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邪馬台国畿内説 Part492 YouTube動画>3本 ->画像>18枚


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1◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 11:44:25.09
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://2chb.net/r/history/1565060607/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。

2◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 11:45:56.24
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある 
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。

3◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 11:46:13.95
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。

4◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 11:46:53.55
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
(本項 続く)

5◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 11:47:28.70
◆3ー2
(承前)
 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。

6◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 11:47:46.97
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。

7◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 11:48:21.09
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。

8◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 11:48:41.51
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)

9◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 11:49:17.95
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。

10◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 11:52:26.88
◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
(本項 続く)

11◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 11:52:58.13
(承前)
◆7ー2

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
(本項 続く)
 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。

12◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 11:54:09.74
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。

13◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 11:55:00.35
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山

14◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 11:55:21.97
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。

15◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 11:56:19.74
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)

16◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 11:56:32.88
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。

17◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 11:57:06.35
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。

18◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 11:58:15.76
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。

19◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 11:58:52.65
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。

20◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 11:59:15.05
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。


 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。

21◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 11:59:45.81
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
 畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
 逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。

22◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:01:10.49
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
 遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。


◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。

23◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:01:36.54
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。

24◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:02:10.35
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。

25◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:02:50.87
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、郡県内では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。


◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
邪馬台国畿内説 Part492 	YouTube動画>3本 ->画像>18枚
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。

26◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:03:31.17
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) 邪馬台国畿内説 Part492 	YouTube動画>3本 ->画像>18枚
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 邪馬台国畿内説 Part492 	YouTube動画>3本 ->画像>18枚

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)

27◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:04:30.35
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛
 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総
 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵
 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬
 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆
 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)

◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。

28◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:05:28.44
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。

29◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:06:14.21
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
 九州説にとって不利な条件と言える。

30◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:06:45.20
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。

31◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:07:25.49
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   邪馬台国畿内説 Part492 	YouTube動画>3本 ->画像>18枚
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。

32◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:07:57.05
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国

33◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:08:41.96
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。

34◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:09:16.32
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。

35◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:09:53.74
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。

36◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:10:35.55
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。

37◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:11:10.84
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  邪馬台国畿内説 Part492 	YouTube動画>3本 ->画像>18枚
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。

38◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:11:43.42
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。

39◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:12:24.35
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、
単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。

40◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:13:01.22
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。
(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

41◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:13:43.71
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。

42◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:14:27.69
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。

43◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:15:11.54
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。

44◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:15:49.57
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。

45◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:16:27.45
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、
海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。

46◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:17:06.65
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。

47◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:17:37.42
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。

48◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:18:21.62
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定

49◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:18:47.53
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
邪馬台国畿内説 Part492 	YouTube動画>3本 ->画像>18枚 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。

50◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:19:33.60
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。

51◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:20:07.44
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。

52◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:20:30.42
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。

53◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:21:04.62
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)

54◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:21:51.74
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)

55◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:22:15.18
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。

56◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:22:51.72
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
邪馬台国畿内説 Part492 	YouTube動画>3本 ->画像>18枚

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。

57◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:23:21.34
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。

58◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:23:52.25
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) 邪馬台国畿内説 Part492 	YouTube動画>3本 ->画像>18枚
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。

59◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:24:23.02
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:邪馬台国畿内説 Part492 	YouTube動画>3本 ->画像>18枚

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。


◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

60◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:24:57.93
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。


◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。

61◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:25:25.87
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。

62◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:25:59.34
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」

「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。

三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝で各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

63◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:26:40.29
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。

64◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:27:21.55
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。


◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。

65◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:27:55.06
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。

66◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:28:28.15
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。

67◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:29:01.42
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
邪馬台国畿内説 Part492 	YouTube動画>3本 ->画像>18枚


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。


◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 邪馬台国畿内説 Part492 	YouTube動画>3本 ->画像>18枚
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。

68◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:29:58.89
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。

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◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)

69◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:31:16.63
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。


◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。

70◆UiepmfCeDJqf 2019/08/08(木) 12:33:28.35
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。


◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
邪馬台国畿内説 Part492 	YouTube動画>3本 ->画像>18枚
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

71日本@名無史さん2019/08/08(木) 12:34:14.46
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 ◆FAQ 78に加筆

72日本@名無史さん2019/08/08(木) 12:38:56.30
ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「倭国(女王之所都)=計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。

1.西晋初代皇帝・司馬炎は、祖父・司馬懿(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいたw)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て宿敵孫呉との戦いにおいて、最高の牽制となるその背後に倭国「女王之所都」があるために、
ライバル孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡(蘇州)「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南の福州の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳朱崖に似ている。

そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪韓国(伽耶)の南から儋耳朱崖(南越の北)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む「南北に」長大な2つの列島であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国@】と、「當在会稽【東冶】之東」となる【奴国A(幻)】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国@】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」←2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を南に引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行(徒歩)一月」を転用して幻の【奴国A】を創り、福州「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。

73日本@名無史さん2019/08/08(木) 12:44:52.29
畿内説石野船長「南→東と読み替えて、不弥国から東に進み投馬国(出雲)を目指そう!次は女王卑弥呼の纏向だw全速前進!」
畿内説寺澤機関長「順風満帆!やはりこちらが正しかったですねw天も我々を祝福しているかのようですw九州説の警告なんて無視して良かったw」
畿内説橋本航海士「我々の進行方向、左右両舷をすっぽり取り囲むような三日月形の巨大な氷山脈発見!!!→)」
畿内説石野船長「エンジン逆回転!!!全速後退!!!←)」
畿内説寺澤機関長「なんで方角を読み替えたんだよ!!!船長のくせに!!!このハゲェ〜ッ!!!(豊田真由子元衆院議員)」
畿内説橋本航海士「フル回転中の逆回転でギア全損!!!エンジン大爆発!!!間に合いません!!!!!」
(フルスピード→ノーブレーキで氷山に正面衝突して、乗り上げ、反対側で再び着水する畿内説タイタニック号)ガツン!ドカン!ザブン!
(船側&船底外板を船首から船尾まで横一直線に切り裂く音)ギギギギギギギ!!!
ザァアアアアアアア!!!(全隔壁に一気に浸水、瞬時に沈む畿内説タイタニック号)
畿内説石野・寺澤・橋本「ぎゃあああああああああああああああ!!」(ごく僅かな庄内式土器と大量の布留式土器と三角縁神獣「銅鏡五百枚」と共に海底に引き摺りこまれ、海の藻屑と化す畿内説タイタニック号)
ダウンロード&関連動画>>


一方、九州説オリンピック号でゎ…
九州説A「畿内説タイタニック号から遭難信号SOS傍受!!」
九州説B「あれほど警告したのに、なんで東(大国主・大物主・饒速日3代の纏向宮殿→箸墓Ω前方後円墳墓担当の物部氏へ)に向かったんだろう?直ちに救助に向かおう!」
九州説C「纏向の大型建物ABCDは2世紀末には遡れないのに!!!」
不弥国の東の海上に到着した九州説オリンピック号が見た光景は…
因幡の白兎同様、サメの餌食となった畿内説タイタニック号の乗客乗員の遺体の一部と思しき夥しい肉片&骨片が散乱…血で真っ赤に染まった波間に石野船長と寺澤機関長のものと思しきメッキ縁眼鏡がキラキラ&プカプカ浮かんでいる…
茫然自失の九州説ABC「だから船乗りの方角間違え(南→東)は漂流しちゃうからあり得ない、纏向は「本州」島の毛人王権ってあれほど言ったのに...orz」

74日本@名無史さん2019/08/08(木) 12:57:21.06
>>72の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
   ┏━━┓帯方郡  ┏┛〜〜〜日本海〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜東→✖畿内説沈没地点(†乗客乗員>>73
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行十日」↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」 
 ↓ ┃「瀚海」↓↓〜玄界灘〜↗_〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
   ┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行十日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃ 
   ┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
 ↑ ┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃★奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王四千余里」@阿波
建業┃〜〜┃狗奴(球磨)国▲▲投馬(都万)国┘宮崎平野=南「水行二十日」
会稽┃〜〜┗━━女王国島━━┛↓〜〜〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海〜┌南「水行十日」〜〜〜〜〜〜
   ┃〜〜┌┌←←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国のパラレルワールド)↓
 ↓ ┃〜〜│↓「陸行一月」(幻)│←「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
   ┃〜〜│↓〜▲〜〜〜〜〜│亶州(沖縄)〜↓「自郡至女王国 万二千余里」
東冶┃〜〜│☆奴国A(幻)〜〜│←『【女王之所都】計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
   ┃〜〜│▲狗奴国(幻)〜〜│夷州(台湾)〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国(幻)遠絶 不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜南シナ海〜〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(☆奴国A)東南 船行一年」

75日本@名無史さん2019/08/08(木) 15:30:37.29
>>8
>>98
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」(リンク参照)同様、呉の牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管轄する「伽耶の鉄」の入手を容易にするため。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置であることに留意されたい。
そこで主要3説(九州説・四国説・畿内説)における狗奴国を検討すると、以下のようになる。

−女王国「A東渡海」千里「複有国B」皆倭種(〇九州説…A関門海峡B本州、〇四国説…A紀伊水道B本州、✖畿内説…A鈴鹿山脈?B北海道?)
−其南有狗奴國 不属女王(〇九州説…熊本もしくは薩摩、△四国説…南阿波、✖畿内説…仲良し東海?)

畿内説はいずれも当てはまらない上「複有国(東)」と「狗奴国(南→東)」が重複し混乱が生じる上、鉄製武器も文字も駅伝制(早馬)もない3世紀畿内で、遠隔の北部九州を支配下に置くのは不可能。
また3世紀の四国に十四万戸(邪馬台国+狗奴国)は無理がある(後述)。消去法によって、九州説が正しい。
次に、狗奴国が熊本平野か鹿児島川内(せんだい)平野かだが、邪馬台国七万戸(35万石)を統治している女王卑弥呼をして、魏の明帝曹叡に援軍要請させるほど窮地に陥れる(狗奴)国の国力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸35万石)もしくはそれ以上の人口(八万戸40万石)と仮定。
面積から見て、狗奴国が川内(せんだい)平野でゎ3世紀の開墾能力では限界があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と想定して、
北の邪馬台国は筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所&(天気が良ければ)福岡平野→糸島(伊都国)→壱岐島までズドーンと見渡せる甘木朝倉と確定。
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(リンク参照)を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3

76日本@名無史さん2019/08/08(木) 15:40:20.74
7日本@名無史さん2019/07/19(金) 20:06:20.03

77日本@名無史さん2019/08/08(木) 15:41:10.86
8日本@名無史さん2019/07/19(金) 20:06:32.25

78日本@名無史さん2019/08/08(木) 15:41:44.32
9日本@名無史さん2019/07/19(金) 20:06:45.03

79日本@名無史さん2019/08/08(木) 15:42:16.56
10日本@名無史さん2019/07/19(金) 20:07:06.72

80日本@名無史さん2019/08/08(木) 15:43:32.30
11日本@名無史さん2019/07/19(金) 20:07:31.44

81日本@名無史さん2019/08/08(木) 15:44:03.43
頭が良い、、、

82日本@名無史さん2019/08/08(木) 15:44:27.90
15日本@名無史さん2019/07/19(金) 20:08:13.18

83日本@名無史さん2019/08/08(木) 15:44:45.48
16日本@名無史さん2019/07/19(金) 20:08:29.49

84日本@名無史さん2019/08/08(木) 15:45:39.00
17日本@名無史さん2019/07/19(金) 20:08:43.78

85日本@名無史さん2019/08/08(木) 15:46:15.84
18日本@名無史さん2019/07/19(金) 20:08:53.54

86日本@名無史さん2019/08/08(木) 15:46:35.24
19日本@名無史さん2019/07/19(金) 20:09:07.45

87日本@名無史さん2019/08/08(木) 15:47:22.05
>>1
20日本@名無史さん2019/07/19(金) 20:09:39.03
小学生にウソを教えちゃだめだよ

88日本@名無史さん2019/08/08(木) 15:47:55.83
22日本@名無史さん2019/07/19(金) 20:09:53.46

89日本@名無史さん2019/08/08(木) 15:48:29.94
23日本@名無史さん2019/07/19(金) 20:10:46.82
小学生は

90日本@名無史さん2019/08/08(木) 15:49:03.71
24日本@名無史さん2019/07/19(金) 20:11:01.64
5ちゃんねるの

91日本@名無史さん2019/08/08(木) 15:49:32.43
25日本@名無史さん2019/07/19(金) 20:11:09.84
科学板に

92日本@名無史さん2019/08/08(木) 15:49:53.59
26日本@名無史さん2019/07/19(金) 20:11:20.50
でたらめな

93日本@名無史さん2019/08/08(木) 15:50:13.34
27日本@名無史さん2019/07/19(金) 20:11:33.37
スレを

94日本@名無史さん2019/08/08(木) 15:50:53.05
28日本@名無史さん2019/07/19(金) 20:11:45.71
立てたり

95日本@名無史さん2019/08/08(木) 15:51:58.59
29日本@名無史さん2019/07/19(金) 20:11:56.74
しないん

96日本@名無史さん2019/08/08(木) 15:52:26.71
30日本@名無史さん2019/07/19(金) 20:12:06.71
だけどな

97日本@名無史さん2019/08/08(木) 15:53:43.72
つまり、真面目な小学生は、真面目なスレッドを、5ちゃんねるに作成するのだな、、、

98日本@名無史さん2019/08/08(木) 15:54:24.30
31日本@名無史さん2019/07/19(金) 20:12:20.72
奥山氏は、、、

99日本@名無史さん2019/08/08(木) 15:54:41.81
32日本@名無史さん2019/07/19(金) 20:12:35.17
人格障害で

100日本@名無史さん2019/08/08(木) 15:54:59.70
34日本@名無史さん2019/07/19(金) 20:12:56.39
恨の心を

101日本@名無史さん2019/08/08(木) 15:55:57.39
35日本@名無史さん2019/07/19(金) 20:13:05.55
溜め込み

102日本@名無史さん2019/08/08(木) 15:56:17.65
36日本@名無史さん2019/07/19(金) 20:13:15.73
過ぎてるから

103日本@名無史さん2019/08/08(木) 15:56:40.88
37日本@名無史さん2019/07/19(金) 20:13:24.15
もう

104日本@名無史さん2019/08/08(木) 15:56:55.81
38日本@名無史さん2019/07/19(金) 20:13:33.42
他人と

105日本@名無史さん2019/08/08(木) 15:57:11.58
39日本@名無史さん2019/07/19(金) 20:13:42.72
まともな

106日本@名無史さん2019/08/08(木) 15:57:52.26
40日本@名無史さん2019/07/19(金) 20:13:56.83
コミュニケーションが

107日本@名無史さん2019/08/08(木) 15:58:07.72
41日本@名無史さん2019/07/19(金) 20:14:08.31
取れない

108日本@名無史さん2019/08/08(木) 15:58:33.23
42日本@名無史さん2019/07/19(金) 20:14:22.71
所まで

109日本@名無史さん2019/08/08(木) 15:58:49.10
43日本@名無史さん2019/07/19(金) 20:14:36.91
来てる

110日本@名無史さん2019/08/08(木) 15:59:07.19
44日本@名無史さん2019/07/19(金) 20:15:08.26
結局

111日本@名無史さん2019/08/08(木) 15:59:44.56
邪馬台国畿内説を宣伝する頭の悪すぎる朝鮮人の大人は、日本の小学生の夏休みの自由研究を邪魔しないで下さい。

112日本@名無史さん2019/08/08(木) 16:00:07.62
45日本@名無史さん2019/07/19(金) 20:15:19.10
>>4

113日本@名無史さん2019/08/08(木) 16:00:35.89
46日本@名無史さん2019/07/19(金) 20:15:28.79
>>5

114日本@名無史さん2019/08/08(木) 16:00:58.40
48日本@名無史さん2019/07/19(金) 20:15:41.43
>>6

115日本@名無史さん2019/08/08(木) 16:01:09.20
>>75の続き
すると、もう一つの謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国・卑弥弓呼の子孫/八代淡海→「近江」)も判明。
古代史は以下↓のように一挙に解明できるのである!

漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の説諭で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国系(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国系(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏>晋>「宋>斉>梁」南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」に任官(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国系(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
倭王阿毎多利思比孤、「天子」隋煬帝に対等外交&(高句麗遠征の鍵)新羅の朝貢を契機に「独立宣言」607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教伝来による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…前方後円墳の大連物部守屋を滅ぼす。大和分家を乗っ取ろうとした大臣蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、大和へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種・九州年号&多利思比孤を抹消すべく、崇神朝・応神朝・継体朝の歴代倭王権(九州王朝)内の交代が、すべて大和で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名を移植。朝倉&阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)

まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武朝(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京)

116日本@名無史さん2019/08/08(木) 16:02:14.79
49日本@名無史さん2019/07/19(金) 20:15:52.25
コピペも

117日本@名無史さん2019/08/08(木) 16:02:48.16
>>115の続き
邪馬台国女王台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神朝「複立男王並受中国爵命」の玄(4世)孫・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国女王「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。

ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
崇神朝(伊都国系)の@景行A成務B仲哀、続くC応神(自分の子)D仁徳(自分の孫)の5人の大王に仕えた彼は、筑紫邪馬台国女王・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0

磐井の乱で、その筑紫応神朝(邪馬台国系の♂武内宿彌&♀神功皇后)を乗っ取った阿蘇狗奴国王・継体は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図っている(倭国大乱の再発予防)。

この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教による国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き、
その次男・用明の代で、強硬な廃仏派である大連・物部氏長者の守屋を滅ぼし、その妹推古が甥の厩戸と伯父の蘇我馬子と共に仏教を国教化するも、
官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家を乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智と中臣氏が飛鳥に下向。板葺宮で三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での惨敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、〔倭国独自(九州)元号を創設した継体朝の、「天子」を名乗ってしまったため、記紀に消された〕多利思比孤系統の九州本家・天智が、奥津城大和に東遷。

ここに倭王権は史上初めて九州島を出て、近江大津京→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の古墳時代の畿内には、記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治以降設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。

118日本@名無史さん2019/08/08(木) 16:03:05.12
50日本@名無史さん2019/07/19(金) 20:16:05.03
頭が悪すぎる奥山氏の、、、

119日本@名無史さん2019/08/08(木) 16:03:43.62
51日本@名無史さん2019/07/19(金) 20:16:16.59
仕業

120日本@名無史さん2019/08/08(木) 16:04:08.13
52日本@名無史さん2019/07/19(金) 20:16:29.54
だったん

121日本@名無史さん2019/08/08(木) 16:04:26.35
53日本@名無史さん2019/07/19(金) 20:16:39.60
だなww

122日本@名無史さん2019/08/08(木) 16:04:43.78

123日本@名無史さん2019/08/08(木) 16:05:16.47

124日本@名無史さん2019/08/08(木) 16:05:39.75

125日本@名無史さん2019/08/08(木) 16:06:55.89
2013年に破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人係員の奥山氏が、今回のスレッドでも、完全に論破されましたね。。。

126日本@名無史さん2019/08/08(木) 16:07:16.21
>>117の続き、
ダイワとしか読めない大倭(後に大和)を「ヤマト」と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、唐帝国に対し、新益藤原京を新設した畿内に筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆があったと思わせたかったから、なのである!

白村江海戦惨敗で九州本家の天智が東遷した後、大和分家の天武が(確実に唐を刺激する、継体創設の倭国独自年号+「天子」多利思比孤を抹消するための)歴史改ざん書である記紀を書かせ、
畿内を記紀の歴史テーマパーク化していったたからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!(日本初の中国式都城=新益藤原京から「大和」と改称)
魏晋南北朝〜唐までは、倭国は九州島のみと認識されていた。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だった。(九州から見て日が昇る)日辺にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭と言う名前が優雅でないから日本と改名した」と言い、また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭国の地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。

事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が大和分家(近江大津京)に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた記紀の歴史テーマパークにするため大倭(後に大和)と書かせ、
発音だけ九州時代の都であった筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を繰り下げて生まれた畿内説(他人の褌)、ならびに教科書に載っている古墳時代にあったとされるヤマト王権(定説)は、
超大国・唐(アメリカ・トランプ大統領)との連携外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として実行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた電波(幻想)で、
特に前者は、記紀(定説・ヤマト王権)というゴール地点から、考古学と魏志倭人伝という他人の褌で、どこまで史実(スタート地点)歪曲を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである!

127日本@名無史さん2019/08/08(木) 16:07:16.89

128日本@名無史さん2019/08/08(木) 16:08:13.19

129日本@名無史さん2019/08/08(木) 16:08:35.05

130日本@名無史さん2019/08/08(木) 16:08:57.78

131日本@名無史さん2019/08/08(木) 16:11:03.18
>>126の続き
まとめると、663年8月、白村江海戦で倭国水軍を全滅(広島&長崎原爆に相当)させた大艦隊を擁し(リンク参照)、
ダウンロード&関連動画>>


その気になれば、完全に無防備(もはや陸軍のみ)となった倭国に襲来し、首都太宰府を殲滅できる大帝国・唐外交への忖度で生まれた古事記・日本書紀が消そうとしたのは、

A.史上初めて九州島を脱出し、近江大津京に東遷した天智以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)が北部九州(筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆)にあったこと
 →3王朝ともその奥津城(王家の谷)畿内にあったことにした(歴史テーマパーク「大倭」)。
B.さらに、磐井の乱で筑紫応神朝を乗っ取った、阿蘇継体朝がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!

@(武寧王の百済を完全属国化した)継体@阿蘇邪靡堆が創設した(世界の支配者=中国皇帝からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号の創設
 →天智の倭京・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長以前は全て抹消!
A新羅からの朝貢で調子に乗って、世界の支配者「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤
 →大和分家・用明の厩戸皇子のことか?とすっトボける!
B白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に恐怖した九州本家・天智@倭京(太宰府)の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草w)
 →舒明♂皇極♀の長男&斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極=斉明重祚・天智天武兄弟の秘密)

-継体朝による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・倭京・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html

132日本@名無史さん2019/08/08(木) 16:12:45.26

133日本@名無史さん2019/08/08(木) 16:14:59.44
今城塚古墳に眠る大王の、ピンクの石はなぜ選ばれたのだろう。。。

134日本@名無史さん2019/08/08(木) 16:15:07.77

135日本@名無史さん2019/08/08(木) 16:15:18.52

136日本@名無史さん2019/08/08(木) 16:16:44.83
埋め立て

137日本@名無史さん2019/08/08(木) 16:17:00.41

138日本@名無史さん2019/08/08(木) 16:17:37.44

139日本@名無史さん2019/08/08(木) 16:18:08.51

140日本@名無史さん2019/08/08(木) 16:18:52.55
埋め立て

141日本@名無史さん2019/08/08(木) 16:23:25.30
奥山ーーーーーー
また、他スレ荒しただろう 
報復をされるから止めろ
レスの流れがわからなくなる
お前も本位じゃないだろ
他スレ荒すな

142日本@名無史さん2019/08/08(木) 16:28:58.59
おまえ、心の病気だろう

143日本@名無史さん2019/08/08(木) 16:37:40.84
被害妄想の偏執狂が陰湿なイヤガラセをして
九州説の評判をさらに落としているな

144日本@名無史さん2019/08/08(木) 16:59:03.73
490>>359
>邪馬台国も里数は書かれていないだろ?<


邪馬台国なんて、存在もしなかった嘘つき騙し文言だよ。

>これを九州説は認識できていないんだよ
そして投馬国も邪馬台国も戸数道里ともに
略載された女王国より以北(ここでは女王国を含む)の国なんだよ><


不彌國で萬二千余里がほぼ終わっており、
投馬國は、不彌國から「南へ水行二十日の位置にある側副傍線国説明あるであり、
邪馬壹國女王之所都は、不彌國のすぐ南にある事になって、
「水行十日陸行一月」は行程の目的地である事になって、「郡から女王之所都」の所要日数説明になっており、
だから、「自女王國以北」には、投馬國は入っていない。

145日本@名無史さん2019/08/08(木) 17:02:07.00
土器などの流通を見ると、尾張から東西に文物が運ばれたことがわかる。
奈良盆地はその中継地に過ぎない。
そして生産品の最大の消費地が筑紫であることがわかる。

邪馬台国畿内説 Part492 	YouTube動画>3本 ->画像>18枚

ついでに言うと、海外交流の拠点が出雲と筑紫であったことがわかる。
記紀の出雲の国譲りが倭国の対外交渉権の移譲だったのだのだろう。
魏や帯方郡と交渉していた可能性があるのは出雲と筑紫しかなく、3世紀においては筑紫の他には邪馬台国の候補はあり得ない。

146日本@名無史さん2019/08/08(木) 17:02:50.69
纒向遺跡への搬入土器の出身地割合
伊勢・東海系 : 49%
北陸・山陰系 : 17%
河内系 : 10%
吉備系 : 7%
近江系 : 5%
関東系 : 5%
播磨系 : 3%
西部瀬戸内海系 : 3%

纒向には魏の使いが滞在していた筑紫からの搬入物がない。
邪馬台国が交流していたはずの楽浪・帯方郡からの土器も出ない。
目と鼻の先の河内との交流も乏しく、畿内の他の地域のような瀬戸内海や淀川の水運の利益を受けられない、尾張の影響下の後進地域であった。
畿内説が言うように東海地方が狗奴国なら、纒向への土器の流入を説明できない。
河内が狗奴国とする説もあるが、その場合も纒向は半島大陸への玄関口である筑紫へのアクセスルートがなくなり、魏と交流できた可能性は低い。
考古学的には邪馬台国畿内説は成立することが困難である。

147日本@名無史さん2019/08/08(木) 17:03:28.21
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。

また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。

ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。

つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。

というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。

アホの>>1
アホの>>1

148日本@名無史さん2019/08/08(木) 17:10:56.64
このスレ、テンプレが終わった後ほぼ連続句読点しか書き込みしてないw
お孫さんに、このスレ見てもらったら?

誇らしいおじいちゃんの勇姿だろ?ww

149日本@名無史さん2019/08/08(木) 18:04:48.57
『魏志倭人伝』には、倭人は「鉄鏃(てつぞく
)」を用いる、などとある。
『弥生時代鉄器総覧』の鉄器出土地名表を見る
と、福岡県には49ページ割かれている。これ
に対し、奈良県には1ページも割かれていない。
「邪馬台国=奈良県存在説」を説く人々には
、この愕然とするほどの圧倒的な違いが目に入
らないのだろうか。

 例えば、弥生時代の鉄鏃の出土数をみれば、
下記のようになる。『魏志倭人伝』に記されて
いる事物(鎧・絹・勾玉など)で、遺跡・遺物
を残し得るものはすべて、出土数において福岡
県が奈良県を圧倒している。
邪馬台国畿内説 Part492 	YouTube動画>3本 ->画像>18枚
このような分布を示すいくつかのデータから、邪馬台国が福岡県にあった確率や、奈良県にあった確率を計算によって求めることができる。県ごとの確率は、下記のようになる。

邪馬台国が福岡県に有った確率 99.9%
邪馬台国が佐賀県に有った確率 00.1%
邪馬台国が奈良県に有った確率 00.0%

この確率計算にあたってご指導、ご協力をいただいた現代を代表する統計学者、松原望氏(東京大学名誉教授)は述べている。
「統計学者が『鉄の鏃』の各県出土データを見ると、もう邪馬台国についての結論は出ています」

150日本@名無史さん2019/08/08(木) 18:05:15.66
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(倭国のことだが、ここではその王都がある邪馬台国を指すと考えられる)から一万二千里である。
その西北界(倭国の西北の国境)である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。

魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。

魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国(福岡県)まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
また、帯方郡から投馬国(宮崎県)までは水行20日

邪馬台国時代の遺物の出土状況
邪馬台国畿内説 Part492 	YouTube動画>3本 ->画像>18枚

151日本@名無史さん2019/08/08(木) 18:20:18.70
>>74 なるほど

152日本@名無史さん2019/08/08(木) 18:52:51.06
141

153日本@名無史さん2019/08/08(木) 18:55:59.53
>>149
>『弥生時代鉄器総覧』

今は卑弥呼の時代は古墳時代に入っていたと考えられているから、
弥生時代の数で見てもしょうがない

そして、古墳時代初期のホケノ山古墳、椿井大塚山古墳、黒塚古墳の3つだけで
鉄鏃の数は福岡の弥生時代全期間の数を超える

154日本@名無史さん2019/08/08(木) 18:57:14.40
>>150
>その国(倭国のことだが、ここではその王都がある邪馬台国を指すと考えられる)

この括弧書きの中身が原文にない捏造だと何度言えば分かるんだ?w

155日本@名無史さん2019/08/08(木) 18:58:14.18
>>153
ホケノの築造年が絶対年代として遡ったのか?

