織田との縁を切り、朝倉義景の救援に駆けつけるも、
朝倉からも軽く見られ、信長包囲網を断られ、
孤立無援となってしなった名将・浅井長政を語りましょう!!
長政以外の浅井家、妻・お市、長政の関連した事象、何でもおkです!
こちらはテンプレ不足の失敗の方らしいので、放置してください。
朝倉と浅井の関わりは織田と松平と同様で
同盟ではなく従属のような関係だったとも言われているな
亮政時代(創業期)からのものだから累代のものと神格されたのか
後の佐々木(六角)氏や織田氏のものより重く見られたとか。
会話が成り立ってないな…
こっちに書いてる人は一人か?
重複スレには書き込まない方がいいぞ
茶々の肖像画も、でっぷり型だな。
そういう家系なのか。
>>11
事情が分からないが、先に立ったのはこっちでしょ
重複とはこれいかに。 長政は古くからの盟友朝倉を見捨てることが出来ずに仕方なく信長を裏切ったというのは創作だろうな
長政も所詮というか生粋の戦国大名だったんだよ。そこには野心もあり気骨もあった
>>10
秀頼君がデブったのは、城内に閉じこもってろくに運動していないからで
家系はあまり関係なさそうだがw あと隠居させたはずの久政が、信長を裏切るときに出てきてる
これは家中が朝倉派・尾だ派で分裂していたことを暗示させる
>>1-16
君をからかうのは本当に面白い^^
こっちは何もしてないのにここまで事態が発展するとは。
これからも楽しませてもらうよ^^ >>10
そういえば秀忠の子供たちにピザがいるとかいう話は聴かんね。 >>16
死に体の久政が発言権を維持できたのは、やはり浅井は国人の連合体だったのだろう。
京極討伐の時には亮政が担がれ、六角が脅威になると久政が担がれ
朝倉や織田とのコネが出来ると長政が担がれやがて織田が邪魔になると
再び久政が担がれる。淀も豊臣に担がれたし最終的に徳川史観は浅井家そのものを担いだ
滅亡してなお、これほどまでに利用されまくった家も珍しい そう考えると浅井は部下に翻弄された家なんだな・・・
浅井井頼は、浅井氏一族の浅井井規の息子だったと思う
この系統の浅井氏の通字は「井」だった
浅井井演−浅井井伴−浅井井規
本家浅井氏の通名は「政」だったので「井頼」なんて名前は出てこないと思う
いひろ-いとも-いのり
この流れだったっけね。別名が政賢とか政信とかいうあたりはどうしよう。
甥なんだろうか。
最後の「いのり」が主君の「ながまさ」裏切った上に信長にも処刑された恥さらしだからな
「井」一族の痕跡を消したくて、井頼が「政」名義の名前を名乗って
誤魔化そうとしたと予想する
予想でしかないがな
別名の「賢」と「政」が六角・浅井に絡むのが気になるね。
平井氏との間にできた庶子で井演家に養子に出されてた、という妄想もできる。
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_ノ'' :;;;,, :: iirヾ=ツヾi !
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| .i ヾヽ ...::::::::...::: i i
近江浅井氏滅亡後の浅井庶流の事績については、尾張一宮出身の浅井と混同して伝達してる可能性はある
井頼が大坂の陣で生き延びた説は、
京極家中に浅井作庵って人がいるから、出てるのかな?
信長が美濃も入手してないうちに
浅井長政に婚姻を持ちかけてた話が本当だとしたら、
長政は「尾張の大名と婚姻した」程度にしか思ってなかったのに、
それが後々に事実上の従属という意味だった事に気づき呆然としただろうね。
信長と家康との同盟も最初は対等だったが、
のちに自然な形で徳川の従属という事になったが、家康は柔軟性あった。
それに対して長政は柔軟に対応できなかったのね。
大坂城に入城した浅井井頼が浅井長政の子だとしたら
淀にとっては兄妹(姉弟?)としてかなり厚遇されるはず
末期の大坂方は、かつての豊臣・浅井の敵である織田信雄を総大将にしようとするくらいだから
井頼が仮に長政の子ならば、確実に担がれただろうがそれもないし
まして大坂開城後に作庵として生き残るのは難しいのではないかと思う
>>34
賢政から長政の名前変更が、仮に信長の一字を拝領したとするなら
長政は早期の段階で織田に従属したと考えられるかも 長政が家督を継承した後も、久政の政治的発言力はあった?
>>37
余裕であったよ。
久政は家臣たちに強制的に隠居を迫られて、一時期は幽閉されたみたいだが、なぜか復活して政治に口出しできるようになったらしい。
しかしこれがかなり謎なんだよね。 >>39
それはありえない。久政は器量がないから家臣たちは久政を強制隠居させて、長政に家督を譲らせたんだから。
長政は有能だと思われてた。
誰かはわからないけど…家臣に強制隠居させられたという記述はある。
「江北記」にこの辺の詳細な経緯が書かれてまして、このあと承禎がキレて野羅田合戦に突入
…という訳ですが、オレは野羅田自体が本当にあったのかどーかを懐疑的に見てるので、
「江北記」の記述全体には釈然としないものを感じます。
しかし久政隠居劇に加わったとされる上の連中が、
やがて長政を盛り立てて歴史の表舞台に登場して来ますから
あながち嘘という訳じゃないでしょーね。
野良田合戦は普通にあったんじゃないの?
と言ってみよう
合戦というより小規模な睨み合い程度じゃなかろうか
腐っても佐々木本家だしね
IP晒しても、何の不都合も無いし
自分で依頼した方が確実だと思うんだが。
>>54
実権はともかく名目は取りきれていないんだよなあ。 いっそこのスレは
浅野長政総合スレにして再利用したら?
一回京極の立場から、浅井の関係を整理するね(名前がかわる人は一つの名前で統一します)
永正二年(1505)京極高清が北近江統一
(家臣や叔父との確執で、一時甲賀や越前に逃れていたが、上坂家信を味方として統一)
大永三年(1523)上坂家信の子信光の専横を恨み、高清と子の高延の対立に乗じ、
浅見貞則、浅井亮政、三田村忠政らが高清と子の高佳を追放
高広を近江守護に擁立
この後
浅井亮政らが、浅見貞則を追放、浅井亮政が実権握る
天文十年(1541)この年より、京極高延、浅井亮政と争うが敗れる
天文十八年(1549)両者和議、北近江支配権は、完全に浅井に
高吉=高佳と言いたいところだが
某事典では、高秀の子になってるんだよね
この高秀=高清なのかどうなのか
高峰、高秀がよくわからない
>>63
33 名前:削除科医師 ★[sage] 投稿日:2006/08/03(木) 23:00:40 ID:???0
「【上杉家の特徴】〜」のコピペは無視して流してください。
「愛知の〜」は削除しました。
>【忠】小早川秀秋にカッコイイ台詞を言わせる【義】
一部削除。残したものは無視しておいてください。
>戦国武将になりきるスレ その4
無視して流してください。
>888 浅井長政総合スレ 888
スレが重複しているようですね。
重複スレに対してスレ削除依頼を出すなどして、
本スレ一本化させてください。
本スレ一本化するまで、レス削除は控えます。
以上、ここまで診ました。
925 名前:木戸隆一 ◆OfMtr4G69c [sage] 投稿日:06/08/02(水) 22:01 ID:TsJqSGJk
>>916
完了です。http://qb5.2ch.net/test/read.cgi/saku/1143057738/209
次回からは騙り防止のため、トリップをお願いします。
>>915 >>919
判断に迷ったので、代行は見送り、他の代行人の判断に委ねます。
>>920-921
本人からの代行依頼があった段階で検討させていただくこととします。
m9(^Д^)プギャー 違うよ〜〜〜爺まとめきれず死んだ!ぱぱ大親分(六角)に家臣化してしまう。
子供がんばる。勝っちゃって!大親分から格下げ。子供がんばる。京極しにそう。
そいで手を差し伸べる。家臣化させるため。裏切りそうだから、めんどくさいから一族にしちまった・・
結果的には浅井が強くて婚姻。でも浅井パパ時代弱虫。京極にビビッてた。
婚姻時期は、浅井せがれ強虫。
馬鹿にした文章のせいで意味がわからない
家臣化なんて浅井氏の立場で言い出せるものでもなかったしな
京極が信長に匿われた時点で、浅井家は京極の直臣から織田を介して陪臣格に成り下がり、
江北支配の名目を喪失したという見方が出来るかもしれませんね。
憶測ですけれど、京極―織田―浅井というラインが出来たと仮定するならば、
早期の同盟も「長」の偏諱も説明が付くような気がします。
あと、上で書いた「江北記」は「江濃記」の間違いっす;;;
名分としての佐々木氏を内包する意味があったと思うんだけどダメっすか。
ごめんなさい読み違い。
織田が京極を掲げて浅井を従える、でよろしいね?
自己訂正。
実際に京極が信長を頼る時期はもっと後になりますから、上のは我ながらおかしな推論でした。
「上洛前の義秋を介して、京極と織田が積極的に京極―織田―浅井ラインを作ったとするなら」
と訂正しときます。
・四職京極氏に対して信長は家格で敵わない。
・浅井は1550年代までは京極家臣であり続けた。
で、よろしいか?
少なくとも天文二十二年十一月の地頭山合戦までは京極氏の家臣すね。
亮政死去までは確定すね。
小堀遠州の親父とか見ると、京極氏と浅井氏はかなり血縁も濃いような。
東浅井郡志など系図上の直接的な血縁は>>67くらいしかありませんが、なるほど。。。 わかりにくいやりとりだが
半従属を含めても浅井氏は独立した大名だったことがない、ということかな
亮政:京極氏
久政:京極氏→六角氏
長政:六角氏→京極氏→朝倉氏
こんな感じで名目上の主家を推戴して半独立の大名だった、と
世代的には高吉なら信長と結んだときの名目として成り立つんじゃないかな。
すぐに朝倉氏に移行してるけどね。
高吉って、足利将軍近習→子の高次は織田家臣と思うが
長政が家督を継ぎ、六角を破ったのは永禄三年(1560)
当時高吉は京で、義輝将軍に近侍している
永禄八年(1565)義輝横死後に、覚慶→義昭は近江、若狭、岐阜と移るわけだが、
高吉は彼のために奔走した
さて高吉はこの間近江に在国していたのか、信長の上洛以降に名目的当主となりえたのか?
長政への改名が1567年頃とされている。
また足利義昭は義輝横死直後の朽木ですぐに織田に救援を求めている
斎藤がいたからすぐ上洛出来なかったが義昭と信長の接点は早くから出来てたので
そこから高吉と信長の接点が生まれたのでは?
長政の改名には他に根拠らしいものってあるのかな
>>84の 四行目 若狭と岐阜のあいだに越前が抜けていた、ごめんなさい
>>85
長政改名はよくわかりませんので、ごめんなさい
高吉が介在しなくても、信長と義昭の接点はあって、
又、高吉の主君はあくまでも、義昭なわけですからね
私が言いたかったのは、高吉がずっと小谷の京極丸にいたのかな?
義昭に同行してるんじゃ?ということ
マリアはいたのかな、高次や高知生まれてるし
>>86
高吉は京極丸に供応した記録がありすくなくとも大永年間のその時点までは小谷に居るね
長政の長の字がどこから来たか、市との結婚から織田一門化?
京極>織田>浅井で織田の家臣化?
