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ガリの転進ごろから、人間は狂いだした。時間にして言えば、上陸後一年を経過したころである。異常な神経が
支配してきた。軍で刊行されたパンフレット、『熱地帯の栞』というのが手渡されていた。その中に、「温帯に
生存するわれわれは、この熱地に一年も住めば相当優秀な頭脳も破壊される」とあった。学的にどこまで信を
おけるものかは知らないが、われわれは漠然と一年くらいで還されるだろうという、そこはかとない期待があった。
「相当優秀な頭脳」が、一年でばかになるとすれば、三年もおれば「超」の字もつこうというものである。常夏
の国の気候・風土が、人間の脳におよぼす直接の影響については、そう自覚されるものではなかったが、飢餓と
栄養失調は、記憶力を奪い、思考力を弱めた。さらに激しい熱病が脳を蝕んだ。正常な神経も、これだけは免れ
えなかった。
連日連夜の砲爆撃は、いやおうなしに脳の組織をゆさぶった。条件は、異常な神経をつくるのに十分過ぎた。生きた
とかげやいなごを、そのまま口に入れるのも、豚の肉を生のまま噛りつくのも、食欲からくる異常さである。そんな
ことが、平然とできるようになってしまったものを、正常な神経でもってははかりえない部分があったのだ。そこに、
「人間」のぎりぎりの闘いがあった。人間として生きようとする願いと、生きようとする動物的本能との熾烈な闘い
があったのだ。自然と人為との、途方もないローラーに押しひしがれたものの、惨憺たる闘いである。
ガリの転進を、おそらく史上稀にみる凄惨な行軍だったといったが、ここで恐ろしい事実を見たのである。行き倒れた
兵隊の腿が、さっくりと抉り取られていたのである。キャプテン・クックの手記に、食人種のことが記されており、
いまだにこんなことをするやつがいるのか、と思って見た。ところが、原住民の仕業ではなかったのだ。慄然とする
ような風評が流れてきた。この転進はそこまで人間を追いつめていたのである。
Yと二人、山道を急いでいたら、見知らぬ部隊の四、五名に呼びとめられた。食事を終えたところらしく、飯盒が散乱
している。「大きな蛇の肉があるんだが、食っていかないか」というのである。そのにやにやした面が、気に入らな
かった。何かがある、と直感した。共犯者を強いる───そんな空気を感じたのは、思い過ごしであったろうか。その
連中が、一斉に何かを待ち受けるような姿勢を見せたのは、ただごととは思えなかった。Yも同じものを感じたか、
「おおきに、またごちそうになるわ」と言った。道々、妙な不安が追いかけてくるようだった。Yの表情にもそれがあっ
た。それとなく警戒しながら、急いだ。小銃弾を浴びせられるかも知れぬという不安がひらめく。大分来てから、Yは、
「やつら何をしていたんだろう。おかしい。蛇ならばくれるはずがない。良心にとがめるところがあって、おれたちも
仲間に引き入れることによって、少しでも呵責からのがれようとしたのではないだろうか」などと憶測した。もちろん、
何の根拠もないが、とっさに期せずして符合した感じは、何であったか。腿の肉を切り取られた死体の数は、一つや二つ
ではなかったのだ。ついに全く光は消えた。ただ眩暈のうちに拠点を見失って、地底に転落していった。
死の島ニューギニア
敵機は「東洋に平和きたる」と、投下した。愕然とした。信じられぬ。潜入攻撃は、依然として続けられた。
相手はその違法をなじってきた。それから数日して、赤とんぼのような友軍機が一機、よたよたと飛んで
くるのが見えた。やはり終わりだな、と感じた。正式の命令がきた。昭和二十年八月二十五日の夕刻、
薄ら日の中に第二十師団歩兵第七十九連隊の葬送を終えたのである。・・・
海岸に集結、ムッシュ等に収容―そんな情報が決定的となった。いよいよ出発。希望のない行軍だった。
途中、現地の人に担がれて、原隊に帰ってきた者もいた。どこから、どう聞きつけたのか。たまたま近隣
の村落に病を養っていたか。しかし、軍規は冷厳だった。逃亡の罪名の下に処刑されたと聞く。どのくらい
いたかは知らぬが、軍刀の血をぬぐっている准尉を見たことがある。生還の夢が、処刑という形で無残
に打ち砕かれてしまったのだ。「敵さんに、投降したほうがよかったんじゃないか」、そんな声もささやか
れた。
ある日、原住民の手作りの担架に担がれて、一人の兵隊が運ばれてきた。部隊は七十九、つまり我々
の中隊である。いったい誰なのか。担架のところに行ってみた。担架に張り付けられたように、投げ出さ
れている。顔を近づけて、「お前は、だれか」と聞いてみた。すると、その兵隊の両眼から涙がスーッとあ
ふれた。聞き取れない声で『Nです』という。そして、ゆっくりと両手を差し伸べてきた。「寂しかったです」と、
声もなく泣き続ける。N-、しばらくして、やっとおもいだした。「おまえ、Nか」と思わす叫んだほど、形相は
変わっていた。昭和19年3月9日、すなわちガリ転進の時、敵は村に侵入し、退路を遮断した。そのとき
飯盒ひとつもって敵の囲みを脱出した、おそらくたった一人の兵隊が、N上等兵だった。その時の脱走
の模様を聞いたきり、約一年半行方の分からなかった兵隊である。
中隊長F大尉は、連隊長に指示を仰いだ。夕刻、「逃亡罪、銃殺」の一言を持って帰ってきた。指名された
T准尉とYは無言で立ち上がった。自分は会う気持ちになれず、樹にもたれて、じっと座ってきた。その死
は本当に決定的なものか、再び逃亡罪が成立するような条件であるのか。意志的な逃亡が成り立つよ
うなところではないのではないか、逃げたとて、どこへ行こうというのか。銃声が一発また一発聞こえてきた。
ちなみに私の叔父は料理人で戦地での糧食について色々と語っていました
御存じの様に現地調達が基本の様に思われていますが戦況悪化後は急速にその傾向が強まりましたが
ガダルカナル以前は内地より豊富な食料事情だったと聴きました
ポートモレスビー攻略作戦では原住民の人達はオーストラリアに反感を持ち日本軍に友好的だったと聞きました
スタンレー山脈の山越えは難渋を極め補給難に陥り隊は急速に飢餓状態になったそうです
そこで叔父たちは原住民の人達からタロイモと野生豚料理を教えれれたそうです
補給が停滞してからは自給体制に移行せざるを得ませんでした
タロイモの収穫では足りずタケノコを採り野生の甘くないバナナを蒸し焼きにしたりして工夫しました
栄養状態よりも毒虫や風土病、伝染病に苦しめられたとのことです
死を目前にひかえてからはショッキングな告白をしていました
「部隊で村を襲ったことも何度もあった」と
「鉄砲を撃つと敵に位置がばれるので軍刀が重宝した」と
相手がマッカーサーだったのが運のつき。
陸海空を有機的に連携させることができたマッカーサーの戦術の巧みさ。
ケニーの第五空軍とキンケードの第七艦隊とで完全に補給を絶たれた。
マッカーサーが好んだのが小型の魚雷挺で、日本の大発などの輸送艦を次々撃沈して時には駆逐艦も撃沈。
小型高性能の魚雷挺は結局最後まで日本軍はつくることができなかった。
ニューギニアでは皇軍は実に18万7000人が死亡
マッカーサーの連合軍は米4000人、豪7000人にすぎない。
なんでここまで一方的に負けたんよ?