156日本@名無史さん2019/08/08(木) 19:00:03.05
前スレ997

>三国志(魏志倭人伝)の成立は3世紀末頃だよ

後漢書も編集されたのが5cで成立はそれ以前
記述内容の最古の部分は1世紀の後漢と倭奴国の時代に遡る
范曄が5cにそれまであった後漢書を編集したからといって
書かれている内容をそれ以前の時代の参照にしてはいけない理由は何もないのである

157日本@名無史さん2019/08/08(木) 19:16:32.80
>>155
畿内説が得意とする「神の手」だよ。
年代が違うものをごちゃ混ぜにして議論をすり替えるんだ。

158日本@名無史さん2019/08/08(木) 19:16:37.25
FAQ78
いじり過ぎ
基本的にAとして九章算術も後漢書を出す必要はない

なお、後漢書の其国大小、道里近遠、人数多少も比較

実数値では無い 

残念

159日本@名無史さん2019/08/08(木) 19:17:48.57
過去のことを取り扱った史書そのもののあり方を畿内説は否定したいのだろう。
畿内説はつまるところ、歴史ではなく創作。

160日本@名無史さん2019/08/08(木) 19:19:30.47
はるかはるか後世の20世紀末に書かれた師匠の書は儒教的思想により盲目的に受け入れているのにね。

161日本@名無史さん2019/08/08(木) 19:25:55.06
490>>362
>A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。<

魏朝が周制の周里(短里)を採用し、
しかし漢代記録や上表文の引用や蜀朝や呉朝が、周里を採用していなければ、
陳寿の三国志は、秦朝里(長里)と周魏里(短里)の混在になって当たり前。
 
>また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。<

古田さんに拠って、1里が75mから90mで75mに近い距離、と規則性が提示されている。

>よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。<

三国志などにおける周魏里(短里)例も、古田さんから提示されている。

162日本@名無史さん2019/08/08(木) 19:26:59.04
490>>362の続き
>また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、
多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。<

尺定規の寸法は、周代から漢魏代にも、殆ど変わっていない。

>西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。<

淮南子は、一寸千里を使っているから原則は周里の筈であるが、東夷では「短里」を使い、西域では長里を使っているようであり、信頼性がない。

>西漢末成立と考えられる周髀算經においても「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」とあり、1里=1800尺が維持されている。<

類スレ主に反論したように、前漢の周髀算経の収集補正説明をした学者が、
「倍正南方」の意味が解らず、そのために、殆ど同じ(長里での)同心円を二つも造ってしまった、
という失敗収集であったから、そんなアホな事は論拠にならない。

>公孫氏は漢人だから漢尺を使う 公孫氏滅亡後の遼東、帯方二郡の郡吏は当然、魏尺を使う
東夷の夷人は里を知らない <

これも×。魏志での遼東や玄菟や扶余や高句麗の国間距離や国の大きさの説明は、短里である。

163日本@名無史さん2019/08/08(木) 19:27:44.03
考えもなく儒教の怨念に突き動かされているだけの九州説

164日本@名無史さん2019/08/08(木) 19:31:00.20
>>162
魏志がいくら短里で書いてあっても
短里を具体的に証明するものがなければ循環論法
1歩≒1尺の尺定規とか

165日本@名無史さん2019/08/08(木) 19:35:00.24
>楽浪郡の国境は、その国(倭国のことだが、ここではその纒向王都がある邪馬台国を指すと考えられる)から一万二千里である。
>大魔王は纒向邪馬台国にいる。

166日本@名無史さん2019/08/08(木) 19:35:04.80
具体的な証拠がさっぱりない短里

167日本@名無史さん2019/08/08(木) 19:35:46.53
>>158です

>>1=奥村
反義並列型二音節語ぐらい知ってるでしょ
多寡 白黒 大小 遠近 多少 長短・・・・・
みな比較です 

168日本@名無史さん2019/08/08(木) 19:42:59.62
魏で使われていた一里437mの魏里は
その当事に使われていた1尺=24cmの定規の実物が見つかっている
一方九州説がいつも周、漢、魏で使われていたとホラを吹いては自爆する
1里75mだったとされる短里には1歩≒1尺になっている尺定規などの実物が一切見つかっていないのである

169日本@名無史さん2019/08/08(木) 19:44:51.65
また奥山残念 キウスに指指導受けてるwww
奥村と言うのはキウスだった?よな
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
>>158
FAQ78
いじり過ぎ
基本的にAとして九章算術も後漢書を出す必要はない
なお、後漢書の其国大小、道里近遠、人数多少も比較
実数値では無い  残念

----------------------------------------------------------------------
>>167

>>158です
>>1=奥村
反義並列型二音節語ぐらい知ってるでしょ
多寡 白黒 大小 遠近 多少 長短・・・・・
みな比較です 
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

170日本@名無史さん2019/08/08(木) 19:47:50.69
1歩 ≒ 75p・・・(古代複歩の半歩)
10歩 ≒ 7.5m ≒ 1丁・・・(韓倭の1丁)
10丁 ≒ 75m ≒ 1里・・・(韓倭の短里の1里)

171日本@名無史さん2019/08/08(木) 19:53:12.89
奥山氏は、家族がいないので、スレッドが生き甲斐なのではないのかな、、、

172日本@名無史さん2019/08/08(木) 19:53:38.57
>>157
そうだねぇ

173日本@名無史さん2019/08/08(木) 19:54:21.37
>>171
カタンの開拓に疲れたので、笑いリラックスしたいのではないのかな、、、

174日本@名無史さん2019/08/08(木) 19:55:56.33
そうそう奥山はキウス

175日本@名無史さん2019/08/08(木) 19:55:56.98
奥山氏は、頭が悪いな、、、

176日本@名無史さん2019/08/08(木) 19:57:14.36
>>170
韓倭=東夷は里を使わず日数で距離を表す

177日本@名無史さん2019/08/08(木) 20:10:15.33
奥山氏は、邪馬台国が「自女王国以北」なのか、それとも、邪馬台国が「自女王国以北」ではないのか、という問いを避けなければ、
奥山氏は、道里と検察という魏志倭人伝に使用された言葉の意味を、矛盾なく説明できないことが、判明したので、
FAQ78を発表した奥山氏は、頭が悪すぎることが判明したのだったな。。。

178日本@名無史さん2019/08/08(木) 20:11:11.39
奥山氏は、頭が悪いな、、、

179日本@名無史さん2019/08/08(木) 20:13:36.27
邪馬台国は、一大率に検察され恐れたのだろうか、
それとも、
邪馬台国は、一大率に検察されずに、恐れなかったのだろうか、、、

180日本@名無史さん2019/08/08(木) 20:14:15.94
奥山氏は、頭が悪いな、、、

181日本@名無史さん2019/08/08(木) 20:14:59.33
>>176
こんな感じではないかな。
東夷の人(韓人倭人)=里を使わず、日数で距離を表す
漢帯方の人 =韓伝倭伝に於いては、韓倭の短里で距離を表す

182日本@名無史さん2019/08/08(木) 20:20:05.04
>>169
サンキュウー見逃すところだった
奥山は知ったかぶりしすぎで自滅だなww

183日本@名無史さん2019/08/08(木) 20:36:43.66
>>181
帯方にいたのは漢の役人だったので
使われていたのは漢里

184日本@名無史さん2019/08/08(木) 20:40:30.67
490>>364
>畿内側に九州の影響は小さい(それでも胎土分析で九州の土器は確認されている)が<

大和は、筑紫倭国の地方の市を監督する大倭職の旧小国であったに過ぎず、
筑紫の土器は出ず、豊前などの土器しか出なかった筈だ。

>九州では祭祀用供献土器も墳墓形式も畿内様式に塗り替えられる<

年代が反対だ。
筑紫では、祭祀用供献土器の庄内は3世紀前半であり、
墳墓形式の前方後円墳も、3世紀後半半ば過ぎの那珂八幡などは早く、
大和の祭祀用供献土器の庄内1も撥型前方後円墳も3世紀も末であり、
いずれにしても筑紫の方が先行しており、大和は筑紫からの伝播だ。

185日本@名無史さん2019/08/08(木) 20:42:30.72
正確な距離や道のりはどうせわからないのだから
そんなことをあれこれ言うよりも
実用的には遠隔地まで 何泊 でいけるかの方が重要だ

したがって、倭人は里を用いないという証言は倭人が実用本位の生活をしていたということだろう

そうしてみると中華王朝にとっての里というものの実態も理解できるのではないかな
土地をかならず方x里と方形で考える思想がイマイチ私はこれまで理解できなかった

中華王朝は領域を持つ国家ではなく
城壁で囲まれた邑、国邑同士が ゆるくつながっている城塞単位の切り取りが戦争であった

してみれば元々の里とは城壁の内側の面積を意味しており
国邑間の距離/道のりはやはり倭人と同じく日で数え、所要日数を里に換算して里数を記し、その所要日数を記さないという記述の慣例だったのではないかな
なぜなら日数は時間であって里数は長さであるからだ

読み手にとっては単純に行軍一日x里という基準があれば、何泊すればいいかは計算できる
必要なものは実長ではない
ある決められた値とルールがあって辻褄が合っていれば用は足せるのだからな

186日本@名無史さん2019/08/08(木) 20:43:30.62
と言うことで
奧山FAQ78は削除

187日本@名無史さん2019/08/08(木) 20:43:50.24
と言うことで
奧山FAQ78は削除

188日本@名無史さん2019/08/08(木) 20:52:25.30
490>>368
>倭の五王より前の時期は大陸との交流が途絶えているのだから、<

途絶えていない。
晋書などに記録されたように、九州倭国は、東夷諸国と合同して、
西晋末から南北朝にかけても、中国や南朝に遣使を派遣し続けている。

>入手の時期は魏晋朝、つまり卑弥呼から台与の時代に限られる<

大和に中国の文物を齎された事があったのなら、
それは九州倭国の東征毛人五十五國の将軍らが齎した。

189日本@名無史さん2019/08/08(木) 20:55:10.12
>>370
>水行、陸行をきっちり評価したこのレベルの旅程を九州説が出せるなら歓迎するよ <

「南≠東」などに拠って、×だから、関心がない。

190日本@名無史さん2019/08/08(木) 20:55:34.74
>>115
倭王権首都の変遷
奴国(福岡平野)→【倭国大乱】→邪馬台国(筑紫平野)→【磐井の乱】→狗奴国(熊本平野)→【乙巳の変】→太宰府→【白村江海戦】→近江大津京

191日本@名無史さん2019/08/08(木) 20:57:56.04
歩き移動は1日60里という基準があったらしいんだよ
日数で書いてれば里数に直せるし逆もしかり
ゆえに行道八日は480里という表記と同じく道里を表している

192日本@名無史さん2019/08/08(木) 20:58:32.63
なぜ同じ話ばかりしているんだ?
一度、精神科に行ったほうが良いんじゃないのか

193日本@名無史さん2019/08/08(木) 20:59:58.99
490>>385
>まさにこのルートですよ<

「南→東」などの嘘付き騙しに拠って、×。

194日本@名無史さん2019/08/08(木) 21:04:41.80
>>160
キウス・ザラコク・連続句読点・・その他にも論客がいると思ったが
あんんたもその一人だと思う
記紀から九州説を解き、畿内説に反論する人も論客だと思う
>>170も気になる論客の一人だし
奧山はどうでもいいが、畿内説はこんなもんでいいのかな????

195日本@名無史さん2019/08/08(木) 21:14:32.79
>>164
循環論法になっていない

196日本@名無史さん2019/08/08(木) 21:16:34.81
>>164
その長さの定規があっても、それを歩だと現代の学者が認識していないだけかもね。

197日本@名無史さん2019/08/08(木) 21:17:53.93
>>191
それが東夷において当てはまるという根拠はない。
魏志倭人伝を読む限り、船で水行1日の行程をおよそ千里としているようだ。

198日本@名無史さん2019/08/08(木) 21:20:15.95
>>149

>邪馬台国が福岡県に有った確率 99.9%
邪馬台国が佐賀県に有った確率 00.1%
邪馬台国が奈良県に有った確率 00.0% <

奧山のベイズ確率は正しかったのだ!

奧山は何を考えて他説に有利な確率を出したのだろうか?浅知恵だよなww

199日本@名無史さん2019/08/08(木) 21:20:32.41
031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説

単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。

失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。

http://2chb.net/r/history/1556294803/303

200日本@名無史さん2019/08/08(木) 21:21:44.16
>>197
>船で水行1日の行程をおよそ千里としているようだ。

別に1日にこだわる必要はない。 対馬海流の乗ってれば、ほっといても目的地に導いてくれるから。   @阿波

201日本@名無史さん2019/08/08(木) 21:23:28.95
158 167 169(他人の振り)
182(自演) 186 187 194(他人の振り)

202日本@名無史さん2019/08/08(木) 21:26:05.24
キウス氏が論破
と言うことで
奧山FAQ78は削除

203日本@名無史さん2019/08/08(木) 21:29:13.12
>>195
魏志での遼東や玄菟や扶余や高句麗の国間距離や国の大きさの説明は短里だから
魏志は短里で書かれている
循環論法

204日本@名無史さん2019/08/08(木) 21:30:24.45
>>203
帯方郡
↓【南】海岸水行7000里(500km)1里=71m
狗邪韓国
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬上対馬か)
↓海渡1000里 (50キロ)(50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐郷ノ浦か)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り)
↓【東南】陸行500里 (25キロ)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15キロ)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25キロ)1里250m
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛)
↓【南】水行10日又は陸行1月(旧土佐街道)
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)
↓【東】海渡1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里渡海→奈良周辺)

帯方郡→女王国(阿波)万二千里(900km)1里=75m

∴1里=70mは、概ね妥当。   @阿波

205日本@名無史さん2019/08/08(木) 21:33:31.26
>>196
そんな定規が見つかってない
九州説の言うように1歩と1尺の関係が25.5cm≒24cmなんて単位があったとしたら
互いに目盛りがそうなってる定規か何かが見つからなくては
ややこしくてやってられない
とくに短里は九州説によれば周・漢・魏と長きに渡って使われたそうだから
もし1歩≒1尺が実在したならいずれかの時代のものが最低1つは見つかるはず

>>197
帯方より南1万2千里は世界の果てまでの架空の距離を示しているから1日60里は当てはまらなくても
日数は道里のことという原則に変わりはなし

206日本@名無史さん2019/08/08(木) 21:34:35.33
>>202
根拠も出さず、どうやって論破したの?

ww

207日本@名無史さん2019/08/08(木) 21:35:11.45
>>204
1里250mになってる所もあるぞ
普通の里の方が近いんじゃ

208日本@名無史さん2019/08/08(木) 21:35:37.82
>>191  騙されてるよ
>歩き移動は1日60里という基準があったらしいんだよ <

「歩き移動は1日60里という基準」の根拠を自分なりに調べることをお勧めします
桜井市教委の公表も?????????????????????

209日本@名無史さん2019/08/08(木) 21:36:13.57
>>156
>後漢書も編集されたのが5cで成立はそれ以前

編集されるまでは、いろいろな記録として存在していたというだけ
後漢書が5世紀以前に成立していたというのはデタラメだ

>記述内容の最古の部分は1世紀の後漢と倭奴国の時代に遡る
>范曄が5cにそれまであった後漢書を編集したからといって
>書かれている内容をそれ以前の時代の参照にしてはいけない理由は何もないのである

だから、それ以前の記録を参照しているだけで、その参照した書の中に
三国志も入っている
で、後漢書の記録を元に三国志について語るのは本末転倒

210日本@名無史さん2019/08/08(木) 21:37:04.00
女王国は連合国家という概念
邪馬台国は女王国を構成する国の一つ
次有ではじまる20か国がその構成国

はい、畿内説は逃げないで答えてねー

211日本@名無史さん2019/08/08(木) 21:37:31.03
>>203
どこも循環していないw
キナイコシはバカw

212日本@名無史さん2019/08/08(木) 21:38:28.47
>>205
つまり歩は尺そのものなんだろ。
換算する必要はない。

213日本@名無史さん2019/08/08(木) 21:39:30.02
>>207
>1里250mになってる所もあるぞ

70m前後が大半。  ∴1里=70mは、概ね妥当。   @阿波

214日本@名無史さん2019/08/08(木) 21:40:03.18
490>>417
>全国規模の土器の規格化と墳墓形式の規格化が2段階で生じている
「庄内式土器と纒向型前方後円墳」が第一段階:卑弥呼の共立による政変<

筑紫では、庄内は3世紀前半で、前方後円墳は3世紀後半半ば過ぎ。
大和では、庄内も前方後円墳も、3世紀末。

>「布留式土器と定形化前方後円墳」が第二段階:卑弥呼の死に伴う政変
にそれぞれ対応していると考えれば理解しやすい<

筑紫では、布留は3世紀後半頃で前方後円墳と近い頃。
大和では、布留は4世紀であり、
いずれも卑弥呼に関係なく、×。

215日本@名無史さん2019/08/08(木) 21:41:13.66
>>207

>>204
>奴国(二万戸)(田川辺り)
>↓【東】100里 (25キロ)1里250m
>不弥国(千戸)(築上町辺り)

この場所の比定がどう見てもおかしいだけだよ。

216日本@名無史さん2019/08/08(木) 21:41:45.88
>>208
根拠は人の歩行速度
1時間4kmで1日6時間程度大体24kmはまあ妥当

217日本@名無史さん2019/08/08(木) 21:44:19.36
202(他人の振り) 208

218日本@名無史さん2019/08/08(木) 21:45:17.22
>>208
相変わらず内容のない九州説だな

219日本@名無史さん2019/08/08(木) 21:46:31.32
帯方郡(ソウル)ー狗邪韓国(プサン)660km/7000里=94m/1里
狗邪韓国(プサン)ー対馬国     100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐)       70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津)    50km/1000里=50m/1里
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島)    25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市)   20km/100里=200m/1里
奴国(福岡市)ー不弥国(宇美)   10km/100里=100m/1里

統計では、違う立場の数字を一緒にしてはいけないので、海路のデータ3つ(100,70,50)倭国に上陸したあとの陸路のデータ3つ(50,200,100)のn=3の二つのデータセットで、有意水準95%の区間推定を行うと、
海路 平均73m 分散633m
陸路 平均117m 分散5833m で
自由度2のt-値の5%点が4.303なので、
海路は 73.3(10.8〜135.8)ただし( )内は95%信頼区間
陸路は 116.7(-73.1〜306.4)ただし( )内は95%信頼区間
となります。単位はmです。
95%信頼区間に430mが含まれていないから、東夷では魏の里が使われていなかったことは明白。

220日本@名無史さん2019/08/08(木) 21:46:33.40
>>210
なにを答えるの?
質問が存在しないが

221日本@名無史さん2019/08/08(木) 21:46:38.90
>>215
>この場所の比定がどう見てもおかしいだけだよ。

陳寿さんは、50里単位を使わないからね。  致し方ないんだよ。  許してあげてね。  わはははは   @阿波

222日本@名無史さん2019/08/08(木) 21:47:13.57
>>211
というなら証明をどうぞ

223日本@名無史さん2019/08/08(木) 21:47:40.36
>>209
後漢書が三国志を参照しているという話は
実は根拠が非常に薄弱
編集する際に後漢書としてある文書をそのまま編集するのが自然で
出典も出さず三国志をそのまま書く理由が何もなく不自然

実は三国志こそ当事あった後漢書の原テキストを参照した可能性が
非常に高いのである

224日本@名無史さん2019/08/08(木) 21:48:45.08
>>222
循環しているという証明をしろよ。
悪魔の証明って知っているか?

225日本@名無史さん2019/08/08(木) 21:48:47.97
>>206
奧山だろ
FAQ78のQもテメーが作ったんだろ

◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!


これのAに九章算術も後漢書も必要ねーよ
それも誤読してるし

今回追記したのも汚点
>>面倒 の私的どおり

1「後漢書の其国大小、道里近遠、人数多少も比較 」

2「反義並列型二音節語ぐらい知ってるでしょ
多寡 白黒 大小 遠近 多少 長短・・・・・ みな比較です」

浅知恵はいかんぜよーー
すぐに、バレルよ 

226日本@名無史さん2019/08/08(木) 21:49:26.17
>>223
共通の原資料があった、でいいのだろう。

227日本@名無史さん2019/08/08(木) 21:49:30.77
>>220
じゃあ全面的に受け入れるということだね
畿内説敗北宣言おめでとうー

228日本@名無史さん2019/08/08(木) 21:51:16.56
>>215
>この場所の比定がどう見てもおかしいだけだよ。

陳寿さんは、50里単位を使わないからね。  致し方ないんだよ。  許してあげてね。  わはははは   @阿波

229日本@名無史さん2019/08/08(木) 21:52:30.54
225

230日本@名無史さん2019/08/08(木) 21:52:47.77
>>212
じゃ何で1里=300歩≒300尺なんて九州説は一生懸命主張してるんだよ
1里=300尺でいいんじゃないの

>>211
魏志は短里で書かれている
これは魏志に短里か使われてる証拠
循環論法

>>215
魏里は1里約430mだからそれから見ると全部おかしいね

231日本@名無史さん2019/08/08(木) 21:52:59.64
490>>418

>魏使さんは大陸人だから、船での沿岸航行で1日進んでどれくらいの里数なのか見当がつかなかったと
いうのが元々なんだろう<

魏使らは、3海峡の渡海の各「千余里」も、
「倭地参問」の「 女王國東渡海千餘里、復有國皆倭種」の「千余里」も計測出来ているから、
おそらく、簡易三角測量も一寸千里も知っており、使えた。

あと一日ごとの進む距離もバラバラだろうし、雨の日は進まなかった日もあるだろうし、
次に訪れる人への情報としては、日数の道里情報で十分だしね

232日本@名無史さん2019/08/08(木) 21:53:04.00
>>212
というトンデモ説が歴史学で認められる見通しは
まったく立たない
したがって、それに依存した邪馬台国九州説が
生き残る目はない

233日本@名無史さん2019/08/08(木) 21:55:29.29
行程で分かるのは一つ

1万2千里未満の九州は女王国にさえ含まれない属国

と言う事
お疲れさまでした

234日本@名無史さん2019/08/08(木) 21:55:44.00
>>214
なーんて根拠のまったく出せない「ワシの考え」で
現代考古学を完全に否定しないと
九州説はまるで成り立たない
という悲劇

235日本@名無史さん2019/08/08(木) 21:57:26.05
>>226
おおそうよ
それは恐らく魏の時代に書かれた後漢書
後漢の倭奴国の記録を邪馬台国に変えたものの可能性がある
魏は後漢と同じ南の世界の果てにある国と朝貢関係を結んだとしたくて
なので倭奴国についての記述だったものを邪馬台国に塗り替えようとしたフシがある

236日本@名無史さん2019/08/08(木) 21:57:27.97
>>1 1 ◆UiepmfCeDJqf
大笑い
FQA78に意気揚々と
「三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻」と持ち込んだバカwww

自爆 ・ 自業自得 ・ 自縄自縛

237日本@名無史さん2019/08/08(木) 22:00:46.04
>>234
畿内説として
FAQ78のAはこれでいいと思いますか?

238日本@名無史さん2019/08/08(木) 22:02:30.49
5c范曄の後漢書も
魏志倭人伝との比較によって十分当事の邪馬台国の記述についてを知る資料となる
今まで言われてきた関係とは逆に
後漢書にある記述こそ魏志倭人伝の原テキストの可能性も考えられる

239日本@名無史さん2019/08/08(木) 22:03:11.92
236 237

240日本@名無史さん2019/08/08(木) 22:04:04.54
と言うことで
奧山FAQ78は削除

241日本@名無史さん2019/08/08(木) 22:06:45.54
>>238
可能性だけならなんとでも指摘できるよ

証拠は?

242日本@名無史さん2019/08/08(木) 22:07:41.17
>>218
すまんなーー
>歩き移動は1日60里という基準<
これの主典が分らんだけなのだよ
すまんなーー

243日本@名無史さん2019/08/08(木) 22:11:43.87
>>241
そうだな
邪馬台国が帯方より南1万2千里とされている所
後漢書では楽浪より南1万2千里
後漢書に当事の後漢の国境楽浪よりと書いてあるとおり
この数値は後韓時代倭の極南界にあったとされた倭奴国の位置を示していたのではないかとか

244日本@名無史さん2019/08/08(木) 22:14:58.58
カタンの開拓には勝てないが、幸せは高まっているな、、、
だが、やはり、悔しいから、、、このスレッドで、笑いリラックスしたいのではないのかな、、、

245日本@名無史さん2019/08/08(木) 22:16:00.15
奥山氏は、笑いリラックスするためには、必要だな。。。

246キウス10号程度2019/08/08(木) 22:18:16.97
>>225

賛同だが、奥山にも感謝すべき

ボケも辛いよ

247日本@名無史さん2019/08/08(木) 22:19:20.19
>>240
やっぱりFAC78で九州説は致命傷受けたんだな

248日本@名無史さん2019/08/08(木) 22:20:07.47
490>>418
>魏使さんは大陸人だから、船での沿岸航行で1日進んでどれくらいの里数なのか見当がつかなかったというのが元々なんだろう<


ダメだ。
南北方向の「水行二十日」もある距離であれば、
魏使らは一寸千里で南北里数計測が十分可能であり、
その計測がされていない、という事は、
魏使らは投馬國へは行っていない、という事だ。

249日本@名無史さん2019/08/08(木) 22:21:27.25
240 242 246(他人の振り)

250日本@名無史さん2019/08/08(木) 22:22:37.22
すぐバレるキウスの自演

251日本@名無史さん2019/08/08(木) 22:24:55.94
後漢の倭奴国の朝貢記録
(倭は東南の海上にあり 百余国のうち30ケ国と交流
上陸まで楽浪より南1万里 王都倭奴国はそこから南2千里の極南界の
会稽東冶の東)

魏の後漢書
(位置情報が王都が帯方より南1万2千余里の邪馬台国とされる
あとは後漢の倭奴国の記録とほぼ同一)
↓      ↓       ↓
魏略  魏志倭人伝  後漢書


こうではないか

252日本@名無史さん2019/08/08(木) 22:27:24.15
そろそろトリ付けて出てくる悪寒

253日本@名無史さん2019/08/08(木) 22:27:41.60
畿内説は
万2千里に こだわらないほうが良い
行程は疑義あり程度で納めるべき
あとは倭人伝に基づく物証合戦に持ち込むほうが得策だが
これも難あり???
畿内説諸氏の投稿をよろしく

254日本@名無史さん2019/08/08(木) 22:30:49.89
>>222
酒を飲んでる?

255日本@名無史さん2019/08/08(木) 22:30:51.78
『魏志倭人伝』には、倭人は「鉄鏃(てつぞく
)」を用いる、などとある。
『弥生時代鉄器総覧』の鉄器出土地名表を見る
と、福岡県には49ページ割かれている。これ
に対し、奈良県には1ページも割かれていない。
「邪馬台国=奈良県存在説」を説く人々には
、この愕然とするほどの圧倒的な違いが目に入
らないのだろうか。

 例えば、弥生時代の鉄鏃の出土数をみれば、
下記のようになる。『魏志倭人伝』に記されて
いる事物(鎧・絹・勾玉など)で、遺跡・遺物
を残し得るものはすべて、出土数において福岡
県が奈良県を圧倒している。
邪馬台国畿内説 Part492 	YouTube動画>3本 ->画像>18枚
このような分布を示すいくつかのデータから、邪馬台国が福岡県にあった確率や、奈良県にあった確率を計算によって求めることができる。県ごとの確率は、下記のようになる。

邪馬台国が福岡県に有った確率 99.9%
邪馬台国が佐賀県に有った確率 00.1%
邪馬台国が奈良県に有った確率 00.0%

この確率計算にあたってご指導、ご協力をいただいた現代を代表する統計学者、松原望氏(東京大学名誉教授)は述べている。
「統計学者が『鉄の鏃』の各県出土データを見ると、もう邪馬台国についての結論は出ています」

256日本@名無史さん2019/08/08(木) 22:30:56.12
253

257日本@名無史さん2019/08/08(木) 22:31:23.34
>>253
九州説が言うかそれ

258日本@名無史さん2019/08/08(木) 22:32:51.05
490>>419
>卑弥呼後の台与は邪馬台国にいなかったのか?
魏志倭人伝にはそんなことはどこにも書いてないだろ?
卑弥呼の遺体を故郷に運んで埋葬したなんてことも書いてない
卑弥呼の死後、台与が王に立てられるまでに混乱はあったが、
卑弥呼の墓があるのも台与の座所も邪馬台国だ <、

勿論、台与も邪馬台国も、存在もしなかった嘘吐き騙し文言でもあるが、
死後の墓の地は、遺言が無ければ、普通は、亡くなった場所の近くの墓地地域か?、
故人の生まれ故郷の郷里の近くか?だ。
そして、卑弥呼は姫氏であるから、火の国山門に近い久留米に埋葬された可能性は十分にあるし、
壹與は、「壹」氏≒「伊」氏であるから、伊都地域に埋葬された可能性がある。

259日本@名無史さん2019/08/08(木) 22:34:26.16
490>>420
>倭国の政情調査が任務の魏使の経路としては倭国第二の大国である投馬国・出雲を通るルートが合理的
北部九州と出雲、出雲と大和を結ぶルートとして合理的な経路を連結しているだけだ
論理的かつ合理的だろ?<

「南≠東」などに拠って、×だ。

260日本@名無史さん2019/08/08(木) 22:35:50.48
>>216
わかるよ
しかしFAQ78の水行とは関係ないと思うよ

261日本@名無史さん2019/08/08(木) 22:36:03.33
後漢書は訂正が多いからな

262日本@名無史さん2019/08/08(木) 22:39:43.58
>>257
九州説ではありません
淀川水系説です・・

263日本@名無史さん2019/08/08(木) 22:42:02.84
>>262
クズ説だろ

264日本@名無史さん2019/08/08(木) 22:43:16.82
>>230
>1里=300尺でいいんじゃないの

いいよ。

>これは魏志に短里か使われてる証拠

これは言っていない。
捏造。

>魏里は1里約430mだからそれから見ると全部おかしいね

魏志倭東夷伝を読む限り、東夷では別の単位が使われていたようだ。

265日本@名無史さん2019/08/08(木) 22:44:04.45
>>235
>なので倭奴国についての記述だったものを邪馬台国に塗り替えようとしたフシがある

どちらにしても倭国だから概ね同じ。

266日本@名無史さん2019/08/08(木) 22:44:27.22
>>240
それしかないようだ。

267日本@名無史さん2019/08/08(木) 22:48:56.89
倭奴国が金印をもらったのは、考古学的には弥生王墓の中心が奴国から伊都国に移動した頃。
つまり後漢書の倭奴国とは、魏志倭人伝の伊都国。
誰かが意図的に奴国、倭奴国、伊都国と微妙なすり替えを重ねている。
いつしか筑紫は筑紫島に、筑紫の日向は日向国にすり替えられ、邪馬台は大和にすり替えられた。

268日本@名無史さん2019/08/08(木) 22:50:00.49
>>262
珍しい御仁がいるぞ。

269日本@名無史さん2019/08/08(木) 22:51:43.00
>>247
あのーーFAQ78は奥山の暴走
だから、あんた=奥山

違うというなら、三国志はじめ九章算術、漢書、随書、
薮内清「周髀算経」
銭宝編『中国数学史』
此のくらいは目を通してください

私も会社経営から身を引き暇ですので

270日本@名無史さん2019/08/08(木) 22:55:28.66
奧山説がピンチの時は
つぶやきが出没するww
奥山説は説じゃないけどいいじゃないか

271日本@名無史さん2019/08/08(木) 22:58:18.39
と言うことで
奧山FAQ78は削除

272日本@名無史さん2019/08/08(木) 22:58:54.43
キウス錯乱

273日本@名無史さん2019/08/08(木) 23:00:13.33
>>215
>この場所の比定がどう見てもおかしいだけだよ。

陳寿さんは、50里単位を使わないからね。  致し方ないんだよ。  許してあげてね。  わはははは   @阿波

274日本@名無史さん2019/08/08(木) 23:00:13.57
490>>442
>>「里」は、「一つの田畑とその耕作集落」を単位にして数える単位。<

>そうだな 一里=九夫で、9家族が暮らせるだけの耕作面積が1里だ
長さの単位としてはその正方形の1辺が一里となる訳だが、
こう考えてくれば、75メートルとか80メートルの短里では
9家族が飢え死にしてしまうからありえないって分かるな?<

「九夫」というのは、確か晋代の「〜法」の話だったから、
周代以前の「里」の文字の発生期の家族数と同じであったのか?、が疑問だな。

275日本@名無史さん2019/08/08(木) 23:00:32.01
>>215
>この場所の比定がどう見てもおかしいだけだよ。

陳寿さんは、50里単位を使わないからね。  致し方ないんだよ。  許してあげてね。  わはははは   @阿波

276日本@名無史さん2019/08/08(木) 23:01:30.28
反義並列型二音節語

キナイコシは理解できないだろう
俺は「Ok]

277日本@名無史さん2019/08/08(木) 23:01:53.90
陰謀論者って頭腐ってだろうな
日本の九州王朝とか言うバカげた物を?
中国が?
わざわざ公式の史書を捏造して?
隠蔽してました?

頭どうかしてんじゃねぇの

278日本@名無史さん2019/08/08(木) 23:02:09.76
260 262 266 268 269 270 271

279日本@名無史さん2019/08/08(木) 23:05:13.67
テンプレ
「過ぎたるは猶及ばざるが如し」
纒向に傾注すべきだと思う

280日本@名無史さん2019/08/08(木) 23:07:15.15
490>>448
「南→東」などの嘘吐き騙しのように、
どうしてそんなに自らの無能さをひけらかそうとするのか?
反論したければ、具体的な根拠とともに論じてくれ
大和説者に「その判断の具体的な根拠は?」と訊いても、返事が返ってこない
基本的な基礎知識が決定的に欠けているんだよ、ここに書き込む大和説の人はね
大和説の人は情報リテラシーを欠いている人ばかり

281日本@名無史さん2019/08/08(木) 23:07:47.58
>>277
頭がどうかしているようなレベルだからこそ
九州王朝説みたいな詐欺的言説にひっかかる

282日本@名無史さん2019/08/08(木) 23:08:55.70
276 279

283日本@名無史さん2019/08/08(木) 23:16:17.46
>>269
なわか支離滅裂な奴がいるな

284日本@名無史さん2019/08/08(木) 23:17:01.44
490>>457
>渡海部分は測定不能だから、一律千余里とする設定値<

一寸千里と大体の方向が判れば、作図に拠って、概算出来る。

285日本@名無史さん2019/08/08(木) 23:23:07.23
>>284
会稽よりずっと北だってこともバレるよ

286日本@名無史さん2019/08/08(木) 23:24:32.57
>>280
九州説はそういうウソ書いてて何か楽しいの ?
むなしくない?