名目として織田が京極を推戴するという考えは納得出来る
京極と織田の関係が強まれば浅井の立場はどんどん弱くなるし
長政が焦りを覚えるのも無理はないね
ただ名目としての京極がどこまで権威として働いていたのか・・・
>>87
天文3年(1534年)亮政が、京極親子(高清、高延か?)を饗応したともあるね
高延=高吉なら問題ないけど、どうなんだろうね
もしそうだとしたら京極丸→義輝近習の流れがよくわからない 若干憶測を交えながら、久政・長政と京極等を整理
1542 亮政死去、久政相続(京極高佳は京極丸にいると推定)
1546 義輝将軍に
1549 京極高延(高広)と久政和議(高延がこの後どうなったかは?)
1559 賢政元服(この頃までに、久政が六角に従属)
(これ以前に高吉(高佳?)は義輝に近侍?、京極→六角に主家が替わったためと推定)
1560 野良田で、賢政(名前がこれでいいかどうかは別として)六角に勝利、久政から替わり当主に
1565 義輝将軍殺害、高吉、義昭とともに諸国をへて岐阜へ
1568 信長、義昭、上洛、高吉も従う
1570 姉川合戦、この年京極高次、信長の人質に
1573 小谷落城
>>92
おお。お疲れ様です。
今はなんもないんですねえ・・・ 【謙信最強は創作】
謙信が戦国最強の武将(軍神)とされたのは、江戸時代の創作ですね。
武田の甲州流兵学が幕府公認となったので、紀州徳川家(頼宣公)が
上杉流兵学(軍記書)を宇佐美定祐に作らせたというのが最新の学説です。
臼井城攻めの失敗など謙信が敗北した合戦も、複数の史料で明らかになっています。
※謙信自身が敗北を認めている書状↓
晴信年(念)を入れ、いかにも堅固ニしらわれ候間、落居さうなくつき堅候、
併馬を為寄候上者、善悪ニ不及候間、無ニセめへきそうふんにて、当月七日より
取詰候ヘ共、(中略)佐(佐竹)・宮(宇都宮)を始、弓矢かいなくわたられ候、
房州(里見)・太田いくさにまけ(第二次国府台合戦)候時よりも、たゝいまきうくつなんきニ候、
とかくこのたひハかた〜〜にあふへき事いかんなるへく候やと、心ほそく候間、
早くはりをやるへきために一昨夜ハちゝんをやり候ヘは、めのまえの者ともはらを
たて候て、うたてしかり候、これ又よきなく候へ共、さゆうなくゆたん候へ者こと
のひ候てきうしくちおしく候(中略)
かいほつ又ろう人のうちに一両人ておい候、さセるきなくうすてニ候、返々
いつもよりかへり(帰り)たく候間、このたひハおつと(落ち度)あるへく候やと
心ほそく候、
永禄七年三月十三日 虎(花王)
[三洲寺社古文書]
【上杉家の歴史】
上杉謙信が小田城を攻め落とした時、小田城下がたちまちにして奴隷市場に早変わりし、上杉謙信自身から差配して人の売り買いを行った。
奴隷の値段はひとりあたり20〜30銭の安さだった。
1561年(永禄4年)、謙信は関東管領の就任式で忍城城主成田長泰の非礼に激昂し、顔面を扇子で打ちつけた。
諸将の面前で辱めを受けた成田長泰は直ちに兵を引きいて帰城してしまった。
原因は諸将が下馬拝跪する中、成田長泰のみが馬上から会釈をしたためであったが、成田氏は藤原氏の流れをくむ名家で武家棟梁の源義家にも馬上から会釈を許された家柄であった。
だが、謙信は無知でこの事を知らなかった。
この事件によって関東諸将の謙信への反感が急速に高まり、以後の関東侵出の大きな足かせとなった。
上杉謙信は臼井城の原胤貞を攻めた際、数千の死者を出して逃げ帰っている。
これを機に由良成繁が上杉謙信を見限って離反。
長野業盛が武田信玄に攻撃により滅亡。
臼井城攻撃に失敗した謙信は
信玄に箕輪城を奪われ氏康に金山城を取り込まれてしまい
とうとう厩橋城までもが謙信の手からこぼれ落ちた
上杉家重臣の北条高広も上杉家から離反。
謙信の関東経略は失敗し北条家と同盟という救いの手に助けられる。
謙信の死後、養子の景勝(謙信の姉の子)と景虎(北条氏康の子)が後継者の座を巡って内紛を起こし、越後を二分した争いは天正7年(1579年)の御館の乱で景虎が討死する事により景勝が勝利した。
しかしこの内乱によって、上杉家家臣の新発田重家は離反し、柴田勝家率いる織田勢は能登や加賀、越中に侵攻して同地を1581年までにほとんど奪ってしまった。
つまり、謙信が築き上げた勢力は、この内乱によって完全に失われるとともに、上杉氏は大きく衰退してしまったのである
本能寺の変の直前には、柴田勝家が率いる方面軍に越中の城は次々と落とされ、
信濃からは森が、三国峠からは滝川がと、三方から侵略を受けて防戦も無理な状態だった。
新発田氏の反乱で越後国内はボロボロ。 反乱を鎮圧する力さえも残っていなかった。
景勝自身も死を覚悟しており、本能寺の変が無ければ上杉家は数ヶ月後に滅亡していただろう。
水戸の老臣に岡崎氏っているのは知ってたけど、正直三河人だと思ってた。
渦中さんの問いには、「信憑性より夢を買いましょう」ということで。
稲葉は詳しくないのでアレですが、まず稲葉光通の父が貞通であり、光通の子が一通としてることから
光通は二代臼杵藩主の稲葉典通の変名であることが推測出来ます。
それが正しいかどうかはともかく「寛政譜」などを見ると典通の母は斎藤道三女としてますし、
また貞通の室を見ても織田信秀女、前田玄以女とあるだけですね。
次に典通の兄弟姉妹の内、母方を見てみると…
典通…斎藤道三女、臼杵藩主
女子…斎藤道三女、赤座弥助室
女子…某氏女、中坊秀政室
秀方…織田信秀女、忠次郎、逐電す
通孝…織田信秀女、修理亮
某……織田信秀女、大学、早世
女子…織田信秀女、織田(三吉)信秀室
女子…織田信秀女、柴田勝豊室
このように朝倉の「あ」の字も出てこないっすね。。。
さて今度は朝倉方を洗ってみましょう。醍醐水本報恩院「日下部系図」に義景公の妹として
女 妙雲、稻葉酒通室────────弘景 初ハ稻葉喜菴光通後ニ東菴」
とあります。しかしこの系図は義景公の弟に愛王丸を挙げてたり、
また上記の記述も他の系図には認められないことから少し注意が必要かも知れません。
一般に知られる始末記の「日下部氏朝倉系図」には、義景公の妹として大野三河守室が知られており
浅羽本「日下部系図」に至っては義景公の兄弟姉妹を伝えてません。
系図以外に傍証が得られる史料がないので、要はヨクワカンネということです(笑
ぅゎぁぁぁ…誤爆。。。
さて岡崎安休ですが母は某女。久政が井口弾正女を室として迎えるにあたり
母は浅井を辞して山科本願寺に身を寄せ安休出生、最初は顕如の乳兄弟として富樫氏を名乗ったそうです。
安休が准如の使者として伏見の家康を訪れるうちに、縁あって娘(勝安寺樹珍室)が水戸頼房の乳母となり
やがて娘の子綱住が水戸家に出仕、家康から岡崎姓と1000石を与えられた、と。
岡崎家に伝わる話だそうです。。。
信じられねっす。
顕如の乳兄弟までくらいなら許してもいいけど。
ネタ本持ってるんすけど、著者の久保田氏はその説の出典を明らかにしてないんすよね。
巻末の参考文献もアレでしたし。ただ岡崎氏の系図(綱住以降)は「子孫の方に取材した」として
ちゃんと載せてました。
49 朝倉渦中feat.パストマスターズ ◆0Uj4ASAQRA sage 2006/08/31(木) 22:44:53 ID:Jdmy5NuN
朝倉家臣に荒川氏など寡聞にして知らないっすね。
朝倉氏研究者も例の系図の当該箇所だけじゃ検証しようがないんでしょう。完全にスルーしてます(笑
ってことで、稲葉ウアーの系図に期待しましょう。
50 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. sage 2006/08/31(木) 22:57:00 ID:VKrZFCt9
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/inaba_k.html
とりあえず叩き台に持ってきますた。
51 朝倉渦中feat.パストマスターズ ◆0Uj4ASAQRA sage 2006/08/31(木) 23:21:45 ID:Jdmy5NuN
また誤爆してしまいますた。。。
稲葉ウアーの系図に期待って言ったのはあっちのスレで出てた光通に関することですた。
・・・ちなみにこんな流れになってます。誤爆の連鎖。 「あっちのスレで出てた光通に関すること」とは史板の浅井・朝倉スレだったりするのです。
もうワケワカンネ。。。_| ̄|○
類従本の越智稲葉ウアー系図に光通と義景公を繋ぐ何かがあるらしいっす。
天国より・・あんときあーしとけば・・・折れ長政。
思い起こせば・・1559年くそ親父を京か越前にぶっ飛ばせばよかった。カーちゃんにナガりん起こられたんだ・
・・
オレの家臣
爺の垢雄・解放は強いやつ。解放頭も賢い。垢お強いそこらじゃ有名。
上品なの安養寺こいつは外交担当。
若くて津甥。磯野こいつは最強。でもおれもっと最強・・ウフ
一番信用できるの。遠藤
いい部下いるけど・・・親父が使えない。殺しとけばいかった。
初陣で奇襲で六角やっつけたけど・・・まだやつらげんきでよ〜〜〜〜
親父の時代に取られた領地取り返しただけで・・本当は便ボーひななしのB
その後さ・・六角のおっさん・・京都に三好とけんかしにいってさー
損時に、一度美濃半分くらいてにはいりそうだってけど・・・
オレ当時若くて・・
稲葉・氏家・安藤とさきに話しとけばよかったのに・・たたかってしまった
ちょうりゃくつかってたら・・居間ごろ・・美濃半分は内のもんだったんだぜ・・
六角京都から帰って組んだもんよ・・六角あたまくるよ。三好と同盟結んどけば
いかったよ・・おい知なんかより・・三好あたり女のほうがあんときは・・出世できた。
内にあわててひきかえした・・
次のチャンスは・・六角子供・・おれのタメガさー
いきなり後藤の親父ころしてさー
あのときも実は・・うちの安養寺が、後藤の家、出入りしていることを
わざと義治の耳に入るようにしたんだ・・・まさか殺しちゃうとは・・
家臣はなれて・・半分近くオレの家来になりたいっていいはじめて・・
あんとき徹底的にやっとキャ良かった・・したら近江一国手に入って
織田と対等近くいけたたのに・・・
戦わないで半分の家臣希望の奴使って・・全員引き抜こうと思って(今回頭つかったんだー♪)
六角の領地も少しけずってふやしたから・・・とりあえず満足しちゃった。
結果時間かかって・・蒲生の爺さんが・・変な感じで家臣まとめちゃうし
おれんとこ来ないで、六角のとこでもう少しがんばるって皆いいやがった。
その間にオダワ美濃とっちゃうし・・・将軍朝倉の家飛び出しちゃうし・・
勢いに乗れなく・・織田の勢い怖くておい地もらって・・・家臣ぽくなってしまいました。
西美濃・近江1国あったらな〜〜いけたのにな〜〜〜
半ベーに土下座してでも・・家に来てもらえばよかった・・・・
後は親父を殺さなかったオレの失敗。
, -‐''''"´ ̄``ヽ、 ____
/ _ ヽ //´ __,,>、
/  ̄ ̄ { /::/ / ̄:::::::::::::::\
l _ィニニア二二二ニヽ、j._ /::::l/::::::::::::::::::::::::::::::::l
| 0Lj/-‐-レノ ノ_ヽ:::`ヽ l:::::::::::/l/lノノ/_イ:::::l
レ:r、/ イ゚テ ピト`|::| l:::::::::/ rtテ、 .ィtq l::::::|
l:lヘ '" ,j '"/ノ |::lヘ!j ´ ,j !;:::/
ヽヽ、 r‐-, /' レリー 、 ,...., lノ/ >>105が氏にますように
lヽ、  ̄ / `ヽ、lヽ 、  ̄ /´
_,r┴‐-`v´-‐j-、__ , -‐-、_r┴─'ー‐チト
/ ̄/:.:.:.:| ̄ ̄`T ̄´|:.:.:.:l´ `ヽ / ヽ ̄`ー-‐'´`''''⌒ヽ
/ ,':.:.:.:.:.l l l:.:.:.l \ _r‐、-、-、r, 、 ',
|:.:.:.:.:.:.! ! !:.:.l ,. -‐ゝ/// 〉 〉 〉 〉 〉 ! ',
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l:.:.:.:.:.:.! ! l:.:.:.ト/ / ```´-ァ‐'''" / l
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/:.:.:.:.:.:.:! l |:.:.:.:.:l `ーヽ、_ノ´l、______/lニ二」
____l:.:.:.:.:.:.:.| l |:.:.:.:.:! |_ ( ( ) )_〕| l
l`ー‐‐'匸二l ̄ ̄l二フーイ /  ̄ `‐‐'´ ヽ |
信長>貴様か、腐れマラは?
