11 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:21:24.64
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://2chb.net/r/history/1563292750/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 21 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:22:46.16
◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
31 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:23:03.70
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
41 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:24:11.35
◆3−1(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない
。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
51 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:25:16.12
◆3−2
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
61 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:25:37.34
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
7日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:25:48.01
ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「倭国(女王之所都)=計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋初代皇帝司馬懿(秀吉)は魏・明帝曹叡(信長)の後見人指名がなければ皇帝になれなかった。西晋にとって大恩人・曹叡の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまったミスを誤魔化し、孫呉を滅ぼす先鞭を付けたことにしてあげたい。
→曹魏の帝都・洛陽から見て宿敵孫呉との戦いにおいて、最高の牽制となるその背後に倭国「女王之所都」があるためには、
ライバル孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡(蘇州)「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南の福州の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳朱崖に似ている。
そこで陳寿が行った忖度が、九州島(倭国)が、狗邪韓国(伽耶)の南から儋耳朱崖(南越の北)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む「南北に」長大な列島であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国@】と、「當在会稽冶之東」となる【奴国A(幻)】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国@】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」←2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島をベースに、幻の邪馬台国島を、そして東治⇔東冶間の「陸行(徒歩)一月」を転用して、幻の【奴国A】を創り、福州「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。
81 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:25:50.82
◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
91 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:27:18.45
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
10日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:27:36.70
畿内説石野船長「南→東と読み替えて、不弥国から東に進み投馬国(出雲)を目指そう!次は女王卑弥呼の纏向だw全速前進!」
畿内説寺澤機関長「順風満帆!やはりこちらが正しかったですねw天も我々を祝福しているかのようですw九州説の警告なんて無視して良かったw」
畿内説橋本航海士「我々の進行方向と左右両舷をすっぽり取り囲むような三日月形の巨大氷山発見→)!!!」
畿内説石野船長「エンジン逆回転!!全速後退!!」
畿内説寺澤機関長「なんで方角を読み替えたんだよ!!!船長のくせに!!!このハゲェ〜ッ!!!(豊田真由子元衆院議員)」
畿内説橋本航海士「フル回転中の逆回転でギア全損!!!エンジン大爆発!!!間に合いません!!!!!」
(フルスピード→ノーブレーキで氷山に乗り上げ正面衝突し、反対側で再び着水する畿内説タイタニック号)ガツン!ドカン!ザブン!
(船側&船底外板を船首から船尾まで横一直線に切り裂く音)ギギギギギギギ!!!
ザァアアアアアアア!!!(全隔壁に一気に浸水、瞬時に沈む畿内説タイタニック号)
畿内説石野・寺澤・橋本「ぎゃあああああああああああああああ!!」(ごく僅かな庄内式土器と大量の布留式土器と三角縁神獣「銅鏡五百枚」と共に海底に引き摺りこまれ、海の藻屑と化す畿内説タイタニック号)
ダウンロード&関連動画>>
一方、九州説オリンピック号でゎ…
九州説A「畿内説タイタニック号から遭難信号SOS傍受!!」
九州説B「あれほど警告したのに、なんで東(大国主・大物主・饒速日3代の纏向宮殿→箸墓Ω前方後円墳墓担当の物部氏へ)に向かったんだろう?直ちに救助に向かおう!」
九州説C「纏向の大型建物ABCDは2世紀末には遡れないのに!!!」
不弥国の東の海上に到着した九州説オリンピック号が見た光景は…
因幡の白兎同様、サメの餌食となった畿内説タイタニック号の乗客乗員の遺体の一部と思しき夥しい肉片&骨片が散乱…血で真っ赤に染まった波間に石野船長と寺澤機関長のものと思しきメッキ縁眼鏡がキラキラ&プカプカ浮かんでいる…
茫然自失の九州説ABC「だから船乗りの方角間違え(南→東)は漂流しちゃうからあり得ない、纏向は「本州」島の毛人王権ってあれほど言ったのに...orz」 111 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:28:08.12
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
121 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:28:26.26
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
13日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:28:29.74
テンプレ荒らすな!
141 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:30:03.12
◆8−1(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
151 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:30:30.17
◆8−2
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
16日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:30:42.00
171 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:30:47.45
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 181 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:31:12.27
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
19日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:32:21.78
20日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:32:37.63
ゴミプレばっか貼るなカス
211 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:32:40.22
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※
)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。
また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
221 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:33:38.06
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。
楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる
。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。
このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
23日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:34:01.76
>>19
テンプレは荒らさないでくれ、たのむ!!! 241 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:34:11.77
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
251 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:34:33.33
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
26日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:34:49.92
3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://2chb.net/r/history/1556294803/303 27日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:34:58.91
3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://2chb.net/r/history/1556294803/303 28日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:35:09.75
3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://2chb.net/r/history/1556294803/303 291 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:35:21.47
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
301 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:35:49.76
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
31日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:35:52.82
邪馬台国畿内説のスレッドに、嘘だらけのテンプレートを、貼り付けている、3つの独立の根拠があれば、そこが邪馬台国だという、自称ベイジアンの発表した意見のどこがおかしいか発表します。。。
真実のロシアのルーレットの思考の実験を読めば、普通の頭の者なら、理解できます。。。
架空の世界に、12丁の、色の違う、4発発射できる、回転式の架空の拳銃を使ってルーレットをする架空の会場が、開場しました、、
赤の拳銃、緑の拳銃、青の拳銃、そして、その他の9色の拳銃が用意され、どちらが運が良いか決定しようとしている、架空の奥山氏と、架空の類奥山氏が、入場しました、、
緑と青、そして、その他の赤以外の9色の架空の拳銃の専用の弾は、的を死体にはしないで、本体と同じ色をつける、絵の具の弾です、
赤の架空の拳銃は、的を死体にする専用の弾を、発射します、、
ルールがありますが、不公平です、、
架空の奥山氏は、どの色の拳銃を使用するときにも、空にしたあと弾を3発込めて、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
架空の類奥山氏は、奥山氏の頭に色が付かなかった時は、その色の拳銃を使用するときには、弾を4発込めて、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
架空の類奥山氏は、架空の奥山氏の頭に色が付いた時は、空にしたあと、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
拳銃は、奥山氏から初めて互いに交互に、緑、青、その他の赤以外の9色、最後に赤と撃ちます。
最後に生きている方には、架空の睡眠銃で睡眠弾が発射されます。。
架空の生物にはクマモンという着ぐるみを、死体には、、巻きぴょん、、という着ぐるみを装着させます。。。
拳銃の数を知らない、奈良の小汚い自称考古学者が出現し、巻きぴょんの中身だけを調べました。。。
巻きぴょんの頭部が、緑と青と赤だけで着色されていたら、それが奥山氏の確率は、ベジタリアンとベジタリアンでは無い者では、それぞれ、どのような、計算結果になるでしょうか、、、
321 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:36:09.91
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。
331 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:36:35.02
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
341 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:36:50.67
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
351 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:37:23.70
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
36日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:38:05.71
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。
また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。
ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。
つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。
というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。
アホの>>1
アホの>>1 371 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:38:10.52
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
38日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:38:34.94
「でよい」
「とするのが妥当」
「とみることができよう」
「余地があろう」
「みなしてよい」
などの主観的な判断の表現を禁止しよう。
テンプレも、キナイコシの主張も、畿内説と呼べるものは全く空っぽになるだろう。
畿内説はほぼ想像の産物なのだ。
39日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:38:53.65
荒らすなよ!
荒らすなよ!
401 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:39:09.44
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
411 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:39:28.93
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、郡県内では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 42日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:39:30.09
3世紀の北部九州の遺跡発掘現場を見学に行った関西の考古学者や博物館の学芸員は、
周辺の地層全体が真っ赤に染まるほど大量の鉄の出土量を目の当たりにして内心(負けた…ヤマト王権は邪馬台国じゃないや…)と直感的に思うらしい。
でも関西に帰ると学閥や先輩後輩のしがらみがあって、職場で敵なんか作ったら大変だから、口が裂けてもそのことは言えず、
講演会などで「ヤマトで決まりやな!」という禿げ頭の素人おじいちゃんたちを見て
九州の発掘現場を知ってる人達同志で互いに肩をすくめて苦笑し合うらしいw
逆に九州の考古学者や博物館学芸員が畿内の3世紀遺跡発掘を見学に来ると、あまりの貧弱な出土品(木製品や桃の種、カエルの骨)に爆笑してしまい、
古墳築造の「縁日」と呼んでいるらしいw
431 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:39:44.21
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代)
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) 441 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:40:03.38
(承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
45日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:40:07.57
あれだけいた畿内説コテハンがほんと消えたなあ。
高齢さんとかも最近見なくなったし。
あの人の世界観は好きだったけど、考古学的証拠が出そろった最近はやっぱり反論できずに言い張るだけになってちょっとかわいそうだったよね。
ジョーカーもあれはあれで頑張っていたけど意外と判断思考は科学的だったから
議論が煮詰まってくると九州説そのまんまの発言をし始めてそれは九州説じゃんと指摘されて本人絶句したり相当悩んでるっぽかったよね。
ここでまだ頑張ってるのはスレ主とキナイコシくらいで科学的議論を放棄してのテンプレ死守の印象操作作戦に徹底してもはや議論が成り立たない。
岡上は東遷説とはいえ畿内説なわけで真っ向から取り組んでなんとか畿内説に持っていこうとしているのだけど、
もう味方であるはずの岡上程度の東遷説議論ですら許容できないほど畿内説は追いつめられているのだな。
461 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:41:04.44
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
471 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:42:15.55
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
481 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:43:17.38
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。
491 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:43:34.69
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
50日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:43:43.69
>>39
煽ってんじゃねぇよっ!!!
テンプレだけは荒らすのやめろっていってるだろ!!! 511 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:43:49.31
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 521 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:44:11.32
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
531 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:44:26.89
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
541 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:44:40.60
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
551 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:45:26.98
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
561 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:46:41.68
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
571 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:47:02.60
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
581 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:47:18.81
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 591 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:47:33.29
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
60日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:47:55.61
卑弥呼=馬韓卑弥国王族
ヒミココ=同じく馬韓卑弥国王族
奴国の隣の不弥国=馬韓の不弥国人が作った国
反論なしにより確定で
61日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:48:24.21
馬韓の風俗
・毎年五月に種蒔きが終わると、鬼神を祭り、人々が群集して歌舞し、昼夜ぶっとうしで酒を飲む。
・そのとき舞われる舞いは、数十人が立って、一つながりになって地を踏み、手足を下げたり、高く上げたりして、音楽のリズムに合わせる。中国の鐸舞に似ている。
・十月に農作業が終わったときも、同様の行事がある。
・鬼神を信じ、国々の邑ではそれぞれ一人を選んで天神の祭りを司らせ、そのものを天君と呼ぶ。
・また、それぞれの国にはもう一つの邑があって、蘇塗と言う名で呼ばれる。そこには大きな木を立てられ、鈴と太鼓をぷら下げて、鬼神の祭祀を行う
卑弥呼の「鬼道」=馬韓の祭祀
はい確定
621 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:48:32.72
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
631 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:48:53.01
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
64日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:49:25.22
朝鮮半島南部(馬韓)にいた馬韓人が、扶余の南下によって「押し出されて」日本列島にやってきた
馬韓は小国の集まりで、その中の一つに「卑弥国」がある
「卑弥国」の王女が日本に逃げ延びて倭王として取り立てられたのが、「卑弥呼」だわな
651 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:49:51.48
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
661 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:50:07.65
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
671 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:50:24.82
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
681 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:51:34.67
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、
就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
691 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:52:00.85
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
701 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:52:14.66
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
711 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:53:16.06
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、
3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
721 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:53:31.64
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定
731 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:53:44.28
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 741 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:54:00.95
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
75日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:54:25.90
九州説は九州説のスレでやれや!!!テンプレ荒らしてんじゃねぇよ!!!
761 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:54:41.68
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
771 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:55:00.35
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上)
78日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:55:02.42
畿内説は破綻しました
791 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:55:18.81
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
801 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:55:33.34
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
811 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:55:53.29
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
82日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:56:15.39
畿
内
説
は
破
綻
し
ま
し
た
831 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:56:31.47
(承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
84日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:57:14.14
>>75
うるせぇ!!! 荒らしてんのは お 前 !!! 851 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:57:26.96
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
86日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:58:11.17
いったい畿内説の確率は何%あるのか?
まず○○という事実が確認された←真実度100%
これは○○○を示すとも考えられる。←可能性10%
ということは○○は×××と見るのが妥当である。←50%
よって△△△は畿内であると言える。
最後の断言が真実である確率は何%?
871 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:58:57.51
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。
まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 881 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:59:21.66
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
89日本@名無史さん2019/07/18(木) 12:59:25.17
3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://2chb.net/r/history/1556294803/303 901 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 12:59:38.09
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀)
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 91日本@名無史さん2019/07/18(木) 13:00:29.14
342日本@名無史さん2019/04/28(日) 10:52:03.18
バカのために、現実との対応の取りやすい例示で説明してやるよ
箱がたくさんあって、たくさんの箱の中である条件を満たす箱を考える
ある条件を満たす箱を今、 「特定の十個の箱」と呼ぶことにする
この「特定の十個の箱」がたくさんの箱の中のどれなのかは分からない
この時
赤の玉が箱に入っていることがあるが、赤の玉のうち75%が「特定の10個の箱」に入っている
青の玉が箱に入っていることがあるが、青の玉のうち75%が「特定の10個の箱」に入っている
緑の玉が箱に入っていることがあるが、緑の玉のうち75%が「特定の10個の箱」に入っている
赤、青、緑の玉がどの箱に入っているかは独立である
この時、ある一つの箱に「赤、青、緑」の玉がすべて入っていたら、
その箱が「特定の10個の箱」ではない確率は1.56%で
「特定の10個の箱」のうちの一つである確率は98.4%になる
この多数の「箱」が「遺跡」、「特定の10個の箱」が「邪馬台国の範囲にある遺跡」と
読みかえればイメージが湧くだろ
ここでは「特定の10個の箱」としたが、実際には「邪馬台国の範囲にある遺跡」はもっと多い
そして、ベイジアンで説明してくれている人がいるが、
『赤の玉が75%が「特定の10個の箱」入っていること』は、
『「特定の10個の箱」の75%に赤の玉が入っていること』を意味しない、
つまり、「特定の10個の箱」が赤の玉を含まない確率は未知なのでベイジアンは適応できないよ
ここまで説明しても、論理的思考ができない九州説連中には理解できないんだろうがね
921 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 13:00:38.16
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
93日本@名無史さん2019/07/18(木) 13:00:54.08
3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://2chb.net/r/history/1556294803/303 941 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 13:00:59.94
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 951 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 13:01:42.78
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
96日本@名無史さん2019/07/18(木) 13:02:20.65
342日本@名無史さん2019/04/28(日) 10:52:03.18
バカのために、現実との対応の取りやすい例示で説明してやるよ
箱がたくさんあって、たくさんの箱の中である条件を満たす箱を考える
ある条件を満たす箱を今、 「特定の十個の箱」と呼ぶことにする
この「特定の十個の箱」がたくさんの箱の中のどれなのかは分からない
この時
赤の玉が箱に入っていることがあるが、赤の玉のうち75%が「特定の10個の箱」に入っている
青の玉が箱に入っていることがあるが、青の玉のうち75%が「特定の10個の箱」に入っている
緑の玉が箱に入っていることがあるが、緑の玉のうち75%が「特定の10個の箱」に入っている
赤、青、緑の玉がどの箱に入っているかは独立である
この時、ある一つの箱に「赤、青、緑」の玉がすべて入っていたら、
その箱が「特定の10個の箱」ではない確率は1.56%で
「特定の10個の箱」のうちの一つである確率は98.4%になる
この多数の「箱」が「遺跡」、「特定の10個の箱」が「邪馬台国の範囲にある遺跡」と
読みかえればイメージが湧くだろ
ここでは「特定の10個の箱」としたが、実際には「邪馬台国の範囲にある遺跡」はもっと多い
そして、ベイジアンで説明してくれている人がいるが、
『赤の玉が75%が「特定の10個の箱」入っていること』は、
『「特定の10個の箱」の75%に赤の玉が入っていること』を意味しない、
つまり、「特定の10個の箱」が赤の玉を含まない確率は未知なのでベイジアンは適応できないよ
ここまで説明しても、論理的思考ができない九州説連中には理解できないんだろうがね
971 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 13:02:30.46
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
981 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 13:03:06.21
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
991 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 13:03:25.84
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
1001 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 13:03:39.91
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。
1011 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 13:03:59.61
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。
1021 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 13:04:37.58
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
1031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 13:05:01.62
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。 1041 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 13:06:00.17
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
105日本@名無史さん2019/07/18(木) 13:06:06.69
荒らすなよ!!! 荒らすなよ!!!
1061 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 13:06:40.35
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
1071 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 13:07:08.59
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
1081 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 13:07:27.48
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 1091 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/18(木) 13:07:43.59
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 なし
110日本@名無史さん2019/07/18(木) 13:09:13.04
>>7の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜日本海〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜東→✖畿内説沈没地点(†乗客乗員>>10)
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行十日」↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」§琵琶湖
↓ ┃〜〜〜↓↓玄界灘〜〜↗_〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓ 淀川↙ ↑木津川
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行十日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃河内湖+大和湖Ω箸墓
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃紀伊半島
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃★奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王四千余里」@阿波
建業┃〜〜┃狗奴(球磨)国▲▲投馬(都万)国┘宮崎平野=南「水行二十日」
会稽┃〜〜┗━━━九州島━━┛↓〜〜〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海〜┌南「水行十日」〜〜〜〜〜〜
蘇州┃〜〜┌───▲奄美大島┐↙邪馬台国島(幻)↓陳寿の創作〜〜
↓ ┃〜〜│↓「陸行一月」(幻)│〜「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
福州┃〜〜│△△▲△△△△△│←亶州(沖縄)〜↓「自郡至女王国 万二千余里」〜〜
東冶┃〜〜│☆奴国A(幻)△△│★『【女王之所都】計其道里 當在会稽東「冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲狗奴国(幻)△△│←夷州(台湾)〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└△△△△△△△△┘〜「※其余旁国遠絶 不可得詳」〜〜
┏▲海南島〜└△△△△△△┘〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜南シナ海〜〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(☆奴国A)東南 船行一年」 111日本@名無史さん2019/07/18(木) 13:13:02.99
恐ろしい事件を起こしたのは、奥山氏ではないので、安心なのではないのかな。。。
112日本@名無史さん2019/07/18(木) 13:14:05.88
>>7
>>110
卑弥呼の魏帝への朝貢理由は、要するに狗奴国戦争における援軍要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置であることに留意されたい。
そこで主要3説(九州説・四国説・畿内説)における狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国「東渡海」千里「複有国」皆倭種(◎九州説…豊後水道、◎四国説…紀伊水道、✖畿内説…鈴鹿山脈?)
−其南有狗奴国(◎九州説…熊本もしくは薩摩、✖四国説…南阿波、✖畿内説…仲良し東海?)
畿内説はいずれも当てはまらず、3世紀の四国に十四万戸(邪馬台国+狗奴国)は無理がある(後述)。
消去法によって、九州説が正しい。
次に、狗奴国が熊本平野か鹿児島川内(せんだい)平野かだが、邪馬台国七万戸(35万石)を統治している女王卑弥呼をして、魏の明帝曹叡に援軍要請させるほど窮地に陥れる(狗奴)国の国力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸35万石)もしくはそれ以上の人口(八万戸40万石)と仮定。
面積から見て、狗奴国が川内(せんだい)平野でゎ、3世紀の開墾能力では限界があると思われ、狗奴国は菊地(狗古智比狗の本拠)+熊本+八代の3平野を合わせた超大国と想定して、
北の邪馬台国は筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所&(天気が良ければ)福岡平野→糸島(伊都国)→壱岐島までズドーンと見渡せる甘木朝倉と確定。
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(上方下円墳)を比定。
祇園山古墳
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3
https://sora07.exblog.jp/26083348/
https://ameblo.jp/taishi6764/entry-12288771975.html 113日本@名無史さん2019/07/18(木) 13:18:38.25
「でよい」
「とするのが妥当」
「とみることができよう」
「余地があろう」
「みなしてよい」
などの主観的な判断の表現を禁止しよう。
テンプレも、キナイコシの主張も、畿内説と呼べるものは全く空っぽになるだろう。
畿内説はほぼ想像の産物なのだ。
114日本@名無史さん2019/07/18(木) 13:19:46.36
纒向って、4戸で大集落と言い張っているの?
115日本@名無史さん2019/07/18(木) 13:22:00.58
>>112の続き
すると、もう一つの謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国・卑弥弓呼の子孫/八代淡海→「近江」)も判明。
古代史は以下↓のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の説諭で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国系(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国系(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏>晋>「宋>斉>梁」南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」に任官(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国系(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。九州年号創設。
倭王阿毎多利思比孤「日出処天子」隋煬帝「日没処天子」に対等外交=(隋の悲願、高句麗征伐の鍵となる)新羅からの朝貢を機に「独立宣言」607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教伝来による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家となり、飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…前方後円墳の大連物部守屋を滅ぼす。大和分家を乗っ取ろうとした大臣蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、大和へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種・九州年号&多利思比孤を抹消すべく、崇神朝・応神朝・継体朝の倭王権(九州王朝)内の抗争が、すべて大和で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名を移植。朝倉&阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武朝(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京) 116日本@名無史さん2019/07/18(木) 13:25:59.39
117日本@名無史さん2019/07/18(木) 13:32:53.98
そうだ奥山 我慢だ
御前では太刀打ちできない相手ばかりだ
いつもの、罵声に徹するか
「根拠は」「証拠は」を連呼するのだ
御前が論じてもすぐに論破されるから無意味な浅学を披露するな
118日本@名無史さん2019/07/18(木) 13:41:19.54
掘立柱建物4棟だけでは大集落とは言わないのだ
他にもパラパラってか
古墳造営の土木作業員の飯場はあるから人は住んでいたが露営キャンプ地だ
119日本@名無史さん2019/07/18(木) 13:47:49.84
以前、色んな資料を調べて作った年表
西暦57年 福岡の奴国王が金印「漢委奴国王」を授かり、初代・神武天皇が誕生
107年 倭国王帥升等(第6代・孝安天皇)が後漢に朝貢
177年 第10代・崇神天皇が即位
179年 奈良県の三輪山西麓の瑞籬宮に都を移した。
181年 ニュージーランドのタウポ大噴火
181年 崇神5年、疾病の流行。『崇神紀』によると「倭国の人口の半分が死んだ」
181年 『後漢書』によると「空が黄色くなり太陽が覆われた。」 「6月に雹が降った。大きさは鳥の卵ほどもあった。」
182年 『後漢書』によると「井戸の中が凍ってしまった」異常気象を示す記述は2年続く
181〜184年 倭国大乱
183年 モモソ姫の助言で大田田根子に大物主神を祀らせたら五穀豊穣となり疾病が治まった。
184年 疾病などの影響で崇神天皇が権威を失った。倭国を救ったスーパーヒーローのモモソ姫か大田田根子が女王・卑弥呼になった。
184年 黄巾の乱が勃発し、漢が衰退した。漢から授かった金印の権威消失。
198年(戊寅年) 崇神天皇が崩御した。
199年 12代・垂仁天皇が即位した(倭王ではなく女王・卑弥呼を補佐する役割)
202年 纒向珠城宮(纒向遺跡)に都を移した。
※『魏志倭人伝』によると官のトップは伊支馬(垂仁天皇の本名は伊久米),次席は弥馬升(垂仁天皇后の本名は日葉酢)
237年 垂仁天皇が崩御した。
238年 第12代・景行天皇が即位した。(女王・卑弥呼を補佐する役割)
238年 難升米と都市牛利が魏に朝貢した。卑弥呼が「親魏倭王」の金印を授かった。
248年 『三国志』によると女王・卑弥呼がついに亡くなった。
264年 景行27年、景行天皇の息子ヤマトタケルが熊襲討伐に成功。
266年 台与が晋に朝貢した。
※卑弥呼死亡後の後継者争いによって男王制度が完全に廃止された。
※100年間以上の天皇不在の空白期間がある。
※卑弥呼と台与など女王制度の歴史を日本の歴史から消す代わりに架空の天皇である第13代天皇と第14代天皇と神功皇后を創作し空白期間を埋めた。
390年頃 第15代・応神天皇が即位した。
120日本@名無史さん2019/07/18(木) 13:49:49.11
倭人伝の
「以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛」
から、纏向は卑弥呼が居た地ではないと思う
121日本@名無史さん2019/07/18(木) 13:52:43.60
122日本@名無史さん2019/07/18(木) 13:53:27.76
どうも 奥山は救急車で精神病院に運ばれたようだ
123日本@名無史さん2019/07/18(木) 13:55:19.17
例えば、>>117がネイティブな日本人で日本の義務教育を受けた人物ではないと考えるべき根拠
「御前」ww
「關係」とか書いてるのも同じ人だろ?w 124日本@名無史さん2019/07/18(木) 13:55:27.19
>>121
1つづつ 物証を示し解説出来ればいいのだが・・・
君がそう思うなら 解説してくれないか 125日本@名無史さん2019/07/18(木) 13:56:52.24
分かりにくかったな
例えば、>>117が「ネイティブな日本人で日本の義務教育を受けた人物」では『ない』と考えるべき根拠
「御前」ww
「關係」とか書いてるのも同じ人だろ?w 126日本@名無史さん2019/07/18(木) 13:57:01.04
>>124
いやいや、君の主張だから君がまず説明しなよ 127日本@名無史さん2019/07/18(木) 13:57:28.77
>>123
いいぞ 奥山 その程度の論と関係のない投稿で良い 128日本@名無史さん2019/07/18(木) 14:00:14.03
>>124
×「1つづつ」
○「1つずつ」
まあこれは日本人でも間違える人は間違える
でも「御前」はないww
「關係」は、日本のパソコンでは変換するもの難しいレベルw 129日本@名無史さん2019/07/18(木) 14:00:34.27
130日本@名無史さん2019/07/18(木) 14:01:12.94
>>123
テンプレも変な仮名遣いが多いから、マネしたのだろう。 131日本@名無史さん2019/07/18(木) 14:01:19.30
纏向遺跡の出土品は土木用具各種、ドカタの寄宿舎4棟、ドカタが食いちらかしたイノシシや魚の骨、桃の種、カエルの骨。
遺跡の開始時期と消滅時期、そして周辺にある古墳の築造時期を考慮すると、古墳造営基地局と見るのが妥当である。
132日本@名無史さん2019/07/18(木) 14:01:32.57
>>127
日本人以外が日本の歴史板で粘着するっていうのは、
よほどのコンプレックスがあるんだろうな 133日本@名無史さん2019/07/18(木) 14:02:21.33
134日本@名無史さん2019/07/18(木) 14:03:07.29
テンプレの仮名遣いの方が気持ち悪い。
135日本@名無史さん2019/07/18(木) 14:04:23.50
>>132
DNAが半島人であることに気付いていない奥山氏から見ると、生粋の日本人が外国人に見えるのは当たり前だよ。 136日本@名無史さん2019/07/18(木) 14:08:31.99
>>126
兵・巫女の住居跡が無い
兵の武器もない・・兵用矛盾木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃
樓觀は無い
他
君の事だから
「無いという理由は」とか聞くだろうが 無い物は無い
あるならば、示すべき
さあ君の番だ 137日本@名無史さん2019/07/18(木) 14:13:00.41
>>135
日本史板でDNAを持ち出してくるのはコークリ君だろ?