287日本@名無史さん2019/08/08(木) 23:40:18.32
>>264
じゃ魏志に短里が使われてる証拠はないって事だな

288日本@名無史さん2019/08/08(木) 23:40:20.62
>>283
キウスの書き込みなんだからおかしいのは当然っちゃ当然

289日本@名無史さん2019/08/08(木) 23:42:07.22
>>265
倭の極南界にあるとされた倭奴国の位置に邪馬台国はないぞ

290日本@名無史さん2019/08/09(金) 02:03:47.23
>>288

>>283の「なわか」???って何
>なわか支離滅裂な奴がいるな <

291日本@名無史さん2019/08/09(金) 02:14:13.33
身から出たさび
しわ寄せが及ぶ
自分の身に跳ね返ってくる
付けが回る
自分で自分の首を絞める
自分で蒔いた種
因果応報
自縄自縛
帳尻合わせを強いられる
自分自身の悪行

自業自得

292日本@名無史さん2019/08/09(金) 02:21:24.53
木乃伊取りが木乃伊になる
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

293日本@名無史さん2019/08/09(金) 03:48:51.97
490>>464
>霧箱による量子検出実験は分かるか?
太陽黒点活動の活発な時期は、太陽風による荷電粒子の供給が多くなり、
地球の電離圏、バンアレン帯が強化され、高エネルギー宇宙線の遮蔽効果が高くなる
そうすると、大気の水蒸気過飽和領域を通る素粒子が減り、それによって雲が少なくなるんだよ
逆に太陽黒点活動の沈静化した時期は、雲が多くなり地球全休で見たときの
アルベド平均(白さの指標)が高くなり、太陽光が地球を温める前に雲で反射されるエネルギーの
比率が高くなる
それによって、太陽黒点活動の沈静化した時期は地球が寒冷化するんだよ<

成程。
しかし、バンアレン帯や雲による遮蔽や反射があったとしても、
それは一部であり、
太陽黒点活動に拠る地球圏全体の熱エネルギーの増加を否定出来るものではない。
要は、黒点活動期に於いての、
「地球の対流圏から地上」での温度変化の計測値を示す事だな。

294日本@名無史さん2019/08/09(金) 03:59:50.14
490>>465
>でも対馬海峡の渡海1区間千里は海上で一泊したりしないよな?
1日で漕ぎ切るんだよな?<

古田概算でも、「水行は1日450里位」であり、
渡海千余里は2日以上かかる事は避けられず、
まして、手漕ぎ程度の倭船では、海上一泊は避けられないだろうなあ。

>なら朝鮮半島の沿岸航行7千里もいけるよな?<

「七千余里」は、沿岸航行ではなく、循海岸水行+歴韓國乍南乍東の陸行、の合計。

295日本@名無史さん2019/08/09(金) 04:09:03.73
490>>470
>上陸地点として、丹波を書いておいてくれれば問題なかったんだけどね
ないものねだりをしてもしょうがないが
庄内土器の出土する地域が丹波の籠神社周辺まで経路沿いに伸びているので
案外この辺までヤマトのうちと数えているのかもしれない
>河内・難波は、畿内第V様式土器圏だから、ヤマト(邪馬台)七万戸のうちってだけ
吉備に関しては、
1. 通らなかったから知らない
2. 吉備の特殊器台が出雲でも出ているから出雲(投馬国)五万戸のうちと考える
3. 余傍国のうちのどれか
といったことが考えられるが、情報が少なすぎてこれ以上のことは言えない <

「南≠東」の釈明も出来ず、
結局は、根拠は全くない、という事であるだけだな。

296日本@名無史さん2019/08/09(金) 04:55:50.41
もう思考停止して、南ィ〜南ィ〜と
口走るだけに堕ちてしまった
末期九州説の悲惨

297日本@名無史さん2019/08/09(金) 05:05:51.17
490>>482
>>陳寿の書き方とは違うな。<

>陳寿の書き方と違うという根拠は?ww<

陳寿は、郡から女王之所都への「萬二千余里」とその部分行程里と、
「水行十日陸行一月」の所要日数説明を書き分け、
「參問倭地」の五千余里と、
それには含まれない投馬國や裸國や黒歯國への日数説明とを、
キチンと書き分けている。

>陳寿も当然、九章算術の表記法は知ってるし、それに従って書いてる<

陳寿は、
九章算術が採用した「秦の始皇帝の1歩=6尺」の長里の度量衡を採用せず、
周髀算経の周里の度量衡を採用し、
「道里」に関しても、九章算術のような「日数≒道里」という書き方しなかった。


298日本@名無史さん2019/08/09(金) 05:15:34.10
490>>483
>そして、道里が略載されているのも事実なんだから、<

陳寿は、道里記載と日数記載とを書き分けている、という事が事実。

>「つまり投馬国は「女王国以北」ではない!」が間違い <

不彌國で萬二千余里がほぼ終わる書き方をしているから、
投馬國は、不彌國やそのすぐ南にある邪馬壹國女王之所都から南へ、
「水行二十日」の位置説明をしているので、「自女王國以北」ではなく、
「自女王國以南」になる。

>結局「投馬国は南九州でよいのだ!」は否定される<

否定されない。

299日本@名無史さん2019/08/09(金) 05:27:19.29
どれを見ても
なんの理由と言わず
「書き分けてる」
と、言い張ってるだけだよな

言い張るだけが
九州説は

300日本@名無史さん2019/08/09(金) 05:28:40.14
490>>486
>陳寿は参照元の表現をそのまま尊重する傾向が強いことが確かめられており、
参照元が里数のところは里数、日数のところは日数で書いた<

参照元の魏の役人たちは、里で書いて来たものを、理由もなく、勝手に日数で記載する、
というアホな事をしないもの。

>とするのが多数説<

多数説になるのは、国民に支持された九州説であり、
国民は「南→東」のどの嘘吐き騙しの大和説学者を信用していない。

301日本@名無史さん2019/08/09(金) 05:30:43.77
>>126
ほん、東遷が好きだなあ〜。
都落ちだよ、都落ち。
うれしそうに都落ちしないでね。

302日本@名無史さん2019/08/09(金) 05:36:35.17
>>145
尾張から奈良へ文物が動いた、とそこまでわかっているのであれば、
前方後方墳墓→前方後円墳墓となったこともお見通しのはず。
後方部を後円にしただけだよね。
前方後円墳のルーツは尾張でOKね。

303日本@名無史さん2019/08/09(金) 05:47:23.60
>>153
円墳の形が不整円であるのは弥生の証拠。
纏向遺跡の箸墓古墳の後円部は整円墳であり、石塚古墳など5基は後円部はすべて不整円形。
石塚などは弥生墳。

304日本@名無史さん2019/08/09(金) 06:15:28.98
>>258
狗奴国に攻め込まれた卑弥呼は、邪馬台国の北部あたりまで避難していた可能性が高いな。
その邪馬台国の北部あたりは八女だろう。
その付近に卑弥呼の墓があるはずよ。
日本書紀で、宮崎にいた景行がぐるっと西回りして最後に藤山の峠から南の山々を眺める情景が描かれているが、
あの裏設定は、卑弥呼が死んだ場所を眺めたもんだよ。
卑弥呼は八女あたりに葬られたということだな。

305日本@名無史さん2019/08/09(金) 06:25:04.67
>>298
投馬国は、薩摩の阿多だよ。
野間岬〜吹上浜の北の端まで。

306日本@名無史さん2019/08/09(金) 07:09:05.47
>>298
里数と日数を2つ書いているけど
その2つをどちらも道里と表記している

不彌国までではまだ1万7百里
邪馬台国の位置はははるか南の会稽東治の東

307日本@名無史さん2019/08/09(金) 07:10:33.44
>>225
>「後漢書の其国大小、道里近遠、人数多少も比較 」
反義並列型二音節語ぐらい知ってるでしょ
多寡 白黒 大小 遠近 多少 長短・・・・・ みな比較です」 <

成程ね

308日本@名無史さん2019/08/09(金) 07:21:28.09
帯方郡
↓【南】海岸水行7000里(500km)1里=71m
狗邪韓国
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬上対馬か)
↓海渡1000里 (50キロ)(50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐郷ノ浦か)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り)
↓【東南】陸行500里 (25キロ)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15キロ)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25キロ)1里250m
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛)
↓【南】水行10日又は陸行1月(旧土佐街道)
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)
↓【東】海渡1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里渡海→奈良周辺)

帯方郡→女王国(阿波)万二千里(900km)1里=75m

∴1里=70mは、概ね妥当。   @阿波

309日本@名無史さん2019/08/09(金) 07:29:06.38
・舞い降りた天皇(上) 初代天皇「X」は、どこから来たのか (祥伝社文庫)
・失われたミカドの秘紋 エルサレムからヤマトへ--「漢字」がすべてを語りだす! (祥伝社文庫)

全て解き明かされておりますので

「天皇の真実を公表する」そう息巻いていた友人が死んだ。歴史作家・望月真司はその死に疑問を抱き、彼が知った事実を調べるため、支那大陸へ。
そこで目にしたのは、キリスト教が中国で流行したことを示す石碑、そして古くからあるイスラム教の寺院。これらが望月の頭の中で結び付けられたとき、ヤマト民族の起源が浮上する!
真の古代史を追求する、驚愕の歴史ロマン。

310日本@名無史さん2019/08/09(金) 07:32:55.54
>>306
>なわか支離滅裂な奴がいるな <

311日本@名無史さん2019/08/09(金) 07:38:37.14
奧山
FAQ78
恥の上塗りを続けるか削除するかの二者択一

312日本@名無史さん2019/08/09(金) 07:39:30.51
>>74 宮崎康平「まぼろしの邪馬台国」やん!w
ダウンロード&関連動画>>


313日本@名無史さん2019/08/09(金) 07:39:35.21
九州説はすでに終了

314日本@名無史さん2019/08/09(金) 07:43:58.38
>>72
>>74
道理で揉めるわけだw

315日本@名無史さん2019/08/09(金) 07:54:56.01
>>311
それ、理由ないよな

FAC78のせいで九州説が瀕死ってことか

316日本@名無史さん2019/08/09(金) 07:56:56.95
フムフム
158日本@名無史さん2019/08/08(木) 19:16:37.25
FAQ78
いじり過ぎ
基本的にAとして九章算術も後漢書を出す必要はない

なお、後漢書の其国大小、道里近遠、人数多少も比較

実数値では無い 

残念

317日本@名無史さん2019/08/09(金) 07:58:18.87
>>72
>>74
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」(リンク参照)同様、呉の牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管轄する「伽耶の鉄」の入手を容易にするため。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置であることに留意されたい。
そこで主要3説(九州説・四国説・畿内説)における狗奴国を検討すると、以下のようになる。

−女王国「A東渡海」千里「複有国B」皆倭種(〇九州説…A関門海峡B本州、〇四国説…A紀伊水道B本州、✖畿内説…A鈴鹿山脈?B北海道?)
−其南有狗奴國 不属女王(〇九州説…熊本もしくは薩摩、△四国説…南阿波、✖畿内説…仲良し東海?)

畿内説はいずれも当てはまらない上「複有国(東)」と「狗奴国(南→東)」が重複し混乱が生じる上、鉄製武器も文字も駅伝制(早馬)もない3世紀畿内にいて、遠隔の北部九州を支配下に置くのは不可能。
また3世紀の四国に十四万戸(邪馬台国+狗奴国)比定は無理がある(後述)。消去法によって、九州説が正しい。
次に、狗奴国が熊本平野か鹿児島川内(せんだい)平野かだが、邪馬台国七万戸を統治している女王卑弥呼をして、魏の明帝曹叡に援軍要請させるほど窮地に陥れる(狗奴)国の国力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)と仮定。
面積から見て、狗奴国が川内(せんだい)平野でゎ3世紀の開墾能力では限界があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と想定して、
北の邪馬台国は筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所&(天気が良ければ)福岡平野→糸島(伊都国)→壱岐島までズドーンと見渡せる甘木朝倉と確定。
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(リンク参照)を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3

318日本@名無史さん2019/08/09(金) 08:00:04.38
>>315
あんたに言ってない 奥山にだ
コテ付けるか、名無しで行くか二者択一ww

319日本@名無史さん2019/08/09(金) 08:05:42.18
>>317の続き
すると、もう一つの謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国・卑弥弓呼の子孫/八代淡海→「近江」)も判明。
古代史は以下↓のように一挙に解明できるのである!

漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の説諭で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏>晋>「宋>斉>梁」南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」に任官(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
倭王阿毎多利思比孤、「天子」隋煬帝に対等外交&(高句麗遠征の鍵)新羅の朝貢を契機に「独立宣言」607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…大連・物部守屋を滅ぼし前方後円墳築造停止。大和分家を乗っ取ろうとした大臣蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、大和へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種・九州年号&多利思比孤を抹消すべく、崇神朝→応神朝→継体朝の歴代倭王権@九州内の交代が、すべて大和で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名を移植。朝倉&阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)

まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武朝(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京)

320日本@名無史さん2019/08/09(金) 08:12:33.88
対義語。反意語。反義語。反対語。

1 同一言語の中で、意味が正反対の関係にある語。一方を否定すれば必ず他方になる関係の「男⇔女」「生⇔死」などの場合、
程度の差を表す「大きい⇔小さい」「遠い⇔近い」「よい⇔悪い」などの場合、一つの事柄を見方や立場をかえて表現する
「売る⇔買う」「教える⇔習う」などの場合がある。
2 広く1に加えて対照的な関係にある語、例えば「天⇔地」「北極⇔南極」などをも含めていう。

321日本@名無史さん2019/08/09(金) 08:16:38.63
>>320
もちろんそれは
相対的な比較という話ではないんだよ

322日本@名無史さん2019/08/09(金) 08:25:59.41
>>319の続き
邪馬台国女王台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神朝「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国女王「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。

ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
崇神朝(伊都国系)の@景行A成務B仲哀、続くC応神(息子)D仁徳(孫)の5人の大王に仕えた彼は、筑紫邪馬台国女王・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0

磐井の乱で、その応神朝@筑紫(邪馬台国系の♂武内宿彌&♀神功皇后)を乗っ取った狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図っている(倭国大乱の再発予防)。

この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部氏長者の守屋を滅ぼし、その妹推古が仏教を国教化に成功。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家を乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での惨敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、〔倭国独自(九州)元号を創設した継体朝の、「天子」を名乗ってしまったため、記紀に消された〕多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津京に東遷。

ここに倭王権は史上初めて九州島を出て、近江大津京→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の古墳時代の畿内には、記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治以降設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。

323日本@名無史さん2019/08/09(金) 08:26:28.33
いい加減に、纒向は尾張の傘下の流通センターで、饒速日物部氏族の支配地域であったと認めろよ。

324日本@名無史さん2019/08/09(金) 08:31:40.65
490>>490
>うそをついちゃいかんな
里数で書いてあるところと、日数で書いてあるところがあるだけ
併記されているところはどこにもない<

うそをついちゃいかんな、類スレ主。
郡から女王之所都は、
部分里数と、全体里数の「萬二千余里」と、
「水行十日陸行一月」の「全体日数」の、両方が並記されている。

325日本@名無史さん2019/08/09(金) 08:34:58.67
>>322の続き、
ダイワとしか読めない大倭(後に大和)を「ヤマト」と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、唐帝国に対し、新益藤原京を新設した畿内に筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆があったと思わせたかったから、なのである!

白村江海戦惨敗で九州本家の天智が東遷した後、大和分家の天武が(確実に唐を刺激する、継体創設の倭国独自年号+「天子」多利思比孤を抹消するための)歴史改ざん書である記紀を書かせ、
畿内を記紀の歴史テーマパーク化していったたからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(後漢書東夷伝から借用→ヤマト)なのである!
魏晋南北朝〜唐までは、倭国は九州島のみと認識されていた。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だった。(九州から見て日が昇る)日辺にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭と言う名前が優雅でないから日本と改名した」と言い、また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭国の地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。

事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が大和分家(近江大津京)に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた記紀の歴史テーマパークにするため大倭(後に大和)と書かせ、
発音だけ九州時代の都であった筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を繰り下げて生まれた畿内説(他人の褌)、ならびに教科書に載っている古墳時代にあったとされるヤマト王権(定説)は、
超大国・唐(アメリカ・トランプ大統領)との連携外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として実行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた電波(幻想)で、
特に前者は、記紀(定説・ヤマト王権)というゴール地点から、考古学と魏志倭人伝という他人の褌で、どこまで史実(スタート地点)歪曲を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである!

326日本@名無史さん2019/08/09(金) 08:36:13.40
490>>494
だから反論したいなら、具体的な根拠をつけて書けと何度言えば
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者に、
「その判断の具体的な根拠は?」と訊いても、返事が返ってこない
基本的な基礎知識が決定的に欠けているんだよ、ここに書き込む大和説の人はね

大和説の人は情報リテラシーを欠いている人ばかり

327日本@名無史さん2019/08/09(金) 08:49:47.51
>>325の続き
まとめると、663年8月の白村江海戦で倭国水軍を全滅(広島&長崎原爆に相当)させた大艦隊を擁し(動画リンク参照)、
ダウンロード&関連動画>>


その気になれば、完全に無防備(もはや陸軍のみ→夥しい神籠石式&朝鮮式山城の築造ラッシュ)となった倭国に襲来し、当時の首都太宰府を殲滅できた大帝国・唐外交への忖度で生まれた古事記・日本書紀が消そうとしたのは、

A.史上初めて九州島を脱出し、近江大津京に東遷した天智以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)が北部九州(筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆)にあったこと
 →3王朝ともその奥津城(王家の谷)畿内にあったことにした(歴史テーマパーク「大倭」)。
B.さらに、磐井の乱で筑紫応神朝を乗っ取った、阿蘇継体朝がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!

@(武寧王の百済を完全属国化した)継体@阿蘇邪靡堆が創設した(世界の支配者=中国皇帝からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号の創設
 →天智の倭京・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長以前は全て抹消!
A新羅からの朝貢で調子に乗って、世界の支配者「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤
 →大和分家の摂政・厩戸皇子とすっトボけつつ、2人を合成して「聖徳太子」を捏造!
B白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に恐怖した九州本家・天智@倭京(太宰府)の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草w)
 →舒明♂皇極♀の長男&斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚・天智天武兄弟の秘密)

-継体朝による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・倭京・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html

328日本@名無史さん2019/08/09(金) 08:50:49.40
>>323
理由もなく?

w

329日本@名無史さん2019/08/09(金) 08:51:49.55
安易に原爆を持ち出すのはいただけない。

330日本@名無史さん2019/08/09(金) 08:52:22.03
今城塚古墳に眠る大王の、ピンクの石はなぜ運ばれたのだろう?

331日本@名無史さん2019/08/09(金) 08:53:33.06
490>>505
>>では問うが、倭国の範囲は九州だけか、本州西日本も含むのか、はっきりしてほしいな。

>はっきりしてるだろ? この範囲だよ <

卑弥呼の墓は冢であって前方後円墳ではなく、
前方後円墳も筑紫が最も早くて3世紀後半半ば過ぎであり、
筑紫倭国の「東征毛人五十五國」に拠って出来た大和の前方後円墳の石塚は、
3世紀末だから、
類スレ主は×ね。

332日本@名無史さん2019/08/09(金) 08:53:48.25
>>324
>部分里数と、全体里数の「萬二千余里」と、
>「水行十日陸行一月」の「全体日数」の、両方が並記されている。

その「部分里数」の総計と全体里数の「萬二千余里」が
けして等しくならないフルタ説は
決定的に破綻しているのだよ

333日本@名無史さん2019/08/09(金) 08:56:48.93
「古田武彦のことは嫌いでも、九州王朝説のことは嫌いにならないでください!!!」(キンタロー)

334日本@名無史さん2019/08/09(金) 08:59:35.59
>>331
>卑弥呼の墓は冢であって前方後円墳ではなく、

いつも結論言い張るだけで
理由を言わない
九州説は
クズ説

335日本@名無史さん2019/08/09(金) 09:00:23.60
490>>536
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は
言いがかりをつけに来てはあえなく論破されて
追い散らかされる

336日本@名無史さん2019/08/09(金) 09:01:22.67
学閥の親分の意向を忖度して、四方八方切りつけて回る畿内小僧
リテラシーのカケラもない・・

337日本@名無史さん2019/08/09(金) 09:02:12.90
>>325
他人のふんどし、奇(怪)な異説!w

338日本@名無史さん2019/08/09(金) 09:04:02.92
>>333
フルタは、「倭国」の範囲をどのように考えていたのかなあ・・?

339日本@名無史さん2019/08/09(金) 09:04:30.46
>>335
このように
いつも九州説は
証拠を絶対に出さない

340日本@名無史さん2019/08/09(金) 09:06:13.32
310 311 315 316 318 320

341日本@名無史さん2019/08/09(金) 09:10:37.45
全ナントカ病という

342日本@名無史さん2019/08/09(金) 09:39:06.43
>>317
>また3世紀の四国に十四万戸(邪馬台国+狗奴国)比定は無理がある(後述)。


無理が在るのは、九州説。  いくら、面積うんぬんを言っても意味をなさない。 意味が在るのは、弥生後期集落遺跡群である。  

碌な弥生後期集落遺跡群の無い九州に、邪馬台国が在る訳がない。  以上御終い。   @阿波

343日本@名無史さん2019/08/09(金) 09:39:08.85
490>>564
>Korea fatigueってっ知ってるかい
まったく同じことをやってるぞww<

あれま?。類スレ主は、この文言ばかり貼り付けているぞ。
こりゃ、京都アニメ放火犯のように、
韓国への放火大量殺戮事件でも起こして、
殺し合い戦争を誘発させる事件を起こしそうだな。

何故5chや警察は、こんなヘイトスピーチ殺戮狂を放置しておくんだろうかねえ?。

344日本@名無史さん2019/08/09(金) 09:44:43.03
490>>568
>いいえ、卑弥呼の共立時から古墳時代です <

いえ、卑弥呼の墓でも、まだ「冢」であって、前方後円墳ではありません。
そして、筑紫の前方後円墳は、那珂八幡などの3世紀後半半ば過ぎであり、
大和の前方後円墳は、3世紀末の石塚からです。

345日本@名無史さん2019/08/09(金) 09:50:08.95
>>317
>また3世紀の四国に十四万戸(邪馬台国+狗奴国)比定は無理がある(後述)。


無理があるのは、九州説。  いくら、面積うんぬんを言っても意味をなさない。 意味があるのは、弥生後期集落遺跡群である。  

碌な弥生後期集落遺跡群の無い九州に、邪馬台国が在る訳がない。  以上御終い。   @阿波

346日本@名無史さん2019/08/09(金) 09:51:25.76
キウス鑑定士とか言う奴目障りなんだけど

347日本@名無史さん2019/08/09(金) 10:04:47.56
490>>579
そうやって、
「南→東」などの嘘付き騙しの指摘から逃げまくるだけのから、
ダメ人間の集まりが大和説
根拠は、僕がそう思ったから
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説学者の編年研究は信じる
文献解釈はアクロバット
考古遺物は、大和の3世紀末以後のものを全て50年位以上前倒しして、
3世紀前半の卑弥呼の頃に持って来る。

348日本@名無史さん2019/08/09(金) 10:06:25.40
>>344
>いえ、卑弥呼の墓でも、まだ「冢」であって、前方後円墳ではありません。

ほら、理由も言わず
結論連呼するだけ

だから九州説はクズ説と言われる

349日本@名無史さん2019/08/09(金) 10:28:47.63
>>317
魏志倭人伝の年代記述に合わせて「箸墓=卑弥呼の冢」としてみたものの、
位置情報(東渡海複有国≒南狗奴国)、卑弥呼の宮殿(楼観なし厳設城柵なし)、矛盾だらけになる奇(怪)な異説w

350日本@名無史さん2019/08/09(金) 10:33:31.62
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 
乃共立一女子為王 名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國 自為王以来少有見者 
以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛

351日本@名無史さん2019/08/09(金) 10:36:54.08
>>321
対比だよ

352日本@名無史さん2019/08/09(金) 10:40:15.25
ほら、理由も言わず
結論連呼するだけ、

・・・と連呼連呼するだけしかない畿内説。

353日本@名無史さん2019/08/09(金) 10:40:35.23
490>>581
>Korea fatigueってっ知ってるかい
韓国とまったく同じことをやってるぞww<

類スレ主は、
ガソリンを撒いて火を付けそうな人。

354日本@名無史さん2019/08/09(金) 10:43:09.91
>>74
>>317
「女王國 東渡海千餘里 復有國皆倭種」とある時点で、「其南有狗奴国」と方角はきちんと区別しているわけで、
南→東の読み替えは、結局「箸墓ありき説」の我田引水ということだぬw

355日本@名無史さん2019/08/09(金) 10:48:05.76
>>352
第三者だれにでも確認できる事実の指摘は何度してもよい

356日本@名無史さん2019/08/09(金) 10:49:12.07
学閥の大親分を忖度しただけのごり押し「纒向王都」説

357日本@名無史さん2019/08/09(金) 10:49:59.18
箸墓は真の神武陵である可能性が高いな、、、

358日本@名無史さん2019/08/09(金) 10:54:14.95
箸墓・後円部の断面図(北側)
………………………______
5段目……………/倭迹迹日百襲姫\←崇神が追加
4段目…………/ ̄ ̄ ̄神 ̄武 ̄ ̄ ̄\____________
3段目………/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\___________\_
2段目……/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\____________\_
1段目_/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\_____________\__地面
……… ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

359日本@名無史さん2019/08/09(金) 11:01:38.06
>>357

平地に造られるのは、忌部一族の豪族墓だよ。  王族は山稜に葬られるもの。 これ、常識。  今でも同じ。   @阿波

360日本@名無史さん2019/08/09(金) 12:04:48.10
490>>676
>これが大和朝廷と近畿が急速に発展した理由。
なので邪馬台国は大和朝廷の前の時代の別組織のお話。<

大和朝廷も邪馬台国も存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
大和説は、「南≠東」などに拠っても、×。

361日本@名無史さん2019/08/09(金) 12:09:23.13
490>>681
>清水 眞一氏
 私は20年間、大和の中央部・桜井市で、
「邪馬台国は何処(いずこ)」とのテーマを持って、発掘調査に従事してきた。その結果として、邪馬台国が成立して、女王卑弥呼を擁立するまでの弥生時代中・後期に、大和には他地域を圧倒するような「ムラ」や「墓」が見られないことに気付いた。
 代表的なムラである唐古・鍵遺跡も、畿内の同時期の池上曽根遺跡や田能遺跡などと比較して、飛び抜けて大きいムラとは思えなかった。逆に、墓に関しては、西日本各地と比べて遅れた地域との思いも抱いたことだった。
 であれば、その次の古墳時代に入って、纏向の地に100メートル以上もの巨大古墳が、なぜ突如として築造されるのか。これは、大和の地に別の地域の人々が入って来たと考えざるを得ない状況であるとみた。
 では、誰が何処からきたのか? 考古学の資料からは、特定の地域が限定できない。となれば、卑弥呼の邪馬台国は、北部九州のどこかではないかと思われる。 <

フーン。
また一人、大和説→九州説に転向する学者が出て来た。

362日本@名無史さん2019/08/09(金) 12:23:53.97
どっしりした山のように不動の畿内説をひっくり返そうと延々と無駄にあがいた挙句
とうとう九州説の燃料のウソがガス欠に

363日本@名無史さん2019/08/09(金) 12:34:29.59
>>72の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
   ┏━━┓帯方郡  ┏┛〜〜〜日本海〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜東→✖畿内説沈没地点(†乗客乗員>>73
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行十日」↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」 
 ↓ ┃「瀚海」↓↓〜玄界灘〜↗_〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
   ┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行十日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃ 
   ┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
 ↑ ┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃★奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王四千余里」@阿波
建業┃〜〜┃狗奴(球磨)国▲▲投馬(都万)国┘宮崎平野=南「水行二十日」
会稽┃〜〜┗━━女王国島━━┛↓〜〜〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海〜┌南「水行十日」〜〜〜〜〜〜
   ┃〜〜┌┌←←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)↓
 ↓ ┃〜〜│↓「陸行一月」(幻)│←「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
   ┃〜〜│↓〜▲〜〜〜〜〜│亶州(沖縄)〜↓「自郡至女王国 万二千余里」
東冶┃〜〜│☆奴国A(幻)〜〜│←『【女王之所都】計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
   ┃〜〜│▲狗奴国(幻)〜〜│夷州(台湾)〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国(幻)遠絶 不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜南シナ海〜〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(☆奴国A)東南 船行一年」

364日本@名無史さん2019/08/09(金) 12:40:11.54
>>361
あほか

九州説はみんな脳内時計が狂ってるな
歴史やるの無理

365日本@名無史さん2019/08/09(金) 12:43:31.70
5世紀には金属製に置き換わる直前、4世紀末の木製輪鐙さえ出なければ、実は漏れも畿内説だったことをここに告白したい(良心の呵責)

366日本@名無史さん2019/08/09(金) 12:45:21.72
物のせいにすな
お前がアホだったからだ

367日本@名無史さん2019/08/09(金) 12:52:13.35
>>365
ほら、また4世紀末の木製輪鐙とかニセ情報を流す

それが九州説

368日本@名無史さん2019/08/09(金) 12:55:34.84
木製輪鐙が4世紀初めなら、馬の5世紀までの100年間をどう埋めるんだ?w

369日本@名無史さん2019/08/09(金) 12:57:43.05
>>368
単なる断絶

370日本@名無史さん2019/08/09(金) 12:59:42.48
>>368
なんの連続性もないものの
間を埋める必要が
どこにあるね?

371日本@名無史さん2019/08/09(金) 13:01:51.53
>>349 >>350
矛盾だらけの畿内説。合わせた(✖合ってる)のは築造時期だけw

372日本@名無史さん2019/08/09(金) 13:03:42.04
その時だけ入ってきた物
別にそこから日本で馬が広まったとか誰も言ってないし
アホの九州説はその程度も理解できない

むしろ中国と何百年も付き合って馬の一匹も取り入れられない九州のヘボさが際立つ

373日本@名無史さん2019/08/09(金) 13:09:07.86
>>370
普通の畿内説の論者はその連続性を仮定してるわけだが?

連続性を否定するならその根拠がいるね

374日本@名無史さん2019/08/09(金) 13:14:11.59
>>373
>普通の畿内説の論者はその連続性を仮定してるわけだが?

してるって証拠は?

375日本@名無史さん2019/08/09(金) 13:19:49.82
>>210
>女王国は連合国家という概念

対馬から投馬国までを除く理由は?

>邪馬台国は女王国を構成する国の一つ
>次有ではじまる20か国がその構成国

この二行でも、邪馬台国と女王國連合の関係ばぶれている

きちんと考えていない人間の特徴
その場しのぎの場当たりでしかものを考えられていない証拠

376日本@名無史さん2019/08/09(金) 13:21:05.56
>>373
>連続性を否定するならその根拠がいるね

出てるでしょ

構造が違う
用途が違う
そして時代が離れてるw

377日本@名無史さん2019/08/09(金) 13:22:43.24
畿内説は砂上の楼閣

378日本@名無史さん2019/08/09(金) 13:24:00.56
>>212
>つまり歩は尺そのものなんだろ。

こういうのがバカそのもの
秦の始皇帝が、度量衡の統一をしてから、400年近くたち
その間6尺=1歩の公定尺がずっと使われているのに、
一尺=一歩の体系を使ったら商取引が一切できなくなるよww

379日本@名無史さん2019/08/09(金) 13:25:08.23
今でこそ九州説だが、昔は奈良飛鳥が日本の都だったと信じていたよ
(奈良以降は間違いではない)
天孫降臨が宮崎というのはわけがわからなかった
しかし福岡が弥生文化の発祥の地、弥生王墓の集中するところと知って、筑紫に倭国という国があったのだと納得した

380日本@名無史さん2019/08/09(金) 13:26:46.90
>>219
>自由度2のt-値の5%点が4.303なので、

母集団が正規分布であることが示されないので、t-値は使えない
信頼区間の計算として不正

>陸路は 116.7(-73.1〜306.4)ただし( )内は95%信頼区間

比率変数で、信頼区間が0点をまたいだら、それは意味のない推定
つまり、統計処理しても無駄ということ

381日本@名無史さん2019/08/09(金) 13:28:22.50
>>221
>陳寿さんは、50里単位を使わないからね。  致し方ないんだよ。  許してあげてね。  わはははは   @阿波

50里を「バカの想定する短里=70メートル」で考えると、3.5キロにしかならない
九州説や泡の考える国は小さすぎる

382日本@名無史さん2019/08/09(金) 13:29:51.69
>>223
>後漢書が三国志を参照しているという話は
>実は根拠が非常に薄弱

対応部分を書き出すだけで、倭人伝部分については後漢書が三国志の記述を
なぞっていることが明確

悪魔の証明に持ち込むことでどっちもどっちにするのは不正

383日本@名無史さん2019/08/09(金) 13:31:04.01
>>226
>共通の原資料があった、でいいのだろう。

5世紀時点では、三国志こそ共通の原資料だよ

384日本@名無史さん2019/08/09(金) 13:33:30.91
>>237
>FAQ78のAはこれでいいと思いますか?

この件に関する九州説のファビョり方を見ても、
まさに必要なFAQであり適切なAであることが分かるなww

385日本@名無史さん2019/08/09(金) 13:36:39.22
IQが異常に低いのは奥山氏だけなのかと思いきや、考古学者は全般に低いんだな。
だから考古学なんかやっているのだという話もw
テンプレ読んで異常を感じない人はヤバいぞw

386日本@名無史さん2019/08/09(金) 13:37:11.15
>>243
>邪馬台国が帯方より南1万2千里とされている所
>後漢書では楽浪より南1万2千里

後漢代には帯方郡は設置されていないから、帯方郡からという表記を修正した
帯方郡は楽浪郡を分郡したものだから、その南の端は移動していない
漢土(大陸王朝直轄地)の端から萬二千里というのは概念であり観念だから、
それぞれの時代の端から萬二千里で問題ない

<萬二千里の変遷>
淮南子:碣石山→東方之極
後漢書:楽浪郡→倭
魏志: 帯方郡→倭

要は中国の国境から辺境まで「萬二千里」と観念距離を置いているわけ
中国の範囲が拡大していっても「萬二千里」は変わらない

387日本@名無史さん2019/08/09(金) 13:39:23.52
テンプレの文章は、他人を騙そうという意識がありありと感じられる。
詐欺師の話法なんだよ。
難しい言葉遣いを無理にしているからかえって不自然で、実は知的水準もしくは教育水準の低さが透けて見える。

388日本@名無史さん2019/08/09(金) 13:53:07.24
悪口しか言えなくなった九州説
末期症状だなあ

389日本@名無史さん2019/08/09(金) 14:01:08.02
>>388
悪口じゃなくて、診断結果だからw

390日本@名無史さん2019/08/09(金) 14:08:47.25
>>389
ベースになる事実の提出ゼロの診断とか
あるわけないがな

391日本@名無史さん2019/08/09(金) 14:23:06.24
魏志の奴国の記載は面白いな
おそらく金印を貰ったと思われる九州最大の2万戸の大国なのに特に何も記載がない
逆に後漢書に登場しない伊都国に世々王がいたとある
そしてこっちはたったの千戸

元々の奴国王が領国から切り離されて隔離されてる感じに見える

392日本@名無史さん2019/08/09(金) 14:29:28.98
>>390
諦めな すでにFAQ78は論破されている
ご丁寧に後漢書の間違った解釈まで持ちだしてwww
Aは簡単に答えらてるのに、
知ったかぶり知識をもちだすからチンプンカンプンになるのだよ

393日本@名無史さん2019/08/09(金) 14:35:45.77
>>392
論破?

誰がどうやって?