現代の戦争は、長期の持久戦となる可能性が高いため、経済力が勝敗の決定大きく左右する。
中国やロシアのような現在弱体な国でも、潤沢な資源を持ち、有力諸国から援助を受ければ、
徐々に大きな抗戦能力を発揮するようになる。敵に遠近なく、世界のいずれの国をも敵とする場合があると予測し、
それに備えなければならない。同盟、提携関係へのフリーハンドを得なければならない。
世界の強国との長期持久戦を想定するとすれば、永田の見るところ、日本の版図内における国防資源は極めて貧弱である。
それ故なるべく帝国の所領に近いところにこの種の資源を確保しておかなければならない。
この不足資源の確保・供給先として、永田は満蒙を含む中国大陸の資源を念頭に置いた。
平時は遅れていた工業化を進め、戦争において、戦争による通商途絶への考慮から、
国防資源の「自給自足」体制が確立されねばならない。
国際分業を前提とした資源輸入でなく、資源時給が必要とされる。
とりわけ不足原料資源の確保が、天然資源の少ない日本において最も重要とした。
内に不足するものについては何らかの方法で対外的に「永久または一時的にこれを我の使用に供しうるごとく確保」
することが、国防上緊要だと永田は言う。
そして「純国防的」な見地からすれば、国防資源の「自給自足が理想」だと主張する。
もし今後本格的な戦争が起こるとすれば、国を挙げて抗戦する覚悟を要し、
それには国家総動員が求められる。それが永田の基本的な主張であった。
永田は言う、日本は軍事地理上の事情や、必要資源を海外から確保する必要などから、
開戦全島において枢要な戦略目標を一挙に達成しておかなければならない境遇にある。
欧米諸国との交戦となった場合、アメリカもしくはヨーロッパから東アジアに派遣される
兵力の集中が十全に行われる前に、それらを撃破する必要がある。
また欧米と連携した近接国例えば中国やロシアなどと開戦に至った場合には、
欧米からの援軍が到着するのに先立って、近隣国軍を制圧し資源なども確保しておかなければならない。
したがって速戦即決に必要な、相当規模の常備兵力を平時から擁しておく必要がある、と。
しかし常に必ずしも速戦即決ということは望みがたく、戦争が持久戦に陥るという場合も覚悟せねばならぬ。
それゆえ常備兵力のほか、自給的長期戦に対応できるよう、国家総動員の準備と覚悟が不可欠だと主張していた。
また志々目入れに従って、機械的に働くのみで、独立独行の年にかけ、自治自立の精神に乏しく、
自悪に基づく責任観念が十分でなければ、新しい戦法に適応できない。
各個人は分散隔離し、時には指導者の手中限界を離れて行動し、至当なる判断のもとに適切なる行動をし、
全体のために分業的協同を挙げ、団体としての有機的活動を最大限発揮する。
乏しい国内資源をどうするか、まず鉄鋼について、本土で7万トン、朝鮮で35万トン算出し、
百十数万トンを中国などから輸入している。
満蒙において、産額は多くないが、埋蔵量はすこぶる多く、十万トンから数十万トンの生産計画がある、
北支も中支もすこぶる多い。したがって資源豊富にしてかつ近き支那にこれを求めざるべからず。
石炭は優良炭は華中華北に多い、戦時不足額はほとんど満蒙及び北支那、
そのほか鉛・亜鉛は華中の湖南省、鈴は河南、アルミニウム・マグネシウムは満州などが、
石油に対しては中国としながらもはっきりとした見通しは立っていない。
このように永田はほとんどの不足資源において満蒙及び華中華北が供給可能地域としている。
これから日本の向かうべき道が満蒙であると結論付けている。
軍事資源を米英から輸入することを前提にしていれば、それに制約され、
提携関係も限定されれば、国防自主権を確保することができない。
その為には軍事的に支那は無理にも自分のものにする。
しかし中国の反日姿勢の背景には、政党政治の英米協調路線による国防力の低下がある。
ワシントン会議、ロンドン軍縮会議により、国防力が低下し、中国を増長せしめ、
排日活動を逞しくせむうる。
政党政治の英米協調に対抗して「純正公明」な軍部が国家総動員論の立場から
積極的に政治に関与すべきと主張した。
永田は言う。「近代的国防の目的」を達成するには、挙国一致が必要であり、
それには政治経済社会における幾多の欠陥を「切除」しなければならない
だが、そのためには「非情の処置」を必要とし、それは従来の政治家にゆだねても不可能である。
したがって、「純正公明にして力を有する軍部」が適当な方法によって
「寄生者を督励する」ことが原価不可欠の用事である、と。
このような永田の思想が、満州事変以後の昭和陸軍をリードし、
1934年の陸軍パンフレット「国防の本義と某強化の提言」に色濃く反映されている。
一方、石原莞爾は
日本はさまざまな東洋文明を融合させ、列強の一つとなった。
つまり日本は、東洋文明のみならず世界の全文明を統合し、しかもそれを最も合理的に行う能力を持つ。
数十年後に日本が東洋文明の中心となり、西洋文明の中心地の米国と、世界最終戦争となるだろう。
この戦争は飛行機をもってする殲滅戦争となり、日本が勝利し東西両文明を統一し
世界人類を救済することが使命となる。
世界最終戦争に向け、速やかに国力の発展を図らなければならない。
その為には満蒙をわが領土にする必要がある。
実力による満蒙領有によって日本の断固たる決意を示せば、中国本土に対しても指導に位置に立ち、
その統一と安定を促進するであろう。
満蒙の資源は不況下の国内の刻化の急を救い、今後の飛躍の素地を作るに十分なものである。
さらに満蒙での各種企業の発展は、国内失業者を吸収し、景気は自然に回復する。
だが満蒙領有の実行は、米英ロなどの武力的圧迫を覚悟しなければならない。
とりわけアメリカの実力的介入は必至で、対米戦争の覚悟を必要とする。
だがこれは約半世紀後に想定される世界最終戦時のせん滅戦争とは異なり、
長期の消耗戦となる。
ある時点での戦争終結を想定しておかなければならない。
まず満蒙を領有し、西太平洋制海権を確保する。
具体的にはフィリピン、グアムを日本の領土とし、ハワイも日本の領土とするか、その米側防備を撤去させる。
これが講和条件となるであろう。
中国は威嚇で排日を防止するが、できない場合は武力によって占領する。
占領後は武力によって病根を打開し、中国に新生命を与える。
そうすれば日本による中国本土統治は、支那人より吏心の歓迎を受けるだろう。
占領に要する維持費は、中国における関税・塩税及び鉄道収入によってまかなう。
アメリカとの戦争のためには、中国本土の富源開発と、その日本による確保が必須だ。
戦闘は今決定的な段階に入ろうとしている。日本軍の地上部隊は今なお、恐るべき頑強さで戦っている。
日本軍の兵員の素質は依然として最高水準にある。しかし、日本軍の将校は上級ほど素質が落ちる。
日本の将校団は基本的に階級主義と封建的な制度で成り立っており、厳密な職業的能力によってえらばれていない。
ここに日本の弱点がある。日本の息子たちは心身ともにたくましいが、指導者に欠けている。
日本の軍人階級は国家をがんじがらめに縛り付けておきながら、今やその国家の期待を裏切っている。
彼らは全面戦争のため日本の資源を組織的に活用するだけの想像力も情勢判断の能力も持っていない。
いま日本は敗北に直面している。
日本の持つ武人の掟は育成期にもわたって日本人の性格と文化を支配してきたが、
日本人の基本的な性癖からは不思議にかけ離れた一種の国家的な野蛮行為を生み出している。
軍人の掟がこのように支配力を保ってきたのは、主として日本国民が日本の軍人の不敗を信じたからであった。
日本の国民が、将軍や提督たちは実際の戦闘の場面で失敗していることに気づけば、
日本の国民感情に現れてくる反感はすさまじいものがあろう。
その点に、日本の民衆はやがては軍部へのほとんど偶像崇拝に近い感情を捨て、
もっと合理的なものの考え方をするようになる、という希望が持てる。
