11 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:00:16.97
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://2chb.net/r/history/1564239338/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 21 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:01:44.36
◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
31 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:02:01.51
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
41 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:02:53.94
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
(本項 続く)
51 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:03:27.57
◆3ー2
(承前)
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
61 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:03:56.91
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
71 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:04:13.40
◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
81 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:04:35.00
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
91 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:07:40.19
(承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として
環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
101 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:08:44.53
(承前)
◆6−3
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
111 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:08:57.72
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
(本項 続く)
12日本@名無史さん2019/07/30(火) 12:08:59.46
畿
内
説
は
破綻
し
ま
し
た
131 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:09:40.50
(承前)
◆7ー2
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
141 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:10:13.86
◆8−1(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
(本項 続く)
15日本@名無史さん2019/07/30(火) 12:10:26.36
畿
内
説
は
破
綻
し
ま
し
た
161 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:10:51.50
(承前)
◆8−2
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
17日本@名無史さん2019/07/30(火) 12:11:19.26
破綻
破綻
破綻
破綻
破綻
破綻
破綻
破綻
畿内説
破綻
破綻
破綻
破綻
破綻
破綻
破綻
破綻
181 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:11:31.49
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 191 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:11:55.04
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
20日本@名無史さん2019/07/30(火) 12:12:10.81
畿
内
説
破
綻
211 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:16:08.87
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
(本項 続く)
221 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:16:46.84
(続き)◆FAQ 3−2
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項続く)
23日本@名無史さん2019/07/30(火) 12:18:12.05
(承前)
◆FAQ3−3
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。
ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。
このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
241 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:18:58.91
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
251 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:19:13.79
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
261 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:19:35.55
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
27日本@名無史さん2019/07/30(火) 12:19:45.16
破綻
破綻
破綻
破綻
破綻
破綻
破綻
破綻
破綻
畿内説
破綻
破綻
破綻
破綻
破綻
破綻
破綻
破綻
破綻
281 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:21:46.58
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、
鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
(続く)
29日本@名無史さん2019/07/30(火) 12:22:10.42
>>1
>邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
> 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう
畿
内
説
は
破
綻
し
ま
し
た 301 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:22:18.57
(続き)
◆FAQ 12−2
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。
311 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:22:32.88
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
32日本@名無史さん2019/07/30(火) 12:22:46.71
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畿
内
説
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331 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:22:47.71
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
341 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:23:01.71
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
35日本@名無史さん2019/07/30(火) 12:23:39.81
破綻
破綻
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破綻
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破綻
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畿
内
説
破綻
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破綻
破綻
破綻
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361 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:23:41.81
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
37日本@名無史さん2019/07/30(火) 12:24:15.71
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381 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:24:17.43
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
39日本@名無史さん2019/07/30(火) 12:25:05.11
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401 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:26:19.49
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、郡県内では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
41日本@名無史さん2019/07/30(火) 12:27:00.64
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421 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:27:07.17
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 431 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:27:28.33
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代)
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) 44日本@名無史さん2019/07/30(火) 12:27:37.16
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451 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:27:53.86
(承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
461 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:28:49.69
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
471 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:29:32.81
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
481 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:29:51.78
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。
49日本@名無史さん2019/07/30(火) 12:29:57.51
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畿内説
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501 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:30:12.12
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
51日本@名無史さん2019/07/30(火) 12:30:36.92
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521 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:32:28.33
◆FAQ 31−1
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
(続く) 53日本@名無史さん2019/07/30(火) 12:33:01.36
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541 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:33:08.53
(続き)
◆FAQ 31−2
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
551 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:33:57.07
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
561 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:34:13.26
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
57日本@名無史さん2019/07/30(火) 12:34:25.14
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581 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:34:28.33
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
591 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:34:45.60
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
60日本@名無史さん2019/07/30(火) 12:34:49.48
>>49
>破綻
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>破綻
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>畿内説
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>破綻
>破綻
>破綻
>破綻
>破綻
>破綻
>破綻
>破綻
>破綻 611 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:36:09.67
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
621 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:36:28.46
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 63日本@名無史さん2019/07/30(火) 12:36:37.75
破綻
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畿内説
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破綻
641 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:37:21.34
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
(続く)
651 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:37:41.91
(続き)
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
66日本@名無史さん2019/07/30(火) 12:37:46.08
畿
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説
は
破綻
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ま
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671 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:37:56.55
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
68日本@名無史さん2019/07/30(火) 12:38:24.10
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691 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:39:11.33
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。
(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
701 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:39:47.04
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
711 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:40:12.79
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
721 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:40:58.55
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
731 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:41:36.91
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
74日本@名無史さん2019/07/30(火) 12:41:39.72
破綻
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破綻
破綻
751 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:42:00.19
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
76日本@名無史さん2019/07/30(火) 12:42:03.28
737 名前:日本@名無史さん 2019/07/30(火) 12:40:05.27
自郡至女王國 萬二千餘里
(中略)・・・・
計其道里 當在會稽 東治之東
なるほど
陳寿は、ここでも日数でなく、里数の萬二千餘里を「道里」としている。
77日本@名無史さん2019/07/30(火) 12:42:12.21
畿
内
説
は
破
綻
し
ま
し
た
781 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:42:21.50
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
79日本@名無史さん2019/07/30(火) 12:42:57.34
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801 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:43:14.46
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
81日本@名無史さん2019/07/30(火) 12:43:41.88
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821 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:43:43.44
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
831 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:44:02.61
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
84日本@名無史さん2019/07/30(火) 12:44:05.34
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851 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:45:08.29
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定
86日本@名無史さん2019/07/30(火) 12:45:15.19
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871 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:45:32.38
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 88日本@名無史さん2019/07/30(火) 12:45:52.70
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891 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:46:23.05
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
90日本@名無史さん2019/07/30(火) 12:46:50.24
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91日本@名無史さん2019/07/30(火) 12:48:25.16
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921 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:55:59.67
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
931 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:56:19.45
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
94日本@名無史さん2019/07/30(火) 12:56:51.68
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951 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:57:08.70
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
96日本@名無史さん2019/07/30(火) 12:57:28.84
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971 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:57:45.26
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
981 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:58:08.35
(承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
99日本@名無史さん2019/07/30(火) 12:58:09.48
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1001 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:58:37.33
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 1011 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 12:58:53.68
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
102日本@名無史さん2019/07/30(火) 12:59:04.59
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ま
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1031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 13:02:01.07
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
1041 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 13:02:49.11
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀)
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 1051 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 13:02:54.15
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀)
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 106日本@名無史さん2019/07/30(火) 13:03:03.72
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1071 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 13:03:33.77
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。 1081 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 13:03:56.54
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
109日本@名無史さん2019/07/30(火) 13:04:00.08
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1101 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 13:04:14.86
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。
111日本@名無史さん2019/07/30(火) 13:04:39.11
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1121 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 13:05:14.43
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
113日本@名無史さん2019/07/30(火) 13:05:37.60
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1141 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 13:05:56.62
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
115日本@名無史さん2019/07/30(火) 13:06:33.72
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1161 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 13:07:16.85
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
1171 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 13:07:46.66
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。
1181 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 13:08:14.33
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。
1191 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 13:08:32.00
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。 120日本@名無史さん2019/07/30(火) 13:09:41.79
畿
内
説
は
破
綻
し
ま
し
た
1211 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 13:10:50.90
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰) 122日本@名無史さん2019/07/30(火) 13:10:58.08
またクソスレ立てたのかよ・・・
アホじゃねーのか
1231 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 13:11:35.65
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
1241 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 13:11:59.54
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 125日本@名無史さん2019/07/30(火) 13:12:09.24
畿
内
説
は
破綻
し
ま
し
た
1261 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/30(火) 13:12:22.53
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 なし
127日本@名無史さん2019/07/30(火) 13:20:13.91
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。
また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。
ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。
つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。
というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。
アホの>>1
アホの>>1 128日本@名無史さん2019/07/30(火) 13:21:09.15
【邪馬台国はどんな国?】
「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。
「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。
「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
鉄は圧倒的に九州にある。
「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。
三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。
その山に丹あり
弥生時代の奈良では、朱丹は二箇所で しか使用されていない。
福岡県では41箇所の遺跡で使用されている。 129日本@名無史さん2019/07/30(火) 13:28:52.59
鉄鏃の分布なんか見ると絶望的だよね
奈良なんて東京や千葉の10分の1だもんね
発掘なんて東京に比べりゃはるかに恵まれた環境なのに
九州に比べれば2桁違う
農具は木製や石器なんて西日本の盟主だの王都だのってどんな妄想だよ
吉備や尾張の方が全然上
ちなみに湖沼、沼地の干拓ってのは水を抜くのに苦労をする
治水のために水路を掘ると結構な残土が出るんだな
奈良盆地に3世紀以降古墳が出来たっつのはまあそういう事だ
摂津河内も無理当時は河内湖が汽水から淡水に移行する頃で農地に出来るのはまだまだ後
130日本@名無史さん2019/07/30(火) 13:31:18.66
九州説そうとうアセってるな
131日本@名無史さん2019/07/30(火) 13:35:40.94
132日本@名無史さん2019/07/30(火) 13:39:04.27
前スレ>995
http://2chb.net/r/history/1564239338/995
>そして倭国大乱に突入するのだから、私の言う通りだな。
おいおい、倭国大乱が始まる50年以上前には廃れてるんだが?
倭国大乱前に北部九州の勢力はオワコンになってるんだよ
その中で北部九州最大国の奴国(比恵那珂遺跡群)が、畿内との協調関係を
強めていく
「北部九州から対馬海峡のローカル国家」なんてありえない 133日本@名無史さん2019/07/30(火) 13:43:19.25
前スレ>999
http://2chb.net/r/history/1564239338/999
>甕棺墓は筑紫の王家だが、倭国は筑紫に加えて豊国、肥国がある。
>志賀島から遠賀川流域、さらに東まで豊国王家だ。
それ、これまでの「後漢書の記述で対馬海峡のところだけのローカル国家だ」って言ってたのと
完全に矛盾するのに気づかないんだww
奴国より南の熊本まで入れたら、奴国が極南界にならないだろ?ww
甕棺墓は天孫族の墓制と言いながら、別王家も甕棺墓で存在するとかいい加減もいいとこ
思いつきだけで、話を膨らませるから矛盾だらけになる
ザラゴキもそうだけど、九州説は知的能力の劣る人しかいないからダメダメだww 134日本@名無史さん2019/07/30(火) 13:45:36.46
>>125みたいな頭のおかしい書きこみも、連続句読点なんだよなww
連続句読点は、畿内説に親族一統を皆殺しにされたらしいww 135日本@名無史さん2019/07/30(火) 13:48:27.80
もれ(仮)の言っているゴキと、
お前たちの言っているゴキは違うんだよ
あと女王(王女?)などの話も同じ、
王〜の娘みたいな意味
136日本@名無史さん2019/07/30(火) 13:51:26.88
>>133
>甕棺墓は天孫族の墓制と言いながら、別王家も甕棺墓で存在するとかいい加減もいいとこ
そんなことは言ってないよ?
読み直したら? 137日本@名無史さん2019/07/30(火) 13:53:00.72
>>132
>おいおい、倭国大乱が始まる50年以上前には廃れてるんだが?
どの遺跡を何年に比定しているのかな?
そんなに正確に遺跡の年代がわかるのかなw
君の意見はただの印象操作にしか聞こえない。
具体的に年代を示したら?
その根拠もよろしく。 138日本@名無史さん2019/07/30(火) 13:53:36.02
全ては畿内説お得意の年代前倒しだよな。
記紀でやったのと同じことをやり直しているだけ。
139日本@名無史さん2019/07/30(火) 13:53:45.13
倭猿、倭猿と言っている人達がいたり、
どうぞ真似してくださいとか
140日本@名無史さん2019/07/30(火) 13:54:00.34
737 名前:日本@名無史さん 2019/07/30(火) 12:40:05.27
自郡至女王國 萬二千餘里
・・・・(中略)・・・・
計其道里 當在會稽 東治之東
なるほど
陳寿は、ここでも日数でなく、里数の萬二千餘里を「道里」としているではないか!
141日本@名無史さん2019/07/30(火) 13:56:20.04
京アニ事件の犯人が、京アニが作った狂人であることのように、頭の悪い奥山氏は、頭の悪い畿内説によって作られた狂人である、という事なのだな。。。
142日本@名無史さん2019/07/30(火) 14:00:22.01
キュウリのような葉、葱の華。
王母〜龍宮〜寒いな〜・・・?の家の写真なんだけど。
渡来人(漢人、むかーしの中国の人?)だと書いてあるでしょ、
そのような事を言っている人もいたり
143日本@名無史さん2019/07/30(火) 14:03:07.13
頭の悪い奥山氏の、頭の悪い発言によって、畿内説が破綻してしまったので、面白い遊びが、減ってしまったのでは、ないのかな。。。
144日本@名無史さん2019/07/30(火) 14:07:29.47
老婆の話も、おかしな話ばかりでしょ
当時住んでいた家には、本や書が沢山並んでいたとか、
そういうものも誰かにあげちゃったのかな〜とか
145日本@名無史さん2019/07/30(火) 14:13:47.42
当時の専門家(不明)に聞いてみたほうが良い
家は軍人ではないような事を言っているし、
戦争などには行っていないとか、でも何かの制服を着ているでしょ
146日本@名無史さん2019/07/30(火) 14:15:58.02
あの城もこの城も、
必死の思いで城壁を繕ったと思ったら、皆、敵の牙城だったとさ・・・、畿内お伽話、おしまい。
147日本@名無史さん2019/07/30(火) 14:17:39.44
俺様は、桜井に卑弥呼の白があると想っている大学員性だ。
なぜなら、相対生論では、時間は距離と等価だからだ。
俺様を論破できないから、邪馬台国が九州だと考える御前達は、悔しさが高まっただろう。
148日本@名無史さん2019/07/30(火) 14:18:54.39
日本の小説などがあるでしょ、
ゴーストライターか何かがいるのかな?
149日本@名無史さん2019/07/30(火) 14:21:39.24
なぜか(実際は?)家の話をしているような作品があったり、
150日本@名無史さん2019/07/30(火) 14:24:25.94
151日本@名無史さん2019/07/30(火) 14:25:08.31
俺様は、75パーセントの確率で、前方後円墳が卑弥呼の墓だったと想うのだったな。
そして、75パーセントの確率で、掘っ立て柱が、卑弥呼の柱だったと想うのだったな。
そして、75パーセントの確率で、卑弥呼がカエルを食べていたと想うのだったな。
だから、俺様が、ベジタリアンになれば、96パーセントの確率で、桜井の観光関連が儲かるのではないのかな。
152日本@名無史さん2019/07/30(火) 15:25:08.69
魏志
馬韓 鬼神を祭る 卑弥国がある
邪馬台国 鬼道により卑弥呼が統治する
答えは同じ書物の中にあった
153日本@名無史さん2019/07/30(火) 15:37:40.91
ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「倭国(女王之所都)=計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋初代皇帝・司馬炎は、祖父・司馬懿(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまったミスを誤魔化し、呉を滅ぼす先鞭を付けたことにしてあげたかった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て宿敵孫呉との戦いにおいて、最高の牽制となるその背後に倭国「女王之所都」があるためには、
ライバル孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡(蘇州)「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南の福州の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳朱崖に似ている。
そこで陳寿が行った忖度が、九州島(倭国)が、狗邪韓国(伽耶)の南から儋耳朱崖(南越の北)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む「南北に」長大な列島であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国@】と、「當在会稽【東冶】之東」となる【奴国A(幻)】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国@】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」←2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島をベースに、幻の邪馬台国島を、そして東治⇔東冶間の「陸行(徒歩)一月」を転用して、幻の【奴国A】を創り、福州「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。
154日本@名無史さん2019/07/30(火) 15:39:35.09
155日本@名無史さん2019/07/30(火) 15:40:48.34
>>138
>全ては畿内説お得意の年代前倒しだよな。
これが>>154に書いてある
「編年研究は信じない 」ですね! 156日本@名無史さん2019/07/30(火) 15:42:06.71
>>136
>そんなことは言ってないよ?
>読み直したら?
これは、>>154の
「根拠は僕がそう思ったから」の変種
だから、反論されても具体的な説明はしないで逃げる・ごまかすww 157日本@名無史さん2019/07/30(火) 15:42:23.18
畿内説石野船長「南→東と読み替えて、不弥国から東に進み投馬国(出雲)を目指そう!次は女王卑弥呼の纏向だw全速前進!」
畿内説寺澤機関長「順風満帆!やはりこちらが正しかったですねw天も我々を祝福しているかのようですw九州説の警告なんて無視して良かったw」
畿内説橋本航海士「我々の進行方向、左右両舷をすっぽり取り囲むような三日月形の巨大な氷山脈発見!!!→)」
畿内説石野船長「エンジン逆回転!!!全速後退!!!←)」
畿内説寺澤機関長「なんで方角を読み替えたんだよ!!!船長のくせに!!!このハゲェ〜ッ!!!(豊田真由子元衆院議員)」
畿内説橋本航海士「フル回転中の逆回転でギア全損!!!エンジン大爆発!!!間に合いません!!!!!」
(フルスピード→ノーブレーキで氷山に正面衝突して、乗り上げ、反対側で再び着水する畿内説タイタニック号)ガツン!ドカン!ザブン!
(船側&船底外板を船首から船尾まで横一直線に切り裂く音)ギギギギギギギ!!!
ザァアアアアアアア!!!(全隔壁に一気に浸水、瞬時に沈む畿内説タイタニック号)
畿内説石野・寺澤・橋本「ぎゃあああああああああああああああ!!」(ごく僅かな庄内式土器と大量の布留式土器と三角縁神獣「銅鏡五百枚」と共に海底に引き摺りこまれ、海の藻屑と化す畿内説タイタニック号)
ダウンロード&関連動画>>
一方、九州説オリンピック号でゎ…
九州説A「畿内説タイタニック号から遭難信号SOS傍受!!」
九州説B「あれほど警告したのに、なんで東(大国主・大物主・饒速日3代の纏向宮殿→箸墓Ω前方後円墳墓担当の物部氏へ)に向かったんだろう?直ちに救助に向かおう!」
九州説C「纏向の大型建物ABCDは2世紀末には遡れないのに!!!」
不弥国の東の海上に到着した九州説オリンピック号が見た光景は…
因幡の白兎同様、サメの餌食となった畿内説タイタニック号の乗客乗員の遺体の一部と思しき夥しい肉片&骨片が散乱…血で真っ赤に染まった波間に石野船長と寺澤機関長のものと思しきメッキ縁眼鏡がキラキラ&プカプカ浮かんでいる…
茫然自失の九州説ABC「だから船乗りの方角間違え(南→東)は漂流しちゃうからあり得ない、纏向は「本州」島の毛人王権ってあれほど言ったのに...orz」 158日本@名無史さん2019/07/30(火) 15:43:34.77
>>150
>連句読点の新しいキャラか?w
むしろキウスっぽさを感じるが、連続句読点は思った以上に、
幅広く活動しているようだからなぁ 159日本@名無史さん2019/07/30(火) 15:44:29.13
>>153の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜日本海〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜東→✖畿内説沈没地点(†乗客乗員>>157)
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行十日」↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」§琵琶湖
↓ ┃〜〜〜↓↓玄界灘〜〜↗_〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓ 淀川↙ ↖木津川
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行十日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃河内湖+大和湖Ω箸墓
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃紀伊半島
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃★奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王四千余里」@阿波
建業┃〜〜┃狗奴(球磨)国▲▲投馬(都万)国┘宮崎平野=南「水行二十日」
会稽┃〜〜┗━━━九州島━━┛↓〜〜〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海〜┌南「水行十日」〜〜〜〜〜〜
蘇州┃〜〜┌┌←←▲奄美大島┐↙陳寿の創作〜〜
↓ ┃〜〜│↓「陸行一月」(幻)│←「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
福州┃〜〜│↓〜▲〜〜〜〜〜│亶州(沖縄)〜↓「自郡至女王国 万二千余里」〜〜
東冶┃〜〜│☆奴国A(幻)〜〜│★『【女王之所都】計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲狗奴国(幻)〜〜│夷州(台湾)〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国遠絶 不可得詳」〜〜
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜南シナ海〜〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(☆奴国A)東南 船行一年」 160日本@名無史さん2019/07/30(火) 15:45:27.46
>>153、>>157の無駄にでかい意味なしコピペも、活動時間から考えると
連続句読点の仕業っぽい
どんだけ、畿内説スレに注力してるんだかww 161日本@名無史さん2019/07/30(火) 15:47:28.50
>>136、>>138
いろいろと反論しているようだけれど、
具体的な論拠を突きつけられた「宗像に大豪族はいない」には反論しないのかい?ww 162日本@名無史さん2019/07/30(火) 15:49:18.28
だからイタコだと言っているんだよ、
お前たちの話によるとw
倭人・・・それが後の源氏(不明)?
163日本@名無史さん2019/07/30(火) 15:50:30.63
>>153
>>157
卑弥呼の魏帝への朝貢理由は、蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」(リンク参照)同様、呉の牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管轄する「伽耶の鉄」の入手を容易にするため。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置(比定)であることに留意されたい。
そこで主要3説(九州説・四国説・畿内説)における狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国「東渡海」千里「複有国」皆倭種(◎九州説…豊後水道、〇四国説…紀伊水道、✖畿内説…鈴鹿山脈?)
−其南有狗奴国(◎九州説…熊本もしくは薩摩、✖四国説…南阿波、✖畿内説…仲良し東海?)
畿内説はいずれも当てはまらず、武器も文字も早馬もなしに遠隔の北部九州を支配下に置くのは不可能。
また3世紀の四国に十四万戸(邪馬台国+狗奴国)は無理がある(後述)。消去法によって、九州説が正しい。
次に、狗奴国が熊本平野か鹿児島川内(せんだい)平野かだが、邪馬台国七万戸(35万石)を統治している女王卑弥呼をして、魏の明帝曹叡に援軍要請させるほど窮地に陥れる(狗奴)国の国力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸35万石)もしくはそれ以上の人口(八万戸40万石)と仮定。
面積から見て、狗奴国が川内(せんだい)平野でゎ3世紀の開墾能力では限界があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と想定して、
北の邪馬台国は筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所&(天気が良ければ)福岡平野→糸島(伊都国)→壱岐島までズドーンと見渡せる甘木朝倉と確定。
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(リンク参照)を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3 164日本@名無史さん2019/07/30(火) 16:19:47.06
もしかして・・・本当に大作()塚だったの?
という可能性もある。
165日本@名無史さん2019/07/30(火) 16:21:21.53
大作塚
>>1に?ではないんだけど、
いろいろ建てたりしていると言ってる人がいたり 166日本@名無史さん2019/07/30(火) 16:23:57.89
またこの稚拙なコピペか
飽きたぞ
167日本@名無史さん2019/07/30(火) 16:26:13.63
>>163の続き
すると、もう一つの謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国・卑弥弓呼の子孫/八代淡海→「近江」)も判明。
古代史は以下↓のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の説諭で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国系(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国系(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏>晋>「宋>斉>梁」南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」に任官(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国系(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。九州年号創設。
倭王阿毎多利思比孤「日出処天子」隋煬帝「日没処天子」に対等外交=(隋の悲願、高句麗征伐の鍵となる)新羅からの朝貢を機に「独立宣言」607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教伝来による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家となり、飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…前方後円墳の大連物部守屋を滅ぼす。大和分家を乗っ取ろうとした大臣蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、大和へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種・九州年号&多利思比孤を抹消すべく、崇神朝・応神朝・継体朝の倭王権(九州王朝)内の抗争が、すべて大和で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名を移植。朝倉&阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武朝(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)?欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京) 168日本@名無史さん2019/07/30(火) 16:41:24.09
石野博信「2世紀末に突然現れ、4世紀中頃に突然消滅した大集落遺跡」
邪馬台国の中枢をなす都市が纒向ならば、なぜ突然消滅したのだろうか
王都があった場所が王都の移動に伴い消滅した例は日本であるだろうか?
いわんや、◆4に述べる交通の要所であれば、都が移ろうがある程度反映した地として残る
纏向はそれが無い、一時的に利用した地である
古墳造営基地であったと考えてもなんら不思議ではない また大集落跡は見つかっていない
61 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/24(水) 23:40:38.25
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である
169日本@名無史さん2019/07/30(火) 16:43:06.33
>>167の続き、
伊都国系・崇神朝を乗っ取った邪馬台国系・応神(胎中天皇)は、仲哀の子供ではなく、三韓征伐のため筑紫大本営にいた神功皇后と大臣・武内宿彌(リンク参照)の子供説がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。
ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
崇神朝(伊都国系)の景行・成務・仲哀、続く応神(自分の子)・仁徳(自分の孫)に仕えた彼は、筑紫邪馬台国・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0
次に、磐井の乱で、筑紫応神朝(邪馬台国系の♂武内宿彌&♀神功皇后)を乗っ取った阿蘇狗奴国王・継体は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図っている(倭国大乱の再発予防)。
この欽明皇子が、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教による国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き、
用明の代で、強硬な廃仏派である大連・物部氏長者の守屋を滅ぼし、厩戸皇子が大臣・蘇我氏と共に仏教を国教化したが、蘇我氏が大和分家を乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智と中臣氏が飛鳥に下向。板葺宮で三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での惨敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、〔倭国独自(九州)元号を創設した継体朝→「天子」を名乗ってしまったため、記紀に消された〕多利思比孤系統の九州本家・天智が、奥津城大和に東遷。
ここに倭王権は史上初めて九州島を出て、藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の古墳畿内には、記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治以降設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。 170日本@名無史さん2019/07/30(火) 16:57:02.12
>>168
>王都があった場所が王都の移動に伴い消滅した例は日本であるだろうか?
近江京がさびれたの知らないの?
平安京遷都で平城京がどうなったか知らないの? 171日本@名無史さん2019/07/30(火) 16:58:40.72
>>154
>根拠は僕がそう思ったから
>編年研究は信じない
そういう煽りはいいから、具体的に君の言う編年を紹介しろよ。
反論になっていないばかりか、かえって九州説を補強していたぞ。 172日本@名無史さん2019/07/30(火) 16:59:28.76
>>163
>大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m
何度も否定されてるのに聞く耳持たないのも九州説の特徴w
短歩などありえない
尺とほぼ同じ長さの別の長さ単位など有害無益でしかない
さらに、歩がもともと複歩を表していることからも、
「25センチの歩」などありえない
九州説は、ここまで無理をしないと卑弥呼の墓の候補一つ挙げられない
祇園山古墳は弥生時代の墓地を無視して作られた古墳だというだけなのに
それを勝手に殉葬墓に見立てて、あとは後付で無理やり卑弥呼の墓だと
言い張るだけ
短歩もその無理やり後付けの一つww 173日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:04:16.84
174日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:14:28.16
175日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:15:19.22
>>171
>反論になっていないばかりか、かえって九州説を補強していたぞ。
なにどうやって九州説を補強してるのか、具体的にどうぞ
言えなければ、聴衆はまた
「九州説がニオワセ詐欺してる」
と、思うよ 176日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:21:47.66
畿内説の年代詐欺の方が有名だw
177日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:24:33.46
178日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:27:38.28
>>176
>畿内説の年代詐欺の方が有名だw
きちんと研究している人で、そんなこと言ってる人いないぞww
「九州説の素人爺さんの中」では有名ww
年代詐欺と言わないと、その時点で九州説は破綻ww
実際、研究者で九州説がいなくなった理由が、編年研究の進展だからね
本当の急所はここ
まあ、投馬国は女王国以北の国、だけで死ぬんだけどさww 179日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:34:05.98
>>177
その論文は具体的な年代比定はしていないから、お前の反論は成り立たない。
そもそも、甕棺を含めて土器の絶対年代など、数十年単位でわかるわけもない。
だから、それをわかるとした前提のお前のような議論は詐欺だと簡単にわかる。
少なくとも魏志倭人伝などの文献とのすり合わせがされていなければ、絶対年代など分かりようがない。
しかしすり合わせをしてしまうと、九州北部以外に邪馬台国はあり得なくなるから、あまり進んでしないのだ。 180日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:34:39.89
181日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:35:23.81
>>267
>畿内説の場合 投馬国は瀬戸内(吉備付近) 邪馬台国が畿内だから
女王国より以北に投げ馬国があるから正解
南を東とするから北は西<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから×であるし、
「南≠東」だから「北≠西」になるから、×。 182日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:36:05.33
>>271
>鎮守は倭国は南へ南へ延びていたと思っていたから<
陳寿は、「不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている」書き方をしているから。 183日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:36:06.42
>>178
そう思うなら、絶対年代を語れ。
お前の紹介した論文は、絶対年代には言及していない。
中島は「まだ各地域毎の特性や地域性を十分把握していないので各土器形式の区分及び細分はいたずらに分けすぎないようにするべきであろう。」〔中島 1983:42〕とし,時期差と地域差の混同を避ける姿勢が必要であると述べている。
勝手な憶測で時期や地域に意味を持たせて恣意的な解釈をする段階ではない。
それをするのは嘘つきのすることだ。 184日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:36:48.73
>>282
>私の主張はそこです
投馬国は宮崎近辺です底から南に向かい黒潮で南紀
陸行一月で畿内 王都は京都 <
詔書や金印や大量の土産を持った魏使らが、「黒潮に乗った漂流」なんて選択しないし、
畿内なんて存在もしなかったし、
京都は「南≠東」などに拠って、×。 185日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:36:56.27
キナイコシ君は甕棺墓の衰退した年代がわかるそうだ。
その根拠を聞こうではないか。
186日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:37:24.16
>>309
>九州説と違って、萬二千里が倭国内の邪馬台国という特定の場所を
指す数値だなどとは畿内説は考えないからね
もともと測定もしていない観念的な数字だという立場で、
倭国の中の邪馬台国までの距離とはしていない<
「自郡至女王國萬二千餘里」は「餘」を使っているから、
実測の近似値である。 187日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:37:34.39
キナイコシ君は平原遺跡が2世紀だと思うそうだ。
その根拠を聞こうじゃないか。
188日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:38:00.14
>>310
>つまり、「道里遠近」が日数で表してあるんだよ 里数なんてどこにもない
つまり、九章算術均輸1では道里は里数を指していない
そして日数で書いてあるww<
漢書や陳寿は、「道里」を、
「道の里数」という意味を中心にした記載をしている。 189日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:38:19.79
前スレからここまで引っ張ってきているのだから、答えられるよな?
190日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:38:45.32
>>315
>俺は畿内説だが・・・<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
「南≠東」などに拠って、×。 191日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:38:56.93
まさか・・・(□□)大作塚?
〜漁師の家の・・・・・・・・・・だったとか
親和力(神話力、シンクロ現象なのかな、仮託?)
192日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:39:25.25
>>321
>何度も説明しているだろ?
萬二千里というのは、淮南子に見られる漢土の外側の世界の果てまでの距離
誰も世界の果てまで行っていないのだから、当然実測地ではなく観念的に
想定された数字に過ぎない <
「余」が付けられた数記載は、計測値からの近似値である事を示すから、×。 193日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:40:57.50
>>176
>畿内説の年代詐欺の方が有名だw
詐欺だとか決めつける証拠は?
証拠が出せないなら
九州説は不当な中傷をしたことになるよ 194日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:41:16.47
>>984
>甕棺墓は桜馬場遺跡の頃を最後に大型棺は衰退してしまう
>弥生時代後期前半で1世紀から2世紀初めまでだ
絶対年代の根拠を示せよ。
>甕棺墓が天孫族なら宗像はまったく関わっていないなww
宗像は天孫族ではないぞ?
バカか? 195日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:41:28.75
キナイコシ君は甕棺墓の衰退した年代がわかるそうだ。
その根拠を聞こうではないか。
196日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:41:37.12
>>179
>そもそも、甕棺を含めて土器の絶対年代など、数十年単位でわかるわけもない。
>だから、それをわかるとした前提のお前のような議論は詐欺だと簡単にわかる。
はいはい、その数十年以上の余裕をとって見ても、甕棺墓の時代は2世紀末まで
届かないんだよ
こうやって、不可知部分を過剰評価することで、正当な議論をインチキのように
印象操作することのみで九州説は自己弁護している
惨めなものだなww
そして、甕棺編年は性格ではないと言いながら、甕棺墓がなくなった時期は
倭国大乱の時期とぴったりとか言いだすww
証拠
前スレ>921
http://2chb.net/r/history/1564239338/921
「三代70-80年続いた天孫族の支配が終わり、倭国大乱の末に筑紫倭国の女王として卑弥呼が即位したんだろ?
何も矛盾はないな。 」 197日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:41:48.92
>>332
>単純計算だが、
例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、
すべて一致して同じ結論を指している場合、
結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。<
普通は、
史料事実の持つ確率なら、75%位は有り得るが、
史料事実に違背する事の確率は1%位以下であり、
それを3つ集めたって、3%以下位にしかならない。 199日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:42:25.28
>>977
>大王級で陵墓指定された大古墳の埋葬主体部にあるだろう
具体的に証拠を示せよ。
捏造か?