394日本@名無史さん2019/08/09(金) 14:40:29.07
>>264
>魏志倭東夷伝を読む限り、東夷では別の単位が使われていたようだ。

大陸史書では、外地の地理は誇張してより遠く描くバイアスがかかっている
これだけで説明可能
特に情報が少ない遠地ほど誇張が大きくなる

三国志東夷伝では短里が使われていると言いながら、他の時代の史書でも
短里が使われているとか言い出すのは噴飯もの

395日本@名無史さん2019/08/09(金) 14:41:59.88
あっしにゃあ、行程論は関わりのねえこってござんす・・、
と言い続けてきたのに、急にかかわりを持ちだしてきて、ズッコケましたとさ、おしまい。

396日本@名無史さん2019/08/09(金) 14:42:33.29
>>240
>と言うことで
>奧山FAQ78は削除
>>266
>それしかないようだ。

九州説はまともな反論ができないからテンプレが大嫌いなんだが、
中でもFAQ78はクリティカルヒットだって分かってるんだなww

397日本@名無史さん2019/08/09(金) 14:43:37.53
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ! ・・・・・・・・・その通り
  里数が書いてないではないか! ・・・・・・・・・・書いてないが移動してたのは確実
                           (自女王國以北 其戸數道里可得略載)
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない! ・・・・・同じく自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 
                          投馬国は其餘旁國では無いことから、女王国の北で良い
  投馬国は南九州でよいのだ! ・・・・・・・・・・・九州説内部で精査してくれ 関係ないが 
                          邪馬台国が南九州から水行10日陸行く1月で行く邪馬台国は何処だ

398日本@名無史さん2019/08/09(金) 14:45:20.09
>>294
>まして、手漕ぎ程度の倭船では、海上一泊は避けられないだろうなあ。

この時点で古田説は破綻
お疲れ様でしたwwwww

399日本@名無史さん2019/08/09(金) 14:47:33.75
>>304
>その邪馬台国の北部あたりは八女だろう。
>その付近に卑弥呼の墓があるはずよ。

残念ながら、その辺に七万戸の大国の遺跡はないんだ
そしてその北に五万戸の投馬国をおくスペースもない

投馬国は女王國より以北の国で、たいていの九州説は破綻する

400日本@名無史さん2019/08/09(金) 14:48:28.07
>>305
>投馬国は、薩摩の阿多だよ。

そこに、5万戸の大国を想定できる遺跡はないんだ
無理な想定だよ

401日本@名無史さん2019/08/09(金) 14:49:38.16
>>393
------------------------------------------------
158日本@名無史さん2019/08/08(木) 19:16:37.25>>169
FAQ78
いじり過ぎ
基本的にAとして九章算術も後漢書を出す必要はない
なお、後漢書の其国大小、道里近遠、人数多少も比較
実数値では無い 
------------------------------------------------------------
-多寡 白黒 大小 遠近 多少 長短・・・・・
みな比較です 
----------------------------------------------------------
水行20日に比例計算や比較を持ちだして何をしようと言うのだ
水行20日にはなんと比べるつもり????

402日本@名無史さん2019/08/09(金) 14:51:31.97
>>320
つまり、道里遠近で、各県から輸所までの道里を比べて計算しろってことでしょ
そしてその道里の計算に使う値に里数は示されていない

道里が里数でなければならないというのは、これだけで否定できる
そして、日数表記できることも、九章算術均輸1で確認できる

投馬国は女王國より以北の国ww

403日本@名無史さん2019/08/09(金) 14:56:06.44
模範解答
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ! ・・・・・その通り
  里数が書いてないではないか! ・・・・・・書いてないが移動してたのは確実
                           (自女王國以北 其戸數道里可得略載)
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない! ・同じく自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 
                          投馬国は其餘旁國では無いことから、女王国の北で良い
  投馬国は南九州でよいのだ! ・・・・・・・・・・・九州説内部で精査してくれ 関係ないが 
                          南九州から水行10日陸行1月で行く邪馬台国は何処?放射説は畿内説では無い

404日本@名無史さん2019/08/09(金) 14:57:48.98
>>401
それ、反論ですらないだろう?

405日本@名無史さん2019/08/09(金) 14:59:12.50
>>403
勝手に書き換えてはいかんだろう

406日本@名無史さん2019/08/09(金) 14:59:48.80
>>402
こねくり回さんくても
水行20日は移動日数(停泊も含め)だから距離は進むでいいじゃん

407日本@名無史さん2019/08/09(金) 15:07:04.16
>>406
意味不明
日本語よろ

408日本@名無史さん2019/08/09(金) 15:09:06.57
『ワルキューレの騎行』

なぜか、うらしまんの話をしているでしょ、
youtube動画のコメントなどを読んでみた?

409日本@名無史さん2019/08/09(金) 15:11:18.57
>>403
官も副も戸数も所要日数も得られている投馬国を
名前しか判らない其余の国と同列に
情報が「不可得詳」だと言い張るのは
暴論を通り越して通り越して
妄言だな

410日本@名無史さん2019/08/09(金) 15:12:50.38
サーフボードが〜とか


『君は1000%』『』『』・・・という曲も同じ、
『』『』『』・・・漫画やアニメ、ゲームもw

411日本@名無史さん2019/08/09(金) 15:14:39.61
>>407
わからない?
水行=FAQ2で移動と明快に示されてるから
当然、距離は算出できないが船が進んでいるのは確かということ
また、自女王國以北 其戸數道里可得略載も参考

412日本@名無史さん2019/08/09(金) 15:18:30.91
たしか『ザ・モモタロウ』に登場する、うらしまん(キャラクター名、仮名)

サーフィンをしているシーンがあったり

413日本@名無史さん2019/08/09(金) 15:21:21.15
>>409
 投馬国は其餘旁國では無いと言っているのだが・・投馬国は其餘旁國に入れるつもり?

414日本@名無史さん2019/08/09(金) 15:23:02.30
老婆の話によると

家は軍人、警官でもなかったような・・・と言っているし、
龍宮〜輿〜・・・こういう名前の家

415日本@名無史さん2019/08/09(金) 15:25:42.86
行程で分かる事

1万2千里未満の九州は都の邪馬台国どころか、女王国にさえ含まれない属国

お疲れさまでした

416日本@名無史さん2019/08/09(金) 15:27:10.19
>>413
> 投馬国は其餘旁國では無いと言っているのだが・・投馬国は其餘旁國に入れるつもり?

入らないから女王国以北だと言っているのだが

417日本@名無史さん2019/08/09(金) 15:29:05.36
>>411
で?

何が言いたいの?

418日本@名無史さん2019/08/09(金) 15:30:49.86
脳内でちゃんと論理を構成できないのが
九州説はの特徴

419日本@名無史さん2019/08/09(金) 15:36:26.64
>>417
不彌國

↓南 水行20日で移動

投馬国

↓南 水行10日で陸行1月で移動

邪馬台国

よって、投馬国は女王国以北

また、自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳  で
明らかなように、投馬国は其餘旁國に含まれないから女王国以北

420日本@名無史さん2019/08/09(金) 15:37:19.32
どうせ畿内説は、自由自在に方角を曲げるんだから
以北だろうが、以南だろうが、自分たちにゃ関係ないだろうに、、、。よほどの何かがあるのか??

421日本@名無史さん2019/08/09(金) 15:44:15.64
>>420
論理は論理だから

422日本@名無史さん2019/08/09(金) 15:46:15.58
行程で分かる事

1万2千里未満の九州は都の邪馬台国どころか、女王国にさえ含まれない属国

お疲れさまでした

423日本@名無史さん2019/08/09(金) 15:48:51.84
>>421
未だに論理の意味がわからんのか?
理数系の証明論とかもさっぱり分からんてか?w

424日本@名無史さん2019/08/09(金) 16:10:54.31
>>422
行程で分かる事

1万2千里超えの畿内は都の邪馬台国どころか、女王国にさえ含まれない倭種の国

お疲れさまでした

425日本@名無史さん2019/08/09(金) 16:13:36.18
>>424

帯方郡→女王国(阿波)万二千里(直線距離 900km)1里=75m

∴1里=70mは、概ね妥当。   @阿波

426日本@名無史さん2019/08/09(金) 16:21:06.23
韓国領土:4千里四方(□)
帯方郡→南へ4千里、東へ3千里(L)→狗邪韓国(釜山):道のり7千里
狗邪韓国→海を渡り南へ(|)→末盧国(九州北岸):道のり3千里
よって邪馬台国は九州北岸から道のり2千里の範囲
女王国以北は「女王国の南端から北」という意味であり、その南端までの距離が1万2千里。
また、そのすぐ南に狗奴国がある。

427日本@名無史さん2019/08/09(金) 16:23:46.31
1万2千里を経て北部九州のクニグニを全て通過

『女王国』にはいる

水行10日、陸行一月(もしくはさらに水行20日を加算)

『女王の都』の邪馬台国に至る

どこをどう読んでも九州になんて邪馬台国はありません
分かるのは九州は女王国外の属国だと言う事だけです

本当にありがとうございました

428日本@名無史さん2019/08/09(金) 16:25:57.73
>>423
ほら、また全く説明出来ない

九州説は無内容でみじめすぎるな

429日本@名無史さん2019/08/09(金) 16:28:04.74
>>391
>元々の奴国王が領国から切り離されて隔離されてる感じに見える

奴国の王が大山祇、伊都国の王が饒速日と読むと、大変面白いよ。

430日本@名無史さん2019/08/09(金) 16:28:52.37
>>426
>女王国以北は「女王国の南端から北」という意味であり、その南端までの距離が1万2千里。

そんなヨタ話がどこから湧いてきた?
倭人伝では、ないよな?

431日本@名無史さん2019/08/09(金) 16:29:59.53
>>394
>大陸史書では、外地の地理は誇張してより遠く描くバイアスがかかっている

結果として、計算すると一里が短いことになる。
九州北部までの道のりを誇張してフィリピンやら沖縄やらに届くくらいの里数になっている。

432日本@名無史さん2019/08/09(金) 16:33:09.73
>>402
>投馬国は女王國より以北の国ww

つまり畿内説は全く当てはまらない。

433日本@名無史さん2019/08/09(金) 16:33:59.27
>>416
意味不明

434日本@名無史さん2019/08/09(金) 16:34:37.30
中国の日本についての記述を見ると九州説など全く存在していないのが分かる
簡単に書くとこうなる

邪馬台国は台与の後にも滅んで等おらず男性王が立ち継続して晋、宋、斉、梁、隋と使節を送り続けている(梁書、北史)

隋の時に使節を送ってきたアメノタリシヒコ=用明天皇と断定(新唐書)

アメノタリシヒコは筑紫城から大和州に都を移したと記載される神武天皇の後なので都は大和(新唐書)

アメノタリシヒコの都は邪馬台国と同じなので邪馬台国は大和(隋書、新唐書)
※これによって「魏志には壱だから別の国」等と言う説も成り立たない事が分かる

アメノタリシヒコは一大卒を各地に派遣して地方を支配している(魏志、旧唐書)
一大卒のいる場所=邪馬台国の被支配地

アメノタリシヒコ(用明天皇)はその後の桓武天皇などにも系譜が連続していると認識されている(旧唐書、新唐書)
白村江の戦いの当事者である唐の記録でこう記載されている
このため、王朝交代など起こってないと確定
倭から日本への変化は定説通り壬申の乱であることが確定

宋の太宗が「日本は小国だが王も貴族も古代から同じ系統が維持されていて素晴らしい」と称賛(宋史)

中国は邪馬台国は大和でそれが継続していると当然のことのように了解している

435日本@名無史さん2019/08/09(金) 16:34:53.34
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(倭国のことだが、ここではその王都がある邪馬台国を指すと考えられる)から一万二千里である。
その西北界(倭国の西北の国境)である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。

魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。

魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国(福岡県)まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
また、帯方郡から投馬国(宮崎県)までは水行20日

邪馬台国時代の遺物の出土状況
邪馬台国畿内説 Part492 	YouTube動画>3本 ->画像>18枚

436日本@名無史さん2019/08/09(金) 16:35:19.14
>>421
屁理屈は論理ではないよ。

437日本@名無史さん2019/08/09(金) 16:35:56.21
>>432
>つまり畿内説は全く当てはまらない。

どうして?
理由は?

438日本@名無史さん2019/08/09(金) 16:36:40.17
肝心の中国が「邪馬台国は大和です」と書いてるわけで

どこのバカが九州説とか言い出してるのか理解できんわな

439日本@名無史さん2019/08/09(金) 16:36:47.65
卑弥呼共立の倭國は、前漢の頃から変わらず北部九州。
倭國の乱は、後漢時代に倭を代表していた玄界灘側の王家(天孫族)と、新興勢力であった有明海側の王家(熊襲)との騒乱。
有明海側の有利で和平の手打ちしたため、祭祀王(卑弥呼)は有明海側が擁立した。
しかし王が博多湾沿岸(伊都)に移り本家の有明海沿岸が手薄になったので、そちら(狗奴国)で王を名乗るものが現れた(卑弥弓呼)。
その頃、一足早く大和に東征していた玄界灘勢力の一派(饒速日)が纒向に大型建物の祭祀施設を建てていた。
敗者となった玄界灘勢力の本体(神武)が大和に落ち延びて合流した。
これが、リアルな2世紀末の歴史。

http://inoues.net/yamahonpen2.html

440日本@名無史さん2019/08/09(金) 16:38:07.18
>>427
お前の言う伊都国はどこなんだよ?w
伊都国は女王国に属すと書いてあるのにw
そしてその伊都国までの道のりが7千里+3千里+500里=1万500里なんだぞ?

441日本@名無史さん2019/08/09(金) 16:40:23.90
後漢書は倭の北限が狗邪韓国、倭の南限が倭奴国で、畿内など出てこない。
魏志倭人伝には後漢代までさかのぼった記事が書かれているのに、九州から畿内への遠大な東遷は書かれていない。
いつ倭は畿内に東遷したのかな?

442日本@名無史さん2019/08/09(金) 16:42:11.82
畿内説の場合「狗奴国」と「倭種の国」は何処なんだ?

443日本@名無史さん2019/08/09(金) 16:42:55.14
>>433
不明?
意味は明確だぞ

投馬国は其餘旁國ではない
投馬国は其餘旁國に入らない
「其余」とは「女王国以北」に対するその「余」だ
「其余」に入らないから
投馬国は女王国以北だ

これを理解できないと知能が低いことが判明するぞ

444日本@名無史さん2019/08/09(金) 16:43:19.18
>>442
テンプレ嫁

445日本@名無史さん2019/08/09(金) 16:43:33.81
>>440
属国

よめますか?ぞっこく
一大卒に監視されて女王国の主要構成国扱いされてない属国
一大卒の存在については中国の史書が何度も何度も「中央から属国に派遣されている」と書いてる

ついでに言うなら九州はそこら中にヒナモリもいる
「ヒナ」は田舎、辺境の意
その守備兵

伊都国は「一大卒の配置される属国」
奴国も「辺境」

これが倭人伝がしつこく記載してる九州の姿だ

ご理解いただけましたか?

446日本@名無史さん2019/08/09(金) 16:44:31.89
>>440
伊都国なら三雲遺跡だが
それが、どうした?

447日本@名無史さん2019/08/09(金) 16:45:34.98
>>445
>一大卒の存在については中国の史書が何度も何度も「中央から属国に派遣されている」と書いてる

どこに書いてある?

>ついでに言うなら九州はそこら中にヒナモリもいる
>「ヒナ」は田舎、辺境の意

伊都から見たら辺境?

448日本@名無史さん2019/08/09(金) 16:51:56.64
統属してるんだもんなぁ
伊都国は
中央から派遣される一大卒に監視されて怯えてる状態で
最大の奴国も辺境扱いで守備兵が駐屯してると

その上で「女王国の外です」と書かれてる

どうみても主要構成国に含まれない被支配の属国です
本当にありがとうございました

449日本@名無史さん2019/08/09(金) 16:55:46.15
なんとなくわかったw
非論理思考で文章能力の低いヤツが説明するとサッパリ伝わらんなw

450日本@名無史さん2019/08/09(金) 16:55:57.68
>>419
>また、自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳  で
>明らかなように、投馬国は其餘旁國に含まれないから女王国以北

この論理では、其餘旁國は女王国以南ということになるが、其餘旁國は遠絶ゆえ不可得詳で、
東西南北どこにあるか不明であり、以南とは限定できない。
依って、 其餘旁國でないから投馬国は以北である、とは言えない。

451日本@名無史さん2019/08/09(金) 16:59:11.49
何をどう読んだら九州に邪馬台国なんて湧いて出てくるのか
九州説の異常者の思考回路は本当に理解不能だな

452日本@名無史さん2019/08/09(金) 17:00:39.98
490>>758
これまでに何度も、
「陳寿が不彌國で萬二千余里がほぼ終わった記載をし、
投馬國は不彌國の南水行二十日の位置の側副傍線国とされ、
だから、邪馬壹國女王之所都は不彌國のすぐ南にある」
という事を、繰り返し書いてあるだろ?

453日本@名無史さん2019/08/09(金) 17:02:51.19
と言うか九州のバカは分かってないみたいだから言っとくが

仮に行程をいじくり回して九州内に邪馬台国が来るように捏造したとしてもだ
「九州はただの属国です」としつこいくらいに書かれた記事に何の変化もないわけだ

はい、どう頑張ってもただの属国です
本当にありがとうございました

454日本@名無史さん2019/08/09(金) 17:03:11.13
490>>760
女王国の位置は九州島付近に当たる会稽東治の東と、
魏志倭人伝に書いてある時点で
行程論は全て終わり

455日本@名無史さん2019/08/09(金) 17:05:06.49
>>453
>「九州はただの属国です」としつこいくらいに書かれた記事に何の変化もないわけだ

捏造?

456日本@名無史さん2019/08/09(金) 17:05:41.37
鉄鏃の分布なんか見ると絶望的だよね
奈良なんて東京や千葉の10分の1だもんね
発掘なんて東京に比べりゃはるかに恵まれた環境なのに
九州に比べれば2桁違う
農具は木製や石器なんて西日本の盟主だの王都だのってどんな妄想だよ
吉備や尾張の方が全然上
ちなみに湖沼、沼地の干拓ってのは水を抜くのに苦労をする
治水のために水路を掘ると結構な残土が出るんだな
奈良盆地に3世紀以降古墳が出来たっつのはまあそういう事だ
摂津河内も無理当時は河内湖が汽水から淡水に移行する頃で農地に出来るのはまだまだ後

邪馬台国畿内説 Part492 	YouTube動画>3本 ->画像>18枚

457日本@名無史さん2019/08/09(金) 17:05:53.96
>>451
対馬ー壱岐と南下して伊都国(三雲)に入り、
さらに東南の奴国、その東の不彌国を経て、
今度は「南」へ水行と書いてあるのに畿内へ
たどり着くヤツはまずおらんぞw

458日本@名無史さん2019/08/09(金) 17:08:30.53
いい加減に、纒向は尾張の傘下の流通センターだと認めたらどうだ?
近畿地方は尾張氏の祖である饒速日物部氏の王国だったんだよ。
日本史の史書とも魏志倭人伝とも全く整合性が取れない畿内説など、妄想だとしか言いようがない。

459日本@名無史さん2019/08/09(金) 17:10:21.83
>>457
大宰府羅城の水城の木材の炭素年代が2世紀中頃だって?
伊都から南というのを信じるならこれで決まりだな。
大宰府が筑紫倭国の王都。

460日本@名無史さん2019/08/09(金) 17:11:37.42
>>450
>東西南北どこにあるか不明であり、以南とは限定できない。
>依って、 其餘旁國でないから投馬国は以北である、とは言えない。


おまえの脳って論理処理能力ないだろ

「其余」国以外であれば、「以北」国なんだぞ
投馬国は「其余」国でない
したがって投馬国は「以北」国だ

461日本@名無史さん2019/08/09(金) 17:14:03.27
九州バカは邪馬台国は鹿児島の辺りにあると言いたいのかw
そりゃおもしろい

462日本@名無史さん2019/08/09(金) 17:14:44.52
>>454
>女王国の位置は九州島付近に当たる会稽東治の東と、
>魏志倭人伝に書いてある時点で


九州説さんウソはいかんよウソはw

会稽東治が九州島付近に当たるなんて
魏志倭人伝には書いてないし

事実そこは九州島よりずっと南だ

463日本@名無史さん2019/08/09(金) 17:16:31.71
>>459
もちろんそれは最初から最後まで
出所不明の怪情報だ

九州説はいつもそれ

464日本@名無史さん2019/08/09(金) 17:17:31.80
>>461
キナイコシが勝手にそう言っているだけ。

465日本@名無史さん2019/08/09(金) 17:18:27.47
方向も距離も間違いだらけ
それが魏志の行程
九州の中でさえも間違いだらけ
こんなもんどの説でも本来なら参考にならない

でも都合のいい部分だけピックアップしてこねくり回して邪馬台国でございますとかw
流石は低能九州説

で、この行程で唯一分かるのは

「列記されてる九州のクニグニは全て女王国外の属国です」

と言う事だけ
本なんてどうせ読んだことも無いから仕方ないだろうがせめて魏志倭人伝くらいは読めよサルどもw

466日本@名無史さん2019/08/09(金) 17:18:30.95
>>460
>「其余」国以外であれば、「以北」国なんだぞ

だから、其余傍国は以南なんだろ。

467日本@名無史さん2019/08/09(金) 17:18:51.39
>>462
>会稽東治が九州島付近に当たるなんて
>魏志倭人伝には書いてないし
>事実そこは九州島よりずっと南だ

帯方郡からの距離が誇張されているだけで、陳寿は邪馬台国が九州のつもりで魏志倭人伝を書いているよ。

468日本@名無史さん2019/08/09(金) 17:21:02.64
邪馬台国は畿内と教え込まれたサルの洗脳はいつ解けるのかな?

469日本@名無史さん2019/08/09(金) 17:22:28.86
>>461
鹿児島あたりを掘るパワーが無いからシカトされてるだけかもしれん。
掘ったらとんでもない事実が発覚するかもしれないぞ。
邪馬台国畿内説 Part492 	YouTube動画>3本 ->画像>18枚

掘る気を出せw

470日本@名無史さん2019/08/09(金) 17:24:02.27
490>>768
はい。「南≠東」で行程記事の議論は終わり。
奈良盆地は×。

471日本@名無史さん2019/08/09(金) 17:26:36.19
>>469
桜島が噴火して火山灰が積もっている地域だから埋れて見つかっていないだけかもしれんね

472日本@名無史さん2019/08/09(金) 17:27:15.01
中国の日本についての記述を見ると九州説など全く存在していないのが分かる
簡単に書くとこうなる

邪馬台国は台与の後にも滅んで等おらず男性王が立ち継続して晋、宋、斉、梁、隋と使節を送り続けている(梁書、北史)

隋の時に使節を送ってきたアメノタリシヒコ=用明天皇と断定(新唐書)

アメノタリシヒコは筑紫城から大和州に都を移したと記載される神武天皇の後なので都は大和(新唐書)

アメノタリシヒコの都は「魏志の」邪馬台国と同じなので邪馬台国は大和(魏志、隋書、新唐書)
※これによって「魏志には壱だから別の国」等と言う説も成り立たない事が分かる

アメノタリシヒコは一大卒を各地に派遣して地方を支配している(魏志、旧唐書)
一大卒のいる場所=邪馬台国の被支配地

アメノタリシヒコ(用明天皇)はその後の桓武天皇などにも系譜が連続していると認識されている(旧唐書、新唐書)
白村江の戦いの当事者である唐の記録でこう記載されている
このため、王朝交代など起こってないと確定
倭から日本への変化は定説通り壬申の乱であることが確定

宋の太宗が「日本は小国だが王も貴族も古代から同じ系統が維持されていて素晴らしい」と称賛(宋史)

中国は邪馬台国は大和でそれが継続していると当然のことのように了解している

473日本@名無史さん2019/08/09(金) 17:27:56.42
アホの為に何度でも教えてやるが

中国は「邪馬台国は大和」と明記してる

本当にありがとうございました

474日本@名無史さん2019/08/09(金) 17:28:17.83
>>469
南の投馬国が海上になってしまう。

475日本@名無史さん2019/08/09(金) 17:28:30.98
490>>781
>最後の陸行1月でどちらにせよ自動的に、大きめの盆地か平野の内陸部になるので、
奈良盆地か、琵琶湖周辺か、濃尾平野の北の方の選択になる。
で、三世紀の古墳の大きさで、自動的に奈良盆地になると。<

はい、「南≠東」などに拠って、奈良盆地説は×。

476日本@名無史さん2019/08/09(金) 17:28:44.67
>>466
なんで?

どうして九州説はいつも全く理由を言わないの?

477日本@名無史さん2019/08/09(金) 17:30:00.01
>>467
根拠を言わずに決め付ける九州説は
妄想の世界に住む人々

478日本@名無史さん2019/08/09(金) 17:33:39.66
490>>782
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、行程記事をちゃんと読め!
行程記事には、
不彌國のすぐ南の「女王之所都の説明」として「水行十日陸行一月」と書いてあるから、
女王之所都が行「郡から水行十日陸行一月」だという事。

479日本@名無史さん2019/08/09(金) 17:36:22.56
490>>787
>すると里程の所に出てこなかった投馬国が日程の所に唐突に出てくる事になるんだけど <

投馬國は、不彌國からの側副傍線国の説明。

480日本@名無史さん2019/08/09(金) 17:37:39.62
と言うか鹿児島とか言ったら食いついて来て爆笑したwww

なに?じゃあ狗奴国どこだよww
さらに南だぞ?ww

沖縄?
ムー大陸www

流石は低能九州説だwww
その場その場でテキトーなこと喚くだけ

481日本@名無史さん2019/08/09(金) 17:37:40.11
またも全く理由を言わない九州説

482日本@名無史さん2019/08/09(金) 17:38:13.15
>>476
>>460
>「其余」国以外であれば、「以北」国なんだぞ

だから理由を言えば
、「其余」国以外であれば「以北」国なんだから、「其余」国は以南なんだろ。

483日本@名無史さん2019/08/09(金) 17:39:43.74
490>>790
大和説は
長里だけがあると考えないと即死
投馬国は側副傍線国ではないと考えないと即死
3世紀末の纏向遺跡を3世紀前半と考えないと即死
もう、即死しまくりで説として成り立たない。

484日本@名無史さん2019/08/09(金) 17:40:47.23
>>478
>不彌國のすぐ南の「女王之所都の説明」として「水行十日陸行一月」と書いてあるから、
>女王之所都が行「郡から水行十日陸行一月」だという事。

不彌國のすぐ南の「女王之所都の説明」
なんて九州説爺さんの脳内以外の
どこにあるんだ?

普通の人には見えないぞ

485日本@名無史さん2019/08/09(金) 17:42:05.86
>>483
その、即死情景
一つも満たしませんが?

486日本@名無史さん2019/08/09(金) 17:45:14.35
>>482
>だから理由を言えば
>、「其余」国以外であれば「以北」国なんだから、「其余」国は以南なんだろ。


なんで
「其余」国以外であれば「以北」国だと
「其余」国は以南なんだ?
理由は?

487日本@名無史さん2019/08/09(金) 17:48:21.75
>>486
頭悪い?

488日本@名無史さん2019/08/09(金) 17:53:26.17
490>>792
>>キナイコシという人物が平気でヘイトスピーチをするということはわかった。<

>どこがヘイトスピーチなのか? 具体的に説明してごらん?<

「Korea fatigueってっ知ってるかい 韓国とまったく同じことをやってるぞww」
と書いて、
Korea=韓国が、「疲労を起こす悪者である」、という事を宣伝をしたから、
それは、ヘイトスピーチであり、
国民を韓国への殺戮戦争のをさせよう、とする犯罪者的な発言である。

489日本@名無史さん2019/08/09(金) 17:55:54.02
理由の全く説明できない>>487
明らかにかなり頭が悪いわけだが

490日本@名無史さん2019/08/09(金) 18:03:13.90
>>489
返答に詰まると、
なんでなんでなんで、どうしてどうしてどうして、そんなに理由理由理由、を繰り返すんだろ、、、

491日本@名無史さん2019/08/09(金) 18:05:11.93
>>483
纏向遺跡は確かにズレてるよな。
奈良で他に候補は無いの?
河内の方が合わせやすいんじゃね?

492日本@名無史さん2019/08/09(金) 18:05:23.43
なんでなんでなんで、どうしてどうしてどうして、そんなに桜井市のバイトはかるいんだろ・・・。

493日本@名無史さん2019/08/09(金) 18:07:38.75
>>444
どこ読むの

494日本@名無史さん2019/08/09(金) 18:11:26.93
>>492
頭が悪いんだろう。
小学生じゃあるまいに。

495日本@名無史さん2019/08/09(金) 18:11:31.10
桜井市のバイト賃金
1レス10円、釣れたらプラス10円、、1日の売り上げ800円程度

496日本@名無史さん2019/08/09(金) 18:11:53.32
>>490
>返答に詰まると、
>なんでなんでなんで、どうしてどうしてどうして、そんなに理由理由理由、を繰り返すんだろ、、、

返答に詰まる?
畿内説の者が、一体なんの返答に詰まってる?

九州説のおまえは明らかに
自分が主張してることの
理由が答えられなくて返答に詰まってるが

497日本@名無史さん2019/08/09(金) 18:12:03.13
>>465
どこを縦読みするの?

498日本@名無史さん2019/08/09(金) 18:12:32.37
>>495
スレ立てを忘れているよ。

499日本@名無史さん2019/08/09(金) 18:12:56.64
>>793
>陳寿が列島を南北に長く、会稽東冶の東まで続く洲島だと考えていたことは
「計其道里、當在會稽東冶之東」「所有無、與儋耳朱崖同」という魏志倭人伝の
テキストそのものからも分かる<

陳寿が女王國の位置推定として書いたのは「計其道里當在會稽東治之東」であり、
「計其道里、當在會稽東冶之東」ではないから、
これからも、類スレ主が、嘘つき騙しの・・・・アホ詐欺師である、
という事だな。

500日本@名無史さん2019/08/09(金) 18:13:33.32
>>490
九州説の主張に理由がないから
に決まってるじゃないか

501日本@名無史さん2019/08/09(金) 18:15:48.97
また九州説が論破され、無残に蹂躙されたようだな

502日本@名無史さん2019/08/09(金) 18:18:36.18
畿内説の立ち位置だが、以下の回答でいいと思う
Qもスレ主が考えたのだろうが、必要ないな


403日本@名無史さん2019/08/09(金) 14:56:06.44>>405>>409
模範解答
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ! ・・・・・その通り
  里数が書いてないではないか! ・・・・・・書いてないが移動してたのは確実
                           (自女王國以北 其戸數道里可得略載)
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない! ・同じく自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 
                          投馬国は其餘旁國では無いことから、女王国の北で良い
  投馬国は南九州でよいのだ! ・・・・・・・・・・・九州説内部で精査してくれ 関係ないが 
                          南九州から水行10日陸行1月で行く邪馬台国は何処?放射説は畿内説では無い

503日本@名無史さん2019/08/09(金) 18:19:16.19
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

これ必要ねーよ

504日本@名無史さん2019/08/09(金) 18:21:20.75
>>502
そんな回答でいいって理由は?

505日本@名無史さん2019/08/09(金) 18:22:48.43
テンプレのように答えられると
九州説が死亡するからだな

506日本@名無史さん2019/08/09(金) 18:26:06.09
490>>805
>>纏向は実際九州とほとんど関係ないやろ <

>北部九州と畿内とが同じ祭祀用供献土器、同じ墓制を取っていて無関係という方がおかしい<

畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
庄内は、筑紫では3世紀前半の卑弥呼の頃だが、
大和では3世紀末の庄内1の石塚からだし、
前方後円墳は、筑紫は那珂八幡などの3世紀後半半ば過ぎであるが、
大和では、3世紀末頃の石塚からだし、
大和のそれらは、九州倭国の「東征毛人五十五國」の将軍らに拠って出来たもの。

>胎土分析で九州の土で九州で作った土器も確認されてる<

おや?、筑紫説の応援をしてくれて、有難う。

507日本@名無史さん2019/08/09(金) 18:30:54.57
>>505
okuyamaだろ
畿内説を代表してるつもりかよwww
5ちゃんでうざうざ言う程度の浅学だよ
学会発表もできない愚策だよ
つまみ食いのテンプレは支離滅裂

まぁ・・このスレ好きだよ 畿内説をまともに語れん奴をからかうスレ

508日本@名無史さん2019/08/09(金) 18:32:21.35
>>507
>畿内説をまともに語れん奴をからかうスレ

まさにそれなw

509日本@名無史さん2019/08/09(金) 18:33:10.55
>>490
>なんでなんでなんで、どうしてどうしてどうして、そんなに理由理由理由、を繰り返すんだろ、、、


九州説は
自分が主張してることの
理由を聞かれただけでこの有様

狂ったようにファビョっちゃう
この醜態は滑稽すぎる

だって、九州説の主張には理由がないって
大声で告白しちゃってるじゃないか

あまりにも恥さらしだよ九州説

510日本@名無史さん2019/08/09(金) 18:33:38.87
490>>896
>>何故「地上に届く」必要があるんだ?。<

>連続句読点が、粒子シャワーが地上の遺物に降り注ぐことで、<

彼は「粒子シャワー」とは言っていない、と書いておられたよ。

>14Cの比率が激変するって言ってるんだからww<

対流圏に届けば、対流に拠って地面にも達し、植物にも吸収されるよ。

511日本@名無史さん2019/08/09(金) 18:35:52.09
そして>>507みたいな悪口いうだけになる
この無残な負け犬の姿
九州説みじめすぎ


笑い者だな

512日本@名無史さん2019/08/09(金) 18:42:21.27
490>>843
>それまで別々の土器、別々の墓制だったのが、同じ祭祀用供献土器を使い同じ墓制に移行する
これで深い関わりが無いってのは無理だろ? <

大和は、九州倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一国であったんだよ。

513日本@名無史さん2019/08/09(金) 18:48:44.78
>>382
悪魔の証明と認めたな
つまり後漢書が三国志を参照したのかそれとも逆なのかは
確実にこうだとは断言ができない
後漢書が三国志を参照したのなら書いている事が丸写しではなく所々違っているのが若干不自然
そして参照したのなら出典を明記するのが通常
これは後漢書が単純に三国志を引き写したものではない事を示す

514日本@名無史さん2019/08/09(金) 18:50:00.88
>>512
こんなふうに
九州説は立証不可能なことばかり主張する
だから必ず論破される
そうやって九州説は滅亡した

515日本@名無史さん2019/08/09(金) 18:50:16.07
>>500
自分が受け入れていないだけだよ。

516日本@名無史さん2019/08/09(金) 18:51:58.92
490>>872
>畿内説は正直者ばかりだから誰も騙されん <

畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、
「畿内説」という文言を使った時点で、その大和説男は、
嘘つき騙しの・・・・アホ詐欺師だ。

517日本@名無史さん2019/08/09(金) 18:52:48.76
>>515
なら理由が答えられる筈だろ九州説

なぜ理由を答えない?

