弓呼の子孫/八代淡海→「近江」)も判明。
古代史は以下↓のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(卑弥弓呼、帯方郡張政の説諭で卑弥呼に服従)、伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国系(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国系(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏>晋>「宋>斉>梁」南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」に任官(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国系(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都、九州年号創設。
倭王阿毎多利思比孤「日出処天子」隋煬帝「日没処天子」に対等外交=(隋の悲願、高句麗征伐の鍵)新羅からの朝貢を機に「独立宣言」607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教伝来による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家となり、飛鳥疎開宮造営。
推古厩戸…前方後円墳Ω担当の物部守屋を滅ぼす。大和分家を乗っ取ろうとした大臣蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、大和へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種・九州年号&多利思比孤を抹消すべく、崇神朝・応神朝・継体朝の倭王権(九州王朝)内の抗争が、すべて大和で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名を移植。朝倉&阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武朝(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京) 116日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:19:34.26
前スレ>985
>吉備からの借り物で祭政かい・・石野氏が吉備説に傾くのはムリが無いのでは
吉備だけでなく、各地の祭祀を統合した新しい祭祀の創始の場が纒向だよ
そして、その新しい祭祀用の供献土器が庄内式、布留式の土器であり、
それが広範囲に広がっている
この新しい祭祀用供献土器を受け入れた範囲が卑弥呼の共立圏と見てよい
>また、首長は卑弥呼と言う証拠はない・・日本?の各国に首長は居る
倭国の各国に首長はいるが、そのうちの中心でかつ最大の首長が倭王であるというのが当然の帰結
そして、同年代の文献資料である魏志倭人伝に倭王が卑彌呼であると書いてあるのだから、
纒向の倭王に卑弥呼を当てることになるだけ
117日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:21:00.83
応神天皇(3世紀後半)居城 瑞籬宮(みずかきのみや)奈良県桜井市
垂仁天皇(3世紀後半)居城 纒向珠城宮(まきむくのたまきのみや)
景行天皇(4世紀前半)居城 纒向日代宮(まきむくのひしろのみや)
かように纒向は邪馬台国の時代より大王の居住地として機能していた
118日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:21:32.51
119日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:22:27.27
120日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:23:17.09
前スレ>986
>これは理解できるが、古墳造営が主たる目的ではないという肉付けが必用
逆だ
都市機能として運河は便利なインフラであり、
むしろ古墳造営が主たる目的であるとする理由がない
それから日本人なら「必用」とかいう恥ずかしい誤変換はやめな
まあ「關連」とか書いてる時点でお察しだけどなw
121日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:26:15.60
>>118
そうやって、どんどん怪しい方向に走って行く九州説が
破滅の道を歩んでいることには
一点の疑いもない 122日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:29:24.46
今城塚古墳に眠る大王の、ピンクの石棺はなぜ選ばれたのだろうか、、、
123日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:31:13.34
前スレ>989
>これも理解できるが、鉄は圧倒的に九州である
九州で鉄が多いというのも、甕棺墓による発掘バイアスが大きい
弥生後期、終末期になると北部九州の鉄器の出土は激減するし
九州で鉄が多いというのは弥生時代全期間の累計で、卑弥呼の時代を見れば九州の優位などない
弥生後期では丹波の弥生王墓が圧倒的だ
畿内で鉄の出土が少なく見えるのは弥生後期から終末期の王墓級墳墓の発掘例がないからだと言える
王墓級に準ずる規模のホケノ山古墳、椿井大塚山古墳の二つだけで鉄器の出土量は
北部九州の弥生全期間の出土点数に匹敵する
124日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:31:43.91
なるほど祇園山は方墳なので選外と
125日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:32:00.18
>>109
いつものことながら
例えが良くないどうでもいいが
さて
>大量の土木作業員を受け入れるにはそれだけのインフラが必要なんだよ <
その大量の土木作業員が何をしたかが問題なのでは?
古墳と掘立柱建物だけ?水路は運パン用だからはずすとして 126日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:32:57.24
前スレ989
>6、「鉄が無い・・戦闘に備えていない 」
> 戦場になるような場所だったら、王都として不向き
・・・
>☝
>これも理解できるが、鉄は圧倒的に九州である
つまり6が古墳建造基地説の根拠にならないことは認めたわけだ
127日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:34:37.51
128日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:35:52.23
>>120
>逆だ
都市機能として運河は便利なインフラであり、
むしろ古墳造営が主たる目的であるとする理由がない <
その運河がどのよう機能したのかが問題じゃないのかな 129日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:38:09.96
前スレ991
>10.「交通の要所であり、いろんな豪族が参拝に来やすい」
> 交通の要衝であるのは事実だが、それが墓地の理由にはならない
>☝
>逆も真なり
10が古墳造営基地説の根拠にならないと認めたね
130日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:38:36.10
131日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:41:16.33
>>123
>弥生後期では丹波の弥生王墓が圧倒的だ
少しの年代のズレでどうにでも解釈できてしまうね。
>畿内で鉄の出土が少なく見えるのは弥生後期から終末期の王墓級墳墓の発掘例がないからだと言える
王墓だけの話ではない。
逆に、古墳からしか出ない畿内はやはりおかしい。
生活痕に乏しい(皆無だとは言っていない)。 132日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:41:27.81
>>128
>その運河がどのよう機能したのかが問題じゃないのかな
それを立証できない九州説は運河を古墳造営基地説の根拠にすることが出来ない 133日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:42:29.42
>>131
>逆に、古墳からしか出ない畿内はやはりおかしい。
「おかしい」という理由は? 134日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:42:30.55
んじゃさ(°▽°)
古墳を造営するのを主導した連中らの正体でもよいよ
それが誰らか解き明かしてくれないかい
135日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:42:43.68
>>117
>かように纒向は邪馬台国の時代より大王の居住地として機能していた
つまり女王卑弥呼の国とは違う国だよね。 136日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:43:36.81
>>116
>倭国の各国に首長はいるが、そのうちの中心でかつ最大の首長が倭王であるというのが当然の帰結
当時の交通事情からすると、一つの王国であったとは考えにくい。 137日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:44:15.48
古墳時代の畿内からは巨大王墓、倉庫、大臣の屋敷跡だけ、、、大王宮は一体どこにあったのだろうか、、、
138日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:45:10.80
>>114
>畿内説を否定するなら機内の古墳や銅鏡や考古発掘物の全てを否定しなきゃならない
否定する必要はないよ?
バカ?
東の別の国(倭種)でいいのだから。 139日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:46:03.51
こっちのが重要だからさ
見つかったときは古代の大発見くらい誰も知らなかったみたいな話を聞いたことあるでな
卑弥呼だのは古代にいたかもしれない人物ってことで話題になっただけ
そしたらいつの間にやら既成事実化みたいなんで九州がチョロチョロ事実だけどみたいなこと言いだしたからよ
それから田布施って言ってるキチ、あれなんなん?
140日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:46:23.36
>>130
ブラクラか何かと誤解させてる積り?
九州説せっこ 141日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:46:29.20
>>135
何故九州説はいつも全く理由を言わないのだろう 142日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:46:54.96
長州に田布施って名前のとこがあったんは知ってるがな
143日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:49:21.21
>>105
>纒向から最大の古墳である大仙古墳まで直線距離で30キロというのと比べてもまだ近い
そもそも纒向は河内と交流がないし。
(外来土器の構成比からの推定)。
纒向は尾張とだけ交流する行き止まりの辺境の地。 144日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:49:35.52
>>105
王家の谷は明らかに 都市から隔離されている
纏向は遺跡の中にある
また、歴代の天皇の陵墓が都に全てが置かれていない 145日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:51:05.39
>>103
>「見つかってない」「事実だ事実だ」
>と連呼しても意味がない
>証拠出せないだろ?
見つかったという証拠を提示すればいいだけだろ?
それで纒向の「大集落」には何戸あったんだ?
かなり前から聞いているのだが? 146日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:51:43.93
>>138
>否定する必要はないよ?
>バカ?
>東の別の国(倭種)でいいのだから。
畿内の古墳や銅鏡や考古発掘物の全てを否定しないと
それらが東の別の国(倭種)だと立証できないのでは?
九州も含めた一体性や大陸文化流入の痕跡なのだから 147日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:52:12.63
>>112
当時最大級の古墳造営基地でも解釈可能な説明だねww 148日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:53:11.13
>>138
なら3世紀卑弥呼の時代の径百歩に相当するような畿内の前方後円墳や
景初や正始と魏の年号の入った銅鏡が畿内で多数出土しているのをどう説明する? 149日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:54:06.41
>>143
>そもそも纒向は河内と交流がないし。
言っても誰も信用しないようなことを
根拠も無しに主張しても
なんの意味もないよ 150日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:54:29.89
前スレ>989
>7、「城柵に囲まれていない 」
遺跡全体を囲む城柵など魏志倭人伝には記されていない
辻地区の大型建物も柵列で囲まれているし、
尾崎花地区にも明確な柵列がある
>☝
>6とダブるが 「兵用矛盾木弓」「以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處
>宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛」の説明が必用である
「城柵がない」に対する回答なのに 、こちらの挙げた城柵の根拠には一切触れずに
話をそらして逃げている
生きた人間の動きは考古遺物からは立証不能だし、九州には卑弥呼の居館候補すら
ないのをごまかしている 151日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:55:35.54
>>135
何がつまりなのか
つまり纒向は邪馬台国の時代から王族の居留地だった 152日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:55:42.69
>>86
> 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
ええと、大和から大阪方面へは出られなかったということでよろしいか?
現代でも国道がなければ交通が厳しいもんな。
> 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
つまりなぜか南東へは交通が可能なんだよね。
纒向は尾張の土器だらけ。
それでも過酷な道だけど(神武らは通過したが全滅しかけた)。
やはり地理的に内陸は不利だと思う。 153日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:56:32.59
154日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:57:13.65
>>151
一部の王族はいただろう。
でも女王はいなかった。
いたのは崇神らの別の王統。
記紀でも纒向は崇神らの宮があったことになっている。 155日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:57:29.79
前スレ>991
>政治を行ったという根拠に乏しい・・集落跡が無い また前項と同じく
庶民は祭祀を行わない
祭祀を行うことは地域の首長の役目であり、その祭祀を行うことが当時の「政・まつりごと」そのもの
議会や選挙のある時代じゃないんだからw
156日本@名無史さん2019/07/17(水) 07:58:45.01
>>145
>見つかったという証拠を提示すればいいだけだろ?
随分前から
「同時期の居住域や墓域および祭祀遺構、大溝などが広範囲に広がっている」
と発表されている事実を提示してるんだが
あいかわらず見ぬフリか?
九州説は現実から逃避し過ぎでは? 157日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:00:01.31
>>146
>九州も含めた一体性や大陸文化流入の痕跡なのだから
つまり筑紫の分家だろ?
古語で言うところの別(わけ)だよ。
否定する必要は何もない。
本州は九州北部の属州であった。
そこには王族の一部がいた。
それだけ。
卑弥呼がいた王都ではない。 158日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:00:13.86
>>148
大和ではたくさんの古大妄想鏡が出土している、、、 159日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:00:15.15
前スレ>991
>逆も真なり
>交通の要衝であるのは事実だが、それが都市の理由にはならない
交通の要衝というだけで発展した都市は洋の東西を問わず枚挙に暇がない
交通の要衝に大規模遺跡がありかつ広範囲からの人の訪問が確認できるのに、
それを都市ではないとする理由がない
160日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:00:41.83
>>154
適当に思いついた事何でも書けばいいってもんじゃない
魏から送られた金印には親魏倭王
3世紀倭の政治的文化的中心畿内の王族に送られたもの 161日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:01:20.70
>>132
>それを立証できない九州説は運河を古墳造営基地説の根拠にすることが出来ない
畿内の話なのだから、畿内説が立証しないと。 162日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:01:41.38
163日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:02:05.08
>>150
早とちりするな彼は城柵が無いとは言っていない
「城柵に囲まれていない」では
それより これに答えてあげたら
「兵用矛盾木弓」「以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處
宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛」の説明が必用である 164日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:02:33.64
>>124
>なるほど祇園山は方墳なので選外と
方形周溝墓の発展型なら倭王の墓にふさわしいかと。 165日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:03:16.83
>>143 銅鐸の出土状況から1世紀初めには
大阪と奈良は同じ勢力だったと思われる
>>145
内側の丸が庄内式が多く出て外側の丸が布留式がよく出るところ
政治都市という性質上何戸かはわからないが
布留式時代は当時最大級なのはみてのとおり 166日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:03:20.12
>>147
>当時最大級の古墳造営基地でも解釈可能な説明だねww
その解釈は不可能なんだよ
遺跡の存続時期と遺跡の存続時期にズレがあるし、葬送と関係ない祭祀の痕跡が多すぎるからね 167日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:04:42.05
前スレ>993
>11、「古墳造営終了とともに消える」
纏向古墳群と事実上一体の、大倭・柳本古墳群はずっと造営が続いている
>☝
>理解できるが王都とは直結しない
これがもともと「都市では無く古墳造営基地だ」という妄言に対する反論だというのに
適切な反論ではない
この項は 「古墳造営基地の根拠」として九州説のあげた点に対する全否定であって
大倭・柳本古墳群の造営が続くこと自体は、王都であることの直接の根拠ではない
的外れもいいとこ
反論することだけが目的化している
168日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:05:42.07
>>153
九州説は根拠を言わない人ばか
りですね 169日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:07:49.81
>>157
>つまり筑紫の分家だろ?
それは無い
筑紫の影響が少なすぎる 170日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:10:36.33
>>161
>畿内の話なのだから、畿内説が立証しないと。
メチャクチャ
邪馬台国は畿内ではないという話を我々が立証する必要はない 171日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:14:33.35
南が東である証明が無い限り、畿内説は単なる妄想です。
172日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:15:46.31
鉄が少ないのとか最初の纏向が小さいのとか
引越し説なら説明できる
近畿王が九州の卑弥呼を上手く操って奈良に引越しさせて
卑弥呼の死後は九州の技術とノウハウを利用して
近畿王がうまく国内をまとめたと考えてる
卑弥呼の大型建物や箸墓は街道沿いに置いて前面にだして
台与に代わってからも同じ大型建物を使ったと考えられる
祟神、垂仁、景行の住居は東の山裾に置いてる黒幕政治
173日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:19:14.89
174日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:20:18.65
>>132
水路は古墳造営のための物資運搬用と再三指摘しているのだがネ 175日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:20:43.36
>>103
>調査した専門家が集落だと報告してるんだから
何戸? 176日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:21:27.91
>>125
>その大量の土木作業員が何をしたかが問題なのでは?
>古墳と掘立柱建物だけ?水路は運パン用だからはずすとして
そもそも地方から動員された土木作業員ではないだろうがね
畿内地域が、十分な余剰生産のある社会でなければ、大古墳の造営のような大事業に
生産に携わる現場から人員を割くことはできない
つまり、大古墳が作れる時点でその地域にはその労働力を支えるだけの生産力があることが分かる
そういう社会学的視点がないから、九州説の連中は的外れな脳内妄想を
ひねくり回すことしかできないんだよ 177日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:21:45.08
>>172
>近畿王が九州の卑弥呼を上手く操って奈良に引越しさせて
そんな話は魏志倭人伝にない。 178日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:22:35.42
179日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:22:59.79
180日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:23:56.23
>>165
>>>143 銅鐸の出土状況から1世紀初めには
>大阪と奈良は同じ勢力だったと思われる
ではその後で政治的事情が変わったわけだ。
魏志倭人伝にはまったく記載がないから、やはり邪馬台国とは別の国。 181日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:24:45.91
>>166
>遺跡の存続時期と遺跡の存続時期にズレがあるし、<
くわしく頼むイミフ
>葬送と関係ない祭祀の痕跡が多すぎるからね<
葬儀や参拝と関係ない祭祀って何・・・現代じゃ無いよ3世紀だよ 182日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:25:05.39
>>136
>当時の交通事情からすると、一つの王国であったとは考えにくい。
新しい祭祀の祭祀用供献土器を共通にもつ地域は一つの共同体と見做してよい
183日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:29:03.25
>>143
>そもそも纒向は河内と交流がないし。
>(外来土器の構成比からの推定)。
>纒向は尾張とだけ交流する行き止まりの辺境の地。
邪馬台国の会のステイクホルダーさん、おはよう
相変わらず的外れw
そもそも河内と大和は畿内第V様式土器の時代からずっと共同で土器様式を共有している
九州説の大好きな纒向出土の外来土器の比率でも「河内系 : 10%」出ているねww 184日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:29:22.95
>>156
現物を見て無いからしょうがねーじゃん
君は見たの集落らしき物 185日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:31:31.00
>>159
関ケ原や京都、箱根 大阪、米原 亀山 米原 交通の要所なんていっぱいあるよ 186日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:32:58.53
箱根は関だけど都市ではないな。
187日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:33:53.96
>>177 記紀もくわえた話だけどね
証明できないことも多いけど引越し説だと
発掘結果から説明が出来ることが多くなる
黄幢ぽいものがあった難升米の墓と思われる黒塚古墳は
祟神天皇稜の近くにある
難升米は卑弥呼の部下ではなく祟神天皇直属だったと思われる
武埴安彦のクーデターと百襲姫の死が同じ崇神天皇10年9月とか 188日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:35:43.88
481>>184
>だいたい九州説は短里なんていうインチキを信じてるから、
短里70メートルに100里をかけても7キロにしかならない
小学校の学区くらいの大きさで、同じ平野の中で自然国境もなく別の国になるっていうんだから どうやってもデタラメにしかならないんだよww<
伊都国は千戸であるから、もともと吉野ケ里位の戸数であり大きさ。
「東南百里」は、奴國の入り口までの距離であり、
元々一つの倭奴國であったようであるから、
何もおかしくない。 189日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:36:08.96
>>180 魏志倭人伝に共立は書いてるだろ
青の東海勢力と赤の近畿勢力が共立した可能性はある 190日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:36:18.08
>>144
>王家の谷は明らかに 都市から隔離されている
>纏向は遺跡の中にある
>また、歴代の天皇の陵墓が都に全てが置かれていない
王家の谷とピラミッドは時代も場所も違うよ
ピラミッドは見せるモニュメント、王家の谷は盗掘・王の眠りの妨げを避けるための秘密の地下墓
目的も文化も違うしピラミッドは居住域から隔離されていない
纒向も墓域と居館域は纒向遺跡の中ではゾーンが分けられている
九州では吉野ヶ里遺跡では墓域も居住域も環濠で一緒に囲ってしまっている
いずれにしても、見せる墳墓と王都の位置が無関係というのは否定される訳だ 191日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:36:53.48
>>157
筑紫の屈葬甕棺墓集団は九州東部にすら拡大することなくど没落した 192日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:38:16.46
481>>185
「南→東」などの嘘付き騙しが通じない、というだけで、
大和説は萎えてうつ病を発症する
歴史を嘘で変えられるなんて甘すぎな考え
歴史こそ公的私的に色んな記録が残り、
考察に熱心な人間も存在し
嘘は結局バレる仕組みになっている 193日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:39:03.35
>>167
> 纏向古墳群と事実上一体の、大倭・柳本古墳群はずっと造営が続いている <
天理市だよな纏向古墳群と一緒にすればいいのに まあ古墳時代前期の古墳だから別に纏向から労力が行ったか移動したでもいいし 194日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:42:42.30
>>179
魏使は行った4カ国(末伊奴不)のみ里数、行かなかった場所は倭人からの伝聞(日数表記)で書いている。
ところで「名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國 自為王以来少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛」は、
実際に見てなきゃ書けないから、4カ国のうち消去法で奴国(博多)になるyo!
もちろん「陸行(徒歩)一月」は、東治⇔東冶580q(cf.東京⇔姫路582q)の転用だろうけど、
いくら農民とはいえ、野宿するわけじゃないだろうから、毎晩宿場や集落に泊まらなければならない。
つまり30泊しなければならないわけだから、必ずしも毎日等距離を歩いたとは限らないかもne! 195日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:43:20.28
196日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:44:02.26
>>173
理由になってない。
九州が縦長もしくは南方にあると思っただけ、と言えば済む話でしかない。
南を東と間違えた理由を答えりゃいいのに頭悪いの? 197日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:44:23.36
481>>187
>伊都国が糸島平野、奴国が福岡平野でいいだろ。
高祖山と日向峠という自然国境もある。<
奴國=福岡平野では、「東南百里」の方向も距離に全く合わないから、×。
奴國中心が早良平野とすれば、「油山」連山が自然国境になっている。 198日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:44:27.30
199日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:46:54.29
奈良県教委や桜井市教委が
邪馬台国や卑弥呼のブランドが欲しいのはわかるけど
まだまだ物証に乏し過ぎる 倭人伝との乖離もある
「急いては事を仕損ずる」
結論を急がず 腰を落ち着けて研究すれば良い
自分の代で解明できなくてもいいじゃないか 学問だから
功を焦る必要はまるっきり無い
200日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:47:05.92
481>>189
歴史は人を引きつけてやまない
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者の、
適当にチャラチャラ嘘ついとけば騙されるっしょー、
という人をナメた皇国史観儒教的態度は
人の真理を求める熱意によって粉砕 201日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:48:10.94
はみ出た横線の三遠式銅鐸と
耳かざりがある畿内式銅鐸の両方の特徴を持った
滋賀県大岩山遺跡の135cm銅鐸ができた時期と
共立が成ったと思われる時期は同じくらい
個人的には共立は2世紀末にあったと考えてる
そして卑弥呼は3代目女王として九州から呼ばれたと思ってる
倭 倭の
迹迹 次の次 つまり3代目
日 太陽の巫女
百 たくさんの
襲 上着を持ってる
姫 姫
倭迹迹日百襲姫
202日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:48:58.75
>>200 あほみたいに連呼してるけど
南→東が嘘だという証明を九州はしてないからね 203日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:50:04.82
481>>191
歴史の探求は。真理への、史料事実からの帰納的確率的な。推論。
大和説者は、国粋皇国史観宗教という非人類だからという、
それが本能的生来的に邪魔臭くてしょうがないのだろう 204日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:50:25.25
205日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:53:55.29
>>155
地域の首長=卑弥呼?
箸墓は卑弥呼死亡以降の墓だよ
祭祀を行ったのだれだったのその首長って?どこに住んでたの?
纏向近辺の古墳群にも当てはまるが 邪馬台国と関係ない地方豪族の首長じゃないの
畿内邪馬台国に首長が同時期にいっぱいいたのかな 206日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:54:57.97
纏向は箸墓の造設完了とともに消滅していると学者が語ってたな。
つまり内輪では、纏向は古墳造設基地局だったとほぼ確定しているわけだ。
だから最近は吉備が注目されてるんだな。
207日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:55:56.30
208日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:58:10.90
卑弥呼の古墳て前方後円墳なんかいところで?
その辺は形状みたいな走り書きくらいあるんだろ?
209日本@名無史さん2019/07/17(水) 08:58:51.41
関川氏は畿内説互助会にたてをついたから干された
210日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:00:22.29
211日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:00:44.92
円墳時代と方墳時代と呼ばれる違う勢力
これまったく別の連中らだろ
これらの片側づつ作られた古墳の年代測定どなってる
変な横やりをいれるんは相手しないから念のため(°▽°)
212日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:01:52.20
>>196
>九州が縦長もしくは南方にあると思っただけ、と言えば済む話でしかない。
それでは道里どおりでは北部九州に邪馬台国は無いということだ
九州説ご臨終 213日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:02:29.88
>>202
>南→東が嘘だという証明を九州はしてないからね
開き直りは感心しないね。
倭人伝は誤っているといいたいのだから、南→東が正しいという証明をするのが先だ。 214日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:03:04.79
>>199
問題後送りしても九州説の浮上は無いから 215日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:03:19.44
216日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:03:32.06
>>100
>>194
某公立大学の学生だけど、学食で中国人留学生15人に三国志(魏志)倭人伝を読んでもらったら、14人が大して考える様子もなく、邪馬台国は九州にあると答えたんだけど、
(南→東)と読み替えて奈良県にあったという説があるんだけどとカマ掛けたら、14人全員がそれはないと即座に答えたwww
その理由を聞いてみたところ…
-土地勘のない属国の所要日数は、馬による駅伝制の有無、性別や条件で大きく変わるから大袈裟に書くが、方角は間違えない
-本州は「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種」、四国は「又有侏儒国在其南」で既に書いてある
-「倭地無牛馬」で駅伝制も当然ないことが判り、(帯方郡使が常駐する)伊都国から近い場所にある
というものだったよ! 217日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:03:37.23
今日も優秀な人たちに完膚なきまでに論破されるキナイコシ
罵声に切り換えるか キャラ変えるかだなww
218日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:03:57.31
219日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:05:36.48
自分らの派閥関係みたいなんの争いの話なわけ?
それで事実を曲げよみたいな?ならそいつらが反社会勢力じゃん
220日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:05:56.71
>>215
論破されると
九州説は、いつも罵り始めるね 221日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:06:05.92
天理市教委と桜井市教委は仲が悪いの?
それとも縦割り行政で同時調査できないのかなぁ
県が采配を振るえばいいのに
222日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:08:45.43
ご利益商法みたいなん今は当たり前だからな
これは仕事関係でも宗教を都合よいよーに利用してそれを既成事実化させる、当たり前の考えみたいだからな
そんで勝ったからなんだのほざくキチガイすら現れる
そんなんが認められた時代あったっけ?
特にこの辺が日本はひでえ気がすんだけどさ
223日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:10:10.52
224日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:10:38.35
>>220
お前の理屈でいくと畿内説もなくなるなw
Q.何で南を東と読むのか?
A.畿内説はファンタジーだからw 225日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:10:54.08
220
都合よい妄想を語ってると判断された場合だけな
九州はとくにひどい、中国史にでてるからそれが事実だ!くらいの勢いやもんな
226日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:11:46.84
>>195
答えられないの
邪馬台国の王都なんだから
7万戸の1割とは言わないが
1,000戸は欲しいな 227日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:12:18.51
>>218
そういうトンデモを云うのは北部九州説で、いわゆる九州番外地編。
伊都国は、正しく末盧国の東南にあった、。。 228日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:14:56.74
>>224
なくなる理由は?
理由がないな
九州説はいつも理由がない
だからご臨終なのさ 229日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:16:01.47
230日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:18:57.21
>>224
Q.何で南を東と読むのか?
A.畿内説は南を東と読んだことはない 231日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:19:06.28
今日は連句とキウがひどく暴れてるな
232日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:22:09.42
>>222
最近の日本はろくな研究成果を出せないと言われているのは、学閥だのを放置してきたがゆえ。
まるでネトウヨやパヨクのように群れてバイアス集団を形成するだけ。
当然アウトプットは「妄想」のみ。
アホ学者による学閥という宗教化が進むとこうなる。 233日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:22:29.28
>>218
最初に向った方向でもいいし・・・「末盧国に至る。四千余戸有り。山海に浜して居す」
伊都国へ末盧国経由で魏使が行ったのは何回だと思う
誤認したかもね・・・「草木茂盛し、行くに前人を見ず。」
しかし邪馬台国はそうはいかん 魏使が一度しか行っていないならともかく 234日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:22:50.76
>>230
じゃどうやって奈良までこじつけるんだ?
池沼か? 235日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:24:08.05
>>232
学者を罵れば九州説が延命するかというと
それはない 236日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:25:36.70
237日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:28:59.12
>>235
悲しいかな、学者には定年がある。
しかし倭人伝に定年はない、1700年も存命しているんだからね。甘く見てはいけないよ・・。 238日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:29:26.03
末盧国は呼子港に寄っただけだね。
そこで庶民の様子を観察できたんだろう。
そして陸路だとアシが茂って歩くのが困難だと書いてあるから、官に会う事もなく船で伊都国へ向った。
壱岐から見て東南にある伊都国へ末盧経由で向ったという意味だ。
239日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:30:10.69
>>216だけど、
中国人には同胞同士にしかわからない不文葎があって、嘘(例「南水行十日陸行一月」)を吐く場合は、どういう嘘か判るように書く。
「其計道理當在会稽東冶之東」が嘘で、実際は帯方郡使との連絡を密にすべく伊都国の近くに「女王之所都」がないとおかしい(なぜなら倭地無牛馬=駅伝制がないから)
中国人留学生の着眼点は、馬の有無と方角のようでした。
もし女王国が不弥国の南→東と嘘を書いたなら、「女王国東渡海千里複有国(本州)」「其南有狗奴国 女王不属」と完全に混乱&矛盾してしまい、頭悪過ぎるとのことですwww 240日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:30:51.64
>>236
じゃ一切証明には至らないわけだが?