詐欺か?
妄想か? 200日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:42:37.79
>>333
>道里が距離(里とは限らない)でそれが日数で書いてある<
道里は、当然「道の里」であり、原則は里数説明。
それを、勝手に「行道日数」で記載した九章算術は、半分×書であり、
証拠にはならない。 201日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:43:07.33
これもww
>平原遺跡の超大型内行花文鏡が舶載鏡のグループに近いことを明示している。
具体的なデータすら、読み方の時点で捏造するからな!
舶載鏡は左下の#16と#17の二面のみで、明らかにグラフ上で他の鏡と別の位置に置かれている
46センチ鏡はそこから離れたグラフの中央付近にある
九州説はこんなのばっかり
すべての情報を自説の都合に合わせてインチキ解釈するし、都合の悪いものは無視して
都合のいいものだけに言及するチェリーピッキングで練り上げたインチキだ 202日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:43:18.27
>>334
社会の問題児、スレ主、類スレ主、大和説者、京都アニメ会社放火犯人。 203日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:43:50.06
>>196
>はいはい、その数十年以上の余裕をとって見ても、甕棺墓の時代は2世紀末まで
>届かないんだよ
さあさあ根拠をどうぞ。 204日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:43:59.57
>>336
>萬二千里も実測地とは関係ない観念的な地の果てを示す符牒に過ぎないのだから、<
史料事実は「自郡至女王國萬二千餘里」であり、
「萬二千里」ではなく、
「餘」が付いた近似値表記であるから、計測値からの近似だされており、
だから、この大和説者の「観念的な地の果てを示す符牒に過ぎない」という解釈がという、
嘘吐き騙しになり、×。 205日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:44:32.36
>>196
>こうやって、不可知部分を過剰評価することで、正当な議論をインチキのように
不可知部分を過剰評価というのはキナイコシのことだろ? 206日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:44:37.76
>>340
>地の果てからの遣使だと思ってもらえるように、数字を借りてきて「設定」したんだよ
何度も説明してるだろ?
渡海一回が千里というのも、北部九州上陸まで萬里というのも、同じく実測値ではなく
実際の地理とは関係なく「設定」された数字に過ぎない <
「余」がある数字が混じっているから、
実地の計測値からの「近似値」記載である事になり、
「地の果てからの遣使だと思ってもらえるように、数字を借りてきて「設定」したんだよ
何度も説明してるだろ?
渡海一回が千里というのも、北部九州上陸まで萬里というのも、同じく実測値ではなく
「実際の地理とは関係なく「設定」された数字に過ぎない 」「のではないので、
この男は、×人間。 207日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:45:23.45
>>341
>残念ながら、知能指数で天才の領域にあるんだわww
IQの差が30を超えるとまともに話が通じないって言われるから、<
残念ながら、
不可知部分が99.9%以上である、と言われている自然や歴史においては、
得られた観察実験計測などからの資料批判的な帰納的確率的な推論が大事であるのであり、
知能指数を自慢するような一種の・・・・は、唯我独尊思考に陥りやすくて、
京都アニメ会社放火のような・・・・殺人犯になる事が多いんだよ。 208日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:45:33.70
209日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:46:15.09
>>342
>畿内説は短里を認めない<
周代以前や、周髀算経などや、淮南子や如淳注や魏志や後漢書や梁書や書紀などまで、
短里を使っている。
>魏晋里で2000里なら十分畿内に届くよ <
「南≠東」などに拠って、×。
>まあ、観念的な設定値に過ぎないから、計算しても意味ないけどさ <
「余」での 「計測値からの近似的な書き換え」があるから、
「観念的な設定」ではない。
>そもそも、3世紀世界に短里を使う理由のある人が一人もいない<
3世紀なら、如淳注や三国志江表伝など。
>ここから短里説は破綻している <
唯我独尊の史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しの大和説は、すでに破綻している。 210日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:46:58.16
487>>190
ほらな
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は
誹謗中傷しか出来ない敗北者 211日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:47:41.01
>>194
>>419東南と書いてあるところ実際は北東に進んでいても方位の間違いを認めない九州説なんて、×<
末盧國からやそれからの途中からは、伊都国が見えないから、
魏使らは出発時点での出発方向を示した事を隠して、
魏使らは「方向を間違えた」とヘイトスピーチ誹謗をし、
自分らは「南→東」などの嘘付き騙しをする、
・・・・アホ詐欺師の類スレ主の、
東大理系大学院博士号と自慢する大和説者。 212日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:49:10.34
>>201
>舶載鏡は左下の#16と#17の二面のみで、明らかにグラフ上で他の鏡と別の位置に置かれている
>46センチ鏡はそこから離れたグラフの中央付近にある
具体的なデータの読み方すら嘘をつくキナイコシ!
データは大きく2群であり、平原遺跡の鏡は舶載鏡を含む左下のグループだ。
ただし平原遺跡の鏡は国内で鋳造されたことはほぼ確実なので、そのデータは改鋳されたものについては結局何も言えない。
その意味を誇張することで読み手を誤った方向へ印象だけで誘導するのがキナイコシの手法だ。 213日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:49:20.27
487>>204
九章算術が道里を移動日数で表記した、嘘つきの実例を突きつけられて
投馬国を女王国よりの北に持って行く企てが頓挫し
行程解釈が「南≠東」によって崩壊した大和説は、
すっかり狼狽し
混乱状態のようだ 214日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:49:31.36
>>196
>はいはい、その数十年以上の余裕をとって見ても、甕棺墓の時代は2世紀末まで
>届かないんだよ
さあさあ根拠をどうぞ。 215日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:49:57.64
>>977
>大王級で陵墓指定された大古墳の埋葬主体部にあるだろう
具体的に証拠を示せよ。
捏造か?
詐欺か?
妄想か? 216日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:50:11.30
>甕棺墓が天孫族なら宗像はまったく関わっていないなww
宗像は天孫族ではないぞ?
バカか?
217日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:50:30.51
キナイコシ君は甕棺墓の衰退した年代がわかるそうだ。
その根拠を聞こうではないか。
前スレからここまで引っ張ってきているのだから、答えられるよな?
218日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:50:42.14
>>196
>はいはい、その数十年以上の余裕をとって見ても、甕棺墓の時代は2世紀末まで
>届かないんだよ
さあさあ根拠をどうぞ。 219日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:50:54.82
>>196
>こうやって、不可知部分を過剰評価することで、正当な議論をインチキのように
不可知部分を過剰評価というのはキナイコシのことだろ? 220日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:51:27.68
>>177
その論文は具体的な年代比定はしていないから、お前の反論は成り立たない。
そもそも、甕棺を含めて土器の絶対年代など、数十年単位でわかるわけもない。
だから、それをわかるとした前提のお前のような議論は詐欺だと簡単にわかる。
少なくとも魏志倭人伝などの文献とのすり合わせがされていなければ、絶対年代など分かりようがない。
しかしすり合わせをしてしまうと、九州北部以外に邪馬台国はあり得なくなるから、あまり進んでしないのだ。 221日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:52:01.72
>>196
>はいはい、その数十年以上の余裕をとって見ても、甕棺墓の時代は2世紀末まで
>届かないんだよ
さあさあ根拠をどうぞ。 222日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:53:15.22
>>199
>具体的に証拠を示せよ。
陵墓指定されていない大古墳で、盗掘済みの桜井茶臼山古墳だけでこれだけ出てる
浅緑色に黄色い縞の入る石で作られた玉杖と玉葉である。威儀具としての儀杖・指揮棒を
象ったとみられる玉杖は4本分ある。また、中国の玉製葬具の眼玉に通じるとして注目された玉葉は
同系同大2枚と他1枚である。濃緑色の五輪搭形に似た石製品は垂飾品として装身具の用途が
考えられる。軟質で淡い水色の緑色凝灰岩では、腕輪形と武器形がある。この他、石質・色調の
異なる異形石製品と筒形品がある。
鉄杖・・・鉄棒の太さは2cm現存長14.7cm。この他に太さ1.5cm最大長60cmにもなる、中空の鉄杖もある。
鉄刀剣・・現存長14.1cm、刃幅3.4cmで関部が明確で、柄と鞘の木質が良く残り、朱がきれいに付着している。他に刀と短刀がある。
工具・・・・先端の尖った細いものを含む針状工具がある。他に断面が薄い長方形の鉇の柄がある。鏃においては、数多く、
銅鏃は2点、鉄鏃は破片も含めて117点にもおよぶ。鉄鏃の矢柄には赤色顔料の付着が20点確認できた。
口巻の下端で明瞭に途切れており、口巻部分を漆で黒に、矢柄部分を朱で赤に塗り分けていたと見られる。
鏡
種類・枚数とも国内最多の13種、81面
内訳は、三角縁神獣鏡が26面、中国産が10種以上41面、国産が2種14面
復元径が35〜38になる大型鏡を含んでいて、下池山古墳例や、柳本大塚古墳例に匹敵
また鏡片には絹の繊維が付着
発掘できていない大古墳は、もっとすごいと想定するのが当然 223日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:53:57.97
486>>211
>>そもそも陳寿は倭人の国々を「女王国以北」と「其の余」に分けて解説しているのだから<
いや、それほどでもない。
陳寿の最初の「自女王國以北」は、「其餘旁國」は余り含んでいないようであり、
原則として郡から女王之所都の行程途上の国々や、
それらに関係するそれからの側副傍線国を意図しており、
だから、奴國や「不彌國から南へ水行二十日の)投馬國も、含めようとしている可能性はある。
また、二度目の「自女王國以北」も、伊都国の一大率の検察地域として、
奴國と投馬國も想定している可能性があるが、
狗奴國や東渡海千余里の倭種は含んでいないようである。 224日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:54:49.75
487>>214
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者らは、
全員が、類スレ主や90度回転みたいな、
露骨なウソ付きばかりになってしまった 225日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:55:22.19
>>216
>宗像は天孫族ではないぞ?
>バカか?
天孫族と一緒に来たから八咫鏡があるんだーって言ってなかったっけ?ww
いずれにしても、3世紀の宗像に大豪族はいないし、八咫鏡もないww 226日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:55:27.29
>>222
>陵墓指定されていない大古墳で、盗掘済みの桜井茶臼山古墳だけでこれだけ出てる
で、その大古墳の絶対年代が君にはわかるのか? 227日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:55:35.02
>>224
なんだ?
「南≠東」などに拠って論破された嘘つき騙しの大和説が
また発狂して荒らしてるのか?
怖い怖い、京都アニメ犯人のような狂人は、怖い怖い。 228日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:56:39.48
>>187
>キナイコシ君は平原遺跡が2世紀だと思うそうだ。
>その根拠を聞こうじゃないか。
公式の発掘調査報告書でそう発表されてるからだよ
埋没の始まった周濠から弥生終末直前の土器が出る
出土した鏡の材質は二世紀後半以降の生産と確認されてる鏡と同質の素材をまったく含まない
後から築かれたのが確実な二号墓は弥生終末以前に遡れない 229日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:56:47.01
>>249
>>「道里」の「道」は、原則として、
陸上であれ水上であれ、人類が「移動に使用していた通行路」を示すものであり、
「日数」とは何ら関係がないものであり、<
>その「移動に使用していた通行路」の上を ある「日数」ぶん移動したら
一定の距離を進むだろ ほら、関係ある<
ダメだ。
「道里」は、「道と里」であり、
「道と通行路」が直接的な関係があっても、
「里と日数」とは原則として(直接的な)関係がない。 230日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:57:27.66
>>255
>>魏使らは、各部分行程で、
目的地が見えていなかったら、目的地方向を計測して記録する事が出来ない、<
>つまり彼らは測量が出来ないのだな?
ということは「距離が正確だ」という主張は間違いだったわけだ
九州説、終わってるな <
いや、陸行の「道のり距離」は、記里車や歩測や日数測で、近似計測出来る。
類スレ主や大和説、また終わったな。 231日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:57:34.89
232日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:58:11.85
>>281
>中国の日本についての記述を見ると九州説など全く存在していないのが分かる<
中国の日本列島についての記述を見ると、
倭奴國頃から唐代の隋書や南北史まで、殆ど九州倭國の説明ばかりであり、
大和が出現したのは、梁書の「扶桑國」からであり、
その後大和日本国が、開皇末に隋に初めて遣使して(九州倭国からの)独立を唱え、
白村江で大敗して亡国の危機になった九州倭国を、
(九州倭国の別種の旧小国であった)大和日本国が、
併合吸収継承した、という事であっただけ。
大和説など、殆ど全く存在していなかったのが分かる 233日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:58:55.60
>>287
>淮南子に準じている時点で、現実の地理とは関係のない数値<
淮南子も一寸千里を使っているから、
当然魏志と同じ度量衡を使っている事になるだけであり、
魏使らの「実地の見聞計測」の記録の否定にはならんよ。
>縮尺など考える余地はないし、実際区間ごとに異なる値になる<
区間ごとに、計測地点を推論し計算して行けば、
全部が「1里が60m〜90m」の範囲内に収まり、
大和説のような「1里が434m位」なんて異常値にはならないよ。
何度もインチキ書くなよ。 234日本@名無史さん2019/07/30(火) 17:59:28.08
>>212
>データは大きく2群であり、平原遺跡の鏡は舶載鏡を含む左下のグループだ。
舶載鏡が2点しかないからごまかしているが、舶載鏡はその2点のある
狭い範囲でまとまるんだよ
そこから離れたところに46センチ鏡があり、その周辺のものも全て仿製鏡
魏から卑弥呼がもらった銅鏡百枚は、当然に舶載鏡で不純物の分布も
一定範囲だろうし、「それを鋳潰して46センチ鏡を作った」という主張なんだから
もっと左下に位置してないとおかしいんだよww
だいぶ焦れてきてるなww
言葉が汚くなってるww
弱い犬ほどよく吠えるとは、よく言ったものだww 235日本@名無史さん2019/07/30(火) 18:02:41.61
>>229
>ダメだ。
>「道里」は、「道と里」であり、
>「道と通行路」が直接的な関係があっても、
>「里と日数」とは原則として(直接的な)関係がない。
権威どころか研究者でもない素人が理由も言わずに断定しても、信用がない
逆に、街道を一日歩けば何里か進むのは確実なんだから
里と日数に直接的な関係があるのは確実だ 236日本@名無史さん2019/07/30(火) 18:05:58.05
そもそも、平原1号墓にはかつて殉葬墓と誤認された土坑墓が、
周溝が埋まった土を掘って作られており、その土坑墓の遺品から
土坑墓が3世紀初頭とされている
平原1号墓本体が作られてから、周溝が風化で埋まってそれから作られた土坑墓が
3世紀初頭なんだから、どうやっても卑弥呼の墓にはならないんだよw
甕棺編年以前だよ
絶対編年以前に、甕棺墓は弥生後期前半までなんだから、弥生後期が終わって
弥生終末期に入る卑弥呼の時代にはどうやっても届かない
結局、九州説の出してくる卑弥呼の墓候補は、殉葬墓に見える土坑墓があった墓というだけ
平原1号墓も祇園山古墳も、たったこれだけの根拠、しかも間違った根拠がきっかけで
他の矛盾を無理繰り説明するための理屈を発明しているだけ
九州には径百歩の墓がないから、こういうインチキに走る訳だ
九州説は惨めww
237日本@名無史さん2019/07/30(火) 18:08:11.06
>>233
>区間ごとに、計測地点を推論し計算して行けば、
>全部が「1里が60m〜90m」の範囲内に収まり、
>大和説のような「1里が434m位」なんて異常値にはならないよ。
>何度もインチキ書くなよ。
いくら指摘されてもまだ
口先で総論を観念的に言うだけだね
区間ごとに計測地点を推論し計算したというデータ
全部が「1里が60m〜90m」の範囲内に収まったというデータ
いくら言われても、出さないよね?
そんな計算実際はやってない、口だけ
と断定されて当然だぞ 238日本@名無史さん2019/07/30(火) 18:08:29.24
九州説って、勝てそうと思ったことに全賭けして転んでばかりだよね
239日本@名無史さん2019/07/30(火) 18:14:04.29
737 名前:日本@名無史さん 2019/07/30(火) 12:40:05
自郡至女王國 萬二千餘里
・・・(中略)・・・
計其道里 當在會稽 東治之東
なるほど、
陳寿は、ここでも日数でなく、萬二千餘里という里数を「道里」として用いている。
240日本@名無史さん2019/07/30(火) 18:15:42.07
>>239
連呼ばかりだから
九州説は信用されない 241日本@名無史さん2019/07/30(火) 18:22:27.76
九州説の鉄器についての意見をよく見かけるが正直40年は遅い考えで話している
鉄器を農耕具として用いだすのは実はかなり遅い
九州でさえも弥生時代後期後半後葉
この事から鉄製農具=生産力の向上と言う単純な図式は成り立たないのが分かっている
鉄器の需要は木製器具や工芸品の為の加工工具としての物が主流
その量は必要最小限があれば十分な物で必ずしも必要なものではなかった
鉄の量は社会の変化に大した意味を持ってないと言うのが今の定説となりつつある
むしろ鏡や玉等の威信材の流通のネットワークにこそ畿内が大きな役割を果たしていたと考えられている
畿内の鏡の配布主体の存在、山陰に存在する玉の生産と配布の中心地の存在が近畿周辺のネットワークの存在を示している
鏡や玉の配布の拠点を持たない九州に当時の中心地を見出すことが出来ない
242日本@名無史さん2019/07/30(火) 18:29:51.60
>>168
不思議なのだよ
東海、伊勢に行く交通の要所は纏向近辺がなぜ?
都を作るためでなく、なんらかの目的で作られた遺跡であろう
灌漑工事か古墳造営かな??? 243日本@名無史さん2019/07/30(火) 18:33:32.61
鉄=先進、強大な軍事力、生産力が大きい、強い経済力
と言うのは1960年代の頃の「鉄器によって生産が増えて王が生まれて日本が統合された」と言う話は、
鉄器の発掘状況が少ない時代の「観念的想定」に過ぎないのが分っている
九州でさえも鉄製農具の登場は古墳時代直前で生産の向上にさほど寄与してないのが判明してる
また鉄器が民間の家から普遍的に見つかる事から威信材としても意味を持たず
鉄の量が権力の象徴でない事も指摘されている
鉄至上の史観は相当な時代遅れでいまだにこの観点で語る人はほぼいない
244日本@名無史さん2019/07/30(火) 18:33:35.53
>>242
なにが不思議なのか、その文章から全く読み取れない 245日本@名無史さん2019/07/30(火) 18:37:47.93
>>242
その文の何と何に因果関係があるの?
クレーム付けるという目的が先にあって理由考えてるから
、そんな不格好な文章になる 246日本@名無史さん2019/07/30(火) 18:40:01.79
>>242
灌漑工事も古墳造営も終わったから農地にしたと思う
都があれば、王が去った後も集落として残ったと考えるのが妥当 247日本@名無史さん2019/07/30(火) 18:41:28.90
奥山は九章算術でなぜ約分が使われたのかまだ理解できてないようだ
248日本@名無史さん2019/07/30(火) 18:43:11.93
249日本@名無史さん2019/07/30(火) 18:44:41.47
>>246
>都があれば、王が去った後も集落として残ったと考えるのが妥当
妥当だと思う理由は? 250日本@名無史さん2019/07/30(火) 18:48:06.29
251日本@名無史さん2019/07/30(火) 18:48:29.30
>>298
>(90度回転)シンプルだけど分かりやすい。
余の解釈が「オッカムの剃刀」のように洗練されてますね。<
魏使らは、計測値に「余」なんて付けた概数で報告する筈がなく、
当然個々の記録は、きちんとした「余」無しの報告をした筈であり、
また魏使らの記録を見た筈の魏略や後漢書には「余」が殆どないから、
だから「余」を付けたのは、陳寿。
そして淮南子にも「余」が付いていないから、淮南子は陳寿の記載とは関係がない。 252日本@名無史さん2019/07/30(火) 18:49:49.88
今まであまり考えたことなかったけど
投馬国を邪馬台国より南に比定できなくなると
九州説は詰むんだね
これは大変だ
w
253日本@名無史さん2019/07/30(火) 18:50:40.49
>>244
>>245
まじな話 なぜだと思う
石野博信「2世紀末に突然現れ、4世紀中頃に突然消滅した大集落遺跡」
邪馬台国の中枢をなす都市が纒向ならば、なぜ突然消滅したのだろうか
王都があった場所が王都の移動に伴い消滅した例は日本であるだろうか? 254日本@名無史さん2019/07/30(火) 18:52:45.07
255日本@名無史さん2019/07/30(火) 18:53:06.97
>>250
教えてやるから テメーが奥山だと立証してみろ 256日本@名無史さん2019/07/30(火) 18:55:50.91
257日本@名無史さん2019/07/30(火) 18:56:07.38
>>251
魏志倭人伝の1万2千里に余がついてるのは
魏使らが計測した証拠だったんじゃなかったのか 258日本@名無史さん2019/07/30(火) 18:57:55.74
>>255
理由が無いのだな
また、九州征伐が惨敗した 259日本@名無史さん2019/07/30(火) 18:58:06.59
>>253
>石野博信「2世紀末に突然現れ、4世紀中頃に突然消滅した大集落遺跡」 <
消滅したのではなく 大集落群で無かったからだよ 260日本@名無史さん2019/07/30(火) 18:58:22.76
>>256
いにしへの人に我あれや楽浪の古き京を見ればかなしき
楽浪の国つ御神のうらさびて荒れたる京見れば悲しも 261日本@名無史さん2019/07/30(火) 18:58:42.37
262日本@名無史さん2019/07/30(火) 19:00:45.15
>>258
また、九州征伐が惨敗した
↓
また、九州説が、征伐うけて惨敗した 263日本@名無史さん2019/07/30(火) 19:04:01.09
264日本@名無史さん2019/07/30(火) 19:04:17.55
九州説が滅亡したから
敗残者が荒れて暴れてるだけ
でも無力
265日本@名無史さん2019/07/30(火) 19:06:07.25
>>263
やっぱり九州説老人には九章算術がまるで解ってないね
所詮付け焼き刃じゃ、その程度か 266日本@名無史さん2019/07/30(火) 19:09:31.29
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の頭が悪すぎる奥山氏は、労働もせずに、24時間、日本人に対して嘘や悪口や意味の通じない意見を、投稿しているな、、、
267日本@名無史さん2019/07/30(火) 19:09:40.72
九州説のオツムの弱さは説明能力の絶望的欠如を見ればよくわかる
268日本@名無史さん2019/07/30(火) 19:11:26.98
>>266
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の頭が悪すぎる奥山氏は、センターに入院しているので、他にすることがないので、仕方ないのではないのかな、、、 269日本@名無史さん2019/07/30(火) 19:14:03.35
>>268
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の頭が悪すぎる奥山氏は、センターに入院するための試験で、漢字で通名を書き、入院が決定したのだったな。。 270日本@名無史さん2019/07/30(火) 19:14:33.99
>>261
大集落だったという根拠が無いから
あるなら こたえてみ 271日本@名無史さん2019/07/30(火) 19:14:43.28
>>233
淮南子は国土である中国大陸の東西を
中央の極として1万2千里としている
中国大陸の東西は大体4千kmなのでそれを1万2千里で割ると
一里350mくらいの普通の里の数値が出てくる
そもそも淮南子に出てくる距離は実測値じゃないけれど
実測だったとしても1里70mだかになるとい一寸千里法は使われていないという事に 272日本@名無史さん2019/07/30(火) 19:15:54.05
273日本@名無史さん2019/07/30(火) 19:15:59.15
奥山氏は、まだ、完全に論破された算術のことで、食い下がっているな。。。
274日本@名無史さん2019/07/30(火) 19:16:43.97
275日本@名無史さん2019/07/30(火) 19:17:48.00
276日本@名無史さん2019/07/30(火) 19:18:27.16
淮南子という、一寸千里の法と同じ考え方で、里の長さを規定していた文章があったね。。。
277日本@名無史さん2019/07/30(火) 19:18:58.50
>>273
反論しないで論破するという魔術の存在は
誰も信じないな 278日本@名無史さん2019/07/30(火) 19:19:01.02
「鉄器」と雑にひとくくりにまとめて考えてしまう人が多いが実態は違う
前期に小型の工具
中期に武器
後期後半の古墳時代直前になってようやく農具が現れる
この事から鉄器が弥生時代の生産性の向上に大きく寄与したとは言い難い
また、民間の住居などからも見つかる事から威信材として用いられるようなものではなく一般的な道具であったと考えられる
これ等を踏まえて考えると鉄器が社会の大きな変化の要因になったと言うのは事実誤認であると言う他ない
279日本@名無史さん2019/07/30(火) 19:19:12.67
それにしても、奥山氏は、頭が悪すぎるな。。。
280日本@名無史さん2019/07/30(火) 19:23:05.08
九州説は反論できないから悪口ばかり
281日本@名無史さん2019/07/30(火) 19:27:52.57
>>279
奥山氏は、頭が悪すぎることがバレたので、このスレッドは、寂れていくのではないのかな。。 282日本@名無史さん2019/07/30(火) 19:28:18.12
そもそも九州説は畿内説スレに書き込みに来といて負けるとか
そこんとこどうなのよ
283日本@名無史さん2019/07/30(火) 19:29:59.22
>>269
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の頭が悪すぎる奥山氏は、センターに入院するための試験で、漢字で通名を書き、入院が決定したことを、前回のスレッドで自慢していたね。。 284日本@名無史さん2019/07/30(火) 19:31:12.16
農具としての鉄器の登場の遅さを考えると九州も畿内も鉄農具の使用に実際は殆ど時間差がない事が分かる
むしろ畿内を中心とする勢力の拡大によって全国的な鉄農具の普及が進んでいる様子が見える
鉄農具の存在は弥生時代の九州の話ではなく邪馬台国の農業の発展を示す証拠と言う方がむしろ現実にそうと言える
285日本@名無史さん2019/07/30(火) 19:33:26.83
奥山氏がセンターの屋上への階段室から外側に出て、恐ろしいことが起きないように、病棟の管理者は注意しているのだろうか、、
286日本@名無史さん2019/07/30(火) 19:37:02.94
>>285
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の頭が悪すぎる奥山氏は、大学病院に入院していると言っていましたね。。 287日本@名無史さん2019/07/30(火) 19:40:04.65
>>286
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の頭が悪すぎる奥山氏は、大学病院を卒院したことも、自慢していたね。 288日本@名無史さん2019/07/30(火) 19:41:46.24
>>287
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の頭が悪すぎる奥山氏は、大学病院を、出たり入ったりしているのだろうか、、、 289日本@名無史さん2019/07/30(火) 19:42:47.97
奥山氏は、箱と玉が好きなのだったな。。。
290日本@名無史さん2019/07/30(火) 19:47:06.65
>>257
>魏志倭人伝の1万2千里に余がついてるのは
>魏使らが計測した証拠だったんじゃなかったのか
ザラゴキは、ちゃんと測った値だから余がついてる
余がついてない淮南子の観念的な値とは違うって言ってるよねww 291日本@名無史さん2019/07/30(火) 19:49:40.63
>>283
>センターに入院するための試験で、
センター試験って、がんセンターに入るための試験じゃないよ? 292日本@名無史さん2019/07/30(火) 19:51:03.84
いつも喚き散らしてた鉄器とやらが実はもう20年以上前に優位性の証明にならないと言われてる事も知らなかったアホな九州説だった
293日本@名無史さん2019/07/30(火) 19:52:33.68
九州説が意味不明な事をつぶやきながらまたゾンビのようになって徘徊を始めた
294日本@名無史さん2019/07/30(火) 19:56:26.55
ゾンビ退治ゲームのバイオハザードだとゾンビを倒すには
銃で撃ったりトナイフで切ったり
火炎放射器で焼き払ったりするんだっけ
295日本@名無史さん2019/07/30(火) 20:08:50.16
>>278
バカだなぁ
鉄鏃が住居遺跡から出土してないから畿内説なんて可能性0って話なことまだ理解できてないよ 296日本@名無史さん2019/07/30(火) 20:16:03.13
無駄な情熱がすげえな
連続句読点 計55 スレ立ての邪魔 40 その外 15
ザラゴキ 28
長文コピペ 10 これもたぶん連続句読点
つぶやき 13
上げ下げの人 29 16と13の二人分の可能性あり
キウス 5
290まででこれだけ荒らしてる
九州説って、他にやることないのか?
297日本@名無史さん2019/07/30(火) 20:24:58.88
畿内説の胡散臭さがどんどんばらされていくな
298日本@名無史さん2019/07/30(火) 20:29:16.02
大作塚(あの大作塚のほう)について調べてみた?
理想郷(国?)を建設しようとしているんでしょ
陰謀論者によると、そういう話みたいだし
299日本@名無史さん2019/07/30(火) 20:46:15.26
奥山氏は労働もせずに、空想しているので、集計を完全に間違え、笑いリラックスさせてくれるので、良いな。。。
300日本@名無史さん2019/07/30(火) 20:46:54.90
300
301日本@名無史さん2019/07/30(火) 20:47:26.40
邪馬台国は魏志倭人伝に会稽東治の東にあると書いてあるだろう
これは会稽東冶県の事で現在の福建省福州市でその東が沖縄か台湾
九州説はこれについてどう説明をするのかな
また魏志倭人伝の道里を辿れば邪馬台国はかなり南方で
九州北部にならない事についても説明が必要
302日本@名無史さん2019/07/30(火) 20:48:29.85
>>236
>平原1号墓本体が作られてから、周溝が風化で埋まってそれから作られた土坑墓が
>3世紀初頭なんだから、どうやっても卑弥呼の墓にはならないんだよw
その絶対年代に信頼がなく、それをさも確定した事項のように述べるから嘘くさくなる。 303日本@名無史さん2019/07/30(火) 20:49:42.32
奥山氏は、癌患者ではなく、脳を破損し、センターに入院しているのだったな。。
291日本@名無史さん2019/07/30(火) 19:49:40.63
>>283
>センターに入院するための試験で、
センター試験って、がんセンターに入るための試験じゃないよ? 304日本@名無史さん2019/07/30(火) 20:50:33.92
ニュー速で奥山の妄言発見!!!
432 返信:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2019/07/30(火) 20:45:19.27 ID:T1lx3/LI0 [19/19]
>>418
まあ俺は直接話聞ける立場だけどね、橿考研、奈文研に徳島の石野氏とも。 305日本@名無史さん2019/07/30(火) 20:54:54.77
奥山氏は、箱と玉が好きなのだったので、僕達の、遠くの、頭の良い孫娘の姉妹が、吉本興業の芸人より笑いリラックスさせてくれるという内容のメールを、送ってきたのだったね。。。
306日本@名無史さん2019/07/30(火) 20:59:13.50
自称研究家という頭の悪い奥山氏は、振り込め詐欺の余興に招かれて、畿内説という名の奥山説を、あつくあつく語ってしまい、社長にクビだと言われてしまうのでは、ないのかな。。。
307日本@名無史さん2019/07/30(火) 21:00:12.34
邪馬台国が九州北部じゃなくて九州南部かさらに南方と想定されていたとすると
邪馬台国までの距離の帯方より南に1万2千里は九州北部を指すものではなく
1万2千里は短里で九州北部を指してなかった事になる
まさか九州説は短里があったと世間に嘘をついていたわけじゃあないよな
308日本@名無史さん2019/07/30(火) 21:00:24.52
>>241
>畿内の鏡の配布主体の存在、山陰に存在する玉の生産と配布の中心地の存在が近畿周辺のネットワークの存在を示している
根拠なし。
少なくとも纒向は空白地域だろ? 309日本@名無史さん2019/07/30(火) 21:03:20.35
>>243
この文章で何が言いたいのか不明。
九州説も畿内説もそんなことは言っていないからね。
しかし、魏志倭人伝に倭人は鉄を用いることが明記されているのに、鉄を持たない纒向を邪馬台国だと言い張る言い訳には使うべきではないと思うよ。 310日本@名無史さん2019/07/30(火) 21:04:14.09
311日本@名無史さん2019/07/30(火) 21:04:58.53
>>253
>石野博信「2世紀末に突然現れ、4世紀中頃に突然消滅した大集落遺跡」
纒向の「大集落」には何戸の建物があったの? 312日本@名無史さん2019/07/30(火) 21:05:32.28
魏は普通の里より5分の1短い短里を使っていたと世間をたぶらかす九州説
313日本@名無史さん2019/07/30(火) 21:06:14.85
>>132
>おいおい、倭国大乱が始まる50年以上前には廃れてるんだが?
どの遺跡を何年に比定しているのかな?
そんなに正確に遺跡の年代がわかるのかなw
君の意見はただの印象操作にしか聞こえない。
具体的に年代を示したら?