518日本@名無史さん2019/08/09(金) 18:53:41.65
490>>873
>卑弥呼の墓が土を盛っただけと書いてあるのに
石積みの箸墓を卑弥呼の墓とか言ってるのは詐欺師しかいない<

成程。

519日本@名無史さん2019/08/09(金) 18:54:02.51
>>507
>まぁ・・このスレ好きだよ 畿内説をまともに語れん奴をからかうスレ

同意w

520日本@名無史さん2019/08/09(金) 18:56:05.72
>>516だって、畿内が存在しない、という
珍説連呼の珍説連呼
まったく理由は言わない

異常だと思わんの?

九州説の人
だれもコレ異常と思わんの?

521日本@名無史さん2019/08/09(金) 18:57:01.42
490>>875
>纒向最古級とされるホケノ山古墳の石室床面から布留1式からしか出現しない小形丸底壷が出土していることも重要である。
小形丸底壷が出たホケノ山古墳の築造時期を、庄内式土器期にすることはできない。ホケノ山古墳は 4世紀後半である。
また、『魏志倭人伝』に卑弥呼の都のようすを「居所、宮室、桜観、城柵を厳重にめぐらして、人が居て、武器を持って守っている」
と記述している。
城柵などの記述があることからこれは環濠集落である。
纒向遺跡をはじめ近畿では、弥生時代後期後半以降には環濠集落は存在しない。
この記述に適合するのは九州の弥生時代後期後半の環濠集落がふさわしい。<

成程。

522日本@名無史さん2019/08/09(金) 18:58:26.94
>>518
>卑弥呼の墓が土を盛っただけと書いてあるのに

書いてないから
倭人伝に、そんなこと書いてないから

九州説は基本の基本も知らない
仕方ないよな
無知が九州説を作ったんだか

523日本@名無史さん2019/08/09(金) 18:59:30.97
>>509
>だって、九州説の主張には理由がないって
>大声で告白しちゃってるじゃないか

理由が書かれていても、刷り込まれた観念に邪魔されて理解できないコミュ障のキナイコシさん、こんばんは。

524日本@名無史さん2019/08/09(金) 19:00:56.17
>>523
こういう九州説が歯ぎしりしてそうなレス見ると気が晴れるわ

525日本@名無史さん2019/08/09(金) 19:02:37.14
>>520
あぽーん

526日本@名無史さん2019/08/09(金) 19:10:39.72
>>523
で、どこに書かれているどんな文が「理由」なのだと
言うことすら出来ない九州説って

どれほど惨めな存在なの?
生きてるの、つらくない?

527日本@名無史さん2019/08/09(金) 19:13:37.83
>>523
>理由が書かれていても、刷り込まれた観念に邪魔されて理解できないコミュ障のキナイコシさん、こんばんは。

それならなんで
>なんでなんでなんで、どうしてどうしてどうして、そんなに理由理由理由、を繰り返すんだろ、、、

なーんてファビョってたのかな?

528日本@名無史さん2019/08/09(金) 19:15:28.66
>>507
>まぁ・・このスレ好きだよ 畿内説をまともに語れん奴をからかうスレ <
だから面白いのだww
奧山を更生させたいが、ボケ老人は???
放置したいが、、こうも徘徊されっては、打つ手なし

529日本@名無史さん2019/08/09(金) 19:18:29.00
ほらな
反論ひとつ出来ず
>>528みたいな悪口言うしかない敗者

あまりに悲惨な老後だろ

530日本@名無史さん2019/08/09(金) 19:23:23.89
>>528
畿内説=ボケ老人の権力者と
それに意味もなく追随する私利私欲の互助会じゃねーか

531日本@名無史さん2019/08/09(金) 19:24:11.53
畿内説は儒教的思想により、先生の論文には逆らえない。

532日本@名無史さん2019/08/09(金) 19:25:17.21
畿内説はカエルの骨と桃の種にしがみつくかわいそうな思想信条なんだよ。
カエルの骨も信心からって言うよね?
イワシの頭だっけ?

533日本@名無史さん2019/08/09(金) 19:26:41.35
>>528
畿内説=ボケ老人の権力者と
それに意味もなく追随する私利私欲の互助会じゃねーか

534日本@名無史さん2019/08/09(金) 19:32:25.98
もう悪口専門の九州説
むざんっす

535日本@名無史さん2019/08/09(金) 19:35:07.01
>>531
>畿内説は儒教的思想により、先生の論文には逆らえない。

森浩一は寺澤に逆らわれたよ

536日本@名無史さん2019/08/09(金) 19:36:05.22
>>533
橿原考古学研究所は畿内説互助会と関係ないよ
OBは知らないが
邪馬台国が中心の研究所でもない
OBは食い扶持欲しいだけかも

537日本@名無史さん2019/08/09(金) 19:39:50.93
>>536
食い扶持ほしくて安本に媚びた関川とか

538日本@名無史さん2019/08/09(金) 19:44:52.69
>>537
安本さんは 財力は無い

来るもの拒まずかな?

養う金は無い

539日本@名無史さん2019/08/09(金) 19:52:15.44
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の頭が悪すぎる奥山氏が、また、完全に論破されましたね。。。

540日本@名無史さん2019/08/09(金) 19:54:34.15
>>539
友人のための労働や、孫達との団欒の合間に、僕達も、奥山氏を論破すれば、良いな。。。

541日本@名無史さん2019/08/09(金) 19:56:48.89
僕達の頭の良い孫が、カエルと桃で、墨を作れるという意見を発表したな、、、

542日本@名無史さん2019/08/09(金) 19:59:22.64
>>540
孫達は、レストランで食事しているので、帰ってくるまで、論破すれば良いな。。。

543日本@名無史さん2019/08/09(金) 20:00:18.18
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の頭が悪すぎる奥山氏は、頭が悪すぎるな。。。

544賛同2019/08/09(金) 20:04:03.03
>>507
>まぁ・・このスレ好きだよ 畿内説をまともに語れん奴をからかうスレ

同意w

545日本@名無史さん2019/08/09(金) 20:06:27.12
奧山を嫌いになっても 畿内説を嫌いにならないでください   (キンタロー)

546日本@名無史さん2019/08/09(金) 20:07:34.18
392 395 397 401 403 406 411
420 491 495 502 503 507 528(自演)
530(自演) 533(自演) 536(自演)
538 544(自演)

547日本@名無史さん2019/08/09(金) 20:09:16.91
今日もキナイコシは完敗した

548日本@名無史さん2019/08/09(金) 20:15:39.83
>>527
なんでなんでなんで、どうしてどうしてどうして、
九州説はぼくちゃんがうれしい理由を書いてくれないんだろ・・・、

世の中、そんなに都合よくはできてないんだよ、どうせ京大✖の畿内わがままボク。

549日本@名無史さん2019/08/09(金) 20:30:00.73
>>543
自殺体が、作製されないように、奥山氏と討論してあげているので、貴方は人間性のレベルが高いな。

550日本@名無史さん2019/08/09(金) 20:36:07.96
理由が書かれていても、刷り込まれた観念に邪魔されて理解できないコミュ障のキナイコシさん、今日も完敗でおめでとう

551日本@名無史さん2019/08/09(金) 21:05:20.76
畿内説村の中は心地いいかい?
でもいつかはそこから出て行かないといけないよ。

552日本@名無史さん2019/08/09(金) 21:23:59.73
>>547
だれに?

w

553日本@名無史さん2019/08/09(金) 21:28:11.52
>>550
>理由が書かれていても、


どこに?

書かれているなら答えられるよね?
答えられないなら、ウソということだ
書かれていない

554日本@名無史さん2019/08/09(金) 21:50:27.96
キウスは泣きながら寝たのかな

555日本@名無史さん2019/08/09(金) 21:52:48.24
キウスにそんな弱さがあったらとっくに首くくってるだろ

556日本@名無史さん2019/08/09(金) 22:14:52.07
>>375
奴国の南に女王国の境界があるということは
女王国以北の諸国は当然女王国に入らない

557日本@名無史さん2019/08/09(金) 22:17:32.98
>>551
九州説がこのスレから出てけ

558日本@名無史さん2019/08/09(金) 22:21:38.67
>>557
>九州説がこのスレから出てけ

それはイカンだろ。  九州説が出ていったら、トンデモ説同士のバカ論争が出来なくなるではないかw  わはははは   @阿波

559日本@名無史さん2019/08/09(金) 22:31:47.46
>>556
境界は狗邪韓国の西北だよ。

560日本@名無史さん2019/08/09(金) 23:05:59.76
邪馬台国?ではないけど、
人の家(この書き込みをしている)の話だと言っているんだよw



チンピラには何を言っても、わからないみたいだし、
お前(芸能人など)の演じている役なども、家の話

予言スレなどにもいるでしょ、チンピラ

561日本@名無史さん2019/08/09(金) 23:09:20.61
映画にドラマ、音楽?
漫画、アニメ・・・ゲーム、小説、その他など?


ほとんど家の話

562日本@名無史さん2019/08/09(金) 23:11:25.51
490>>894
>行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果<

文献でも「南≠東」は99.9%以上前違える可能性がある人類の常識的な実態であり、
それ以外の文献や考古での「南→東」の特定の確率は。0.1%以下であり、×。

>「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。<

判明しない。スレ主は、国粋皇国史観のキョクウ思想宗教に狂った・・・アホ詐欺師。

563日本@名無史さん2019/08/09(金) 23:19:20.11
490>>909
>南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。<

「南≠東」などに拠って、×。

564日本@名無史さん2019/08/09(金) 23:28:38.80
490>>910
>まず、「布留1式からしか出現しない小形丸底壷が出土」がミスリード
これ、「(小形丸底壷は前からあるけど)布留1式からしか出現しない(形のやつに似た)小形丸底壷が出土」だわ
全然ニュアンス違う
似てる似てないの水掛け論だったのを確証みたいに宣伝してる
ちなみに今は「古くからあった形だった」で決着<

「小形丸底壷は前からあるけど」の証拠を言わなくっちゃ、全く無意味。

565日本@名無史さん2019/08/09(金) 23:32:15.96
490>>91
納得するのは
「ぜったい南→東だもんもんもん」と臙脂病を拗らせてる大和説信者だけだろ?。

566日本@名無史さん2019/08/09(金) 23:52:54.45
490>>962
>桜井茶臼山古墳の三角縁神獣鏡と
群馬県高崎市の蟹沢古墳で見つかった銅鏡片の「是」が
完全に一致 の奥山さん?
<3>科学の目で古代解明
https://www.yomiuri.co.jp/local/nara/feature/CO034471/20180624-OYTAT50017/

読売は「県立橿原考古学研究所(橿考研)指導研究員の奥山誠義(42)」と書いているね。

567日本@名無史さん2019/08/10(土) 00:53:08.18
はやく自殺でもしたほうが良いんじゃないのか

568日本@名無史さん2019/08/10(土) 00:55:52.82
>>558
阿波も出てけ

569日本@名無史さん2019/08/10(土) 00:56:36.24
八方塞がり九州説

570日本@名無史さん2019/08/10(土) 01:06:22.53
以前から書いていることなんだけど、
(かなーり前から書いている)
誰と間違えているんだ?誰かと間違えているんだろう

571日本@名無史さん2019/08/10(土) 01:23:05.39
自殺したほうが良いぞ・・・、精神病院、刑務所でも良い。
↑w
なぜ、このように書かれたり、言われたりするのが嫌なんだ?
それ相応のことをしているのに、低脳なんだろう

572日本@名無史さん2019/08/10(土) 01:31:35.45
負け惜しみしか言えなくなったキナイコシ

おめでとう

573日本@名無史さん2019/08/10(土) 01:36:56.66
ゴミ、カス・・・何なのか、わからないけど、
レス(>>)なんかするなと言っているんだよ

あの曲やロボットマンと同じような存在なんだから、
知っている人は知っているの

574日本@名無史さん2019/08/10(土) 01:44:44.43
>>565
何を言っても根拠があればいいんだよ
九州説には無いだろ

575日本@名無史さん2019/08/10(土) 01:51:05.64
『Radio Ga Ga』

なぜか『伊達の桃太郎』wと同じような話でしょ

576日本@名無史さん2019/08/10(土) 02:07:51.39
老婆談によるとラジオの話ではないんだけど


歌舞伎、芝居とか、そういう話

577日本@名無史さん2019/08/10(土) 02:26:40.75
おじーちゃん(不明)wが言うには



何度(どこかで)も観た、聴いた・・・くろーん?

578日本@名無史さん2019/08/10(土) 02:32:24.19
『Led Clones』
おじーちゃん(不明)の曲?

579日本@名無史さん2019/08/10(土) 02:34:08.37
浦島太郎(仮名、キャラクター名)?

580日本@名無史さん2019/08/10(土) 02:45:35.91
うらしま・・・・『エビス』(仮名)のことなのかな?

581日本@名無史さん2019/08/10(土) 02:56:01.98
『えびす』

説明しなくても、
知っている人は知っているんだけど

582日本@名無史さん2019/08/10(土) 02:57:46.46
>>572みたいに、まったく具体性のないことしか言えなくなった九州説って、議論に負けたってことだよね

583日本@名無史さん2019/08/10(土) 04:11:51.49
さいきば(さかきばら)事件?

584日本@名無史さん2019/08/10(土) 05:14:51.62
サイキバは「祭祀場」という言葉を知らずに「祭祈場」と何度も書いていたことから進呈されたニックネーム

アワビマンは「倭人伝には邪馬台国でアワビが獲れると書かれているので海のない畿内ではありえない」と言い張ったことで付いた名前

キウスは「希薄」を読めずに「キウス」と読んでいたことから命名された

九州説には異常に馬鹿が多いのか、異常な無学老人がひとりいるのか
それは謎である

585日本@名無史さん2019/08/10(土) 06:30:37.81
>>354 なるほど

586日本@名無史さん2019/08/10(土) 06:44:14.07
>>354
>「女王國 東渡海千餘里 復有國皆倭種」とある時点で、「其南有狗奴国」と方角はきちんと区別しているわけで、
>南→東の読み替えは、結局「箸墓ありき説」の我田引水ということだぬw

・・・だぬw

587日本@名無史さん2019/08/10(土) 06:48:38.30
>>557
>九州説がこのスレから出てけ

それはイカンだろ。  九州説が出ていったら、トンデモ説同士のバカ論争が出来なくなるではないかw  わはははは   @阿波

588日本@名無史さん2019/08/10(土) 06:55:29.62
次の連立方程式を解き、狗奴國の位置、その根拠を示せ。

答案作成にあたり、
>>74 >>317を参考にせよ。

@女王國 東渡海千餘里 復有國皆倭種

A(從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸 狗邪韓國
 始度一海 至對海國 又南渡一海 名日瀚海 至一大國 又渡一海 至末盧國 東南陸行到伊都國 東南至奴国 東行至不彌國 南至投馬國水行二十日) 
 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月(中略)此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王

589日本@名無史さん2019/08/10(土) 06:55:53.24
これでいいんでねーの

>>403日本@名無史さん2019/08/09(金) 14:56:06.44>>405>>409
模範解答
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ! ・・・・・その通り
  里数が書いてないではないか! ・・・・・・書いてないが移動してたのは確実
                           (自女王國以北 其戸數道里可得略載)
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない! ・同じく自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 
                          投馬国は其餘旁國では無いことから、女王国の北で良い
  投馬国は南九州でよいのだ! ・・・・・・・・・・・九州説内部で精査してくれ 関係ないが 
                          南九州から水行10日陸行1月で行く邪馬台国は何処?放射説は畿内説では無い

590日本@名無史さん2019/08/10(土) 06:57:59.07
Qの出し方も工夫したほうが良いかも

591日本@名無史さん2019/08/10(土) 06:58:49.98
>>356 >>357 
>>358 なるほど

592日本@名無史さん2019/08/10(土) 06:59:51.76
>>589
で、狗奴国はどこなん?

593日本@名無史さん2019/08/10(土) 07:00:47.94
>行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果<

別の方法とは・・、親分の「纒向王都」論。

594日本@名無史さん2019/08/10(土) 07:05:01.54
テンプレが長すぎる。
妄想部分を削って減量しないと。

595日本@名無史さん2019/08/10(土) 07:06:56.80
これもわかりやすい
>>9日本@名無史さん2019/08/09(金) 15:36:26.64
>>417
不彌國

↓南 水行20日で移動

投馬国

↓南 水行10日で陸行1月で移動

邪馬台国

よって、投馬国は女王国以北

また、自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳  で
明らかなように、投馬国は其餘旁國に含まれないから女王国以北

596日本@名無史さん2019/08/10(土) 07:07:01.79

597日本@名無史さん2019/08/10(土) 07:14:30.65
>>592
畿内説じゃないので知らん 
奧山のチンプンカンプンの回答よりマシだと思っただけ

598日本@名無史さん2019/08/10(土) 07:24:06.00
>>317
真の神武陵である箸墓、倭迹迹日百襲姫の祭殿跡である纏向遺跡がなければ、成立しえない畿内説w

599日本@名無史さん2019/08/10(土) 07:30:48.46
>>595
>また、自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得)

この部分は、
(これまでに記述してきた8国の内)、自女王國以北の国々については其戸數道里を可得略載
なお、其の(8国の)餘の旁國は遠絶にして不可得詳細、と読む。、 

600日本@名無史さん2019/08/10(土) 07:48:05.09
>>595
>また、自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得)

仮に「自女王國以北」の8国すべてについて「其戸數道里可得略載」であるならば、
この、自女王國以北 其戸數道里可得略載、の内容は、既に記述されており、自明のこととなる。
依ってこれは、ここに書きいれる必要の全くない、単なる重複・冗長文である。

それにもかかわらず、あえて書き入れてあるということは、
前出8国の内には自女王國以北でない国があるという含みと解せざるを得ない。

601日本@名無史さん2019/08/10(土) 07:51:58.50
>>363 なるほど

602日本@名無史さん2019/08/10(土) 07:58:33.65
>>598
箸墓後円部の断面図(北側)
………………………______
5段目……………/倭迹迹日百襲姫\←崇神が追加
4段目…………/ ̄ ̄ ̄神 ̄武 ̄ ̄ ̄\____________
3段目………/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\___________\_
2段目……/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\____________\_
1段目_/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\_____________\__地面
……… ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

603日本@名無史さん2019/08/10(土) 08:05:15.92
>>600
自明なことを書いてはいかんって理由は?
ないよね

はい、論破

604日本@名無史さん2019/08/10(土) 08:06:49.66
>>325の続き
まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し(動画リンク参照)、
ダウンロード&関連動画>>


その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に襲来し、当時の首都太宰府を殲滅できた大帝国・唐外交への忖度で生まれた古事記・日本書紀が消そうとしたのは、

A.史上初めて九州島を脱出し、近江大津京に東遷した天智@太宰府(瓦葺き)以前の倭王権(崇神朝〜応神朝〜継体朝)が北部九州(筑紫邪馬台〜阿蘇邪靡堆)にあったこと
 →3王朝ともその奥津城(王家の谷)畿内にあったことにした(歴史テーマパーク「大倭」)。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!

@(武寧王の百済を完全属国化した)継体@阿蘇邪靡堆が創設した(世界の支配者=中国皇帝からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号の創設
 →天智以降の倭京・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長以前は全て抹消!
A新羅からの朝貢で調子に乗って、世界の支配者「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
 →大和分家の摂政・厩戸皇子と合成し、憲法十七条「聖徳太子」を捏造&抹消!
B白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に恐怖した九州本家・天智@倭京(太宰府)の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草w)
 →舒明♂皇極♀の長男&斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚・天智天武兄弟の秘密)

-継体朝による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・倭京・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html

605日本@名無史さん2019/08/10(土) 08:26:36.92
今城塚古墳に眠る大王の、ピンクの石はなぜ運ばれたのだろう。。。

606日本@名無史さん2019/08/10(土) 08:33:01.42
>>605

碌な遺跡の無い熊本に、邪馬台国が在る訳がない。 以上御終い。   @阿波

607日本@名無史さん2019/08/10(土) 08:35:12.73
読み取り能力不足の阿波爺さんw

608日本@名無史さん2019/08/10(土) 08:37:00.20
>>607

どのみち、福岡だろうが熊本だろうが、「丹」の採れない九州に、邪馬台国など在る訳がない。  以上御終い。   @阿波

609日本@名無史さん2019/08/10(土) 08:39:14.71
>>607
文盲の修羅朱朱朱、月刊ムーの清掃員を相手にすな!

610日本@名無史さん2019/08/10(土) 08:40:02.64
>>559
それは倭国の境界
女王国の境界ではない
そもそもそれだと万二千里でじょうおうこくにつくというきじゅつとあわない

611日本@名無史さん2019/08/10(土) 08:41:08.36
遺跡が豊富にあるということは、
過去のある時期に於いて、その地が放棄され廃棄されたことを意味するわけでもある。
喜んではなりはいられない。
熊本のように、現代まで、確たるクニ政権が続いて居れば、やたら廃墟遺跡にはならない。

612日本@名無史さん2019/08/10(土) 08:47:16.09
>>322 >>602
卑弥呼@筑紫≒神功皇后@筑紫(記紀)≒倭迹迹日百襲姫@大和(畿内説) 

>>604
(物部守屋を滅ぼした以外にこれといった実績のない)用明長男・厩戸+阿毎多利思比孤=聖徳太子

のカラクリがやっと判ったね

613日本@名無史さん2019/08/10(土) 08:57:38.28
>>611
>遺跡が豊富にあるということは、

意味を取り違えている!  遺跡の数ではない!  碌な遺跡の無い九州に、卑弥呼が居る訳がない。 以上御終い。   @阿波

614日本@名無史さん2019/08/10(土) 09:01:13.94
>>589
>これでいいんでねーの

◆FAQ 78で
九州説が致命傷を受けたって
自覚はあるわけね

615日本@名無史さん2019/08/10(土) 09:06:44.06
>>612
欽明朝の使命は、大和分家・飛鳥を拠点にして仏教を国教化すること。
孫の厩戸の功績は、父・用明が守屋を滅ぼして、真の神武陵・箸墓以来の前方後円墳築造を、河内大塚山・三瀬丸山で停止させたことを受け継ぎ、
叔母・推古(用明妹)と大伯父・蘇我馬子、役行者(水銀鉱床探しの山伏修験道を密教化)と共に全国に仏教寺院を建立して、仏教を国教化を成功させたこと。

616日本@名無史さん2019/08/10(土) 09:17:33.20
>>615
>欽明朝の使命は、大和分家・飛鳥を拠点にして仏教を国教化すること。

大和の飛鳥は、倭国(阿波)王権が半島渡来人を保護し、住まわせたところである。   大和に飛鳥の宮は存在しない。  飛鳥の宮が在ったのは倭国(阿波)。   @阿波

617日本@名無史さん2019/08/10(土) 09:20:36.46
意味を取り違えている!  遺跡の数ではない!  
碌な遺跡のない九州が・・・ということは、阿波には、あちこち禄な遺跡があるということだろ。
つまり、過去阿波において、その「禄」が放棄される異常事態があったということだ。以上御終い。   @悲阿波

618日本@名無史さん2019/08/10(土) 09:21:40.11
491>>65
>テンプレ荒らしをする奴は
奥山先生の素晴らしい説が
理解できないのであろう<

そうか。
「南→東」などの嘘付き騙しのスレ主は、
読売が紹介したように、やっぱり、
「「県立橿原考古学研究所(橿考研)指導研究員の奥山誠義(42)」であったのか。

619日本@名無史さん2019/08/10(土) 09:26:10.65
>>617
>碌な遺跡のない九州が・・・ということは、阿波には、あちこち禄な遺跡があるということだろ。

うらやましいかい?  なんなら、少し分けようか?


>つまり、過去阿波において、その「禄」が放棄される異常事態があったということだ。

言うことに事欠いて、へんなイチャモンだね。  わはははは   @阿波  

620日本@名無史さん2019/08/10(土) 09:27:29.08
>>615
首都太宰府(瓦葺き)にいた中大兄皇子と中臣鎌足(藤原氏の祖)が瀬戸内海経由で、大和分家の飛鳥(板葺)宮に下向し、三韓大使の目前で蘇我入鹿を誅殺した理由は、
厩戸(聖徳太子)の物部守屋(前方後円墳築造)廃絶&仏教国教化のおかげで、官寺建設の国家予算を牛耳った大臣蘇我馬子(推古弟・崇峻)・蝦夷・入鹿(厩戸長男・山城大兄王)が、大和分家の皇族を粛正し出したからなのである!

621日本@名無史さん2019/08/10(土) 09:29:17.59
>>620
>欽明朝の使命は、大和分家・飛鳥を拠点にして仏教を国教化すること。

大和の飛鳥は、倭国(阿波)王権が半島渡来人を保護し、住まわせたところである。   大和に飛鳥の宮は存在しない。  飛鳥の宮が在ったのは倭国(阿波)。   @阿波

622日本@名無史さん2019/08/10(土) 09:32:06.38
>>620
瓦葺きの立派な首都太宰府を逆臣入鹿の血で汚すわけにはいかないからな
飛鳥板葺宮(離宮@大和)で誅殺したのだろう

623日本@名無史さん2019/08/10(土) 09:36:15.45
>>622

【飛鳥の地は小松島市一帯】

小松島市嶋ノ宮神社南方の大林町は「あすか」と呼ばれていた。江戸時代まで「飛鳥神社」が鎮座していた。

舒明天皇―飛鳥岡本宮(小松島市千代ヶ原)

香具山―小松島市日峯山・籠山(かごやま)

斉明天皇―後飛鳥岡本宮(小松島市千代ヶ原)

天智天皇―後飛鳥岡本宮(小松島市千代ヶ原) →近江(飛鳥嶋の宮:小松島市嶋ノ宮神社南方の大林町)に遷都

天武天皇―飛鳥嶋の宮(小松島市嶋ノ宮神社南方の大林町)→飛鳥浄御原

持統天皇―飛鳥浄御原→藤原宮(麻植郡鴨島:奈良藤原京は文武天皇)に遷都  @阿波

624日本@名無史さん2019/08/10(土) 09:42:16.33
>>621

こういうことが言えるのは、倭国(阿波)なればこそ!   @阿波

625日本@名無史さん2019/08/10(土) 09:42:24.80
>初期大和王権の大王墓とされる桜井市の桜井茶臼山古墳から、2009年に出土した三角縁神獣鏡
の破片にある「是」の文字が、
>群馬県高崎市の蟹沢古墳で見つかった銅鏡片の「是」と、字や形などがほぼ完全に一致したのだ。
>二つの鏡が同じ鋳型で製造されたことがわかり、初期大和王権の勢力が、全国に広がっていたことをモノで裏付けた。
 ◇
>橿考研では他の研究機関の協力を得て、これまでに銅鏡約1100面、銅鐸約80点を3D計測し、データを蓄積してきた。
>これは国内で出土した古墳時代の銅鏡の2割超、三角縁神獣鏡に限れば半数を超す。
>奥山は「鏡の製作過程などを解明するうえで、大きな役割を果たしていくだろう」と意義を語る。

こんなに大量のサンプルを3Dで調べて、
たった一かけら一文字の同一性というのはおかしい。

626日本@名無史さん2019/08/10(土) 09:45:24.52
>>625

三角縁神獣鏡は倭国(阿波)で作られた?製鏡で、全国へ配られている。

根拠:気延山古墳群の宮谷古墳出土三角縁神獣鏡と同笵鏡が、大分(赤塚古墳)・岡山(鶴山丸山古墳)・京都(内里古墳)・奈良(黒塚古墳)・群馬(天神山古墳)で出土している。   @阿波

627日本@名無史さん2019/08/10(土) 09:47:15.94
>>625

三角縁神獣鏡は倭国(阿波)で作られたぼう製鏡で、全国へ配られている。

根拠:気延山古墳群の宮谷古墳出土三角縁神獣鏡と同笵鏡が、大分(赤塚古墳)・岡山(鶴山丸山古墳)・京都(内里古墳)・奈良(黒塚古墳)・群馬(天神山古墳)で出土している。   @阿波

628日本@名無史さん2019/08/10(土) 09:47:56.08
491>>99
>まあ、こんなに荒らしの馬鹿が必死なのも畿内説が圧倒的優勢なせいだから
九州説敗勢を天下に宣伝してるようなものだが<

「南→東」などの嘘付き騙しや、
「畿内」なんて存在もしなかった皇国史観宣伝文言で、
国民や世間の人を宗教的に騙そうとする、
「県立橿原考古学研究所(橿考研)指導研究員の奥山誠義(42)」
のような・・・・アホ詐欺師が、
黙過し難いだけだ。

629日本@名無史さん2019/08/10(土) 09:52:13.82
>>625
「おかしい」と言うだけで
理由は言えない九州説
あほですか

630日本@名無史さん2019/08/10(土) 09:56:01.31
491>>111
こうやって
九州説の高いレベルに見比べられ、
「南→東」などの嘘付き騙しがバレ、
根拠も殆ど否定されされて、
破滅的打撃を受ける大和説

悲惨だな

631日本@名無史さん2019/08/10(土) 09:57:57.41
>>627

三角縁神獣鏡 は、魏の水銀朱が使われた天河別神社古墳群出土の斜縁二神二獣鏡を?製したものだろう。   @阿波

632日本@名無史さん2019/08/10(土) 09:58:30.24
10年前の読売なら、
「これは大和の卑弥呼王権が群馬県まで支配下に治めていた可能性を示す・・・」、
とかなんとか、大ちょうちんを書いたのだろうな。
しかし2018年のこの記事になると、すっかりすきま風が立ち、腰が引けて距離を置きだしたようだ。

633日本@名無史さん2019/08/10(土) 09:58:33.47
>>627

三角縁神獣鏡 は、魏の水銀朱が使われた天河別神社古墳群出土の斜縁二神二獣鏡をぼう製したものだろう。   @阿波

634日本@名無史さん2019/08/10(土) 09:59:30.59
>>614
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳

これは、魏の使譯によって、通過して来た道里に有る国のことは記載できた。
しかし、その行程に無い国は遠絶 していて、何も知らない。 という事。

使譯の行程での女王宮は、帯方の南、満二千里に有る。
女王国以北しか知らないのであり、東には向かっていない。

致命傷を受けているのは、畿内説である。

635日本@名無史さん2019/08/10(土) 09:59:36.00
>>598 なるほどね

636日本@名無史さん2019/08/10(土) 10:03:24.50
>>634
>使譯の行程での女王宮は、帯方の南、満二千里に有る。

帯方郡→女王国(阿波)万二千里(直線距離 900km)1里=75m

∴1里=70mは、概ね妥当。   @阿波

637日本@名無史さん2019/08/10(土) 10:04:21.36
>>621

こういうことが言えるのは、倭国(阿波)なればこそ!   @阿波

638日本@名無史さん2019/08/10(土) 10:12:36.83
倭国(阿波)は、逆立ち・し・て・い・て・ も、どの説にも負けない。  反論・で・き・る・人・は、 はい、どうぞ。   @阿波 

639日本@名無史さん2019/08/10(土) 10:15:46.45
>>634
「方位が間違っている」という畿内説の主張を無視して反論しないでいる限り、九州説が何を言っても畿内説はキズひとつ付かないよ
こっちの主張を聞いてない人が何を言っても必然的に的外れなのだから

640日本@名無史さん2019/08/10(土) 10:17:51.22
>>639
>こっちの主張を聞いてない人が何を言っても必然的に的外れなのだから

どっちも的外れだよ。 ワハハハハ   @阿波

641日本@名無史さん2019/08/10(土) 10:25:49.58
491>>148
>卑弥呼→台与の頃を歌ったものだろうか? 邪馬台国、初期のヤマト政権は、・・・<

「南≠東」などの拠って、×。

642日本@名無史さん2019/08/10(土) 10:28:09.76
491>>149
>卑弥呼のいた邪馬台国、ヤマトは戦争の最前線<

「南≠東」などに拠って、×。

643日本@名無史さん2019/08/10(土) 10:30:43.64
>>598 >>349 >>350
纏向大型建物ABCDが大王宮ではなく、セレモニーホールなら、桃の種、カエルの骨、隙を再利用した木製仮面で十分
周囲の都市施設の必要もないな
当時沼地だった大和盆地に、古墳用の大坂山の葺石や吉備の特殊器台を運ぶ臨時の運河さえ掘れば桶

644日本@名無史さん2019/08/10(土) 10:31:04.07
>>634
魏志倭人伝によれば帯方より南1万2千里の女王国の位置が会稽東治の東
会稽東治の東とは沖縄とか台湾の辺り

魏志倭人伝の邪馬台国への行程が実際のものではない故に嘘解釈が入り込む余地もあり
それをいい事にそれっぽい事言って詳しくない人を騙そうとするだけの九州北部説は
畿内の三角縁神獣鏡や前方後円墳の考古学的証拠に負けて終わり

645日本@名無史さん2019/08/10(土) 10:33:24.50
>>639
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
は、行程が南下していたということであり、南という
方位が間違っていない という、ことを裏付ける記述。

もう一つ、
計其道里 當在 會稽東治之東

帯方郡から満二千里という、謎の里程が示す場所は
計其道里 によれば 會稽東治之東 に当たる。

會稽東治之東=上海付近から東、帯方郡から満二千里
これが日本列島で該当するのは、鹿児島付近であり
魏使による満二千里の行程に3千里の北よりの東行が含まれることを勘案すれば
概ねで、筑紫平野南端が、これに該当する。

646日本@名無史さん2019/08/10(土) 10:34:55.89
道里、距離は里数でも日数でも表せるとごく当たり前の事を書くだけで
九州説は勝手に発狂してぶっ倒れるから楽なものだ

647日本@名無史さん2019/08/10(土) 10:36:21.67
倭迹迹日百襲姫命の祭殿(桃の種、カエルの骨、鍬再利用の木製仮面)、葺石&特殊器台搬入用の運河、飛鳥時代の大市&運河しかない纏向遺跡
鉄なし、文字(硯・案)なし(金印不要)、も納得。

648日本@名無史さん2019/08/10(土) 10:38:45.45
>>645
>自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
>は、行程が南下していたということであり、南という
>方位が間違っていない という、ことを裏付ける記述。

そう思っているだけで、どうして裏付けになるのかな
裏付けとは何か知らない人だけが、裏付けのない九州説の信者になれる、ということかな?