秀吉>Sir,No Sir!
信長>クソガキが! 貴様だろ、臆病マラは!
勝家>Sir,No Sir!
長政>自分であります、Sir!
信長>そっちのクソか…
勇気あるファッキン・長政
ゴールデンスケルトン(金箔骸骨)備前守
正直なのは感心だ 気に入った
家に来て妹をファックしていいぞ
>>114
そうなら、織田家との同盟は従属同盟だな。 ただそれだと、金ヶ崎以降に長の字を捨ててる筈と思うんだよね。
家康が元康から改名したみたいに。
あれ?
私は信長に憧れて『長』の字をつけたって聞いた事あるのだけど…
違うかな?
万福丸ってすごく福々しい名前だよね。
いかにも長生きしそうな。
串刺しになっちゃったけど。
名前と父親のイメージで本人もピザってそうだ。
小谷落城で浅井一族は滅亡状態になったと思うが、浅井井頼意以外に生き残りがいたの?
>>132
筆者の主観入りまくりだな
でもこういうの手直ししたらあとが面倒だからな 世の流れが読めなかった暗愚な人物とまでは言わないが、
朝倉の実力を過信はしてたかもね
個性的な家臣が粒揃いだね。磯野くんには裏切られたけど。。。
小谷城跡に行ったら雨による土砂崩れで通行止めでした。かなりショックでした!
長政の長は三好長慶の一字じゃないの?
改名した時期はまだ三好が勢いがあるし、六角への対抗上
三好と結ぼうとしたというのもつじつまが合う。
・長慶死んでる
・佐々木氏の一被官に一族の通字を与える理由がない
・三好浅井の両者に主従または婚姻による同族化が認められない
はい消えた
>>141
・三好長慶(1522〜1564)
・浅井長政が改名したのは1560年
いったい誰が死んでるって?w 三好と浅井は対六角で利害が一致してるんだから、両者に結び付きが出来たというのは史料の裏付けがないとはいえそれなりに説得力はあるな。
織田は改名当時まだ尾張一国、浅井と婚姻関係を持つのは1567年。信長から一字をもらって改名したとするにはちょっと苦しい感じ。
信長の偏諱というよりは私淑で変えたとかで手を打ちなさいな。
ただどう考えても三好はないわな。
戦国は長政名多すぎるよな。
黒田長政、浅野長政、木沢長政、山田長政、池田長政、
木造長政、市橋長政、織田長政、小笠原長政、、、
当時、いろんな意味で程よい名前だったんだろうなあ。
このスレ見てる連中は、読んでる方が多いと思うぞ
忍者・真田・豊臣マンセーっていうキーワードが無かったから
>152
誤爆。スレ間違えた
歴史群像スレかと思ってた
>>151
やっぱり売れんかったのかのう。打ち切り風味のラストは泣いた。 信、家、政、秀、長、勝、正、
この辺が戦国武将っぽい名前になる漢字だな。
>>149
なんか流行でもあったのかねえ
現代でもバカみたいに右へならえの命名があるぐらいだし
浅井家って大名じゃなくて朝倉の家臣じゃなかったの?
>>159
六角の家臣だったのが朝倉の力利用して独立したはず。>浅井 もし浅井長政が信長との同盟を破棄しなかったら、戦国時代の行く末はどうなったでしょう。てゆうか信長は、浅井家をどう扱うつもりだったのでしょうか?
かりに越前侵攻が上手くいった場合、浅井家は越前、美濃、南近江、若狭と四方を織田家に囲まれて領地を広げる希望をなくなってしまいます。
むしろそれ以前から「六角が滅びた後、南近江は浅井の領地となるのが当然だったのに織田家にとられてしまった」と恨む浅井家臣もいたそうですし。
「信長は浅井家に対して北近江と越前の国替えを要求するつもりだったのでは?」という説もあります。
しかし元亀の時点でそれを強要するほどの力が織田家にあったとはあったとは思えません。また越前侵攻を浅井に知らせなかったということは、浅井の力を借りずに朝倉家を倒す自信があったということ。何も功績を挙げなかった浅井に新しい領地を譲渡するとは思えません。
>>166
お市との政略婚姻は信長から持ちかけたこと。
信長はなぜ浅井と組みたかったのだろうね。 >>167
そりゃあ上洛するのに、京までの通り道に同盟者を作りたかったからでしょ。 >>167
六角を仮想敵とみなしたって所じゃないか?
六角は上洛の邪魔に確実になる相手だし、敵の敵は味方に引き込もうという算段があったんでは 徳川を見れば分かるが少なくとも反意さえしてなければ
北陸は浅井領にはなってたはず、と思える
浅井家が天下統一の野望を持ってなければ
その地域を所持してるだけで全然問題なかっただろうし
徳川もたぶん同様だったんでは
たまたま信長がああなったから、せっかく統一の方向に向かってたのがまた戦乱になって
それに乗じて家康にも天下統一の野望もムラムラと沸きあがってきたと思える
信長はあのまま同盟してれば意外なほど厚遇してくれたんじゃないかな
特に長政は妹の婿だったし
反意どころか徳川は一心同体。
信長は武田にも盛んに婚姻を持ちかけていたが、内心は分からない。
姻戚が何もしなくとも邪魔と思えばどうなるか分からない。
信長は信用できない。
信長が結ぼうとした連中のほうがはるかに信用できないけどな
なんでこういった真偽にもとる連中を信長は信じちゃうんだか
主な戦国大名の中で一番信用出来ないのが信長なのは間違い無いだろうな。
>>174
信玄のが数段信用できん
次いで謙信
信玄は盟約破りの帝王だし、謙信は同盟結んで日和見するのが好きだし しょぼいことさえしなければ信長ってそんなひどいことばっかりやらなくない?
明智の件に関してはどうだか謎だからなんとも言えんが
他の柴田丹羽滝川羽柴などなど軍団長クラスはどうなの?
あと同盟関係に関しては最終的には誰と組んでたわけ?
話がずれるから戻すと、だから浅井も踏みとどまっとけば悪いようにはされなかったと思うねえ
長政はほんとに野望だけで読みの甘い奴だな
おとなしく信長に従ってりゃ近江一国どこじゃないもの貰えただろうに
それともあれか
自分の力だけで領土を切り取りたくなっちまったのか
思いの外、親朝倉の家臣が多くて長政では家臣の暴走を止められなかったんだろう。
長政自身は親織田だったように思えるんだが…
ただ、1度裏切った以上後戻りは出来ないと思ったんじゃないか?
降服しようにも信長には実弟を誘い出して討ち取った前科があるので
中々降服勧告に従うコトは出来なかったんだと思うし。
六角からの独立の為に妻と離縁した長政なんだから野心の為に信長を裏切ったと言っても全然不思議には思わんな
むしろ久政がやめとけと言ってるとか史料もあるんだっけ?
>>179
家臣より父親が親朝倉だったことで決定じゃないかな
織田が浅井に事前通告無しで朝倉攻めを行ったのが離反の理由なんだよね?もし織田が事前通告をしていたら浅井は
どう行動したかね?史実通り朝倉に味方するか、中立するか、むしろ織田の力を利用して朝倉の領土を掠め取るか?
久政はほんとに親朝倉だったんだろうか?
政策や家臣団との兼ね合いでたんに六角から乗り換えただけに過ぎないように感じる
姉川は碑が建ってるトコがあるが、当時は想像出来ないな
センゴクの宮下は想像力がスゴイ
>>184
久政自身は六角に臣従してしまったから 朝倉を頼ってないね。
やはり親父亮政の影響かな。 >>179
歴史ムック本で書いている識者に
近江は本願寺信徒が多く、武士はおろか領民
からの要求で織田を裏切った。と言う人を見かけるが
そうだとすると反織田陣営に付かないと浅井氏の領国経営が
成り立たなくなる可能性が高く、信長派の長政も従わざる
を得なかったのでは。
「湖北の鷹」っていう浅井家の小説みたいなの昔読んだけど
わりとおもしろかたったなぁ
無双でアザイと読んでいるが
アサイじゃなかったのね
>>192
ここ10年くらいで「アザイ」と濁る読みが周知されて来たよ。 元から訓が分かっているのなんて、浅井郡を先に知っている人くらいじゃないの。
長政が信長に反旗を翻した真相としては、ある程度定説あり?
人物叢書「浅井氏三代」を買った。
長政が信長から離反した理由について、朝倉との関係を
否定してた。
むしろ過去に朝倉に攻められたことがあったとか。
>>202
それでは>離反した理由
をその本ではどういうふうに書いてあったか 出来ましたら教えてください。 織田領に囲まれて近江半国の主で終わるのを善しとしなかったんだろうな
あの時点で朝倉が壊滅したら浅井は存在意義が薄くなる…
と先を読んだのじゃないか?
織田、徳川を一挙にたたけるチャンスが目の前に転がってたわけだし
そう言う意味では明智の本能寺と同じなのかも
金ヶ崎に長政がどこまで関わってたかはいまいちわからんが、
あそこで信長と家康を討ち取っていればなぁ
>>205金ヶ崎の信長は護衛役の佐々を途中で朝倉追撃隊への備えとして残す程余裕がある
討ち取れた可能性あったのは秀吉だけかな
しかし当の長政はどこにいたのか 信長や家康を討ちとれたとしたらその後の歴史はどうなってただろうか
武田か上杉は明らかに天下を狙っていたから、そのどちらかが天下を取るだろう。
>>209
嫁ぎ先が滅亡して再婚するのは当時としては普通。
ドラマでやるような湿っぽい別れではなく、結構ドライだったと思われ。 念願の小谷城に行って来た。
山麓の駐車場に誤って駐車した為に長距離歩く羽目に・・・。
とても暑かった。
山城は夏に行くもんじゃないな。
冬に行けば熊が出るそうだけど・・・。
赤尾屋敷跡で長政は自害したらしいが、草むらになっていて近づけなかった。
スズメバチも飛んでいたし。
役場のガイドから聞いたけど、小谷城から焼跡は発見されていないそうだ。
ガイドの話では、「個人的意見だが小谷城は戦わずに降伏したと考えられる」と言っていた。
長政は一番好きな武将だが、腰抜けだったのか?