日本の最大の苦悩の時に日本の軍部が国民の期待を裏切っているという事実は、いかなる詭弁も覆い隠すことはできない。
この軍部の失敗は、あるいは日本にとっては、新しい、究極的にはより幸福な時代をもたらすものと、なるかもしれない。
日本国民が決断を下すときは、迫っている
マッカーサーはその後に行うべき作戦について考えた。
「今や我々はモルッカ諸島を支配下に納めた。こんな少ない損害でこの勝利を収めたことは大変うれしいことだ。
日本軍の地上軍はなお、この上もない頑強さをもって抵抗している。……しかし、日本陸軍の将校団は、階級が高くなるにつれて堕落している。
これは根本的に、階級的な、そして封建的な制度に起因したもので、厳格な意味での職業軍人の美点とは関係ないものである。
ここに日本の弱点がある。……頑迷布令なまでに、軍隊的階級組織にとらわれてしまって、その階級組織が、今や国家を滅ぼしつつあるのである。
そこには、日本の国力を総力戦のために組織する創造力もなければ、先見の明にとんだ能力もない。
敗戦の運命が、今や、日本の顔をじっと見つめている。
……日本の世論が、将軍や提督が実際は戦に負けているのだということを知ったら、国民感情に及ぼす反動は恐るべきものがあるだろう。
日本国民は軍部に対して、ほとんど偶像崇拝にも似た感情を抱いているが、敗戦の事実を知れば、その崇拝感情を失うことになるだろう、
という終局的な望みがここにあるのである。
……ところが、この敗戦の陰で、日本国民にとって新しい時代、終局的には従来より幸福な時代が始まるかもしれない。
日本国民が決心する時期は近づいている
日本鋼管の白石社長が新聞紙上で次のような声明を出していたことを私は今でもはっきり記憶している。
「職場から召集されて出ていった熟練工を全部返してくれ。そしたらそれに数倍する徴用工を
全部お返ししてしかも現在以上の生産を必ず上げて見せる」と氏は豪語した。
「農村からの重用はやめて食料をもっと増産してくれ、工業生産は都市の勤労者で責任をもって引き受ける。
だが俺たちが力いっぱい働けるだけの食糧は確保してくれ」
関東工業という民間工場があり、20ミリ榴弾を作っていたが、そこのK社長が日ごろ語っていた
「我々は米国だけと戦っているのではない。帝国陸軍とも戦わなければ、この戦争は勝てない」
彼がそう嘆いたのも無理はない。民間軍需工場はすべて軍工廠の監督指揮下に置かれていたが、軍工廠は幹部から
下級役人に至るまで極端な精神主義に凝り固まり、民間工場から提起する合理的な改善策は容易に取り上げなかった。
次に2例を上げる。工場建屋をそれぞれ100メートルくらい離して林間に隠し、一方が被爆しても他方で操業が
続けられるよう計画したところ、「軍が北に南にと作戦している中で、いたずらに空襲を懸念するとは何事か」といきり立つ。
榴弾の製造方式を造幣廠では普通旋盤仕様と決めていたが、これをブランシャープ型あるいはインデックス型の
「自動旋盤」にすれば、一台で普通旋盤6−8台分の仕事をする。インデックス型の国産化してこの仕事に充てようと企てたが、これもダメ
「工員が、汗水流して削り出した砲弾であればこそ、戦場で威力を発揮しるのだ。それを自動旋盤に削らせるとはもってのほか」。
この社長は間もなく解任された。
今や軍の組織が国民生活を根底から破壊していく。その思いはみな同じだったが、一言でも本音を吐けば、
たちどころに身の破滅となる。軍という武装した暴力集団を批判し、制動する力は、軍の内部はもとより、
広く国内のどこにも見当たらなかった。外国との戦いで軍組織が叩きのめされる以外に解決の道がない。
終戦の今振り返ると、国民は少なくとも帝国陸軍との戦いには勝った。
ニューギニアの死者も、東京大空襲の死者も、沖縄、広島、長崎の死者も、
すべてこの勝利を引き出すために、避けることができない人身御供だったのではないか。
第5連隊はウタブ南方二キロのカイバアン部落とその後方丘陵攻撃を受け持たされた。
21日朝部落を通過する間は無事だったが山際に差し掛かると、およそ一個小隊の日本兵の頑固な抵抗にあった。
しばらく砲火を交えた後、以外にも日本軍陣地に白旗が上がった。米兵は重機を前進させておいてから、武器を捨てろと怒鳴った。
2,3の小銃、県、飯盒が投げ出された。
しかしその次に弾が来て、5人の米兵が傷ついた。
前進した重機が射撃を開始し、13人の日本兵を殺した。残りは山の奥へ逃げた。
日本兵の白旗による欺瞞はニューギニア戦線でもよく見られた行動である。
20対1,50対1の状況になった時、敵を斃すためには手段を選ばずという考え方は、
太平洋戦線の将兵に浸透していた。
しかし白旗は戦闘蜂起の意思表示であり、これは戦争以前の問題である。
こうでもしないと反撃の機会が得られない状態に追い詰められた日本兵の神事を思えば胸が詰まる。
撃ったところでどうせ生きる見込みはない。殺されるまでに一矢を報いようという闘志は尊重すべきである。
しかしどんな事態になっても、人間にはしてはならないことがなければならない。
卑怯を忌む観念は、戦国武士にもやくざの中にもあるのに、
私が今日カイバアンの日本兵の物語をすると、たいていの元兵士は「うまくやりよったな」という。
いつから我々はこうなってしまったのか。
太平洋戦線で戦った日本兵は、米軍の物資を「卑怯」と感じた。
何をしてもかまわないという観念も、この感情から生まれたと思われる。
しかし相手もわれわれと同じく徴募された市民である。
そして厳密に言えば22日夜パロの町に有効な斬り込みを行った部隊が、
ギャングや鉄砲魔のようにフィリピン人を盾にした行為についても、考えなければならないと思う。
日本兵には白旗を振り、近寄る敵を不意に射撃した例がニューギニアにあり、タクロバン付近でも記録されている。
米兵は報復的激情を持っていただけではなく、こういう事実を戦訓として教えられていた。
そしてフィリピン人はこれまで受けた略奪、虐待、侮辱の報復として、間違いなく首を斬るだろうと信じられていた。
この上等兵の場合は、巧みに相手を選んで投降した場合である。
このころは作戦は終わり、米兵もフィリピン兵も上陸したてのように気が立っていなかった。
食料がなく山中をさまよう日本兵が、かわいそうな存在として映りだしていたのである。
このほか負傷、失神、睡眠の状態で俘虜となったものはこのころに陸軍だけで500人いた。
ゲリラは殴ったりけったりするだけで、殺さず、米軍に渡している。報奨金が出たためであるが、
カスモス諸島、ボホール島、ミンダナオ島の辺境地区など、米軍陣地から遠く離れた地区では殺されてしまった。
敵機は、さかんに宣伝ビラを撒いて来る。はじめのころは、至極幼稚な字で、文句も翻訳長で、日本人の文章とは思えなかったが、
次第に整った日本文になってきた。日本人が、日本人に呼び掛けている、そんな感じすらすることがあった。
週報・月報の類もあり、いろいろなニュースをそれで知った。その一つに、こんなのがあった。
「戦争は力仕事である。腹一杯食っても、容易なことではない。しかるに忠勇無双の日本軍将兵諸君の、
ろくろく食う物もない原始林における優先奮闘ぶりには頭が下がる。敬服に値する事である。
しかし、すでに戦局の見通しはついている。我々は、諸君らを殺すに忍びない。諸君らも、無駄に死んではならない。
即刻抵抗をやめよ。故郷に残してきた最愛の父母・妻子・兄弟のために、帰順すべき時が来たのだ。
その人たちは、諸君の帰るのを、一日千秋の思いで待っているではないか。
つまらぬ意地を捨て、大儀に生きよ。我々は、諸君らを心から歓迎する。熟慮せられよ」
という文面である。下にパスポートがついていて、英文と日本文で
「本件持参のものは丁重に取り扱い、最寄り長官のところへ連行すべし」とある。
さて、その裏に、色刷りの御馳走が、紙面一杯に印刷されているのである。それを見て、素っ頓狂な声で、「チクショウ!」と叫んだものがいた。