いつものように学者が発表したデータを歪曲して、古墳時代に民族が入れ替わったとでも言うんか 138日本@名無史さん2019/07/18(木) 14:14:05.35
>>131
>ドカタが食いちらかしたイノシシや魚の骨、桃の種、カエルの骨。 <
いい線行っているな
桃はお供え物のお下がりだろう 139日本@名無史さん2019/07/18(木) 14:29:52.28
四棟で
大集落(笑
140日本@名無史さん2019/07/18(木) 14:41:26.88
畿内説は大風呂敷
纒向は王都としての資格がない
141日本@名無史さん2019/07/18(木) 14:52:38.80
142日本@名無史さん2019/07/18(木) 14:55:58.11
>>135
>生粋の日本人
5ちゃんで有名な言い回しそのものですやん
使用例wwww
「私は生粋の日本人ですが世界を侵略した日本が領土領海領空を主張するなどとは大変おこがましいと思います。」 143日本@名無史さん2019/07/18(木) 14:56:31.64
この乾燥耳垢圏がまさに狗奴国=ヤマト政権か?
(もちろん北海道を除く)
湿潤耳垢:縄文系
乾燥耳垢:半島系
乾型が多い地域は茶色
144日本@名無史さん2019/07/18(木) 15:00:21.63
>>140
纏向行くと、あらゆるものを王権に結びつけようとするこじつけ説明が笑えるw
妄想に妄想を重ねて人を丸め込もうとする様子がまるで悪徳宗教の勧誘のようだったw 145日本@名無史さん2019/07/18(木) 15:02:15.95
146日本@名無史さん2019/07/18(木) 15:04:32.98
日本人なら「御前」と書いたら、不躾な二人称とは思わないよな?ww
たぶん、>>117はそこすら理解できないレベルなんだろうw 147日本@名無史さん2019/07/18(木) 15:05:26.08
148日本@名無史さん2019/07/18(木) 15:06:13.48
御前
關係
iPhoneから
149日本@名無史さん2019/07/18(木) 15:10:39.51
なぜ自分の家の話ではない、
(わかりやすく言うと他人の家の話)なのに詳しい人がいたりするんだろう
『ポケモソ』もそうでしょ?
『ポケモソ サトコ』(サトミ?)
セーラームーンの女神、白い猫を飼っているという設定で?
奪われた神格、物語(本当の主人公〜みたいな話)
150日本@名無史さん2019/07/18(木) 15:10:45.06
151日本@名無史さん2019/07/18(木) 15:11:28.72
>>148
ほうほう、それはそれはww
まあ、変換で出てきても、それを選ぶのはおかしいよな?w 152日本@名無史さん2019/07/18(木) 15:12:10.56
iPhoneは漢字変換が最大の弱点だからな
153日本@名無史さん2019/07/18(木) 15:16:30.44
ていうか、香港とかの繁体字地域向けにも対応できるようにしてあるんだろうけれど、
日本語のFEPとしては無能だなww
154日本@名無史さん2019/07/18(木) 15:16:38.26
155日本@名無史さん2019/07/18(木) 15:16:38.43
画像を調べてみて『歌舞伎』このような話もしていたし
どらくえ、ポケモソ、サザエさん・・・?なども、なかった頃の話
156日本@名無史さん2019/07/18(木) 15:32:25.06
奥山式畿内説はオールCです。
もっと日本語の使い方を勉強しなさい。
@「〜である」
・ほぼ確実(virtually certain、99−100%)
・可能性が極めて高い(extremely likely、95−100%)
・可能性が非常に高い(very likely、90−100%)
A「〜と考えるのが妥当である、〜であると考えられる」
・可能性が高い(likely、66−100%)
・どちらかといえば(more likely than not、50−100%)
B「〜とも考えられる、〜かもしれない」
・どちらも同程度(about as likely as not、33−66%)
・可能性が低い(unlikely、0−33%)
C「〜とは考えにくい、〜可能性が無いとは言えない」
・可能性が非常に低い(very unlikely、0−10%)
・可能性が極めて低い(extremely unlikely、0−5%)
・ほぼあり得ない(exceptionally unlikely、0−1%)
157日本@名無史さん2019/07/18(木) 15:32:52.91
>>143
現代人の84.2%と92.3%程度の差じゃ古代の分布なんかわからん 158日本@名無史さん2019/07/18(木) 15:35:17.73
正確に言うと女神ではなく
カミ(シン?)という意味
159日本@名無史さん2019/07/18(木) 15:35:32.90
160日本@名無史さん2019/07/18(木) 15:36:55.10
>>157
耳垢の違いは免疫機構の違い=種族保存システムの違い=人種の違い。
草花と人間のDNAの違いはわずか2%。
ほんのわずかな違いは大きな違い。 161日本@名無史さん2019/07/18(木) 15:41:55.98
日本人な〜、聞くがいつまでいるの?
162日本@名無史さん2019/07/18(木) 15:42:12.64
>>160
>>143はDNAの違いではなくて頻度
日本人の7割以上が乾性で沖縄でも湿性耳垢は30―40% 163日本@名無史さん2019/07/18(木) 15:42:33.70
ヤマト王権は古のチョンだったのか。
まあそうだとしても天皇は否定しないだろうな。
164日本@名無史さん2019/07/18(木) 15:45:20.95
あるてぃめっと・シンと日本昔話・・・、
・・・なども同じでしょ、誰が考えたんだろう
165日本@名無史さん2019/07/18(木) 15:46:08.63
>>162
ちなみに半島、中国北部は乾燥耳垢が99%以上。 166日本@名無史さん2019/07/18(木) 15:47:55.54
老婆の談によると、
ウサギを飼っていたこともあるんだよと言っているしw
普通の白いウサギ
167日本@名無史さん2019/07/18(木) 15:50:04.44
人類全体の大多数が湿性で北アジアは10%以下と少ない
日本に7割以上ということは耳垢に関する遺伝子は北方系
耳垢遺伝子だけで民族は分類できない
168日本@名無史さん2019/07/18(木) 15:50:29.86
>>164
分裂症奥山の分身松傾もすっかり芸風が変わってきたなw 169日本@名無史さん2019/07/18(木) 15:50:55.99
>>160
>草花と人間のDNAの違いはわずか2%。
君が科学屋大好きの人かな?
例えば、Arabidpsis tharianaのゲノムサイズが1.3億塩基対
ヒトゲノムが31億塩基対
どういう計算をしたら98%が一致するんだろうね?www 170日本@名無史さん2019/07/18(木) 15:52:48.16
前から言ってるだろ?
九州説が嫌いなんじゃなくて、バカが嫌いなんだよ!
あと、うそつきも嫌い
間違いを認められないやつも嫌い
171日本@名無史さん2019/07/18(木) 15:53:30.56
172日本@名無史さん2019/07/18(木) 15:53:58.74
『日本昔話』〜『あるてぃめっと・シン』
ググってみて、画像を調べてみてという意味
173日本@名無史さん2019/07/18(木) 15:54:13.33
174日本@名無史さん2019/07/18(木) 15:55:30.52
175日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:01:54.12
>>148
iPhoneユーザーにリサーチしたら、日本で普通に買えるiPhoneでは
「關連」は出てこないってさww
「御前」は6番目の候補w
やはり、日本人ではない疑惑は深まるばかりですなww 176日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:03:41.95
>>173
>比較対象となる領域に絞っての話だろ。
例えば、どこ?ww
相当恣意的なことをしないと、植物とヒトで98%一致とか出てこないし、
それはもはや科学ではないww 177日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:03:46.01
>>154
やっぱりコークリ君だったwww
現代の日本人は遺伝子レベルでは縄文系より渡来系が遥かに多いが
ベースは弥生時代前期に渡来してきた人たちの末裔だよ
日本が建国されたときには、すでに1000年も先祖代々日本列島に住んでた人たち
古墳時代にも半島生まれの渡来人がやってきたが、政権に組み込まれていっただけ 178日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:04:25.68
全て、奥山氏の特徴なので、奥山氏は自殺体になってしまう可能性が高いな。。。
170 名前:日本@名無史さん 2019/07/18(木) 15:52:48.16
前から言ってるだろ?
九州説が嫌いなんじゃなくて、バカが嫌いなんだよ!
あと、うそつきも嫌い
間違いを認められないやつも嫌い
179日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:05:59.83
2005年のNatureの論文で、ヒトとチンパンジーのゲノムの違いは3.9%って出てるよww
180日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:06:09.35
そんな話聞いたことね〜
181日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:07:10.68
渡来人云々でしかこいつら語ってないからな
でいつ帰るの?
182日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:08:22.45
頭が悪い奥山氏は、渡来人が弥生式土器が作られ始めてから、突然、渡来したと考えているのではないのかな。。。
183日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:08:49.16
>>176
俺だってそう思ってるよ。何で?って。
しかし生殖を司る部分、免疫機能を司る部分、などを個別に比較するとほぼ同じだというのは何となくわかる気はする。 184日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:10:12.74
>>182
倭人は、縄文土器が作られる前から、南西諸島を伝って、日本列島に到達していたのだったな。。。 185日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:11:52.18
>>184
縄文土器が作られていた時代には、倭人と毛人が混在していたのだったな。。。 186どうでもいいけど2019/07/18(木) 16:12:31.07
騒いでる奥山が笑えるな
御前(おまえ)關係(かんけい)・・・俺のパソコンで変換できた
お まい [0] 【御▽ 前▽】
( 代 )
〔「おまえ」の転〕
二人称。同等以下の相手に用いる。 〔「おまえ」よりやや卑俗な語感をもつ〕
關係
關係でぐぐると関係の意味としても使われている
187日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:12:39.91
>>183
>俺だってそう思ってるよ。何で?って。
自分でもおかしいと思うような情報であっても、
自分の論調に合えば正否を確かめもしないで引用するという自白ですねww
チェリーピッカー乙w 188日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:14:33.18
>>177
だからなぜ高句麗君なんだよ?w
俺が高句麗がどうのこうのと話をしたか?
で結局は後期に渡来したチョンに入れ知恵された奈良〜東海の田舎者が、
中国と対等に渡り合おうと起ち上げたのがヤマト王権という事だろ? 189日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:15:24.13
>>186
>俺のパソコンで変換できた
つまりお前も日本人じゃないってだけだろ?ww
日本人なら「御前」は「ごぜん」て読むんだよ
「御前会議」とかで使う
「おまえ」と入力すれば「お前」と変換されるのがデフォだし
「お前」と「御前」は別の言葉だと認識してないと、日本語話者として失格だw 190日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:16:00.35
>>187
まず乾燥耳垢の自分が実はチョンだったという現実を受け入れなさい。 191日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:16:45.07
>>186
>關係
>關係でぐぐると関係の意味としても使われている
「關」が「関」の旧字体だと知らない人って
・・・
どこの国の人? 192日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:17:00.53
ここで粘着している九州説の素性がバレバレな件についてw
193日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:18:07.15
>>190
>まず乾燥耳垢の自分が実はチョン
それは科学ではない、と言われてるのが理解できないかな?
科学屋さんに叱られるぞww 194日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:18:45.63
>>184
南西諸島ルートはまだ証明されてない
この前、3万年前の航海を再現する実験が成功したが
あれは石垣島の旧石器人がどうやってやってきたかを調べるためのもの
あのプロジェクトの中でも、石垣島の旧石器人と縄文人の関係は不明という立場だよ 195日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:20:07.69
日本人はいますか?w
196日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:20:53.21
197日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:21:17.59
人種についての討論で、縄文人という言葉は、頭の悪い者が使用してしまう言葉だな。。。
194日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:18:45.63
>>184
南西諸島ルートはまだ証明されてない
この前、3万年前の航海を再現する実験が成功したが
あれは石垣島の旧石器人がどうやってやってきたかを調べるためのもの
あのプロジェクトの中でも、石垣島の旧石器人と縄文人の関係は不明という立場だよ 198日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:23:21.04
>>191
>「關」が「関」の旧字体だと知らない人って
まあ、キウスの知識なんてそんなもんだ
だが、その旧字体が日本のカナ漢字変換ではなかなか出て来ないんだよなw
お里が知れるってやつだ
自爆しまくりww 199日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:23:31.36
>>188
>で結局は後期に渡来したチョンに入れ知恵された奈良〜東海の田舎者が、
>中国と対等に渡り合おうと起ち上げたのがヤマト王権という事だろ?
日本の教育を受けてないことを白状してるわw 200日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:23:55.65
>>197
縄文人というは、縄文土器を使用していた者達のことでしかなく、
縄文人という人種がいたことを錯覚させてしまうのだったな。。。 201日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:24:32.91
202日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:25:27.85
頭の悪い奥山氏は、文字も電波も無い時代に、全国一斉に土器の形式を変更できたと、思っているのでは、ないのかな。。。
203日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:25:45.60
古いモンゴロイドと、新しいモンゴロイドがあった可能性が高いな。。。
204日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:28:30.71
>>199
>で結局は後期に渡来したチョンに入れ知恵された奈良〜東海の田舎者が、
>中国と対等に渡り合おうと起ち上げたのがヤマト王権という事だろ?
それをお前が示唆してるんじゃないのか?w 205日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:29:25.26
>>201
畿内説は奥山一人なんだからお前以外に誰が接続してるんだよ?w 206日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:31:29.37
>>203
、、、はやめたのか?w
俺はかぶらないように。。。を使ってたんだがw 207日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:33:28.41
、、、だけを使用している人物と、僕達は別の人物なので、ややこしいのだったな。。。
206日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:31:29.37
>>203
、、、はやめたのか?w
俺はかぶらないように。。。を使ってたんだがw 208日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:36:36.14
あるてぃめっと〜・・・、『姥清水』(いまの福島県)?
なぜか家の話と同じ、山の上のほうの話をしているし
209日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:37:26.84
>>207
、、、だけを使用している人物は、嘘偽りなく、僕達とは完全に別人で、伊都国が佐賀川上という立場の者だったな。。。 210日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:37:56.99
>(吉備の内側削りで薄く仕上げる)庄内式・布留式土器
器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法は、阿波の「東阿波型土器」が元祖だよ。
>北部九州にいた倭女王卑弥呼
丹の採れないところに卑弥呼は居ない。 @阿波
211日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:38:27.10
奥山氏の壊れた思考が、僕達を識別出来るように、今度から・・・を使うように、すればよいのだな・・・
212日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:39:17.48
邪馬台国の中心が大和の纏向にあったことは間違いない
だが壮麗な王都とか、強大な大和の拠点だとかそういう勘違いをしてるからおかしなことを言う
邪馬台国は連合国
女王卑弥呼は共立された祭祀の王
纏向は縄文から殆ど人の済まない荒れ地だった
誰もいない、何もない場所だから連合国の利害がぶつからない中立の土地として都合がよかったから選ばれた
そしてその機能は連合国の紐帯となる祭祀の場
さらにその名目上の主催者である女王の居城が存在している場
それが纏向
纏向が巨大な都としての姿がないということは、むしろその事実の確認であって邪馬台国の否定にならない
213日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:39:51.88
723年 稗田阿礼・粟凡直・柿本人麻呂・太 安万侶 同年に没 暗殺か? @阿波
214日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:43:02.38
つまり、纏向が巨大な都としての姿がないということを認めたのだな。。。
212日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:39:17.48
邪馬台国の中心が大和の纏向にあったことは間違いない
だが壮麗な王都とか、強大な大和の拠点だとかそういう勘違いをしてるからおかしなことを言う
邪馬台国は連合国
女王卑弥呼は共立された祭祀の王
纏向は縄文から殆ど人の済まない荒れ地だった
誰もいない、何もない場所だから連合国の利害がぶつからない中立の土地として都合がよかったから選ばれた
そしてその機能は連合国の紐帯となる祭祀の場
さらにその名目上の主催者である女王の居城が存在している場
それが纏向
纏向が巨大な都としての姿がないということは、むしろその事実の確認であって邪馬台国の否定にならない
215日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:43:24.94
>>212
>邪馬台国は連合国
卑弥呼の時代に、西日本一帯で連合など、出来る訳がない。 @阿波 216日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:44:57.64
>>153
今はFEPではなくIMと呼ぶのですよ。 217日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:46:37.63
>>214
発掘率5%で、100年分の発見された住居が数件なのだから、最盛期の纏向全体でも人民の住居は20件程度だった可能性が高いのだったな。。。 218日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:47:14.28
>>212
以前、そういう意見を言ってたBBAが居たよ。
閑散としているのが王都の証だってな。
じゃあ纏向を選んだ人物達=豪族=既存政権はどこのどいつだったのか?
という話だな。 219日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:48:34.63
>>205
>畿内説は奥山一人なんだからお前以外に誰が接続してるんだよ?w
全1病がひどいなww
で、どのコメントに対してプロとか言いたかったんだ? 答えてみ? 220日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:55:09.83
纏向が勘違いしているのは、こんな遺跡は纏向にしかないと思っていること。
全国各地に似たような遺跡がある(あった)可能性もあるわけで。
非常に災害が少なく地形変化の少ない地域で、かつ住居も田畑も少なく発掘しやすい奈良盆地なわけで。
ここまで長期に渡って大規模に発掘調査を行った事例は全国的にも珍しいだろう?
そして見つかったのが大型建物4棟と土木用具と雑品ほか。
いい加減に諦め論w
221日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:55:33.58
222日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:56:11.26
>>170
>あと、うそつきも嫌い
自分のことは棚上げ? 223日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:57:49.48
>>189
>「お前」と「御前」は別の言葉だと認識してないと、日本語話者として失格だw
別ではないよ?
漢字が苦手な人が省略して平仮名で書くだけだよ? 224日本@名無史さん2019/07/18(木) 16:59:01.15
>>188
>で結局は後期に渡来したチョンに入れ知恵された奈良〜東海の田舎者が、
>中国と対等に渡り合おうと起ち上げたのがヤマト王権という事だろ?
あの図から見ると正解だね。
だから纒向は東海の土器ばかり出るのか。 225日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:00:16.07
226日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:00:52.47
>>224
>だから纒向は東海の土器ばかり出るのか。
その、東海の土器も「東阿波型土器」という、落ち。 @阿波 227日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:00:58.73
228日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:03:11.42
昭和の中期くらいまでは御前の方が一般的だったのでは?
229日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:03:34.83
230日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:04:32.29
>>227
円周率を答えてみなよ、平成のゆとり君。 231日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:05:51.53
縄文人いたよ
いたと錯覚ではなく事実としてな
半島やら中国あたりに縄文人がいたなら錯覚と言える
232日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:06:35.26
ゆとり世代
小中学校において2002年度施行(高等学校は2003年度の学習指導要領による教育を受けた世代(1987年4月2日 - 2004年4月1日生まれ)。
233日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:07:53.25
手前、御前でしょ
234日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:08:46.08
>>223
>別ではないよ?
>漢字が苦手な人が省略して平仮名で書くだけだよ?
これだから、非日本人はww
「御前会議」を「おまえかいぎ」って読むのか?ww
バカ以前w 235日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:08:52.23
てめえ、おまえ、同じ
236日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:09:37.25
>>222
>自分のことは棚上げ?
私のついたウソを、一つでいいから具体的に指摘してごらん?ww 237日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:10:05.04
238日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:10:14.26
239日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:11:43.77
232
勉強競争みたいのがひどすぎて昔はそれでイジメが起こってたんだわな
Fランクだの平気で使うバカいまだに多いだろ
240日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:12:38.66
>>229
>漢字をかけないゆとり乙
だーかーらー「御前」と書いたら、読みは「ごぜん」なんだってば!
さらに古くなれば(文語なら)読みは「おんまえ」だ
どこまで恥をさらせばすむんだろうねww
まあ「恥知らずでごり押し」っていう文化の国も近くにあるけれど 241日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:12:44.31
>>236
BBAのくせに自分のカテゴリを女子と分類してるだろ 242日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:13:11.12
243日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:13:24.28
237
かなり古い石剣でてんだってな
244日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:13:49.58
ごぜんざき
245日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:15:43.86
246日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:15:47.77
>>238
なるほどね
おくやまの言いがかりはいつもの事 247日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:16:47.45
248日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:16:47.98
石器時代か?
縄文時代は石器時代だからよ(°▽°)
249日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:18:21.72
>>242
>御前崎はなんと読む
やはり、バカだなww
地名は特殊読みの宝庫だぞw
「及位」とか有名だけれど、
これは「及」という字の読みの例としては意味をなさないだろ? 250日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:20:06.28
縄文人は大石器人と呼ばれてるくらい知ってるだろ(°▽°)
石器製の棍棒、剣、小刀を使った
2300年前までは大石器時代
251日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:21:17.74
一人称の「私」は「わたくし」と読むものだし、男女どちらでも使うぞ?
本格的に、日本語が不自由なんだな?ww
それから「御前」にこだわることでごまかそうとしているんだろうが、
「關連」「關係」を常用するやつが、日本人じゃないっていうのはどうするんだ?ww
252日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:22:39.05
>>250
>大石器時代
大石器時代って何? 何を指すの?
旧石器時代とか新石器時代なら分かるんだが? 253日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:23:21.70
石を使いさまざまな建築物を作ったじゃなく
石を使いさまざまな武器を作っただからよ
なんかの儀式用だの言われてるが支那や朝鮮あたりの鉄剣だの真似て作り上げた石剣もでとるわ
254日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:26:23.19
>>126 =奥山さん
私は返答したのだが反論まだだと思いますが・・・
私の投稿
兵・巫女の住居跡が無い
兵の武器もない・・兵用矛盾木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃
樓觀は無い
発端はこれ
倭人伝の
「以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛」
から、纏向は卑弥呼が居た地ではないと思う
他
君の事だから
「無いという理由は」とか聞くだろうが 無い物は無い
あるならば、示すべき
さあ君の番だ 255日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:28:39.42
御神物ってならあの縄文土器の方だよな(°▽°)
あれの利用法もすべてわかってんだよ
256日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:28:42.82
>>249
あんたの負け
くだらん揚げ足取りするから
いままで御前をごぜんとしか習わなかった先生を恨め 257日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:29:56.89
あれ食料貯蔵庫
同じよ〜なんいくつも作り穀類を貯蔵していたんだよ
258日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:30:07.24
そもそも邪馬台国は連合国で纏向は中心に選ばれたが最強でも最古でも何でもない
むしろ何もない場所だから選ばれた場所
その性格は「祭祀で国をまとめた」という祭祀、「祭祀で人々を導いた」祭祀の主催者の女王の居城
大量の祭祀跡、祭祀の為に作られた様々な施設、纏向古墳、当時最大級の居城
まさに纏向の姿そのもの
どこに巨大な街があるとか書いてんだという話
259日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:30:24.29
おくやまーー
おかしいと思ったら裏取りしないとイカンぞよ
260日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:30:51.70
261日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:30:53.51
482>>141
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、
何故いつも、
意味不明の文言を多用して世間の人々を誤魔化し、
全く理由を言わないのだろうか?。 262日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:31:58.68
なんか言ったか?(°▽°)👂
よく聞こえないんだが
263日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:33:04.52
>>143
後漢時代に100か国あった倭国が、倭国大乱によって
親中派である北部九州の邪馬台国連合30国と
新半島派の畿内〜東海の狗奴国連合70国に分裂したんだな。
これが最も確率が高いと思うな。 264日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:33:30.42
日本の石器時代はなかったことになったのでは?
265日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:35:03.64
キナイコシは御前も読めないゆとり世代
266日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:35:54.99
>>258
>そもそも邪馬台国は連合国で
そもそもその連合は、阿波国周辺で・・・・ @阿波 267日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:35:58.92
そして注目すべきなのが「大切な祭祀の場所が無防備に単立している」こと
今までの弥生集落では大切な祭祀の場などは堀や柵で隔離されていることが多かった
ところがこれだけの規模の祭祀跡が柵にも堀にも囲まれず無防備に存在している
これは環濠集落という前時代のクニという規模を超えた広大な「領域」を持つ国が誕生していることを意味している
柵に囲まれた範囲だけが安全な村落ではなく、領域全体が安全な区域として存在しているということ
九州のような少し進んだだけですぐ別の国についてしまうような規模とはレベルが違う存在がここにあったことがわかる
268日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:36:16.64
269日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:37:05.44
御前=奥山のバカのせいでレスがすすんだなww
270日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:38:11.43
>>267
>無防備に単立している
巫女とお祈りに明け暮れる古墳造営基地局を攻める奴なんていないだろう? 271日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:38:20.51
>>263
その頃の奈良盆地に大陸までたどり着ける技能を持った勢力はない。
対馬海峡は伊都の大率が制海権を持ち、九州北部が独占的に交易していた。
九州北部の海神こそ、後の天津神(海の王)、天神、倭王の系譜に連なる。 272日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:38:24.46
>>265
現代日本人の大多数はゴゼンと読み、次点はオンマヘ 273日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:38:56.94
>>267
>領域全体が安全な区域として存在しているということ
まさに、倭国(阿波)。 274日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:39:32.27
>>254
御免な御前の話題でレス進めて
奥山よ 一行のイミフだけでなく詳しく答えてやれよ 275日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:39:42.92
>>267
>柵に囲まれた範囲だけが安全な村落ではなく、領域全体が安全な区域として存在しているということ
建物が4棟で村落ねえ。
千人の奴婢はどこで働けばいいのか? 276日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:40:06.47
277日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:40:23.17
264
いつなったの?
銅剣やらでとるがあれ日本古来のもんじゃねえし
東北あたりで刀鍛冶が流行ったん平安時代ころからやで
蝦夷刀ってものが主流となり最初はかなり刀身もぶっとかったがやがて細くなっていった(°▽°)
蝦夷刀→毛抜刀→日本刀って変遷
278日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:40:51.29
>>271
>九州北部の海神こそ、後の天津神(海の王)、天神、倭王の系譜に連なる。
その九州北部の海神こそ、筑紫忌部だよ。 279日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:42:06.45
>>272
現代日本人は高齢者の割合が異様に多いから、御前をお前と読む人たちの割合も相当だよ。
ゆとり世代(低脳)を現代人の代表にしないでくれる? 280日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:42:17.73
日本刀は東北から始まったん
なんとか大王の墓からでてる両刃刀みたいなんとは系統が違う
281日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:43:47.55
260
どんな教師らが多かったか知ってるか?
282日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:44:23.00
レス読んだけど
纏向は古墳造営との関連性が深い地は確か
王都とするかどうかは、もう少し調査を待った方が良い
あまりにも物証が現段階では少なすぎる
283日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:46:06.10
>>256
で?
「關連」「關係」と使った地名はいつ紹介してくれるんだ?
御前崎がどうであっても、お前と書きたいときに御前は使わないのが日本人だぞww 284日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:47:00.61
そだよ
デキが悪けりゃ特別学級だったもんな昔は
子供相手にひどけりゃ精神病棟送りするぞくらい平気で言うくらいのやつらいたあなあ
285日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:47:27.77
纏向は古墳造営基地だったとしても十分価値あるのにな。
まさに古墳時代の始まりを意味するものとして。
魏志倭人伝に古墳時代の始まりを思わせる記述も無いんだからそんなに意識しなくていいのに。
286日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:48:08.94
>>282
あいかわらず具体性のないクレームで結論先延ばしを提唱し続ける姑息九州説 287日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:48:11.09
>>265
>キナイコシは御前も読めないゆとり世代
「御前」を「おまえ」って読んでたら日本人失格だぞ?