>>221
自分も登ったよー。番所後から山王丸までだけど。赤穂屋敷後も行ったけど、何処よりもうっそうとして怖かった。拝んで早々に立ち去った 赤尾屋敷て草ボーボーになってるのか。自分が何回か行ったときにはきちんと整備
されてたけど。なぜか賽銭箱もあったよーな(wなにやってんだ、城保勝会。
自分が登城したことのあるルートとして、
金吾丸付近の駐車場から山王丸、清水谷から大獄砦、麓の神社の鳥居潜って山崎丸から大嶽があるけど
地図には大手の反対側、山の裏手からも獣道程度の山道があるんだよね。途中に月所丸がある道なんだけど。
一回探してみたけど見つからなかった。
暇が出来たらまた一回探しに行ってみよう。ついでに秀吉軍が登ったとされる
京極丸下の堀切群も残ってたら探してみようか。
>>226
新人物往来社は昔出した本に修正をほとんど加えずに何食わぬ顔で新刊を出すからなあ。
小和田哲男編とあるが、著者欄の小和田さんの写真は若いときのやつだし・・・ >>221
>長政は一番好きな武将だが、腰抜けだったのか?
光栄とかのゲームでは義を重んじる名将扱いになってるが
史実の長政はイマイチだよ
活躍らしい活躍もないしね。
長政を戦国一の過大武将とする人も結構いる。
浅井井頼が長政の子と伝わっているのは、当時からの間違い?
長政は別に過大評価でもないだろ。
無双とかでアイドル的に扱われてるから反感が大きくなってるだけで。
>>231
忌み名でだけで見れば、どう考えても井伴や井演に近い系統のはずなのにね >>232
イヤ過大だよ
三女がいなかったら多分名前すら覚えてもらえないレベルだと思う
もしも過大じゃないと言うなら
何をして評価されているのか教えて欲しいわw 織田政権下でこれから
というときに致命的な判断ミス
だと思う
信長なんてどうせ長持ちしねーだろ
って方が普通なんじゃないかな
どうせ歴史話なんて仮定の話になるが
長政があそこで裏切らなかったら、近畿の軍団長が明智じゃなくて
長政になってた可能性も0とはいえない
そうしたらその時点でも裏切ったかどうか、
みたいな話にもなる
ならなかったら織田幕府か
そう言えば、今日だったと思うが
NHKの「その時歴史が動いた」で
浅井長政をやるな。
たしか信長包囲網に焦点をあてた内容だったと思う。
浅井が超大物になっててワロタw
贔屓の引き倒しだろ、これじゃ
民に愛された浅井家は武力に頼る信長により粉砕された!
浅井の死は信長の天下統一を揺るぎないものとしたのだった…!!
信長が降伏するなら厚遇するとか最後の三度の出陣とか入れて盛り上げろよ
久政の自害についてはスルーだったよー
あと、小野殿の処刑もスルーだったよー
娘が権力者に嫁いだから史料の記録をよくしてもらえただけで
実際はたいしたことなんて何もしていないのにね
そんな事言ったら権力者の史料は全部過大に書かれてるって事にならないか?
それに権力側からすれば裏切り者側だろどっちかというと。
>>250
権力者は仕方ないじゃん
実際権力握るようなことをしたんだからね。
だが長政の場合は「何もしてない」からね、
権力者でもなければ何かを成し遂げたわけでもない。
ただ娘が徳川家に嫁いだだけ。 >>251は何もしてない奴の娘が突然徳川家に嫁ぐとでも思ってるんだろうか。 信長の姪で秀吉のお気に入りの姉妹
コレだけで充分だろ。初婚が徳川じゃねぇし
次女が京極に嫁ぐのは浅井との関係からするとなんら問題ないし
じゃあ何もしてない奴のとこに突然信長の妹が嫁ぐのだろうか
>>254
長政と言うより、当時の浅野家の重要性、ってものがあると思うよ? >>254
信長が上洛する途上の重要拠点にたまたまいたから政略結婚しただけで
特に長政個人の力量とは別問題だろ 重要拠点ってか斎藤・六角・朝倉等を抑えれる所に居たのがポイント
上洛してしまえばあの位置にいられたら確かに邪魔
重要拠点ではなくて重要拠点への通り道なw
それから長政の力で支配したわけでもない
担がれただけだし。
自刃する直前、浅井長政はまさか自分の子孫から摂政と将軍さらには天皇まで輩出するとは思わなかっただろうね
浅井家は戦国時代一番の勝ち組なのかもしれない
>>261
んなこと言ったら信長も秀吉も家康も信玄も謙信もみんな担がれただけだぞ。 市ー江ー和子(将軍家光の同母妹)ー明正天皇(女帝)
まさに戦国時代のミトコンドリア・イブ
>>265
その5人は担いできた連中を利用して何かを成し遂げた人間
長政はそのレベルには到達していない 夫を父兄に謀殺されたことに刀抜いて怒り狂った女性もいるし
夫のあとを追った女性もいるし、その人の性格によるだろうね
ドライと言うより、辛くても人に見せずに耐えてた女性も多かったんじゃないかな
時代的に嘆き悲しんでもどうしようもないもの、戦国の女性は気丈じゃないと生きていけないよ
>>272
もともと信長は尾張の弾正忠家推戴一揆の頭に過ぎん。
秀吉はその弾正忠家一揆を乗っ取ったと言っていい。 >>1
信長は結局、近江(安土)に本拠地を構えたわけだよな。
やっぱり、長政が邪魔だったんじゃないの? 浅井家はかつての主君である守護、さらには摂政、将軍、天皇に至るまで子孫を輩出したんだからあの石高の土豪としては最強
>>276
情けねー滅び方したからそこに栄光をもとめるしかないんだな >>276
信長を裏切らずに我慢していれば天下を取る可能性だってゼロではなかったのだから
そんなことは自慢にも何にもならない
ただ長政程度の力量では天下どころか大大名も難しかっただろうし力量を考えたらさっさと散っておいて良かったのかもね >>279
そんなの分からんよ。家康だって信長時代はそんなにパッとしなかったが最後は天下を取った あの時代に生きてて全国の情勢をみれてたとしたら
あの時点で徳川が天下を取るなんて絶対に誰も思ってなかったね
家康本人も考えてなかったはず
それでも家康はあの時点で、自力で三河と遠江もぎとって、日本有数の大名の一人になっているわけだが。
六角領と寺領がでかすぎるよなぁ。20万石が精々じゃないか?
官位で見れば、家康は1556年の時点で正式に三河守を叙任し、左京太夫にも任官している。
対して浅井長政は受領名の備前守のみ。
少なくとも世間的な認識には、それなりに差があったと考えていいだろうね。
家康と浅井を対等に較べるのは時系列的にどうかと思うが。
小谷城行ってきた涙でそうだった。。。
でも、すげー場所だったよ
京に近いと言うだけで難度も立場も上なのがあの時代。
徳川とはさして変わらん位置ではあろう。
> 京に近いと言うだけで難度も立場も上なのがあの時代。
あほか
京に近くてそれなりに勢力があったとしても上とはとても言い切れないよ。かえって滅ぼされやすかったり、田舎ほど勢力を伸ばしにくかったり。
じゃあメリットがまったくないかと言うと、そういうわけではないが、やはりデメリットも多い。
少なくとも、難度や立場は上とか下とか言える類のものではないだろう。
戦国時代の人間がみんな天下目指してたとか思ってるやつがいて、それを前提にして京に近いから有利とかぬかす馬鹿がいるだけ。
もっと言うと、京にやや遠い・遠い有名大名の狂信者達の擁護手段のひとつ。京に遠いから実力は一番なのに天下とれなかったとかの無茶論法、ね。誰のこととは言わんが。
あ、もちろん普通にその大名のファンとかって人の悪口を言ってるわけではないからね。あくまで難度とか持ち出す人に対してのみ
>>294
はげしく同意する
実際には天下目指してたヤツなんて信長くらいじゃないのかね?
今で言うと世界征服するぜ!っていうぐらい
当時ではありえないことだったと思う。 >>295
今のところ戦国大名の中で、間違いなく天下を目指していたのは、織田信長のほかは
武田信玄と上杉謙信だけらしい。書状の内容などを研究するとそうなるんだって。 「天下に号令」と「天下統一」は別物だからなぁ。
信玄も謙信も天下に号令したいという思いはあったかもしれんが、天下統一は無いと思う。
謙信は中央より寧ろ関東に御執心だし、信玄はとりあえず取れるところを取って領地を拡大していった感じ。
美濃制圧以後の信長の様に、常に天下統一を意識した動きをしていたとは言いがたい。
もちろん、それを以って信長>謙信・信玄だとか馬鹿なことを言うつもりは毛頭無いが。
信長も天下統一なんぞ考えてなかったよ。結果的に出来そうだったからそっちに移行しただけ。
信長の「天下布武」の天下は、日本全体の事ではなく、畿内の将軍支配地域の事。
その証拠に三好や六角追っ払った段階で既に「天下静謐」を宣言している。
同じ天下狙いでも、信玄と謙信は気、信長がうまくいきそうなのを見て追随&とってかわろうとした、という天下狙い。信長は兵力の領土も少ない頃から目指してた。
その信長も、京でごたごたして失敗してる三好を反面教師にしてる部分はある。
>>298
そこらへんは単なる言葉遊びだろ。
普通、都をおさえて最高権力者をおさえるとなれば天下で最も権力のある人間、とは言える。もし畿内支配が完全にうまくいくのならこれで十分。
にも関わらず、信長は明らかに他国、朝倉などに喧嘩ふっかけてる。しかも早い時期に。そして絶対必要という場所でもないのに。
三好など対抗勢力が近隣にいっぱいいるなかで、普通これはありえない。もし信長が畿内支配を当初最終目標としていたのなら、ここでこんなに早く無理する必要がない。
京に上ってから考えた、という動きではない。明らかに領土の拡張と支配を以前から望んでいたと考えるべき。
畿内支配は通過点だと考えていたのは間違いないだろう。 小谷城が築城される前に湖北町あたりには
どんな城があったの?
あんなど田舎に他に城なんてあったのかね?
あるにはあったんが、じーちゃんちがその辺だけど
小谷城以外に城の話は聞いた事なくてね。
虎御前山、山脇、上・下山田、雲雀山、大獄、山本山とか、
あの辺には山城や砦がたくさんあったそうだ
湖北町小谷にある伊部・郡上などの城下町には武家屋敷や商人長屋が建ち並び、
最盛期には人口2万人が集中した湖北の一大拠点だった
このため田畑を掘り返すと、銭・鎧・兜・錆びた刀や壺などがいまでも発掘される
浅井氏が滅びて、次に支配した羽柴秀吉は今浜(長浜)へ拠点を移し、
長浜の城下町整備に従って、伊部町の人々は長浜市の京極あたりに移り住んだ
さらには秀吉の出世に従って、大阪城や大阪市中央区あたりへ移り住み、いわゆる近江商人となった
このため祖先を辿ると同じ家系図の人が多かったりする
もともとは古墳時代の集落から発展した町で、周辺の山々は古墳だったりする(雲雀山など)
中世には畿内中央から移り住んだ武士や商人が土着化して集落化したため、
周辺集落のような結束がない町だったことが今浜や大阪への転居を容易にしたそうだ
と今は亡き郷土史家の人に聞いた
ヤバイ。湖北ヤバイ。まじでヤバイよ、マジヤバイ。
湖北ヤバイ。
まず仏像。もう多いなんてもんじゃない。超多い。
あと伊吹山。標高1377.3m滋賀県最高峰。積雪11.82mは世界記録。ヤバイ。積もりすぎ。かまくら作る暇もなく死ぬ。怖い。
それに超何も無い。超ガラガラ。それに超のんびり。白猪とか平気で出てくる。白猪て。ヤマトタケルでも勝てねぇよ、最近。
なんつっても湖北は雪が凄い。50cmとか平気だし。
うちらなんて雪とかたかだか5cm積もっただけで上手く歩けないから転倒したり、電車遅らせてみたり、ホカロン使ったりするのに、
湖北は全然平気。雪で屋根が潰れるとか茶飯事。凄い。ヤバイ。
とにかく貴様ら、湖北のヤバさをもっと知るべきだと思います。
そんなヤバイ湖北でのし上がった浅井とか超偉い。もっとがんばれ。超がんばれ。
>>305
しかもラップとして成立してる。
303殿を「湖北のエミネム」と呼びたい 久しぶりに小谷行ったら清水谷の方で児童館を戦国博物館に鞍替え、、、ついに勝負に出たか、、湖北町、、、
大河ドラマで浅井長政はいつも美男子、、、笑える、
いい加減でぶキャラクターに光を与えてやれよNHKさんよ
あんなデブがお市みたいな絶世の美女とラブラブなんか世界のデブに夢与えるよ、、
デブ=醜い、じゃない 美人は太っても美人だし不細工は痩せても不細工
でも
33 ☆*シヴァィ*☆佐々木の小次子 [2008/07/29(火) 17:35:01 ID:moti]
私の叔母は無双の浅井長政カッコイイと思ってるんですけど、戦国事典の浅井長政の肖像画を見たら・・・
叔母「なんだよぉ、おっさんじゃ〜ん」と言ってました(笑)
34 2 [2008/07/29(火) 17:54:24]
無双の人物紹介の浅井長政の肖像画はほんとショックですね…何回も見比べてましたよ(。。)
35 ☆*シヴァィ*☆佐々木の小次子 [2008/07/29(火) 18:23:13 ID:moti]
私の叔母もガッカリっ、みたいな?
