「横浜から東京までの約30キロの区間は、爆撃で街は完全に破壊されていたよ。工場も完全になくなっていて、石段しか残っていなかったね。
横浜港の施設が部分的に爆撃を免れていたのは戦後に私たちが利用するためだったんだ」
マイケルさんが次に聞いたのは、占領期に最も大変だったことは何だったか、という問いでした。祖父はこう答えました。
「日本人の住宅に踏み込み、銃や刀などの武器を没収する任務はつらかった。住民を武器で脅して追い払いながら、土足で住宅に踏み込まなければならなかったんだ。それが任務だったからね。
ただ、理解してもらいたいのは1か月前まで、日本人と戦争をしていたにもかかわらずほとんどの兵士たちは、穏便な形で任務を遂行していたよ。アメリカ人はゲシュタポではないからね」
「私がドーザー・ブレード付きの戦車を運転しているとき、道路に散らばった石やれんがなどのがれきを素手で撤去している日本人の老人や女性、それに小さな子どもたちがいたんだ。私が戦車のブレードで、がれきを撤去してあげると彼らはびっくりした様子だったけど、私に向かって手を振ってくれたよ。
その日は2回、同じ場所を通ったので、そのたびにがれきの撤去を手伝ったんだ。すると、そこにいた日本人たちがみんな笑顔になって、私に手を振ってくれたんだよ」
「翌日の昼ごろ、同じ道路を再び通りかかったとき、前日に出会った老人が近づいてきて、私に白米のおにぎりが入った紙袋をくれたんだ。
あとで日本人の通訳にそのことを話すと、通訳はびっくりしていたよ。『白米はとても不足していて日本政府の配給が3か月も滞っているのにプレゼントしてくれるなんて』ってね。
私はとてもうれしくなって、その通訳と一緒に、おにぎりをいただいたよ。いやぁ、あのおにぎりはうまかったなぁ」
「ありがとう」「さようなら」
「その後、私は仲間の兵隊たちから軍隊用の缶詰めの食料をたくさん分けてもらって『これは冷たいままでも食べられるけど、温めたほうがおいしい』と通訳に日本語で書いてもらったメッセージを添えて、おにぎりをくれた日本人たちにお返しをしたんだよ。
すると、当時は食糧不足だったから、彼らは笑顔でとても喜んでくれて、私も、大きな笑顔を返したんだ。これがきっかけで、私はその後も日本人とはとてもうまくつきあうことができるようになったよ。
そうそう、通訳が最初に私に教えてくれた日本語は『ありがとう』と『さようなら』だったな」
https://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2018_0907.html