怒りの声ではない。なんともやりきれない、という調子である。思わず生唾を飲み込んだ声である。
戦局は、明らかに末期的症状を呈していたが、全面的敗戦を頑固に否定し続けていた。
だが、ビラの内容は、猫が鼠に戯れるような遊びが、露骨に出ていた。
「我々には、糧秣倉庫の位置も、はっきりわかっている。しかし、乏しい糧秣を爆撃するのは、人道上忍びないものがある。
決して爆撃しないと約束する。いずれ近いうちに、いただきに行くことになろう」と落としてきたりした。事実、その約束を守るほどの余裕を示していた。
しきりに投降を進めてくる。「何のため、だれのために戦っているのか。諸君らの尊い命の代償は何なのか。
軍閥の手先になって、踊らされているのが分からないのか。我々は、戦場の勇士に対する礼儀を知っている。安心して投降せられよ。」
という調子である。
ついに、小隊長以下一個小隊投降の報が伝わった。もとより真偽のほどはわからぬが、
「死ぬことと見つけた」武士道の伝統を、揺るがせるに足るほどの苦痛であったあことは明らかであろう。
投降のうわさを聞いても、それを背信・卑怯者としてなじる気持にはなれなかった。
責任者として、何人か引き連れて言った男の苦渋が分かるような気がしたからである。
だが、どのような状況であったかは、知る由もない。舟艇が撃沈され、数名の将官が消息を絶ったが、
その中にあるいは死にきれず拉致し去られたものもいるのではないか、と。
逃亡の語感は暗く、卑劣な感じを逃れない。
軍法会議の結果、逃亡罪と断定され、自決を迫られた准尉がいた。
将校斥候に出たまま、原隊に復帰しないという罪状である。
野戦における逃亡の罪は、死刑である。
しかし、こういう条件の下で、逃亡ということが成り立つものだろうか。
たとえ逃亡したとして、どこに逃げうるというのだろうか。
一個連隊が、百名足らずになっても、厳しい軍規は守り通されていた。
集団投降である。これは、何らかの形で一応意思を統一しなければできないことであるから、
人事不詳の状態というわけにはいかない。したがって、日本軍において集団投降は極めて少ない。
特に、軍の組織としての建制部隊の投降は、指を屈するほどしかない。
昭和二十年五月初め、ニューギニアで一個大隊が丸ごと投降したのは、明治建軍以来組織としては最大の例であろう。
しかも、大隊長は陸幼、陸士出身の生え抜きの中佐である。
最も一個大隊というと、編成当初の八百人くらいの将兵を思い浮かべたくなるが、
この時の実勢は、大隊本部と二個中隊で実人員はわずかに四十二人である。
この数字自体が、この大隊が常識を超えるほどに、いかに傷つき疲弊していたかを示している。
西欧では、戦死者が四分の一から三分の一になれば、投降が常識といわれている。
「ニューギニアで、人肉食べない人なんていないんじゃないの。竹永さんだって食べてるんじゃないの。わかんないけれど。
「敵国人の人肉は食べてもよい。チンの命令である」なんて。だって、食べ物なんもよこさねぇんだから、ひどいよ。」
これが安達軍司令官が出した命令に由来することは確かだろう。
兵隊は、禁断の人肉を焼き口にするたびに、免罪符として呪文のようにこれを口にしあったのではなかろうか。
「食べ物がなくて、マラリアで40度の高熱が出て、まず、大部分が餓死だった。
私たちは、降伏も上司に従っただけ。投降、まずいんじゃないかなんて、考えもしなかった。まず、食べるだけ」
一般に、終戦間際に脱走した兵は、すぐに豪軍に駆け込めば捕虜として優遇され、いずれは無事に帰国できた。
たまたま離脱はしたものの投降までの決意をすることができず、あるいは豪軍陣地にたどり着くことができず、
そのうちに終戦のビラを拾ったりして日本軍に戻ってきたものが、情け無用の軍律によって、
せっかくここまで生き延びた貴重な生命を捨てさせられたわけである。
終戦の数か月前、あるいは一年以上前に離脱した、あるいは離脱せざるを得なかった将兵も、もちろん同じ運命をたどった。
安達軍司令官の言葉は、ムシュ島で入院中、見舞いに訪れた軍司令官から、菅野が直接その耳で聞いたことである。
しかし、のちに逃亡兵の大量の戦後処刑を知り、親しく将軍の滋味に触れた菅野でさえも、こう書かずにはおられなかった。
「戦争も終わっている。この時期、現場の指揮官の裁量一つで、極刑にしなくとも済んだはずだ。
部下思いで有名だった安達軍司令官が、この件についてはどのように処置せよと命じていたのか」
ジャングルを移動中に空襲に会うと、雲の弧を散らすように試算する。敵機が去って集合すると、幾人か足りないことがあった。
そういう隊員が、終戦になると隊に戻ってきた。中隊長は、軍刀の絵に手をかけて、
「今帰ってきた逃亡兵はここに並べ。ぶった切ってやる」と息巻いた。
軍人の朝鮮人はうまくいかなかった。第二十師団朝鮮・竜山の部隊であるから、朝鮮人の志願兵が少なくなかった。
アイタベ決戦の後、行方不明になっていた二人の上等兵が、8月20日過ぎに帰隊した。連隊副官は
「敵前逃亡は死刑だ。シナ事変でもそういうことがあった」という。
そして、二人にスコップを私穴を掘らせた。
「本来、銃殺すべきだが、日本軍人らしく持っている銃で自決しろ」
結局、二人は、足の親指を銃の引き金にかけて自決した。これを記録している韓国人の兵長は、
「戦争が終結している段階で、敵前逃亡罪で死刑宣告とはあまりにもひどすぎる。
二人が朝鮮人志願兵であるがゆえに、銃殺命令を出したに違いない」と書いている。
ただ、これが朝鮮人ひいては国際的水準からみて、「差別ではないか」と疑うのが自然なくらいに、
”正常ではない処置”だったとは言えるだろう。
セントポール大学の虐殺
45年2月9日の夕方のことである。官庁街に隣接するまらて地区のセント・ポール大学で、日本軍による住民虐殺が起きた。
1911年に修道女養成を目的として設けられたカトリック系の同大学の建物は、44年9月、日本軍に接収された。
日本兵が宿舎や貯納室として利用するためである。9月8日、修道女たちは大学構内の祭具をすべて取り払うように命じられ、転居も強いられた。
マニラ戦の最中、2月9日の日本軍は、「砲火から保護する」として、近隣住民にセント・ポール大学に集まるよう伝えて回った。
正午過ぎ、大学に集まってきた付近の住民たちが屋外で待っていると雨が降ってきた。人々は大学に招かれ、いくつかの部屋を転々とさせられた後、最後に少し広めの食堂に集められた。
天井につるされたシャンデリアが灯火管制のカバー紙でおおわれていることや、そのカバー紙に外窓からつながるひもか電線らしいものに気づいた住民もいた。
夕方午後5時半ごろ、5人の日本兵が雨やビスケット、アルコール飲料と思われる液体を食堂に搬入した。
日本兵は住民中のインド人通訳を介して「この部屋にいれば安全」なこと、ここに用意した食料は食べてもよいこと、などを伝えた。
空腹だった人々は日本兵が置いていった食料に殺到した。直後、シャンデリアに仕掛けられたとみられる爆弾が爆発し、部屋の中は大混乱となった。
人々は爆風で床にたたきつけられ、ある人はパニックに陥って部屋を徘徊した。その内外に待機していた日本兵が機銃掃射を始めた。
日本兵は窓から部屋の中に向けて、あるいは廊下にいた逃れ出た人たちめがけて手りゅう弾を投げつけた。
爆風で窓や建物の一部が壊れ、そこから人々が逃げ始めた。機関銃やライフルによる銃弾の嵐の中、多くの人が殺された。
戦争中、日本料理屋で働いていた32歳のカミロ・ディエゴは、この阿鼻叫喚の中にいた一人である。
彼は負傷しながらも、自分の息子の身を守ろうとした。だが、13歳のアリシアが目の前で「お父さん、体に火が付いた」と叫んで息を引き取り、
廊下を通って大学構内の教会に連れ出せた4歳のリディアも、祭壇近くで息絶えた。この惨劇の中で彼は妻と3子の家族全員を一度に失った。
2週間後の2月23日、近所のアサンプション女子修道院からセント・ポール大学に戻った修道女アナ・デ・ヘススは、