その根拠もよろしく。 314日本@名無史さん2019/07/30(火) 21:08:10.94
キナイコシ君は甕棺墓の衰退した年代がわかるそうだ。
その根拠を聞こうではないか。
315日本@名無史さん2019/07/30(火) 21:08:28.49
プロ固定は、頭が悪すぎると、スレッドが寂れていくので、頭を良くして下さい。。。
316日本@名無史さん2019/07/30(火) 21:08:35.52
>>196
>はいはい、その数十年以上の余裕をとって見ても、甕棺墓の時代は2世紀末まで
>届かないんだよ
さあさあ根拠をどうぞ。 317日本@名無史さん2019/07/30(火) 21:09:45.75
>>302
>その絶対年代に信頼がなく、それをさも確定した事項のように述べるから嘘くさくなる。
これが>>154に書いてある
「編年研究は信じない 」ですね!ww
もうね、九州説がとりあえず完全否定されないところがここしかないからw
でも、桃核の年代測定もあるし、纏向遺跡がより古くなることはあっても九州説好みの
遅い編年になることはないぞww 318日本@名無史さん2019/07/30(火) 21:09:59.47
こうやって、不可知部分を過剰評価することで、正当な議論をインチキのようにすのは良くないんだってさ。
聞いているかい、キナイコシくん!
319日本@名無史さん2019/07/30(火) 21:13:04.79
もし孫娘がこのスレを見たら、祖父の頭が悪すぎて軽蔑するのではないかな、、、
320日本@名無史さん2019/07/30(火) 21:14:21.98
321日本@名無史さん2019/07/30(火) 21:14:46.23
>>308
>根拠なし。
>少なくとも纒向は空白地域だろ?
畿内の感覚では特に大きな古墳じゃない下池山古墳でも、当代随一と言える様な
優品の大鏡が出ているし、>>222でも書いたように玉杖と玉葉のような玉製品も
出てるよ
王の副葬品が出ないのは、王墓の埋葬主体部が発掘されていないから、で
十分だ
纏向勝山古墳辺りの埋葬主体部が残っていれば、九州説など揮発していただろうに
纏向遺跡のピンポイントで出ないというのは、畿内第V様式土器の範囲を邪馬台国七万戸と
する立場からすればどうでもいい 322日本@名無史さん2019/07/30(火) 21:15:35.74
>>317
桃の種は卑弥呼と関係なくなってしまったね。
残念!
畿内説の頼みの綱はカエルの骨だけだ! 323日本@名無史さん2019/07/30(火) 21:16:13.24
>>321
>畿内の感覚では特に大きな古墳じゃない下池山古墳でも、当代随一と言える様な
で、その絶対年代は?
わかるんだろ? 324日本@名無史さん2019/07/30(火) 21:16:33.09
>>309
>この文章で何が言いたいのか不明。
頭、悪いんだね
>九州説も畿内説もそんなことは言っていないからね。
これは、いろんな文献を読んでいませんというだけだなww
まあ、>>309にとっては邪馬台国の会のウェブサイトだけが
信頼できる情報源みたいだから、さもありなむww 325日本@名無史さん2019/07/30(火) 21:17:54.28
>>321
勝山ってw
作りかけの馬具が出土したところだなw 326日本@名無史さん2019/07/30(火) 21:18:20.79
>>310
>畿内説だと投馬国はどこになるんだ?
このスレで人気があるのは、出雲
テンプレでは吉備周辺
出雲の実力をどの程度に見積もるかで変わってくる
行程上は、出雲と見る方が自然
327日本@名無史さん2019/07/30(火) 21:19:16.89
>>313
>どの遺跡を何年に比定しているのかな?
>そんなに正確に遺跡の年代がわかるのかなw
これが>>154に書いてある
「編年研究は信じない 」ですね!ww
もうね、九州説がとりあえず完全否定されないところがここしかないからw
でも、桃核の年代測定もあるし、纏向遺跡がより古くなることはあっても九州説好みの
遅い編年になることはないぞww 328日本@名無史さん2019/07/30(火) 21:20:11.85
>>319
>もし孫娘がこのスレを見たら、祖父の頭が悪すぎて軽蔑するのではないかな、、、
連続句読点のお孫さんが本当に気の毒だよww 329日本@名無史さん2019/07/30(火) 21:20:36.38
330日本@名無史さん2019/07/30(火) 21:27:03.13
基本は九州の土器編年だよ
K IVa, K IVbが桜馬場遺跡の年代
庄内並行期の西新式土器より50〜100年古い
331日本@名無史さん2019/07/30(火) 21:37:36.12
332日本@名無史さん2019/07/30(火) 21:38:39.25
333日本@名無史さん2019/07/30(火) 21:39:09.93
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の頭が悪すぎる奥山氏は、労働もせずに、24時間、日本人に対して嘘や悪口や意味の通じない意見を、投稿しているな、、、
334日本@名無史さん2019/07/30(火) 21:40:57.31
奥山氏は、まだ、完全に論破された編年のことで、食い下がっているな。。。
335日本@名無史さん2019/07/30(火) 21:45:50.62
もう連句点が言ったらウソ、という条件反射が確立してしまったな
336日本@名無史さん2019/07/30(火) 21:48:08.44
もう九州説は
学界の通説を完全に論破しないと
浮かぶ瀬がないのが
確定したね
337日本@名無史さん2019/07/30(火) 22:11:30.07
>>324
何も実証できないから何となくほのめかしてごまかすだけの畿内説 338日本@名無史さん2019/07/30(火) 22:12:18.27
339日本@名無史さん2019/07/30(火) 22:12:52.96
古いものは新しく、新しいものは古く見せかけて、何でもかんでも邪馬台国の時代に見せかけるのが畿内説の常套手段なんだね!
340日本@名無史さん2019/07/30(火) 22:13:02.16
341日本@名無史さん2019/07/30(火) 22:13:30.14
342日本@名無史さん2019/07/30(火) 22:13:58.59
343日本@名無史さん2019/07/30(火) 22:14:08.96
>>236
>平原1号墓本体が作られてから、周溝が風化で埋まってそれから作られた土坑墓が
>3世紀初頭なんだから、どうやっても卑弥呼の墓にはならないんだよw
その絶対年代に信頼がなく、それをさも確定した事項のように述べるから嘘くさくなる。 344日本@名無史さん2019/07/30(火) 22:14:57.95
345日本@名無史さん2019/07/30(火) 22:15:31.72
>>284
>鉄農具の存在は弥生時代の九州の話ではなく邪馬台国の農業の発展を示す証拠と言う方がむしろ現実にそうと言える
印象操作?
絶対年代の根拠は? 346日本@名無史さん2019/07/30(火) 22:17:12.56
>>278
>これ等を踏まえて考えると鉄器が社会の大きな変化の要因になったと言うのは事実誤認であると言う他ない
これ、邪馬台国と関係ない話だね。
鉄がない纒向は邪馬台国ではないよというだけの話のはず。
勝手に話を捻じ曲げるのが好きな御仁のようだ。
詐欺師と紙一重だ。 347日本@名無史さん2019/07/30(火) 22:18:06.03
>>253
>石野博信「2世紀末に突然現れ、4世紀中頃に突然消滅した大集落遺跡」
纒向の「大集落」には建物は何戸あったの?
早く答えなよ。 348日本@名無史さん2019/07/30(火) 22:18:41.07
>>343
>その絶対年代に信頼がなく、それをさも確定した事項のように述べるから嘘くさくなる。
という九州説の言い分が嘘くさいのは、なんの証拠も出さないから
「信頼がなく」なんて個人的主観を何度も言い張るだけで
信頼がなくなるのが九州説だ 349日本@名無史さん2019/07/30(火) 22:19:09.40
>>241
>むしろ鏡や玉等の威信材の流通のネットワーク
平原遺跡が頂点だろ。 350日本@名無史さん2019/07/30(火) 22:19:50.59
>>231
>>>226
>三世紀後半と判ってるよ
卑弥呼よりあとなら意味がない。
そもそもその絶対年代の根拠は? 351日本@名無史さん2019/07/30(火) 22:21:20.43
>>228
>出土した鏡の材質は二世紀後半以降の生産と確認されてる鏡と同質の素材をまったく含まない
しかし2世紀前半の後漢鏡とも違うだろ?
実は3世紀前半なのかもよ。 352日本@名無史さん2019/07/30(火) 22:21:53.85
>>228
>>>187
>>キナイコシ君は平原遺跡が2世紀だと思うそうだ。
>>その根拠を聞こうじゃないか。
>
>公式の発掘調査報告書でそう発表されてるからだよ
少しは自分の頭で考えようよ。
誰かいますか〜? 353日本@名無史さん2019/07/30(火) 22:22:33.12
ここまで具体的な根拠ゼロのキナイコシ。
354日本@名無史さん2019/07/30(火) 22:23:07.92
>>346
>これ、邪馬台国と関係ない話だね。
>鉄がない纒向は邪馬台国ではないよというだけの話のはず。
その話が具体的に否定されたのに
理由も言わず
>これ、邪馬台国と関係ない話だね。
の一言だけで無視しようとするから
「九州説はマトモな反論ができない」
と評されるのは無理もない 355日本@名無史さん2019/07/30(火) 22:24:48.05
>>352
>少しは自分の頭で考えようよ。
>誰かいますか〜?
九州説のひと以外は皆そうだが? 356日本@名無史さん2019/07/30(火) 22:27:23.73
>>351
>しかし2世紀前半の後漢鏡とも違うだろ?
>実は3世紀前半なのかもよ。
二世紀後半以降の生産と確認されてる鏡と同質の素材をまったく含まない鏡を
三世紀前半につくることは
まず不可能 357日本@名無史さん2019/07/30(火) 22:31:10.61
箱玉頑張れ、、、、箱玉頑張れ、、、
358日本@名無史さん2019/07/30(火) 22:33:58.82
>>353
こういうウソが平気でつけるような人しか
今の九州説には残っていない
それは悲劇だ 359日本@名無史さん2019/07/30(火) 22:34:16.22
487>>307
「南→東」などの嘘吐き騙しのアホは、
どうしようもない妄想を、喚いてるだけだな 360日本@名無史さん2019/07/30(火) 22:35:39.58
なぜかポケモソでも同じようなことを言っていたり、
古の〜を復活(建国?)させようとしている
「?????????????????」がいるとか
劇場版だったかな?
偶然観ていたんだけど、テレビでw
一時期アニメばかり観ていたことがあったんだけど、
銀〜、忍者、ポケモソ・・・、
361日本@名無史さん2019/07/30(火) 22:43:16.60
九州説の悲劇
362日本@名無史さん2019/07/30(火) 22:47:50.52
487>>330
・「南≠東」などのように古文書を解読するのが九州説
・「南→東」などのように古文書を改竄するのが大和説
・大和説のウソを暴くのが九州説
・ウソを付くのが大和説
・史料事実を説明するのが九州説
・国民を皇国史観に洗脳するのが大和説
・国民に葬られたのが大和説
・人類に認められたのが九州説
・歴史に基づかないのが大和説
・歴史に基づくのが九州説
・矛盾がないのが九州説
・矛盾だらけなのが大和説
・安部文部省やキョクウ学会教育界が絡んでいるのがいる大和説
・過半数の国民や人類に支持されるのが九州説 363日本@名無史さん2019/07/30(火) 22:48:26.19
>>356
>二世紀後半以降の生産と確認されてる鏡と同質の素材をまったく含まない鏡を
2世紀後半以降の鏡って、どれくらいの種類があると思っているのかな?
嘘だとすぐわかる。 364日本@名無史さん2019/07/30(火) 22:53:09.32
甕棺墓の王墓には後漢鏡が副葬されている。
墓制も鏡の様式も新しい平原遺跡は、倭国大乱の後の女王墓になる。
国内の土器だけでは、前後関係や地域差はわかっても、絶対年代はわからない。
しかし銅鏡は中国の史料と比較すると絶対年代がわかる。
平原遺跡の超大型内行花文鏡は、卑弥呼の治世に作られた。
365日本@名無史さん2019/07/30(火) 22:53:51.85
ここまでキナイコシによる絶対年代の論拠の説明なし。
366日本@名無史さん2019/07/30(火) 22:53:58.54
『某徳永英明 負けるな』
(『ドラクエ』)それとも、びーいんぐ?
なぜか同じだしな・・・、
367日本@名無史さん2019/07/30(火) 22:57:09.82
368日本@名無史さん2019/07/30(火) 22:58:16.37
>>365
何度も説明されているのに
無知ゆえに理解できないだけだよ 369日本@名無史さん2019/07/30(火) 22:59:25.37
487>>344
>後漢書の内容こそ魏志倭人伝の原資料の可能性があるぞ <
魏志倭人伝の原資料は、魏使らや郡役人らの実地の見聞計測の記録だよ。 370日本@名無史さん2019/07/30(火) 23:00:01.94
『芥川龍之介 歯車』
タイプライターが何やらとか、
『徳永英明 負けるな』
371日本@名無史さん2019/07/30(火) 23:00:28.26
>>330
>庄内並行期の西新式土器より50〜100年古い
この誤差の幅は邪馬台国論争にとって致命的で、土器では何も確定的なことは語れない。
不可知なことをさもわかったことのように誇張して説明するのがキナイコシ。 372日本@名無史さん2019/07/30(火) 23:04:14.48
373日本@名無史さん2019/07/30(火) 23:07:17.16
487>>369
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説しゃの、そんなあなたは、
「反対するものは皆殺し」という、京都アニメ会社放火のテロ思考しか
出来ない人ですよ 374日本@名無史さん2019/07/30(火) 23:16:17.96
487>>370
九州説は
「邪馬台国」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
「南≠東」などの論争に負けたから
はらいせに
口汚ない中傷ばかり
しているんだよね
たちが悪いね 375日本@名無史さん2019/07/30(火) 23:18:29.68
>>371
>>庄内並行期の西新式土器より50〜100年古い
>この誤差の幅は邪馬台国論争にとって致命的で、土器では何も確定的なことは語れない。
は?
誤差って?
それ、正統学問とトンデモ九州説の年代差だぞ 376日本@名無史さん2019/07/30(火) 23:18:44.57
487>>371
朝から狂ったように、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の、
あらぬことをわめき散らす大和説者の姿からは、
「唯我独尊のタカ派皇国史観戦争狂」の姿しか思い浮かばない 377日本@名無史さん2019/07/30(火) 23:18:56.73
>>349
>平原遺跡が頂点だろ。
平原周辺から周りに配られたもの、伝わったものが皆無なんだw
宗像氏が3世紀に大豪族だったとは認められないってのは納得したな!
ウソつきww 378日本@名無史さん2019/07/30(火) 23:22:12.09
>>351
こいつ、すごく踊るから面白いなw
>実は3世紀前半なのかもよ。
これが>>154に書いてある
「根拠は僕がそう思ったから」ですね! 379日本@名無史さん2019/07/30(火) 23:22:59.13
487>>375
>帯方より南1万2千里だと倭奴国の位置になるだろうから
邪馬台国は1万2千余里とした<
「邪馬台国」なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であり、
「1万2千余里」は、「余」があるから、
魏使らの記録から、陳寿が近似値にして書いた。 380日本@名無史さん2019/07/30(火) 23:24:19.74
>>352
>少しは自分の頭で考えようよ。
オーソライズされた情報を一切無視してたらデタラメにしかならないだろ?
だから九州説は、言うことがことごとく相互に矛盾してデタラメになってるんだよw 381日本@名無史さん2019/07/30(火) 23:26:05.20
487>>377
>倭奴国が邪馬台国だったのでは?<
「邪馬台国」は、存在もしなかった嘘吐き騙し文言であった。 382日本@名無史さん2019/07/30(火) 23:36:39.10
>>364
>墓制も鏡の様式も新しい
墓制については木棺墓が新しいということにはならない
吉武高木遺跡にも木棺墓はある
鏡の様式といっても、舶載鏡は100年以上古い伝世鏡2面以外は仿製鏡で
倭国で作ってるんだから、ある意味どんなものでも作れるんだがな
鏡の様式という言葉で>>364が何を言いたいのかは分からんがww
>平原遺跡は、倭国大乱の後の女王墓になる。
前にも書いたことがあるが、平原遺跡と平原1号墓を区別しない人は
考えの足りない人だからもういいや
どうせ倭国大乱は甕棺墓の中の鉄の鏃の刺さった骨で確認できるとか思ってるんだろww 383日本@名無史さん2019/07/30(火) 23:38:20.61
奥山 駄弁大杉
384日本@名無史さん2019/07/30(火) 23:41:48.43
>>371
>この誤差の幅は邪馬台国論争にとって致命的で、土器では何も確定的なことは語れない。
その幅の一番新しい年代を採っても邪馬台国の時代に届かないんだよ
ーーーー○○○○○○○○○○○○○○○○○ーーーー
この幅が50〜100年 ↑
卑弥呼の時代はここ
>不可知なことをさもわかったことのように誇張して説明するのがキナイコシ。
十分な論証がなされているのに、自説に都合の悪いことは見ない聞こえない認めないww
根拠は僕がそう思ったから
編年研究は信じない
文献解釈はアクロバット
考古遺物は弥生全期間で見るが弥生終末期限定のものは見ないww 385日本@名無史さん2019/07/30(火) 23:53:21.77
やっぱり九州説ってバカしかいないんだな
386日本@名無史さん2019/07/31(水) 00:00:03.45
そりゃあ九州説には九州説しか居ないから
387日本@名無史さん2019/07/31(水) 00:02:29.33
宗像地域における古墳時代首長の対外交渉と沖ノ島祭祀
重藤 輝行
本稿では、宗像地域の首長墓級の大型古墳の編年的
検討を行い、筑前北部の他地域と対比した。それによ
り、古墳時代中期後半以降、宗像地域は一貫して、筑
前北部地域全体においても最大級の古墳を連続して築
造していることが確認された。これは沖ノ島祭祀の盛
行とも合致すると言える。また、宗像地域の古墳の頂
点にたつ津屋崎古墳群の構成は、福岡県八女市を中心
とする八女古墳群をも凌駕しており、北部九州さらに
は西日本を代表する大規模で複雑な古墳群を形成して
いると理解できる。
http://www.okinoshima-heritage.jp/reports/index/2 388日本@名無史さん2019/07/31(水) 00:05:05.34
>>296
暇人キナイコシ
俺も計算してみた
296−ザラコク他195−テンプレ75?=26
26のうちほとんどがキナイコシだから、このスレには畿内説の奴はほとんど来ない
なぜだろうww 389日本@名無史さん2019/07/31(水) 00:05:14.19
>>384
> 卑弥呼の時代はここ
「卑弥呼の時代」そのものにかなりの幅があるのに、この議論は乱暴だな。
稚拙というよりは悪意を感じる。 390日本@名無史さん2019/07/31(水) 00:08:21.34
>>382
>鏡の様式といっても、舶載鏡は100年以上古い伝世鏡2面以外は仿製鏡で
>倭国で作ってるんだから、ある意味どんなものでも作れるんだがな
「どんなものでも」が何を意味するのかわからないから、意味のなく、反論になっていない。
このようにキナイコシは反論めいたことは言うものの、中身をよく吟味すると空っぽw
平原遺跡が倭国大乱の後の墓だという意見に対して何も反論できていない。 391日本@名無史さん2019/07/31(水) 00:09:07.09
392日本@名無史さん2019/07/31(水) 00:11:23.85
>>382
>前にも書いたことがあるが、平原遺跡と平原1号墓を区別しない人は
>考えの足りない人だからもういいや
普通は平原遺跡と言えば一号墓のことを議論すると思うのだが?
君がコミュ障と呼ばれるわけがわかったような気がする。 393日本@名無史さん2019/07/31(水) 00:19:46.19
何で九州説の奴がいるんだ?スレタイ読めんのか?
394日本@名無史さん2019/07/31(水) 00:33:00.93
>>393
畿内説を唱える一般人が少ないからじゃねー 395日本@名無史さん2019/07/31(水) 02:17:23.59
キチガイの坩堝に近づくのはよほどの物好きか使命感に燃えたぎっているかだからな
396日本@名無史さん2019/07/31(水) 02:50:49.18
>>392
>普通は平原遺跡と言えば一号墓のことを議論すると思うのだが?
いや、ぜんぜん普通じゃない
平原墓と言われれば一号のことだと思うのは、わかる
でも平原遺跡と言って済ますのは変な人 397日本@名無史さん2019/07/31(水) 02:56:12.52
距離=日数?
一日中家でゴロゴロしてる奥山は
10日でどれだけの距離を進んだのかな
398日本@名無史さん2019/07/31(水) 03:24:57.62
399日本@名無史さん2019/07/31(水) 03:27:13.06
>>397
またあの人がブーメラン自殺してしまったな 400日本@名無史さん2019/07/31(水) 03:48:33.75
おーい奥山 電気 ガス 水道 止められるぞ
働け
401日本@名無史さん2019/07/31(水) 03:53:26.14
この人は本気で畿内説スレに畿内説が一人しかいないと思ってるんだろうか
402日本@名無史さん2019/07/31(水) 04:27:33.02
>>397
うん、素晴らしい文章だ。短く平易に見えてスキが無い。 403日本@名無史さん2019/07/31(水) 05:39:56.88
404日本@名無史さん2019/07/31(水) 05:53:01.69
487>>381
>それじゃ九州説は帯方より南1万2千里は九州北部を表してないと言う積もり <
いや、卑弥呼の頃の女王國(≒倭國)は九州島付近、と言う積り。
>それなら畿内説は1万2千里はパプアニューギニアか沖縄辺りを指す事になる<
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言。
>地の果てを指す概念的なものとの主張が通る<
淮南子も短里であるし、
「余」があるから、魏志は魏使らの実地の見聞計測記録からの近似的説明を書いた。
>日数=里数を認めなければ1万2千里は九州北部を指すものではなくなり<
日数記載と里記載が、対象が別であり、なくならない。
>認めるなら投馬国が女王国より北にある事になって九州北部説は終了
チェスで言うダブルチェック 将棋で言う両王手ですな<
「南≠東」と「里数記載と日数記載とは概念が別」や考古のなど、
全ての チェック で、大和説は×。 405日本@名無史さん2019/07/31(水) 06:00:42.78
487>>382
>石野博信「2世紀末に突然現れ、4世紀中頃に突然消滅した大集落遺跡」 ・・・<
石野も、「正北抵新羅」や、
「南≠東」や「大和は九州倭国の別種の旧小国」などの、
史料事実や史料実態に対する隠蔽をするインチキ詐欺師学者であり、×人間。 406日本@名無史さん2019/07/31(水) 06:03:38.70
>>387
>筑前北部地域全体においても最大級の古墳を連続して築造していること
筑前北部地域って、めっちゃ狭い範囲だって認識してるか?
そのめっちゃ狭い地域の首長がいたってだけで、宗像氏が大豪族だったとはどこにも書いてないぞw
しかも古墳時代最初期の古墳はないww
弥生終末期に八咫鏡を作るあるいは持つ勢力はここにはいない 407日本@名無史さん2019/07/31(水) 06:06:20.53
487>>383
>中国の日本についての記述を見ると九州説など全く存在していないのが分かる・・・<
この男も、「南≠東」や、
「隋書や唐書までが全て九州倭国の存在を記載している事」などを、
隠蔽曲解する嘘吐き騙しの・・・・詐欺師であり、
×人間。 408日本@名無史さん2019/07/31(水) 06:09:33.82
>>389
>「卑弥呼の時代」そのものにかなりの幅があるのに、この議論は乱暴だな。
ああもう、本当にバカだな
ーーーー○○○○○○○○○○○○○○○ーーーーーーーーーーーー
この幅が50〜100年 ↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
卑弥呼の時代はここ
これでいいか?
本質とはなんの関わりもないだろ?
>稚拙というよりは悪意を感じる。
これも>>154に書いてある
「根拠は僕がそう思ったから」ですね! 409日本@名無史さん2019/07/31(水) 06:17:05.62
487>>387
>1000里を移動するのに10日かかりました 1日何里移動したでしょう
道里と日数は全く違うものとする九州説はこの問題が解けない <
郡から女王之所都が、萬二千余里という里数と、水行十日陸行一月の40日という、
両方の説明があるから、割り算して、
1日平均約300里、という計算が出来る。
これは、古田さんの説明の、
「裴松之の注にあった車駕による陸行距離数の1日300里」とピッタリである。 410日本@名無史さん2019/07/31(水) 06:17:17.21
>>390
>平原遺跡が倭国大乱の後の墓だという意見に対して何も反論できていない。
倭国大乱の絶対年代はいつだと思っているんだ?
そして平原1号墓の絶対年代はどうやって決めるんだ?
遺跡からの考古遺物では絶対年代は決められないんだろ?
本当に頭悪いなww
>「どんなものでも」が何を意味するのかわからないから、
その前に>>364の「墓制も鏡の様式も新しい」の具体的な中身がゼロなんだが?
木棺墓は新しくないってのは既に>>382で指摘してあるし、方形台状墓という形式も
平原1号墓よりも古い吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓と同じで新しくない
適当に「根拠は僕がそう思ったから」で書いてるだけだろ?w 411日本@名無史さん2019/07/31(水) 06:17:44.43
>>153の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜日本海〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜東→✖畿内説沈没地点(†乗客乗員>>157)
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行十日」↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」§琵琶湖
↓ ┃〜〜〜↓↓玄界灘〜〜↗_〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓ 淀川↙ ↖木津川
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行十日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃河内湖+大和湖Ω箸墓
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃紀伊半島
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃★奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王四千余里」@阿波
建業┃〜〜┃狗奴(球磨)国▲▲投馬(都万)国┘宮崎平野=南「水行二十日」
会稽┃〜〜┗━━━九州島━━┛↓〜〜〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海〜┌南「水行十日」〜〜〜〜〜〜
蘇州┃〜〜┌┌←←▲奄美大島┐↓陳寿の創作〜〜
↓ ┃〜〜│↓「陸行一月」(幻)│←「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
福州┃〜〜│↓〜▲〜〜〜〜〜│亶州(沖縄)〜↓「自郡至女王国 万二千余里」〜〜
東冶┃〜〜│☆奴国A(幻)〜〜│★『【女王之所都】計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲狗奴国(幻)〜〜│夷州(台湾)〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国遠絶 不可得詳」〜〜
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜南シナ海〜〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(☆奴国A)東南 船行一年」 412日本@名無史さん2019/07/31(水) 06:22:50.11
487>>388
>邪馬台国は北部九州から更に水行10日陸行1月も行った先だ
「少し南」なんかではないよ <
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるし、
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているし、
「水行10日陸行1月」は郡から女王之所都の所要日数であるから、
邪馬壹國女王之所都は、不彌國の直ぐ南にあり、北部九州にある事になり、
この大和説男も、嘘吐き騙しの狂人詐欺師だな。 413日本@名無史さん2019/07/31(水) 06:30:42.44
487>>392
>それは倭国上陸まで
そして魏志倭人伝の記述では邪馬台国はそれよりはるか南方になる事はわかっているのに
九州説は1万2千里が九州北部の不彌国でほぼ終わりだと狂乱している<
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙しの文言であるし、
萬二千余里は、郡から邪馬壹國女王之所都への里数であり、水行十日陸行一月はその所要日数説明である、
という事が判っているのに、
この大和説男は、未だに狂乱している。 414日本@名無史さん2019/07/31(水) 06:38:47.69
>>169の続き
唐外交の忖度で生まれた古事記・日本書紀が消そうとしたのは、九州本家(歴代倭王権)がやらかしていた3つの不都合な史実
@(武寧王の百済を完全属国化した)継体@阿蘇邪靡堆が創設した(中国皇帝からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号→天智の倭京・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長以前は全て抹消
A新羅からの朝貢で調子に乗って、煬帝相手に「日出処天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤→大和分家・欽明朝、推古摂政厩戸皇子に仮託
B白村江海戦惨敗663年で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族の全員処刑)に恐怖した九州本家・天智@倭京(太宰府)の、(同盟国となっていた)高句麗に脱出できる近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草w)→大和分家・天武の母・斉明皇子に書き換え
-継体朝による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・倭京・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html 415日本@名無史さん2019/07/31(水) 06:55:57.90
>>410
>倭国大乱の絶対年代はいつだと思っているんだ?
>そして平原1号墓の絶対年代はどうやって決めるんだ?
絶対年代はわからなくても前後関係はわかるから、後漢鏡を有する甕棺墓より後で、後漢の時代の倭国大乱よりも後だということはわかる。
そして倭国大乱の後の最初の女王は卑弥呼なんだよ。 416日本@名無史さん2019/07/31(水) 07:05:08.28
>>392
>普通は平原遺跡と言えば一号墓のことを議論すると思うのだが?
平原遺跡には
5号墓
1号墓・2号墓
3号墓・4号墓
と3世代5基の墓が累代的に営まれており、家族墓地だと考えられている
古墳時代に入ってからもワレ塚古墳、銭瓶塚古墳、狐塚古墳と一族の造墓が続く
この全体像の中で1号墓をどう考えるか、というのが科学としての古代史の捉え方
平原遺跡には1号墓を除き、厚葬墓がない
1号墓と同時に作られた2号墓にも見るべき副葬品はない
1号墓が卑弥呼の墓なら2号墓は佐治国男弟が想定されるが倭国を治めた人物の墓ではない
卑弥呼の死後、卑弥呼の血統・宗女であるという理由で台与が選ばれているのだから
王の一族は重視されていたと考えられるが、1号墓の次世代の3・4号墓はほぼ一般人の墓だ
さらに、1号墓の次世代がまだ方形(円形)台状墓で、古墳時代まで1世代以上あることが分かる
つまり、家族墓地を作る程度には伊都国内での地位もある有力家系だが、王の一族ではない
また、1号墓は古墳時代より1世代以上古く卑弥呼の時代には届かない
卑弥呼の生前に作られた墓だ
平原1号墓と言わず平原遺跡でごまかす人は、5号墓、3・4号墓から分かるこれらのことを
一切考慮に入れていない人だ
だから、平原遺跡と平原1号墓を区別しない人は考えの足りない人だと判断している
いわゆるチェリーピッカーだってこと 417日本@名無史さん2019/07/31(水) 07:07:48.58
>>398
>一種のコミュニケーション障害かな
文は人なりってのが理解できないんだよ
文意文脈も読み取れていないし、九州説は多かれ少なかれ機能的非識字者の素因があるんだろう 418日本@名無史さん2019/07/31(水) 07:10:58.15
>>415
>絶対年代はわからなくても前後関係はわかるから
その前後関係で、甕棺墓の時代はとっくに終わってるって分かるんだが?
ダブスタ乙ww
結局「根拠は僕がそう思ったから」だなww 419日本@名無史さん2019/07/31(水) 07:28:25.12
>>406
>そのめっちゃ狭い地域の首長がいたってだけで、宗像氏が大豪族だったとはどこにも書いてないぞw
元の論文を読んでもらうとわかるが、この氏族を宗像氏族としている(宗像の氏族だから当然だが)。
>しかも古墳時代最初期の古墳はないww
それについても実は考えていたが、ここで書くことではないなとも思ったから自重していたけど、聞かれたから書くね。
ついでに、沖ノ島の祭祀が4世紀に始まる理由も書くね。
伊都における甕棺墓を持つ天孫族王家の成立を1世紀として、それを祭る沖ノ島の祭祀が4世紀まで遅れるのは、甕棺が衰退した2世紀後半から4世紀まで、倭国大乱に続いて邪馬台国政権が筑紫に成立していたからだろう。
天孫族の末裔は伊都国の官と記載された禰宜だが、その上に卑弥呼や壹與がいるうちは大々的な祭祀は行えなかったというわけだ。
4世紀に分家(忍代別)の景行天皇が九州北部を征服することにより、祖を同じくする伊都国王家も復権し、それを奉斎する宗像氏族も前方後円墳を受け入れ、沖ノ島における国家的祭祀が宗像氏族を代理人として開始された。
もともと沖ノ島すなわち高天原の天照と天孫を奉斎するのが天照の神勅による宗像氏族の役割なので、邪馬台国の衰退により旧に復したわけだ。 420日本@名無史さん2019/07/31(水) 07:38:02.28
>>416
>この全体像の中で1号墓をどう考えるか、というのが科学としての古代史の捉え方
木を見て森を見ず。
1(号簿以外は王墓ではないから、ここでは深く議論する今は少ない。
一般的な呼称により、こちらは一号墓を平原遺跡と呼ばせてもらう。
その他の遺跡についても同様。
まあ、君の意見には一理あるから、君は好きに呼びたまえ。 421日本@名無史さん2019/07/31(水) 07:38:44.11
>>417
ここは5chなんだから、肩の力を抜けよ。 422日本@名無史さん2019/07/31(水) 07:46:41.32
>>418
>その前後関係で、甕棺墓の時代はとっくに終わってるって分かるんだが?
だから何だ?
その後すぐに平原遺跡が作られたという根拠はあるか?