一言で言うと畿内説敗北宣言w 241日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:31:24.08
>>237
ナイス
私利私欲の組織や学者は必要無い
誰かが投稿していたが、功を焦るとロクな事は無い 242日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:35:31.05
九州説も畿内説も同じ日本だろ
「会稽東治の東」は間違いと主張するか
それにあった場所比定すればいいじゃん
北部九州も畿内も緯度的に大差ないのだから
243日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:36:12.71
>>194
大和説者の脳は異常
那珂八幡は、くびれ部が滑らかな彎曲であり、
明らかに「高句麗の前方後円墳」の類似型。
纒向石塚や箸墓は、くびれ部が那珂八幡よりもシャープで前方部が開いており、
後円部と前方部の長さの比率も那珂八幡よりも単純な比率化している。
>那珂八幡よりも進化しているので時代が後だとか誰にでもすぐバレる嘘を平気でたれ流す<
前方部と後円部の比率は、大和説学者らの報告にもWikiにも書かれている事。 244日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:41:24.73
>>242
周教授が会稽東治は揚子江河口付近と言っているから
それに合わせればいいかもね すると九州でも畿内でもいいし 245日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:42:24.07
481>>199
思考力・・・洞察力がふんだんに
湯水のごとく必要になる歴史学
国粋人種差別皇国史観の大和説尊師が長里だ言ったから長里だ、
というようなアホ大和説は、
自然科学者や一般国民には、とても付いて行けない領域 246日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:45:01.31
481>>202
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、
証拠を使っただせないし、出さないからな 247日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:45:02.71
旧石器時代捏造事件は、考古学者の資質が問われた問題だったということをわすれるべきではない。
そして何でもそうだが、発覚するのは氷山の一角だという、社会の常識をわすれてはいけない。
248日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:46:55.38
>>240
>じゃ一切証明には至らないわけだが?
一切証明には至らない
と決めつける理由は?
九州説はいつも理由を言わず
結論だけが突然ある
不思議なことだ 249日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:47:55.49
250日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:51:36.45
BSの番組は妥当な内容だったよな。
中国の研究者って相当な量の文献解読に挑んでいる人たちだから、解釈のコツみたいなものをよく知ってるんだろう。
そして当然ながら、重視すべきポイントもよくわかっていると思う。
「方角が重要です」
251日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:52:57.25
>>243
>那珂八幡は、くびれ部が滑らかな彎曲であり、
>明らかに「高句麗の前方後円墳」の類似型。
>纒向石塚や箸墓は、くびれ部が那珂八幡よりもシャープで前方部が開いており、
まったくの真っ赤な真っ赤な
ウ ソ
252日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:53:25.08
>>248
文献無視して何してんの?おたくw
畿内説って何に対する何の証明なの?
頭おかしいの?w
早めに病院行けよとw 253日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:54:11.78
481>>209
>鉄だけで単純に考えると
鉄を産しない九州は韓の奴隷になることになる<
(弁辰)國出鐵、韓wai倭皆從取之。諸市買皆用鐵、如中國用錢、又以供給二郡
であるから、
韓もwaiも倭も二郡も、弁辰の奴隷になっていない。 254日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:54:16.40
>>249
どう関係があるのか、あなた説明できないでしょ? 255日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:57:35.10
>>247
素人を信用してやったのが間違いなんだよ 256日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:57:38.44
>>252
>文献無視して何してんの?おたくw
文献無視だとか決めつける理由は? 257日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:00:39.21
>>254
大集落なんだろ
規模ぐらい推定しないと 258日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:01:23.16
>>255
つまり藤村はお前のような奴だったということ。 259日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:02:36.74
奥山は自分が藤村と同類であるという認識が無いのかな?w
260日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:04:08.22
>>216
俺も東大の中国人留学生に聞いたら邪馬台国は奈良って言ってたよ
理由は東大生らしく明確で
邪馬台国は北部九州から水行30日の場所にあるから北部九州の可能性はゼロなんだとさ 261日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:05:15.93
>>258
畿内説は学者の通説
ど素人の種々雑多な説がお前のような九州説 262日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:05:50.65
263日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:09:46.91
481>>219
>じゃあ九州倭国たら言うもんは、どっから出てくるんだ? ・・・歴史のゴミ箱?
>ザラコクがヘマやったせいで九州説はついに終焉 <
何度も言って来たように、
唐会要倭國伝の「西北接百濟、正北抵新羅」が、
直接的に「北部九州」を指し示しており、
倭國の位置を特定する証言であり、
大和説を粉砕否定する証言。 264日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:09:54.46
『日本書紀』は神功皇后を卑弥呼と台与に一致させようとしている。
『日本書紀』によると
170年 神功皇后が産まれた
200年 神功皇后が即位
238年 神功皇后が朝貢 (卑弥呼が朝貢した年と一致)
269年 神功皇后が死亡
卑弥呼が女王になったのは184年頃と考えられているので
卑弥呼が産まれたのは170年頃(神功皇后が産まれた年)と推測できる。
※台与は13歳で女王になった。卑弥呼もそれくらいの年齢で女王になったと考えられる。
『日本書紀』は一致させようとしてるので、台与が死んだのがおそらく269年頃(神功皇后が亡くなった年)だろう
265日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:09:56.87
266日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:11:33.70
481>>220
「南→東」などの嘘付き騙しの、ヘマをやらない大和説なんて、
実在するのか? 2672642019/07/17(水) 10:13:13.05
崇神天皇が亡くなったのは(戊寅年)であることから
崇神天皇の没年は258年か318年が定説になっている。
しかし、モモソ姫を卑弥呼とすると
崇神天皇は卑弥呼と同時代の倭王のはずで
崇神天皇の没年は198年(戊寅年)でないとおかしい。
198年 崇神天皇が亡くなった
200年 『日本書紀』によると神功皇后が即位
崇神天皇が亡くなって卑弥呼に権力が集中したのが199〜200年頃と考えられるのでこれも
『日本書紀』の神功皇后が即位した年と合うんだよな
268日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:17:05.13
>>261
そう言ってるのが藤村同類のお前じゃなw 269日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:17:55.13
>>263
それ、妄想
日本列島は九州を最北端として南へ南へと伸びている
という誤った地理感で書かれているだけ
当時の地図にあるとおりだ
270日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:18:38.24
271日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:20:18.09
481>>222
>ザラゴキの言い分が通るなら、例えば遺跡の発掘調査をした人以外はその遺跡の発掘成果について
何も言えないことになる バカすぎ<
「遺跡の発掘調査」においても、「発掘の事実」報告だけならそれだけの価値はあるが、
その発掘事実に関しての、
「南→東」などの嘘付き騙しの結論先にありきの大和説信奉学者の「解釈」や「説明」では、
始めから客観性も信頼性も全くなく、確率も全くない。 272日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:21:57.56
>>269
それ妄想。
「当時の地図」とか言ってるしw
「当時の地図」とか言ってるしw
「当時の地図」とか言ってるしw
「当時の地図」とか言ってるしw
「当時の地図」とか言ってるしw
273日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:22:59.57
>>268
藤村程度の考古知識もないのがお前の作り話九州説 274日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:23:19.85
481>>224
ここをご覧になっている「南→東」などの嘘付き騙しの大和説の会の方、
大和説が終わるのは、主にザラコクの論証に反論出来なかったせいです。 275日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:25:09.30
>>265
その面積で何戸ぐらいだと思う
あてずっぽうでいいよ 276日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:26:46.05
481>>229
それは間違いだよ
大和説は50年ほど前に、古田説などが出た時点で、既に終わっていたんだから 277日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:27:42.51
>>273
お前を藤村同類とは言ったが藤村程度とは言ってないぞ?
お前はそれ未満だからw
宗教思想を考古知識だと勘違いしているお前の作り話畿内説オワコンw 278日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:28:27.25
>>276
大和説が終わったから古田説なんてのが出てきたわけで。 2792642019/07/17(水) 10:29:39.69
年表
170年頃 卑弥呼が産まれた。(『日本書紀』によると神功皇后が産まれた年)
184年頃 女王・卑弥呼に即位
198年(戊寅年) 崇神天皇が崩御した。
200年頃 第10代・崇神天皇が亡くなった事によって卑弥呼に権力集中した。(『日本書紀』によると神功皇后が即位した年)
※『魏志倭人伝』によると官のトップは伊支馬(第11代・垂仁天皇の本名は伊久米),次席は弥馬升(垂仁天皇后の本名は日葉酢)
238年 卑弥呼が朝貢した。(『日本書紀』によると神功皇后が朝貢した年)
248年 『三国志』によると女王・卑弥呼が亡くなった。
266年 台与が晋に朝貢した。
269年 日本書紀』によると神功皇后が亡くなった(台与が亡くなった年か)
※卑弥呼死亡後の後継者争いによって男王制度が廃止された。
※約100年間の天皇不在の空白期間
390年頃 第15代・応神天皇が即位した。 (『日本書紀』によると270年生まれだが、390年頃即位したことが確実視されている))
※学者の間でも応神天皇は新王朝が定説
280日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:31:57.41
>>270
北部九州から「水行30日+陸行一月」だろ
どっちにしろ北部九州はありえない 281日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:33:09.22
>>277
お前はしつこく日本人学者を貶める反日朝鮮人と同類 282日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:33:25.12
畿内説学者の基本的見解
北部九州では紀元前1〜2世紀、朝鮮半島から鉄の素材が入り、加工して流通するようになった。
弥生時代、倭で最初に本格的な金属器社会に入った地域だ。
初期の国家について「鉄が権力をつくる」との説を私は支持している。
ではなぜ鉄の一大生産地だった九州に比べ出土品も少ない近畿に大和政権ができたのか。
北部九州は交易が盛んで、鉄も豊富にあり、経済的にも進んでいた。
空間的、階級的にも分散して社会形成が進んだ。
イメージしやすいのは、みんなで豊かになる(共和制)だ。
この「みんなで豊かになる(共和制)」を纏向では示す事が出来なかったので、次の遺跡を探しているのが現状。
奥山?だれそれ?
283日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:35:04.65
>>281
むしろ畿内説のその歴史捏造体質はチョン譲りw
血筋には逆らえないんだろ?w 284日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:38:32.24
>>282
皮肉のつもり?
すごく頭が悪そうな文章だねw 285日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:39:17.11
考古学会がウヨなのは半島系の血が濃いからだな。
万世一系とかどんだけ脳内お花畑なんだw
ネトウヨもチョンも同類だ。
286日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:39:19.80
要するに調べ歩いたやつらの旅日記なわけな
287日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:40:38.07
魏、志←ってあるわけだろ
ならそいつら魏の役人だよ
288日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:41:27.82
>>284
畿内教信者には学者も素人も見分けがつかない事実がw
↓こいつに言えよw
松木 武彦(まつぎ・たけひこ) 大阪大文学部卒、同大学院博士課程単位取得。
専門は日本考古学。日本列島の古墳研究や考古学を通じた戦争、国家形成論などを研究。
2014年から国立歴史民俗博物館の研究部門教授。 289日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:41:30.82
魏のやつらが仏教関係を調べ始めるときもやってるからよ
290日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:41:38.05
九州王の年表
(紀元前2世紀) 奴国の吉武高木遺跡
(紀元前2〜1世紀) 奴国の須玖岡本遺跡
(紀元前1世紀の王・王妃墓) 伊都国の三雲南小路遺跡
(紀元1〜2世紀の王墓)伊都国の井原鑓溝遺跡 ←遺跡調査によってこの頃に漢鏡流通の核としての機能が停止(首都機能の喪失)したことが判明
(紀元2〜3世紀の女王墓)伊都国の平原遺跡 ← 遺跡調査によって平原遺跡の衰退時期であることが判明(魏志倭人伝によると邪馬台国の一大率に支配されていた時期)
※『日本書紀』によると4世紀頃、伊都国の王は仲哀天皇の完全な家来になった。 ←伊都国の九州王家滅亡
291日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:43:05.13
>>283
九州爺さんの九州説は口汚いお前のように民度は低くない 292日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:43:13.22
>>288
アホか
その人の意見なら改ざんせずにそのまま書けよw 293日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:43:19.31
481>>238
>中国の日本についての記述を見ると九州説など全く存在していないのが分かる
簡単に書くとこうなる ・・・
中国は邪馬台国は大和でそれが継続していると当然のことのように了解している<
唐会要倭國伝の「西北接百濟、正北抵新羅」に拠って、
「世與中國通」した倭國は、北部九州であった事が確定。
新唐書は、九州倭國の存在や歴史を隠蔽して、
大和「日本」伝のみ記載にした半分×書であり、
中国に使節を派遣したのは隋の開皇末が最初であり、
それも、「俀王姓阿毎、字多利思北孤」ではなく、
「次用明、亦曰目多利思比孤」と記録され、
当然別人。 294日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:44:30.40
>>290
平原遺跡で隆盛をきわめたのなんで九州はこんなに落ちぶれたんだろうね 295日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:44:54.36
>>290
一大率は畿内とは無関係。
■魏志韓伝より
國出鐵韓?倭皆従取之,諸市買皆用鐵如中国用銭,又以供給二郡
(国には鉄が出て、韓、?、倭がみな、従ってこれを取っている。
諸の市買ではみな、中国が銭を用いるように、鉄を用いる。
また、楽浪、帯方の二郡にも供給している。)
■重要事項
・3世紀頃は鉄は市で通貨として使えるほど貴重だった。
・九州では武器や農具に鉄を使えるほど潤っていた。
・しかしこの時代の畿内からは鉄が出土していない。
↓鉄の出土状況
■推測されること
・畿内政権は鉄を取りに行っていない
・畿内政権は九州に鉄を分けてもらえなかった
・一大率は畿内への鉄の供給を行わなかった
■結論
・3世紀の北部九州と畿内の関係は希薄だった
・一大率は畿内政権とは無関係だった
・畿内は倭国ではなかった(縄文人?)
■裏付け
纏向遺跡では九州産や半島産の土器は出土していない。
もと歴博の館長もやった佐原真いわく、
「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていないのだ」(開き直り) 296日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:45:19.42
>>293
半分×書ってwwwwwwwwwwwwwww 297日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:45:30.22
298日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:47:38.92
>>297
西暦57年に福岡の奴国王が金印を授かったことによって
九州の代々の王(伊都国王)よりも偉くなったんだろうね。
だからこの頃から伊都国の遺跡は徐々に衰退していっている 299日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:48:07.32
300日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:48:55.57
>>294
西暦57年に福岡の奴国王が金印を授かったことによって
九州の代々の王(伊都国王)よりも偉くなったんだろうね。
だからこの頃から伊都国の遺跡は徐々に衰退していっている 301日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:49:53.36
ちなみに古田本は全部??書だ
302日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:51:29.66
>>299
お前さ、知識もなく情弱であるにも関わらず畿内説モドキやってんのか?
ええ加減にせえよ 303日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:52:56.39
九州説の俺ですら時代は吉備だと聞いているぞw
304日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:53:05.23
>>295
九州は畿内に支配されてたから九州の鉄は畿内のものだが 305日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:53:42.32
306日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:54:02.19
>>300
近いがゆえに覇権争いが絶えなかったんだろうね。 307日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:55:16.84
>>304
その証が全く確認されず、諦めたわけ。
だから桜井は畿内説ではなく→纏向学に転向したんだよ。 308日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:56:07.69
>>305
手元にあるけど業界情報だから教えてあげないw 309日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:56:45.31
>>307
学者の99%は畿内説と言われているのをどう説明する? 310日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:57:20.91
311日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:57:46.84
312日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:58:40.85
時代が変わったことに気づいていない奥山哀れwww
313日本@名無史さん2019/07/17(水) 10:59:37.52
314日本@名無史さん2019/07/17(水) 11:01:11.73
481>>240
>投馬国から邪馬台国までも水行10日の陸行1月と書いてるぞ
魏使は邪馬台国に行かなかったのか?<
何度も書いたように、至の前に移動をした事を示す文言がないから、
投馬國へは魏使らは行っておらず、側副傍線国としての説明であり、
だから、不彌國の次も、途中移動がなくで、南至邪馬壹國女王之所都であるから、
不彌國のすぐ南に邪馬壹國の入り口がある事になる。 315日本@名無史さん2019/07/17(水) 11:07:00.21
>>274
ザラコクの論証とか
実在しないという
この喜劇 316日本@名無史さん2019/07/17(水) 11:07:08.02
>>314
筑後川流域全体が邪馬台国で祇園山古墳が卑弥呼の墓ということかな? 317日本@名無史さん2019/07/17(水) 11:08:05.10
318日本@名無史さん2019/07/17(水) 11:09:59.73
319日本@名無史さん2019/07/17(水) 11:13:30.08
>>302
追求されて改ざんがバレて
罵って誤魔化す九州 320日本@名無史さん2019/07/17(水) 11:15:30.65
奥山は考古学会のソースを持っていないということが判明したなw
みなさん相手にすんなよ、こんなエセ畿内説を。
321日本@名無史さん2019/07/17(水) 11:16:25.01
>>307みたいな
確認されたら確実にバレちゃうウソをつくことで
九州説は信用を失い衰退していった
そして今日のありさまである 322日本@名無史さん2019/07/17(水) 11:17:50.55
外れ者同士、同病相哀れむのスレww
323日本@名無史さん2019/07/17(水) 11:22:33.01
>>317
いや俺は九州説だな。
北部九州に限らず南部を含む九州説だ。 324日本@名無史さん2019/07/17(水) 11:25:54.68
奥山という藤村同類の劣化バージョンが、妄想の花を咲かせる夢を見ていた間に、時間は無情にも流れさっていった、のであるな。。。
325日本@名無史さん2019/07/17(水) 11:30:55.25
確かに畿内説の屁理屈でいくと陸行一日で吉備や播磨も有りだなw
326日本@名無史さん2019/07/17(水) 11:32:11.62
327日本@名無史さん2019/07/17(水) 11:34:24.19
328日本@名無史さん2019/07/17(水) 11:35:40.45
またお前かw
329日本@名無史さん2019/07/17(水) 11:40:13.67
阿蘇説なんていたか?
330日本@名無史さん2019/07/17(水) 11:49:12.11
>>196
>南を東と間違えた理由を答えりゃいいのに頭悪いの?
邪馬台国の会のステイクホルダーさん、こんにちは
「循海岸水行二十日投馬国、循海岸水行十日南陸行一月邪馬台国」という記録と
倭は百越の流れの南方民族、という大陸中華の常識(思い込み)を整合的に考えれば
倭国上陸後、南に海岸沿いに水行して、最後も南に陸行するという地誌記事が出来上がる
>九州が縦長もしくは南方にあると思っただけ、と言えば済む話でしかない。
それでは、現実に邪馬台国まで行った水行二十日、水行十日陸行一月の記録と合わないよw
九州説は旅程論で完全に否定される 331日本@名無史さん2019/07/17(水) 11:51:39.15
>>201
>個人的には共立は2世紀末にあったと考えてる
ここまではまあいい
ただ、銅鐸の放棄年代は、>>201の想定よりも早い(古い)時期とするのが通説
>そして卑弥呼は3代目女王として九州から呼ばれたと思ってる
畿内と三遠式の合同で、どうして九州から呼ぶ必要がある?
ここに意味のない飛躍がある 332日本@名無史さん2019/07/17(水) 11:54:15.28
>>205
>纏向近辺の古墳群にも当てはまるが 邪馬台国と関係ない地方豪族の首長じゃないの
倭国(日本列島)最大の古墳が作られているのに、そして全国規模で同一の前方後円墳を作るという
合意が成立しているのに、その最大の古墳が一地方豪族のものと考えるのはまともな考え方ではない 333日本@名無史さん2019/07/17(水) 11:57:23.98
>>147
>当時最大級の古墳造営基地でも解釈可能な説明だねww
当時最大の古墳を作れる主体が誰かと考えれば、列島で最大の実力者を想定する以外にない
通常、最大の実力者とは「王」を意味するし、当時の倭人の王は卑弥呼だと魏志倭人伝に
固有名詞が出ているから、列島最大の古墳群を作った主体は卑弥呼の政権だと考えるのが理の当然 334日本@名無史さん2019/07/17(水) 11:58:08.55
>>330
>邪馬台国の会のステイクホルダーさん、こんにちは
妄想幻覚発症してるしwww
理由を聞いてるのに想像で答えるバカwww 335日本@名無史さん2019/07/17(水) 11:58:12.95
>>320
もうさー中傷しか出来なくなったんなら人生引退したらいいのに 336日本@名無史さん2019/07/17(水) 11:59:18.19
>>174
>水路は古墳造営のための物資運搬用と再三指摘しているのだがネ
水路は古墳造営にも便利だけれど、古墳造営のためだけに作ったという論証なしには
古墳造営用の水路があるから古墳造営基地だという論は成立し得ない 337日本@名無史さん2019/07/17(水) 12:00:14.31
>>333
列島最大政権が狗奴国に襲われて中国に泣きつくという摩訶不思議な畿内説www 338日本@名無史さん2019/07/17(水) 12:00:41.96
>>333
あの時代も卑弥呼、この時代も卑弥呼じゃ破綻する。纒向は、時代が違うのさ。 339日本@名無史さん2019/07/17(水) 12:01:05.84
>>334
>理由を聞いてるのに想像で答えるバカwww
古代に起こった出来事の理由だったら
想像で答えるのが普通だぞ 340日本@名無史さん2019/07/17(水) 12:01:21.62
>>206
>纏向は箸墓の造設完了とともに消滅していると学者が語ってたな。
邪馬台国の会のステイクホルダーさん、こんにちは
どこのどんな学者が、そんなことを言っているんだい?
ソースは?
また、「そうだったらいいな」という脳内妄想がソースなのかな?w 341日本@名無史さん2019/07/17(水) 12:02:29.21
>>337
>列島最大政権が狗奴国に襲われて中国に泣きつくという摩訶不思議な畿内説www
それ、誰が主張したんだ?
畿内説の人間か?
おまえの妄想か? 342日本@名無史さん2019/07/17(水) 12:02:29.41
>>335
お前は既に人間引退していることに気づいてないんだろwww 343日本@名無史さん2019/07/17(水) 12:03:55.46
344日本@名無史さん2019/07/17(水) 12:04:44.54
>>221
>それとも縦割り行政で同時調査できないのかなぁ
この手の発掘などの行政は教育委員会の管轄で、教育委員会は市町村単位で設置される
その結果だね
それ以前に現状では、発掘ってかなり場当たり的に、工事予定のところを発掘させてもらう
みたいなものだから、計画的な発掘ってのはなかなか難しいよ 345日本@名無史さん2019/07/17(水) 12:05:49.35
邪馬台国の主邑は邪馬嘉(山鹿)だが、
女王之所都、つまり卑弥呼の都は阿蘇高千穂で、その塚は径百余歩の高千穂神社山陵、、。
346日本@名無史さん2019/07/17(水) 12:07:10.13
>>333
それはね 倭種の別国の話なのだよ
また、卑弥呼死亡以降の話なんだよね 347日本@名無史さん2019/07/17(水) 12:07:57.97
>>344
宗派が違うからだろw
畿内教信者が天理教領域に立ち入れる訳がないw 348日本@名無史さん2019/07/17(水) 12:10:17.83
>>100の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
← ┏━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜日本海〜〜〜〜
洛陽┃ ┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜東→✖畿内説沈没地点(†乗客乗員>>102)
【魏】┃〜〜〜↓↓南「水行十日」〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┃〜対馬▲↓〜〜〜〜〜〜↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」§琵琶湖
↓ ┃〜〜〜↓↓玄界灘〜〜〜↗〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓ 淀川↙ ↑木津川
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行十日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃河内湖+大和湖Ω箸墓
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃紀伊半島
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃★奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王四千余里」@阿波
建業┃〜〜┃狗奴(球磨)国▲▲投馬(都万)国┘宮崎平野=南「水行二十日」
会稽┃〜〜┗━━━九州島━━┛↓〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海〜┌南「水行十日」〜〜〜〜
蘇州┃〜〜┌───▲奄美大島┐↙邪馬台国島(幻)↓陳寿の創作
↓ ┃〜〜│↓「陸行一月」(幻)│〜「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
福州┃〜〜│△△▲△△△△△│←亶州(沖縄)〜〜↓「自郡至女王国 万二千余里」
東冶┃〜〜│☆奴国A(幻)△△│★『【女王之所都】計其道里 當在会稽東「冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲狗奴国(幻)△△│←夷州(台湾)〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└△△△△△△△△┘〜「※其余旁国遠絶 不可得詳」
┏▲海南島〜└△△△△△△┘〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(☆奴国A)東南 船行一年」 349日本@名無史さん2019/07/17(水) 12:19:17.39
481>>241
>それに水行十日陸行一月が萬二千里の言い換えだとすると
帯方から倭国に上陸するまでの1万里を10日 残り二千里が1ヶ月かかる事になる
船は早すぎで陸路が遅すぎないか<
根本的には、「歴韓國乍南乍東」は、韓國陸行であった、という事であり、
その証拠は、倭王武の上表文の「自昔・・・道kei百濟、裝治船舫」に文にあるように、
半島は道kei路であった、という事と、
渡海は持衰が同乗している事を見ているから、
(中国や韓の大型船ではなく)倭船であって、
狗邪韓國から倭船に乗船している、という事だ。
だから、水行は「循海岸水行」と3渡海であり、
陸行は歴韓國と、對海國と一大國の国内見聞移動と、
末盧國から邪馬壹女王之所都への陸行部分の合計だ。
對海國と一大國の国内見聞移動が数えられている事の証拠は、
「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」の、
「五千餘里」の陸路の参問に、
對海國と一大國の国内見聞移動が計上されている、という事だ。 350日本@名無史さん2019/07/17(水) 12:20:53.19
>>340
いまさら古墳造営基地局である事実を発表出来ない、引っ込みのつかなくなった学者が哀れだなwww
自分が死に体になるのを隠れて待つだけの人生www 351日本@名無史さん2019/07/17(水) 12:36:07.46
九州説の猿がキーキーと煩いのう
352日本@名無史さん2019/07/17(水) 12:40:25.27
>>351
おや?おたく古墳造営サービスの広報バイトの方ですか?www 353日本@名無史さん2019/07/17(水) 12:41:52.53
大和天理教まきむく出張所、、、、
354日本@名無史さん2019/07/17(水) 12:44:26.07
>>352
猿語で喋られても何言ってるかわからんぞ 355日本@名無史さん2019/07/17(水) 12:47:29.37
纒向は大集落と言われる割には、まったく戸数が出てこないんだな。
アホが言い張っているだけか。
356日本@名無史さん2019/07/17(水) 12:47:35.53
357日本@名無史さん2019/07/17(水) 12:48:08.42
>>350
こういうのをブラジル勝ち組とか言うのか? 358日本@名無史さん2019/07/17(水) 12:48:25.05
>>300
畿内説は考古学さえ無視して適当なことを書き散らすだけ。 359日本@名無史さん2019/07/17(水) 12:48:57.74
九州説は赤村の巨大前方後円自然丘陵が古墳と認めてもらえなかったから
ヤケクソになってるんだよw
360日本@名無史さん2019/07/17(水) 12:49:08.32
>>323
>>>317
>いや俺は九州説だな。
>北部九州に限らず南部を含む九州説だ。
南にあった狗奴国はどうするんだよ。 361日本@名無史さん2019/07/17(水) 12:49:43.54
362日本@名無史さん2019/07/17(水) 12:50:05.49
>>356
なんかアンカーが付いてるけど猿語だからわからないなあ
猿語は苦手だけどとりあえずコミュニケーション取って見るか
キッキキ?ウキ? 363日本@名無史さん2019/07/17(水) 12:50:29.20
キナイコシは猿だったのか。
364日本@名無史さん2019/07/17(水) 12:50:51.57
365日本@名無史さん2019/07/17(水) 12:51:08.72
>>361
なら邪馬台国に南九州を含んだらダメだろ。 366日本@名無史さん2019/07/17(水) 12:51:54.50
邪馬台国の官衙は邪馬嘉(山鹿・菊池)だが、
女王之所都、つまり卑弥呼の宮殿城柵は阿蘇高千穂で、その塚は径百余歩の高千穂神社山陵、、。ケケキーキー
367日本@名無史さん2019/07/17(水) 12:52:14.40
>>362
ダッサwww
ハゲ爺なのがバレバレの応答www 368日本@名無史さん2019/07/17(水) 12:52:26.71
大集落だと戸数が出ないとイカンのか?