36 2 [2008/07/29(火) 19:56:35]
しょせん肖像画ですよw
実物はカッコイイことを願います…汗
これだけはもうね
肖像画3枚見たけどみんなふt…ふくよかに描かれてるんだな
1枚だけなら実物は引き締まってた可能性もあるだろうけど
長政の一周忌に描かれたという肖像(袈裟をつけているやつ)は、
わりと整った容姿をしているとはいえ、すごいふくよかで
「きれいな相撲取り」といった印象をうける。
美形だったとか言ってるのは
馬鹿なゲーム製作者とオタク女くらい。
なぜ浅井家が重宝されたかいうと、思うに家の子孫は遡ると
敏達天皇にあたるからなのかもしれません。皆さんいろいろ調べていて関心しました。
いやいや、額面通りに受け取っちゃ駄目だろ。
京極だの六角だの名族がひしめいてるから天皇家の子孫を自称したんだと思うが。
オレの御先祖様は浅井長政とのケコーンをドタキャンされました。某六角家臣
ドタキャン無かったら今のオレは存在しないかもしんない
浅井長政は、1560年に1万の軍勢で六角破ってる。
この時点では非常に有望な大名だけど、以後全然領土が増えてないような。
信長の存在は、長政に不幸だったような・・・
1560年って、桶狭間合戦があった年じゃねえか。
浅井長政が、「長」という字をつけた名前に改名した年でもあるらしい(ただし疑問)。
美濃国を攻略するのに、桶狭間合戦以後で7年くらいかかっているので、
隣国の敵のさらに向こう側は、味方、という図式なら、
浅井長政にとって信長と同盟することはメリットがある。
○ ● ○ ●
六 − 浅 − 斉 − 織
角 井 藤 田
○同士は同盟
●同士は同盟
東海道?沿いに、敵と味方がサンドイッチ状態
浅井長政の血は三女江与のおかげで、天皇家、公家、将軍家、豊臣家、
その他大名家へと継承した。天皇家は和子の生んだ女帝でいったん
絶えてしまったが、九条家に嫁いだ完子のおかげで昭和天皇の子孫にも
その血が復活した。
浅井初こと、常高院の話題が出てないが・・・・ここでよいかな?
この人は落城を4度経験してる珍しい人物で、1630年くらいまで長生きしてるし
京極家に嫁いだのも浅井家復興の為だと思うけどどうだろう?(高次自身も浅井家の血を引いてるから)
二人息子を生んで一人を浅井家に・・・と思ってたのだろうけど
(残念ながら茶々や江与と違って不妊だったそうで・・・)
お市を嫁にもらうという破格の待遇だったにもかかわらず
むしろ家康よりよっぽど好条件だったにもかかわらず
信長を裏切って朝倉についてしまう長政は無能
救いがたい無能
てか朝倉つかえねぇwwwwwwwwwwwww
信長が京都と往復するとき、湖北の浅井は邪魔。
いずれ、国替えされて領地は取り上げられていただろう。
だったら、チャンスを見て信長を討ち滅ぼしてしまえばいい。
2011年の大河は娘が主役らしいが…
最初の一ヶ月も経たない内に髑髏の盃になってしまうのだろうな…長政。
最近の浅井長政=義将、という流れが気持ち悪くて仕方ない。
信長に敵対した件でそうなっているらしいが、ありゃ単純に家中の親朝倉派に
押し切られただけじゃないか。
俺優秀wwwwwっうぇwwwwwとか勘違いしちゃったんじゃね?
フロイスの信長に対する記述とか見てると、
誰でも裏切りたくなると思う
俺が同盟者でもチャンスあればやっちゃってたかもな
二代将軍様の正室の父親だぞ
義に厚く優秀な武将に違いないだろjk
義に厚いってことにするってことは
よっぽど他に何もない無能だった可能性は高い。
本当は部下の親を殺したりするような極悪なやつで
義とは程遠い人物だったわけだが・・・w
>>345
フロイスの信長評は宗教的な立場の違いが反映されたものだろ。
フロイスの評価を信じるなら秀吉なんかボロカスだし。 実際信長の所業はひどかったろ
あんだけ裏切り者だして
民にはそれなりに愛されてはいたようだが
信長は別に愛されちゃいないだろ。愛されてたら江戸期どころか、桃山期からあんなに
冷酷非道って批判されて無いわ。
秀吉とか他の武将も女子供串刺し虐殺とかしてるし
信長だけが特別冷酷非道ってワケじゃない
江戸時代当時からの真田過大評価と同じようなもんだろ
>>351
日本語の読めないやつだな。実体の話なんぞして無い。「評価」としての冷酷非道だ。 >>353
『信長は民から愛されていたかどうか』と言う話からの
派生だと言う事も見えないのか? >>328
増えてるよ。当時は江北3郡15万石程度だったのが、
長政が後をついでから江北6郡39万石まで勢力拡大したのだから。
マイナー系の浅井一門衆にも光を当ててほしいね
あいつら無名のくせに意外と歴史事件にも絡んでるから
小谷城跡に行ってきました。車がないので
駅から山頂まで歩いたけど、かなりキツカッタ
自害した場所に墓石があったけど、荒れてたなぁ!
今度行くときは花を持っていこうかなぁ!
>>345
フロイスの評価を信じると齋藤龍興や竜造寺隆信は名将になるぞ >勢ぞろいした浅井3姉妹の着ぐるみ。左から茶々姫、初姫、江姫
> >>363
キリスト教信者の和田惟政なんか智勇兼備の名将で、
出陣していないはずの戦(姉川の合戦など)にまで大活躍だもんなw>フロイス本では >>362 俺その墓石の前で祈ってたわ
小谷城はなかなか味があって、往時をしのべると思った
近くにお市の方が通っていたという温泉があって、俺もその湯に入ったわ >>367
この絵柄だと姉妹喧嘩がもの凄いドロドロしたもんになりそうだw 浅井家旧臣の家系からは、芸術関係者が多く出ている。海北友松、狩野山楽、小堀遠州など。浅井領を受け継いだ羽柴が、天下人になったことも関係しているんだろうが。
もし信長を裏切らなかったらw本能寺後どうなったかな?
ちょっとゾクゾクするね
長政、お市の仲は睦まじく、多くの子供にも恵まれたことになってるんだが、長政はお市付きの女中にも手を出して子供を作っている。単なる精力絶倫男だったみたい。
今「死して残せよ虎の皮」って本読んでるけど、そこに出てくる
浅井長政は(見た目はデブだが)人としてかなりかっこよく描かれてて、
そんで絶倫設定だったわ。絶倫・・・
でも信長とかも子ども多くない?
信長が浅井方に結納を準備したってのは、やっぱり後世の創作なのかねえ。
信長って身内には優しい印象があるから、浅井が裏切らなかったら、
歴史はまた違ったのかもなと思う反面、徳川に娘が嫁いでたからか現代では
長政とかがいいイメージ先行してるってのもあるしなぁ
浅井って北近江をやっとこ統治して、朝倉に頭上がらず
久政が政に口出ししてくるお家柄だから、何もできず滅んだ印象
南近江の六角を圧迫してたんだから、豪族レベルとしては優秀
小大名レベルとしては微妙
群雄レベルでは論外
>>375
処刑された万福丸はお市との子じゃなかったし 市という女性が結果的に豊臣秀頼や徳川家光の祖母になり皇室にも血を遺してしまったために
後世に尾鰭を付けまくられてしまっただけじゃないかと。
>>384
最大瞬間で、江北六郡39万石といわれる>浅井家
その直後に、一旦投降に成功した朽木氏に離反されたりしてるが 39万石っていえば立派な大大名じゃん。
そんなにスケールでかかったのか?
>>388
抑えてたといっても、佐和山を切り取ったくらいでしょ 近江一国なんて完全に押さえたら80万石で
1時間以内に京洛中に兵を展開出来る
しかし現実は寺社や公家、幕府領、自治村が入り乱れて統一が困難
>>390
それに近江はその地勢自体をみてわかるように、諸国につながりすぎてる訳で・・・
攻めるに易く、守り難い。 琵琶湖があと半分の大きさなら近江一国で120万石くらいになってたと
思うと凄まじい
>>398-399
マジレスすると、実際、本人を見て書いた肖像画なんて一枚もないから分からん。
本当に太っていたかどうかも分からないし、美男子ではなかったかもしれない。
逆に、太っていた可能性もあるし、今の人が見て不細工、または美男子だった可能性もある。
「戦国」を冠するゲームのせいっていわれているが、昔から浅井=美男子説はあるし、
はっきりとは知らないんだが史料に(誰か知っていたら教えてくれ) 美男子を思わせる長政の記述が
あるらしい。だから、今はともかく昔は美男子だったかもしれない。
でも、太っていても脂肪じゃなくて筋肉の可能性のほうが高いとは思う。 >>402
マジレスするとよく出てくる長政の肖像は娘の淀が菩提を弔うために納めたもの。
寿像ではなくても実の娘が描かせてるわけだから美化してることはあっても、似てないなんてことはない。
浅井長政=美男子説も小説ならいざ知らず、文献、研究その他で聞いたことない。(そんな研究やる人間なんてまずいないし)
浅井氏を顕彰する浅井三代記ですら、美男子なんて書いてないはず。 >>404
そう。逆に茶々が書かせているから
実際より大きく見えている可能性も 自分好みに仕立て上げている可能性もある。
だから、分からないんだよ。そもそも、4〜6歳の時の記憶なんて 普通はほとんどない。
だから、あれは茶々の想像内の父親だと思う。
>浅井長政=美男子説も小説ならいざ知らず、文献、研究その他で聞いたことない。(そんな研究やる人間なんてまずいないし)
>浅井氏を顕彰する浅井三代記ですら、美男子なんて書いてないはず。
やっぱりそうだよな。ちなみに自分は、美男子ではなく、優しそうな顔のゴリマッチョな人だったんじゃないかと思っている。 秀頼が大男でしかも太ってたらしいから、
浅井長政は体が大柄というのは、可能性が多いにある。
ああ、浅井長政の頭蓋骨は現存しているんじゃねえの?。
金箔塗ってあって。
それを測定すればいい。どっかの墓の中か?