教会の祭壇近くに一人の子供の遺体を発見、また食堂の入り口や廊下、あるいは屋外で40人ほどの焼死体を確認した。
「フィリピン風の着物に黒いスカートをはいた一人のフィリピン人女性を除いて、他はすべて白骨化していました。」
セント・ポール大学(とその周辺)での事件で殺害された住民の正確な人数については今もって明らかでない。
45年8月末までに米軍の捜査当局が把握した情報によれば、この時点で身元が判明した被害者は
72人―生後8か月の女児から75歳の女性までの女性43、男性29人で、
国政ではフィリピン人63人、中国人4人、インド人3人、アメリカ人2人であり、
このほか「約360人と推定される志望者の身元は判明していない」
遺体の多くは親族に見送られることなく、仮埋葬場に埋められた。
たとえば、2月10日にエルミタ地区のジャーマン・クラブで起きた、
日本軍がドイツ人、フィリピン人など約500人を殺害した事件の犠牲者のうち、
身元不明の遺体が同クラブの敷地内に仮埋葬された(その後、遺骨は近くのサン・マルセリーノ教会などに移送された)。
NHKで皇軍の銃撃で数百人のフィリピン民間人虐殺の記事
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210015_00000 21:10〜当時、市民たちの多くは、頑強なビルに避難していた。スペインクラブにも大勢の市民が身を
寄せていた。2004年に亡くなった当時マニラ海軍司令部付きの西岡半一さんがスペインクラブで起き
たことを手記に書き残している。
「マニラ市の一角にスペインクラブという500m四方の土地に2階建ての建物がある。ゲリラが多数入り
込んで活動していたので、再三、フィリピン人を外に出すように勧告したが、聞き入れられず。司令官が
、正午を期して、ゲリラを一兵も逃さず全滅せよと私たち分隊に命令した。
当日、朝から四方の入り口に、爆雷を一本ずつ装置し、正午12時を期して一斉に点火。飛び出してくる
フィリピン人を待ち構えた兵隊たちは機関銃で射殺。正気の沙汰でできるものではない。
抵抗しないもの、まして婦女子が大多数。」
満州開発はうまくいかず、資源という面で全く期待外れだった。
日本の3.5倍も面積があるのだから、何でもあるはずだ、これで日本も資源大国だと夢は膨らむ。
国際連盟から脱退し、世界の孤児となっても平気だ。そう信じて、満州の重工業を育成する5か年計画で、鉄鋼増産に励んだが、
満州には低品位の鉄鉱山しかなく、計画の銃鉄年産1150万トン、鋼塊1300万トンに対し、
36年には銃鉄63万トン、鋼塊34万トンで、目標には遠く及ばなかった。
1940年代になって、この方向は半ば放棄され、「満洲国」自体も「大東亜共栄圏」における食料供給基地という位置付けになっていく。
投降ということは現在の日本人が考えているほど簡単にいくものではないと思われる。
それはまず対峙した両戦闘単位を隔てる距離を突っ切るという実際上の困難の上に、
その上げた白旗、あるいは上げた手が、相手に認められないのではないか、
という恐怖は当然あるはずである。
戦闘中の兵士は民主的な米兵と雖も、気が立って居ると見なくてはならない。
私自身は歩行不能の状態で密林中に眠っていて米兵に発見されたのであるが、
もし私がどんな場合でも銃を抱いて寝るという精兵の習慣を持っていたら、
いくら眠っていても、まず一発見舞われていたかもしれないのである。
レイテの米兵は武器を持つ限り死体さえ撃っていたという話である。
私に対する米兵の取り扱いは鄭重であったが、体調に引き渡されるまで、
米兵が私に対しかなり我慢をしていたのを私は知っている。
第5連隊はウタブ南方二キロのカイバアン部落とその後方丘陵攻撃を受け持たされた。
21日朝部落を通過する間は無事だったが山際に差し掛かると、およそ一個小隊の日本兵の頑固な抵抗にあった。
しばらく砲火を交えた後、以外にも日本軍陣地に白旗が上がった。
米兵は重機を前進させておいてから、武器を捨てろと怒鳴った。
2,3の小銃、剣、飯盒が投げ出された。しかしその次に弾が来て、5人の米兵が傷ついた。
前進した重機が射撃を開始し、13人の日本兵を殺した。残りは山の奥へ逃げた。
日本兵の白旗による欺瞞はニューギニア戦線でもよく見られた行動である。
20対1,50対1の状況になった時、敵を斃すためには手段を選ばずという考え方は、
太平洋戦線の将兵に浸透していた。
しかし白旗は戦闘蜂起の意思表示であり、これは戦争以前の問題である。
こうでもしないと反撃の機会が得られない状態に追い詰められた日本兵の神事を思えば胸が詰まる。
撃ったところでどうせ生きる見込みはない。殺されるまでに一矢を報いようという闘志は尊重すべきである。
しかしどんな事態になっても、人間にはしてはならないことがなければならない。
国民の大多数は灰色である。一部少数の者がとかく批判的言動を弄するものである。
そこで国民を率ひてゆく者としては、此の大多数の灰色の国民をしつかり掴んでぐんぐん引きずつてゆくことが大切である。
大多数の灰色は指導者が白と云へば又右と言へばその通りに付いてくる。自然に白になる様に放つておけば百年河清を待つものである。
(伊藤隆ほか編『東條内閣総理大臣機密記録』東京大学出版会、1990年。吉田裕『アジア・太平洋戦争』岩波書店、2007年、p.p.80−81より重引)
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/271272 東條英機
「日本軍に降伏はない。捕虜になるくらいなら自決する。」
「ジュネーブ条約など日本軍に必要ない。日本軍に捕虜は存在しない」
「だから強いんだ!」
東條英機首相
「戦争は精神力と精神力の戦いであり負けたと認めれば負けであり国土が廃墟になろうとわが身が滅びようと負けを認めなければ負けにはならない」
豪軍は撤退後のラエ市に入ったが、日本兵の自決による死体が各所にあふれかえっていた。
降伏の禁止と死の強制、自分への絶対的忠誠を実践しないものを不忠者、反逆者と決めつけるのは、
古来から権力を握ったものが陥る悪弊である。
兵士らに捕虜になることは「子孫を辱め奉ること」とまで言い切り、家族に類が及ぶと脅迫されては、
戦場で追い詰められたときに残された道は「死」しかなかったのである。
ニューギニア戦線が無理ゲーすぎる 補給もなく自給自足 生きるだけで精一杯 [726590544]
http://2chb.net/r/poverty/1601620955/ フィリピンのマンガン産出量は、1941年は2万8000トンだったが、日本が占領すると年間200トンに落ち込んだ。
またフィリピンは世界的クロムの産地で4年には14万8000トンを算出し世界2位だったが、日本が占領すると鉱山の火は消えてようやく1万トンというレベルに落ち込んだ。
マレー半島の鉄鉱石も日本が占領すると生産が5万トン以下まで激減してしまった。戦前、日本資本が操業していた鉱山なのに、この惨状とは信じられないことだ。
ビルマも41年に鉛8万4000トン、亜鉛を5万1000トン、タングステンを4200トン、ニッケルを740トン算出していたが、日本が占領するとこれらの産出量はすべてゼロになった。
陸軍が技術者を徴兵してしまい、鉱山に技術者を送り込めなかったのである。
採鉱治金の技術者、熟練した鉱山労働者が兵士として小銃担いで中国大陸を歩き回っている構図だったのだ。
これはすべての重要産業でいえることだった。
その代わりに自称、他称の憂国の士、愛国精神に燃えたる国粋主義者の登場だ。
もちろん年配の鉱山技術者も送り込まれたが、鉱山のことなど全く知らない30代の佐官に怒鳴られたり、小突かれたりしたらやる気を失う。
そもそもが軍政の失敗だ。意味不明の大声を上げて軍刀を杖にふんぞり返る習性はさておき、経済というものを理解しえる軍人がいなかったのが致命的だった。