いまだにそこが感覚として分からない時点で、素性がばれてるんだよ
まあ、これを引っ張れば引っ張るほど、九州説の連中の背景がはっきりするから
どんどんやってくれw 288日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:49:03.82
こんなん当たり前だったから教師ら徹底的に叩かれたろ〜
なんか変なドラマやら流行ったりな
289日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:49:04.87
290日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:49:52.94
>>285
ていうか、初期の大和政権の崇神やら何やらの宮で良かったんだよ。
それを「実在は応神から」とか馬鹿を抜かすから、卑弥呼に当てはめてグダグダになった。 291日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:50:00.78
纏向の遺構を見ると一時的な建造物が多い
遺跡そのものがかなり短期間の出現であることや、古墳造営や祭祀の場であるという性格を考えると、工事現場に近い状態になっていただろうと思われる
長期滞在する場所ではなく、短期に多くの人々が滞在するための場所になっていたといえる
女王の居城以外はそういう人々の遺構で構成されている
だから「突然現れ、突然なくなる」という消長を経ている場所になっている
292日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:50:21.69
>>276
>それは中世だろ。
「御前会議」は昭和でも使うぞ?
太平洋戦争がどうやって終わったか、知らないのか? 293日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:51:08.49
昔はラジオで「台風◯号は御前崎の南東何キロを」みたいにやっていたな。
294日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:51:21.86
教師ら自体が団体職員だからな
295日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:51:59.19
「お前」は通常、同輩以下に対して使うが
>>117が日本人に対して「御」という漢字を使うのは
間違ったことではない 296日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:52:32.42
>>279
>現代日本人は高齢者の割合が異様に多いから、御前をお前と読む人たちの割合も相当だよ。
はいはい、日本人としての教育を受けていないんだねww
高齢者こそ「御前会議」という言葉の意味をしっかり知っているから
「お前」の意味で「御前」は使わないww
九州説で荒らしてる連中の背景が丸分かりww 297日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:52:39.63
教科書まで邪馬台国との関係で纒向の名を掲げるようになって、さしもの九州脳も相当焦ってるようだ、
298日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:52:57.69
292
そかそか夢でも見てたんだろ
今でも変なやつらが幅を利かせてるからな
反省が足らないみたいだよ(°▽°)
299日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:53:06.26
>>290
>ていうか、初期の大和政権の崇神やら何やらの宮で良かったんだよ。
それも無い。 @阿波 300日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:53:54.63
301日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:53:58.44
296
夢でも見てるんだろ(°▽°)
302日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:54:09.25
482>>148
>なら3世紀卑弥呼の時代の径百歩に相当するような畿内の前方後円墳や<
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
箸墓は、3世紀ではなく4世紀であるし、「径百余歩」にもなっていない。
>景初や正始と魏の年号の入った銅鏡が畿内で多数出土しているのをどう説明する?<
景初や正始の紀年鏡は、大和から出土しないから、×。
皆さま、気を付けましょうね。
類スレ主は、史料事実根拠がない事を勝手に、
大和説の根拠に既になっているかのような言い方での口先でのインチキ騙し文して、
世間の人々を騙そうとしている詐欺師なんですよ。 303日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:54:36.40
工事現場は作業員や指示をする人間の為のすぐに撤去するプレハブ事務所や休憩所で構成されている
もともと人の住みにくい場所として放置されていた場所でその役割も祭祀の為の場所
だからこそ古墳というある意味「無駄なもの」を作る事も出来た
人が長期滞在するための都にする意味がない
作業員、監督者、事務員、警備員等が主体の場所
そこに祭祀の為に訪れる人々が集まってくるという性格
まともな建物は女王の住む居城だけあればいい
304日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:54:53.44
295
だから意味は同じだって言ってるだろ
305日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:55:01.24
>>291
>遺跡そのものがかなり短期間の出現であることや
100年超過が短期間? 306日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:55:12.34
>>292
昭和前期は保守反動の時代だからな。
大正デモクラシーが懐かしい。
ていうか、キナイコシは本格的に歴史感覚が疎いのだな。 307日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:55:49.92
302
んな話はどおでもよいんだよ(°▽°)
308日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:56:10.38
希薄が読めない日本人て想定外だよな?
普通はいないww
そういうやつでもなければ、「お前」の意味で「御前」を使って、
それが正しいとか言い張ったりしないww
309日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:56:21.66
>>296
>高齢者こそ「御前会議」という言葉の意味をしっかり知っているから
>「お前」の意味で「御前」は使わないww
最大多数は戦後生まれのベビーブーム世代だよ。 310日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:56:37.15
306
そんなものは存在しない
311日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:56:47.96
>>297
のちに「ゴッドハンド2」として映画化される予定w
もちろんノンフィクションでw 312日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:57:38.05
309
てめえがおかしいんだよ
313日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:58:38.63
>>304
>だから意味は同じだって言ってるだろ
意味が一見同じでも、「オマエ」「お前」という表記の違いに、
意味・ニュアンスの違いを載せて表現するのが日本人
それが理解できず「御前」が正しいと言い張るやつは、
自分が「まともな日本の教育を受けていない」という告白でしかない 314日本@名無史さん2019/07/18(木) 17:59:16.95
どうやら九州説には世間とかなり離れた感覚の人がやたら多いようだ
315日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:00:35.70
>>301
>296
>夢でも見てるんだろ(°▽°)
このアンカなし、顔文字の人、基本的に九州説を攻撃してるんだが、
やることなすことがオカシイんだよな
まあ、人格障害者の愉快犯的な書き込みなんだろうとは思うけれど 316日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:00:58.34
308
だから意味は同じだって言ってるじゃん
日本人が使わないだのねえよ(°▽°)
おまえらのが変な妄想してんだよ
317日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:01:46.33
ベビーブームって?
てめえらのがおかしい教育受けてんだよ
318日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:02:26.96
世間?ならおまえ世間語る資格ないな〜
319日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:02:59.87
九州説の人間が「纏向は土方の作業所!」「土方の飯場!」とか言ってたがむしろとても正確な表現だと思う
それこそが纏向の真相
いらない土地に巨大な古墳を作り、祭祀の為だけの建築物を建てる
ちゃんとした建物は女王の居城だけ
それが纏向
むしろ「纏向は壮麗な都だ!」とかいう思い込みをしている畿内系の人の盲点を指摘した形でなかなか有意義な点もあるといえるな
320日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:03:06.43
313
聞いたことない話です(°▽°)
321日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:04:48.11
>>313
>意味が一見同じでも、「オマエ」「お前」という表記の違いに、
逆にお里が知れるよ。
恥ずかしいと思え。 322日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:05:37.63
>>315
>まあ、人格障害者の愉快犯的な書き込みなんだろうとは思うけれど
畿内説の特徴だよ。
ちょっと顕著に出ているだけ。 323日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:05:58.17
御前会議か?
政治屋あたりがふてぶてしくやってるあれか?
それからどんなドラマ見たんだ?
本来の日本史からかけ離れた話ばかりしている
324日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:07:08.82
おさと?
てめえ自分は違うだのほざいてカッコつけてるだけか?
こんなん増えたわなあ
325日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:07:44.51
アンカーなしのやつは、畿内説も九州説も関係なく、文句つけてるように見えるわ
議論するつもりもないようだから無視でいいだろう
326日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:07:55.00
まぁあれだな
畿内系の人間もおかしな思い込みをしてるから実像と離れたことを言い張る形になってたりするな
いわく「大和は弥生時代から強大でそれが邪馬台国に成長した」
いわく「纏向遺跡は女王の都として壮大な都市を構成していた」
いわく「大和は文化の最古なので他地域の遺跡は大和よりもずっと新しいはずである」
という大和原理主義とでもいった考え方
実際のところ大和は連合国の一部でしかなく、別に大和が最古の文化だからとか、特別だから邪馬台国の中心になったわけではないからな
327日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:08:35.62
308
だからてめえバカなんかほんとに
328日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:08:58.87
>>319
>九州説の人間が「纏向は土方の作業所!」「土方の飯場!」とか言ってたがむしろとても正確な表現だと思う
九州説の人間じゃないよ。 @阿波 329日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:09:19.33
325
ふざけたこと恥ずかしげもなく話してるからたわよ
330日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:10:31.67
328
ほれほれ
そゆこと言ったら敵を作るだけだぞ
331日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:11:53.57
そいからアンカーがどした?
近いとこのレスに付けてるわけだから別に見てても不便ないだろ
332日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:12:24.65
>>328
「古墳造営基地局」と名付けたのは阿波だったなw
俺は「霊園」と呼んでいたw 333日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:12:37.04
こうして見ると
九州脳の主張がどれも泡沫少数派で
じつに笑える
334日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:13:33.58
335日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:13:48.69
336日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:13:59.58
そかそか
どんな議論やってんだよおまえらよ(°▽°)
337日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:14:14.72
338日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:14:39.47
>>332
>「古墳造営基地局」と名付けたのは阿波だったなw
違う。 「古墳造営前線基地」だよ。 言い得て妙だろ。 なつかしいな。 @阿波 339日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:15:08.32
340日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:15:43.23
>>321
困ったときはミラーリング or オウム返しww
いつもどおりの無能ww 341日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:16:46.73
纏向はそもそも数千年単位でまともに人が住んでない場所なのを忘れてはいけない
こんなところに都なんて作るわけがない
ここが選ばれたのは
・誰も手の付けてない空白地だから利害の対立がない
・いらない土地だからある意味【無駄な】古墳や、祭祀の場所を作り放題だから
・立地的に連合の中心に位置して祭祀に参加しやすいから
これを踏まえて考えれば纏向の実像が見えてくる
342日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:18:48.62
>>341
>・立地的に連合の中心
それも、ない。 @阿波 343日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:19:42.21
で、延々と「御前」のことは話題にしているけれど、
「關連」には触れないねぇw
iPhoneユーザーできちんと調べてくれた人がいて、
「かんれん」で変換しようとしても出てこなくて、
「かん」だけ分けて単漢字変換しようとすると
「87番目」に「關」がやっと出てくるんだってさw
344日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:20:03.51
纒向宮殿の出現はすっかり九州説老人たちの精神の安定を奪ってしまったようだ
345日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:22:52.70
皮肉なことに九州説が言う「なんでも壮麗な王都の痕跡にこじつけるw」という指摘は当たってる
畿内系の人間は「纏向は邪馬台国の中心なんだから全てが凄いはずだ!」とかいう思い込みから来てる
その思い込みがむしろ畿内の説をおかしなものにしてしまってる
石野氏とかの大御所系もそんな感じで突っ込まれる隙を作ってる
346日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:25:30.56
>>345
>皮肉なことに九州説が言う「なんでも壮麗な王都の痕跡にこじつけるw」という指摘は当たってる
まじ、「忌部はん」 の有力者の墓地だよ。 @阿波 347日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:25:46.48
482>>150
>九州には卑弥呼の居館候補すらないのをごまかしている<
勿論、類スレ主は、大和には「卑弥呼の居館候補すらない」事を誤魔化しているし、
九州の卑弥呼の居館候補なら、古田さんは「安徳台」を挙げておられたし、
候補だけなら、潤地や朝倉付近の遺跡や吉野ケ里などもある。 348日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:27:13.45
>>1=スレ主さん
あなたにはスレを続けて頂いて感謝しています
名無しで投稿は
「転ばぬ先の杖」で投稿していただければ良いかと 349日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:27:50.56
>>345
実際に最大というより隔絶した大古墳が築かれ
類例の無い規模の運河が掘られ
当時最大の建物が建ってるんですけど 350日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:29:16.44
482>>151
>つまり纒向は邪馬台国の時代から王族の居留地だった<
邪馬台国なんて、存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×。 351日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:30:32.93
>>345
それは他の学者から指摘されてる吉野ヶ里の復元重層楼閣だな 352日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:31:16.38
>>349
>実際に最大というより隔絶した大古墳が築かれ
それは、スーパースターの「忌部はん」 だからだよ。 わはっははは @阿波 353日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:33:26.16
>>349
よそは発掘調査すらやってないという状況も考えろよ。
たとえば関東に桁違いの遺跡が眠ってる可能性だってあるんだぞ?
畿内説はホンマ田舎者やなw 354日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:34:25.99
奥村−−−−−−
自作自演おおすぎーーーーーー
バレてんぞーーーーーーーーーー
馬鹿でも阿保でもいいが病院にいけ
家族がいたら病院に連れてくだろうが
自作自演する能力はあるが 頭が回転してない
孤独なボケ老人は難しいカナ
355日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:39:48.27
482>>156
>随分前から
「同時期の居住域や墓域および祭祀遺構、大溝などが広範囲に広がっている」
と発表されている事実を提示してるんだが<
大型の掘立柱建築地域では、卑弥呼らの居住域もなく、
墓域も大溝もなく、祭祀遺構だけではないか。 356日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:40:53.01
吉野?
いつの時代?
357日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:41:26.37
奥山氏は糞まみれの水路を理解して無いようだ
古墳造営の資材運搬用なのだがな
資材は糞まみれでも、船の上でもいいが・・
358日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:43:36.63
古墳が作られたんが
〜1000年ころまでだけどその間にどんな理由で作られたかくらい分かってんだろ?
なんせ6万基って数だから理由くらい分かってんだろ
天皇陵に比定だのそんな 話はよいからよ
359日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:46:57.95
>>353
>よそは発掘調査すらやってないという状況も考えろよ。
そうは言うけどな、昔も今も人が住んで便利なところってのは変わらない
王都だったところは、今でも人が住んでいるところだ
人が住んでいるところは、なんだかんだでいろいろと工事がある
そして文化財保護法で遺跡が出たら報告するように決められている
「文化財保護法では,周知の埋蔵文化財包蔵地において土木工事などの
開発事業を行う場合には,都道府県・政令指定都市等の教育委員会に
事前の届出等(文化財保護法93・94条)を,また新たに遺跡を発見した場合にも
届出等を行うよう求めています(同法96・97条)。」
発掘されていないから見つからないというのは、ためにする言い訳でしかない 360日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:47:24.78
482>>159
>交通の要衝というだけで発展した都市は洋の東西を問わず枚挙に暇がない
交通の要衝に大規模遺跡がありかつ広範囲からの人の訪問が確認できるのに、
それを都市ではないとする理由がない<
九州倭国から別れた別種の旧小国があって、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国であって、
九州倭国の地方の市(大市らしい)を監督する「大倭」職がいた、
でお終い。 361日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:48:09.48
大古墳が作られみたいなんはいいよ
実際に作っちまっただけの話だからよ
海外と遺跡と比べてどおこおも関係ない
なんせ800年作られた結果らしいやん
362日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:51:23.22
482>>160
>適当に思いついた事何でも書けばいいってもんじゃない
魏から送られた金印には親魏倭王
3世紀倭の政治的文化的中心畿内の王族に送られたもの<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
大和は、九州倭国から別れた別種の旧小国があって、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国であって、
九州倭国の地方の市(大市らしい)を監督する「大倭」職がいた所。 363日本@名無史さん2019/07/18(木) 18:59:38.08
ここ開くまでつぶやきが犯人かもと思ってた
奴の書き込みを見て安心したの初めてだ
364日本@名無史さん2019/07/18(木) 19:08:59.33
365日本@名無史さん2019/07/18(木) 19:10:21.30
>>362
別種の旧小国ってのは天武派と天智派の対立のことな
くっついたり分裂したりしてるに決まってるんだから 366日本@名無史さん2019/07/18(木) 19:16:43.52
狗奴国と戦争しながら箸墓作ってたんだろ?
その狗奴国はどこにあるんだ??w
367日本@名無史さん2019/07/18(木) 19:17:32.43
>>364君は化けるかもしれない
自分を信じて勉学に励んでください
前原や纏向、阿波,出雲を訪れたり文献を読んだりして自論を確立してください
邪馬台国論叢は千差万別です 学者や研究者は職業ですから仕方ないですが焦りすぎです 368日本@名無史さん2019/07/18(木) 19:18:03.94
482>>168
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、
根拠を言わない人ばかりですね 369日本@名無史さん2019/07/18(木) 19:20:05.00
扶余勇=扶余族の勇
卑弥呼=卑弥族の呼
卑弥弓呼=卑弥族の弓呼
簡単なことじゃん
卑弥族ってのは馬韓にある卑弥国の王家のことだな
370日本@名無史さん2019/07/18(木) 19:26:14.69
嘘八百を並べて補助金や助成金をもらっても良いと思います
もらったお金が考古の解明に繋がれば良いのです
371日本@名無史さん2019/07/18(木) 19:30:04.98
482>>169
>>つまり筑紫の分家だろ?<
>それは無い 筑紫の影響が少なすぎる <
新唐書日本伝では、倭奴國の筑紫城の阿毎氏から、
「彦瀲子神武立、更以天皇爲號、徙治大和州」した国であったのであり、
その倭奴國は、旧唐書や唐会要の倭国の始まりの国であり、
唐会要倭國伝の「正北抵新羅」に拠って、北部九州にあったのであり、
旧唐書や唐会要の日本国伝には、
「日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。
或曰、倭國自悪其名不雅、改爲日本。或云日本舊小國、併倭國之地」とされている。 372日本@名無史さん2019/07/18(木) 19:32:37.11
ぽけもn・・・その他?
実際は何の話なんだろう、
たしか相撲(すもう)などの話をしていたこともあった
373日本@名無史さん2019/07/18(木) 19:35:54.05
482>>170
>メチャクチャ
邪馬台国は畿内ではないという話を我々が立証する必要はない<
邪馬台国も畿内も3世紀頃には存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、
大和説者は、邪馬台国と畿内の存在から、立証する必要がある。 374日本@名無史さん2019/07/18(木) 19:39:43.29
寺澤さんの講演料問題 大丈夫
噂だけど・・・
375日本@名無史さん2019/07/18(木) 19:42:05.09
>>370
>もらったお金が考古の解明に繋がれば良いのです
嘘の歴史を積み上げてもかえって害悪だよ。 376日本@名無史さん2019/07/18(木) 19:42:27.81
377日本@名無史さん2019/07/18(木) 19:43:17.62
482>>172
>鉄が少ないのとか最初の纏向が小さいのとか
引越し説なら説明できる <
旧唐書は、白村江の対戦相手を(日本国ではなく)「倭國」や「倭衆」や「倭賊」と書いているから、
白村江の後まで、倭國は大和に引っ越ししておらず、
だから、引っ越し説が、×。 378日本@名無史さん2019/07/18(木) 19:44:00.81
379日本@名無史さん2019/07/18(木) 19:44:32.09
380日本@名無史さん2019/07/18(木) 19:45:45.58
>>338
@阿波
賛同するよ 畿内説はデタラメ
大和王政は阿波発祥だよ 381日本@名無史さん2019/07/18(木) 19:49:57.73
奥村の限界だな
5ちゃんだから許せるが
382日本@名無史さん2019/07/18(木) 19:50:13.38
>>361
>なんせ800年作られた結果らしいやん
こういう間違い、どこで仕入れてくるんだろう?
最初の古墳が纏向石塚古墳のあたりとして西暦200年前後
天武天皇が亡くなったのが686年で、この辺が最後の古墳
古墳時代は500年くらいしかないよ 383日本@名無史さん2019/07/18(木) 19:53:00.84
ネイティブ日本人ではないカキコ
117 118 120 124 127 136 138
156 186 254 256 259 274 282
348 354 367 370 374 376 380
384日本@名無史さん2019/07/18(木) 19:53:34.14
キナイコシの教養の低さが露呈したスレだったな。
385日本@名無史さん2019/07/18(木) 19:53:41.94
奧邑に訂正
どうでもいいけど
畿内説の8割がたはテンプレで良い
あと2割が・・・・・
386日本@名無史さん2019/07/18(木) 19:53:54.60
381
387日本@名無史さん2019/07/18(木) 19:54:02.24
>>379
>古いiPhoneじゃねえの?
いくらごまかしても無駄
現代日本人は旧字体の「關」は使わない
台湾とか、香港とかの繁体字を今でも使っている地域の人だろう 388日本@名無史さん2019/07/18(木) 19:54:48.99
385
389日本@名無史さん2019/07/18(木) 19:55:55.68
390日本@名無史さん2019/07/18(木) 19:56:42.57
482>>178
>九州北部の影響と言ったのは自分だろ?<
大和に対する北部九州の影響は、
「彦瀲子神武立、更以天皇爲號、徙治大和州」であり、
「東征毛人五十五國」があった事だよ。 391日本@名無史さん2019/07/18(木) 19:58:35.62
>>383
数字羅列おとこ いつも出るが
目的はなんなの?ようわからん
数字羅列の後にコメントすべきだよ
無駄にレス進めるの
実にクダラン 392日本@名無史さん2019/07/18(木) 20:02:55.04
外国のPCに怪しい日本語入力ソフトを入れたとかかな?
393日本@名無史さん2019/07/18(木) 20:07:35.80
482>>182
>新しい祭祀の祭祀用供献土器を共通にもつ地域は一つの共同体と見做してよい<
よくない。
九州倭国の「東征毛人五十五國」の結果の「旧小国の附庸國」、
という視点が抜けている。 394日本@名無史さん2019/07/18(木) 20:07:41.32
>>391
>目的はなんなの?ようわからん
目的は、指名されたご当人が一番よく分かるだろ?
バカの投稿を晒し上げることだよww 395日本@名無史さん2019/07/18(木) 20:10:00.52
纏向王都説はこれで論破されてしまったの
ザラコクはすごいな
以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛
396日本@名無史さん2019/07/18(木) 20:15:38.54
397日本@名無史さん2019/07/18(木) 20:18:18.24
でこいつらいつまで同じこん繰り返してんだかな
398日本@名無史さん2019/07/18(木) 20:19:47.77
法律がどないしただ?
真面目にやってねえだろこのバカども
399日本@名無史さん2019/07/18(木) 20:20:27.90
482>>187
>記紀もくわえた話だけどね
証明できないことも多いけど引越し説だと 発掘結果から説明が出来ることが多くなる<
「引っ越し説」は、
旧唐書が白村江の対戦相手を、(日本国ではなく)、
「倭國」や「倭衆」や「倭賊」と書いているから、
倭國が存続していて、唐と戦った事になり、×。 400日本@名無史さん2019/07/18(木) 20:21:07.74
教養とかきないなんたらとかだからなにが言いたいんだくらいしか言えんわな(°▽°)
401日本@名無史さん2019/07/18(木) 20:22:10.30
>>383
怨念かよ
絞れよ 名指しで退治できないんだろ 402日本@名無史さん2019/07/18(木) 20:23:27.40
唐ば潰れたよ、なにが言いたいだ?
ただしその唐の末裔とやらには不幸が起こるかもな
403日本@名無史さん2019/07/18(木) 20:23:31.80
492>>189
>魏志倭人伝に共立は書いてるだろ
青の東海勢力と赤の近畿勢力が共立した可能性はある <
「南≠東」によって、大和説自体が×。 404日本@名無史さん2019/07/18(木) 20:24:25.15
予言したる
これが予言て言葉の使い方だ(°▽°)
405日本@名無史さん2019/07/18(木) 20:24:57.05
あのーー纏向との整合性はまだなのですか
「以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛」
406日本@名無史さん2019/07/18(木) 20:26:18.69
>>392
要するに、まともな日本人じゃない連中が日本sage目的で嘴を挟んできてるんだよな
その目的で書き込まれる内容が九州説
日本の歴史は日本人が考えるからほっとけや、っていうのが大事なところ
論理的思考ができてきちんと情報検索のできる日本人は、
邪馬台国はヤマト王権の前身で、畿内纏向にその中心があったって合意ができてる
九州説はそれ以外の人しかいない
百歩譲っても「まともじゃない」日本人までだww
日本語を使ってるから日本人とは限らないしね
「關連」とか書いてる人は、日本国内にもいないんじゃないかな?
あと、希薄が読めない人とかww 407日本@名無史さん2019/07/18(木) 20:28:36.49
>>396
>理数にも弱いが法律にも弱いなwww
理数に強いつもりのお方の言葉
「草花と人間のDNAの違いはわずか2%。 」
バカじゃん?ww 408日本@名無史さん2019/07/18(木) 20:28:57.27
iPhoneは中国製の偽物があるからな
409これ撤回するか、再挑戦するか2019/07/18(木) 20:29:14.34
3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://2chb.net/r/history/1556294803/303 410日本@名無史さん2019/07/18(木) 20:42:09.75
411日本@名無史さん2019/07/18(木) 20:47:58.44
宮崎の「日向」も、福岡の「筑紫」も、島根の「出雲」も、「好字令」によって勝手気ままにつけた地名。
勘違いもはなはだしい。 @阿波
412日本@名無史さん2019/07/18(木) 20:48:09.75
>>201
>個人的には共立は2世紀末にあったと考えてる
そして卑弥呼は3代目女王として九州から呼ばれたと思ってる<
「南≠東」などに拠って、×。 413日本@名無史さん2019/07/18(木) 20:51:11.98
482>>202
あほみたいに連呼してるけど
南→東が真だ、という証明を、
大和説者はしてないからね 414日本@名無史さん2019/07/18(木) 20:53:03.51
395 401 405 409
415日本@名無史さん2019/07/18(木) 20:59:29.67
482>>212
それでは道里どおりでは、
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっていて、
投馬國は側副傍線国説明で、
邪馬壹國女王之所都は、不彌國のすぐ南になってしまうから、
北部九州に邪馬壹國女王之所都があった、ということだ
大和説ご臨終 416日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:02:25.59
単純な法律も知らん奥山
まぁ楽しませてくれや
お前を見てるとこうは成りたくないと
思う
反面教師も必要だから
このスレ継続してくれ
応援するから
417日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:03:04.12
482>>214
問題後送りしても、
「南→東」などの嘘付き騙しがバレた大和説の浮上は、
無いから 418日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:04:53.67
あのーー纏向との整合性はまだなのですか
「以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守
419日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:06:44.87
>>415
>それでは道里どおりでは、
>不彌國で萬二千余里がほぼ終わっていて、
すると会稽東治之東になるのは完全に不可能だね
九州説、終わってるよ 420日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:07:39.09
2019年7月18日(木) 22:00放送 NHKクローズアップ現代
新発見続々!世界文化遺産 古墳ミステリー
世界文化遺産への登録が決まった百舌鳥・古市古墳群。宮内庁が仁徳天皇陵として管理する大山古墳では、埋葬場所が複数あるという明治時代の記録などが残されている。
一体誰が埋葬されているのか?歴史上の埋もれた人物がいたのではないか?そして、大山古墳と周辺に暮らす人々の知られざるかかわりや“あの人物”とのかかわりをつづった資料も残されていた。知られざる古墳のミステリーに迫る。
421日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:07:55.41
422日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:09:02.45
>日本の歴史は日本人が考えるからほっとけや〜?
そんな話は通用しない、そういうのは偽物が言うこと
あと日本の神話、相撲・・・その他、
日本の話ではありせんと言われて終了する
423日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:09:41.35
>>418
不整合があると思うなら
まず具体的な主張を考えることだな
論理的に、ね
九州説には無理か? 424日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:11:58.99
482>>218
>伊都国が末盧国の北東にあるんですが<
末盧國や途中からは伊都国は見えないんだから、
魏使らは伊都国方向を計測出来ず、記録する事も出来ず、
陳寿の行程記載は、
「出発説明+途中説明+到着説明」の人類の常識通りの記載法であったから、
「東南陸行五百里到伊都國」の最初の「東南」は、
末盧國からの出発時点での出発方向の記載になり、
間違っていないの。 425日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:12:50.16
『ポケモソ』
なぜドラゴンボールなどの画像が出てくるんだと思う?