それはどういう理屈なんだ?
369日本@名無史さん2019/07/17(水) 12:53:52.90
370日本@名無史さん2019/07/17(水) 12:54:48.37
>>368
住居を持たない猿の大集落だったと言うのなら何とか理解できるが? 371日本@名無史さん2019/07/17(水) 12:54:58.35
スレッドが、新しく作成され、急激に進行してしまっているな。。。
372日本@名無史さん2019/07/17(水) 12:55:23.16
373日本@名無史さん2019/07/17(水) 12:55:32.24
374日本@名無史さん2019/07/17(水) 12:56:02.44
>>371
巻向大下水道の話題が、倉庫に押し込められてしまったね。。。 375日本@名無史さん2019/07/17(水) 12:56:33.91
>>372
それのどこが証拠?
論理的に説明ねがいます 376日本@名無史さん2019/07/17(水) 12:57:02.35
それにしても、奥山氏は頭が悪いな。。。
377日本@名無史さん2019/07/17(水) 12:57:30.46
>>365
あほ?
熊本、宮崎まで女王国で鹿児島の隼人が狗奴国で構わないだろ?
あほ? 378日本@名無史さん2019/07/17(水) 12:58:58.88
379日本@名無史さん2019/07/17(水) 12:59:04.54
一部の考古学者は、現象学的な態度が不足してしまったので、妄想で、邪馬台国畿内説を生み出したのだったな。。。
380日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:00:05.92
>>379
考古学者とは、想像で飯が食える簡単なお仕事です。 381日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:01:28.45
>>237
>悲しいかな、学者には定年がある。
>しかし倭人伝に定年はない、1700年も存命しているんだからね。甘く見てはいけないよ・・。
ごめんなぁ、学説には定年はないんだww
今の学者さんたちが引退した後でも、九州説の復活なんてないからww 382日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:02:00.13
伊都国は肥前、邪馬台国は肥後、狗奴国はサツマイモ
383日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:02:28.26
384日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:03:01.99
一部の考古学者は、現象学的な態度が不足してしまったので、妄想で、邪馬台国畿内説を生み出し、
頭の中の脳の細胞を構成する炭素原子が、空気シャワーで崩壊し、思考の機能が破損してしまった奥山氏が、
一部の考古学者が生み出した妄想を、信じてしまった可能性があるな。。。
385日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:04:51.32
386日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:04:53.22
481>>247
大和説は、「南→東」などの嘘吐き騙しで、
スレごと崩壊したから、悪口しか残されてない 387日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:04:54.17
>>238
>壱岐から見て東南にある伊都国へ末盧経由で向ったという意味だ。
邪馬台国の会のステイクホルダーさん、こんにちは
それはインチキ読み
末盧国についてから、東南陸行五百里と書いてあるから、この行程の起点は
当然に末盧国になる
壱岐から東南の伊都国という読み方だと、「陸行」五百里はどこの土地を進むんだい?
九州説だと、こういうインチキは気にならないのかな?ww
いつもインチキしか書かないから! 388日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:05:16.41
古墳を積み上げた者達の、衛生問題は解明されたのだろうか。。。
389日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:06:30.93
奥山氏は無職なので、どのような組織とも利害関係はないのではないのかな。。。
390日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:08:24.62
キナイコシが窮して罵声合戦に持ち込んだなww
391日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:08:26.63
>>388
古墳を積み上げた者達は、故郷から自分の食料を運び、数日間、労働して帰るのだったな。。。 392日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:09:13.23
393日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:10:13.36
>>391
一番最初に作製された古墳の体積を、積み上げるための、エネルギー量は、延べ何人力なのだろうか。。。 394日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:10:20.76
>>385
隼人の強さを知らない日本在住の方ですか? 395日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:11:48.45
>>392
周教授がどうのこうの言える立場に無い事を理解できないお前は精神異常者か? 396日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:12:10.49
>>250
>「方角が重要です」
これがまたチェリーピッキング
「朝貢国の方角は大体正しい」と言っている訳だから
倭人、在帶方『東南』大海之中の東南は正しいというだけ
それは畿内説も否定しないよ?
よく知りもしない倭国内の地理、方角まで正しいに決まっていると決め付けるのが間違い
実際末盧国から伊都国の時点でもう方角がおかしいし 397日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:12:55.72
>>393
一番最初に作製された古墳では、馬の力を使えなかったので、人力で計算できるな。。。 398日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:13:19.68
>>387
陸行500里は移動中の船から見た目寸だろ。 399日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:13:32.02
>>392
それデーターが古いよ
TBSに尋ねてみ 400日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:14:19.63
>>257
>大集落なんだろ
>規模ぐらい推定しないと
規模は南北約1.5km、東西約2kmだよ
この範囲はどこを掘っても、遺構が出る 401日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:14:43.90
なにこの畿内説の程度の低さw
402日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:14:58.23
>>251
>浙江省〜上海付近〜江蘇省海岸は もともと揚州に所属している それがどうした?<
おや?、類スレ主は、Wikiの記載の意味が判っているではないか。
それじゃ、陳寿の「会稽東治」の「東治」が、陳寿の執筆時点では、
(会稽郡ではなく)、揚州の支配下になっていた、
という事も判っていなのではないか。
いままで、何に反論して来たんだい?。
>上海付近〜江蘇省海岸は臨海郡の分郡前も後も会稽ではないぞ<
そうだ。
会稽郡ではなく、揚州の管轄下だ。
大和説者や、類スレ主らはらは、いつまで誤魔化し続けるんだ? 403日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:16:29.33
>>267
>しかし、モモソ姫を卑弥呼とすると
>崇神天皇は卑弥呼と同時代の倭王のはずで
>崇神天皇の没年は198年(戊寅年)でないとおかしい。
258年でいいだろ?
卑弥呼の弟で、卑弥呼は248年に亡くなってるんだから 404日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:16:42.44
481>>252
実際は現在もう
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説が駆逐されてるんだけどね
そう
詐欺がバレて、死んでいる 405日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:17:01.09
>>100の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
← ┏━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜日本海〜〜〜〜
洛陽┃ ┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜東→✖畿内説沈没地点(†乗客乗員>>102)
【魏】┃〜〜〜↓↓南「水行十日」〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┃〜対馬▲↓〜〜〜〜〜〜↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」§琵琶湖
↓ ┃〜〜〜↓↓玄界灘〜〜↗〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓ 淀川↙ ↑木津川
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行十日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃河内湖+大和湖Ω箸墓
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃紀伊半島
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃★奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王四千余里」@阿波
建業┃〜〜┃狗奴(球磨)国▲▲投馬(都万)国┘宮崎平野=南「水行二十日」
会稽┃〜〜┗━━━九州島━━┛↓〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海〜┌南「水行十日」〜〜〜〜
蘇州┃〜〜┌───▲奄美大島┐↙邪馬台国島(幻)↓陳寿の創作
↓ ┃〜〜│↓「陸行一月」(幻)│〜「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
福州┃〜〜│△△▲△△△△△│←亶州(沖縄)〜〜↓「自郡至女王国 万二千余里」
東冶┃〜〜│☆奴国A(幻)△△│★『【女王之所都】計其道里 當在会稽東「冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲狗奴国(幻)△△│←夷州(台湾)〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└△△△△△△△△┘〜「※其余旁国遠絶 不可得詳」
┏▲海南島〜└△△△△△△┘〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(☆奴国A)東南 船行一年」 406日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:17:08.07
>>397
僕達が笑いリラックスするためにアプローチしている、このレベルの低い、5ちゃんねるねのサクラが作製したスレッドとは全く異次元の、 たくさんの分野のレベルの高い学者達が集う、
魏志倭人伝時代の真実について、僕達か僕達の論敵のどちらの頭がカラフルになるかを賭けて、
お互いに、不敵な笑みを浮かべながら、 闘っている討論会での結論では、
一日で一人が作製できる前方後円墳は、全長4mくらいだったな。。。 407日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:17:25.65
ただでさえ税収の少ないBチク桜井市の財政を圧迫してきた罪は重いぞw
<ソース>
読売新聞YOL(21.11.2018)
邪馬台国の候補地?見学施設、財政難で建設延期 社会
奈良県桜井市は、邪馬台国の有力候補地として注目される纒向(まきむく)遺跡で、
2020年度中の完成を目指していた「ガイダンス施設」の建設延期を決めた。
財政難が原因。整備を進める史跡公園の核となる施設で、遺跡見学の拠点として
期待されていたが、新たな完成時期は未定だ。
408日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:19:42.78
>>278
>大和説が終わったから古田説なんてのが出てきたわけで。
ただの専門外でバカをさらして信用を失った人だよw
東日流外三郡誌はとどめってだけ 409日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:20:12.23
一番最初に作製された古墳の全長は、一日で一人が作製できる前方後円墳の全長の24倍なので、
体積は、24の3乗倍になるのではないのかな。。。
410日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:22:47.56
一番最初に作製された古墳の全長は、一日で一人が作製できる前方後円墳の全長の24倍なので、
体積は、24の3乗倍になるから、高く積み上げる分の位置エネルギーを無視すれば、単純計算では、延13824人力だね。。。
411日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:24:29.06
>>410
延20000人で、最初の古墳を作製した可能性が高いな。。。
そして、延20000人分の糞尿が発生したのだね。。。 412日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:26:32.52
>>402
>それじゃ、陳寿の「会稽東治」の「東治」が、陳寿の執筆時点では、
>(会稽郡ではなく)、揚州の支配下になっていた、
>という事も判っていなのではないか。
無知な爺さん、何をメチャクチャ言ってるんだ?
会稽郡は揚州の支配下だぞ
会稽郡の外に会稽東治なんて無いぞ
九州説は中国史まで捏造するなよ 413日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:28:43.77
一日で一人が2リットルの、大小便をすれば、古墳を一基作製するためには、4万立方の下水を処理できないと、
下流の人民が怒って、合戦になってしまうのではないのかな。。。
414日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:29:03.67
<参考>
会稽東冶の東と記載されている地域は、ちょうど九州あたりです。
415日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:31:20.19
だが、4万立方リットルは、思ったより少ないな。。。
416日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:33:05.05
>>415
4万立方リットルは、4万リットルとタイピングしたかったのではないのかな。。。 417日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:33:44.00
だが、4万リットルは、思ったより少ないな。。。
418日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:34:59.88
4万リットルは、40リューベでしかないな。。。
どこかで、計算を間違えたのだろうか。。。。
419日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:35:44.81
481>>255
>>陳寿も、「道里」は「見聞や実測された道の里」として使っており、
「日数」は「里の実測ではない」所要日数や、伝聞日数、として、
書き分けている。<
>なら、その陳寿が道里を計算して「会稽東治之東」と書いているのだから
道里を合計して福岡県にまでしか来られない、という九州説は間違いだと確定してるよ<
間違ってなんかいないよ。
まず、陳寿の国間距離などの記載での原則は、
居住外縁部などの「入口」までの距離であり、
次の国間距離では、居住外縁部の出発地からの距離だ、という事だ。
だから、女王之所都の邪馬壹國への距離の萬二千余里は、
不彌國のすぐ南の福岡平野の中央部の邪馬壹國の入り口付近までである事になり、
女王が支配する(投馬國を含む)女王國(≒倭國)への萬二千余里も、
不彌國のすぐ南の福岡平野の中央部の邪馬壹國の入り口付近までだ、という事になる。 420日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:36:51.84
>>400
其の面積で 何戸ぐらいの家が建ってたのかが質問なのだが
集落が話題で面積じゃないのだけど・・・
また遺構はどのくらい見つかったの? 421日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:37:22.96
481>>256
このように
「南→東」などの嘘吐き騙しがバレて、
追い詰められた大和説は
陰謀論に走り
月刊ムーの世界に去った
とっくに学問ではない 422日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:40:54.40
481>>262
「南→東」などの嘘吐き騙しの、
証拠も出せないまま真実だ真実だと叫ぶ大和説は
空飛ぶ円盤の信者と変わらない 423日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:44:09.47
4世紀、纏向の古墳を積み上げた者達は、どのように排泄をしていたのだろうか。。。
424日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:46:32.18
>>420
古墳造営の土木作業員がいたのだから遺構はたくさんあるんじゃねー
ドヤ街ていどの遺構だと思うがね 425日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:46:40.69
426日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:48:32.35
481>>272
>九州説はまず、教科書の記述を間違いだという証拠を出せばいいの
妄想わめいてる時間はないぞ <
そりゃ、もう数え切れない位「証拠を出してある」が、
それらの「始まりは南→東」などだから、
「南→東など」と、代表させて書いてきたんだよ。 427日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:52:28.35
倭国は南方の国という当時の認識で記述されたということで説明済みだからな
428日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:54:13.74
>>423
また笑うネタ?いいよ
大勢の土木作業員が水路で糞や小便を垂れ流していたのだよ
近代的な都市だよ、水洗トイレがあるのだから 429日本@名無史さん2019/07/17(水) 13:59:31.92
>>428
フーン
古代人は住む家より トイレの方が立派だったんだ 430日本@名無史さん2019/07/17(水) 14:01:42.69
481>>290
>もちろん、その根拠は言えないんだよね? それが九州説クォリティだ<
もちろん、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は、
その推論根拠や論理をいくら言って上げても、知らん振りして、
「根拠は言えない」とヘイトスピーチ誹謗の投稿をな、
するばかりなんだよね?
それが大和説者のクォリティだ
それが九州説クォリティだ 431日本@名無史さん2019/07/17(水) 14:01:52.00
>>428
謎は解けたよ
纏向が滅びたのは垂れ流しの水路から疫病だな 432日本@名無史さん2019/07/17(水) 14:04:00.80
桃を喰った後の糞は臭いのかなーー
433日本@名無史さん2019/07/17(水) 14:15:27.09
481>>294
>外堀の鐙が4世紀 端墓は3世紀で結論出てただろ<
箸墓は、
石塚が庄内1で3世紀末でで、
ホケノが庄内3〜布留で3世紀末〜4世紀だから、
箸墓は4世紀だ、
っていう結論が出ていただろ?。 434日本@名無史さん2019/07/17(水) 14:17:16.59
40リューベというのは、意外に少ないと思ったが、水路に流したのであれば、
下流に流れないように、やはり大溝が必要だな。。。
435日本@名無史さん2019/07/17(水) 14:17:55.43
481>>297
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は、
ウソの宣伝だけで生き残ろうとしている
達成不可能な恥辱と苦難の道を選んだのだな
おぞましいことだ 436日本@名無史さん2019/07/17(水) 14:19:06.35
巻向大溝というのは、一度も底をさらわなかったので、底から順番に古い土器が堆積していったのではないのかな。。。
437日本@名無史さん2019/07/17(水) 14:20:07.41
巻向大溝が、塞がってしまったので、疫病が流行した可能性があるな。。。
438日本@名無史さん2019/07/17(水) 14:23:30.41
巻向大溝はヘタに触らない方がいいな
439日本@名無史さん2019/07/17(水) 14:26:04.00
481>>298
史料事実や史料実態からの確率的帰納的な科学的学問レベル推論や、
人類の常識レベルでは、「南≠東」などに拠って、
大和は、
「正北抵新羅」の北部九州の倭国の別種分家の旧小国の構成国なので、
有象無象の存在もしない嘘吐き騙しの、畿内説とも何の関係もありません 440日本@名無史さん2019/07/17(水) 14:31:44.72
奥山氏が禿げている件は、秘密だったのでは、ないのかな。。。
441日本@名無史さん2019/07/17(水) 14:32:46.33
巻向大溝はヘタに触らない方がいいな
442日本@名無史さん2019/07/17(水) 14:36:03.49
481>>300
史料事実や史料実態からに帰納的確率的推論の学問レベルや学問レベルでは
大和は、
九州倭国の(阿毎氏の)別種分家の、
倭国の地方の「大市」を監督する大倭國の旧小国でしかなく、
九州倭国の「東征毛人五十五国」の応援をした部将に採用して貰った位置付けであり、
筑紫における倭国の歴史には、殆ど関係がありません。 443日本@名無史さん2019/07/17(水) 14:38:48.76
疫病で纏向が滅びた可能性はマジにあるな
湿地帯だし、各地から病原菌がうじゃうじゃ持ち込まれただろうし
あまり、いい暮らしをしていたように見えないし不潔だと思うよ
高床式住居もすくネーシ 鼠もうじゃうじゃいただろうし
獣の骨も多く見つかってるし
444日本@名無史さん2019/07/17(水) 14:40:23.59
>>302
「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・アホ詐欺師のような、
ゴミ箱扱いされるの大和説者 445日本@名無史さん2019/07/17(水) 14:43:18.52
>>304
>遺構としてはみつかってないが2世紀末〜3世紀初めには
一部の武将が馬を利用していたと可能性がある<
「其地無牛馬虎豹羊鵲」であるから、この大和説者は、×。 446日本@名無史さん2019/07/17(水) 14:48:51.18
>>305
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説のゴミはゴミ箱に、
・・・・アホの詐欺師のクズは病院のクズ箱に、
それを命令した教授や教育委員会や文部省は、刑務所に。 447日本@名無史さん2019/07/17(水) 14:49:04.98
関西の鮮人九州説は九州のことを知らないんだろうが
大溝遺構は比恵那珂、糸島にもある
448日本@名無史さん2019/07/17(水) 15:02:18.20
481>>307
>炭素14年代測定は240〜260年だろ<
検体の「一個の桃核」のAMS法なら、その桃核のC14は、
その桃核が出来た年次に特定出来ているものであった筈なのに、
それが、12個?の検体で、いずれも、
ほぼ140年から250年の110年間の計測値になってしまった、という事は、
そりゃ、AMS法自体が「110年位」の誤差を全部に発生していた、という事であり、
だから、プラズマ化は、ほぼ全部110年位の誤差バラつきが発生していた数字だ、
という事であり、計測年次も110年遅くする必要がある、という事だよ。 449日本@名無史さん2019/07/17(水) 15:09:20.47
はいこれね(°▽°)
倭人の祖は句呉の太伯から始まる集団
太伯は呉の祖とも呼ばれております
蛮族じゃないです
450日本@名無史さん2019/07/17(水) 15:11:17.29
周王家とやらとも関わりがあり姓は姫姓←
451日本@名無史さん2019/07/17(水) 15:22:44.85
452日本@名無史さん2019/07/17(水) 15:43:18.32
ここって何で九州説唱えてる奴いるの?スレタイの日本語読めないのか?
453日本@名無史さん2019/07/17(水) 15:45:07.91
九州説はスレを維持出来なくなったから畿内説スレに東征してる最中
454日本@名無史さん2019/07/17(水) 15:45:56.36
481>>322
>>島伝いにしたって、宮古島から久米島付近までは200km位あって、
島伝いには、全くならない。<
>隋書の頃には、船の性能と航海技術が上がっているから、島伝いも以前より長距離まで
可能になっているんだよ<
議論の始まりは、
私の「渡海は水行の一形態であり、水行に含まれる」という説明に対して、
類スレ主は、「水行は海岸沿いや島伝いだけだ」という反論であったんだから、
対馬〜壱岐の60km位を渡海と書いている陳寿なら、
200km位あれば当然「渡海」と書くべき距離である事になり、
それを「水行」と書かれた例があった、という事は、
「渡海は水行とも書かれる」という事の証拠であり、
類スレ主の「負け」であった、という事にしかならない。 455日本@名無史さん2019/07/17(水) 15:47:40.71
>>294
>平原遺跡で隆盛をきわめたのなんで九州はこんなに落ちぶれたんだろうね
「平原遺跡で隆盛をきわめた」というのが既に間違い
平原1号墓は、墳丘サイズ12×8メートルと、その1世代前の吉野ヶ里の北墳丘墓(40×27メートル)と
比べてもその底面積で10分の1以下の小さな在地の小首長の墓に過ぎない
魏晋代の舶載鏡が1枚もなく、大量の仿製鏡があるだけだ
祭祀システムの変更に伴い、手持ちの青銅器を使い切った様相と思えばよい 456日本@名無史さん2019/07/17(水) 15:51:46.70
>>307
>その証が全く確認されず、諦めたわけ。
弥生終末期の時点で、鉄器も北部九州より丹波の王墓級墳墓の方が大量に出ている
卑弥呼の時代の鉄の入手量で北部九州が優位だと考えるべき理由も遺物も一切ない
>だから桜井は畿内説ではなく→纏向学に転向したんだよ。
纏向学は、町おこし用の登録商標だと何度教えればww
普通に畿内説だよ
商業展開するときによそとの差別化を図るための工夫が、
纏向学という造語ってだけ 457日本@名無史さん2019/07/17(水) 15:54:00.07
>>323
>北部九州に限らず南部を含む九州説だ。
で?
邪馬台国と、投馬国の具体的な比定地及び水行陸行のルートを
「具体的に論じて」くれるかな? 458日本@名無史さん2019/07/17(水) 15:59:43.08
要するに、漢人は帯方郡から九州までの道程を過大評価していただけだよね。
だから九州の倭国が会稽の東だと考えていた。 459日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:00:05.79
460日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:01:00.34
461日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:01:31.13
>>447
>関西の鮮人九州説は九州のことを知らないんだろうが
>大溝遺構は比恵那珂、糸島にもある
ならそちらが王都でもいいよね。 462日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:01:54.90
>>334
>妄想幻覚発症してるしwww
どこが妄想幻覚なのか、具体的な理由、根拠とともに示してね!
陳寿が倭人を南方系民族とみなしていたのは、魏志倭人伝の記述からも確実
「計其道里、當在會稽東冶之東」
「所有無、與儋耳朱崖同」
これは、倭という名称が、論衡の百越の流れの倭と同一のものが
使われていることからも大陸側の共通認識・常識であったことが分かる
沿岸航行=水行の場合は、小さな島や岬を過ぎるときに進行方向が短時間で変わるし
行程全体の方角は把握しがたいため、魏使の訪問時の記録では水行時の方角は
記録がなく、「沿岸に沿っていった=水行」程度の記載と考えるのが妥当
この部分が推定でしかないのは認めるが、十分に妥当な推定
そして、最後の陸行は南向きなので、倭が南方民族という中華の常識と合わせると
水行も引きづられて南と書かれることになる
463日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:03:10.53
>>456
>弥生終末期の時点で、鉄器も北部九州より丹波の王墓級墳墓の方が大量に出ている
出雲を持ち上げても畿内説に有利にはならないよ。
その出雲を下して筑紫が王都になったと記紀にあるからね(出雲の国譲り)。 464日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:03:46.96
>>337
>列島最大政権が狗奴国に襲われて中国に泣きつくという摩訶不思議な畿内説www
つ FAQ9
「倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、
その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。」 465日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:05:30.47
>>338
>あの時代も卑弥呼、この時代も卑弥呼じゃ破綻する。纒向は、時代が違うのさ。
纏向遺跡が祭祀に使われていた時期は、ぴったり卑弥呼の時代だよ
466日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:07:14.30
>>464
だからなんでお前ごときの想像で返すんだよ。
相変わらず論理的思考ゼロなんだなw
ゴミw 467日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:07:28.05
>>462
沿岸の水行は朝鮮半島のリアス式海岸の方が複雑だが、それでも7千里と記録されている。
日本海沿岸を航行したなら、かかった日数などを合わせても概算ができるはず。
そもそも郡使が通ったところは概ねの里程を記録できると魏志倭人伝にあるのに、それが記載されていないのは、郡使が九州北部までしか来ていないから。
つまり邪馬台国は九州北部のどこか。 468日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:08:58.17
>>465
嘘つき。
グラフの盛り上がった部分の中央値は2世紀後半であり、卑弥呼の即位の推定年代より前になる。
纒向は卑弥呼と関係がないようだ。 469日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:09:57.91
>>346
>それはね 倭種の別国の話なのだよ
>また、卑弥呼死亡以降の話なんだよね
纏向石塚古墳は卑弥呼死亡以前だし、おそらく那珂八幡古墳も卑弥呼死亡以前
この範囲が同一の墳墓祭祀文化を共有している時点で、別国というのは破綻したむなしい抗弁
そもそも倭種は東渡海の前も後も「皆」倭種という、帯方東南大海上の島にいるのは
全て倭種の国という表現でしかない
倭種の人が倭人で、魏志倭人伝は「倭人、在帶方東南大海之中」から書き出されている
倭種が倭国と別の集団という意味は最初からない 470日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:13:04.67
>>350
>いまさら古墳造営基地局である事実を発表出来ない、引っ込みのつかなくなった学者が哀れだなwww
その「古墳造営基地局」とかいう妄想の根拠は全て根拠とするに足らないというのは
ここまでで示されているだろ?
引っ込みがつかないも何も、バカなことを言い続けているのは論理的論証のできない
九州説のバカの方だぞw
>自分が死に体になるのを隠れて待つだけの人生www
九州説は、死に体以前に30〜40年前の時点で既に学説としては絶滅してるよ? 471日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:14:12.71
100年から150年足せば良いので、やはり、桃の種は3世紀末から4世紀に埋められたのだな。。。
468日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:08:58.17
>>465
嘘つき。
グラフの盛り上がった部分の中央値は2世紀後半であり、卑弥呼の即位の推定年代より前になる。
纒向は卑弥呼と関係がないようだ。 472日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:14:24.28
>>462
まず帯方郡から南へ東へと書いてある。
お前の想像論でいけば、
至る東南狗邪韓国、水行七千里と記述されるはずだぞ。 473日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:15:17.04
>>100の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
← ┏━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜日本海〜〜〜〜
洛陽┃ ┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜東→✖畿内説沈没地点(†乗客乗員>>102)
【魏】┃〜〜〜↓↓南「水行十日」〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┃〜対馬▲↓〜〜〜〜〜〜↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」§琵琶湖
↓ ┃〜〜〜↓↓玄界灘〜〜↗_〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓ 淀川↙ ↑木津川
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行十日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃河内湖+大和湖Ω箸墓
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃紀伊半島
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃★奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王四千余里」@阿波
建業┃〜〜┃狗奴(球磨)国▲▲投馬(都万)国┘宮崎平野=南「水行二十日」
会稽┃〜〜┗━━━九州島━━┛↓〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海〜┌南「水行十日」〜〜〜〜
蘇州┃〜〜┌───▲奄美大島┐↙邪馬台国島(幻)↓陳寿の創作
↓ ┃〜〜│↓「陸行一月」(幻)│〜「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
福州┃〜〜│△△▲△△△△△│←亶州(沖縄)〜〜↓「自郡至女王国 万二千余里」
東冶┃〜〜│☆奴国A(幻)△△│★『【女王之所都】計其道里 當在会稽東「冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲狗奴国(幻)△△│←夷州(台湾)〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└△△△△△△△△┘〜「※其余旁国遠絶 不可得詳」
┏▲海南島〜└△△△△△△┘〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(☆奴国A)東南 船行一年」 474日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:17:11.71
>>471
つまり、掘立小屋は、古墳王国に滅ぼされた、銅鐸王国の持ち物だったのだな。。。
そして、巻向駅の北西に、正三角形の関係性で作製された3つの古墳は、銅鐸王国の王家の者達の、怨恨の魂を封じるために作製されたのだな。。。 475日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:18:14.26
>>395
>周教授がどうのこうの言える立場に無い事を理解できないお前は精神異常者か?
この前の中国の学者という触れ込みの3人の出演者に、古代史の専門家が
事実上いないんだよ
周徳望博士も含めてねw
たとえアカデミックポジションに就いていても、専門外のことはやはり
専門外でしかない
中世宗教史、特に親鸞が専門の人が、弥生時代の古代史を魏志倭人伝だけで
解き明かそうとしてもトンデモになるだけだ 476日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:18:54.56
>>461
鮮人の願望とは違って福岡の学者は畿内説 477日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:19:56.63
>>474
銅鐸王国の者達が、魏志湾人伝時代の者達で、渡海千里の倭種だった可能性が高いな。。。 478日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:20:21.30
>>470
「古墳造営基地局」www
纏向見た奴なら絶対にそう思うぞw
作業員の寄宿舎、土木用具、食い散らかした魚やイノシシの骨...
ドカタ臭しかしないぞwww 479日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:21:28.20
>>398
>陸行500里は移動中の船から見た目寸だろ。
陸行していないのに、陸行と書く理由は?
移動中の船から見て、壱岐から伊都国が東南なのに、
末盧国から伊都国を東南陸行と書いたらもうデタラメでしかないだろ?