>會稽東治之東=上海付近から東、帯方郡から満二千里

肝心の「上海付近」というのがウソなので、こうして九州説は崩壊するわけよ

649日本@名無史さん2019/08/10(土) 10:45:38.22
>>363 そういうことか!

650日本@名無史さん2019/08/10(土) 10:46:53.23
洛陽から南萬二千里はちょうど上海付近であり、福州にはならない
畿内説はこのことを想定していない

651日本@名無史さん2019/08/10(土) 10:49:06.49
>>650
そんな断定するなら
計算根拠みせてみ
出来ないだろ

652日本@名無史さん2019/08/10(土) 10:53:25.69
>>650
1万2千里は魏里で約5000km
洛陽から南に5000kmは赤道越えたインドネシア

653日本@名無史さん2019/08/10(土) 10:53:56.83
奥山氏一人による、九州説貶め自作自演はいつまで続くのだろうか。。。

654日本@名無史さん2019/08/10(土) 10:55:29.27
>>653
あんたは病気

655日本@名無史さん2019/08/10(土) 10:58:01.28
九州説は嘘をつくという奇怪な生命維持装置によって辛うじて存続している異常な説だよ
ま、学説としては存続してないけど

656日本@名無史さん2019/08/10(土) 10:59:01.54
>>653
纏向遺跡の真実>>598 >>643 >>647 が判ってしまった以上、もうそれしか手がないのだろう

657日本@名無史さん2019/08/10(土) 11:00:45.11
>>595
>また、自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得)

この部分は・・、
(これまで記述してきた8国の内)、自女王國以北の国々については其戸數道里を可得略載した。
なお、其の(8国の)餘の旁國は遠絶にして不可得詳細なり、と読む。
 今仮に「自女王國以北」の8国すべてについて「其戸數道里可得略載」であるならば、
この、自女王國以北 其戸數道里可得略載、の内容は自明のことであり、既述された事実となる。
つまりこれは、ここに書きいれる必要の全くない重複・冗長文なのである。

それにもかかわらず、あえて書き入れてあるということは、
前出8国の内には自女王國以北でない国がある・・、という含みと解せざるを得ない。

658日本@名無史さん2019/08/10(土) 11:03:02.55
FAQ78
九州説の人にお情けで添削されているようじゃ✖

659日本@名無史さん2019/08/10(土) 11:04:33.49
>>651
ウソと思うなら、グーグルでも引っ張り出して、自分で測ってみればよかろう
ま、どうせグーグルの使い方も知らんのだろうがなwww

660日本@名無史さん2019/08/10(土) 11:10:31.78
491>>155
>九州に着くまで南に7千里くらい、東に3千里くらい進んで来たことになってるだろ<

東は、「韓方四千里」なんだから、釜山付近で「四千里」だ。

>あと2千里だぞ あとはほとんど東じゃなきゃ さっぱり「帯方東南」にならんだろうが<

釜山の真南は平戸と五島列島の間であり、それから博多は約120km(2千里弱)位であり、
関門海峡付近が釜山の東南であり、
だから、博多は、韓の西岸部の南下地点から東へ6千里位になり、
郡から見れば、ほぼ東南東より少し東寄りだ。

661日本@名無史さん2019/08/10(土) 11:19:17.37
>>615
>欽明朝の使命は、大和分家・飛鳥を拠点にして仏教を国教化すること。

大和の飛鳥は、倭国(阿波)王権が半島渡来人を保護し、住まわせたところである。   大和に飛鳥の宮は存在しない。  飛鳥の宮が在ったのは倭国(阿波)。   @阿波

662日本@名無史さん2019/08/10(土) 11:19:45.87
>>622

【飛鳥の地は小松島市一帯】

小松島市嶋ノ宮神社南方の大林町は「あすか」と呼ばれていた。江戸時代まで「飛鳥神社」が鎮座していた。

舒明天皇―飛鳥岡本宮(小松島市千代ヶ原)

香具山―小松島市日峯山・籠山(かごやま)

斉明天皇―後飛鳥岡本宮(小松島市千代ヶ原)

天智天皇―後飛鳥岡本宮(小松島市千代ヶ原) →近江(飛鳥嶋の宮:小松島市嶋ノ宮神社南方の大林町)に遷都

天武天皇―飛鳥嶋の宮(小松島市嶋ノ宮神社南方の大林町)→飛鳥浄御原

持統天皇―飛鳥浄御原→藤原宮(麻植郡鴨島:奈良藤原京は文武天皇)に遷都  @阿波

663日本@名無史さん2019/08/10(土) 11:20:22.36
>>625

三角縁神獣鏡は倭国(阿波)で作られたぼう製鏡で、全国へ配られている。

根拠:気延山古墳群の宮谷古墳出土三角縁神獣鏡と同笵鏡が、大分(赤塚古墳)・岡山(鶴山丸山古墳)・京都(内里古墳)・奈良(黒塚古墳)・群馬(天神山古墳)で出土している。   @阿波

664日本@名無史さん2019/08/10(土) 11:20:47.57
>>627

三角縁神獣鏡 は、魏の水銀朱が使われた天河別神社古墳群出土の斜縁二神二獣鏡をぼう製したものだろう。   @阿波

665日本@名無史さん2019/08/10(土) 11:21:06.43
>>634
>使譯の行程での女王宮は、帯方の南、満二千里に有る。

帯方郡→女王国(阿波)万二千里(直線距離 900km)1里=75m

∴1里=70mは、概ね妥当。   @阿波

666日本@名無史さん2019/08/10(土) 11:21:25.71
倭国(阿波)は、逆立ち・し・て・い・て・ も、どの説にも負けない。  反論・で・き・る・人・は、 はい、どうぞ。   @阿波 

667日本@名無史さん2019/08/10(土) 11:23:41.65
畿内説はグーグル使ったことがないのだろうな
ま、ホントは、正しい方角・距離を知るのが恐ろしくて、見る事さえできないんだろう、、、

668日本@名無史さん2019/08/10(土) 11:24:19.44
491>>164
行程論では、「南≠東」だけではなく、
女王国が不彌國のすぐ南辺りになると書いてある時点で、
大和説も沖縄説も、全ておじゃん

669日本@名無史さん2019/08/10(土) 11:25:35.72
俺は阿波をゲンコで思い切りブン殴り説だが
阿波は住所どこ

670日本@名無史さん2019/08/10(土) 11:26:53.78
>>669

阿波市   

倭国(阿波)は、逆立ち・し・て・い・て・ も、どの説にも負けない。  反論・で・き・る・人・は、 はい、どうぞ。   @阿波 

671日本@名無史さん2019/08/10(土) 11:29:45.16
>>670
ほう
阿波をゲンコで思い切りブン殴り説に勝てると思ってるのか

672日本@名無史さん2019/08/10(土) 11:29:45.67
○○が見える恥ずかしい@阿波の逆立ち

673日本@名無史さん2019/08/10(土) 11:31:33.33
491>>169
>魏志倭人伝にある行程を政治色あるいは祭事色の強い概念的なもので
実際の邪馬台国までの行程を表したものではないとする畿内説は
三角縁神獣鏡や前方後円墳など考古発掘物から見て
邪馬台国は畿内大和国の事だったと推定する <

「南≠東」などに拠って、×。

674日本@名無史さん2019/08/10(土) 11:33:20.06
491>>172
「南≠東」などでおじゃんになった大和説

675日本@名無史さん2019/08/10(土) 11:34:03.57
>>671-672

だから、まともな反論を期待してるんだがwww   やはり、無理かwww   @阿波

676日本@名無史さん2019/08/10(土) 11:35:15.61
>>675
まともな反論だろ

677日本@名無史さん2019/08/10(土) 11:37:31.53
491>>173
行程からわかる事
大和は、「筑紫で二千余里」でも、「南≠東」などでも×であり、
女王国でさえもない属国

これが確定するだけ
ご苦労様でした

678日本@名無史さん2019/08/10(土) 11:38:01.37
>>676
>まともな反論だろ

まぁ、君にとってはそうなんだろう。  わはははは   @阿波

679日本@名無史さん2019/08/10(土) 11:39:21.89
>>657
また連呼してる
ばかですか

重複したこと書いていけないなんて決まりは無いんだよ
強調、まとめ、対比、評
文にはいろんな役割がある
そんなことより
各種情報を得ている投馬国を不可得詳と呼ぶという矛盾
これこそ致命的だね
投馬国は女王国以北だ
ゴマカシは無理

680日本@名無史さん2019/08/10(土) 11:41:28.71
>>678
何だ逆立ちしてたってどの説にも勝てるというのは嘘だったのか?

681日本@名無史さん2019/08/10(土) 11:43:16.38
阿波は嘘つきだったのかー失望したわー

682日本@名無史さん2019/08/10(土) 11:44:47.57
>>676
>まともな反論だろ

? >>671-672をまともな反論と呼ぶ神経がすごい


>>671って
 >ほう
 >阿波をゲンコで思い切りブン殴り説に勝てると思ってるのか

>>672って
 >○○が見える恥ずかしい@阿波の逆立ち


これが「まともな反論」て・・

683日本@名無史さん2019/08/10(土) 11:45:19.48
>>680
逆立ちしたら勝てるんだろ

684日本@名無史さん2019/08/10(土) 11:45:53.40
阿波はカポエラ使いだったのか

685日本@名無史さん2019/08/10(土) 11:46:29.99
カポエラ使い阿波

686日本@名無史さん2019/08/10(土) 11:48:04.59
>>679
>重複したこと書いていけないなんて決まりは無いんだよ

陳寿の文章は、漢文の本場の中国で千数百年にわたって高い評価を受けてきた。
だが、5chに書きたきゃ重複を書いてもいいんだよ、駄文の見本になるけどな

687日本@名無史さん2019/08/10(土) 11:48:24.21
491>>189
>近江説・・・日本海航路です<

「南≠東北」に拠って、×です。

688日本@名無史さん2019/08/10(土) 11:49:30.76
>>682
阿波は逆立ちしたままでもどの説にも勝てると言ってたが

689日本@名無史さん2019/08/10(土) 11:51:40.77
491>>190
>つまり道里=行道八日だろう
>道里は里数だけでなく日数で表記してあっても道里<

「里≠日数」であるから、×。

690日本@名無史さん2019/08/10(土) 11:53:43.13
>>686
駄文だって根拠は?

691日本@名無史さん2019/08/10(土) 12:02:18.96
>>686
「南至」の起点が帯方郡だとか誤読するバカが涌かないように必要な文章じゃね?
これを冗長文とか、妄想妄想

692日本@名無史さん2019/08/10(土) 12:06:51.62
491>>196
>それに魏志倭人伝には女王国の位置は沖縄辺りとあるので<

不彌國で萬二千余里がほぼ終わっていて、
「沖縄辺り」には全くならないから、この大和説者も、×男。

693日本@名無史さん2019/08/10(土) 12:12:26.83
>>692
>不彌國で萬二千余里がほぼ終わっていて、

そんなこと倭人伝に書いてないよね

694日本@名無史さん2019/08/10(土) 12:12:48.15
南至 投馬國 水行二十日 可五萬餘戸
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 可七萬餘戸(官略
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳

この一連の文では対馬、壱岐、狗邪韓國は、国という概念で示されていない。
この違いは、戸数表記の、有か可か、で区別可能である。

水行10日で(筑紫)邪馬台国に入国。女王宮へは陸行一月 である。
次有21国列記、此女王境界所盡
其南有 狗奴國 不屬女王

此 は、参問した次有21連呼で示される領主国を指すのであり、
女王国構成国7万戸の内訳に、漢字の当て字で命名したものである。
狗奴國 不屬女王は、女王国以南であり、戸数は未調査である。

女王国以北のこの概念での国とは、馬韓、弁辰韓であるが、
可5万戸は、弁辰韓である。

240年梯儁は楽浪帯方陥落の238年以降初の半島西岸探検であり、
この時は弁辰韓を表意文字で馬韓の向こう『投馬国』と命名、
卑弥呼の筑紫21国を『邪馬台国』と命名した。

漢字名を作った邪馬国に在った女王の臺が、この由来だろう。

695日本@名無史さん2019/08/10(土) 12:28:28.84
>>694
>この一連の文では対馬、壱岐、狗邪韓國は、国という概念で示されていない。


「国」と明記されてるのに
なんでそんなこと決め付けるんだ

九州説は理由もなくそんな決め付けばかりしているから
歴史学の世界にいられなくなったんだ
自覚しろよ

696日本@名無史さん2019/08/10(土) 12:40:46.85
>>659
ほら、九州説はまた自分の主張を
まったく立証することが出来ない

だから九州説は失格なんだよね

697日本@名無史さん2019/08/10(土) 12:52:42.52
九州説にとって致命的なのは説としての欠陥より
むしろ信者の説明能力欠如、つまり無能さの方なのだな

698日本@名無史さん2019/08/10(土) 12:53:56.69
水行も陸行も都合よく全部無視

そして距離も方向も全部捏造

はい、邪馬台国です

これがバカ九州説

699日本@名無史さん2019/08/10(土) 13:02:31.32
>>679
>重複したこと書いていけないなんて決まりは無いんだよ

重複であることを認識しているようだな。畿内説にしては立派、結構、可!

700日本@名無史さん2019/08/10(土) 13:14:05.50
>>698
>水行も陸行も都合よく全部無視
>そして距離も方向も全部捏造
>はい、邪馬台国です
>これがバカ九州説

それは畿内説やろw 自虐ネタかwww

701日本@名無史さん2019/08/10(土) 13:16:59.79
>>700
幼稚園児の言い返しか w
これだから九州説はダメなんだ

702日本@名無史さん2019/08/10(土) 13:21:43.32
>>699
つまり畿内説には何の問題もないということでokね

重複はあっても構わない
しかし矛盾はあってはいけない
官も副も戸数も道里も書かれている投馬国を
「不可得詳」とか称することはあり得ない

投馬国は「女王国以北」に分類される

703日本@名無史さん2019/08/10(土) 13:41:00.33
投馬国は女王国以北だ
わかったか九州説

704日本@名無史さん2019/08/10(土) 13:43:59.79
>>700
はて畿内説がいつ行程を捏造しましたか
魏志倭人伝には会稽東治の東で沖縄か台湾辺りと書いてあると
魏志倭人伝に書いてある通りの主張をしてますが

705日本@名無史さん2019/08/10(土) 13:48:01.93
九州説は会稽東治が上海とか捏造してるよね

706日本@名無史さん2019/08/10(土) 13:51:05.85
九州説は嘘がつけなくなるとほんとに死ぬんだな

707日本@名無史さん2019/08/10(土) 13:51:08.48
洛陽から上海まで、萬二千余里
ほど良い距離感。

708日本@名無史さん2019/08/10(土) 13:56:26.48
>官も副も戸数も道里も書かれている投馬国を
>「不可得詳」とか称することはあり得ない

その余の国々は「不可得詳」なのであるから、東西南北いずれにあるかも不明である。
故に、投馬国は不可と苦笑ではないから以北とは言えない。

709日本@名無史さん2019/08/10(土) 14:03:03.22
罵り、罵声は畿内説有利

710日本@名無史さん2019/08/10(土) 14:04:17.61
大陳寿様の文章は、歴史上たくさんの文筆家の目に触れてきた。
註を成した者も少なからず。
なのにその一部に重複・冗長があってもおかしくないという畿内説の解読はおかしくないか?

711日本@名無史さん2019/08/10(土) 14:07:30.09
頭の悪い考古学者だけが、巻向に邪馬台国の幻想を見ることが可能なのだな。。。

712日本@名無史さん2019/08/10(土) 14:07:54.14
帯方郡から女王国まで萬二千余里
洛陽から上海までも萬二千余里
ほど良い距離感。

713日本@名無史さん2019/08/10(土) 14:08:23.12
駄弁も畿内説有利

714日本@名無史さん2019/08/10(土) 14:10:59.93
行程論と考古物も畿内説有利

715日本@名無史さん2019/08/10(土) 14:11:17.84
>>711
孫達は京都に遊びに行っているので、夕食までは魏志倭人伝時代についての研究をすれば良いね。。

716日本@名無史さん2019/08/10(土) 14:16:09.70
同じ考え方を、邪馬台国にも適用すれば、邪馬台国も「自女王国以北」になり、邪馬台国が一大率に検察され一大率を恐れていることになる、という矛盾を、
頭が悪すぎる朝鮮人の奥山氏は、説明出来ないのだったな。。、

702日本@名無史さん2019/08/10(土) 13:21:43.32
>>699
つまり畿内説には何の問題もないということでokね

重複はあっても構わない
しかし矛盾はあってはいけない
官も副も戸数も道里も書かれている投馬国を
「不可得詳」とか称することはあり得ない

投馬国は「女王国以北」に分類される

717日本@名無史さん2019/08/10(土) 14:16:57.23
いくら距離感がほど良くても
魏志倭人伝に書いてある女王国の位置は沖縄かパプアニューギニア

718日本@名無史さん2019/08/10(土) 14:19:59.71
>>716
つまり、投馬国と邪馬台国が、自女王国以北であっても、なくても、奥山氏は論破され、邪馬台国畿内説は完全に破綻するのだね。。。

719日本@名無史さん2019/08/10(土) 14:21:28.03
>>707
>洛陽から上海まで、萬二千余里

なに捏造してんの
これだから九州説は

720日本@名無史さん2019/08/10(土) 14:23:34.53
奥山氏が、邪馬台国畿内説が完全に破綻したことを認め、敗北宣言をする代わりに、頭が悪すぎる者が考えつく意見を発表したな。。。

717日本@名無史さん2019/08/10(土) 14:16:57.23
いくら距離感がほど良くても
魏志倭人伝に書いてある女王国の位置は沖縄かパプアニューギニア

721日本@名無史さん2019/08/10(土) 14:24:23.72
>>716
>同じ考え方を、邪馬台国にも適用すれば、邪馬台国も「自女王国以北」になり、邪馬台国が一大率に検察され一大率を恐れていることになる、という矛盾を、

邪馬台国も「自女王国以北」になり、邪馬台国が一大率に検察され一大率を恐れていることになる、
なんて記述は倭人伝には無いな

捏造ダメよ九州説

722日本@名無史さん2019/08/10(土) 14:25:18.02
>>720
捏造ダメよ九州説

723日本@名無史さん2019/08/10(土) 14:25:23.58
熊本の高校生が、野球の試合に勝利したな。。

724日本@名無史さん2019/08/10(土) 14:27:00.60
723
温暖化したので、真夏の昼間の運動は危険だったのではないのかな、、、

725日本@名無史さん2019/08/10(土) 14:29:12.51
>>724
マラソンのように、走り続ける運動ではないので、大丈夫だという考え方なのだろうか、、、

726日本@名無史さん2019/08/10(土) 14:30:26.95
奥山氏は、頭が悪すぎるな、、、

721日本@名無史さん2019/08/10(土) 14:24:23.72
>>716
>同じ考え方を、邪馬台国にも適用すれば、邪馬台国も「自女王国以北」になり、邪馬台国が一大率に検察され一大率を恐れていることになる、という矛盾を、

邪馬台国も「自女王国以北」になり、邪馬台国が一大率に検察され一大率を恐れていることになる、
なんて記述は倭人伝には無いな

捏造ダメよ九州説

727日本@名無史さん2019/08/10(土) 14:31:53.16
そもそも

>洛陽から上海まで、萬二千余里

って真っ赤なウソじゃねーか

728日本@名無史さん2019/08/10(土) 14:32:51.33
>>726
ずいぶん九州説は追い詰められてるなあ

729日本@名無史さん2019/08/10(土) 14:37:19.44
>>726
そうだな、、、
邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奥山氏は、やはり、頭が悪すぎるね、、、
僕達は、ただ、頭が悪すぎる奥山氏の、、
官も副も戸数も日数も書かれている投馬国を「不可得詳」とか称することはあり得ないから、
投馬国は「女王国以北」に分類される、、、
という意見を、邪馬台国にも適用すれば、邪馬台国も女王国以北に分類されないのなら、奥山氏の考え方に一貫性がなくなってしまうことを、教えてあげただけだね。。

730日本@名無史さん2019/08/10(土) 14:43:03.46
投馬国と邪馬台国が、自女王国以北であっても、なくても、奥山氏は論破され、邪馬台国畿内説は完全に破綻するのだね。。。

731日本@名無史さん2019/08/10(土) 14:44:44.49
追い詰められた九州説が
発狂して意味のないことを
呟き始めたな

732日本@名無史さん2019/08/10(土) 14:46:05.94
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳

が、240年梯儁の報告文に対する、陳寿の入れ込み文であることは間違いない。
削除して読んでも意味は通る。
なぜここに入れたか? 
南下行程で知った、自女王國以北以外は記載が不可得詳 なのである。

そのうえで、
次有21国列記は、梯儁が王宮で参問した所属国の詳細。

この邪馬台国の紹介 ―列記21国― という文型は
前章である、韓伝、馬韓54国列記、弁辰24国列記、
これと、同期していることは間違いない。

邪馬台国は、梯儁が和名を漢訳した所属国21国可7万戸についての、
名前が無かった代表国名として、命名したものである。

南至 投馬國 可5万戸の前文までの、
里程で示した寄港地等島名都市名の直列行程とは接続しえない。

所属21国の王国の概念であって
隣接国までの里程なんてものは必要ないので
行軍に要した日程を記したのである。

733日本@名無史さん2019/08/10(土) 14:46:19.71
陸行と水行はなんで無視するの?
なんで一度里で説明したのにまたスタートからやり直して日数で書くの?中国人の史書なのになんで倭人に合わせたとか言うの?

そうじゃないと都合が悪いから

もう九州説とか言うバカは存在そのものを恥じろ

734日本@名無史さん2019/08/10(土) 14:49:58.27
>>730
邪馬台国熊本城学では、帯方から邪馬台国までの行程に投馬国がなく、逆に、帯方から投馬国までの行程に邪馬台国がないので、
どちらか一方が、北か南かを記録する必要性が中国人には無いということで、学術の説明が出来るのだったな。。

735日本@名無史さん2019/08/10(土) 14:51:00.76
邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の頭が悪すぎるBBAは、やはり、完全に論破されたので、敗北宣言の代わりに嘘を言い放つしかなくなったな、、、

728日本@名無史さん2019/08/10(土) 14:32:51.33
>>726
ずいぶん九州説は追い詰められてるなあ

731日本@名無史さん2019/08/10(土) 14:44:44.49
追い詰められた九州説が
発狂して意味のないことを
呟き始めたな

736日本@名無史さん2019/08/10(土) 14:54:21.59
九州説終わってるな

737日本@名無史さん2019/08/10(土) 14:59:17.89
頭が悪すぎる朝鮮人の奥山氏は、奴国が二つあると考えてしまったので、伊都国の隣の奴国から邪馬台国までの間の国々を、魏志倭人伝が次々に紹介していることが分からないのだな、、、

738日本@名無史さん2019/08/10(土) 15:01:46.53
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人の、奥山氏は、頭が悪すぎるので、小学生にも論破され、スレッドを荒らすのだったな。。。

739日本@名無史さん2019/08/10(土) 15:03:56.27
投馬国と邪馬台国が、自女王国以北であっても、なくても、奥山氏は論破され、邪馬台国畿内説は完全に破綻するのだね。。。

740日本@名無史さん2019/08/10(土) 15:07:29.09
脳死した九州が怨念のままに無意味なことを呟いているな

741日本@名無史さん2019/08/10(土) 15:10:53.39
>>602 そういうことか!

742日本@名無史さん2019/08/10(土) 15:12:03.75
邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の頭が悪すぎるBBAは、やはり、完全に論破されたので、敗北宣言の代わりに嘘を言い放つしかなくなったな、、、

740 名前:日本@名無史さん 2019/08/10(土) 15:07:29.09
脳死した九州が怨念のままに無意味なことを呟いているな

743日本@名無史さん2019/08/10(土) 15:27:36.14
【倭人伝 行程文要約】
今(魏時) 使譯(梯儁、張政) 所通 三十國
從郡至倭 (247年 張政の行程)
↓― 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 七千餘里
到 其北岸 狗邪韓國
↓― 始度一海 千餘里
至 對海國 有千餘戸
↓― 又 南渡一海 千餘里・瀚海
至 一大國 有三千許家
↓― 又 渡一海 千餘里
至 末盧國 有四千餘戸
↓― 東南 陸行五百里
到 伊都國 有千餘戸
以上、動的な直列行程、各地点の里程で 合計満五百里

東南 至 奴國 百里 有二萬餘戸
東行 至 不彌國 百里 有千餘家
奴国の文節には動詞が無い。 前文までの行程とは直列しない。
また動的行程は、動詞 距離 至 地名の語順で有るのに対し  
奴國 不彌國は、方角 至 地名 距離の語順である。
247年張政の最終到達地、伊都の隣国の紹介であり、女王宮に近づく行程ではない。

これに対し、240年梯儁の行軍記録は
南至 投馬國 水行20日 南至邪馬台国 水行10日 女王の処都 陸行1月
〜邪馬台国の詳細列記21国〜
自郡至女王國 萬二千餘里 が、印綬行軍での最南の到達点、とシンプルである。

744日本@名無史さん2019/08/10(土) 15:31:22.69
>>363 そういうことか!

745日本@名無史さん2019/08/10(土) 16:03:30.46
もし、日数表記を、道里の略載と捉え、同時に、投馬国が、帯方から邪馬台国への経路上の国だとするなら、投馬国と邪馬台国の両方を、自女王国以北の国にしなければいけなくなり、
一大率が検察し畏憚させていた諸国に邪馬台国を含めるという矛盾が発生してしまうのだな。。
だから、投馬国が、帯方から邪馬台国への経路 の国だとする邪馬台国畿内説が、破綻しないためには、
投馬国は、邪馬台国の北だと中国人に認識されていたが、
日数表記を、道里の略載だとはせずに、投馬国は、邪馬台国と同様に自女王国以北の国とは、中国人に認識されていないのだ、
という、訳のわからない、頭が悪すぎる者が考えつく前提が必要になるのではないのかな。。。

746日本@名無史さん2019/08/10(土) 16:04:51.71
もし、日数表記を、道里の略載と捉え、同時に、投馬国が、帯方から邪馬台国への経路上の国だとするなら、投馬国と邪馬台国の両方を、自女王国以北の国にしなければいけなくなり、
一大率が検察し畏憚させていた諸国に邪馬台国を含めるという矛盾が発生してしまうのだな。。
だから、投馬国が、帯方から邪馬台国への経路上の国だとする邪馬台国畿内説が、破綻しないためには、
投馬国は、邪馬台国の北だと中国人に認識されていたが、
日数表記を、道里の略載だとはせずに、投馬国は、邪馬台国と同様に自女王国以北の国とは、中国人に認識されていないのだ、
という、訳のわからない、頭が悪すぎる者が考えつく前提が必要になるのではないのかな。。。

747日本@名無史さん2019/08/10(土) 16:05:54.39
邪馬台国熊本城学では、帯方から邪馬台国までの行程に投馬国がなく、逆に、帯方から投馬国までの行程に邪馬台国がないので、
どちらか一方が、北か南かを記録する必要性が中国人には無いということで、学術の説明が出来るのだったな。。

748日本@名無史さん2019/08/10(土) 16:13:58.13
日数と里で同じ道を説明してるとか言うアホが九州説

749日本@名無史さん2019/08/10(土) 16:27:08.26
>>745
>もし、日数表記を、道里の略載と捉え、同時に、投馬国が、帯方から邪馬台国への経路上の国だとするなら、投馬国と邪馬台国の両方を、自女王国以北の国にしなければいけなくなり、
>一大率が検察し畏憚させていた諸国に邪馬台国を含めるという矛盾が発生してしまうのだな。。

この人、なに妄想してんだろ
一大率は以北に置いてるだけでしょ
邪馬台国を検察するなんて倭人伝には書いてないのな

750日本@名無史さん2019/08/10(土) 16:30:38.98
>>746
なるほど、日数表記を道里の略載と捉えれば、投馬国と邪馬台国の両方が郡から女王国までの経路上の国であった、、
つまり、自女王国以北の国にしなければならないということになるな。

751日本@名無史さん2019/08/10(土) 16:32:47.22
>>745
邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人の奥山氏を、完全に論破してしまいましたね。。。

752日本@名無史さん2019/08/10(土) 16:33:16.00
491>>207
>奥山は俺同様 畿内説だが
勘弁してよ ・・・<

畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙しであるし、
大和説は、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘付き騙しで、
世間や国民を騙そうとしている詐欺師であるから、
黙過し難い。

753日本@名無史さん2019/08/10(土) 16:34:35.31
>>727日本@名無史さん2019/08/10(土) 14:31:53
>>洛陽から上海まで、萬二千余里
>って真っ赤なウソじゃねーか

グーグルで測ってみたか、どうだい短里でピッタリの萬二千余里だっただろう

754日本@名無史さん2019/08/10(土) 16:36:53.08
>>751
邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人の奥山氏を、完全に論破してしまったので、邪馬台国畿内説の宣伝組織は、BBAのキャラクターが出現し、嘘や悪口を言い放つしかなくなったな、、、

755日本@名無史さん2019/08/10(土) 16:38:03.61
もし、日数表記を、道里の略載と捉え、同時に、投馬国が、帯方から邪馬台国への経路上の国だとするなら、投馬国と邪馬台国の両方を、自女王国以北の国にしなければいけなくなり、
一大率が検察し畏憚させていた諸国に邪馬台国を含めるという矛盾が発生してしまうのだな。。
だから、投馬国が、帯方から邪馬台国への経路上の国だとする邪馬台国畿内説が、破綻しないためには、
投馬国は、邪馬台国の北だと中国人に認識されていたが、
日数表記を、道里の略載だとはせずに、投馬国は、邪馬台国と同様に自女王国以北の国とは、中国人に認識されていないのだ、
という、訳のわからない、頭が悪すぎる者が考えつく前提が必要になるのではないのかな。。。

756日本@名無史さん2019/08/10(土) 16:43:51.01
491>>211
いつもナリスマシする大和説、汚いな

「南→東」などの嘘付き騙しのスレ主に、ボロボロにされる大和説

757日本@名無史さん2019/08/10(土) 16:52:27.68
>>753
あいかわらず、絶対に証拠を出さない
九州説は異常だな

758日本@名無史さん2019/08/10(土) 16:56:51.04
491>>256
大和説はロクな反論もなし
そろそろ消滅かなあ

759日本@名無史さん2019/08/10(土) 16:59:53.58
491>>265
「ズレてる 」「認知の誤り」「文脈を無視」 主観しか書いてない

さすが「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者らしい投稿だ

760日本@名無史さん2019/08/10(土) 17:00:04.14
>>758
このように
九州説の後期高齢者たちには
現実逃避しか余生の生き方がない

761日本@名無史さん2019/08/10(土) 17:00:44.38
>>757
相変わらず自分でウラを取らず、
他人任せにしては証拠を出せ・・、と云い続ける畿内説はやる気がないな。

762日本@名無史さん2019/08/10(土) 17:01:17.27
>>759
このように徹底してウソをつく
それが九州説の晩節の穢しかた

763日本@名無史さん2019/08/10(土) 17:01:19.21
ムーアの某曲、聴いてみた?
ドラゴンボールのような気がするでしょ、空耳関係?

馬頭(ばとう)〜と言っていたり


『伊達の桃太郎』と同じ

764日本@名無史さん2019/08/10(土) 17:01:39.77
頭の悪い考古学者だけが、巻向に邪馬台国の幻想を見ることが可能なのだな。。。

765日本@名無史さん2019/08/10(土) 17:03:13.78
複製人間、コピー、クローンではない家の話をしているんだろう、
家の妹の話?