日本の神話などがあるでしょ、本当は日本の話ではないからなんだよ
426日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:13:04.54
橿原埋蔵文化財センターや纒向学研究センター
橿原考古学研究所
全て電話で確認したが
纏向の大集落群は今だ発見されてないとの回答だったよ
「今後の調査を待ってください」と言ってくれたのは橿原考古学研究所であった
結論は別にして橿原考古学研究所の若手に期待したいな
427日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:14:00.53
482>>220
「南→東」などの嘘付き騙しが論破されると
大和説は、いつも罵り始めるね 428日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:14:08.65
纏向遺跡とは
・千年単位で人の住まなかった荒れ地
・定住にも農業にも向かないので、古墳、祭祀の為大規模遺跡を作るのに適している
・どの勢力もいなかったので連合国の利害が対立しない新たな中心地として適当
・邪馬台国連合の地理的に真ん中にあるため中心地にちょうどいい
↓
邪馬台国連合の中心地として祭祀とその対象となる古墳を作る場所に選ばれ、祭祀の主催者たる女王の居城が作られる
古墳と祭祀場を作るための巨大な工事現場的性格で、女王の居城以外は一時的な滞在用建物が大半
これが邪馬台国の中心である纏向遺跡
決してすべての発祥地でも、壮麗な王都でもない
女王の居城と祭祀と古墳の土地
倭人伝の示す「祭祀の女王の居城と径100歩の墓の土地」の姿そのもの
429日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:14:51.17
430日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:16:28.44
また畿内説がボロボロにされたのか
いったい何回目だよ
431日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:17:03.23
右翼?何やら〜みたいな人物がいるでしょ、
そういう団体と関係している人()、あの人は偽物
432日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:20:47.10
482>>225
>都合よい妄想を語ってると判断された場合だけな
九州はとくにひどい、中国史にでてるからそれが事実だ!くらいの勢いやもんな<
卑弥呼や邪馬壹國女王之所都は、中国の魏志倭人伝に書かれていたの。 433日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:21:22.20
ホンモノは日本(起源、発祥、つくったなど?)が〜?
とか言わない
434日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:21:43.02
おいおいここで法律だのって言葉がでるんか?
おまえらがどんなか知らないがおまえら守る法律なんてなないんだよ
435日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:22:10.46
>>116の続き
大倭(後に大和)を「ヤマト」と読ませるのはなぜか?邪馬台国があったからではなく、その逆である。
白村江海戦惨敗で九州本家の天智が東遷した後、大和分家の天武が(確実に唐を刺激する、継体創設の倭国独自年号+「天子」多利思比孤を抹消するための)歴史改ざん書である記紀を書かせ、
畿内を記紀の歴史テーマパーク化していったたからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!(日本初の中国式都城=新益藤原京から「大和」と改称)
魏晋南北朝〜唐までは、倭国は九州島のみと認識されていた。
魏志倭人伝
「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
旧唐書
A「日本(本州)倭国(九州)之別種 以其国在日辺 故以日本国(本州)爲名」
或B「以倭国(九州)自惡其名不雅、改爲日本(本州)」或C云「日本(本州)舊小国、呑併倭国之地(九州)」
其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だった。(倭国=九州から見て日が昇る)日辺にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭国と言う名前が優雅でないから日本と改名した」と言い、また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭国の地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、誠実でなかったので、中国は彼らを疑った。
つまり、事実は逆で、白村江惨敗で九州本家が大和分家に東遷後、実際はすべて九州倭国で展開していた記紀の歴史テーマパークにするため大倭(後に大和)と書かせ、
発音を九州倭国当時の都であった筑紫邪馬台・阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに畿内説、教科書に載っている古墳時代にあったとされるヤマト王権は、この複雑なからくりに惑わされて生まれた鬼っ子(幻想)で、古墳時代の畿内は九州にいた倭王の奥津城(王家の谷)に過ぎなかったのである! 436日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:22:11.20
右翼?まったく関係ない
437日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:22:29.42
「天照大御神=大宜都比売」と「月読尊」は邪馬台国(北の粟国)側
「素戔嗚尊」は狗奴国(南の長国)側 @阿波
438日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:23:23.30
>>228
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は
いつも理由がない
だからご臨終なのさ 439日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:23:59.51
卑弥呼の墓より、民が大勢暮らした弥生末期集落遺跡群を探しなさい。 それが先決事項。 @阿波
440日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:24:12.39
これだけの古墳や祭祀場を作るのには相当な人間が常時存在していなければならない
多数の人間を養うための食事や寝起きする場所がないわけがない
多くの炊事場や宿舎が存在したはず
ただあくまでも建設現場的な場所であるのでその施設は仮設的なもの
古墳や祭祀場建設の工程に従って順次その場所を移動していたと思われる
もともと日本の建物は何かあると柱ごと抜いて移築するスタイル
動かないのは祭祀王たる女王の居城だけ
この纏向の性格を考えれば纏向遺跡の実像がわかってくる
「壮麗な都の姿はまだ見つからない」のではなく「最初からそんな場所ではない」と理解すればいいだけ
倭人伝の記載する祭祀の女王と祭祀場と古墳の遺跡だとわかるはず
441日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:24:13.50
ピカチュウというキャラがいるでしょ、
なぜか筋斗雲に乗っていたり?
『ポケモソ』で調べてみて、画像
442日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:25:08.04
425
そりゃあ記述が中国の文献だからな
443日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:27:46.74
>>440
「古墳造営前線基地」 wahahahahaha @阿波 444日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:28:04.19
482>>230
>Q.何で南を東と読むのか?
A.畿内説は南を東と読んだことはない <
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
大和説者は、「南は東の間違いだ」と読んだ。 445日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:28:38.51
なぜなのか、わからないけど、
ほとんど家の写真と同じでしょ?
『日本昔話』太鼓の人形(祇園?)が飾られていたり、
『かっぱっぱー』きゅうりのような葉に・・・w
446日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:28:52.02
卑弥呼の墓より、民が大勢暮らした弥生末期集落遺跡群を探しなさい。 それが先決事項。 @阿波
447日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:31:46.85
>>429
証拠は無いかな
アンタも
電話してみたらいいよ
アンタの感想聞かせてくれたらいいけど 448日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:32:04.32
例えば『日本昔話』
とある時代から、時代になり?
『日本昔話』になったというのが正解
ホンモノなら、そう答える
449日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:34:04.86
448
御伽草紙がどおかしたか?
450日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:35:08.64
482>>233
>誤認したかもね・・・「草木茂盛し、行くに前人を見ず。」 <
「東南」は、「草木茂盛し、行くに前人を見ず」からではなく、
出発時点での出発方向であるから、
魏使らは「誤認」しない。 451日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:35:18.01
阿波を避けて、いくら九州だ 畿内だと言い争っても無駄。 @阿波
452日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:35:24.99
『ザ・モモタロウ』に登場する、
サルタという人物(存在)の話なのかな?
ピカチュウというキャラがいて、筋斗雲に乗っているでしょ?
『ポケモソ』で調べてみた?
453日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:36:29.84
御伽草紙を参考にして編纂された話が日本昔話
民間伝承に伝わる話を集めてて小噺風に書かれたもん
西洋あたりならグリム童話集原本と同じ
454日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:36:38.25
>>423
奥山さんだろ
戯言はいいから解説してくれよ
解説できないなら纏向王都説は✖でいいの
ともかく論ずるべきだよ 455日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:36:55.26
>>447
証拠が出せないなら
言い張るだけでは意味がない 456日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:38:46.32
482>>235
九州説者を罵れば、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説が延命するかというと
それはない 457日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:39:08.03
>>454
違うよ
奥山の説明が欲しいならテンプレを見ればいい 458日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:39:31.87
452
猿田彦だろ(°▽°)
田楽でサルの面を被ってやる田植え祭の話とか知らんのか?
459日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:40:46.03
>>409
サンキュウ
>3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09 <
⇧
こいつ阿保だろ
確率をまるっきり理解してない 460日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:40:51.89
阿波國半田町の地名「天皇」 同じ半田町には「京都」「蘇我」「葛城」も。
吉野川対岸の美馬町には「倭大國魂神社」、忌部の聖山「高越山」には「伊射奈美神社」。
阿波の中西部って、なにげに物凄く特異なところ。 @阿波
461日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:43:06.06
気づいている人は気づいている、
日本の神話なども、おかしな話ばかり、設定というか?
『ザ・モモタロウ』に登場する『サルタヒコ』調べてみて
>元ネタはサルタヒコより。
462日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:45:33.46
>>457
奥山は巫女千人、兵 出勤説だろよ
これ通説じゃねーよ 463日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:45:51.61
鉄器がない畿内説
丹がない九州説
鉄器も丹もある阿波説 @阿波
464日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:49:00.95
416 418 426 447 454 459(自演)
462
465日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:52:31.27
482>>248
>>じゃ一切証明には至らないわけだが?<
>一切証明には至らない と決めつける理由は?
九州説はいつも理由を言わず 結論だけが突然ある 不思議なことだ <
「決めつけて」いない。
きちんと「?」を付けて、質問した形になっている。
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
いつも、「間違った」結論だけが突然ある。
不思議なことだ 466日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:53:01.16
纏向が巨大な工事現場、と考えると別なことが見えてくる
工事現場なのであくまでも一時滞在所
すなわちこの巨大な祭祀場を作るための大量の人間や物資は【周囲から集まってくる】ということ
つまり、邪馬台国という勢力は九州のような小規模の環濠集落などではなく、広大な領域を持つ国だということ
巨大な祭祀場を作るための人間や大量の物資を広く集められる勢力の土地だということがわかる
倭人伝に記載されるような7万戸という巨大な人口を擁する勢力であることがこの纏向の性格からも読み取れる
これ一つとるだけで纏向がどれだけ卓越した場所であるか理解できるというもの
467奥山もピリリと辛い一面ある2019/07/18(木) 21:57:06.74
FAQ38
奥山は違った意味で畿内説互助会から距離を置いてるよ
纏向王都説では一致してるが
真実はともかく
FAQ38
>
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、
<弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
468日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:59:15.78
『筋斗雲』調べてみた?
『かっぱっぱー』までいたり、
なぜか老人(仙人)になっている
469日本@名無史さん2019/07/18(木) 22:02:21.67
>>467
そうかな
土木作業員は一般人でないのなら奴隷
奥山のバカさ露呈したFAQだよ
だから このスレ奥山をからかうスレとして永続してのだ・・吉本新喜劇=畿内説 470日本@名無史さん2019/07/18(木) 22:03:43.36
>>435
魏志倭人伝の記述に合わせて箸墓の築造年代を繰り下げて生まれた畿内説(他人の褌)、
記紀(皇国史観)と巨大前方後円墳幻想から生まれたヤマト王権幻想(定説=宮内庁&文部省推薦)。
真実は、九州にいた歴代倭王(伊都崇神朝・筑紫応神朝・阿蘇継体朝)の霊廟奥津城(王家の谷)に過ぎなかったわけである!
古代東アジア(現代世界)の覇者・唐王朝(アメリカ・トランプ大統領)への忖度で、記紀に消された倭国(九州本家=継体朝による九州年号&阿毎多利思比孤)の歴史を、今こそ復活させるべきである! 471日本@名無史さん2019/07/18(木) 22:05:26.92
>>455
そこまで言うなら
電話して確認したらいいのにネ
あんたも証拠がないと言い張るなら
証拠ない根拠述べるには
電話するしかねーんでねーか 472日本@名無史さん2019/07/18(木) 22:05:30.15
今城塚古墳に眠る大王の、ピンクの石はなぜ選ばれたのだろうか、、、
473日本@名無史さん2019/07/18(木) 22:09:21.17
>>422
>そんな話は通用しない、そういうのは偽物が言うこと
日本人じゃないってのは否定しないし反論もないんだねw
思惑なしに他国の歴史に口を挟むやつはいない
九州説は学術的な興味以外の目的を持ったある思想を背景にした活動だってことだ
>あと日本の神話、相撲・・・その他、
>日本の話ではありせんと言われて終了する
また日本語がおかしいw
日本神話の神はオリジナリティ高いぞw
相撲の起源も垂仁紀に書いてあるし 474日本@名無史さん2019/07/18(木) 22:11:32.15
もともと日本の話ではないと言っているだけ、
どこの池沼なんだ?
475日本@名無史さん2019/07/18(木) 22:11:48.85
>>471
見事な攻撃だが
奥山は電話しねーよ
電話しても 奥山も逆に
かように攻撃される
「証拠が出せないなら
言い張るだけでは意味がない 」とねwwww
奥山は詐欺師だからかように、からかうにはもってこいなんだよ
楽しもうぜ 奥山に乾杯🍻 476日本@名無史さん2019/07/18(木) 22:12:16.74
>>465
>「決めつけて」いない。
>きちんと「?」を付けて、質問した形になっている。
九州説は日本語知らなさすぎ
例文
「九州説信者の全員が痴呆老人だが?」
これ、「?」付いてるけど
痴呆老人って決め付けてるよな? 477日本@名無史さん2019/07/18(木) 22:15:31.53
>>471
必要ない
お前が証拠出せない事実は変わらないから 478日本@名無史さん2019/07/18(木) 22:17:36.94
>>475
いや、攻撃になってないって
ただの立証義務放棄だから 479キウス ◆PyuQX798ps 2019/07/18(木) 22:20:50.45
奥山さんの
巫女千人や兵は通勤で一貫してる点は評価できる
これがどうかは畿内説の通説かどうかは知らんが
彼なりの自論は持っている 奥山さんへの反論が有れば
「巫女千人や兵は通勤」への反論をすべき
私も過去反論したが、、、少しは理解できる点もある
480日本@名無史さん2019/07/18(木) 22:23:47.34
>>409
問題
1枚のトランプを抜き出して、それがハートである確率は??
アホアホスレ主
カードが赤札である確率が50%
赤札がハートである確率が50%
だからベイジアンの計算によりハートである確率が75%
こういうことやろ?このアホがいってるのって
推論に推論を重ねれば真である確率は下がるに決まってんだろアホw 481日本@名無史さん2019/07/18(木) 22:30:56.68
>>480
キナイコシの確率論かwww
あれは馬鹿丸出しだな
あれ以来 キナイコシは確率論について投稿しなくなったな 482日本@名無史さん2019/07/18(木) 22:31:36.70
>>471
「集 落 は規模が極めて大きくて前段階の弥生の拠点的な 集 落 規 模 をはるかに上回るばかりではなくて同時期の集落にも同等の規模を持つものは皆無であり、非常に 集 落 規 模 が 大 き い ということがあります。」
橋本輝彦 483日本@名無史さん2019/07/18(木) 22:32:40.27
>>261
>畿内説は学者の通説<
畿内なんて、存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、
その通説学者が、嘘吐き騙しの・・・・アホ詐欺師。
>ど素人の種々雑多な説がお前のような九州説<
素人として、史料事実や史料実態からの帰納的確率的な推論をしたのが、九州説。 484日本@名無史さん2019/07/18(木) 22:32:40.78
485日本@名無史さん2019/07/18(木) 22:34:38.28
>>480
それ、おまえの捏造だろ
1はそんな計算してないぞ 486日本@名無史さん2019/07/18(木) 22:36:45.80
>>478
あほか 立証報告義務 はぁーー
この事例ではぁーー法的根拠は
はぁーー
開いた口が塞がらない
はぁー
彼に文句あるなら、あんたが立証してやれればいいだけジャン 487日本@名無史さん2019/07/18(木) 22:37:17.27
>>264
>『日本書紀』は一致させようとしてるので、
台与が死んだのがおそらく269年頃(神功皇后が亡くなった年)だろう<
書紀は、九州倭國の存在や歴史を抹殺盗用造作した嘘吐き騙しの半分×書であるから、
史料批判なくては、根拠にならない×書。 488日本@名無史さん2019/07/18(木) 22:37:52.25
>>479
馬鹿のオクヤマに付き合うキウスはそれ以上の大馬鹿もんだなww
お人好しは墓穴を掘るぞ 489日本@名無史さん2019/07/18(木) 22:40:28.34
490日本@名無史さん2019/07/18(木) 22:43:36.77
無理無理の無限大
キナイコシは思考能力停止だから
447日本@名無史さん2019/07/18(木) 21:31:46.85>>455
>>429
証拠は無いかな
アンタも
電話してみたらいいよ
アンタの感想聞かせてくれたらいいけど 491日本@名無史さん2019/07/18(木) 22:45:05.92
492日本@名無史さん2019/07/18(木) 22:46:01.53
相撲?競馬、サッカーなど、その他も同じw
日本の天皇が〜みたいな事を言っている人がいるけど、
実際は違うでしょ
493日本@名無史さん2019/07/18(木) 22:46:56.38
奥村ーーー
ここは我慢
あんたにゃ無理
494日本@名無史さん2019/07/18(木) 22:47:19.44
482>>280
>北部九州から「水行30日+陸行一月」だろ
どっちにしろ北部九州はありえない <
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっていて、投馬國は側副傍線國説明であり、
だから邪馬壹國女王之所都は、不彌國の直ぐ南にある事になり、
北部九州になる。 495日本@名無史さん2019/07/18(木) 22:48:45.89
纏向の発掘調査を見ると「規模が大きい」と何度も出るが生活のための場が見つかった様子が殆どない
よく言われるように竪穴住居は皆無に等しい
掘っ立て柱の建物も1×2間くらいの小さいものばかり
しかも短期間で移動してる様子が見える
とても都のようなものがあったとはいいがたい
だが遺構そのものは広範囲に見つかるという性格
このことからやはり纏向は定住するための大集落ではなく、祭祀と古墳を造営するための建築現場的性格であったとみるのが正しい
496日本@名無史さん2019/07/18(木) 22:51:26.08
あの音楽の話と同じ
『中国 神話』(神仙)
497日本@名無史さん2019/07/18(木) 22:52:25.33
>>495
>よく言われるように竪穴住居は皆無に等しい
・・・
>とても都のようなものがあったとはいいがたい
なんで竪穴住居がないと都じゃないのか
意味不明 498日本@名無史さん2019/07/18(木) 22:55:57.69
レスは進めど畿内説間の議論皆無だよ
スレタイに沿って無いから閉めどきかな
タイトルに問題は無いが、テンプレが他説を意識し過ぎなのか問題なのかな
このスレの畿内説論者は何人もいないし
他説で持ってるスレなのならタイトル変えたほうがいいかも
499日本@名無史さん2019/07/18(木) 22:56:56.91
タリシヒコの発言に「天を兄とし、日を弟とする。兄が政務を執るが、日が昇ると弟に任せる。」というのがある
兄=天=アマ(天)タリシヒコ=倭王族
弟=日=昆支(日十)=百済王族
で、今は百済王族が政務を執ってるけど、本来は倭王族のほうが格上なんだよ
ということをものすごく遠回しに言ってるのかもな
500日本@名無史さん2019/07/18(木) 22:58:06.77
キウスがコテ付けるときは、奥山の影武者しゃねーの
501日本@名無史さん2019/07/18(木) 22:59:31.74
纏向はよく2%しか発掘してないからと言うが余りにも生活遺跡が出てこない
これは巨大な都という考えそのものに疑問を持つほうが正しいのではないかと思う
畿内の説を持つ人が陥りがちな「大和至上」という固定観念を一度外したほうがいい
そもそも人の住まなかった荒れ地であるということを忘れてはいけない
502日本@名無史さん2019/07/18(木) 23:00:56.64
503日本@名無史さん2019/07/18(木) 23:03:34.57
今日の収穫
オクヤマが「御前」にいちゃもんを付けたこと
ググれればよかったのに
浅学のオクヤマ露呈したなww
504日本@名無史さん2019/07/18(木) 23:04:32.65
>>501
>纏向はよく2%しか発掘してないからと言うが余りにも生活遺跡が出てこない
炊飯用甕が大量に出てるのに?
居住区が6つ見つかっているのに? 505日本@名無史さん2019/07/18(木) 23:06:53.58
>>503
?
どう調べてもYouのこと「御前」と書く現代人は特殊だろ 506日本@名無史さん2019/07/18(木) 23:07:55.42
467 469(自演) 471 475(自演)
479 486 490 493 498 503
507日本@名無史さん2019/07/18(木) 23:11:44.93
>>504
そう
甕なんだよ
甕
居住のための施設じゃない
家じゃなくて甕ばかりが見つかるあたり、仮設の滞在場所という印象を強くする
そして「居住区」と書いてるけど資料を読んでみても居住のための家なりなんなりの痕跡がほぼ示されてない
小さい一時的なものと思われる掘立柱の建物が数軒見つかる場所を「居住区」と称してる
これで生活のための大集落と呼んでることに違和感しか覚えない
やはり巨大な工事現場とみるほうが自然 508日本@名無史さん2019/07/18(木) 23:18:20.86
>>507
>これで生活のための大集落と呼んでることに違和感しか覚えない
誰が「生活のための大集落」と呼んでる?
捏造に見えるんだが 509日本@名無史さん2019/07/18(木) 23:18:58.52
纏向を都だと主張する人も実際調べてみると家と呼べるようなものが殆どないことは知ってるだろう
そんなもんがあるなら最初から誰も困らない
見つからないから「2%しか掘ってないから」という言い訳をする羽目になってる
特別な宮殿とかならともかくとして、纏向全般にありふれた当時の家くらいならもっと頻繁に見つかってもいいはずだがほとんど存在しない
これは元々ないという方が自然なんではなかろうか
510日本@名無史さん2019/07/18(木) 23:19:06.59
511日本@名無史さん2019/07/18(木) 23:19:29.13
512日本@名無史さん2019/07/18(木) 23:22:01.78
じゃ、なぜ柱穴がたくさんあるの?
513日本@名無史さん2019/07/18(木) 23:22:26.36
工事現場とかいってる奴は人がどれほどいて工事がどれほど続くと思っているのだろうか
仮設にせよそうでないにせよ何百人もが何年もそこに住んでれば立派な大集落だろうに
514日本@名無史さん2019/07/18(木) 23:23:31.09
つまり工事現場と主張されても批判にも反論にもなっていない
515日本@名無史さん2019/07/18(木) 23:23:40.29
『アマツ マガツチ』?
516日本@名無史さん2019/07/18(木) 23:25:13.06
>>510
なぜそんな質問をされるのか疑問だが何度も書いてるように
邪馬台国=畿内全般から大和
邪馬台国の都=纏向
と言ってる
だが纏向はよく言われるような壮麗な都ではなく祭祀と古墳造営のための工事現場的な場所で定住地ではない
動かないのは女王の居城だけ
と繰り返し述べている 517日本@名無史さん2019/07/18(木) 23:28:00.01
逆に、大形建物群や祭祀遺構を囲むように古墳があるのだから、どっちがメインか分かりそうなもんだが
518日本@名無史さん2019/07/18(木) 23:29:24.36
『ボーボボ』?
519日本@名無史さん2019/07/18(木) 23:34:40.50
>>516
定住地ではないのに女王の居城は動かないとは
言ってることがよくわからんな 520日本@名無史さん2019/07/18(木) 23:37:29.40
学者たちが考えてるのは、各地の王とまでは言わないが利益代表クラスが上京して政治活動のため長期逗留してたという状況だ
根拠は各地の土器でも高級品と見られるものが目立つこと
労働力なら遠隔地から集めるのは不合理なことetc
つまり殿上人ばかりの街だ
皇居と議事堂と議員会館の町みたいなもん
521日本@名無史さん2019/07/18(木) 23:39:24.58
522日本@名無史さん2019/07/18(木) 23:39:54.41
九州説がドヤ顔でよく喚いてる「纏向は土方の作業場w」とかいう話も
「大和は全てに卓越していて、纏向は巨大な都」とか思いこんでる人はそれを聞いて慌ててしまうことになる
だがそれで何も問題なく纏向が女王の都になるということを理解できてれば「そうだけどそれがなに?」というだけのことになる
大和至上という妄想が実像をつかむ妨害になってるというわけだ
523日本@名無史さん2019/07/18(木) 23:41:00.46
でも銅鏡は出ません
出るのは木と土器ばかりです
ってんだから筋が通らないわな畿内説はw
524日本@名無史さん2019/07/18(木) 23:41:14.38
>>519
女王は祭祀王なんだから祭祀の血から動いたら変だろう。 525日本@名無史さん2019/07/18(木) 23:41:37.09
『アマツ』
調べてみるとわかる
526日本@名無史さん2019/07/18(木) 23:41:46.09
あ、あと桃の種かw
「桃の種が出るから都に違いない」
は?笑
527日本@名無史さん2019/07/18(木) 23:42:18.92
528日本@名無史さん2019/07/18(木) 23:42:42.86
庄内期頃には環濠集落が解体し首長の居館は一般共同体成員の居住域から離れる
住居も墓も首長の隔絶化が進むんだよ
529日本@名無史さん2019/07/18(木) 23:43:27.98
卑弥族の同族内での争いだからな
卑弥呼と卑弥弓呼が二国に分かれて戦ったわけだから
もともと同じ馬韓卑弥国にいた卑弥族が倭国に来て王国を作ったはいいものの分裂したと言うだけ
530日本@名無史さん2019/07/18(木) 23:44:01.60
>>527
ほんのわずかに、なw
九州と比べても出雲と比べても
全然数少ないw 531日本@名無史さん2019/07/18(木) 23:44:04.09
>>526
相手の言ってないことを妄想し、それを非難して反論したつもりになる
マッチポンプ詐欺かオツム弱いか、二択 532日本@名無史さん2019/07/18(木) 23:45:28.76
>>530
>全然数少ないw
根拠は?
ちがう時代と比較したら詐欺だからな 533日本@名無史さん2019/07/18(木) 23:45:48.06
534日本@名無史さん2019/07/18(木) 23:48:05.15
女王の居城とされる場所が最高級の場所と思われるが、その周りに大きな建物があるのかというとそうではない
他よりも多めの小さい掘っ立て柱の建物があるくらい
女王の世話なり警備なりの為の要員の建物という様子
中心地と目される女王の居城の周りに他に突出した建物が集中しているわけでもないあたり「他にない」というのが実像ではないかと思う
居城はもしかしたら他の地域の有力者たちを迎える迎賓館的な役割もあったのかもしれない
535日本@名無史さん2019/07/18(木) 23:48:08.12
>>530
そんな断定するなら、九州と出雲の、庄内併行期の銅鏡出土数をそれぞれ出して貰おうか 536日本@名無史さん2019/07/18(木) 23:49:18.05
畿内説死亡やん
537日本@名無史さん2019/07/18(木) 23:49:55.94
馬韓人の卑弥呼がどこに住んでようが馬韓人の話であって、日本人の我々には関係ないわな
538日本@名無史さん2019/07/18(木) 23:50:14.46
wがググれと捨て台詞を残して逃げ出すに100オカガミ
539日本@名無史さん2019/07/18(木) 23:52:18.33
お前は日本人ではないんだけどな、
どこの池沼なんだ?
540日本@名無史さん2019/07/18(木) 23:53:45.41
『チェーンソーのゲーム』?
541日本@名無史さん2019/07/18(木) 23:54:42.12
>>538
キャラチェンでスレ流しを始めるに150ザラコク 542日本@名無史さん2019/07/18(木) 23:54:45.28
>>536
死亡する理由は?
九州説にはいつも理由がない 543日本@名無史さん2019/07/18(木) 23:56:33.48
544日本@名無史さん2019/07/19(金) 00:00:54.68
…必死に検索中…
545日本@名無史さん2019/07/19(金) 00:01:09.05
>>520
それは纒向の王都の中心地にはということだろ?