どうして、こんな破綻したその場の思いつきばかり書くんだろう? 九州説は? 480日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:22:17.10
>>469
>纏向石塚古墳は卑弥呼死亡以前だし、おそらく那珂八幡古墳も卑弥呼死亡以前
根拠なし。
そもそもそこまで正確に古墳の年代はわからない。 481日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:23:03.72
481>>324
「南→東」などの嘘付き騙しの指摘には黙って、
都合の良い文言は曲解捏造して大和説に反論出来たかのように装う、
これ、いかに大和説が他者から受けた批判を無視してるか、という事を示す好例だね
平気でウソをつき、都合の悪いものは無かったことにしてクサい物にフタする大和説体質 482日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:23:11.72
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人の奥山氏が、アカデミックポジションという言葉を、インターネットで探し当てたので直ぐに使用した事がわかるな。。。
475日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:18:14.26
>>395
>周教授がどうのこうの言える立場に無い事を理解できないお前は精神異常者か?
この前の中国の学者という触れ込みの3人の出演者に、古代史の専門家が
事実上いないんだよ
周徳望博士も含めてねw
たとえアカデミックポジションに就いていても、専門外のことはやはり
専門外でしかない
中世宗教史、特に親鸞が専門の人が、弥生時代の古代史を魏志倭人伝だけで
解き明かそうとしてもトンデモになるだけだ 483日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:24:34.30
>>478
そう思うのは関西鮮人だけ
各地の遺跡を廻ってブログを書いてる九州説はそんなことは思わない 484日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:28:56.20
中国の考古学界では、夏の時代の会稽は、良渚を中心とする太湖周辺だということは常識なので、
一般的な中国人にとっても、会稽東治は上海や揚子江河口付近にしかならないのだったな。。。
244日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:41:24.73
>>242
周教授が会稽東治は揚子江河口付近と言っているから
それに合わせればいいかもね すると九州でも畿内でもいいし 485日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:32:32.46
481>>350
>(陳寿90度回転さん)
九州説の相手をし続けても、義務は義務として学術的には全く不毛だし、
知的好奇心も刺激されませんよね。<
「南→東」などの、
人類の常識知らずの嘘付き騙しの・・・・アホ大和説詐欺師を相手にしても、
学術的には全く不毛だし、
知的好奇心も刺激されませんよね。 486日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:32:45.83
>>484
だが、揚子江河口付近や上海よりも洛陽の方に緯度が近い畿内を指し示すために、上海の東だというのは不自然なので、
揚子江河口付近や上海の東にあるといえば、対岸の九州島にしかならないのだったね。。。
484日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:28:56.20
中国の考古学界では、夏の時代の会稽は、良渚を中心とする太湖周辺だということは常識なので、
一般的な中国人にとっても、会稽東治は上海や揚子江河口付近にしかならないのだったな。。。
244日本@名無史さん2019/07/17(水) 09:41:24.73
>>242
周教授が会稽東治は揚子江河口付近と言っているから
それに合わせればいいかもね すると九州でも畿内でもいいし 487日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:35:40.01
488日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:38:17.65
古墳を一基作製するために発生する40リューベの大小便というのは、意外に少ないと思ったが、水路に流したのであれば、
下流に流れないように、やはり大溝が必要だな。。。
489日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:42:49.75
481>>380
倭国は決して大きな国じゃない
と、そういうことにしたいんだよな、「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は。
半島がまだ小国分立で国家形成など影も形もない時点で、
日本列島に金印を贈られた広域国家があったというのが、
認めたくないんだろう?。 490日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:43:51.01
>>487
肩書すら無いお前が他人を見下げたように罵る様が実に病的だねえ。 491日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:44:41.37
>>488
巻向駅の北西に、正三角形の関係性で作製された3つの古墳は、銅鐸王国の王家の者達の、怨恨の魂を封じるために作製されたのだが、
作製に必要な労働力は、延6万人なので、発生する大小便は、120リューベなのだな。。。 492日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:44:56.36
>>463
>出雲を持ち上げても畿内説に有利にはならないよ。
>その出雲を下して筑紫が王都になったと記紀にあるからね(出雲の国譲り)。
それこそ時代が合わないんだが?
記紀神話を根拠にしても、検証不能で無意味だって!
記紀神話を根拠にするなら、自天祖降跡以逮于今一百七十九萬二千四百七十餘歳も
信じてあげなさいな
出雲の国譲りは、この179万2470年前よりもさらに前だぞ
根拠は薄弱になるが、神武が纏向遺跡の王、崇神の五代前だから、
卑弥呼の時代と比べたら、神武や、出雲の国譲りは(実在の歴史の反映だとしても)
数百年レベルで昔のことになる 493日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:46:56.76
>>481
>対馬〜壱岐の60km位を渡海と書いている陳寿なら、
>200km位あれば当然「渡海」と書くべき距離である事になり、
隋書を書いたのは陳寿ではない 以上ww 494日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:47:20.44
481>>381
今夜も、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説斜が
格段にルナティック 495日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:47:32.76
巻向駅の北西に、正三角形の関係性で作製された3つの古墳は、銅鐸王国の王家の者達の、怨恨の魂を封じるために作製されたのだが、
巻向大溝から、大小便の異臭が立ち込めるだけではなく、O157で、死体になってしまった者もいるのではないのかな。。。
496日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:49:23.47
朝鮮人の奥山氏は、天皇家の系図を知らないのだろうか。。。
492日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:44:56.36
>>463
>出雲を持ち上げても畿内説に有利にはならないよ。
>その出雲を下して筑紫が王都になったと記紀にあるからね(出雲の国譲り)。
それこそ時代が合わないんだが?
記紀神話を根拠にしても、検証不能で無意味だって!
記紀神話を根拠にするなら、自天祖降跡以逮于今一百七十九萬二千四百七十餘歳も
信じてあげなさいな
出雲の国譲りは、この179万2470年前よりもさらに前だぞ
根拠は薄弱になるが、神武が纏向遺跡の王、崇神の五代前だから、
卑弥呼の時代と比べたら、神武や、出雲の国譲りは(実在の歴史の反映だとしても)
数百年レベルで昔のことになる 497日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:49:40.41
ここって何で九州説唱えてる奴いるの?スレタイの日本語読めないのか?
498日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:50:08.25
>>467
>沿岸の水行は朝鮮半島のリアス式海岸の方が複雑だが、それでも7千里と記録されている。
これがそもそも間違い
半島の循海岸水行は、倭国上陸まで一万里、海峡渡海一回千里×3という二つの設定値から、
引き算で出しただけの現実の地理とは無関係の値
測ってないんだよ
>日本海沿岸を航行したなら、かかった日数などを合わせても概算ができるはず。
「測ってないところが里で書いてある」から、日本海沿岸も概算できたはず、というのは
前提がおかしいので無意味な論証 499日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:52:09.42
>>461
>ならそちらが王都でもいいよね。
でも、糸島にも比恵那珂遺跡にも、列島最大の墳丘墓も径百歩の墓もないだろ?
ここで、北部九州が王都というのが否定されるんだよww
項目ひとつでもあればOKというのは、チェリーピッキングの典型w 500日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:52:18.36
501日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:53:28.12
481>>384
投馬国は、先に不彌國の南の水行二十日の位置である事が書かれているんだから、
その後から書かれた「自女王國以北」には、投馬國は原則として含まれない、
という事であり、
だから、「含まれる」とした大和説が、崩壊必至。 502日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:54:37.31
>>492
>根拠は薄弱になるが、神武が纏向遺跡の王、崇神の五代前だから、
欠史八代を除いて神武は倭国大乱の頃に東征。
一代20年前後なら、出雲の国譲りと天孫降臨はその100年ほど前、帥升の頃。 503日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:55:21.05
>>499
>でも、糸島にも比恵那珂遺跡にも、列島最大の墳丘墓も径百歩の墓もないだろ?
大きいのは田舎だから。
平原遺跡は内容からして倭女王。 504日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:56:10.54
>>500
お前だけが思っても日本の歴史とは関係ない 505日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:56:33.19
>>467
>そもそも郡使が通ったところは概ねの里程を記録できると魏志倭人伝にあるのに、
はい、ここが捏造ですよ!ww
原文は自女王國以北、其戶數「道里」可得略載であって、「里程」とは書いてない
日数で「道里」を表すのも普通の表現
戸数の略載と合わせて、投馬国、邪馬台国も戸数道里略載の「女王国より以北の国」なのは確定
つまり、邪馬台国まで魏使は訪問しているし、魏使に可能な方法すなわち日数で
道里を記録しているということ 506日本@名無史さん2019/07/17(水) 16:58:19.86
507日本@名無史さん2019/07/17(水) 17:00:28.70
508日本@名無史さん2019/07/17(水) 17:00:57.24
>>460
>トイレが水洗なら多少はマシかも。<
水路に蓋してねーから、多めの時は逆流すよな?
高床式でない住居だから水浸しの時 糞まみれにならないかな 509日本@名無史さん2019/07/17(水) 17:02:37.09
>>468
>グラフの盛り上がった部分の中央値は2世紀後半であり、卑弥呼の即位の推定年代より前になる。
>纒向は卑弥呼と関係がないようだ。
辻地区の居館域は、卑弥呼の遣使の頃には別の場所に移っていたというのが
現在の多数説だよ
この桃核の測定値は、卑弥呼の遣使の時代に確実に纏向に王都級の遺跡が存在したことを
示すものだ
そこから4世紀に入るまでは確実に存続しているから、卑弥呼の時代にぴったり重なる時期に
倭国最大の遺跡が纏向に存在したことが証明される
ちなみに、卑弥呼の遣使の頃の居館域は尾崎花地区周辺の微高地と考えられている
ここはまだ発掘が進んでいないけれど、柵列が出たりしているところだよ 510日本@名無史さん2019/07/17(水) 17:02:42.31
御免
大雨の時は溢れ出て、土間が糞まみれになるな
家も糞まみれ
511日本@名無史さん2019/07/17(水) 17:03:41.85
ウジ虫が這い廻る・・おおなんと悲惨な光景
512日本@名無史さん2019/07/17(水) 17:05:13.12
>>472
その文、出だしから書くと
從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里
なんだが?
あくまで書きたいのは、從郡至倭であって、狗邪韓国は倭国の北岸だから
名前が出ているだけ 513日本@名無史さん2019/07/17(水) 17:05:28.48
関西の鮮人九州説は品がない
514日本@名無史さん2019/07/17(水) 17:06:55.56
481>>387
「南→東」などの嘘付き騙しや、
「正北抵新羅」などでも、
なにが問題か指摘できないテンプレが
恥かいてるだけだし 515日本@名無史さん2019/07/17(水) 17:09:23.03
>>470
>纏向見た奴なら絶対にそう思うぞw
思い込みでそんなことを言われてもねぇ
実際に纏向遺跡を見て研究している研究者の見解は
例えば「日本における都市の初現」だったりするんだが?ww
橋本輝彦: 東アジアにおける都市の成立 (奈良女子大学21世紀COEプログラム報告集Vol. 22), pp.81-102 516日本@名無史さん2019/07/17(水) 17:09:47.41
水路の矢板に こびり付いた糞を炭素年代法で分析したらオモロイな
517日本@名無史さん2019/07/17(水) 17:11:36.60
>>480
>根拠なし。
>そもそもそこまで正確に古墳の年代はわからない。
邪馬台国の会のステイクホルダーさん、こんにちは
そこまで正確に古墳の年代は分からなくても、纏向石塚古墳は庄内0式期だから、
どうやっても卑弥呼の遣使よりも古いんだよ 518日本@名無史さん2019/07/17(水) 17:14:47.50
>>490
>肩書すら無いお前が他人を見下げたように罵る様が実に病的だねえ。
いや、教授ですらない人や、教授であっても専門外の人の見解を
「中国人の教授が言っていることだから」とありがたがってる九州説が滑稽だって話だよ
周徳望博士は、ちゃんと敬称付で書いてるだろ?
見下げ果てているのは、九州説の連中だよ
>>490はその筆頭格w 519日本@名無史さん2019/07/17(水) 17:16:56.36
481>>388
>>不彌國〜投馬國の所要日数と、「郡〜女王之所都」の所要日数であり、
対象が全く違う。<
>同じ構文なのに意味が違うと言い張る 九州説がとても異常<
「水行二十日」は、不彌國から南の(不彌國からの)「位置説説明」であるし、
「水行十日陸行一月」は(郡からの)女王之所都の所要日数説明であるから、
「同じ構文」になっていないし、
それを「意味が同じ」と言い張る、「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、
とても異常。 520日本@名無史さん2019/07/17(水) 17:17:43.10
>>511
纏向より古い吉野ケ里の方が文化的じゃねーかな
邪馬台国がヤマトにあり九州を包括してたのなら
吉野ケ里の都市以上に立派な都を作らねーか 521日本@名無史さん2019/07/17(水) 17:21:12.58
纏向王都説はオモロイな
巫女1,000人は何処でウンコや小便してたんだろうな
522日本@名無史さん2019/07/17(水) 17:21:35.20
中国人の説明をよく聞いてみるとちょっと解釈が異なるようだ。
「女王国以北」は「女王国の北からココまで」
「筑紫国以東」は「筑紫国の東からココまで」
この「ココ」が何処なのかを考えながら読めとのこと。
523日本@名無史さん2019/07/17(水) 17:21:56.53
481>>390
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説の主張は、
相手が何説であるかも、史料事実であるかなしに関わらず
どれもすべて通説に反対してるから反対だという
この凄い事実 524日本@名無史さん2019/07/17(水) 17:25:48.39
>>502
>欠史八代を除いて神武は倭国大乱の頃に東征。
>一代20年前後なら、出雲の国譲りと天孫降臨はその100年ほど前、帥升の頃。
で、一代20年として卑弥呼の在位70年はどこに入るんだい?ww
崇神から神武まで5世代というのは、古系譜の研究家、宝賀寿男氏の見解
この間の皇統の系譜と他の豪族の世代の対応が複数の系図で一致しており、
欠史八代も架空とする必要はなく、ただ父子直系相続ではないとするのが、
宝賀氏の研究結果
5世代にどのように欠史八代を位置づけるかは推論しかできないが、
一案として、孝霊、孝元が兄弟相続で、開化が孝元の子、崇神が孝霊の子で
開化と崇神がいとこ同士という系譜を宝賀氏は考えている
この系譜だと、孝霊皇女の倭迹迹日百襲姫命は崇神の2世代前ではなく、
崇神の姉になり、ここが卑弥呼の年代になる
神武はその5世代、100年前 525日本@名無史さん2019/07/17(水) 17:26:41.56
>>516
wwwwwwwww
遊びすぎ
でも大量の排便・排尿には湿地帯は向かないな
労務者ならいいけど永住は?????? 526日本@名無史さん2019/07/17(水) 17:28:42.66
吉野ヶ里は韓国の国立博物館展で「吉野ヶ里、日本の中の古代韓国」が
佐賀教委と共同企画展も開催されたから
関西の在日にとっては古代日本より文化的と思うだろう
我々日本人と探求してる方向性が違う
527日本@名無史さん2019/07/17(水) 17:31:49.70
古代韓国wwwwwww
528日本@名無史さん2019/07/17(水) 17:32:10.55
>>503
>大きいのは田舎だから。
>平原遺跡は内容からして倭女王。
丹波の青いガラスの腕輪が出た墳丘墓の主の方が、よほど女王的だぞw
平原1号墓は、魏晋代、後漢末の舶載鏡が一切出ない時点で卑弥呼の墓候補の資格がない
吉野ヶ里遺跡は、九州的には田舎じゃないだろ?
でも平原1号墓の10倍以上の面積がある
比恵那珂遺跡の那珂八幡古墳は九州的には一番繁華な国の首長墓だが、平原1号墓よりずっと大きい
田舎だから大きいというのは、明確な反証で簡単に否定される訳だww
内容からして倭女王というのも、丹波との比較で否定されるしw
成人男子10人で1週間で作れるようなしょぼい墓しか候補がない時点で、
九州説はどうしようもないんだよ 529日本@名無史さん2019/07/17(水) 17:35:20.82
>>517
あんたの説では
吉野ケ里には畿内邪馬台国は行っていないの?
甘木の遺跡でも、阿波の遺跡でも出雲の遺跡でもいいが 住居環境として纏向は???
大集落というが どんな環境課や家に住んでたのか不明 530日本@名無史さん2019/07/17(水) 17:38:43.69
平原遺跡の錆色塗装鏡という特殊な鏡が
北部九州にも日本のどこにも拡散してないからな
531日本@名無史さん2019/07/17(水) 17:40:44.60
横からスマン
弥生期のヤマトの地の発掘物で国宝を列記してくれませんか?
532日本@名無史さん2019/07/17(水) 17:43:41.28
国宝とか言い出すあたりバカ丸出しだな
国宝は歴史的価値、美術的価値で決められ
国産、渡来品関係ない
533日本@名無史さん2019/07/17(水) 17:50:14.18
ここって何で九州説唱えてる奴いるの?スレタイの日本語読めないのか?
534日本@名無史さん2019/07/17(水) 17:51:08.79
>>524
>で、一代20年として卑弥呼の在位70年はどこに入るんだい?ww
卑弥呼の年代は、卑弥呼が九州なら組み込む必要がなくなる。
神武が九州を出た後に九州で即位したと考える。
卑弥呼の治世と並行して、畿内が開拓されていく。 535日本@名無史さん2019/07/17(水) 17:53:50.03
>>528
>平原1号墓は、魏晋代、後漢末の舶載鏡が一切出ない時点で卑弥呼の墓候補の資格がない
卑弥呼の没年は漢末からかなり空いているし、漢にこだわらず国産鏡を権威の拠り所にしたから魏の鏡はなく、魏の鏡を素材にした超大型鏡を副葬したと考えれば良い。 536日本@名無史さん2019/07/17(水) 17:54:33.61
>>530
>平原遺跡の錆色塗装鏡という特殊な鏡が
>北部九州にも日本のどこにも拡散してないからな
唯一無二の鏡であり、まさに卑弥呼にふさわしいな。 537日本@名無史さん2019/07/17(水) 18:01:07.47
>>536
>唯一無二の鏡
錆色塗装鏡は17面、無色のも錆色と同型鏡がある
中国からは出ていない 538日本@名無史さん2019/07/17(水) 18:02:32.40
>>532
これはあまりにも稚拙すぎる
個人の見解だからしょうがないが
国宝のなんたるかを調べればいいと思うよ
私以上に奥深いかも・・・ 539日本@名無史さん2019/07/17(水) 18:05:14.77
>>515
橋本はね
纒向学研究センターの関係者だよ
学閥や組織は裏切れないよ
彼の限界なのだよ 540日本@名無史さん2019/07/17(水) 18:05:25.81
>>534
>神武が九州を出た後に九州で即位したと考える。
邪馬台国の会のステイクホルダーさん、こんにちは
ご都合主義で個人が勝手に根拠なしで「考える」って言っても意味ないって!ww 541日本@名無史さん2019/07/17(水) 18:09:12.03
>>529
>あんたの説では
>吉野ケ里には畿内邪馬台国は行っていないの?
もう滅んでるからな・・・吉野ヶ里 542日本@名無史さん2019/07/17(水) 18:09:41.71
>>520
>纏向より古い吉野ケ里の方が文化的じゃねーかな
例えば、吉野ヶ里の逆茂木を底に植えた環濠、集落の外側の方が
高く作ってあるんだよね
弓を使って堀の内外で対峙する時、高く作ってある側が身を隠すにも有利だし
弓を射上げるのと射下ろすのでは、射下ろす方が有利なのは言うまでもない
防御用の設備としては、あまり意味を成さないんじゃないかと、ものの分かった人は
昔から言っている 543日本@名無史さん2019/07/17(水) 18:10:37.46
国宝とは、
日本の文化財保護法によって国が指定した有形文化財(重要文化財)のうち、
世界文化の見地から価値の高いものでたぐいない国民の宝たるものであるとして国(文部科学大臣)が指定したものである
(文化財保護法第27条第2項)
544日本@名無史さん2019/07/17(水) 18:13:33.67
>>535
>魏の鏡を素材にした超大型鏡を副葬したと考えれば良い。
魏の皇帝から下賜された銅鏡をすぐに鋳潰したとか考えるんだから、
九州説ってのは本当にいい加減
その後、二度と魏に行かないならともかく、266年の西晋への朝貢まで
継続的に出かけてるんだから、妄想にしても出来が悪過ぎ 545日本@名無史さん2019/07/17(水) 18:15:37.73
>>538
日本最古の国宝は火焔土器だから、
新潟県長岡市の馬高遺跡が縄文時代の日本の首都だなww 546日本@名無史さん2019/07/17(水) 18:18:11.26
>>519
>「水行二十日」は、不彌國から南の(不彌國からの)「位置説説明」であるし、
>「水行十日陸行一月」は(郡からの)女王之所都の所要日数説明であるから、
>「同じ構文」になっていないし、
これ、結論先取論法の典型だな 547日本@名無史さん2019/07/17(水) 18:18:14.80
平原遺跡の場合は墳丘が削られて祠すらなく、みかん畑になってたんだけども
奈良の宮内庁治定陵墓の場合は発掘調査できないからね
548日本@名無史さん2019/07/17(水) 18:18:58.48
弥生時代の国宝
弥生時代[編集]
金印(漢倭奴国王印) (福岡市博物館)
袈裟襷文銅鐸(両面在画像)2口、袈裟襷文銅鐸8口、銅鐸1口、流水文銅鐸3口、銅戈7口(神戸市灘区桜ヶ丘町出土)(神戸市立博物館)
福岡県平原方形周溝墓出土品 一括 (国(文化庁)所有、伊都国歴史博物館保管 弥生時代〜古墳時代)
袈裟襷文銅鐸〈伝讃岐国出土〉(東京国立博物館)
島根県荒神谷遺跡出土品 (国(文化庁)所有、島根県立古代出雲歴史博物館保管)
島根県加茂岩倉遺跡出土銅鐸 39口 (国(文化庁)所有、島根県立古代出雲歴史博物館保管)
549日本@名無史さん2019/07/17(水) 18:19:58.98
>>531
桜ヶ丘遺跡出土品
兵庫県神戸市灘区桜ヶ丘町出土
袈裟襷文銅鐸(両面在画像)2口
袈裟襷文銅鐸 8口
銅鐸 1口
流水文銅鐸 3口
銅戈7口
銅鐸14口、銅戈7口を含む一括資料。14口の銅鐸のうち、
4号銅鐸と5号銅鐸は人物、動物などの略画が鋳出されたもので、
資料的に貴重である。 550日本@名無史さん2019/07/17(水) 18:24:00.96
九州の古墳時代の国宝を列挙してくれませんか
確か0だったと思ったけど
551日本@名無史さん2019/07/17(水) 18:27:20.46
古墳時代の国宝ゼロの九州説は消滅
552日本@名無史さん2019/07/17(水) 18:30:40.80
>>548
なるほど
神戸の桜ヶ古墳も畿内に含める必要が若干あるけど
畿内説の学者が許さんだろうな
国宝か・・纏向も奈良も及びじゃないな
文化程度の低い倭種の別国でいいかも 553日本@名無史さん2019/07/17(水) 18:31:40.79
481>>396
>邪馬台国は台与の後にも滅んで等おらず男性王が立ち継続して晋、宋、斉、梁、隋と使節を送り続けている(梁書、北史)<
邪馬台国も台与も、存在もしない嘘つき騙し文言であるから、×であるし、
「晋、宋、斉、梁、隋と使節を送り続けている」のは、
最終的に旧唐書や唐会要の倭國伝の「世與中國通」に拠って、九州倭國である。
>↓ 隋の時に使節を送ってきたアメノタリシヒコ=用明天皇と断定(新唐書)<
新唐書日本伝は「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」 であり、
隋書の倭奴國から中国と国交をして来た「俀王姓阿毎、字多利思北孤」とは違う人物であり、×。
>↓ アメノタリシヒコは筑紫城から大和州に都を移したと記載される神武天皇の後なので都は大和(新唐書)<
「用明、亦曰目多利思比孤」≠「俀王姓阿毎、字多利思北孤」なので×。
>↓ アメノタリシヒコの都は邪馬台国と同じなので邪馬台国は大和(隋書、新唐書)<
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるから、×であり、
「南≠東」などに拠っても、大和は×。 554日本@名無史さん2019/07/17(水) 18:33:22.88
481>>396の続き
>↓ アメノタリシヒコは一大卒を各地に派遣して地方を支配している(魏志、旧唐書)
一大卒のいる場所=邪馬台国の被支配地
↓ アメノタリシヒコ(用明天皇)はその後の桓武天皇などにも系譜が連続していると認識されている(旧唐書、新唐書)
白村江の戦いの当事者である唐の記録でこう記載されている
このため、王朝交代など起こってないと確定<
隋書も旧唐書も唐会要も新唐書も、倭國と大和日本国を書き分けた形になっており、
更に旧唐書などは、白村江で対戦した相手国を「倭國や倭衆や倭賊」と表し、
「大和や日本国」の名は全く使っていなかったから、別国であり、×。
白村江の戦いの当事者である唐の記録でこう記載されている
>倭から日本への変化は定説通り壬申の乱であることが確定
↓宋の太宗が「日本は小国だが王も貴族も古代から同じ系統が維持されていて素晴らしい」と称賛(宋史)
中国は邪馬台国は大和でそれが継続していると当然のことのように了解している<
新唐書以後、中国は、倭奴國や卑弥呼や倭の五王らの倭国の存在や歴史をなかった事にして、
倭国の別種分家の大和日本国だけの説明に転換したから。 555日本@名無史さん2019/07/17(水) 18:33:42.27
>>552
畿内説の学者が許さないとはどういう意味だよ
まあそもそも弥生時代の国宝なんて気にもしないだろうけど 556日本@名無史さん2019/07/17(水) 18:36:47.53
>>550
貴君の古墳時代の定義は?
回答してもいいけど、
畿内説の学者の言う古墳時代が3世紀なら答えてもいいが 557日本@名無史さん2019/07/17(水) 18:37:57.74
558日本@名無史さん2019/07/17(水) 18:38:28.92
481>>400
そう思ったら立証すれば良いだけ
しないから、「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
負け組に定着した 559日本@名無史さん2019/07/17(水) 18:42:08.80
>>555
文科省を利用しすぎ
纏向大集落では利用し、国宝では無視するのww 560日本@名無史さん2019/07/17(水) 18:42:35.85
>>556
じゃホケノ山の3世紀前半〜仁徳天皇陵の5世紀中ごろで 561日本@名無史さん2019/07/17(水) 18:42:54.46
481>>401
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
絶対に証拠を出さないのかな
それは、ゴミだってことだ 562日本@名無史さん2019/07/17(水) 18:44:41.35
>>559
出土品としてなら畿内説の学者も弥生時代の考古発掘物を議論するだろうけど
国宝としての議論は畿内説とは関係なし 563日本@名無史さん2019/07/17(水) 18:49:11.60
481>>404
>と、言いつつ・・指摘出来ないのが 九州説の貧困<
と、言いつつ・・、「南≠東」などの嘘付き騙しに関する弁解が出来ないのが、
大和説の貧困 564日本@名無史さん2019/07/17(水) 18:49:11.60
481>>404
>と、言いつつ・・指摘出来ないのが 九州説の貧困<
と、言いつつ・・、「南≠東」などの嘘付き騙しに関する弁解が出来ないのが、
大和説の貧困 565日本@名無史さん2019/07/17(水) 18:58:30.07
福岡の古墳時代の国宝は宮地嶽古墳と沖ノ島の出土品だな
566日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:01:39.31
>>565
>沖ノ島の出土品
沖ノ島の出土品といえば、九州説の人の大好きな三角縁神獣鏡がたくさんあって、
沖ノ島航路が畿内王権の影響下にあったのがはっきり分かるってやつだね 567日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:03:04.15
あんなに一生懸命何度も何度もコピペを貼ってた
「纏向が斎場 墓地と思う理由
1、墓(古墳)が多い 」ってやつ、ちょっと丁寧に対応されたら即死だったなww
568日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:03:18.36
481>>405
そうやって、「南→東」などの嘘付き騙しの妄想に走るから
大和説は衰退した 569日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:03:18.36
481>>405
そうやって、「南→東」などの嘘付き騙しの妄想に走るから
大和説は衰退した 570日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:03:51.72
エジプトのピラミッドとか言い出して、すぐに瞬殺されてたのも笑える
571日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:04:19.60
>>562
弥生期にヤマトの地の国宝ね???