井原鑓溝遺跡の副葬品と平原遺跡の副葬品の内容に年代の乖離がある。
まだ見つかっていない王墓もあるだろうが、間の空白時期が倭国大乱と卑弥呼の長い治世だと考えることもできる。
まだ見つかっていない遺跡を元に語ることはできないので、現状では平原遺跡が卑弥呼の治世に作られた鏡を副葬された女王墓ということになる。 423日本@名無史さん2019/07/31(水) 07:49:45.61
424日本@名無史さん2019/07/31(水) 07:52:28.28
>>422
>まだ見つかっていない遺跡を元に語ることはできないので、現状では平原遺跡が卑弥呼の治世に作られた鏡を副葬された女王墓ということになる。
そういう時代錯誤をいつまでも押し通すから
九州説は泡沫説にまで落ちぶれたんだよ 425日本@名無史さん2019/07/31(水) 07:54:59.05
426日本@名無史さん2019/07/31(水) 07:58:48.10
>>422
・根拠は僕がそう思ったから
・編年研究は信じない
の典型ですな 427日本@名無史さん2019/07/31(水) 08:01:21.23
>>425
卑弥呼の時代にはもう七期末の鏡が入ってきてるので 428日本@名無史さん2019/07/31(水) 08:02:10.11
訂正
七期の鏡が入ってきてるので
429日本@名無史さん2019/07/31(水) 08:02:19.39
>>426
反論は具体的にどうぞ。
印象論はやめてね。 430日本@名無史さん2019/07/31(水) 08:08:03.47
3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://2chb.net/r/history/1556294803/303 431日本@名無史さん2019/07/31(水) 08:08:06.54
>>425
平原鏡はまさに倭国乱時代に輸入が途絶えて、乏しい資材で作られた鏡だからだな 432日本@名無史さん2019/07/31(水) 08:09:31.43
>>429
具体的指摘でしょ?
あなたが該当しないと否認でかまふかー? 433日本@名無史さん2019/07/31(水) 08:10:59.72
342日本@名無史さん2019/04/28(日) 10:52:03.18
バカのために、現実との対応の取りやすい例示で説明してやるよ
箱がたくさんあって、たくさんの箱の中である条件を満たす箱を考える
ある条件を満たす箱を今、 「特定の十個の箱」と呼ぶことにする
この「特定の十個の箱」がたくさんの箱の中のどれなのかは分からない
この時
赤の玉が箱に入っていることがあるが、赤の玉のうち75%が「特定の10個の箱」に入っている
青の玉が箱に入っていることがあるが、青の玉のうち75%が「特定の10個の箱」に入っている
緑の玉が箱に入っていることがあるが、緑の玉のうち75%が「特定の10個の箱」に入っている
赤、青、緑の玉がどの箱に入っているかは独立である
この時、ある一つの箱に「赤、青、緑」の玉がすべて入っていたら、
その箱が「特定の10個の箱」ではない確率は1.56%で
「特定の10個の箱」のうちの一つである確率は98.4%になる
この多数の「箱」が「遺跡」、「特定の10個の箱」が「邪馬台国の範囲にある遺跡」と
読みかえればイメージが湧くだろ
ここでは「特定の10個の箱」としたが、実際には「邪馬台国の範囲にある遺跡」はもっと多い
そして、ベイジアンで説明してくれている人がいるが、
『赤の玉が75%が「特定の10個の箱」入っていること』は、
『「特定の10個の箱」の75%に赤の玉が入っていること』を意味しない、
つまり、「特定の10個の箱」が赤の玉を含まない確率は未知なのでベイジアンは適応できないよ
ここまで説明しても、論理的思考ができない九州説連中には理解できないんだろうがね
434日本@名無史さん2019/07/31(水) 08:29:00.12
487>>393
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説の、
「道里=日数」論も、人類の言語の常識に違反する大悪手 435日本@名無史さん2019/07/31(水) 08:35:22.01
487>>394
3世紀末頃以後の九州王朝政権のは軍事的な主流は、
「自昔・・・東征毛人五十五國」の将軍に拠って、
瀬戸内から、丹後近江ー東山道ルートに移ったのだよ。 436日本@名無史さん2019/07/31(水) 08:40:37.74
487>>395
>1日平均100里でいいでしょう 速度の単純計算である
倭人伝で与えられた前提で計算は不能
水行20日でどれだけ進んだのか記述されていればOKだが<
三国志の裴松之注に拠れば、
陸行は、車駕で1日300里。強者で1日200里。
水行は、古田計算に拠れば、1日450里平均。 437日本@名無史さん2019/07/31(水) 08:46:32.79
438日本@名無史さん2019/07/31(水) 08:48:47.16
>>431
つまり平原遺跡の鏡は卑弥呼の治世の鏡なんだね? 439日本@名無史さん2019/07/31(水) 08:50:54.14
487>>398
>里数=日数を認めたな<
認めない。原則は「里数≠日数」であり、里数に関して日数は補完的な使用。
>それなら道里は日数の事でも構わない
魏志倭人伝の状王国より北部の国々はおおよその道里を示せるがの北部の国には
道のりが日数で書かれてる投馬国が含まれる事になって<
投馬國は、ほぼ萬二千余里の不彌國から、南へ水行二十日の位置にあるから、
「自女王國以北」に含まれない。
>邪馬台国はそれより南部に想定される事になり九州北部説は破綻<
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
邪馬壹國女王之所都は不彌國のすぐ南にある事になるし、
「南≠東」などに拠って、大和説は破綻。 440日本@名無史さん2019/07/31(水) 08:51:18.91
>>434
>「道里=日数」論も、人類の言語の常識に違反する大悪手
こういうのも
オレ様全知全能主義の誇大妄想なんだろな 441日本@名無史さん2019/07/31(水) 08:55:55.82
>>437
また大阪の会社を定年退職して韓国の客員教授になった人の論考か
なにの専門なのかな 442日本@名無史さん2019/07/31(水) 08:57:31.88
487>>401
大和説は、
「南→東」などの嘘付き騙しをし、
九州説に全逆突っ張りして暴れ、錯乱する余り
「里≠日数であり道里は原則として里数である」という、
人類の基本的常識すら失うに至って、
破綻した。 443日本@名無史さん2019/07/31(水) 08:59:06.75
>>438
>つまり平原遺跡の鏡は卑弥呼の治世の鏡なんだね?
倭国乱中の製造だから多分ちがうだろう 444日本@名無史さん2019/07/31(水) 09:06:58.77
>>442
>「里≠日数であり道里は原則として里数である」という、
>人類の基本的常識・・・
つまり、原則外では道里が日数でもいいわけだね?
ならば「日数で測ったから道里でない」と断定は出来ない
たとえば一次資料の作者が里数への換算率に自信がなかったので日数表記のままにしたが、まとめ資料の作成者は師行三十里を採用した、などという場合が考えられるね 445日本@名無史さん2019/07/31(水) 09:09:48.20
487>>412
>畿内説は魏志倭人伝の邪馬台国の方位と距離は実際の場所ではないとしているから平気<
畿内も邪馬台国なんても、存在もしていなかった嘘つき騙し文言であるし、
この男も、「魏志倭人伝の方位と距離は実際の場所ではない」なんて、
京都アニメ放火犯の・・・・のようなインチキ 妄想をしているから、
始めから×人間ね。 446日本@名無史さん2019/07/31(水) 09:13:45.05
487>>417
>違うものだが相関関係があるんだよ
それに道里は日数で表すことがある <
それでも「道里≠日数」であり、
道里に関しては、日数は補完的補助的な使用。 447日本@名無史さん2019/07/31(水) 09:13:45.86
448日本@名無史さん2019/07/31(水) 09:29:23.96
487>>422
>「投馬国も移動日数によって道里が略載されているので、女王国以北グループであることは明らか」、と明言し、
このことは、今後とも修正しないとしている。<
その「明言」が、全部インチキ。
投馬国の「水行二十日」は倭人からの伝聞であり、
「道里が略載」には全く関係がないので、女王国以北グループにはならない。
>以上のことは、実は「戸数の略載」においても全く同様である。
則ち、>>256 によれば、投馬国及び他の女王国以北の国々において、
戸数道里の略載上の差異はないことが明白となった。<
これも、投馬國情報は倭人からの伝聞情報であり、
「戸数道里の略載」対象になっていない。 449日本@名無史さん2019/07/31(水) 09:30:19.76
397日本@名無史さん2019/07/31(水) 02:56:12
距離=日数?
一日中家でゴロゴロしてる奥山は
10日でどれだけの距離を進んだのかな
距離=日数?
一日中 家でゴロゴロしてるのに
10日たったから 俺は1万里進んだという 奥山くん
450日本@名無史さん2019/07/31(水) 09:36:13.36
487>>427
>だって10600里のうち10500里が間違いだから当然だ^_^<
「10500里が間違い」であるんなら、残りの「1500里も間違い」にしなければならないし、
だから、大和説も破綻だ、という事は当然だ。
>事実なら日本列島など無い台湾沖あたりになると陳寿が計算してるとおりだ<
陳寿の女王國の位置推定は、会稽東治之東であるから、九州島付近を指していた、
という事も当然だ。
つまり、この大和説者は、京都アニメ放火犯のような、・・・・だな。 451日本@名無史さん2019/07/31(水) 09:47:21.21
>>446
>それでも「道里≠日数」であり、
理由は?
また、御託宣?
>道里に関しては、日数は補完的補助的な使用。
道里に関して日数を補完的補助的に使用するなら
日数で書いてあるから道里でないというのは偽だ
日数を補完的補助的に使用するんだろ? 452日本@名無史さん2019/07/31(水) 09:47:35.20
487>>433
>大抵在會稽之東相去絶遠 梁書倭伝では會稽之東 <
梁書も、前代の魏志に関して、「後代の自己解釈に拠る書き換え」を実行しているから、
半分×であり、証拠価値もない。 453日本@名無史さん2019/07/31(水) 09:49:26.68
>>447
六期中頃〜七期の鏡が手に入れられない異常事態下だから 454日本@名無史さん2019/07/31(水) 09:51:44.78
>>448
>投馬国の「水行二十日」は倭人からの伝聞であり、
そう決めつける根拠は?
>「道里が略載」には全く関係がないので、
なんで関係ないの?
理由は?
九州説は、なんで理由なしに決めつけるの? 455日本@名無史さん2019/07/31(水) 09:52:36.25
>>450
>「10500里が間違い」であるんなら、残りの「1500里も間違い」にしなければならないし、
なんで?
理由は? 456日本@名無史さん2019/07/31(水) 09:54:18.38
>>450
>陳寿の女王國の位置推定は、会稽東治之東であるから、九州島付近を指していた、
ウソ
会稽の最北端は九州島最南端より北 457日本@名無史さん2019/07/31(水) 09:58:02.09
397日本@名無史さん2019/07/31(水) 02:56:12
距離=日数?
一日中 家でゴロゴロしてる 奥山は
10日で どれだけの距離を 進んだのかな
458日本@名無史さん2019/07/31(水) 10:16:11.77
459日本@名無史さん2019/07/31(水) 10:29:53.32
449 名前:日本@名無史さん 2019/07/31(水) 09:30:19
距離=日数?
奥山は 一日中 家でゴロゴロしてるのに
10日たったから 俺さまは 1万里進んだという。
460日本@名無史さん2019/07/31(水) 10:31:40.44
>>453
異常事態において銅鏡制作の技術が発達するだろうか? 461日本@名無史さん2019/07/31(水) 10:31:45.02
>>419
>元の論文を読んでもらうとわかるが、この氏族を宗像氏族としている(宗像の氏族だから当然だが)。
それは構わないが、大豪族でもなければ王家・王族でもないww
小さな地方豪族だよ
>ついでに、沖ノ島の祭祀が4世紀に始まる理由も書くね。
典型的な「根拠は僕が思ったから」ww
「伊都王家がある」とかいう思い込みで物事を考えているから頓珍漢なんだぞw
それに墳丘長12メートルの小さな前方後円墳なら古墳時代最初期からある(徳重本村2号墳)
前方後円墳の受け入れは、古墳時代の開始とともに行われているよ
4世紀の伊都王家の復権とともに受け入れたとかバカもいいとこw 462日本@名無史さん2019/07/31(水) 10:34:24.92
>>420
>まあ、君の意見には一理あるから、君は好きに呼びたまえ。
一理あるってことは、
平原遺跡は全体で倭国王統ではない、地方の有力家系の家族墓で
古墳時代に入るまで1世代以上あるから卑弥呼の墓ではありえないって認めるんだなww
平原遺跡と呼んでごまかすやつは無能w 463日本@名無史さん2019/07/31(水) 10:36:58.52
>>422
>その後すぐに平原遺跡が作られたという根拠はあるか?
逆なんだが?
甕棺墓時代が終わって、100年くらい経ってから平原遺跡が作られてるだろ?
甕棺墓時代の終わりを>>422が不正に新しくしすぎているだけ
桜馬場遺跡の出土土器の編年も、九州の土器編年の中に位置づけられているんだから、
素人がぐだぐだ言ってもどうにもならないよ 464日本@名無史さん2019/07/31(水) 10:43:36.10
>>429
>反論は具体的にどうぞ。
>印象論はやめてね。
具体論に入った瞬間即死するのにww
>>422
「だから何だ? 」 典型的な主観的表現ですね⇒「僕の思ったこと」
「その後すぐに平原遺跡が作られたという根拠はあるか? 」 具体論なしの反論もどき
「井原鑓溝遺跡の副葬品と平原遺跡の副葬品の内容に年代の乖離がある。 」 これは事実
「まだ見つかっていない王墓もあるだろうが、間の空白時期が倭国大乱と卑弥呼の長い治世だと考えることもできる。 」
『間の空白時期〜考えることもできる』の部分は典型的な「根拠は僕の考えたこと」だな
「まだ見つかっていない遺跡を元に語ることはできないので」 これは正しいが
「現状では平原遺跡が卑弥呼の治世に作られた鏡を副葬された女王墓ということになる。」
『卑弥呼の治世に作られた鏡』これがまた「根拠は僕の考えたこと」だww
「卑弥呼の治世に作られた」っていうところが「編年研究は無視」にも該当するし
はい、具体的に指摘したよww
レベル低いな、相変わらずww 465日本@名無史さん2019/07/31(水) 10:50:02.82
>>461
対案もなく文句をつけるだけのキナイコシ 466日本@名無史さん2019/07/31(水) 10:51:04.15
467日本@名無史さん2019/07/31(水) 10:51:40.89
>>463
平原遺跡が卑弥呼の時代ということでよろしいようで。 468日本@名無史さん2019/07/31(水) 10:52:23.19
>>464
>「卑弥呼の治世に作られた」っていうところが「編年研究は無視」にも該当するし
どの編年研究と矛盾する? 469日本@名無史さん2019/07/31(水) 10:54:05.61
>>465
対案?
そんなモノは原則的に不要だ
ダメなものには、ダメと言うだけだ
実際には、対案は出ているがな
それが畿内説だ 470日本@名無史さん2019/07/31(水) 10:55:23.49
>>468
矛盾しない編年研究が実在するなら見せてくれ 471日本@名無史さん2019/07/31(水) 10:56:39.74
472日本@名無史さん2019/07/31(水) 10:59:52.51
>>467
平原遺跡は卑弥呼の時代にも存続してるからウソにはならないが、平原遺跡=平原一号というならウソになる 473日本@名無史さん2019/07/31(水) 11:06:12.27
487>>466
>八咫鏡の伝承は、八咫鏡を作った石凝姥命を奉祭する鏡作神社や、
八咫鏡の試作鏡、日像鏡・日矛鏡を神宝として伝える日前神宮・國懸神宮など
畿内の方が多く残っている
八咫鏡は畿内でヤマト王権が確立した頃に、皇室のレガリアとして伝世するように
なったと考える方が蓋然性が高い <
内向花文鏡には大体「8個の花弁」が並んでおり、
平原の径46.5cmの巨大内向花文鏡も、
その花文部分の寸法は、他の普通の内行花文鏡の花文部分の寸法と余り変わらず、
そうすると、その8個の花弁の直径か?半円周分の?寸法が「八咫」である鏡だ、
という可能性がある。 474日本@名無史さん2019/07/31(水) 11:12:17.63
>>438
>つまり平原遺跡の鏡は卑弥呼の治世の鏡なんだね?
いいえ、出雲の荒神谷遺跡と同じ時期に同じ理由で作られたものです 475日本@名無史さん2019/07/31(水) 11:13:14.52
487>>477
>森井さん、森岡さんの編年<
森岡の編年では、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙し人間である事がバレているから、
そんな・・・・詐欺師の編年では、始めから、根拠にならないよ。 476日本@名無史さん2019/07/31(水) 11:14:19.81
>>460
>異常事態において銅鏡制作の技術が発達するだろうか?
銅鏡制作とか言ってるけど、その前から銅剣、銅矛、銅鐸の製造技術は
とことん発達していたよww 477日本@名無史さん2019/07/31(水) 11:19:47.67
>>465
>対案もなく文句をつけるだけのキナイコシ
具体的論拠も反論もなしで、けちをつけた気になるだけの書き込みは止めなよw
「宗像氏は、弥生時代から北部九州屈指の大勢力で八咫鏡を持ってたに違いない」に対して
論拠1「宗像氏が歴史に現れるのは天武天皇の妃の父親が出てきてから」
論拠2「古墳時代初期に大古墳のないところに弥生末の大勢力はないが、宗像にも大古墳はない」
⇒対案「宗像氏は小さな地方豪族であり、倭国王家でもなければ八咫鏡の奉祭もない」
この「キナイコシ」を使う短文書き込みは、誰?
あまりキウスっぽくないんだよな 478日本@名無史さん2019/07/31(水) 11:27:58.32
>>472
>平原遺跡は卑弥呼の時代にも存続してるからウソにはならないが、
卑弥呼の時代に作られている3・4号墳からは鏡は出土していないから、
「卑弥呼の時代に作った鏡」は根拠なしだね 479日本@名無史さん2019/07/31(水) 11:28:23.58
487>>488
>九章算術の均輸最初の問いは、道里を使って解く計算問題で、
日数は書かれているが、里数は一切書かれていない
計算するための道里として、行道日数が与えられている
道里の表現として、日数表記は普通 <
九章算術は、「道里=行道日数」と、インチキしてしまったアホ。 480日本@名無史さん2019/07/31(水) 11:36:31.27
487>>496
>いいえ、その前から列島最大の墳丘墓が纏向古墳群で造営され続けているんですよ<
3世紀末以後だから、×。
>列島最大の造墓が可能なところに列島最大の権力・国力がある=王権の所在地と
考えるのが当然のこと
大作冢、徑百餘步と書かれた卑弥呼の墓は、径百歩が不正確だとしても
纏向古墳群に求めざるを得ない 単純なことだろ?
これを否定するためには、王権の所在地以外に墓所を作る理由や、
王より大きな造墓が可能な、王より大きな権力の存在を説明しないといけない<
九州倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」の将軍らの墓。
大和説は、ここで完全に破綻するんだよ。 481日本@名無史さん2019/07/31(水) 11:40:41.07
>>498
>>それは奴國を弥生銀座付近に比定したものであり、
糸島平野部の伊都国の「東南百里」に全く合わない比定地であり、<
>はいはい 倭人伝記載の方位が間違ってる例ですねー<
はいはい、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者が、また、
都合の悪い史料事実の否定曲解の嘘つき騙しをした例ですねえ。 482日本@名無史さん2019/07/31(水) 11:46:25.60
>>506
>白石さんは言ってたはず。<
白石も、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説学者の一人だから、
そんな・・・・アホ詐欺師の言った事など、
始めから根拠ならない。 483日本@名無史さん2019/07/31(水) 11:52:28.14
>>511
>「箸墓再考」という2014年3月のシンポジウムでは、
白石太一郎氏 福辻 淳氏 加藤一郎氏 坂本稔氏 福永伸哉氏
寺澤 薫氏のうち、寺澤氏以外の全員が、箸墓は卑弥呼の墓説だったよ<
幾ら自慢しても、全員、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの偽学者である事が、
はっきりしているから、
そんな・・・・アホ詐欺師学者のシンポジウムや話は、何の信頼性もなく、
証拠にならない×ものだよ。 484日本@名無史さん2019/07/31(水) 11:58:07.35
>>514
>卑弥呼の墓が築かれた時代だと 何度も言ってるのに<
何度言ったって、
撥型前方後円墳の石塚が庄内1の3世紀末で、
有棺有槨のホケノが 庄内3〜布留の3世紀末から4世紀になるから、
撥型前方後円墳の布留の箸墓は、4世紀にしかならず、
それだけでも、卑弥呼の墓は、×だよ。 485日本@名無史さん2019/07/31(水) 12:04:51.04
>>484
そうやってニセ年代を創作しないと九州説は生きられない
いや、死んでるか 486日本@名無史さん2019/07/31(水) 12:10:30.44
>>437
つまりキナイコシこそがチェリーピッカーということなのだね、、、 487日本@名無史さん2019/07/31(水) 12:28:27.37
>>437
>製造工程も、平原遺跡の鏡と三角縁神獣鏡は量産の手法が一致するとのこと。
平原遺跡が三角縁神獣鏡に先行するなら、三角縁神獣鏡の量産技術はまさに平原遺跡において確立されたといえよう。 488日本@名無史さん2019/07/31(水) 12:29:00.12
489日本@名無史さん2019/07/31(水) 12:29:23.28
490日本@名無史さん2019/07/31(水) 12:29:54.50
491日本@名無史さん2019/07/31(水) 12:31:08.73
>>469
>ダメなものには、ダメと言うだけだ
魏志倭人伝もあれもこれもだめだめと言い続けないと畿内説は滅んでしまうらしい。
それは、その節が間違っているということだよ。 492日本@名無史さん2019/07/31(水) 12:34:07.66
新井は金属工学の分野だけで論文書くならまだいいが
銘文がどうとか畑違いの分野で何か言っても信用されるはずがない
493日本@名無史さん2019/07/31(水) 12:38:30.20
494日本@名無史さん2019/07/31(水) 12:42:58.30
九州説は阿波説に吸収合併されました
495日本@名無史さん2019/07/31(水) 12:45:01.37
>>492
それは反論ではなく中傷に過ぎない。
かえって彼の論文の正しさを印象付ける。 496日本@名無史さん2019/07/31(水) 12:47:32.71
三角縁神獣鏡の量産技術は平原遺跡の鏡で確立されたものだった。
そのことは、平原遺跡の鏡の銘文を三角縁神獣鏡が継承していることからも確認できる。
明快だな。
497日本@名無史さん2019/07/31(水) 12:48:07.89
>>495
専門外だから素人ですねー
って言うのは
ただの事実 498日本@名無史さん2019/07/31(水) 12:50:01.56
499日本@名無史さん2019/07/31(水) 12:53:58.24
>>495
それは確実に間違った印象論であるわけだが 500日本@名無史さん2019/07/31(水) 12:54:57.41
>>498
どうして中傷なの?
事実を言っただけでしょ 501日本@名無史さん2019/07/31(水) 12:55:01.31
500
502日本@名無史さん2019/07/31(水) 12:55:01.43
500
503日本@名無史さん2019/07/31(水) 12:57:11.74
僕は、初めて、このスレッドを覗いた者ですが、このスレッドを読み、判ったことがあるので、発表します。
邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのですね。
504日本@名無史さん2019/07/31(水) 12:58:18.85
505日本@名無史さん2019/07/31(水) 12:59:23.29
>>503
熱いので、熱中症にならないように、討論をする前に、冷えた麦茶を飲んだ方が良いのではないのかな。 506日本@名無史さん2019/07/31(水) 13:00:26.92
証拠もなく、人の事を嘘つきと決めつける者は、嘘つきだな。
504日本@名無史さん2019/07/31(水) 12:58:18.85
>>503はウソ憑き 507日本@名無史さん2019/07/31(水) 13:02:25.53
奥山氏は、何が専門なのだろうか。
492日本@名無史さん2019/07/31(水) 12:34:07.66
新井は金属工学の分野だけで論文書くならまだいいが
銘文がどうとか畑違いの分野で何か言っても信用されるはずがない
508日本@名無史さん2019/07/31(水) 13:02:43.47
>>500
事実かどうか関係なく
中傷になる例「在日のいうことは信用できない」
中傷でない例「素人の見解は妄信できない」 509日本@名無史さん2019/07/31(水) 13:03:59.40
>>507
奥山氏は、大学病院を卒院しても、専門の分野が無いのではないのかな。。。 510日本@名無史さん2019/07/31(水) 13:07:08.28
奥山氏は、大学病院を卒院できたことを、自慢していたが、癌ではない、脳の病で再入院したのではなかったのかな。。。
511日本@名無史さん2019/07/31(水) 13:08:52.14
鏡の件は畿内説にとって致命傷だったか。
512日本@名無史さん2019/07/31(水) 13:10:51.54
3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://2chb.net/r/history/1556294803/303 513日本@名無史さん2019/07/31(水) 13:11:12.06
342日本@名無史さん2019/04/28(日) 10:52:03.18
バカのために、現実との対応の取りやすい例示で説明してやるよ
箱がたくさんあって、たくさんの箱の中である条件を満たす箱を考える
ある条件を満たす箱を今、 「特定の十個の箱」と呼ぶことにする
この「特定の十個の箱」がたくさんの箱の中のどれなのかは分からない
この時
赤の玉が箱に入っていることがあるが、赤の玉のうち75%が「特定の10個の箱」に入っている
青の玉が箱に入っていることがあるが、青の玉のうち75%が「特定の10個の箱」に入っている
緑の玉が箱に入っていることがあるが、緑の玉のうち75%が「特定の10個の箱」に入っている
赤、青、緑の玉がどの箱に入っているかは独立である
この時、ある一つの箱に「赤、青、緑」の玉がすべて入っていたら、
その箱が「特定の10個の箱」ではない確率は1.56%で
「特定の10個の箱」のうちの一つである確率は98.4%になる
この多数の「箱」が「遺跡」、「特定の10個の箱」が「邪馬台国の範囲にある遺跡」と
読みかえればイメージが湧くだろ
ここでは「特定の10個の箱」としたが、実際には「邪馬台国の範囲にある遺跡」はもっと多い
そして、ベイジアンで説明してくれている人がいるが、
『赤の玉が75%が「特定の10個の箱」入っていること』は、
『「特定の10個の箱」の75%に赤の玉が入っていること』を意味しない、
つまり、「特定の10個の箱」が赤の玉を含まない確率は未知なのでベイジアンは適応できないよ
ここまで説明しても、論理的思考ができない九州説連中には理解できないんだろうがね
514日本@名無史さん2019/07/31(水) 13:12:45.43
>>492
妄想チェリーピッカーのキナイコシに言われても
なー 515日本@名無史さん2019/07/31(水) 13:13:08.35
奥山氏は頭が悪いので、時間=距離だと考えてしまったのだったな。。。
516日本@名無史さん2019/07/31(水) 13:15:26.55
>>515
奥山氏は頭が悪いので、時間=距離だと考えてしまい、相対論を持ち出して、説明しようとしたが、
奥山氏は、2つの相対論のどちらも理解していないことがバレたのだったね。。。 517日本@名無史さん2019/07/31(水) 13:18:27.51
518日本@名無史さん2019/07/31(水) 13:21:16.90
519日本@名無史さん2019/07/31(水) 13:23:40.71
520日本@名無史さん2019/07/31(水) 13:27:00.39
>>519
奥山氏は、連続句読点を、僕達だけが使用していると信じているので、混乱しているのではないのかな。。。 521日本@名無史さん2019/07/31(水) 13:27:01.80
522日本@名無史さん2019/07/31(水) 13:28:29.48
ニュース速+でも、奥山氏が論破されているね。。。
523日本@名無史さん2019/07/31(水) 13:32:25.58
524日本@名無史さん2019/07/31(水) 13:33:36.26
>>521
奥山かお前=BBAしか居ないだろ馬鹿w 525日本@名無史さん2019/07/31(水) 13:34:44.12
連続句読点はもう開き直って荒らしてると思ったけど
一方で、別人を装って工作活動もやってたのかwww
526日本@名無史さん2019/07/31(水) 13:37:33.99
527日本@名無史さん2019/07/31(水) 13:42:35.48
欺瞞情報乙
528日本@名無史さん2019/07/31(水) 13:43:12.73
>>523
誰かが、5ちゃんねるで発表した意見を、纏めてある、面白いホームページだね。。。 529日本@名無史さん2019/07/31(水) 13:47:43.37
>>508
論文の内容は批判できないということだ。 530日本@名無史さん2019/07/31(水) 14:11:30.00
>>528
日本史の掲示板では、使用できないのではないのかな、、、 531日本@名無史さん2019/07/31(水) 14:25:13.95
532日本@名無史さん2019/07/31(水) 14:38:53.07
あえて批判する必要もないけどな
533日本@名無史さん2019/07/31(水) 14:54:15.41
「南」は「東」じゃないので畿内説の論文はすべて「ファンタジー小説」でしかない。
これが現実だ。
そもそも論理的思考が無いから考古学なんて分野にいるんだろうけど。
534日本@名無史さん2019/07/31(水) 15:25:42.45
>>533
>「南」は「東」じゃないので
つまり「九州説が正しいならば」だ 535日本@名無史さん2019/07/31(水) 15:36:32.84
>>486
>つまりキナイコシこそがチェリーピッカーということなのだね、、、
数多ある論文の中で、都合のいい物をひとつだけ紹介するのがチェリーピッカーの典型
新井宏氏は、金属分野では専門性があるし、「『考工記』の尺度について」とか読むと
きちんと物事を調べて考察する能力野ある人だと思う
arai-hist.jp/thesis/archeaology/metrology/koukouki.doc
でも、九州説に媚売りすぎw
経歴では、考古学、歴史学は専門的に学んでない(東工大物理卒業)のに
韓国国立慶尚大学招聘教授一時期をやっていて、発表している論文の多くが
梓書院の季刊邪馬台国(邪馬台国の会:安本美典氏主宰) 536日本@名無史さん2019/07/31(水) 15:39:15.93
ちなみに「『考工記』の尺度について」には計算間違いあり
537日本@名無史さん2019/07/31(水) 15:40:26.90
>>496
>三角縁神獣鏡の量産技術は平原遺跡の鏡で確立されたものだった。
ほらほら、また「根拠は僕が考えたこと」ww
青銅器の鋳造、大量生産技術は平原遺跡よりも前から確立してるよ
銅剣も銅矛も銅鐸も大量生産してるんだから
>そのことは、平原遺跡の鏡の銘文を三角縁神獣鏡が継承していることからも確認できる。
すがすがしいほど根拠なしだなw
三角縁神獣鏡の銘文はかなり適当だぞww
せめて、平原遺跡に紀年銘鏡でもあれば継承してるって言ってもいいけどさ 538日本@名無史さん2019/07/31(水) 15:42:57.41
>>504
最近、連続句読点は>>503.>>505みたいに連続句読点を付けずに
別キャラを装うことも増えてきてるよww
そこまでして荒らしたいのか?ってところがこの爺さんのサイコパスなところだ
まあ、人格障害がありそうなのはほぼ確実 539日本@名無史さん2019/07/31(水) 16:01:10.63
>>537
>ほらほら、また「根拠は僕が考えたこと」ww
>青銅器の鋳造、大量生産技術は平原遺跡よりも前から確立してるよ
論文を読まずに批判しようとすると、このように的外れの恥ずかしいことになる。 540日本@名無史さん2019/07/31(水) 16:04:10.43
>>537
>三角縁神獣鏡の銘文はかなり適当だぞww
新井氏の論文を読んでごらん。
適当に色々な文をつなげてあるが、その中に平原遺跡の鏡の銘文に由来する部分があるんだよ。
製造工程と銘文の両方で、三角縁神獣鏡は平原遺跡の鏡の影響を受けている。 541日本@名無史さん2019/07/31(水) 16:10:15.79
キナイコシ君は必死になって論文の粗探し中かな?
542日本@名無史さん2019/07/31(水) 16:11:40.38
頭の悪い奥山氏の生き甲斐である、畿内説宣伝係の仕事は、事実を拒絶するだけの、簡単なお仕事なので、あったな。。。
543日本@名無史さん2019/07/31(水) 16:18:44.35
ネトウヨに宣伝させようとしたのがそもそもの誤りだった
544日本@名無史さん2019/07/31(水) 16:20:37.84
「平原遺跡の鏡は他の遺跡に何の影響も与えていない」とかいうのがキナイコシの口癖だったのに、ここであっけなく崩壊したね。
ひょっとすると三角縁神獣鏡は九州の邪馬台国が辺境の地の教化のために複製して配りまくったのかもしれない。
その技術が伊都にあったことが判明したわけだからね。
545日本@名無史さん2019/07/31(水) 16:33:08.98
>>544
>「平原遺跡の鏡は他の遺跡に何の影響も与えていない」とかいうのがキナイコシの口癖だったのに、ここであっけなく崩壊したね。
いや、状況は変わらない
「平原遺跡の鏡は他の遺跡に何の影響も与えていない」
というのは威信財配布上の序列を為していないって意味だから 546日本@名無史さん2019/07/31(水) 16:36:20.71
めちゃくちゃ強がりでワラタ
547日本@名無史さん2019/07/31(水) 16:38:43.95
チョー大型内行花文鏡 > 大きな内行花文鏡 > (超えられない壁) > 量産された三角縁神獣鏡
みたいな序列だったんじゃないかな?