皇居と議事堂と議員会館があったら一般の民はたくさん必要だよ
その民の居住域というのがまだ見つかってないということで 546日本@名無史さん2019/07/19(金) 00:02:11.11
議員の話?朝鮮(民族)の議員だろう
547日本@名無史さん2019/07/19(金) 00:04:22.21
『チョン州 長州』
同じような話をしているから読んでみて
548日本@名無史さん2019/07/19(金) 00:05:32.95
549日本@名無史さん2019/07/19(金) 00:05:43.60
何度、言えばわかるんだ?
550日本@名無史さん2019/07/19(金) 00:06:41.80
>>545
そういう人々は大集落に住む必要ありまへん
てか、この時代は分村化が普通 551日本@名無史さん2019/07/19(金) 00:07:25.06
漢人というのは、中国の人なんだけど、
『ジエン・モーラン』?
552日本@名無史さん2019/07/19(金) 00:09:00.03
江戸城の場合、3〜5kmは登城通勤圏だな
553日本@名無史さん2019/07/19(金) 00:13:53.72
『日本昔話』??
554日本@名無史さん2019/07/19(金) 00:15:24.49
工事現場を見ればわかる通りプレハブで簡易な事務所や休憩場を作っている
作っているのは居住地ではなく祭祀場と古墳なので居住地は仮のものでしかないので工事が進めば移動する
思えば竪穴式ではなく、簡易な掘っ立て柱の建物が多いのも頻繁な移動を意識してのことだろう
少ない建物数と大量の遺構のギャップは移動する仮設住宅で対応していたという事で理解ができる
建物が少なく、炊事用の土器が多く見つかる理由もこれで分かる
都といってもその機能は祭祀なので金銀財宝が出てくるわけもない
農業をするわけではないので見つかるのは農具ではなく土木工事具
纏向という場所を祭祀場と古墳を作っている工事現場と考えれば特に問題とされることはない
555日本@名無史さん2019/07/19(金) 00:17:02.88
日本の〜?不明w
ほとんど中国のパクリだと言っているの、頭が悪いんだろう?
お前たちの言っていることなどは、すべて逆
池沼なんだろう
556日本@名無史さん2019/07/19(金) 00:20:54.67
なぜ詳しいんだよ?と思っている人もいるだろうけど、
家の話だからwとしか言えない
557日本@名無史さん2019/07/19(金) 00:24:49.60
558日本@名無史さん2019/07/19(金) 00:25:28.71
もんはん?
サト□?そのような名前の人がCM(出演)をしていたという説があったり
559日本@名無史さん2019/07/19(金) 00:27:53.98
例えば、お前が出演(そういった作品など)していても、
家の収入になるわけでもないし
「❓」?
560日本@名無史さん2019/07/19(金) 00:29:05.57
さっさと刑務所に行ったほうが良いんじゃないのか?
561日本@名無史さん2019/07/19(金) 00:41:12.35
か族が〜の話をしていたとき、
偉そうなことを言っている人がいたけど、
わかりやすく言うと騙り、成り済ましだろう、
自称(勝手に名乗っている)〜の家とか
562日本@名無史さん2019/07/19(金) 00:42:21.59
>>520
卑弥呼は人前に姿を現さないし、周りには千人の奴婢が使えていた。
そのような様子は、纒向の4棟しかない建物からは伺えない。 563日本@名無史さん2019/07/19(金) 00:43:31.54
>>516
>動かないのは女王の居城だけ
>と繰り返し述べている
それでも千人は入る建物がないと魏志倭人伝の記事と矛盾する。 564日本@名無史さん2019/07/19(金) 00:44:12.54
>>513
工事人が住む家すら見つかっていないではないか。 565日本@名無史さん2019/07/19(金) 00:45:30.56
>>554
>都といってもその機能は祭祀なので金銀財宝が出てくるわけもない
九州の沖ノ島の祭祀を見る限り、祭祀には金銀財宝を捧げるものらしいけど? 566日本@名無史さん2019/07/19(金) 00:45:50.37
系図なども偽の物を作成、
先祖(カミ、仙など)〜お前(騙り、成り済まし)の家に繋げてみたり
567日本@名無史さん2019/07/19(金) 00:46:51.44
>>554
政治を行ってたのは纒向遺跡とは別の場所にあるの? 568日本@名無史さん2019/07/19(金) 00:49:31.49
569日本@名無史さん2019/07/19(金) 00:50:51.22
570日本@名無史さん2019/07/19(金) 00:53:11.43
例えば『ボーボボ』
ボーボボ(不明)が凄すぎるから、
ボーボボ(不明)を自分の家の先祖に持ってきたりするやり方
571日本@名無史さん2019/07/19(金) 01:00:00.66
例えば系図など、このような事になっているでしょ?
ボーボボ→お前の家(次男、三、四男、長女・・・)→お前の家→お前の家→・・・。
実際はボーボボ
↓
ボーボボ(次男や三男・・・長女に・・・)
↓
ボーボボ
↓
572日本@名無史さん2019/07/19(金) 01:00:55.36
>>562
九州説はどうしていつも理由をなにも言わず
唐突に結論だけ言うのだろう?
それでは他人はまったく理解できない
だから支持されない
こうして九州説は滅んだ 573日本@名無史さん2019/07/19(金) 01:05:17.96
例えばボーボボ(氏、姓)家
↓
↓
↓
↓
『かっぱっぱー』などの写真の家
574日本@名無史さん2019/07/19(金) 01:16:45.67
『かっぱっぱー』〜『何者にもなれない お前たち』
こういう作品なども同じ、実際は同じ家の話
575日本@名無史さん2019/07/19(金) 01:20:45.44
『うらしまマリン(浦島太郎)』〜『かっぱっぱー』
このような作品(話)も同じ、同じ家の話
576日本@名無史さん2019/07/19(金) 01:24:46.15
:
577日本@名無史さん2019/07/19(金) 01:31:46.63
千本のムヒを集めてたのか
578日本@名無史さん2019/07/19(金) 01:32:09.42
『龍宮 輿 寒いな〜』?
579日本@名無史さん2019/07/19(金) 01:35:40.29
おかしな話ばかり、家の話なのに・・・収入などもないし、
『』内を調べると出てくる作品などがあるでしょ
580日本@名無史さん2019/07/19(金) 02:34:41.97
きゅうりの葉、葱の華・・・w
家の写真だと言っているんだけど、仏教(神仙)関係の話
あと『デスラー』?
なぜか家の写真と同じ、シダ類、オジギソウなどが写っていたり
581日本@名無史さん2019/07/19(金) 02:37:56.14
詳しいことは、わからないけど、
家は戦争などには行っていないとか、
軍人でもない?そのような話も聞いた事ないし
582日本@名無史さん2019/07/19(金) 02:42:56.16
同じ名前の家がいるでしょ、その人の話なのかな?
それにしても、おかしな話ばかり、なぜか家の写真と同じ
583日本@名無史さん2019/07/19(金) 02:47:06.00
悪く言うと
騙り、成り済ましがいるんだろう・・・?
としか言えない
584日本@名無史さん2019/07/19(金) 03:42:43.58
おいキチガイ独り言終わったか?
585日本@名無史さん2019/07/19(金) 04:14:55.25
482>>282
>畿内説学者の基本的見解・・・<
「畿内」なんて存在もしていなかった嘘吐き騙し文言であるし、
「南≠東」に拠って、大和説は、始めから×。 586日本@名無史さん2019/07/19(金) 04:19:33.15
九州の浜の真砂は尽きるとも
世に奇痴害の種は尽きまじ
587日本@名無史さん2019/07/19(金) 04:49:12.64
482>>290
>九州王の年表
(紀元前2世紀) 奴国の吉武高木遺跡
(紀元前2〜1世紀) 奴国の須玖岡本遺跡<
この時点で、大和説学者のインチキが露見。
須玖岡本は、奴國ではなく、キホウ鏡の出土に拠って、弥生銀座という首都圏地域そのものであって、
倭國の首都としての機能は4世紀前半の筑後〜久留米への遷宮遷都まで存在していた。
>(紀元前1世紀の王・王妃墓) 伊都国の三雲南小路遺跡
(紀元1〜2世紀の王墓)伊都国の井原鑓溝遺跡 ←遺跡調査によってこの頃に漢鏡流通の核としての機能が停止(首都機能の喪失)したことが判明<
天孫族系の倭奴國や、その分裂後の伊都國と奴國の「クシフルの西のほとりの墓地祭祀地域」として存続。
>(紀元2〜3世紀の女王墓)伊都国の平原遺跡 ← 遺跡調査によって平原遺跡の衰退時期であることが判明
(魏志倭人伝によると邪馬台国の一大率に支配されていた時期)<
平原はおそらく壹與の郷里であり墓。
>※『日本書紀』によると4世紀頃、伊都国の王は仲哀天皇の完全な家来になった。←伊都国の九州王家滅亡<
書紀は、半分×書であり、証拠にならず、
宋書に記載の倭王珍の時の平西将軍であった可能性があり、
隋書に記載の竹斯國として存続していた。 588日本@名無史さん2019/07/19(金) 05:06:14.18
482>>294
>平原遺跡で隆盛をきわめたのなんで九州はこんなに落ちぶれたんだろうね<
「落ちぶれて」いない。
西晋や楽浪滅亡などの戦乱の波及や飛び火の危険があったため、
東晋建国の317年頃に倭国も、一貴山銚子塚の伊都国付近から、
筑後〜久留米付近への遷宮遷都をしたもの。 589日本@名無史さん2019/07/19(金) 05:29:17.54
482>>298
>西暦57年に福岡の奴国王が金印を授かったことによって <
漢委奴國王の印は、(福岡の奴国王ではなく)、細石神社が保管していた。
>九州の代々の王(伊都国王)よりも偉くなったんだろうね。<
伊都国は、倭国の軍事支配中心の、一大率の担当国であり、
倭国王は、317年頃に、筑後から久留米に遷都し、
東海姫氏國として倭王武の次の倭國王哲まで続き、
一旦阿毎氏系の磐井に変わって、
磐井が、大和の継体に倒されたが葛子が後を引き継ぎ、
タリシホコが天子を称して隋唐に対立し、白村江で大敗して、
大和日本国に併合吸収継承された。
>だからこの頃から伊都国の遺跡は徐々に衰退していっている<
だから、伊都国系の阿毎氏は、
白村江の後に大和日本国に併合吸収継承されるまで、繁栄を続け、
併合された後も、宋代まで、尚、独立国的な残映を残していた。 590日本@名無史さん2019/07/19(金) 05:34:36.56
482>>301
ちなみに大和説学者本や、文部省文化庁教育委員会本や教科書などは、
全部、「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・詐欺師本。 591日本@名無史さん2019/07/19(金) 05:42:30.43
482>>304
>九州は畿内に支配されてたから九州の鉄は畿内のものだが <
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であり、
大和は、九州倭国から別れた別種の旧小国で、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の附庸國であったのであり、
継体の反乱から倭國の王家に参入出来、隋の開皇末から、独立国を宣言した。 592日本@名無史さん2019/07/19(金) 05:53:23.80
482>>309
>学者の99%は畿内説と言われているのをどう説明する?<
「畿内」なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるし、
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説を唱える学者は、
松木や佐々木や寺澤や米田らも含めて、
国粋皇国史観の戦争狂の政府文部省らに支配されたセイハクのアホか?、
思想宗教にクルった・・・・であったか?、という事にしかならない。 593日本@名無史さん2019/07/19(金) 06:03:28.39
482>>316
>筑後川流域全体が邪馬台国で祇園山古墳が卑弥呼の墓ということかな?<
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であり、
邪馬壹國の比定地は、福岡平野中央部〜筑紫平野及びその周辺丘陵地、という古田論でよく、
卑弥呼は、大野に移った姫氏の出であるから、
都は弥生銀座〜太宰府の付近(おそらく那珂川の安徳台)であり、
墓は、姫氏の郷里に近い祇園山が選ばれた。 594日本@名無史さん2019/07/19(金) 06:05:54.40
>>318
>改竄は九州説のお家芸<
史料事実や史料実態の改竄は、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者のお家芸。 595日本@名無史さん2019/07/19(金) 06:08:39.96
482>>319
追求されて、改ざんがバレて、
罵って誤魔化す、「南→東」などの嘘吐き騙しの、
国粋皇国史観の殺戮戦争宗教の大和説者。 596日本@名無史さん2019/07/19(金) 06:11:46.23
482>>321
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しみたいな、
確認されたら確実にバレちゃうウソをつくことで、
国粋皇国史観の殺し合い戦争宗教の大和説は、
信用を失い衰退していった
そして今日のありさまである 597日本@名無史さん2019/07/19(金) 06:20:40.20
482>>326
>九州北部から南部まで邪馬台国かw <
違うね。
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であり、
邪馬壹國女王之所都は、福岡平野中央部〜筑紫平野及びその周辺丘陵地であり、
卑弥呼共立の29国の「女王國」(≒倭國)が、
ほぼ九州北部から南部の「九州島付近」であり、
共立に抵抗した狗奴國は、肥後付近。 598日本@名無史さん2019/07/19(金) 06:33:16.06
482>>330
>「循海岸水行二十日投馬国、循海岸水行十日南陸行一月邪馬台国」という記録と<
その「読み方」が、「不彌國で萬二千余里」がほぼ終わっている記載に矛盾し、
類スレ主に特有の、インチキ詐欺師読み。
>倭は百越の流れの南方民族、という大陸中華の常識(思い込み)を整合的に考えれば<
これも、魏使らの「夏后少康之子封於會稽」の記録や、
陳寿の「計其道里、當在會稽東治之東」の「女王國の位置推定」文に矛盾する、
嘘吐き騙しの・・・・詐欺解釈。
>倭国上陸後、南に海岸沿いに水行して、最後も南に陸行するという地誌記事が出来上がる<
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、出来ない。
類スレ主に特有のインチキ騙しの詐欺解釈。
>それでは、現実に邪馬台国まで行った水行二十日、水行十日陸行一月の記録と合わないよw
九州説は旅程論で完全に否定される<
類スレ主に特有のインチキ騙しの詐欺解釈の繰り返し。 599日本@名無史さん2019/07/19(金) 06:50:17.44
>>572
キナイコシは印象操作ばかりで中身がない。
理由がないように感じるのは、自分の理解力と読解力が足りないからだろ。 600日本@名無史さん2019/07/19(金) 06:56:25.97
>>592
>・・・大和説を唱える学者は、
>松木や佐々木や寺澤や米田らも含めて、
>国粋皇国史観の戦争狂の政府文部省らに支配されたセイハクのアホか?、
>思想宗教にクルった・・・
そんな決め付けの
口汚い怒鳴り声を聞けば
まさに九州説がおかしな思想宗教だと
みんなが思うよ 601日本@名無史さん2019/07/19(金) 06:58:25.91
集落の謎は解けた
纏向を調査した人が
「集落」の意味を知らなかったのだ
602日本@名無史さん2019/07/19(金) 06:58:49.21
>>599
九州説は
そんな罵りばかりで対抗しようとしないで
ちゃんと理由を
言えばきいのに 603日本@名無史さん2019/07/19(金) 07:00:52.23
>>601
集落ナイナイ君が
自分勝手な意味を
ゴリ押しで押し付けてるだけでは? 604日本@名無史さん2019/07/19(金) 07:09:04.70
>>482
集落とみなす根拠が書かれていないし
これだけでは単なる予断に過ぎない
しかも大集落を単なる遺跡の面積を意図しているおそれもあり住居遺構の数や性質に言及がない以上
根拠不十分 605日本@名無史さん2019/07/19(金) 07:10:41.68
606日本@名無史さん2019/07/19(金) 07:13:52.22
>>599
だから、どうして聞かれたことに答えないで
罵るだけなの?
・卑弥呼は人前に姿を現さない
・周りには千人の奴婢が仕える
この様子が、どうして纒向遺跡からは伺えないのか
その理由を聞かれているんだよ
どうして九州説は理由が答えられないの? 607日本@名無史さん2019/07/19(金) 07:17:51.48
>>604
>集落とみなす根拠が書かれていないし
ひとつの遺跡に複数の人が住んでた痕跡があれば、集落でしょ?
異論があるなら言えばいい
ただのナイナイと決め付けてないでさ 608日本@名無史さん2019/07/19(金) 07:25:48.41
609日本@名無史さん2019/07/19(金) 07:27:09.27
儒教九州説はただ嘘をつくためだけに嘘をつく
610日本@名無史さん2019/07/19(金) 07:27:14.77
3〜5戸
611日本@名無史さん2019/07/19(金) 07:30:49.92
住んでた根拠は?
纏向は時代に渡った複合遺跡と判明したのか?
612日本@名無史さん2019/07/19(金) 07:33:26.03
大量の煮炊き用土器
613日本@名無史さん2019/07/19(金) 07:37:12.79
>>282
崇神天皇(3世紀後半)居城 瑞籬宮(みずかきのみや)奈良県桜井市
垂仁天皇(3世紀後半)居城 纒向珠城宮(まきむくのたまきのみや)
景行天皇(4世紀前半)居城 纒向日代宮(まきむくのひしろのみや)
実在が確実とされる畿内大王の時代から
纒向は大王の居住地だった 614日本@名無史さん2019/07/19(金) 07:40:12.90
>>435
記紀が抹消した歴史
-九州本家(漢委奴国王〜帥升〜筑紫邪馬台国「卑弥呼台与」〜筑紫応神朝「倭の五王」〜阿蘇継体朝「阿毎多利思比孤」)
-天智東遷(唐・新羅連合艦隊に惨敗→倭王族全員処刑を恐れて太宰府を引き払い、万一連合艦隊が瀬戸内海侵入の際、高句麗に脱出できる近江大津宮へ…臆病風=周辺国の笑い草w) 615日本@名無史さん2019/07/19(金) 07:40:32.47
616日本@名無史さん2019/07/19(金) 07:42:49.75
617日本@名無史さん2019/07/19(金) 07:44:30.43
618日本@名無史さん2019/07/19(金) 07:44:54.81
て?
なんで九州説は聞かれたことに答えてないんだ?
しかも、自分の主張の理由をさ
619日本@名無史さん2019/07/19(金) 07:45:10.77
>>302
径百歩の墓を別に箸墓に限定してないぞ
径百歩に相当する3世紀の古墳あるいは前方後円墳は
それこそ畿内にゴマンとあるのだから
景初や正始の紀年鏡は畿内から出土しているぞ
嘘をついてはいかんのう 620日本@名無史さん2019/07/19(金) 07:48:16.80
>>520
だとしたら
議員宿舎や官舎が必用だが 無い
丸の内近辺に行った事が無いのかね 621日本@名無史さん2019/07/19(金) 07:51:07.29
>>615
未集計?
そんな程度の調査に税金積みこむ必要はない 622日本@名無史さん2019/07/19(金) 07:51:52.75
482>>331
>ただ、銅鐸の放棄年代は、>>201の想定よりも早い(古い)時期とするのが通説 <
大和における銅鐸放棄は、
唐古鍵から纏向への変換時期、という視点が欠かせないし、
それと、九州倭国の「東征毛人五十五國」の正規軍の到着や、
第X様式の始まり、という視点も欠かせず、
そうすると、大和の庄内の始まりが3席末の石塚の庄内1である事からも、
大和の銅鐸放棄は、3世紀後半頃、という視点になる事が避けられない。 623日本@名無史さん2019/07/19(金) 07:52:26.96
九州説がスレ主の幻想に怯え精神のバランスを崩す
見えないスレ主との戦いが始まる
624日本@名無史さん2019/07/19(金) 07:53:03.29
625日本@名無史さん2019/07/19(金) 07:53:51.91
おまえが
626日本@名無史さん2019/07/19(金) 07:54:26.57
627日本@名無史さん2019/07/19(金) 07:56:23.75
482>>332
>>纏向近辺の古墳群にも当てはまるが 邪馬台国と関係ない地方豪族の首長じゃないの <
>倭国(日本列島)最大の古墳が作られているのに、そして全国規模で同一の前方後円墳を作るという
合意が成立しているのに、その最大の古墳が一地方豪族のものと考えるのはまともな考え方ではない<
ダメだ。
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」という大事件を全く考えない、
という類スレ主は、まともな頭や人間ではない。 628日本@名無史さん2019/07/19(金) 07:57:45.69
非合理性の塊の儒教思想九州説が
科学的合理性に裏打ちされた畿内説に負けるのは必定
629日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:00:11.72
>>373
じゃ九州説の邪馬台国の会は嘘つき騙しをしてる事になるぞ
抗議しなくていいの 630日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:00:39.90
>>621
文化財保護法で決まってるので抵抗しても、無駄
コマギレの調査では建物全体の検出そのものが困難だ
大型建物はまとまった広い土地が調査できて、しかも地主が超篤志家だった稀有な例なのだ 631日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:00:44.97
結論
古墳造営の土木作業員の飯場を集落と言っても問題はない
632日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:01:59.59
>>627
>九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」という大事件を全く考えない、
まあ、普通の人がしない妄想だからな 633日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:02:14.80
>>624
無い物ねだりはイカン
いつもの駄弁にしか映らん 634日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:02:24.48
482>>333
>>当時最大級の古墳造営基地でも解釈可能な説明だねww<
>当時最大の古墳を作れる主体が誰かと考えれば、列島で最大の実力者を想定する以外にない
通常、最大の実力者とは「王」を意味するし、当時の倭人の王は卑弥呼だと魏志倭人伝に
固有名詞が出ているから、列島最大の古墳群を作った主体は卑弥呼の政権だと考えるのが理の当然<
瀬戸内近畿東海南関東での、当時最大の実力者であれば、
九州倭国の東征毛人五十五國の将軍たちであった、と考えるしかない。 635日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:04:43.33
九州は西服衆夷の国々だろ
なにせ西には海しかないからな
636日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:05:23.59
>>634
うん
そう考えるしかないよな
九州説としてはな
どんなに不合理だもな 637日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:06:47.01
482>>335
もうさー、
「南→東」などの嘘付き騙しや、
「正北抵新羅」や「東征毛人五十五國」の無視や、
人格誹謗中傷の・・・・アホ詐欺しか出来なくなったんなら、
大和説者らは、人生引退したらいいのに 638日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:08:17.77
九州説オウム人間ザラコクのオウム返しはやっぱ呪詛返しの積りだ
多分事実の提示や指摘が九州説にとっては毒や呪詛に感じられて居ても立ってもいられない
639日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:08:18.84
東征毛人
西服衆夷
対句だな
畿内が、中央からから東西を征服した
640日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:08:44.32
641日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:09:44.09
なにほざいてんだてめえら(°▽°)
642日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:10:33.11
>>634
3cの畿内に前方後円墳を建てたのが
九州倭国の東征毛人五十五國の将軍だったとしても畿内説の否定にはならないんだけど 643日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:12:03.73
卑弥国だのほざくやつまた現れたんだな
620
そんなんこのスレとなんの関係があるんだ?
それから成りすまし成りすまし言っていたキチガイどした?やたら荒らしまくっていたみたいだな
644日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:13:47.34
642
そんな将軍とやらがいたんか?ならかなりザコやな
中国史の文献とやらにはそんなん書いてあるんだあなあ
645日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:15:08.02
634
クソボケタレがなんやらやたら吹かしこいていたからな
646日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:16:29.23
大事件たら確かに大事件だな
あったか知らんが?そんで今度は九州のザコが吹かしこき始めたんか?