>>404-405
どっちも最もな話だよな。
確かに顔や体格を美化してる可能性はあるし、
6歳の淀が父親をはっきり覚えているわけ無いから 実際より大きく見えていることもあるだろうし、
何より 秀頼が巨漢だった事から考えて、
淀が太っている人が好きだった可能性も高いな。
だから、父親の肖像画も母親の肖像画も自分好みにしているのかもしれないしな。
(養源院のお市は、持妙院のお市と比べると かなり大柄)
頭蓋骨が残ってたら一番なんだけどな。残ってんのかな?
長政の一周忌に描かれた肖像画(京都の絵師が描かせ、徳勝寺の四世源秀が賛を書いている)は、
割合端正な顔立ちという印象を受けたが、それでもやはり、かなり恰幅がよく描かれているんだよね。
肖像などを見る限りだとやはり、長政はかなり体格(恰幅)のよい人だったんじゃないかなと思う
可能性の問題にしかならないけど
色々な状況証拠を積み上げるとやっぱり長政はデブだった可能性が高いと思う
肖像画を見る限り、確かに顔立ちは悪くないから、
もしかしたら、恰幅も良いが顔も良い人だったのかもね。
でも、上の人が言っている通り、
多分、脂肪じゃなくて筋肉だろうね。
美男子だったという記述もないうえに、あれだけ肥満体を強調されてんだから
「ただの太った人」だったのが妥当だろ
29歳で死んで、美人妻。ってとこから、
源義経と一緒で、美男子を連想させるんだと思う。
実際、義経も美男子では無いようだし、長政も美男子ではないだろうな。
周りについている設定が良いから、そう思われる。
それが全てだな。
美人(とされていた)妻をもち、自身は悲劇的な最期を遂げるし、娘達は秀吉、家康と関わるし。
ドラマや小説、ゲームで描写する上で、肥満体の凡人顔にするわけにいかないんだろう。
つーか実際、長政の魅力って見た目じゃないと思うが。
つまり、纏めると
・長政の容貌や容姿の程は分からない
(5歳前後に僅かしか見ていない父親記憶が淀にあるとは思えない→肖像画はほぼ100%想像で作られている)
しかし、
・太っていた可能性が高い
(共に収められた市の肖像画も太い事から考えて、淀がデブ好きだった可能性もあるが、普通より細い人ではないだろう)
・だが、太っていたとしても 日ごろの武士の生活を考えれば 脂肪ではなく筋肉では?
・容貌は分からないが、美男子と言う記述も醜いと言う記述も無いことから、
普通の顔立ちと思われる。
・当たり前のことながら、現代の感覚だと醜かった可能性も美男子だった可能性も捨てきれない。
・一般の人々に美男子と思われる要因は、美人妻を娶り、29歳で死亡していることから。
あと、個人的な意見としては、
・生き方が清々しい(良く言えば、純粋で勝気、一本気。悪く言えば愚直で賢くは無い。)ことと、
(戦国武将にしては、優しい文面の手紙が見つかっている→)優しい人だったと思われることから
後世の人々にも嫌われにくいため(江戸時代の学者で、彼を褒めている人は多い)、美化されている部分も多い。
>>414
同意。自分も生き方が良いなと思った。 >>415
せっかくの纏めを今頃いちゃもんつけて申し訳ないが
>(5歳前後に僅かしか見ていない父親記憶が淀にあるとは思えない→肖像画はほぼ100%想像で作られている)
淀殿の乳母・上臈侍女には、大蔵卿局や浅井一族の饗庭局、海津局らがいて
彼女らは当然長政とも面識があっただろうし、小谷落城時はすでに成人だったろうから
淀殿よりはっきりと長政の容貌は覚えていたはず。
これは完全に推測だけど、彼女らの意見も参考にされたんじゃないかなあ。
淀殿が描かせたからといって、なにも淀殿一人だけの記憶で描かれた肖像画ではないと思うんだが。 >>416
>>415です。確かにそうだな。見落としていた・・・。
でも、淀が想像で考えたのを「これが父上!」と言っちゃえば 侍女達も文句は言えないわけで、
そこから考えると 50%くらい想像ってところかな・・・。 >>409で挙げた長政一周忌に描かれた肖像は、徳勝寺に伝来していたもので
長政は徳勝寺の三世と親交があったようだし、賛を入れているのが同寺の四世
で、(おそらく長政の容貌をよく知っていたであろう人間が関与しているものなので、)
比較的信用していいんじゃないかなあとは思う。
淀殿が描かせたもののほうが髭も生やしており、印象としては猛々しい感をうけるけどね。 >>418
たしかに。
そっちを引き合いにだしたほうが良いかも。
長政の肖像画ってもう一枚あるはずだよね。見たことが無いんだが、どこのどんなやつか分かる?
・・・淀が書かせたのは、市も長政もどうしたんだ!?って感じだからね。
長政を武将的にも容姿的にも悪く言うのは江戸将軍家、ひいては
天皇家の根幹にも関わるタブーだから江戸時代に評判が良かったのは当たり前
お江が長政の娘なんてのは皆周知の事実だから
>>422
浅井長政、という人物は江戸時代は、良い方にも悪い方にも
解釈をされていると思う。
まず、>>422さんの言った事で良い方に物事を改編されている。
だが、実際江戸時代にも江を良い様に言っていない人も多い事から考えて、
タブーとまでは言えないだろう(特に江戸中期〜後期は)。
あと、淀殿の父親っていうのもあるから、
悪い事は悪い方へ悪い方へと改編されていく。
だから、浅井は 江戸時代には
徳川の面目を保つために、かなり実像を曲げられている(又は、拡大解釈されている)と言えると思う。 小谷城登ってきたお。
日夜長政とお市たんがセクロスに励んでたかと思うと…
…ふう
浅井が織田を裏切ったのは、
単純に戦国大名として独立を守りたかっただけだと思う。
美濃・南近江・山城に続き、若狭・越前まで織田に獲られると、
北近江の浅井はほぼ包囲される形となり、自由な領土拡大ができなくなる。
「おいおいちょっと待ってくれよ。同盟相手を包囲するか普通?」
そんな浅井勢の声が聞こえてきそうだ。
当然、浅井は織田を「勢力差はあれど、あくまで同盟相手」とみていただろう。
しかし、織田は違った。
織田は浅井を「婿が支配する属国」程度に考えていた。
そんな織田の思惑が明らかになった時、とるべき道は二つだけだ。
裏切るか、従うか。
長政個人がどう考えていたかは知らないが、当時の状況は、
・織田と足利義昭の関係がギクシャクしだしていた
・包囲網は形成されていないものの織田は周囲に敵だらけ
・美濃攻略や六角家駆逐に少なからず貢献したのに大した見返りもなく浅井家中に不満
裏切るなというほうが無理だ。
これが金ヶ崎の一件の真相ではなかろうか?
朝倉家との関係はさほど濃密ではなかったので考えなくていいと思う。
むしろ織田が侵攻しなければ、浅井こそが朝倉を滅ぼしていたのかもしれない。
領土広げたいなら織田の支援受けて朝倉攻めすれば北陸方面切り取り放題になるんじゃね
>>427
あの時の情勢の中で、信長が生き残っていく予想が
(常人である長政に)つくか?
信玄でさえも、ついていない予想なのに、
まだ若い長政は無理だろう。 織田が朝倉を攻める時は必ず浅井に一声かけてくれよなって話は
有名だけどここじゃ一度も挙がってないね やはり俗説だったのか
まあいかにも浅井側を正当化したいがために取って付けたって感じだもんな
>>429
たとえそういう約束があったとしても
土台無理なのは、浅井も分かっていただろう。
となると、約束していたとしてもしていなかったとしても
浅井の言い分には無理がある。
つーか事前に相談したからどうなんだって話だよな。
織田方からすれば浅井から朝倉に知らされる可能性があるし。
きっと長政が現代にいたら、上司同僚部下の板挟みに悩みつつ、
家庭では男一人で、女達だけで旅行行かれたり、
ちょっと立場弱いお父さん(でも家族仲は良い)みたいな、
そんなマイホームパパになってたりするんだろうかと妄想。
職場では中間管理職で上司と部下との板挟み
で、上司が無理難題言ってきてたまにはガツンというか!と
張り切ったらリストラされ、妻と娘は家をさっさと出ていったとさ。
浅井さん、いい人なのにネ
結果だけみると長政wwだけど
元亀元年から翌年までの動きをみれば
元亀三年に羽柴にすら押し込まれて
元亀四年に髑髏の置物になってるとは思わんだろ。
勝算はあったはず。
当時の情勢から考えりゃ織田が巻き返すなんて思えない。
>>436
というか、長政の考え方は普通だと思う
馬鹿でも賢くもない
突飛でもないが、ちょっと潔癖と言うか一本気な感じがする 手紙とか見て、当時にしては字がきれいな人って印象>長政
戦国武将で字の汚い人の多いこと多いこと。
一説によると字が汚い人はいい加減、もしくは一本気な人が多いとか
逆に字が綺麗な人は神経質、又は臆病らしい
何だかんだで長政も織田と手切る時はかなり悩んだんじゃないかね
長政もお市も子供達も、ドラマティックな人生の割りに逸話がほとんど残ってないね。
生まれた時代、取り巻く環境、もたらされた結果が劇的すぎただけで、
本人達は良くも悪くも「普通の人」だったのだろう。
でもそれぞれが潔く果てたからこそドラマ性が高まって
後世に語り継がれる程になったんだと思うし、その生き様はやっぱり格好良いと思う。
じいちゃんが浅井長政の子孫らしい
爺ちゃんが死んだとき刀とかだてきたから信ぴょう性があるみたい…
だけど家紋が桐紋でわけわかんね
過疎ってるのでアゲ。
浅井家は三代で滅んでしまったけれど、藤堂高虎、竹中半兵衛、片桐且元、
真田十勇士のモデルとなった浅井井頼、日本画で大成した人(名前失念)等々、
ブレイク前の有名人が数多く係わってるんだよね。
人材に恵まれるということは、それだけの家だったということだろうか。
滅びずに続いてたらどうなっていたか考えるとおもしろい。
>>442
海北友松か。ただ、この人の父親って、実際のところほとんど史料がのこっていなくて、
どの程度の地位にいたかさえ不明とのこと。
いわゆる三将のなかでも、赤尾氏以外は殆どわからないみたいだ >>442
> 藤堂高虎、竹中半兵衛、片桐且元、
その辺は別に浅井家が才能を見出したわけでも何でも無いからなあ。
むしろ浅井滅亡後の個人の努力の賜物。 >>444
うん。本当にただの偶然。
だけど不思議な縁を感じるので、もし浅井が滅びずにいたら
どうなっていたか考えるとおもしろいと思ったんだ。
もちろん史実通り豊臣方に行かれる可能性もあるし、
浅井もどこかでやはり滅んでしまうかもしれないが。
IFと言えば、関ヶ原にいたら東軍西軍どっちに着いただろうか。 安土城天主閣の横の建物に長政の鎧飾ってあったけど結構小さめだったでござる
つかやっぱそれよりは後の天下人二人に浅井の血が流れてるってのはなんかすごいよ
浅井が信長に味方してても、そこら中加勢に行かされまくった挙げ句
北近江から能登やら越中あたりに転封が落ちじゃないか
仮に裏切らなかったら秀吉政権ではどのような扱いになったのでしょうか?
羽柴家はそのまんま浅井家を引き継いで成立したようなもんだから
少なくとも浅井が織田についてれば展開はまるで違うはず
北近江だけ安堵されたとして
本能寺後に空気嫁ずに明智光秀に付いて結局秀吉に滅ぼされる
光秀に加勢して勝ってしまう→明智政権誕生
秀吉に付いて挟撃する→豊臣政権で大老くらい?
