前出の斎藤は、まるで未来を予見したように、このように述べている。
「「現代の社会では障害をもつ子どもはけっして幸せになれないし、
親自身も不幸である」という固定概念に縛られた現状認識が
根強くはびこっている状況のなかでは、けっきょくは人間が
人間の生命を管理・選別していく巨大な流れに巻きこまれていく
可能性は大きいのではないだろうか」
「できるだけムダを省き、より効率的で、論理整合性のある
合理化体制をめざす志向に突き動かされて、その流れに
さからう異端の存在や、役に立たない弱者や劣者を
切り捨てながら、不気味な歯車が回転していく危険を、
私たちの社会ははらんでいるようだ」
斎藤の指摘は、さらに加速度を高めて進行している。
合理的でないものは排除しよう。異端は拒絶すればいい──
障がい者に対してのみならず、こうした排他的な考え方が
社会に蔓延っているのが、現在の日本の姿だ。
そもそも、ダウン症の子どもが一定数生まれることは生物学的には
自然なこと。新型出生前診断を受け、中絶を選んだ妊婦の悲しみも、
生むことを選んだ家族の困難も“個人の問題”などではなく、社会が
背負うべきものではないのか。ダウン症の子どもが生まれても
幸せにはなれない。そんなふうに諦めてしまう世の中を
つくりあげているのは、ほかでもない、この社会の貧しい体制にある。
https://lite-ra.com/2014/07/post-278_2.html やまゆり園事件前の記事は示唆に富んでいる