647日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:19:16.30
てめえらなんか同じとこグルグル回っているだけ
そいから日本が儒教だのほざくならほざいたやつらに責任取らせっからな
648日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:20:44.80
482>>351
「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・アホ詐欺師の大和説の猿が、
キーキーと煩いのう 649日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:25:17.54
482>>359
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
議論には負けるし、桜井市が及び腰になったから
ヤケクソになってるんだよ 650日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:28:00.63
>>589
>漢委奴國王の印は、(福岡の奴国王ではなく)、細石神社が保管していた。
じゃあ、細石神社の禰宜が王だなww
そんな訳ないだろうにww 651日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:28:58.98
652日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:30:23.31
スレッドが活発になっているので、また、奥山氏は論破されたのだな。。。
653日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:31:17.26
奥山氏は、どのようなことについて、論破されたのだろうか。。。
654日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:32:28.24
>>606
・卑弥呼は人前に姿を現さない
⇒一般の住戸から離れた柵で囲まれた大型建物で暮らしていたから
・周りには千人の奴婢が仕える
⇒大陸の文書で「千」が出てきたら、数えてないけどたくさん、という意味だと思えばいい 655日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:34:27.72
巻向に、労役の労働者を引き連れてきた、各地の村長がいるのではないのかな。。。
656日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:35:24.00
482>>368
>大集落だと戸数が出ないとイカンのか? それはどういう理屈なんだ?<
イカンね。
「戸数」を言って貰わないと、
「大」で良いのか?、の判断が出来ないし、
文化庁や大和説者の言った「大集落」が正しかったのか?も判らない。 657日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:37:26.99
658日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:37:54.58
482>>373
鎧袖一触、「南≠東」の一発で沈むお粗末大和説 659日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:38:23.81
>>655
古墳が出現した頃の纏向は、前の時代の支配者の魂を封印するための場所だったので、
後の時代に崇神天皇と呼ばれた人物は、日本国の真実の大王ではなく、前の時代の支配者の魂を封印するための責任者だった可能性が高いな。。。 660日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:40:46.27
>>659
つまり、纏向は首都ではなかったのだな。。。 661日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:40:49.52
>>656
>イカンね。
>「戸数」を言って貰わないと、
じいさんのワガママに付き合ってる必要はない
面積が大きいので「大」は確定済み 662日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:43:09.44
>>660
銅鐸王国を滅ぼした者が、別の場所を日本国の首都にしていた可能性が高いな。。。 663日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:43:31.74
>>657
第六章の
集計して公表したらダメという根拠らしい条文は? 664日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:45:48.42
>>631
>古墳造営の土木作業員の飯場を集落と言っても問題はない
飯場は単独で存在できないから、食料、日常品を供給する大勢の後方の人たちも必要で、
それらの人も含めて大集落だし、物資も大量に届けられる必要があるから、市も立つし
交易の中心になる
つまりは、大人数の労働者を認めた時点で、纒向の都市としての性質を認めざるを得なくなるし、
それはそのまま纒向は大規模集落であるということに他ならない
纒向を労働者の飯場ということにしてしまえばOKというのは、論理的思考のできないバカの
浅慮でしかない
九州説は墓穴を掘ったねw
畿内説は堂々と膨大な根拠を積み上げてるのにww 665日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:46:17.90
>>662
国譲りという物事は、魏志倭人伝時代の前に実行されたのだろうか、、、
それとも、国譲りという物事は、魏志倭人伝時代の後に実行されたのだろうか、、、 666日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:47:11.56
やはり、奥山氏は頭が悪いな。。。
664日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:45:48.42
>>631
>古墳造営の土木作業員の飯場を集落と言っても問題はない
飯場は単独で存在できないから、食料、日常品を供給する大勢の後方の人たちも必要で、
それらの人も含めて大集落だし、物資も大量に届けられる必要があるから、市も立つし
交易の中心になる
つまりは、大人数の労働者を認めた時点で、纒向の都市としての性質を認めざるを得なくなるし、
それはそのまま纒向は大規模集落であるということに他ならない
纒向を労働者の飯場ということにしてしまえばOKというのは、論理的思考のできないバカの
浅慮でしかない
九州説は墓穴を掘ったねw
畿内説は堂々と膨大な根拠を積み上げてるのにww 667日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:48:11.80
>>640
周知の埋蔵文化財包蔵地において土木工事などの
開発事業を行う場合には,都道府県・政令指定都市等の教育委員会に
事前の届出等(文化財保護法93・94条)を,
また新たに遺跡を発見した場合にも
届出等を行うよう求めています(同法96・97条) 668日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:50:30.73
アンカ拒否の顔文字は、スレ流ししかしないんだよなww
669日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:51:40.05
482>>396
>実際末盧国から伊都国の時点でもう方角がおかしいし<
「方角が重要」ですから、末盧國出発の「東南」の、
「方向がおかしい」と言った類スレ主の脳がおかしい。 670日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:52:12.95
>>663
馬鹿を相手にしちゃイカン
文化財保護法で
見つかった物の集計はしたら✖とは書いてない
みつかった建物跡を足すだけの事だけ
10棟も無いと思うよ 671日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:52:13.35
纒向=邪馬台国にあった女王の都
となる観測が全国的に広まって
九州説側の焦りハンパないな
672日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:52:35.86
>>666
巻向に、各地の村長が引き連れてきた労役の労働者の集団は、自分達が巻向で食べる分の食料を、自分達で運搬してきたのだったな。。。
そして、そういう集団が複数、数日で交代して、延6万人の労働力となり、
巻向駅の北西にある、正三角形の関係にある3つの古墳を積み上げたのだったな。。。
664日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:45:48.42
>>631
>古墳造営の土木作業員の飯場を集落と言っても問題はない
飯場は単独で存在できないから、食料、日常品を供給する大勢の後方の人たちも必要で、
それらの人も含めて大集落だし、物資も大量に届けられる必要があるから、市も立つし
交易の中心になる
つまりは、大人数の労働者を認めた時点で、纒向の都市としての性質を認めざるを得なくなるし、
それはそのまま纒向は大規模集落であるということに他ならない
纒向を労働者の飯場ということにしてしまえばOKというのは、論理的思考のできないバカの
浅慮でしかない
九州説は墓穴を掘ったねw
畿内説は堂々と膨大な根拠を積み上げてるのにww 673日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:53:22.96
>>663
集計して公表したらダメとか
誰も言ってないが? 674日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:54:39.70
連続句読点は痛い点を突かれて反論できなくなると、全文引用してさらしてるつもりになって
溜飲を下げてる気になってるかも知れないけど、九州説の矛盾点を繰り返し広報するだけだから
かえって九州説にダメージを与えてるんだよなww
まあ、知恵の足りない、学校教育もまともに受けていない、学歴コンプレックスを拗らせた御仁の
やることだから、そんなレベルのことすら分からなくてもしょうがないのかなww
675日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:55:00.38
676日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:55:10.59
>>672
奥山氏は、社会での労働をした経験がないので、交代制や食料自前の原則を知らないのではないのかな。。。
664日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:45:48.42
>>631
>古墳造営の土木作業員の飯場を集落と言っても問題はない
飯場は単独で存在できないから、食料、日常品を供給する大勢の後方の人たちも必要で、
それらの人も含めて大集落だし、物資も大量に届けられる必要があるから、市も立つし
交易の中心になる
つまりは、大人数の労働者を認めた時点で、纒向の都市としての性質を認めざるを得なくなるし、
それはそのまま纒向は大規模集落であるということに他ならない
纒向を労働者の飯場ということにしてしまえばOKというのは、論理的思考のできないバカの
浅慮でしかない
九州説は墓穴を掘ったねw
畿内説は堂々と膨大な根拠を積み上げてるのにww 677日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:56:03.68
纏向は古墳造営基地じゃん
678日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:57:01.78
>>672
奥山氏が考えるモデルは、いつも幼稚なモデルだが、簡単に論破できてしまうので、愉快ではないのかな。。。
664日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:45:48.42
>>631
>古墳造営の土木作業員の飯場を集落と言っても問題はない
飯場は単独で存在できないから、食料、日常品を供給する大勢の後方の人たちも必要で、
それらの人も含めて大集落だし、物資も大量に届けられる必要があるから、市も立つし
交易の中心になる
つまりは、大人数の労働者を認めた時点で、纒向の都市としての性質を認めざるを得なくなるし、
それはそのまま纒向は大規模集落であるということに他ならない
纒向を労働者の飯場ということにしてしまえばOKというのは、論理的思考のできないバカの
浅慮でしかない
九州説は墓穴を掘ったねw
畿内説は堂々と膨大な根拠を積み上げてるのにww 679日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:57:01.96
質問
卑弥呼が纒向に移り住んだのはいつなの
680日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:00:33.63
>>672
巻向に、各地の村長が引き連れてきた労役の労働者の集団は、自分達が巻向で食べる分の食料を、自分達で運搬してきたのだったな。。。
そして、そういう集団が複数、数日で交代して、延6万人の労働力となり、
巻向駅の北西にある、正三角形の関係にある3つの古墳を積み上げたという、最終結論を、実際にありそうなモデルとして、数字を示せば良いな。。。
664日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:45:48.42
>>631
>古墳造営の土木作業員の飯場を集落と言っても問題はない
飯場は単独で存在できないから、食料、日常品を供給する大勢の後方の人たちも必要で、
それらの人も含めて大集落だし、物資も大量に届けられる必要があるから、市も立つし
交易の中心になる
つまりは、大人数の労働者を認めた時点で、纒向の都市としての性質を認めざるを得なくなるし、
それはそのまま纒向は大規模集落であるということに他ならない
纒向を労働者の飯場ということにしてしまえばOKというのは、論理的思考のできないバカの
浅慮でしかない
九州説は墓穴を掘ったねw
畿内説は堂々と膨大な根拠を積み上げてるのにww 681日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:02:44.33
人間が担いで移動するとき、担げる米を10kgだとします。。。
何日分でしょうか、、、
682日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:03:59.21
482>>403
>>しかし、モモソ姫を卑弥呼とすると 崇神天皇は卑弥呼と同時代の倭王のはずで
崇神天皇の没年は198年(戊寅年)でないとおかしい。<
>258年でいいだろ? 卑弥呼の弟で、卑弥呼は248年に亡くなってるんだから<
始めから、「南→東」などの嘘付き騙しでの議論であるから、×話。 683日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:04:08.62
米3合と塩があれば1日生きられるのだったな。。。
684日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:06:57.59
米3合は、450gなので、約3週間分だね
681日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:02:44.33
人間が担いで移動するとき、担げる米を10kgだとします。。。
何日分でしょうか、、、
683日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:04:08.62
米3合と塩があれば1日生きられるのだったな。。。
685日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:07:52.44
>>684
往復2週間で、労働1週間でちょうど良いな。。。 686日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:08:51.24
>>631
>古墳造営の土木作業員の飯場を集落と言っても問題はない<
苦肉の策だろうが
飯場と集落は違う
飯場・・定住する場所ではない また寄り合い所帯
集落・・定住する人の家屋の集合した状態の場所 687日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:11:12.12
>>680
各集団が、纏向からの距離の長い者は、短く働き、纏向からの距離の短い者は、長く働き、
平均して7日働けば、8000人余りで、
巻向に、各地の村長が引き連れてきた労役の労働者の集団は、自分達が巻向で食べる分の食料を、自分達で運搬してきたのだったな。。。
そして、そういう集団が複数、数日で交代して、延6万人の労働力となるね。。。
664日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:45:48.42
>>631
>古墳造営の土木作業員の飯場を集落と言っても問題はない
飯場は単独で存在できないから、食料、日常品を供給する大勢の後方の人たちも必要で、
それらの人も含めて大集落だし、物資も大量に届けられる必要があるから、市も立つし
交易の中心になる
つまりは、大人数の労働者を認めた時点で、纒向の都市としての性質を認めざるを得なくなるし、
それはそのまま纒向は大規模集落であるということに他ならない
纒向を労働者の飯場ということにしてしまえばOKというのは、論理的思考のできないバカの
浅慮でしかない
九州説は墓穴を掘ったねw
畿内説は堂々と膨大な根拠を積み上げてるのにww 688日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:11:37.32
689日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:15:00.64
>>687
各集団が、纏向からの距離の長い者は、短く働き、纏向からの距離の短い者は、長く働き、
平均して7日働けば、8000人余りで、
巻向に、各地の村長が引き連れてきた労役の労働者の集団は、自分達が巻向で食べる分の食料を、自分達で運搬してきたのだったな。。。
そして、そういう集団が複数、数日で交代して、延6万人の労働力となるね。。。
という部分は意味が分からない文章なので、、、、
巻向に、各地の村長が引き連れてきた労役の労働者の集団は、自分達が巻向で食べる分の食料を、自分達で運搬してきたのだが、
各集団が、纏向からの距離の長い者は、短く働き、纏向からの距離の短い者は、長く働き、
平均して7日働けば、8000人余りで、 延6万人の労働力となるね。。。
と直した方が、意味が伝達しやすいのではないのかな。。。 690日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:15:04.32
>>661
>面積が大きいので「大」は確定済み
ははははは ヤケクソはイカンぜよ。 @阿波 691日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:15:04.99
692日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:15:42.83
奥山氏は、社会での労働をした経験がないので、交代制や食料自前の原則を知らないのではないのかな。。。
664日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:45:48.42
>>631
>古墳造営の土木作業員の飯場を集落と言っても問題はない
飯場は単独で存在できないから、食料、日常品を供給する大勢の後方の人たちも必要で、
それらの人も含めて大集落だし、物資も大量に届けられる必要があるから、市も立つし
交易の中心になる
つまりは、大人数の労働者を認めた時点で、纒向の都市としての性質を認めざるを得なくなるし、
それはそのまま纒向は大規模集落であるということに他ならない
纒向を労働者の飯場ということにしてしまえばOKというのは、論理的思考のできないバカの
浅慮でしかない
九州説は墓穴を掘ったねw
畿内説は堂々と膨大な根拠を積み上げてるのにww 693日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:16:40.93
>>1の言う論理的思考はこじつけ目的の妄想構築技術の事ですね。
これは精神疾患の一つでして、社会から隔離された環境で長く過ごすと陥りやすい病気です。
精神的な成長が止まってしまうため、歳を取るごとに周りとの意思疎通も難しくなります。
しかし本人はその状況に全く気付く事もなく、人生の大半を想像の世界で過ごすことと、なってしまうでしょう。 694日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:17:55.67
>>664
>つまりは、大人数の労働者を認めた時点で、
だから纒向は、土方のドヤ街 だと、何度言えばw @阿波。 695日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:18:40.86
最近、キウスの活動時間が増えているな
696日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:20:08.72
697日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:20:14.88
482>>408
>ただの専門外でバカをさらして信用を失った人だよw
東日流外三郡誌はとどめってだけ<
大和説者らも、ただの専門外で、安本らの偽の失敗筆跡鑑定に騙されて、
章子さんの清書筆跡を喜八郎さんの筆跡と間違えて、
バカをさらして信用を失った人だよ。
>東日流外三郡誌はとどめってだけ<
https://hyenanopapa.obunko.com/kahitsu_genkou.html
の藤本原稿の左3分の1の「喜八郎さんの追記」の筆跡と、
章子さんの清書の「丑寅原稿」筆跡や、明治写本の筆跡とを、比べてみろ。
安本らの筆跡鑑定が全くの・・・・アホ詐欺鑑定であった事が、
一目瞭然だ。 698日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:20:45.72
699日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:21:02.38
巻向に、各地の村長が引き連れてきた労役の労働者の集団は、自分達が巻向で食べる分の食料を、自分達で運搬してきたのだが、
各集団が、纏向からの距離の長い者は、短く働き、纏向からの距離の短い者は、長く働き、
平均しbト7日働けば、8000人余りで、 延6万人の労働力となるね。。。
684日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:06:57.59
米3合は、450gなので、約3週間分だね
681日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:02:44.33
人間が担いで移動するとき、担げる米を10kgだとします。。。
何日分でしょうか、、、
683日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:04:08.62
米3合と塩があれば1日生きられるのだったな。。。
700日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:22:04.86
筑紫と出雲の鏡でトンズラこいたやつが
そしらぬふりで書き込んでいるという
平気で嘘をつく九州脳はやはり異常
701日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:22:10.72
702日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:22:16.91
703日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:23:54.58
704日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:23:59.04
古墳が出現した頃の纏向は、前の時代の支配者の魂を封印するための場所だったので、
後の時代に崇神天皇と呼ばれた人物は、日本国の真実の大王ではなく、前の時代の支配者の魂を封印するための責任者だった可能性が高いな。。。
705日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:27:36.28
いつも結論だけ言って理由を言わない九州説が
他人から理解されるわけがない
だから九州説はマイナーになり
そして亡んだ
706日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:29:03.86
>>703
アンカーたどった?
そのくらい努力しろよ
纏向の戸数の話からだよーーー 707日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:29:50.17
>>664
>それらの人も含めて大集落だし、物資も大量に届けられる必要があるから、市も立つし
>交易の中心になる
カエルと桃しかない。 708日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:30:26.83
オクヤマよ
罵声と駄弁で抵抗しても無駄
709日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:31:51.52
>>650
>じゃあ、細石神社の禰宜が王だなww
後漢の頃の倭王、三雲遺跡の王墓の主、甕棺墓を持つ天孫族、邇邇芸の末裔だろうね。
魏志倭人伝にも伊都国の官とあるから、倭国大乱後も一定の地位はあったということだ。 710日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:33:24.12
>>613
>実在が確実とされる畿内大王の時代から
>纒向は大王の居住地だった
大王は誇張表現で、畿内だけの自称王です。
漢や魏から王に冊封されていないので。 711日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:34:29.05
>>606
>だから、どうして聞かれたことに答えないで
>罵るだけなの?
>・卑弥呼は人前に姿を現さない
>・周りには千人の奴婢が仕える
>どうして九州説は理由が答えられないの?
罵るだけなの?
・卑弥呼は人前に姿を現さない
・周りには千人の奴婢が仕える
この様子が、どうして纒向遺跡からは伺えないのか
その理由を聞かれているんだよ
どうして畿内説は理由が答えられないの? 712日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:36:28.86
713日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:37:32.78
畿内説が馬鹿なのか
他説が優秀なのかよくわからない
畿内説の論客をつれて来いよ
相手してやるから
714日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:39:47.96
>>711
>その理由を聞かれているんだよ
>どうして畿内説は理由が答えられないの?
九州説が聞かれてた問いに
どうして畿内説が答えるんだ?
九州説はまた発狂してるのか? 715日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:40:55.42
>>713
今いる人の相手も務まらないキミには必要ないな 716日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:45:26.41
482>>412
>>それじゃ、陳寿の「会稽東治」の「東治」が、陳寿の執筆時点では、
(会稽郡ではなく)、揚州の支配下になっていた、 という事も判っていなのではないか。<
>無知な爺さん、何をメチャクチャ言ってるんだ? 会稽郡は揚州の支配下だぞ <
類スレ主は、また何をな、メチャクチャな嘘つき騙しを言ってんだい?。
陳寿は、会稽「郡」なんて一切言っておらず、
「計其道里當在會稽東治之東」のように、「会稽」としかいっていないんだぞ。
「会稽郡」なんて、お前が勝手にでっち上げた文言ではないか。
>会稽郡の外に会稽東治なんて無いぞ 九州説は中国史まで捏造するなよ <
陳寿は「会稽東治」と言ったのであり、「会稽郡」とは書いておらず、
だから「会稽東治」の「会稽」は、「会稽地域」という意味で言ったのであり、
だから「東治」も「東の治」地域だ、と受け止めるべきなんだよ、
・・・・アホ詐欺師さん。 717日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:45:56.03
古墳が出現した頃の纏向は、前の時代の支配者の魂を封印するための場所だったので、
後の時代に崇神天皇と呼ばれた人物は、日本国の真実の大王ではなく、前の時代の支配者の魂を封印するための責任者だった可能性が高いな。。。
718日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:47:13.84
>>659
つまり、纏向は首都ではなかったのだな。。。 719日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:47:25.06
『倭猿』の話?
実際にそうなんだけど、なぜだと思う?
720日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:47:25.77
纏向は古墳造営基地として
畿内説で纏向以外の候補地はどこ
721日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:48:10.83
畿内説で纏向以外の「王都」の候補地はどこ
722日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:48:51.56
>>717
巻向は、墓場だったのではないのかな。。。 723日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:51:04.70
724日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:53:34.36
>>696
686日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:08:51.24
>>631
>古墳造営の土木作業員の飯場を集落と言っても問題はない<
苦肉の策だろうが
飯場と集落は違う
飯場・・定住する場所ではない また寄り合い所帯
集落・・定住する人の家屋の集合した状態の場所
研究者も飯場と集落の違いぐらい判っているだろう 725日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:54:08.84
>>716
>陳寿は「会稽東治」と言ったのであり、「会稽郡」とは書いておらず、
>だから「会稽東治」の「会稽」は、「会稽地域」という意味で言ったのであり、
会稽郡の外に会稽地方は無いんだよ
>だから「東治」も「東の治」地域だ、と受け止めるべきなんだよ、
会稽に「東の治」は無いんだよ
東侯官治以外にはね 726日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:54:34.51
それで?
727日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:56:57.88
>>724
>飯場・・定住する場所ではない また寄り合い所帯
>集落・・定住する人の家屋の集合した状態の場所
それは誰が決めたの? 728日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:57:36.18
纏向ドヤ街説ww
あい○✖地区にも立派な神社あるし
729日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:58:06.71
>>675
>それで・・・・王都なの
最大の動員がかけられる者が、王以外であると考えるべきどんな理由がある?
王より動員力のある存在が、同じ交流圏内に存在したら、そちらが王になるぞ? 730日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:58:10.10
731日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:58:31.75
>>727
朝鮮人(現在は日本人かもしれないけど)が決めたんじゃないの? 732日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:58:54.68
>>709
甕棺墓はど没落して全羅南道に残るから
その民族は韓伝に書いてある 733日本@名無史さん2019/07/19(金) 09:59:24.32
>>728
九州説は
みごとなまでに
九州説がバカにされるようなことしか言わないな 734日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:00:09.17
735日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:00:15.08
>>723
7世紀唐代でも倭国(九州)と日本国(本州)は別の国と認識されていたんだよ。
そして日本の使者が、日本国(本州)が昔の倭国(九州)を併呑して、国号(九州+本州+四国)そのものを倭国から日本国に変えたたと言ってるわけだ。
卑弥呼の時代の王都は倭国(九州)に決まってるだろwww 736日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:02:10.34
737日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:03:19.58
>>681
>人間が担いで移動するとき、担げる米を10kgだとします。。。
>何日分でしょうか、、、
このように考えれば、自前で食料を運んできて年単位の古墳造営を支えるというのが
不可能だというのが分かりますね?ww
交代制だとして、往復の移動日数を考えれば、古墳造営に力を借せるのは
ほんの数日ということになります
そんなやり方で百メートル級の大墳丘墓は作れませんww
また墓穴を掘ってるw
まあ、知恵の足りない、学校教育もまともに受けていない、学歴コンプレックスを拗らせた御仁の
考えることだから、そんなもんだなww 738日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:04:11.32
関西の連句点鮮人は九州説ではなくて
ただの荒らしだから適当にあしらうだけでいい
739日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:04:24.07
740日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:04:45.38
中国の日本についての記述を見ると九州説など全く存在していないのが分かる
簡単に書くとこうなる
邪馬台国は台与の後にも滅んで等おらず男性王が立ち継続して晋、宋、斉、梁、隋と使節を送り続けている(梁書、北史)
↓
隋の時に使節を送ってきたアメノタリシヒコ=用明天皇と断定(新唐書)
↓
アメノタリシヒコは筑紫城から大和州に都を移したと記載される神武天皇の後なので都は大和(新唐書)
↓
アメノタリシヒコの都は邪馬台国と同じなので邪馬台国は大和(隋書、新唐書)
↓
アメノタリシヒコは一大卒を各地に派遣して地方を支配している(魏志、旧唐書)
一大卒のいる場所=邪馬台国の被支配地
↓
アメノタリシヒコ(用明天皇)はその後の桓武天皇などにも系譜が連続していると認識されている(旧唐書、新唐書)
白村江の戦いの当事者である唐の記録でこう記載されている
このため、王朝交代など起こってないと確定
倭から日本への変化は定説通り壬申の乱であることが確定
↓
宋の太宗が「日本は小国だが王も貴族も古代から同じ系統が維持されていて素晴らしい」と称賛(宋史)
中国は邪馬台国は大和でそれが継続していると当然のことのように了解している
741日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:04:55.34
742日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:06:36.13
纏向の水路は労務者がババをする所だ
743日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:07:40.29
九州説はどうして
古墳造営に北陸山陰や西部瀬戸内や関東から労働者を集めて飯場に泊めるとか
不合理なことを考えるんだろう
744日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:08:06.83
卑弥呼がババを踏みつけない様に考えられた水路なのだ
745日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:09:12.66
>>685
>往復2週間で、労働1週間でちょうど良いな。。。
例えば、東海地方から纏向まで、片道1週間では来られないぞww
結局動員できるのは、畿内邪馬台国七万戸の範囲だ
その範囲でこれだけの大構造物が作れるだけの国力、余剰生産力があったんだよ
いろいろと単純計算してごまかそうとするが、知恵が足りないから墓穴を掘り続けることになる
まあ、知恵の足りない、学校教育もまともに受けていない、学歴コンプレックスを拗らせた御仁の
考えることだから、そんなもんだなww 746日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:10:18.77
>>743
各地の豪族どもの墓地だから
労務者も来るさ 747日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:11:22.41
>>743
>九州説はどうして
>古墳造営に北陸山陰や西部瀬戸内や関東から労働者を集めて飯場に泊めるとか
>不合理なことを考えるんだろう
お答えします
九州説が不合理なので、それを糊塗するためにさらに不合理という墓穴を掘り続けないと
畿内説に対してたった一言、言い返すことすらできないからですよ 748日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:11:22.91
749日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:11:23.89
750日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:13:43.48
751日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:13:51.83
>>746
>各地の豪族どもの墓地だから
>労務者も来るさ
各地にそれぞれの首長の前方後円墳が営まれていることで、
簡単にこの意見は否定されますねww
各地の豪族が、本拠地を離れた場所に墓地を営む理由がない
前方後円墳が権力誇示の「見せる権力のモニュメント」である以上、
地元の支配下の民の見えるところに作らないと意味がない 752日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:14:34.09
753日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:16:34.45
奥山氏は、小学校から引きこもったので、畿内というのは、和歌山や三重や滋賀を含まないことを知らないのだな。。。
745日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:09:12.66
>>685
>往復2週間で、労働1週間でちょうど良いな。。。
例えば、東海地方から纏向まで、片道1週間では来られないぞww
結局動員できるのは、畿内邪馬台国七万戸の範囲だ
その範囲でこれだけの大構造物が作れるだけの国力、余剰生産力があったんだよ
いろいろと単純計算してごまかそうとするが、知恵が足りないから墓穴を掘り続けることになる
まあ、知恵の足りない、学校教育もまともに受けていない、学歴コンプレックスを拗らせた御仁の
考えることだから、そんなもんだなww 754日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:17:44.35
出稼ぎ労働でいいんでねーの
奴隷だと可哀そうだし
755日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:18:47.38
>>753
そして、僕達は、3週間分と設定したのだから、例えば片道10日なら、1日は纏向で労働できるのだったな。。。 756日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:20:29.31
>>755
そして、僕達の設定では、自前で担ぐ米を10kgとしたのだったが、20kgにしても良いのだったな。。。 757日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:20:30.97
>>714
畿内説が根拠を聞かれているのに答えていない。
ズルズル答えずにこれで何スレめだ? 758日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:21:57.08
>>753
知恵の足りない、学校教育もまともに受けていない、学歴コンプレックスを拗らせた奥山氏は、小学校から引きこもったので、知恵が足りないから墓穴を掘り続けることになるのだったな。。。 759日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:22:04.16
>>743
ヤマトの労務者だけじゃあれだけの古墳を沢山作れねーよ
労務者が各地から来たと言う証拠も搬入土器でわかるし 760日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:22:05.47
・周りには千人の奴婢が仕える
この様子が、どうして纒向遺跡からは伺えないのか
建物が4棟では邪馬台国の描写と食い違いすぎるではないか
761日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:22:38.61
>>759
なぜか東海からばかり流入していたみたいだね。 762日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:25:18.30
763日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:26:15.16
>>757
そんな見え見えのウソまでついて
九州説はどうしてそんなに九州説を辱めたいの?
九州説側が畿内説側から詰問された
九州説側は答えられずに誤魔化した
最低でしょ 764日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:26:50.13
482>>455
>「平原遺跡で隆盛をきわめた」というのが既に間違い
平原1号墓は、墳丘サイズ12×8メートルと、その1世代前の吉野ヶ里の北墳丘墓(40×27メートル)と
比べてもその底面積で10分の1以下の小さな在地の小首長の墓に過ぎない<
壹與は、卑弥呼の宗女で13歳で女王にして貰ったのであるから、
権力も殆どなく、墓も郷里の平原で、薄葬令に従った部族葬のような簡素さ。
>魏晋代の舶載鏡が1枚もなく<
21枚の「尚方作」方格規矩鏡は、明帝の下賜の銅鏡百枚にしかならず、おそらく卑弥呼からの遺産だ。
>大量の仿製鏡があるだけだ
祭祀システムの変更に伴い、手持ちの青銅器を使い切った様相と思えばよい<
巨大な内向花文鏡は、おそらく渡来の呉系楽浪鏡師らの製作であり、
錆色塗装も、彼らの仕事だ。 765日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:26:51.80
>>760
その通りだと思うよ
巫女千人や兵の証跡が纒向では感じ取れない 766日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:28:04.22
>>760
なにが何と、どう食い違うの?