本能寺じゃ動かず勝家と組んで秀吉打倒→結局負けて滅びる
まあ最初のフラグで負のフラグを引いてしまったが
どっち道秀吉に滅ぼされそうな空気がプンプンするなぁ
>>455
玉突き人事があるだろうからそもそも光秀が本能寺に及べるかどうか
もし明智だけそのままでも
北陸浅井、中国柴田、関東羽柴、四国滝川にされたら秀吉に目は無いしなあ
北陸浅井は多分ないよ。
もしそのつもりなら朝倉攻めに従軍させるはず。
北陸担当にするなら越前あたりに拠点が必要。
朝倉攻めに従軍させずにそんな拠点を与えたら従軍した他の家臣から不満が出る。
加増ではなく北近江から越前への転封なら浅井から不満が出る。
金ヶ崎で裏切らなければ浅井は織田の一門衆として北近江で飼い殺しだったと思う。
下手に勢力拡大させると嫡男・信忠の政権運営に邪魔になるし。
読売テレビの10分番組に浅井長政、お市の銅像登場w
お市が生んだ三姉妹のこともちょろっと触れてた
あとは小谷城跡、御馬屋跡、番所跡に行っただけ
長政の長男は串刺し
長政の母は指を一日一本ずつ切り落とされ最後に処刑
こういうのを見ると、創作物でよくある
「信長は長政に好感を抱いていて、ハクダミにしたのも敬意の表れ」という解釈は無理だと思うんだが
浅井は神官の流れ、箔濃は敬意など最近、浅井厨の妄想が激しいな
予想してたけど、やっぱりあっさり死んじゃったんだね>大河
けっこう良い俳優使ってるから、意外に活躍するのかとほんの少し期待してたのに
長政は好きになれんわ
武将の都合で勝手に戦を始めて、多くの家臣や兵士を死なせて領民にも大迷惑をかけたのに
妻子だけは死なせたくないとかいうムシのよすぎる惰弱
家臣から庶民にいたるまで、誰だって血筋は残したいし家族は死なせたくないわ
その望みを絶って上につくすのは、この殿なら国を守ってくれるという思いがあるからだろ
その国を守れなかったんなら家族一同で死んで罪を下々に向かって謝すべき
浅井3姉妹なんてのも、長女は大坂の陣を引き起こして大勢の人間を死なせる、
三女は偏った子育てで忠長切腹事件を引き起こし多くの縁座者を出すという、
まじでいない方がこの世のためというクズ人間ども
バカ父に似たのかもしれないが。
ショボい朝倉なんか見捨てて、信長に従っておけば良かったんだ
その方がお市のためにもなったのでは
父や家臣の反対なんて自分がしっかりしてれば抑えられたはず
おとなしく信長に従ってたら、秀吉政権や家康政権でどんな地位だっただろう?
>>466
賤ヶ岳では間違いなく柴田側につくと思われる >>466
そうなったら秀吉が長浜城もらえなかったんじゃない
あと安土城も作られなかった?それとも浅井は領地変えてどっかいったか? >>466
朝倉滅ぼしたあとの越前に入れられて一向一揆対策に忙殺されて不手際で処分されそう
もしくは単独で加賀に放り込まれて不手際で… 篭城していたなら城の中には大勢の領民が非難していたはずだが、
浅井長政の目には最初から最後まで彼らの姿は映っていなかったのだろう
長政にとって城主の地位は自分のメンツを立て、または
妻子の命を救うための道具でしかなかった
つくづく卑しい男よ
織田方についていたら
それなりの地位について妻娘に囲まれ天寿を全うしてかもしれない
もちろん幸せな事でその日そこに生きている彼にとってそれが全てだろうけど
ただ、それだと戦国史はもっとあっけなくつまらないものになってたろうし
長政の今日の知名度も人気も今よりずっとなかったろうな
わからんぞ? 家康みたいに信長の死後に活躍したかも
茶々デス初デス江デス
\∴浅井家ワッチョイ!∴/
\浅井三姉妹/
/茶\
( ・∀・ )
/初\ /江\
( *・ω・)(・ω・* )
(__) (__)
>>460
可愛さ余って憎さ百倍だったのかも・・・ >長政の母は指を一日一本ずつ切り落とされ最後に処刑
こっちは事実か疑われてる
出典の「嶋記録」については近江贔屓の誇張や(地元贔屓は当たり前だが)、
徳川家などに媚びて記述を改変した部分が幾つかある可能性も指摘されている
つまり他の資料と照合して記述内容を一つ一つ確認しないと信用できない資料
浅井家と織田家の同盟は、六角・斎藤同盟に対抗するためという説があり、
実際六角家と斎藤家が共同で浅井領に攻め込む度に、信長が美濃に攻め込む→斎藤勢が美濃に戻って迎撃を何度も繰り返した
浅井家は六角家への従属派だった久政を家臣たちが引きずり下ろして長政を当主に据え、その長政が織田家との同盟を推進した
ところが織田家が六角家を滅ぼした時から織田・浅井の関係が悪化する
当時の比叡山は今で言えば愛知のトヨタのようなもので、越前・近江を丸ごと企業城下町にしていた
比叡山から見れば六角VS浅井はどちらも自分の子分で、どっちが勝っても比叡山の支配は揺るがない
それに両家が戦費や物資調達のために比叡山を頼るから、益々比叡山の支配が強まる
>>476
なんで徳川に媚びたら織田の残虐行為を捏造する必要があるんだ?
無理ありすぎだろ
>>477
>実際六角家と斎藤家が共同で浅井領に攻め込む度に、信長が美濃に攻め込む→斎藤勢が美濃に戻って迎撃を何度も繰り返した
こんな事実はないだろ
逆に浅井が忙しい中でわざわざ美濃侵攻して織田のために牽制をしてやったくらいだ
なんだって織田厨ってここまで曲解して他大名からの恩恵や、他大名がした不義理を無かったことにしようとすんだろうな 将軍家に繋がる家柄なせいか長政のマンセーぶりって異常だと思うね
長政小説の中では、信長に反旗を翻したのは
信長のやり方についていけん みたいな感じだったな
朝倉の恩義云々とか、信長の暴虐が許せない義の人長政じゃなくて
単に価値観の違いで手切れになった が一番分かりやすかった
浅井の兵を自分の兵の如く使い、見返りなんてものが全く無かったんだから信長を見限るのも
仕方の無い事ではある
そもそも織田と浅井の同盟なんか嘘だろう
「新・信長公記」って本読んでみろよ
>>481
それは徳川も同じだろ。
徳川はこの同盟を活かして今川を攻めたけど浅井は朝倉を攻められなかった。
同盟を上手く活かすだけの力量が長政には無かった。 旧浅井家臣団から、その後歴史に名を残すものが多く出ていることは事実だが、これは浅井旧領を羽柴秀吉が支配し、そののち秀吉が天下人となったからで、浅井家が特別の家だったからではない。
浅井家臣の人なら、赤尾清綱が好きだなあ
浅井家滅亡後は秀吉のもとにいたけど、人斬って出奔して
後々京極高次の下に行って、大津城攻防戦で活躍するとか
浅井家を語る上では上坂家信、信光や浅見貞則が非常に重要なんだろうな
>>484
秀吉のお陰はあるかも。まあ一方的な恩寵ではなく互恵の関係だな
付け加えると南・東近江の国人たちは商いを通じて西美濃・尾張衆とも交流が深かった
>>478 >>477も間違ってない。浅井が挟撃された時は織田が美濃を攻めて援護している
逆に浅井が西美濃を攻めて織田を援護していたのも確かな事実
商いの視点から見ると、斎藤家を滅ぼして近江―西美濃―尾張の流通を促進することが狙いと考えられる
同時期、堺―河内―大和―伊賀―伊勢―三河の流通が盛んだったのに対して、美濃経由の交易は先細っていた
もちろん織田と浅井が美濃斎藤家と敵対していたからで、さらに南の交易路の発達は今川義元の遺産でもある
これは斎藤家にとってもマイナスだが、浅井・織田にとっても痛手。挟撃された斎藤は涙目だな お市との悲話で美男子描写が多い浅井長政だが
肖像画からも分かる様に実はかなり恰幅が良くどっしりしていたとされる
大阪城で武将の肖像画から声を合成し、
一般公開している展示コーナーがあるのだがそこに長政も居たりする
恰幅が良かっただけあって落ち着いた声で結構渋いぞ
>>487
悪いとは言ってないよ
俺はそういう奴は下に見る
個人の感想 >>492
お前の方がよっぽど人間として下な現実w 久政時代に朝倉と完全に切れて六角の従属になったんでないっけ?<浅井
だから金ヶ崎の突然の同盟破棄って実際理由が解ってないとか
切れたんだっけ? 従属していた時期はあったけど
ところでこの期間に長政が観音寺城下で生まれているんだけど
六角従属の人質として小野殿を出したってことだよね?
>>488
>浅井が挟撃された時は織田が美濃を攻めて援護している
だからこんな事実がいつあったんだ?
流通に関しても正直眉唾な話におもえるが 長政は単に独立大名という地位を守りたかっただけのような気がする
六角に勝ってからは、別にどこそこの領土へ侵出とかしてたっけ?
その後はもう普通に守りにはいってるイメージ
美濃に侵攻してなかったっけ。
美濃斉藤氏に何度も所領脅かされたから報復しにいっただけかな。
長政は将軍家やら天皇家やらの外戚にならんかったら、今頃ボロクソに書かれてただろうな
朝倉家も意図的に貶められてるように感じるからなぁ
中学の頃から浅井ファンだった自分としては他に好きな人がいて嬉しい
あんまり人気ないと思ってたので…
万福丸は@お市の方との間の子A平井定武の娘との間の子 どっちだ?
兄弟を浅井・朝倉に殺された郡上八幡の遠藤氏でさえ反信長陣営に引き込めかけたのだから
江北・越前からほど近い揖斐の徳山氏辺りを上手く調略出来なかったのかな
極短期間だけなら以前に朝倉氏が臣従させていたようなのだが
金ヶ崎って浅井側のミスだよね。もし、信長軍が越前中部まで進軍したところで長政が後方から挟み撃ちにしたら
退却困難な木の芽峠で壊滅的な敗北をしていた筈。信長がまだ敦賀にいる段階で長政が動いたせいで、みすみす勝機を逃してしまった
>>505
平井氏の娘ではないのでは。
「信長公記」の記載を信じるならば浅井家滅亡の時点で万福丸は10歳。
平井氏の娘とは数ヵ月で離縁しているし、年齢的にも合わないよね。
かといってお市の方との婚姻も通説では永禄10年以降、そのとき万福丸は既に生まれている。
現時点では側室の子と考えるのが無難ではないかな。 東京MXで浅井の最期を初めて知った
カッコよすぎだろ・・・
>>508
アレは確かに謎である。もったいないがあそこでノブ殺してたらそのあとが気になるw
出兵したのは反織田の家臣といい感じに担ぎ出された親父で長政は出兵の意思が不明確ってどっかの本であったな。
ミスったあげスマソ
あと気になったのが信長上洛時に出した触書に徳川、北畠や畠山に殿つきの優遇で(てか当たり前か)
浅井は京極殿(同浅井備前)っておまけ的な扱いだったし
京入りする時は所詮は上洛すりゃ妹婿だが一豪族扱いにしてたのが、今後の浅井と徳川の扱いの違いにもみえるな。
(信長的には家臣に近い気持ちだったんかな)どうでもいいけど久政のwikiみたら評価わろたww
織田軍は京都進発の時点では既に浅井の織田離反の情報をとっくに掴んでいて
江北や若狭を進軍している段階でも何度も何度も小谷周辺へ斥候を出して浅井軍の様子を見ていたって説もあるようだし
それに越前領内を敵軍に侵入される事を極端に嫌っていた朝倉家が
いくら織田軍壊滅の為とはいえ囮として古くからの支配地であり富裕な敦賀領内を敵軍通過させる案は飲まないと思うよ
っていうか金ヶ崎退却って織田と朝倉側の資料は多いけど浅井家の資料って見た記憶が無いので推察するしかなさそうだけど
>>513
本当にその辺の浅井側の資料は見当たらないよね。
浅井離反の察知の話は初耳だったな。
確かに朝倉が越前の商業圏かつ交易拠点の敦賀まで侵攻させるような馬鹿な真似は…ただ単に敗北したのかな?