766日本@名無史さん2019/08/10(土) 17:05:01.45
家族も友人も同僚もいない奥山氏とBBAは、生き甲斐は、5ちゃんねるにしかないのではないのかな。。。

760日本@名無史さん2019/08/10(土) 17:00:04.14
>>758
このように
九州説の後期高齢者たちには
現実逃避しか余生の生き方がない

767日本@名無史さん2019/08/10(土) 17:05:41.03
畿内に三角縁神獣鏡や前方後円墳が山ほど見つかってる時点で
九州説は負けなんだよ

768日本@名無史さん2019/08/10(土) 17:07:22.65
長年九州説やってるとウソつくことが平気になっちゃうって
恐ろしすぎだろ九州説

769日本@名無史さん2019/08/10(土) 17:07:52.64
Gary Moore『after the war』

この曲の話w

770日本@名無史さん2019/08/10(土) 17:08:14.85
つまり、時代の違う物体が、邪馬台国畿内説の独立した75%の根拠なのだな、、、

767日本@名無史さん2019/08/10(土) 17:05:41.03
畿内に三角縁神獣鏡や前方後円墳が山ほど見つかってる時点で
九州説は負けなんだよ

771日本@名無史さん2019/08/10(土) 17:10:14.64
>>770
独立した75%の根拠は、二つではなく、三つ必要なのではないのかな、、、

772日本@名無史さん2019/08/10(土) 17:12:06.49
3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説

単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。

失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。

http://2chb.net/r/history/1556294803/303

773日本@名無史さん2019/08/10(土) 17:13:34.96
邪馬台国畿内説のスレッドに、嘘だらけのテンプレートを、貼り付けている、3つの独立の根拠があれば、そこが邪馬台国だという、自称ベイジアンの発表した意見のどこがおかしいか発表します。。。

真実のロシアのルーレットの思考の実験を読めば、普通の頭の者なら、理解できます。。。

架空の世界に、12丁の、色の違う、4発発射できる、回転式の架空の拳銃を使ってルーレットをする架空の会場が、開場しました、、
赤の拳銃、緑の拳銃、青の拳銃、そして、その他の9色の拳銃が用意され、どちらが運が良いか決定しようとしている、架空の奥山氏と、架空の類奥山氏が、入場しました、、
緑と青、そして、その他の赤以外の9色の架空の拳銃の専用の弾は、的を死体にはしないで、本体と同じ色をつける、絵の具の弾です、
赤の架空の拳銃は、的を死体にする専用の弾を、発射します、、

ルールがありますが、不公平です、、
架空の奥山氏は、どの色の拳銃を使用するときにも、空にしたあと弾を3発込めて、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
架空の類奥山氏は、奥山氏の頭に色が付かなかった時は、その色の拳銃を使用するときには、弾を4発込めて、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
架空の類奥山氏は、架空の奥山氏の頭に色が付いた時は、空にしたあと、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、

拳銃は、奥山氏から初めて互いに交互に、緑、青、その他の赤以外の9色、最後に赤と撃ちます。
最後に生きている方には、架空の睡眠銃で睡眠弾が発射されます。。
架空の生物にはクマモンという着ぐるみを、死体には、、巻きぴょん、、という着ぐるみを装着させます。。。

拳銃の数を知らない、奈良の小汚い自称考古学者が出現し、巻きぴょんの中身だけを調べました。。。
巻きぴょんの頭部が、緑と青と赤だけで着色されていたら、それが奥山氏の確率は、ベジタリアンとベジタリアンでは無い者では、それぞれ、どのような、計算結果になるでしょうか、、、

架空のロシアの会場の巻きぴょんの頭部が、緑と青と赤だけで着色されていることで、奥山氏かどうかを判定することは、、、
つまり、着色の可能性の全体を無視して、緑と青と赤という要素だけで、全体を予想する、、、
という、破綻した要素還元主義が前提になっているのだったな。。。

774日本@名無史さん2019/08/10(土) 17:13:56.84
英雄の話もしているし、

『龍殺し』?

775日本@名無史さん2019/08/10(土) 17:26:02.42
当時、よくわからない職?の人がいたのかな、
家は戦争なんかにも行っていないと言っているし

でも何かの制服は着ている、『龍宮〜』の子供のころの写真

776日本@名無史さん2019/08/10(土) 17:29:09.48
『伊達の桃太郎』

「門人」と書いてある家と同じ名前の家、
4、5歳頃の写真、何かの制服を着ているし

かなり古い写真

777日本@名無史さん2019/08/10(土) 17:30:40.33
二回来て二回の行程を説明した?
は?
最初に一度に説明してるよな?
で?
なんで二回目の行程とやらが同じ道辿ってんのに突然日数になってんの?

水行と陸行の都合が悪いからそうであって欲しいから

九州説とか言う時点でもう人間の恥だな

778日本@名無史さん2019/08/10(土) 17:32:12.23
491>>281
>「里」は公定尺の度量衡の体系に組み込まれた絶対値を持つ長さの単位<

一つの田畑の平均的大きさの何倍位か?で、距離を表記する長さの単位。

>1里=300歩=1800尺だ <

それは強権始皇帝が「1歩=6尺」を命令して、造られた換算式。

>古者、建歩立畝、六尺為歩、歩百為畝、畝百為夫、夫三為屋、屋三為井。井方一里。<

これは、「六尺為歩」を使ったから始皇帝以後の文章であり、
周代の「里」の証拠にならない。

>魏尺として正始弩尺の24.3センチを使えば、1里は437メートルだ<

尺寸法は、周代から魏代までは大きな変化が無く、正始弩尺でも殆ど変わっておらず、
問題は、魏代には、
始皇帝の1歩=6尺であったか?、周魏朝では「1歩≒1尺」であったのか?、
という事。

779日本@名無史さん2019/08/10(土) 17:36:02.92
まぁこの必死の誤魔化しぶりを見ると行程のホラも自分でももう終わってるの分かってるんだろうな

それでもついたホラが引っ込められなくてホラを吹き続ける
九州説とか言う奴らは本当に惨めな奴らだな

780日本@名無史さん2019/08/10(土) 17:41:42.64
ほとんど合致しているし、
蚕を飼っていて、機織りをしていた家の話とか

781日本@名無史さん2019/08/10(土) 17:47:46.86
『伊達の桃太郎』〜『牛頭馬頭』と書いてあるでしょ

その、むーあの曲も聴いてみて、日本語訳とか調べてみるとか

782日本@名無史さん2019/08/10(土) 17:55:11.34
491>>282
>>畿内説では其國本亦以男子為王 住七八十年の説明がつかない<

>倭国のどこかに王がいた、というだけの話
というか、ローカル首長を王と呼んでいただけだから、丹波や吉備や出雲にも王がいたわけだ<

倭人伝は「南≠東」などに拠ってほぼ九州島付近内の話であり、
丹波や吉備や出雲の王の事は書いていない。

>九州説は多元王朝説で3世紀には統一国家はないっていつも言ってるんだから、<

古田さんの「列島多元」は、
縄文人や、東テイ人や倭人や毛人や侏儒國人や出雲や越や蝦夷や白人系やアイヌなどを含めたもの。

>2世紀に倭国を支配する王なんている訳ないだろ?ww<

後漢書が2世紀の倭國を記録したから、いた可能性は、ある。

783日本@名無史さん2019/08/10(土) 17:55:50.87
邪馬台国畿内説が、また、論破されました。

784日本@名無史さん2019/08/10(土) 17:57:23.84
『gary moore  after the war 和訳』

ほとんど同じような話、
その後・・・地獄〜(待っている?)という意味でしょ?

785日本@名無史さん2019/08/10(土) 18:04:30.52
そもそも何故か九州説のアホは「使節は九州から出てない!」とか意味不明の事を当たり前の事のように喚いてて笑う

九州がイチイチ細かいのは、環濠集落レベルのチンケな村程度でクニとかほざいてる集団だってだけ
人口とちょっと移動したらすぐに「違う国でございます」と言う描き方みりゃ分かんだろ
旅行記じゃなくて国の情報を伝えてるんだからな
その国の主要部の事だけ書いてる姿勢

つまり九州がいまだに弥生時代レベルのムラで終わってるショボい勢力だったと言う事が分かるだけの話

これをもって邪馬台国の証拠だ!とか喚いてんだから笑いしか出ない

786日本@名無史さん2019/08/10(土) 18:04:51.37
491>>283
>>女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種も説明がつかない。<

>これは何度も説明してるだろうが! 元の形は魏略の形
倭在帯方東南大海中 依山島爲國(a)度海千里復有國 皆倭種<

魏略は、原本は勿論その写本も残っておらず、
後代での「注としての紹介」や 、
後代の別本での「自己解釈に拠る筆者の内容説明的な書き換え」、
などとしての半分偽情報ばかりであり、
魏使らの記録であるのか?の証拠にならない。

787日本@名無史さん2019/08/10(土) 18:06:59.00
『伊達の桃太郎』・・・何の話なんだろう、
老婆が言うには、仏教(神仙?)の関係の話ばかりしていたんだけど

788日本@名無史さん2019/08/10(土) 18:09:38.19
卑弥呼の城が巻向にあったとするキナイコシという、頭が悪すぎる者が宣伝し始めた仮説は、頭の悪い者達の連鎖反応で成り立っているのだな、、、

789日本@名無史さん2019/08/10(土) 18:12:41.75
今や、頭の悪い者たちの臨界連鎖反応で自己崩壊のただなか・・、

790日本@名無史さん2019/08/10(土) 18:13:37.25
キュウリの葉が写っている写真w
・・・河童というわけでもないし

791日本@名無史さん2019/08/10(土) 18:14:30.30
>>788
旧石器時代についての捏造事件と似ているな、、、

792日本@名無史さん2019/08/10(土) 18:18:38.89
(実際は)反日ばかりなのかな?

793日本@名無史さん2019/08/10(土) 18:22:02.42
奥山氏は、反日だけではなく、皇国史観の朝鮮人なのではないのかな。。。

794日本@名無史さん2019/08/10(土) 18:24:36.29
調べてみた?古代の話

もともと日本人(民族)ではないという人たちがいたり、
中国の人もいるでしょ

795日本@名無史さん2019/08/10(土) 18:24:58.26
邪馬台国畿内説を宣伝する、頭が悪すぎる朝鮮人の奥山氏は、天皇家が朝鮮から渡来したと考えてしまい、反日と皇国史観を両立させている可能性が高いな、、、

796日本@名無史さん2019/08/10(土) 18:26:26.33
>>285
>>参問倭地 絶在海中洲?之上 或絶或連 周旋可五千餘里も説明が合わない
倭地は周旋すること五千里ばかりであり、畿内を含めた 西日本をカバーするには狭すぎる。<

>これも誤読 周旋は一周したり元の場所に戻ったりはしない
狗邪韓国まで七千里、そこから周旋五千里で、足して萬二千里という単純計算<

陳寿の「周旋可五千余里」の概算計算は、
400×2+300×2+500+100+(4000−1000)=5000
(但し「4000−1000」は、侏儒國への4千余里から東渡海千余里を差し引いたもの)
であり、
「參問倭地」が、(足摺付近の)侏儒國付近までの陸路の合計計算になっており、
陳寿の計算が、對海國と一大國の国内の二辺的な見聞移動があった事の証拠になっており、
また、陳寿が、大和などの侏儒國以遠の地への参問を全く意図していない、
という事の証拠にもなる。

797日本@名無史さん2019/08/10(土) 18:28:57.13
女王国以北は女王国より北ということで確定
畿内説は頓死した

798日本@名無史さん2019/08/10(土) 18:30:47.02
『伊達の桃太郎』

なぜ「皇」という文字が書いてあったりするんだろう、
本当は中国の話でしょ

799日本@名無史さん2019/08/10(土) 18:32:09.13
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奥山氏の頭が、悪すぎるので、
奥山氏は、5ちゃんねるを活発にするために固定された頭が悪すぎるアルバイトにしか、
当てはまらないと思えてしまうことがあるな、、、

800日本@名無史さん2019/08/10(土) 18:32:58.30
800

801日本@名無史さん2019/08/10(土) 18:33:01.83
謎の神話(日本)なども、
渡来人が作成したと言ってる人がいたり

802日本@名無史さん2019/08/10(土) 18:33:22.49
491>>287
>道里の遠近と戸数の多少を以て、衰を算出すると書いてあって、
「里数はどこにも書いてない」だろ?<

だから、九章算術の筆者は、
「道里=行道日数」だ、というインチキ説明を書いたから、
半分×人間だった、という事になるだけだ、という事だ。

たったこれだけのことなのに、どれだけごねるんだ?
バカすぎだろ?これが理解できないなんて?

803日本@名無史さん2019/08/10(土) 18:36:01.85
『皇 中国』

804日本@名無史さん2019/08/10(土) 18:46:51.41
その曲(くろーん?)も同じでしょ、
そもそも日本の話ではない・・・みたいな事を言っているし

805日本@名無史さん2019/08/10(土) 18:49:23.59
本当に偶然なのかな?

歌舞伎、芝居〜という話もしていたり、
泥棒のようなものに入られた?

806日本@名無史さん2019/08/10(土) 18:51:01.61
『姥清水』
この辺りに住んでいたこともあるとか、
広瀬川という川が〜w

807日本@名無史さん2019/08/10(土) 18:55:23.15
ホレ九州説はもっと気合いを入れんと
邪馬台国の会からバイト代が出んぞ

808日本@名無史さん2019/08/10(土) 18:57:24.91
老婆談

もれ(仮)も生まれていないし、親も生まれていない頃の話だからな・・・、
調べてみると、実際に歌舞伎、芝居小屋があって?

809日本@名無史さん2019/08/10(土) 18:58:59.36
正確にいうと、
おずぼーん(おじーちゃん?)も生まれていない頃の話?

810日本@名無史さん2019/08/10(土) 19:12:30.55
九州説の朝鮮儒教徒はなぜ必ず失敗するのか
考古発掘物や文献や科学調査結果の全てに嘘をでっち上げ邪馬台国を九州北部にするという
妄想に近いおよそ非現実的な目標に向かって何も考えず全力で突っ込んでくから
狂気の妄想に取り付かれて刃物を振り回す狂人に同じ

811日本@名無史さん2019/08/10(土) 19:17:52.39
491>>290
>で「中央之極=漢土」の外側の南側を西から東に書くと
自西南至東南方,結胸民、羽民、歡頭國民、「裸國民」、三苗民、交股民、不死民、穿胸民、反舌民、豕喙民、鑿齒民、三頭民、修臂民
東側を南から北に書くと
自東南至東北方,有大人國、君子國、「黒歯民」、玄股民、毛民、勞民 (淮南子《墬形訓》)
魏志倭人伝の裸國、黒歯国はこれの引用<

ダメだ。
淮南子の「自西南至東南方」の13民の中の「裸國民」だけが魏志に記録され、
他の12民が魏志には記録されず、
また淮南子の「自東南至東北方」の6国民の中の「民」の、
「黒歯民」だけが魏志に記録され、他の5国民が魏志には記録されなかった、
という事は、
魏使らは、倭人から、「裸國と黒歯國」の二つの国の情報を得て記録し、出来た、
という事を示すのであり、
だから、逆に、
魏使らは、淮南子の記載を踏襲したのではなく、
裸國と黒歯國の存在だけを確認報告出来た、という事をしめすのであり、
それが、後漢書が、「南界を極めた」として、
「倭國之極南界也。光武賜以印綬」が実行された、と書かしめた理由だ、という事だ。

812日本@名無史さん2019/08/10(土) 19:18:39.31
九州説は現実的な世界じゃなくて狂気の世界に住んでいる

813日本@名無史さん2019/08/10(土) 19:24:31.57
『姥清水』

道に迷い〜何やらと言っているし、
何かの曲などと同じ話でしょ、あと何やら譚(妖怪?)とか

814日本@名無史さん2019/08/10(土) 19:27:07.33
山の奥(上のほうに)

蚕を飼い、機織りをしている家があって〜何かの服を作っていたw
とか

815日本@名無史さん2019/08/10(土) 19:31:26.51
491>>295
>>「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」にあきらかに矛盾している。<

>ここの女王国は卑弥呼を共立した首長連合のことだから、伊勢まで出て渡海するだけ<

「南≠東」などに拠って、×。

>まあ魏略には「東」なんてついてないから、東方向と決め付ける必要もないんだがね<

魏略は、原本も写本も残っておらず、間接的証拠しかないから、半分×書ね。

816日本@名無史さん2019/08/10(土) 19:31:41.42
邪馬台国九州説というのは歴史学と関係なく、江戸時代に皇国史観という政治思想のために創作されたものだ
だから、地名の恣意的当てはめや、放射読みとか短里のような新発明の読み方の工夫で、無理して創り出された
だから、体系として成立していない個人個人の零細説の集合の総称であって、「九州説」という学説があったわけではない

現代になって考古学で古代史を考えるのが普通になってくると、歴史学の分野には残れなくなった
昭和の終わり頃には、事実上もう学説としては廃棄物だった
いまは特殊な人だけが奇妙に過激な態度で支持者をしている

ひとことで言えば、過去の遺物だ

817日本@名無史さん2019/08/10(土) 19:36:48.54
>>816
>現代になって考古学で古代史を考えるのが普通になってくると、歴史学の分野には残れなくなった

ひとことで言えば、九州説も畿内説も、過去の遺物だ。 ワハハハハ   @阿波

818日本@名無史さん2019/08/10(土) 19:37:59.24
何の話なのか、わからないけど、
本当は(正確にいうと)家の話w

819日本@名無史さん2019/08/10(土) 19:40:45.13
『かっぱっぱー』

ほとんど合致しているし

820日本@名無史さん2019/08/10(土) 19:42:41.54
卑弥呼の城が巻向にあったとするキナイコシという、頭が悪すぎる者が宣伝し始めた仮説は、頭の悪い者達の連鎖反応で成り立っているのだな、、、

821日本@名無史さん2019/08/10(土) 19:43:20.04
>>816
>現代になって考古学で古代史を考えるのが普通になってくると、歴史学の分野には残れなくなった

ひとことで言えば、九州説も畿内説も、過去の遺物だ。 ワハハハハ   @阿波

822日本@名無史さん2019/08/10(土) 19:44:49.52
491>>296
>バカだな 短里などない<

バカだなあ。
魏朝においては、原則として短里であり、長里はない。

823日本@名無史さん2019/08/10(土) 19:44:56.06
家の写真と『かっぱっぱー』『龍宮〜寒いな』

100%?でしょ

824日本@名無史さん2019/08/10(土) 19:46:41.43
ドミニオンという、謎に満ちたゲームが、宅配されてしまった、、、

825日本@名無史さん2019/08/10(土) 19:47:58.34
老婆の話によると

機織りをしている家の人と結婚をした・・・という話、
家は龍宮〜鳳〜?そういう名前の家

826日本@名無史さん2019/08/10(土) 19:50:59.84
>>824
お盆休み前の、ギリギリの配達が成功したので、孫達が喜んでいるな、、、

827日本@名無史さん2019/08/10(土) 19:51:53.47
奥山氏は、頭が悪すぎるな、、、

828日本@名無史さん2019/08/10(土) 19:52:43.64
491>>297
>戸数道里略載ときちんと書こう
投馬国、邪馬台国までは書いてある <

投馬國には道里は書かれていない。
また邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
邪馬壹國女王之所都への「道里の萬二千余里」は、
直前の不彌國でほぼ終わる形で書かれているし、
その郡からの所要日数は、別個に「水行十日陸行一月」と追記的に書かれている。

829日本@名無史さん2019/08/10(土) 19:54:42.16
『Love Song 探して』

なぜか同じような曲だしな・・・、

830日本@名無史さん2019/08/10(土) 19:58:00.42
491>>300
>日数も距離・道里の表現だよ<

ダメだ。
日数では「道の里」になっておらず、「道の里」の絶対値が判らないから、
「日数」は「道の里」だとは言えないし、断定出来ない。

831日本@名無史さん2019/08/10(土) 19:58:22.02
龍宮〜というのは神代の話?

832日本@名無史さん2019/08/10(土) 19:59:15.87
奥山頭は、大親分への忖度で脳の働きが滞っているのではないかな

833日本@名無史さん2019/08/10(土) 20:00:09.21
>>1
なぜ、貴方は、邪馬台国畿内説という、破綻した仮説を宣伝しているのですか。
やはり。頭が悪すぎるからですか。

834日本@名無史さん2019/08/10(土) 20:01:55.28
491>>301
>具体的な内容がまったくないw こういうのが九州説に典型例w
要するに無能 知的水準が低い <

「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、具体的な反論やその内容が全くない。
こういうのがその大和説の典型例の。
要するに無能であり、知的水準が低い・・・・アホ詐欺師。

835日本@名無史さん2019/08/10(土) 20:01:58.82
センスが悪すぎる連続句読点の言いがかりの数々

836日本@名無史さん2019/08/10(土) 20:02:58.73
お前たちの言っている、
陛下?皇后というのも知らないと言っているし



家はwなぜだと思う?神代の話だからなんだろう

837日本@名無史さん2019/08/10(土) 20:03:16.29
>>816
>現代になって考古学で古代史を考えるのが普通になってくると、歴史学の分野には残れなくなった

ひとことで言えば、九州説も畿内説も、過去の遺物だ。 ワハハハハ   @阿波

838日本@名無史さん2019/08/10(土) 20:05:19.73
491>>302
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者がやっているのは、
論点そらしであって、意味のある反論や指摘はない

「道里」と「日数」も、全く別の意味の文言であり、
どこの白痴かって話だ

839日本@名無史さん2019/08/10(土) 20:05:28.23
畿内説には逆立ちしても勝てない阿波

840日本@名無史さん2019/08/10(土) 20:07:53.05
頭が悪すぎる奥山氏が、討論に敗北したことを悟り、嘘の悪口を言い放つしかなくなったな、、

835 名前:日本@名無史さん 2019/08/10(土) 20:01:58.82
センスが悪すぎる連続句読点の言いがかりの数々

841日本@名無史さん2019/08/10(土) 20:08:05.79
家と同じような名前の人がいるでしょ?
その人は陛下〜皇后とか知っているのかもしれないけど、
家は知らないと言っているし、あの写真の家

842日本@名無史さん2019/08/10(土) 20:08:34.43
>>1
なぜ、貴方は、邪馬台国畿内説という、破綻した仮説を宣伝しているのですか。
やはり。頭が悪すぎるからですか。

843日本@名無史さん2019/08/10(土) 20:10:27.51
九州説の元祖新井白石も元は朝鮮渡来人かもなァ
江戸時代にも儒教の陽明学や朱子学の朝鮮学者がぼちぼち日本に入ってきていた
そして天皇家と結びつきを深め徳川へのクーデターの機会を狙っていたのだ

844日本@名無史さん2019/08/10(土) 20:10:52.43
ドミニオンという、謎に満ちたゲームが、開封されてしまった、、、

845日本@名無史さん2019/08/10(土) 20:12:12.70
やはり、白石氏は、朝鮮人だったのだな、、、

843日本@名無史さん2019/08/10(土) 20:10:27.51
九州説の元祖新井白石も元は朝鮮渡来人かもなァ
江戸時代にも儒教の陽明学や朱子学の朝鮮学者がぼちぼち日本に入ってきていた
そして天皇家と結びつきを深め徳川へのクーデターの機会を狙っていたのだ

846日本@名無史さん2019/08/10(土) 20:15:13.25
『詐欺師と一緒にされるのも嫌なので』

  本当に同じような話でしょ?

847日本@名無史さん2019/08/10(土) 20:15:25.79
白石氏という宣伝係員は、生きているのだろうか、、、
それとも、鬼籍に登録されたのだろうか、、、

848日本@名無史さん2019/08/10(土) 20:15:34.80
魏略逸文をみると、魏略の著者にとって重要なのは女王国のある倭と、そこから渡海千里のところにある別の倭種の国なのだということに尽きる。
魏略のそもそもの冒頭に、女王国のある倭とそこから渡海千里のところにある倭種の国だけが特記されているからだ。
魏略倭伝の全文が不明なので確認のしようがないものの、そもそもの冒頭にこの2国のことが特記されているということは、当時の魏の朝廷の利害にとってその2国のことが喫緊の注目事だったことを示している。
一方、魏志倭人伝ではその倭種の国についての記述が冒頭からはずされて、邪馬台国の位置説明や倭地の風俗の説明のあとの中ほどに回されているので、この倭種の国についての注目度が魏略に比べて格段に低くなる。
しかし、魏略が女王のいる倭とそこから渡海千里のところにある倭種の国を特別に注目しているということは、魏志倭人伝についての解釈もこれまで指摘されてこなかった倭種の国との関係の視点において考察されるべきであると考えられる。
つまり、魏略逸文の記述からすると、魏の朝廷は、卑弥呼の倭国と渡海千里のところの別の倭種の国との関係を相当に気にしていたということになるので、魏志倭人伝の中身の扱いについてもその視点からとらえ直す必要があるということなのだ。
このことは、これまでに指摘されたことのない新しい視点であることは間違いない。

みなさん、よお〜く考えてみてチョ。
わははははは。

849日本@名無史さん2019/08/10(土) 20:16:23.97
>>847
どうでも、良いな。。

850日本@名無史さん2019/08/10(土) 20:17:51.78
>>1
なぜ、貴方は、邪馬台国畿内説という、破綻した仮説を宣伝しているのですか。
やはり。頭が悪すぎるからですか。

851日本@名無史さん2019/08/10(土) 20:18:48.92
491>>303
>残念でした 駢儷体を意識して二国ずつ表記の仕方が変えてあって、
投馬国は邪馬台国とセットに表記になっている<

残念でした。
「二国ずつ表記の仕方が変えてセットに表記」になっている、とは言えない。
陳寿は、女王之所都への行程途上の8つの国々を、
記載する必要性に応じて説明内容を取捨選択して記載しているだけ。

>挿入ではなく、最初から邪馬台国の直前に置かれていたことは確定
帯方郡から来て邪馬台国の直前の国が投馬国 つまり女王国より以北の国だよ<

奴國と投馬國は、「至」の前に途中移動があった事を示す文言がないから、
魏使らは移動しておらず、
主要な国であるからの、側副傍線国説明である。

852日本@名無史さん2019/08/10(土) 20:20:17.18
wiki『日本神話』〜【神話の構成】神代?


『かっぱっぱー』『浦島太郎』『』

853日本@名無史さん2019/08/10(土) 20:20:20.25
「倭人あり 帯方東南 大海の中」

そもそも最初の1行の方角から捻じ曲げてかかるようでは、落ち行く先は地獄と思うべし

854日本@名無史さん2019/08/10(土) 20:22:08.06
『龍宮 鳳 輿 寒いな』

855日本@名無史さん2019/08/10(土) 20:22:51.14
>>816
>現代になって考古学で古代史を考えるのが普通になってくると、歴史学の分野には残れなくなった

ひとことで言えば、九州説も畿内説も、過去の遺物だ。 ワハハハハ   @阿波

856日本@名無史さん2019/08/10(土) 20:31:19.07
>>851
>奴國と投馬國は、「至」の前に途中移動があった事を示す文言がないから、
>魏使らは移動しておらず、

邪馬台国女王之所都も、「至」の前に途中移動があった事を示す文言がないので、
やはり、投馬国と邪馬台国は駢儷体によるセット記述であった。
両者の扱いは、後述の自郡至女王国萬二千余里のところで差をつけている。。

857日本@名無史さん2019/08/10(土) 20:41:57.12
491>>306
>そして、短里はないし、萬二千里は観念的な世界観から引っ張ってきた数字で
現実の地理との対応はない<

魏志の記載は原則として短里であるし、
「萬二千余里」として「余」を付けているから、
陳寿は魏使らの記録から近似値的な記載をした事になるし、
淮南子との一致は、13民の中の1民の「裸國」や、
6国民の中の1民の「黒歯國」であるから、
魏使らは、淮南子記載の中の二つの民の存在確認をした事になり、
淮南子を踏襲したのではない、という事になる。

858日本@名無史さん2019/08/10(土) 20:44:00.16
491>>308
>箸墓が4段築成であると言うだけで、卑弥呼の墓として必要十分だ。<

「南≠東」だけでも、×だ。

859日本@名無史さん2019/08/10(土) 20:51:19.68
491>>309
>「或いは絶え、或いは連なり」も、九州島とは整合しません。<

参問して里数が記載されたのは、九州島だけではありません。
「或いは絶え、或いは連なり」になるのは、(海路ではなく)「陸路」であり、
狗邪韓國から、侏儒國付近までの「倭地の陸路」部分です。

860日本@名無史さん2019/08/10(土) 20:53:51.35
九章算術n禊は終わったみたいだなww

861日本@名無史さん2019/08/10(土) 21:03:04.28
491>>314
>一方、筑紫にあった邪馬台国は、唐の時代に編纂された晋書での記述を最後に、中国の歴史書から姿を消す。
その最後の年の記述は、266年となっている。<

ダメだ。
梁書も九州倭国と大和扶桑國を書き分け、
隋書も、俀國として九州倭国の歴史をそのまま記載し、
旧唐書や唐会要も、九州倭国が「倭奴國」の後裔であって、
「正北抵新羅=北部九州」にあった事や、「世與中國通」であった事を記し、
白村江での対戦相手が倭國や倭衆や倭賊と記し、大和日本国とは書いておらず、
日本国が倭国を併合吸収した事まで書いている。

862日本@名無史さん2019/08/10(土) 21:05:36.35
491>>315
>九州説は非常識珍説をかき集めて合成して出来ているようにしか思えない<

「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
非常識珍説をかき集めて合成して出来ているようにしか思えない

863日本@名無史さん2019/08/10(土) 21:14:04.72
今日もめでたくキナイコシは論破されたな

864日本@名無史さん2019/08/10(土) 21:17:56.50
491>>338
>倭の邪馬台国もそれと同じかさらに遠大で大きな国だったとされたのは容易に想像ができる<

曹氏が皇帝であった時代に、魏使らが司馬氏に忖度した報告を書いた事が、
皇帝側にバレれば、当然魏使らの首が飛ぶ事であるから、
魏使らは、そんなインチキはしないもの。

865日本@名無史さん2019/08/10(土) 21:23:22.56
九州説は稚拙過ぎて相手にならんな

866日本@名無史さん2019/08/10(土) 21:24:32.21
>>598 >>602 >>612
纏向遺跡の大型建物ABCD、一番奥のD棟は出雲大社、手前のC棟は棟持ち柱の伊勢神宮と同じ造り。
出雲スサノオ→大国主(子)→大物主(孫)を祀る、天皇家の倭迹迹日百襲姫の祭殿に相応しい。

867日本@名無史さん2019/08/10(土) 21:24:33.72
テレビなどがあるでしょ、
詐欺のようなことばかりしているけど、
精神病者の集団か何かなんだろう


実際は犯罪なんだけどな

868日本@名無史さん2019/08/10(土) 21:28:36.37
陰謀スレがあるでしょ

人工地震が何やら〜。
僕も(人工的に発生)そう思う。

と言っている人がいたりwなぜだと思う?

869日本@名無史さん2019/08/10(土) 21:30:48.00
491>>346
>だから「東」渡海千里は方角は気にしなくていいんだって<

普通の成人人類は、東西南北はほぼ間違えないから、×・

>魏略には方角は書いてないし、後漢書では狗奴国のことになってる<

残存魏略も後漢書も、半分×書であり、根拠にはならない。

>隠岐の島や佐渡、五島列島のような、日本列島周辺の島にも倭種の人が国を作っていて
韓人とかはいませんっていう内容なんだから
隱伎之三子嶋、佐度嶋、知訶嶋は古事記の国産みにも出てくるだろ?
そういう島にもみんな倭種の人の国ってだけ <

結局、足摺付近の侏儒國付近にまで行っているんだから、
魏使らが見知った倭種は、大体四国の倭人。

870日本@名無史さん2019/08/10(土) 21:30:50.12
事実だからさ

871日本@名無史さん2019/08/10(土) 21:32:50.63
>>647
纏向遺跡の変遷=大物主の宮殿→饒速日の宮殿→(神武東征後)倭迹迹日百襲姫の祭殿跡

872日本@名無史さん2019/08/10(土) 21:33:44.28
あ〜、僕は□歳になったけど、搾取されてばかりだ・・・

という書き込みをしている人もいたでしょ、
被害者(搾取され続けている)ではなく、何か知っている人の書き込みだろう

数年前の陰謀スレ

873日本@名無史さん2019/08/10(土) 21:36:08.73
>>860
九州説が破綻して終わったな

874日本@名無史さん2019/08/10(土) 21:36:32.87
491>>349
>一歩は約75p
10歩で約7.5m・・・一丁
10丁で約75m ・・・一里(たぶんこれが、古代の韓倭で用いられていた短里)<

周代からずっと「1里=300歩」という里歩系内の規定が出来ていた。
そうすると、「1歩≒25cm」になる。

875日本@名無史さん2019/08/10(土) 21:40:00.75
百歩譲って畿内説正しいとするよ、そうしたら魏志倭人伝の記述はどう説明するんだよ?記述の条件を満たす場所は九州にしか無いのだが。

876日本@名無史さん2019/08/10(土) 21:41:48.79
>>875
九州にもないよ

877日本@名無史さん2019/08/10(土) 21:42:40.71
お前の語っているエピソード?演じている役などw
それは家の話だと、何度書いても、わからない人間がいたり


あと日本の神話自体おかしな話なんだけど、
むかーしの渡来人(日本人ではない)というのがいるでしょ、なぜか日本の先住民で?