548日本@名無史さん2019/07/31(水) 16:44:17.26
>>539
>論文を読まずに批判しようとすると、このように的外れの恥ずかしいことになる。
>>496のこれ↓
「三角縁神獣鏡の量産技術は平原遺跡の鏡で確立されたものだった。」
は、論文の内容関係ないだろ?ww
勝手に読んでないと思うなよww
こういうのが九州説のインチキ捏造体質だよなww 549日本@名無史さん2019/07/31(水) 17:00:04.79
ほんとうにいいのか 奥山君
距離=日数
不彌國から行20日と水行10日 陸行1月で 1,300里で邪馬台国
1)水行のほうが早いとして水行30日で900里進むと仮定
900里÷30日=30里/1日
2)すると狗邪韓国から至末盧國まで日本海縦断で3,000里(大目に見て250キロ)
狗邪韓国から至末盧國 3000里÷30里/1日で100日かかる
3)250キロ÷100日=2.5キロ/1日
4)水行30日は 2.5キロ×30日=75キロ
不彌國から75キロが水行30日
結論 邪馬台国は畿内でなく九州で収まってしまう
550日本@名無史さん2019/07/31(水) 17:08:06.66
箸墓古墳編年において、
独自のデータをもとに240〜260年と言って見たり、
誤差100年もあるデータをもとに260〜300年と発表したり、
出土した5世紀の木製輪鐙を4世紀初頭と世界最古級の馬具にしてみたり、
すっかり歴史捏造の温床となり下がった畿内説だが、
これは20年前からある計画に基づいた行動だったので、
あったな。
551日本@名無史さん2019/07/31(水) 17:08:22.60
552日本@名無史さん2019/07/31(水) 17:09:53.32
豚は太らせてから、食べればよいので、あったな。。。
553日本@名無史さん2019/07/31(水) 17:12:02.09
487>>538
>>計算式を出しなさい<
>自分で九章算術の均輸の原文を読んでみればいいのにww
均輸の4問目と9問目に「重車日行五十里,空車日行七十里」とあるよ
上の方で、一日60里と書いてあったけれど、この辺が当時の標準なんだろう<
そうか。
車駕で一日60里、という長里記載は、九章算術の記載であったんだな。
そして、それが、陳寿の三国志や裴松之注の「車駕1日300里」で否定された、
という事であったんだな。 554日本@名無史さん2019/07/31(水) 17:14:53.57
555日本@名無史さん2019/07/31(水) 17:16:27.06
>>553
>そして、それが、陳寿の三国志や裴松之注の「車駕1日300里」で否定された、
それは単なる捏造
そのような史料はない 556日本@名無史さん2019/07/31(水) 17:17:09.05
畿内説はボロボロw
557日本@名無史さん2019/07/31(水) 17:20:50.03
奥山君
もう一つ仮説を立てるよ
1)郡から海岸に沿って北岸狗邪韓國 七千餘里(これは韓伝の方可四千里有から妥当かな)
2)郡をソウル・ピョンヤンあたりとして 4千里は 大雑把に400キロ
すると七千餘里は400キロ×7/4=700キロ
3)>>549 の計算引用 (水行は海岸沿いとする)
700キロ÷2.5キロ/1日 =280日
結論 280日もかけて郡から北岸狗邪韓國にいくかね。。。 558日本@名無史さん2019/07/31(水) 17:21:54.26
559日本@名無史さん2019/07/31(水) 17:24:11.01
487>>539
>どう取り繕っても、里数なしの日数で道里が表現されていることは変わらないww <
どう取り繕っても、九章算術が、
「道里」という「「道の里数」の文言を、
勝手に「行く道の日数」にすり替えるインチキをしたことは変わらないた。 560日本@名無史さん2019/07/31(水) 17:24:20.62
>>557
>もう一つ仮説を立てるよ
・・・
>結論 280日もかけて郡から北岸狗邪韓國にいくかね。。。
つまりお前の仮説がおかしいのだが 561日本@名無史さん2019/07/31(水) 17:27:24.05
>>549
そもそもが邪馬台国は台湾辺りと魏志倭人伝に書いてあるので
短里も九州説もないのだった 562日本@名無史さん2019/07/31(水) 17:31:09.09
>>559
道の里数は移動日数でも容易に表されるんだよん
歩きの移動は1日60里とされてたからな
またザラコクもでっち上げらしいが短里に合わそうとして
移動1日200里とか300里とか言ってるじゃないか 563日本@名無史さん2019/07/31(水) 17:31:45.34
487>>546
>わかってないねえ 県ごとに実数である戸数/道里を計算した商を
各県について比例配分計算するんだよ<
わかっていないねえ。
九章算術は、計算では「道里」を使っていないんだよ。 564日本@名無史さん2019/07/31(水) 17:36:37.59
里数は日数じゃないと吠え狂いながら移動1日は200里300里と錯乱する九州説
どうしたらここまで支離滅裂な生き物が誕生するのか
九州説はある種進化論や人類の歴史そのものに対する冒涜的存在なのかも知れない
565日本@名無史さん2019/07/31(水) 17:42:37.52
九州説といっても千差万別、
隠れ畿内説の自作自演も少なくないし、伊都国・奴国・不彌国までは畿内説と同じ双頭・鼎頭の蛇もいるし・・、
566日本@名無史さん2019/07/31(水) 17:43:30.40
>>563
>九章算術は、計算では「道里」を使っていないんだよ。
本人が使うと言っているのに? 567日本@名無史さん2019/07/31(水) 17:44:41.26
>>565
ウソをつけ
全員が儒教めいた短里短里の古田教九州北部説だろうが 568日本@名無史さん2019/07/31(水) 17:45:21.79
>>565
>九州説といっても千差万別、
>隠れ畿内説の自作自演も少なくないし、
被害妄想が日々酷くなっていくな
ご自愛なされ 569日本@名無史さん2019/07/31(水) 17:48:57.00
487>>557
>そして、その「行道日数」が『道里』なんだよww<
「道里」を「行道日数」で書いた九章算術が、インチキ。 570日本@名無史さん2019/07/31(水) 17:52:47.92
487>>562
>根拠のない倭人伝否定は自滅するよ<
「南→東」などのような、
根拠のない史料事実の否定曲解は、自滅するよ。 571日本@名無史さん2019/07/31(水) 18:06:25.60
>>570
根拠なら重々説明したが、聞いてないのか? 572日本@名無史さん2019/07/31(水) 18:08:35.61
>>569
>「道里」を「行道日数」で書いた九章算術が、インチキ。
古代中国人が実際そう書いているのに
現代日本人がどうして否定できるの?
インチキ呼ばわり出来るの? 573日本@名無史さん2019/07/31(水) 18:10:16.56
>>572
インチキをする人がインチキだと言っているなら、それは正当なものなのですよww 574日本@名無史さん2019/07/31(水) 18:12:24.17
575日本@名無史さん2019/07/31(水) 18:18:45.04
ここでキナイコシを使うのって、基本、連続句読点とキウスぐらいだろ?
>>185みたいな、連続句読点を付けていない連投も
結局は連続句読点の仕業ってことでいいね? 576日本@名無史さん2019/07/31(水) 18:19:18.38
487>>578
>その遠近が「道里」の遠近なんだから、小学生すら騙せない詭弁以下の戯言
道里の遠近を示す行道日数は、道里そのものを数値化したものであり、
その数値の大小で遠近を測る訳だ <
「道里」を「行道日数」にすり替えた九章算術は、
小学生すら騙せない詭弁以下の戯言。 577日本@名無史さん2019/07/31(水) 18:19:29.75
>>573
インチキだと言われてそういう返答をする人はほぼインチキ常習者だなw 578日本@名無史さん2019/07/31(水) 18:21:11.87
>>569
>「道里」を「行道日数」で書いた九章算術が、インチキ。
「道里」と「遠近」は別概念
「行道日数」は「遠近」の表現であって道里じゃないって言ってた九州説の人、見てる?ww
ザラゴキは「道里」が「行道日数」で書いてあるって言ってるよ?wwwww 579日本@名無史さん2019/07/31(水) 18:21:32.02
580日本@名無史さん2019/07/31(水) 18:22:29.05
581日本@名無史さん2019/07/31(水) 18:23:58.78
>>577
ザラゴキがインチキ常習者だってのは、九州説の連中も認めるところだろ?
ああ、でもそう言えば、邪馬台国の会のステイクホルダーさんが、
「九州説でも間違いは修正してる」と言いながら、一度もザラゴキの書き込みの
修正なんてしてないから、九州説はみんなザラゴキが正しいと思っているのかwwww
すごいな! 九州説! 582日本@名無史さん2019/07/31(水) 18:24:41.83
>>576
>「道里」を「行道日数」にすり替えた九章算術は、
>小学生すら騙せない詭弁以下の戯言。
いや、三世紀の人が「道里」を「行道日数」で測って書いてるんだから、それが古代中国の言葉の使い方だ 583日本@名無史さん2019/07/31(水) 18:24:43.54
■魏志韓伝より
國出鐵韓?倭皆従取之,諸市買皆用鐵如中国用銭,又以供給二郡
(国には鉄が出て、韓、?、倭がみな、従ってこれを取っている。
諸の市買ではみな、中国が銭を用いるように、鉄を用いる。
また、楽浪、帯方の二郡にも供給している。)
■重要事項
・3世紀頃は鉄は市で通貨として使えるほど貴重だった。
・九州では武器や農具に鉄を使えるほど潤っていた。
・しかしこの時代の畿内からは鉄が出土していない。
↓鉄の出土状況
https://imgur.com/eRF3Zza
■推測されること
・畿内政権は鉄を取りに行っていない
・畿内政権は九州に鉄を分けてもらえなかった
・一大率は畿内への鉄の供給を行わなかった
■結論
・3世紀の北部九州と畿内の関係は希薄だった
・一大率は畿内政権とは無関係だった
・畿内は倭国ではなかった(縄文人?)
■裏付け
纏向遺跡では九州産や半島産の土器は出土していない。
もと歴博の館長もやった佐原真いわく、
「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていないのだ」(開き直り) 584日本@名無史さん2019/07/31(水) 18:28:30.65
>>583
実際の出土を無視するインチキな九州説乙です 585日本@名無史さん2019/07/31(水) 18:30:34.08
困ったら、長文コピペで、スレ流し
どうやらこれも、連続句読点
字あまりww
586日本@名無史さん2019/07/31(水) 18:30:39.67
487>>587
>祇園山も集団墓。 奴婢埋葬ではない。<
祇園山は、列島で唯一、
「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」
を満たし得る墓。 587日本@名無史さん2019/07/31(水) 18:31:10.77
>>583
>・3世紀頃は鉄は市で通貨として使えるほど貴重だった。
それを集落内に放置する九州って、なんか異常事態だったんでは? 588日本@名無史さん2019/07/31(水) 18:33:33.11
>>586
などというインチキを押し通そうとするのが
インチキ九州説だな 589日本@名無史さん2019/07/31(水) 18:34:59.18
>>593
「南→東」などの嘘付き騙しの、
根拠言えない病の大和説が自滅するだけだ 590日本@名無史さん2019/07/31(水) 18:35:00.18
>>584
流石にそれはインチキじゃないだろw
畿内説の学者も認めてるんだから。
じゃあどうやって大和政権は出来たのか?
これが現代の本題だぞw 591日本@名無史さん2019/07/31(水) 18:37:14.13
>>590
ホケノ山から鉄器が出てないとか認めてる学者はいないぞ 592日本@名無史さん2019/07/31(水) 18:37:54.50
>>598
「南→東」などの嘘付き騙しのように、
根拠が出せない九州説は、いつも妄想で終わり 593日本@名無史さん2019/07/31(水) 18:38:24.40
>>589
根拠は言ってますが?
どうして九州説はウソつくの? 594日本@名無史さん2019/07/31(水) 18:39:04.17
595日本@名無史さん2019/07/31(水) 18:39:35.17
>>601
最後まで、「南→東」などの嘘付き騙しのデマに走る大和説は、
危篤 596日本@名無史さん2019/07/31(水) 18:42:07.20
>>607
ほら、最後は、
「南→東」などの嘘付き騙しのデマに頼る、
大和説の敗勢 597日本@名無史さん2019/07/31(水) 18:42:11.69
>>592はザラコクが発狂したんじゃなくて
他人の投稿を丸コピペして
主語などを書き換えてる雑なオウム返しマンだから
時々捏造漏れをしてるだけ 598日本@名無史さん2019/07/31(水) 18:43:42.66
599日本@名無史さん2019/07/31(水) 18:44:40.49
600日本@名無史さん2019/07/31(水) 18:48:05.45
>>599
はて?
ホケノ山古墳、椿井大塚山古墳の二つだけで、北部九州で弥生時代全期間に出土した鉄器の
数を超えますが? 601日本@名無史さん2019/07/31(水) 18:48:05.98
>>594
そのコピペ原本を作ったのは俺なんだけどなw
ちなみに連続句読点の真似をしてる奴は他にも居るぞw 602日本@名無史さん2019/07/31(水) 18:50:50.27
>>600
それ含めて2桁違うのだが、数字に弱い畿内説には理解できないはずだw 603日本@名無史さん2019/07/31(水) 18:52:17.47
やはり九州説は感性が違うなww
連続句読点の真似をしたいやつがいるなんてwwwwww
それも複数?www
「設定」が雑いな
604日本@名無史さん2019/07/31(水) 18:53:11.86
>>601
>そのコピペ原本を作ったのは俺なんだけどなw
つまり、長文コピペを貼ってるやつは連続句読点だと認定されたってことでいいな!ww 605日本@名無史さん2019/07/31(水) 18:56:03.29
>>551
するとだね
水行も距離を進んだのは確かなのだから
九章算術持ち出す必要は無いということだね 606日本@名無史さん2019/07/31(水) 18:56:03.85
畿内だと古墳からしか鉄が出ていない。
この意味がわからんのかw
鉄が普及している状態であったなら、そこかしこから出土するはずなんだよなw
理論的にw
607日本@名無史さん2019/07/31(水) 18:59:13.58
キウス氏攻撃にたじたじの奥村ww
608日本@名無史さん2019/07/31(水) 19:01:43.25
609日本@名無史さん2019/07/31(水) 19:01:46.24
>>602
>それ含めて2桁違うのだが、数字に弱い畿内説には理解できないはずだw
そうかー、ホケノ山古墳と椿井大塚山古墳だけで、3桁半ばまで行くから
2桁違うってことは、九州では一桁しか鉄器が出てないのかー(棒)
ホケノ山 畿内 3世紀中葉
鉄鏃 約60本
素環頭大刀 1口
鉄製刀剣類 10口
椿井大塚山古墳 畿内 3世後葉
鉄刀7本以上、鉄剣十数本以上、鉄矛7本以上、鉄鏃約200本、
銅鏃17本、鉄製甲冑1領、鉄鎌3本、鉄斧10個、鉄刀17本、
鉄製ヤリカンナ7本以上、鉄錐8本以上、鉄ノミ3本以上、
鉄銛十数本、鉄ヤス数本、鉄製釣針1本
その他鉄製冠ではないかと疑われる鉄製品が出ている
黒塚古墳 畿内 3世紀後半
刀剣類27口以上、鉄鏃170本以上、小札、U字形鉄製品 610日本@名無史さん2019/07/31(水) 19:02:58.85
611日本@名無史さん2019/07/31(水) 19:03:57.10
>>600
九州における鉄の出土件数は何件だと数えているのかな?
具体的な数字を出さない印象操作は詐欺の手法だよ? 612日本@名無史さん2019/07/31(水) 19:07:26.78
>>600
その二つなら内行花文鏡の序列に組み込まれた平原の下位の古墳だよね。
ホケノ山に至っては、内行花文鏡のカケラしかもらえなかったw 613日本@名無史さん2019/07/31(水) 19:08:38.58
614日本@名無史さん2019/07/31(水) 19:08:44.10
>>1奥山くん
テンプレであんたはこんなことも論じてるよ
>倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。> 615日本@名無史さん2019/07/31(水) 19:08:45.78
>>599
違ったら何なんだ?
鉄が無いというのがウソなのは変わらんぞ 616日本@名無史さん2019/07/31(水) 19:10:14.36
>>602
>それ含めて2桁違うのだが、
数値的根拠は? 617日本@名無史さん2019/07/31(水) 19:12:40.56
>>612
内行花文鏡の序列なんてものがあるという根拠は? 618日本@名無史さん2019/07/31(水) 19:14:51.27
>>614
論じると何なんだ?
九州説にはいつも論理が無いなあ
今回は結論もない 619日本@名無史さん2019/07/31(水) 19:16:18.80
>>616
>ここで出てくるのは「道里」遠近であり、そこに里数が書かれず
日数だけがあるのだから、日数が道里を示す数値そのもので、
その数値を比べることで遠近を見る訳だ<
「道里」なんて文言は、
原則的にも常識的にも確率的にも「道の里」という意味である可能性が非常に高く、
「道の日数」という意味は殆どない、という事であり、
だから、九章算術の筆者がミスをした、という可能性が非常に高い訳だ。 620日本@名無史さん2019/07/31(水) 19:16:42.39
621日本@名無史さん2019/07/31(水) 19:20:00.44
平原1号墓の46センチ鏡のどこが手抜きかと言えば、
八連弧の内側の三角っぽいところの描き込み
これがない内行花文鏡は平原1号墓出土鏡以外は知らない
622日本@名無史さん2019/07/31(水) 19:22:05.62
>>611
>具体的な数字を出さない印象操作は詐欺の手法だよ?
そうだよな!
>>602の「それ含めて2桁違うのだが、数字に弱い畿内説には理解できないはずだw 」は
具体的数字なしのまさに詐欺だよなww
九州説ってひどいよなーww 623日本@名無史さん2019/07/31(水) 19:24:15.39
>>622
詐欺でない九州説など昨今見たこともない 624日本@名無史さん2019/07/31(水) 19:24:15.67
>>618
奥山君なら答えるけど
名無しじゃーーー 625日本@名無史さん2019/07/31(水) 19:25:27.24
626日本@名無史さん2019/07/31(水) 19:25:35.80
>>622
>具体的な数字を出さない印象操作は詐欺の手法だよ?
こういうときこそ、邪馬台国の会のステイクホルダーさんが唯一信頼する「考古学的まとめデータ」で
ある、邪馬台国の会のウェブサイトの数字を引用して、畿内説をギャフンと言わせればいいんじゃないかな?ww
432(8) 627日本@名無史さん2019/07/31(水) 19:26:55.97
アイアム スパルタカス
628日本@名無史さん2019/07/31(水) 19:34:53.82
629日本@名無史さん2019/07/31(水) 19:37:15.24
九章算術
きゅうしょうさんじゅつ
Jiu-zhang suan-shu
>中国最古の数学書。現存する『九章算術』には,元景4 (263) 年に注を書いた三国魏の劉徽の序文がある。
>先秦の遺文を漢初の張蒼が収集し,前1世紀の耿寿昌 (こうじゅしょう) が手を加えたとあり,
>問題の内容にも秦から前漢の材料が含まれている。
>前漢末までにほぼこの書の原型ができた。
前漢末までに原型ができ上っていたという九章算術の一句を以て、
三世紀の陳寿の文章を修正しようなんて、トンデモ時代錯誤の牽強付会。
例えば、江戸時代の書風で現代語を批判するようなものだ。三世紀のことは三世紀の陳寿の文章こそ最優先。
只の
630日本@名無史さん2019/07/31(水) 19:43:46.95
>>629
>前漢末までに原型ができ上っていたという九章算術の一句を以て、
>三世紀の陳寿の文章を修正しようなんて、
修正なんて一切してないが?
古代中国の常識を実例で教えてあげただけ
道里は里数でも日数でも数えられる 631日本@名無史さん2019/07/31(水) 19:46:55.60
陳寿は倭人国を「女王国以北」と「其余」に二分類した
だから「其余」として列挙されてる国以外は「以北」にある
これが陳寿の言ってたこと
632日本@名無史さん2019/07/31(水) 19:51:46.39
以北は、女王国を含めての北って意見があるんだが
どうなの?
633日本@名無史さん2019/07/31(水) 19:54:48.90
>>630
前漢以前の常識は、前漢までの常識として大いに結構だが、
陳寿に教えてあげるなんざ大きなお世話、態度がでかすぎる。陳寿も面白くないことだろう。
三世紀は三世紀で考えるべしだ。 634日本@名無史さん2019/07/31(水) 20:00:17.38
606
中国刀に似たよ〜な刀でしょ(°▽°)
半島から人質取ったときの遺物が古墳から発見された
なぜだか?資料に書いてある
635日本@名無史さん2019/07/31(水) 20:02:47.19
奈良の古墳から発見されたんだわな
それ見つかったときは御神宝扱いされたが人質としてきたやつらの遺物ってのが判明したニダ(°▽°)
636日本@名無史さん2019/07/31(水) 20:04:47.46
>>631
>陳寿は倭人国を「女王国以北」と「其余」に二分類した
一応、自女王国以北(自・女王国含む)と其の余に二分類したと書かれているが、そこには例外もあったという書き方だな。 637日本@名無史さん2019/07/31(水) 20:10:12.52
487>>625
>そして、「自女王國以北、其戶數道里可得略載。其餘旁國遠絕、不可得詳。」が、倭国の記述の
分かれ目になっていて、これより前に書かれているのが「女王国より以北の国」であり、
当然に「投馬国は女王国より以北の国」だ <
ダメだ。
「自女王國以北、其戶數道里可得略載」より以前に先に、
「投馬國が、自女王國以南」である事が書かれているから、
説明通りに受け止めれば、「自女王國以北」の中には、投馬國は含まれない。 638日本@名無史さん2019/07/31(水) 20:12:44.42
>>629
>前漢末までに原型ができ上っていたという九章算術の一句を以て、
FAQ78より
「本書は前漢代から知られ且つ『263年に劉徽が註している』もので、
倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。」
『263年に劉徽が註している』
三国志と同時代文書ですね!ww 639日本@名無史さん2019/07/31(水) 20:13:30.36
>>633
>三世紀は三世紀で考えるべしだ。
FAQ78より
「本書は前漢代から知られ且つ『263年に劉徽が註している』もので、
倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。」
『263年に劉徽が註している』
三国志と同時代文書ですね!wwwwww 640日本@名無史さん2019/07/31(水) 20:17:52.03
>>632
>以北は、女王国を含めての北って意見があるんだが
>どうなの?
自女王國以北、其戶數道里可得略載の「自」は、「○○より」と訓読する起点を示す文字で
女王国(ここでは女王の都する邪馬台国)にも戸数道里が略載されているので、
「女王国を含めての北」でいいんだけど、ど、
自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之の方は、女王国に一大率がいたら
おかしいので、同じ書き方なのにこちらは女王国を含まないことになる
まあ、陳寿はそこまで厳密に書いてないってことだ 641日本@名無史さん2019/07/31(水) 20:20:36.37
487>>638陳寿90度回転さん
>いや全くその通り。 完全に同意します<
いや全く「南≠東」であり、その通り。
大和説者や類スレ主や陳寿90度回転らは、完全に嘘つき騙しの・・・・アホ詐欺師です。
完全に同意します。 642日本@名無史さん2019/07/31(水) 20:24:08.02
>>639
前漢末までに原型が完成していたことに変わりはない、
ただ、『263年に劉徽が註している』というのはあくまで註の書き込み(たぶん成立までの経緯)のこと、本筋ではない。 643日本@名無史さん2019/07/31(水) 20:25:43.25
>>644
>「重車日行五十里,空車日行七十里」の解釈を間違えている
空車とは荷を下ろして、車を押して帰ることであり
一日60里はなんなのかわからない いずれにせよ、算術故 仮定の数値
また続いて「 載輸之間各一日」とあり
これは荷物の積み込み運び入れにかかるのが各々1日
つまり 日数は労働日数 ✖道里表記は日数でも可能・・計算式は出ない<
成程。 644日本@名無史さん2019/07/31(水) 20:29:53.12
>>640
女王国に含まれる30か国も以北になるんじゃないの?
道里は略載されてないけど 645日本@名無史さん2019/07/31(水) 20:33:10.66
>>654
>そして「道里」を日数でカウントする実例だ <
日数は「里数」ではないから、×だ。 646日本@名無史さん2019/07/31(水) 20:37:55.30
>>657
>わからん理由は「遠絶」だから しかし奴国も投馬国も遠絶に変わりない
それが戸数や道里、官名まで判っているのは 女王国に行く道すがら通過した国々だからだ
それらは女王国以北にある <
それらの文の記述以前に、投馬國は、
女王之所都付近から南の「水行二十日」の位置である事が書かれているから、
女王國以北には、始めからならない。 647日本@名無史さん2019/07/31(水) 20:38:43.30
>>640
>自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之の方は、女王国に一大率がいたら
>おかしいので、・・
一大率は(佐賀川上の)伊都国を拠点にして諸国を検察していた。
もちろん女王国(邪馬台国)も共立国の一つなので、
広域監督官(或は軍人)である一大率の任務の検察範囲でおかしくはない。
なお此処の「自女王國以北」は、「自女王國以北、其戶數道里可得略載」の国々に対応している。
依って、(肥後熊本の)邪馬台国以北〜対海国までの国々のことであり、宮崎都万にあったと思われる投馬国は含まれない。 648日本@名無史さん2019/07/31(水) 20:40:40.87
>>658
>九章算術でより明快に解るだろう 知性があるならだが<
九章算術は、「道里=日数」のつもりで書くインチキをしたから、
明快ではないよ。 649日本@名無史さん2019/07/31(水) 20:44:56.15
>>660
まあアレだ
九州算術が、道里を日数表記する、という嘘つき騙しをした、
という事実は
大和説信者にとっては、発狂するくらい
クリティカルな痛手だというわけさ 650日本@名無史さん2019/07/31(水) 20:48:16.04
>>668
「南→東」や「道里→日数」などの嘘付き騙しの大和説
論破されてますね 651日本@名無史さん2019/07/31(水) 20:51:31.11
>>676
>九州説はまた完全に論破されたのだな<
「南→東」や「道里→日数」などの嘘付き騙しの大和説
完全に論破されたのだな。 652日本@名無史さん2019/07/31(水) 20:51:44.20
>>646
>それらの文の記述以前に、投馬國は、
>女王之所都付近から南の「水行二十日」の位置である事が書かれているから、
>女王國以北には、始めからならない。
まさにその通り。
水行20日と、水行10日陸行1月では、20日の投馬国の方がより遠い南にありそうだなと匂わせておいて、
つづく「自女王國以北其戶數道里可得略載」で、里数の書かれていない投馬国を浮かび上がらせ、より具体的に話が展開していくわけだ。
ま、三世紀にしてはけっこうドラマチックだよな・・。 653日本@名無史さん2019/07/31(水) 20:56:48.29
>>652 一部修正
つづく「自女王國以北其戶數道里可得略載」で、里数の書かれていない投馬国を浮かび上がらせ、より具体的に話が展開していくわけだ。 ←(書き込み途中で一行飛んだみたい)
ま、三世紀にしてはけっこうドラマチックだよな・・。 654日本@名無史さん2019/07/31(水) 20:58:19.12
>>679
>投馬国は女王国以北と読むことには変わらんけどね<
それらの文の記述以前に、投馬國は、
女王之所都付近から南の「水行二十日」の位置である事が書かれているから、
女王國以北には、始めからならない。 655日本@名無史さん2019/07/31(水) 20:59:51.44
以前書いたはず
学者は学者(習い、教わり、研究しているだけ?)でしかないんだよ
『2ch 偉人 ヒョウロンカキドリ』と同じような存在
656日本@名無史さん2019/07/31(水) 21:01:19.78
>>680
>なんで「不能」なのか理由が説明できないんだね? だから九州説はダメなんだ<
「道里≠日数」なの。
だから、九章算術や大和説者は、ダメなんだ。 657日本@名無史さん2019/07/31(水) 21:03:11.06
ザラコクは陸行1日は200里と言っているが
それなら陸行1月は6000里歩く事になる
九州説は水行30日を帯方から九州上陸までとしているので
そこから南に6000里も歩いたら九州南部より飛び出す
陸行は1日60里換算にした方が現実的
658日本@名無史さん2019/07/31(水) 21:06:13.67
>>642
>ただ、『263年に劉徽が註している』というのはあくまで註の書き込み(たぶん成立までの経緯)のこと、本筋ではない。
263年に註を付けることに意味があるほど、使われていたってこと
実際、当時の算術の教科書な訳だから、この書の語法がある意味スタンダードなんだよ
九章算術で衰とか学ぶし、そこで衰の計算に使う道里が日数で計算するというのも
九章算術で学んで常識になるんだよ 659日本@名無史さん2019/07/31(水) 21:06:21.97
>>687
九州説側はずっと前から「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や、
「道里≠日数」などを指摘しているんだよ
ずっと認めずに恥をかき続けてきたのは大和説だ 660日本@名無史さん2019/07/31(水) 21:09:09.47
>>689
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
まだ道里でたどたどしい言い逃れを図ってるのか
まーここで負けたら大和説マジ窮地だもんな 661日本@名無史さん2019/07/31(水) 21:09:13.11
>>644
>女王国に含まれる30か国も以北になるんじゃないの?
>道里は略載されてないけど
陳寿はそんなに厳密に書いてない
まあ、陳寿が悪いんじゃなくて、陳寿が参照した下本がそうだったのかもしれないけどね
大体、「女王、女王国」は卑弥呼を共立した女王国連合を指すと思っていいんだけれど、
この2ヶ所の「自女王國以北」は、女王の都する国・邪馬台国じゃないと意味が通らない 662日本@名無史さん2019/07/31(水) 21:10:53.27
>>647
>依って、(肥後熊本の)邪馬台国以北〜対海国までの国々のことであり、宮崎都万にあったと思われる投馬国は含まれない。
それが通らないって話
佐賀川上バカも、投馬国は女王国より以北の国でめでたく死亡だ 663日本@名無史さん2019/07/31(水) 21:14:04.45
>>652
>水行20日と、水行10日陸行1月では、20日の投馬国の方がより遠い南にありそうだなと匂わせておいて、
匂わないよ
インチキ九州説のように、起点をそろえた放射読みにしたところで、
20日南に行くのと、40日南に行くのでは、印象として40日南に行く方がより南まで行ける
「印象として」と書いてあるのは、水行速度と陸行速度が比べられないとしても、という含意だよ 664日本@名無史さん2019/07/31(水) 21:17:29.51
>>698
まったくだ
先に投馬國が女王之所都の南へ水行二十日の位置にある事が書かれ、
後で「自女王國以北」が書かれたというのという文構造が理解できてないから
「以北に投馬國は存在しない」という事も理解できない
大和説者は、頭が悪いというレベルをとうに超えている 665日本@名無史さん2019/07/31(水) 21:20:45.72
>>661
女王国以北は女王国を含めない方が読めると思うけどなー
里呈が書かれているのも女王国より北だけだし 666日本@名無史さん2019/07/31(水) 21:26:06.50
考察すればするほどあらゆる文献記述や考古発掘物が
邪馬台国を九州北部から遠ざける
667日本@名無史さん2019/07/31(水) 21:26:25.97
>>633
>陳寿に教えてあげるなんざ大きなお世話、態度がでかすぎる。陳寿も面白くないことだろう。
陳寿に教えてあげるなんて言った人はいないので
九州説はまいどの捏造を恥じるべき 668日本@名無史さん2019/07/31(水) 21:27:00.01
>>702
結局、九章算術が言葉の使い方ががいい加減な想像で、
インチキばかり言っているのがこれで明白になったな。
そしてそれを論拠にした「南→東」などの嘘付き騙しの大和説も、
嘘つき騙しの・・・・アホ詐欺師であった事が、明確になったのだ。 669日本@名無史さん2019/07/31(水) 21:28:36.07
>>636
>・・・そこには例外もあったという書き方だな。
まったく根拠を添付しない九州説は
おのれの詐欺体質を恥じるべきだな 670日本@名無史さん2019/07/31(水) 21:30:06.34
>>637
>「投馬國が、自女王國以南」である事が書かれているから、
書かれていないな
そのような原文を示せまい 671日本@名無史さん2019/07/31(水) 21:33:00.31
>>642
>ただ、『263年に劉徽が註している』というのはあくまで註の書き込み(たぶん成立までの経緯)のこと、本筋ではない。
それは妄想なのだな
註は原文に付ける
成立までの経緯などは序に述べる 672日本@名無史さん2019/07/31(水) 21:33:40.39
>>706
それが、一個の桃核の年代測定が、110年もの範囲に広がってしまって、
AMSの計測が根拠にならないアホ法であった事になり、
その桃核のあった土坑も3世紀最末期以後の庄内3であった、という事にもなって、
確実に卑弥呼の遣使の時代より50年以上後であった事になったんだよな。 673日本@名無史さん2019/07/31(水) 21:37:03.68
>>652
>水行20日と、水行10日陸行1月では、20日の投馬国の方がより遠い南にありそうだなと匂わせておいて、
匂わない
普通の人は所要日数が倍の方が遠いと思う 674日本@名無史さん2019/07/31(水) 21:38:15.77
これも気づいている人は気づいている、
日本は終わっているw
なぜだと思う?