何の裏付けもない軍票を乱発しては、経済が大混乱して住民をそっぽを向く。
紙切れ一枚で富を得ようとは虫が良すぎる。
38式歩兵銃に代わる、41年に本格的な量産が始まった99式歩兵銃は不純物の硫黄やリンにより、入内な折損事故が頻繁に起きた。
関東工業という民間工場があり、20ミリ榴弾を作っていたが、そこのK社長が日ごろ語っていた
「我々は米国だけと戦っているのではない。帝国陸軍とも戦わなければ、この戦争は勝てない」
彼がそう嘆いたのも無理はない。
民間軍需工場はすべて軍工廠の監督指揮下に置かれていたが、軍工廠は幹部から下級役人に至るまで極端な精神主義に凝り固まり、民間工場から提起する合理的な改善策は容易に取り上げなかった。
次に2例を上げる。
工場建屋をそれぞれ100メートルくらい離して林間に隠し、一方が被爆しても他方で操業が続けられるよう計画したところ、
「軍が北に南にと作戦している中で、いたずらに空襲を懸念するとは何事か」といきり立つ。
榴弾の製造方式を造幣廠では普通旋盤仕様と決めていたが、これをブランシャープ型あるいはインデックス型の「自動旋盤」にすれば、一台で普通旋盤6−8台分の仕事をする。
インデックス型の国産化してこの仕事に充てようと企てたが、これもダメ
「工員が、汗水流して削り出した砲弾であればこそ、戦場で威力を発揮しるのだ。それを自動旋盤に削らせるとはもってのほか」。
このK社長は間もなく解任された。
今や軍の組織が国民生活を根底から破壊していく。
その思いはみな同じだったが、一言でも本音を吐けば、たちどころに身の破滅となる。
軍という武装した暴力集団を批判し、制動する力は、軍の内部はもとより、広く国内のどこにも見当たらなかった。
外国との戦いで軍組織が叩きのめされる以外に解決の道がない。
終戦の今振り返ると、国民は少なくとも帝国陸軍との戦いには勝った。
ニューギニアの死者も、東京大空襲の死者も、沖縄、広島、長崎の死者も、すべてこの勝利を引き出すために、避けることができない人身御供だったのではないか。
生きて帰った特攻隊員を隔離軟禁 旧陸軍「振武寮」 跡地で分譲マンション建設進む
https://mainichi.jp/articles/20201206/k00/00m/040/004000c 太平洋戦争末期、機体トラブルなどで帰ってきた特攻隊員を次の出撃まで収容した旧陸軍施設「振武(しんぶ)寮」(福岡市中央区薬院)跡地でマンション建設が進んでいる。
振武寮を巡っては戦後、元隊員らが「収容中は生還したことを上官に激しく非難され、暴行されることもあった」と証言している。日本が無謀な戦争に突き進んだ日米開戦から8日で79年。
惨禍を語り継ぐ体験者が少なくなる中、戦争遺跡の保存・継承を求める声は各地で高まっている。専門家は、埋もれた特攻の歴史を語り継ぐ必要性を訴える。
振武寮は1945年、特攻作戦を主導した旧陸軍第6航空軍が福岡女学校(現在の福岡女学院中・高校)の寄宿舎を接収して創設。生還した特攻隊員約80人が収容された。特攻部隊の名称「振武隊」が名前の由来とみられる。
公的資料が見つかっておらず設立経緯は不明だが、死んで「軍神」になったはずの隊員が生還していることを隠すため隔離し、次の出撃で特攻を成功させるため再教育していたとされる。
振武寮の存在は旧陸軍の元幹部や元特攻隊員への聞き取りを重ねた記録作家の林えいだいさん(2017年に死去)の著書「陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設」(07年)などで知られるようになった。
林さんは同著で、軟禁状態の隊員らが軍の参謀に「突入した軍神に恥ずかしくないのか」などと面罵され、軍人勅諭を延々と書き写させられたり竹刀で殴られたりした日常を明らかにしている。
つくづく嫌になった日本人の変わり身の早さ
そして8月15日正午、戦争終結を告げる天皇の玉音放送。
「それがね、ラジオの雑音が多くて、陛下のお言葉がよく聞き取れなかった。で、激励されたぐらいに思って、放送が終わってから、それじゃこれから訓練だ、と、平常通り訓練を始めたんです。ちょうどその日、宝塚歌劇団の月組が基地に慰問に来ていましたが、予定通り舞台をやってもらいました。
だんだん、戦争が終わりだ、ということはわかってきましたが、しかし、まだ停戦だ、と。交渉して和議が決裂したらまたやるんだ、そう思って訓練を続けていました。
厚木の三〇二空からも、抗戦の呼びかけの使者が来ましたね。フィリピンに飛ぶ降伏の軍使機を撃墜しろって言うから、そんな、日本の飛行機を墜とせるか、と一喝しましたが。
そうこうしている間に、高松宮(海軍大佐・昭和天皇の弟宮)の使者がやって来て、終戦は陛下の御意志であると。司令部からも飛行訓練をやめろ、と言ってきました。そして、五十嵐司令から、福知山にある可動機を全機、姫路基地に持ってこい、と命じられたんです」
8月21日のことである。進藤さんは、機銃弾を全弾装備して、いつでも戦える準備のできた13機の紫電改を率い、姫路基地に着陸した。
だが、姫路基地で、五十嵐中佐の口から出たのは、
「本日より休暇を与える。搭乗員は皆、一刻も早く帰郷せよ」
という、思いがけない命令だった――。
8月6日に原爆が投下された広島の街は、一面の焼け野原になっていた。進藤さんの生家は、爆心地から南東へ約2.8キロの距離にある。帰ってみると、爆風で壁が落ち、畳や建具も吹っ飛び、柱も「く」の字に折れ曲がったような状態だったが、蓮田の中の一軒家であったため類焼を免れ、何とか人が住める状態にまで片づけられていた。
厳格だった父が、目に涙を浮かべて、
「三郎、ご苦労さんじゃったなあ」
と迎えてくれたとき、初めて涙がでてきた。父子は、抱き合って長いこと泣いた。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/77947?page=7 旧軍人って、嘘をつくんですよ。もちろん誠実な人もいましたが、それ以上に、他人の話を自分のことのように話す奴、自己弁明する奴が山ほどいた。初めのうちは私も本当のことだと思って全部鵜呑(うの)みにしていたんです。ところが、だんだん取材を重ねていくうち、他の証言や記録とかから考えて、コイツがその日時にその戦線にいたはずない、ということがわかってくるようになった。それを指摘すると激高するんですよ。お前みたいな戦争を知らない若造に何がわかる! ってね。それで言い返すようになった。
『あんたはそう言うけど、本当は最前線に出ないで南の島の基地にいただけじゃないか。そのころ俺たちは本土空襲で焼夷弾を山ほど浴びて、死ぬ思いをしたんだ!』。そう言わざるをえなくなった。
↑
今も脈々と続くジャップしぐさ(笑)
大正時代のオシャレさは異常。日本の歴史上最高のオシャレ時代だったろこれ👘【ハイカラ】 [256556981]
http://2chb.net/r/poverty/1615562934/
↓
から20年後の戦時中の若者のファッションはこのダサさ
かっこいい大正に青春だった人は戦時中30代40代だから
若者のダサい服を笑ったら反日老害扱いされた
>近衛日記によると、支那派遣軍総司令部が「アメリカと妥協して事変の解決に真剣に取り組ん
>で貰いたい」と見解を述べたが、東條の返答は「第一線の指揮官は、前方を向いていればよい。
>後方を向くべからず」だったという。
>10月14日の閣議において日米衝突を回避しようと近衛文麿首相が「日米問題は難しいが、
>駐兵問題に色つやをつければ、成立の見込みがあると思う」と発言したのに対して東條は激怒し
>「撤兵問題は心臓だ。撤兵を何と考えるか」「譲歩に譲歩、譲歩を加えその上この基本をなす心臓
>まで譲る必要がありますか。これまで譲りそれが外交か、降伏です」と唱えたという。
一体いつ、東條が英米開戦反対の意思表示をしたんだ?