陵墓は調査が難しいが
陵墓以外のヤマトの古墳群で調査可能な古墳で国宝級は無いと思うが
間違ってるかな??? 572日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:08:32.17
573日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:11:35.23
574日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:13:16.22
ふーーん
畿内説は神戸まで広げたかな
テンプレじゃ神戸含まれてるのかなwww
575日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:13:50.80
日本人にとっては陵墓自体が国宝みたいなものだからな
576日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:17:08.33
>>571
畿内の陵墓以外と何でそんな条件付くんだよ
まあ埴輪とかあるだろ 577日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:19:10.43
>>574
以前だけど
奥山君が畿内邪馬台国の西の堺は淀川と明言してたから
神戸は含まれてないよ
意見が変われば別だけど
桜ヶ古墳 (神戸)は邪馬台国の領土ではないよ
友好国ならいいけど 投馬国との関連性がいまいち分からない 578日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:19:55.14
国宝はマジでハードル高いぞ
579日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:20:34.36
580日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:21:26.10
>>577
>奥山君が畿内邪馬台国の西の堺は淀川と明言してたから
いつ、どこで? 581日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:24:02.50
>>580
奥山君ってあんたじゃないよね
関わらない方がいいよ
1#okuyama??????? 582日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:24:08.07
天皇陵は国宝である古事記、日本書紀に書かれている
日本の歴史そのものだからな
583日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:25:16.02
>>542
>例えば、吉野ヶ里の逆茂木を底に植えた環濠、集落の外側の方が
>高く作ってあるんだよね
この間、実際に見学したが、環濠の中の方が高かったぞ。
嘘をつくな。 584日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:26:19.66
>>544
>魏の皇帝から下賜された銅鏡をすぐに鋳潰したとか考えるんだから、
>九州説ってのは本当にいい加減
では超大型内行花文鏡の材料はどうしたんだ?
まとまった材料は魏からの鏡100枚だぞ。 585日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:26:57.49
586日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:30:21.44
>>550
>九州の古墳時代の国宝を列挙してくれませんか
>確か0だったと思ったけど
沖ノ島(出土品全て一括で国宝、世界遺産でもある) 587日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:30:35.74
いったいどんなやつらが調べて派閥争いやってんだかな(´∀`)
588日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:31:42.89
魏の皇帝からってのがな
異常に執着しすぎや
589日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:31:44.54
481>>406
>【文字から読み解く邪馬台国の場所・・・<
邪馬台国なんて、存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、始めから×。 590日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:32:07.62
沖ノ島の場合は国家的祭祀だから
日本全体にとっての国宝だよな
591日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:32:42.91
>>566
>沖ノ島の出土品といえば、九州説の人の大好きな三角縁神獣鏡がたくさんあって、
三角縁神獣鏡も九州の影響下であったことがわかりますね。 592日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:33:47.20
>>577
>奥山君が畿内邪馬台国の西の堺は淀川と明言してたから
>神戸は含まれてないよ
淀川から西は畿内ではない?
おいおい 593日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:33:57.97
>>407
結局、なにがあっても「南→東」などの嘘付き騙しの、
証拠を出さないのが大和説だな
だからこんなに落魄した 594日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:34:16.80
>>579
ヤマト説☛畿内説☛近畿説??
最近 伊勢や東海まで広げるバカもいるが
テンプレの畿内の定義から逸脱するのはイカン
スレ主に失礼だよ
スレ主の主張への反論はいいが、スレを保ってる事には感謝しないといけない 595日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:35:22.23
>>588
>魏の皇帝からってのがな
>異常に執着しすぎや
そうだね。
平原遺跡が卑弥呼の墓なら、魏の皇帝の権威には拘っていなかったことになる。
中国を通して輸入した宝飾品には目がなかったようだけど。 596日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:35:59.68
481>>409
>畿内説では出雲(山陰)は投馬国の範囲でいいですか?<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
「出雲(山陰)は投馬国」は、「南≠東」などに拠って、×。 597日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:36:00.80
>>594
>スレ主の主張への反論はいいが、スレを保ってる事には感謝しないといけない
あのテンプレがあるから荒れているようなもの。 598日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:37:03.85
>>590
祭祀を司っていたのは宗像氏族だけどね。 599日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:37:08.75
481>>410
「南→東」などの嘘付き騙しのように、
こんなウソばかりつくのが
大和説 600日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:40:50.10
>>597
>あのテンプレがあるから荒れているようなもの。
完璧に論破されてる九州説が報復のイヤガラセを続けてるからな
w 601日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:43:09.54
>>583
>この間、実際に見学したが、環濠の中の方が高かったぞ。
>嘘をつくな。
お前さんは、環濠の「どこ」を見てきたんだい?ww 602日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:43:34.62
>>592
ま、九州説が言うことの大半が
根も葉もないデマという
証拠のひとつとして
保管しておこう 603日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:43:56.75
>>583
証拠もなしに強い言葉で言い返してもごまかされないよww
声闘の伝統は日本では通用しないんだww 604日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:45:12.19
481>>419
>【邪馬台国の畿内説と九州説】<
邪馬台国も畿内も存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、この大和説男が×。
・古文書を改竄するのが大和説
・国民を「南→東」などで洗脳」しようするのが大和説
・安部自民政府や文部省に作られたのが大和説
・歴史や史料事実や史料実態に基づかないのが大和説
・矛盾だらけなのが大和説 605近畿説では2019/07/17(水) 19:46:24.92
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。
天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
606日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:47:55.36
>>584
>では超大型内行花文鏡の材料はどうしたんだ?
>まとまった材料は魏からの鏡100枚だぞ。
年代的にありえない
原料は伊都国が昔から貯めてた前漢鏡のスクラップだよ
ほかのボロッチい仿製鏡と同じだ 607日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:50:18.02
>>604
恨ため込んだ呪詛はいらん
ここは、学問板だ
証拠を出してものを言え 608日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:51:44.11
>>584
>では超大型内行花文鏡の材料はどうしたんだ?
>まとまった材料は魏からの鏡100枚だぞ。
邪馬台国の会のステイクホルダーさん、そろそろこんばんは、かな
では訊くけれど、出雲の荒神谷遺跡の大量の銅剣の材料はどうしたと思う?
魏からの鏡100枚とはまったく関係なしに、平原1号墓の「仿製鏡38枚ww」より
よほどたくさんの青銅を使っているぞ?w
荒神谷遺跡の銅剣は358本、そのほかに16本の銅矛、6個の銅鐸だ
加茂岩倉遺跡でも39個の銅鐸が1ヶ所で出土している
つまり、倭国には十分量の銅器が入っているんだよ
そして、荒神谷遺跡の銅剣は、複数材料を溶かして一度に358本を作ったと
考えられている(坩堝一個でという意味じゃないぞw)
平原1号墓の「仿製鏡38枚ww」も、同様に、祭祀形態の変革期にそれまでの
在庫を一気に使い切るために作ったと考えるのが妥当
「まとまった材料は魏からの鏡100枚」
これがどれだけ稚拙な決め付けなのかが理解できないから
九州説なんてやってるんだろうなw 609日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:52:59.47
ヤマト説?
畿内説?
近畿説?
東海も含む説?
西に本説?
いま一度整理する必要があると思う
610日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:53:14.72
481>>424
>対馬国、一大国は「方」400百里、300里
行とか至とかの移動を示す文言がなければ移動したことにならないと言っていたのは九州説
なら対馬国と一大国は国内移動はない <
對海國と一大國の国内見聞移動しなければ判らない事を記録しているし、
方四百余里と方三百里が、「余」で書き分けられているから実測しているし、
「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」の陸路での参問距離の計算で、
對海國と一大國の方四百余里と方三百里が、陸路を採った事になるから、
方四百余里と方三百里の国内見聞移動があった、という事になる。 611日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:53:32.48
>>591
>三角縁神獣鏡も九州の影響下であったことがわかりますね。
畿内では黒塚古墳や椿井大塚山古墳といった大量副葬の古墳があるのに、
1枚か2枚を後生大事に副葬している九州が何だって?ww 612日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:54:34.62
>>609
だーかーら、ここは畿内説のスレ
スレタイ読めないの? 613スレ主の見解は?2019/07/17(水) 19:55:03.55
ヤマト説?
畿内説?
近畿説?
東海も含む説?
西に本説?
いま一度整理する必要があると思う
614日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:55:34.94
儒教古田九州説は同じ事しか言わなくて飽きた
そこで畿内説側からよりそれらしく進歩した九州説を提案してやろう
魏志倭人伝原理主義をやめ記述の不確かさを認める
そうすればより自由に解釈できるようになって無理読みをしなくて済む
短里説の破棄
魏に存在してなかった事をすぐ突っ込まれ逆に九州説の弱点になってる
1万2千里は架空の数値として受け入れそれでも
邪馬台国は九州とする
九州北部説を破棄して邪馬台国を九州中部〜南部に設定
こうすれば魏志倭人伝の行程と会稽東冶の東の記述に
そこまで齟齬が生じなくて文献的な強弁が効く
邪馬台国を九州北部に設定するのは魏志倭人伝の文献の面でも
考古物でも不利なのでせめて文献にだけはなるべく沿うように
そして魏志倭人伝の記述を不確かなものと受け入れるなら
邪馬台国は北部にあったけど陳寿は九州南部に想定していたという主張も可能
三角縁神獣鏡は先に九州が受け取って畿内の豪族平定のために下したとする
こうすれば魏の下賜品を諸国に示しなさいと言われたと書いてある
魏志倭人伝の記述にも合う
以上が弱点を補ってより新しくなった九州説
まあ九州説は宗教上の理由で絶対受け入れる事はないだろうけどな
615日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:55:41.16
>>606
>年代的にありえない
キナイコシの結論が先にありきの先入観 616日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:56:02.57
>>577
>奥山君が畿内邪馬台国の西の堺は淀川と明言してたから
>神戸は含まれてないよ
日本語読めるかな?
「針間国/明石国間を西の疆埸と考える」
FAQ93
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。 617日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:58:05.47
>>608
>平原1号墓の「仿製鏡38枚ww」も、同様に、祭祀形態の変革期にそれまでの
>在庫を一気に使い切るために作ったと考えるのが妥当
枚数的にはその前の三雲南小路遺跡の方が多いし、その程度では使い切らないくらい、九州北部は金属器で溢れている。
畿内とはわけが違う。
しかし、寄せ集め材料の出雲と違い、素性の明らかな魏の鏡の方が材料としては優れていただろうね。 618日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:58:07.19
>>595
>平原遺跡が卑弥呼の墓なら、魏の皇帝の権威には拘っていなかったことになる。
安心しなよ
平原1号墓は卑弥呼の墓じゃないからww
まあ、卑弥呼とは無関係な地方首長の第二家系の家族墓地だから、
魏の皇帝の権威と言われても、何それおいしいの?レベルだったかもしれないけどさ 619日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:58:22.36
奥山の自作自演が多いと思うのは俺だけだろうか
620日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:58:43.06
>>611
>畿内では黒塚古墳や椿井大塚山古墳といった大量副葬の古墳があるのに、
地方に下賜するための鏡だったのかもね。 621日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:58:51.52
奥山の自作自演が多いと思うのは俺だけだろうか
622日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:59:05.30
奥山の自作自演が多いと思うのは俺だけだろうか
623日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:59:07.71
>>615
いや、公式調査報告書どおりで
通説だから 624日本@名無史さん2019/07/17(水) 19:59:40.74
>>598
>祭祀を司っていたのは宗像氏族だけどね。
その宗像氏族が、畿内ヤマト王権に従っていたってことだけどね 625日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:00:21.11
>>614
>九州北部説を破棄して邪馬台国を九州中部〜南部に設定
>こうすれば魏志倭人伝の行程と会稽東冶の東の記述に
>そこまで齟齬が生じなくて文献的な強弁が効く
九州上陸から二千里(短里で)なら、九州北部に収まるから心配無用 626日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:00:42.10
627日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:02:22.42
>>618
>まあ、卑弥呼とは無関係な地方首長の第二家系の家族墓地だから、
根拠なし。
魏志倭人伝にそんな記事はない。
>魏の皇帝の権威と言われても、何それおいしいの?レベルだったかもしれないけどさ
伊都には魏からの使いが滞在したのだから、当然その意義もわかっていたさ。
キナイコシの言い訳はいつも見苦しいw 628日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:02:27.24
>>625
>九州上陸から二千里(短里で)なら、九州北部に収まるから心配無用
その短里とやらが実在しないことは確定ずみだ
せいぜい心配しろ 629日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:02:41.73
>>624
>その宗像氏族が、畿内ヤマト王権に従っていたってことだけどね
根拠なし。 630日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:02:52.65
>>615
>キナイコシの結論が先にありきの先入観
2000年の「平原遺跡(前原市文化財報告書)」 631日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:03:32.59
481>>425
>淮南子に世界の果てを示す同じ概念的数字国境より1万2千里が出てくるので
魏志倭人伝の帯方より南1万2千里は世界の果てを示す数字としてこれを援用したもの。
漢時代に成立した淮南子に出てくる以上
後の世代に成立した魏志倭人伝がこれを援用した可能性の消えることはない<
淮南子も、一寸千里を使っているから、
ある程度の短里での近似計測をした可能性も少しあるが、
「余」がないから、単なる推論地である可能性の方が高い。
それに対して、魏使らは、陳寿に「余」の有無での書き分けをされているから、
もっと有効数字の桁数の多い記録をしていた事になるし、
萬二千余里には止まらず、侏儒國や裸國や黒歯國の記録も書いているから、
淮南子の記載を否定している事になり、
だから、この類スレ主の論は、×。 632日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:03:41.07
>>628
対馬海峡が三千里で、上陸してから残り二千里 633日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:03:58.43
634日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:04:49.59
僕達が笑いリラックスするためにアプローチしている、このレベルの低い、5ちゃんねるのサクラのプロ固定が作製したスレッドとは全く異次元の、 たくさんの分野のレベルの高い学者達が集う、
魏志倭人伝時代の真実について、僕達か僕達の論敵のどちらの頭がカラフルになるかを賭けて、
お互いに、不敵な笑みを浮かべながら、 闘っている討論会では、
破綻した非科学的な唯物論や破綻した非科学的な要素還元主義を、お互いに掲げることなしに、正々堂々の討論を闘っているので、
魏志倭人伝に全く記録はされていない土器や時代の異なる前方後円墳ではなく、
鉄鏃や、人民の住居や、ベンガラや、方角や、距離や、夏の時代の考古学的に判明している会稽の位置や、魏志倭人伝時代の倭人の太い骨や、
萬二千里の事で奥山氏も頼みにしている淮南子を規定している一寸千里の法を材料にして、討論が進行し、
卑弥呼の城が日本の何処にあったかの討論から、卑弥呼の城が九州の何処にあったかの討論に、話題が移り変わってきたのだったな。。。
635日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:06:22.91
>>627
>>魏の皇帝の権威と言われても、何それおいしいの?レベルだったかもしれないけどさ
>伊都には魏からの使いが滞在したのだから、当然その意義もわかっていたさ。
>キナイコシの言い訳はいつも見苦しいw
おい、それ・・・九州説の見苦しい言い訳に
苦笑いしながら鼻先で笑って首肯してる発言だぞ
九州脳はいつも短絡してるな 636日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:07:31.83
>>632
だから何?
海峡幅の数字がトンチキなだけだぞ 637日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:07:35.88
>>616
> 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
大阪と奈良は分断されていたわけか。 638日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:08:35.43
>>618
>魏の皇帝の権威と言われても、何それおいしいの?レベルだったかもしれないけどさ
で?
これは撤回するの?
どれだけ伊都が怖いのかw 639日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:09:02.45
そう言えば和歌山?にも伊都郡ってあるんだよな。
640日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:09:45.85
>>633
>報告書の内容に根拠がない。
はい、では報告書が掲げている根拠に対して
具体的な反論をどうぞ 641日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:10:31.88
>>634
僕達が笑いリラックスするためにアプローチしている、このレベルの低い、5ちゃんねるのサクラのプロ固定が作製したスレッドとは全く異次元の、 たくさんの分野のレベルの高い学者達が集う、
魏志倭人伝時代の真実について、僕達か僕達の論敵のどちらの頭がカラフルになるかを賭けて、
お互いに、不敵な笑みを浮かべながら、 闘っている討論会での結論を、
僕達が笑いリラックスするためにアプローチしている、このレベルの低い、5ちゃんねるのサクラのプロ固定が作製したスレッドでも、少しづつ公開してあげれば良いのではないのかな、、、 642日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:11:05.64
>>617
>枚数的にはその前の三雲南小路遺跡の方が多いし、その程度では使い切らないくらい、九州北部は金属器で溢れている。
>畿内とはわけが違う。
wwwww
「まとまった材料は魏からの鏡100枚」 は放棄するんだなww
そして「枚数的にはその前の三雲南小路遺跡の方が多い」これも反論として意味がないのに
気づかないだろ? もの知らずだから?ww
三雲南小路遺跡出土鏡は、みんな小さいんだよ
二号甕棺から22枚と数えられているけれど、うち21枚は面径10センチ以下、
6センチとか7センチとかの小さなもの
面径18センチのものと比較すると、6センチのもの9枚でやっと18センチ1枚分になるww
こういうファクトをきちんと把握せずに、枚数だけなら多いニダとか言っちゃうのも
チェリーピッキングの亜種なんだろうな 643日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:12:53.32
>>637
>> 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
>
>大阪と奈良は分断されていたわけか。
どこを境に?
ww ww ww
まあ、九州脳は
「京都県」とか「畿内は海に接してない」とか
平気で言う連中だからな 644日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:13:02.99
纏向の調査報告は誰が仕切っているの
地方自治体?
国?
調査報告に国は關係してないのでは?
奈良県および桜井市の調査報告では???
645日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:13:11.59
>>640
>はい、では報告書が掲げている根拠に対して
ではその根拠をどうぞ 646日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:13:13.57
3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://2chb.net/r/history/1556294803/303 647日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:14:01.90
>>642
>三雲南小路遺跡出土鏡は、みんな小さいんだよ
知ってるよ。
だから「枚数的には」とわざわざ書いただろw 648日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:14:07.37
3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://2chb.net/r/history/1556294803/303 649日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:14:19.01
650日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:14:56.44
>>638
だから、それ
九州説の明らかに発狂してる主張を
復唱しただけだけど? 651日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:15:14.65
>>642
>面径18センチのものと比較すると、6センチのもの9枚でやっと18センチ1枚分になるww
お、キナイコシも算数は出来るんだ。
その調子で、46センチの鏡5枚の材料がどれくらいか、計算してみろよ。 652日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:16:09.02
>>631
一寸千里は空想的法則
世界の果てまで国境より1万2千里も同様
淮南子の1万2千里が架空のものなら同じ数字の魏志倭人伝1万2千里も架空のもの
現に魏里で使われていた里で換算すれば
帯方より南1万2千里はパプアニューギニアを指すことになる 653日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:16:30.71
>>623
>いや、公式調査報告書どおりで
通説だから <
奈良県の組織の報告だけじゃないのかな 654日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:16:36.66
>>620
>地方に下賜するための鏡だったのかもね。
魏志倭人伝に「到錄受、悉可以示汝國中人、使知國家哀汝」と書かれているんだから
「かもね」じゃないんだよww
理解できるか?
そして、北部九州は地方であり受け取る側なんだよw 655日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:16:37.48
342日本@名無史さん2019/04/28(日) 10:52:03.18
バカのために、現実との対応の取りやすい例示で説明してやるよ
箱がたくさんあって、たくさんの箱の中である条件を満たす箱を考える
ある条件を満たす箱を今、 「特定の十個の箱」と呼ぶことにする
この「特定の十個の箱」がたくさんの箱の中のどれなのかは分からない
この時
赤の玉が箱に入っていることがあるが、赤の玉のうち75%が「特定の10個の箱」に入っている
青の玉が箱に入っていることがあるが、青の玉のうち75%が「特定の10個の箱」に入っている
緑の玉が箱に入っていることがあるが、緑の玉のうち75%が「特定の10個の箱」に入っている
赤、青、緑の玉がどの箱に入っているかは独立である
この時、ある一つの箱に「赤、青、緑」の玉がすべて入っていたら、
その箱が「特定の10個の箱」ではない確率は1.56%で
「特定の10個の箱」のうちの一つである確率は98.4%になる
この多数の「箱」が「遺跡」、「特定の10個の箱」が「邪馬台国の範囲にある遺跡」と
読みかえればイメージが湧くだろ
ここでは「特定の10個の箱」としたが、実際には「邪馬台国の範囲にある遺跡」はもっと多い
そして、ベイジアンで説明してくれている人がいるが、
『赤の玉が75%が「特定の10個の箱」入っていること』は、
『「特定の10個の箱」の75%に赤の玉が入っていること』を意味しない、
つまり、「特定の10個の箱」が赤の玉を含まない確率は未知なのでベイジアンは適応できないよ
ここまで説明しても、論理的思考ができない九州説連中には理解できないんだろうがね
656日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:16:48.26
342日本@名無史さん2019/04/28(日) 10:52:03.18
バカのために、現実との対応の取りやすい例示で説明してやるよ
箱がたくさんあって、たくさんの箱の中である条件を満たす箱を考える
ある条件を満たす箱を今、 「特定の十個の箱」と呼ぶことにする
この「特定の十個の箱」がたくさんの箱の中のどれなのかは分からない
この時
赤の玉が箱に入っていることがあるが、赤の玉のうち75%が「特定の10個の箱」に入っている
青の玉が箱に入っていることがあるが、青の玉のうち75%が「特定の10個の箱」に入っている
緑の玉が箱に入っていることがあるが、緑の玉のうち75%が「特定の10個の箱」に入っている
赤、青、緑の玉がどの箱に入っているかは独立である
この時、ある一つの箱に「赤、青、緑」の玉がすべて入っていたら、
その箱が「特定の10個の箱」ではない確率は1.56%で
「特定の10個の箱」のうちの一つである確率は98.4%になる
この多数の「箱」が「遺跡」、「特定の10個の箱」が「邪馬台国の範囲にある遺跡」と
読みかえればイメージが湧くだろ
ここでは「特定の10個の箱」としたが、実際には「邪馬台国の範囲にある遺跡」はもっと多い
そして、ベイジアンで説明してくれている人がいるが、
『赤の玉が75%が「特定の10個の箱」入っていること』は、
『「特定の10個の箱」の75%に赤の玉が入っていること』を意味しない、
つまり、「特定の10個の箱」が赤の玉を含まない確率は未知なのでベイジアンは適応できないよ
ここまで説明しても、論理的思考ができない九州説連中には理解できないんだろうがね
657日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:17:06.01
658日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:17:19.78
644日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:13:02.99
纏向の調査報告は誰が仕切っているの
地方自治体?
国?
調査報告に国は關係してないのでは?
奈良県および桜井市の調査報告では???
659日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:17:30.63
>>649
超大型鏡は舶載鏡に近いことがわかるね。
輸入材料なんだよ。 660日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:17:31.97
644日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:13:02.99
纏向の調査報告は誰が仕切っているの
地方自治体?
国?
調査報告に国は關係してないのでは?
奈良県および桜井市の調査報告では???
661日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:17:49.51
>>625
>九州上陸から二千里(短里で)なら、九州北部に収まるから心配無用
短里でって時点で間違い
短理なんてない
短里を知っている人も使う理由のある人も、3世紀世界には誰一人として存在しないw 662日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:18:38.46
>>654
>魏志倭人伝に「到錄受、悉可以示汝國中人、使知國家哀汝」と書かれているんだから
>「かもね」じゃないんだよww
もし三角縁神獣鏡が魏からの鏡なら、九州の卑弥呼が本州の教化のために配布したわけだ。 663日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:18:57.66
481>>427
>一寸千里は架空の数値<
谷本確認計算と、
都立大の野上氏の「夏至正午の太陽直下の北回帰線までの距離」からの計算値が、
殆ど一致しているから、実測数値。
周以前の皇帝が大陸の東西距離の歩測命令の「5億歩」からの「1歩」距離も証拠。
>周の尺度で実測するなら一寸200里ほど<
尺定規の寸法は、周代から魏代までも、余り変わっていない。
秦の始皇帝の命令で変わったのは、「1歩」の寸法。
>魏のモノサシの現物や律歴志などの資料からわかってる魏の里は
1里約430m以外に見つかっていない <
民間では、漢代の「1歩や1里の寸法」の混乱が持続したが、
魏朝と西晋朝は、「1歩≒1足底長」の周代の寸法に戻した。
魏志倭人伝に単に里と書かれている以上、それは長里ではない普通の短里 664日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:19:07.69
九州説は脳タリンだから短里なんて言い出す
665日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:19:26.86
>>661
対馬海峡が三千里なら、九州上陸から二千里でどこまで行ける? 666日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:19:33.06
邪馬台国畿内説を宣伝してきた頭が悪すぎる朝鮮人達は、討論する前に、討論の仕方や、算数や理論を勉強した方が、良いのではないのかな。。。
667日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:20:25.82
沖ノ島は福岡の学者達の学術調査で
ヤマト王権による国家的祭祀というのは明らかになっている
>>629のように見たことも無いくせに
ヤマト王権に従わずに財宝を島に隠していたというのは
反日民族だけ 668日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:20:38.40
>>645
>>はい、では報告書が掲げている根拠に対して
>
>ではその根拠をどうぞ
「報告書の内容に根拠がない。」
と断定したんだから
知っているんだろう?
こっちが教えてやる必要はない
さあ、報告書が掲げている根拠に対して
具体的に反論してくれ
さあ 669日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:22:03.83
481>>429
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者や、類スレ主らは、
何でこう見え見えの自演をするのか ?。
バレないと思ってるのだろうか?。 670日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:22:30.38
>>627
>根拠なし。
>魏志倭人伝にそんな記事はない。
魏使倭人伝が根拠じゃないからなww
当たり前
根拠は、伊都国の有力家系の墓所の選び方として、三雲遺跡群の範囲内に作られる系統と
曽根遺跡群の領域に作られる系統があり、墳墓の大きさからして曽根遺跡群の方が劣位の
第二家系だと判断できること、だよ
平原遺跡は、5号墓から造墓が始まり、1・2号墓、3・4号墓の3世代の墓が
累代的に営まれる家族墓地
古墳時代に入ると、ワレ塚古墳、銭瓶塚古墳、狐塚古墳の3基の古墳が作られる 671日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:23:09.68
>>667
>ヤマト王権に従わずに財宝を島に隠していたというのは
お?
誰も言っていないことを捏造か?
キナイコシらしいや。 672日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:23:12.12
>>660
その通りだが 公式な報告だから
報告に対する罰則規定はないけど
まともに職務に励んでると思う 673日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:23:25.54
>>665
>対馬海峡が三千里なら、九州上陸から二千里でどこまで行ける?
測定した形跡のない三千里を基準にする意味がない 674日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:23:51.42
675日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:23:58.84
>>663
谷本計算は計算間違いね
1寸2.3cmで1尺10寸で計算してあるから
周の1尺は8寸相当
それでも1短里65mとすれば修正は効くけど
九州説は儒教思想で儒教道徳的に偉い古田の想定した
1短里75mを変えようとしない 676日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:24:28.22
>>673
魏志倭人伝を無視する限り、畿内説に明日はない。 677日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:24:49.72
481>>430
>魏志倭人伝の1万2千里に南4000里の続きがあるのは
呉が国交を結んだ大月氏が1万6千里とされていたので
それに対抗して陳寿が付け加えたと推察できる<
これも、「余」が付いているので、魏使らの実測である事になる。 678日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:25:13.24
>>627
>伊都には魏からの使いが滞在したのだから、当然その意義もわかっていたさ。
そういいながら、届いてすぐに鋳潰して仿製鏡に作り直したって主張するんだろ?
頭おかしいとしか言いようがないなww
しかも、100年くらい古いデザインの方格規矩鏡が大部分という時代錯誤ww 679日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:26:54.72
奥山氏は、角度の計算を繰り返し失敗していたのだったな、、、
675日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:23:58.84
>>663
谷本計算は計算間違いね
1寸2.3cmで1尺10寸で計算してあるから
周の1尺は8寸相当
それでも1短里65mとすれば修正は効くけど
九州説は儒教思想で儒教道徳的に偉い古田の想定した
1短里75mを変えようとしない 680日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:27:38.64
>>675
>それでも1短里65mとすれば修正は効くけど
じゃあそれでいいよ?