あと救世主〜?そういう話も関係ない、
そういうスレなどあったりするけど、何の意味もない、
救世主〜不明〜日本から現れるとか
675日本@名無史さん2019/07/31(水) 21:43:14.14
日本の神、英雄のような存在がいるでしょ、
そういう家の人(ホンモノ)
『ジークフリート』なんかと同じような存在の家の人、
その家の人を殺そうとしたか?何やらと言っている人がいたり
676日本@名無史さん2019/07/31(水) 21:44:42.68
>>712
投馬国は、「自女王國以北・・・」の記載の前に先に、
「女王之所都の南水行二十日」の位置にある事が書かれていたから、
女王之所都の以南の国であると確認出来ていた訳だ。 677日本@名無史さん2019/07/31(水) 21:48:11.60
>>676
>「女王之所都の南水行二十日」の位置にある事が書かれていたから、
「女王之所都の」南水行二十日の位置にある事
なんて書かれていないので
九州による先 678日本@名無史さん2019/07/31(水) 21:48:12.53
>>716
「南≠東」や「投馬国は女王国より以南の国」がはっきりするだけで、
大和説は壊滅だな 679日本@名無史さん2019/07/31(水) 21:49:17.50
もとい
九州説による詐欺
680日本@名無史さん2019/07/31(水) 21:49:57.81
681日本@名無史さん2019/07/31(水) 21:52:49.46
ファンタジーが何やら〜とか言っていたでしょ、
なぜか犯罪者扱い?
『何者にもなれない お前たち』
あの写真の家w
『王母 龍宮 輿 寒いな〜』?
682日本@名無史さん2019/07/31(水) 21:54:36.42
>>723
「道里≠日数」だよ?
まだ、そんな簡単なことが理解できないの?
バカなの?
小学生以下なの?
「南→東」などの嘘付き騙しの、・・・・アホ大和説者なの? 683日本@名無史さん2019/07/31(水) 21:59:56.88
龍宮〜の家
実際は、むかーしの中国(漢人)人なんだろう
と言っている人がいたでしょ
日本では神?
684日本@名無史さん2019/07/31(水) 22:07:46.83
『竜殺し』
wikiを読んでみて、
日本?のカミタマの話も出てくるから
685日本@名無史さん2019/07/31(水) 22:09:54.80
家の老婆がいるでしょ、なぜ知っているんだろう
馬に乗り、謎の刀(剣?)を持っていたとか
686日本@名無史さん2019/07/31(水) 22:13:02.52
>>682
常敗者九州説は理由が言えず、結論連呼言い張るだけ 687日本@名無史さん2019/07/31(水) 22:18:54.75
>>757
あいかわらず、「南→東」などの嘘吐き騙しの、
理由をひとことも言わないのが
大和説 688日本@名無史さん2019/07/31(水) 22:19:17.80
とあるゲームのスレがあるんだけど、
「ペンギンのようなエリザベス」と言っている人がいたり
現実の話、
老婆が言うには、銀〜?という親戚もいたと言っているし、
謎の刀の話とか
689日本@名無史さん2019/07/31(水) 22:19:55.14
>>687
こういうウソ平気でつける九州説すげぇわ 690日本@名無史さん2019/07/31(水) 22:32:09.88
>>771
>道里遠近を使って計算しろとあるのに、行道日数しか書いてない時点で、
道里は里数でなければならないという言い分は破綻している <
九章算術が、「道里=日数」というアホな事を書いている、と判った時点で、
九章算術を根拠に使った「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説が、
破綻していた事になる。 691日本@名無史さん2019/07/31(水) 22:36:51.86
>>772換算しないよ
>日数でそのまま道里略載の表現だから<
「道里≠日数」だから「×」。
>まあ、荷運びだと1日60里とか、標準はあったようだけれど <
裴松之の三国志注に拠って、車駕一日300里で、歩行一日200里だから、×。 692日本@名無史さん2019/07/31(水) 22:38:12.75
>>690
史料を罵れば否定できると思ってる九州説の安直脳 693日本@名無史さん2019/07/31(水) 22:39:11.62
>>691
>裴松之の三国志注に拠って、車駕一日300里で、歩行一日200里だから、×。
史料を捏造する九州説はもはや札付き 694日本@名無史さん2019/07/31(水) 22:40:18.71
>>780
「南→東」などに嘘吐き騙しの大和説は、
黙っときゃ恥かかなくて済むのに 695日本@名無史さん2019/07/31(水) 22:40:46.51
確実に同じだとわかるはず
『Yngwie Malmsteen - Best of [HQ]』
『姥清水』『』
696日本@名無史さん2019/07/31(水) 22:42:34.42
>>785
「南→東」などのように、
どんなときも全く理由を言わないのが
大和説 697日本@名無史さん2019/07/31(水) 22:44:19.52
日本はチョン(不明)〜?
何やらに支配されていると言っている人がいたり
本当の(カミタマなど)、
そういう家ではない、何か?に乗っ取られている
698日本@名無史さん2019/07/31(水) 22:46:26.33
>>789
「南→東」などの嘘吐き騙しや、
「道里≠日数」という事を認めたら、
死ぬ病気の大和説 699日本@名無史さん2019/07/31(水) 22:49:42.44
どう考えても家の話なのにな〜、
もしかして創価なのかな?
700日本@名無史さん2019/07/31(水) 22:58:11.37
>>808
>オウ九州説は里数を日数で表せる事を認めるか?<
三国志では、「道里」と「日数」とをきちんと書き分けているから、
認めないよ。 701日本@名無史さん2019/07/31(水) 22:59:26.85
>>809
完全に論破された主張でも連呼をやめない
それが「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説クオリティ 702日本@名無史さん2019/07/31(水) 23:02:22.11
>>811
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は、
脳の腐ったゾンビ踊りを踊り続けるか?、
それとも大和説の破綻を受け入れるか?、
どっちかなー 703日本@名無史さん2019/07/31(水) 23:06:35.04
『河童 ペルシャ』説とか、そういうのもあったでしょ
704日本@名無史さん2019/07/31(水) 23:09:21.29
>>818
>>「東大理系大学院のモグリ学生」であったんだな。
確か、ノーベル賞を貰った人にも、そんなモグリがいたな。<
>ほう、ノーベル賞級だと認めてくれるんだwwwww
ありがとうよw<
いや、出身大学名も書いていなかったし、
理系大学院博士号と言っても,何学科なのか?も書かないから、
こりゃモグリだったんだろうなあ?と思われているんだよ。 705日本@名無史さん2019/07/31(水) 23:17:14.27
何で九州説の奴がいるんだ?スレタイ読めんのか?
706日本@名無史さん2019/07/31(水) 23:22:21.64
『伊達の桃太郎』
仏教の話も出てくるしな・・・・・・・・・・・・・、
当時、家にあった本や書なんかも誰かにあげたのかな〜
と言っていたり
707日本@名無史さん2019/07/31(水) 23:22:41.80
>>819
>理学部で距離=日数が考えられないて 時間=空間の相対論習わなかったのか <
私の事か?。
私なら、場の相互作用論であり、
電磁場内での電場と磁場の反発性と、
重力場での万有引力的凝集性に拠る粒子性の発生と、
その粒子性と反粒子のと相互作用によって、素粒子群が発生し、
時間とは、一つの凝集場において、他の場の相互作用のおいて発生の「順番」を示す概念だ、
という論理だったよ。 708日本@名無史さん2019/07/31(水) 23:29:37.74
儒教的徒弟制度に囚われたキナイコシには、門外漢の論文はいかに学術的に優れていても、受け入れたくないものなのだな。
彼は学問より何か他のものに取り憑かれているようだ。
それが畿内説などという妄想を生み出しているのだろう。
709日本@名無史さん2019/07/31(水) 23:30:09.61
710日本@名無史さん2019/07/31(水) 23:31:37.71
>>825
>里を使っていた古代中国では
歩き移動は1日60里と大体の目安が確立していたのだ
歩きで移動何日と書いてあればすぐ里に換算できる<
周髀算経や淮南子の一寸千里や、
漢書の如淳らの注や、三国志や、
その三国志に対する裴松之の注の「車駕1日300里」や「陸歩行1日200里」などに拠って、
「短里の存在」が確かめられた。 711日本@名無史さん2019/07/31(水) 23:43:58.57
>>832
>九州説は悪魔の証明とか言い出す前にまず九州説の証明をしろ<
文献では、新唐書までの中国史書群などの記載が証拠であり、
中でも唐会要倭國伝の「正北抵新羅」などが、九州説の最も明確な証拠であり、
考古でも、金印や祇園山の冢や平原や(何本かの大道のある)弥生銀座や、
初期前方後円墳の那珂八幡などや、
矛や鉄や鏡片や西新式や楽浪土器や庄内や布留や絹などの存在。 712日本@名無史さん2019/07/31(水) 23:55:51.48
>>704
>いや、出身大学名も書いていなかったし、
出身大学名書いてあるだろ?
東大ってww
ちゃんと学士会員だよ
学歴ロンダリングのなんちゃって東大院卒とかではない 713日本@名無史さん2019/07/31(水) 23:57:25.36
ザラゴキが連投すると、普通のヒトは相手にしないからスレが寂れるな
714日本@名無史さん2019/08/01(木) 00:13:13.67
川が流れていて、蒼狗〜、とも書いてあるでしょ?
妄想によるとwフェンリル
715日本@名無史さん2019/08/01(木) 00:48:29.14
『牛頭馬頭』
何の話なんだろう
716日本@名無史さん2019/08/01(木) 01:24:43.99
『トトロ』『ヴァル・ヴァロ』
ゲゲゲの作者〜某曲、革命w
717日本@名無史さん2019/08/01(木) 01:48:37.35
奥山というのが、邪馬台国論争の悪役を演じてるな、・・・悪山。
718日本@名無史さん2019/08/01(木) 03:34:50.78
あれか?
九州説・・・
お得意だったはずの
行程論が
投馬国問題で根本から崩れて
精神が崩壊したのか?
719日本@名無史さん2019/08/01(木) 04:15:12.97
源平討魔伝?
平〜というキャラが主人公だしな・・・、
どうなっているんだろう
720日本@名無史さん2019/08/01(木) 04:18:33.70
『姥清水』
721日本@名無史さん2019/08/01(木) 04:44:31.67
>>638九章算術で張蒼や耿寿昌が加筆したのは事実
どこを加筆したかは不明
いずれにせよ、
道里の遠近は
距離の遠い近いとも解釈できるかもしれないが、距離では賦役の配分はできないので
行道日数(勤務日数)で計算させたものである。
距離=日数であれば、均輸1の設問で日数など出さずズバリ里数で書いただろう
もし、距離表示から答えを導き出すなら、設問4のようの速度を入れたであろう
また設問4でも見られるように載輸之間各一日・・積み荷の出し入れも日数に入れている
設問4はあらかじめ距離を設定して、速度から日数(勤務日数)を出させている 722日本@名無史さん2019/08/01(木) 04:59:55.10
以前から書いている事なんだけど、
ネタのように思えるけど、本当の話でしょ?
カッパドキア・・・カッパ?
きゅうりのような葉が写って・・・龍宮〜の家の写真だしな
723日本@名無史さん2019/08/01(木) 05:09:27.82
続き
設問4で速度( 重車日行五十里、・・・)を入れたのは
里数だけではが日数(勤務日数)の計算はできない
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
距離=時間×速度 この式は九章算術の根本
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
里数(距離)=日数(時間)との誤読したら九章算術の著者がみたら大変嘆くであろう
724日本@名無史さん2019/08/01(木) 05:40:58.50
続きの続き
俺なら
>同じ道のりで何度も行き行程日数がほぼ同じなら、
おおよその距離は推測できたのではないだろうか<
ぐらいかな・・・これでも実数値は出ないけど
九州説の中で放射上に考える人も理解できる
2つの違う道のりがあるとすれば、日数からのお互いの距離比較はできない
725日本@名無史さん2019/08/01(木) 06:53:04.80
>>724
それでも
「道里」を日数で数えている事実は変わらないので
「水行二十日」という記載があれば
投馬国には「道里」が略載されているのである 726日本@名無史さん2019/08/01(木) 06:53:33.88
>>723
>里数(距離)=日数(時間)との誤読したら九章算術の著者がみたら大変嘆くであろう
まだ、ごまかそうとしてる
本当に質が悪いな!
行道日数が「道里」の表記法として普通の表記であり、道里は里数に限定されない
「道里は里数でも日数でも表記できる」ことが九章算術から分かる
たったこれだけのことを認められずにグダグダとww
「里数(距離)=日数(時間)」などと言っているのは難癖を付けている九州説だけ 727日本@名無史さん2019/08/01(木) 07:00:05.39
そもそも「戸数」も行道日数も「官」も「副」も記載のある投馬国を、国名しか判らない「其余」の国々と同列に
「不可得詳」であると強弁することが不自然の極みである
榎の放射説は根底から、ためにする曲芸読みであったのだ
728日本@名無史さん2019/08/01(木) 07:17:34.54
>>726
>道里は里数でも日数でも表記できる<
なるほど表記はできるよ しかし日数から道理を出すには速度が必用
FAQ78で言いたいのは 水行20日でも距離は進んでいるということだろ
これには誰も異論は唱えないよ
比例計算の九章算術出す必要ないじゃん・・意図がようわからん
ただ、知識を持ち出したかったからじゃねーの・・それが無残にも反撃受けてるじゃん 729日本@名無史さん2019/08/01(木) 07:30:00.76
>>725
>投馬国には「道里」が略載されているのである<
なぜだと思う?
不彌國までは里数でその後が日数
なぜ「道里」を略載したの? 730日本@名無史さん2019/08/01(木) 07:36:35.75
>>728
車などの乗り物ならいざ知らず
歩く速度は大体一定で古代中国では1日60里とされていた
ゆえに陸行1日とあればそれを里にすぐ換算できるのであーる 731日本@名無史さん2019/08/01(木) 07:37:32.72
732日本@名無史さん2019/08/01(木) 07:39:15.32
魏志倭人伝では伊都国の紹介のあとすぐに全ての郡の使いがここに駐留すると明確に書いてある。
駐留すると言ってるんだから、それ以降を伊都国を基点として放射読みするのは
あったりまえ。
733日本@名無史さん2019/08/01(木) 07:39:55.30
十日だの二十日だの書いておいて、三十日だけ一月と書くと言うことは、駢儷文の観点から言って100%無い。
また、三世紀などという時代には川にはロクに橋が架かっておらず、陸行一月できる場所は事実上物理的に存在しない。そのような長距離は必ず水行するのであり、これは本居宣長が畿内説を否定した根拠でもある。
つまり、陸行一月は誤り。
百済伝で「其南海行三月有耽牟羅國」と書かれているものがあり、
耽牟羅國は済州島のことなので百済から三ヶ月も掛かる訳がなく、三日の誤植とされている。
このようなケースも実際ある。
梁書の倭人条は魏志倭人伝をほぼパクって作ったものだが、これには陸行一月日とある。
つまりこの当時すでに陸行一月の資料と陸行一日の資料とが両方あったのだろう。
陸行一月は陸行一日の単なる写し間違いである。
734日本@名無史さん2019/08/01(木) 07:41:05.92
魏志倭人伝は、
1. 伊都国基点の放射読みが正しい。
2. 陸行一月は陸行一日の単なる写し間違い。
放射読みで伊都国から水行十日陸行一日で御井辺りに着く。
帯方郡から伊都国まで一万五百里+アルファ
また帯方郡から邪馬台国まで一万二千余里
伊都国から太宰府近辺を通って筑紫平野の御井まで60〜70キロだからこれも合う。
また紹興市の真東(ただし魏志倭人伝で言う東は反時計回りに二十数度ズレているが)も筑紫平野。
御井は卑弥呼の墓である祇園山古墳がある。
また伊都国から水行二十日で投馬国だから、これは西都原の妻のこと。
狗奴国は邪馬台国の南だから熊本辺りで、球磨国のこと。
また御井から(魏志倭人伝の言う意味で)真南が熊本市と西都原だから方角も合う。
全部キレイに合う。
邪馬台国は御井で間違い無い。
735日本@名無史さん2019/08/01(木) 07:41:09.32
畿内説を否定した過ぎて狂乱のあまり
小学生以前の知能に退化しつつある九州説
736日本@名無史さん2019/08/01(木) 07:43:22.98
小学校で習うような知識すらない九州説が
いくら偉そうな事言ってもね
737日本@名無史さん2019/08/01(木) 07:44:32.26
>>726
九章算術では「道里遠近」といっている
これは、道の里(所要距離)と、道の遠近(所要時間)の2つを指しており、短縮して道里遠近と書かれている。
設問では、4県の長さが違う四道について比較計算させるので、
各道別に、総所要距離と総所要時間のちがいを総合的に表すことのできる行道日数を用いている。
繰り返しになるが、
道里(所要の里数)と遠近(所要の日数)のちがいを同時総合化して比較できるようにしたのが「行道日数」なのだよ。
なお、「里数(距離)=日数(時間)」と言って難癖を付けているのは九州説ではなくて畿内説なんだけどね・・。 738日本@名無史さん2019/08/01(木) 07:45:41.21
九州説は原始人並みの脳が生み出した謬説
739日本@名無史さん2019/08/01(木) 07:50:36.44
九州説は原始人だから字が読めなくて
魏志倭人伝に書いてある事を理解できなくて当然か
九州説原人はバナナでも食べてた方がいいんじゃないかな
740日本@名無史さん2019/08/01(木) 07:52:56.34
>>728
>比例計算の九章算術出す必要ないじゃん・・意図がようわからん
九章算術の均輸の例題は比例按分の例題ではあるが、戸数と道里で「衰」を出す式は比例計算でも何でもない
ただの割り算である
比例計算が始まるのはその次の段階からだ
だから比例計算であるという理由で九章算術の例を除外するのは単なる無理解であり妄想に基づく間違いだ
九章算術は「道里」を日数で数えた実例である
三国時代に注釈なしで読者はそう読めた 741日本@名無史さん2019/08/01(木) 07:55:08.26
やれやれこのスレはいつから原始人に算数を教えるスレになっちまったんだ?
742日本@名無史さん2019/08/01(木) 08:00:09.13
>>737
>これは、道の里(所要距離)と、道の遠近(所要時間)の2つを指しており、短縮して道里遠近と書かれている。
もちろん、これがどれほどトンチンカンな間違いであるかはとっくに証明されている
「其國大小,道里近遠,人數多少,風俗燥濕」
三国時代に書かれたこの記事で
「道里近遠」も「人數多少」も各国についての実数を表している 743日本@名無史さん2019/08/01(木) 08:02:51.99
1プサンから末盧國(唐津と比定)まで230キロぐらい ・・・3千里
2不彌國(異論は覚悟で小倉と比定)から投馬国(岡山と比定)まで370キロぐらい・・・水行20日
370キロ÷20日=18.5キロ/1日
3 2を1に転用
230キロ÷18.5キロ=12日
4 プサン→唐津 3千里÷12日=250里/1日
すると、250里×20日=5千里(小倉→岡山)
5 次に水行10日は2,500里
6 水行30日で7,500里進んだことになる
畿内説での計算
不彌國までが万700里
それに7,500里と陸行1月の距離をたすと、邪馬台国は郡から2万里ぐらいになる
BUT 倭人伝では万2千里余
744日本@名無史さん2019/08/01(木) 08:03:19.61
九州説の非論理的で頑迷な抵抗ぶりは
この「以北」問題が九州説にとって
致命傷だってことのあらわれだね
745日本@名無史さん2019/08/01(木) 08:05:11.34
746日本@名無史さん2019/08/01(木) 08:05:29.79
>>743
>畿内説での計算
畿内説はそんな計算してないから
また詐欺だな九州説 747日本@名無史さん2019/08/01(木) 08:06:03.19
748日本@名無史さん2019/08/01(木) 08:07:47.65
749日本@名無史さん2019/08/01(木) 08:08:16.58
九州説は打たれ弱いから
追い詰められれば追い詰められるほど
狼狽が狼狽を呼んで
知能指数が落ちていく
醜態である
750日本@名無史さん2019/08/01(木) 08:08:54.18
もう九州説ヤケクソだろ
751日本@名無史さん2019/08/01(木) 08:09:07.99
>>727
>そもそも「戸数」も行道日数も「官」も「副」も記載のある投馬国を、国名しか判らない「其余」の国々と同列に
>「不可得詳」であると強弁することが不自然の極みである
道里略載の7国と、其の余の21国との中間の扱いが、投馬国なのだよ。
◎×式の二択は小中高時代の尻尾、社会人になれば中間のグレーゾーンの扱いも大事になる、
それが大人らしさ、陳寿らしさということだよ。
>榎の放射説は根底から、ためにする曲芸読みであったのだ
榎の放射説は、しょっぱなの末盧国からの出発方向でトンデモ間違えている。
東南陸行500里の伊都国は、佐賀川上付近に当たる。
その佐賀川上から奴国と不彌国の二方向放射道、そしてさらに不彌国からも投馬国と邪馬台国の二方向放射道となる。
(この読み方は、駢儷体の書式とも合致する) 752日本@名無史さん2019/08/01(木) 08:09:24.06
753日本@名無史さん2019/08/01(木) 08:12:39.36
>>728
>しかし日数から道理を出すには速度が必用
道里を出すってなんだ?
日数が道里なんだよ
まだ理解しないのか?
里数を出すには速度が必要だが、雨待ちの日数もおそらく入っての道里だから、
里数を出す意味はない 754日本@名無史さん2019/08/01(木) 08:15:02.45
>>751
>道里略載の7国と、其の余の21国との中間の扱いが、投馬国なのだよ。
>◎×式の二択は小中高時代の尻尾、社会人になれば中間のグレーゾーンの扱いも大事になる、
だからグレーゾーンなどと言いながら
「戸数」も行道日数も「官」も「副」も記載のある投馬国と
国名しか判らない「其余」の国々と
同一であると強弁する九州説が不自然だと指摘されている
しかも道里を行道日数で数えた実例を示されているのにも拘らずだ
そういうのを、居汚い足掻きという 755日本@名無史さん2019/08/01(木) 08:17:53.23
>>729
相変わらず、頭が悪いなぁw
読解力ゼロか?
>不彌國までは里数でその後が日数
>なぜ「道里」を略載したの?
不彌國までは「里数」で「道里を略載」
投馬國、邪馬壹國は「日数」で「道里を略載」
道里は「里数」でも「日数」でも略載できる
これだけのことなんだから、一読で理解できるだろ?
一通りの漢字を習った小学生なら、この程度は理解できるぞw 756日本@名無史さん2019/08/01(木) 08:18:05.56
『隋書』
>倭國、・・・・・都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
>倭国は、・・・・・都は邪靡堆、魏志の説に則れば、邪馬臺というなり。
『唐会要』
>倭國東海嶼中野人。有耶古。波耶。多尼三國。皆附庸於倭。
>北限大海。西北接百濟。正北抵新羅。南與越州相接。
>倭国は東海の小島の野人。耶古、波耶、多尼(ヤコ(屋久島)、ハヤ(隼人)、タニ(種子島)の三国がある。いずれも倭に従属している。
>北は大海が限界、西北は百済と接し、正北は新羅と抵触、南は越州に相接する。
>北は大海が限界
>正北は新羅と抵触
この箇所より、少なくとも邪馬台国は近畿では無いことが確定する。
なぜなら、近畿から見て、日本海が「北」で新羅が「正北」なわけが無いから。
これは明らかに九州+任那を倭国とした表記である。
またそのほうが耶古、波耶、多尼が倭国の従属国であるという記述とも合致する。
邪馬台国は、九州。
757日本@名無史さん2019/08/01(木) 08:20:01.85
癇癪を起こす幼児または原始人
九州説
758日本@名無史さん2019/08/01(木) 08:21:22.15
759日本@名無史さん2019/08/01(木) 08:21:29.62
>>732
>魏志倭人伝では伊都国の紹介のあとすぐに全ての郡の使いがここに駐留すると明確に書いてある。
はい、これがウソ
「駐留」などしない
原文は郡使往來常所駐
往来の時に素通りせず必ず立ち寄るという意味
入国管理に当たるところだよ
入国カウンターに泊まり込んでたらおかしいだろ?ww 760日本@名無史さん2019/08/01(木) 08:21:58.52
投馬国の「水行二十日」は「道里」を日数で数えた例である
だから投馬国には「戸数道里」が略載されている
つまり「女王国以北」にある国である
陳寿は道筋に沿って北から順に倭人の国について述べてきて、女王の都のことまで述べて一旦「女王国以北」と総括し、続いて情報のない「其余」の国々の名だけ列挙した
761日本@名無史さん2019/08/01(木) 08:22:34.61
【邪馬台国と周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県伊万里市)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊佐早国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は長崎県長崎市(または長崎県西彼杵郡)または嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は高来郡(長崎県雲仙市)
7番 不呼国は須古(佐賀県杵島郡白石町)
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の広川か高良台、室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市(旧怡土郡)、奴国 福岡市(那の津)→あわせて邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
762日本@名無史さん2019/08/01(木) 08:24:11.22
>>756
それ、単に倭人の国々が、北から南に台湾沖辺りまで続いてるという地理的誤解を示しているだけだから 763日本@名無史さん2019/08/01(木) 08:25:07.04
>>754
>しかも道里を行道日数で数えた実例を示されているのにも拘らずだ
また「道里を行道日数で」数えた実例といって逃れようとしてる。
原文は、「道里遠近を行道日数で」数えた実例だ。 遠近抜かし畿内説。 764日本@名無史さん2019/08/01(木) 08:27:33.83
>>733
>十日だの二十日だの書いておいて、三十日だけ一月と書くと言うことは、駢儷文の観点から言って100%無い。
バカすぎww
駢儷文が分かっていないw
十日と一月が対なんじゃなくて
「南至投馬國」 『水行二十日』 (官名)『可五萬餘戶』
「南至邪馬壹國」女王之所都『水行十日、陸行一月』(官名)『可七萬餘戶』
という形で対になってるんだよ
『 』の部分が戸数道里略載なww
つまり、一月は一日の間違いというのは何の根拠もない 765日本@名無史さん2019/08/01(木) 08:32:05.61
距離=日数?
一日中 家でゴロゴロしてる奥山くんは
10日でどれだけの距離を進んだのかな
766日本@名無史さん2019/08/01(木) 08:34:23.03
>>834
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者が、
脳のクルった・・・・アホ詐欺師のゾンビ、
という証明なら、可能だぞだ。 767日本@名無史さん2019/08/01(木) 08:36:05.34
自郡至女王國 萬二千餘里
(中略)・・・・
計其道里 當在會稽 東治之東
なるほど
ここでも陳寿は、日数でなく、里数の萬二千餘里を「道里」としている。
768日本@名無史さん2019/08/01(木) 08:37:51.91
>>837
ゾンビと、「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者の共通点を探ればいい
大和説者は、普通の人間よりゾンビの方に、
脳の欠陥の共通点が多くなるはず 769日本@名無史さん2019/08/01(木) 08:40:59.49
>>838
「南→東」などの嘘付き騙しに執着する大和説者はキョウジン。
キョウジンの証明とは、大和説の証明のこと 770日本@名無史さん2019/08/01(木) 08:42:26.85
「其余」の其が、前出女王国以北の国々を示し、余がその他遠絶の国々を指すことは明白である。
それにもかかわらず、
敢えて「自女王国以北、其戸数道里可得略載」が挿入されているのは、ここに大きな意味が隠されているからである。
つまり三国志・陳寿の倭人伝において、道里とは「道の里の数」のことであり、
道里=里数が記載されていない国があるならば、それは女王国以北ではない・・、という含みなのである。
771日本@名無史さん2019/08/01(木) 08:43:46.08
>>841
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説学者らは、全員が・・・・詐欺師。
確かに、時折、本性を表し荒れ狂う 772日本@名無史さん2019/08/01(木) 08:46:18.26
>>758
>言い張るだけ
史料的根拠を示しているのに、あっさり存在すら無視?
さすが九州説、非現実的だな 773日本@名無史さん2019/08/01(木) 08:47:03.21
>>842
でも普通に、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説学者らは、
通常の人間よりは、
安部文部省や右翼学会教育界やマスコミの方に、
共通点が多く見出せるだろ 774日本@名無史さん2019/08/01(木) 08:49:40.50
今や、邪馬台国論争の悪役と化した畿内説
775日本@名無史さん2019/08/01(木) 08:49:48.34
776日本@名無史さん2019/08/01(木) 08:50:13.63
>>763
>原文は、「道里遠近を行道日数で」数えた実例だ。 遠近抜かし畿内説。
「道里遠近」が「道里」の実数のことである同時代の用例も掲げてるんですけど?
際追い詰められてるのに文献すべてを無視して
九州説はどこまで言い逃れを足掻くの? 777日本@名無史さん2019/08/01(木) 08:53:27.33
>>770
史料では通説に敵わない九州説が
結局最後に頼るのは
「隠された意味」とかいう
論理性のカケラもないトンデモ我流読み 778日本@名無史さん2019/08/01(木) 08:56:36.50
駢儷の意味がわかってなくない?
779日本@名無史さん2019/08/01(木) 08:57:14.15
>>770
>敢えて「自女王国以北、其戸数道里可得略載」が挿入されているのは、ここに大きな意味が隠されているからである。
意味を隠したら読者に伝わらないってことくらい
わかんないのかな・・・九州説の人にはさ 780日本@名無史さん2019/08/01(木) 08:58:49.23
>>776
実距離で計算するのが無意味だから日数にしてあるという文脈を棚に上げて
距離を示す用例に日で数えるなどという読み方は誤読曲解の典型だよ。 781日本@名無史さん2019/08/01(木) 09:04:23.30
>>763
>原文は、「道里遠近を行道日数で」数えた実例だ。 遠近抜かし畿内説。
「戸数多少」が「戸数」の数値表記してでしょ
「道里遠近」が日数の数値表記で書かれてあたら
「道里」という言葉をここでは「行道日数」で表記した
そういうことだ
九州説独特の主張
「日数で書かれているから道里じゃない」は
まったく根拠がない 782日本@名無史さん2019/08/01(木) 09:06:04.08
>>780
> 実距離で計算するのが無意味だから日数にしてあるという文脈
それ、キミの脳内のどこにあるの? 783日本@名無史さん2019/08/01(木) 09:07:06.25
>>776
>「道里遠近」が「道里」の実数のことである同時代の用例も掲げてるんですけど?
里数の実数は○○里である。それが日数○○日だというのは、「実数」という文字・言葉の意味が混乱しているのではないか。 784日本@名無史さん2019/08/01(木) 09:12:53.52
もともと均輸法は戸数と行道日数を基礎数値として使う制度だ
それを
「欲以衟里遠近、戸數多少、衰出之。」
と書いた筆者も編註者も
行道日数が「道里」にあたると考えていた
陳寿の生きた魏晋代もこれが常識ということだ
785日本@名無史さん2019/08/01(木) 09:15:22.80
>>783
>里数の実数は○○里である。それが日数○○日だというのは、「実数」という文字・言葉の意味が混乱しているのではないか。
里数の実数が日数○○日だとか
誰も言ってない
九州説はまた捏造?
詐欺が好きだなぁ 786日本@名無史さん2019/08/01(木) 09:16:35.12
道里にあたる という表現はここでは不明瞭
787日本@名無史さん2019/08/01(木) 09:17:05.46
著しい誤読癖=認知障害がある精神疾患の患者のモノマネ=偽装をして、難癖ビジネスに通じる、不自然な妄言、曲解を擦り付ける形で暴れるのが、毒蛇というコードネームで呼ばれている偏向工作者がいるらしいね
788日本@名無史さん2019/08/01(木) 09:22:20.54
>>781
>「道里」という言葉をここでは「行道日数」で表記した
そういうことだ
ならば、わざわざ行道日数とした理由が不明である。
そのようなややこしい云い替えをせず、道里日数とすべきであったであろう。
なぜ道里日数としなかったのか?? 789日本@名無史さん2019/08/01(木) 09:29:01.10
>>788
>なぜ道里日数としなかったのか??