九州説さん、具体的に答えてね 767日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:29:08.88
そもそも、僕達は、下に引用する、奥山氏が巻向に都市機能がることが必然だという、頭の悪い者が考え付く考えに反対しただけなので、畿内の纏向以外の場所からも、労働力が集まったことは、否定していないのだったな。。。
664日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:45:48.42
>>631
>古墳造営の土木作業員の飯場を集落と言っても問題はない
飯場は単独で存在できないから、食料、日常品を供給する大勢の後方の人たちも必要で、
それらの人も含めて大集落だし、物資も大量に届けられる必要があるから、市も立つし
交易の中心になる
つまりは、大人数の労働者を認めた時点で、纒向の都市としての性質を認めざるを得なくなるし、
それはそのまま纒向は大規模集落であるということに他ならない
纒向を労働者の飯場ということにしてしまえばOKというのは、論理的思考のできないバカの
浅慮でしかない
九州説は墓穴を掘ったねw
畿内説は堂々と膨大な根拠を積み上げてるのにww 768日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:29:22.28
769日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:29:52.87
千人が同時に建物内にいる必要はない
兵士も別に宮殿が必要なわけじゃない
軍隊の陣も仮設の形で万単位の人間が待機してる
たかが千人の女官や、宮殿を守る兵士くらいなら学校の校庭くらいの敷地があれば十分
770日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:30:12.20
>>765
思いっきし主観100%じゃねーか
九州説って、ばか? 771日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:30:59.87
邪馬台国畿内説をせんでんする、知恵の足りない、学校教育もまともに受けていない、学歴コンプレックスを拗らせた奥山氏は、小学校から引きこもったので、知恵が足りないから奥山氏は、無給で、5ちゃんねるのサクラをしているのだったな。。。
772日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:31:45.93
>>767
おまえ・・・
だれか何を言っても奥山ガー奥山ガーって言うのな 773日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:32:44.05
>>767
奥山氏は、論理的な討論をする能力が無いので、相手が主張していないことをでっち上げて、悪口を言うことしかできないから、仕方ないのではないのかな。。。 774日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:33:03.13
ハイソサエティの人間の定住地なら沢山の大型建造物が必要だろうが、女王の居城以外は作業員と警備兵と女官の滞在場所で良い
居城以外は頻繁な移動を行っている形跡が見える事からして一所にいないで仮設の住居にいたと言うだけの事
むしろ遺跡の状況に合致する
なにもおかしくない
775日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:36:02.77
畿内説の根拠@
「纏向が邪馬台国である」
・まず何よりも、魏志倭人伝に通じる出土品がほとんど見られないので、これも印象操作としか思えない。
・史書では「7万戸」という規模が記されているが、それに対し纏向遺跡は住居跡や生活痕があまりに少なすぎる。
・出土品も土木用具が多く、農具がほとんど出土していないため、人が定住していた集落である可能性も低い。
・遺構の変動状況と周辺古墳の築造時期が連動しており、古墳築造の為に作られた臨時施設である可能性の方が非常に高い。
よって、ウソでした。
776日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:36:14.91
巻向に、各地の村長が引き連れてきた労役の労働者の集団は、自分達が巻向で食べる分の食料を、自分達で運搬し、
そして、そういう集団が複数、数日で交代して、延6万人の労働力となり、
巻向駅の北西にある、正三角形の関係にある3つの古墳を積み上げた。。。
というの可能性の提示で、
巻向に都市機能があることが必然だという、頭の悪い者が考え付く考えは、完全に論破されてしまったな。。。
664日本@名無史さん2019/07/19(金) 08:45:48.42
>>631
>古墳造営の土木作業員の飯場を集落と言っても問題はない
飯場は単独で存在できないから、食料、日常品を供給する大勢の後方の人たちも必要で、
それらの人も含めて大集落だし、物資も大量に届けられる必要があるから、市も立つし
交易の中心になる
つまりは、大人数の労働者を認めた時点で、纒向の都市としての性質を認めざるを得なくなるし、
それはそのまま纒向は大規模集落であるということに他ならない
纒向を労働者の飯場ということにしてしまえばOKというのは、論理的思考のできないバカの
浅慮でしかない
九州説は墓穴を掘ったねw
畿内説は堂々と膨大な根拠を積み上げてるのにww 777日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:36:30.04
778日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:38:11.83
九州説が下のようなことをずっと喚いているが
・纏向は土方の飯場
・纏向は土方の仮設住宅
・兵士も女官も仮設の施設にいた
・金銀財宝が出てこない
別にその通りだが何か?と言うだけ
纏向は壮麗な都ではなくそもそも古墳と祭祀場の為の常時作業中の建築現場
女王の居城以外は全て仮設の移動出来る簡易な建物が主体
作業員も兵士も女官もみんな仮設の施設に滞在してる
「祭祀と祭祀の女王とその居城と古墳」
と言う倭人伝の記述にも合致して何も問題がない
779日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:38:46.83
>>775
>畿内説の根拠@
>「纏向が邪馬台国である」
九州説、またウソでした。 780日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:40:12.99
奥山氏が、纏向が首都ではなく、仮説の集落だったことを認めてしまった。。。
769日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:29:52.87
千人が同時に建物内にいる必要はない
兵士も別に宮殿が必要なわけじゃない
軍隊の陣も仮設の形で万単位の人間が待機してる
たかが千人の女官や、宮殿を守る兵士くらいなら学校の校庭くらいの敷地があれば十分
781日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:42:51.19
纏向露営地説ww
782日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:42:59.79
九州説ウソばかりだなー
783日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:43:03.19
482>>456
>弥生終末期の時点で、鉄器も北部九州より丹波の王墓級墳墓の方が大量に出ている<
丹波は、韓の鉄や砂鉄を知っている出雲や、越の合同王権の墓であった可能性もあるが、
播磨から北上した「東征将軍」らが関わった可能性もある。
>卑弥呼の時代の鉄の入手量で北部九州が優位だと考えるべき理由も遺物も一切ない<
どなたか?が提示された、都道府県別鉄の出土数のグラフでも、
北部九州の優越さは全く変わっていなかった。 784日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:46:15.30
上で書いたことの繰り返しになるが
纏向は祭祀場と古墳を作るための場所
沢山の人が住むための都を作る為の場所ではない
そもそもが数千年単位で人が殆どいなかった荒れ地
祭祀場や古墳と言うある意味「無駄な物」を思う存分作るのに適している
実際に女王の居城以外は仮設のような建物ばかり
工事の進行具合によって建築用プレハブのように盛んに移動していたことが伺える
785日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:46:30.03
宮殿に衛兵がいるってだけの話を
兵舎が発見されてないから
合わない合わない合わないって騒いでんの?
九州説ってばかじゃね?
786日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:46:31.98
研究者が恣意的に纏向を王都としたいようだ
焦らなくてもいいのに
787日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:46:33.57
あんまり九州説を追い詰めると連続句読点やザラコクみたいな異常者が桜井市でテロ起こすかも知れんから程々にね
788日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:47:24.68
纒向は北飛塚地区で平地住居遺構が見つかっている
近畿地方は平地住居への移行が早い
789日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:48:00.08
畿内説の根拠A
「箸墓古墳は卑弥呼の墓である」
・魏志倭人伝に記載されている墓の構造が異なっている。
・墓を開けて内部調査を行ったわけでもない段階で、学者からこの発言が出てくるということは、考古学会の体質は捏造事件以来、何も改善されていない事がうかがえる。
・当初発表された年代が一部の学者による纏向ありきの偏向報道であったため、多くの研究者からの指摘を受け、現在では台与の時代以降である280〜300年が妥当と言われている。
・なお、宮内庁がモモソ姫の墓として比定しており、詳細な調査が不可能なため、卑弥呼の墓と言い続ける人は。
・周濠から4世紀の土器や馬具が発見されており、年代はさらに新しくなる可能性もある。
よって、ウソでした。
790日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:48:08.69
>>783
>どなたか?が提示された、都道府県別鉄の出土数のグラフでも、
ほら
九州説はいつも情報源が怪しい 791日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:49:08.04
畿内説の根拠A
「箸墓古墳は卑弥呼の墓である」
・魏志倭人伝に記載されている墓の構造が異なっている。
・墓を開けて内部調査を行ったわけでもない段階で、学者からこの発言が出てくるということは、考古学会の体質は捏造事件以来、何も改善されていない事がうかがえる。
・当初発表された年代が一部の学者による纏向ありきの偏向報道であったため、多くの研究者からの指摘を受け、現在では台与の時代以降である280〜300年が妥当と言われている。
・なお、宮内庁がモモソ姫の墓として比定しており、詳細な調査が不可能なため、卑弥呼の墓と言い続ける人は詐欺である。
・周濠から4世紀の土器や馬具が発見されており、年代はさらに新しくなる可能性もある。
よって、ウソでした。
792日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:49:13.15
>>766
魏志倭人伝では卑弥呼にには千人の奴婢が仕える
しかし纒向遺跡には建物の数が少なく、千人も使えていた様子が伺えない
この食い違いを何スレも前から指摘しているのだが? 793日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:49:41.32
794日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:50:22.91
>>789
>・当初発表された年代が一部の学者による纏向ありきの偏向報道であったため、多くの研究者からの指摘を受け、現在では台与の時代以降である280〜300年が妥当と言われている。
またガセネタ使ってるな
ソース出せないだろ
九州説、またウソでした。 795日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:50:32.98
>>789
3女性の合葬=箸墓・後円部(直径160m)の断面図(北側)
………………………______
5段目……………/倭迹迹日百襲姫\←崇神が追加
4段目…………/ ̄ ̄ ̄台 ̄与 ̄ ̄ ̄\_____________
3段目………/_ ̄_ ̄_ ̄_ ̄_ ̄_\____________\_
2段目……/_____________\_____________\_
1段目_/5m盛土/卑弥呼(150m)\5m盛土\_______________\__地面
周濠… ̄ ̄ ̄ ̄ ̄殉葬者奴婢100人 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄地下 796日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:50:43.01
武器はその場に捨てないからw
797日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:50:53.37
テンプレの巫女や兵は通勤でいいんでねーの
都としては寂しいがな
798日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:51:07.95
陣地にいるんだから武器も移動できる倉庫に入れてるだろ
バカかお前
799日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:51:17.56
破綻した邪馬台国畿内説を無給で宣伝する朝鮮人の奥山氏が、
古墳があったから巻向に都市機能があることが必然だという頭の悪い者が考え付く考えを、
完全に論破されたので、反論を諦め、嘘の悪口を言い放ってきたな。。。
787日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:46:33.57
あんまり九州説を追い詰めると連続句読点やザラコクみたいな異常者が桜井市でテロ起こすかも知れんから程々にね
800日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:51:54.38
>>789
>・周濠から4世紀の土器や馬具が発見されており、年代はさらに新しくなる可能性もある。
そんなこと言ってる学者、いないよな
九州説がある、またウソでした。 801日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:51:57.52
卑弥呼の城は楼閣高くして、兵が厳かに守っていると魏志倭人伝にある。
わずかな柵しかなく、楼閣はなく、兵士は野営していた?
魏志倭人伝と矛盾しているだろ。
802日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:52:32.14
>>797
鉄道どころか、農道しかない3世紀の大和盆地で通勤?
しかも楼観も城柵もない纏向遺跡が卑弥呼の宮室?? 803日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:54:34.24
そもそも魏志倭人伝では、邪馬台国は福岡の南に位置すると書かれているわけで、
それがなぜ東に位置するのかを畿内説はもっと現実的常識に基づいて説明する必要がある。
他説お納得できる内容で説明を完了した上で、纏向がどうのこうのと仮説の述べるのであれば構わない。
現時点での纏向説は、ファンタジー小説をノンフィクションに仕立て上げる印象操作でしかない。
804日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:54:41.49
>>798
>陣地にいるんだから武器も移動できる倉庫に入れてるだろ
それは倉庫とは呼ばない。
そのような建物があったという証拠は?
テントですら、固定したペグの痕跡が残るものだぞ?
そのような仮設の建物の様式の存在そのものが、古代において証明されていない。
千年後の幕府か何かと混同している? 805日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:56:09.28
そういえば、奥山氏は裸足の奴婢が、1日10キロメートルも通勤していたと考えていたのだったな。。。
806日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:56:09.95
>>789
>・魏志倭人伝に記載されている墓の構造が異なっている。
>・墓を開けて内部調査を行ったわけでもない段階で、学者からこの発言が出てくるということは、考古学会の体質は捏造事件以来、何も改善されていない事がうかがえる。
魏志倭人伝に記載されている墓の構造が異なっている。
???
墓を開けて内部調査を行ったわけでもない段階で、
???
おまえ、それ自分の話だぞ
まさに、今やってるぞ
自分を捏造体質って言っちゃったぞ
九州説ブーメランで自己撲殺
喜劇だろこれ 807日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:56:35.19
卑弥呼は暴君?
自分だけ宮殿に住んで他は露営させたの
808日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:56:36.03
あらゆる痕跡が残るわけないだろ
アホか
ましてや仮設のすぐ移動した倉庫の後が数千年全部残るとか
脳みそ沸いてるんだろうな
809日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:56:38.35
吉野ヶ里の場合、
「南内郭では、弥生時代最終末期に新段階の環濠が埋没し、
丘陵上からは竪穴住居などの集落に関する遺構は激減する。
古墳時代初頭の集落は吉野ヶ里丘陵西側斜面付近に移るが、その数はわずかである。
南内郭付近の集落と入れ替わるように丘陵上には前方後方墳4基が相次いで築造される。」
古墳を築造してるので人がいなくなってしまったわけではない
https://www.isan-no-sekai.jp/report/5498 810日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:57:34.71
また『稲の倉庫』の話?
かなり有名な話でしょ
811日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:58:20.54
>>802
>しかも楼観も城柵もない纏向遺跡が卑弥呼の宮室??
ないって証拠は? 812日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:58:39.48
奥山の妄想が見苦しい
813日本@名無史さん2019/07/19(金) 10:59:28.55
>>801
>わずかな柵しかなく、楼閣はなく、兵士は野営していた?
それ、おまえの想像だよな
>魏志倭人伝と矛盾しているだろ。
おまえの想像がな 814日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:00:33.76
>>804
1700年前のテントの固定したペグの痕跡は残ってないだろw 815日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:01:05.97
少なくとも纏向に存在する広大な祭祀場や古墳は多くの人がいないと作りようがない
古墳や祭祀場が生えてきたとか言うならともかく、それなりの長期に渡って作業する人が滞在し生活する場が必要
纏向にはそういう人間が定住した痕跡がかなり希薄
一方、小規模な掘立柱の建物の痕跡が主体として各地域に見つかる形になっている
そしてこれらの柱跡は何度も外して位置を変更している跡が見つかってる
この事から纏向は多数の作業員や兵士たちが、
仮設の建物で工事の進行に従って移動しながら滞在していた場所だと分かる
816日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:01:10.56
817日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:01:16.95
>>802
>鉄道どころか、農道しかない3世紀の大和盆地で通勤?
九州説さん
「農道しかない」って証拠は? 818日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:02:20.51
>>816
>それで、武器は今どこにあると思う
土の中か埋文センター 819日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:02:38.78
482>>462
>陳寿が倭人を南方系民族とみなしていたのは、魏志倭人伝の記述からも確実
「計其道里、當在會稽東冶之東」<
嘘を付くな。「東冶」ではない。「東治」だ。
>「所有無、與儋耳朱崖同」 これは、倭という名称が、論衡の百越の流れの倭と同一のものが
使われていることからも大陸側の共通認識・常識であったことが分かる<
いや、中国には、倭人は周代には「燕の南」だったという記録が残っており、
更に呉王夫差の遺民であった、という伝承も存在した。
>沿岸航行=水行の場合は、小さな島や岬を過ぎるときに進行方向が短時間で変わるし
行程全体の方角は把握しがたいため、魏使の訪問時の記録では水行時の方角は
記録がなく、「沿岸に沿っていった=水行」程度の記載と考えるのが妥当
この部分が推定でしかないのは認めるが、十分に妥当な推定<
水行や渡海であっても、日の出方向や昼頃や夕方の太陽が見える限り、
「大体の方向」は間違えないもの。
>そして、最後の陸行は南向きなので、倭が南方民族という中華の常識と合わせると
水行も引きづられて南と書かれることになる <
魏使らや陳寿は、「引きずられて」いないから、×。 820日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:03:33.33
やはり、魏志倭人伝の、、、城、、、や、、、都、、、という文字を、真剣に考えれば、掘や土塁や鉄の武器や人民の住居が、発掘されない纏向遺蹟は、ただの墓場で、邪馬台国とは無関係だったことは、当たり前なのだな。。。
821日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:03:49.52
>>812
>奥山の妄想が見苦しい
奥山の妄想って、どれのこと? 822日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:04:15.53
>>813
おまえの妄想よりマシ
露営
移動式武器の倉庫 823日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:06:49.19
奥山ってさ
兵や巫女が通勤と言ったり、
野営と言ったり
その場しのぎの投稿おおすぎ
824日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:08:32.61
>>808
つまり証拠もなく想像でそのような仮設の倉庫があったと主張しているわけだ。
それで畿内説が成り立つと思う? 825日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:09:23.61
>>809
>古墳を築造してるので人がいなくなってしまったわけではない
吉野ヶ里の話かい?
祭殿とかのあった中心部に外来墓制の大型墓が作られてしまうのって・・外国にマウント取られたんだよな
独立国終了のお知らせです 826日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:09:27.64
>>813
>それ、おまえの想像だよな
畿内説がそう主張しているんだぞ?
すぐ上のレスも読めないのか? 827日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:09:52.79
仮設の倉庫が根拠じゃないから
828日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:10:52.86
>>825
吉野ヶ里が独立国だと言っている人はいない。
また畿内説は捏造するのか? 829日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:11:16.52
830日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:11:22.17
立派な水路を作ってるのに、兵や巫女は露営(野営)は無いよな
古墳造営基地でいいと思うよ
831日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:11:22.52
纏向は祭祀場と古墳を作るための建設現場であると考えると、むしろこの土地が外を圧倒する土地であると理解できる
この広大で巨大な建造物を作るためには多大な人間と物資が必要となる
つまり
「生活に何の意味もない建造物を作る為だけに」
「大量の人間と物資を継続的に外部から持ち込んでいる」
と言う事になる
これは単なる吉野ケ里のような環濠集落レベルの九州のクニでは考えようもない、
巨大な事業を推進する突出した規模を持つ勢力が存在している事を示している
まさに7万戸の人口を擁する邪馬台国の都としてふさわしい場所であると明白になる
832日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:11:47.21
<現代畿内説のひみつ>
・桜井市は纏向説の拡散のために5ch書き込みを容認しており、当初は専属スタッフも存在するなど、やりたい放題であった。
・纏向説開始時は、教科書に「畿内が有力」と書かれるまで、手段を選ばず拡散活動を行うことを宣誓していた。
・一方、橿原考古学研究センターでは5chへのアクセスは禁じられており、日常生活においても他者に考古学的見解を述べる事を厳しく禁じられていた。
・権威ある学者・研究者の見解に対し、反対意見を述べることはタブーとされていた。
833日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:11:53.60
墓制という要素だけで、真実を予測する、破綻した要素還元主義の考え方だな。。。
825日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:09:23.61
>>809
>古墳を築造してるので人がいなくなってしまったわけではない
吉野ヶ里の話かい?
祭殿とかのあった中心部に外来墓制の大型墓が作られてしまうのって・・外国にマウント取られたんだよな
独立国終了のお知らせです 834日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:14:12.86
纏向は計画的な都市といいながら野営は無いよな
835日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:14:34.98
多くの人出を要する建築物の近くで継続性のある生活痕の見られない遺跡が見つかったのだから、まず真っ先に推測されるのは「土木事務所」であるはずだ。
836日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:14:38.81
鮮人荒らしが思うことなどどうでもいい
837日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:15:37.31
838日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:15:55.77
482>>465
>>あの時代も卑弥呼、この時代も卑弥呼じゃ破綻する。纒向は、時代が違うのさ。<
>纏向遺跡が祭祀に使われていた時期は、ぴったり卑弥呼の時代だよ
<
そのグラフでは、「一年以内の光合成で出来た筈の1個の桃の種が、
140〜250年の間の110年間にばらけた計測値が出た事になり、
それはAMS法という計測法が、プラズマ化をした事に拠って計測値がばらけた事を示しており、
全く信用ならず、使い物にもならないものであった、という事だよ。 839日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:15:59.02
やはり、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する奥山氏は、頭が悪すぎるな。。。
831日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:11:22.52
纏向は祭祀場と古墳を作るための建設現場であると考えると、むしろこの土地が外を圧倒する土地であると理解できる
この広大で巨大な建造物を作るためには多大な人間と物資が必要となる
つまり
「生活に何の意味もない建造物を作る為だけに」
「大量の人間と物資を継続的に外部から持ち込んでいる」
と言う事になる
これは単なる吉野ケ里のような環濠集落レベルの九州のクニでは考えようもない、
巨大な事業を推進する突出した規模を持つ勢力が存在している事を示している
まさに7万戸の人口を擁する邪馬台国の都としてふさわしい場所であると明白になる
840日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:18:01.69
>>839
そうだね、、、、
纏向は祭祀場と古墳を作るための建設現場であると考えると、むしろこの土地が外を圧倒する土地であると理解できる
この広大で巨大な建造物を作るためには多大な人間と物資が必要となる
つまり「生活に何の意味もない建造物を作る為だけに」 「大量の人間と物資を継続的に外部から持ち込んでいる」 と言う事になる
これは単なる吉野ケ里のような環濠集落レベルの九州のクニでは考えようもない、巨大な事業を推進する突出した規模を持つ勢力が存在している事を示している
ということと、
まさに7万戸の人口を擁する邪馬台国の都としてふさわしい場所であると明白になる
ということが、全く繋がっていないな。。。 841日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:19:46.96
寺澤氏を含めて「纏向は都市」と言う思い込みによって実像が見えなくなっている
「計画的」
「大規模な」
と言う点においてはこれまでの全ての弥生遺跡等足元にも及ばない絶後の遺跡であるのは間違いない
だが
「都市」
と言う要素については今のところないに等しい
冷静に現実を判断するのであれば
【纏向は他の全ての弥生遺跡など比較にもならないレベルの計画的で大規模な古墳と祭祀場を作るための遺跡】
と呼ぶのが正しい
842日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:20:09.15
纏向は祭祀場と古墳を作るための建設現場であると考えると、むしろこの土地が外を圧倒する土地であると理解できる
この広大で巨大な建造物を作るためには多大な人間と物資が必要となる
つまり「生活に何の意味もない建造物を作る為だけに」 「大量の人間と物資を継続的に外部から持ち込んでいる」 と言う事になる
これは単なる吉野ケ里のような環濠集落レベルの九州のクニでは考えようもない、巨大な事業を推進する突出した規模を持つ勢力が、
巻向ではない場所を、首都にしていて、それは、邪馬台国ではなかった可能性の方が高いな。。。
843日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:20:11.04
吉野ケ里でさえ民は野営じゃ無いのに
纏向で野営は考えられないな
早く集落跡を見つけるのが先決だ
844日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:20:27.51
なぜか奈良県橿原市民が軒並み「九州説」である件w
考古学者の頭の悪さをよくご存じだそうでw
845日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:21:15.66
>>823
>奥山ってさ
>兵や巫女が通勤と言ったり、
>野営と言ったり
>その場しのぎの投稿おおすぎ
あんたが全奥病なだけだ
つまり自らの狂気を鏡で見てる 846日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:21:39.71
やはり、魏志倭人伝の、、、城、、、や、、、都、、、という文字を、真剣に考えれば、掘や土塁や鉄の武器や人民の住居が、発掘されない纏向遺蹟は、ただの墓場で、邪馬台国とは無関係だったことは、当たり前なのだな。。。
847日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:22:38.53
吉野ケ里なんてただの村落
そこに住んでそこで死ぬ連中の村
纏向は村人の生活の為の場ではなく、生活関係ない古墳と祭祀場を作る為だけの巨大建築現場
そもそもの建設の意図からして天と地ほどのレベルの差がある
吉野ケ里なんて比較にもならない
848日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:22:50.07
そろそろ、次回のスレッドが必要なのでは、ないのかな。。。
849日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:22:59.42
外から来て見る人が大勢いないと圧倒する存在にならないからな
850日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:23:00.13
上のほうで書いた、そういうゲームなども同じ、
なぜか神殺し(他の家の先祖とか、そういう意味)のような話ばかり
851日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:25:29.27
魏志倭人伝の、、、城、、、や、、、都、、、という文字を、真剣に考えれば、掘や土塁や鉄の武器や人民の住居が、発掘されない纏向遺蹟は、ただの墓場で、邪馬台国とは無関係だったことは、当たり前なのだが、
周辺にも人民の住居跡が多い吉野ケ里は、邪馬台国の良いモデルになるな。。。
847日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:22:38.53
吉野ケ里なんてただの村落
そこに住んでそこで死ぬ連中の村
纏向は村人の生活の為の場ではなく、生活関係ない古墳と祭祀場を作る為だけの巨大建築現場
そもそもの建設の意図からして天と地ほどのレベルの差がある
吉野ケ里なんて比較にもならない
852日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:26:08.89
やはり、魏志倭人伝の、、、城、、、や、、、都、、、という文字を、真剣に考えれば、掘や土塁や鉄の武器や人民の住居が、発掘されない纏向遺蹟は、ただの墓場で、邪馬台国とは無関係だったことは、当たり前なのだな。。。
853日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:26:24.27
>>831
前段はいいが
なんで、結論が邪馬台国の都になるの 854日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:26:50.09
そろそろ、次回のスレッドが必要なのでは、ないのかな。。。
855日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:27:32.15
そうだね、、、、
纏向は祭祀場と古墳を作るための建設現場であると考えると、むしろこの土地が外を圧倒する土地であると理解できる
この広大で巨大な建造物を作るためには多大な人間と物資が必要となる
つまり「生活に何の意味もない建造物を作る為だけに」 「大量の人間と物資を継続的に外部から持ち込んでいる」 と言う事になる
これは単なる吉野ケ里のような環濠集落レベルの九州のクニでは考えようもない、巨大な事業を推進する突出した規模を持つ勢力が存在している事を示している
ということと、
まさに7万戸の人口を擁する邪馬台国の都としてふさわしい場所であると明白になる
ということが、全く繋がっていないな。。。
856日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:27:35.84
>>844
>なぜか奈良県橿原市民が軒並み「九州説」である件w
このように
九州説はいつも
証拠が出せない主張ばかり 857日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:29:50.05
纏向遺跡は他の環濠集落や弥生遺跡などとレベルが違う空前絶後の遺跡
それを簡単にまとめるとこういう事になる
住居でもなければ、食糧生産の為の物でもない、巨大な祭祀場と巨大な古墳を作る為だけに大量の人間と物資を動員している
↓
纏向は広大な領域を持つ勢力の拠点
祭祀場や墳墓、王城と言ったそれまでの遺跡なら村の奥に厳重に隠していたものを単独であらわにして建築している
↓
環濠集落のようなムラレベルではなく、広大で安定した領域を持つ勢力の主催する場所であると分かる
この在り方からして何も説明する必要もない程の超越的な遺跡であると分かる
ただそこで終わってるだけの吉野ケ里含めた弥生集落などそもそも比較対象にもならないのが分かる
858日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:30:18.52
859日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:30:42.86
巻向に巨大な事業を推進する突出した規模を持つ勢力が、 巻向ではない場所を、首都にしていて、それは、邪馬台国の勢力ではなかった可能性の方が高いな。。。
860日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:31:04.81
482>>469
>纏向石塚古墳は卑弥呼死亡以前だし、おそらく那珂八幡古墳も卑弥呼死亡以前
この範囲が同一の墳墓祭祀文化を共有している時点で、別国というのは破綻したむなしい抗弁<
前方後円墳は(卑弥呼の)「冢」ではなく、始めから、×。
>そもそも倭種は東渡海の前も後も「皆」倭種という、帯方東南大海上の島にいるのは
全て倭種の国という表現でしかない
倭種の人が倭人で、魏志倭人伝は「倭人、在帶方東南大海之中」から書き出されている
倭種が倭国と別の集団という意味は最初からない<
いや、「倭種」という表現を使った限りは、
単なる「倭人」という関係とは違って、
「同種」や「同氏族や同部族」という意味も付加される事になり、
「同部族から別れた別種」である事も含ませた表現である事になり、
従って、魏使らや陳寿は、女王國から東渡海千里の場所にいた倭人は、
倭人から別れた別種もいた、という意味を含ませた、という事になる。 861日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:31:27.40
>>855
繋がってるだろ
これまで存在しなかった規模の隔絶した権力が
これまでに類を見ないリソースを投入して
マツリゴトの場を築いているのだから 862日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:33:28.05
>>859
魏志倭人伝時代の後の時代のことなので、あまり、深く追求する必要はないが、
九州の狗奴国と投馬国が、銅鐸王国を滅ぼしたことと関係があるのではないのかな。。。 863日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:34:00.24
>>831
パクるよ(逆も真なり)
纏向は祭祀場と古墳を作るための建設現場であると考えると、むしろこの土地が外を圧倒する土地であると理解できる
この広大で巨大な古墳を作るためには多大な人間と物資が必要となる
つまり
「生活に何の意味もない古墳を作る為だけに」
「大量の人間と物資を継続的に外部から持ち込んでいる」
と言う事になる
これは吉野ケ里のような環濠集落では無い
巨大な事業を推進する突出した規模を持つ勢力が存在している事を示している
まさに前代未聞の工場地帯(古墳造営基地)にふさわしい場所であると明白になる 864日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:34:06.85
纏向は人が生活する集落じゃなくて祭祀遺跡だよ。
王が亡くなるたびに集まって古墳作ってそのあとは解散。
そういう場を邪馬台と呼び、各地に点在していたのです。
魏志倭人伝では、たまたま九州のそれが目撃され、記録されたということ。
865日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:36:37.65
ちなみに纒向で盛んに営まれている
纒向型土壙祭祀や導水施設の祭祀には
古墳造営との関連性が見出せない
纒向が古墳造営キャンプなどでないことは明らか
866日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:36:46.78
もんはん?