九州上陸から130キロ。
筑後か? 681日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:27:55.65
>>647
>だから「枚数的には」とわざわざ書いただろw
なら、銅器のストックが十分という主張には無意味だと分かっていて
目先をそらすためだけに書いた、とそう言いたい訳だ
悪質だなぁww
人を欺くことだけが目的ww 682日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:28:33.07
481>>432
>弥生時代後期に畿内は絹が出てない時点でアウト
卑弥呼が魏に献上してるのだから、卑弥呼が治めていた地域に絹が無いのは不自然過ぎる
描写されてるその他の風俗が九州に近いものが多い
養蚕をしていた事(同時代の遺跡からは北九州からしか出ない)
親子兄弟が別々の部屋で寝起きしていた事(該当するのはほぼ九州にしかない花弁型縦穴式住居のみ)
樟有りという描写(樟は九州に多い) <
成程。ご紹介、有難う御座います。 683日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:28:44.13
>>679
御飯が炊き上がったのではないのかな、、、 684日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:29:04.42
>>676
>魏志倭人伝を無視する限り、畿内説に明日はない。
してないので
さしあたり明日がないのは
魏志倭人伝を無視する九州説だけだな
会稽東治之東とか、末盧国から東南陸行とか
無視しまくりな九州説は
明日が無いよなぁ 685日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:29:40.97
>>676
逆に九州説よりずっと真摯に研究して
邪馬台国の位置帯方より南1万2千里で会稽東治の東は
パプアニューギニアもしくは沖縄か台湾辺りになる
だから位置情報は現実的ではないとする
そして考古物発掘調査の結果と魏志倭人伝両方を引き合わせて
卑弥呼の時代3世紀当時に畿内には卑弥呼の墓の大きさと書いてある
径百歩に相当するような前方後円墳が存在し
景初や正始と魏の年号の入った銅鏡が出土するので
邪馬台国はすなわち畿内の大和国の事を指しているのだろうと結論を出す 686日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:30:23.51
>>651
>その調子で、46センチの鏡5枚の材料がどれくらいか、計算してみろよ。
つまり「まとまった材料は魏からの鏡100枚」 は放棄するんだなww
そして、三雲南小路遺跡では銅鏡がいっぱいってのも無意味なはぐらかしだったとww 687日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:31:12.00
688日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:31:17.20
>>627
平原遺跡は魏の使いが来たころには土に埋まって30年以上経ってるよ 689日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:31:41.12
>>680
1短里65mの計算は九州説が勝手にやれ
どうせ史料から確かめられる魏の里は1里437m以外に見つかってないから 690日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:31:46.05
>>653
>奈良県の組織の報告だけじゃないのかな
『前原市』教育委員会発行の報告書「平原遺跡」 691日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:32:26.64
481>>435
>(陳寿90度回転さん)
九州説の相手をし続けても、義務は義務として学術的には全く不毛だし、
知的好奇心も刺激されませんよね。<
「陳寿90度回転」なんて、分裂幻覚の妄想のような名前をこの男は、
おそらく始めから・・・・アホ大和説者なんでしょうね。 692日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:32:48.06
逆に考えるんだ。
むしろ平原遺跡が西暦247年の基準点にできるんだよ。
693日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:33:12.57
694日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:35:04.24
>>659
>超大型鏡は舶載鏡に近いことがわかるね。
>輸入材料なんだよ。
どういう目をしてるんだ?
舶載鏡は左下の端っこの#16、#17の2枚だけで、46センチ鏡5枚は
グラフの中央で全然近くないぞ?
本当に素ででたらめを書くから、九州説はダメすぎる 695日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:35:51.07
>>693
それが学者の平原遺跡の年代の通説だから
ど素人の個人想像編年なんかなんの役にも立たん 696日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:37:03.71
>>662
>もし三角縁神獣鏡が魏からの鏡なら、九州の卑弥呼が本州の教化のために配布したわけだ。
それでは、分布の中心、枚数も多く出るのが畿内というのが説明できない
九州の卑弥呼周辺に配られた枚数が少なすぎるし、平原1号墓周辺にまったくないのも大笑い
でたらめの種も尽きてきたかなw 697日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:40:21.57
>>662
そう頑張っても
ザラコク爺さんが楽浪にいた呉の鏡師が国内で作ったとの主張を変えないから無意味
儒教者は結局儒教者同士で足を引っ張り合うことになる 698日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:41:34.21
>>674
>そもそも年代が違うわけだが?
弥生時代には、三雲南小路、井原鑓溝の第一家系に対して、平原の第二家系
古墳時代に入っても、端山古墳、築山古墳の第一家系に対して、
ワレ塚古墳、銭瓶塚古墳、狐塚古墳の第二家系
それぞれの時代で、永続的な対応関係が見て取れる
まあ、全ての代の首長墓が見つかっている訳ではないけれど、
有力家系が2系統あったことは明確に見て取れる 699日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:41:55.21
本日夕方以降分
508 510 520 525 526 529 531
538 539 552 553 559 571 574
577(自演)581 594 605 609
613 619 621 622 644 653 658
660 672(自演)
700日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:46:06.74
481>>439
>(ト占)九州島は弥生〜古墳初頭の全期を通して2ヶ所だけ
畿内の土器を模倣する末期になって初めて出土する
中心になどなっていない <
「ト占」は、当然在地の毛人や出雲系の習慣であり、
鬼道の卑弥呼が共立されたら、当然「ト占」は廃れる。
また大和の土器は、筑紫の同じ土器よりも50年位遅れる。
>花弁状住居は北部九州には弥生中期の2例だけで
南九州東部に多く分布する<
どこの事?。宮崎?。 701日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:46:24.17
国内儒教者も2種類いるようだ
北と南で儒教道徳的に中国に近い北出身のほうが絶対的に偉いんだろう
古田はおそらく北の出身者
702日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:47:37.20
481>>440
>日本海航路か瀬戸内航路か自分の案を書いてみたらレスポンスあるんじゃないの?<
「南≠東」などに拠って、×。 703日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:51:02.80
481>>444
>弥生時代後期後半に絹は九州では小集落の2ヶ所だけだよ<
須玖岡本と一貴山銚子塚で、鏡を包んだ絹が出ている筈だよ。 704日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:53:29.42
糸島最古の前方後円墳の御道具山古墳は
糸島唯一の式内社志登神社の少し北の泊だな
705日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:54:08.23
481>>447
>北部九州説は弥生中期の出土遺物を根拠によく使うけど
甕棺墓集団はど没落したんだよ <
祇園山の墳裾に甕棺が3個出土しているよ。 706日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:58:20.25
>>705
>祇園山の墳裾に甕棺が3個出土しているよ。
つまりその甕棺と祇園山古墳の被葬者との間には大きな年代差があり、
殉葬ではありえないということだよ 707日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:58:21.06
>>698
倭奴国王の系統と倭国王帥升の二系統かもなあ 708日本@名無史さん2019/07/17(水) 20:59:12.81
やはり、内陸部に、衛生的に古墳を作成するためには、まず、大溝が必要なのだな、、、
709日本@名無史さん2019/07/17(水) 21:01:47.07
>>708
現代でも、大規模な土木工事現場には、まず、仮説トイレを設置するのだったね。。。 710日本@名無史さん2019/07/17(水) 21:03:48.83
481>>474
>2年前
桜井市埋蔵文化センターを訪ねた時「我々も本当に不思議なんですが、
集落跡がでていません」と聞いたよ <
ふーん。 711日本@名無史さん2019/07/17(水) 21:06:51.01
481>>478
>邪馬台国まで記載は北部九州を出て、そこから水行二十日で投馬国・出雲、
さらに水行十日陸行一月で邪馬台国・ヤマトってちゃんと書かれてるだろ?
「玄界灘沿岸が邪馬台国」ってのは、魏志倭人伝無視だよ <
「南≠東」などに拠って、類スレ主は、×男。 712日本@名無史さん2019/07/17(水) 21:08:51.33
>>709
巻向大溝は、水洗トイレの大小便が、最後に行き着く地点なのだったな。。 713日本@名無史さん2019/07/17(水) 21:10:42.26
伊都すか
714日本@名無史さん2019/07/17(水) 21:11:34.68
709
あんた歴史まったく無知かい?
715日本@名無史さん2019/07/17(水) 21:13:25.40
>>712
巻向大溝の巻向編年という物事を、研究した者達は、4世紀の人々の◯◯に直に触れ合えたので、研究者冥利に尽きるのではないのかな、、、 716日本@名無史さん2019/07/17(水) 21:13:49.09
481>>484
>九州は西服衆夷だからな
ザラコクは意図的に記述を省略する嘘つき騙しだな<
唐会要倭國伝の「正北抵新羅」に拠って倭國中心は北部九州であり、
だから、「自昔・・・」に九州の「西服衆夷六十六國」が一段落してから、
「東征毛人五十五國」や「渡平海北九十五國」に向かった。 717日本@名無史さん2019/07/17(水) 21:15:11.55
奥山氏が、キャラクターを変換したな。。。
714日本@名無史さん2019/07/17(水) 21:11:34.68
709
あんた歴史まったく無知かい?
718日本@名無史さん2019/07/17(水) 21:16:48.33
倭奴国王の系統は後の天皇系につき従って
和邇氏となったと想像したい
記録上和邇氏の名前が出てくるのは孝霊天皇の頃だそうだけど
和邇氏の子孫の家に古代中国の銅剣が伝わっているそうで
もしかしたらそれは後漢に倭奴国が朝貢した時に貰ったものかも知れない
中国の鉄剣ではなくて銅剣というのがそれらしい
そして和邇氏は昔ワニの国という所に居たんだそうな
倭奴の国という事か
また大和での本拠地大和添上郡和邇では
この一族の墓所と推定されている東大寺山古墳を含む櫟本古墳群で
後漢中平年間(184 - 189)の紀年銘をもつ鉄刀を出土している
和邇氏は丸邇氏・丸氏とも書く
わ=丸(輪)=倭と漢字の無かった頃の当て字だろう
相当古くからからわ(に)と名乗っていた事が伺える
もしかして和邇氏こそ古代日本が倭国と呼ばれる事になった起因で
ひいては大倭、それから大和と大和の呼び名の大本になった可能性もある
719日本@名無史さん2019/07/17(水) 21:18:24.18
>>708
大和川に大小便を流すと、河内の者達が、合戦を仕掛けてくるのだったな。。 720日本@名無史さん2019/07/17(水) 21:26:00.48
481>>488
>纒向で住居遺構の発掘が少ないのは年代の異なる遺跡が重層されているからだよ<
同時代の発掘が少なければ、「以婢千人自侍」や「常有人持兵守衞」も出来なくなる。
>有名な辻地区の大型建物跡でも、最大の建物の柱跡も後代の整地で半分は削り取られている<
「最大の建物の柱跡も後代の整地で半分は削り取られ」れば、
また、「以婢千人自侍」や「常有人持兵守衞」も出来なくなる。
>発掘できた範囲も少ないんだし、グダグダ言うのがバカ<
発掘出来た範囲が少ないんなら、
「以婢千人自侍」や「常有人持兵守衞」の「集落跡があった」なんて言うな。
>出土している大量の飯炊き甕からもここに多数の食事を取る人たちが存在したのは確実だし<
それはどこから?。
>そこに存在する大墳丘墓からも、その造営に多くの人手が動員されそこに大人口が存在したことが
明確に示されている<
要するに、「都」ではなかった、という事だね?。 721日本@名無史さん2019/07/17(水) 21:26:15.92
巻向駅の北西に、正三角形の関係性で作製された3つの古墳は、銅鐸王国の王家の者達の、怨恨の魂を封じるために作製されたのだが、
作製に必要な労働力は、延6万人なので、発生する大小便は、120リューベなのだな。。。
722日本@名無史さん2019/07/17(水) 21:28:00.13
>>489
文化庁が纒向遺跡を「極めて大規模な集落跡」と発表したんなら、
文化庁もウソツキであった、
という事が確定してるよ。 723日本@名無史さん2019/07/17(水) 21:31:04.67
>>700
>「ト占」は、当然在地の毛人や出雲系の習慣であり、
>鬼道の卑弥呼が共立されたら、当然「ト占」は廃れる。
九州脳がまた倭人伝を無視してしたな 724日本@名無史さん2019/07/17(水) 21:34:38.86
725日本@名無史さん2019/07/17(水) 21:37:51.85
>>721
崇神天皇は、疫病が発生したが、医学の知識が無かったので、大田田根子を呼ぶしかなかったのだったな。。 726日本@名無史さん2019/07/17(水) 21:40:52.98
このスレッドで、邪馬台国畿内説を宣伝する者達は、頭の悪さが、全く同じレベルなので、仕方ないな、、、
724日本@名無史さん2019/07/17(水) 21:34:38.86
>>717
全奥病とは、全一病の重篤なやつらしい 727日本@名無史さん2019/07/17(水) 21:41:03.83
>>696
>それでは、分布の中心、枚数も多く出るのが畿内というのが説明できない
>九州の卑弥呼周辺に配られた枚数が少なすぎるし、平原1号墓周辺にまったくないのも大笑い
それだけ畿内が田舎だったということ。
今さら伊都の周りに配る意味はない。 728日本@名無史さん2019/07/17(水) 21:42:06.35
>>698
三雲の家系は平原より前に没落するんだろ?
二枚舌乙 729日本@名無史さん2019/07/17(水) 21:42:39.86
481>>534
論破されてもシランプリ
ひたすら妄言の、
「南→東」など嘘つき騙しの大和説 730日本@名無史さん2019/07/17(水) 21:43:24.54
崇神天皇は、疫病が発生したが、医学の知識が無かったので、大田田根子を呼ぶしかなかったのだったな。。
という文章は、
崇神天皇は、疫病が発生したが、医学の知識が無かったので、大田田根子を喚ぶしかなかったのだったな。。
とタイピングした方が、意味が伝達しやすいのではないのかな、、、
731日本@名無史さん2019/07/17(水) 21:45:20.71
481>>540
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説には
もう罵りと嘘しかないか 732日本@名無史さん2019/07/17(水) 21:47:14.30
>>718
>もしかして和邇氏こそ古代日本が倭国と呼ばれる事になった起因で
なるほど。
そもそも倭奴国の王は後の倭王に相当するのだろう。
王統そのものが何度か入れ替わっているのだろうが、世が世なら天皇家に相当したかもしれない。 733日本@名無史さん2019/07/17(水) 21:51:52.07
>>718
後漢中平年間(184 - 189)の紀年銘鉄刀は倭国大乱の時期に当たるから神武東征の時期として
記録にはっきりと残ってないけどこの時期に倭の和邇氏が縁故を頼りに
後漢に援軍要請したんだろうか
そして証として鉄刀が下賜されのちに和邇氏の古墳に埋葬された
何か神剣フツノミタマのエピソードを彷彿とさせるような 734日本@名無史さん2019/07/17(水) 21:52:53.56
>>727
枚数が多いほうが田舎ということなら
後漢代の鏡が多い北部九州は
極南界の倭奴国ではなくなる 735日本@名無史さん2019/07/17(水) 21:52:57.27
伊都国の甕棺墓王家が筑紫の日向三代なら、魏志倭人伝に伊都国の官とし登場するネギがその末裔だろう。
天孫族と並行して卑弥呼がその上に君臨していたわけだ。
736日本@名無史さん2019/07/17(水) 21:53:44.96
481>>565
>>畿内では5世紀頃まで鉄製農具は普及してませんでしたから密林を伐採するのは極めて困難<
>これは極めて重要な視点だね。 鉄の道具なくして大木、中木は伐採できない。
鉄斧と其の製造修理技術をもった者たちが奈良に入植して、
初めて開発が進んだことは間違いない。<
成程。 737日本@名無史さん2019/07/17(水) 21:54:09.99
>>734
だからさ、後漢代と魏代ではまったく理屈が違うのだよ。 738日本@名無史さん2019/07/17(水) 21:54:15.75
このスレ、九州説のウソ率はかると凄い数字に・・・
739日本@名無史さん2019/07/17(水) 21:56:05.78
和邇氏が倭奴国王だったとして
自分ではワニと言っていたのが中国で倭になったのかも知れない
つまり倭奴国王は日本ではワニのナの国王
740日本@名無史さん2019/07/17(水) 21:59:07.29
741日本@名無史さん2019/07/17(水) 21:59:20.11
742日本@名無史さん2019/07/17(水) 22:05:52.63
鏡は漢からの権威の象徴だったが、その漢が滅んだことは倭における権威のあり方に影響を与えたろう。
743日本@名無史さん2019/07/17(水) 22:16:41.91
744日本@名無史さん2019/07/17(水) 22:16:46.33
>>741
>どう違うか、説明できる?
違う違う! そうじゃないww
>>737に対してはご都合主義を直接責めるとともに、
後漢代と変わったというならなぜ後漢代のデザインである内行花文鏡を
選ぶのかという矛盾をきちんと指摘してやらないとww 745日本@名無史さん2019/07/17(水) 22:18:20.81
3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://2chb.net/r/history/1556294803/303 746日本@名無史さん2019/07/17(水) 22:21:30.96
>>196
沖縄か台湾あたりに相当する
会稽東治の東に九州北部が想定されていたと主張するなら九州説は色々崩壊するぞ
まず帯方より1万2千里が沖縄辺りを指す事になるので
計算すると1里140mになり1里75mとしてきた短里が崩壊
ひいては短里の根拠としていた一寸千里の谷本計算も崩壊
そして魏使は短里で距離を正確に測定したという主張も崩壊
短里説を全て放棄する覚悟があるなら
会稽東治の東に九州北部が設定されていたと主張するがいい
水行20日陸行1月の記述をどうするかは知らんけど 747日本@名無史さん2019/07/17(水) 22:21:47.14
平原の鏡は、広い地域でヒエラルキーを形成できてないという意味で、王者のしるしではないんだよね
748日本@名無史さん2019/07/17(水) 22:24:47.08
749日本@名無史さん2019/07/17(水) 22:27:03.57
>>741
自前で権威を成立させないと。
はじめは「つなぎ」のはずの卑弥呼政権が長期化して、それこそ「卑弥呼様には祖父の代から使えております」みたいな家来ばかりになると、卑弥呼の権威は絶対的なものになるだろう。
そして太陽神としての日の巫女なり日御子として八咫の鏡を完成させて、それを象徴として高祖山(高千穂峯)に太陽を背にして(記紀の神武の言葉)君臨した。
辻褄は合ってしまうんだよなあ。 750日本@名無史さん2019/07/17(水) 22:27:42.25
幻想の一番の敵は現実か・・・
751日本@名無史さん2019/07/17(水) 22:28:58.95
>>728
>三雲の家系は平原より前に没落するんだろ?
>二枚舌乙
また捏造しているw
そんなことは誰も言ってない!w
心配しなくても、三雲の第一家系も平原の第二家系も、どちらも没落しているから心配するなww 752日本@名無史さん2019/07/17(水) 22:29:03.56
753日本@名無史さん2019/07/17(水) 22:33:22.87
>>747
通常のヒエラルキーを超越した絶対的権力としての卑弥呼政権の成立ですね。
天孫族さえも格下の伊都国の官に押し込めてしまうはどの権力。
しかし卑弥呼一人に頼りすぎたので、卑弥呼の死後は再び激動の時代となるわけで。 754日本@名無史さん2019/07/17(水) 22:34:01.30
日没の国伊都國で太陽を背にしたら
どんどん日没のほうに向かって行かなければならない
755日本@名無史さん2019/07/17(水) 22:34:56.82
481>>582
>文化庁が「集落」って発表してるんだから
もう「集落ないない」横車は嘘だって確定してるよ
あがいても無駄<
文化庁なんて、「南→東」などのせつ嘘吐き騙しの、
結論先にありきの皇国史観大和説の総本山ではないか。
そんな宗教団体の「集落大有り」なんて、客観性も信頼性も殆どないよ。 756日本@名無史さん2019/07/17(水) 22:35:11.78
>>752
当時の人々にとって、卑弥呼がどのような存在だったか考えてみるといい。 757日本@名無史さん2019/07/17(水) 22:37:26.72
>>754
天神は太陽を背にしなくてはいけないと神武が言っている。
かつてここにいた孝霊厨とかいうコテハンは、東に山を配置するのは神仙思想だと言っていたが、そらにも合致する。 758日本@名無史さん2019/07/17(水) 22:38:56.55
481>>581
もう、「南→東」などの嘘吐き騙しがバレた大和説には、ウソしかない
八方塞がり行止りだから 759日本@名無史さん2019/07/17(水) 22:40:13.77
専門家にとっては、ザラも連句もキウも糸屑も泡も左スロも
思い込みの激しい困ったじいさんでしかないというのにな
760日本@名無史さん2019/07/17(水) 22:41:33.51
九州説は基本が作り話なので一人一説になり
九州説者間でもお互いに誰も相手にしなくなる
そして寂しくなって畿内説スレに話を聞いてもらいに来る
761日本@名無史さん2019/07/17(水) 22:41:43.07
762日本@名無史さん2019/07/17(水) 22:46:01.66
>>749
>八咫の鏡を完成させて、それを象徴として高祖山(高千穂峯)に
>太陽を背にして(記紀の神武の言葉)君臨した。
平原に八咫鏡なんてないからw
伝承も何もない 763日本@名無史さん2019/07/17(水) 22:47:26.86
>>753
ヒエラルキーの紐が切れちゃってるから平原1号の婆さんは倭国王じゃないんだよ 764日本@名無史さん2019/07/17(水) 22:54:43.61
765日本@名無史さん2019/07/17(水) 22:56:22.69
766日本@名無史さん2019/07/17(水) 22:58:21.97
>>625
九州上陸から二千里でも九州北部というのは漠然としたイメージで
ちょっと正確に検証すればすぐにそうならない事がわかる 767日本@名無史さん2019/07/17(水) 23:00:43.68
>>763
畿内には王墓すらないから、議論するネタがなくて残念だなw 768日本@名無史さん2019/07/17(水) 23:01:31.23
769日本@名無史さん2019/07/17(水) 23:02:52.74
>>767
ついに現実から完全な逃避を決め込んだか 770日本@名無史さん2019/07/17(水) 23:03:27.60
今日は半角age
771日本@名無史さん2019/07/17(水) 23:47:38.82
伊都国の高祖宮は糸島平野を見下ろすように立っている。
かつては高祖山の峰の上まで櫓があり、山腹を大きく囲む中国式山城であった。
その城域は200ヘクタールに及ぶという。
まさに高千穂宮ではないか。
北に筑紫の日向の小戸、東に日向川、南に日向峠、そして西に三雲や平原の王墓群。
「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」
(対馬海峡に面し、東に福岡平野、西に糸島平野)
772日本@名無史さん2019/07/18(木) 00:08:45.21
出雲を制して糸島に降臨したなら出雲よりも東に高天原があることになる
773日本@名無史さん2019/07/18(木) 01:38:13.44
崇神天皇が亡くなったのは(戊寅年)であることから
崇神天皇の没年は258年か318年が定説になっている。
しかし、モモソ姫を卑弥呼とすると
崇神天皇はモモソ姫(卑弥呼)と同時代の倭王なので
崇神天皇の没年は198年(戊寅年)でないとおかしい。
証拠もある。
『日本書紀』によると200年に神功皇后が倭国のトップになったことになっている。
卑弥呼が実権を握ったのも崇神天皇死後の199~200年頃のはずなので。
774日本@名無史さん2019/07/18(木) 01:45:14.56
もともとアマテラスもスサノオも筑紫の日向の生まれだから、孫の世代に戻ってきただけ。
ではその間の筑紫の日向はどうなっていて、誰が王だったのか?
おそらく、天孫に娘を輿入れさせた大山積や、その兄の綿津見だろう。
彼らもまた筑紫の日向の生まれ。
これらの歴代全ての倭王は博多湾の能古島(おのころ島)から国生みを行なったイザナギの子孫とされている。
傍系であったはずのアマテラスが大国主を倒し、アマテラスの孫が倭王として筑紫の日向に赴任してくるのが記紀の筋書き。
アマテラス一家の視点で書かれているから筑紫の日向の王権交代を読み解くのに少し苦労するだけ。
もっとも、大山積らは娘を差し出すことで、女系相続としては存続もしている。
大山積は綿津見と本質的に同じであり(名前の上では海と山で対)、その宮は志賀島の綿津見神社。
一族の姫の一人が豊玉姫とあり、豊国王家と呼ぶことができる。
後に筑紫の天孫族の勢力拡大とともに、豊国は遠賀川流域からさらには大分県側まで追いやられてしまう。
775日本@名無史さん2019/07/18(木) 01:47:48.57
『日本書紀』は神功皇后と卑弥呼・台与を一致させようとしてる。
『日本書紀』によると
170年 神功皇后が産まれた。
200年 神功皇后が倭国のトップになった。
238年 神功皇后が魏に朝貢 (卑弥呼が魏に朝貢したのも238年)
265年 神功皇后が普に朝貢 (台与が普に朝貢したのは266年でわずか1年の誤差)
269年 神功皇后が死亡
卑弥呼が女王になったのは184年頃と考えられているので
卑弥呼が産まれたのは170年頃(神功皇后が産まれた年と同じ)と推測できる。
※台与は13歳で女王になった。卑弥呼もそれくらいの年齢で女王になったと考えられる。
崇神天皇の没年を198年(戊寅年)とすると
卑弥呼が倭国のトップになったのは199年頃(神功皇后が倭国のトップになったのとほぼ同じ年)になる。
776日本@名無史さん2019/07/18(木) 01:49:06.57
そうすると神功皇后が死亡したのが269年だから
おそらく台与が亡くなったのは269年頃と推測できる。
777日本@名無史さん2019/07/18(木) 01:50:27.48
>>775
>『日本書紀』は神功皇后と卑弥呼・台与を一致させようとしてる。
しかし実は干支ふた回り分の年代の差がある。
神功皇后と同世代の邪馬台国女王は田油津姫だろう。 778日本@名無史さん2019/07/18(木) 01:53:46.36
>>777
>実は干支ふた回り分の年代の差がある
年代の差はないよ
『日本書紀』では神功皇后は170〜269年で
卑弥呼や台与と同時代に活躍した設定になってる 779日本@名無史さん2019/07/18(木) 01:59:29.70
ここでわかるのは『日本書紀』の編纂者が最も重視していたのは卑弥呼と台与であるということ。
『日本書紀』の編纂者は、古代の天皇の年代がズレるのは気にしてないが
卑弥呼・台与と神功皇后の年代の一致はしっかりとやっている
780日本@名無史さん2019/07/18(木) 02:02:46.36
記紀の神話部分の年代比定はどうでもいいと思う
781日本@名無史さん2019/07/18(木) 02:05:36.53
>>780
どうでも良くない。卑弥呼・台与と神功皇后は明らかに合わせている。 782日本@名無史さん2019/07/18(木) 02:12:51.66
神功皇后の次は応神天皇である。
応神天皇は明らかに390年頃に即位した天皇であるから
269〜390年までは天皇不在の空白期間があることがわかる。
※学者の間でも応神天皇は新王朝説が有力
783日本@名無史さん2019/07/18(木) 02:20:14.10
アマテラスもスサノオも筑紫の日向には住んでいないので高天原ではないね
此地は韓国に向いているのだから筑紫の北側にも高天原はない
大国主は、国を平定した時に杖し廣矛を二神に授け
「我、此の矛を以ちて、卒に功治せる有り。天孫若し此の矛を用て國治さば、
必ずまさに平けく安からん。今、我、まさに百不足之八十隈に隱去なん」と言ったので、
出雲の大国主は筑紫まで統治していたことになる
つまりケガレを清めるために禊ぎをしただけの地の筑紫は
まず出雲の支配を受け、後に出雲の東の天孫に征服された
784日本@名無史さん2019/07/18(木) 02:28:32.38
>>782
神功は書紀での年代を使い
応神は学問での年代を使う
お前、バカだろ 785日本@名無史さん2019/07/18(木) 03:47:02.81
纏向古墳群で箸墓は陵墓ゆえ調査は難航するけど
その他の古墳は殆ど調査が終わったと考えていいですか?
786日本@名無史さん2019/07/18(木) 03:54:06.13
787日本@名無史さん2019/07/18(木) 04:35:24.92
481>>700
>北部九州は掘り込みが深く真ん中に便所にちょうどいい穴が空いた
朝鮮型住居が密集しているので、竪穴住居が理想の住居だと考えるのだろうが
3世紀の博多湾沿岸の中心地那珂遺跡は弥生末期の竪穴住居は数基しか見つかっていない
那珂八幡の南側に墓は多く作られている <
ふーん。 788日本@名無史さん2019/07/18(木) 04:42:24.33
481>>703
>FAQ38 参照してみ<
「南→東」などの嘘吐き騙しの詐欺師である事がはっきりしている人種の文は、
自分からは、探しに行ってまでしては読まない。
読んで欲しけりゃ、該当箇所を転写しな。 789日本@名無史さん2019/07/18(木) 04:50:59.63
481>>705
>どんな根拠が必要だと主張してるの?