そんな言葉ないから 790日本@名無史さん2019/08/01(木) 09:30:38.40
>>786
>道里にあたる という表現はここでは不明瞭
不明瞭なのは、あんたの論旨や根拠だ 791日本@名無史さん2019/08/01(木) 09:30:50.80
>>844
大和説者には、
Yahooでも、天誅やハイエナや京大医者やmkpoらの脳のおかしい学者らがいたし、
5chにも、スレ主や類スレ主らの「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しがいる。
これらの脳の異常な大和説者らの書き込みの内容からの、帰納的推論を行うと、
自明の真理として「大和説者が脳の干からびたゾンビ」という結論が導かれる 792日本@名無史さん2019/08/01(木) 09:32:19.13
>>786
>里数の実数が日数○○日だとか
>誰も言ってない
自ら、「道里遠近」が「道里」の実数のことであるといい、その道里遠近は行道の日数で表すと、これまで大声で叫んできたではないか。
前レス前スレのカキコはもう忘れたのか。 793日本@名無史さん2019/08/01(木) 09:33:17.38
>>788
>ならば、わざわざ行道日数とした理由が不明である。
なぜ不明だとか思っちゃうの?
均輸法は行道日数を使うのが決まりなのに 794日本@名無史さん2019/08/01(木) 09:35:49.80
>>792
>>里数の実数が日数○○日だとか
>>誰も言ってない
>自ら、「道里遠近」が「道里」の実数のことであるといい、その道里遠近は行道の日数で表すと、これまで大声で叫んできたではないか。
>前レス前スレのカキコはもう忘れたのか。
だから
里数の実数が日数○○日だとか
誰も言ってない
九州説さん、朝から発狂したの? 795日本@名無史さん2019/08/01(木) 09:39:22.35
九章算術では「道里」でなく、「道里遠近」と書かれている。
設問では、距離里数と時間日数が違う4県四道について、比較比例計算させる。
そこで、総所要距離と総所要時間のちがいによる不公平さを均すため、
各県各道別に距離・時間の違いを総合して互換的に表すことのできる行道日数として提示しているわけだ。
つまり
道里(里数)と遠近(日数)の各県凸凹差を均し総合化して、相互に比較計算できるよう工夫したのが「行道日数」なのだ。
796日本@名無史さん2019/08/01(木) 09:40:39.45
>>848
九州説者は、このスレで、
大和説者らの「南→東」などの嘘付き騙しの説を、
国民や世界の人々に知らしめる事が出来て、
感謝している。
Yahooや2chや5chには随分邪魔されたが・・・。 797日本@名無史さん2019/08/01(木) 09:49:04.83
>>793
>均輸法は行道日数を使うのが決まりなのに
その通りだ、道里里数=日数ではなく、
道里(里数)と遠近(日数)の各県凸凹差を均し総合化して、相互に不公平のない比較計算ができるよう工夫した「行道日数」という数字を使うのだ。 798日本@名無史さん2019/08/01(木) 09:49:51.92
>>795
>つまり
>道里(里数)と遠近(日数)の各県凸凹差を均し総合化して、相互に比較計算できるよう工夫したのが「行道日数」なのだ。
ハイハイ、トンデモ九州説アイデア乙です
「戸数多少」の数字は「戸数」をあらわす数字
「道里遠近」の数字は「道里」をあらわす数字
ですよー
「行道日数」が「道里」と書かれています 799日本@名無史さん2019/08/01(木) 09:51:00.42
800日本@名無史さん2019/08/01(木) 09:56:20.17
>>849
>魏志
馬韓 鬼神を祭る 卑弥国がある
邪馬台国 鬼道により卑弥呼が統治する
答えは同じ書物の中にあった<
卑弥呼らも「卑」氏の部族であり、出身であった可能性は十分にあるが、
卑弥呼が、九州倭國の女王になった、
という事は否定し難い。 801日本@名無史さん2019/08/01(木) 09:59:11.95
>>800
なんで唐突に九州倭国が出て来るのか
論理性のロの字もないな
さすが九州説 802日本@名無史さん2019/08/01(木) 10:00:11.42
>>851
ああ、大和説学者らは、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しをしており、
国民にも人類にも、全く失礼な連中だ 803日本@名無史さん2019/08/01(木) 10:03:34.54
>>860
宇宙からの電波を受信したり霊波動か何かを送ってみたり
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説者は、
国民を騙すのに忙しいな 804日本@名無史さん2019/08/01(木) 10:04:18.46
>>802
つまり九州説とは
史料批判を許さない非学問的素人考え
ってことだな 805日本@名無史さん2019/08/01(木) 10:11:29.74
>>804
いや、九州説とは
自分の欲しいものがあれば絶対盲信を他人に強要
都合悪いものがあれば
権力者の捏造歪曲と決め付け
あるいは罵詈讒謗で否定
という手法で、欲しくなったらどんな情報でも作り出す
ウルトラチェリーピッカーだよ 806日本@名無史さん2019/08/01(木) 10:27:43.17
>>869
>じゃそれでいいとして 里数は日数でも表せるよな
つまり道里とは日数表記も意味する<
確率的には「意味しない」。
原則は、「里数≠日数」であり、「道の里≠道の日数」。
つまり、「道里が日数を意味する」確率が殆どない。 807日本@名無史さん2019/08/01(木) 10:30:44.18
>>795
>つまり
>道里(里数)と遠近(日数)の各県凸凹差を均し総合化して、相互に比較計算できるよう工夫したのが「行道日数」なのだ。
まったく分かってないね
読んでないんだろ
それぞれの県の戸数を輸所までの道里(日数)で割った商を各県で比例按分して得た率を各県の負担率にすることで凸凹差を均し公平になるよう工夫したのが「均輸」なのだ。 808日本@名無史さん2019/08/01(木) 10:32:58.57
>>806
>確率的には「意味しない」。
そんな素人の脳内で勝手に作った確率なんて
「意味ない」。 809日本@名無史さん2019/08/01(木) 10:36:05.77
んで、無理やりにでも
投馬国が女王国の「以北」でないことにして
南九州あたりに比定しないと
九州説は壊滅するんだよね
たいへんだね
810日本@名無史さん2019/08/01(木) 10:49:14.53
>>878
>>夷人は里を知らないのだから、魏や郡役人らの計測値でしかない。<
>これは選択肢の不正間引きという 詐欺の典型的手口だよ
いわく推定値である
いわく捏造数字である
いわく楽浪商人からの聴取である
ほかに幾らでも選択肢がある<
そりゃ、他の理由の可能性もあるが、
魏や郡の役人らが記録し、陳寿が書き留めた、
という事以外の可能性や確率が、
殆どない。 811日本@名無史さん2019/08/01(木) 10:49:54.97
>>807
>それぞれの県の戸数を輸所までの道里(日数)で割った商を各県で比例按分して得た率を各県の負担率にすることで
>凸凹差を均し公平になるよう工夫したのが「均輸」なのだ。
この部分「輸所までの道里(日数)で」割った商を各県で比例按分して・・だが、
「輸所までの道里(日数)」は各県ごとに違う。
また「各県で比例按分して得た率を」というが何を基準に各県比例配分するのか、このレスでは、ここがあいまい不明確だ。 812日本@名無史さん2019/08/01(木) 10:51:53.55
>>881
>>一寸千里や簡易三角測量や記里車や歩測や目測などで、
有効数字1桁概数であれば、十分に測れる。<
>それなら、なんで唐津港から伊都の方位がわからないの? 九州説は支離滅裂だね <
出発時点や途中からでは、
伊都国が見えていないから、方位計測が出来ない。 813日本@名無史さん2019/08/01(木) 10:55:55.04
>>889
「南→東」などの嘘付き騙しの証拠を、
まったく出さないのが、
大和説者。 814日本@名無史さん2019/08/01(木) 10:56:35.11
伊都国は、東南500里の佐賀川上にピタリ比定され、
投馬国は女王国の「以北」でなく、南九州に比定できると書くと、
入れ食いで、桜井市のバイトが釣れるわ。
、
815日本@名無史さん2019/08/01(木) 10:58:42.07
>>891
もう平成は終わったっちゅうに
いまだに、「南→東」などの嘘付き騙しの長里厨があばれてんのか 816日本@名無史さん2019/08/01(木) 11:03:49.92
>>812
>それなら、なんで唐津港から伊都の方位がわからないの? 九州説は支離滅裂だね <
そういうことよ。
古い九州説も、安い九州説も、お高く留まってる九州説も、糸島イトコク説は「天の声」として信心しきってるからね。
ま、畿内説もそのクチなんだが・・・ 817日本@名無史さん2019/08/01(木) 11:06:37.89
>>893
>狗邪韓国が倭でないこともわからなくなる<
南岸であるし、馬韓や弁辰の国名にないし、
「弁辰狗邪」とわざわざ区別してあるから、倭人の国。
>名前しかわからない国々と、戸数も官もわかってる投馬国を一緒にするのは暴論<
投馬國は、「至」の前に「途中移動があった」事を示す文言がないから、
魏使らは移動しておらず、
側副傍線国の説明。 818日本@名無史さん2019/08/01(木) 11:11:22.90
>>810
>魏や郡の役人らが記録し、陳寿が書き留めた、
>という事以外の可能性や確率が、
>殆どない。
その可能性や確率とやらが
単なる思い込み決め付けでない
という可能性が殆どない
根拠提示ないからな 819日本@名無史さん2019/08/01(木) 11:16:59.51
>>811
>この部分「輸所までの道里(日数)で」割った商を各県で比例按分して・・だが、
>「輸所までの道里(日数)」は各県ごとに違う。
違ったら何なんだ?
論理が無いぞ
>また「各県で比例按分して得た率を」というが何を基準に各県比例配分するのか、このレスでは、ここがあいまい不明確だ。
戸数を
「輸所までの道里(日数)で」割った商を各県で比例按分して・・
と書いてあるだろう
これを見て
「各県で比例按分して得た率を」というが何を基準に各県比例配分するのか
が「あいまい不明確だ」と思うなら
おまえは小学生程度の学力と常人の知力がないと
確定するんだが
自覚はあるか? 820日本@名無史さん2019/08/01(木) 11:20:53.94
>>734
同じこと何度も書くなよ どうせ間違ってるんだからさ!
>1. 伊都国基点の放射読みが正しい。
その根拠は>>759で否定済み
駐留なんてしてない
>2. 陸行一月は陸行一日の単なる写し間違い。
駢儷文の誤解については>>764で指摘済み
そもそも、陸行1日だったら水行十日してきて、上陸したその日に着くことになるから
わざわざ書かれることはない
末盧国でも投馬国でも、海岸に上陸したらそこが末盧国であり投馬国である訳だ
一月を一日に読み替えるのはご都合主義の捏造でしかない 821日本@名無史さん2019/08/01(木) 11:23:07.76
>>737
>これは、道の里(所要距離)と、道の遠近(所要時間)の2つを指しており、短縮して道里遠近と書かれている。
同じウソを何度も書くなって言ってるだろ!
道里遠近は戸数多少とセットなんだから、
「道里の遠近」と「戸数の多少」としか読めないんだよ
「道の里(所要距離)と、道の遠近(所要時間)の2つを指して」
恥ずかしいデタラメwwww 822日本@名無史さん2019/08/01(木) 11:23:46.67
>>819
書き方が不明確あいまいだから、解釈も幾通りかになるという意味だ。
その都度、都合の良い解釈に変更しようという魂胆ではないのかと、疑いの目で見られるな。 823日本@名無史さん2019/08/01(木) 11:26:34.37
>>743
>1プサンから末盧國(唐津と比定)まで230キロぐらい ・・・3千里
まずここで、3海峡の距離が異なることを足しこんでしまうことでごまかしている
姑息で卑怯なやり方だ
>3 2を1に転用
> 230キロ÷18.5キロ=12日
渡海と水行は別だと何度教えればいいんだ?
こういうインチキをいくら重ねても、意味のある論説にはならない 824日本@名無史さん2019/08/01(木) 11:30:47.83
>>751
>道里略載の7国と、其の余の21国との中間の扱いが、投馬国なのだよ。
これが既に間違い
投馬国も邪馬台国も戸数道里略載の国だ
>◎×式の二択は小中高時代の尻尾、社会人になれば中間のグレーゾーンの扱いも大事になる、
自女王國以北、其戶數道里可得略載。其餘旁國遠絕、不可得詳。の前後で
きっぱり分けられており、グレーゾーンなどない
>それが大人らしさ、陳寿らしさということだよ。
これが「理由は僕が思ったから」の典型
バカの所業ww
>榎の放射説は、しょっぱなの末盧国からの出発方向でトンデモ間違えている。
>東南陸行500里の伊都国は、佐賀川上付近に当たる。
そこに伊都国はない
いい加減に諦めろww 825日本@名無史さん2019/08/01(木) 11:31:44.23
>>812
>出発時点や途中からでは、
>伊都国が見えていないから、方位計測が出来ない。
出発地点から可也山が見えるだろ
可也山まで方位と距離の計測が出来る
伊都国から可也山が見えるだろ
可也山から方位と距離の計測が出来る
なので出発地点から伊都国まで
方位と距離の計測が出来る 826日本@名無史さん2019/08/01(木) 11:32:30.90
>>899
>>「道里の遠近」は里数の実数なの <
>残念ながら九章算術の均輸1にには、里数の実数なんて書いてないんだよww
「道里の遠近」を認めた時点で、折角お仲間に九州説がでっち上げた「道里と遠近は別」って
いう詭弁を認めないことになるwww<
だから、九章算術が、
「道の里」と書きながら、「日数」で書く、
というインチキをしてしまった、という事だ。 827日本@名無史さん2019/08/01(木) 11:33:29.10
>>756
どうしてそんなにバカなの?
>>北は大海が限界
>>正北は新羅と抵触
この記述は、倭国全体の地勢であって、都である邪馬台国の位置情報じゃないぞ?
>この箇所より、少なくとも邪馬台国は近畿では無いことが確定する。
近畿が倭国の中なんだから、何も問題ない
阿蘇山が倭国の中なのと同じこと 828日本@名無史さん2019/08/01(木) 11:34:18.78
>>822
どこが不明確あいまいだ?
具体的に言ってみろ
出来ないだろう
知能ないから 829日本@名無史さん2019/08/01(木) 11:42:58.27
>>763
本当に見苦しくて醜いな、やることなすことがw
>原文は、「道里遠近を行道日数で」数えた実例だ。 遠近抜かし畿内説。
原文は「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」
道里の遠近と戸数の多少を以って、衰これを出づを欲す
道里が近いか遠いか、戸数が多いか少ないかを、計算に使って
衰(比例配分の係数)を算出したい(算出しなさい)
というのが問題
戸数は戸の数、道里は日数で問題に与えてあり、その戸の数と日数を用いて、
戸数が多いか少ないか、道里が遠いか近いかを計算に反映するんだよ
『「道里遠近を行道日数で」数えた』んじゃなくて
『道里が行動日数で数えてあるのでそれで遠近を見る』んだよ 830日本@名無史さん2019/08/01(木) 11:43:37.12
>>822
>書き方が不明確あいまいだから、解釈も幾通りかになるという意味だ。
このように
具体的に何がどうだ、という話を避け避け避けて
不明瞭あいまいな書き方をしてるのは
おまえ一人なんだが
だからおまえは
その都度、都合の良い解釈に変更しようという魂胆だと
疑いの目で見られてるよ 831日本@名無史さん2019/08/01(木) 11:45:34.97
>>775
>古墳から出る鉄鏃に価値はない
でもその「価値はない」という理由は「僕がそう考えた」から、だよね?ww
卑弥呼の時代と、ホケノ山古墳、椿井大塚山古墳の時代は重なるよw 832日本@名無史さん2019/08/01(木) 11:47:47.94
>>907
>魏志倭人伝には投馬国は女王国より以北の国として書かれているww<
書かれていない。
投馬國は、女王國の入り口になる不彌國で萬二千余里がほぼ終わって、
それから南へ水行二十日の位置にある国だ、という説明であるから、
投馬國は、女王國の南方の、ほぼ南九州にある事になる。 833日本@名無史さん2019/08/01(木) 11:50:35.93
>>832
>書かれていない。
>投馬國は、女王國の入り口になる不彌國で萬二千余里がほぼ終わって、
それはトンデモ古田説が正しい、という前提だから
トンデモ古田説の論拠に使えない 834日本@名無史さん2019/08/01(木) 11:54:58.42
>>780
>距離を示す用例に日で数えるなどという読み方は誤読曲解の典型だよ。
邪馬台国の会のステイクホルダーさん、こんにちは
魏使さんたちは水行で一日にどれくらい進むか分からなかったから、
日数で記録したんだね
それから、九章算術のことを調べていたら、こんなのを見つけたよ
「文帝期の出土物とされる阜陽漢簡の断片の諸簡中、算術と関連があると考えられ
たものは、整理後『算術書』と仮名が与えられた。この中の一片に「□萬一千二百
戸行二旬各到輸所」(28号簡)と書されたものがあり、これが本題の「丁縣一萬
二千二百戸、行衟二十日、各到輸所」の文にほぼ対応する。」
『九章算術』訳注†稿(17) 大川俊隆
http://pal.las.osaka-sandai.ac.jp/~suanshu/articles/9Chapters17.pdf
行二旬が、行道二十日に当たるのだけれど、確かに旬で十日になる
陳寿が魏志倭人伝の撰述のときに参照した記録も旬で書いてあったから、十日単位なのかもね
木簡に記録するときには字数制限がきついから、字数節約のために旬を使ったのかも 835日本@名無史さん2019/08/01(木) 11:56:01.13
>>908
>狗邪「韓」国って書かれてるだろ?
倭国じゃないよww 韓伝の弁辰諸国に書かれている弁辰狗邪国のこと<
弁辰の地域の国々とはっきり書き分けてあるから、
狗邪部族の中で一部が弁辰地域にあり、
一部が倭地地域にあって、狗邪部族の「韓地域に向き合う地の国」として、
「狗邪韓」という国名呼称で呼ばれたもの。 836日本@名無史さん2019/08/01(木) 11:58:11.94
あれだろ(°▽°)
パルティア系商人らがイラン系って言われてんだろ
ソクド系商人らあれ黒人だでよ人種的にはな
なら弓月氏とかそっちの出やん
837日本@名無史さん2019/08/01(木) 11:58:47.22
ユダヤユダヤってらやつらは隔離しとくべ
838日本@名無史さん2019/08/01(木) 12:15:08.81
839日本@名無史さん2019/08/01(木) 12:16:29.97
>>827
>近畿が倭国の中なんだから、何も問題ない
?
循環論法? 840日本@名無史さん2019/08/01(木) 12:27:06.56
>>839
いいえ
根拠に還流しないので論理として問題ない 841日本@名無史さん2019/08/01(木) 12:30:04.30
>>837
>ああ言えばこう言うキナイコシ
最近「キナイコシ」を使うこういう短文コメが増えてるけど、誰?
佐賀川上バカは違うし
「キナイコシ」を使うのはバカ、ってのが定着してるのに、
それでもうれしそうに使うのはキウスと連続句読点くらいなんだが、
ちょっと雰囲気が違うんだよな 誰だろう 842日本@名無史さん2019/08/01(木) 12:30:25.05
>>838
九州のウソが暴かれたので
罵って誤魔化す貴方
それ、醜態だから 843日本@名無史さん2019/08/01(木) 12:34:40.65
>>830
反論が空回りしてるぞ。
伊都国は、末盧国東南500里の佐賀川上だったと書くと、桜井のバイトが入れ食い!! 844日本@名無史さん2019/08/01(木) 12:38:01.32
>>843
>伊都国は、末盧国東南500里の佐賀川上だった
事実を書いてるだけ
「そんなところに伊都国はなかった」w 845日本@名無史さん2019/08/01(木) 12:44:05.10
>>838
>>>>>里数の実数は○○里である。それが日数○○日だというのは、「実数」という文字・言葉の意味が混乱しているのではないか。
>>>>里数の実数が日数○○日だとか
>>>>誰も言ってない
>>>>九州説はまた捏造?
>>>自ら、「道里遠近」が「道里」の実数のことであるといい、その道里遠近は行道の日数で表すと、これまで大声で叫んできたではないか。
>>>前レス前スレのカキコはもう忘れたのか。
>>だから
>>里数の実数が日数○○日だとか
>>誰も言ってない
>ああ言えばこう言うキナイコシ
明らかに九州説が嘘ついてて異常なんですけど 846日本@名無史さん2019/08/01(木) 12:57:18.25
嘘ついてんじゃなくて知能ないだけだろう九州説
847日本@名無史さん2019/08/01(木) 12:59:18.10
>>845
>明らかに九州説が嘘ついてて異常なんですけど
異常ではない
今どき九州説をやるには、
「議論に勝つためにはウソをいってもいい」
「勝ったものが正しいのだから、ウソをついても勝てば正しいことになる」
という、どこぞの価値観を身に着けてないとやってられないんだよ
だから、九州説はうそをつく
でも、それが九州説にとっては正常なんだよ 848日本@名無史さん2019/08/01(木) 13:00:55.74
849日本@名無史さん2019/08/01(木) 13:12:48.66
佐賀川上は卑弥呼の都ではなく、壹與の都だろうな。
850日本@名無史さん2019/08/01(木) 13:18:58.28
ほら、九州説は理由を言わない
いかなる時も理由を言わない
851日本@名無史さん2019/08/01(木) 13:40:00.91
九州説はなぜか、俺の説(九州説)が正しいから畿内説は間違いだって論理を使う
これでは畿内説に勝つのは原理的に無理なのだ
畿内説側は、九州説が客観的事実と違うとか、自己矛盾するとかいう視点から反論する
だから、九州説の人がよく「対案を出せ」とか言う意味がわからない
852日本@名無史さん2019/08/01(木) 13:47:08.52
>>849
>佐賀川上は卑弥呼の都ではなく、壹與の都だろうな。
こちらは繰り返し事実を書くだけ
「そんなところに伊都国はなかった」w 853日本@名無史さん2019/08/01(木) 14:43:00.76
>>817
>「弁辰狗邪」とわざわざ区別してあるから、倭人の国。
弁辰狗邪などという固有名詞があるとか思っていないよな?
国名としてはあくまで「狗邪」国だ
韓伝では辰韓、弁辰が合わせて24国並べて書かれているので、
弁辰諸国を区別するために弁辰狗邪国などという書き方になっているんだよ
狗邪韓国も同様
あくまで国名は「狗邪」国
それを倭人伝内に書く時に、これが韓の国であることを示すために
狗邪韓国という表記になってる 854日本@名無史さん2019/08/01(木) 14:50:38.81
>>823
>>1プサンから末盧國(唐津と比定)まで230キロぐらい ・・・3千里
>>まずここで、3海峡の距離が異なることを足しこんでしまうことでごまかしている
姑息で卑怯なやり方だ <<
別に300キロで 計算しても2万里近くなる
> 渡海と水行は別だと何度教えればいいんだ?<
じゃー1日に進む距離はどれほど違うの? 855日本@名無史さん2019/08/01(木) 14:59:12.72
730日本
>車などの乗り物ならいざ知らず
歩く速度は大体一定で古代中国では1日60里とされていた
ゆえに陸行1日とあればそれを里にすぐ換算できるのであーる<
課題1
それは、平均値でしょ、九州算術1では平均速度では記述してないでしょ
なぜなら、甲、乙、丙、丁、の国に行く道のりがすべてが平坦な地、登り道、下り道など同一でないから
だから日数(労働日数)で賦役の配分を考えているのだよ
課題2
FAQ78は水行に言及してるのですよ
856日本@名無史さん2019/08/01(木) 15:08:19.86
857日本@名無史さん2019/08/01(木) 15:18:48.51
>>730
>歩く速度は大体一定で古代中国では1日60里とされていた<
これ、何処からの引用? 858日本@名無史さん2019/08/01(木) 15:21:02.27
>>851
悔しそうだね 中身が何もない中傷に走るとはねーー 859日本@名無史さん2019/08/01(木) 15:23:06.55
また、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の、頭が悪すぎる奥山氏が、論破されているな、、、
860日本@名無史さん2019/08/01(木) 15:23:27.96
僕達が笑いリラックスするためにアプローチしている、このレベルの低い、5ちゃんねるのサクラのプロ固定が作製したスレッドとは全く異次元の、 たくさんの分野のレベルの高い学者達が集う、
魏志倭人伝時代の真実について、僕達か僕達の論敵のどちらの頭がカラフルになるかを賭けて、
お互いに、不敵な笑みを浮かべながら、 闘っている討論会では、
破綻した非科学的な唯物論や破綻した非科学的な要素還元主義を、お互いに掲げることなしに、正々堂々の討論を闘っているので、
魏志倭人伝に全く記録はされていない土器や時代の異なる前方後円墳ではなく、
鉄鏃や、人民の住居や、ベンガラや、方角や、距離や、夏の時代の考古学的に判明している会稽の位置や、魏志倭人伝時代の倭人の太い骨や、
萬二千里の事で奥山氏も頼みにしている淮南子を規定している一寸千里の法を材料にして、討論が進行し、
卑弥呼の城が日本の何処にあったかの討論から、卑弥呼の城が九州の何処にあったかの討論に、話題が移り変わってきたのだったな。。。
861日本@名無史さん2019/08/01(木) 15:24:54.65
>>854
>じゃー1日に進む距離はどれほど違うの?
渡海は何十日も風待ち潮待ちをしてベスト渡航日を選び、一気に半日で6、70kmを進むよ
それを1日にというのは正しくない 862日本@名無史さん2019/08/01(木) 15:25:04.70
>>859
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の、頭が悪すぎる奥山氏が、論破され、反論できなくなり、
中身が何もない中傷に走ったのではないのかな、、、 863日本@名無史さん2019/08/01(木) 15:26:27.45
864日本@名無史さん2019/08/01(木) 15:29:39.05
奥山氏の脳は、中身があるのだろうか、、、
それとも、空っぽなのだろうか。。。
865日本@名無史さん2019/08/01(木) 15:30:35.68
3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://2chb.net/r/history/1556294803/303 866日本@名無史さん2019/08/01(木) 15:31:06.90
>>855
>それは、平均値でしょ、九州算術1では平均速度では記述してないでしょ
行道日数を道里として記載しているよ
>FAQ78は水行に言及してるのですよ
だから?
また結論が無いの?
九州説は論理が無いなあ 867日本@名無史さん2019/08/01(木) 15:31:12.94
342日本@名無史さん2019/04/28(日) 10:52:03.18
バカのために、現実との対応の取りやすい例示で説明してやるよ
箱がたくさんあって、たくさんの箱の中である条件を満たす箱を考える
ある条件を満たす箱を今、 「特定の十個の箱」と呼ぶことにする
この「特定の十個の箱」がたくさんの箱の中のどれなのかは分からない
この時
赤の玉が箱に入っていることがあるが、赤の玉のうち75%が「特定の10個の箱」に入っている
青の玉が箱に入っていることがあるが、青の玉のうち75%が「特定の10個の箱」に入っている
緑の玉が箱に入っていることがあるが、緑の玉のうち75%が「特定の10個の箱」に入っている
赤、青、緑の玉がどの箱に入っているかは独立である
この時、ある一つの箱に「赤、青、緑」の玉がすべて入っていたら、
その箱が「特定の10個の箱」ではない確率は1.56%で
「特定の10個の箱」のうちの一つである確率は98.4%になる
この多数の「箱」が「遺跡」、「特定の10個の箱」が「邪馬台国の範囲にある遺跡」と
読みかえればイメージが湧くだろ
ここでは「特定の10個の箱」としたが、実際には「邪馬台国の範囲にある遺跡」はもっと多い
そして、ベイジアンで説明してくれている人がいるが、
『赤の玉が75%が「特定の10個の箱」入っていること』は、
『「特定の10個の箱」の75%に赤の玉が入っていること』を意味しない、
つまり、「特定の10個の箱」が赤の玉を含まない確率は未知なのでベイジアンは適応できないよ
ここまで説明しても、論理的思考ができない九州説連中には理解できないんだろうがね
868日本@名無史さん2019/08/01(木) 15:33:53.96
FAQ78のことは、奥山氏以外の者が、邪馬台国や投馬国がどこかということとは別に、九章算術の行道日数が道里を表してはいないと認識するのだから、
奥山氏がどんなに力説しても、奥山氏の言語脳が、他の者の言語脳とは違っているということがバレてしまうだけの結果になるな。。。
866日本@名無史さん2019/08/01(木) 15:31:06.90
>>855
>それは、平均値でしょ、九州算術1では平均速度では記述してないでしょ
行道日数を道里として記載しているよ 869日本@名無史さん2019/08/01(木) 15:35:53.72
>>864
奥山氏の頭の中には、あまり、出来映えが良くない脳が、あるのではないのかな、、、 870日本@名無史さん2019/08/01(木) 15:38:19.91
奥山氏は、僕達以外にも、意識的に連続句読点を使用している者が複数いることが判らないので、
面白いのではないのかな、、、
871日本@名無史さん2019/08/01(木) 15:38:56.74
>>858
いや、>>851を理解できないで中傷だとか誤解してしまうようだから、いつまでも畿内説に歯が立たないのではないかな 872日本@名無史さん2019/08/01(木) 15:40:23.41
>>854
>じゃー1日に進む距離はどれほど違うの?
渡海は、行き着かなかったら遭難して死ぬだけだから、
1日だけ無理して何とか届く距離まで行く
半島と対馬の間の最短距離で50キロ弱くらい
逆に、多少近くても遠くても、1日で渡る距離を実距離と関わりなく千余里としている
水行はいつでも岸に寄せられるし、無理のない範囲で進めばよい
この推定だと、一日20キロ程度だな
873日本@名無史さん2019/08/01(木) 15:40:31.50
奥山氏とBBAは、お互いに、知り合いなのだろうか、、、
874日本@名無史さん2019/08/01(木) 15:42:11.70
キナイコシは
九章算術の
日数=労働日数
これをまず理解しないといけない
875日本@名無史さん2019/08/01(木) 15:42:43.20
マッチョな倭人は、一日で、100キロメートル進めるのだったな。。
876日本@名無史さん2019/08/01(木) 15:43:17.01
>>857
>これ、何処からの引用?
おなじみの九章算術均輸にも
重車日行五十里、 空車日行七十里とあるね
まあ、この辺が大陸中華の人にとって常識なんだろう 877日本@名無史さん2019/08/01(木) 15:43:52.78
邪馬台国畿内説が追い詰められましたね。。。
878日本@名無史さん2019/08/01(木) 15:46:02.34
879日本@名無史さん2019/08/01(木) 15:46:15.00
>>855
>課題1
>それは、平均値でしょ、九州算術1では平均速度では記述してないでしょ
だって、衰を計算するのに必要なのは道里であって里数じゃないからwww
これが分からない時点で、「>>855はバカです」と自分で主張しているだけ
>課題2
>FAQ78は水行に言及してるのですよ
いいえ、道里が日数で書かれるのも標準的な書法だと言及しているのですよww
これが分からない時点で、「>>855はバカです」と自分で主張しているだけ
いい加減無理筋の話題そらし、論点ずらしは止めたら?
まともな日本人なら、そんな惨めなことはしないよ?ww 880日本@名無史さん2019/08/01(木) 15:48:12.64
>>858
>悔しそうだね 中身が何もない中傷に走るとはねーー
なら、どのように中身がない中傷なのか、具体的に書けばいいのにねー
ネー(*´・д・)(・д・`*)ネー 881日本@名無史さん2019/08/01(木) 15:50:52.42
>>874
>キナイコシは
>九章算術の
>日数=労働日数
まだ話題そらし、論点ずらしをするんだねww
行道日数は、「道里」として記されている
これが事実だよww 882日本@名無史さん2019/08/01(木) 15:54:57.34
>>872
時間(日数)=距離×速度( /1日)だよね
九章算術 均輸の設問1では日数表記してあるから
距離とか速度は関係ないですよね 883日本@名無史さん2019/08/01(木) 16:01:13.42
>>872
時速20キロなんて
結論に合わせて逆算しただけじゃん
文献とかが必用でしょうが、船の性能もわからんしww 884日本@名無史さん2019/08/01(木) 16:10:09.75
>>861
賛同
日数から速度は算出できない
よって日数から距離も算出できない
九章算術の日数は勤務日数だから、足止めを食おうが無かろうが勤務日数として計算 885日本@名無史さん2019/08/01(木) 16:17:27.98
>>882
>距離とか速度は関係ないですよね
速度は関係ないけど、「道里」は関係あるよ?