敦賀郡司の朝倉景恒は結局左遷させられたし。
朝倉が侮っていた?ともかく金ヶ崎は謎が多すぎる。 婚姻同盟を二度も破った奴はそういないと思うんだけどなぜか義理堅く描かれるお方
>>515
そりゃ上杉謙信でも義理固いと言われるわりにゃ、あっさり長野氏見捨てた方ですから…。
イメージってなんだかんだで勝手に江戸時代あたりからいろいろ美談にされますわなw 長政の義理堅さを表す朝倉との同盟だって1570年以前に実際にあったか疑わしいしね
>>517
同盟が有ったか無かったなんて書状、屋敷跡、城郭の特徴etc…同盟があった事を示す証拠なんか山ほどあるじゃん
あくまでも朝倉と浅井は対等同盟であったか従属同盟であったかがはっきりしないってだけでしょ 朝倉関係の書状…永禄五年頃、朝倉景紀が久政宛に送った書状以前に全く朝倉氏に関する書状が無し。因みに朝倉氏は北は出羽下国氏、南は薩摩島津氏にまで書状を出しているのが
確認されている。書状が残っているから同盟関係があったとは結論できない
一乗谷に浅井の名の屋敷跡があった…だからといってそれが浅井三代に関係する屋敷であった確証は無い。しかも、いつの時代の屋敷かも分かっていない。
小谷やその周辺の越前式の城郭…三年に及ぶ信長との戦いで朝倉軍は長期にわたって小谷に在陣している。その時に造られたと見た方が妥当。
小谷にある金吾丸の存在…この金吾の名が朝倉宗滴から取ったものかは想像の域でしかない。
その他、浅井朝倉同盟に関する疑問点
大永5年の小谷攻め…後世の軍記物等では朝倉宗滴が浅井亮政の援軍として六角定頼の軍と戦ったことになっている。が、六角定頼の書状では逆に朝倉宗滴の(六角方への)協力に
感謝する内容が書かれている。同様の記述は朝倉時代に編纂された宗滴話記・朝倉家伝にもある。
浅井と六角の対立の最中に起きた六角義賢の嫡男義弼と朝倉義景の娘の縁組工作
上洛を強行した六角義賢に対し朝倉義景が諌める内容の書状を送る…浅井が朝倉の同盟者ならば六角は朝倉の敵の筈だが、両者の中が悪かったと思える感じはない
同盟に欠かせない婚姻関係が浅井朝倉間で行われた形跡がない…亮政の代から同盟が続いているのならば婚姻関係があってもよさそうなものだが、確認されず。因みに浅井は織田と、
朝倉は本願寺と同盟を締結させているが何れも婚姻関係も結んでいる。
以上のことを考えれば、元亀年間以前の浅井朝倉同盟というものが実際にあったのかどうか非常に疑わしいと思わざるを得ない
浅井長政のVS六角初陣の野良田合戦で朝倉景鏡が浅井家への援軍として参戦してるね
浅井屋敷の周辺には浅井殿なんて地名が付いた地区もあるぐらいだし誰がどう考えても江北浅井氏の屋敷でしょうね
野良田合戦で朝倉景鏡が援軍として派遣されたと書かれているのは浅井三代記や江濃記といった江戸期に書かれた
文献の類。景鏡参戦を裏付ける書状(一次資料)は浅井・朝倉共々一切見つかっていない
久政は六角氏に従属して、政治などの政略を吸収している。
その従属も朝倉と六角が手を結んでいた事実があったからかもしれない。
浅井家は四方から敵に回される場合を回避しての従属の可能性も。
久政の政策も六角寄りだし、朝倉家は先代亮政時代に牽制に朝倉宗滴を江北に送っている。
浅井氏は久政の代で政略を進めて、長政の代で一挙に攻勢に出たと考えられるね。
>>518
まぁ将軍の外祖父&天皇の曾祖父だし、ただの不義理者にするわけにもいかんねw >>523
六角方にも資料はないはず。浅井三代記は誇張というか読み物に近いよな。 久政が口を出し続ける立場にあったのはやっぱり国人勢力の中での担保だったのか、それとも長政の力不足か。
単なる優しさ?かワカランな。長政の兄弟もいまいち家系図の史料が多くてわからん。
久政の発言力は、やはり長政が若かったからか?
そもそも久政と長政が政治的に対立していたという資料は一切存在しない
滅びた家っつーのはそういうもんだ(除く北条・武田)
結局は勝った家が史料を残すことができる。
歴史を後世に伝える基本だからな。
実際当時の資料とかなくなっちまったから、徳川的にもばつが悪いから長政は悲劇的な(ry
な史料が後発で出すしかなかったんじゃない?
徳川の縁故じゃなかったら知名度はホントに低かったろうな浅井は
たった三代で滅んだ弱小勢力だし
秀吉に近づいた淀君はある意味で彼女なりに復讐を果たしたんだろうな。二回も秀吉に親殺しされたんだし。
秀吉政権と三姉妹おかげで浅井は有名になったのは明白だし、歴史の皮肉かね。
あと何分浅井の立地が不幸だったかもね。周囲は強豪だらけで国人集は強いし。
毛利家みたいにもっとうまく立ち回れたらよかった。久政は政治に関しては民政家?だけど策略に向いてなかったし、亮政が早死にしたのがもったいない。
長政のデビュー後に六角の内乱時にチャンスがあったけど信長がおいしいとこ取りだったな。
>>536
勢力の割に知名度の高さが地味にすごいよね浅井さん
おとなりの六角さんの知名度の低さと言ったら…
でも日本史さっぱりな人は浅井も知らないか >>538
教科書にちらっと載ってるレベルだもんね。
六角さんはゲフンゲフン >>540
六角氏は先進性をもった家だよな。ただ内紛が痛手すぎた。 浅井家は女が天下を取ったな
平安時代なら藤原家、鎌倉時代なら北条家、
室町時代なら日野家に匹敵する名門だったと思う
>>316
もし琴ノ若みたいな見た目だったとしたら結構かっこいいんじゃなかろうか >>543
一応、断絶した浅井宗家の最後の当主は直政だし
その後を継いだ弟の名前は直種(亮政の父)だから
直の字を家臣に与えていてもおかしくは無いかな
でもどちらかと言うと江北の領主になってからの期間も短いので
「直」の一字を与えられた人物も少ない感じがするが…
遠藤直経、樋口直房、中島直政、野村直隆、三田村直政ぐらいしか直の字が付く家臣が思い出せない 長政が無能な父を捨てて信長を選んでいたなら、徳川家康と並び立つ織田家の大衛星国として、
栄光の高みに昇れたものを。
長政がもし身内でも冷徹に切り捨てる器があったなら、秀吉の出世はかなり遅れたのは間違いない。
つまり、長政の判断ミスが秀吉を天下人に押し上げた要因だ。
加えて、本能寺の変も無かった可能性は、かなり高い。
>>548
長政は婚姻同盟をしたつもりだったのに、
信長が長政を家臣扱いしまくってこき使ってたのが原因で
長政は離反したんだぞ。 >>512
>徳川、北畠や畠山に殿つきの優遇
>浅井は京極殿(同浅井備前)っておまけ的な扱い
朝廷幕府から公的に認められているかどうかの違いじゃないか?
この時期は家康も確か正式に官位貰っているが
浅井は備前守は自称で公的な身分はあくまで京極の家臣でしかない
むしろ陪臣身分なのに同浅井備前とセットで書かれているのだから
優遇されていると見ることも出来る
信長の個人的な触書であればそんな形式無視してもよかったんだろうけど
この時期の信長は一応は朝廷や幕府に気をつかう必要があったんだろう 創作物だと男前の代名詞みたいなキャラだよな 当時でも男前だったらしいからま、多少はね?(当時の感性で)
当時は恰幅いいほうが男前だったみたいだし、当時の基準なら男前でしょう
女性も切れ長一重に下膨れが美人という時代もあった訳ですし
>>552
もちろん信長が本気でいう訳がない
そういう話を持ち出すことで、浅井の家臣たちの士気を少しでも下げる
(=攻城戦の被害軽減)ための謀略
死ぬと決めてる人間に「生きる望み」聞かせたら態度変わる連中も出てくるでしょ? 遠藤さんの言うこと素直に聞かなかったり敵の計略かかって磯野を見捨てたり、世間の評価よりバカ大将だよな。家臣は有能なのが多いのにさ
対信長に関しては前半は迷いも感じられたけど、後半は結構やり手な感じだけどな
まぁ国力違いすぎるし、相手が悪すぎた
誤算は朝倉が凡庸過ぎたのと、武田が動かなかったのに尽きると思うが
可愛さ余って憎さ100倍の言葉がぴったりな気がする
絶世の美女であるイッチーを差し出すほど長政を可愛く思ってただろうに
まだまだ中堅クラスでしかなかった頃の秀吉にすら勝てなかった雑魚大名長政
ブラジルにはアサイという名の奇跡のフルーツがある。
>>559
本丸囲んでからの降伏条件で出したんじゃなかったか?
久政切腹も条件だったと記憶 >>559
身内で有能な相手にはゲロ甘な信長だからこそありうるんだが >>567
その一国ってのが松永久秀が領する大和だからな・・・・ 浅井長政22代なる女性がテレビに出るそうだ
テレ朝羽鳥モーニングショー10月19日(水)
08:00-09:55
先日、石田三成子孫を名乗る人がテレビに出ていて(最近本を出したようだ)
ちょっとWikipedia見たけど(所詮Wikipediaだが)
…まあ、その類いじゃなきゃいいけどな
テレ朝ってそういうの好きだな
前、信長光秀の子孫対面とかもやってた
それが契機なのか、今光秀子孫が調子づいちゃって?、後々心配なことたくさんやってるな
信長ドノニトッテ、浅井ノ背信ハ、大イナル、裏切りデシタ。浅井ニトッテ、信長ドノノ動きハ、大イナル、約束違反デシタ。
>>561
秀吉一人に完封されてるんだが。
秀吉軍だけなのでおそらく浅井軍よりも寡兵。 >>577
正確に言うと秀吉と竹中重治
特に竹中には稲葉山城乗っ取り後に北近江で浪人していた時に知り合った浅井家臣が多数いたのは調略に有利に働いた まことの統合失調症の最大の所以は
1日中ネット漬けである
☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と生活保護
を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人全員に支給する、『ベーシックインカム』
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オレ様が、ハッキングに気付きはじめると
まことは、PCの中の証拠隠滅を謀る
長浜の福田寺に行ってきたけど浅井御殿は小谷城の遺構というのは本当やろか?
信長ドノニトッテ、浅井長政ノ行為ハ、大イナル、裏切リデシタ。
浅井長政二トッテ、信長ドノノ朝倉攻メハ、大イナル、約束違反デシタ。
浅井家は名目上・実質上のみも含めてると従属大名だな。
京極→六角→織田→朝倉