それが実際に現場を調査した学者たちの判断や文化庁を否定するだけの理由になる?<
いくら「実際に現場を調査した学者」とか「文化庁」とか自慢しても、
「南→東」などように、
史料事実や史料実態を「大和説という結論先にありき」で判断や否定曲解する人種は、
人間ではなく、・・・・アホ詐欺師人種であり、
何の価値もなく、むしろ害虫である。 790日本@名無史さん2019/07/18(木) 04:54:44.96
>>788
なら、畿内説側が
「説明できない」
「反論できない」
「隠してる」
といった類のウソつくの、やめろよ
おまえ、相手の話を聞かないって宣言してるんだからな
つまり自分で「ウソついてます」って宣言してるんだぞ 791日本@名無史さん2019/07/18(木) 04:57:50.36
481>>709
「南→東」などのように
史料事実や史料実態を否定曲解し断定する嘘吐き騙しの学者の言うことは、
信用できないゾー
俺さまのように、
史料事実や史料批判からの帰納的確率的な推論をする素人の方が正しいんだゾー
理由は言えないケドナー
それが、人類の常識であり、学問や科学だからな 792日本@名無史さん2019/07/18(木) 04:59:01.41
>>789
おまえらいくら「史料事実」とか「史料実態」とか自慢しても
正体は「結論先にありき」でなにもかも判断して否定曲解してる害虫でないの? 793日本@名無史さん2019/07/18(木) 05:03:38.97
481>>724
結局は、「南→東」などの嘘吐き騙しを説明する能力がないを大和説
つまり自分の主張を自分でも理解できてない
つまり無能な詐欺師 794日本@名無史さん2019/07/18(木) 05:07:08.62
>>793
相手の書いたものを読みません
と宣言しておいて
その相手を「説明する能力がない」と
決めつけるとか
とても発狂してなきゃ
出来ない発言だよな 795日本@名無史さん2019/07/18(木) 05:08:06.21
481>>729
現場を調査した専門家の見解だ、と言っても、
その人間が「南→東」などの嘘吐き騙しである事がはっきりしてしまえば、
それにいちばんの信を置かないのが、
人類の常識的 796日本@名無史さん2019/07/18(木) 05:13:41.80
797日本@名無史さん2019/07/18(木) 05:17:55.48
481>>739
>ザラコクさん いいタイミングでの投稿です
糞 小便 の 話題替えしましょう 水路は運搬用でいいでしょう<
ご声援、有難うございます。
私も、このスレで、
纏向の掘立柱建築群には、卑弥呼や千人の婢のトイレが見つからない、
と言った事があり、
大和説学者らからの反論があるのか?に、関心があり、
眺めています。 798日本@名無史さん2019/07/18(木) 05:20:42.26
481>>582
>文化庁が「集落」って発表してるんだから
もう「集落ないない」横車は嘘だって確定してるよ
あがいても無駄<
☝
文化庁が発表で間違い無いが、
文化庁の管理下にある、県教委や市町村教委の報告を公表するので
各自治体の公表と見て良いでしょう 799日本@名無史さん2019/07/18(木) 05:26:02.14
481>>754
「南→東」などの嘘吐き騙しのように
いつ如何なる時も理由を言わないし、言えない
それが大和説 800日本@名無史さん2019/07/18(木) 05:27:07.77
>>798
だから調査した者の発表だよ
もう「集落ないない」横車は嘘だって確定してるよ 801日本@名無史さん2019/07/18(木) 05:29:36.49
>>799
相手の書いたものを読まないと宣言しておきながら
その相手が
「いつ如何なる時も理由を言わないし、言えない」
などと平気で言う
九州説には
ウソをつく病気の人が異常に多い 802日本@名無史さん2019/07/18(木) 05:29:40.07
>>798の続き
また、このような公表ですので学会とのズレも出てきます。
論文発表とかはありますが、学会が公式に纏向を集落群と発表したことは無いと思います 803日本@名無史さん2019/07/18(木) 05:36:44.12
>>796
>なぜですか
主に調査発掘は興味本位でやるものでなく
土地所有者が家を建て替えるとか
河川改修や道路敷設とか
そういう工事で文化遺産が破壊される前に
記録に残す必要が生じて
そのためにやるものだから 804日本@名無史さん2019/07/18(木) 05:37:47.21
481>>760
国粋皇国史観儒教の大和説がオウム返しされる心理が、
何となく理解できた気がする
これは一種の人種差別宗教問題的なオウム返しなんだろ
大和説のやってる事は怨念の篭った呪詛だから、
オウム返しされると込められた疑念や怨念が跳ね返ってくる事になる
しかし九州説は、呪詛してるわけでも何でもなくて事実を述べてるだけだから
オウム返しされてもさっぱりピンと来ないわけだ
国内の学者や官僚や政治家やマスコミに、
こいう精神文化みたいなのあるのかな 805日本@名無史さん2019/07/18(木) 05:39:29.63
>>802
>論文発表とかはありますが、学会が公式に纏向を集落群と発表したことは無いと思います
どの遺跡であろうと、学会は普通そういうことは発表しない 806日本@名無史さん2019/07/18(木) 05:43:31.92
>>805
通説とか定説って何でしょうか?多数派? 807日本@名無史さん2019/07/18(木) 05:43:47.44
ザラコクが嘘ばかり言うのは
他人の投稿を丸写しして
単語を入れ替えて
機械的に捏造文を作ってるからだよ
だから自己矛盾しまくる
808日本@名無史さん2019/07/18(木) 05:45:24.06
481>>797
こうして「南→東」や「邪馬台国」などの嘘吐き騙しでの敗者大和説は、
今日も必死に
卑弥呼関連の話題から
逃げ回るのであった 809日本@名無史さん2019/07/18(木) 05:45:51.06
>>806
圧倒的多数派で社会的にも常識化してる説のこと 810日本@名無史さん2019/07/18(木) 05:49:05.59
巧妙な釣り師だな
811日本@名無史さん2019/07/18(木) 05:52:59.20
>>800
横車じゃねーよ 集落跡が見つかって無い事実をもとに
大集落群というのは時期尚早だと言っているんだよ
早く 見つけて来い 土木作業員の飯場を集落群と言うならともかくな 812日本@名無史さん2019/07/18(木) 05:55:20.89
>>838
>他いっぱい コピペだからねw
一度きちんと相手しておくかな 行数使いたくないからいつもと引用形式変えるよ
纏向が斎場 墓地と思う理由 ・・・<
結局、纏向は、
「以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食、傳辭出入。
居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」
に合わず、説明が付かない。 813日本@名無史さん2019/07/18(木) 05:56:25.03
>>809
そこが問題なのでしょう
邪馬台国に関わる学者等は圧倒的に近畿の大学出身者が多いのですから
学閥?群れ? 814日本@名無史さん2019/07/18(木) 06:00:44.63
>>852
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は、
どれだけ九州説が憎いんだろ?。
やっぱ異常だ。 815日本@名無史さん2019/07/18(木) 06:02:44.70
>>857
荒らせば荒らすほど逆に、
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説の立場は悪くなっていく 816日本@名無史さん2019/07/18(木) 06:02:56.41
>>812
賛同 このスレで
「以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食、傳辭出入。
居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」
を明確に説明した纏向論者を見たことが無い
巫女千人 兵は通勤と言う者もあれば、
集落跡も見つかって無いのに大集落群と宣う
楼観にいたっては・・やめとこ 817日本@名無史さん2019/07/18(木) 06:10:42.64
>>913
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
学問的な話になったら九州説にぜんぜん歯が立たないので
荒らしとデマ流しに徹してる
情けないことだ 818日本@名無史さん2019/07/18(木) 06:15:03.62
関川氏は干されてしまったなぁ・・
良い事 言ってるのに
「魏志倭人伝によると、卑弥呼は魏に頻繁に使いを送り、
また魏からも使いや軍人が渡ってくるなど半島や大陸と活発に交流していたが、
纒向遺跡の搬入土器は北九州由来のものは非常に少なく、
また半島や朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や刀剣類などが北九州で大量に出土しているのに対し、
纒向遺跡ではまったく出土していないことから、魏志倭人伝にみる活発な半島や朝鮮との交流は証明されておらず、
纒向遺跡は邪馬台国の遺跡で無い」としている
819日本@名無史さん2019/07/18(木) 06:15:10.81
>>927
ほらな
こんなふうに「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、反論できない
デマと中傷オンリー
大和説はここまで落ちぶれた 820日本@名無史さん2019/07/18(木) 06:16:25.53
>>100の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
← ┏黄┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜日本海〜〜〜〜
洛陽┃海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜東→✖畿内説沈没地点(†乗客乗員>>102)
【魏】┃〜〜〜↓↓南「水行十日」〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┃〜対馬▲↓〜〜〜〜〜〜↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」§琵琶湖
↓ ┃〜〜〜↓↓玄界灘〜〜↗_〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓ 淀川↙ ↑木津川
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行十日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃河内湖+大和湖Ω箸墓
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃紀伊半島
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃★奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王四千余里」@阿波
建業┃〜〜┃狗奴(球磨)国▲▲投馬(都万)国┘宮崎平野=南「水行二十日」
会稽┃〜〜┗━━━九州島━━┛↓〜〜〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海〜┌南「水行十日」〜〜〜〜〜〜
蘇州┃〜〜┌───▲奄美大島┐↙邪馬台国島(幻)↓陳寿の創作〜〜
↓ ┃〜〜│↓「陸行一月」(幻)│〜「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
福州┃〜〜│△△▲△△△△△│←亶州(沖縄)〜〜↓「自郡至女王国 万二千余里」〜〜
東冶┃〜〜│☆奴国A(幻)△△│★『【女王之所都】計其道里 當在会稽東「冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲狗奴国(幻)△△│←夷州(台湾)〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└△△△△△△△△┘〜「※其余旁国遠絶 不可得詳」〜〜
┏▲海南島〜└△△△△△△┘〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜南シナ海〜〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(☆奴国A)東南 船行一年」 821日本@名無史さん2019/07/18(木) 06:18:08.58
481>>928
>もう出てるんだが? ホケノ山<
鉄鏃が出たホケノは、庄内3〜布留だから、
3世紀末〜4世紀であり、
卑弥呼の3世紀前半ではない。 822日本@名無史さん2019/07/18(木) 06:22:44.87
>>937
大和では径百歩の墓は見つかりましたか?
見つかってから出直して下さい
大和では卑弥呼の鏡の候補となる「尚方作」魏鏡は見つかりましたか?
見つかってから出直して下さい 823日本@名無史さん2019/07/18(木) 06:23:29.41
>>811
>横車じゃねーよ 集落跡が見つかって無い事実をもとに
「集落跡が見つかって無い事実」って?
そんな事実がどこにあるの?
事実だって証拠は? 824日本@名無史さん2019/07/18(木) 06:23:36.88
ここは我慢だオクヤマ
あんたじゃ太刀打ちできない
825日本@名無史さん2019/07/18(木) 06:25:40.39
>>940
「南≠東」は嘘だ嘘だと言い張るだけです
嘘だと立証などする気もない
そんな異常な大和説を
世間の誰が信じるの? 826日本@名無史さん2019/07/18(木) 06:26:52.08
>>818
関川は年代設定が狂ってるから
結論はすべて狂ってるんだよ 827日本@名無史さん2019/07/18(木) 06:27:35.21
828日本@名無史さん2019/07/18(木) 06:28:04.55
>>946の訂正
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は
非科学の極致 829日本@名無史さん2019/07/18(木) 06:29:03.69
>>798
成程
それが教科書になったり、参考書になったりすると問題だな 830日本@名無史さん2019/07/18(木) 06:29:29.60
>>947
これはもう、
「南≠東」で大和説の破綻というより
全壊だな 831日本@名無史さん2019/07/18(木) 06:29:37.29
ザラコクが嘘ばかり言う
他人の投稿を丸写しして
単語を入れ替えて
機械的に捏造文を作ってるから
必然的に嘘になる
832日本@名無史さん2019/07/18(木) 06:32:54.97
>>950
史料事実や史料実態を信奉と、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説が言うな
史料に書かれてる事実は都合が悪いから邪魔臭くてしょうがないくせに 833日本@名無史さん2019/07/18(木) 06:36:12.25
834日本@名無史さん2019/07/18(木) 06:37:37.68
835日本@名無史さん2019/07/18(木) 06:38:05.90
>>951
>>大和で第V様式が出るのは、
九州から東征毛人五十五國をした人々が持ってきたからなんだがね<
>では第V様式の本拠地たる九州で第V様式があまり出土しないのはどうしてなんだろうね?ww<
はい、3世紀前半に三雲で庄内が発明されたようだし、
西新町土器や楽浪土器なども大量に搬入されて、第X様式は、すぐに駆逐されたから。 836日本@名無史さん2019/07/18(木) 06:41:09.72
>>835
>はい、3世紀前半に三雲で庄内が発明されたようだし、
またデマ乙
昨今の九州説はデマで出来ている 837日本@名無史さん2019/07/18(木) 06:42:23.02
>>952
大和説が、ここまで国民みんなに、
「南→東」などの嘘吐き騙しをしている事がバレて、
義務教育で習ってる日本史が、史料事実とかけ離れたものになった今、
もう復権は無いだろうねえ。 838日本@名無史さん2019/07/18(木) 06:49:23.04
ザラコクが嘘ばかり言う
他人の投稿を丸写しして
単語を入れ替えて
機械的に捏造文を作ってるから
必然的に嘘ばかりになる
ときおり捏造し漏れで
九州説の闇を断罪したりするのがご愛嬌
839日本@名無史さん2019/07/18(木) 06:50:01.76
>>977
>公式報告書や文部科学省、文化庁の大集落遺跡という見解<
これは、酷いね。
公式報告書や文部科学省や文化庁やは、
どこから「大集落遺跡」という嘘吐き騙し文言をでっちあげたんだろうかねえ。
大集落なんて、まだ影も形もなかったのに。 840日本@名無史さん2019/07/18(木) 06:54:52.04
841日本@名無史さん2019/07/18(木) 06:55:34.17
そのうち九州説が下火なのは政府の陰謀とか言い出すぞ
九州説はそこまで堕ちた
842日本@名無史さん2019/07/18(木) 06:55:34.85
>>782
神功皇后の実年代が4世紀後半なんだよ。 843日本@名無史さん2019/07/18(木) 06:56:13.32
>>978
>しかし九州説も敗北が確定してるのにようやるよ
教科書も畿内説有利となるし世の中は畿内説を中心に議論が回る<
これも酷いね。
しかし大和説も敗北が確定してるのにようやるよ
教科書も「南→東」などの嘘吐き騙しをやるし、
文科省も文化庁もマスコミも学会も、キョクウテロ組織も、
嘘吐き騙しの大和説だけで議論を回す。
こりゃ、国民や学生に「すぐに殺し合い戦争に行って来い」と命令しているようなものだ。 844日本@名無史さん2019/07/18(木) 06:57:15.24
845日本@名無史さん2019/07/18(木) 06:58:56.91
>>783
>此地は韓国に向いているのだから筑紫の北側にも高天原はない
韓国に向いているのは筑紫の日向の話。
高天原ではない。
>出雲の大国主は筑紫まで統治していたことになる
まあ、これはあり得る。
その大国主を倒したからこそ、ニニギは出雲も筑紫も含めた倭国の王として、筑紫に赴任した。
出雲が王都であったのは一時的であった。 846日本@名無史さん2019/07/18(木) 07:18:14.58
>>796
お金がないからw
考古学に使われる予算なんて基本的には「ない」から
年金や老人医療費がかさむから文化に対する予算は後回しになる 847日本@名無史さん2019/07/18(木) 07:23:13.10
848日本@名無史さん2019/07/18(木) 07:24:30.51
>>813
>邪馬台国に関わる学者等は圧倒的に近畿の大学出身者が多いのですから
>学閥?群れ?
九州大学の人でも広島大学の人でも東北大学の人でも、弥生終末期方古墳時代初頭の研究者は
全員、畿内に邪馬台国があったというのを当然の前提としているよ
学閥がー、とか忖度がーとか言ってるのは、学術的な反論ができなくなった九州説の
断末魔の負け惜しみにすぎない
むしろ逃げるときの捨て台詞かなw 849日本@名無史さん2019/07/18(木) 07:25:12.87
850日本@名無史さん2019/07/18(木) 07:31:17.36
>>844
どんな現実を見せても自分に都合が悪ければ認めないのが
九州説だって、よく分かってるだろ? 851日本@名無史さん2019/07/18(木) 07:32:40.11
785 796 806 811 813 816 818
822 824 834 844
852日本@名無史さん2019/07/18(木) 07:34:41.04
>>850
そんなことは無いよ
大集落跡の現実
を見せてくれないか 853◆CSZ6G0yP9Q 2019/07/18(木) 07:36:48.78
>>850
一応 コテ付けとくから
大集落跡の現実
を見せてくれないか
納得するから 854日本@名無史さん2019/07/18(木) 07:37:42.44
852 853
855日本@名無史さん2019/07/18(木) 08:10:30.93
>>853
>一応 コテ付けとくから
で都合次第でコテなしで自演するんですね!ww
分かりますww 856◆QkRJTXcpFI 2019/07/18(木) 08:16:00.27
>>855
オクムラと一緒にしないで欲しい
大集落跡の現実
を見せてくれないか 857日本@名無史さん2019/07/18(木) 08:17:15.64
ごめんコテ誤操作
>>855
オクムラと一緒にしないで欲しい
大集落跡の現実
を見せてくれないか 858◆CSZ6G0yP9Q 2019/07/18(木) 08:18:13.06
ごめんコテ誤操作
>>855
オクムラと一緒にしないで欲しい
大集落跡の現実
を見せてくれないか 859日本@名無史さん2019/07/18(木) 08:21:40.20
病気のようだな
860日本@名無史さん2019/07/18(木) 08:22:29.06
高天原と高千穂をごっちゃにする人が多い。
まあ、字で見ると似ているから仕方がないけど。
「タカアマハラ」は海の都
「タカチホ」は山の都
天孫は前者から後者に降臨(移動)した。
861日本@名無史さん2019/07/18(木) 08:42:59.21
>>853
>大集落跡の現実
>を見せてくれないか
>納得するから
もう見たろう
とても幸運な遺跡は保存される
なみの幸運な遺跡は記録後破壊される
大概の遺跡は記録される前に破壊される
つまりは記録が現実だ
手っ取り早くは
調査した本人の著述と監督官庁の発表が
現実だ 862日本@名無史さん2019/07/18(木) 08:49:41.24
>>103
>調査した専門家が集落だと報告してるんだから 調査してない素人がいくら
「見つかってない」「事実だ事実だ」 と連呼しても意味がない<
いや、その専門家の報告を受けた文化庁が「大集落だ」と言っているんだから、
そりゃ、その専門家が、文化庁に、
「大集落だ」という嘘つき騙しの報告をした事になる。 863日本@名無史さん2019/07/18(木) 08:57:09.35
>>105
>エジプトのピラミッドも「王都そのものまたは王都近辺」を裏打ちする根拠だよ<
ダメだよ。纏向自体が、
「以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」
になっていないから、卑弥呼女王の居地になっておらず、
大集落もなく、台所もトイレも寝室もなく、住める状態ではないから、
「都」にはならない。 864日本@名無史さん2019/07/18(木) 08:58:57.25
九州説は結論ありきの典型だな
865日本@名無史さん2019/07/18(木) 09:07:54.10
>>102
「銅鏡五百枚」www
跡形もなく消し飛ぶ、箸墓ありきの畿内説
w 866日本@名無史さん2019/07/18(木) 09:08:23.09
856 857 858
867日本@名無史さん2019/07/18(木) 09:13:29.63
楼観もなく、城柵もない遺跡が卑弥呼の居室??
w
868日本@名無史さん2019/07/18(木) 09:16:30.67
長二百歩の箸墓が卑弥呼の冢???
w
869日本@名無史さん2019/07/18(木) 09:27:41.27
>>108
>いくら中傷したって
なんの証拠も出せない無関係者の言い分が通ることはない<
いくら中傷したって、
「南→東」などの嘘付き騙しの「専門家」の言い分では、
世間に通る訳がない。 870日本@名無史さん2019/07/18(木) 09:30:37.39
なんか妄想の産物て気がしてきた
871日本@名無史さん2019/07/18(木) 09:33:30.36
>>109
>>土木作業員でも可 また報告書も推論であり物証たる住居跡群は見つかっていない<
>大量の土木作業員を受け入れるにはそれだけのインフラが必要なんだよ <
纏向では、大量の台所も寝床も、トイレも見つからず、
「大量の土木作業員」も受け入れ難いから、×。 872日本@名無史さん2019/07/18(木) 09:40:02.44
>>112
>>でき上ったものは古墳と掘立柱建物 水路 だけで都市と言えるだろうか <
>これが全くのもの知らず
話題になる特筆すべきものにハイライトが当てられているだけで、
いろんな遺跡、遺物が出てるよ<
「いろんな遺跡、遺物」の数が少な過ぎて、「都市」の根拠にならない。 873日本@名無史さん2019/07/18(木) 09:42:02.53
>>113
その証拠を頑として出そうとしない大和説が
誰からも信用されないのは
当然だよな 874日本@名無史さん2019/07/18(木) 09:43:09.39
文化庁がなんだって?
それで正確かどおか調査していく話じゃん
875日本@名無史さん2019/07/18(木) 09:44:08.30
873
説とやらが決定になることはない
876日本@名無史さん2019/07/18(木) 09:45:59.96
>>114
>九州説が纒向を攻撃しても何にも意味ないぞ
邪馬台国纒向説じゃなくて邪馬台国畿内説だからな
畿内説を否定するなら機内の古墳や銅鏡や考古発掘物の全てを否定しなきゃならない<
邪馬台国も畿内も存在もしない嘘つき騙し文言であるから×であるし、
勿論、「南≠東」などに拠って、大和説も×。 877日本@名無史さん2019/07/18(木) 09:55:39.54
>>116
>吉備だけでなく、各地の祭祀を統合した新しい祭祀の創始の場が纒向だよ
そして、その新しい祭祀用の供献土器が庄内式、布留式の土器であり、
それが広範囲に広がっている
この新しい祭祀用供献土器を受け入れた範囲が卑弥呼の共立圏と見てよい <
ダメだ。
庄内は、筑紫の三雲などの方が石塚よりも古いし、
布留は、米田に拠って、南加賀の方が古いし、
近畿内でも、播磨や河内に方が大和よりも大都市。
>倭国の各国に首長はいるが、そのうちの中心でかつ最大の首長が倭王であるというのが当然の帰結<
そして、同年代の文献資料である魏志倭人伝に倭王が卑彌呼であると書いてあるのだから、
纒向の倭王に卑弥呼を当てることになるだけ<
だから、大和は、九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の旧小国の一つであったの。 878日本@名無史さん2019/07/18(木) 09:56:44.89
>>100の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
← ┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜日本海〜〜〜〜
洛陽┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜東→✖畿内説沈没地点(†乗客乗員>>102)
【魏】┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┃〜対馬▲↓南「水行十日」↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」§琵琶湖
↓ ┃〜〜〜↓↓玄界灘〜〜↗_〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓ 淀川↙ ↑木津川
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行十日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃河内湖+大和湖Ω箸墓
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃紀伊半島
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃★奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王四千余里」@阿波
建業┃〜〜┃狗奴(球磨)国▲▲投馬(都万)国┘宮崎平野=南「水行二十日」
会稽┃〜〜┗━━━九州島━━┛↓〜〜〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海〜┌南「水行十日」〜〜〜〜〜〜
蘇州┃〜〜┌───▲奄美大島┐↙邪馬台国島(幻)↓陳寿の創作〜〜
↓ ┃〜〜│↓「陸行一月」(幻)│〜「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
福州┃〜〜│△△▲△△△△△│←亶州(沖縄)〜〜↓「自郡至女王国 万二千余里」〜〜
東冶┃〜〜│☆奴国A(幻)△△│★『【女王之所都】計其道里 當在会稽東「冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲狗奴国(幻)△△│←夷州(台湾)〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└△△△△△△△△┘〜「※其余旁国遠絶 不可得詳」〜〜
┏▲海南島〜└△△△△△△┘〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜南シナ海〜〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(☆奴国A)東南 船行一年」 879日本@名無史さん2019/07/18(木) 09:57:17.12
>>784
そりゃそうだろ
神功は明らかに架空の人物(卑弥呼がモデルの架空の人物)だもの
応神は実在した天皇 880日本@名無史さん2019/07/18(木) 09:57:58.63
881日本@名無史さん2019/07/18(木) 10:00:12.02
882日本@名無史さん2019/07/18(木) 10:03:10.74
>>868
>長二百歩の箸墓が卑弥呼の冢???
後円部が径百余歩ですが何か? 883日本@名無史さん2019/07/18(木) 10:03:59.64
『日本書記』では
・神功皇后に卑弥呼・台与(3世紀後半に死亡)を合わせている
・神功皇后の次は応神天皇(4世紀後半に即位)である
※学者の間では応神天皇は新王朝説が有力だが
『日本書記』の編纂者も天皇不在の空白期間が100年以上あることを明らかに認識していることになる
884日本@名無史さん2019/07/18(木) 10:07:12.78
魏志倭人伝で信用できるのは
年代や貢物とかの魏の公文書ぽいとこだけ
倭国の風俗や位置や墓とかはすべてあやしいのに
九州は正しいと思い込んでるよな アホだなあ
885日本@名無史さん2019/07/18(木) 10:07:42.84
>>117
>応神天皇(3世紀後半)居城 瑞籬宮(みずかきのみや)奈良県桜井市
垂仁天皇(3世紀後半)居城 纒向珠城宮(まきむくのたまきのみや)
景行天皇(4世紀前半)居城 纒向日代宮(まきむくのひしろのみや)
かように纒向は邪馬台国の時代より大王の居住地として機能していた><
天皇名やその時期がおかしいし、
天皇自体が、まだ存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
大和は、九州倭国の「東征毛人五十五國」の旧小国の中の一つ。 886日本@名無史さん2019/07/18(木) 10:08:41.36
>>826
狂ってるところを具体的に指摘しないと
単なる誹謗 887日本@名無史さん2019/07/18(木) 10:10:56.17
箸墓は後円部が径百余歩だからなぁ
当時は前方部は祭祀スペース、後円部のみが墓と認識されていたので
当時の認識としては、箸墓は立派な祭祀スペースのついた円墳である
888日本@名無史さん2019/07/18(木) 10:12:34.80
面積当たりの住居数は?
密度どれくらいだったら集落とみなしてるの?
大集落とみなす住居密度はどれくらい?
唐古・鍵遺跡と比べて大きな集落とみなせるなら大集落なのか?
889日本@名無史さん2019/07/18(木) 10:12:35.06
>>120
>逆だ 都市機能として運河は便利なインフラであり、<
纏向は、大集落がなく、
「以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」の、
寝室や台所やトイレがなく、弥生銀座のような「何本もの大道」もなく、
だから、「都市機能」そのものがないから、×。 890日本@名無史さん2019/07/18(木) 10:14:13.95
>>121
「南→東」などの嘘付き騙しのように、
そうやって、どんどん怪しい方向に走って行く大和説が
破滅の道を歩んでいることには
一点の疑いもない 891日本@名無史さん2019/07/18(木) 10:15:45.87
>>885 記紀の年代<<<<<遺構
記紀の年代を疑うことからはじめるんだ 892日本@名無史さん2019/07/18(木) 10:16:39.50
>>890 「南→東」が間違ってる状況証拠だして
証明は無理なのはわかった 893日本@名無史さん2019/07/18(木) 10:27:16.89
半島 衛氏朝鮮(紀元前2世紀)
↓
倭国 神武(紀元前7世紀)
↓
半島 燕(紀元前11世紀)
↓
半島 箕子朝鮮(紀元前12世紀)
↓
倭国 イザナギイザナミ(?)
↓
半島 檀君朝鮮(?)
↓
倭国 神世七代(?)