すぐに話をずらしてごまかそうとするww 886日本@名無史さん2019/08/01(木) 16:19:23.25
>>884
>よって日数から距離も算出できない
懲りないなぁww
距離はいらないんだよ
必要なのは「道里」で、それが行道日数で書いてある
魏志倭人伝の道里略載も同じこと
道里が里数または日数で書いてあるから、それでいいんだよ 887日本@名無史さん2019/08/01(木) 16:23:26.91
>>884
九章算術均輸は賦役の配分だから
勤務日数でもいいが、労働者の食糧の配分が日数に反映されている
休んでいる間も飯は食うから 888日本@名無史さん2019/08/01(木) 16:28:50.03
>>883
>時速20キロなんて
>結論に合わせて逆算しただけじゃん
残念でしたww
逆算じゃないよ
水行20日 福岡から出雲平野までが約300キロ 妻木晩田遺跡辺りまでだと370キロ
水行10日 妻木晩田遺跡から竹野までが約150キロ
これで、一日20キロで計算すると
出雲までが18.5日
丹波上陸までが、7.5日だな
10日単位、旬で丸めると、20日と10日になる
距離から逆算すると、18.5キロと15キロだ
一日20キロというのは、歩く速さより少し速い時速5キロで
昼前2時間、午後2時間の計4時間進むという計算
時速5キロで、2.7ノットくらいだからかなりのんびりだ
公園の手漕ぎボートでも5ノットくらいは出るからね 889日本@名無史さん2019/08/01(木) 16:30:21.95
>>887
それが道里って書いてあるんだから
「道里は日数で表現できる」というのが事実ww 890日本@名無史さん2019/08/01(木) 16:34:44.67
891日本@名無史さん2019/08/01(木) 16:37:18.29
892日本@名無史さん2019/08/01(木) 16:37:19.11
>>730
>車などの乗り物ならいざ知らず <
舩は乗り物にしていいの? 893日本@名無史さん2019/08/01(木) 16:37:30.06
894日本@名無史さん2019/08/01(木) 16:38:17.54
895日本@名無史さん2019/08/01(木) 16:38:57.41
だが「道里」遠近で計算するための数値として「行道日数」だけが記されている
「道里」が「日数」で示されている
これが事実だよ
想像でも憶測でも、解読でもない
事実だ
896日本@名無史さん2019/08/01(木) 16:40:58.45
>>834
日は宿泊数を意味する単位として使用されている 897日本@名無史さん2019/08/01(木) 16:41:36.87
>>894
>時代が重なってればなおさら価値はない
なぜ?
魏志倭人伝は卑弥呼の時代の倭国の様子が書いてあって、鉄鏃があると書かれている
そして、卑弥呼の時代と重なる=まさに卑弥呼の時代のホケノ山古墳、椿井大塚山古墳で
大量に鉄鏃が出る
「価値がない」って言いたかっただけだろ?ww
理由は「僕がそう考えたから」ww 898日本@名無史さん2019/08/01(木) 16:44:49.06
>>879
道里であって里数でない
の
日本語がおかしいから意味が通らない 899日本@名無史さん2019/08/01(木) 16:44:54.45
>>896
>日は宿泊数を意味する単位として使用されている
均輸の輸は、輸送の輸、運輸の輸
宿泊しようがなんだろうが、粟を運ぶ道里として、行道日数が書かれている
道里を使って計算する問題で、道里として使う数字が行道日数で示されている
道里は日数で示すことができる
これは想像でも憶測でも、解読でもなく事実だ
事実
「道里は日数で示すことができる」 900日本@名無史さん2019/08/01(木) 16:45:58.79
>>866
.>>FAQ78は水行に言及してるのですよ
だから?
また結論が無いの?
九州説は論理が無いなあ
>>>>
意味不明 誰に言ってるの? 901日本@名無史さん2019/08/01(木) 16:46:15.63
>>898
道里であって里数ではない
これでいいか?
何も変わらないぞww 902日本@名無史さん2019/08/01(木) 16:46:41.68
903日本@名無史さん2019/08/01(木) 16:48:14.55
>>897
古墳に埋葬された鏃をどうやって魏使がみたつもりなのか?
バカ? 904日本@名無史さん2019/08/01(木) 16:50:07.20
>>900
>意味不明 誰に言ってるの?
おまえ白雉?
安価ついてる相手に言ってるのが分からないなら、そうだよな 905日本@名無史さん2019/08/01(木) 16:54:57.32
>>898
>>>879
>道里であって里数でない
>の
>日本語がおかしいから意味が通らない
>>879の原文は
「だって、衰を計算するのに必要なのは道里であって里数じゃないからwww 」
「里数でない」ってどこに書いてある?
「里数『じゃ』ない」の『じゃ』は「では」の口語表現だぞ?
日本語が不自由な人なのかな? 906日本@名無史さん2019/08/01(木) 16:57:00.07
>>903
>古墳に埋葬された鏃をどうやって魏使がみたつもりなのか?
あのさぁ、卑弥呼と同時代に古墳の埋葬施設にあったものは、
古墳の外には一切なかったって言いたいのか?
どこまでバカなの?
古墳が作られた時期が卑弥呼の時代だぞ?
卑弥呼の時代に畿内に鉄鏃が潤沢にあったってことだよww 907日本@名無史さん2019/08/01(木) 16:58:53.14
>>906
お前もう自分で何言ってるか分かってないだろwww
思考停止www 908日本@名無史さん2019/08/01(木) 17:00:09.21
>>902
>またまた
>ww次の展開は停泊だろww
草生やしてごまかしているが、>>883の「結論に合わせて逆算しただけじゃん」が
デタラメ・ごまかしで、適当こいてましたってまず認めなよ
本当に、九州説は謝ったら負けの腐れ儒教で生きてるから
傍から見て惨めな生き物にしか見えない 909日本@名無史さん2019/08/01(木) 17:00:17.51
910日本@名無史さん2019/08/01(木) 17:01:44.89
>>907
>>907さんはひょっとして、近畿パーさんなのかな?
頭の悪さがちょうどそんな感じだとお見受けするのだけれど?
日本語、分かりますか? 911日本@名無史さん2019/08/01(木) 17:05:29.83
>>910
お前が子供じみた妄想を展開してるだけにしか見えんぞw
被害妄想まで宿ったかw 912日本@名無史さん2019/08/01(木) 17:07:03.63
畿内説だと東の海を渡り千余里にある倭種の国は東海または静岡だよな。
その距離が一日航海の距離なら、博多湾から水行30日で青森県より先へ行けるよな。
913日本@名無史さん2019/08/01(木) 17:09:23.18
>>914
大和説者が、「南≠東」などに関して、
こういう根拠も理由も一言もない、単語レベルの返信しかできなくなったら、
それはもう意味のある反論はできませんってことだな。 914日本@名無史さん2019/08/01(木) 17:09:31.58
>>899
✖
均輸設問2に里数が書かれてなく
日数がかかれている意味が分かっていない
里数が無くても計算できてるでしょ
設問4は里数を載せてるでしょ、なぜなら速度も載せてるから
計算式が成り立つ
再度
大阪産業大学の大川俊隆さんも
「九章算術では漢文として不適切な文言もあるが、算術書ゆえ計算に影響が無いので致命的でない」
だから訳で道里や行道を移動としている
http://pal.las.osaka-sandai.ac.jp/~suanshu/を見てください
表示できないなら「中国古算書研究会」で検索してください 915日本@名無史さん2019/08/01(木) 17:09:58.17
とにかく、ホケノ山古墳、椿井大塚山古墳、は卑弥呼の時代と重なるし、その直後の
下池山古墳も合わせると
ホケノ山 畿内 3世紀中葉
鉄鏃 約60本
素環頭大刀 1口
鉄製刀剣類 10口
椿井大塚山古墳 畿内 3世後葉
鉄刀7本以上、鉄剣十数本以上、鉄矛7本以上、鉄鏃約200本、
銅鏃17本、鉄製甲冑1領、鉄鎌3本、鉄斧10個、鉄刀17本、
鉄製ヤリカンナ7本以上、鉄錐8本以上、鉄ノミ3本以上、
鉄銛十数本、鉄ヤス数本、鉄製釣針1本
その他鉄製冠ではないかと疑われる鉄製品が出ている
黒塚古墳 畿内 3世紀後半
刀剣類27口以上、鉄鏃170本以上、小札、U字形鉄製品
てな感じで、鉄器の量は九州優位なんてのは軽く吹っ飛ぶ訳だww
916日本@名無史さん2019/08/01(木) 17:12:53.81
>>919
「南→東」まどの嘘つき騙しの大和説は
お花畑の脳内妄想を
論証抜きで正しいと思い込むことで成り立っている 917日本@名無史さん2019/08/01(木) 17:13:23.54
>>914
>だから訳で道里や行道を移動としている
それ、日本語に訳すときの話でしょ?
当時の中華の人は、九章算術で算術に使う用語を覚えるところがある訳だから、
九章算術に道里が行道日数で書いてあるってことは、それが当時のスタンダードなんだよ
どうあがいても無駄ww
道里を使って計算する問題で、道里として使う数字が行道日数で示されている
道里は日数で示すことができる
これは想像でも憶測でも、解読でもなく事実だ
事実
「道里は日数で示すことができる」 918日本@名無史さん2019/08/01(木) 17:14:53.21
919日本@名無史さん2019/08/01(木) 17:19:16.06
>>915
「畿内中の鉄を古墳に詰め込んだので遺跡からは鉄が出土しないのだ!」という名言が出てきそうだなw
アマゾンの評価がコメント数が100だったら何人が購入したと見積もれるのか?
妄想しか出来ない畿内説には意味わからんだろw 920日本@名無史さん2019/08/01(木) 17:23:04.63
>>917
算術書ですから・・・
重要なのは数字(日数、里数、戸数・・・)
均輸で里数は重要では無い
だから
「九章算術では漢文として不適切な文言もあるが、算術書ゆえ計算に影響が無いので致命的でない」 921日本@名無史さん2019/08/01(木) 17:24:39.56
>>920
もう、理由も理屈もなくただの無限ループじゃんww
道里を使って計算する問題で、道里として使う数字が行道日数で示されている
道里は日数で示すことができる
これは想像でも憶測でも、解読でもなく事実だ
事実
「道里は日数で示すことができる」
事実には勝てないよww 922日本@名無史さん2019/08/01(木) 17:24:40.78
>>325
>それに倭国大乱を2世紀末とするなら甕棺墓が廃れるのは倭国大乱より古い<
倭国大乱なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
甕棺は、
卑弥呼の冢の3世紀前半末の祇園山の殉葬墓の中の3つに甕棺が使われていた。
>そして、平原1号墓は卑弥呼の生前に作られたローカル首長のしょぼい墓ww
舶載鏡もほとんどないし、成人男子が10人もいれば1週間で作れる墓だ
魏晋鏡が一枚もないのは致命的w<
平原の21枚の「尚方作」の方格規矩鏡は、その寸法からも、
明帝が下賜された魏鏡だ。 923日本@名無史さん2019/08/01(木) 17:27:34.63
>>919が妄想癖のありそうな人だというのが分かった
このスレには新参なんだろ?
この言葉を送るよ
根拠は僕がそう思ったから
編年研究は信じない
文献解釈はアクロバット
考古遺物は弥生全期間で見るが弥生終末期限定のものは見ないww 924日本@名無史さん2019/08/01(木) 17:28:11.59
九章算術にかかわった劉徽は数学者である
925日本@名無史さん2019/08/01(木) 17:28:41.87
>>914
で?
何が言いたいたわけ?
論理的にどうぞ 926日本@名無史さん2019/08/01(木) 17:33:06.14
まあ「水行二十日」が「道里」だと
九州説が滅亡するんだから
発狂もするさ
927日本@名無史さん2019/08/01(木) 17:34:19.15
>>917
道里(里数)ではない。
遠近という時間の要素を加えた行道日数(移動日数)として示されているといっているではないか
いつまでも道里=日数で必死になるのも良いが、、
そうすると「自女王国以北戸数道里可得略載」の部分が無意味となり、読者から削除の判断を下されてもやむを得ないこととなる 928日本@名無史さん2019/08/01(木) 17:39:22.96
>>923
今度は現実逃避かw
畿内説は行動パターンが単純でわかりやすいなw 929日本@名無史さん2019/08/01(木) 17:40:21.30
>>927
>・・・といっているではないか
理由もなく言ってもダメでしょ
>そうすると「自女王国以北戸数道里可得略載」の部分が無意味となり、読者から削除の判断を下されてもやむを得ないこととなる
無意味となる理由なんか無いし
変な読者がそんな変な判断しても、倭人伝に書いてある事実は変わらないし、学問的価値も変わらない 930日本@名無史さん2019/08/01(木) 17:42:19.23
>>923
>考古遺物は弥生全期間で見る
まさに纏向型畿内説だなw
纏向出土の考古遺物のほとんどが卑弥呼の時代とは無関係という事実をひた隠しにしてるんだよなw 931日本@名無史さん2019/08/01(木) 17:42:22.52
>>928
古墳出土の鉄器を見ようとしない九州説が
現実逃避してるのでは? 932日本@名無史さん2019/08/01(木) 17:44:07.22
>>930
あなた、考古学者と違うこと言ってますね 933日本@名無史さん2019/08/01(木) 17:44:26.08
>>917
里と日は同じというのは思い入れが過ぎる
道里と行道日数は同義ではない
かたや「里」、こなた「日」であることからも明白である
>>926
まあ「水行二十日」が「道里」だと、
「自女王国以北戸数道里可得略載」の部分が無意味となり、滅亡するのは畿内説ww 934日本@名無史さん2019/08/01(木) 17:45:06.26
確か畿内説が提示した考古遺物で卑弥呼の時代にマッチしたと紹介さらたのは・・・
桃の種だけだよなwww
935日本@名無史さん2019/08/01(木) 17:47:38.44
>>919
もと歴博の館長もやった佐原真いわく、
「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていないのだ」
の派生かw 936日本@名無史さん2019/08/01(木) 17:48:27.91
>>933
>里と日は同じというのは思い入れが過ぎる
里と日が同じと言った人はいませんが?
>道里と行道日数は同義ではない
道里と行道日数が同じと言った人はいませんが?
あなた、誰と戦っているの? 937日本@名無史さん2019/08/01(木) 17:49:04.49
>>934
近々カエルの骨が追加される予定w
ただいま測定中w 938日本@名無史さん2019/08/01(木) 17:49:40.63
>>934
もちろん、素人さんがそんなことを言っても認めてくれる考古学者はいない 939日本@名無史さん2019/08/01(木) 17:51:54.39
>>906
>卑弥呼の時代に畿内に鉄鏃が潤沢にあったってことだよww
呆れた妄想w 940日本@名無史さん2019/08/01(木) 17:52:28.11
畿内説だと東の海を渡り千余里にある倭種の国は東海または静岡だよな。
その距離が一日航海の距離なら、博多湾から水行30日で青森県より先へ行けるよな。
昔から、畿内説は破綻しているので、現代では、僕たちのオモチャでしか、ないのだな。。。
941日本@名無史さん2019/08/01(木) 17:55:57.57
>>933
>まあ「水行二十日」が「道里」だと、
>「自女王国以北戸数道里可得略載」の部分が無意味となり、
無意味となる理由がないが?
>滅亡するのは畿内説ww
畿内説が滅亡する理由もない 942日本@名無史さん2019/08/01(木) 17:57:41.35
>>940
>その距離が一日航海の距離なら、
その距離が一日航海の距離だという理由は? 943日本@名無史さん2019/08/01(木) 18:02:47.51
>>942
お前=奥山がよく言ってただろw
認知症まで発症したのかw 944日本@名無史さん2019/08/01(木) 18:05:35.10
945日本@名無史さん2019/08/01(木) 18:06:35.49
畿内説:短里は無い
↓
九州説:じゃあ対馬→壱岐の千余里をどう解釈するのか?
↓
畿内説:渡海千余里というのは一日航海で渡れるという意味だ
www
946日本@名無史さん2019/08/01(木) 18:07:19.76
947日本@名無史さん2019/08/01(木) 18:11:21.01
キナイコシはその場限りの言いつくろいが多いからな。
948日本@名無史さん2019/08/01(木) 18:17:48.48
>>945
つまり
渡海したと書いてある距離は
実際の距離と関係ない過大な数字だという意味だろ
ならばその比率を
渡海でもないケースに適用して
「その距離が一日航海の距離なら、
博多湾から水行30日で青森県より先へ行ける」
という結論が出ることはない
九州説はきつも極めて非論理的な主張をするな 949日本@名無史さん2019/08/01(木) 18:20:28.10
複数の人の発言を一人のものと妄想するから
>>947のように言動が異常になる 950日本@名無史さん2019/08/01(木) 18:22:57.55
>>948
>「その距離が一日航海の距離なら、
> 博多湾から水行30日で青森県より先へ行ける」
>という結論が出ることはない
1日の進む距離を千里としたなら、概ね概算はできるけど? 951日本@名無史さん2019/08/01(木) 18:23:17.67
ああ言えばこう言うキナイコシw
952日本@名無史さん2019/08/01(木) 18:26:50.95
953日本@名無史さん2019/08/01(木) 18:27:02.55
未だに「論理」の意味が分からない奥山氏www
954キウス ◆PyuQX798ps 2019/08/01(木) 18:28:23.93
>>1 奥山君
FAQ78は
なにを質問してるのかな?放射説?
Q:1)投馬国までは「水行二十日」だ!
2)里数が書いてないではないか!
3)つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
4)投馬国は南九州でよいのだ!
1)その通り
2)その通りだが水行で距離(里数)は進んだ・・これは誰も否定しないから回答不要
3)に回答するには 南(東でもいいや) 南(東でもいいや)へ進んだのだから「女王国以北(以西でもいいや)」で済む
九章算術を持ち出す必要ないじゃん 水行でも距離は進んでるのは確かだし
放射を否定するならQと関係ないし
4)は九章算術と関係ないし
Qは>>1 奥山君が作成意図がなになの?
955日本@名無史さん2019/08/01(木) 18:28:46.47
支離滅裂www
956日本@名無史さん2019/08/01(木) 18:28:48.20
957日本@名無史さん2019/08/01(木) 18:30:23.54
958日本@名無史さん2019/08/01(木) 18:30:44.19
>>965
「南→東」などの嘘付き騙しのように、
証拠をまったく出さずに決めつけるのが
大和説の常だ 959日本@名無史さん2019/08/01(木) 18:31:49.62
>>954
もうちょっと日本語を練った方がいいぞ
それでは他人に通じない 960日本@名無史さん2019/08/01(木) 18:33:21.66
>>967
「南→東」などの嘘付き騙しをしている大和説者が、
悪口にこんな言葉を選べるなんて
どれほど心が醜悪なのかと思うと
嫌悪感で鳥肌が立つよ 961日本@名無史さん2019/08/01(木) 18:38:38.42
最近は奥山のような非論理人間が問題視されてるからさ、ロジカルシンキングの講習が流行ったり、
子供にプログラミングを教えるような対策が始まってるよ。
今の時代、精神論で物事を組み立てるような奴は化石だw
962日本@名無史さん2019/08/01(木) 18:42:00.70
>>968
>>(倭王武が)宋皇帝への上表文で「道」と書けば、原則は「陸の道」を意図する。<
>では、つい昨夜 >海上であろうと、「道」として使われておれば「道」であり、
とか言っていたのは真っ赤なウソか?<
「循海岸水行」や「3か所の渡海」は、
「水行」であって「陸行の道」ではないが、
常時の往来路として使われておれば、「道」として認識されていた可能性はある、
という意味だ。
大和説者は、無定見なその場凌ぎの言葉尻曲解の嘘つき騙しばかりだ 。
じつに・・・・アホ詐欺師らしいな。 963日本@名無史さん2019/08/01(木) 18:44:08.29
>>962
ふうん
九州説は
その場その場でコロコロ言うことが変わるんですね 964日本@名無史さん2019/08/01(木) 18:47:08.64
>>927
>道里(里数)ではない。
「道里(里数)」が既におかしい、というかこれがインチキの本
「道里≠里数」だ
この根本をごまかすから、九州説は姑息で卑劣といわれる
>遠近という時間の要素を加えた行道日数(移動日数)として示されているといっているではないか
これまでの主張と矛盾している、おかしいと思わないのかい?
時間の要素が「遠近」ってことはないだろ?
時間なら「長短」あるいは「早晩」だ
遠近は「道里」に対する形容であり、その道里が行道日数で書かれているだけ
道里を使って計算する問題で、道里として使う数字が行道日数で示されている
道里は日数で示すことができる
これは想像でも憶測でも、解読でもなく事実だ
事実
「道里は日数で示すことができる」
事実には勝てないよww 965日本@名無史さん2019/08/01(木) 18:47:25.56
>>973
>だからさー そうやって恣意的に「原則」を制定しちゃって 他人に強要したがる人こそが
「何らかの思想宗教に狂ったり、タカ派の唯我独尊思考に狂ったり、
・・・・ 犯罪を肯定する人種」 の典型じゃないの?<
「南→東」などの嘘付き騙しのように、
人類の文字の意味に関する常識を否定曲解する人種が、大和説者の方だ。 966日本@名無史さん2019/08/01(木) 18:50:57.41
>>975
大和説者や、文部省や右翼学会教育界学者やマスコミや、
キョクヘイトスピーチキョクウは
思考統制で恐怖政治する秘密警察の手先とか
神の正義とか言って拷問する異端審問官の手下とか
そういうタイプそのもの、だね 967日本@名無史さん2019/08/01(木) 18:50:58.63
>>933
>里と日は同じというのは思い入れが過ぎる
また、捏造して論点ずらしをしている
「里と日は同じ」などと言っている畿内説は一人もいない
「九州説の話題そらしの表現」でしか出てこない
>道里と行道日数は同義ではない
当たり前
道里は概念、35里はその実数であり、10日も道里を示す実数
>かたや「里」、こなた「日」であることからも明白である
当たり前
里でも日でも「道里は示せる」というだけ
道里を使って計算する問題で、道里として使う数字が行道日数で示されている
道里は日数で示すことができる
これは想像でも憶測でも、解読でもなく事実だ
事実
「道里は日数で示すことができる」
事実には勝てないよww 968日本@名無史さん2019/08/01(木) 18:52:15.51
>>939
>呆れた妄想w
「具体的な根拠」なしの反論はバカにされるだけだよ?
九州説は総じて無能ww 969日本@名無史さん2019/08/01(木) 18:54:18.32
>>962
>「循海岸水行」や「3か所の渡海」は、
>「水行」であって「陸行の道」ではないが、
>常時の往来路として使われておれば、「道」として認識されていた可能性はある、
>という意味だ。
ならば(倭王武が)宋皇帝への上表文で
「道」と書いたのが「循海岸水行」のルートの話
である場合があるのだから
「韓地陸行」の根拠になんてならないこと
わかりますね? 970日本@名無史さん2019/08/01(木) 18:54:39.60
>>940
連続句読点に言うだけ無駄なんだが、一応
>その距離が一日航海の距離なら、
渡海と水行をごっちゃにした議論は無意味
>>823以下でこのスレでも既出 971日本@名無史さん2019/08/01(木) 18:57:19.21
>>950
>1日の進む距離を千里としたなら、概ね概算はできるけど?
渡海と水行をごっちゃにするな、定期
渡海と水行は概念も記述上も別のもの
このスレでも既出
>>872
渡海は、行き着かなかったら遭難して死ぬだけだから、
1日だけ無理して何とか届く距離まで行く
半島と対馬の間の最短距離で50キロ弱くらい
逆に、多少近くても遠くても、1日で渡る距離を実距離と関わりなく千余里としている
水行はいつでも岸に寄せられるし、無理のない範囲で進めばよい
この推定だと、一日20キロ程度だな
972日本@名無史さん2019/08/01(木) 18:57:49.86
畿内名物の例のアレw
919 日本@名無史さん [sage] 2019/08/01(木) 17:19:16.06 ID:
>>915
「畿内中の鉄を古墳に詰め込んだので遺跡からは鉄が出土しないのだ!」という名言が出てきそうだなw 973日本@名無史さん2019/08/01(木) 18:58:01.17
>>976
>>平原遺跡の超大型内行花文鏡が舶載鏡のグループに近いことを明示している。<
>具体的なデータすら、読み方の時点で捏造するからな!
舶載鏡は左下の#16と#17の二面のみで、明らかにグラフ上で他の鏡と別の位置に置かれている
46センチ鏡はそこから離れたグラフの中央付近にある<
そのデータ解釈が、「結論先にありき」のインチキそのもの。
「舶載鏡は左下の#16と#17の二面のみ」というのが、
21枚の「猶方作」鏡を舶載鏡としていないし、
「陶氏作」鏡の「陶氏」の名前の鏡が、他の列島各地また全くでないから、
それも、明帝の下賜鏡であった可能性が高い。 974日本@名無史さん2019/08/01(木) 18:58:31.26
キナイコシ
ああ言えばこう言う
975日本@名無史さん2019/08/01(木) 18:59:12.04
手持ちの鉄をやけになって全部副葬してしまったのだな。
976日本@名無史さん2019/08/01(木) 19:00:28.85
畿内説は、頭の悪い奥山のせいで、日本の恥に、なっていくので、あるな。。。
977日本@名無史さん2019/08/01(木) 19:02:29.71
>>377
>>卑弥呼に与えられた絹や宝飾品は畿内のどこにあるんだ?<
>大王級で陵墓指定された大古墳の埋葬主体部にあるだろう<
何だ?、3世紀末〜4世紀の墓の、
それも「あるだろう」という「推定レベル」か?。 978日本@名無史さん2019/08/01(木) 19:14:43.43
奥山氏は、連続句読点の使用者が、何人もいることが、本当に判らないのではないのかな、、、
970 名前:日本@名無史さん 2019/08/01(木) 18:54:39.60
>>940
連続句読点に言うだけ無駄なんだが、一応
>その距離が一日航海の距離なら、
渡海と水行をごっちゃにした議論は無意味
>>823以下でこのスレでも既出 979日本@名無史さん2019/08/01(木) 19:15:36.60
487>>978
>現に同時代の史料に
「道里」として旅程の日数が使われている事実
倭人伝に現れる「其余」の国は国名しか判らないので
「其余」でない国々は「女王国以北」だということ<
ダメだ。
魏志倭人伝では、
魏使の「女王之所都」への旅程では、全て「里数」で記録され、
「日数」記載は、
「水行十日陸行一月」が「萬二千余里」への「補填的」説明であり、
その他は、倭人からの伝聞情報だ。
これで、大和説者の「違うと言い張る言い訳」は、ぜんぶ潰れた 980日本@名無史さん2019/08/01(木) 19:16:21.42
>>975
>手持ちの鉄をやけになって全部副葬してしまったのだな。
だとしたら、ホケノ山古墳に全部副葬してしまった後、
椿井大塚山古墳が造営されるまでの短期間にまた、北部九州の弥生全期間で見つかるほどの
鉄材を入手しそれをまた全部副葬して、下池山古墳が造営されるまでの短期間で
また北部九州の弥生全期間で見つかるほどの鉄材を入手できたんだね!
畿内王権、鉄がジャブジャブ手に入るんじゃんww 981キウス ◆PyuQX798ps 2019/08/01(木) 19:16:33.66
奥山君前にも指摘したが
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
これも不要 纏向=邪馬台国と誰も考えていないから
馬鹿げたQを自分で作る必要なし
次にFAQ78の
Aに答える方法が
九章算術しかなかったのですか?
単に齧ったリンゴ程度で、リンゴの全てのウンチクは語れないと言うことです
以下が全てとは言いませんが、一読ください
http://pal.las.osaka-sandai.ac.jp/~suanshu/から入り
リンク 張家山漢簡『算数書』研究会を開いてください 982日本@名無史さん2019/08/01(木) 19:16:58.35
>>978
僕達の予測では、僕達以外に、5人程いるのだったな、、、 983日本@名無史さん2019/08/01(木) 19:17:13.76
九州説を発狂させる呪文
道里は日数道里は日数
984日本@名無史さん2019/08/01(木) 19:18:18.04
487>>980
「南≠東」などの嘘付き騙しの大和説は
まだ日数≠里数を認めないで、
ゾンビ踊りを踊り狂ってるの?
それとも認めて土に還ったの ? 985日本@名無史さん2019/08/01(木) 19:18:39.31
>>906
あのさあ
潤沢にあったら古墳以外でも出てるはずなんだよね。
必要十分条件って知ってる?
知ってても理解してないようだ。 986キウス ◆PyuQX798ps 2019/08/01(木) 19:19:02.69
当然私もコテをつけての投稿です
コテを付けない奥山君は無視とします
987日本@名無史さん2019/08/01(木) 19:19:42.59
988日本@名無史さん2019/08/01(木) 19:19:53.32
>>980
九州の卑弥呼に内行花文鏡(またはその破片)を与えられた征東将軍
そら鉄だって持ってくるだろうよ 989日本@名無史さん2019/08/01(木) 19:20:19.71
487>>984
「南≠東」で敗者になった大和説者は、
ひたすら打ち据えられるのみ
そしてそれを、永久にじっと耐え続けるしかない 990日本@名無史さん2019/08/01(木) 19:21:03.07
小学生達の自由研究のスレッドが、二つとも、活発化しているな、、、
991日本@名無史さん2019/08/01(木) 19:21:11.46
>>921
道里がわからない投馬国は、倭人から聞き取った日数だけが記載されている。 992日本@名無史さん2019/08/01(木) 19:23:15.30
993日本@名無史さん2019/08/01(木) 19:23:27.33
邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奥山氏が、追い詰められましたね。
994日本@名無史さん2019/08/01(木) 19:24:29.19
僕達が笑いリラックスするためにアプローチしている、このレベルの低い、5ちゃんねるのサクラのプロ固定が作製したスレッドとは全く異次元の、 たくさんの分野のレベルの高い学者達が集う、
魏志倭人伝時代の真実について、僕達か僕達の論敵のどちらの頭がカラフルになるかを賭けて、
お互いに、不敵な笑みを浮かべながら、 闘っている討論会では、
破綻した非科学的な唯物論や破綻した非科学的な要素還元主義を、お互いに掲げることなしに、正々堂々の討論を闘っているので、
魏志倭人伝に全く記録はされていない土器や時代の異なる前方後円墳ではなく、
鉄鏃や、人民の住居や、ベンガラや、方角や、距離や、夏の時代の考古学的に判明している会稽の位置や、魏志倭人伝時代の倭人の太い骨や、
萬二千里の事で奥山氏も頼みにしている淮南子を規定している一寸千里の法を材料にして、討論が進行し、
卑弥呼の城が日本の何処にあったかの討論から、卑弥呼の城が九州の何処にあったかの討論に、話題が移り変わってきたのだったな。。。
995日本@名無史さん2019/08/01(木) 19:25:02.78
3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://2chb.net/r/history/1556294803/303 996日本@名無史さん2019/08/01(木) 19:25:41.75
342日本@名無史さん2019/04/28(日) 10:52:03.18
バカのために、現実との対応の取りやすい例示で説明してやるよ
箱がたくさんあって、たくさんの箱の中である条件を満たす箱を考える
ある条件を満たす箱を今、 「特定の十個の箱」と呼ぶことにする
この「特定の十個の箱」がたくさんの箱の中のどれなのかは分からない
この時
赤の玉が箱に入っていることがあるが、赤の玉のうち75%が「特定の10個の箱」に入っている
青の玉が箱に入っていることがあるが、青の玉のうち75%が「特定の10個の箱」に入っている
緑の玉が箱に入っていることがあるが、緑の玉のうち75%が「特定の10個の箱」に入っている
赤、青、緑の玉がどの箱に入っているかは独立である
この時、ある一つの箱に「赤、青、緑」の玉がすべて入っていたら、
その箱が「特定の10個の箱」ではない確率は1.56%で
「特定の10個の箱」のうちの一つである確率は98.4%になる
この多数の「箱」が「遺跡」、「特定の10個の箱」が「邪馬台国の範囲にある遺跡」と
読みかえればイメージが湧くだろ
ここでは「特定の10個の箱」としたが、実際には「邪馬台国の範囲にある遺跡」はもっと多い
そして、ベイジアンで説明してくれている人がいるが、
『赤の玉が75%が「特定の10個の箱」入っていること』は、
『「特定の10個の箱」の75%に赤の玉が入っていること』を意味しない、
つまり、「特定の10個の箱」が赤の玉を含まない確率は未知なのでベイジアンは適応できないよ
ここまで説明しても、論理的思考ができない九州説連中には理解できないんだろうがね
868日本@名無史さん2019/08/01(木)
997日本@名無史さん2019/08/01(木) 19:26:43.16
>>981
でも現実にいるだろ
纒向に七万戸ないぞー邪馬台国違うーだて叫ぶ馬鹿が 998日本@名無史さん2019/08/01(木) 19:26:56.04
奥山氏は、小学生達の自由研究を邪魔しないで下さい。
999日本@名無史さん2019/08/01(木) 19:27:45.94
さすがです
がキウス氏よ
奥村はレス900以降は見ないの知らないのかい
あんたの代わりに暇があれば次スレで張り付けておきすよ
1000日本@名無史さん2019/08/01(木) 19:27:52.24
lud20201006143356ca
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