ポケモンのようなキャラも出てくるし、
雷獣のようなモンスター
何なんだろう
867日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:36:55.69
>>862
狗奴国と投馬国ではなくて、
九州のコマビトが播磨で養豚場を任されたことが風土記に書かれている 868日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:37:49.54
最初の3つの古墳を作製するための労働力は、延6万人なので、農閑期100日だとして、3年かけたとすれば、
200人で足りるな。。。
861日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:31:27.40
>>855
繋がってるだろ
これまで存在しなかった規模の隔絶した権力が
これまでに類を見ないリソースを投入して
マツリゴトの場を築いているのだから 869日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:38:15.45
>>470
大和説は、死に体以前に、50年位前の時点で既に、
「南→東」などの嘘付き騙しの学説であった事がバレて、
絶滅してるよ。 870日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:38:27.97
871日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:38:29.97
様々な意見が飛び交ているが、それらをまとめると、
「奈良盆地は墓場としての利用価値しか無かった」
という事だ。
872日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:40:00.05
九州のコマビトというのは、倭人が朝鮮半島で捕獲した奴隷集団なのではないのかな。。。
867日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:36:55.69
>>862
狗奴国と投馬国ではなくて、
九州のコマビトが播磨で養豚場を任されたことが風土記に書かれている 873日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:40:13.63
調べてみた『アマツ』あまつ まがつ?
874日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:43:45.10
>>872
コマビト(朝鮮の人)は肥国の人
お前の大先輩になる 875日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:44:19.28
>>868
100日の農閑期の間に、30ある各地の村の村長が100人づつ引き連れて7日づつ労働すれば、古墳が1基、完成してしまうのだったな。。。 876日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:45:07.41
>>760
そうだね。
大規模古墳造営は何万人も何日もかかったろうに
たった数戸の定住住居の痕跡しかないとはね。
単にお祭りがあっただけではないかな。 877日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:46:18.13
コマビト(朝鮮の人)は肥国の者に捕獲され、畿内に輸出された可能性が高いな。。。
878日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:49:18.75
>>877
邪馬台国畿内説を宣伝する奥山氏の祖先は、日本統治時代や、朝鮮戦争がきっかけで、日本に移住したので関係がないな。。。 879日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:52:17.86
>>877
いや倭国では肥国の者をコマビト=異人と呼んだ 880日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:52:43.05
881日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:56:16.36
>>865
死者の霊を敬う斎場とか社殿もあったともとれる
水路は都市建設のためと言うより古墳造営のための運搬用でいいだろう。 882日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:57:02.96
>>876
>たった数戸の定住住居の痕跡しかないとはね。
ソースは? 883日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:57:45.48
おかしな設定ばかりでしょ?
嫌がらせのような事をしている〜〜〜(不明)〜〜〜が、
いるみたいな事を言っている人がいたり
ぽけもんの雷獣(仮)、モンハンの雷獣(仮)?
884日本@名無史さん2019/07/19(金) 11:58:21.36
奥山氏は、あまり、討論の本質とは関係ないことを話題にしようとしているが、
倭国では肥国の者をコマビト=異人と呼んだ、、、
という意見は、倭国=日本国という意味で使用しているのだろうか。。。
885日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:01:15.95
>>884
スレタイと関係ないレスを毎日書いてるのが
日本の歴史と何の関係もないお前 886日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:03:35.09
>>884
熊襲という者達は、倭国の者達の末裔で、元々、倭国は朝鮮半島の南部にも領土があったのだったな。。。 887日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:03:40.34
纏向が王都かどうかは
今後の調査で明らかにされるだろう・・何十年・なん百年先か
現段階で巨大都市とか王都と断定するのは時期尚早なのであろう
さてさて、鬼が出るか蛇が出るか
その時には現纏向王都説を唱える学者や研究者はもうこの世に居ないであろう
後世に禍根を残さぬように研究していただきたい
888日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:05:44.83
>>475
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説学者らのように、
たとえアカデミックポジションに就いていても、
思想宗教に狂って、「結論先きにありき」になってしまっては、
史料事実からの帰納的確率的な推論をする事も出来なくなり、
専門外の・・・・アホ詐欺師になってしまうしかない。
人類の常識知らずの大和説の人が、弥生時代の古代史を魏志倭人伝で
解き明かそうとしてもトンデモになるだけだ。 889日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:06:07.71
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人の奥山氏が、完全に論破されたので、反論を諦めて、嘘を言い放ってきたな。。。
885日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:01:15.95
>>884
スレタイと関係ないレスを毎日書いてるのが
日本の歴史と何の関係もないお前 890日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:07:54.58
畿内説の研究者の軽はずみな言動が非難の対象になっているのでは?
人寄せパンダもいいがぬいぐるみでは、化けの皮が剝がれるよ
891日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:08:41.62
雷獣で調べてみた?『鵺』の画像も出てきたり、
西王母?
892日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:09:45.27
893日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:09:54.23
やはり、魏志倭人伝の、、、城、、、や、、、都、、、という文字を、真剣に考えれば、掘や土塁や鉄の武器や人民の住居が、発掘されない纏向遺蹟は、ただの墓場で、邪馬台国とは無関係だったことは、当たり前なのだな。。。
894日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:10:20.30
それとも、シュテンドルフ(酒呑童子)?
895日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:10:36.35
896日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:11:22.56
今日は、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人の奥山氏の悪口が、しつこいな。。。
892日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:09:45.27
>>889
恨鮮人は連句点のお前 897日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:11:52.78
>>893
お前の比定地は熊本城の下じゃなかったっか? 898日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:13:35.01
>>896
古墳があったから巻向に都市機能があることが必然だという頭の悪い者が考え付く考えを、完全に論破されたからでは、ないのかな。。。 899日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:14:08.56
900日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:16:26.69
>>893
そういえば、熊本平野には、弥生時代の鉄の武器や人民の住居が、たくさんあり、熊本城の土台となった自然要害もあるな。。。 901日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:17:12.10
今日は、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人の奥山氏の悪口が、しつこいな。。。
899日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:14:08.56
>>896
しつこいのはお前たちの民族風習 902日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:18:00.75
>>901
古墳があったから巻向に都市機能があることが必然だという頭の悪い者が考え付く考えを、完全に論破されたからでは、ないのかな。。。 903日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:18:11.75
九州説ずいぶん追い詰められてるな
904日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:18:53.59
熊本城の土台となった自然要害は、繰り返し利用された可能性が、高いな。。。
905日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:19:34.57
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人の奥山氏が、完全に論破されたので、反論を諦めて、嘘を言い放ってきたな。。。
903日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:18:11.75
九州説ずいぶん追い詰められてるな
906日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:20:18.04
>>905
古墳があったから巻向に都市機能があることが必然だという頭の悪い者が考え付く考えを、完全に論破されたからでは、ないのかな。。。 907日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:20:37.23
>>900
掘や土塁や鉄の武器や人民の住居はどこにある? 908日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:21:28.78
教えてあげる義務はないな。。。
907日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:20:37.23
>>900
掘や土塁や鉄の武器や人民の住居はどこにある? 909日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:22:01.57
オクヤマ一人で何百レスもするなよ
それもクダラン罵声や駄弁だし
910日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:24:31.08
>>480
>纏向石塚古墳は卑弥呼死亡以前だし、おそらく那珂八幡古墳も卑弥呼死亡以前<
卑弥呼の墓は「冢」であるし、前方後円墳は冢ではないし、
前方後円墳は、266年の西晋武帝の「天円地方思想」の教唆なくしては思い付く筈もないから、
前方後円墳は、卑弥呼の墓よりもずっと後。
くびれ部緩やかな那珂八幡が3世紀後半半ば過ぎ位で、
くびれ部は鋭角の石塚は、那珂八幡よりも後で3世紀末。 911日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:25:01.31
>>908
ここは、邪馬台国畿内説が完全に叩き潰されたのか、、、
それとも、邪馬台国畿内説が、まだ、完全には叩き潰されてはいないで、危篤状態なのかを討論するスレッドなのだったな。。。 912日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:25:34.43
>>908
お前の比定地は熊本城の下だから
忘れるな 913日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:26:29.31
481>>481の訂正
「南→東」などの嘘付き騙しの指摘には黙って、
都合の良い文言は曲解捏造して九州説に反論出来たかのように装う、
これ、いかに大和説が他者から受けた批判を無視してるか、という事を示す好例だね
平気でウソをつき、都合の悪いものは無かったことにしてクサい物にフタする大和説体質 914日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:28:31.22
ここは、邪馬台国畿内説が完全に叩き潰されたのか、、、
それとも、邪馬台国畿内説が、まだ、完全には叩き潰されてはいないで、危篤状態なのかを討論するスレッドなので、
奥山氏は、邪馬台国熊本城説の話題を討論したいのなら、自分で、邪馬台国熊本城説のスレッドを作製すれば良いのではないのかな。。。
912日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:25:34.43
>>908
お前の比定地は熊本城の下だから
忘れるな 915日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:28:32.11
『倭人 朝鮮人』だと書いてあるでしょ?
そこから別れた家なども、同じだという意味、
血なども繋がっていない家(人)もあるとか
916日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:30:30.21
古墳があったから巻向に都市機能があることが必然だという頭の悪い者が考え付く考えは、完全に破綻したことを、宣言します。。。
917日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:33:04.30
918日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:36:20.07
纏向遺跡の掘立柱建物に詳しい方に質問します
復元された、柱穴ですが
発掘された大小の柱穴より数が少ないように思えるのですが間違っていますか?
919日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:37:09.54
古墳造営基地局を握りしめて邪馬台国だと言い張る畿内説哀れwww
920日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:39:16.98
博多湾岸の中心の那珂遺跡も古墳と周溝墓造営地
921日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:39:29.09
古墳造営基地局を大集落などと語る学者は頭逝ってる天然詐欺師だよなwww
922日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:40:36.98
詳しいことはわからないけど、同じような話でしょ
かっぱっぱー、酒呑童子と・・・、・・・、
923日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:42:04.88
何十年も彫り続けて価値ある出土品ゼロの纏向遺跡www
地元の掘削業者によるメシウマ事業www
924日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:42:06.78
日本の学者を詐欺師と呼ぶのは鮮人だけ
925日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:47:38.99
日本の学者は詐欺師では無い
思い込みが激しいだけ
その思い込みを正当化するのはいけない
冷静に判断すべき 纏向はまだ道半ば
926日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:48:54.16
927日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:49:37.62
482>>498
>半島の循海岸水行は、倭国上陸まで一万里、海峡渡海一回千里×3という二つの設定値から、
引き算で出しただけの現実の地理とは無関係の値 測ってないんだよ<
皇帝の命令で、卑弥呼に金印と詔書と大量の下賜品を運んだ魏使らが、
実測もせずに、勝手な数字を書いて提出して、部下や後続の使節に依って嘘がバレたら、
そりゃ、魏使らの首が危ないんだから、
魏使らはそんなアホな事はしないもの。
つまり、類スレ主なら、確実に首が無くなる。 928日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:50:00.30
929日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:50:12.10
現在の発掘状況では纏向が古墳造営基地兼斎場と言われても不思議ではない
930日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:52:20.81
学者の99%が思い込みの激しい馬鹿であることは事実。
931日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:52:58.61
932日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:53:12.03
>>926
お前ら鮮人は日本の学者を拒絶する
韓国でも学者は拒絶はしない 933日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:53:55.05
鮮人はしつこく騒げば何か与えてもらえると思ってる
934日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:55:36.06
482>>499
>でも、糸島にも比恵那珂遺跡にも、列島最大の墳丘墓も径百歩の墓もないだろ?
ここで、北部九州が王都というのが否定されるんだよww <
卑弥呼は、姫氏の郷里に近い祇園山に、径百余歩の冢を作って貰って、
62人以上の奴婢の殉葬もして貰って、埋葬された。 935日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:55:54.51
古墳があったから巻向に都市機能があることが必然だという頭の悪い者が考え付く考えは、完全に破綻したことを、宣言します。。。
936日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:57:11.44
騒ぐだけの鮮人北部九州説(朝鮮史観)と
無知であるが故の九州老人を区別しなければならない
937日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:57:42.13
>>932
ソウル大学の学者は親日なんだけどなwww
迫害されてるなwww 938日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:58:31.40
939日本@名無史さん2019/07/19(金) 12:58:59.34
>>936
ちょっと日本語がおかしいいぞ?
超鮮人か?www 940日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:00:17.02
>>857
>纏向遺跡は他の環濠集落や弥生遺跡などとレベルが違う空前絶後の遺跡
レベルの違う田舎
せいぜいハコモノ行政? 941日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:01:13.43
吉野ケ里が 畿内説研究者に根拠が少ないにもかかわらず纏向=王都に拍車をかけたと思う
942日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:01:23.41
>>857
>祭祀場や墳墓、王城と言ったそれまでの遺跡なら村の奥に厳重に隠していたものを単独であらわにして建築している
荒野にポツンと建物を建てたら王都だと言い張れるわけ?
こんな馬鹿な論説を信じろと? 943日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:02:31.39
>>937
親日かどうかの感情ではなくて
学者レベルの異論は拒絶ではない
鮮人九州説は単なる長田区役所襲撃事件のような暴動 944日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:02:34.11
>>864
>そういう場を邪馬台と呼び、各地に点在していたのです。
>魏志倭人伝では、たまたま九州のそれが目撃され、記録されたということ。
卑弥呼はどこにいたの?
王城はどこにあったの? 945日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:02:55.22
>>935
100日の農閑期の間に、30ある各地の村の村長が100人づつ引き連れて7日づつ労働すれば、古墳が1基、完成してしまい、
その間に、纏向に居る労働者は、平均で、200人程度でしかないという真実は、
古墳があったから巻向に都市機能があることが必然だという頭の悪い者が考え付く考えを、完全に破綻させてしまったのだね。。。 946日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:03:03.37
九州説 vs 畿内説は、倭国大乱で分裂した
北部九州邪馬台国連合30国 vs 畿内・東海含む狗奴国連合70国
の時代から続く伝統です。
947日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:03:13.28
948日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:04:30.38
約3戸
949日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:04:32.79
鴨(ダック)せんせー、ねずみーらんど、・・・、
なぜか、ほとんど同じような話だしな、
ほんとーは、ねずみーらんどのほうが、ホンモノなんだろう?
みたいな事にもなってくる
950日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:04:44.93
>>941
唐古鍵から纏向へ方針変更した頃、かなり焦ってたからなw 951日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:05:06.30
952日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:05:22.04
>>920
博多湾沿岸は膨大な数の住居跡と墓があり、人口が集中していた。
纒向は七万戸とされる邪馬台国にふさわしいか? 953日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:06:52.40
>>941
畿内説の危機感を煽ってしまい、道を誤らせたのか。 954日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:07:03.43
955日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:07:31.86
956日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:07:35.01
>>946
中国の知り合いもまさにそう言ってたワロタwww 957日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:09:00.48
建物が4棟しかなくても、守りを固める兵士や卑弥呼に仕える千人の奴婢は露営した?
または毎日、徒歩か運河で通勤してきた?
畿内説は頭おかしいんじゃないか?
958日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:09:32.51
959日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:10:12.97
今日の宣伝係員は、BBAなのだろうか、、、
960日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:11:08.89
そもそも「古墳時代」という時代定義は必要なのか?
古墳なんて前方後円墳よりずっと昔からあるんだぞ?
例: 961日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:11:54.49
962日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:12:17.72
482>>505
>原文は自女王國以北、其戶數「道里」可得略載であって、「里程」とは書いてない <
いや、「道の里」と書いてあれば、本来は「道の里数」が原則。
>日数で「道里」を表すのも普通の表現 <
日数が測られていない場合などの止むを得ない時の処理。
>戸数の略載と合わせて、投馬国、邪馬台国も戸数道里略載の「女王国より以北の国」なのは確定<
投馬國は、先に不彌國の南の「水行二十日」の位置である事を記載してあるから、
「自女王國以北」には、投馬國は原則として、含まれない。
>つまり、邪馬台国まで魏使は訪問しているし、魏使に可能な方法すなわち日数で
道里を記録しているということ <
何だ?、類スレ主は「淮南子」の記録の借用だ、と言っていたのに、
「日数や道里はきちんと計測記録していた」とでも、言い換えるんか?。 963日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:14:26.21
>>958
漢字の読めない畿内超鮮人には史書が理解できないんだろうとも言っててワロタわwww 964日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:15:17.14
縄文式土器、弥生式土器、古墳という物事で、要素還元的に時代を区分してしまった、頭の悪い人物がいるのではないのかな、、、
960日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:11:08.89
そもそも「古墳時代」という時代定義は必要なのか?
古墳なんて前方後円墳よりずっと昔からあるんだぞ?
例: 965日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:18:00.41
>>964
弥生式土器という土器の出現が、稲作開始の象徴と考えてしまった、桜井市出身の考古学者がいたのではないのかな。。。 966日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:18:04.86
「女王国以北」は「女王国の北からこちら側」を意味する。
967日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:18:38.56
>>963
その友だちは中華料理店のバイトか何か? 968日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:19:22.05
「纒向=女王の都」説が王道になってしまったので
古墳造営キャンプ説という悪手に頼るしか無くなってしまった九州説の今後が
悲惨なくらいジリ貧なのも見えてしまった
目処のついた纒向からは発見がこれからも続くが、比定地すら定まらない九州説には望みが無い
九州説おじいちゃん達の余命も少ないが、残念ながら多分その生前に邪馬台国論争は片がつくだろう
もちろん畿内説一択で
969日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:21:00.11
数年前の、とあるスレ
ワニさんが〜という話をしている人がいたり、
『ジエン・モーラン』のことでしょ?
ワニのようなキャラクターに見えるし
970日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:22:28.40
>>967
世間知らず丸出しやなアホかwww
うちはグローバル企業なんだよ奈良の田舎モンには縁の無いwww 971日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:24:50.26
>>970
お前の知り合いなら7payの不正使用で捕まった中国人だろ 972日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:29:15.69
鮮人九州説は中国人なら誰でもいい憧れの存在なんだろうが
空港の手荷物検査でひっかかってる中国人はかなり民度が低い
973日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:33:10.36
>>971
田舎モンらしい情けない反論だなショボwww 974日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:35:56.88
>>973
福岡人は日本の古都奈良を田舎モンとは言わない
関西の丹壺鮮人あたりがよく言うよな 975日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:36:38.78
482>>509
>辻地区の居館域は、卑弥呼の遣使の頃には別の場所に移っていたというのが
現在の多数説だよ <
?。そんな事、テンプレに書いてあったのか?。仲間割れでもするんかい?。
>この桃核の測定値は、卑弥呼の遣使の時代に確実に纏向に王都級の遺跡が存在したことを
示すものだ<
ダメだ。一個のモノの種のC14は、その採取前の1年以内の吸収C14になるのに、
それが110年もの間の年代幅で計測された、という事は、(β線法では起こり得ず)、
プラズマ化をしたためのAMS法が失敗であった事の証拠だ。
つまり、全体は110年位古く出てしまっていた、という事の証拠だ。
>そこから4世紀に入るまでは確実に存続しているから、卑弥呼の時代にぴったり重なる時期に
倭国最大の遺跡が纏向に存在したことが証明される<
データ分布は140〜250年位であるから、110年を足せば、250〜360年になり、
卑弥呼の生存の3世紀前半から、完全に外れてしまって、
桃核の検査では、卑弥呼の生活場所であった事の完全否定だ。
>ちなみに、卑弥呼の遣使の頃の居館域は尾崎花地区周辺の微高地と考えられている
ここはまだ発掘が進んでいないけれど、柵列が出たりしているところだよ<
そんな事はテンプレに書いてあったのか?。
しかし、尾崎花であっても、「南≠東」に拠って、×であった事には変わりがない。 976日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:36:49.49
鉄文化の浸透度合いが当時の勢力の規模を表す指標である。
■魏志韓伝より
國出鐵韓?倭皆従取之,諸市買皆用鐵如中国用銭,又以供給二郡
(国には鉄が出て、韓、?、倭がみな、従ってこれを取っている。
諸の市買ではみな、中国が銭を用いるように、鉄を用いる。
また、楽浪、帯方の二郡にも供給している。)
■重要事項
・3世紀頃は鉄は市で通貨として使えるほど貴重だった。
・九州では武器や農具に鉄を使えるほど潤っていた。
・しかしこの時代の畿内からは鉄が出土していない。
↓鉄の出土状況
■推測されること
・畿内政権は鉄を取りに行っていない
・畿内政権は九州に鉄を分けてもらえなかった
・一大率は畿内への鉄の供給を行わなかった
■結論
・3世紀の北部九州と畿内の関係は希薄だった
・一大率は畿内政権とは無関係だった
・畿内は倭国ではなかった(もしくは狗奴国?)
■裏付け
纏向遺跡では九州産や半島産の土器は出土していない。
もと歴博の館長もやった佐原真いわく、
「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていないのだ」(開き直り) 977日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:37:44.55
978日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:37:46.35
今日の奥山氏は、纏向の都市機能のことで完全に論破されたので、嘘や悪口しか言わなくなったのだが、
畿内の北側には、九州島も壱岐も対馬も無いことをどのようにして、説明できるのだろうか。。。
966日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:18:04.86
「女王国以北」は「女王国の北からこちら側」を意味する。
979日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:40:20.25
常識的に倭国の物理的規模を考える。
韓半島には大きくわけて馬韓,辰韓,弁韓の3つの連合国が存在していた。
「馬韓」で約50国とのこと。
倭国が30国からなる「邪馬台」連合国ならば、北部九州の規模が妥当である。
980日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:40:34.74
>>978
畿内のことはいいから熊本城の下から出たものを研究しろよ 981日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:44:39.02
僕達は、熊本城という美しい城を誇りに思っているし、熊本城の地下に眠っている可能性を否定できない卑弥呼の死体が、安らかに眠り続けることも、大事だと思っているのだったな。。。
980日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:40:34.74
>>978
畿内のことはいいから熊本城の下から出たものを研究しろよ 982日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:45:13.39
今日の奥山氏は、纏向の都市機能のことで完全に論破されたので、嘘や悪口しか言わなくなったのだが、
畿内の北側には、九州島も壱岐も対馬も無いことをどのようにして、説明できるのだろうか。。。
966日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:18:04.86
「女王国以北」は「女王国の北からこちら側」を意味する。
983日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:45:32.22
984日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:46:24.07
>>979
千戸の国も七万戸の国もあるという史料事実を無視した推定は非常識 985日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:46:58.64
100日の農閑期の間に、30ある各地の村の村長が、10kg以上の荷物を担いだ100人づつ引き連れて平均で7日づつ、交代で労働すれば、古墳が1基、完成してしまい、
その間に、纏向に居る労働者は、平均で、200人程度でしかないという真実は、
古墳があったから巻向に都市機能があることが必然だという頭の悪い者が考え付く考えを、完全に破綻させてしまったのだね。。。
986日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:47:21.40
>>978
966日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:18:04.86
「女王国以北」は「女王国の北からこちら側」を意味する。
「こちら側」という視点がどこなのか?を考えながら読み解くべき。
俺は半島南部側の倭国領域だと思う。
北部九州一円までを管轄していた女王が半島南部の邪馬台国に住んでいたという事じゃないかなと。
水行〜〜〜は帯方郡からの道程の事でしょう。 987日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:48:43.13
>>981
美しい熊本城を造ったのは尾張の加藤清正というのは知ってるか? 988日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:48:52.85
989日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:49:57.10
482>>515
>実際に纏向遺跡を見て研究している研究者の見解は
例えば「日本における都市の初現」だったりするんだが?ww
橋本輝彦: 東アジアにおける都市の成立 (奈良女子大学21世紀COEプログラム報告集Vol. 22), pp.81-102 <
橋本輝彦か。
当然、弥生銀座との比較もしていないんだろうし、
こんなアホに、歴史を教えられる女学生が可哀想だな。 990日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:52:11.15
僕達の利用する、レベルの高い掲示板の討論会では、卑弥呼が朝鮮半島の南部まで出向いて中国人と会ったという意見を発表する者がいたな。。。
986日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:47:21.40
>>978
966日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:18:04.86
「女王国以北」は「女王国の北からこちら側」を意味する。
「こちら側」という視点がどこなのか?を考えながら読み解くべき。
俺は半島南部側の倭国領域だと思う。
北部九州一円までを管轄していた女王が半島南部の邪馬台国に住んでいたという事じゃないかなと。
水行〜〜〜は帯方郡からの道程の事でしょう。 991日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:52:44.72
992日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:53:11.72
>>988
だから福岡県は韓国の1/20しかない
佐賀はどうでもいい 993日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:54:23.65
吉野ケ里が 畿内説研究者に根拠が少ないにもかかわらず纏向=王都に拍車をかけたと思う
994日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:55:32.98
482>>517
>そこまで正確に古墳の年代は分からなくても、纏向石塚古墳は庄内0式期だから、
どうやっても卑弥呼の遣使よりも古いんだよ <
ダメだ。
石塚は、くびれ部鋭角できれいな比率の庄内1の前方後円墳であり、
卑弥呼の冢よりも新しいし、那珂八幡よりも進化型であるから、
3世紀末にしかならならず、卑弥呼よりも50年位新しい。 995日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:56:23.55
>>991
だから奈良人は井の中の蛙の田舎モンだから、そんな事も考えず発言するんだよwww 996日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:56:28.76
>>960
旧石器新石器青銅器鉄器と
使ってる道具による時代区分なら
今は石油時代といわなければいけない
人類史の時代区分と歴史の時代区分が矛盾してるんだよ 997日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:56:52.07
>>991
古都
1 古い都。昔の都。旧都。「古都奈良」
2 古都保存法および明日香村法に基づいて、わが国の往時の政治・文化の中心等として歴史上重要な地位を有する都市として指定された市町村。
京都市、奈良市、鎌倉市・逗子市、斑鳩町、天理市・橿原市・桜井市、明日香村、大津市の10市町村が指定されている。 998日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:59:36.40
桜井市が都だった証拠は、ないのだったな。。。
999日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:59:53.28
粘着してる九州説は祖国に帰れよ
1000日本@名無史さん2019/07/19(金) 13:59:59.23
>>990
朝鮮半島の南部まで出向いてというより、そこに居たんでしょう。
そこが邪馬台国だから。
そして北部九州一円が「女王国」なんだよ。
それで史書の記述と矛盾することもないよ。 lud20230203175334ca
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