【日本軍】亡父の中国従軍ノート発見 19ページ、過酷な軍内暴力詳述 [上級国民★]
http://2chb.net/r/newsplus/1615962085/ 日中戦争以降を主導したんは東条率いる東北出身者で構成される軍閥や。
東条、板垣、石原、甘糟など東北出身者が関東軍70万を掌握して、その後ろ楯を得た東条が、政敵の長州閥を駆逐して政権を打ち立てた。
東北人特有の時代を見る目のなさを発揮して日本を滅ぼしたわけだ。
戊辰戦争の時から全く進歩しとらん。
半世紀以上無敗だった長州閥がそのまま軍権を握っていたら上手く時勢を切り抜けたことだろう。
全く残念なことだよ。
東條英機は昭和16年12月8日の開戦の時に、この国難を国民は一致団結で乗り越え、とにかく勝利のときまで戦い続けるであろう、
そういう皇国の精神を私は信じている、ということで戦争指導に当たったと自負している。
だが国民は、そうではなかった。戦争末期は、政治指導者も国民もまだ力があるのに、アメリカ軍の攻撃に脅えて手を上げてしまった。
「聖戦完遂」を叫んだ東條英機……敗戦後に見せた「躊躇なく『私』を選ぶ精神性」
昭和20(1945)年8月10日から14日に書かれた東條英機の手記にはこうある。
然(しか)るに事志と違ひ四年後の今日国際情勢は危急に立つに至りたりと雖尚(いえどもな)ほ相当の実力を保持しながら遂に其(そ)の実力を十二分に発揮するに至らず、
もろくも敵の脅威に脅(おび)へ簡単に手を挙ぐるに至るが如き国政指導者及国民の無気魂なりとは夢想だもせざりし処
之(これ)に基礎を置きて戦争指導に当りたる不明は開戦当時の責任者として深く其の責を感ずる処、上御一人に対し又国民に対し申訳なき限り……
「無気魂」な、つまりこんなに弱い、根性のない国民だと思わなかった。
だから、そういう国民を見誤っていた自分の不明を恥じるといっているのである。
裏を返せば、自分の責任とは、国民の必勝の信念が崩れることを見抜けなかった点にあるというのだ。
要約:俺は悪くない
俺は頑張ったけど周りの奴らがクズしかいなかった
俺の人生破滅だよどうしてくれるんだよ
東條英機率いる大日本帝国軍部の組織体制
・トップからの指示があいまい
・大きな声は論理に勝る
・データ解析がご都合主義
・省益は国益より優先される
・答えに窮すと精神論
・大きなプロジェクトほど責任者がいない
・前例主義
・デベロッパーに対する要求が荒唐無稽
・上層部は配置換えのみでその責を負わない
・詰め腹は現場に切らせろ
・一度開始した作戦は破綻しても止まらない
・たとえ国が滅んでも
おまけ
・占領軍司令に12歳の子供と呆れられるくらい自我がない
アメリカ軍の台詞
日本軍の台詞
東條英機陸軍大将兼首相の「陸軍航空士官学校電撃視察」(昭和19年4月)時の訓示
「敵機は精神で落とすのである。機関砲でも落ちない場合は体当り攻撃をしてでも撃墜するのである。即ち精神力が体当りという形になって現れるのである」
東條英機首相
「戦争は精神力と精神力の戦いであり負けたと認めれば負けであり国土が廃墟になろうとわが身が滅びようと負けを認めなければ負けにはならない」
当時の馬鹿ウヨ
「敵、北より来たれば北条、東より来たれば東条、天意か偶然か、めでたきまわり合わせと存じます。」
1944年に大陸で意味もなく費やされた戦費は全体の57%に達する
12
34
東條英機「日米開戦3年後には日本は圧倒的不利?精神力では日本はアメリカに勝っている!」
http://2chb.net/r/poverty/1638027745/
太平洋戦争末期、日本本土上空に向かう米海軍機=1945年(昭和20年)/(C)共同通信社
大本営発表846回は「嘘と改竄、捏造の繰り返し」だった
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/298577 今だけ無料
真珠湾攻撃で日本中が沸き返った時、戦争開始を伝える「大本営発表」は、まさに国民のカタルシスの象徴であった。
その第1号は昭和16(1941)年12月8日午前6時の発表で、内容は「帝國陸海軍は今8日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」という簡潔なものであった。この日から戦時下の戦況を伝える重要な発表が繰り返された。
そして最後の「大本営発表」は、昭和20年8月26日の午前11時であった。その内容も書いておこう。
「本8月26日以降実施予定の連合国軍軍隊第1次進駐日程中連合国艦隊相模湾入港以外は夫々48時間延期せられたり」
要はポツダム宣言を受諾して日本は敗戦を受け入れたが、それに基づいて日本に進駐してくる連合国軍は、台風のために遅れて入ってくると伝える内容なのである。第1号から数えると、実に846回の大本営発表があったのに、最後はまさに単なる事務連絡で終わったのである。
この大本営発表を子細に分析するとさまざまなことがわかってくる。例えば天皇が戦争終結の意思表示を行った昭和20年8月15日の前後にはどういう発表を行ったか。調べてみると意外なことが判明する。まだ戦争継続中の8月14日午前10時30分に次のような発表を行っている。
「我航空兵隊は8月13日午後鹿島灘東方25浬に於て航空母艦4隻を基幹とする敵機動部隊の一群を捕捉攻撃し航空母艦及巡洋艦各一隻を大破炎上せしめたり」
まだ日本の飛行部隊は交戦中ということになるわけである。
ところが大本営発表は戦時下ではこれで終わり、次は「大本営及帝国政府発表」と変わり、8月21日から26日まで6回にわたり、国民にアメリカを中心とする連合国からの伝達事項を伝えたのであった。つまり大本営発表は、開戦時は戦争に突入したことを知らせたが、その終わりは全く国民に伝えていないのだ。平気で国民に嘘と虚言の戦果発表を伝えてきたことを詫びてもいない。どこまでも国民を侮っていたと言っていいだろう。
846回の大本営発表は、戦争が終わってみれば単に嘘の繰り返しではなく、日本とアメリカの戦力被害を全く改竄して発表したり、単なる嘘ではなく、事実の捏造や作話や、甚だしい時は幻の航空戦までつくり上げていた。
そういう軍人たちに、なぜそんなことをしたのかと尋ねた時、彼らが、「日本人は逆境に弱いから、負け戦を伝えたら聖戦完遂をやめてしまうから」と答えたのには、私も驚いた。 =つづく
東条が悪いですよ。
陸軍次官の時からこの調子。
「支那事変の解決が遅延するのは支那側に英米とソ連の支援があるから
である。従って事変の根本解決のためには、今より北方に対してはソ連
を、南方に対しては英米との戦争を決意し準備しなければならない」
第二次近衛内閣・第三次では陸軍大臣この時期の発言は相当力持ってただろうね。
東條英機の憲兵政治に国民は恐怖を抱くことに…(C)共同通信社
大本営発表のカラクリを見抜いた英国チャーチル首相
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/298824 今だけ無料
戦時下の日本社会では、空虚な言葉と言語が幅を利かせていた。帝国議会では何一つ具体的な内容はなく、ひたすら皇国の優秀さを繰り返し、互いに満足するという光景が演じられた。海軍出身の財界人である伍堂卓雄(貴族院議員)が、この戦争の現状や将来をどのように想定しているかと質問した(昭和18年2月)。東條は次のように答えた。
「一億同胞が必勝の信念を堅持して、光輝ある我が国体観に徹して、この大戦争を戦いつつある今日におきましては、私は敵側のいかなる思想、また宣伝、またいかなる謀略等も乗ずるの余地は、根本的にはないと確信しているものであります」
そう言って「帝国の大本営発表がいかに正確無比であるかは、これは世界周知の事実であります」と言い放った。これがいかにごまかしの答弁であるかは戦時下、そして戦後も詳しく検証されている。大本営発表はどこの国にも負けないほどの「真実」を公表しているのであると言った時、この国はある錯覚の中に入り込んだのであった。
つまり軍事指導者の最高位の者が、大本営発表は真実の言語空間と断じたのである。この発表と異なる認識、理解、さらには戦果を口にすることは、デマを飛ばす不穏分子として逮捕されることとなったのだ。東條の憲兵政治はこの逮捕から使われるようになり、国民は恐怖を抱くことになったのである。
大本営発表が真実であり、これに反く情報は全て虚報という意味を846回の大本営発表の文章で検証すると、いくつかの戦争病言語ともいうべき表現に気がつく。私見では「主観的希望の語が客観的事実に転化していく」のである。前述の東條の「大本営発表がいかに正確無比」などがその例と言っていいだろう。
このカラクリを見抜いたのは、実はイギリスの首相であるチャーチルだった。チャーチルは文学者としての資質を持っていた。日本の歴史や文化、それに言語などには全く精通していないと言っているが、戦争(特に暗号解読)を通じて日本語の弱点を見抜いたのである。日本語は全く曖昧であり、何を言わんとしているのかが定かでなく、ヨーロッパ文化で育った者にはどうにもつかみどころのない言語体系を持っているとしか思えない、ともその著(「第二次大戦回顧録」)の中で明かしている。鋭い分析であった。(つづく)
大東亜戦争の目的は、蘭印の石油とボーキサイト
なぜかというと、陸軍始まって以来の「天才」永田鉄山が言ってた。
「資源自給自足と国家総動員体制を確立すれば、皇軍は不敗である」
東條英機らは、こんな発想で大東亜戦争を起こした
南方資源地帯をとれば不敗だから、卑怯な騙し討ちやらバターン死の行進やら戦争犯罪やりまくっても平気だ
不敗体制を確立したんたから、あとはどうとでもなる。今度の戦争は百年戦争だ!