878日本@名無史さん2019/08/10(土) 21:43:58.26
491>>361
>畿内説は、自ら公言しているように前方後円墳の分布範囲を「ワコク」と定義して成り立つ偽説。
だから卑弥呼之所都も其の塚も、近畿あたりに比定しなくてはつじつまが合わない。
そこで「纒向王都」を神勅と自称して、何が何でも拡大・改変・ごまかし解釈しては論敵を追っ払おうとしている。
負けが見えると、陳寿が間違った、魏郡の遣いが間違った、写本が間違った、お前の解釈が間違いだ・・
などなど詐欺師の口舌で強引に突破しようとしているだけのこと。
畿内説は偽説なのだ。 <

成程。

879日本@名無史さん2019/08/10(土) 21:45:25.78
>>864
>曹氏が皇帝であった時代に、魏使らが司馬氏に忖度した報告を書いた事が、
>皇帝側にバレれば、当然魏使らの首が飛ぶ事であるから、

司馬氏ってさ・・・
言うこと聞かない魏の皇帝を白昼堂々ぶっ殺してるけどな

880日本@名無史さん2019/08/10(土) 21:47:08.57
491>>362
>複数史書でダブルチェックしないからそういう謎読みになる
該当部分を日本書紀で確認すれば、海岸が難波の海岸でありそこで逗留していることが分かる
山陽道を歩いたりはしてない <

書紀は、隋書も盗用造作した半分×書であるから、根拠にならず、×。

881日本@名無史さん2019/08/10(土) 21:47:40.86
>>611
そりゃ白村江の敗戦で倭国が滅んだから。

882日本@名無史さん2019/08/10(土) 21:48:42.06
>>866 >>871
やっぱりね。。。
河内湖や木津川から行くと、飛鳥は纏向のさらに南の奥地。板葺宮や貴人の古墳の建築資材を運ぶには人工的な運河が必要だし、都人の生活物資を商う大市が立つわけだね。
ありがとう!今夜はよく眠れそうだよwみなさん、おやすみzzz

883日本@名無史さん2019/08/10(土) 21:50:48.75
>>361
>フーン。
>また一人、大和説→九州説に転向する学者が出て来た。

2005年の新聞記事見てそんなこと言ってる九州説
その時間感覚の狂いぶりと言ったら
歴史やるの無理なレベルなー

884日本@名無史さん2019/08/10(土) 21:52:13.21
491>>366
「南→東」などの嘘付き騙しの言いがかりをつけて、
恫喝とはねえ
大和説さんお主もワルよのう

885日本@名無史さん2019/08/10(土) 21:53:42.33
そろそろ九州説が狂気に染まりすぎて
まともに会話もできないようになって来たな

886日本@名無史さん2019/08/10(土) 22:01:04.24
>>885
投馬国は女王国以北なのが致命傷だったかねぇ

887日本@名無史さん2019/08/10(土) 23:49:18.11
>>1
なぜ、貴方は、邪馬台国畿内説という、破綻した仮説を宣伝しているのですか。
やはり。頭が悪すぎるからですか。

888日本@名無史さん2019/08/10(土) 23:52:07.06
>>887
みじめなんてもんじゃないな九州説は

889日本@名無史さん2019/08/11(日) 00:32:59.29
>>883
時代によってコロコロいう事の変わる畿内チョン説の方がおかしいんだよ。
畿内にもムンが住んでるんだろ?w

890日本@名無史さん2019/08/11(日) 04:49:25.10
>>889
ばかですか
学説が時代によって変わるのは当たり前だ

九州説よ
お前のティラノサウルスはまだ直立しているんだろう
九州説は学説ではないからだよ

891日本@名無史さん2019/08/11(日) 05:21:23.30
>>890
>学説が時代によって変わるのは当たり前だ <
纏向も王都説も下火になってきたな

892日本@名無史さん2019/08/11(日) 05:30:14.66
九州説は妄想が好きすぎ

893日本@名無史さん2019/08/11(日) 05:38:40.62
●『參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。』記事が案内するのは、倭国の大きさである。
それが『可五千餘里』であることの意義は大きい。それも『周旋』出来ると言うのであるから、
独立した島であることは疑いない。

●「韓伝」には、韓国の大きさについて、『方可四千里』とある。
つまり、韓国の大きさは『一万六千里』だと言うのであるから、それに比べると、
倭国の大きさは、極めて小さい。

●それなら、『參問倭地、周旋可五千餘里』の範囲は、どう考えても、九州島とするしかない。
陳寿は九州島を、『參問倭地、周旋可五千餘里』と規定していることが判る。

894日本@名無史さん2019/08/11(日) 05:47:34.70
魏志倭人伝に書いてある化粧も服も畿内の文化とあまりにもかけ離れ過ぎてる

895日本@名無史さん2019/08/11(日) 05:48:58.28
「卑弥呼の墓は前方後円墳ではない」ということぐらいは共通認識になり得ないものでしょうか。
畿内説の学者がこねくり回すのはいかがなものでしょか。

896日本@名無史さん2019/08/11(日) 06:01:34.85
纒向が邪馬台国と関係はないとしても、纒向遺跡の存在価値は非常に大きい と思う
古墳時代の幕開けはまぎれもなくこの纒向の地であるし、
ヤマト王権 誕生の解明につながる多くのことを秘めた遺跡であることは間違いない
だからこそ 、強引に邪馬台国と結びつけるような姿勢は避けなくてはならない
それは纒向 遺跡の年代観を歪めたり、遺構、遺物の分析に予断を与え、
ヤマト王権の萌芽を考え る際に思わぬ障害ともなりかねないと思うからである
どうも最近の学者は結論を急ぎすぎる傾向があるような気がしてならない
末代に禍根を残さぬよう願う

897日本@名無史さん2019/08/11(日) 06:17:26.49
考古学者がマスコミに取り上げられたり、世に出ることはむつかしい
考古学に興味を持っている国民が少ないからである
そこで利用されるのが、人気のある邪馬台国・卑弥呼である
マスコミも取り上げるし、著書も売れるし、講演も殺到する
私利私欲のために安易に邪馬台国や卑弥呼を利用すべきではない
纒向も調査はまだ5%と言い、研究費を確保する。
半面、調査が5%なのに邪馬台国・卑弥呼と騒ぐ
畿内説の学者の醜さを集約したのが纒向のように思えてならない

898日本@名無史さん2019/08/11(日) 06:27:20.21
>>886
>投馬国は女王国以北なのが致命傷だったかねぇ <
九州説をひとくくりにするのは?
邪馬台国は九州にあったで一致をしているが、比定地は各説ある
確かに投馬国は女王国より南と言う説もあるが、その中身を精査せず非難するのはよくない

899日本@名無史さん2019/08/11(日) 06:30:15.68
>>897
九州説妄想しすぎ

900日本@名無史さん2019/08/11(日) 06:51:37.60
>>895
記紀による歴代大王の系譜に基づいて、最新考古学の成果を合わせて、前方後円墳の被葬者を比定するなら、
(定型化された最初の前方後円墳とされる)箸墓の被葬者は当然→>>602

901日本@名無史さん2019/08/11(日) 06:55:14.40
>>898

じゃあさ

倭人伝どおり投馬国を女王国よりも北に
ちゃんと比定できてる
九州説って
あるの?

902日本@名無史さん2019/08/11(日) 06:57:01.79
>>363 なるほど

903日本@名無史さん2019/08/11(日) 06:57:17.31
>>898です
スレチでした ここは畿内説のスレでした 失礼

904日本@名無史さん2019/08/11(日) 06:57:17.82
>>898です
スレチでした ここは畿内説のスレでした 失礼

905日本@名無史さん2019/08/11(日) 07:03:04.61
ニゲタ

906日本@名無史さん2019/08/11(日) 07:05:09.64
>>902
真の女王国(北部九州)
 ↓
投馬国≒東治之東
 ↓南水行十日陸行一月
幻の女王国≒當会稽東冶之東(嘘)

倭人伝における女王国は虚実2つあり、実際は投馬国の以北、しかし筆先では以南(嘘)というわけだw

907日本@名無史さん2019/08/11(日) 07:15:10.49
>>906
倭人伝はウソと言った瞬間
九州説は消滅する

908日本@名無史さん2019/08/11(日) 07:15:59.44
>>72 なるほど!

909日本@名無史さん2019/08/11(日) 07:20:22.70
「道里」を計って会稽東治の東なのだから
陳寿としては、そこまで「道里」が判っている
そこが投馬国だというなら
投馬国まての道里は判っていることになる
したがって投馬国は「女王国以北」になる
すると女王国は会稽東治の東より
さらに南になる

九州説の崩壊は止まらない

910日本@名無史さん2019/08/11(日) 07:21:28.66
>>317の続き
すると、もう一つの謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国・卑弥弓呼の子孫/八代淡海→「近江」)も判明。
古代史は以下↓のように一挙に解明できるのである!

漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の説諭で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋>【宋>斉>梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」に任官(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
倭王阿毎多利思比孤、「天子」隋煬帝に対等外交&(高句麗遠征の鍵)新羅の朝貢を契機に「独立宣言」607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…大連・物部守屋を滅ぼし前方後円墳築造停止。大和分家を乗っ取ろうとした大臣蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、大和へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種・九州年号&多利思比孤を抹消すべく、崇神朝→応神朝→継体朝の歴代倭王権@九州内の交代が、すべて大和で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名を移植。朝倉&阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)

まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武朝(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京)

911日本@名無史さん2019/08/11(日) 07:21:41.20
>>896
記紀にある卑弥呼〜台与の頃の天皇の居城
崇神天皇(3世紀後半)居城 瑞籬宮(みずかきのみや)奈良県桜井市
垂仁天皇(3世紀後半)居城 纒向珠城宮(まきむくのたまきのみや)
景行天皇(4世紀前半)居城 纒向日代宮(まきむくのひしろのみや)

912日本@名無史さん2019/08/11(日) 07:21:53.90
>>901
なんか変てこなレスだよ。
「倭人伝どおり」というのは畿内説の独自解釈のことだから、九州説にとっては意味・意図不明。
九州説の場合、投馬国が以北でなりたつ説もあり、以南が好都合な説もある。

913日本@名無史さん2019/08/11(日) 07:27:46.84
>>906
虚実2つあって会稽東治乃東と書いてる女王国が虚
実は畿内大和国

914日本@名無史さん2019/08/11(日) 07:29:42.49
>>912
>九州説の場合、投馬国が以北でなりたつ説もあり、以南が好都合な説もある。

九州説で投馬国が以北でなりたつものが
あるというなら
具体的にそれを言ってみてね

言えないなら、存在しないってことで

915日本@名無史さん2019/08/11(日) 07:31:06.87
>>914
九州説のスレでも読めよ。

916日本@名無史さん2019/08/11(日) 07:31:24.69
>>901
じゃあさ

倭人伝どおり投馬国を女王国よりも北に
ちゃんと比定できてる
畿内説って
あるの?

917日本@名無史さん2019/08/11(日) 07:31:40.75
>>911
卑弥呼は纒向にはいなかった。

918日本@名無史さん2019/08/11(日) 07:32:22.82
>>907
畿内説は毎日言っているじゃんw

919日本@名無史さん2019/08/11(日) 07:33:10.76
>>912
>「倭人伝どおり」というのは畿内説の独自解釈のことだから、九州説にとっては意味・意図不明。

ならば
投馬国を女王国の南にひん曲げても「倭人伝どおり」であると
証明してごらんよ

無理だろ?

920日本@名無史さん2019/08/11(日) 07:33:48.53
>>918
言っても畿内説は消滅しないがね

921日本@名無史さん2019/08/11(日) 07:35:21.31
畿内説の朝鮮儒教徒はなぜ必ず失敗するのか
考古発掘物や文献や科学調査結果の全てに嘘をでっち上げ邪馬台国を畿内にするという
妄想に近いおよそ非現実的な目標に向かって何も考えず全力で突っ込んでくから
狂気の妄想に取り付かれて刃物を振り回す狂人に同じ

922日本@名無史さん2019/08/11(日) 07:37:07.45
>>785
>旅行記じゃなくて国の情報を伝えてるんだからな
>その国の主要部の事だけ書いてる姿勢

これは正しい。
郡使が九州北部を倭国の主要部と認識していたということだよな。

923日本@名無史さん2019/08/11(日) 07:37:30.80
でた九州説のオウム返し

924日本@名無史さん2019/08/11(日) 07:37:50.89
>>921
>考古発掘物や文献や科学調査結果の全てに嘘をでっち上げ邪馬台国を畿内にするという

証拠でも、あるの?

それとも、負け組の九州説は中傷専門?

925日本@名無史さん2019/08/11(日) 07:38:11.92
>>919

邪馬台国=卑弥呼の女王国=古の倭奴国=福岡県=弥生文化の中心地=倭国の都=筑紫の日向=天皇家の祖である山幸彦の国
投馬国=宮崎県都万=隼人の祖である海幸彦の国
狗奴国=熊本県=熊襲の国
日本国=畿内=倭の別種=ヤマト王権

926日本@名無史さん2019/08/11(日) 07:38:51.22
>>919
>ならば
>投馬国を女王国の南にひん曲げても「倭人伝どおり」であると
>証明してごらんよ

「倭人伝どおり」というのは畿内説の独自解釈のことだから、自分で考えてくれ。

それもだが、倭人伝どおり投馬国を女王国よりも北に
ちゃんと比定できてる
畿内説って
あるの?

927日本@名無史さん2019/08/11(日) 07:39:37.33
>>895
畿内説が根本から崩壊するからねえw

928日本@名無史さん2019/08/11(日) 07:41:10.38
>>922
水銀朱鉱山も稼働してなくて
硬玉ヒスイと採れなくて
卜骨も局地的にしか出ない

そんな九州が
倭人伝に描写された倭国の主要部で
あるわけなし

無理無理

929日本@名無史さん2019/08/11(日) 07:41:21.39
九州説は脳がインコやオウム並に小さいからオウム返しばかりするのかな

930日本@名無史さん2019/08/11(日) 07:41:57.68
>>927
>畿内説が根本から崩壊するからねえw

崩壊する理由が無いな

931日本@名無史さん2019/08/11(日) 07:42:30.17
>>866
纏向は、北部九州で発生した倭国大乱を避け、スサノオが大陸・半島へ輸出して外貨稼を稼ぐため、宮殿の柱用の大木確保→雨が良く降り、日当たり良好な紀伊山地に杉の植林中、
偶然見つけた水銀鉱床(朱)も輸出してみたら、凄い高値で売れたため、莫大な富を基にして、本州島の勢力を配下に治めて建てた王権。
しかし息子・大国主の代に、筑紫女王卑弥呼が「親魏倭王」号を取得して伽耶の鉄を独占してしまったため、倭王権にはなれず、本州島の地方王権に甘んじることにした。
しかし、そのことが逆に幸いして、少彦名と共に甲信越〜関東まで国造りをして回り、本州島各地で神として崇められるに至った。
卑弥呼の死後、スサノオ→大国主→大物主→饒速日の代で、邪馬台国から派遣されてきた伊都国王神武に征服され、遠く隔たっていることを良い事に、
自らの巨大な王墓(箸墓)を造らせてしまった。

932日本@名無史さん2019/08/11(日) 07:43:24.16
畿内説のいう卑弥呼倭国は、九州から群馬チバラギあたり迄、前方後円墳のあるところ全部。

933日本@名無史さん2019/08/11(日) 07:44:40.45
>>926
投馬国を女王国の南に比定しても
「倭人伝どおり」であると
証明できないと

自白いただきました

九州説崩壊の決定です

934日本@名無史さん2019/08/11(日) 07:45:53.29
今朝もはよから、桜井のサクラバイトが懸命の防御レス。

935日本@名無史さん2019/08/11(日) 07:47:31.61
>>926
女王国は沖縄か台湾と魏志倭人伝に書いてある
それなら今まで言われてきた広島の鞆の浦でも宮崎の妻でも
どちらが投馬国でも女王国以北

936日本@名無史さん2019/08/11(日) 07:48:27.26
会稽東治の東は鎮守が記述
魏使が見聞したのではない
たぶん鎮守が短里を長里と勘違いしたのであろう
また、周教授のように揚子江河口を会稽東治とする学者もいる
でなければ、会稽東治の東は各説全滅する

937日本@名無史さん2019/08/11(日) 07:49:25.03
方角を捻じ曲げて成り立つ畿内説の「捻じ曲げ倭人伝どおり」、

938日本@名無史さん2019/08/11(日) 07:50:14.95
>>935
つまり
邪馬台国九州説が崩壊したわけです


なむあみだぶつ

939日本@名無史さん2019/08/11(日) 07:51:23.11
>>936
>また、周教授のように揚子江河口を会稽東治とする学者もいる

いるって証拠は?

940日本@名無史さん2019/08/11(日) 07:55:38.54
>>935 名前:日本@名無史さん 2019/08/11(日) 07:47:31
>女王国は沖縄か台湾と魏志倭人伝に書いてある

そうすると畿内に女王国はなかったのだな、、、。そりゃ、ご愁傷様。

941日本@名無史さん2019/08/11(日) 07:55:46.33
>>937
南⤴東。左曲がりのダンディー、奇(怪)な異説!w

942日本@名無史さん2019/08/11(日) 07:57:20.01
>>936
>たぶん鎮守が短里を長里と勘違いしたのであろう


空想だけでは弁明にならないな

そんな事態が実際に起こり得るケースが具体的に想定できる?
出来るなら、具体的に説明してくれ

説明出来ないなら、そんな事態は発生し得ないってことだ

943日本@名無史さん2019/08/11(日) 07:57:56.07
>>940
そんな結論は合理的には出ないね

944日本@名無史さん2019/08/11(日) 07:59:17.10
>>936
じゃ九州説は短里を必死で証明しなきゃならないな
魏の里は普通の里だった事は物的証拠からも明らかだけど

945日本@名無史さん2019/08/11(日) 08:00:55.32
>>932
>畿内説のいう卑弥呼倭国は、九州から群馬チバラギあたり迄、前方後円墳のあるところ全部。

時代錯誤

946日本@名無史さん2019/08/11(日) 08:02:03.33
「会稽東治之東」には日本列島が無い

この動かしがたい事実は
倭人伝の解釈が正しいか間違っているか以前に
陳寿の書いた行程そのものが間違っている
ということの証明である

947日本@名無史さん2019/08/11(日) 08:02:09.88
淮南子に準じて邪馬台国まで一万二千里とされており、それは一里が100メートル以下の縮尺となる。
対馬海峡が三千里、韓が四千里四方というのも同じ縮尺である。
帯方郡から倭の国境である狗邪韓国までは七千里である。
一万二千里は明確に王都の位置を示しており、この縮尺では邪馬台国は九州北部に収まる。

淮南子に概念的数字でこの世の果ては国境より1万2千里とある。
後漢書に倭奴国は倭の極南界で会稽東治の東とある。
そして魏志倭人伝に女王国は会稽東治の東とある。
女王国とは倭奴国のことである。

一万二千里という数字だけが伝わった結果、中国人からは倭が実際よりも南方の会稽の東にあるととらえられてしまった。
会稽の東という表現は、東夷において短里が使われていた証拠でもある(倭人条を含む魏志東夷伝すべてが短里で統一されている)。

948日本@名無史さん2019/08/11(日) 08:02:34.20
今朝もはよから、桜井のサクラバイトが懸命の防御レス。

桜井のカンペは、方角を捻じ曲げて成り立つ「捻じ曲げ倭人伝どおり」の繰り返し

949日本@名無史さん2019/08/11(日) 08:02:48.63
>>940
魏志倭人伝の行程から邪馬台国が九州はありえないというわけだ
そもそも九州北部から南に水行すると書いてる時点で違う事は明らかだけど
そして畿内には三角縁神獣鏡や前方後円墳等の考古学的証拠がある

950日本@名無史さん2019/08/11(日) 08:03:35.69
>>945
という根拠は?

九州説は決して根拠を言わないね
いつもいつも
言わないね

951日本@名無史さん2019/08/11(日) 08:05:05.43
>>947
邪馬台国は沖縄か台湾とあるから
帯方から南1万2千里をそこに当てはめて換算すと1里は140mと出る

952日本@名無史さん2019/08/11(日) 08:05:09.57
>>947
淮南子は、1里=1800尺と明記してるよ
短里なんか使ってないよ

953日本@名無史さん2019/08/11(日) 08:05:18.03
>>866
纏向は、北部九州で発生した倭国大乱を避け、スサノオが大陸・半島へ輸出して外稼を稼ぐため、宮殿の柱用の大材確保→降水量が多く、日当たり良好な紀伊山地に杉の植林中、
偶然見つけた水銀鉱床から出た(朱)も輸出してみたら、凄い高値で売れたため、莫大な富を元手にして、本州島の勢力を配下に治めて建てた王権。
しかし息子・大国主の代に、筑紫女王卑弥呼が「親魏倭王」号を取得して伽耶の鉄を独占してしまったため、倭王権にはなれず、本州島の地方王権に甘んじることにした。
しかし、そのことが逆に幸いして、少彦名と共に、熱効率の良い丸底の庄内式土器を普及させ、治水や植林など国造りをして回り、本州島各地で神として崇められるに至った。
その子・大物主の代、大国主の庄内式土器を吉備&阿波の技術革新である内側を削って薄くし、さらに熱効率(燃費)を高めた布留式土器は、邪馬台国のあった首都圏・北部九州にも及んだ。
卑弥呼の死後、饒速日の代で、邪馬台国から派遣されてきた伊都国王神武の最新鋭軍勢に征服され、神武は遠く隔たっていることを良い事に、自らの巨大な王墓(箸墓)を造らせてしまった。
それが前方後円墳の起源なのである!

954日本@名無史さん2019/08/11(日) 08:09:16.69
とっくに破綻済みの古臭い古田の短里説を振り回すのみの九州説は
進歩を続ける畿内説に置いてかれてるようだなあ

955日本@名無史さん2019/08/11(日) 08:09:39.90
>>950
おい、サクラバイト
「畿内説のいう卑弥呼倭国は、九州から群馬チバラギあたり迄、前方後円墳のあるところ全部」は、
おまいの親分が自分でカキコしてたんだぞ、
カンペには書いてないか、共有できてないな。。。

956日本@名無史さん2019/08/11(日) 08:11:10.89
>>935 名前:日本@名無史さん 2019/08/11(日) 07:47:31
>女王国は沖縄か台湾と魏志倭人伝に書いてある

そうすると畿内に女王国はなかったのだな、、、。そりゃ、ご愁傷様。

957日本@名無史さん2019/08/11(日) 08:11:56.50
まあもし短里があっても九州説は負けるけど
そして短里もないけど

958日本@名無史さん2019/08/11(日) 08:16:11.39
>>956
九州にもない事になって
景初三年、西暦239年と
卑弥呼の時代の魏年号が記銘された魏鏡の三角縁神獣鏡や
前方後円墳のある畿内が邪馬台国という事になる

959日本@名無史さん2019/08/11(日) 08:23:25.10
九州説の奇妙な点
不利になると書き込みが複数で示し合わせてるように一斉に止まる

960日本@名無史さん2019/08/11(日) 08:24:49.34
>>949
倭人伝の行程からは畿内の方がもっとあり得ないのに、畿内については鏡や古墳のことしか書かないダブルスタンダードの畿内説

961日本@名無史さん2019/08/11(日) 08:26:04.75
>>951
短里が証明されたのかな?

962日本@名無史さん2019/08/11(日) 08:28:52.91
>>960
魏志倭人伝の行程では九州もあり得ねーぞ
そうなると魏鏡や前方後円墳など考古学的証拠のある畿内が邪馬台国で決まるわけだ

963日本@名無史さん2019/08/11(日) 08:30:55.11
>>961
1里140mを認めるならいいよ
そうなるなら帯方より南1万2千里の示す先は沖縄か台湾
そこは邪馬台国じゃない事は明白なので
考古学的証拠から邪馬台国は畿内で決定

964日本@名無史さん2019/08/11(日) 08:47:20.08
九州説の奇妙な点
不利になると書き込みが複数で示し合わせてるように一斉に止まる

965日本@名無史さん2019/08/11(日) 08:50:21.36
これは九州説は邪馬台国の会がバイトを雇って書き込ませているという事を
強く示唆する

966日本@名無史さん2019/08/11(日) 08:51:02.25
なぜ畿内説は、自分たちのことを九州説にすり替えて語るのか?

967日本@名無史さん2019/08/11(日) 08:54:33.70
>>966
自分たちの事をすり替える?身に覚えでもあるのかな
身に覚えがなければバイトで書き込みしてるという事を否定するはず
語るに落ちたな
ちなみに畿内説はバイトでも何でもないけど

968日本@名無史さん2019/08/11(日) 09:06:14.23
畿内説のバイトたちは、九州説もバイトだと信じ込みたいようだ。

969日本@名無史さん2019/08/11(日) 09:09:55.42
もし畿内説がバイトだったとして
それが何か
九州説は邪馬台国の会が金でバイト雇ってスレ荒らししてる事になるけど

970日本@名無史さん2019/08/11(日) 09:16:27.16
九州説が畿内説をバイトというのも
九州説は実際バイトが書き込んでてバレたらまずいと思ってるからだなあ
つまり金で雇われて議論でもない荒らしをしてるだけなのは自覚があるわけだ

971日本@名無史さん2019/08/11(日) 09:19:08.96
畿内説はバイトと言われてもノーダメージ
九州説には大ダメージ
九州説は邪馬台国の会のバイトとじゃんじゃん言ってやろう

972日本@名無史さん2019/08/11(日) 09:20:51.38
>>866
纏向は、北部九州で発生した倭国大乱を避け、スサノオが大陸・半島へ輸出して外稼を稼ぐため、宮殿の柱用の大材確保→降水量が多く、日当たり良好な紀伊山地に杉の植林中、
偶然見つけた水銀鉱床から出た(朱)も輸出してみたら、凄い高値で売れたため、莫大な富を元手にして、本州島の勢力を配下に治めて建てた王権。
しかし息子・大国主の代に、筑紫女王卑弥呼が「親魏倭王」号を取得して(帯方郡管轄下の伽耶の鉄を独占して)しまったため、倭王権にはなれず、本州島の地方王権に甘んじることを余儀なくされた。
しかし、鉄がないことが逆に幸いして、阿波王・少彦名が献上してきた(鉄がなくてもできる)熱効率の良い丸底の庄内式土器を、本州島各地に普及させ、最新の治水や植林を伝えて国造りをして回り、本州島各地で神として崇められるに至った。
その子・大物主の代、父・大国主の庄内式土器を吉備&阿波の技術革新である内側を削って薄くし、さらに熱効率(燃費)を高めた布留式土器は、邪馬台国のあった首都圏・北部九州にも及んだ。
卑弥呼の死後、饒速日の代で、纏向王権の人気に危機感を募らせた邪馬台国・台与(男弟)が、「更立男王国中不服」の汚名返上の機会を与えるため、
派遣した伊都国王神武の最新鋭軍勢に征服され、神武は遠く隔たっていることを良い事に、築造中だった饒速日の寿陵(箸墓)を自らの墓としてしまう(国譲り)。
それが前方後円墳(古墳時代)の幕開けなのである!
邪馬台国台与の死後、晴れて倭王となった伊都国王・崇神「複立男王並受中国爵命」が邪馬台国を受け継ぎ、崇神朝→応神朝→継体朝へと繋がる歴史が始まるのである!
>>910

973日本@名無史さん2019/08/11(日) 09:28:06.16
九州説はスレ荒らしを続ける限り
邪馬台国の会のバイトバイトと正体をバラされ続けながらブザマに論破され続けるというわけだ

974日本@名無史さん2019/08/11(日) 09:35:13.97
今城塚古墳に眠る大王の、ピンクの石はなぜ運ばれたのだろう。。。

975日本@名無史さん2019/08/11(日) 09:45:35.91
九州説はそろそろ鬱病になるんじゃないかな

976日本@名無史さん2019/08/11(日) 09:47:41.69
みんな、そろそろ劇団ひとり畿内説奥山氏が次スレを立てる頃だ!
荒らすなよ!特に>>2-12だけは絶対に荒らすな!

977日本@名無史さん2019/08/11(日) 09:50:03.29
次スレ立ってるぞ!!! テンプレ荒らすなよ!!!
http://2chb.net/r/history/1565484385/l50

978日本@名無史さん2019/08/11(日) 09:53:13.65
そうだぞ
荒らしたら邪馬台国の会のせいになってしまうからな

979日本@名無史さん2019/08/11(日) 09:56:20.67
491>>412
>その「書き分け」がインチキ臭いんだけどね
それが「混在」なのか「書き分け」なのかを誰がどんな根拠で判断したの?
そこを明らかにしないで「書き分け」と断定しても意味がない<

「余」に関しては、魏使らが皇帝に提出する報告書に、計測した通りに書かずに、
「余」を付ける、というような曖昧な書き方などすれば、そりゃうっかりすれば、
皇帝のお付きの重臣から叱責され、降格される可能性がある事だから、
魏使らは「余」を付けずに、計測値通りに報告し、
陳寿が「余」を付けた書き分けをしたんだろう、と考えられるから。

980日本@名無史さん2019/08/11(日) 09:59:31.97
次スレ立ってるぞ!!! テンプレ荒らすなよ!!!
http://2chb.net/r/history/1565484385/l50

981日本@名無史さん2019/08/11(日) 10:02:32.60
>>979
いずれにしても女王国の位置は
魏志倭人伝に沖縄か台湾と書かれているので魏使が帯方より南1万2千里を計測したとしても
その距離が指しているのは沖縄か台湾の辺り

982日本@名無史さん2019/08/11(日) 10:03:21.02
バイトの自作自演!!

983日本@名無史さん2019/08/11(日) 10:05:19.82
>>981
>その距離が指しているのは沖縄か台湾の辺り

畿内じゃなかったのか。。。

984日本@名無史さん2019/08/11(日) 10:06:19.32
>>983
九州でもないよ

985日本@名無史さん2019/08/11(日) 10:08:12.26
>>981
>いずれにしても女王国の位置は
>その距離が指しているのは沖縄か台湾の辺り

畿内じゃなかったのか。。。
畿内じゃなかったのか。。。

986日本@名無史さん2019/08/11(日) 10:08:28.18
>>942
南→東 をまともに答えられん畿内説が何を言うか!

987日本@名無史さん2019/08/11(日) 10:11:49.65
>>72の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
   ┏━━┓帯方郡  ┏┛〜〜〜日本海〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜東→✖畿内説沈没地点(†乗客乗員>>73
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行十日」↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」 
 ↓ ┃「瀚海」↓↓〜玄界灘〜↗_〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
   ┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行十日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃ 
   ┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
 ↑ ┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃★奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王四千余里」@阿波
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲▲▲▲▲投馬国┘宮崎平野=南「水行二十日」
会稽┃〜〜┗━━女王国島━━┛↓〜〜〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海〜┌南「水行十日」〜〜〜〜〜〜
   ┃〜〜┌┌←←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)↓
 ↓ ┃〜〜│↓「陸行一月」(幻)│←「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
   ┃〜〜│↓〜▲〜〜〜〜〜│亶州(沖縄)〜↓「自郡至女王国 万二千余里」
東冶┃〜〜│☆奴国A(幻)〜〜│←『【女王之所都】計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
   ┃〜〜│▲狗奴国(幻)〜〜│夷州(台湾)〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国(幻)遠絶 不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜南シナ海〜〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(☆奴国A)東南 船行一年」

988日本@名無史さん2019/08/11(日) 10:13:09.00
>>985
九州でもないよ

>>986
邪馬台国大和国は道里的には東
魏の政治的事情で南にある事にされた

989日本@名無史さん2019/08/11(日) 10:15:28.20
九州説は行程論で否定されれば破滅
畿内説は行程論で否定されても問題なし

990日本@名無史さん2019/08/11(日) 10:16:48.04
>>941 なるほどwww

991日本@名無史さん2019/08/11(日) 10:22:42.58
491>>428
>短里になってないし、そもそも測ってない
渡海距離とか測定手段がない <

寸尺定規を持っていて、8尺棒が造れて、正午が判る限り、
一寸千里で、南北長が測れる。

992日本@名無史さん2019/08/11(日) 10:27:07.37
九州説はバイト監督か何かに命令されて書き込んでるんだろうけれども
バイト監督の命令なんかよりもはるかに普遍的なものがこの世には存在しているのだ

993日本@名無史さん2019/08/11(日) 10:28:56.15
>>991
魏使が距離を測ったとしてもそれは帯方から沖縄までの距離

994日本@名無史さん2019/08/11(日) 10:29:06.67
南⤴東のカラクリによって、畿内説はどんなに言説を左右に積み重ねようとも、砂上の楼閣に過ぎないwww

995日本@名無史さん2019/08/11(日) 10:30:37.51
491>>437
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しなどのような、
こういうのが大和説者の限界であり精一杯

醜態だな。

996日本@名無史さん2019/08/11(日) 10:31:05.05
南が南でも
魏志倭人伝の邪馬台国までの行程は沖縄や台湾を指しており
九州は指していない

997日本@名無史さん2019/08/11(日) 10:34:14.51
嘘は真理を前にして崩れ去るのみ

998日本@名無史さん2019/08/11(日) 10:36:03.38
491>>440
投馬国は側副傍線国として書かれ、倭人からの戸数道里(官名)が伝聞され、
女王國より以南の国だ

諦めな
「南≠東」などに拠って、大和説は壊滅

999日本@名無史さん2019/08/11(日) 10:39:26.75
畿内説のごくシンプルな事実でにズタズタにされながら
それでも嘘がやめられない止まらない九州説
勝ち目のない賭けに次は勝つ次は勝つと金を突っ込み続ける賭博中毒者と同じ

1000日本@名無史さん2019/08/11(日) 10:39:36.27
491>>443
「まともな人間」なら、
「南≠東」がすぐに分かるし、
「道里」は「里」であって、「日数」ではない、事もすぐ分かる。


lud20220418000916ca
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