こんな感じで半島とどちらが古いか争った結果
どんどん古くなって双方で改ざんが行われた
記紀は神武を紀元前660年にしてる
神功皇后の年代を魏志倭人伝にある朝貢と時期を
意図的に合わせた
894日本@名無史さん2019/07/18(木) 10:29:12.99
>>123
>九州で鉄が多いというのも、甕棺墓による発掘バイアスが大きい
弥生後期、終末期になると北部九州の鉄器の出土は激減するし <
魏使らは、「兵用矛楯木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃」と目撃しているし、
東征毛人五十五國などの将軍らが使った。。
>九州で鉄が多いというのは弥生時代全期間の累計で、卑弥呼の時代を見れば九州の優位などない <
大和の鉄鏃の最初のホケノは、当然東征毛人五十五國の将軍か部将クラスの墓であり、3世紀末〜4世紀だ。
>弥生後期では丹波の弥生王墓が圧倒的だ<
出雲と越の系列の墓であり、弁辰の鉄の伝来や自前の砂鉄から鉄鏃を造ったものであり、
大和とは全く関係がない。
>畿内で鉄の出土が少なく見えるのは弥生後期から終末期の王墓級墳墓の発掘例がないからだと言える
王墓級に準ずる規模のホケノ山古墳、椿井大塚山古墳の二つだけで鉄器の出土量は
北部九州の弥生全期間の出土点数に匹敵する <
3世紀末以後の九州倭国の東征毛人五十五國の将軍や部将の使用鉄鏃だ。 895日本@名無史さん2019/07/18(木) 10:33:36.46
九州ででてる鉄は400くらいだからな
纒向のホケノ山古墳の130が弥生時代末となると
差はかなり縮まる
896日本@名無史さん2019/07/18(木) 10:34:45.24
>>895
住居後の出土ではないからその比較は無意味 897日本@名無史さん2019/07/18(木) 10:38:54.94
朝鮮?
やつらそんなに日本に入りこんでるわけ?
古い早いってや(°▽°)
898日本@名無史さん2019/07/18(木) 10:41:57.57
>>886
>狂ってるところを具体的に指摘しないと
>単なる誹謗
考古学の知識がある者なら常識になってる話だし、前にも出た
テンプレに書いてくれればいいのに
関川の説に賛同する学者がぜんぜんいない理由は明白
実年代の判明してる2つの時代の間を土器様式の変化に応じて中割りしていくのが編年の基本なのに、それをしてない
纏向遺跡の土器を6期に分けて、古墳中期の始まりから一律30年で遡るやり方をした
もちろん纏向遺跡は古墳中期が始まるまでなんて続いてない
つまり起点がおかしいうえ1期あたりの年代幅も仮定の数字
その計算で出した弥生の終わりの実年代は、弥生時代の研究者が「ハァ? 何それ」と言うものだった
狂いまくりだ
通用するわけないだろう 899日本@名無史さん2019/07/18(木) 10:43:54.60
箸墓に寄り添うようにあるホケノ山とその周辺の墓は埋葬品から
九州からきた先見および建設隊で卑弥呼の住まいとか
いろいろ作ってから九州の卑弥呼を迎えたと考えてる
つまりホケノ山古墳の130の鉄は弥生時代後期の数に入るから
こういう昭和の遺物は修正されるべき
900日本@名無史さん2019/07/18(木) 10:43:55.73
>>840
>どこまで神話だと思っている?
前にも一度書いたがな
雄略天皇以降は元嘉暦で書かれており、暦日の記載まで含め相当程度信頼できる
仁徳以降は系譜、継承順はある程度信頼できる
崇神天皇以降は実在は想定してよいが、暦年代、系譜等は信頼できない
神武天皇以降は、存在自体を否定することもできないが、事跡、系譜等、
歴史とみなして利用するのは無理
日向三代はそういう伝承があったのだろう、以上のことは言えない
ということで、歴史の範疇に入るのは崇神天皇以降
それ以前は神話扱いで十分
あとは神話の定義次第だ 901日本@名無史さん2019/07/18(木) 10:45:52.44
>>896
>住居後の出土ではないからその比較は無意味
この日本語はほとんど意味不明なんだが?
まあ九州説の発言で意味不明でないものは少ないから大きな問題ではないがな 902日本@名無史さん2019/07/18(木) 10:46:02.11
>>860
現代に残る「高地尾」の旧かな表記が「高千穂」だって言ってる人がいるよww 903日本@名無史さん2019/07/18(木) 10:48:45.12
初代から9代までは遺構がない
今ある初代〜9代のは幕末〜明治に適当にあてがった
904日本@名無史さん2019/07/18(木) 10:49:05.84
>>868
>長二百歩の箸墓が卑弥呼の冢???
この「右側の山のてっぺんに葬られました」と聞いたら、
左側まで含めての大きさは書かないだろ 905日本@名無史さん2019/07/18(木) 10:50:58.70
>>874
>それで正確かどおか調査していく話じゃん
調査した結果、正確だと認められたことが報告書に書かれてるんだよ 906日本@名無史さん2019/07/18(木) 10:54:27.32
>>895
>纒向のホケノ山古墳の130が弥生時代末となると
>差はかなり縮まる
ホケノ山古墳と椿井大塚山古墳の2つで、
北部九州の弥生全期間の鉄器出土数を超えるよ 907日本@名無史さん2019/07/18(木) 10:56:44.69
>>899
>九州からきた先見および建設隊で卑弥呼の住まいとか
>いろいろ作ってから九州の卑弥呼を迎えたと考えてる
九州から来た先遣隊とか、存在しないからww 908日本@名無史さん2019/07/18(木) 10:58:27.21
>>901
>この日本語はほとんど意味不明なんだが?
「住居跡からの出土」って書きたかったようだよ
まあ、現代の鉄器事情を考えても、住居跡から鉄器が出る必要はないんだが 909日本@名無史さん2019/07/18(木) 10:59:06.17
土器を編年基準に出来ると思ってる時点でバカ。
土器そのものの年代を調べた上でやるならまだしも。
3世紀の土器が4世紀の遺構から出土する可能性も十分あるということを想定していないし。
布留0.1が並行する期間であれば、布留0しか出土していない場合でも実際の年代は布留1に準ずるケースは十分にある。
これはまさに土器は編年基準として使えないという事を意味しているわけだ。
時系列上で並行に並ぶものを基準とするべきではない。
910日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:02:03.14
911日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:06:31.73
>>879
応神は実在でその母親は架空だと?
応神は木の股から生まれたのか? 912日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:08:04.05
>>895
>纒向のホケノ山古墳の130が弥生時代末となると
>差はかなり縮まる
また年代詐欺が始まった。
「大和は古いんだ!古代からここが王都なんだ!」
とんだ妄想だよ。 913日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:09:34.45
914日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:10:17.08
>>898
>実年代の判明してる2つの時代の間を土器様式の変化に応じて中割りしていくのが編年の基本なのに、それをしてない
関川は知らないが、「実年代が判明している」基準なんて皆無だし、単純な中割りでは画期的な変化があっても対応できない。
そんな理論で作られた編年なんて「はあ?」の一言で棄却だ、馬鹿者。 915日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:10:54.35
>>899
>いろいろ作ってから九州の卑弥呼を迎えたと考えてる
個人の主観ですね。
却下。 916日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:12:12.11
>>900
>崇神天皇以降は実在は想定してよいが、暦年代、系譜等は信頼できない
雄略については根拠を示しているようだが、崇神というのは根拠がないな。 917日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:12:37.45
918日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:17:59.63
キナイコシは本当に理論構成がなってない
「無いって証拠は」なんて連呼するが、
無い物は無い
有れば、示せばいいがそれもできない
妄想で論を展開するのはやめて
しっかりと物証等を示すべき
919日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:18:23.12
年代の分からない土器でしかも数種類が並行する可能性有りとなれば、編年基準にできない事は自明だよなw
920日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:21:13.65
>>914
>関川は知らないが、「実年代が判明している」基準なんて皆無だし、
それは無知なだけ
>単純な中割りでは画期的な変化があっても対応できない。
>そんな理論で作られた編年なんて「はあ?」の一言で棄却だ、馬鹿者。
それをやったのが関川
そして「はあ?」の一言で棄却された 921日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:25:51.43
>>920
はあ?という連中の考え方も、はあ?というレベルなんだぞw
目くそ鼻くそw
ちゃんとした科学屋に協力を仰げよバカどもがw 922日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:27:39.00
結論
テンプレはクソ
923日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:27:43.86
924日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:27:57.61
この分野に本気で肩入れしてくれる理系なんて居ないだろう。
925日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:28:22.89
キナイコシの論理が「はあ?」なんだよ。
まともに何も説明もできないくせに。
926日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:28:34.84
927日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:29:18.73
纒向の桃の種は、まともにデータを読めば卑弥呼の即位より古く、邪馬台国とは関係ない。
928日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:30:11.04
>>921
>ちゃんとした科学屋に協力を仰げよバカどもがw
現代の考古学的年代論は
理化学的年代論とのすり合わせで
より精緻化して来てるんだよ 929日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:30:58.04
930日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:32:04.84
>>927
>・・・まともにデータを読めば・・・
どう読んだの?
具体的にどうぞ 931日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:32:20.54
>>124
>なるほど祇園山は方墳なので選外と<
祇園山は、
下が「不定形台」状で、
上が「四隅円弧の類方形錐体台」状の墓であり、
卑弥呼の「冢」にピッタリ。 932日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:34:02.32
社会を知らん学者が当時の社会を想像してるから話がおかしくなるんだよな。
周りが生暖かい目で見てる事も知らずにw
933日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:35:41.52
>>100の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜日本海〜〜〜〜
←┐ ┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜東→✖畿内説沈没地点(†乗客乗員>>112)
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行十日」↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」§琵琶湖
↓ ┃〜〜〜↓↓玄界灘〜〜↗_〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓ 淀川↙ ↑木津川
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行十日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃河内湖+大和湖Ω箸墓
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃紀伊半島
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃★奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王四千余里」@阿波
建業┃〜〜┃狗奴(球磨)国▲▲投馬(都万)国┘宮崎平野=南「水行二十日」
会稽┃〜〜┗━━━九州島━━┛↓〜〜〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海〜┌南「水行十日」〜〜〜〜〜〜
蘇州┃〜〜┌───▲奄美大島┐↙邪馬台国島(幻)↓陳寿の創作〜〜
↓ ┃〜〜│↓「陸行一月」(幻)│〜「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
福州┃〜〜│△△▲△△△△△│←亶州(沖縄)〜↓「自郡至女王国 万二千余里」〜〜
東冶┃〜〜│☆奴国A(幻)△△│★『【女王之所都】計其道里 當在会稽東「冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲狗奴国(幻)△△│←夷州(台湾)〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└△△△△△△△△┘〜「※其余旁国遠絶 不可得詳」〜〜
┏▲海南島〜└△△△△△△┘〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜南シナ海〜〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(☆奴国A)東南 船行一年」 934日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:35:52.28
>>930
御前に教えても理解不能だろう 奥山よ
ずいぶん御前の頭の悪さは有名だからww 935日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:38:07.78
具体的なことを何も言えないのが九州説の特徴
936日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:38:57.59
>>928
あんたが思うほど正確なものでは無い事も知っておけよ。
現代科学において、数十年単位で正確に年代を割り出す科学的手段は無い。
残念ながら。 937日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:40:31.96
>>935
お前の脳の解像度が低いから何を示されてもモザイクにしか見えないんだよw 938日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:40:44.27
>>936
「ちゃんとした科学屋に協力を仰げよバカどもがw」
と言ったのは九州説なんだが 939日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:40:58.87
馬鹿につける薬ないな奥山
ベイズ確率も理解できないで、知ったかぶり
そんな奴に教えても無駄
940日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:42:03.70
結局いつも罵って誤魔化す九州説
具体的な説明を求められると
逃げることしか
出来ない
みじめだな
941日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:42:15.87
>>911
応神は4世紀後半の人物だから
3世紀に活躍した神功から産まれたわけないよ 942日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:43:19.07
>>911
>応神は実在でその母親は架空だと?
>応神は木の股から生まれたのか?
応神は実在でその実母もいただろうが、
その事跡は神功皇后として記録されているものではない、という意味だろ?
機能性非識字者かな? 943日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:44:10.81
>>939
>そんな奴に教えても無駄
説明出来なくなって逃亡する敗者の決まり文句ありがとう 944日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:46:29.49
>>916
>雄略については根拠を示しているようだが、崇神というのは根拠がないな。
崇神紀に記されているもので、現在でも確認できるものが複数あるからね
ある意味纏向遺跡はその際たるもの
三輪山、大神神社もそうだし 945日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:49:38.82
布留0式しか出ていないからといって240〜260年と編年するような理系音痴ばっかw
946日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:49:59.25
>>938
科学屋の意見としては、数十年の精度の年代比定はできない。
畿内説は非科学的な強弁ばかり。 947日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:50:31.95
>>927
>纒向の桃の種は、まともにデータを読めば卑弥呼の即位より古く、邪馬台国とは関係ない。
卑弥呼の遣使のあとまで纏向遺跡が存続したのは確実
桃核のデータで、卑弥呼の遣使の前から纏向遺跡が存在したのが確実になった
つまり、卑弥呼が遣使した時に纏向遺跡が存在したことが証明された訳だ
そして、当時の倭国に纏向遺跡より大きな遺跡は存在しない
当然、倭国の王都の第一候補になる
残念でしたw 948日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:50:58.27
>>941
たから、神功皇后は実は4世紀後半の人物で、日本書紀の編者が年代を意図的に繰り上げているんだよ。 949日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:52:17.59
>>947
>そして、当時の倭国に纏向遺跡より大きな遺跡は存在しない
倭国本体ではなく、属州だよ。 950日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:53:54.39
>>943
コテ付けろよ バカ奥山
そのズルさが嘘八百を作る
まあいいけど
「以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛」
纏向と是との整合性も説明できない奴に、何を言っても無駄ってこと 951日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:54:08.49
>>939
>ベイズ確率も理解できないで、知ったかぶり
>そんな奴に教えても無駄
あれ、ベイズじゃなくて「条件つき確率」の問題なんだが?ww
いくらコピペしても、コピペしている方が理解していないかわいそうな人って
ことにしかならないぞ?
ベイズが理解できていないのは、九州説の御大、邪馬台国の会主催の安本美典氏だw 952日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:54:47.77
奥山くんは脳内ロジックに障害があるんだよ。
953日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:54:59.27
さぁみんな、奥山が次スレを立てる頃だ!
次スレを見つけ次第、>>2-12に書き込んで荒らそうぜ!!www 954日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:58:09.61
>>946
>科学屋の意見としては、数十年の精度の年代比定はできない。
>畿内説は非科学的な強弁ばかり。
これを書いているのが科学屋じゃないから、大笑いなんだよなw
例えば>>946は、の図で
布留0式の260〜280年はないって判断するのかな?ww 955日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:58:50.09
>>951
ベイズ法だと畿内説の負けが確定するから? 956日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:59:00.22
>>945
理系音痴というレベルじゃないだろそれw 957日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:59:10.25
958日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:01:40.84
>>954
おまえ自分で何言ってるか分かってないだろw 959日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:03:36.68
>>955
いや、はしゃいでるけど、あの時も間違ってるのは連続句読点の方だったんだよ
最初から最後までww 960日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:04:10.71
方向書に書かれてんだ?
なら次は事実確認やな
961日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:04:38.63
962日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:05:30.34
句読点がどおしたんだよ?
てめえが現れただけで陳腐化するなおい(°▽°)
963日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:05:54.68
ああ.理系屋じゃなくて科学屋か
どっちでも変わらないけどさ
科学的思考っていうのは、論理だからね
>>958の苦手な分野ww 964日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:11:26.81
965日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:11:39.80
>>963
お前が>>946に言ってる内容が意味不明なんだよバカw
ホンマに気づかないんだなバカはw 966日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:13:00.25
967日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:13:32.46
>>963
「論理」の意味を知らないということは、お前は文系にも向いてないと言う事よ。 968◆CSZ6G0yP9Q 2019/07/18(木) 12:13:58.70
>>850
まだですか?
大集落跡の現実
を見せてくれないか
大集落跡の写真でもいいよ 969日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:15:42.62
>>951=okuyama
恥かいたのを張り付けてやろうかww 970日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:16:29.82
971日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:17:43.49
>>966
皆って誰だよ?www
ここには奥山しかいないんだぞ?www 972日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:19:20.79
討論が、活発化しているのではないのかな。。。
973日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:19:21.09
974日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:20:33.04
邪馬台国畿内説を宣伝する、頭が悪すぎる朝鮮人の奥山氏は、一度完全に論破された物事でも、立ち向かってくるので、
何度でも、楽しむことができるのではないのかな。。
959日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:03:36.68
>>955
いや、はしゃいでるけど、あの時も間違ってるのは連続句読点の方だったんだよ
最初から最後までww 975日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:20:44.98
サイコロでも説明してたかな?
笑ったな
まぁ俺は許してやるから次スレの用意しなよ
976日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:21:38.55
3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://2chb.net/r/history/1556294803/303 977日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:21:49.29
>>929
何度も指摘されてるだろ
過去スレ読めよ 978日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:23:05.07
邪馬台国畿内説のスレッドに、嘘だらけのテンプレートを、貼り付けている、3つの独立の根拠があれば、そこが邪馬台国だという、自称ベイジアンの発表した意見のどこがおかしいか発表します。。。
真実のロシアのルーレットの思考の実験を読めば、普通の頭の者なら、理解できます。。。
架空の世界に、12丁の、色の違う、4発発射できる、回転式の架空の拳銃を使ってルーレットをする架空の会場が、開場しました、、
赤の拳銃、緑の拳銃、青の拳銃、そして、その他の9色の拳銃が用意され、どちらが運が良いか決定しようとしている、架空の奥山氏と、架空の類奥山氏が、入場しました、、
緑と青、そして、その他の赤以外の9色の架空の拳銃の専用の弾は、的を死体にはしないで、本体と同じ色をつける、絵の具の弾です、
赤の架空の拳銃は、的を死体にする専用の弾を、発射します、、
ルールがありますが、不公平です、、
架空の奥山氏は、どの色の拳銃を使用するときにも、空にしたあと弾を3発込めて、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
架空の類奥山氏は、奥山氏の頭に色が付かなかった時は、その色の拳銃を使用するときには、弾を4発込めて、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
架空の類奥山氏は、架空の奥山氏の頭に色が付いた時は、空にしたあと、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
拳銃は、奥山氏から初めて互いに交互に、緑、青、その他の赤以外の9色、最後に赤と撃ちます。
最後に生きている方には、架空の睡眠銃で睡眠弾が発射されます。。
架空の生物にはクマモンという着ぐるみを、死体には、、巻きぴょん、、という着ぐるみを装着させます。。。
拳銃の数を知らない、奈良の小汚い自称考古学者が出現し、巻きぴょんの中身だけを調べました。。。
巻きぴょんの頭部が、緑と青と赤だけで着色されていたら、それが奥山氏の確率は、ベジタリアンとベジタリアンでは無い者では、それぞれ、どのような、計算結果になるでしょうか、、、
979日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:28:42.50
おそらく奥山は洗浄理論も分かってないよな。
僅かな事実を妄想に漬け込み、さらにそれを別の妄想に漬け込むのが畿内説だからw
指数関数的に事実が薄まっていくという事実w
980日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:28:42.52
奥山氏は、小学生の時から引きこもってしまったので、理系と文系の区別がつかず、
理系の大学院では、漢文の勉強をすると思っていたのだったな。。。
967日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:13:32.46
>>963
「論理」の意味を知らないということは、お前は文系にも向いてないと言う事よ。 981日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:29:57.60
982日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:33:56.29
>>980
僕達の、難関の国立の理系の学部に所属する頭の良い孫が、学部の入学試験に合格したときに、、、、
興味の無かった漢文や古文の勉強はもうしなくて良いのでうれしいな。。。
と言っていたな。。。 983日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:37:02.23
984日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:37:30.24
纒向って結局は何戸あったの?
985日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:38:47.77
986日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:39:13.49
約3戸
987日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:39:26.08
纒向は7万戸って魏志倭人伝に書いてある
988日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:40:45.64
>>100の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜日本海〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜東→✖畿内説沈没地点(†乗客乗員>>102)
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行十日」↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」§琵琶湖
↓ ┃〜〜〜↓↓玄界灘〜〜↗_〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓ 淀川↙ ↑木津川
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行十日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃河内湖+大和湖Ω箸墓
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃紀伊半島
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃★奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王四千余里」@阿波
建業┃〜〜┃狗奴(球磨)国▲▲投馬(都万)国┘宮崎平野=南「水行二十日」
会稽┃〜〜┗━━━九州島━━┛↓〜〜〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海〜┌南「水行十日」〜〜〜〜〜〜
蘇州┃〜〜┌───▲奄美大島┐↙邪馬台国島(幻)↓陳寿の創作〜〜
↓ ┃〜〜│↓「陸行一月」(幻)│〜「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
福州┃〜〜│△△▲△△△△△│←亶州(沖縄)〜↓「自郡至女王国 万二千余里」〜〜
東冶┃〜〜│☆奴国A(幻)△△│★『【女王之所都】計其道里 當在会稽東「冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲狗奴国(幻)△△│←夷州(台湾)〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└△△△△△△△△┘〜「※其余旁国遠絶 不可得詳」〜〜
┏▲海南島〜└△△△△△△┘〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜南シナ海〜〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(☆奴国A)東南 船行一年」 989日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:41:46.03
100年から150年足せばちょうど良いな。。。
945日本@名無史さん2019/07/18(木) 11:49:38.82
布留0式しか出ていないからといって240〜260年と編年するような理系音痴ばっかw
990日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:45:47.68
ここって何で九州説唱えてる奴いるの?スレタイの日本語読めないのか?
991日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:47:08.31
992日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:48:53.58
ここは、邪馬台国九州学によって、邪馬台国畿内説が完全に叩き潰されたのか、、、
それとも、邪馬台国畿内説が、まだ、完全には叩き潰されてはいないで、危篤状態なのかを討論するスレッドだったな。。
990日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:45:47.68
ここって何で九州説唱えてる奴いるの?スレタイの日本語読めないのか?
993日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:50:46.67
994日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:51:30.51
邪馬台国畿内説のスレッドに、嘘だらけのテンプレートを、貼り付けている、3つの独立の根拠があれば、そこが邪馬台国だという、自称ベイジアンの発表した意見のどこがおかしいか発表します。。。
真実のロシアのルーレットの思考の実験を読めば、普通の頭の者なら、理解できます。。。
架空の世界に、12丁の、色の違う、4発発射できる、回転式の架空の拳銃を使ってルーレットをする架空の会場が、開場しました、、
赤の拳銃、緑の拳銃、青の拳銃、そして、その他の9色の拳銃が用意され、どちらが運が良いか決定しようとしている、架空の奥山氏と、架空の類奥山氏が、入場しました、、
緑と青、そして、その他の赤以外の9色の架空の拳銃の専用の弾は、的を死体にはしないで、本体と同じ色をつける、絵の具の弾です、
赤の架空の拳銃は、的を死体にする専用の弾を、発射します、、
ルールがありますが、不公平です、、
架空の奥山氏は、どの色の拳銃を使用するときにも、空にしたあと弾を3発込めて、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
架空の類奥山氏は、奥山氏の頭に色が付かなかった時は、その色の拳銃を使用するときには、弾を4発込めて、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
架空の類奥山氏は、架空の奥山氏の頭に色が付いた時は、空にしたあと、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
拳銃は、奥山氏から初めて互いに交互に、緑、青、その他の赤以外の9色、最後に赤と撃ちます。
最後に生きている方には、架空の睡眠銃で睡眠弾が発射されます。。
架空の生物にはクマモンという着ぐるみを、死体には、、巻きぴょん、、という着ぐるみを装着させます。。。
拳銃の数を知らない、奈良の小汚い自称考古学者が出現し、巻きぴょんの中身だけを調べました。。。
巻きぴょんの頭部が、緑と青と赤だけで着色されていたら、それが奥山氏の確率は、ベジタリアンとベジタリアンでは無い者では、それぞれ、どのような、計算結果になるでしょうか、、、
995日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:51:40.11
邪馬台国畿内説のスレッドに、嘘だらけのテンプレートを、貼り付けている、3つの独立の根拠があれば、そこが邪馬台国だという、自称ベイジアンの発表した意見のどこがおかしいか発表します。。。
真実のロシアのルーレットの思考の実験を読めば、普通の頭の者なら、理解できます。。。
架空の世界に、12丁の、色の違う、4発発射できる、回転式の架空の拳銃を使ってルーレットをする架空の会場が、開場しました、、
赤の拳銃、緑の拳銃、青の拳銃、そして、その他の9色の拳銃が用意され、どちらが運が良いか決定しようとしている、架空の奥山氏と、架空の類奥山氏が、入場しました、、
緑と青、そして、その他の赤以外の9色の架空の拳銃の専用の弾は、的を死体にはしないで、本体と同じ色をつける、絵の具の弾です、
赤の架空の拳銃は、的を死体にする専用の弾を、発射します、、
ルールがありますが、不公平です、、
架空の奥山氏は、どの色の拳銃を使用するときにも、空にしたあと弾を3発込めて、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
架空の類奥山氏は、奥山氏の頭に色が付かなかった時は、その色の拳銃を使用するときには、弾を4発込めて、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
架空の類奥山氏は、架空の奥山氏の頭に色が付いた時は、空にしたあと、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
拳銃は、奥山氏から初めて互いに交互に、緑、青、その他の赤以外の9色、最後に赤と撃ちます。
最後に生きている方には、架空の睡眠銃で睡眠弾が発射されます。。
架空の生物にはクマモンという着ぐるみを、死体には、、巻きぴょん、、という着ぐるみを装着させます。。。
拳銃の数を知らない、奈良の小汚い自称考古学者が出現し、巻きぴょんの中身だけを調べました。。。
巻きぴょんの頭部が、緑と青と赤だけで着色されていたら、それが奥山氏の確率は、ベジタリアンとベジタリアンでは無い者では、それぞれ、どのような、計算結果になるでしょうか、、、
996日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:51:48.51
邪馬台国畿内説のスレッドに、嘘だらけのテンプレートを、貼り付けている、3つの独立の根拠があれば、そこが邪馬台国だという、自称ベイジアンの発表した意見のどこがおかしいか発表します。。。
真実のロシアのルーレットの思考の実験を読めば、普通の頭の者なら、理解できます。。。
架空の世界に、12丁の、色の違う、4発発射できる、回転式の架空の拳銃を使ってルーレットをする架空の会場が、開場しました、、
赤の拳銃、緑の拳銃、青の拳銃、そして、その他の9色の拳銃が用意され、どちらが運が良いか決定しようとしている、架空の奥山氏と、架空の類奥山氏が、入場しました、、
緑と青、そして、その他の赤以外の9色の架空の拳銃の専用の弾は、的を死体にはしないで、本体と同じ色をつける、絵の具の弾です、
赤の架空の拳銃は、的を死体にする専用の弾を、発射します、、
ルールがありますが、不公平です、、
架空の奥山氏は、どの色の拳銃を使用するときにも、空にしたあと弾を3発込めて、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
架空の類奥山氏は、奥山氏の頭に色が付かなかった時は、その色の拳銃を使用するときには、弾を4発込めて、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
架空の類奥山氏は、架空の奥山氏の頭に色が付いた時は、空にしたあと、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
拳銃は、奥山氏から初めて互いに交互に、緑、青、その他の赤以外の9色、最後に赤と撃ちます。
最後に生きている方には、架空の睡眠銃で睡眠弾が発射されます。。
架空の生物にはクマモンという着ぐるみを、死体には、、巻きぴょん、、という着ぐるみを装着させます。。。
拳銃の数を知らない、奈良の小汚い自称考古学者が出現し、巻きぴょんの中身だけを調べました。。。
巻きぴょんの頭部が、緑と青と赤だけで着色されていたら、それが奥山氏の確率は、ベジタリアンとベジタリアンでは無い者では、それぞれ、どのような、計算結果になるでしょうか、、、
997日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:53:23.16
奥山くんに質問
まず○○という事実が確認された←真実度100%
これは○○○を示すとも考えられる。←可能性10%
ということは○○は×××と見るのが妥当である。←50%
よって△△△は畿内であると言える。
最後の断言が真実である確率は何%?
998日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:55:56.03
999日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:58:10.08
2013年、邪馬台国畿内説は、破綻しました。。。
1000日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:58:22.59
埋
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lud20191025211356ca
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