なお、「不敗」のはずが、現実はたった3年で無条件降伏だったとさ
辻政信の偽命令のためのニューギニアで10万人以上の日本軍兵士が無駄死にした
東条英機の決まり文句だな
「10万の英霊に申し訳が立たない」
そうやって大東亜戦争にもっていった。
父親がニューギニアに行って帰って来た、マラリアにかかったせいか私は父親が爺になる頃に生まれた
近衛師団だったが戦況悪化でニューギニアに送られて一年半は居たらしい
トラックで物資の輸送をする部隊、ジャングルを走り回ったという最終的に米軍の捕虜になり生還、父親は中尉だったのでその部隊20人くらいは無事だった
それから巷で言われる残虐な行為については嘘だと思う、朝鮮人の部隊がやらかしたのかもしれないが
父親の部隊はニューギニア人に歓待されて豚肉を食べさせて貰ったそうだ
>>66 米軍の保護にということはニューギニアではごくわずかなので、ホーランジアであっさり捕虜になったのかな。
残虐行為やりまくってるのはニューギニアの殆どを占める豪軍担当区域だから、まあそうなるな。
敗戦後に軍人が撒いたデマビラが発見される。「天皇陛下は捕虜にされて沖縄に連れて行かれた!最後の一人まで徹底抗戦して死ね!」 [389326466]
http://2chb.net/r/poverty/1691711366/ 旧日本軍、略奪をマニュアル化していた。現地住民が隠した物資を見つけるコツを指南 [545512288]
http://2chb.net/r/poverty/1691686393/ 近衛の方針をはねつけて中国への「永久駐兵」を言い張った東條
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/311065 10月12日の近衛首相と4人の閣僚の会議は、対米交渉がまとまるか否かの論争でもあった。近衛と豊田外相は交渉に望みを
かけるべきだと言い、東條はそれに猛反対した。海相の及川は特に発言することもなく、総理一任の姿勢に徹していた。結局、
最も象徴的なやりとりは次の文言の中にあった(これは「日本外交史 23 日米交渉」加瀬俊一からの引用)。
外相「(交渉の成否は)条件次第だ。最難点は駐兵だと思うが、陸軍が従来の主張を一歩も譲らぬなら、妥協の見込みはない。
多少の譲歩はしても良いということなら、成立の見込みは絶無とはいえない。率直に言えば、御前会議決定は軽率だった。」
陸相「駐兵は陸軍の生命だから一歩も譲れない。所用期間は二、三年では問題にならぬ。所望期間は永久と考える。そもそも
撤兵を主体とするのは誤りであって、退却を基礎とすることはできぬ。陸軍はガタガタになる。」
首相「この際は名を捨てて実をとりたい。自分は飽くまで交渉を選ぶ。それにもかかわらず戦争をやるというなら、責任は取れ
ない」
この3者の意見は見事なまでに食い違っている。つまり近衛内閣は、東條のこの常識はずれの発言に振り回されている。
近衛は、歴史的にはいろいろ批判されることも多いが、自らの首相時代に日中戦争が起こったことにも責任を感じていた。
それだけに駐兵はできるだけアメリカ側の要求に沿って進めていき、一定の期間がくれば撤兵というのは当然と考えていたのである。
そうした近衛の思惑を侮辱するように東條が永久に撤兵しないなどと言い出したのは、この交渉を壊すだけでなく、近衛内閣を
つぶして新しい内閣で戦争政策を進めようとしていたのではないかとさえ思われるのであった。この荻外荘会談の2日後、閣議の
前に近衛は東條を官邸に呼んで撤兵への再考を促した。東條は相変わらず、この問題では譲れない、永久駐兵でなければなら
ないとはねつけた。近衛は懇願するように、国家は時には相手の言い分も受けなければならない時があると諭した。東條は、
それでは軍の士気が下がると応じている。
東条英機は「10万人の英霊に申し訳ない」で軍人240万人を死なせた
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/311133 東條の妥協のない戦争への論理は、閣議でも声高に叫ばれ、対米交渉を継続しての解決は無理であることが確認された。
近衛を小声で励ます閣僚もいたが、東條の戦争むき出しの言には、恐怖を感じるほどだったとの証言も私は確認した。
なぜ東條はこれほど露骨に対米交渉を壊し、9月6日の御前会議の決定を守れ(すなわち対米開戦)というのだろうか。
私は次の世代として、東條の人物像を確かめるために評伝を書いたことがある(昭和57年に刊行)。その取材で東條周辺の
人物や海軍、政界、官僚などに数多く会っている。そこで分かったことだが、東條の性格は一本気で、妥協とか譲歩、果ては
自省などに欠けていた。
加えて他人と議論する心理的余裕に欠けていることも裏付けられた。自分の属する集団の価値観にこだわり、国家的な
視点もないことを周辺の軍人でさえも指摘していた。
東條は近衛内閣の一員として、近衛を支える意思はなく、陸軍の強硬派の意見(自らもそれに賛成だったとなるわけだが)
を代弁することこそ、自らの役割だと信じていたのだ。東條は近衛や豊田外相、及川海相らの交渉継続派の説得は、自分や
陸軍の考えを否定する行為だと受け止める性格であった。だから近衛との対話では「ときには清水の舞台から飛び降りる覚悟
が必要だ」と言ったり、慎重な見方に傾く近衛に「性格の相違ですなあ」と言ったり、国事の重要事を話し合っているにもかか
わらず、個人的な性格で事を処理しようと試みていたのであった。
河本 大作(こうもと だいさく、1883年(明治16年)1月24日 - 1955年(昭和30年)8月25日)
大佐で関東軍参謀時、張作霖爆殺事件(1928年 - 昭和3年6月)を起した
河本がその後、東京に戻ったとき、のちの総理大臣の東条英機が、「河本さん、よくやった」と言って、握手している。それが当時の軍人たちの共通理解でした。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/89124?page=3 「満州某重大事件 張作霖を爆殺した関東軍のどす黒い目的」
しどい国だ
http://shidoi.com 大日本帝国の国家予算に占める軍事費の割合がすごい。これだけかけて出来上がったのがあの軍隊なのか… [535650357]
http://2chb.net/r/poverty/1627660230/ ニューギニアやばい
レート 皇軍死 連合軍 戦場 敵将
115.8 *11000 ***95 シッタン作戦 スリム
*62.9 *10000 **159 ホーランジア マッカーサー
*25.7 *21100 **820 ミンダナオ マッカーサー
*24.4 *11000 **450 アイタペ マッカーサー
*22.1 *79261 *3593 レイテ マッカーサー
*21.2 *10000 **471 ビアク マッカーサー
*19.3 205535 10640 ルソン マッカーサー
*19.1 *10000 **524 ニューブリテン マッカーサー
*18.8 *16533 **881 ラングーン陥落 スリム
*17.1 *14300 **835 ビサヤ マッカーサー
*16.1 *20000 *1243 ブーゲンビル マッカーサー
*15.9 *10000 **628 ラエ・サラモア マッカーサー
*12.9 *72480 *5633 インパール スリム
*11.4 *12500 *1100 レイテ沖海戦 マッカーサー、ニミッツ
*8.71 *30000 *3441 サイパン ニミッツ
*8.71 *18500 *2124 グアム ニミッツ
*6.96 *83737 12031 満州日ソ戦 ヴァシレフスキー
*6.36 *21000 *3300 ギル・マーシャル ニミッツ
*5.45 110000 20195 沖縄(海戦含む) ニミッツ
*4.58 *10695 *2336 ペリリュー ニミッツ
*4.36 *31000 *7100 ガダルカナル(海戦含む)ニミッツ・ゴームレー
*2.64 *18000 *6821 硫黄島 ニミッツ
*1.08 *10000 *9703 ノモンハン事件 ジューコフ
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